不意に風が吹き、庭先の桜の木から花弁が舞った。
ひとつ、ふたつ。その身を翻弄されながら、小さな薄桃が流れていく。枯山水の描く川に落ちてから、風にさらわれるまま、どこかへと飛んで行った。
私は思い出す。いいや、忘れたフリをしていた事実が意識に上っただけだ。
私は忘れない。忘れるという人間の機能は、この身からは欠落している。
私は意識する。生まれてくるはずだった子には、桜と名付けようとしていた。
「春……」
この時期が嫌いになったのは、私が23の年。今から7年も前のこと。それでもひとたび意識してしまえば、記憶は鮮明によみがえる。まるで昨日のことのように、まるでたった今体験しているかのように。
私は今年で30になる。
御阿礼の子としては珍しく、30になるまでこの世にしがみついている。
もはや、御阿礼の子という呼称も面映ゆい。子、などと言える歳ではなくなった。
もっとも、私が例外というわけではない。阿悟などは40近くまで生きた。私の命の蝋燭。人よりも短いはずのそれ。明日には死ぬかもしれない、という思いは常に在る。それを恐ろしいと思ったことはなくとも。
――死ぬことは怖くないの?
かつて小鈴に聞かれた時の記憶を検める。私は怖くない、と返した。事実、私はきっと生まれた瞬間から死を恐ろしいものと感じたことなどない。私にとっての死は、やがて来るものであり、やがて次へと繋がれるものでしかない。単なる事象。単なる自分の転換点。私は同じことを、もう九度も繰り返している。
だから、死ぬことは怖くない。
……同じことを、今の私も言えるだろうか。同じ気持ちで。
「…………」
文机に視線を戻す。手にしていた筆の先から墨汁が垂れ、日記の紙面に大きな染みを作った。風の音に誘われ、散りゆく桜の花びらに目を奪われ、身動きひとつせず想いに囚われて。
その結果にできた墨の汚れは、まるで大粒の涙を落したように見えた。
書くために生まれた私が流す涙は墨色なのだ。そんな曖昧な納得があった。
◆
――死が恐ろしいものとして扱われるのは、喪失の痛みに耐えられないからだ。
その事実を理解してこそいたが、納得はできていなかった。それは私の実感と相反する概念だったからだ。私は、私が喪失されることがないと知っている。私は、私の終わりが次の私の始まりであると知っている。
だから、人間ならば誰もが本能的に理解しているその事実を納得するためには、私が死の喪失を実感する必要があった。身ごもったお腹の子が産声すら上げずに喪われて、ようやく私は死という絶望的に暗く深い穴の存在を知るに至った。
そもそも生まれからして人並ではない私が、それでも人並の恋をした。恋は人並に愛へと変わり、転じた愛は人並に育まれた。そして芽吹いた愛情は、流れて消えた。呆気なく。
……耐えられなかった。
崩れた。壊れた。どうしようもなく元には戻らなかった。時の流れが私の激情を癒してくれることはなかった。狂わんばかりだった。いや、狂っていたのか。すべてを投げ出しても構わないとさえ思っていた愛を捨て、死んだ子の齢を数え、抜け殻のように生きた。
心の底から、死が怖いと思った。
私自身のではない。私は、いまなお私が死ぬこと自体に恐れはない。
ただ、私ではない誰かの死が堪らなく恐ろしくなった。
生と死とは隣り合わせにある。今日の生は、明日も死なないことを担保しない。いま確かに在る命が、次の瞬間に失われる可能性は絶対に否定できない。私は死を恐れるあまりに生をも恐れるようになった。生きている人間が怖くなった。
……アナタは明日もちゃんと生きていてくれる?
