『偽札』
紫苑と女苑は双子の姉妹だった。紫苑は姉で貧乏だった。女苑は妹で浪費家で、悪さばかりするので里のはずれの命蓮寺に修行へやられていた。女苑は私だった。
冬、里で若い女が死んだ。通夜をするために僧たちが呼ばれ、女苑も同行させられた。通夜の席で住職の白蓮は厳かな声で語り、偉い話をした。死んだ女の家の者たちは皆ありがたがって泣いた。女苑は退屈でしかたなかったが、住職の話には上手いものだと感心した。
女苑が感心していると、雪の降る庭から誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。もしやと思いふすまを開けると、はたして姉の紫苑が敷地に入り込んでいる。紫苑はいつものように腹を空かせていて、「何かちょうだい」と縁側から座敷へ這い上がろうとしていた。これを見た家の者たちは困惑し、貧乏神と住職の顔を不安そうに交互に見比べた。
場違いな姉を今すぐ退場させなければと、慌てた女苑はとっさに僧衣の袖口から札束を掴み出して庭へ飛び出した。
「ほらほら、こんなところへ来るんじゃないよ貧乏神! お金あげるからこっちへおいで!」
札を頭の上にかかげておどけた風に姉を呼ぶと、紫苑は捨て犬のようにとぼとぼと妹の後へついて敷地から出て行った。
この成功に女苑はほっとした。姉の悲惨さを上手く滑稽さとすり替えた自分の手際に、内心得意にもなった。女苑は門のところから目配せするつもりで縁側の住職を振り返ったが、住職は少しも笑っていなかった。それでようやく、自分がひどい失敗をしたことに気付いた。この通夜に最も場違いで滑稽なのは自分だったということにも。
通夜での一件は翌日から寺中の知るところとなった。内弟子の村紗は「ばかなことやったね」と呆れ半分に同情の手で女苑の肩を叩いた。同じ内弟子の一輪は「なんでそんなことになったのか」真面目に分からない様子で訊ねた。御本尊の寅丸は何も声をかけなかったが、この一件を禅の公案に似たことと考えているらしかった。住職もまた何も言わなかったが、こちらはどういうわけか、ただ悲しんでいるように見えた。
女苑は、住職がこの話題になると隠そうとして隠しきれない悲しみとともに目を閉じるのに苛立ちを感じ、また恥ずかしい気がした。しかしおそらくそれは、住職が姉のことを知らないと思うからではなく、上出来だったはずの自分の冗談が住職には通じなかったからなのだった。
そこで女苑は意地になった。克己的な寺での修行生活の合間に女苑はやたらと滑稽話を披露するようになり、取り澄ました僧たちから哄笑を勝ち得ようと頑張った。人を惹きつける話術になら多少の自負心もあった女苑の頑張りは、寺でもけっこう通用した。一輪相手なら二度に一度は笑わせることができたし、村紗はたいていにやにやしては「私も面白い話を知ってるよ」と張り合った。
話の主人公は決まって姉の紫苑だった。紫苑が髪を長く伸ばし続けていつかは高く売れるかもしれないと夢見ている話や、パンノキという木にパンの実がなると信じて待ち続けている話……これらはなかなかうけがよかった。だが「今度こそ」と意気込んで住職に聞かせにいくと、やはり少しも笑わせることができなかった。そんなとき女苑はいつでも奇妙な恥ずかしさを感じずにはいられないのだった。
そうしたことが一月ほど続いたある日、女苑は今までで一番と思える出来の滑稽話をまとめ上げ、住職に聞かせた。これもやはり紫苑が主人公だった。
「布団と言えばうちの姉さん、食べるものがないときは布団だって手放しちゃうからね。よく道端に茣蓙も敷かずにごろごろ寝てる。でも一度、夜中に寝ている姉さんのところに来て、布団をかけてくれる人がいたんだ。姉さん感激してむっくり起き上がった。するとそいつは驚いてね、そこがごみ捨て場じゃないと気付くと布団持って逃げてっちゃった」
