霊夢其の一
博麗神社はいつになく賑わっていた。今日は正月でも祭事でもない。だというのに硬貨が落ちる音がひっきりなしに聞こえてくる。子気味良く賽銭箱が鳴り、そのあとに鈴の音と柏手が続く。硬貨だけではなく、ひらひらとお札が舞う様や里から担いできたと思しき米俵を奉納していく人の姿を霊夢は目撃していた。
またも賽銭の音が木霊する。しかし、あまり嬉しいと思えなかった。賽銭を投げ入れた男は機械のように精巧な二礼二拍手一礼をした後、踵を返して社務所に寄った。
「お守りを一つください」
「はい、どうぞ。神の御加護があらんことを」
せっかくの参拝者に仏頂面というわけにもいかないので霊夢は上品な笑みを携えて事務的に応対した。取り繕った笑みに感情はない、意思的に押し殺していた。
似合わないし、らしくもないのは自覚していたが、かと言って露骨に不機嫌な表情を浮かべるような真似はできなかった。なぜなら、参拝者があまりにも真摯にお祈りをしていたからだ。
神社の空間にはある熱気が漂っていた。それは霊夢にとっては好ましくないどんよりとしたものだった。空気に重量がある、飛ぶのも億劫だ。
そんな思いを隠して厄除け祈願のお守りを渡してやると、参拝者は礼を述べてから「これで世界の終わりも怖くない」と言った。
霊夢は心の中で毒づいた。こんなので恐怖がなくなるのなら、大して深刻な悩みじゃないではないかと。巫女としてふざけた了見である。だが熱心な信者に囲まれたことがないので、彼らの心情を汲めないのも無理はなかった。
参拝者たちは皆、いずれ訪れる世紀末を気にしていた。全貌は見えない、予兆もない、だが確かに存在するぼんやりとした終わりが眼前に迫ってきていると信じて疑わなかった。
人々はまず命蓮寺に行き、仏の救いを求めた。住職は平等に受け入れたが、それでも溢れる者や仏教そのものに猜疑心を抱く者もいた。仏教を見限った者たちは次に守矢神社で山の神様から施しを受けた。それでも不安を拭いきれない者たちが博麗神社の鳥居をくぐったのだ。彼らは一様に絶望の淵から染み出たようなじめじめした空気を纏い、それをためらうことなく蔓延させていた。痛みか、それとも死か、その先の世界か。一体何を恐れているのか、それすらわからないのが不可解で、蜘蛛の糸に縋る亡者のような参拝者に朝から対応していた霊夢は辟易していた。
「はあ」
男が背を向けたところでため息を一つ力なく吐いた。魂が抜け出たような気がしたが、再度鳴った鈴の音ではっとする。参拝者は絶え間なく入れ替わる。同じような思考回路だとしても別人であるからには平等に愛想を振りまかなくてはいけない。それは霊夢にしてみれば経験したことのない重労働であった。
今すぐ縁側に腰を下ろしてお茶でも啜りたい気分である。押し寄せる連中が妖怪や魔理沙と言った馴染みのメンツであれば迷いなくそうしていたはずだ。なぜできないのかと言えば、参拝者があまりにもか弱いからである。彼らは強者である博麗の巫女に縋っている。妖怪のあしらい方は十二分に心得ている霊夢ではあるが、己が強者である自覚くらいはあるらしくどうにも普通の、それも里の人間に対しては強く出れなかった。
霊夢は己の心情を隠すため場末の占い師のごとく胡散臭く振舞った。にこやかに頬を吊り上げ、とらえどころはないがどこか優しい言葉をかける。強者らしい立ち振舞いということで、知り合いの大妖怪を模してみたのだが、言動の一つ一つに不思議な説得力が生まれた。
客商売とはこんなにも面倒なものだったのか。霊夢は同じ境遇にあると思しき早苗のことを思い浮かべた。彼女ならこれを好機とみて、愚痴ひとつこぼさず布教を推し進めるに違いない。おそらく辛くもなんともないのだろう。
陽が沈んで霊夢はようやく一息付けた。夜は妖怪が神社の周りをうろつくため参拝者の足は止まる。寂しげな暗さがなんとも落ち着く。
大きく息を吸い込む。冷たい酸素が肺を抜けるのが爽快ですらあった。
貢物の白米を炊き、川魚の干物を炙ったのを夕餉とした。食後に渋めのお茶を淹れ、縁側で月を眺めながら啜った。
「はあ」
五臓六腑に染み入る。体内を流動する熱い液体の音が聞き取れるほどに静かだ。参拝者が立て続けに来たせいか、今日は妖精たちも見かけてない。狛犬のあうんは疲れた霊夢を労ってか、徒に声をかけないようにしていた。
霊夢は参拝者の思考を推憶してみた。世紀末と聞いてもピンとこなかった。例えばこの夜が永遠に続くとしたら、今後一切太陽が昇らないという事実を知ってしまったら、確かに恐ろしいかもしれない。でも違う、彼らの恐れは夜の暗がりに対して抱くものではなかった。もっと抽象的で、ぼんやりとした不安だ。考えるほど霊夢はうんざりした。
もう一つため息をついたところで、暗闇に紛れて魔理沙がやってきた。
魔理沙は現状を自分なりに分析しているようで、幻想郷に蔓延している世紀末が来るという噂についてこう述べた。
「カウントダウンが始まったんだよ。水面下で進行していたカウントが、何らかの方法で見えたんだ。占いとか、虫の知らせで。しかも砂時計みたいにぱっと見ではわからない曖昧なやつが。怖いだろ、カチッカチッていう音が聞こえてるのに、針と爆弾が見えないんだぜ。やれるのは祈ることと、不安を消すことだけだ」
「耳を塞げばいいじゃない」
「そうだ。そうしてきたはずだ。でも手遅れだよ。流行り病みたいなもんだ。皆感染者だ、眼を逸らせる段階はとうに過ぎた」
「……あんたもそうなの?」
「うん。でもさ、多分霊夢と同じ考えだと思うぜ。今日を後悔しないように、やりたいことをやる。どうせ死ぬなら派手に散ってやりたいじゃないか」
霊夢は魔理沙のこの刹那的な考えが大嫌いだった。若いくせにすでに人生について達観しているようで、まったくもって同意できなかった。ふざけんな、と言いたいのを堪えてこう聞いた。
「じゃ、今こんなとこでくすぶってないでさ、研究でもしたらどう?」
皮肉気味になってしまった霊夢に対して、魔理沙は「息抜きだよ。息抜き」と軽く答えた。
「なあ霊夢。私は輝くよ。でっかい花火を打ち上げて、空のどてっぱらに大穴を穿つ。霧雨魔理沙の大立ち回りを眼に焼き付けさせるんだ。お前も、見ていてくれよな」
まるで遺言のように、恥ずかしげもなくそう言った。思いをむやみにさらけ出すこと、それは魔理沙が忌み嫌っていたはずの行為だった。霊夢はなぜだか悲しくて、うつむいたまま「ああそう」と返すしかなかった。
その後もいくつか言葉を交わしたが、結局霊夢はもやもやを拭いきれないまま床に就いた。疲れたせいか熟睡できた。
次の日の朝、霊夢は新聞を投げ込んできたブン屋の声で目覚めた。逃げるように飛び立つ天狗に一つ罵声を飛ばし、眼をこすって新聞の一面記事を見た。
「終末時計完成」と大きく丸い文字で書かれていた。
スクラップ其の一 終末時計完成
紅魔館は霧の湖の島にある。周囲には霧が立ち込めているというのにその外装は目に毒なほど真っ赤で、遠目でも存在を確認できる。屋敷の名に恥じない堂々とした佇まいである。
この主張の激しい外装は主人であるレミリア・スカーレットの趣味だ。彼女は注目を浴びるのが好きで、流行りに乗るべく真っ先に世紀末を予言してみせた。
その結果が直径三メートルもある巨大な時計である。文字盤は透明で、中の複雑な機構が丸見えである。時計は高々と中庭に掲げられ、その針は十二時の手前で止まっている。一見壊れているようだが彼女曰く、この針が動き長針と短針が重なった瞬間に運命の日が訪れるそうだ。時は決して運命に逆らえないのだとも。
「私とパチェ、それに咲夜の能力をフル活用して仕上げたわ。どうだ、美しいでしょう。破滅の使者としては少し無機質な気がするけど、まあ丁度いいでしょ。デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの女神)という奴だよ」
パチュリーあたりから聞きかじったであろう単語を得意げに披露し、楽しそうに語ってみせた。運命を操る、魔女の占い、時間を操作する、これらの能力が揃ったうえで製作された時計である。パズルのピースがかみ合ったような説得力があった。
しかし、レミリアは運命の日の襲来を告げただけで、具体的な日時や内容は口にしてはいない。それを尋ねられたレミリアは子供を諭すようにこう答えた。
「可能性はいくつもあるからよ。明日空が落ちてくるかもしれないし、百年後氷河期が来るかもしれない。もしくは吸血鬼の大群が血液を啜り尽くしてしまうかもしれない、なんてね」
妹のフランドールが暴れ出して、この世界の目を潰してしまうかもしれない。
「……ないと思うけど、まあそうね。ありえなくはないわ。……だけど私は運命を変えたりしない。なぜだかわかるかしら」
レミリアは牙をむき出しにして聞いた。そして彼女は応答を待たずに、胸を張ってこう答えた。
「私は強いからよ。肉体もそうだけど、あるがままの運命を受け入れる胆力がある。それが最強の種族、吸血鬼なのよ」
レミリアにとって一番恐ろしい結末は何だろうか。
「なんで無視するの。カリスマ溢れてたでしょ今の、ねえ。……まあ、そうね、弱点を突かれるのが嫌ね。太陽とか雨とか」
吸血鬼の天敵は多い。だが彼女はその運命すら受け入れるというのだから、肝は据わっていると言えるだろう。
スクラップ其の二 酒の雨
豪雨が降り続き、世界が海に呑み込まれるという説は瞬く間に浸透した。原初の海にすべて帰依する、なんとも劇的かつ幻想的だ。もしも誰かが龍神の怒りを買い、竜宮の使いたちが癇癪を宥めるのに失敗した場合、幻想郷は未曾有の危機にさらされるだろう。竜宮の使いたちでも可能性を否定しきれなかった。龍神は世界を崩壊に導く大雨を呼んだという伝説もあり、伝え聞く限りでは幻想郷で一番の力を持っているという。その話を聞くと、伊吹萃香は豪胆に笑ってみせた。
「はっはっは! ああ別に意味はないよ、鬼は先の話聞くと笑うもんだからね」
茶目っ気はあるが、彼女は極悪かつ最強の種族と誉れ高い鬼である。いつもは姿を隠しているそうだが悪評は留まるところを知らない。とりわけ悪い噂には尾ひれがつく。以前より丸くなったそうだが、あまりにも恐れ多くて今でも天狗や河童は恐縮してしまう。萃香は霧状になり幻想郷を漂うか、今日のように天界で地上を俯瞰しながら酒を飲んでいることが多い。今は夜だが、本人曰く月見酒と洒落込むよりも、あえて見下ろすのが乙なのだそうだ。
飲み比べをしたい愚か者は夜に天界に行くと確率があがる。尤も、このご時世そんな酔狂な真似をする者が居るかは定かではない。里にある龍神像の眼がこれまでにない色に変わった時、咆哮と共に終末が空から降ってくるというのだから。
「そんな与太話信じないね。つまんないじゃん。そうだなぁ、雨じゃなくて酒がいいや。冷やね。酒の雨が降り続く。私はでかくなってそれを呑み続ける。幻想郷と飲み比べするんだ。皆呑まれて、下戸から順に倒れ伏していく。そして私ひとりが最後に残る。敗北した瞬間にこの世界が終わるんだ。面白いだろう」
萃香は自分が最後まで生き残ることを信じて疑わない。鬼らしい傲慢さがあるが、それでもなお敗北を認める潔さは持っていた。流石に幻想郷相手では分が悪いと踏んだのだろう。決して背を向けまいと立ちつくす、そんな名誉の死を望んでいた。
最後が来たら幸せなのだろうか。萃香の口ぶりではまるで、敗北を望んでいるように思える。
「負けるのは癪だね。でもさ、なんにでも寿命はあるじゃないか。年とったぐらいじゃ死なないけど、逆に言えば死んだら寿命だったってことなんだよ。それに関しては受け入れるね、私は。むしろ、鬼がもがき苦しんで悔しさを抱いて死ぬなんて潔くない。泥臭いのは好きだけど、それは脆い人間とかがあがくからいいんであってさ。妖怪連中がやれ死ぬのがやだとか言ってると情けねえなあって、なんだろなぁわかんねぇかなぁ」
遠くの虚空を見てそう言った。おもむろに萃香はひょうたんからとめどなく溢れる酒を盃に注ぎ、ぐいと一息で飲み干した。そしてもう一度なみなみと注ぐ。ゆらゆらと揺れる酒の水面には三日月が逆さに映っていた。
「さあて切り上げよう、酒が不味くなる。おい天狗、いっちょ付き合えや」
スクラップ其の三 大樹の墓標
酒が降り注ぐという珍妙な説はあまりにも荒唐無稽だと馬鹿にされたが、それでも信じた者は一定数いた。呑兵衛たちはこぞって萃香の説を推し、酒におぼれて死ぬなら本望だと笑っていた。初めこそくだらない与太話として広まったが、ある時酒の雨に関連する説が浮上した。
鬼は嘘をつかない。酒とはいかずとも、アルコールを含んだ雨が近い将来必ず降る。よしんば自然発生せずとも、鬼は嘘が嫌いであるから与太話を真実にするため何かしら仕掛けてくるに違いない。自身が持つひょうたんを天の川を生み出した瓜よろしく横に切り、酒を溢れ出させるだろう。有頂天から撒かれたアルコールは地面に浸透し、すべての植物の根を枯らすという。