そんな言葉が口癖になった私は、気づけば一人きりになっていた。使用人は私を避けるようになった。私を心配してくれる友人たちと話すとき、常に私はかつての私を演じているに過ぎないと思うようになった。本当の私は怯えて縮こまっていて、私という人間の表層に出てくることはなくなった。私は自身の心のうちに、何者をも受け入れない女になっていた。
ひとりきりだ、という思いが心から離れなくなった。
薄暗く寂しい孤独から、しかし私は離れることができなかった。
常にビクビクとして、何かにつけて謝るようになった。ごめんなさい。不愉快な思いをさせてしまって。ごめんなさい。変なことを聞いてしまって。ごめんなさい。心配してくれているのは嬉しいのに、それを受け入れられなくて。ごめんなさい。いま、アナタが明日には死んでしまうかもしれないと思ってしまった。ごめんなさい。どうして私は私にしがみついているんだろう。ごめんなさい。私は私の子をちゃんと産んであげることができませんでした。ごめんなさい。私は母親という存在になることはできませんでした。ごめんなさい。私は分不相応な夢を見てしまいました。ごめんなさい。生きていて。ごめんなさい。ごめんなさい。
……あぁ、馬鹿みたい。
いっそ死んでしまえばよかったのに。
けれど私は、私という存在は閻魔と契約しているから、自死という大罪を犯せなくて。
永遠に終わらない堂々巡り。記憶は薄れないから、永遠に。あの日の感情は摩耗しないから、ずっとずっとずっと。何度も何度も何度も。謝って。誤って。七年間。一日も絶やすことなく私は、謝って。誤って。もう疲れてしまった。私は私が死ぬ日を待つのに疲れてしまった。
……もう、疲れた。
◆
「――こんばんは! アナタが死ぬ日が決まりましたよ!」
庭の桜が散りきる頃、待ち望んでいた言葉は夢枕に訪れた。
夢。だけど夢じゃない。とろりとした白い霧に包まれた世界に私は立っていた。ゴツゴツとした石が地面を埋め尽くす底は、あぁ、数多の伝承に伝わる通りの賽の河原。死に行くものが渡ることとなる、彼岸と此岸の境界線。
あぁ。
やっとか。
やっと、私は終われるのか。
「?? えっと、なんだか嬉しそう?」
白い服を着た小さな少女が、キョトンとした表情で私の顔を見上げる。地獄からの使者にしては可愛らしい。そう思った。まるで純粋無垢をそのまま少女の形に宿したみたい。
「勘違いじゃないわ。だって、嬉しいもの」
「えー、なんだか嫌だなー。四季さまから嫌な仕事を押し付けられたなー、と思ってたけど、なんだか嫌さが別のベクトルになった感じ」
少女が唇を尖らせる。それがなんだか昔の小鈴に似ていて、ちょっと笑ってしまった。自分たちが少女だった頃のことが、懐かしくなって。どれくらいぶりに笑ったのかは、よく判らなかったけれど。
「ふふっ、ごめんなさいね。それで、いつ?」
「えっと、アナタの30歳のお誕生日とのことですー。だいたい半年後くらいですね。それまでに身辺の整理をしておくように、とのことですー」
「そう」
その返事を聞いて、少しがっかりしてしまった。あと半年。あと半年も、私は私を続けなくちゃいけないのか、と。私が壊れてからの7年に比べればあっという間だけど、それでも短いに越したことはないと思っていたのに。
私の心境に気付いているのかいないのか、目の前の少女は、にっこりとほほ笑んで、
「それじゃお仕事の話は終わったから、ここからは私の個人的な用事の話」
言って、彼女は霧の向こう、明後日の方向に「おーい!」と呼び声を投げかけた。両手を口に当てた彼女の声が、遠くから山彦のような残響を伴って。
「ちょっと待っててね。すぐ来るから」
「来る? 待つ?」
「生まれてない子には形がないの。だから、私のこの形を使ってもらうけど、そこは許してね?」
「……ちょっと待って、何の――」
「あ、来た来た! こっちだよー!」
少女が霧の向こうに大きく手を振る。ドクン、と心臓が脈打つのが判った。
ここは、賽の河原。ここは、三途の川の畔。それは、親よりも先に死んだ子たちの――
「えへへ、良いな良いなぁ、桜ちゃん。羨ましいなー。お母さんに会える子、なかなかいないもんねぇ」
霧の向こうから、ゆらりと現れた人魂に、少女が笑いかける。
小さな人魂。ほの淡く、いまにも掻き消えてしまいそうなほど小さな灯。
まさか。まさか。
少女がやさしくその人魂を胸に抱く。小さな彼女に抱かれた光が、少女の胸の中に吸い込まれていく。一瞬、少女から表情がなくなって。
やがて、白い服の少女が私のほうを向く。
もじもじと、伏し目がちに。
まさか。あぁ、まさか。
「――お母さん」
声。
声が、
それまでの少女の声とは変わっていた。その声は聞き覚えのある声だった。確かに私の記憶に深く、深く刻まれた声。
それは。
あぁ、それは。
幼いころの、私の声と、同じ――
「さ、くら……?」
「お母さん」
目に涙を溜めた少女が、私に駆け寄って、しがみついてくる。
体温。暖かい。感触。一生懸命に、私の背に回される手の。強く、強く。私の身体を抱きしめる幼子の腕。腹の辺りに埋められた顔の。
あぁ……。
あぁ!