住職は笑わなかった。しばらくは目を閉じて無言のまま、怒っているようにも見えたが、やはり悲しんでいた。それから住職はゆっくりと慎重な微笑を作って「あなたは話がとても上手だから、今度の法会で一席お持ちなさい。面白い話を、ぜひお願いします」と言った。
女苑はその声がひどく優しいので驚いて「あっ」と叫んでしまった。住職が悲しんでいるのは、女苑の話が悲惨なばかりで笑えないからというのではなかった。ただ、女苑のことが本当に哀れだったからで、女苑が住職の誘いを引き受けたのは、「全部分かったよ」と言う代わりだった。
法会まではまだ日があった。披露する話はいくらでもあったが、掴みになる一つ目の話はとっておきのものをと考えた。
「私の姉さんはあんまり貧乏でひもじいんで、あるとき妹の留守に箪笥にしまってあった真珠の首飾りから真珠を一粒とって食べちゃった。そんなもの腹の足しになるはずがないのに、つやつや光って美味しそうだったんだって。我慢しきれず手が出るうちに、とうとう首飾り一本平らげた。私が帰ってきて首飾りを探していると、どうも姉さんの様子がおかしい。肩を掴んで揺さぶってやると、お腹の中からガチャガチャ音がした。姉さん白状して泣き出したよ」
……この話の筋は実を言えばどこかで読んだことのある小説からの拝借だったが、それだけに淀みなく話せる自信があった。もしかしたら、あの住職も笑うのかもしれないと思った。
とやこうするうちに、女苑にとって転機となる出来事があった。その日、早朝の勤行が終わると女苑は住職に呼びつけられ「あなたもそろそろ托鉢に同行してもいい頃です」と言われた。女苑はそんなものには少しも行きたくなかったが、托鉢が何か知らなかった。
他の弟子たちとともに僧衣を着て里へ降りると、鉢を持って人通りの多い道の端に並んで立たされた。何のことやらと女苑のいぶかしむ間に、近くの家から一人の男が出てきて、女苑の持つ鉢の中に米の袋を入れた。男は無言で一礼して、そのままさっさと帰ってしまった。
女苑は寺へ来てからというもの、こんなに驚いたことはなかった。僧たちはここで、施しをもらっている……、「姉さんと同じことをしている!」そうとしか言いようがなかった。と、思うとまた別の人間、今度は貧しそうな老婆がやってきて隣に立つ一輪の鉢に蕪を入れた。とんでもないことだった。
寺へ帰る道すがら、女苑は一輪を捕まえて托鉢についてあれこれと質問を浴びせ、いつまでもはなさなかった。そうして何もかもではなかったが、気の済むまでの説明を全て聞き終えた後、女苑の頭に浮かんだ考えは、どうやら希望に似ていた。急に世の中が広くなったような、あるいは自分の体に今まで気付かなかった便利な手足をもう一本見つけたような感じがした。
その夜女苑は興奮してなかなか寝付かれなかった。ここのところ女苑を取り巻いていたいくつかの考え……疫病神、貧乏神、異変、聖白蓮、通夜、金、滑稽と悲惨、そして托鉢……、それらがまるで当然の帰結のように一本の糸で結び合わされ、初めて目にする考えに変わった。そして「姉さんを助けてやれるかもしれない」という考えが実に数年ぶりに起こった。
それでも、明け方近くには少しだけ夢を見た。夢の中で女苑は白蓮に代わって命蓮寺の住職となっていた。静かな寺で、女苑は誰とも話をせず一日を過ごしていた。午前中は読書し、昼は托鉢、夕方最後の残光の中で手仕事として何か箱のような物を作っていた。慎ましい、つまり度外れて消極的なエゴイズムの夢だった。
翌日から女苑は朝の勤行に姿を見せなくなった。夜明け前に寝床を抜け出すと、里へ降りて夜通し開けている酒場を飲み歩きながら他の酔客と喧嘩をやった。
