白玉楼には庭師がひとりおりまして、かの者は私のような刀から高枝切りバサミに至るまでありとあらゆる刃物を手懐けております。名を魂魄妖夢、剣の腕は半人前の齢六十にも満たない小童ではあるのですが、彼女の師であり先代の庭師である魂魄妖忌よりも刃物全般の扱いに関しては長けていると思われます。というのも先代は名だたる剣豪ではあったものの如何せん刀以外の刃物をまともに扱えるようになったのは孫である妖夢がこの世に生を受けてからなのでした。それまで庭仕事や料理の類はどうしていたかと言うと、身長を越える大太刀から懐に忍ばせておくような小刀までを利用しており、何事も剣の修行としか捉えずに生きてきた根っからの侍なのでした。
そんな彼ですから老境に差し掛かってからは一段と眼光の鋭さは増し、睨みつけただけで凡百の魑魅魍魎共は失神してしまいます。瞳にすら帯刀させていると評され、自身の妻や娘からも距離を置かれておりました。まともに接してくれたのは雇い主である西行寺幽々子だけです。しかし、そんな妖忌も年老いて孫が生まれたと知った時は無垢に喜び、どんなふうに甘やかしてやろうかと夢想するまでに耄碌しておりました。妖忌の変わりように家族は驚きましたが、いかに鋭く荒々しく削りだした大岩でも数百年川に沈めれば丸石と化すのと同じで、歳月を経て丸くなったのだろう、と容易に受け入れました。幽々子だけは少し残念そうにしてました。
しかしながら積み上げた剣豪としての振舞いはそう簡単には直らず、鋭い視線だけはまったく変わらないものですから孫の妖夢は顔を合わせた途端大泣きしてしまうのでした。ガラスを引っ掻いたときのような耳障りな声でギャンギャン泣き喚くものですから「ええい、喧しいわ」と降りかかる火の粉を振り払うかのように声を荒げてしまい、妖夢の泣き声が秋の夜長に奏でられる蟲たちの演奏会のように風流に思える家族からはまたしても軽蔑され、渋い顔をされてしまいました。そうです、家族や親しく付き合いのあった幽々子くらいしか彼の微かな変貌に気づけませんでした。彼は相変わらず剣豪であり、剣の道から一歩でも外れようとすれば彼の血がそれを拒むのでした。生まれて間もない妖夢が泣くのも仕方ありません。
これはいけない、己はひと振りの剣と相成ってしまった、関わる者すべてを傷つけてしまうようではなまくらもいいところだ、と妖忌は猛省しました。そうして彼は己が人生を反面教師とし孫に剣の正しき道を説いてみせると豪語しました。家族はもちろん反対しましたが、そのころ人妖間の小規模な戦争が起こり、幼い娘を守らんと魂魄家は戦死してしまいました。残ったのはまだ歩くこともままならない妖夢と除け者にされて家には居場所がなくなり、西行寺家に住み込みで働くしかなかった生産性の全くない老いぼれの妖忌だけでした。戦争中の彼は西行寺家を守り抜き、幽々子からは英雄と讃えられましたが、代償として家族を失ってしまいました。どうしようもありませんでした。家族を守ればきっと西行寺家は頭首が死ぬことはないにせよ大打撃を受けることは必死でしたし、かと言ってそれが言い訳になるはずもなく、ただただ割り切れない後悔だけが残りました。
妖忌はひどく悲しみ、餓鬼の時分以来一度も流していない涙を三日三晩流し続けました。そして、人を傷つけぬ優しさと人を守り抜く強さを併せ持つ剣士を育て上げようと強く誓ったのでした。
妖忌はまず私を使って自らの長髪をバッサリと切り落としてしまうと、大量に所持していた刀を鍛冶屋に打ち直させ、ハサミや包丁にしました。刀として残ったのは楼観剣と私こと白楼剣の二振りだけでした。その二振りを近所の野良幽霊から小娘と呼称されるくらいには成長した妖夢に与え、剣の立ち振る舞いを説いているうちに妖忌ははたと気付きました。剣を握ると血が滾るのです。どうしても穢れた血に濡れた経験に裏打ちされた人斬りの道しか説くことができませんでした。
