我が主人、寅丸星は優れた妖獣だ。
聖白蓮との出会いを果たした後、改心した彼女は毘沙門天様の下で修行に励み、彼の神仏に認められて代理を務める迄に至る。
時折、羽目を外すこともあるが、それはそれ、月夜が綺麗な晩に酒を呷る程度のことは毘沙門天様をしている。悟りを開く過程で苦行も必要ではあったが、苦行だけでは悟りを開く事は難しい。そもそも仏教とは苦しみからの解放、即ち解脱を目指すものであるから己を追い詰めるだけの苦行は教義に反する事になる。
さておき、私が我が主人について優れた点を述べるとすれば、百は下らないだろうが、語り聞かせたところでその一分も理解する事もできないだろうし、最低でも三日三晩は語り明かすことになるので割愛する。ただ一言だけ言わせて貰うならば、我が主人は余りにも優れていた。聖白蓮という嘗ての師を失った時も、彼女は心の支えもなく、たった独りで教えを厳守し続けてきた。
私は我が主人の凄さを知っている、その背中をずっと見ていたから。私は我が主人の素晴らしさを知っている、その隣でずっと見守り続けてきたから。余りの苦行にも音を上げず、自らに過酷な修行を強い続ける。その過程で倒れてしまうこともあり、乳粥を用意して食べさせることもあった。もう充分だと思うことがあっても、彼女はひたすらに修行に打ち込んだ。
妖怪に解脱は難しいのかも知れない。しかし私は彼女以上に努力を積み重ねてきた仏門の徒を知らないし、彼女に解脱することができないのであれば、この世に現存する全ての人妖に解脱する事は不可能ではないだろうか。
誰よりも神仏に近い彼女に仕えている事を、私は心の底から誇りに思っている。
◇
我が従者、ナズーリンとの縁は呆れるほどに長い。
今から千年近くも前の話だ。まだ人化の力もない頃に師聖白蓮の下から離れ、毘沙門天の下で修行を積み重ねていた頃、私の付き人として仕えてくれたのが彼女だった。お互いにまだ未熟だった頃の話であり、初対面の彼女は私のことを推し量るように疑り深そうな目で私を見つめていた事を覚えている。彼女は私の監視役とも聞いていたから、私は私生活においても自分を律し続ける必要があった。
それこそ朝から晩まで、食事中、就寝に至るまでだ。
私が仏門を入ったのはなにか、強い意志や信念を以てのことではない。興味本位からだった。生きる苦悩、その根源を祓うことが出来るならば、無明から智慧を得ることができたならば、この世界はどんな風に見えるのだろうか。今見る弱肉強食の世界よりも、もっと明るい未来が何処かに転がっているのだろうか。私には迷いがあった、師聖と出会って、ただ生きるだけの妖生に迷いが生じた。
それだけが知りたくて私は毘沙門天の下で修行を積み重ねる。我が従者は私のことを持ち上げるし、我が大師匠も私のことを褒め称えるが、そんなことはない。私は解脱を目的にしている訳ではなかった、解脱とは何か、その究明の為に修行を積み重ねているに過ぎない。世界が拓かれる、世界の見え方が変わる。それが楽しくて修行に没入していたのだ。
私の性根には決して拭えない煩悩がある、それ故に私は自らが解脱する事はないと考えた。
私にとって仏教というのは、そう。趣味のようなものだ。あれば妖生が豊かになるし、ないならないで生きるには困らない。その程度の認識でしかなかった。
そんな私ではあったが、命蓮寺が封印された後、私は雑念を振り払うように修行に没入する。
それが逃避に過ぎない事は分かっていた。こんな事では解脱する事はできない、と理解していながら、それでも強い後悔と悲哀から修行に没入する。断食を続けて、如何程の刻が流れたか。如何に妖獣といえども、獣の肉体を持つ私の体は日に日に痩せこけて、肉が削がれて骨と皮だけが残った頃、今が生きているのか死んでいるのか曖昧に成り始めた。揺れる視界に霞む意識、肉体の感覚すらも失われつつあった時になって、ようやく私は気絶した。
