十五夜の夜空を見上げてはピョンと跳ねる。
真っ暗闇な頭上にくっきりと浮かんだ満月は今にも地上に降り落ちて来そうで、手を伸ばせば簡単に掴めてしまいそうだった。
助走を付けてはピョンと跳び、高い木の上に立ってはピョンと跳び、八ヶ岳の頂上に登ってはピョンと跳ぶ。地上から見る月はあんなにも近いのに、実際には富士から昇る煙よりも尚高かった。崖の端から跳んで、そのまま落下して地面まで転がり落ちる。未だ悠然と見下ろす月を見上げては中指を立てた。
この時から私は月落としを画策するようになり、その方法を探す為に全国行脚の旅に出た。
所謂、妖獣と呼ばれる存在だった私は旅をするに当たって人の姿を取る。それは単純に獣よりも人の方が知恵を持つ者が多かったこと、そして人は人の姿をした獣を判別することは難しいが、獣は人の姿をした獣を判別することができたことが理由にあげられる。でもまあ私が人の姿を取り、人の社会に紛れ込んだ最大の理由は、人が作る文化は便利で面白いものが多く、なによりも御飯が美味しかった。人の中でも特別に優れた聖徳太子に謎かけで挑戦しては返り討ちに会っては、京の都に渡っては陰陽師を名乗る男に追い出され、佐渡島の賭博場を荒らしては狸の親分から出禁を受けた。妖怪寺、白玉楼の西行妖、地獄街、他にも色んな場所を渡り歩いた。
子供の姿ではあったけど、仮にも妖怪。追い剥ぎに合えば、自慢の脚力で蹴り飛ばし、倒すのが難しそうな相手には即席の罠で煙を巻いた。今も昔も私が本気で命の危険を感じたのは和邇に噛まれた時だけだ。
さてはて、万を超える年月をかけて月を落とす方法を探し続けたが、手掛かりはひとつとして得られない。
わかったのは地上から月までは途方もない距離があり、今の私達では月に辿り着くだけの能力が足りないということ。それは胡散臭い隙間妖怪も同じこと、当時の彼女はまだ未熟で月まで続く道を作るだけの力が足りていなかった。私に出来るのは湖面に浮かぶ満月に、ピョンと跳んでバシャンと飛び込むことくらいなものである。
竹林、人魚が住む湖にて、私は夜空を見上げた。今にも手が届きそうな程に、くっきりとした十五夜の満月に手を伸ばす。私と月の距離は須臾の如し、されども永遠に近い距離が私と月を隔てていた。あの満月に恋焦がれて、どれだけの刻が過ぎたか。数え切れない程の年齢を積み重ねて、私は月まで欠片程も近付くことができなかった。
びしょ濡れの体を引き摺り、竹林を彷徨い続ける。近場の人里で宿を取っていた、だから早く宿まで帰る必要がある。
しかし、行けども行けども竹林から抜け出すことができず、方角を確かめようと北極星を探した時、此処がおかしいという事に気付いた。そういえば人里の人間は此処を迷いの竹林と呼んでいたことを思い出す。他方でも似た名称の土地は多く、ただ単に景色の移り変わりが少ないから迷いやすい。そんなオチが多かったけど、此処は明確に他とは違っていた。空間が捻れている。それは私の認識を阻害しているのか、それとも実際に空間そのものが弄られているのか分からない。分かるのは、この先には誰かがいる。私は月を見上げた、そして座標を計算する。今日は十五夜だから兎が跳ねる。一歩跳ねては夜空を見上げて、もう一歩跳ねては座標を計算し直した。それは興味本位、未知への好奇心。移動するのは夜中だけ、ちょっとした出来心から始めた試みは数年以上にも及び、地道な道のりの果てに辿り着いたのは月光に照らされる幻想的な屋敷だった。
そこに住んでいたのは世にも美しき月の御姫様、かぐや姫。話だけは聞いたことがある。今から数百年前に京から姿を消した御姫様であり、当時、月の手掛かりを逃した。と心の底から悔いた苦い記憶が今もなお胸に刻まれている。その人物が今、目の前に居た。そして彼女の従者を務めるは嘗て地上に居た神の一柱、八意思兼神。今まで何処に行っていたのかと問えば、月に行っていた。と彼女は呆気らかんと答えた。だから私は彼女に弟子入りを志願した。この地の数万年前の名称を口にして、口八丁手八丁の嘘八百、大国主様の系譜から竹林の所有者を名乗り、此処、永遠亭には余人を足を踏み入れさせないことを確約する。他にも竹林の外から物資と情報の調達も約束すると――従者の八意思兼神、もとい八意永琳は難色を示したが、御姫様の方が二つ返事で快諾する。理由は単純、退屈だから。かつては天照大神に仕えたこともある大物、八意思兼神が逆えず、大きく溜息を零したのが印象的だった。
