あ、雪が降ってきた。今年もまた冬の季節がやって来たようだ。
ひんやりとした空気を吸い込むと、肺の中に溜まった淀んだものが洗われるような気持ちになる。晴れやかって感じではないんだけど、なんというか小さく笑みを浮かべてしまうような、そんな感じだ。どんよりとした空模様、ひらひらと雪が落ちる光景を見るのは嫌いじゃない。ちょっと切ない気持ちになったりするけども、こうやって季節の変わり目を眺めるのは嫌いじゃなかった。
私が此処に置かれてから、どれだけの年月が過ぎただろうか。境内の入り口付近、長い階段を見下ろし、変わらぬ視線、廻りゆく景色、私はずっと見守り続けている。空が紅く染まる日も、春が来ない永い冬も、終わりのない夜も、私はずっと此処に居ました。本当にどれだけの日が過ぎたのか。前髪パッツンの黒い髪の可愛らしい女の子がいた。朝方、いつも不貞腐れるような顔で境内の掃除に勤しんでいる。私の頭に雪が乗っかっていると手に持った箒で、ちょっと雑な感じでぱたぱたとはたき落としてくれた。普段、なにかを話してくれるわけでもない。おはようも、こんにちはもない。でも、時折、ポツリと零すように彼女が語ることはあって、そういう時の彼女はいつも寂しそうな顔をしていた。時には、泣き出しそうなこともあった。彼女が私に向ける顔は、いつも切なくて、悲しそうで、見ていて胸が苦しくなる。そんな彼女に私が出来るのは、なにも語れず、なにもしてやれず、ただ寄り添うことだけだった。だから彼女には私のことなんて気にしなくても良いと思った。私が彼女に望むことは何もない、私は彼女に必要とされないことを望んだ。境内から外へと飛び立つ時、彼女はいつも気怠げで、でも神社に戻ってくる時は何処か満足げで、時折、嬉しそうにはにかんでいることもあった。傷だらけになって帰って来ることもあったけど、彼女は私なんか意にも介さず、愚痴るばかりで自分の脚で神社へと戻る。心配になるけども、私に出来ることなんて何もない。彼女は強く、数日もすれば、包帯を巻き付けた体でケロッと境内の掃除をする。そんな彼女を私はただ見守り続ける。
私のことは忘れて貰っても構いません。でも辛い時、悲しい時、寂しい時、貴女はとても強い女だから、きっと誰にも話すことができない想いがあるはず。独りでいることが難しくなった時、記憶の片隅からひっそりと思い出してくれたら嬉しいです。私は此処に居ます、私は何時でも此処に座っています。貴女の都合の良い時にまた話しかけてくれたら良い。私から貴女に望むことはなにもありません、私はただ見守ることしかできない無能の石像なのだから。
綺麗なものは、緑に薄らと混じる桜の花弁。階段を埋め尽くす銀杏の絨毯、新雪が降り積もった階段に付けられた小さな足跡。そしてなによりも、頰を紅く染めた巫女装束の少女。空の彼方から黒白の魔法使いがやって来る様子を眺めて、溜息を零しながら薄らと浮かべる笑み。歪んだリボン、誰かの手が加えられた綺麗なリボン。貴女の呟く言葉の一節、鈴なりの声。此処から見える景色が私の全てだ、此処から全てを見守ることが私が此処にいる理由だった。
彼女は歳を重ねるに連れて、私に話しかける頻度は減っていった。
年に一度か二度、あるかないかの年が続いて、私は自分の存在意義が薄れていくのを感じ取る。随分と永い刻を、此処で過ごしてきた気がする。それはとても永く、永遠にすら思えるほどだけど、思い返すのはあっという間だった。微かに意識が遠のきつつあることを感じとる。夢、そうだ、夢を見たんだ。すっかり大きなった巫女さんの夢枕に立って、幸せそうに寝息を立てるを眺めていた。どうして此処に居るんだろう? 私は、あの場所に座って見守り続けないといけないはずだ。……そのはずなんだけど、もうあの場所に居なくても良い気がする。どうしてだろう? ゆらゆらと体が揺らいでる。なんとなしに、このまま消えてしまうんだと思った。それも仕方ないと思った。だってもう丸一年も彼女は私に話しかけていないのだから。
