──私は海というものを知らない──
「姉さん、姉さん。海って見たことあるの?」
霧の湖近く、魔法の森に入ろうとしたところで思い出した、昨日の夜に見た夢に出てきた海を姉さんに聞いてみる。
「どうしたの八橋?」
姉さんはきょとんとしたような顔で顎に手を当てながら話す。本当に不思議そうな顔をしている。
「今日、夢で海が出てきたの。私、この身体を手に入れる前にも、後にも海なんて見たことがないのに出てきたのよ」
ふうんと呟きながら私を見ている姉さん。
「……その海ってどんなものだった?」
姉さんはそう言ってから答える気は無いのか歩きながら演奏を始めている。海?なんか水が沢山あって、砂浜って言うんだっけ、砂に私は立っていて。波の音がある……ってどこかの本で読んだような気がするけれど私の耳には何も聞こえなかった。そもそもあれは海だったのだろうか?
姉さんの演奏が魔法の森に響く。いつものように姉さんの演奏はとても綺麗だ。私は走って姉さんの後ろを歩く。
「八橋は海ってなんだと思うの?」
「へっ? 何って、海でしょ?」
唐突な姉さんの質問に私はそのまま返してしまう。姉さんはくすくすと笑い始めた。
「ふふ、ふふふ……八橋、そういうことを言っているわけじゃないのよ……ふふ」
「なによ! 姉さんがそんな質問するから! 笑わないでよ、恥ずかしい!」
恥ずかしくなってしまって、私は怒鳴ってしまう。
「怒らないで八橋。海って言うと私はね、琵琶法師に演奏していた時のことを思い出すわ。法師の人がね、唄いながらずっと海沿いを歩いているの。『祇園総社の鐘の声……』ってね」
姉さんの道具の時の話。あまり聞いたことがなくて、話し出したことに驚く。
「姉さんの使われていた時、琵琶法師の人だったの?」
「さあ。琵琶法師でもあったし、曲芸師でもそうだし。誰に使われていたと言っても何人にも巡っているんだから、全部覚えているのって言われて思い出せる? 私は印象が強い人しか覚えていないわよ……付喪神が全員そうだとは思わないけど」
「そうだね、私も覚えてない。そう言うと嘘になるけど」
姉さんは足を止めて私はそのまま背中にぶつかる。
「あいたっ、姉さんどうしたの?」
「嘘って言ったけど、どんな感じだったのかしら。教えてくれない?」
……? どうして姉さんは知りたがるんだろうか。別に教えても何が不具合があるわけじゃない。別にいいけど。姉さんはその辺にあった倒木に座る。私もその隣に座った。
「でもなんで姉さんは知りたいの?」
「ふふ、妹のこと知りたいじゃない?」
くすくすと楽しそうに笑った。今日は姉さん、よく笑うなあ。
「そうだね、初めて見たのは私を見て笑う男の人だったな……」
私が道具として生まれた時はいつだったんだろう。さすがにそれは覚えてない。だけれど私を見て喜ぶ男の人がいて。直ぐに誰かに渡されたな。どこか煌びやかなような服を着た女性が私を弾いていたの。数年、いいや数十年たった頃かな、気がついたら誰にも弾かれずにどこかにいたな。外の世界が騒がしかったと思う。
それでも時々誰かに弾かれていたと思う……どこにも出されずに、次に気がついた時は始めに弾いてくれた人よりさらに豪華な服を着て、誰かに演奏しているのを見たな。そこから誰にも触られず、誰にも見て貰えなくて、ずっと一つだった。そして気がついたら幻想郷にいて身体を持っていたの。
「私はずっと建物の中だったから、山とか人とかそのぐらいから知らない。だから夢をみた海を見てみたいんだ……」
なんてことはない関係の無いこと。それでもただ見てみたいと思っただけ。森の空を眺めようと上を見た。鳥が飛んでいくのを眺める。
「へえ、八橋は誰か高貴な人に使われていたんだね。だから海を見たことがなかったのね。私は海はよく見たけど、言葉で言っても伝わるとは思わないし、体験して欲しいけどね」
幻想郷じゃ無理だしなぁ……と姉さんは呟く。私は気分を変えるために立ち上がった。
「ふう、海を見てみたいけど姉さんも言ったみたいにここじゃ無理だもんね。諦めるしかないかな。姉さん、里行ってなんか食べに行こ!」
「ちょっと八橋! いきなり飛ばないでよ!」
ふわりと浮いて私は魔法の森の木々を超えて空へ。姉さんは慌てたように私を追いかけてくる。
「あはは、姉さんの顔凄い」
「八橋が慌てさせるからでしょ!」
あははと私は笑って姉さんから逃げる。姉さんと鬼ごっこのように里まで駆けた。
***
里に行くと門番に止められたが、里に入る理由を言えば通してもらうことが出来た。いつも思うけれどとてもめんどくさいな。早く通してくれないかな、なんて呟くと姉さんから諭される。
「八橋、めんどくさいの分かるけども人間も襲われたら嫌じゃない? ちゃんと人間に協力的なら私達も襲われないよ」
「まあ、そうだけどさあ……」
面倒なものは面倒だな。と思っていると姉さんにほっぺをつねられる。
「いたた……! ねえさんいたい!」
「八橋、今面倒だと思ったわね。駄目よ、ちゃんとやらなきゃ」
つねられたほっぺがヒリヒリと痛む。思い切りされたみたいで辛い。
「はーい……姉さん分かったよ……」
姉さんは笑っているだけだった。姉さんには頭が上がらない。どうして姉さんは分かるのだろうか、本当に不思議でならない。
二人で里を歩く。賑やかな人間たちは沢山いる。日常を過ごしているのが分かる。ガヤガヤと話す声、忙しそうに働く人。何かを買って、何かを持っていく。子供が私たちの横を走っていく。あはは、と楽しそうに笑っている。
「こらこら待て待て〜!」
聞いたことあるような声。走っていった子供を追いかける人……を見た。
「小傘さん!?」
笑いながら走っていたのは多々良小傘だった。よく里に行っては人間と遊んでいる姿をよく見たけれど。今回こうやって里で会うのは初めてだ。
「あっ、八橋さん! それに弁々さんも!」
遊ぶ子供たちは小傘さんの周りに集まる。各々で小傘さんに話しかけていた。
「あっ、ごめんね、ちょっと今日は遊ぶのおしまい。また明日遊ぼうね」
えーっ!と子供たちはぶーぶーと文句を言っている。余程楽しいのだろうか。私は分からないけれどそういうことなんだろう。
「ちょっとこの人たちとお話するから。また明日ね」
子供たちは小傘さんに諭されて一人また一人と手を振って帰って行った。そんな器用なことを私はできるとは思わない。小傘さんは器用なのか、ドジなのか分からない……
子供たちが帰るのを見つつ、最後の一人が帰った後に小傘さんは話しかけてきた。
「二人が里に来るなんて珍しいね。あんまり来ないからびっくりしちゃった。自分でお腹いっぱい」
……自分で驚けるのもすごいと思うけれど。
「適当に何か食べに来たのよ。気分転換にってね。小傘さんは子供の面倒を見ていたのね」
姉さんは小傘さんの手を引きながら話している。
「へえ、そうなんだ。甘味処でいいなら近くの場所に行く? お団子屋さんだけど」
「お団子? 私食べたい!」
美味しそうな名前が出てきたので食いついてしまう。軽くよだれが出てしまった。
「なら行こう! ほらこっちだよ」