この噂の出どころがどこかは不明。しかし、広まった以上可能性を否定するわけにはいかない。植物に詳しい風見幽香は向日葵の手入れをしながらこう言った。
「もし降ったら、そうね、十中八九枯れるわ。持って三日かしら」
では本当に実現するかもしれない。農作物がすべて枯れたのなら、ひ弱な人類は飢え死にするしかない。そうなれば妖怪も同様に破滅だ。また植物が死ぬと言うことは、自然の権化である妖精の存在ですら危うくなる。
「そんな説、私は大嫌いだけどね。人より先に植物が死ぬはずがないわ。完全に彼らの生命力を舐めてるわね。確かにアルコールの刺激は毒よ、だけどそれに耐えきれない子たちがいないわけではない。彼らは皆進化し、適応するのよ。水の中や荒れ果てた土地を好む子もいるわ。酒の中だって」
うちの子はすごいのよ、とご近所さんにでも触れ回るかのように幽香は熱弁をふるった。雑草魂という言葉があるように、植物は我々など到底及ばない生への執着を持っている。太陽の畑に一面咲き誇る向日葵も一見穏やかな形相を保っているが、実際は光に対して恐ろしく貪欲だ。
では、植物が枯れるという結末は迎えないのだろうか。
「そうね。こういう筋書きはどうかしら。清いアルコールの雨が降った。刺激を受け、志半ば倒れてしまう子もいた。だが生き残った者は驚くべき成長を遂げ、まるで水を得た魚のように生き生きとその足を延ばした。彼らは人間どもを呑み込み、すべてを養分に変える。私は皆に囲まれながら見ているの。最後に一本の大樹となり穏やかな終末が訪れるわ」
ならば大樹はさながら墓標だ。残虐さなら鬼にも引けを取らないと謂れもある幽香の説は、存外安らかなものであった。
真剣に語りきった幽香は、最後に含み笑いをしてから言った。
「となると一番の天敵は虫ね。共存しているけど同時に敵対もしている。人間どもの前に、虫たちと決着をつけなくちゃいけないわ。なんてね」
幽香なら虫たちを殲滅してしまいそうだ。
「そんなことしないわ。冬が来るだけだもの。知ってるかしら、冬に咲く花はそれは美しいのよ。シクラメンとか、スノードロップとか」
きっとこの大妖怪は冬をのんびりと見守るのだろう。彼女は孤独という感情を持ち合わせてはいない。春が来ないとわかってなお、雪に耐える花たちの傍に居て、ゆっくりと安らかに眠るのだ。
霊夢其の二
霊夢同様、東風谷早苗もまた現状に辟易していた。霊夢にはそれが意外だったようで、わけを尋ねると早苗はこう言った。
「ノストラダムスの大予言っていうの一時期流行りましたしね。1999年に人類が滅亡するってやつ。ハマったなぁ。私が小さい頃にテレビでやってて、よくわからないけど皆熱中したもんです」
「へえ、でも予言外れてるじゃない」
「あれはマスコミの戦略だったんです。テレビでやってる奇跡特集なんてほとんど嘘っぱちだって気づいたなぁ。予言とか占いとかも。一種のブームメントだったんです。ん、ムーブメント? まあいいや。兎も角、なんていうか冷めちゃって。皆騒いでるなあくらいにしか思えないんですよね」
外界での経験もあり、早苗も世紀末の輪に入れないでいた。最初はノストラダムスの予言同様に一過性のものだと思い、あえて俯瞰の立場をとっていたのだが、論争は一向に収まる気配がなかった。それどころか、影響力の強い各地の妖怪たちが各々の終末論を唱え始めたのでブームは加速しつつあった。守矢神社の信者たちはこぞって「奇跡を起こしてくれ」と嘆願しに来た。雨を降らせたり、逆に雲を消すくらいならできないでもない。しかし、明確な形がわからない以上どうしようもなかった。泣き縋る彼らに早苗ができるのは微笑みながら「大丈夫ですよ」と言うくらいで、連日連夜根拠のない同じ言葉をかけることが苦痛だった。
「勘弁してほしいですよ。熱心なのは結構なんですけど、なんかなぁ。もっとこうヒャッハー! みたいなのだといいのに。『北斗の拳』とか『マッドマックス2』みたいな。霊夢さん知ってます?」
「知らない」
早苗も胸の内側のモヤモヤを取り除けないでいた。普段なら布教のチャンスだと売り込むのだが、この件に関しては流行りに乗り遅れたような気がして、意固地になっているのもあった。一度逃した波を後追いするのは格好悪いと思ってしまったのだ。
だから早くこの波が去ってほしかった。困ったのは誰も正確な時期を告げないことである。まるで今にも雨が降りそうな分厚い雲の下で、傘を持たずに何日も立ち続けるような心持であった。曇り空の晴れ間を探していたところ、思いは違うが霊夢という同士を発見したのだ。
二人はすぐ行動に移した。いろんなことを地道に時には大胆にやってみた。
様々な催しの中で一番盛況だったのは里で神楽舞を踊ることだった。それだけなら普通だが、彼女たちの服装は布地がいつもより少なかった。露骨なのは流石に理性が咎めたので局部や乳房を想起させる程度に留めた。だが、それでも巫女というにはあまりにも破廉恥な格好である。
神楽舞は一瞬で注目の的になった。
「白昼堂々けしからん! 恥を知れ!」
「いい……」
「いいぞー! もっと脱げー」
「守矢も落ちたものだ」
「あーあ、とうとうおかしくなったか」
「私も真似しようかな……やっぱやめよ」
「引っ込めー」
「あとで触らせてくれ!」
「あらまあ……」
「神職者がありえん!」
「いやー古来から神職というのは好色と切り離せないもので――」
やらしい視線を隠す者、囃し立てる者、嘲笑する者、大声で罵る者。様々な眼が顔を赤らめながら舞う二人の巫女に釘付けだった。その時ばかりは、虚ろな瞳の表面に熱が浮かび上がった。熱狂と喧騒が重苦しい窮屈な空気をかき消した。
恥ずかしさはもちろんあった。だが、少なくともこれくらいはしないと注目を浴びることは叶わなかったのだ。何をしても辿り着く先は世紀末主義だった。世紀末は来ないと説けば現実を受け入れられないのかと憐れみを向けられ、花火を打ち上げれば惑星爆発のメタファーと捉えられ、晴天の空に虹をかければ邪悪な龍が出現したという噂が立った。博麗ランドを再建しようという案も出たが、以前失敗したという苦い経験と大勢の建築家や技術者が必要という条件も重なり、計画は頓挫した。うんざりしていたところ、苦し紛れに考えついた神楽舞は単純ながら効果てきめんであった。
きっと若くして水商売をしている女性はこんな心理状態なのだろう、と半ばやけくそに舞った。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、あの嫌な空気よりはマシだった。
この眼が欲しかった。この空気を吸いたかった。霊夢と早苗はそれなりに満足していた。
一仕事終えて、羞恥を埋めるように二人は無言でお互いをたたえ合った。
好評につき、しばらくは舞を続けた。だが、色欲あるいは嫌悪に訴えかけるこのやり方もすぐに終末論に呑み込まれた。二人の行為は、幼い心が恐怖に耐えきれず狂ってしまった結果であると認識された。いままでさんざら罵声を浴びせた者も手の平を返したように優しい言葉をかけるようになった。中には本気で身を案じ、医者に行くよう勧めたり、金銭を恵んだりする者もいた。
「なんでよ……」
一番人気の天狗の新聞を読んで霊夢は言った。ようやくあの神楽舞が取り上げられたのだ。見出しは「巫女二人、狂乱の舞い!」である。錯乱の原因や、そこに至る精神状態について八意永琳へのインタビュー内容も交えてつぶさに書かれていた。まだ淫乱と書かれた方が良かったとさえ思った。ちなみに本人たちへの取材はない。だが、霊夢にはもう執筆者の大天狗をとっちめに行く元気はなかった。
「やめますか。これ以上続けても無意味ですよ……」
「そうね」
うつむきながら早苗は申し訳なさそうに続けた。
「私、神奈子様と諏訪子様に本気で心配されちゃいました。だから、もう」
「ええ、わかったわ」
神社へと戻っていく早苗を見つめながら、霊夢は新聞を破り捨てた。
スクラップ其の四 広まるウィルス
虫が幻想郷を破滅させる未来が現実味を帯びてきた。というのも、外の世界では人間を一番殺している生き物はちっぽけな蚊だという。蚊は死の運び屋だ。彼らは圧倒的な繁殖力で数を増やし、黒雲のように空を覆い尽くす。そして様々な病原微生物を媒介するのだ。
虫たちに白羽の矢が突き刺さった。殺虫スプレーが飛ぶように売れ、里中にばらまかれていた。蚊取り線香の匂いが立ち込める中、リグルナイトバグは必死に弁明していた。
「あの子たちはそんなことしないよ! ちょっとご飯を食べてるだけ。か弱いんだから、世紀末に備えて守ってあげなくちゃ!」
無自覚とは恐ろしい。彼女が日々戯れている虫たちがどれほど危険なのか、まったく理解していないようだ。むしろ理解していた場合、蟲の女王たる彼女の手によって幻想郷が支配されてしまう可能性もある。十分に活用できないことに感謝しなければならない。
リグルの抵抗むなしく、里は依然もうもうと煙が立っている。鰻屋や蕎麦屋の店主は冗談交じりに「これじゃ商売あがったりだ」と言っているが、彼らもまた殺虫剤や蚊取り線香を常備していた。
この噂の内容に信憑性があるのか確認すべく、記者たちによる聞き込み調査が日夜行われている。
同じく虫の仲間で、病原菌の類に詳しいヤマメという地底の妖怪はコーヒーを啜りながらこう言った。
「一番恐ろしいのは何てったってウィルスだよー。阿鼻叫喚の地獄絵図だね。運び屋が使者を連れてくるのさ。これはヤマメちゃんのお茶目なシャレじゃないよ、土蜘蛛が本気で言うんだから間違いない。どれぐらい間違いないかというと、コーヒーを呑んだら酔っ払うくらい間違いない」
だいぶ酔いどれのようだが呂律はまわっていた。酔うと饒舌になるらしい。地底のアイドルを自称する彼女だが、最近はコーヒー浸りの生活であった。泥酔はある種の特効薬だ。悟りの境地に在る者の脳波に似た穏やかさに苦痛を伴うが至ることができる。毒と知ってなお飲むのを止めないのは、毒を持って毒を制する事実を本能的に知っているからだ。
ヤマメもまた毒によって生きている妖怪であった。
「笑わないとね。だってさぁ、皆、私の笑顔が見たいんだよ、頑張んなきゃ。だけどさぁ、きついよー。毎日毎日じめーってしてさ、酒も飲めないって奴もいるんだよ。信じられないよね。喧嘩する元気がないとか、アンタそれでも鬼かっつーの。勇儀が怒ってたよ、鬼ならもっとしゃんとしろってね。喝入れたくらいで治ったらいいんだけどね、ずっとうつむいてんだって。すみませんすみませんって謝んだと、でさとうとう勇儀の奴キレちゃって、ビンタしたら顔が飛んでっちゃうの、飛頭蛮かっての。あはははは」
とりあえず、荒れてる鬼には近づかないのが吉である。きっとその鬼も耐えられないのだろう。笑いたいのに笑えない、それは拷問に等しい。
「首もげたそいつが私んとこ来てさ、糸くれって言うの。蜘蛛の糸は頑丈だからね、もう取れないように針で縫ってた。あれ何の話だっけ」
彼女は酔いつぶれることで恐怖を紛らわしている。ファンが見たらがっかりしそうな裏側事情であるが、それを隠す余裕もないらしく、相当疲弊していることは窺い知れる。この様子では、病原微生物やそれらがもたらす影響について詳しい説明を求めるのは厳しそうだ。
「あ、思い出した。虫が媒介する話だけど、正直さ、虫もウィルスも火に弱いんだよね。まあ妖怪も大概苦手だよね。火ぃ吹く奴も結構いるけど。焼かれたら終わりだよ、基本的に。私はちょっとなら耐えられるけど、でもアレとか、無理だね。核の炎とか、前地霊殿とこのカラスが弄ってるの見たけど、あれ喰らったら丸焼きだね。私はアレが暴走して焦土と化すと睨んでるよ、あはは」
ヤタガラスの炎で熱消毒が行われる、シャレにならないくらい恐ろしい話である。
スクラップ其の五 燃ゆる大地
ヤマメの発言と、八意永琳という心強い薬剤師の存在によりウィルスによる滅亡論は完全に消滅した。永琳はどんな未知のウィルスでもたちどころに治療するワクチンを開発してみせると豪語した。「副作用でみんな死ぬかもね」と茶目っ気たっぷりに仄めかしてはいたが、おそらく冗談である。永琳は不老不死になる薬さえ作れる天才だ。だがなんでも作るわけではない。彼女の頭の中には確固たる基準があり、それは閻魔の裁判結果のごとく揺るがない。豊かな経験と卓越した頭脳に裏打ちされた常人には理解の及ばない信念である。どこで線引きされるかはわからないが、薬剤の調合を生業とする彼女にとって、ウィルスはたまたまそのラインに触れるものだったのだ。
世紀末主義者が跋扈する現状にて、初めて明確にウィルスによる滅亡論は否定された。ちなみに、永琳の発言は非常に影響力が強く、本人も自覚があるため他の説について言及することはなかった。同様に知恵と信用がある妖怪(天魔や八雲など)はこぞって口をつぐんでいた。