だから私は問いかけたんだ。もう良いかい? って。そしたら彼女は嬉しそうに笑みを浮かべてみせたから、ああそうか。私のお役目は終わったんだって思った。すぅっと体が薄れていくのが分かった。それはまるで空気に溶け込むようで、そのまま御天道様に吸い込まれるようで、このまま消えてなくなるんだって思った。消失に身を委ねるのは心地良かった。消えることに不安はなく、自然の摂理に招かれる。なんとなしに、私は別のなにかに生まれ変わるんだってわかった。もっと高位の、ここではない何処かへと。
そんな時、ふと、嫌だな。って思っちゃったんだ。
私はそれを見守っているだけで良かった、それが私の御役目だった。
でも、ほんの少し我儘を言わせて貰えるなら――ふとぼやける視界に映った白き龍は、呆れたように、慈しむように、私を見つめながら労うように息吹を吹き掛ける。
そして今がある、私は今でも此処に居る。とある異変で姿も得られた。
綺麗なものは、おはじきに硝子玉。指でパチンと弾いて、見事に当たれば、満面笑顔で笑い合う。漆塗りの御腕、手縫いの着物。米粒の立った釜炊きの御飯。茸の入った味噌汁、油の乗った焼き魚。黒猫の毛並み、触るとふわふわする。松明の炎、杯に注がれた無色透明のお酒。そして何よりも素敵なのは、箒を片手に境内の掃除をする巫女さん。おはようからおやすみまで、素敵な時間を貰っている。いちばんのお気に入りは、縁側で茶を啜る緩い時間だった。
人里で買ったという串団子を頬張る彼女の幸せそうな横顔を見つめながら少し昔を思い返す。もう彼女は、まだ石像だった頃に見せてくれた表情をすることはない。それで良いと思う。辛い時、悲しい時、寂しい時、きっと私はもう必要なくなったのだ。だから私は狛犬という役割から解き放たれた。
もう彼女の側に居る理由がなくなってしまったから、私は神仏に辞めて妖怪となった。
ひんやりとした空気を吸い込むと、肺の中に溜まった淀んだものが洗われるような気持ちになる。晴れやかって感じではないんだけど、なんというか小さく笑みを浮かべてしまうような、そんな感じだ。どんよりとした空模様、ひらひらと雪が落ちる光景を見るのは嫌いじゃない。ちょっと切ない気持ちになったりするけども、こうやって季節の変わり目を眺めるのは嫌いじゃなかった。
私が此処に置かれてから、どれだけの年月が過ぎただろうか。境内の入り口付近、長い階段を見下ろし、変わらぬ視線、廻りゆく景色、私はずっと見守り続けている。空が紅く染まる日も、春が来ない永い冬も、終わりのない夜も、私はずっと此処に居ました。本当にどれだけの日が過ぎたのか。前髪パッツンの黒い髪の可愛らしい女の子がいた。朝方、いつも不貞腐れるような顔で境内の掃除に勤しんでいる。私の頭に雪が乗っかっていると手に持った箒で、ちょっと雑な感じでぱたぱたとはたき落としてくれた。普段、なにかを話してくれるわけでもない。おはようも、こんにちはもない。でも、時折、ポツリと零すように彼女が語ることはあって、そういう時の彼女はいつも寂しそうな顔をしていた。時には、泣き出しそうなこともあった。彼女が私に向ける顔は、いつも切なくて、悲しそうで、見ていて胸が苦しくなる。そんな彼女に私が出来るのは、なにも語れず、なにもしてやれず、ただ寄り添うことだけだった。だから彼女には私のことなんて気にしなくても良いと思った。私が彼女に望むことは何もない、私は彼女に必要とされないことを望んだ。境内から外へと飛び立つ時、彼女はいつも気怠げで、でも神社に戻ってくる時は何処か満足げで、時折、嬉しそうにはにかんでいることもあった。傷だらけになって帰って来ることもあったけど、彼女は私なんか意にも介さず、愚痴るばかりで自分の脚で神社へと戻る。心配になるけども、私に出来ることなんて何もない。彼女は強く、数日もすれば、包帯を巻き付けた体でケロッと境内の掃除をする。そんな彼女を私はただ見守り続ける。