タタタと、軽快に小傘さんは走っていった。私たちはそれを追いかける。少しした後小傘さんは転んでいた。本当にこの付喪神は器用なのか、ドジなのか……
「へえ、海。八橋さんはそれを知りたいんだ?」
もぐもぐと美味しいお団子を食べながら小傘さんは言う。月の兎がやっているお団子屋さんの隣の椅子に三人で座りながら話す。小傘さんを真ん中に左隣が私、右隣が姉さんで座っている。
「うん。海って見たことないから。小傘さんは見たことあるの?」
小傘さんは空を見上げている。横顔の赤い目がよく映える。
「そうだなあ。見たことがあるって言えばあるけどね。この身体になってから見てないよ」
「それでもいいから教えて欲しいな」
小傘さんは眩しそうに手をかざす。目を細めてどこかを見ているんだろうか。
「私はさ、傘の付喪神だから道具の時に海を見たことがあるけど八橋さんが思うような海じゃないかもしれないよ? それでもいい?」
そう言いながら私を見る小傘さん。私は大きく頷く。
「あんまり長くないけど……」
私を使ってくれた主人がよく雨の日に出かける人だったんだ。散歩かお仕事か、それは覚えていないけれど。海沿いを歩いていた時があってね。その海は荒れ狂っていたな。ごうごうと強い風、それに沢山の雨。海は風を受けて波が高く上がっていたの。よく覚えているのがそんな風景。
でも雨の降る前の曇り空の下で少し荒れそうになっている海も覚えているよ。
「私が覚えているのはこんな感じ。後は主人への恨みかな。ってそれは関係無かったね!」
茶化すように小傘さんは話している。雨の日の海のことかな。私は想像しか出来ない。
「海が荒れ狂っていたってどういう状態なの?」
「黒くて、まるで龍が怒っているみたいなの。龍を見た事ないからそうやって例えるのもおかしいかもしれないけど」
とても怒っているような感じなのかな。なんとなくだけど分かったような気がした。
「うーん、まだ分からないけど、ありがとう小傘さん! 」
「お礼を言われるような事じゃないと思うけど、どういたしまして!」
小傘さんとくすくすと私たちは笑う。姉さんを見ると眠そうにうとうとしていた。
「姉さん大丈夫?」
「ふぁ……少し眠たいわ」
寝不足気味なのかな? いつも私より起きるのが早いのだけれど。それどころかいつも起こしてくれる。
「姉さん寝不足? 無理しないで寝たらどう……」
かと言って変な所で寝かせられない。
「寝るんだったら私の工房で寝る? 外で寝るよりマシだとは思うけど……」
小傘さんはそうやって姉さんに言っている。
「ちょっとお願いしようかしら……八橋、一人でも大丈夫?」
「うん? 大丈夫だよ。姉さんは心配性だなあ」
ふふふと私は笑った。姉さんもつられて少し笑っていた。
「なら、また霧の湖でね。夕方には帰ってくるよ」
霧の湖には別行動をした時に集まる場所がある。魔法の森野中で一番、湖に近い一本の木が枯れているのだ。そこが待ち合わせ場所。
「分かったわ、そうしましょう」
「弁々さんは私の工房に来てね。八橋さんは海探し頑張って!」
姉さんと小傘さんに手を振られて私は探しに行くことにした。
里の中を鼻歌を歌いながら歩いていく。人間たちは忙しない。海を探すと言っても幻想郷ではなかなか無理だろうとは思う……それでも海を知りたい。私はそう思う。知りたいと思うことは私が成長するために必要なことだとは思うから。
里の中心から、気が付くと外れの方を歩いていた。里を囲う川沿いをのんびりと歩いていく。妖怪の山に魔法の森。原風景と言えるものを見ながら歩いていた。
誰かが私の歩く先に立っている。白い服に短い白いズボン。何かのマークがついた帽子を被っていた。疑問に思いつつも話しかけてみる。
「あの、誰ですか?」
その人は私の方を見るために後ろを向いた。
「……ん? あんたは……まあいいや、付き合ってよ」
「えっ、はぁ。貴女のお名前は何ですか……」
暗い緑色のような青色のような目を輝かせてその人は笑っていた。
「ああ……水蜜って呼んでくれればいいよ」
みなみつ。どこかで聞いたことがあるような、ないような。思い出すことは叶わなかったけれど。
「私の名前は九十九八橋。八橋って呼んでもらえたら嬉しいな」
水蜜さんは何も言わなかったので自己紹介だけを済ましておく。
「ふうん。付喪神なのね……まあいいわ、八橋はどうしてここを歩いていたの?」
あ。呼び捨てなんだ。まあいいけど。
「少し考え事を。適当に歩いていれば解決するかなって」
水蜜さんが、歩き始める。私はその隣を一緒に歩き出す。
「考え事。何を考えていたのさ」
いきなり聞かれても答えれば良いのだろうか。なんの取りとめのない考え事を聞いてもらったとしてもつまらないだろうに。まあ、答えてもいいかな。
「海のこと。海ってどんなものかなってさ。私は見たことないから……」
「へえ、海。そんなこと考えてどうするってのさ」
水蜜さんの雰囲気が変わる。私を見ている目が少し細くなったような気がした。何か不味いことを言ったのかな。
「ええと、夢で海が出てきたんですけれど、その時は映像しかなくて、音とかなくて……なんか海が気になったんですよ」
ズボンのポケットに手を突っ込んだ水蜜さんは何も言わずに歩く速度が早くなる。私は歩く早さを変えずに水蜜さんの後ろを歩いていく。
水蜜さんは唐突に止まる。気がつけば人里から離れた場所に私たちはいた。
「なあ、海が良いものでは無いって言えば信じるか?」
ポケットから手を出さずに水蜜さんの後ろ姿を見た。
「えっ、それはどういう意味ですか?」
──こういう意味だよ──
……えっ?
私は空に放り出される。何をされたかなんて分からずに空を見る。時間がゆっくりと流れるように思った。実際ゆっくりと流れていた。水面にぶつかったような気がした。痛みなんて感じずにただ投げ出されるままに。冷たい。つめたい……ごぽこぽと口に鼻に、水が入ってくる。暴れることも助けを求めることは出来ずに手を伸ばす。きらきらと光る水面、ごうごうと言うような水の音。光る、ひかる……水の音を知る。私の視界は水面を揺れる空を見る……ふとどこかを見たような気がした。揺れる青い空、ただ高そうなあおいそら……
苦しい。くるしい……私の時間はここで戻る。川に落とされた事に気がついた私は苦しくて悶える。水面に顔を出す。バシャと大きな音が響いて。頭が割れるように痛い……
「はあっ、ああっ、だれ、か、たすけ……ごはっ」
私の体を捕らえる水から逃れる事を出来ない。嫌だ、嫌だ、たすけて!
「村紗ぁあ!! あんた何やってんのよ!」
「ぎゃあ!」
「ちょっと本当にあなた大丈夫!?」
私は水色の綺麗な髪を見つつ意識は消えた。
***
ぼうっと私の目は覚めた。知らない天井。服は変わっている。頭が痛いが、体を起こす。障子が閉まっていたのでゆっくりと立ち上がって私は縁側に出る。ここは……しかも今は夕方だった。
「あ! 起きましたか! 聖! 怪我した人が起きましたよ!」
参道を掃き掃除していた緑の髪、犬の耳……?私を見て大きな声を張り上げた。うるさいな。
「あら、起きたのですね」
縁側に立っていたら奥の本堂だろうか、歩いてくる人がいる。確か……聖白蓮だったかな。ということはここは命蓮寺?