喧嘩の熱が上がって取っ組み合いになりそうになると、人目につく表通りへ場所を移してちゃんと勝った。勝った女苑は負けた喧嘩相手を大勢の前で笑い飛ばした。この笑いを女苑は自分で「偽札の発行」と呼んでいた。偽札を発行すると、今度は懐から金を出して、怪我の慰謝料には気前良すぎるくらいの額を放ってやった。もし相手がその金を拾って受け取れば、偽札の換金は済んだということになった。
こんなことを方々の店で繰り返したおかげで里の人々の怪訝な視線は女苑の身を預かる命蓮寺にまで向いたが、とにかく噂にはなった。
笑い者にした相手に何も言わず金を置いて去る女苑の振る舞いは、目にした人々に深い人情味を、あるいは反対にさっぱりとした非人情味を感じさせるものだった。この新しい奇妙な小芝居は、喧嘩三昧の悪評に乗って里中に伝わり、一週間後には真似する者が現れ始めた。あとは女苑が何もせずとも、あっという間に新しい流行となった。これに女苑は満足し、思惑の成功を確信した。
このころ女苑の企てたことは非常に単純で、人々の間に新たな決まりごとを二つ持ち込むというだけだった。
決まりごととはつまり、女苑が最初に人々の前で手本を示した通りのこと、「笑った者は笑われた者に金を払わなければならない」「笑われた者は笑った者から金を受け取ってもいい」という単純な二点である。こんなくつろいだ作法が流行らないはずがなかった。
決定的瞬間のための下準備を終えると、女苑は十数日ぶりに寺の手伝いに戻った。その日は境内で汁物の炊き出しを行っていた。女苑は作務衣を着て鍋をかき回しながら、この寺の者たちのことを、要するにとても親切で善良なのだと思った。自分が異変で大勢から財産をまき上げていた同じときにも、優しい人たちは炊き出しの火を焚いていたのだと思った。彼女たちはすでに精一杯よくやっているので、このうえ貧乏神のことまで面倒見てくれなければ嘘だと言う気には、どうしてもなれなかった。
女苑が住職から一席任された法会の前日の夕、女苑は紫苑を探してもう一度里へ下りた。
ちょうど例の通夜があった家の門前を通ったとき、女苑の目の前で針売りの男の子がつまずいて転び、箱の中の針を道の上にばらまいてしまった。子供は慌てて拾い集めようとしたが、こまごまとした針たちは砂埃の中に紛れてひどく見えにくいらしかった。親から預かった大事な売り物を探して砂の上をこわごわ撫でまわす子供の指は震えていた。
道の反対側から、それを見ていた三人の若い女たちが笑い声を上げた。その笑い方が何の躊躇もない実に愉快そうなものだったので、女苑はちょっと驚いた。しかし笑い止んだ後に女たちが子供の傍へ寄り、財布から少額の小銭を投げてやったのを見て納得した。孜々として女苑の配った偽札はこんなところにも出回っていたのだった。
女たちは存分に子供を笑って、そのお礼か、お詫びか、あるいはまったく別の良識として金を払った。子供は皆に笑われたことに誇りか、寛大さを覚えて、あるいは機械的な無感動とともに金を受け取ってやる。まさに女苑の思い描いたとおりの経済が成立していた。女苑はわずかな金で、両者に言い訳を売ったのだった。悲惨を滑稽に、そして二枚か三枚の小銭に変える、ほんのささやかな錬金術だった。
いったい、もしこの笑いから投げ銭への連想がなかったなら、女たちは駆け寄って自分も指を刺されながら針を探してやっただろうか。しかし今日、ともかくこの子は小銭を拾って帰ったのだった。
子供がどこかへ立ち去ったあとも、女苑はしばらくその場で立ち尽くして、今見た光景の意味を考えていた。そこへ背後から通りがかった紫苑が声をかけてきた。また「お金貸して」と言う姉に、女苑は首を横に振って押しとどめ、「姉さん、明日の昼必ず命蓮寺に来てね。中に入らなくってもいいから、法会に来た人の出入りする山門の前で座っててほしいの」と強く頼み込んだ。「きっと、帰りは皆でいっぱい恵んでくれるわよ!」
