いい天気、というにはやや雲が多く、だからといって雨が降りそうかといえばそんな気配もなさそうな空模様の日。博麗神社の居間では卓袱台を挟んで二人の人物が向かい合っていたがお互いに言葉はなく、一人は手元の本に目を落とし、もう一人は目の前の皿に置かれた梅の実入りパウンドケーキを、黙々と箸で食べていた。
ここに存在するのは風が木々を揺らす音、上空から振って来る鳥の鳴き声、中身のつまった黄金色のケーキを箸で切り分ける際に時折鳴る、皿と箸がぶつかる音。それらくらいしかない、静かな時間が流れていた。
「あのさ」
そんな静寂の中、本を読んでいた方、霊夢が顔を上げて、もう一人に話しかける。
「…………はい」
話を振られたもう一人は咀嚼していたケーキを特に急ぎもせずにしっかりと食し飲み込むと、遅れてそれに応答する。皿の上のケーキは、丁度半分がなくなったところだった。
「何か、本でも持ってくる?」
「いえ、お構いなく」
「そ」
霊夢からの提案を、もう一人は首を静かに振って断り、霊夢はそれを受けて短く了解の返事をする。必要以上に勧めることはしなかった。こいつは私に遠慮するような奴じゃないから本当に要らないんだろう、ならいいや、と。
そして、霊夢は本の続きを読もうと再び手元へ視線を落とす。だが、目が書かれた文字を追う直前、もう一人は開けっ放しの襖から神社の外に目をやると、ぽつりと呟いた。
「静かですね」
「あんたしかいないからね。誰かしら居ると、結構騒がしいんだけど」
霊夢は視線をもう一度持ち上げて向き直すと、その誰かしら達を思い浮かべる。魔理沙、萃香、妖精軍団等々。すると、もう一人は小さく笑い、霊夢とまた向かい合う。
「ああ、確かにその面々を考えると騒がしそうです」
「でしょ。だからたまには」
「こんな日もないと疲れちゃう、ですか。でも、私の相手の方が疲れませんか?」
「全然。だって」
「こっちで忙しいから、碌に相手してない……。ふふ、それもそうですね。私の方は、どうせ後で構わないといけませんしね」
「そういうこと」
霊夢はもう一人の淑やかな笑顔に若干の呆れを交えてそう返すと、改めて手元の本に心を向ける。何故、目の前の人物は毎回のように会話を先回ることが出来るのか、自身の思考を言葉として発する前に回答が返ってくるのかなんて、不思議にも思わなかった。
それもそのはず、現在霊夢の目の前に座っている騒がしくない客とは、心を読む能力を持つ妖怪、古明地さとりだったからだ。
何故、地底から滅多に出ることがない、地霊殿の主が博麗神社に居るのか。そして、その目の前で霊夢は本を読み、さとりもそれに何も言わず見守っているのか。それにはある理由があった。
大本の始まりは、神社に遊びに来たお燐と霊夢の、他愛ないお喋りだった。そこで、最近読書にハマってて、なんて話を霊夢がしたところ、数日後再び神社に来たお燐に、あることを持ち掛けられたのだ。
曰く、さとり様が書いている小説の試読をしてくれないか、と。その当人、さとり直々の命で。
これだけではさっぱりなので詳しく話を聞くと、何でも、さとりは趣味の物書きが高じて小説家として活動をしていたのだ。それも、霊夢もよく知るアガサクリスQのように、匿名作家として。
そんな地底在住の匿名作家は自著の調整を、ペット兼右腕でもあるお燐と、取材を通じて交流するようになった天狗の新聞記者、はたてに試読と批評をしてもらい行っているのだが、その三人目になって欲しい、という頼みらしい。
そして、ここからが一番大事なところだとお燐は前置きした後、もしも引き受けてくれたらその作品を書き上げた際に完成品をサイン付きでプレゼント、とこの依頼の報酬を提示して、主人からの話を終えた。