「ええと……保護してくれたんですね……ありがとうございます」
お礼をする。どうして担ぎ込まれたのかは分からないけれど。
「いえいえ、うちのものが迷惑をかけたみたいで。すみませんね。怪我が癒えるまでここにいてくれて良いですから」
どうしてか笑う聖さんをみて体がすくむ。良い人なのだろうけれど……
「は、はい。短い間ですけれどよろしくお願いします」
聖さんは軽くこの命蓮寺の説明をした後どこかに行ってしまった。服は部屋に置いてあるって言っていたけれど。私の寝ていた部屋に入ると枕元に置いてあった。気が動転して気が付かなったのか。とりあえず着替えを始めた。
着替えた後、寝ていた布団を畳んで端の方に置いておく。私は別に命蓮寺の信徒じゃないのでやることは無い。誰も来ないし、暇だったので縁側に座って一人で演奏していた。少し頭が痛かった。よくよく考えると空に放り出されたの頭を何かで殴られたからだったよね。あの時は本当に動転しすぎて後から思い出せた。
一曲を弾き終わった後にパチパチと拍手の音が鳴る。
「……誰かしら?」
拍手の音だけで姿が見えなかった。前から鳴っているように思うけれど誰もいない。
「やだなあ、前にいるよ? もしかして見えてない?」
そう言われて目を凝らすとつばの広い帽子を被った女の子がいた。体に何が巻きついているような。
「ああ、そんなところにいたの……褒めてくれてありがとう」
「ふふ、琴なんて久しぶりに聞いたよ。地底に誰も風情なんて分かるのがいないもの」
くすくすと楽しそうに笑うその子。
「どうして琴のお姉さんはここにいるの? 聖に呼ばれた、とかじゃないと思うんだけどなー」
私の前をひょこひょこと歩くその子。どこか世間離れしているように思えた。
「確か水蜜さんに川に落とされたからかな」
思い出せることを言う。その子は驚いたような顔をした。
「あら、村紗関連なのね。道理で村紗と一輪を見ないわけ」
一人で何か納得している。思い当たる節はあったのだろうか。縁側を誰かが歩いてくる音がした。一人じゃなくて二人?
「あら、いた……ほら村紗、ちゃんと謝りなさい」
私を助けてくれた髪の青い女の人と水蜜さんだった。
「……すみませんでした」
水蜜さんは小さな声で謝った。
「声が小さい!」
「ああ、大丈夫です。気にしてませんから。だからそんな形相にならないでください」
青い髪の女の人は怒った顔をしていたので止める。綺麗な顔が台無しだ。
「されたのにいいんですか……」
「死んでなかったらいいんです。とりあえずお大事にしてください」
困惑したような顔をされたがどうしてそこまで謝る必要があるのだろうか。
「はいはい、一輪に村紗! この人がいいって言ってるなら大丈夫でしょう。私はこの人とお話がしたいの」
「こいし、いきなりね……というか来てたのなら聖に話しなさいよ」
「だって説法でいないんだものーそんなの無理でしょ」
帽子を被った女の子は飄々と話す。青の髪をした女の人はため息をついている。
「わかったわよ。こいしも程々にしなさいよ」
「はぁい、わかったよ一輪」
水蜜さんと青の髪の女の人はまたどこかに歩いて行ってしまった。謝りたかっただけなのかな。
「あなたの名前は何?」
少しぼうっとしていると話しかけられる。
「……あっ、名前言ってなかったね。私は九十九八橋」
「八橋さんね。私は古明地こいし。こいしって呼んでくれたらいいよ」
軽やかにこいしさんは私の隣に座る。にこにこと笑いながら。
「それで聞きたいんだけどー、どうして村紗に落とされたの?」
「ええと……」
これは言ってもいいのだろうか。まあいいか。
「海について水蜜さんに聞いてみたら、いきなり川に叩き落とされて。溺れてる時にさっきの青い髪の人が助けてくれたの」
「凄い、いきなり村紗の地雷踏んでるの面白すぎるね。気に入らなくて村紗は投げ込んだのかもね」
ケラケラと笑うこいしさん。
「言っちゃいけないことだったんですかね」
「さあ? 私には分かんないなあー」
この人は答える気があるのだろうか……分からない。
「あ、村紗に海のこと聞いたって言ったけどもしかして海を知りたいの?」
「えっ、うん」
唐突にこちらに話してくるものだからついていけない。
「胎児の夢って知ってるかしら……海ってね、人間にとってなくてはならないものなのよ。海から出てきて人間ができて……海は人間の故郷なの。どういう風に出来たとしても海は素敵なものなのよ。母親の羊水に浮かぶ胎児がずうっと人間の進化を見ているのよ……進化を、海をずうっと見ているの。ふふ、赤ちゃんが海を見ているっていえばあなたは信じるのかしら」
「ちょ、なに? どういうこと?」
いきなりの言葉の濁流に流されてしまった。知らないことを羅列され、理解する間もなく話が終わってしまっている。一つも分からなくてこいしさんが何を話しているのかさえも分からなかった。
「海はすぐ近くにあるものなのよ」
満足そうにこいしさんは言い切った。本当に何も分からなかった。
「こいしさんは何が言いたかったの……」
呆気に取られて独り言を言ってしまう。こいしさんは何か楽しそうにしている……少し意識がどこかに飛んでしまった。もう一度こいしさんに聞こうとしたら、隣に座っていたはずのこいしさんがいなくなっていた。あれ、どこいったんだろう。
──あはは……海が見つかるといいね──
そんなこいしさんの声が聞こえたような気がした。
***
命蓮寺で誰も来ずに夕日を見ながらぼうっとしていたら姉さんがやってきた。
「ちょっと八橋大丈夫なの! 溺れたって聞いたけど!」
「あー姉さんだ。助けてもらったから大丈夫だよ。びっくりはしたけど」
姉さんは慌てたように私の肩を掴む。
「待ち合わせ場所に来ないから、小傘に何かあったか聞いたら八橋が運ばれてるって聞いて走って来たのよ! 本当にもう、なんで巻き込まれているのよ!」
あはは……苦笑いをしながら私は頭を軽くかく。なんでって言われても成り行きで巻き込まれたのでどうしようもないじゃない。
「姉さん落ち着いて。私は大丈夫だから。とりあえず今日どうする……日が暮れそうだけどさ」
「うーんそうね……どこか寝るところ探さないと」
里の人間のように家なんてものは持っていない。どこか雨風凌げるだけの空間があればいい。贅沢なんて言ってられない。
「あ、姉さん。前に寝た洞窟とかどう? あそこならちゃんと寝れると思うけど」
魔法の森の近くの洞窟。前に雨に打たれて見つけた場所なら大丈夫だろうと思う。
「そうね、飛んでいこうかしら。八橋、行きましょう」
姉さんと手を繋いで一緒に空を飛ぶ。二人で寝られる場所を探して。やっぱり特定の住めるところが欲しい。だけれどそれは叶わないのかと思うとちょっぴり悲しかった。
二人で空を飛んでいて、魔法の森の入口に差し掛かった辺りに一つの家の明かりが灯っているのを見た。
「姉さん、あれ……」
「あそこは……確か香霖堂だったっけ」
私が止まって指を指すと姉さんは答えてくれた。香霖堂。確か物好きな店主がいるんだったかな。入ったことがないから分からないけれど。何故か興味が湧いた。あそこは骨董品が置いてあると聞いたことがある。なら海に纏わるものもあるんじゃないかなって。
「……姉さん、あそこに寄ってもいいかしら」
「どうしたのよいきなり」
空に浮く中で姉さんは驚いている。無理もないか。こんな変なところに興味を持つなんて思っていなかったんだろう。
「なんか気になる……行ってくる!」
はやる心で私は香霖堂へ向かうために飛び出した。
「ちょっ、八橋! 勝手に行かないの!」
焦っている姉さんの声。海という未知の世界は私を思いもよらない行動をさせる。知りたいのだ、私は海というものを!