私を助けてくれたのはナズーリンだった。毘沙門天の下から離れた後も私の従者として、もしくは監視役として、私に付き従ってくれた妖獣だ。寝起き、彼女が用意してくれた乳粥を受け取る。断食中ではあったが、それを口にした。何故なら彼女は今にも死んでしまいそうだったから、このまま私が死んでしまったら後を追って来そうだったから、私は与えられた乳粥を啜らずにはいられなかった。
体力を回復するまで、我が従者の献身的な看病を受けながら思考する。
解脱とはなにか、苦悩とはなにか、生きるとはなにか。
すっかりと痩せ細った腕を濡らした手拭いで拭かれながら、ふと我が従者の顔を見つめる。体を持ち上げる事すらも難しくなった私を、嫌な顔ひとつ見せずに介護をしてくれる彼女を見つめていると不思議と心が満たされるような想いになった。温かいなにかが胸の奥に灯る。それはきっと悟りとは程遠い感情であり、しかし捨てるには惜しくもあった。
私は思案する、思考する。飽きるほどの時間を考えに考え抜いて、体力が回復した頃、私は物事を難しく考える事をやめた。
久方振りに自分の足で外に出る。
我が従者の肩を借りながら外の空気、太陽の光を浴びて、その気持ちよさに大きく息を吸い込んだ。命蓮寺が滅び、どれだけの年月が過ぎたか。小鳥が囀っている、虫が鳴いている。心地良い風に全身をふるふると震わせる。空は何処までも広く拓かれており、地平の先は果てしないほどに遠かった。嗚呼、世界とはこれほどまでに広大だったのか。世界とはこれほどまでに鮮明だったのか。胸が温かいもので満たされていくのがわかる。我が従者の肩から手を離して、ふわりと縁側から庭に降り立った。世界は移り変わる、何処までも。世界は巡り廻る、何時までも。解脱とか、どうでも良くなって、悟りはもう私には必要なかった。気の行くままに舞を踊る。不器用な鼻歌を口遊みながら、慣れない足捌きでくるくると回った。ただ心に体が追いつかなかったようで、足を縺れさせてしまった。あらら? と傾く体を受け止めてくれたのは、やはり頼れる従者ナズーリンだった。
御主人様は馬鹿だなあ、と呆れるように笑う我が従者に、そうですね。と微笑み返す。
もう荒れ果てた庭の湖面には、蓮の花が咲いていた。
聖白蓮との出会いを果たした後、改心した彼女は毘沙門天様の下で修行に励み、彼の神仏に認められて代理を務める迄に至る。
時折、羽目を外すこともあるが、それはそれ、月夜が綺麗な晩に酒を呷る程度のことは毘沙門天様をしている。悟りを開く過程で苦行も必要ではあったが、苦行だけでは悟りを開く事は難しい。そもそも仏教とは苦しみからの解放、即ち解脱を目指すものであるから己を追い詰めるだけの苦行は教義に反する事になる。
さておき、私が我が主人について優れた点を述べるとすれば、百は下らないだろうが、語り聞かせたところでその一分も理解する事もできないだろうし、最低でも三日三晩は語り明かすことになるので割愛する。ただ一言だけ言わせて貰うならば、我が主人は余りにも優れていた。聖白蓮という嘗ての師を失った時も、彼女は心の支えもなく、たった独りで教えを厳守し続けてきた。
私は我が主人の凄さを知っている、その背中をずっと見ていたから。私は我が主人の素晴らしさを知っている、その隣でずっと見守り続けてきたから。余りの苦行にも音を上げず、自らに過酷な修行を強い続ける。その過程で倒れてしまうこともあり、乳粥を用意して食べさせることもあった。もう充分だと思うことがあっても、彼女はひたすらに修行に打ち込んだ。
妖怪に解脱は難しいのかも知れない。しかし私は彼女以上に努力を積み重ねてきた仏門の徒を知らないし、彼女に解脱することができないのであれば、この世に現存する全ての人妖に解脱する事は不可能ではないだろうか。
誰よりも神仏に近い彼女に仕えている事を、私は心の底から誇りに思っている。
◇
我が従者、ナズーリンとの縁は呆れるほどに長い。
今から千年近くも前の話だ。まだ人化の力もない頃に師聖白蓮の下から離れ、毘沙門天の下で修行を積み重ねていた頃、私の付き人として仕えてくれたのが彼女だった。お互いにまだ未熟だった頃の話であり、初対面の彼女は私のことを推し量るように疑り深そうな目で私を見つめていた事を覚えている。彼女は私の監視役とも聞いていたから、私は私生活においても自分を律し続ける必要があった。