霊夢はお燐の話を一応最後まで聞いてから、結局説明されなかったある疑問をお燐にぶつけた。
何故、自分なのかと。
するとお燐は、そんなのは想定済みの質問だと主人の先見性を称えた後、顔見知りの方が意見のやり取りや原稿の受け渡しもやりやすいから、という非常にシンプルな答えを返した。それと、さとりの小説は地底よりも懇意にしているお店を通じての人里での販売が主なので、後から正体がバレて妖魔本だと内容に難癖を付けられるくらいなら、事前に目を通す方がそちらも楽だろう、とも。
そんな回答に対し、霊夢はふむと一考した後、それほど時間を掛けずにその依頼に承諾を返した。確認は大事だから一応ね、と付け加えて。
実際は、サインはともかく本をタダで貰えるのにつられた、のもあったが、一番は本の世界に興味を持つうちに、出版前の原稿を先んじて読むということ自体にちょっとした憧れがあったからだ。
こうして霊夢は、作家さとりの試読役の三人目になった。それ以来、お燐が神社に小説一章分の原稿――生原稿ではなく、はたてが新聞と一緒に一冊分だけ印刷した複製本――の冊子に花果子念報の新聞と勧誘チラシを挟んだものを持って来る。冊子の最後の真っ白なページに霊夢は感想を書く。数日後、お燐が冊子だけを回収していく。そんな、平和な火車が神社に時折やって来るようになった。
しかし、今日この日は少し違った。作者本人が現れた。しかも一人で。
もっとも、さとり自身にもこれは想定外の出来事だった。そもそも、今日さとりが神社を訪れたのは別件――本の販売を受け持ってくれているお店に小説のことで用事があった――のついでだったし、地霊殿を出た時には付き添いのお燐も傍らに居た。
だが、そちらの用事が早く終わり、時間もあったのでたまには作者も出向こうかと神社に二人で向かう途中、お店に忘れ物をしたのに気付いた。
その際、さとりは一旦戻ろうと提案したが、お燐は自分だけが戻るから先に行ってゆっくりしていて下さいと自ら面倒を買って出てくれたので、断るのも無粋だとさとりはそれに甘え、一先ず自分だけがこちらに来た、というわけだ。
なので神社でしばし時間を潰す必要が出来たのだが、それならいっそこの場で感想まで頂こう。その方が再来訪の手間も省ける。都合よく、今日渡す分の原稿はそこまで長くないので、お燐が戻るのを待っている間に読み終わるだろうから、とさとりは経緯の説明と今後の提案を霊夢にしたところ、霊夢もまあ別にいいけど、と了承したことで、今回は生批評と相成ったのだ。
とはいえ、まずは読み終わらないと生批評も何もない。というわけで、現時点では霊夢は原稿を読み耽り、さとりは出されたケーキを箸で食し待つ以外何もしない起こらない、のんびりした時間がだらだらと続いていた。
「あ」
だが、丁度さとりが黙々と味わっていたケーキの最後の一切れを飲み込んだ瞬間、霊夢の気の抜けた声がその静寂を再び破った。
「ご馳走様でした。で、どうかしましたか?」
「ああ、いや、誤字があっただけ」
「あら、そうですか。じゃあ、ページの端っこでも折っておいて下さい。後で見直しておきますので」
「ん」
ケーキの欠片も殆ど残っていない、綺麗に平らげられた皿に箸を置きつつさとりはそう言うと、霊夢はページの端に手を掛けて小さく折って、また読み進める。
しかし、次のページに手を掛けたところで顔を上げて、さとりの方に目をやる。
「何ですか?」
「……さっき、どうかした、って聞いたけどさ」
「読めないんですよ。先程のようなふとした言葉、つまり無意識の領域は。ご存じですよね」