更に千年程度の年月が過ぎ去った。
此処、永遠亭。その一室。
今、私の目の前には月から逃げてきたという玉兎が布団で眠っている。
私達と似ているようで明確に違っている生命体、永琳が月の情報を得る為に拾ってきたのを私が看病している。詳しい経緯は聞いていない、私が此処にいるのも誰かに言われたからではなかった。それは知的好奇心、月に住んでいた兎が実在していたことに対する驚きと月に住んでいたという彼女の話を聞いてみたかった為だ。
ただまあ、こいつが驚くほどに面白い奴だった。
目覚めるや否や、私の姿を見た途端に「ああ、地上の兎ね」としらっとした目で見下してきた。それからちょろっと話を聞いてみれば、地上の妖怪なんて古くても千年程度が関の山、月に比べて地上の文明はなんと遅れていることか。これでも私は精鋭部隊を率いていたこともあったんですけど? と情報が出るや出るや、挙句に私のことを小娘と言い放ったものだから笑いを堪えることができなかった。人間相手でも、こんな扱いをされることはよくあった。そして見縊ってくれる分には構わない、と私は下手に出て、ちょろっと胡麻を摺ってやった。流石は玉兎様ウサ、もっと素晴らしい月の話を聞かせて欲しいウサウサ。ってね。それで気を良くしたチョロ兎は次から次へと月の都の情報を語り聞かせてくれた。それは多分に彼女の偏見が混ざった話だったに違いない、それでも私が感じたのは――月ってなんだかつまらなそうだな。という事だった。「ねえちゃんと話を聞いてるの?」「聞いてるウサ。うん、ちゃんと聞いてるよ」「それなら良いけど」そう言って、彼女が得意顔で話に熱を入れていくのとは裏腹に、私は自分の心が急速に冷めていくのが分かった。いや、違う。これは何かを失ってしまった感覚だ。
その夜、永遠亭の縁側でぼんやりと月を眺める。手を伸ばした、そして握り締める。何時もと同じように月が手中に収まることはない。
私の中で何かが終わってしまった、そんな喪失感。つい数日前まで西走東奔し、月に行く為の情報を搔き集めていたのは紛れもなく現在の話であったはずなのに、今はもう過去のものに成り果ててしまっていた。月を一目、見てみたい想いはある。しかし、地上に降りてきた玉兎はアレで、彼女が自慢げに話していた月の都は閉鎖的で停滞した世界だった。なんというか、私は月の都に理想でも抱いていたのだろうか。未知が未知でなくなった瞬間、憧れは綺麗に失われ、それと同時になにか大切なものも同時に失ってしまった。
姫様が酒瓶を持って、私の隣に座り、そして二杯の盃に酒を注いだ。
「元気がないみたいだけど、どうしたのよ。貴女らしくもない」
「うん、なんかね。あのチョロ兎から月の話を聞いたんだけど、なんだか想像とは違ったなーって」
「あらあの子、月の情報は機密なのに。あとで永琳からお仕置きして貰わないといけないわ」
クスクスと優雅に肩を揺らす姫様を横目に見て、ぼんやりと月を眺める。もう月には未練はないはずなのに、なにか惜しいような、寂しいような? 心にこびりついた焦がれる想いが消えてくれなかった。
「ああ貴女、意外と童心を忘れない性質だったのね」
「それってどういう意味なのかな?」
姫様は宙に人差し指を立てて、くるくるっと丸を画きながら答える。
「青春よ、青春」
少し切なげに空を見上げる姫様の横顔を見て、胸にストンと落ちた。
「ああ、うん。そっか、私の青春、終わっちゃったかー」
「思えば、貴女って長生きしてそうなのに、ちょっと落ち着きがなかったわね」
「これからはもう心は若いって言えないなあ」
たはは、と私が力なく笑えば、姫様は何も言わずに盃を手に取ったので私も手に取った。
「卒業おめでとう」
「なにそれ」
でもまあ、ありがとう。と乾いた音を立てて、緩やかに酒を啜る。
今夜は、しんみりとした気分で飲みたかった。
真っ暗闇な頭上にくっきりと浮かんだ満月は今にも地上に降り落ちて来そうで、手を伸ばせば簡単に掴めてしまいそうだった。
助走を付けてはピョンと跳び、高い木の上に立ってはピョンと跳び、八ヶ岳の頂上に登ってはピョンと跳ぶ。地上から見る月はあんなにも近いのに、実際には富士から昇る煙よりも尚高かった。崖の端から跳んで、そのまま落下して地面まで転がり落ちる。未だ悠然と見下ろす月を見上げては中指を立てた。
