この場所に来ると、不思議と雨が降る。
いや、雨が降るから私が行く?それは理屈に合わないことのようだけど。
どちらにせよ朝になると太陽が昇るように、風が吹けば森がさざめくように、そこには何かの必然性みたいなものがあった。
「やっぱり、私がいないとだめだね?」
誰かの機嫌を伺うようにおそるおそる降り出した細い雨も、いつしかまとまりのある本降りになっていた。
私は苦笑いしながら、彼の隣に並んで傘の陰に入れてやる。彼の肩幅は広く、少しはみ出した私の左肩に雨粒が落ちた。
昔からずっと、雨は私と彼を繋いでいる。
色んなことが変わってしまった今でも、不思議とそれだけは変わらないようだ。
今や私は二足の脚で立ち、声だって発することができる。それもとびきり大きな。
彼が聞いたらきっと驚くに違いない。昔も今も、人が驚くのは大好きだ。
雨は続き、風が出てきた。
私は膝を屈めて、彼の側に座る。
そうすることで二人の背丈は同じほどに並び、半身の傘は茄子色の陰で横薙ぎの雫から縮こまった私たちを守ってくれた。
何をするでもない。ただ私はそこに座って傘を差す。
理由なんて考えたこともないし必要ない。自分が自分であるための本能みたいなものだ。
人がご飯を食べて、畑を耕して、疲労を癒して眠るのと同じ。
「…………」
いつものように、さらさらと降る音が二人の間の沈黙を優しく埋めてくれる。お互いに饒舌なほうではなかった。
私たちの間には何も無かったけれど、決して虚しいがらんどうでもない。
もし突然現れた気まぐれな神様が、この傘の下にひとつだけ何でも叶えてくれると言ったとしても何も願うことはないだろう。
雨の雫が濡れた大地を奏でる音は心地よく、私はただ熱に浮かされたように曖昧に笑う。
「向こうの空がちょっと明るいから、そんなに長くは降らないと思うよ」
私は答える。
きっと彼はそう尋ねるだろうから。
「もう置いてったって無駄だからね」
唇を尖らせて、意地悪く呟く。
いつかの置き捨てられた日に知った憎悪は未だ消えていない。
私がこの姿形を保っていることがその証明で、今や彼を執念深く追う脚まで持っている。
そして彼は、もうどこへも行けない。
皮肉なことに、私が追うまでもなく。
「……」
「…………」
色んなことが変わってしまった。
けれど、私は今もこうして冷たい雨からその人を守っている。
たとえ彼が歩みを止め、私は歩き続けるのだとしても。
こうしている限り、私たちはあの頃と何も変わらないのだと思えるのだ。
「もうすぐしたら、この辺の花も咲くね。今年はどんな色になるかな?」
彼を包む大きな葉群は、梅雨の頃に独特の咲き方をする。
小粒な花が球状に集まり、ひとつの巨大な毬を形作るのだ。
それは同じ花でありながら不思議と毎年異なる色彩だった。
たとえば昨年は色付きが弱く、一面の白が咲いた。
よく見ると花弁は水色、桜色、紫色のいずれかの性質を秘めていて、満開の頃には花群ごとに淡い彩りを魅せたものだ。地味だけど、悪くない景色だった。
桃色が強く出て、この場所を艶やかに彩ったのが一昨年。
普段気にも留めないくせに、この年ばかりは人間たちがこの花を有難がって私を苛立たせた。
けれど悪いことばかりでもなく、花に夢中で隙だらけの人々に妖怪としての本領を発揮できた年でもある。
その前年は、さらに前の年は……
本当に長い時間が経った。
私はその歳月の色をすべて覚えている。
そして毎年こうやって彼の側で、今年の色を占うのだ。
ふと、見上げた彼方に陽が差した。
雲は溜め込んだ雨を十分に吐き出したらしく、ちぎれていく雨雲の向こうは長い晴れが続きそうだ。
晴れ間はみるみるうちに拡がり、やがて撫でるような細切れの雨を最後に、この場所も私を必要としなくなった。
雲の影が去り、微かな孤独が心に射しこむ。私は逃げるように半身の傘を折りたたんだ。
弾けた滴が陽光を受けて瞬く。
寂しくはないよ、と私は自分に言い聞かせる。
きっとまた雨は降る。彼が私を呼んでくれる。
いつだってこの傘の下だけは晴れるのだから。
「それじゃあ行くね。次来るときには咲いてるかなぁ」
私は立ち上がると、彼の乾いた肌にそっと触れた。
ざらついたそれは陽に照らされて灰のように白く、私の体温と無機質に混ざり合う。
かつて温かい彼の手が、私の冷たい柄を握ったように。
あらゆる雨の下を、共に歩いたように。
やがてその手を離し、私は裾を翻して濡れた地面に踏み出した。
季節は巡り、この空の下で全てがゆるやかに変わっていく。
雲をすっかり掃った空は抜けるような青で、私がいなくても暖かな光が眠る彼を優しく包むだろう。
私は一度だけ振り返り、小さくさざめく新緑へと祈った。
それは精一杯の強がりで、私を置き去りにした彼に対する心からの意地悪。
「今年はとびきり変な色だといいね――君が好きな」
いや、雨が降るから私が行く?それは理屈に合わないことのようだけど。