「あんたの妹でよーくね。でも、さっきみたいなのでも読めないなんて知らなかったわ。意外と不便なのねぇ、それ」
霊夢はさとりの傍らに浮かぶ第三の目の、大きく開いた瞳に視線を移す。霊夢の方をじっと見る瞳に格段の変化はないが、いつもよりも冷ややかに見えた。うるさいな、とでも言いたげに。
「ええ。か弱い力なのよ」
一方、さとり本人は頷きながら肯定の言葉を返す。どうやら先の所感は間違いだったらしい。
「言うに事欠いてか弱いとは、よく言うわ」
「だって、貴方達は言わないと分からないでしょう? ああ、不便だわ」
そう言って軽く微笑んださとりに霊夢は鼻で笑って返すと、また手元の原稿へ目を落とす。
それからは再びお互いに言葉はなかった。霊夢は黙々と原稿を読み進め、さとりはそんな霊夢の様子や、風に揺らぐ木々の枝葉や曇天の空をのんびり眺めていた。
「ふー……」
霊夢は最後のページの最後の句点までしっかりと読み終わると、冊子をぱたんと閉じて長く息を吐く。今までの作品の傾向からして、さとりの書く小説は大体五から七章くらいの長さのため、一章分の文章量は多く見積もっても全体の二割程度とそれほど多くはないし、今回は作者自ら言った通りいつもよりもやや短めではあったが、読み終わった後はついついこうして一息ついてしまう。
最後に小口に指を掛けて始めから終わりまで、パラパラと指を滑らせて流していく。さながら、小説の内容と一緒にその時どう思いどんな感想を抱いたのか、記憶も読み返すように。
そして、最後のページまで捲り終わると、そのまま手の平で冊子を閉じた。
「どうでした?」
「うーん……、んー……、むー……、いつもはある程度まとめてから書いてるからねえ……」
霊夢は腕を組みながら唸る度に、首を右、左、右と、反対方向に繰り返し捻る。
「まあ、思い付くままで構いませんので」
「……じゃあ、言うけど、今回のって、いわゆる群像劇ってやつよね、あんまり詳しくないけど。だから、それぞれの視点で主人公が三人いるみたいな感じだったけど、相変わらず心理描写は上手な方だと思うから、序盤からそれぞれの意図とか行動が分かりやすかった、かな。あ、でも、内面に割いた分なのかは分からないけど、他の地の文章が薄い時があるような気がしたかも。まあ、あんたの他の小説を知ってるとちょっと、あれ、ってなるかなってぐらいで、悪いとか、そういうんじゃないけど」
霊夢はさとりに言われたように、思ったことを思ったまま、手で冊子をひらひらと振ったり表紙を指先でなぞったり手遊びを交え話していく。一応、感想の前半は合間毎に霊夢は少しだけ間を入れていたが、さとりが一切口を挟もうとしなかったのを受け、後半はもう口を止めなかった。
「えーっと、それで、今回のやつをまとめると……」
しかし、肝心な総括について話す直前、霊夢は口を止めて二度ほど瞬きすると、そのまま手遊びもぴたりと止めてしまった。
「……どうしました? まとめると、何ですか?」
さとりは首を軽く傾げて、感想の続きを催促する。だが、霊夢は黙ったまましばしその目を見て、第三の目を見て、またさとりの目の方へ視線を戻す。
「いや、そういえばさ、目の前に居る訳だし、読めばいいんじゃないの、心」
霊夢は言いながら冊子を弄っていた手で、びしっと第三の目を指差す。
ついついさとりに促されるまま話していたが、いつもは地底と地上だからこそ文面でやり取りしている訳で、今はこうして顔を合わせている。それならば、それこそ時折交わした会話のように心を読めばいいはず。
すると、さとりは小さく、ふふ、と笑う。
「せっかくなので、口から、言葉で聞きたいんですよ」
「あんたは言わなくても分かるのに?」