当日の客入りは女苑の予想を超える賑わいとなった。年寄りばかりになるだろうかと思っていると、はしゃいで走り回る子供も多い。寒さの和らぎ始めたこの時期に、趣ある境内に広々とむしろを敷いて食事までふるまわれるこの寺の法会は、足を延ばすにはちょうどいい催しらしかった。
まず初めに一輪が入道雲で作った大仏を本堂の後ろに出現させて客たちを盛り上げた。続いて住職が前へ出て、あの厳かな声でする偉い話を聴かせた。じつのところ、これだけで法会の目玉はほぼ済んだと言ってよかった。次におにぎりとお茶が配られ、最後に御本尊の寅丸が話をして閉会となる。女苑の出番は食事中の余興にあたる時間だった。
「上手くいくといいですね」
計画の総仕上げとなる舞台を直前に控え、鏡の前で重たい袈裟を引っ張り回していた女苑のところへ住職が来て言った。
「ここのところ、いろいろと一生懸命だったのでしょう」
「気にしないでよ。たぶんこれも、あんたには笑えない話」
女苑のそっけない返事に住職は僅かに微笑して「そうかもしれませんね」と言った。「あなたは、賢い子……」
時間が来た。表で進行役の村紗が女苑の名前を呼んだ。女苑はわざと修行僧らしくもなく走って登場し、ぴょんと跳んで座布団の上に正座した。
ぐるりと見渡すと、五十人ほどの人間たちがおにぎりをほおばりつつ、一様に間の抜けた目を壇上の女苑へと向けていた。女苑がパチパチパチと自分で手を叩いて見せると、さらに間の抜けた音が響いてさっそく数人の顔に笑いが浮かんだ。どうやら仕事は容易そうに思えた。
女苑は得意の愛嬌ある仕草でぽんと膝を叩き、軽く息を吸い込んで例の真珠の首飾りの話を始めようとした。しかしこのとき、妙なことが起こった。
「私の……姉さんは……」
そこまで言って、女苑は声が出なくなった。緊張したのではなかった。突然心の中に暗い影が差しこんできて、全身の力が抜けてしまったのだった。女苑は声が出ないことよりも、自分が今それを口にしようとしていることの方が信じられない気持ちになった。まるで夢うつつに身投げしようとしていることに直前になって気付いたようなものだった。ただ、女苑はもう失敗してしまっていた。
「私の、私の姉さんは……」
「ふっ」と、客の中から鼻息が漏れた。笑っているのだった。この笑いに女苑はうろたえた。少しの沈黙があり、それがいたたまれないほど滑稽だった。客たちはこれにいきなりどっと爆発して大笑いした。笑いが呼び込んだ笑いはまた次の笑いをひっきりなしに呼び、いつまでも途切れる様子がない。境内が揺れだした。
呆然とする女苑の膝の上に、何か小さいものが当たった。大粒の雨でも降ってきたかと思ったが、見るとそれは穴の空いた小銭だった。それに続いて皆が次々と小銭を投げた。そこらじゅう小銭の跳ねまわってぶつかり合うピンピンという音であふれた。
いくつかの奇妙な実感があった。突然、自分が本当に世界中の人々から好かれても嫌われてもいないのだという、過去何度か味わったことのある実感。きっと紫苑も今ごろは、三門の前でこの笑い声を聞きながら同じことを感じているに違いないと思った。
女苑は客たちと一緒になって笑いだした。このとき女苑を襲った笑いの発作は、まるで天高くから落とされた皿が地面に衝突して微塵に砕け散るその瞬間に似ていた。非常に珍しく、そしてみごとな見物なので、誰か自分以外の証人が居て欲しいという素朴な感情。しかしとっさに住職の顔しか浮かばなかった。
「おーい、おーい白蓮、おーい」
降り注ぐ小銭はまだまだ勢いが落ちなかった。
住職がなかなか来てくれないので、女苑の耳にはとうとう安物くさい滑稽な芝居の終わりを告げる、あのチャンチャンという音が聴こえた。