ある日のこと、蠅を叩き潰さんと四苦八苦している妖夢の姿が徒に殺生を繰り返していた若き頃の自分に重なって見えたようでした。拙いながらも殺気を放つ彼女の眼付きを見て、妖夢が普段から自分の言葉使いや仕草を真似ていることに気づきました。思い返してみると、庭の手入れをする際に刀を使用していたこともありましたし、廊下を歩くときはいつもすり足でした。彼女は環境に非常に影響を受けやすく、このままでは二の舞になってしまうと思った妖忌は「どうか妖夢を正しき方向へ導いてほしい」と幽々子に頭を下げて、逃げるようにどこかに雲隠れしてしまいました。まったく最後まで不器用な剣客です。なまじ実力だけはあるから質が悪いのでした。
幽々子は妖忌も妖夢も好きでしたから二つ返事で了承しましたが、彼女に子育ての心得があるはずもなく、祖父が説くだけ説いた侍の道という美学だけが妖夢を支えていました。幸いなことに妖夢は祖父のような戦闘狂になるでもなく、腕は未熟なりに祖父が理想とした優しき剣の道を歩み始めました。それは幽々子や時たま遊びに来る紫が妖忌の凄さと酷さを思い出話として楽しんでいるのを聞いているうちに、彼女の中で祖父という存在が図らずも情けない反面教師と尊敬できる師範という二面性を形成していったからなのでした。彼女はよく働き、よく修行し、よく眠ります。おかげですくすく育ちました。とはいえ人づき合いが少ないものですから、妖夢は主の命令と在らば今にも千切れそうな吊り橋すら全力で駆け抜けてしまう純粋さがあり、一歩踏み間違えれば容易に妖忌と同じ道を辿る危うさを持っていました。本当に祖父が雲隠れしてくれなければどうなっていたかと心配になります。
幽々子は「妖忌も草葉の陰から見守っているわよ」なんて冗談を言いました。「近くに来ているのですか? でしたらお逢いしたいです」と妖夢は本気で言いました。きょろきょろと辺りを見回し、ひしめき合う幽霊の中から祖父の半霊を見つけようと躍起になっている従者を見て幽々子は微笑むのでした。幼いころの記憶しかありませんでしたが、妖夢もまた妖忌のことが嫌いではなかったのです。
さて長々と語りましたがここまでは前座、所謂枕でございます。私が本当にお話ししたいのは妖忌の残した置き土産についてです。白玉楼には銘刀が数多くあったのですが、その中でひときわ血を啜り妖刀と呼ばれるまでになった剣は私と、楼観剣と、実はもうひと振りあるのでした。黒楼剣、名の通り真っ黒な刀身をした妖しい美しさを持った日本刀でした。私は人の迷いを断つ、楼観剣は霊を断つ、そして黒楼剣は肉を断つのです。幾人切っても刃こぼれ一つせず、まさしく妖刀と呼ぶに相応しい剣でした。魂魄流は基本的には二刀なのですが、黒楼剣は妖忌が最も好んで使用していました。そもそも、剣豪として完成されつつあった晩年の妖忌に迷いなどほとんどなく、私が使われることはごく稀だったのです。
幾多もの死線を潜り抜けた百戦錬磨の黒楼剣は妖忌の大いなる決断の日に打ち直されてからというもの、西行寺家の台所を支えておりました。彼は包丁に姿を変えたのです。出刃包丁です。人も妖も切りに切った伝説の刀が今や小娘に使われる肉切り包丁です。なんと情けないことでしょう。妖忌の心中は理解できます、己の半身とも言える最も愛用した剣を打ち直し、家事の道具とすることで血染めの過去と決別を図ったのでしょう。結果は上手くいかなかったようですが、彼は間違いなく正しい決断をしたのだとその時は思い込もうとしました。しかし、あまりにもひどい仕打ちです。決別を図るとしても封印を施して蔵の奥に眠らせるべきであり、平々凡々な日常に何の違和感もなく紛れ込み、ままごとに興じるような剣ではないのです。