「はい。自分が腕を振るった料理を出したとして、黙って完食されておかわりをされるより、美味しいと言われておかわりされた方が私は嬉しいんですよ。貴方がどちらかは存じませんが」
それを聞いた霊夢の頭の中に、神社で行われる宴会や魔理沙を泊めたりした時のことがぼんやりと浮かんできて、はあ、と溜息をつく。分からなくもないな、と思ったからだ。ただ、少しばかり悔しいのは、さとりの頬が若干緩んだことだ。しかし、何れにせよこの相手には嘘は吐けない。
「はいはい。多分、今までで一番引き込まれたし、面白かったわ、今回も。次が楽しみなくらい」
「それはよかったです。本心からの言葉、ありがとうございます」
さとりは頬を緩め、たおやかに笑う。霊夢のこの感想が世辞や嫌味じゃないと分かっているからこそ、そして、どう答えるか知っていたうえで本人の口から言わせたことへの満足気な笑顔。霊夢には、それが単純に面白くなかった。
「ほんと、大した能力ね、それ。あーあ、羨ましいわ」
だから、投げやり気味にあからさまな皮肉を返す。
「素直に誉め言葉として受け取っておきますね。ああ、それと、私相手に何とかして出し抜いてやろうとか、あまり考えない方がいいですよ。筒抜けですので」
だが、当然こんなのではさとりは笑顔も余裕ある態度も崩さない。それどころか更に心を読んで、わざわざ嫌味ったらしい文句まで付け足してくる。
これがまた面白くなくて、霊夢は無言で頬杖をついてそっぽを向く。
「あ」
その瞬間、またもや霊夢は気の抜けた声を上げた。
「どうしました?」
「あんたのとこの猫よ」
霊夢は頬杖を崩さずにそっぽを向いたまま、外を、境内の鳥居を目線で指す。そこには、こちらに向かって歩いてくるお燐の姿があった。
「ただいま戻りましたー」
「お帰りなさい、お燐。お疲れ様」
「お疲れ、そこから上がっていいわよ」
「それじゃ、お邪魔しまーす」
二人に迎えられたお燐は、一旦縁側に腰掛けてから靴を脱いでさとりの靴の隣にきちんと揃えると、二人の居る居間へ直接向かう。
「で、お二人は何をして……、あ、それ……」
しかし、居間への敷居を跨ぐ寸前、霊夢の傍らに置かれた折り畳み式の蠅帳の中にあるパウンドケーキが入った皿に気付くと、口と足を止めて霊夢の方をちらりと見て、さとりの前の空の皿を見て、また霊夢を見る。一方、見られた霊夢は小さく笑う。
「これはあんたの分よ。ほら、早く手を洗ってきなさい」
言うが早いかお燐は台所へ駆けて行き、それを見送った霊夢は蠅帳を外して皿と箸をお燐が座る場所へ準備する。その後、早々と、だがきちんと手洗いを済まして戻ってきたお燐は皿が置かれた所、先程自分が踏み出し掛けていた縁側の方へすとんと腰掛けた。
「ありがとー、お姉さん。ではでは頂きまーす」
そして、元気にぱちんと手を叩くと、早速ケーキを箸で一口大サイズに切り出してぱくりと咥え、しっかりと咀嚼し、味わい、切り分けた際に綻び落ちた欠片も綺麗に食していく。
その表情は見ている方も思わず顔が綻ぶような、満面の笑顔だった。
「本当にあんたはこれ好きねえ」
「んむ……。だって、すっごく美味しいもん。これだけでここに来た甲斐があるってもんだよ」
「そういえば、これはどうしたんですか?」
「……どうした、ってどういう意味よ」
ケーキにはしゃぐお燐の横で、さとりはケーキを指差して霊夢に問う。しかし、どういう意味だ、の返答どおり、霊夢は質問の意図が理解出来ず、さとりは言葉でも心でも明確な答えを得ることが出来なかった。
「あ、ええと、こんなに上質な洋菓子が何故この神社に、と? 高名なお店の物だと思いますが、妖怪退治の謝礼か何かですか?」