「こんばんは、やってますか!」
カラランとドアにつけられた鈴が軽やかな音を奏でる。ごちゃごちゃとものが散乱しているように無造作に置かれているように思う。机に向き合ってその人は何かをしていた。
「帰ってくれると嬉しい……って新しい人か。いや妖怪か……」
本を読んでいたのか、入った時に目に映った白髪が前を向く。眼鏡をかけたその人は知り合いの人に話しかけるようにしてきたけれど、知らないと理解した時に声が変わった。すぐさま呆れたような顔になる。
「……あいにくそろそろ閉めようと思っていたんだが。君がどこの誰かは知らないが、この時間に来るのは非常識では無いか?」
うぐ。それを言われると。
「い、いやぁ……気になったもので……」
その人の眉間が少し寄ったような気がした。
「八橋! 何勝手に入っているのよ!」
はあはあと息を切らして怒鳴り込むように姉さんは私の後ろに立つ。その人は困ったような、呆れたようなよく分からない顔をしながら言った。
「後ろの君。この子と知り合いかい?」
「妹ですが。というか勝手にすみません!」
「帰ってくれると嬉しいんだが……」
両手を広げで呆れたようなポーズをしているその人。
「八橋! ほら迷惑かけてないで帰るよ!」
私はぷつんとキレた。私だって知りたいんだ、迷惑なんて分かってる! でも自我を通してやる!
「帰らないわ。店主さん、海を知ることの出来る物はありませんか! 私は海を知りたいんです!」
「八橋!」
姉さんが止めようとしてくるが私は避ける。飛びつく時に失敗した姉さんはよろよろとバランスを崩して店主さんのカウンターにドォンとぶつかる。
「痛っ……八橋、あなたねぇ……!」
姉さんが私に飛びかかろうとした時に姉さんの肩に手を置かれるのを見た。
「……頼むから暴れないでくれ。商品が壊れてしまう」
私はそれを聞いて飛び跳ねる。そう言ってくれるならいいのかしら!
「店主さん、それって見繕ってくれるのかしら!」
姉さんは飛びかかるのをやめて落ち着いている。店主さんはハアと大きなため息をついた。
「商品を壊されたらたまらないからね。見繕うだけだ。買うならそれ相応の対価は払ってもらうよ」
「分かった、払うわ!」
ニヤリと店主さんは笑った。
「言ったね。自己紹介がまだだったね。僕は森近霖之助。香霖堂の店主をしている」
「私の名前は九十九八橋。よろしくね店主さん!」
「姉の九十九弁々です。無茶言ってすみませんね……」
トホホと姉さんは諦めた顔していた。店主さんは早速、机の向こう側から出てきている。無造作に置かれた物の中から見たことも無いものを取り出していた。一部が棘みたいに出ていて、店主さんが持つ限り硬そうだ。白地に桃色のような色が混ざっているように思った。全体的にタニシのような感じだった。
「店主さん、それはなんですか?」
待ちきれくて私は聞く。早くそれの説明を聞きたかった。
「これはね、海の巻貝さ。ただの巻貝かと思うだろう? それがただの巻貝じゃないんだ。海の記憶が詰まったマジックアイテムだよ。無縁塚で落ちていた時はとても興奮したさ。幻想郷じゃ、見られない海を見るためのものになるって。しかし海というのはね……」
「店主さん!」
「っとと……なんだい八橋さん」
話をぶった切って私は聞く。
「これ使ってみていいですか!」
海の記憶、そんなものが見られるのだとしたら。知りたいと思ったことを全て知ることができると思った。
「いや、しかし使うならお代を貰ってからだね……」
「払うって言いました! なら使っても良いでしょ?」
払うって言っている。それなら使ってあとからでも良いでしょう?
「ちょっと八橋……あなたもう少し落ち着きなさいよ。使うなら払ってからよ? 八橋の言った事だと泥棒になっちゃうわよ」
「むー姉さんうるさいなあ……」
姉さんの言葉にムスッとしてしまう。早くそれを私は使いたいんだ。
「払ってもらうなら……このぐらいだよ」
ぱちぱちとそろばんを弾く音が響くとそれを机に乗せて見せられる。一、十、百、千、万……?
「えっ、そんなにするの!?」
「高っ!?」
「マジックアイテムだからね。このぐらいはないと」
それじゃあ海を知ることなんて出来ないじゃないか! そんなのはいやだ!
「店主さん、もう少し下げてもらえませんか!」
「君は払うと言っただろう。その言葉を信じたんだが?」
うぅ。確かに私は言った。ならそれを私はしなくちゃいけない。私にはこれしか出来ない。
「……少しづつ払うのでその巻貝を売ってはくれませんか」
店主さんに礼をして私は精一杯の誠意を見せようとする。少しちらりと店主さんを見る。店主さんは私を見てニコリと笑った。
「いいよ。常連の二人より余程いい。さっき出した値段の半額でいい。ちゃんと払ってくれる誠意があるならいいよ」
「……いいんですか?」
「ああ、良いさ。ほら持っていきなさい」
店主さんは巻貝を渡してくれた。私の手の中にある巻貝がとても嬉しかった。
「ありがとうございます!」
「良かったね、八橋。だけど支払いは手伝わないからね。自分で払ってよ?」
「分かってるよ!」
私は笑顔で答えた。とても嬉しくて、私の知ろうとしていることが一つ近づいた。
香霖堂を私たちは出る。私は興奮で何も話せなくて、二人で無言で空を駆けた。
よく使う洞窟の中に入って、私たちは壁にもたれかかった。
「……八橋、良かったわね。それでその巻貝はいつ使うの?」
静かになった洞窟の中に姉さんの声がよく響く。
「今使っていい? 私は海を知りたいの」
「まあいいけど……使う時は離れてるからね。何が起こるか分からないもの」
三歩半ほど姉さんは離れる。私は知ることの希望に溢れていた。
「うん。じゃあ使うね」
そっと巻貝を耳にあてた。少しづつ、少しづつ……音が大きくなっていった。
ザ……ザザ……ザザン……ザア……
聞こえる、音が。何の音だろう……ゆっくりと目を開ける。青い空に照らす太陽が眩しい。目の前に広がる足の裏の感覚はサラサラしたような白い砂を踏んでいる。ここは……空のような青い色、奥はずうっと海が続いていた。海と空の境界線が見えて、海は綺麗な青竹色をしている……言葉に出来ない美しさ。見たことも無い美しい世界は私を歓迎してくれているようで。
ザザン……ザザ……ザザザ……
押し寄せる波は足を掬った。ひゃっ!
ちゃんと理解しないまま海に飛び込んだ。青、蒼、あお……空の青さと一緒に混ざるかような水の中で。漂う、漂う。美しさに惚れて。
海を知る。べんべんと姉さんが弾かれている。
海を知る。荒れた海が空が小傘さんを使う男性が歩いている。
海を知る。怒りに泣きわめく舟幽霊がいる。
海を知る。胎児が見る夢を覗き見る。
海を知る……大いなるものを私は目にする。人間だろうが妖怪だろうが、受け入れるものを知る……
ああ、そっか。
海って、そういうものだったんだ。
~*~*~
後日、姉さんは語った。私が海を見ている時はそのまま眠るようになってしまったという。私が笑顔だったから大丈夫だって。なんで姉さんはそんなに心配するだろうな。心配性め。
香霖堂の支払いをすると言ったけれど当然そんな高いお金を持っているわけなくて。姉さんに手伝ってもらいながら里で大道芸、路上ライブで稼ぐことにした。やれやれって言われたけれど私は後悔してないし、姉さんは呆れながらも楽しそうにしていた。頭が上がらないなあ。
「ねえ、八橋は海を知れた?」
姉さんは私に聞く。とても期待したような顔で。
「うん! 知ることが出来たよ!」
私は笑顔で姉さんに答えた。
海を知ることが出来たと言っても何も生活は変わらないし、姉さんと一緒に過ごしたり、雷鼓さんと一緒にお茶したり。そうやって私は過ごしていくのだと思う。
一つだけ変わったことと言えば、私は海を題材にしてこれから曲を作りたいと思ったことだった。できるかは分からないけれども。ふふ、楽しみだな。
──私は海を知ることが出来たのだろう──
「姉さん、姉さん。海って見たことあるの?」
霧の湖近く、魔法の森に入ろうとしたところで思い出した、昨日の夜に見た夢に出てきた海を姉さんに聞いてみる。
「どうしたの八橋?」
姉さんはきょとんとしたような顔で顎に手を当てながら話す。本当に不思議そうな顔をしている。
「今日、夢で海が出てきたの。私、この身体を手に入れる前にも、後にも海なんて見たことがないのに出てきたのよ」
ふうんと呟きながら私を見ている姉さん。
「……その海ってどんなものだった?」
姉さんはそう言ってから答える気は無いのか歩きながら演奏を始めている。海?なんか水が沢山あって、砂浜って言うんだっけ、砂に私は立っていて。波の音がある……ってどこかの本で読んだような気がするけれど私の耳には何も聞こえなかった。そもそもあれは海だったのだろうか?