紫苑と女苑は双子の姉妹だった。紫苑は姉で貧乏だった。女苑は妹で浪費家で、悪さばかりするので里のはずれの命蓮寺に修行へやられていた。女苑は私だった。
冬、里で若い女が死んだ。通夜をするために僧たちが呼ばれ、女苑も同行させられた。通夜の席で住職の白蓮は厳かな声で語り、偉い話をした。死んだ女の家の者たちは皆ありがたがって泣いた。女苑は退屈でしかたなかったが、住職の話には上手いものだと感心した。
女苑が感心していると、雪の降る庭から誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。もしやと思いふすまを開けると、はたして姉の紫苑が敷地に入り込んでいる。紫苑はいつものように腹を空かせていて、「何かちょうだい」と縁側から座敷へ這い上がろうとしていた。これを見た家の者たちは困惑し、貧乏神と住職の顔を不安そうに交互に見比べた。
場違いな姉を今すぐ退場させなければと、慌てた女苑はとっさに僧衣の袖口から札束を掴み出して庭へ飛び出した。
「ほらほら、こんなところへ来るんじゃないよ貧乏神! お金あげるからこっちへおいで!」
札を頭の上にかかげておどけた風に姉を呼ぶと、紫苑は捨て犬のようにとぼとぼと妹の後へついて敷地から出て行った。
この成功に女苑はほっとした。姉の悲惨さを上手く滑稽さとすり替えた自分の手際に、内心得意にもなった。女苑は門のところから目配せするつもりで縁側の住職を振り返ったが、住職は少しも笑っていなかった。それでようやく、自分がひどい失敗をしたことに気付いた。この通夜に最も場違いで滑稽なのは自分だったということにも。
通夜での一件は翌日から寺中の知るところとなった。内弟子の村紗は「ばかなことやったね」と呆れ半分に同情の手で女苑の肩を叩いた。同じ内弟子の一輪は「なんでそんなことになったのか」真面目に分からない様子で訊ねた。御本尊の寅丸は何も声をかけなかったが、この一件を禅の公案に似たことと考えているらしかった。住職もまた何も言わなかったが、こちらはどういうわけか、ただ悲しんでいるように見えた。
女苑は、住職がこの話題になると隠そうとして隠しきれない悲しみとともに目を閉じるのに苛立ちを感じ、また恥ずかしい気がした。しかしおそらくそれは、住職が姉のことを知らないと思うからではなく、上出来だったはずの自分の冗談が住職には通じなかったからなのだった。
そこで女苑は意地になった。克己的な寺での修行生活の合間に女苑はやたらと滑稽話を披露するようになり、取り澄ました僧たちから哄笑を勝ち得ようと頑張った。人を惹きつける話術になら多少の自負心もあった女苑の頑張りは、寺でもけっこう通用した。一輪相手なら二度に一度は笑わせることができたし、村紗はたいていにやにやしては「私も面白い話を知ってるよ」と張り合った。
話の主人公は決まって姉の紫苑だった。紫苑が髪を長く伸ばし続けていつかは高く売れるかもしれないと夢見ている話や、パンノキという木にパンの実がなると信じて待ち続けている話……これらはなかなかうけがよかった。だが「今度こそ」と意気込んで住職に聞かせにいくと、やはり少しも笑わせることができなかった。そんなとき女苑はいつでも奇妙な恥ずかしさを感じずにはいられないのだった。
そうしたことが一月ほど続いたある日、女苑は今までで一番と思える出来の滑稽話をまとめ上げ、住職に聞かせた。これもやはり紫苑が主人公だった。
「布団と言えばうちの姉さん、食べるものがないときは布団だって手放しちゃうからね。よく道端に茣蓙も敷かずにごろごろ寝てる。でも一度、夜中に寝ている姉さんのところに来て、布団をかけてくれる人がいたんだ。姉さん感激してむっくり起き上がった。するとそいつは驚いてね、そこがごみ捨て場じゃないと気付くと布団持って逃げてっちゃった」