さとりの質問はつまり、博麗神社に色々と似つかわしくないお菓子があるのは何故だ、という意味だった。それを聞いて霊夢は、神社だからと言って煎餅や饅頭ばかりじゃないわよ、と真っ先に思ったが、それも質問への回答にはなっていない。
「あのねえ、謝礼も何も、そもそも……」
だが、口から発しようとしている言葉はその回答となるものだった。しかし、それを霊夢が口にするよりも先に、お燐の口が開いた。ケーキを食べるためじゃなく、これらの会話を聞いて、思わず、無意識に。
「え? さとり様、何も聞いて無かったの?」
「聞くって、何を?」
「だってこれ、お姉さんが……」
お燐がそこまで言った瞬間、一連の質問にどこか困惑気味だった霊夢が「ああ!」と合点がいったと言わんばかりに大きな声を上げた。
「そういえば、よく神社に来る魔理沙やお燐達にはもう当たり前に出してたから、あんたに対してもいちいち、意識して、出して無かったわ。だから、出処が分からないお菓子になっちゃったのね」
「…………あ」
霊夢はわざと『意識』という言葉を強調しつつ言いながら、うんうんと繰り返し頷き、一人納得する。方や、霊夢とお燐の心から、遅れてその答えに行き着いたさとりは、ぽかんと口を開けて小さく声を漏らす。
「確かにあんたの言うように、こういう洋菓子は神社に馴染みが無いから分からないかも知れないけど、私の知り合いにはこんなのも作れるやつが何人か居てね。だから、作り方だって知ってるし、材料も揃えるのは難しくないのよねー。そもそも具に至っては梅酒の余りだし」
霊夢はさとりの先の反応から、既にさとりが回答を得ていることに気付いていた。だから、もはや出処なんてわざわざ言いはしない。しかし、構わず得意気に何故ケーキがあるのかの説明を続けると、さとりの顔を自信たっぷりに見据えてにやりと笑う。
「ところで、さとり。あんた、私に言うべきことあるんじゃないの? まあ、言わなくても今後出してあげない、みたいな意地悪はしないつもりだけど、せっかくだし、ね」
霊夢はさとりに何を言わせたいのか。明言はされずとも、そんなのは心を読まずともさとりには分かる。何せ、自分が霊夢に言った言葉なのだから。
「…………とても美味しかったです、また、ご馳走になりたいくらい」
「それはよかったわ。心からの誉め言葉って、気分いいわねー」
さとりの照れの混じった顔と感想に霊夢は勝ち誇った笑みを浮かべ、さとりは第三の目に手を添えてやれやれと頭を振る。唯一、話の流れも心も読めないお燐だけが首を傾げていた。
ここに存在するのは風が木々を揺らす音、上空から振って来る鳥の鳴き声、中身のつまった黄金色のケーキを箸で切り分ける際に時折鳴る、皿と箸がぶつかる音。それらくらいしかない、静かな時間が流れていた。
「あのさ」
そんな静寂の中、本を読んでいた方、霊夢が顔を上げて、もう一人に話しかける。
「…………はい」
話を振られたもう一人は咀嚼していたケーキを特に急ぎもせずにしっかりと食し飲み込むと、遅れてそれに応答する。皿の上のケーキは、丁度半分がなくなったところだった。
「何か、本でも持ってくる?」
「いえ、お構いなく」
「そ」
霊夢からの提案を、もう一人は首を静かに振って断り、霊夢はそれを受けて短く了解の返事をする。必要以上に勧めることはしなかった。こいつは私に遠慮するような奴じゃないから本当に要らないんだろう、ならいいや、と。
そして、霊夢は本の続きを読もうと再び手元へ視線を落とす。だが、目が書かれた文字を追う直前、もう一人は開けっ放しの襖から神社の外に目をやると、ぽつりと呟いた。
「静かですね」
「あんたしかいないからね。誰かしら居ると、結構騒がしいんだけど」