ある日、幽々子が「鯛食べたい」と言うので、今晩の夕餉は鯛の刺身となりました。妖夢は私と楼観剣を壁に立てかけ、割烹着に着替えました。剣士たるもの刀は肌身離さず持っておけと教えられた妖夢ですが、流石に料理や入浴の際は邪魔なようで、しかし教えに背くわけにもいかず、妥協案として近くに置いておくという策をとっているのでした。一見不作法ですが、仕方がありません。私も特に憤慨しているわけでもなく、むしろ祖父譲りの歪な真面目さと女性らしいしたたかさが入り混じった彼女を微笑ましく思っております。
そんな妖夢が台所に立ちまして、まな板の上の桃色の魚を捌くのはあの黒楼剣でございます。切れ味は健在で、豆腐を切るがごとくサクリサクリと鯛が切り身にされていきます。
そこで黒楼剣が妖夢に語り掛けました。
「切らせろ……肉を、骨を、人を……切らせろ……血を寄越せ……」
私は感激しました。彼にはあの殺傷本能がまだ残っていたのです。それもそのはずで、あの妖忌が長年愛用した剣なのですからいくら打ち直そうとも、溢れ出んばかりの殺意の残滓が取り除けないのは当然ともいえます。
さて、いくら並々ならぬ妖気を帯びているとはいえ私や彼は付喪神ではないので、声が届くことはまずありません。おそらく幽々子ですら私たちの想いを知らないでしょう。剣と共に生きた者だけが培った集中力を遺憾なく発揮した瞬間だけわずかに聞き取れるのです。しかし、それすら幻聴のような微かで曖昧なものでしかないのです。妖忌は「剣の声を聴け、さすらば迷い断ち切れん」と指導しておりましたが未熟な妖夢は私の声を知覚するには至りませんでした。私がここでいくら悪辣な言葉を大声で並べたとて、妖夢がそれを知ることは叶いません。鯛を捌いているという極限状態の中、握りしめている黒楼剣の声だけ、ささやき声として届くのです。
「切らせろ……切らせろ……」
もっと言え、もっと言え、と私は心の中で囃し立てました。彼女が殺人鬼に目覚めてほしいわけではないのです。とても良い子ですから無理に祖父に倣う必要もないでしょう。ただただ、あの剣は恐ろしいものであることを認知してほしいのです。
彼の必死な語りが功を奏したようで妖夢はうわごとのように呟き始めました。
「人を切りたい、人を……」
素晴らしい、黒楼剣は彼女の意識の奥底に殺戮心を植え付けてしまったようです。やはりいくら姿を変えようともあの鋭さは健在なのです。彼は生まれついての化け物です。表面をどれだけ取り繕ったところで、たとえ幾人もの職人が型にはめ込み矯正を試みようとも、切っ先は鋭利なままなのです。ゆえに妖刀、ゆえに銘刀。千人の血で咽を潤そうとも渇きが癒えることは決してありえません。妖忌が愛用していたのも納得できます。
「はっ、私は何を……」
狂気から舞い戻ってきた妖夢は、握りしめた包丁を見つめました。そうです、その偉大な大業物の仕業なのです。彼女のあどけない顔つきが恐怖に歪むのを待ちました。
しかし、妖夢は照れたように頭を搔き、おろおろと戸惑うばかりでした。これはいったいどういうことでしょう、半霊も紅潮しながらふよふよとあちらこちらへと浮遊していました。恐れ戦くのなら話はわかりますが、これではまるで、彼女が……
ああ、わかってしまいました。彼女は剣の声を聴いていると思っているわけではないのです。そもそもあれを剣だと思ってすらいないのです。私が語り掛ければ祖父の教えもありますから多少は耳を貸すかもしれませんが、相手は包丁です。歴とした凶器であるはずなのにその危険性を忘れてしまうほど生活に溶け込んだ刃物が喋ったとして、誰が耳を貸すのでしょう。アニミズムから脱した彼女は剣の声という幻想を信じたい反面、胸の奥底のまともでありたいと願う心が否定してしまっているのです。ああせめて、彼が日本刀の姿ならば。