住職は笑わなかった。しばらくは目を閉じて無言のまま、怒っているようにも見えたが、やはり悲しんでいた。それから住職はゆっくりと慎重な微笑を作って「あなたは話がとても上手だから、今度の法会で一席お持ちなさい。面白い話を、ぜひお願いします」と言った。
女苑はその声がひどく優しいので驚いて「あっ」と叫んでしまった。住職が悲しんでいるのは、女苑の話が悲惨なばかりで笑えないからというのではなかった。ただ、女苑のことが本当に哀れだったからで、女苑が住職の誘いを引き受けたのは、「全部分かったよ」と言う代わりだった。
法会まではまだ日があった。披露する話はいくらでもあったが、掴みになる一つ目の話はとっておきのものをと考えた。
「私の姉さんはあんまり貧乏でひもじいんで、あるとき妹の留守に箪笥にしまってあった真珠の首飾りから真珠を一粒とって食べちゃった。そんなもの腹の足しになるはずがないのに、つやつや光って美味しそうだったんだって。我慢しきれず手が出るうちに、とうとう首飾り一本平らげた。私が帰ってきて首飾りを探していると、どうも姉さんの様子がおかしい。肩を掴んで揺さぶってやると、お腹の中からガチャガチャ音がした。姉さん白状して泣き出したよ」
……この話の筋は実を言えばどこかで読んだことのある小説からの拝借だったが、それだけに淀みなく話せる自信があった。もしかしたら、あの住職も笑うのかもしれないと思った。
とやこうするうちに、女苑にとって転機となる出来事があった。その日、早朝の勤行が終わると女苑は住職に呼びつけられ「あなたもそろそろ托鉢に同行してもいい頃です」と言われた。女苑はそんなものには少しも行きたくなかったが、托鉢が何か知らなかった。
他の弟子たちとともに僧衣を着て里へ降りると、鉢を持って人通りの多い道の端に並んで立たされた。何のことやらと女苑のいぶかしむ間に、近くの家から一人の男が出てきて、女苑の持つ鉢の中に米の袋を入れた。男は無言で一礼して、そのままさっさと帰ってしまった。
女苑は寺へ来てからというもの、こんなに驚いたことはなかった。僧たちはここで、施しをもらっている……、「姉さんと同じことをしている!」そうとしか言いようがなかった。と、思うとまた別の人間、今度は貧しそうな老婆がやってきて隣に立つ一輪の鉢に蕪を入れた。とんでもないことだった。
寺へ帰る道すがら、女苑は一輪を捕まえて托鉢についてあれこれと質問を浴びせ、いつまでもはなさなかった。そうして何もかもではなかったが、気の済むまでの説明を全て聞き終えた後、女苑の頭に浮かんだ考えは、どうやら希望に似ていた。急に世の中が広くなったような、あるいは自分の体に今まで気付かなかった便利な手足をもう一本見つけたような感じがした。
その夜女苑は興奮してなかなか寝付かれなかった。ここのところ女苑を取り巻いていたいくつかの考え……疫病神、貧乏神、異変、聖白蓮、通夜、金、滑稽と悲惨、そして托鉢……、それらがまるで当然の帰結のように一本の糸で結び合わされ、初めて目にする考えに変わった。そして「姉さんを助けてやれるかもしれない」という考えが実に数年ぶりに起こった。
それでも、明け方近くには少しだけ夢を見た。夢の中で女苑は白蓮に代わって命蓮寺の住職となっていた。静かな寺で、女苑は誰とも話をせず一日を過ごしていた。午前中は読書し、昼は托鉢、夕方最後の残光の中で手仕事として何か箱のような物を作っていた。慎ましい、つまり度外れて消極的なエゴイズムの夢だった。
翌日から女苑は朝の勤行に姿を見せなくなった。夜明け前に寝床を抜け出すと、里へ降りて夜通し開けている酒場を飲み歩きながら他の酔客と喧嘩をやった。