この時から私は月落としを画策するようになり、その方法を探す為に全国行脚の旅に出た。
所謂、妖獣と呼ばれる存在だった私は旅をするに当たって人の姿を取る。それは単純に獣よりも人の方が知恵を持つ者が多かったこと、そして人は人の姿をした獣を判別することは難しいが、獣は人の姿をした獣を判別することができたことが理由にあげられる。でもまあ私が人の姿を取り、人の社会に紛れ込んだ最大の理由は、人が作る文化は便利で面白いものが多く、なによりも御飯が美味しかった。人の中でも特別に優れた聖徳太子に謎かけで挑戦しては返り討ちに会っては、京の都に渡っては陰陽師を名乗る男に追い出され、佐渡島の賭博場を荒らしては狸の親分から出禁を受けた。妖怪寺、白玉楼の西行妖、地獄街、他にも色んな場所を渡り歩いた。
子供の姿ではあったけど、仮にも妖怪。追い剥ぎに合えば、自慢の脚力で蹴り飛ばし、倒すのが難しそうな相手には即席の罠で煙を巻いた。今も昔も私が本気で命の危険を感じたのは和邇に噛まれた時だけだ。
さてはて、万を超える年月をかけて月を落とす方法を探し続けたが、手掛かりはひとつとして得られない。
わかったのは地上から月までは途方もない距離があり、今の私達では月に辿り着くだけの能力が足りないということ。それは胡散臭い隙間妖怪も同じこと、当時の彼女はまだ未熟で月まで続く道を作るだけの力が足りていなかった。私に出来るのは湖面に浮かぶ満月に、ピョンと跳んでバシャンと飛び込むことくらいなものである。
竹林、人魚が住む湖にて、私は夜空を見上げた。今にも手が届きそうな程に、くっきりとした十五夜の満月に手を伸ばす。私と月の距離は須臾の如し、されども永遠に近い距離が私と月を隔てていた。あの満月に恋焦がれて、どれだけの刻が過ぎたか。数え切れない程の年齢を積み重ねて、私は月まで欠片程も近付くことができなかった。
びしょ濡れの体を引き摺り、竹林を彷徨い続ける。近場の人里で宿を取っていた、だから早く宿まで帰る必要がある。
しかし、行けども行けども竹林から抜け出すことができず、方角を確かめようと北極星を探した時、此処がおかしいという事に気付いた。そういえば人里の人間は此処を迷いの竹林と呼んでいたことを思い出す。他方でも似た名称の土地は多く、ただ単に景色の移り変わりが少ないから迷いやすい。そんなオチが多かったけど、此処は明確に他とは違っていた。空間が捻れている。それは私の認識を阻害しているのか、それとも実際に空間そのものが弄られているのか分からない。分かるのは、この先には誰かがいる。私は月を見上げた、そして座標を計算する。今日は十五夜だから兎が跳ねる。一歩跳ねては夜空を見上げて、もう一歩跳ねては座標を計算し直した。それは興味本位、未知への好奇心。移動するのは夜中だけ、ちょっとした出来心から始めた試みは数年以上にも及び、地道な道のりの果てに辿り着いたのは月光に照らされる幻想的な屋敷だった。
そこに住んでいたのは世にも美しき月の御姫様、かぐや姫。話だけは聞いたことがある。今から数百年前に京から姿を消した御姫様であり、当時、月の手掛かりを逃した。と心の底から悔いた苦い記憶が今もなお胸に刻まれている。その人物が今、目の前に居た。そして彼女の従者を務めるは嘗て地上に居た神の一柱、八意思兼神。今まで何処に行っていたのかと問えば、月に行っていた。と彼女は呆気らかんと答えた。だから私は彼女に弟子入りを志願した。この地の数万年前の名称を口にして、口八丁手八丁の嘘八百、大国主様の系譜から竹林の所有者を名乗り、此処、永遠亭には余人を足を踏み入れさせないことを確約する。他にも竹林の外から物資と情報の調達も約束すると――従者の八意思兼神、もとい八意永琳は難色を示したが、御姫様の方が二つ返事で快諾する。理由は単純、退屈だから。かつては天照大神に仕えたこともある大物、八意思兼神が逆えず、大きく溜息を零したのが印象的だった。
更に千年程度の年月が過ぎ去った。
此処、永遠亭。その一室。
今、私の目の前には月から逃げてきたという玉兎が布団で眠っている。
私達と似ているようで明確に違っている生命体、永琳が月の情報を得る為に拾ってきたのを私が看病している。詳しい経緯は聞いていない、私が此処にいるのも誰かに言われたからではなかった。それは知的好奇心、月に住んでいた兎が実在していたことに対する驚きと月に住んでいたという彼女の話を聞いてみたかった為だ。