ならこの声は何なのか、不可思議な現象を自分の世界に落とし込み、納得するために彼女はてんで見当違いな答えをはじき出しました。自身に流れる真っ赤な血潮、そこに刻み込まれた祖父譲りの狂気がささやいていると思っているのです。彼女は鋭すぎる狂気を一介の剣士として好ましく思う一方で、それを鳥の視点から眺める半霊という存在が彼女を正気につなぎ止め、恥という感情として表出させているのです。彼女はただ純粋なのではありません。視野が狭いだけの青二才なのです。超常をいともたやすく受け入れる幽々子のような胆力を持っているわけではないのです。
悲しいです。私は悲しい。きっと黒楼剣も苛立っているに違いありません。俺の声を聴けと、叫んでいるに違いありません。
そう思い、ふと黒楼剣を見てみますとあろうことに彼はにやにやと昔気質の好色な顔つきで赤らむ妖夢の顔を舐めるように見ているではありませんか。どうやらそうなることがわかっていて語り掛けていたようです。おなごが恥辱に耐える様を楽しむ気持ちはわからないわけではありませんが、彼はどうやら耄碌してしまったようです。六十にもならない小娘を辱めて何が一騎当千の妖刀でしょうか。血みどろの日々を経て、狂気の境地へとたどり着き、鞘に収まった後に忌み嫌われながら死を待つのみだったはずの彼は便利な屍と化してしまい、利用されてしまっているのにも関わらず、その立場に甘んじて自らを平和に埋没させ、あまつさえそれを楽しんでいるではありませんか。
ああ情けない。
まったく、とんだなまくらになり果ててしまったものです。私は悲しいです。
ですが、彼もそれを是としている以上、口出しなどできるはずもございません。私はそこまで傲慢に立ち振る舞えません。いえ、本当は怒鳴り散らしたいのです、鋭い喝を入れたいのです。
どうすれば良いのでしょうか楼観剣。
私がいくら語り掛けようとも楼観剣は答えてはくれません。無口なのか、はたまた声をまったく持たないのかはわかりませんがひどい話でございます。彼女の迷いを断つのが私の役目、では私の迷いは誰が断ち切ってくれるというのでしょうか。誰か私の声を聴いてはくれませんか。
そんな彼ですから老境に差し掛かってからは一段と眼光の鋭さは増し、睨みつけただけで凡百の魑魅魍魎共は失神してしまいます。瞳にすら帯刀させていると評され、自身の妻や娘からも距離を置かれておりました。まともに接してくれたのは雇い主である西行寺幽々子だけです。しかし、そんな妖忌も年老いて孫が生まれたと知った時は無垢に喜び、どんなふうに甘やかしてやろうかと夢想するまでに耄碌しておりました。妖忌の変わりように家族は驚きましたが、いかに鋭く荒々しく削りだした大岩でも数百年川に沈めれば丸石と化すのと同じで、歳月を経て丸くなったのだろう、と容易に受け入れました。幽々子だけは少し残念そうにしてました。
しかしながら積み上げた剣豪としての振舞いはそう簡単には直らず、鋭い視線だけはまったく変わらないものですから孫の妖夢は顔を合わせた途端大泣きしてしまうのでした。ガラスを引っ掻いたときのような耳障りな声でギャンギャン泣き喚くものですから「ええい、喧しいわ」と降りかかる火の粉を振り払うかのように声を荒げてしまい、妖夢の泣き声が秋の夜長に奏でられる蟲たちの演奏会のように風流に思える家族からはまたしても軽蔑され、渋い顔をされてしまいました。そうです、家族や親しく付き合いのあった幽々子くらいしか彼の微かな変貌に気づけませんでした。彼は相変わらず剣豪であり、剣の道から一歩でも外れようとすれば彼の血がそれを拒むのでした。生まれて間もない妖夢が泣くのも仕方ありません。