姉さんの演奏が魔法の森に響く。いつものように姉さんの演奏はとても綺麗だ。私は走って姉さんの後ろを歩く。
「八橋は海ってなんだと思うの?」
「へっ? 何って、海でしょ?」
唐突な姉さんの質問に私はそのまま返してしまう。姉さんはくすくすと笑い始めた。
「ふふ、ふふふ……八橋、そういうことを言っているわけじゃないのよ……ふふ」
「なによ! 姉さんがそんな質問するから! 笑わないでよ、恥ずかしい!」
恥ずかしくなってしまって、私は怒鳴ってしまう。
「怒らないで八橋。海って言うと私はね、琵琶法師に演奏していた時のことを思い出すわ。法師の人がね、唄いながらずっと海沿いを歩いているの。『祇園総社の鐘の声……』ってね」
姉さんの道具の時の話。あまり聞いたことがなくて、話し出したことに驚く。
「姉さんの使われていた時、琵琶法師の人だったの?」
「さあ。琵琶法師でもあったし、曲芸師でもそうだし。誰に使われていたと言っても何人にも巡っているんだから、全部覚えているのって言われて思い出せる? 私は印象が強い人しか覚えていないわよ……付喪神が全員そうだとは思わないけど」
「そうだね、私も覚えてない。そう言うと嘘になるけど」
姉さんは足を止めて私はそのまま背中にぶつかる。
「あいたっ、姉さんどうしたの?」
「嘘って言ったけど、どんな感じだったのかしら。教えてくれない?」
……? どうして姉さんは知りたがるんだろうか。別に教えても何が不具合があるわけじゃない。別にいいけど。姉さんはその辺にあった倒木に座る。私もその隣に座った。
「でもなんで姉さんは知りたいの?」
「ふふ、妹のこと知りたいじゃない?」
くすくすと楽しそうに笑った。今日は姉さん、よく笑うなあ。
「そうだね、初めて見たのは私を見て笑う男の人だったな……」
私が道具として生まれた時はいつだったんだろう。さすがにそれは覚えてない。だけれど私を見て喜ぶ男の人がいて。直ぐに誰かに渡されたな。どこか煌びやかなような服を着た女性が私を弾いていたの。数年、いいや数十年たった頃かな、気がついたら誰にも弾かれずにどこかにいたな。外の世界が騒がしかったと思う。
それでも時々誰かに弾かれていたと思う……どこにも出されずに、次に気がついた時は始めに弾いてくれた人よりさらに豪華な服を着て、誰かに演奏しているのを見たな。そこから誰にも触られず、誰にも見て貰えなくて、ずっと一つだった。そして気がついたら幻想郷にいて身体を持っていたの。
「私はずっと建物の中だったから、山とか人とかそのぐらいから知らない。だから夢をみた海を見てみたいんだ……」
なんてことはない関係の無いこと。それでもただ見てみたいと思っただけ。森の空を眺めようと上を見た。鳥が飛んでいくのを眺める。
「へえ、八橋は誰か高貴な人に使われていたんだね。だから海を見たことがなかったのね。私は海はよく見たけど、言葉で言っても伝わるとは思わないし、体験して欲しいけどね」
幻想郷じゃ無理だしなぁ……と姉さんは呟く。私は気分を変えるために立ち上がった。
「ふう、海を見てみたいけど姉さんも言ったみたいにここじゃ無理だもんね。諦めるしかないかな。姉さん、里行ってなんか食べに行こ!」
「ちょっと八橋! いきなり飛ばないでよ!」
ふわりと浮いて私は魔法の森の木々を超えて空へ。姉さんは慌てたように私を追いかけてくる。
「あはは、姉さんの顔凄い」
「八橋が慌てさせるからでしょ!」
あははと私は笑って姉さんから逃げる。姉さんと鬼ごっこのように里まで駆けた。
***
里に行くと門番に止められたが、里に入る理由を言えば通してもらうことが出来た。いつも思うけれどとてもめんどくさいな。早く通してくれないかな、なんて呟くと姉さんから諭される。
「八橋、めんどくさいの分かるけども人間も襲われたら嫌じゃない? ちゃんと人間に協力的なら私達も襲われないよ」
「まあ、そうだけどさあ……」
面倒なものは面倒だな。と思っていると姉さんにほっぺをつねられる。
「いたた……! ねえさんいたい!」
「八橋、今面倒だと思ったわね。駄目よ、ちゃんとやらなきゃ」
つねられたほっぺがヒリヒリと痛む。思い切りされたみたいで辛い。
「はーい……姉さん分かったよ……」
姉さんは笑っているだけだった。姉さんには頭が上がらない。どうして姉さんは分かるのだろうか、本当に不思議でならない。
二人で里を歩く。賑やかな人間たちは沢山いる。日常を過ごしているのが分かる。ガヤガヤと話す声、忙しそうに働く人。何かを買って、何かを持っていく。子供が私たちの横を走っていく。あはは、と楽しそうに笑っている。
「こらこら待て待て〜!」
聞いたことあるような声。走っていった子供を追いかける人……を見た。
「小傘さん!?」
笑いながら走っていたのは多々良小傘だった。よく里に行っては人間と遊んでいる姿をよく見たけれど。今回こうやって里で会うのは初めてだ。
「あっ、八橋さん! それに弁々さんも!」
遊ぶ子供たちは小傘さんの周りに集まる。各々で小傘さんに話しかけていた。
「あっ、ごめんね、ちょっと今日は遊ぶのおしまい。また明日遊ぼうね」
えーっ!と子供たちはぶーぶーと文句を言っている。余程楽しいのだろうか。私は分からないけれどそういうことなんだろう。
「ちょっとこの人たちとお話するから。また明日ね」
子供たちは小傘さんに諭されて一人また一人と手を振って帰って行った。そんな器用なことを私はできるとは思わない。小傘さんは器用なのか、ドジなのか分からない……
子供たちが帰るのを見つつ、最後の一人が帰った後に小傘さんは話しかけてきた。
「二人が里に来るなんて珍しいね。あんまり来ないからびっくりしちゃった。自分でお腹いっぱい」
……自分で驚けるのもすごいと思うけれど。
「適当に何か食べに来たのよ。気分転換にってね。小傘さんは子供の面倒を見ていたのね」
姉さんは小傘さんの手を引きながら話している。
「へえ、そうなんだ。甘味処でいいなら近くの場所に行く? お団子屋さんだけど」
「お団子? 私食べたい!」
美味しそうな名前が出てきたので食いついてしまう。軽くよだれが出てしまった。
「なら行こう! ほらこっちだよ」
タタタと、軽快に小傘さんは走っていった。私たちはそれを追いかける。少しした後小傘さんは転んでいた。本当にこの付喪神は器用なのか、ドジなのか……
「へえ、海。八橋さんはそれを知りたいんだ?」
もぐもぐと美味しいお団子を食べながら小傘さんは言う。月の兎がやっているお団子屋さんの隣の椅子に三人で座りながら話す。小傘さんを真ん中に左隣が私、右隣が姉さんで座っている。
「うん。海って見たことないから。小傘さんは見たことあるの?」
