「なんだこれ」
あまりの衝撃に心の声が口に出た。それくらい驚くべきことなのだから仕方ない。
時刻は午前0時。丑三つ時の少し前。自室のベッドの上であぐらをかいて座っていた高坂健二は、ひとり驚きの声をあげた。
健二の瞳は正面に据え置かれたディスプレイではなく、その手に握るスマートフォンの画面に釘付けになっている。
大きな姿見の前に立ち、緊張した表情を浮かべるひとりの女性。左足にクロスさせる形で右足を前に出し、左手でピースサイン、右手に持つスマホで自らを撮影している。
触れると心地よい弾みで押し返してきそうなふわふわな髪。女子高生らしい明るさは放たず、どこか陰鬱で、ぎこちなさを感じる佇まい。そして何よりこの制服。
間違いなく、彼のクラスメートである宇佐見菫子本人だった。
しかも、ちょっとかわいい。
健二がこの東深見高校に入学してからもうすぐ1年。確かに彼女は変わった行動を取ることが多かった。
入学式のすぐあと。そのホームルームで「私はお前達とは違う」と絶叫したり。休み時間、声をかけても無視を続けたり。ヒフークラブという部活を勝手に立ち上げ先生達に何度も呼び出されたり。
クラスのグループに混ざらずひとりを貫いたり。時折女子グループに羨むような視線を向けたり。
頑なにクラスの輪に混ざろうとしなかったのにも関わらず今更グループに羨望の眼差しを向ける彼女の心中を、健二は理解することが出来なかった。
しかし、と健二は画面を見つめる。画面越しのクラスメートは相変わらず緊張した笑顔のままだ。更新をしてみると、また新たな投稿があった。
今度は映像。愛嬌を振りまこうと笑顔で首をかしげる菫子。強ばった口元が、自分の机に顔を向け続ける彼女を想起させる。
健二の記憶が正しければ、菫子はこんなことをするような人ではなかった。否、できるような人ではなかった。
級友に声をかけられる度に体が跳ねる彼女に、自らの容姿をインターネット上に放流する勇気があるのか。
お互いが顔を対面する教室で出来るだけ目立たないよう振る舞う彼女が、姿の見えない不特定多数に向けて自分の存在をアピールするのか。
そもそもなぜこんなにも目が離せないのか。間欠泉の如く噴出する疑問は、瞬く間に健二の脳内を埋め尽くしていく。
しかし。そこまでだった。
疑問は系統樹のように枝分かれしていくも、所詮は影の薄いクラスメート。
教室の片隅でおどおどしている人間が自撮りをSNSに投稿しようと、自分に影響はない。昨日も登校していたはずなのに、教室にいたかさえ思い出せない程度の女子に割く時間はもう過ぎた。
この間、わずか4分。
数学の時間に出された課題を思い出した健二は、舌打ちをしつつも床においたカバンに手を伸ばし、ペンケースとプリントを取り出す。
「なんでこんなことを思い付いたんだよローマ人は」
そう呟く健二はもう、菫子のことなんてすっかり忘れていた。
でもなぜか、課題に集中できなかった。
健二がその顔を驚きに染める数時間前のこと。
神奈川県のど真ん中よりもちょっと西側にある、小田急江ノ島線大和駅。そこから少し歩いた自然公園を、ひとりの少女が歩いていた。
近くの高速道路から聞こえてくるエンジン音をBGMに、宇佐見菫子は終わりの無い思案に耽っていた。桜の木に囲まれた遊歩道は、あわい桃色の絨毯へと姿を変えている。
「卒業式みたいだなぁ」
宇佐見菫子は、スマホの画面を見つつ呟いた。眩い光を放つその画面には、数時間後に健二を驚かす写真が映し出されている。
自らを写した写真は、いまや600人を越す人間の視線を一身に受けていた。
「これで高校一年の私は世界に刻めたかしら」
また、呟く。
宇佐見菫子は恐れていた。高校に入学したことで、中学生の自分が忘れ去られてしまうことを。
私を見てほしい。私を忘れないでいて欲しい。
だけど、そんなこと。不可能だと、心のどこかではわかっていた。
「もしかしたら、私は忘れないで欲しいんじゃなくて、忘れられることが怖かったんじゃないかと思ったんだけどな」
忘れられることが怖いのなら、覚えられなければ良い。
そのことに気が付いたのは入学式のあとだった。あんなことをしてしまったから、そう簡単にはいかないと思った。
だからクラスメート達との交流を断つことで、私という存在を少しでも薄めようとした。
「ま、今となってはどうでもいいんだけどね」