また、ヤマメの話していた霊烏路空がヤタガラスの力に耐えきれず暴走するという説は、飼い主のさとりが否定していた。
「うちの子がそんな馬鹿に見えますか。カラスはとても賢いし、身の丈を弁えているものです。あなたならおわかりいただけると思うのですが、ああそうですか。傲慢ですね。かつ天邪鬼、反骨精神と言った方がいいでしょうか。独りよがりだと新聞なんて売れないですよ。まあ兎も角、核融合炉の件については山の神様にでも聞くとよろしいでしょう」
実際に山の神様たちの見解もさとりと一致していた。曰く核融合は核分裂に比べクリーンで安全なエネルギー産生を可能にするのだとか。しかし、放射能そのものが全く出ないわけではないのだから、一定のリスクはあるはずだ。そのことを突いても、万が一の場合手は打ってあるから問題ないの一点張りであった。
各勢力のトップ二人の声明である。核による滅亡の未来もまた鳴りを潜めた。
しかし、一人だけいまだにこの説に近いものを推している少女が居た。蓬莱の人の形、藤原妹紅であった。
「いいか、幻想郷成立よりも、人類創世よりも前、歴史なんて概念がなかった大昔、この星は炎に包まれていたんだ。歴史に詳しい慧音がそう言っていたんだから間違いない。そこから水ができて、植物ができて、歴史が始まった。じゃあ終わりはその逆に決まってる。大噴火が起きて、最後はまた炎に包まれる。これだよ。それに人は、火と在る者だ。最後まで火と寄り添うのが自然ってもんだ、これは誰かの受け売りだけどね。母なる海に還るなんて説がまかり通るのはおかしいってことがわかってくれた?」
煙草をふかしながらそう語る。暇を持て余して考えついたとのことだ。確かに筋は通っていた。龍脈が何らかの原因で乱れたりしたら今は沈黙している火山が活動を再開するかもしれない。マグマが噴き上がった時点で打つ手立てはない。辛うじてマグマから逃れても、安息の一呼吸で咽が焼け、死ぬまで続く苦痛に苛まれるだろう。たとえ炎を使役できたとて無駄だ。炎は膨張し、使役者以外のすべてを呑み込むのだから。
「ま、実際はどうなるか、見ないとわからないけど」
どのような未来であっても彼女たち蓬莱人は確実に世紀末の見届け人になる。それはとても辛いことのように思えるのだが、当の妹紅はけらけらと笑っていた。
「怖くはないね。正直、蚊帳の外って感じ。だからこんな説を考えてたんだけど。まあ、実際そうなったら炎の中で座禅でも組むつもりだよ、なんちゃって」
空が落ちてきたら?
「天の川を遊泳する。何年かかるだろうか」
槍が降ってきたら?
「痛いのはやだな。輝夜を盾にする」
この星が爆発して消え去ったら?
「宇宙ねぇ。鳳凰座まで行ってみようかな。鳳凰も多分巣に逃げ帰ってるでしょ」
妹紅はどんな環境であれ適応してしまう。彼女の乾いた笑みは恐怖をかき消す虚勢ではなく、恐怖すら覚えない己への自嘲だった。
スクラップ其の六 宗教戦争勃発!?
妹紅の説はまったく浸透しなかった。彼女は渦中に居ないのだから当然ともいえる。現在台頭しているのは大規模な宗教戦争が起こるという説だ。一神教の熱心な信者が爆発的に増え、他の宗教を消し去るべく働きかけるというのだ。幻想郷の宗教事象はまさに混沌と言った具合で、宗教の統一など世迷いごとのように思えるが、外の世界の事情にもある程度詳しい宇佐見菫子はこう語った。
「まあねーありえない話じゃないと思うけどね。まぁ宗教が無くなれば七割戦争が減るっていうくらいだし。一神教と言えば、ここにはキリスト教がないわね。ドラキュラとかはいるのに。変ね。あ、イスラムもないや」
それらが危険だということだろうか。
「いやそうじゃないけどさ。変なのはどの宗派にもいるし。たぶん。宗教がらみのヤバい事件は日常茶飯事だしね、まだ幻想入りしてないみたいだけど。記憶に新しいからかな。私はあんま詳しく知らないけど毒ガスばら撒かれるのは何かやだなぁ。もうちょっと大災害とかのほうが幻想郷らしくていいかも」
他人事のように喋るが、菫子は外の世界が本来の住所であるため危機感は薄いのも仕方ない。
お気に入りの観光地が潰れる程度の感覚でしかないのだろう。
「そんなことない! 失礼な天狗ね。そりゃ確かに危機感は薄いかもしれないけどさぁ、私だってこうやって協力してるわけじゃん。最近はちゃんと変な物入れないように意識してるしぃ」
髪の毛をくるくる弄りながら自分の無害さをアピールするように言った。過去に事例はあるが今更彼女一人の存在で幻想郷そのものが脅かされることもないだろう。監視の目も十分光っているし、何より博麗が許しているのだから責め立てるつもりはない。
問題は過激派宗教団体が幻想入りするかどうかということである。
「それに関しては何とも。そう簡単にはこっちに来ないと思うけど。ていうか変な奴らが蔓延ってるから外の世界は腐ってるのよ! もっとおおらかになれないもんかねぇ。外がおかしい限りこっちは大丈夫よ」
こちらも大概変人ばかりではあるが、菫子がそこまで言うとは外は随分恐ろしいところなのだろう。もし結界が緩んでそれらが流れ込んできたとしたら、どうなってしまうのか、想像もつかない。
「まあ暴徒とか来てもレイムっちとかが何とかするんじゃない?」
菫子はまた他人事のように言ったが、博麗を頼るしかないのもまた事実である。自衛手段を持っておくに越したことはない。
「そうねぇ自衛は大事ね。うん。特にここには法律とかもないし、一応あるんだっけ? でも結局は自己責任ってやつよ。弱肉強食、古臭いけど理にかなったルールね」
霊夢其の三
霊夢は行き場のない苛立ちを抱えて、毎日押し寄せる参拝者に対応し続けた。
守矢神社は大層儲かっているようで、あれ以来早苗は忙殺されていた。信者は力の誇示が見たかったのだ。超人の証を示すため、一瞬だけ雨を降らせるなどの小さな奇跡を起こし続けた。それだけで信者は安心できた。信仰はかつてないほど高まり、次第に早苗は臆病風に吹かれるように、世紀末主義に傾倒していった。膨れ上がった恐れを匿うために布教に精を出し、自ら忙殺のループへと飛び込んだのだ。
新聞記事からそのことを知った霊夢は失望すらしなかった。人の意見や考えなんてコロコロ変わる。霊夢はそんなものだ、と無常を噛み締めた。
疲れを癒すために酒を煽った。貢物のウイスキーを適当に炭酸で割ってぐびりと飲み干す。胃が熱くなる時だけ、霊夢の思考は静寂に落ちる。夜風が心地よい。あと何杯か飲めばたちまち酔っ払いの完成だ。しかし、のんだくれになるのはどうにも負けなような気がして、二杯目を注げなかった。
酔いで誤魔化す。お守りに縋るのと何が違うというのか、まるで彼らと同じではないか。顔も紅潮しないうちに霊夢はそのまま床に就いた。たった一杯とは言え、アルコールが入ったおかげで睡魔はすぐに訪れた。
昼は笑顔を振りまき、夜に睡眠薬代わりの一杯を飲む。そんな生活に嫌気がさした霊夢は結界管理の名目で神社を一日だけ閉めた。朝から来ていた参拝者たちは不平不満を口にしたが、結局は賽銭だけ放り込んで帰った。
厄介払いした霊夢は大結界の元に来ていた。
博麗大結界は物理的な障壁ではないため常人には視認できないが、霊夢や一部の力の強い陰陽師なら存在を知覚できるし、大妖怪や一部の特殊な術を使う者はすり抜けることも可能だ。現にマミゾウや青娥などはいまだに外界と行き来しているという。
霊夢は結界に触れた。
途端に自分が薄氷の上に立っているような気がして、恐ろしくなった。釘を打ち込むように小さな穴をあければ、外の世界という実態が押し寄せる津波のようにあられもなくなだれ込み、圧に耐えられなった結界はたちまち崩壊するのではないか。霊夢はそう思った。
もちろん、結界はそこまで脆くはない。自己修復機能もあるし、八雲もいる。何より大妖怪ですら潜り抜けるのがやっとの結界を壊すことは容易ではない。ハンマーで叩けば砕けるダイヤモンドとは違い、流動する水のような不安定さこそ最も強固なのだ。概念結界とはそう言うものである。
霊夢は結界の強固さを理解していた。だが、ついほつれを探してしまう。
「ないかな。いつもは、この辺とか、あ」
霊夢はほつれを見つけた。巫女の仕事をまっとうするのなら塞がなければならない。
だが霊夢は、その結界ほつれをさらに緩め始めた。
縫い付けられた糸を一本ずつ引き抜くような感覚、何度か繰り返すと腕が通るほどの小さな穴ができた。
霊夢はその穴をさらに拡げる。大気が揺れる。手がチリチリしてきた。
「私が、終わらせてやる」
うんざりだ。何もかも。叫びも、嘆きも、賛美も聞きたくない。憐れみを向けてくる奴は死ね。達観したように笑う奴らも大嫌いだ。そして何より、受け入れられない自分に腹が立つ。
異変だ、まごうことなき大異変。皆おかしくなったのだ。ならば終わらせるのが博麗の役割だ。
人ひとり通れるくらいになったところで紫が来た。彼女はにこりと悲しそうに微笑んで、我が子を見守るかのように佇んでいた。
「紫、私気づいたの。こうすればいいんだって」
紫は何も答えなかった。ただ、じっと穴ではなく霊夢の顔を見据えていた。「私は最後まで見届ける」と暗に告げていた。
霊夢は手に痺れを感じた。痛みはあるが、熱はない。
雲がうねり、強い風が吹いた。その風が凪いだかと思えば、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
雨に濡れながらかつての同士である早苗が近くまで飛んできて、ぴたりと空中で静止した。彼女は近づくべきか否か戸惑っていた。霊夢の奇行を止めようと思ったのだが、傍に居る賢者が動く様子を見せないのでおろおろとするしかなかった。
「私が終焉を呼び込んでやる。破滅の神に転生できるかしら」
大地がひび割れ、建物は倒壊した。妖怪や仙人たちが雨に逆らうように空を見上げた。それだけだ。誰も、何もしなかった。
穴の径は優に六尺を越えた。空間がぐにゃりと歪んだ。傍観者たちは「亜空間に呑み込まれる」と思った。さりとて取り乱すこともなく、黙って見つめ続けた。
とても静かだった。
穴は徐々に拡がる。こじ開けられた入口から名もなき使者が崩壊を引き連れてやってくる、うねる大気がそれを予感させた。
空を見上げた者すべてが最後を悟った。そしてそれは霊夢も同じだった。
ここで霊夢の手がだらりと垂れた。
「……てよ……止めてよ!」
霊夢は喉の奥からありったけを絞り出すように声を張り上げた。そこまでしてようやく紫が動いた。戸惑いながら霊夢に近づき、彼女をぎゅっと抱き寄せた。涙をこらえて訴えかける霊夢に、どうしてよいかわからなかったから、耳元で宥めるように言葉をかけた。
「大丈夫、私は傍に居る。だから、泣いてもいいわ」
違う、慈愛なんていらない。怒れよ。憐れむな。ふざけんな、ふざけんな。
霊夢は賢者の胸の中で泣いた。咆哮のような叫びは雨にかき消されて、誰の耳にも入らなかった。
結界の崩壊は止まった。
スクラップ其の七 世紀末を泳ぐ船
天邪鬼こと正邪は世紀末など来ないと嘯いた。彼女は浮かび上がる説を悉く否定していたのだが、有力説がない現状でとうとう世紀末そのものを否定した。天邪鬼の否定、それすなわち認定に他ならない。現状の終末論は結論は出ているが、その過程がどれもしっくりこない。数学者がひたすら未知の公式に挑んでいるような状態である。証明は不可能だと声高らかに訴える者はなかった。
キーワードは自己防衛である。過程がわからない以上、身を守る手段は自己責任で確保する必要があった。もともと強い妖怪はさらに力を蓄え、里に住まう人間たちも同様に生き抜く手段を探り始めた。ある者は体力をつけ、最後に支配するのは暴力だと説いた。またある者は食料こそ生き残るための財産だと信じ、蓄えたそれを隠す頑強な蔵を建てた。
無論、金も力も持たない者は依然おり、彼らは宗教に頼るしかなかった。見かねた命蓮寺の住職はノアの箱舟に倣い巨大な船を造るという一大プロジェクトを掲げた。
船は希望を乗せて飛ぶのだという。ノアの箱舟とは違い、誰一人落とすことなく飛んでみせると聖白蓮は豪語した。初めこそ協力者も得られず雲行きは怪しかったが、なんと対立していたはずの豪族、豊聡耳神子が指揮者として名乗りを挙げたのだ。傲慢な態度や思想の不一致から両者は衝突し、三日にわたる弾幕ごっこが行われた。しかし最終的には弱者の救済という共通の目的のもとに一時休戦という形で和解した。神子の統率力はすさまじく、持ち前のカリスマを遺憾なく発揮していた。協力者も大勢集い、今や船は多くの弱者の心の寄り何処となっていた。
完成はまだ当分先であるが、神子はこう語った。
「必要なのは依り代だ。この船を造る事業に参加することで彼らは安寧を得ている。完成を急ぐと制御が難しいんだ。あの船は力の集合体なのだよ。だからこそ船頭が必要だ、強大な力を暴走させないために私みたいなリーダーが必要なんだ。聖のやつはそこがわかってないらしい」