私のことは忘れて貰っても構いません。でも辛い時、悲しい時、寂しい時、貴女はとても強い女だから、きっと誰にも話すことができない想いがあるはず。独りでいることが難しくなった時、記憶の片隅からひっそりと思い出してくれたら嬉しいです。私は此処に居ます、私は何時でも此処に座っています。貴女の都合の良い時にまた話しかけてくれたら良い。私から貴女に望むことはなにもありません、私はただ見守ることしかできない無能の石像なのだから。
綺麗なものは、緑に薄らと混じる桜の花弁。階段を埋め尽くす銀杏の絨毯、新雪が降り積もった階段に付けられた小さな足跡。そしてなによりも、頰を紅く染めた巫女装束の少女。空の彼方から黒白の魔法使いがやって来る様子を眺めて、溜息を零しながら薄らと浮かべる笑み。歪んだリボン、誰かの手が加えられた綺麗なリボン。貴女の呟く言葉の一節、鈴なりの声。此処から見える景色が私の全てだ、此処から全てを見守ることが私が此処にいる理由だった。
彼女は歳を重ねるに連れて、私に話しかける頻度は減っていった。
年に一度か二度、あるかないかの年が続いて、私は自分の存在意義が薄れていくのを感じ取る。随分と永い刻を、此処で過ごしてきた気がする。それはとても永く、永遠にすら思えるほどだけど、思い返すのはあっという間だった。微かに意識が遠のきつつあることを感じとる。夢、そうだ、夢を見たんだ。すっかり大きなった巫女さんの夢枕に立って、幸せそうに寝息を立てるを眺めていた。どうして此処に居るんだろう? 私は、あの場所に座って見守り続けないといけないはずだ。……そのはずなんだけど、もうあの場所に居なくても良い気がする。どうしてだろう? ゆらゆらと体が揺らいでる。なんとなしに、このまま消えてしまうんだと思った。それも仕方ないと思った。だってもう丸一年も彼女は私に話しかけていないのだから。
だから私は問いかけたんだ。もう良いかい? って。そしたら彼女は嬉しそうに笑みを浮かべてみせたから、ああそうか。私のお役目は終わったんだって思った。すぅっと体が薄れていくのが分かった。それはまるで空気に溶け込むようで、そのまま御天道様に吸い込まれるようで、このまま消えてなくなるんだって思った。消失に身を委ねるのは心地良かった。消えることに不安はなく、自然の摂理に招かれる。なんとなしに、私は別のなにかに生まれ変わるんだってわかった。もっと高位の、ここではない何処かへと。
そんな時、ふと、嫌だな。って思っちゃったんだ。
私はそれを見守っているだけで良かった、それが私の御役目だった。
でも、ほんの少し我儘を言わせて貰えるなら――ふとぼやける視界に映った白き龍は、呆れたように、慈しむように、私を見つめながら労うように息吹を吹き掛ける。
そして今がある、私は今でも此処に居る。とある異変で姿も得られた。
綺麗なものは、おはじきに硝子玉。指でパチンと弾いて、見事に当たれば、満面笑顔で笑い合う。漆塗りの御腕、手縫いの着物。米粒の立った釜炊きの御飯。茸の入った味噌汁、油の乗った焼き魚。黒猫の毛並み、触るとふわふわする。松明の炎、杯に注がれた無色透明のお酒。そして何よりも素敵なのは、箒を片手に境内の掃除をする巫女さん。おはようからおやすみまで、素敵な時間を貰っている。いちばんのお気に入りは、縁側で茶を啜る緩い時間だった。
人里で買ったという串団子を頬張る彼女の幸せそうな横顔を見つめながら少し昔を思い返す。もう彼女は、まだ石像だった頃に見せてくれた表情をすることはない。それで良いと思う。辛い時、悲しい時、寂しい時、きっと私はもう必要なくなったのだ。だから私は狛犬という役割から解き放たれた。
もう彼女の側に居る理由がなくなってしまったから、私は神仏に辞めて妖怪となった。
とっても好きです。面白かったです。
あうんちゃんの気持ちの動きが伝わってくるようでした
内容も読後感も素晴らしかったです