でも、出来なかった。やっぱり忘れてほしくなかった。そのことに気付いた時にはもう手遅れで、クラスにはグループが生まれていて、菫子の入る余裕はなかった。
だからもう。諦めることにした。高校一年の教室という現実から目を逸らして、別の世界で生きることに決めた。
この先行きが見えない行き詰まった現状を捨てて、新たな世界へと旅立とうとした。
けれどもやっぱり、忘れられることは怖いから。寂しいから。こうして、半永久的に保存される電子世界に自分をばらまいた。
「これでもう、安心ね」
小さく呟いた彼女は、薄い微笑みを顔中に湛えながら足を進める。胸の内でデジタルタトゥーを撫でながら。
一歩踏み出すごとに、世界が変わっていく。
ついさっきまで灰色だったはずの世界に色が宿っていく。暗澹たる闇に包まれていた視界に、一条の光が射す。
それはひとつ、またひとつと。世界を照らしていく。
雨雲の隙間から射す、薄い光芒のように。ポツポツと、明るくなっていく。
真っ黒が、モノトーンに。そして真っ白に。段々と、眩い光に包まれていく。
スポットライトに照らされていく。
気が付けば、私は舞台に立っていた。目の前の観客席は満員。みな笑顔で拍手をしている。
「もう一度、大きな拍手をお願い致します」
劇場に響くアナウンスに促され、一層強くなる拍手。それらに感謝の意を込めて、頭を下げる。
未だ鳴り止まない拍手の雨。
あまりの嬉しさについ、口角が緩んでしまう。
下を向いて、瞳を閉じる、垂れ幕が下がってくる気配を感じる。
「本当に、これで終わりなんだな」
そう呟くと同時に、重たい布が擦れる音が聞こえた。
まさに感動のフィナーレ。高校一年の千秋楽。
分厚い垂れ幕が、降りた。
0時を告げる鐘が、駅前広場に響き渡る。
菫子は自宅へと歩きだす。
「今日から私は高校二年生。一年生の私とはもうお別れよ」
もう怖くない。だって高校一年生の私は600人に覚えてもらっているもの。
そんな彼女の立ち姿は、クラスメートの健二が知る宇佐見菫子とは真逆の、希望に後押しされた自信に満ちていた。
あまりの衝撃に心の声が口に出た。それくらい驚くべきことなのだから仕方ない。
時刻は午前0時。丑三つ時の少し前。自室のベッドの上であぐらをかいて座っていた高坂健二は、ひとり驚きの声をあげた。
健二の瞳は正面に据え置かれたディスプレイではなく、その手に握るスマートフォンの画面に釘付けになっている。
大きな姿見の前に立ち、緊張した表情を浮かべるひとりの女性。左足にクロスさせる形で右足を前に出し、左手でピースサイン、右手に持つスマホで自らを撮影している。
触れると心地よい弾みで押し返してきそうなふわふわな髪。女子高生らしい明るさは放たず、どこか陰鬱で、ぎこちなさを感じる佇まい。そして何よりこの制服。
間違いなく、彼のクラスメートである宇佐見菫子本人だった。
しかも、ちょっとかわいい。
健二がこの東深見高校に入学してからもうすぐ1年。確かに彼女は変わった行動を取ることが多かった。
入学式のすぐあと。そのホームルームで「私はお前達とは違う」と絶叫したり。休み時間、声をかけても無視を続けたり。ヒフークラブという部活を勝手に立ち上げ先生達に何度も呼び出されたり。
クラスのグループに混ざらずひとりを貫いたり。時折女子グループに羨むような視線を向けたり。
頑なにクラスの輪に混ざろうとしなかったのにも関わらず今更グループに羨望の眼差しを向ける彼女の心中を、健二は理解することが出来なかった。
しかし、と健二は画面を見つめる。画面越しのクラスメートは相変わらず緊張した笑顔のままだ。更新をしてみると、また新たな投稿があった。
今度は映像。愛嬌を振りまこうと笑顔で首をかしげる菫子。強ばった口元が、自分の机に顔を向け続ける彼女を想起させる。
健二の記憶が正しければ、菫子はこんなことをするような人ではなかった。否、できるような人ではなかった。
級友に声をかけられる度に体が跳ねる彼女に、自らの容姿をインターネット上に放流する勇気があるのか。
お互いが顔を対面する教室で出来るだけ目立たないよう振る舞う彼女が、姿の見えない不特定多数に向けて自分の存在をアピールするのか。
そもそもなぜこんなにも目が離せないのか。間欠泉の如く噴出する疑問は、瞬く間に健二の脳内を埋め尽くしていく。
しかし。そこまでだった。