白蓮はこう語る。
「希望とは大きく、そして重い。一身に背負ってもびくともしない船を造りたい。それには協力が必要不可欠です。神子はそこんところがどうも傲慢でいけない。いつ寝首を掻かれるかわかったもんじゃないというのに。頭に頼りきりではいけない、自分と他者を思いやれる、すなわち慈悲を育むこともこのプロジェクトの目標なのです」
やはり多少の軋みはあるが、目的そのものは同じである。
勿論このプロジェクトに対して「船など狂信者の現実逃避でしかない」と難色を示す者もいた。確かに世紀末が来る以上、空を飛ぶシェルターができたところでどうしようもない可能性はある。様々な事態に備えて、食料の備蓄や医療器材の搬入等も行っているそうだが、不安はぬぐいきれないのが現状だろう。彼女らもとうとう確実な生存を保証するとは断言しなかった。裏を返せば、世紀末を悟っているから断言できないのだとも取れる。時が来たら、希望を抱いて安らかに逝けるよう救済を施しているだけなのかもしれない。しかし、神子が言った通り、船が依り代になっているのもまた事実である。実際に作業をしていた人々は皆生き生きとしていたのだ。
いずれにせよこれからの動向を追っていきたい。
霊夢其の四
霊夢が結界に手をかけてから三日が過ぎた。幻想郷の根底すら揺るがす行為だというのにお咎めは一切なく、霊夢はただ一人自己嫌悪に陥っていた。
目覚めたのは昼過ぎ、布団に入っているがあの後の記憶はほとんどなかった。霊夢はいつの間にか眠りについていた。起きてから鏡を見ると涙の痕が残っていた。いつから泣いていたのか定かではない。悪夢でも見たか、はたまた紫に抱きしめられた時からずっと泣いていたのかもしれない。
霊夢は鏡に映る自分を罵倒した。
「情けない顔ね」
鏡面世界の霊夢もそれに同調して口を動かした。己を責めたところで空虚さしか残らない。昨日の一件が世間に影響を及ぼしたかと言うと、何も変わってない。精々、巫女が狂ったと騒がれて終わりだろう。少女の青臭い慟哭はいとも容易く世紀末の胃に落ちて消える。
「馬鹿みたい」
狂気に酔っていた自分がいた。どうせ狂えやしないのに。悪に落ちれば救われると信じてしまった。何の確証もないのに。
またも自己嫌悪に陥りたくなる。慰めの言い訳をつい探してしまう。しかし、冷静さを取り戻しつつある霊夢の心はそれを許さなかった。己が可哀そうだと口にして回る連中は、公衆の面前で自慰をしているに等しい。それの良し悪しは兎も角、情けないと思ってしまうのだ。自分を悲劇のヒロインに仕立て上げられない、ある種天邪鬼的な思考回路をしていた。今まで窮地に陥ることがほとんどなかったし、おそらく魔理沙のひねくれが伝播したのもある。
「ああ、そうか」
冷静になってわかったことが一つだけあった。
霊夢は世紀末主義から逃げていた。ただ眼を瞑ってがむしゃらに。だが奴らはついてきた。存在を仄めかしながらも巧妙に実態を隠して忍び寄ってきた。
要は怯えていた。実態が見えないのが怖くて、恐ろしくて、逃げ出したかったのだ。窮地に自ら走っていくなんてあまりにも滑稽だ。気づかないうちに悲劇のヒロインを演じていたのかもしれない。
もう怯えはなかった。
「私がやればいいんだ。どんな奴でもとっちめて、ボコボコにしてやる。なんだ、いつもと何も変わらないじゃない」
異変解決と同じだ。のんびり待って、ドンと構えて、世紀末って奴がちょっと姿を見せたら颯爽と登場すればいい。
その日まで、力を蓄えよう。面倒だけど修行でもしてみようかな、蔵の由緒正しそうな本を漁ってみるのもいいな、ちょっとくらい参拝客にサービスしてやろうか、清めの塩でもばら撒けばいいかな。よく考えるとあいつら金づるだな。世紀末なんて大したことないな、自分がいるんだから、そう思った。
すると不思議と力がみなぎってきた。
霊夢は固く拳を握った。閉じこもるのはもうやめた。霊夢は外に出て、空気を目一杯吸い込んだ。換気をしたつもりだった。
決意新たに空を仰ぐと、黒い影が一直線に突っ込んできた。
箒に跨った魔理沙だった。彼女は地に降り立ち、帽子の上から頭を掻きつつ言った。
「正直、とうとういかれちまったかって思ってな、見限るつもりだったんだけど、そのなんていうかな。あー、私はどうやら熱に浮かされていたらしいんだなどうも。風邪ひくと弱気になるって言うしな。……やっとわかったよ。もうやめた、どこまでも足掻くことにする」
魔理沙は昨日の霊夢が起こした一連の騒動を最初から傍観していた。初めから諦めていた自分に声をかける権利はない。ただ冷笑しニヒリズムに浸るのがお似合いだとその時は思った。どうせ人間は儚いのだからと。
だが霊夢が必死にあがく様を見て、一度は放棄した選択肢を拾い上げた。彼女もまた悩み、苦しみ、最後には戦うことを選んだのだ。
にいと不敵に笑った魔理沙はミニ八卦炉を空へと構えた。
「こいつは狼煙だ!」
晴れやかな空に猛々しい轟音が響き渡った。恥を恐れぬ巨大なレーザーが空に大穴を開けた。
「誰も見ちゃいないわ」
うつむく人々の眼に映るのは己の足元だけだ。突発的な、ましてや一発だけの打ち上げ花火など見る者はない。
だが、霊夢の心には穏やかな炎が灯っていた。
希望の狼煙は静かに上がった。袂に集まったのは今は二人。それも年端も行かない少女だ、されども精鋭に違いなかった。
社説
『現在跋扈している様々な終末論であるが、どれも信憑性に欠けるものばかりである。しかし、重要なのはそこではなく自己の意思と覚悟である。我々は氾濫する説の中から最も自分が信じるに値するものを選び出し、組み合わせて己が主張を形成しなけらばならない。ただ目の前を泳ぐ噂を追いかけ、流されるだけでは本質を見失う。辿り着く先が同じだとすれば、それまでの道程で柔軟に主張を変え、適応する覚悟が必要になる。そのためには新鮮な情報を欠かさず読むべきなのだ。文々。新聞では各地に広まる噂の数々を平等に取り扱うことをモットーとして掲げている。これからも公平なる記事を迅速に届けていくつもりである。』
「こんな感じでいいか」
私は筆を置いて大きく伸びをした。部屋に籠りきりで息が詰まりそうになったので、煙草でも吹かそうと思い、コートを羽織って外に出た。
山の情景はすっかり冬に向けて身支度を整えたようだった。つい先日まで紅葉していた木々は化粧を落としたかのように散り、わずかに残った葉も北風に逆らって必死に震えていた。吐く息は白く、吸う空気は清く、茹だった私の頭を冷やしてくれた。
咥えた煙草に火をつけようと思い、ポケットをまさぐったがライターがなかった。普段あまり吸わないものだから常備してないのだ。ビールの空き瓶と没記事で溢れかえった部屋の中を探すのも面倒だなと思っていると、犬走椛がマッチを渡してきた。彼女は近くで休憩していたようで、自慢の千里眼で私を見ていたらしかった。
「良ければどうぞ。似合わないですね、煙草」
それは結構、煙草が似合うのはくたびれたおっさんか、裏に通じた悪役美女と相場は決まっている。うら若き乙女には不相応だ。
マッチをこすって火をつけた。煙草に火を移すと、先端からゆらゆらと煙が立った。
「社説ですか、さっき書いてたの。相変わらず飄々としているというか、主張をぼやかしているというか」
「うっさい、覗き魔。いいのよあれで」
「覗き魔って、文さんに言われたくないですけどね」
社説など、このくらいで丁度いいのだ。反感を買うような真似は賢くない。もし主張をするのなら本にしたためるほうがよろしい。新聞という媒体は情報の公平さと新鮮さを売りにしているのでふさわしくない。というのは建前で、私は情報の力を侮っていないから迂闊に書けないというのが本音だ。ペンは剣よりも強しなんて言葉もあるほどで本気を出せばいくらでも事実を捻じ曲げられる。そんな強大な武器を当たり前のように振りかざしている大天狗どもは恥を知れといつも思っているし、軽蔑すらしている。だが悲しいかな、売り上げが権力に直結しているのも事実だ。虱のように絡みつく権力、そいつらが支配するジャーナリズムに価値はない。だから私はあたかも俯瞰しているような記事に留めておくのだ。
それに、一つの説に肩入れしたくない個人的な理由がある。否、一つの説というよりは――
「しかし、残念でしたね。大スクープだったでしょうに」
椛はにやにやしながら煽るように言った。今日はそれを言いに来たらしかった。私が悔しがるとでも思ったのだろうか。
「確かに、そうね」
八雲が動き、霊夢が起こした一連の奇行は歴史の闇に隠された。言うならば八雲は私的な感情で霊夢を守ったのであり、不祥事に対して目を瞑ったとも捉えられかねないが、そこに関しては流石というべきか様々な理屈をこねたらしい。どのようなやり取りがなされたのか定かではないが、強情なお上がはねのけなかったということは何かしらの裏取引が行われているはずだ。しかし、詮索しようにも仕方がない。八雲は秘密主義だから、決して己の心情や動向を悟られまいと隠蔽する。いざとなればあの薄気味悪いスキマから出てくるだろうが、いざという時が来ないように必死に電卓を弾いているに違いない。
私としては霊夢の奇行は記事にしたくないのが本音だったので、禁止令が下されたのはむしろありがたかった。
「ま、『風が立った、生きようと試みなければならない』と言ったところでしょうかね」
「はあ、それはまた」
椛はキョトンとしていた。単細胞の犬畜生にはわかるまい、詩の引用だバーカバーカ。
煙をわざと椛の方向に吐いたが、風のせいでこちらに流れてきた。椛はまたもにやにやしていた。だから馬鹿なんだ哨戒というのは。どうやら私の能力を忘れているらしい。わざとだと気づかないのだろうか。
現状は向かい風だ。茫然と立ちすくむか、もしくは割り切って方向転換し後退するのが賢いように思える。だが、ゆっくりと突き進む愚者だっている。私はこの眼に見た。希望の船なんかよりずっと強い輝きを放つ者を。
時が来れば、彼女らは動くだろう。世紀末に終止符を打つべく浮世に舞う。その時私は武器を取り、一陣の追い風を吹かせるのだ。渇きと怒りを筆先に詰め込んで、火炎を焚きつけ煽り、脳天をぶち抜く勢いで叩きつけてやる。
それまでは俯瞰したふりをして流れに身を任せようではないか。
博麗神社はいつになく賑わっていた。今日は正月でも祭事でもない。だというのに硬貨が落ちる音がひっきりなしに聞こえてくる。子気味良く賽銭箱が鳴り、そのあとに鈴の音と柏手が続く。硬貨だけではなく、ひらひらとお札が舞う様や里から担いできたと思しき米俵を奉納していく人の姿を霊夢は目撃していた。
またも賽銭の音が木霊する。しかし、あまり嬉しいと思えなかった。賽銭を投げ入れた男は機械のように精巧な二礼二拍手一礼をした後、踵を返して社務所に寄った。
「お守りを一つください」
「はい、どうぞ。神の御加護があらんことを」
せっかくの参拝者に仏頂面というわけにもいかないので霊夢は上品な笑みを携えて事務的に応対した。取り繕った笑みに感情はない、意思的に押し殺していた。
似合わないし、らしくもないのは自覚していたが、かと言って露骨に不機嫌な表情を浮かべるような真似はできなかった。なぜなら、参拝者があまりにも真摯にお祈りをしていたからだ。
神社の空間にはある熱気が漂っていた。それは霊夢にとっては好ましくないどんよりとしたものだった。空気に重量がある、飛ぶのも億劫だ。
そんな思いを隠して厄除け祈願のお守りを渡してやると、参拝者は礼を述べてから「これで世界の終わりも怖くない」と言った。
霊夢は心の中で毒づいた。こんなので恐怖がなくなるのなら、大して深刻な悩みじゃないではないかと。巫女としてふざけた了見である。だが熱心な信者に囲まれたことがないので、彼らの心情を汲めないのも無理はなかった。
参拝者たちは皆、いずれ訪れる世紀末を気にしていた。全貌は見えない、予兆もない、だが確かに存在するぼんやりとした終わりが眼前に迫ってきていると信じて疑わなかった。
人々はまず命蓮寺に行き、仏の救いを求めた。住職は平等に受け入れたが、それでも溢れる者や仏教そのものに猜疑心を抱く者もいた。仏教を見限った者たちは次に守矢神社で山の神様から施しを受けた。それでも不安を拭いきれない者たちが博麗神社の鳥居をくぐったのだ。彼らは一様に絶望の淵から染み出たようなじめじめした空気を纏い、それをためらうことなく蔓延させていた。痛みか、それとも死か、その先の世界か。一体何を恐れているのか、それすらわからないのが不可解で、蜘蛛の糸に縋る亡者のような参拝者に朝から対応していた霊夢は辟易していた。
「はあ」