小傘さんは空を見上げている。横顔の赤い目がよく映える。
「そうだなあ。見たことがあるって言えばあるけどね。この身体になってから見てないよ」
「それでもいいから教えて欲しいな」
小傘さんは眩しそうに手をかざす。目を細めてどこかを見ているんだろうか。
「私はさ、傘の付喪神だから道具の時に海を見たことがあるけど八橋さんが思うような海じゃないかもしれないよ? それでもいい?」
そう言いながら私を見る小傘さん。私は大きく頷く。
「あんまり長くないけど……」
私を使ってくれた主人がよく雨の日に出かける人だったんだ。散歩かお仕事か、それは覚えていないけれど。海沿いを歩いていた時があってね。その海は荒れ狂っていたな。ごうごうと強い風、それに沢山の雨。海は風を受けて波が高く上がっていたの。よく覚えているのがそんな風景。
でも雨の降る前の曇り空の下で少し荒れそうになっている海も覚えているよ。
「私が覚えているのはこんな感じ。後は主人への恨みかな。ってそれは関係無かったね!」
茶化すように小傘さんは話している。雨の日の海のことかな。私は想像しか出来ない。
「海が荒れ狂っていたってどういう状態なの?」
「黒くて、まるで龍が怒っているみたいなの。龍を見た事ないからそうやって例えるのもおかしいかもしれないけど」
とても怒っているような感じなのかな。なんとなくだけど分かったような気がした。
「うーん、まだ分からないけど、ありがとう小傘さん! 」
「お礼を言われるような事じゃないと思うけど、どういたしまして!」
小傘さんとくすくすと私たちは笑う。姉さんを見ると眠そうにうとうとしていた。
「姉さん大丈夫?」
「ふぁ……少し眠たいわ」
寝不足気味なのかな? いつも私より起きるのが早いのだけれど。それどころかいつも起こしてくれる。
「姉さん寝不足? 無理しないで寝たらどう……」
かと言って変な所で寝かせられない。
「寝るんだったら私の工房で寝る? 外で寝るよりマシだとは思うけど……」
小傘さんはそうやって姉さんに言っている。
「ちょっとお願いしようかしら……八橋、一人でも大丈夫?」
「うん? 大丈夫だよ。姉さんは心配性だなあ」
ふふふと私は笑った。姉さんもつられて少し笑っていた。
「なら、また霧の湖でね。夕方には帰ってくるよ」
霧の湖には別行動をした時に集まる場所がある。魔法の森野中で一番、湖に近い一本の木が枯れているのだ。そこが待ち合わせ場所。
「分かったわ、そうしましょう」
「弁々さんは私の工房に来てね。八橋さんは海探し頑張って!」
姉さんと小傘さんに手を振られて私は探しに行くことにした。
里の中を鼻歌を歌いながら歩いていく。人間たちは忙しない。海を探すと言っても幻想郷ではなかなか無理だろうとは思う……それでも海を知りたい。私はそう思う。知りたいと思うことは私が成長するために必要なことだとは思うから。
里の中心から、気が付くと外れの方を歩いていた。里を囲う川沿いをのんびりと歩いていく。妖怪の山に魔法の森。原風景と言えるものを見ながら歩いていた。
誰かが私の歩く先に立っている。白い服に短い白いズボン。何かのマークがついた帽子を被っていた。疑問に思いつつも話しかけてみる。
「あの、誰ですか?」
その人は私の方を見るために後ろを向いた。
「……ん? あんたは……まあいいや、付き合ってよ」
「えっ、はぁ。貴女のお名前は何ですか……」
暗い緑色のような青色のような目を輝かせてその人は笑っていた。
「ああ……水蜜って呼んでくれればいいよ」
みなみつ。どこかで聞いたことがあるような、ないような。思い出すことは叶わなかったけれど。
「私の名前は九十九八橋。八橋って呼んでもらえたら嬉しいな」
水蜜さんは何も言わなかったので自己紹介だけを済ましておく。
「ふうん。付喪神なのね……まあいいわ、八橋はどうしてここを歩いていたの?」
あ。呼び捨てなんだ。まあいいけど。
「少し考え事を。適当に歩いていれば解決するかなって」
水蜜さんが、歩き始める。私はその隣を一緒に歩き出す。
「考え事。何を考えていたのさ」
いきなり聞かれても答えれば良いのだろうか。なんの取りとめのない考え事を聞いてもらったとしてもつまらないだろうに。まあ、答えてもいいかな。
「海のこと。海ってどんなものかなってさ。私は見たことないから……」
「へえ、海。そんなこと考えてどうするってのさ」
水蜜さんの雰囲気が変わる。私を見ている目が少し細くなったような気がした。何か不味いことを言ったのかな。
「ええと、夢で海が出てきたんですけれど、その時は映像しかなくて、音とかなくて……なんか海が気になったんですよ」
ズボンのポケットに手を突っ込んだ水蜜さんは何も言わずに歩く速度が早くなる。私は歩く早さを変えずに水蜜さんの後ろを歩いていく。
水蜜さんは唐突に止まる。気がつけば人里から離れた場所に私たちはいた。
「なあ、海が良いものでは無いって言えば信じるか?」
ポケットから手を出さずに水蜜さんの後ろ姿を見た。
「えっ、それはどういう意味ですか?」
──こういう意味だよ──
……えっ?
私は空に放り出される。何をされたかなんて分からずに空を見る。時間がゆっくりと流れるように思った。実際ゆっくりと流れていた。水面にぶつかったような気がした。痛みなんて感じずにただ投げ出されるままに。冷たい。つめたい……ごぽこぽと口に鼻に、水が入ってくる。暴れることも助けを求めることは出来ずに手を伸ばす。きらきらと光る水面、ごうごうと言うような水の音。光る、ひかる……水の音を知る。私の視界は水面を揺れる空を見る……ふとどこかを見たような気がした。揺れる青い空、ただ高そうなあおいそら……
苦しい。くるしい……私の時間はここで戻る。川に落とされた事に気がついた私は苦しくて悶える。水面に顔を出す。バシャと大きな音が響いて。頭が割れるように痛い……
「はあっ、ああっ、だれ、か、たすけ……ごはっ」
私の体を捕らえる水から逃れる事を出来ない。嫌だ、嫌だ、たすけて!
「村紗ぁあ!! あんた何やってんのよ!」
「ぎゃあ!」
「ちょっと本当にあなた大丈夫!?」
私は水色の綺麗な髪を見つつ意識は消えた。
***
ぼうっと私の目は覚めた。知らない天井。服は変わっている。頭が痛いが、体を起こす。障子が閉まっていたのでゆっくりと立ち上がって私は縁側に出る。ここは……しかも今は夕方だった。
「あ! 起きましたか! 聖! 怪我した人が起きましたよ!」
参道を掃き掃除していた緑の髪、犬の耳……?私を見て大きな声を張り上げた。うるさいな。
「あら、起きたのですね」
縁側に立っていたら奥の本堂だろうか、歩いてくる人がいる。確か……聖白蓮だったかな。ということはここは命蓮寺?