これはいけない、己はひと振りの剣と相成ってしまった、関わる者すべてを傷つけてしまうようではなまくらもいいところだ、と妖忌は猛省しました。そうして彼は己が人生を反面教師とし孫に剣の正しき道を説いてみせると豪語しました。家族はもちろん反対しましたが、そのころ人妖間の小規模な戦争が起こり、幼い娘を守らんと魂魄家は戦死してしまいました。残ったのはまだ歩くこともままならない妖夢と除け者にされて家には居場所がなくなり、西行寺家に住み込みで働くしかなかった生産性の全くない老いぼれの妖忌だけでした。戦争中の彼は西行寺家を守り抜き、幽々子からは英雄と讃えられましたが、代償として家族を失ってしまいました。どうしようもありませんでした。家族を守ればきっと西行寺家は頭首が死ぬことはないにせよ大打撃を受けることは必死でしたし、かと言ってそれが言い訳になるはずもなく、ただただ割り切れない後悔だけが残りました。
妖忌はひどく悲しみ、餓鬼の時分以来一度も流していない涙を三日三晩流し続けました。そして、人を傷つけぬ優しさと人を守り抜く強さを併せ持つ剣士を育て上げようと強く誓ったのでした。
妖忌はまず私を使って自らの長髪をバッサリと切り落としてしまうと、大量に所持していた刀を鍛冶屋に打ち直させ、ハサミや包丁にしました。刀として残ったのは楼観剣と私こと白楼剣の二振りだけでした。その二振りを近所の野良幽霊から小娘と呼称されるくらいには成長した妖夢に与え、剣の立ち振る舞いを説いているうちに妖忌ははたと気付きました。剣を握ると血が滾るのです。どうしても穢れた血に濡れた経験に裏打ちされた人斬りの道しか説くことができませんでした。
ある日のこと、蠅を叩き潰さんと四苦八苦している妖夢の姿が徒に殺生を繰り返していた若き頃の自分に重なって見えたようでした。拙いながらも殺気を放つ彼女の眼付きを見て、妖夢が普段から自分の言葉使いや仕草を真似ていることに気づきました。思い返してみると、庭の手入れをする際に刀を使用していたこともありましたし、廊下を歩くときはいつもすり足でした。彼女は環境に非常に影響を受けやすく、このままでは二の舞になってしまうと思った妖忌は「どうか妖夢を正しき方向へ導いてほしい」と幽々子に頭を下げて、逃げるようにどこかに雲隠れしてしまいました。まったく最後まで不器用な剣客です。なまじ実力だけはあるから質が悪いのでした。
幽々子は妖忌も妖夢も好きでしたから二つ返事で了承しましたが、彼女に子育ての心得があるはずもなく、祖父が説くだけ説いた侍の道という美学だけが妖夢を支えていました。幸いなことに妖夢は祖父のような戦闘狂になるでもなく、腕は未熟なりに祖父が理想とした優しき剣の道を歩み始めました。それは幽々子や時たま遊びに来る紫が妖忌の凄さと酷さを思い出話として楽しんでいるのを聞いているうちに、彼女の中で祖父という存在が図らずも情けない反面教師と尊敬できる師範という二面性を形成していったからなのでした。彼女はよく働き、よく修行し、よく眠ります。おかげですくすく育ちました。とはいえ人づき合いが少ないものですから、妖夢は主の命令と在らば今にも千切れそうな吊り橋すら全力で駆け抜けてしまう純粋さがあり、一歩踏み間違えれば容易に妖忌と同じ道を辿る危うさを持っていました。本当に祖父が雲隠れしてくれなければどうなっていたかと心配になります。
幽々子は「妖忌も草葉の陰から見守っているわよ」なんて冗談を言いました。「近くに来ているのですか? でしたらお逢いしたいです」と妖夢は本気で言いました。きょろきょろと辺りを見回し、ひしめき合う幽霊の中から祖父の半霊を見つけようと躍起になっている従者を見て幽々子は微笑むのでした。幼いころの記憶しかありませんでしたが、妖夢もまた妖忌のことが嫌いではなかったのです。
さて長々と語りましたがここまでは前座、所謂枕でございます。私が本当にお話ししたいのは妖忌の残した置き土産についてです。白玉楼には銘刀が数多くあったのですが、その中でひときわ血を啜り妖刀と呼ばれるまでになった剣は私と、楼観剣と、実はもうひと振りあるのでした。黒楼剣、名の通り真っ黒な刀身をした妖しい美しさを持った日本刀でした。私は人の迷いを断つ、楼観剣は霊を断つ、そして黒楼剣は肉を断つのです。幾人切っても刃こぼれ一つせず、まさしく妖刀と呼ぶに相応しい剣でした。魂魄流は基本的には二刀なのですが、黒楼剣は妖忌が最も好んで使用していました。そもそも、剣豪として完成されつつあった晩年の妖忌に迷いなどほとんどなく、私が使われることはごく稀だったのです。