男が背を向けたところでため息を一つ力なく吐いた。魂が抜け出たような気がしたが、再度鳴った鈴の音ではっとする。参拝者は絶え間なく入れ替わる。同じような思考回路だとしても別人であるからには平等に愛想を振りまかなくてはいけない。それは霊夢にしてみれば経験したことのない重労働であった。
今すぐ縁側に腰を下ろしてお茶でも啜りたい気分である。押し寄せる連中が妖怪や魔理沙と言った馴染みのメンツであれば迷いなくそうしていたはずだ。なぜできないのかと言えば、参拝者があまりにもか弱いからである。彼らは強者である博麗の巫女に縋っている。妖怪のあしらい方は十二分に心得ている霊夢ではあるが、己が強者である自覚くらいはあるらしくどうにも普通の、それも里の人間に対しては強く出れなかった。
霊夢は己の心情を隠すため場末の占い師のごとく胡散臭く振舞った。にこやかに頬を吊り上げ、とらえどころはないがどこか優しい言葉をかける。強者らしい立ち振舞いということで、知り合いの大妖怪を模してみたのだが、言動の一つ一つに不思議な説得力が生まれた。
客商売とはこんなにも面倒なものだったのか。霊夢は同じ境遇にあると思しき早苗のことを思い浮かべた。彼女ならこれを好機とみて、愚痴ひとつこぼさず布教を推し進めるに違いない。おそらく辛くもなんともないのだろう。
陽が沈んで霊夢はようやく一息付けた。夜は妖怪が神社の周りをうろつくため参拝者の足は止まる。寂しげな暗さがなんとも落ち着く。
大きく息を吸い込む。冷たい酸素が肺を抜けるのが爽快ですらあった。
貢物の白米を炊き、川魚の干物を炙ったのを夕餉とした。食後に渋めのお茶を淹れ、縁側で月を眺めながら啜った。
「はあ」
五臓六腑に染み入る。体内を流動する熱い液体の音が聞き取れるほどに静かだ。参拝者が立て続けに来たせいか、今日は妖精たちも見かけてない。狛犬のあうんは疲れた霊夢を労ってか、徒に声をかけないようにしていた。
霊夢は参拝者の思考を推憶してみた。世紀末と聞いてもピンとこなかった。例えばこの夜が永遠に続くとしたら、今後一切太陽が昇らないという事実を知ってしまったら、確かに恐ろしいかもしれない。でも違う、彼らの恐れは夜の暗がりに対して抱くものではなかった。もっと抽象的で、ぼんやりとした不安だ。考えるほど霊夢はうんざりした。
もう一つため息をついたところで、暗闇に紛れて魔理沙がやってきた。
魔理沙は現状を自分なりに分析しているようで、幻想郷に蔓延している世紀末が来るという噂についてこう述べた。
「カウントダウンが始まったんだよ。水面下で進行していたカウントが、何らかの方法で見えたんだ。占いとか、虫の知らせで。しかも砂時計みたいにぱっと見ではわからない曖昧なやつが。怖いだろ、カチッカチッていう音が聞こえてるのに、針と爆弾が見えないんだぜ。やれるのは祈ることと、不安を消すことだけだ」
「耳を塞げばいいじゃない」
「そうだ。そうしてきたはずだ。でも手遅れだよ。流行り病みたいなもんだ。皆感染者だ、眼を逸らせる段階はとうに過ぎた」
「……あんたもそうなの?」
「うん。でもさ、多分霊夢と同じ考えだと思うぜ。今日を後悔しないように、やりたいことをやる。どうせ死ぬなら派手に散ってやりたいじゃないか」
霊夢は魔理沙のこの刹那的な考えが大嫌いだった。若いくせにすでに人生について達観しているようで、まったくもって同意できなかった。ふざけんな、と言いたいのを堪えてこう聞いた。
「じゃ、今こんなとこでくすぶってないでさ、研究でもしたらどう?」
皮肉気味になってしまった霊夢に対して、魔理沙は「息抜きだよ。息抜き」と軽く答えた。
「なあ霊夢。私は輝くよ。でっかい花火を打ち上げて、空のどてっぱらに大穴を穿つ。霧雨魔理沙の大立ち回りを眼に焼き付けさせるんだ。お前も、見ていてくれよな」
まるで遺言のように、恥ずかしげもなくそう言った。思いをむやみにさらけ出すこと、それは魔理沙が忌み嫌っていたはずの行為だった。霊夢はなぜだか悲しくて、うつむいたまま「ああそう」と返すしかなかった。
その後もいくつか言葉を交わしたが、結局霊夢はもやもやを拭いきれないまま床に就いた。疲れたせいか熟睡できた。
次の日の朝、霊夢は新聞を投げ込んできたブン屋の声で目覚めた。逃げるように飛び立つ天狗に一つ罵声を飛ばし、眼をこすって新聞の一面記事を見た。
「終末時計完成」と大きく丸い文字で書かれていた。
スクラップ其の一 終末時計完成
紅魔館は霧の湖の島にある。周囲には霧が立ち込めているというのにその外装は目に毒なほど真っ赤で、遠目でも存在を確認できる。屋敷の名に恥じない堂々とした佇まいである。
この主張の激しい外装は主人であるレミリア・スカーレットの趣味だ。彼女は注目を浴びるのが好きで、流行りに乗るべく真っ先に世紀末を予言してみせた。
その結果が直径三メートルもある巨大な時計である。文字盤は透明で、中の複雑な機構が丸見えである。時計は高々と中庭に掲げられ、その針は十二時の手前で止まっている。一見壊れているようだが彼女曰く、この針が動き長針と短針が重なった瞬間に運命の日が訪れるそうだ。時は決して運命に逆らえないのだとも。
「私とパチェ、それに咲夜の能力をフル活用して仕上げたわ。どうだ、美しいでしょう。破滅の使者としては少し無機質な気がするけど、まあ丁度いいでしょ。デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの女神)という奴だよ」
パチュリーあたりから聞きかじったであろう単語を得意げに披露し、楽しそうに語ってみせた。運命を操る、魔女の占い、時間を操作する、これらの能力が揃ったうえで製作された時計である。パズルのピースがかみ合ったような説得力があった。
しかし、レミリアは運命の日の襲来を告げただけで、具体的な日時や内容は口にしてはいない。それを尋ねられたレミリアは子供を諭すようにこう答えた。
「可能性はいくつもあるからよ。明日空が落ちてくるかもしれないし、百年後氷河期が来るかもしれない。もしくは吸血鬼の大群が血液を啜り尽くしてしまうかもしれない、なんてね」
妹のフランドールが暴れ出して、この世界の目を潰してしまうかもしれない。
「……ないと思うけど、まあそうね。ありえなくはないわ。……だけど私は運命を変えたりしない。なぜだかわかるかしら」
レミリアは牙をむき出しにして聞いた。そして彼女は応答を待たずに、胸を張ってこう答えた。
「私は強いからよ。肉体もそうだけど、あるがままの運命を受け入れる胆力がある。それが最強の種族、吸血鬼なのよ」
レミリアにとって一番恐ろしい結末は何だろうか。
「なんで無視するの。カリスマ溢れてたでしょ今の、ねえ。……まあ、そうね、弱点を突かれるのが嫌ね。太陽とか雨とか」
吸血鬼の天敵は多い。だが彼女はその運命すら受け入れるというのだから、肝は据わっていると言えるだろう。
スクラップ其の二 酒の雨
豪雨が降り続き、世界が海に呑み込まれるという説は瞬く間に浸透した。原初の海にすべて帰依する、なんとも劇的かつ幻想的だ。もしも誰かが龍神の怒りを買い、竜宮の使いたちが癇癪を宥めるのに失敗した場合、幻想郷は未曾有の危機にさらされるだろう。竜宮の使いたちでも可能性を否定しきれなかった。龍神は世界を崩壊に導く大雨を呼んだという伝説もあり、伝え聞く限りでは幻想郷で一番の力を持っているという。その話を聞くと、伊吹萃香は豪胆に笑ってみせた。
「はっはっは! ああ別に意味はないよ、鬼は先の話聞くと笑うもんだからね」
茶目っ気はあるが、彼女は極悪かつ最強の種族と誉れ高い鬼である。いつもは姿を隠しているそうだが悪評は留まるところを知らない。とりわけ悪い噂には尾ひれがつく。以前より丸くなったそうだが、あまりにも恐れ多くて今でも天狗や河童は恐縮してしまう。萃香は霧状になり幻想郷を漂うか、今日のように天界で地上を俯瞰しながら酒を飲んでいることが多い。今は夜だが、本人曰く月見酒と洒落込むよりも、あえて見下ろすのが乙なのだそうだ。
飲み比べをしたい愚か者は夜に天界に行くと確率があがる。尤も、このご時世そんな酔狂な真似をする者が居るかは定かではない。里にある龍神像の眼がこれまでにない色に変わった時、咆哮と共に終末が空から降ってくるというのだから。
「そんな与太話信じないね。つまんないじゃん。そうだなぁ、雨じゃなくて酒がいいや。冷やね。酒の雨が降り続く。私はでかくなってそれを呑み続ける。幻想郷と飲み比べするんだ。皆呑まれて、下戸から順に倒れ伏していく。そして私ひとりが最後に残る。敗北した瞬間にこの世界が終わるんだ。面白いだろう」
萃香は自分が最後まで生き残ることを信じて疑わない。鬼らしい傲慢さがあるが、それでもなお敗北を認める潔さは持っていた。流石に幻想郷相手では分が悪いと踏んだのだろう。決して背を向けまいと立ちつくす、そんな名誉の死を望んでいた。
最後が来たら幸せなのだろうか。萃香の口ぶりではまるで、敗北を望んでいるように思える。
「負けるのは癪だね。でもさ、なんにでも寿命はあるじゃないか。年とったぐらいじゃ死なないけど、逆に言えば死んだら寿命だったってことなんだよ。それに関しては受け入れるね、私は。むしろ、鬼がもがき苦しんで悔しさを抱いて死ぬなんて潔くない。泥臭いのは好きだけど、それは脆い人間とかがあがくからいいんであってさ。妖怪連中がやれ死ぬのがやだとか言ってると情けねえなあって、なんだろなぁわかんねぇかなぁ」
遠くの虚空を見てそう言った。おもむろに萃香はひょうたんからとめどなく溢れる酒を盃に注ぎ、ぐいと一息で飲み干した。そしてもう一度なみなみと注ぐ。ゆらゆらと揺れる酒の水面には三日月が逆さに映っていた。
「さあて切り上げよう、酒が不味くなる。おい天狗、いっちょ付き合えや」
スクラップ其の三 大樹の墓標
酒が降り注ぐという珍妙な説はあまりにも荒唐無稽だと馬鹿にされたが、それでも信じた者は一定数いた。呑兵衛たちはこぞって萃香の説を推し、酒におぼれて死ぬなら本望だと笑っていた。初めこそくだらない与太話として広まったが、ある時酒の雨に関連する説が浮上した。
鬼は嘘をつかない。酒とはいかずとも、アルコールを含んだ雨が近い将来必ず降る。よしんば自然発生せずとも、鬼は嘘が嫌いであるから与太話を真実にするため何かしら仕掛けてくるに違いない。自身が持つひょうたんを天の川を生み出した瓜よろしく横に切り、酒を溢れ出させるだろう。有頂天から撒かれたアルコールは地面に浸透し、すべての植物の根を枯らすという。
この噂の出どころがどこかは不明。しかし、広まった以上可能性を否定するわけにはいかない。植物に詳しい風見幽香は向日葵の手入れをしながらこう言った。
「もし降ったら、そうね、十中八九枯れるわ。持って三日かしら」
では本当に実現するかもしれない。農作物がすべて枯れたのなら、ひ弱な人類は飢え死にするしかない。そうなれば妖怪も同様に破滅だ。また植物が死ぬと言うことは、自然の権化である妖精の存在ですら危うくなる。
「そんな説、私は大嫌いだけどね。人より先に植物が死ぬはずがないわ。完全に彼らの生命力を舐めてるわね。確かにアルコールの刺激は毒よ、だけどそれに耐えきれない子たちがいないわけではない。彼らは皆進化し、適応するのよ。水の中や荒れ果てた土地を好む子もいるわ。酒の中だって」
うちの子はすごいのよ、とご近所さんにでも触れ回るかのように幽香は熱弁をふるった。雑草魂という言葉があるように、植物は我々など到底及ばない生への執着を持っている。太陽の畑に一面咲き誇る向日葵も一見穏やかな形相を保っているが、実際は光に対して恐ろしく貪欲だ。
では、植物が枯れるという結末は迎えないのだろうか。
「そうね。こういう筋書きはどうかしら。清いアルコールの雨が降った。刺激を受け、志半ば倒れてしまう子もいた。だが生き残った者は驚くべき成長を遂げ、まるで水を得た魚のように生き生きとその足を延ばした。彼らは人間どもを呑み込み、すべてを養分に変える。私は皆に囲まれながら見ているの。最後に一本の大樹となり穏やかな終末が訪れるわ」
ならば大樹はさながら墓標だ。残虐さなら鬼にも引けを取らないと謂れもある幽香の説は、存外安らかなものであった。
真剣に語りきった幽香は、最後に含み笑いをしてから言った。
「となると一番の天敵は虫ね。共存しているけど同時に敵対もしている。人間どもの前に、虫たちと決着をつけなくちゃいけないわ。なんてね」
幽香なら虫たちを殲滅してしまいそうだ。
「そんなことしないわ。冬が来るだけだもの。知ってるかしら、冬に咲く花はそれは美しいのよ。シクラメンとか、スノードロップとか」
きっとこの大妖怪は冬をのんびりと見守るのだろう。彼女は孤独という感情を持ち合わせてはいない。春が来ないとわかってなお、雪に耐える花たちの傍に居て、ゆっくりと安らかに眠るのだ。
霊夢其の二
霊夢同様、東風谷早苗もまた現状に辟易していた。霊夢にはそれが意外だったようで、わけを尋ねると早苗はこう言った。