「桜……ッ!」
抱きしめる。私にしがみつく幼子を。抱きしめる。無我夢中で。
目の奥、ツンと熱くなる。涙。涙が、あぁ、流れる、流れる。墨色ではない、涙。
「ごめんね……! ごめん、ごめんね……! 桜、あぁ、本当に……!」
謝っていた。私は、また。謝っていた。謝りたかった。
本当に謝りたかったのは、私が、謝りたかったことは。
桜。桜。私は、アナタを――。
「……お母さん」
少女が。
私に抱き着いたまま、首を横に振る。何度も謝る私に、何度も、何度も首を、横に。
言葉はなかった。けれど。
けれど、判った。私には判った。少女が、桜が、私に伝えたいこと。
――謝らないで。
――お母さんは、悪くないから。
――だから、もう、謝らないで。
「…………うん」
泣きながら。また反射的に謝りそうになった自分を律して、私は、頷いて。
「……うん、うん、判ったよ…………もう、しないよ……」
私は少女の、桜の身体をぎゅっと強く、強く抱きしめて。抱きしめて。
そして、誓う。我が子に。生まれてくることもできなかった我が子の願いに。誓う。
もう謝らない、って。もう誤らない、って。
そうして、言葉もなく泣き続けて。少女の温もり、小さな身体、抱きしめ続けて――
…………そうして、寝室で目を覚ました。
◆
マッチを擦って、線香に火をともす。
墓石に向かって手を合わせ、夢の中の感触に思いをはせる。
あれだけ咲き誇っていた桜はすでに散り、命色に萌えあがる新緑が陽光を受けて輝いている。空は抜けるように青く、世界そのものを祝福しているかのように見えた。
私の寿命。あと半年で尽きる命の蝋燭。かつて今か今かと燃え尽きるのを待っていただけの寿命。無為に過ごすことはできない。私は心のうちで強く誓う。
まだ、私は生きている。生きて、この地に立っている。
私が生きている今日は、あの子が生きることのできなかった明日なんだ。
あの子の分まで生きよう。あの子が生きることができなかった分を、私が代わりに生きてあげよう。そうすることが、あの子の望みだから。そうすることで、あの子は報われるから。
ひゅう、と吹いた風が、どこかから流れてきた桜の花弁を吹き上げた。
どこまでも、どこまでも。空のかなたへ、運んでいくかのように。
ひとつ、ふたつ。その身を翻弄されながら、小さな薄桃が流れていく。枯山水の描く川に落ちてから、風にさらわれるまま、どこかへと飛んで行った。
私は思い出す。いいや、忘れたフリをしていた事実が意識に上っただけだ。
私は忘れない。忘れるという人間の機能は、この身からは欠落している。
私は意識する。生まれてくるはずだった子には、桜と名付けようとしていた。
「春……」
この時期が嫌いになったのは、私が23の年。今から7年も前のこと。それでもひとたび意識してしまえば、記憶は鮮明によみがえる。まるで昨日のことのように、まるでたった今体験しているかのように。
私は今年で30になる。
御阿礼の子としては珍しく、30になるまでこの世にしがみついている。
もはや、御阿礼の子という呼称も面映ゆい。子、などと言える歳ではなくなった。
もっとも、私が例外というわけではない。阿悟などは40近くまで生きた。私の命の蝋燭。人よりも短いはずのそれ。明日には死ぬかもしれない、という思いは常に在る。それを恐ろしいと思ったことはなくとも。
――死ぬことは怖くないの?
かつて小鈴に聞かれた時の記憶を検める。私は怖くない、と返した。事実、私はきっと生まれた瞬間から死を恐ろしいものと感じたことなどない。私にとっての死は、やがて来るものであり、やがて次へと繋がれるものでしかない。単なる事象。単なる自分の転換点。私は同じことを、もう九度も繰り返している。
だから、死ぬことは怖くない。
……同じことを、今の私も言えるだろうか。同じ気持ちで。
「…………」
文机に視線を戻す。手にしていた筆の先から墨汁が垂れ、日記の紙面に大きな染みを作った。風の音に誘われ、散りゆく桜の花びらに目を奪われ、身動きひとつせず想いに囚われて。
その結果にできた墨の汚れは、まるで大粒の涙を落したように見えた。
書くために生まれた私が流す涙は墨色なのだ。そんな曖昧な納得があった。
◆
――死が恐ろしいものとして扱われるのは、喪失の痛みに耐えられないからだ。
その事実を理解してこそいたが、納得はできていなかった。それは私の実感と相反する概念だったからだ。私は、私が喪失されることがないと知っている。私は、私の終わりが次の私の始まりであると知っている。
だから、人間ならば誰もが本能的に理解しているその事実を納得するためには、私が死の喪失を実感する必要があった。身ごもったお腹の子が産声すら上げずに喪われて、ようやく私は死という絶望的に暗く深い穴の存在を知るに至った。
そもそも生まれからして人並ではない私が、それでも人並の恋をした。恋は人並に愛へと変わり、転じた愛は人並に育まれた。そして芽吹いた愛情は、流れて消えた。呆気なく。
……耐えられなかった。
崩れた。壊れた。どうしようもなく元には戻らなかった。時の流れが私の激情を癒してくれることはなかった。狂わんばかりだった。いや、狂っていたのか。すべてを投げ出しても構わないとさえ思っていた愛を捨て、死んだ子の齢を数え、抜け殻のように生きた。
心の底から、死が怖いと思った。
私自身のではない。私は、いまなお私が死ぬこと自体に恐れはない。
ただ、私ではない誰かの死が堪らなく恐ろしくなった。
生と死とは隣り合わせにある。今日の生は、明日も死なないことを担保しない。いま確かに在る命が、次の瞬間に失われる可能性は絶対に否定できない。私は死を恐れるあまりに生をも恐れるようになった。生きている人間が怖くなった。
……アナタは明日もちゃんと生きていてくれる?