幾多もの死線を潜り抜けた百戦錬磨の黒楼剣は妖忌の大いなる決断の日に打ち直されてからというもの、西行寺家の台所を支えておりました。彼は包丁に姿を変えたのです。出刃包丁です。人も妖も切りに切った伝説の刀が今や小娘に使われる肉切り包丁です。なんと情けないことでしょう。妖忌の心中は理解できます、己の半身とも言える最も愛用した剣を打ち直し、家事の道具とすることで血染めの過去と決別を図ったのでしょう。結果は上手くいかなかったようですが、彼は間違いなく正しい決断をしたのだとその時は思い込もうとしました。しかし、あまりにもひどい仕打ちです。決別を図るとしても封印を施して蔵の奥に眠らせるべきであり、平々凡々な日常に何の違和感もなく紛れ込み、ままごとに興じるような剣ではないのです。
ある日、幽々子が「鯛食べたい」と言うので、今晩の夕餉は鯛の刺身となりました。妖夢は私と楼観剣を壁に立てかけ、割烹着に着替えました。剣士たるもの刀は肌身離さず持っておけと教えられた妖夢ですが、流石に料理や入浴の際は邪魔なようで、しかし教えに背くわけにもいかず、妥協案として近くに置いておくという策をとっているのでした。一見不作法ですが、仕方がありません。私も特に憤慨しているわけでもなく、むしろ祖父譲りの歪な真面目さと女性らしいしたたかさが入り混じった彼女を微笑ましく思っております。
そんな妖夢が台所に立ちまして、まな板の上の桃色の魚を捌くのはあの黒楼剣でございます。切れ味は健在で、豆腐を切るがごとくサクリサクリと鯛が切り身にされていきます。
そこで黒楼剣が妖夢に語り掛けました。
「切らせろ……肉を、骨を、人を……切らせろ……血を寄越せ……」
私は感激しました。彼にはあの殺傷本能がまだ残っていたのです。それもそのはずで、あの妖忌が長年愛用した剣なのですからいくら打ち直そうとも、溢れ出んばかりの殺意の残滓が取り除けないのは当然ともいえます。
さて、いくら並々ならぬ妖気を帯びているとはいえ私や彼は付喪神ではないので、声が届くことはまずありません。おそらく幽々子ですら私たちの想いを知らないでしょう。剣と共に生きた者だけが培った集中力を遺憾なく発揮した瞬間だけわずかに聞き取れるのです。しかし、それすら幻聴のような微かで曖昧なものでしかないのです。妖忌は「剣の声を聴け、さすらば迷い断ち切れん」と指導しておりましたが未熟な妖夢は私の声を知覚するには至りませんでした。私がここでいくら悪辣な言葉を大声で並べたとて、妖夢がそれを知ることは叶いません。鯛を捌いているという極限状態の中、握りしめている黒楼剣の声だけ、ささやき声として届くのです。
「切らせろ……切らせろ……」
もっと言え、もっと言え、と私は心の中で囃し立てました。彼女が殺人鬼に目覚めてほしいわけではないのです。とても良い子ですから無理に祖父に倣う必要もないでしょう。ただただ、あの剣は恐ろしいものであることを認知してほしいのです。
彼の必死な語りが功を奏したようで妖夢はうわごとのように呟き始めました。
「人を切りたい、人を……」
素晴らしい、黒楼剣は彼女の意識の奥底に殺戮心を植え付けてしまったようです。やはりいくら姿を変えようともあの鋭さは健在なのです。彼は生まれついての化け物です。表面をどれだけ取り繕ったところで、たとえ幾人もの職人が型にはめ込み矯正を試みようとも、切っ先は鋭利なままなのです。ゆえに妖刀、ゆえに銘刀。千人の血で咽を潤そうとも渇きが癒えることは決してありえません。妖忌が愛用していたのも納得できます。