疑問は系統樹のように枝分かれしていくも、所詮は影の薄いクラスメート。
教室の片隅でおどおどしている人間が自撮りをSNSに投稿しようと、自分に影響はない。昨日も登校していたはずなのに、教室にいたかさえ思い出せない程度の女子に割く時間はもう過ぎた。
この間、わずか4分。
数学の時間に出された課題を思い出した健二は、舌打ちをしつつも床においたカバンに手を伸ばし、ペンケースとプリントを取り出す。
「なんでこんなことを思い付いたんだよローマ人は」
そう呟く健二はもう、菫子のことなんてすっかり忘れていた。
でもなぜか、課題に集中できなかった。
健二がその顔を驚きに染める数時間前のこと。
神奈川県のど真ん中よりもちょっと西側にある、小田急江ノ島線大和駅。そこから少し歩いた自然公園を、ひとりの少女が歩いていた。
近くの高速道路から聞こえてくるエンジン音をBGMに、宇佐見菫子は終わりの無い思案に耽っていた。桜の木に囲まれた遊歩道は、あわい桃色の絨毯へと姿を変えている。
「卒業式みたいだなぁ」
宇佐見菫子は、スマホの画面を見つつ呟いた。眩い光を放つその画面には、数時間後に健二を驚かす写真が映し出されている。
自らを写した写真は、いまや600人を越す人間の視線を一身に受けていた。
「これで高校一年の私は世界に刻めたかしら」
また、呟く。
宇佐見菫子は恐れていた。高校に入学したことで、中学生の自分が忘れ去られてしまうことを。
私を見てほしい。私を忘れないでいて欲しい。
だけど、そんなこと。不可能だと、心のどこかではわかっていた。
「もしかしたら、私は忘れないで欲しいんじゃなくて、忘れられることが怖かったんじゃないかと思ったんだけどな」
忘れられることが怖いのなら、覚えられなければ良い。
そのことに気が付いたのは入学式のあとだった。あんなことをしてしまったから、そう簡単にはいかないと思った。
だからクラスメート達との交流を断つことで、私という存在を少しでも薄めようとした。
「ま、今となってはどうでもいいんだけどね」
でも、出来なかった。やっぱり忘れてほしくなかった。そのことに気付いた時にはもう手遅れで、クラスにはグループが生まれていて、菫子の入る余裕はなかった。
だからもう。諦めることにした。高校一年の教室という現実から目を逸らして、別の世界で生きることに決めた。
この先行きが見えない行き詰まった現状を捨てて、新たな世界へと旅立とうとした。
けれどもやっぱり、忘れられることは怖いから。寂しいから。こうして、半永久的に保存される電子世界に自分をばらまいた。
「これでもう、安心ね」
小さく呟いた彼女は、薄い微笑みを顔中に湛えながら足を進める。胸の内でデジタルタトゥーを撫でながら。
一歩踏み出すごとに、世界が変わっていく。
ついさっきまで灰色だったはずの世界に色が宿っていく。暗澹たる闇に包まれていた視界に、一条の光が射す。
それはひとつ、またひとつと。世界を照らしていく。
雨雲の隙間から射す、薄い光芒のように。ポツポツと、明るくなっていく。
真っ黒が、モノトーンに。そして真っ白に。段々と、眩い光に包まれていく。
スポットライトに照らされていく。
気が付けば、私は舞台に立っていた。目の前の観客席は満員。みな笑顔で拍手をしている。
「もう一度、大きな拍手をお願い致します」
劇場に響くアナウンスに促され、一層強くなる拍手。それらに感謝の意を込めて、頭を下げる。
未だ鳴り止まない拍手の雨。
あまりの嬉しさについ、口角が緩んでしまう。
下を向いて、瞳を閉じる、垂れ幕が下がってくる気配を感じる。
「本当に、これで終わりなんだな」
そう呟くと同時に、重たい布が擦れる音が聞こえた。
まさに感動のフィナーレ。高校一年の千秋楽。
分厚い垂れ幕が、降りた。
0時を告げる鐘が、駅前広場に響き渡る。
菫子は自宅へと歩きだす。
「今日から私は高校二年生。一年生の私とはもうお別れよ」
もう怖くない。だって高校一年生の私は600人に覚えてもらっているもの。
そんな彼女の立ち姿は、クラスメートの健二が知る宇佐見菫子とは真逆の、希望に後押しされた自信に満ちていた。
そんな青春時代らしい、どこかある種の矛盾と面倒くささが短い文にぎゅっと込められた、とても素敵な作品でした。
思春期真っ盛り特有の自意識とある種の面倒くさい性格がとてもよかったです
董子は東方キャラで一番自撮りが似合いますね