そんな言葉が口癖になった私は、気づけば一人きりになっていた。使用人は私を避けるようになった。私を心配してくれる友人たちと話すとき、常に私はかつての私を演じているに過ぎないと思うようになった。本当の私は怯えて縮こまっていて、私という人間の表層に出てくることはなくなった。私は自身の心のうちに、何者をも受け入れない女になっていた。
ひとりきりだ、という思いが心から離れなくなった。
薄暗く寂しい孤独から、しかし私は離れることができなかった。
常にビクビクとして、何かにつけて謝るようになった。ごめんなさい。不愉快な思いをさせてしまって。ごめんなさい。変なことを聞いてしまって。ごめんなさい。心配してくれているのは嬉しいのに、それを受け入れられなくて。ごめんなさい。いま、アナタが明日には死んでしまうかもしれないと思ってしまった。ごめんなさい。どうして私は私にしがみついているんだろう。ごめんなさい。私は私の子をちゃんと産んであげることができませんでした。ごめんなさい。私は母親という存在になることはできませんでした。ごめんなさい。私は分不相応な夢を見てしまいました。ごめんなさい。生きていて。ごめんなさい。ごめんなさい。
……あぁ、馬鹿みたい。
いっそ死んでしまえばよかったのに。
けれど私は、私という存在は閻魔と契約しているから、自死という大罪を犯せなくて。
永遠に終わらない堂々巡り。記憶は薄れないから、永遠に。あの日の感情は摩耗しないから、ずっとずっとずっと。何度も何度も何度も。謝って。誤って。七年間。一日も絶やすことなく私は、謝って。誤って。もう疲れてしまった。私は私が死ぬ日を待つのに疲れてしまった。
……もう、疲れた。
◆
「――こんばんは! アナタが死ぬ日が決まりましたよ!」
庭の桜が散りきる頃、待ち望んでいた言葉は夢枕に訪れた。
夢。だけど夢じゃない。とろりとした白い霧に包まれた世界に私は立っていた。ゴツゴツとした石が地面を埋め尽くす底は、あぁ、数多の伝承に伝わる通りの賽の河原。死に行くものが渡ることとなる、彼岸と此岸の境界線。
あぁ。
やっとか。
やっと、私は終われるのか。
「?? えっと、なんだか嬉しそう?」
白い服を着た小さな少女が、キョトンとした表情で私の顔を見上げる。地獄からの使者にしては可愛らしい。そう思った。まるで純粋無垢をそのまま少女の形に宿したみたい。
「勘違いじゃないわ。だって、嬉しいもの」
「えー、なんだか嫌だなー。四季さまから嫌な仕事を押し付けられたなー、と思ってたけど、なんだか嫌さが別のベクトルになった感じ」
少女が唇を尖らせる。それがなんだか昔の小鈴に似ていて、ちょっと笑ってしまった。自分たちが少女だった頃のことが、懐かしくなって。どれくらいぶりに笑ったのかは、よく判らなかったけれど。
「ふふっ、ごめんなさいね。それで、いつ?」
「えっと、アナタの30歳のお誕生日とのことですー。だいたい半年後くらいですね。それまでに身辺の整理をしておくように、とのことですー」
「そう」
その返事を聞いて、少しがっかりしてしまった。あと半年。あと半年も、私は私を続けなくちゃいけないのか、と。私が壊れてからの7年に比べればあっという間だけど、それでも短いに越したことはないと思っていたのに。
私の心境に気付いているのかいないのか、目の前の少女は、にっこりとほほ笑んで、
「それじゃお仕事の話は終わったから、ここからは私の個人的な用事の話」
言って、彼女は霧の向こう、明後日の方向に「おーい!」と呼び声を投げかけた。両手を口に当てた彼女の声が、遠くから山彦のような残響を伴って。
「ちょっと待っててね。すぐ来るから」
「来る? 待つ?」
「生まれてない子には形がないの。だから、私のこの形を使ってもらうけど、そこは許してね?」
「……ちょっと待って、何の――」