霊夢は視線をもう一度持ち上げて向き直すと、その誰かしら達を思い浮かべる。魔理沙、萃香、妖精軍団等々。すると、もう一人は小さく笑い、霊夢とまた向かい合う。
「ああ、確かにその面々を考えると騒がしそうです」
「でしょ。だからたまには」
「こんな日もないと疲れちゃう、ですか。でも、私の相手の方が疲れませんか?」
「全然。だって」
「こっちで忙しいから、碌に相手してない……。ふふ、それもそうですね。私の方は、どうせ後で構わないといけませんしね」
「そういうこと」
霊夢はもう一人の淑やかな笑顔に若干の呆れを交えてそう返すと、改めて手元の本に心を向ける。何故、目の前の人物は毎回のように会話を先回ることが出来るのか、自身の思考を言葉として発する前に回答が返ってくるのかなんて、不思議にも思わなかった。
それもそのはず、現在霊夢の目の前に座っている騒がしくない客とは、心を読む能力を持つ妖怪、古明地さとりだったからだ。
何故、地底から滅多に出ることがない、地霊殿の主が博麗神社に居るのか。そして、その目の前で霊夢は本を読み、さとりもそれに何も言わず見守っているのか。それにはある理由があった。
大本の始まりは、神社に遊びに来たお燐と霊夢の、他愛ないお喋りだった。そこで、最近読書にハマってて、なんて話を霊夢がしたところ、数日後再び神社に来たお燐に、あることを持ち掛けられたのだ。
曰く、さとり様が書いている小説の試読をしてくれないか、と。その当人、さとり直々の命で。
これだけではさっぱりなので詳しく話を聞くと、何でも、さとりは趣味の物書きが高じて小説家として活動をしていたのだ。それも、霊夢もよく知るアガサクリスQのように、匿名作家として。
そんな地底在住の匿名作家は自著の調整を、ペット兼右腕でもあるお燐と、取材を通じて交流するようになった天狗の新聞記者、はたてに試読と批評をしてもらい行っているのだが、その三人目になって欲しい、という頼みらしい。
そして、ここからが一番大事なところだとお燐は前置きした後、もしも引き受けてくれたらその作品を書き上げた際に完成品をサイン付きでプレゼント、とこの依頼の報酬を提示して、主人からの話を終えた。
霊夢はお燐の話を一応最後まで聞いてから、結局説明されなかったある疑問をお燐にぶつけた。
何故、自分なのかと。
するとお燐は、そんなのは想定済みの質問だと主人の先見性を称えた後、顔見知りの方が意見のやり取りや原稿の受け渡しもやりやすいから、という非常にシンプルな答えを返した。それと、さとりの小説は地底よりも懇意にしているお店を通じての人里での販売が主なので、後から正体がバレて妖魔本だと内容に難癖を付けられるくらいなら、事前に目を通す方がそちらも楽だろう、とも。
そんな回答に対し、霊夢はふむと一考した後、それほど時間を掛けずにその依頼に承諾を返した。確認は大事だから一応ね、と付け加えて。
実際は、サインはともかく本をタダで貰えるのにつられた、のもあったが、一番は本の世界に興味を持つうちに、出版前の原稿を先んじて読むということ自体にちょっとした憧れがあったからだ。
こうして霊夢は、作家さとりの試読役の三人目になった。それ以来、お燐が神社に小説一章分の原稿――生原稿ではなく、はたてが新聞と一緒に一冊分だけ印刷した複製本――の冊子に花果子念報の新聞と勧誘チラシを挟んだものを持って来る。冊子の最後の真っ白なページに霊夢は感想を書く。数日後、お燐が冊子だけを回収していく。そんな、平和な火車が神社に時折やって来るようになった。
しかし、今日この日は少し違った。作者本人が現れた。しかも一人で。