「ノストラダムスの大予言っていうの一時期流行りましたしね。1999年に人類が滅亡するってやつ。ハマったなぁ。私が小さい頃にテレビでやってて、よくわからないけど皆熱中したもんです」
「へえ、でも予言外れてるじゃない」
「あれはマスコミの戦略だったんです。テレビでやってる奇跡特集なんてほとんど嘘っぱちだって気づいたなぁ。予言とか占いとかも。一種のブームメントだったんです。ん、ムーブメント? まあいいや。兎も角、なんていうか冷めちゃって。皆騒いでるなあくらいにしか思えないんですよね」
外界での経験もあり、早苗も世紀末の輪に入れないでいた。最初はノストラダムスの予言同様に一過性のものだと思い、あえて俯瞰の立場をとっていたのだが、論争は一向に収まる気配がなかった。それどころか、影響力の強い各地の妖怪たちが各々の終末論を唱え始めたのでブームは加速しつつあった。守矢神社の信者たちはこぞって「奇跡を起こしてくれ」と嘆願しに来た。雨を降らせたり、逆に雲を消すくらいならできないでもない。しかし、明確な形がわからない以上どうしようもなかった。泣き縋る彼らに早苗ができるのは微笑みながら「大丈夫ですよ」と言うくらいで、連日連夜根拠のない同じ言葉をかけることが苦痛だった。
「勘弁してほしいですよ。熱心なのは結構なんですけど、なんかなぁ。もっとこうヒャッハー! みたいなのだといいのに。『北斗の拳』とか『マッドマックス2』みたいな。霊夢さん知ってます?」
「知らない」
早苗も胸の内側のモヤモヤを取り除けないでいた。普段なら布教のチャンスだと売り込むのだが、この件に関しては流行りに乗り遅れたような気がして、意固地になっているのもあった。一度逃した波を後追いするのは格好悪いと思ってしまったのだ。
だから早くこの波が去ってほしかった。困ったのは誰も正確な時期を告げないことである。まるで今にも雨が降りそうな分厚い雲の下で、傘を持たずに何日も立ち続けるような心持であった。曇り空の晴れ間を探していたところ、思いは違うが霊夢という同士を発見したのだ。
二人はすぐ行動に移した。いろんなことを地道に時には大胆にやってみた。
様々な催しの中で一番盛況だったのは里で神楽舞を踊ることだった。それだけなら普通だが、彼女たちの服装は布地がいつもより少なかった。露骨なのは流石に理性が咎めたので局部や乳房を想起させる程度に留めた。だが、それでも巫女というにはあまりにも破廉恥な格好である。
神楽舞は一瞬で注目の的になった。
「白昼堂々けしからん! 恥を知れ!」
「いい……」
「いいぞー! もっと脱げー」
「守矢も落ちたものだ」
「あーあ、とうとうおかしくなったか」
「私も真似しようかな……やっぱやめよ」
「引っ込めー」
「あとで触らせてくれ!」
「あらまあ……」
「神職者がありえん!」
「いやー古来から神職というのは好色と切り離せないもので――」
やらしい視線を隠す者、囃し立てる者、嘲笑する者、大声で罵る者。様々な眼が顔を赤らめながら舞う二人の巫女に釘付けだった。その時ばかりは、虚ろな瞳の表面に熱が浮かび上がった。熱狂と喧騒が重苦しい窮屈な空気をかき消した。
恥ずかしさはもちろんあった。だが、少なくともこれくらいはしないと注目を浴びることは叶わなかったのだ。何をしても辿り着く先は世紀末主義だった。世紀末は来ないと説けば現実を受け入れられないのかと憐れみを向けられ、花火を打ち上げれば惑星爆発のメタファーと捉えられ、晴天の空に虹をかければ邪悪な龍が出現したという噂が立った。博麗ランドを再建しようという案も出たが、以前失敗したという苦い経験と大勢の建築家や技術者が必要という条件も重なり、計画は頓挫した。うんざりしていたところ、苦し紛れに考えついた神楽舞は単純ながら効果てきめんであった。
きっと若くして水商売をしている女性はこんな心理状態なのだろう、と半ばやけくそに舞った。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、あの嫌な空気よりはマシだった。
この眼が欲しかった。この空気を吸いたかった。霊夢と早苗はそれなりに満足していた。
一仕事終えて、羞恥を埋めるように二人は無言でお互いをたたえ合った。
好評につき、しばらくは舞を続けた。だが、色欲あるいは嫌悪に訴えかけるこのやり方もすぐに終末論に呑み込まれた。二人の行為は、幼い心が恐怖に耐えきれず狂ってしまった結果であると認識された。いままでさんざら罵声を浴びせた者も手の平を返したように優しい言葉をかけるようになった。中には本気で身を案じ、医者に行くよう勧めたり、金銭を恵んだりする者もいた。
「なんでよ……」
一番人気の天狗の新聞を読んで霊夢は言った。ようやくあの神楽舞が取り上げられたのだ。見出しは「巫女二人、狂乱の舞い!」である。錯乱の原因や、そこに至る精神状態について八意永琳へのインタビュー内容も交えてつぶさに書かれていた。まだ淫乱と書かれた方が良かったとさえ思った。ちなみに本人たちへの取材はない。だが、霊夢にはもう執筆者の大天狗をとっちめに行く元気はなかった。
「やめますか。これ以上続けても無意味ですよ……」
「そうね」
うつむきながら早苗は申し訳なさそうに続けた。
「私、神奈子様と諏訪子様に本気で心配されちゃいました。だから、もう」
「ええ、わかったわ」
神社へと戻っていく早苗を見つめながら、霊夢は新聞を破り捨てた。
スクラップ其の四 広まるウィルス
虫が幻想郷を破滅させる未来が現実味を帯びてきた。というのも、外の世界では人間を一番殺している生き物はちっぽけな蚊だという。蚊は死の運び屋だ。彼らは圧倒的な繁殖力で数を増やし、黒雲のように空を覆い尽くす。そして様々な病原微生物を媒介するのだ。
虫たちに白羽の矢が突き刺さった。殺虫スプレーが飛ぶように売れ、里中にばらまかれていた。蚊取り線香の匂いが立ち込める中、リグルナイトバグは必死に弁明していた。
「あの子たちはそんなことしないよ! ちょっとご飯を食べてるだけ。か弱いんだから、世紀末に備えて守ってあげなくちゃ!」
無自覚とは恐ろしい。彼女が日々戯れている虫たちがどれほど危険なのか、まったく理解していないようだ。むしろ理解していた場合、蟲の女王たる彼女の手によって幻想郷が支配されてしまう可能性もある。十分に活用できないことに感謝しなければならない。
リグルの抵抗むなしく、里は依然もうもうと煙が立っている。鰻屋や蕎麦屋の店主は冗談交じりに「これじゃ商売あがったりだ」と言っているが、彼らもまた殺虫剤や蚊取り線香を常備していた。
この噂の内容に信憑性があるのか確認すべく、記者たちによる聞き込み調査が日夜行われている。
同じく虫の仲間で、病原菌の類に詳しいヤマメという地底の妖怪はコーヒーを啜りながらこう言った。
「一番恐ろしいのは何てったってウィルスだよー。阿鼻叫喚の地獄絵図だね。運び屋が使者を連れてくるのさ。これはヤマメちゃんのお茶目なシャレじゃないよ、土蜘蛛が本気で言うんだから間違いない。どれぐらい間違いないかというと、コーヒーを呑んだら酔っ払うくらい間違いない」
だいぶ酔いどれのようだが呂律はまわっていた。酔うと饒舌になるらしい。地底のアイドルを自称する彼女だが、最近はコーヒー浸りの生活であった。泥酔はある種の特効薬だ。悟りの境地に在る者の脳波に似た穏やかさに苦痛を伴うが至ることができる。毒と知ってなお飲むのを止めないのは、毒を持って毒を制する事実を本能的に知っているからだ。
ヤマメもまた毒によって生きている妖怪であった。
「笑わないとね。だってさぁ、皆、私の笑顔が見たいんだよ、頑張んなきゃ。だけどさぁ、きついよー。毎日毎日じめーってしてさ、酒も飲めないって奴もいるんだよ。信じられないよね。喧嘩する元気がないとか、アンタそれでも鬼かっつーの。勇儀が怒ってたよ、鬼ならもっとしゃんとしろってね。喝入れたくらいで治ったらいいんだけどね、ずっとうつむいてんだって。すみませんすみませんって謝んだと、でさとうとう勇儀の奴キレちゃって、ビンタしたら顔が飛んでっちゃうの、飛頭蛮かっての。あはははは」
とりあえず、荒れてる鬼には近づかないのが吉である。きっとその鬼も耐えられないのだろう。笑いたいのに笑えない、それは拷問に等しい。
「首もげたそいつが私んとこ来てさ、糸くれって言うの。蜘蛛の糸は頑丈だからね、もう取れないように針で縫ってた。あれ何の話だっけ」
彼女は酔いつぶれることで恐怖を紛らわしている。ファンが見たらがっかりしそうな裏側事情であるが、それを隠す余裕もないらしく、相当疲弊していることは窺い知れる。この様子では、病原微生物やそれらがもたらす影響について詳しい説明を求めるのは厳しそうだ。
「あ、思い出した。虫が媒介する話だけど、正直さ、虫もウィルスも火に弱いんだよね。まあ妖怪も大概苦手だよね。火ぃ吹く奴も結構いるけど。焼かれたら終わりだよ、基本的に。私はちょっとなら耐えられるけど、でもアレとか、無理だね。核の炎とか、前地霊殿とこのカラスが弄ってるの見たけど、あれ喰らったら丸焼きだね。私はアレが暴走して焦土と化すと睨んでるよ、あはは」
ヤタガラスの炎で熱消毒が行われる、シャレにならないくらい恐ろしい話である。
スクラップ其の五 燃ゆる大地
ヤマメの発言と、八意永琳という心強い薬剤師の存在によりウィルスによる滅亡論は完全に消滅した。永琳はどんな未知のウィルスでもたちどころに治療するワクチンを開発してみせると豪語した。「副作用でみんな死ぬかもね」と茶目っ気たっぷりに仄めかしてはいたが、おそらく冗談である。永琳は不老不死になる薬さえ作れる天才だ。だがなんでも作るわけではない。彼女の頭の中には確固たる基準があり、それは閻魔の裁判結果のごとく揺るがない。豊かな経験と卓越した頭脳に裏打ちされた常人には理解の及ばない信念である。どこで線引きされるかはわからないが、薬剤の調合を生業とする彼女にとって、ウィルスはたまたまそのラインに触れるものだったのだ。
世紀末主義者が跋扈する現状にて、初めて明確にウィルスによる滅亡論は否定された。ちなみに、永琳の発言は非常に影響力が強く、本人も自覚があるため他の説について言及することはなかった。同様に知恵と信用がある妖怪(天魔や八雲など)はこぞって口をつぐんでいた。
また、ヤマメの話していた霊烏路空がヤタガラスの力に耐えきれず暴走するという説は、飼い主のさとりが否定していた。
「うちの子がそんな馬鹿に見えますか。カラスはとても賢いし、身の丈を弁えているものです。あなたならおわかりいただけると思うのですが、ああそうですか。傲慢ですね。かつ天邪鬼、反骨精神と言った方がいいでしょうか。独りよがりだと新聞なんて売れないですよ。まあ兎も角、核融合炉の件については山の神様にでも聞くとよろしいでしょう」
実際に山の神様たちの見解もさとりと一致していた。曰く核融合は核分裂に比べクリーンで安全なエネルギー産生を可能にするのだとか。しかし、放射能そのものが全く出ないわけではないのだから、一定のリスクはあるはずだ。そのことを突いても、万が一の場合手は打ってあるから問題ないの一点張りであった。
各勢力のトップ二人の声明である。核による滅亡の未来もまた鳴りを潜めた。
しかし、一人だけいまだにこの説に近いものを推している少女が居た。蓬莱の人の形、藤原妹紅であった。
「いいか、幻想郷成立よりも、人類創世よりも前、歴史なんて概念がなかった大昔、この星は炎に包まれていたんだ。歴史に詳しい慧音がそう言っていたんだから間違いない。そこから水ができて、植物ができて、歴史が始まった。じゃあ終わりはその逆に決まってる。大噴火が起きて、最後はまた炎に包まれる。これだよ。それに人は、火と在る者だ。最後まで火と寄り添うのが自然ってもんだ、これは誰かの受け売りだけどね。母なる海に還るなんて説がまかり通るのはおかしいってことがわかってくれた?」
煙草をふかしながらそう語る。暇を持て余して考えついたとのことだ。確かに筋は通っていた。龍脈が何らかの原因で乱れたりしたら今は沈黙している火山が活動を再開するかもしれない。マグマが噴き上がった時点で打つ手立てはない。辛うじてマグマから逃れても、安息の一呼吸で咽が焼け、死ぬまで続く苦痛に苛まれるだろう。たとえ炎を使役できたとて無駄だ。炎は膨張し、使役者以外のすべてを呑み込むのだから。
「ま、実際はどうなるか、見ないとわからないけど」
どのような未来であっても彼女たち蓬莱人は確実に世紀末の見届け人になる。それはとても辛いことのように思えるのだが、当の妹紅はけらけらと笑っていた。
「怖くはないね。正直、蚊帳の外って感じ。だからこんな説を考えてたんだけど。まあ、実際そうなったら炎の中で座禅でも組むつもりだよ、なんちゃって」
空が落ちてきたら?