「あ、来た来た! こっちだよー!」
少女が霧の向こうに大きく手を振る。ドクン、と心臓が脈打つのが判った。
ここは、賽の河原。ここは、三途の川の畔。それは、親よりも先に死んだ子たちの――
「えへへ、良いな良いなぁ、桜ちゃん。羨ましいなー。お母さんに会える子、なかなかいないもんねぇ」
霧の向こうから、ゆらりと現れた人魂に、少女が笑いかける。
小さな人魂。ほの淡く、いまにも掻き消えてしまいそうなほど小さな灯。
まさか。まさか。
少女がやさしくその人魂を胸に抱く。小さな彼女に抱かれた光が、少女の胸の中に吸い込まれていく。一瞬、少女から表情がなくなって。
やがて、白い服の少女が私のほうを向く。
もじもじと、伏し目がちに。
まさか。あぁ、まさか。
「――お母さん」
声。
声が、
それまでの少女の声とは変わっていた。その声は聞き覚えのある声だった。確かに私の記憶に深く、深く刻まれた声。
それは。
あぁ、それは。
幼いころの、私の声と、同じ――
「さ、くら……?」
「お母さん」
目に涙を溜めた少女が、私に駆け寄って、しがみついてくる。
体温。暖かい。感触。一生懸命に、私の背に回される手の。強く、強く。私の身体を抱きしめる幼子の腕。腹の辺りに埋められた顔の。
あぁ……。
あぁ!
「桜……ッ!」
抱きしめる。私にしがみつく幼子を。抱きしめる。無我夢中で。
目の奥、ツンと熱くなる。涙。涙が、あぁ、流れる、流れる。墨色ではない、涙。
「ごめんね……! ごめん、ごめんね……! 桜、あぁ、本当に……!」
謝っていた。私は、また。謝っていた。謝りたかった。
本当に謝りたかったのは、私が、謝りたかったことは。
桜。桜。私は、アナタを――。
「……お母さん」
少女が。
私に抱き着いたまま、首を横に振る。何度も謝る私に、何度も、何度も首を、横に。
言葉はなかった。けれど。
けれど、判った。私には判った。少女が、桜が、私に伝えたいこと。
――謝らないで。
――お母さんは、悪くないから。
――だから、もう、謝らないで。
「…………うん」
泣きながら。また反射的に謝りそうになった自分を律して、私は、頷いて。
「……うん、うん、判ったよ…………もう、しないよ……」
私は少女の、桜の身体をぎゅっと強く、強く抱きしめて。抱きしめて。
そして、誓う。我が子に。生まれてくることもできなかった我が子の願いに。誓う。
もう謝らない、って。もう誤らない、って。
そうして、言葉もなく泣き続けて。少女の温もり、小さな身体、抱きしめ続けて――
…………そうして、寝室で目を覚ました。
◆
マッチを擦って、線香に火をともす。
墓石に向かって手を合わせ、夢の中の感触に思いをはせる。
あれだけ咲き誇っていた桜はすでに散り、命色に萌えあがる新緑が陽光を受けて輝いている。空は抜けるように青く、世界そのものを祝福しているかのように見えた。
私の寿命。あと半年で尽きる命の蝋燭。かつて今か今かと燃え尽きるのを待っていただけの寿命。無為に過ごすことはできない。私は心のうちで強く誓う。
まだ、私は生きている。生きて、この地に立っている。
私が生きている今日は、あの子が生きることのできなかった明日なんだ。
あの子の分まで生きよう。あの子が生きることができなかった分を、私が代わりに生きてあげよう。そうすることが、あの子の望みだから。そうすることで、あの子は報われるから。
ひゅう、と吹いた風が、どこかから流れてきた桜の花弁を吹き上げた。
どこまでも、どこまでも。空のかなたへ、運んでいくかのように。
順当に、正当に、正しい手順で阿求を救わんとする、よい作品だと思います。
阿求はいろいろものを記憶として残せる分、なくしたものの存在はより大きなものになるのかなあと想像しました。
あと、純粋な気持ちで作中みたいな行動をとれる瓔花は本当に福の神してますね。