喧嘩の熱が上がって取っ組み合いになりそうになると、人目につく表通りへ場所を移してちゃんと勝った。勝った女苑は負けた喧嘩相手を大勢の前で笑い飛ばした。この笑いを女苑は自分で「偽札の発行」と呼んでいた。偽札を発行すると、今度は懐から金を出して、怪我の慰謝料には気前良すぎるくらいの額を放ってやった。もし相手がその金を拾って受け取れば、偽札の換金は済んだということになった。
こんなことを方々の店で繰り返したおかげで里の人々の怪訝な視線は女苑の身を預かる命蓮寺にまで向いたが、とにかく噂にはなった。
笑い者にした相手に何も言わず金を置いて去る女苑の振る舞いは、目にした人々に深い人情味を、あるいは反対にさっぱりとした非人情味を感じさせるものだった。この新しい奇妙な小芝居は、喧嘩三昧の悪評に乗って里中に伝わり、一週間後には真似する者が現れ始めた。あとは女苑が何もせずとも、あっという間に新しい流行となった。これに女苑は満足し、思惑の成功を確信した。
このころ女苑の企てたことは非常に単純で、人々の間に新たな決まりごとを二つ持ち込むというだけだった。
決まりごととはつまり、女苑が最初に人々の前で手本を示した通りのこと、「笑った者は笑われた者に金を払わなければならない」「笑われた者は笑った者から金を受け取ってもいい」という単純な二点である。こんなくつろいだ作法が流行らないはずがなかった。
決定的瞬間のための下準備を終えると、女苑は十数日ぶりに寺の手伝いに戻った。その日は境内で汁物の炊き出しを行っていた。女苑は作務衣を着て鍋をかき回しながら、この寺の者たちのことを、要するにとても親切で善良なのだと思った。自分が異変で大勢から財産をまき上げていた同じときにも、優しい人たちは炊き出しの火を焚いていたのだと思った。彼女たちはすでに精一杯よくやっているので、このうえ貧乏神のことまで面倒見てくれなければ嘘だと言う気には、どうしてもなれなかった。
女苑が住職から一席任された法会の前日の夕、女苑は紫苑を探してもう一度里へ下りた。
ちょうど例の通夜があった家の門前を通ったとき、女苑の目の前で針売りの男の子がつまずいて転び、箱の中の針を道の上にばらまいてしまった。子供は慌てて拾い集めようとしたが、こまごまとした針たちは砂埃の中に紛れてひどく見えにくいらしかった。親から預かった大事な売り物を探して砂の上をこわごわ撫でまわす子供の指は震えていた。
道の反対側から、それを見ていた三人の若い女たちが笑い声を上げた。その笑い方が何の躊躇もない実に愉快そうなものだったので、女苑はちょっと驚いた。しかし笑い止んだ後に女たちが子供の傍へ寄り、財布から少額の小銭を投げてやったのを見て納得した。孜々として女苑の配った偽札はこんなところにも出回っていたのだった。
女たちは存分に子供を笑って、そのお礼か、お詫びか、あるいはまったく別の良識として金を払った。子供は皆に笑われたことに誇りか、寛大さを覚えて、あるいは機械的な無感動とともに金を受け取ってやる。まさに女苑の思い描いたとおりの経済が成立していた。女苑はわずかな金で、両者に言い訳を売ったのだった。悲惨を滑稽に、そして二枚か三枚の小銭に変える、ほんのささやかな錬金術だった。
いったい、もしこの笑いから投げ銭への連想がなかったなら、女たちは駆け寄って自分も指を刺されながら針を探してやっただろうか。しかし今日、ともかくこの子は小銭を拾って帰ったのだった。
子供がどこかへ立ち去ったあとも、女苑はしばらくその場で立ち尽くして、今見た光景の意味を考えていた。そこへ背後から通りがかった紫苑が声をかけてきた。また「お金貸して」と言う姉に、女苑は首を横に振って押しとどめ、「姉さん、明日の昼必ず命蓮寺に来てね。中に入らなくってもいいから、法会に来た人の出入りする山門の前で座っててほしいの」と強く頼み込んだ。「きっと、帰りは皆でいっぱい恵んでくれるわよ!」