「天の川を遊泳する。何年かかるだろうか」
槍が降ってきたら?
「痛いのはやだな。輝夜を盾にする」
この星が爆発して消え去ったら?
「宇宙ねぇ。鳳凰座まで行ってみようかな。鳳凰も多分巣に逃げ帰ってるでしょ」
妹紅はどんな環境であれ適応してしまう。彼女の乾いた笑みは恐怖をかき消す虚勢ではなく、恐怖すら覚えない己への自嘲だった。
スクラップ其の六 宗教戦争勃発!?
妹紅の説はまったく浸透しなかった。彼女は渦中に居ないのだから当然ともいえる。現在台頭しているのは大規模な宗教戦争が起こるという説だ。一神教の熱心な信者が爆発的に増え、他の宗教を消し去るべく働きかけるというのだ。幻想郷の宗教事象はまさに混沌と言った具合で、宗教の統一など世迷いごとのように思えるが、外の世界の事情にもある程度詳しい宇佐見菫子はこう語った。
「まあねーありえない話じゃないと思うけどね。まぁ宗教が無くなれば七割戦争が減るっていうくらいだし。一神教と言えば、ここにはキリスト教がないわね。ドラキュラとかはいるのに。変ね。あ、イスラムもないや」
それらが危険だということだろうか。
「いやそうじゃないけどさ。変なのはどの宗派にもいるし。たぶん。宗教がらみのヤバい事件は日常茶飯事だしね、まだ幻想入りしてないみたいだけど。記憶に新しいからかな。私はあんま詳しく知らないけど毒ガスばら撒かれるのは何かやだなぁ。もうちょっと大災害とかのほうが幻想郷らしくていいかも」
他人事のように喋るが、菫子は外の世界が本来の住所であるため危機感は薄いのも仕方ない。
お気に入りの観光地が潰れる程度の感覚でしかないのだろう。
「そんなことない! 失礼な天狗ね。そりゃ確かに危機感は薄いかもしれないけどさぁ、私だってこうやって協力してるわけじゃん。最近はちゃんと変な物入れないように意識してるしぃ」
髪の毛をくるくる弄りながら自分の無害さをアピールするように言った。過去に事例はあるが今更彼女一人の存在で幻想郷そのものが脅かされることもないだろう。監視の目も十分光っているし、何より博麗が許しているのだから責め立てるつもりはない。
問題は過激派宗教団体が幻想入りするかどうかということである。
「それに関しては何とも。そう簡単にはこっちに来ないと思うけど。ていうか変な奴らが蔓延ってるから外の世界は腐ってるのよ! もっとおおらかになれないもんかねぇ。外がおかしい限りこっちは大丈夫よ」
こちらも大概変人ばかりではあるが、菫子がそこまで言うとは外は随分恐ろしいところなのだろう。もし結界が緩んでそれらが流れ込んできたとしたら、どうなってしまうのか、想像もつかない。
「まあ暴徒とか来てもレイムっちとかが何とかするんじゃない?」
菫子はまた他人事のように言ったが、博麗を頼るしかないのもまた事実である。自衛手段を持っておくに越したことはない。
「そうねぇ自衛は大事ね。うん。特にここには法律とかもないし、一応あるんだっけ? でも結局は自己責任ってやつよ。弱肉強食、古臭いけど理にかなったルールね」
霊夢其の三
霊夢は行き場のない苛立ちを抱えて、毎日押し寄せる参拝者に対応し続けた。
守矢神社は大層儲かっているようで、あれ以来早苗は忙殺されていた。信者は力の誇示が見たかったのだ。超人の証を示すため、一瞬だけ雨を降らせるなどの小さな奇跡を起こし続けた。それだけで信者は安心できた。信仰はかつてないほど高まり、次第に早苗は臆病風に吹かれるように、世紀末主義に傾倒していった。膨れ上がった恐れを匿うために布教に精を出し、自ら忙殺のループへと飛び込んだのだ。
新聞記事からそのことを知った霊夢は失望すらしなかった。人の意見や考えなんてコロコロ変わる。霊夢はそんなものだ、と無常を噛み締めた。
疲れを癒すために酒を煽った。貢物のウイスキーを適当に炭酸で割ってぐびりと飲み干す。胃が熱くなる時だけ、霊夢の思考は静寂に落ちる。夜風が心地よい。あと何杯か飲めばたちまち酔っ払いの完成だ。しかし、のんだくれになるのはどうにも負けなような気がして、二杯目を注げなかった。
酔いで誤魔化す。お守りに縋るのと何が違うというのか、まるで彼らと同じではないか。顔も紅潮しないうちに霊夢はそのまま床に就いた。たった一杯とは言え、アルコールが入ったおかげで睡魔はすぐに訪れた。
昼は笑顔を振りまき、夜に睡眠薬代わりの一杯を飲む。そんな生活に嫌気がさした霊夢は結界管理の名目で神社を一日だけ閉めた。朝から来ていた参拝者たちは不平不満を口にしたが、結局は賽銭だけ放り込んで帰った。
厄介払いした霊夢は大結界の元に来ていた。
博麗大結界は物理的な障壁ではないため常人には視認できないが、霊夢や一部の力の強い陰陽師なら存在を知覚できるし、大妖怪や一部の特殊な術を使う者はすり抜けることも可能だ。現にマミゾウや青娥などはいまだに外界と行き来しているという。
霊夢は結界に触れた。
途端に自分が薄氷の上に立っているような気がして、恐ろしくなった。釘を打ち込むように小さな穴をあければ、外の世界という実態が押し寄せる津波のようにあられもなくなだれ込み、圧に耐えられなった結界はたちまち崩壊するのではないか。霊夢はそう思った。
もちろん、結界はそこまで脆くはない。自己修復機能もあるし、八雲もいる。何より大妖怪ですら潜り抜けるのがやっとの結界を壊すことは容易ではない。ハンマーで叩けば砕けるダイヤモンドとは違い、流動する水のような不安定さこそ最も強固なのだ。概念結界とはそう言うものである。
霊夢は結界の強固さを理解していた。だが、ついほつれを探してしまう。
「ないかな。いつもは、この辺とか、あ」
霊夢はほつれを見つけた。巫女の仕事をまっとうするのなら塞がなければならない。
だが霊夢は、その結界ほつれをさらに緩め始めた。
縫い付けられた糸を一本ずつ引き抜くような感覚、何度か繰り返すと腕が通るほどの小さな穴ができた。
霊夢はその穴をさらに拡げる。大気が揺れる。手がチリチリしてきた。
「私が、終わらせてやる」
うんざりだ。何もかも。叫びも、嘆きも、賛美も聞きたくない。憐れみを向けてくる奴は死ね。達観したように笑う奴らも大嫌いだ。そして何より、受け入れられない自分に腹が立つ。
異変だ、まごうことなき大異変。皆おかしくなったのだ。ならば終わらせるのが博麗の役割だ。
人ひとり通れるくらいになったところで紫が来た。彼女はにこりと悲しそうに微笑んで、我が子を見守るかのように佇んでいた。
「紫、私気づいたの。こうすればいいんだって」
紫は何も答えなかった。ただ、じっと穴ではなく霊夢の顔を見据えていた。「私は最後まで見届ける」と暗に告げていた。
霊夢は手に痺れを感じた。痛みはあるが、熱はない。
雲がうねり、強い風が吹いた。その風が凪いだかと思えば、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
雨に濡れながらかつての同士である早苗が近くまで飛んできて、ぴたりと空中で静止した。彼女は近づくべきか否か戸惑っていた。霊夢の奇行を止めようと思ったのだが、傍に居る賢者が動く様子を見せないのでおろおろとするしかなかった。
「私が終焉を呼び込んでやる。破滅の神に転生できるかしら」
大地がひび割れ、建物は倒壊した。妖怪や仙人たちが雨に逆らうように空を見上げた。それだけだ。誰も、何もしなかった。
穴の径は優に六尺を越えた。空間がぐにゃりと歪んだ。傍観者たちは「亜空間に呑み込まれる」と思った。さりとて取り乱すこともなく、黙って見つめ続けた。
とても静かだった。
穴は徐々に拡がる。こじ開けられた入口から名もなき使者が崩壊を引き連れてやってくる、うねる大気がそれを予感させた。
空を見上げた者すべてが最後を悟った。そしてそれは霊夢も同じだった。
ここで霊夢の手がだらりと垂れた。
「……てよ……止めてよ!」
霊夢は喉の奥からありったけを絞り出すように声を張り上げた。そこまでしてようやく紫が動いた。戸惑いながら霊夢に近づき、彼女をぎゅっと抱き寄せた。涙をこらえて訴えかける霊夢に、どうしてよいかわからなかったから、耳元で宥めるように言葉をかけた。
「大丈夫、私は傍に居る。だから、泣いてもいいわ」
違う、慈愛なんていらない。怒れよ。憐れむな。ふざけんな、ふざけんな。
霊夢は賢者の胸の中で泣いた。咆哮のような叫びは雨にかき消されて、誰の耳にも入らなかった。
結界の崩壊は止まった。
スクラップ其の七 世紀末を泳ぐ船
天邪鬼こと正邪は世紀末など来ないと嘯いた。彼女は浮かび上がる説を悉く否定していたのだが、有力説がない現状でとうとう世紀末そのものを否定した。天邪鬼の否定、それすなわち認定に他ならない。現状の終末論は結論は出ているが、その過程がどれもしっくりこない。数学者がひたすら未知の公式に挑んでいるような状態である。証明は不可能だと声高らかに訴える者はなかった。
キーワードは自己防衛である。過程がわからない以上、身を守る手段は自己責任で確保する必要があった。もともと強い妖怪はさらに力を蓄え、里に住まう人間たちも同様に生き抜く手段を探り始めた。ある者は体力をつけ、最後に支配するのは暴力だと説いた。またある者は食料こそ生き残るための財産だと信じ、蓄えたそれを隠す頑強な蔵を建てた。
無論、金も力も持たない者は依然おり、彼らは宗教に頼るしかなかった。見かねた命蓮寺の住職はノアの箱舟に倣い巨大な船を造るという一大プロジェクトを掲げた。
船は希望を乗せて飛ぶのだという。ノアの箱舟とは違い、誰一人落とすことなく飛んでみせると聖白蓮は豪語した。初めこそ協力者も得られず雲行きは怪しかったが、なんと対立していたはずの豪族、豊聡耳神子が指揮者として名乗りを挙げたのだ。傲慢な態度や思想の不一致から両者は衝突し、三日にわたる弾幕ごっこが行われた。しかし最終的には弱者の救済という共通の目的のもとに一時休戦という形で和解した。神子の統率力はすさまじく、持ち前のカリスマを遺憾なく発揮していた。協力者も大勢集い、今や船は多くの弱者の心の寄り何処となっていた。
完成はまだ当分先であるが、神子はこう語った。
「必要なのは依り代だ。この船を造る事業に参加することで彼らは安寧を得ている。完成を急ぐと制御が難しいんだ。あの船は力の集合体なのだよ。だからこそ船頭が必要だ、強大な力を暴走させないために私みたいなリーダーが必要なんだ。聖のやつはそこがわかってないらしい」
白蓮はこう語る。
「希望とは大きく、そして重い。一身に背負ってもびくともしない船を造りたい。それには協力が必要不可欠です。神子はそこんところがどうも傲慢でいけない。いつ寝首を掻かれるかわかったもんじゃないというのに。頭に頼りきりではいけない、自分と他者を思いやれる、すなわち慈悲を育むこともこのプロジェクトの目標なのです」