どちらにせよ朝になると太陽が昇るように、風が吹けば森がさざめくように、そこには何かの必然性みたいなものがあった。
「やっぱり、私がいないとだめだね?」
誰かの機嫌を伺うようにおそるおそる降り出した細い雨も、いつしかまとまりのある本降りになっていた。
私は苦笑いしながら、彼の隣に並んで傘の陰に入れてやる。彼の肩幅は広く、少しはみ出した私の左肩に雨粒が落ちた。
昔からずっと、雨は私と彼を繋いでいる。
色んなことが変わってしまった今でも、不思議とそれだけは変わらないようだ。
今や私は二足の脚で立ち、声だって発することができる。それもとびきり大きな。
彼が聞いたらきっと驚くに違いない。昔も今も、人が驚くのは大好きだ。
雨は続き、風が出てきた。
私は膝を屈めて、彼の側に座る。
そうすることで二人の背丈は同じほどに並び、半身の傘は茄子色の陰で横薙ぎの雫から縮こまった私たちを守ってくれた。
何をするでもない。ただ私はそこに座って傘を差す。
理由なんて考えたこともないし必要ない。自分が自分であるための本能みたいなものだ。
人がご飯を食べて、畑を耕して、疲労を癒して眠るのと同じ。
「…………」
いつものように、さらさらと降る音が二人の間の沈黙を優しく埋めてくれる。お互いに饒舌なほうではなかった。
私たちの間には何も無かったけれど、決して虚しいがらんどうでもない。
もし突然現れた気まぐれな神様が、この傘の下にひとつだけ何でも叶えてくれると言ったとしても何も願うことはないだろう。
雨の雫が濡れた大地を奏でる音は心地よく、私はただ熱に浮かされたように曖昧に笑う。
「向こうの空がちょっと明るいから、そんなに長くは降らないと思うよ」
私は答える。
きっと彼はそう尋ねるだろうから。
「もう置いてったって無駄だからね」
唇を尖らせて、意地悪く呟く。
いつかの置き捨てられた日に知った憎悪は未だ消えていない。
私がこの姿形を保っていることがその証明で、今や彼を執念深く追う脚まで持っている。
そして彼は、もうどこへも行けない。
皮肉なことに、私が追うまでもなく。
「……」
「…………」
色んなことが変わってしまった。
けれど、私は今もこうして冷たい雨からその人を守っている。
たとえ彼が歩みを止め、私は歩き続けるのだとしても。
こうしている限り、私たちはあの頃と何も変わらないのだと思えるのだ。
「もうすぐしたら、この辺の花も咲くね。今年はどんな色になるかな?」
彼を包む大きな葉群は、梅雨の頃に独特の咲き方をする。
小粒な花が球状に集まり、ひとつの巨大な毬を形作るのだ。
それは同じ花でありながら不思議と毎年異なる色彩だった。
たとえば昨年は色付きが弱く、一面の白が咲いた。
よく見ると花弁は水色、桜色、紫色のいずれかの性質を秘めていて、満開の頃には花群ごとに淡い彩りを魅せたものだ。地味だけど、悪くない景色だった。
桃色が強く出て、この場所を艶やかに彩ったのが一昨年。
普段気にも留めないくせに、この年ばかりは人間たちがこの花を有難がって私を苛立たせた。
けれど悪いことばかりでもなく、花に夢中で隙だらけの人々に妖怪としての本領を発揮できた年でもある。
その前年は、さらに前の年は……
本当に長い時間が経った。
私はその歳月の色をすべて覚えている。
そして毎年こうやって彼の側で、今年の色を占うのだ。
ふと、見上げた彼方に陽が差した。
雲は溜め込んだ雨を十分に吐き出したらしく、ちぎれていく雨雲の向こうは長い晴れが続きそうだ。
晴れ間はみるみるうちに拡がり、やがて撫でるような細切れの雨を最後に、この場所も私を必要としなくなった。
雲の影が去り、微かな孤独が心に射しこむ。私は逃げるように半身の傘を折りたたんだ。
弾けた滴が陽光を受けて瞬く。
寂しくはないよ、と私は自分に言い聞かせる。
きっとまた雨は降る。彼が私を呼んでくれる。
いつだってこの傘の下だけは晴れるのだから。
「それじゃあ行くね。次来るときには咲いてるかなぁ」
私は立ち上がると、彼の乾いた肌にそっと触れた。
ざらついたそれは陽に照らされて灰のように白く、私の体温と無機質に混ざり合う。
かつて温かい彼の手が、私の冷たい柄を握ったように。
あらゆる雨の下を、共に歩いたように。
やがてその手を離し、私は裾を翻して濡れた地面に踏み出した。
季節は巡り、この空の下で全てがゆるやかに変わっていく。
雲をすっかり掃った空は抜けるような青で、私がいなくても暖かな光が眠る彼を優しく包むだろう。
私は一度だけ振り返り、小さくさざめく新緑へと祈った。
それは精一杯の強がりで、私を置き去りにした彼に対する心からの意地悪。
「今年はとびきり変な色だといいね――君が好きな」
小傘のその在り方に、言葉で言い表せない感情を覚えて、思わず私のほうが泣き出してしまいそうになっていました。
強さ、健気さ、もしかするとそれ以上の何かが小傘にはあって、それでも曇ってしまうことのない彼女には幸福を願いたいです。
小傘が、ずうっと彼の隣にいようとすることが良かったです。