ただまあ、こいつが驚くほどに面白い奴だった。
目覚めるや否や、私の姿を見た途端に「ああ、地上の兎ね」としらっとした目で見下してきた。それからちょろっと話を聞いてみれば、地上の妖怪なんて古くても千年程度が関の山、月に比べて地上の文明はなんと遅れていることか。これでも私は精鋭部隊を率いていたこともあったんですけど? と情報が出るや出るや、挙句に私のことを小娘と言い放ったものだから笑いを堪えることができなかった。人間相手でも、こんな扱いをされることはよくあった。そして見縊ってくれる分には構わない、と私は下手に出て、ちょろっと胡麻を摺ってやった。流石は玉兎様ウサ、もっと素晴らしい月の話を聞かせて欲しいウサウサ。ってね。それで気を良くしたチョロ兎は次から次へと月の都の情報を語り聞かせてくれた。それは多分に彼女の偏見が混ざった話だったに違いない、それでも私が感じたのは――月ってなんだかつまらなそうだな。という事だった。「ねえちゃんと話を聞いてるの?」「聞いてるウサ。うん、ちゃんと聞いてるよ」「それなら良いけど」そう言って、彼女が得意顔で話に熱を入れていくのとは裏腹に、私は自分の心が急速に冷めていくのが分かった。いや、違う。これは何かを失ってしまった感覚だ。
その夜、永遠亭の縁側でぼんやりと月を眺める。手を伸ばした、そして握り締める。何時もと同じように月が手中に収まることはない。
私の中で何かが終わってしまった、そんな喪失感。つい数日前まで西走東奔し、月に行く為の情報を搔き集めていたのは紛れもなく現在の話であったはずなのに、今はもう過去のものに成り果ててしまっていた。月を一目、見てみたい想いはある。しかし、地上に降りてきた玉兎はアレで、彼女が自慢げに話していた月の都は閉鎖的で停滞した世界だった。なんというか、私は月の都に理想でも抱いていたのだろうか。未知が未知でなくなった瞬間、憧れは綺麗に失われ、それと同時になにか大切なものも同時に失ってしまった。
姫様が酒瓶を持って、私の隣に座り、そして二杯の盃に酒を注いだ。
「元気がないみたいだけど、どうしたのよ。貴女らしくもない」
「うん、なんかね。あのチョロ兎から月の話を聞いたんだけど、なんだか想像とは違ったなーって」
「あらあの子、月の情報は機密なのに。あとで永琳からお仕置きして貰わないといけないわ」
クスクスと優雅に肩を揺らす姫様を横目に見て、ぼんやりと月を眺める。もう月には未練はないはずなのに、なにか惜しいような、寂しいような? 心にこびりついた焦がれる想いが消えてくれなかった。
「ああ貴女、意外と童心を忘れない性質だったのね」
「それってどういう意味なのかな?」
姫様は宙に人差し指を立てて、くるくるっと丸を画きながら答える。
「青春よ、青春」
少し切なげに空を見上げる姫様の横顔を見て、胸にストンと落ちた。
「ああ、うん。そっか、私の青春、終わっちゃったかー」
「思えば、貴女って長生きしてそうなのに、ちょっと落ち着きがなかったわね」
「これからはもう心は若いって言えないなあ」
たはは、と私が力なく笑えば、姫様は何も言わずに盃を手に取ったので私も手に取った。
「卒業おめでとう」
「なにそれ」
でもまあ、ありがとう。と乾いた音を立てて、緩やかに酒を啜る。
今夜は、しんみりとした気分で飲みたかった。
その瞬間は、狭窄的な視野から解放されて、世界が広く見えるけれども、なんだか物悲しかったりもするもので。
心地よい小説でした。
お見事でした。軽妙でちょっぴり寂しい、素敵な作品でした。良かったです。
てゐがとても素敵でした。面白かったです。
てゐの持つ無邪気さと達観さが混ざりあった雰囲気を感じ取れて面白かったです。
姫の立ち回りいい感じの適当さで好きです
まさに人に歴史ありといった感じでした
それがうどんげが落下してきてからの一人合点するかの流れ。そこからの輝夜との会話も良い味を出していたのかもしれません。落ち着きが無かった、だとか青春終わっちゃった、だとかその言葉に幾重にも今までの回顧が含まれていて、少ない言葉の掛け合いながらも醒めた幻想に翳りも無く決別出来たのかもな、とすら思わせてくるのがとても良かったです。
本当に独特かつ軽快な一作でした。ありがとうございました。