やはり多少の軋みはあるが、目的そのものは同じである。
勿論このプロジェクトに対して「船など狂信者の現実逃避でしかない」と難色を示す者もいた。確かに世紀末が来る以上、空を飛ぶシェルターができたところでどうしようもない可能性はある。様々な事態に備えて、食料の備蓄や医療器材の搬入等も行っているそうだが、不安はぬぐいきれないのが現状だろう。彼女らもとうとう確実な生存を保証するとは断言しなかった。裏を返せば、世紀末を悟っているから断言できないのだとも取れる。時が来たら、希望を抱いて安らかに逝けるよう救済を施しているだけなのかもしれない。しかし、神子が言った通り、船が依り代になっているのもまた事実である。実際に作業をしていた人々は皆生き生きとしていたのだ。
いずれにせよこれからの動向を追っていきたい。
霊夢其の四
霊夢が結界に手をかけてから三日が過ぎた。幻想郷の根底すら揺るがす行為だというのにお咎めは一切なく、霊夢はただ一人自己嫌悪に陥っていた。
目覚めたのは昼過ぎ、布団に入っているがあの後の記憶はほとんどなかった。霊夢はいつの間にか眠りについていた。起きてから鏡を見ると涙の痕が残っていた。いつから泣いていたのか定かではない。悪夢でも見たか、はたまた紫に抱きしめられた時からずっと泣いていたのかもしれない。
霊夢は鏡に映る自分を罵倒した。
「情けない顔ね」
鏡面世界の霊夢もそれに同調して口を動かした。己を責めたところで空虚さしか残らない。昨日の一件が世間に影響を及ぼしたかと言うと、何も変わってない。精々、巫女が狂ったと騒がれて終わりだろう。少女の青臭い慟哭はいとも容易く世紀末の胃に落ちて消える。
「馬鹿みたい」
狂気に酔っていた自分がいた。どうせ狂えやしないのに。悪に落ちれば救われると信じてしまった。何の確証もないのに。
またも自己嫌悪に陥りたくなる。慰めの言い訳をつい探してしまう。しかし、冷静さを取り戻しつつある霊夢の心はそれを許さなかった。己が可哀そうだと口にして回る連中は、公衆の面前で自慰をしているに等しい。それの良し悪しは兎も角、情けないと思ってしまうのだ。自分を悲劇のヒロインに仕立て上げられない、ある種天邪鬼的な思考回路をしていた。今まで窮地に陥ることがほとんどなかったし、おそらく魔理沙のひねくれが伝播したのもある。
「ああ、そうか」
冷静になってわかったことが一つだけあった。
霊夢は世紀末主義から逃げていた。ただ眼を瞑ってがむしゃらに。だが奴らはついてきた。存在を仄めかしながらも巧妙に実態を隠して忍び寄ってきた。
要は怯えていた。実態が見えないのが怖くて、恐ろしくて、逃げ出したかったのだ。窮地に自ら走っていくなんてあまりにも滑稽だ。気づかないうちに悲劇のヒロインを演じていたのかもしれない。
もう怯えはなかった。
「私がやればいいんだ。どんな奴でもとっちめて、ボコボコにしてやる。なんだ、いつもと何も変わらないじゃない」
異変解決と同じだ。のんびり待って、ドンと構えて、世紀末って奴がちょっと姿を見せたら颯爽と登場すればいい。
その日まで、力を蓄えよう。面倒だけど修行でもしてみようかな、蔵の由緒正しそうな本を漁ってみるのもいいな、ちょっとくらい参拝客にサービスしてやろうか、清めの塩でもばら撒けばいいかな。よく考えるとあいつら金づるだな。世紀末なんて大したことないな、自分がいるんだから、そう思った。
すると不思議と力がみなぎってきた。
霊夢は固く拳を握った。閉じこもるのはもうやめた。霊夢は外に出て、空気を目一杯吸い込んだ。換気をしたつもりだった。
決意新たに空を仰ぐと、黒い影が一直線に突っ込んできた。
箒に跨った魔理沙だった。彼女は地に降り立ち、帽子の上から頭を掻きつつ言った。
「正直、とうとういかれちまったかって思ってな、見限るつもりだったんだけど、そのなんていうかな。あー、私はどうやら熱に浮かされていたらしいんだなどうも。風邪ひくと弱気になるって言うしな。……やっとわかったよ。もうやめた、どこまでも足掻くことにする」
魔理沙は昨日の霊夢が起こした一連の騒動を最初から傍観していた。初めから諦めていた自分に声をかける権利はない。ただ冷笑しニヒリズムに浸るのがお似合いだとその時は思った。どうせ人間は儚いのだからと。
だが霊夢が必死にあがく様を見て、一度は放棄した選択肢を拾い上げた。彼女もまた悩み、苦しみ、最後には戦うことを選んだのだ。
にいと不敵に笑った魔理沙はミニ八卦炉を空へと構えた。
「こいつは狼煙だ!」
晴れやかな空に猛々しい轟音が響き渡った。恥を恐れぬ巨大なレーザーが空に大穴を開けた。
「誰も見ちゃいないわ」
うつむく人々の眼に映るのは己の足元だけだ。突発的な、ましてや一発だけの打ち上げ花火など見る者はない。
だが、霊夢の心には穏やかな炎が灯っていた。
希望の狼煙は静かに上がった。袂に集まったのは今は二人。それも年端も行かない少女だ、されども精鋭に違いなかった。
社説
『現在跋扈している様々な終末論であるが、どれも信憑性に欠けるものばかりである。しかし、重要なのはそこではなく自己の意思と覚悟である。我々は氾濫する説の中から最も自分が信じるに値するものを選び出し、組み合わせて己が主張を形成しなけらばならない。ただ目の前を泳ぐ噂を追いかけ、流されるだけでは本質を見失う。辿り着く先が同じだとすれば、それまでの道程で柔軟に主張を変え、適応する覚悟が必要になる。そのためには新鮮な情報を欠かさず読むべきなのだ。文々。新聞では各地に広まる噂の数々を平等に取り扱うことをモットーとして掲げている。これからも公平なる記事を迅速に届けていくつもりである。』
「こんな感じでいいか」
私は筆を置いて大きく伸びをした。部屋に籠りきりで息が詰まりそうになったので、煙草でも吹かそうと思い、コートを羽織って外に出た。
山の情景はすっかり冬に向けて身支度を整えたようだった。つい先日まで紅葉していた木々は化粧を落としたかのように散り、わずかに残った葉も北風に逆らって必死に震えていた。吐く息は白く、吸う空気は清く、茹だった私の頭を冷やしてくれた。
咥えた煙草に火をつけようと思い、ポケットをまさぐったがライターがなかった。普段あまり吸わないものだから常備してないのだ。ビールの空き瓶と没記事で溢れかえった部屋の中を探すのも面倒だなと思っていると、犬走椛がマッチを渡してきた。彼女は近くで休憩していたようで、自慢の千里眼で私を見ていたらしかった。
「良ければどうぞ。似合わないですね、煙草」
それは結構、煙草が似合うのはくたびれたおっさんか、裏に通じた悪役美女と相場は決まっている。うら若き乙女には不相応だ。
マッチをこすって火をつけた。煙草に火を移すと、先端からゆらゆらと煙が立った。
「社説ですか、さっき書いてたの。相変わらず飄々としているというか、主張をぼやかしているというか」
「うっさい、覗き魔。いいのよあれで」
「覗き魔って、文さんに言われたくないですけどね」
社説など、このくらいで丁度いいのだ。反感を買うような真似は賢くない。もし主張をするのなら本にしたためるほうがよろしい。新聞という媒体は情報の公平さと新鮮さを売りにしているのでふさわしくない。というのは建前で、私は情報の力を侮っていないから迂闊に書けないというのが本音だ。ペンは剣よりも強しなんて言葉もあるほどで本気を出せばいくらでも事実を捻じ曲げられる。そんな強大な武器を当たり前のように振りかざしている大天狗どもは恥を知れといつも思っているし、軽蔑すらしている。だが悲しいかな、売り上げが権力に直結しているのも事実だ。虱のように絡みつく権力、そいつらが支配するジャーナリズムに価値はない。だから私はあたかも俯瞰しているような記事に留めておくのだ。
それに、一つの説に肩入れしたくない個人的な理由がある。否、一つの説というよりは――
「しかし、残念でしたね。大スクープだったでしょうに」
椛はにやにやしながら煽るように言った。今日はそれを言いに来たらしかった。私が悔しがるとでも思ったのだろうか。
「確かに、そうね」
八雲が動き、霊夢が起こした一連の奇行は歴史の闇に隠された。言うならば八雲は私的な感情で霊夢を守ったのであり、不祥事に対して目を瞑ったとも捉えられかねないが、そこに関しては流石というべきか様々な理屈をこねたらしい。どのようなやり取りがなされたのか定かではないが、強情なお上がはねのけなかったということは何かしらの裏取引が行われているはずだ。しかし、詮索しようにも仕方がない。八雲は秘密主義だから、決して己の心情や動向を悟られまいと隠蔽する。いざとなればあの薄気味悪いスキマから出てくるだろうが、いざという時が来ないように必死に電卓を弾いているに違いない。
私としては霊夢の奇行は記事にしたくないのが本音だったので、禁止令が下されたのはむしろありがたかった。
「ま、『風が立った、生きようと試みなければならない』と言ったところでしょうかね」
「はあ、それはまた」
椛はキョトンとしていた。単細胞の犬畜生にはわかるまい、詩の引用だバーカバーカ。
煙をわざと椛の方向に吐いたが、風のせいでこちらに流れてきた。椛はまたもにやにやしていた。だから馬鹿なんだ哨戒というのは。どうやら私の能力を忘れているらしい。わざとだと気づかないのだろうか。
現状は向かい風だ。茫然と立ちすくむか、もしくは割り切って方向転換し後退するのが賢いように思える。だが、ゆっくりと突き進む愚者だっている。私はこの眼に見た。希望の船なんかよりずっと強い輝きを放つ者を。
時が来れば、彼女らは動くだろう。世紀末に終止符を打つべく浮世に舞う。その時私は武器を取り、一陣の追い風を吹かせるのだ。渇きと怒りを筆先に詰め込んで、火炎を焚きつけ煽り、脳天をぶち抜く勢いで叩きつけてやる。
それまでは俯瞰したふりをして流れに身を任せようではないか。
世界滅亡!
霊夢と早苗が仲良さそう(?)で好き
最終的に「ぶん殴って倒せば良いじゃん」て結論に落ち着くのは霊夢らしいと言うか、幽霊とか妖怪を殴って解決するでろでろ的なテイストと言うか
時が来たらやってやるぜって息巻いてる文ちゃんは時が来たら実際新聞どころじゃねぇし、先の事はわからないと言うか、来ないと言う前提だと負け惜しみと言うか
その中でも必死に生きる霊夢が良かったです。
あの霊夢と早苗が踊り出す展開はそれらが顕著に感じられて凄く辛かったです。
それでも世紀末に打ち勝ってやろうと立ち直った霊夢達の頼もしさに救われました。
面白かったです、有難う御座いました。