「ええと……保護してくれたんですね……ありがとうございます」
お礼をする。どうして担ぎ込まれたのかは分からないけれど。
「いえいえ、うちのものが迷惑をかけたみたいで。すみませんね。怪我が癒えるまでここにいてくれて良いですから」
どうしてか笑う聖さんをみて体がすくむ。良い人なのだろうけれど……
「は、はい。短い間ですけれどよろしくお願いします」
聖さんは軽くこの命蓮寺の説明をした後どこかに行ってしまった。服は部屋に置いてあるって言っていたけれど。私の寝ていた部屋に入ると枕元に置いてあった。気が動転して気が付かなったのか。とりあえず着替えを始めた。
着替えた後、寝ていた布団を畳んで端の方に置いておく。私は別に命蓮寺の信徒じゃないのでやることは無い。誰も来ないし、暇だったので縁側に座って一人で演奏していた。少し頭が痛かった。よくよく考えると空に放り出されたの頭を何かで殴られたからだったよね。あの時は本当に動転しすぎて後から思い出せた。
一曲を弾き終わった後にパチパチと拍手の音が鳴る。
「……誰かしら?」
拍手の音だけで姿が見えなかった。前から鳴っているように思うけれど誰もいない。
「やだなあ、前にいるよ? もしかして見えてない?」
そう言われて目を凝らすとつばの広い帽子を被った女の子がいた。体に何が巻きついているような。
「ああ、そんなところにいたの……褒めてくれてありがとう」
「ふふ、琴なんて久しぶりに聞いたよ。地底に誰も風情なんて分かるのがいないもの」
くすくすと楽しそうに笑うその子。
「どうして琴のお姉さんはここにいるの? 聖に呼ばれた、とかじゃないと思うんだけどなー」
私の前をひょこひょこと歩くその子。どこか世間離れしているように思えた。
「確か水蜜さんに川に落とされたからかな」
思い出せることを言う。その子は驚いたような顔をした。
「あら、村紗関連なのね。道理で村紗と一輪を見ないわけ」
一人で何か納得している。思い当たる節はあったのだろうか。縁側を誰かが歩いてくる音がした。一人じゃなくて二人?
「あら、いた……ほら村紗、ちゃんと謝りなさい」
私を助けてくれた髪の青い女の人と水蜜さんだった。
「……すみませんでした」
水蜜さんは小さな声で謝った。
「声が小さい!」
「ああ、大丈夫です。気にしてませんから。だからそんな形相にならないでください」
青い髪の女の人は怒った顔をしていたので止める。綺麗な顔が台無しだ。
「されたのにいいんですか……」
「死んでなかったらいいんです。とりあえずお大事にしてください」
困惑したような顔をされたがどうしてそこまで謝る必要があるのだろうか。
「はいはい、一輪に村紗! この人がいいって言ってるなら大丈夫でしょう。私はこの人とお話がしたいの」
「こいし、いきなりね……というか来てたのなら聖に話しなさいよ」
「だって説法でいないんだものーそんなの無理でしょ」
帽子を被った女の子は飄々と話す。青の髪をした女の人はため息をついている。
「わかったわよ。こいしも程々にしなさいよ」
「はぁい、わかったよ一輪」
水蜜さんと青の髪の女の人はまたどこかに歩いて行ってしまった。謝りたかっただけなのかな。
「あなたの名前は何?」
少しぼうっとしていると話しかけられる。
「……あっ、名前言ってなかったね。私は九十九八橋」
「八橋さんね。私は古明地こいし。こいしって呼んでくれたらいいよ」
軽やかにこいしさんは私の隣に座る。にこにこと笑いながら。
「それで聞きたいんだけどー、どうして村紗に落とされたの?」
「ええと……」
これは言ってもいいのだろうか。まあいいか。
「海について水蜜さんに聞いてみたら、いきなり川に叩き落とされて。溺れてる時にさっきの青い髪の人が助けてくれたの」
「凄い、いきなり村紗の地雷踏んでるの面白すぎるね。気に入らなくて村紗は投げ込んだのかもね」
ケラケラと笑うこいしさん。
「言っちゃいけないことだったんですかね」
「さあ? 私には分かんないなあー」
この人は答える気があるのだろうか……分からない。
「あ、村紗に海のこと聞いたって言ったけどもしかして海を知りたいの?」
「えっ、うん」
唐突にこちらに話してくるものだからついていけない。
「胎児の夢って知ってるかしら……海ってね、人間にとってなくてはならないものなのよ。海から出てきて人間ができて……海は人間の故郷なの。どういう風に出来たとしても海は素敵なものなのよ。母親の羊水に浮かぶ胎児がずうっと人間の進化を見ているのよ……進化を、海をずうっと見ているの。ふふ、赤ちゃんが海を見ているっていえばあなたは信じるのかしら」
「ちょ、なに? どういうこと?」
いきなりの言葉の濁流に流されてしまった。知らないことを羅列され、理解する間もなく話が終わってしまっている。一つも分からなくてこいしさんが何を話しているのかさえも分からなかった。
「海はすぐ近くにあるものなのよ」
満足そうにこいしさんは言い切った。本当に何も分からなかった。
「こいしさんは何が言いたかったの……」
呆気に取られて独り言を言ってしまう。こいしさんは何か楽しそうにしている……少し意識がどこかに飛んでしまった。もう一度こいしさんに聞こうとしたら、隣に座っていたはずのこいしさんがいなくなっていた。あれ、どこいったんだろう。
──あはは……海が見つかるといいね──
そんなこいしさんの声が聞こえたような気がした。
***
命蓮寺で誰も来ずに夕日を見ながらぼうっとしていたら姉さんがやってきた。
「ちょっと八橋大丈夫なの! 溺れたって聞いたけど!」
「あー姉さんだ。助けてもらったから大丈夫だよ。びっくりはしたけど」
姉さんは慌てたように私の肩を掴む。
「待ち合わせ場所に来ないから、小傘に何かあったか聞いたら八橋が運ばれてるって聞いて走って来たのよ! 本当にもう、なんで巻き込まれているのよ!」
あはは……苦笑いをしながら私は頭を軽くかく。なんでって言われても成り行きで巻き込まれたのでどうしようもないじゃない。
「姉さん落ち着いて。私は大丈夫だから。とりあえず今日どうする……日が暮れそうだけどさ」
「うーんそうね……どこか寝るところ探さないと」
里の人間のように家なんてものは持っていない。どこか雨風凌げるだけの空間があればいい。贅沢なんて言ってられない。
「あ、姉さん。前に寝た洞窟とかどう? あそこならちゃんと寝れると思うけど」
魔法の森の近くの洞窟。前に雨に打たれて見つけた場所なら大丈夫だろうと思う。
「そうね、飛んでいこうかしら。八橋、行きましょう」
姉さんと手を繋いで一緒に空を飛ぶ。二人で寝られる場所を探して。やっぱり特定の住めるところが欲しい。だけれどそれは叶わないのかと思うとちょっぴり悲しかった。
二人で空を飛んでいて、魔法の森の入口に差し掛かった辺りに一つの家の明かりが灯っているのを見た。
「姉さん、あれ……」
「あそこは……確か香霖堂だったっけ」
私が止まって指を指すと姉さんは答えてくれた。香霖堂。確か物好きな店主がいるんだったかな。入ったことがないから分からないけれど。何故か興味が湧いた。あそこは骨董品が置いてあると聞いたことがある。なら海に纏わるものもあるんじゃないかなって。
「……姉さん、あそこに寄ってもいいかしら」
「どうしたのよいきなり」
空に浮く中で姉さんは驚いている。無理もないか。こんな変なところに興味を持つなんて思っていなかったんだろう。
「なんか気になる……行ってくる!」
はやる心で私は香霖堂へ向かうために飛び出した。
「ちょっ、八橋! 勝手に行かないの!」
焦っている姉さんの声。海という未知の世界は私を思いもよらない行動をさせる。知りたいのだ、私は海というものを!