それこそ朝から晩まで、食事中、就寝に至るまでだ。
私が仏門を入ったのはなにか、強い意志や信念を以てのことではない。興味本位からだった。生きる苦悩、その根源を祓うことが出来るならば、無明から智慧を得ることができたならば、この世界はどんな風に見えるのだろうか。今見る弱肉強食の世界よりも、もっと明るい未来が何処かに転がっているのだろうか。私には迷いがあった、師聖と出会って、ただ生きるだけの妖生に迷いが生じた。
それだけが知りたくて私は毘沙門天の下で修行を積み重ねる。我が従者は私のことを持ち上げるし、我が大師匠も私のことを褒め称えるが、そんなことはない。私は解脱を目的にしている訳ではなかった、解脱とは何か、その究明の為に修行を積み重ねているに過ぎない。世界が拓かれる、世界の見え方が変わる。それが楽しくて修行に没入していたのだ。
私の性根には決して拭えない煩悩がある、それ故に私は自らが解脱する事はないと考えた。
私にとって仏教というのは、そう。趣味のようなものだ。あれば妖生が豊かになるし、ないならないで生きるには困らない。その程度の認識でしかなかった。
そんな私ではあったが、命蓮寺が封印された後、私は雑念を振り払うように修行に没入する。
それが逃避に過ぎない事は分かっていた。こんな事では解脱する事はできない、と理解していながら、それでも強い後悔と悲哀から修行に没入する。断食を続けて、如何程の刻が流れたか。如何に妖獣といえども、獣の肉体を持つ私の体は日に日に痩せこけて、肉が削がれて骨と皮だけが残った頃、今が生きているのか死んでいるのか曖昧に成り始めた。揺れる視界に霞む意識、肉体の感覚すらも失われつつあった時になって、ようやく私は気絶した。
私を助けてくれたのはナズーリンだった。毘沙門天の下から離れた後も私の従者として、もしくは監視役として、私に付き従ってくれた妖獣だ。寝起き、彼女が用意してくれた乳粥を受け取る。断食中ではあったが、それを口にした。何故なら彼女は今にも死んでしまいそうだったから、このまま私が死んでしまったら後を追って来そうだったから、私は与えられた乳粥を啜らずにはいられなかった。
体力を回復するまで、我が従者の献身的な看病を受けながら思考する。
解脱とはなにか、苦悩とはなにか、生きるとはなにか。
すっかりと痩せ細った腕を濡らした手拭いで拭かれながら、ふと我が従者の顔を見つめる。体を持ち上げる事すらも難しくなった私を、嫌な顔ひとつ見せずに介護をしてくれる彼女を見つめていると不思議と心が満たされるような想いになった。温かいなにかが胸の奥に灯る。それはきっと悟りとは程遠い感情であり、しかし捨てるには惜しくもあった。
私は思案する、思考する。飽きるほどの時間を考えに考え抜いて、体力が回復した頃、私は物事を難しく考える事をやめた。
久方振りに自分の足で外に出る。
我が従者の肩を借りながら外の空気、太陽の光を浴びて、その気持ちよさに大きく息を吸い込んだ。命蓮寺が滅び、どれだけの年月が過ぎたか。小鳥が囀っている、虫が鳴いている。心地良い風に全身をふるふると震わせる。空は何処までも広く拓かれており、地平の先は果てしないほどに遠かった。嗚呼、世界とはこれほどまでに広大だったのか。世界とはこれほどまでに鮮明だったのか。胸が温かいもので満たされていくのがわかる。我が従者の肩から手を離して、ふわりと縁側から庭に降り立った。世界は移り変わる、何処までも。世界は巡り廻る、何時までも。解脱とか、どうでも良くなって、悟りはもう私には必要なかった。気の行くままに舞を踊る。不器用な鼻歌を口遊みながら、慣れない足捌きでくるくると回った。ただ心に体が追いつかなかったようで、足を縺れさせてしまった。あらら? と傾く体を受け止めてくれたのは、やはり頼れる従者ナズーリンだった。
御主人様は馬鹿だなあ、と呆れるように笑う我が従者に、そうですね。と微笑み返す。
もう荒れ果てた庭の湖面には、蓮の花が咲いていた。
ナズーリンからもらった乳粥を食べた後の、世界が広がって見えるシーンが好きです