「はっ、私は何を……」
狂気から舞い戻ってきた妖夢は、握りしめた包丁を見つめました。そうです、その偉大な大業物の仕業なのです。彼女のあどけない顔つきが恐怖に歪むのを待ちました。
しかし、妖夢は照れたように頭を搔き、おろおろと戸惑うばかりでした。これはいったいどういうことでしょう、半霊も紅潮しながらふよふよとあちらこちらへと浮遊していました。恐れ戦くのなら話はわかりますが、これではまるで、彼女が……
ああ、わかってしまいました。彼女は剣の声を聴いていると思っているわけではないのです。そもそもあれを剣だと思ってすらいないのです。私が語り掛ければ祖父の教えもありますから多少は耳を貸すかもしれませんが、相手は包丁です。歴とした凶器であるはずなのにその危険性を忘れてしまうほど生活に溶け込んだ刃物が喋ったとして、誰が耳を貸すのでしょう。アニミズムから脱した彼女は剣の声という幻想を信じたい反面、胸の奥底のまともでありたいと願う心が否定してしまっているのです。ああせめて、彼が日本刀の姿ならば。
ならこの声は何なのか、不可思議な現象を自分の世界に落とし込み、納得するために彼女はてんで見当違いな答えをはじき出しました。自身に流れる真っ赤な血潮、そこに刻み込まれた祖父譲りの狂気がささやいていると思っているのです。彼女は鋭すぎる狂気を一介の剣士として好ましく思う一方で、それを鳥の視点から眺める半霊という存在が彼女を正気につなぎ止め、恥という感情として表出させているのです。彼女はただ純粋なのではありません。視野が狭いだけの青二才なのです。超常をいともたやすく受け入れる幽々子のような胆力を持っているわけではないのです。
悲しいです。私は悲しい。きっと黒楼剣も苛立っているに違いありません。俺の声を聴けと、叫んでいるに違いありません。
そう思い、ふと黒楼剣を見てみますとあろうことに彼はにやにやと昔気質の好色な顔つきで赤らむ妖夢の顔を舐めるように見ているではありませんか。どうやらそうなることがわかっていて語り掛けていたようです。おなごが恥辱に耐える様を楽しむ気持ちはわからないわけではありませんが、彼はどうやら耄碌してしまったようです。六十にもならない小娘を辱めて何が一騎当千の妖刀でしょうか。血みどろの日々を経て、狂気の境地へとたどり着き、鞘に収まった後に忌み嫌われながら死を待つのみだったはずの彼は便利な屍と化してしまい、利用されてしまっているのにも関わらず、その立場に甘んじて自らを平和に埋没させ、あまつさえそれを楽しんでいるではありませんか。
ああ情けない。
まったく、とんだなまくらになり果ててしまったものです。私は悲しいです。
ですが、彼もそれを是としている以上、口出しなどできるはずもございません。私はそこまで傲慢に立ち振る舞えません。いえ、本当は怒鳴り散らしたいのです、鋭い喝を入れたいのです。
どうすれば良いのでしょうか楼観剣。
私がいくら語り掛けようとも楼観剣は答えてはくれません。無口なのか、はたまた声をまったく持たないのかはわかりませんがひどい話でございます。彼女の迷いを断つのが私の役目、では私の迷いは誰が断ち切ってくれるというのでしょうか。誰か私の声を聴いてはくれませんか。
刀としての誇りは間違いなく持っており、しかし小娘に使われる事に不満はないようで妖夢に親心さえ持っているその心中には、
長らく剣士の傍にいつつ、しかしみだりに使うなと閻魔が釘を刺すような振るわれる機会の少ない刀であるという白楼剣の立場がよく表れているようでした。
時代が変わり、人が変われば、物だって変わらなきゃいけない。素敵な作品でした。
剣の声を聴け
全剣かわいい
感想としてはただひと言です
剣がかわいい
不器用な妖忌が妖夢の為に奔走する姿にどこか和やかな気持ちになれました。