当日の客入りは女苑の予想を超える賑わいとなった。年寄りばかりになるだろうかと思っていると、はしゃいで走り回る子供も多い。寒さの和らぎ始めたこの時期に、趣ある境内に広々とむしろを敷いて食事までふるまわれるこの寺の法会は、足を延ばすにはちょうどいい催しらしかった。
まず初めに一輪が入道雲で作った大仏を本堂の後ろに出現させて客たちを盛り上げた。続いて住職が前へ出て、あの厳かな声でする偉い話を聴かせた。じつのところ、これだけで法会の目玉はほぼ済んだと言ってよかった。次におにぎりとお茶が配られ、最後に御本尊の寅丸が話をして閉会となる。女苑の出番は食事中の余興にあたる時間だった。
「上手くいくといいですね」
計画の総仕上げとなる舞台を直前に控え、鏡の前で重たい袈裟を引っ張り回していた女苑のところへ住職が来て言った。
「ここのところ、いろいろと一生懸命だったのでしょう」
「気にしないでよ。たぶんこれも、あんたには笑えない話」
女苑のそっけない返事に住職は僅かに微笑して「そうかもしれませんね」と言った。「あなたは、賢い子……」
時間が来た。表で進行役の村紗が女苑の名前を呼んだ。女苑はわざと修行僧らしくもなく走って登場し、ぴょんと跳んで座布団の上に正座した。
ぐるりと見渡すと、五十人ほどの人間たちがおにぎりをほおばりつつ、一様に間の抜けた目を壇上の女苑へと向けていた。女苑がパチパチパチと自分で手を叩いて見せると、さらに間の抜けた音が響いてさっそく数人の顔に笑いが浮かんだ。どうやら仕事は容易そうに思えた。
女苑は得意の愛嬌ある仕草でぽんと膝を叩き、軽く息を吸い込んで例の真珠の首飾りの話を始めようとした。しかしこのとき、妙なことが起こった。
「私の……姉さんは……」
そこまで言って、女苑は声が出なくなった。緊張したのではなかった。突然心の中に暗い影が差しこんできて、全身の力が抜けてしまったのだった。女苑は声が出ないことよりも、自分が今それを口にしようとしていることの方が信じられない気持ちになった。まるで夢うつつに身投げしようとしていることに直前になって気付いたようなものだった。ただ、女苑はもう失敗してしまっていた。
「私の、私の姉さんは……」
「ふっ」と、客の中から鼻息が漏れた。笑っているのだった。この笑いに女苑はうろたえた。少しの沈黙があり、それがいたたまれないほど滑稽だった。客たちはこれにいきなりどっと爆発して大笑いした。笑いが呼び込んだ笑いはまた次の笑いをひっきりなしに呼び、いつまでも途切れる様子がない。境内が揺れだした。
呆然とする女苑の膝の上に、何か小さいものが当たった。大粒の雨でも降ってきたかと思ったが、見るとそれは穴の空いた小銭だった。それに続いて皆が次々と小銭を投げた。そこらじゅう小銭の跳ねまわってぶつかり合うピンピンという音であふれた。
いくつかの奇妙な実感があった。突然、自分が本当に世界中の人々から好かれても嫌われてもいないのだという、過去何度か味わったことのある実感。きっと紫苑も今ごろは、三門の前でこの笑い声を聞きながら同じことを感じているに違いないと思った。
女苑は客たちと一緒になって笑いだした。このとき女苑を襲った笑いの発作は、まるで天高くから落とされた皿が地面に衝突して微塵に砕け散るその瞬間に似ていた。非常に珍しく、そしてみごとな見物なので、誰か自分以外の証人が居て欲しいという素朴な感情。しかしとっさに住職の顔しか浮かばなかった。
「おーい、おーい白蓮、おーい」
降り注ぐ小銭はまだまだ勢いが落ちなかった。
住職がなかなか来てくれないので、女苑の耳にはとうとう安物くさい滑稽な芝居の終わりを告げる、あのチャンチャンという音が聴こえた。
私には少なからず考えさせられるお話でした。ありがとうございました。
面白かったです。
女苑の画策が無駄に大掛かりでよかったです