「こんばんは、やってますか!」
カラランとドアにつけられた鈴が軽やかな音を奏でる。ごちゃごちゃとものが散乱しているように無造作に置かれているように思う。机に向き合ってその人は何かをしていた。
「帰ってくれると嬉しい……って新しい人か。いや妖怪か……」
本を読んでいたのか、入った時に目に映った白髪が前を向く。眼鏡をかけたその人は知り合いの人に話しかけるようにしてきたけれど、知らないと理解した時に声が変わった。すぐさま呆れたような顔になる。
「……あいにくそろそろ閉めようと思っていたんだが。君がどこの誰かは知らないが、この時間に来るのは非常識では無いか?」
うぐ。それを言われると。
「い、いやぁ……気になったもので……」
その人の眉間が少し寄ったような気がした。
「八橋! 何勝手に入っているのよ!」
はあはあと息を切らして怒鳴り込むように姉さんは私の後ろに立つ。その人は困ったような、呆れたようなよく分からない顔をしながら言った。
「後ろの君。この子と知り合いかい?」
「妹ですが。というか勝手にすみません!」
「帰ってくれると嬉しいんだが……」
両手を広げで呆れたようなポーズをしているその人。
「八橋! ほら迷惑かけてないで帰るよ!」
私はぷつんとキレた。私だって知りたいんだ、迷惑なんて分かってる! でも自我を通してやる!
「帰らないわ。店主さん、海を知ることの出来る物はありませんか! 私は海を知りたいんです!」
「八橋!」
姉さんが止めようとしてくるが私は避ける。飛びつく時に失敗した姉さんはよろよろとバランスを崩して店主さんのカウンターにドォンとぶつかる。
「痛っ……八橋、あなたねぇ……!」
姉さんが私に飛びかかろうとした時に姉さんの肩に手を置かれるのを見た。
「……頼むから暴れないでくれ。商品が壊れてしまう」
私はそれを聞いて飛び跳ねる。そう言ってくれるならいいのかしら!
「店主さん、それって見繕ってくれるのかしら!」
姉さんは飛びかかるのをやめて落ち着いている。店主さんはハアと大きなため息をついた。
「商品を壊されたらたまらないからね。見繕うだけだ。買うならそれ相応の対価は払ってもらうよ」
「分かった、払うわ!」
ニヤリと店主さんは笑った。
「言ったね。自己紹介がまだだったね。僕は森近霖之助。香霖堂の店主をしている」
「私の名前は九十九八橋。よろしくね店主さん!」
「姉の九十九弁々です。無茶言ってすみませんね……」
トホホと姉さんは諦めた顔していた。店主さんは早速、机の向こう側から出てきている。無造作に置かれた物の中から見たことも無いものを取り出していた。一部が棘みたいに出ていて、店主さんが持つ限り硬そうだ。白地に桃色のような色が混ざっているように思った。全体的にタニシのような感じだった。
「店主さん、それはなんですか?」
待ちきれくて私は聞く。早くそれの説明を聞きたかった。
「これはね、海の巻貝さ。ただの巻貝かと思うだろう? それがただの巻貝じゃないんだ。海の記憶が詰まったマジックアイテムだよ。無縁塚で落ちていた時はとても興奮したさ。幻想郷じゃ、見られない海を見るためのものになるって。しかし海というのはね……」
「店主さん!」
「っとと……なんだい八橋さん」
話をぶった切って私は聞く。
「これ使ってみていいですか!」
海の記憶、そんなものが見られるのだとしたら。知りたいと思ったことを全て知ることができると思った。
「いや、しかし使うならお代を貰ってからだね……」
「払うって言いました! なら使っても良いでしょ?」
払うって言っている。それなら使ってあとからでも良いでしょう?
「ちょっと八橋……あなたもう少し落ち着きなさいよ。使うなら払ってからよ? 八橋の言った事だと泥棒になっちゃうわよ」
「むー姉さんうるさいなあ……」
姉さんの言葉にムスッとしてしまう。早くそれを私は使いたいんだ。
「払ってもらうなら……このぐらいだよ」
ぱちぱちとそろばんを弾く音が響くとそれを机に乗せて見せられる。一、十、百、千、万……?
「えっ、そんなにするの!?」
「高っ!?」
「マジックアイテムだからね。このぐらいはないと」
それじゃあ海を知ることなんて出来ないじゃないか! そんなのはいやだ!
「店主さん、もう少し下げてもらえませんか!」
「君は払うと言っただろう。その言葉を信じたんだが?」
うぅ。確かに私は言った。ならそれを私はしなくちゃいけない。私にはこれしか出来ない。
「……少しづつ払うのでその巻貝を売ってはくれませんか」
店主さんに礼をして私は精一杯の誠意を見せようとする。少しちらりと店主さんを見る。店主さんは私を見てニコリと笑った。
「いいよ。常連の二人より余程いい。さっき出した値段の半額でいい。ちゃんと払ってくれる誠意があるならいいよ」
「……いいんですか?」
「ああ、良いさ。ほら持っていきなさい」
店主さんは巻貝を渡してくれた。私の手の中にある巻貝がとても嬉しかった。
「ありがとうございます!」
「良かったね、八橋。だけど支払いは手伝わないからね。自分で払ってよ?」
「分かってるよ!」
私は笑顔で答えた。とても嬉しくて、私の知ろうとしていることが一つ近づいた。
香霖堂を私たちは出る。私は興奮で何も話せなくて、二人で無言で空を駆けた。
よく使う洞窟の中に入って、私たちは壁にもたれかかった。
「……八橋、良かったわね。それでその巻貝はいつ使うの?」
静かになった洞窟の中に姉さんの声がよく響く。
「今使っていい? 私は海を知りたいの」
「まあいいけど……使う時は離れてるからね。何が起こるか分からないもの」
三歩半ほど姉さんは離れる。私は知ることの希望に溢れていた。
「うん。じゃあ使うね」
そっと巻貝を耳にあてた。少しづつ、少しづつ……音が大きくなっていった。
ザ……ザザ……ザザン……ザア……
聞こえる、音が。何の音だろう……ゆっくりと目を開ける。青い空に照らす太陽が眩しい。目の前に広がる足の裏の感覚はサラサラしたような白い砂を踏んでいる。ここは……空のような青い色、奥はずうっと海が続いていた。海と空の境界線が見えて、海は綺麗な青竹色をしている……言葉に出来ない美しさ。見たことも無い美しい世界は私を歓迎してくれているようで。
ザザン……ザザ……ザザザ……
押し寄せる波は足を掬った。ひゃっ!
ちゃんと理解しないまま海に飛び込んだ。青、蒼、あお……空の青さと一緒に混ざるかような水の中で。漂う、漂う。美しさに惚れて。
海を知る。べんべんと姉さんが弾かれている。
海を知る。荒れた海が空が小傘さんを使う男性が歩いている。
海を知る。怒りに泣きわめく舟幽霊がいる。
海を知る。胎児が見る夢を覗き見る。
海を知る……大いなるものを私は目にする。人間だろうが妖怪だろうが、受け入れるものを知る……
ああ、そっか。
海って、そういうものだったんだ。
~*~*~
後日、姉さんは語った。私が海を見ている時はそのまま眠るようになってしまったという。私が笑顔だったから大丈夫だって。なんで姉さんはそんなに心配するだろうな。心配性め。
香霖堂の支払いをすると言ったけれど当然そんな高いお金を持っているわけなくて。姉さんに手伝ってもらいながら里で大道芸、路上ライブで稼ぐことにした。やれやれって言われたけれど私は後悔してないし、姉さんは呆れながらも楽しそうにしていた。頭が上がらないなあ。
「ねえ、八橋は海を知れた?」
姉さんは私に聞く。とても期待したような顔で。
「うん! 知ることが出来たよ!」
私は笑顔で姉さんに答えた。
海を知ることが出来たと言っても何も生活は変わらないし、姉さんと一緒に過ごしたり、雷鼓さんと一緒にお茶したり。そうやって私は過ごしていくのだと思う。
一つだけ変わったことと言えば、私は海を題材にしてこれから曲を作りたいと思ったことだった。できるかは分からないけれども。ふふ、楽しみだな。
──私は海を知ることが出来たのだろう──
不意にあっちこっちへすっ飛んでいく姿がかわいらしかったです
無計画なところがいかにも八橋らしくてよかったです
このムラサ絶対地雷だらけ