もっとも、さとり自身にもこれは想定外の出来事だった。そもそも、今日さとりが神社を訪れたのは別件――本の販売を受け持ってくれているお店に小説のことで用事があった――のついでだったし、地霊殿を出た時には付き添いのお燐も傍らに居た。
だが、そちらの用事が早く終わり、時間もあったのでたまには作者も出向こうかと神社に二人で向かう途中、お店に忘れ物をしたのに気付いた。
その際、さとりは一旦戻ろうと提案したが、お燐は自分だけが戻るから先に行ってゆっくりしていて下さいと自ら面倒を買って出てくれたので、断るのも無粋だとさとりはそれに甘え、一先ず自分だけがこちらに来た、というわけだ。
なので神社でしばし時間を潰す必要が出来たのだが、それならいっそこの場で感想まで頂こう。その方が再来訪の手間も省ける。都合よく、今日渡す分の原稿はそこまで長くないので、お燐が戻るのを待っている間に読み終わるだろうから、とさとりは経緯の説明と今後の提案を霊夢にしたところ、霊夢もまあ別にいいけど、と了承したことで、今回は生批評と相成ったのだ。
とはいえ、まずは読み終わらないと生批評も何もない。というわけで、現時点では霊夢は原稿を読み耽り、さとりは出されたケーキを箸で食し待つ以外何もしない起こらない、のんびりした時間がだらだらと続いていた。
「あ」
だが、丁度さとりが黙々と味わっていたケーキの最後の一切れを飲み込んだ瞬間、霊夢の気の抜けた声がその静寂を再び破った。
「ご馳走様でした。で、どうかしましたか?」
「ああ、いや、誤字があっただけ」
「あら、そうですか。じゃあ、ページの端っこでも折っておいて下さい。後で見直しておきますので」
「ん」
ケーキの欠片も殆ど残っていない、綺麗に平らげられた皿に箸を置きつつさとりはそう言うと、霊夢はページの端に手を掛けて小さく折って、また読み進める。
しかし、次のページに手を掛けたところで顔を上げて、さとりの方に目をやる。
「何ですか?」
「……さっき、どうかした、って聞いたけどさ」
「読めないんですよ。先程のようなふとした言葉、つまり無意識の領域は。ご存じですよね」
「あんたの妹でよーくね。でも、さっきみたいなのでも読めないなんて知らなかったわ。意外と不便なのねぇ、それ」
霊夢はさとりの傍らに浮かぶ第三の目の、大きく開いた瞳に視線を移す。霊夢の方をじっと見る瞳に格段の変化はないが、いつもよりも冷ややかに見えた。うるさいな、とでも言いたげに。
「ええ。か弱い力なのよ」
一方、さとり本人は頷きながら肯定の言葉を返す。どうやら先の所感は間違いだったらしい。
「言うに事欠いてか弱いとは、よく言うわ」
「だって、貴方達は言わないと分からないでしょう? ああ、不便だわ」
そう言って軽く微笑んださとりに霊夢は鼻で笑って返すと、また手元の原稿へ目を落とす。
それからは再びお互いに言葉はなかった。霊夢は黙々と原稿を読み進め、さとりはそんな霊夢の様子や、風に揺らぐ木々の枝葉や曇天の空をのんびり眺めていた。
「ふー……」
霊夢は最後のページの最後の句点までしっかりと読み終わると、冊子をぱたんと閉じて長く息を吐く。今までの作品の傾向からして、さとりの書く小説は大体五から七章くらいの長さのため、一章分の文章量は多く見積もっても全体の二割程度とそれほど多くはないし、今回は作者自ら言った通りいつもよりもやや短めではあったが、読み終わった後はついついこうして一息ついてしまう。
最後に小口に指を掛けて始めから終わりまで、パラパラと指を滑らせて流していく。さながら、小説の内容と一緒にその時どう思いどんな感想を抱いたのか、記憶も読み返すように。
そして、最後のページまで捲り終わると、そのまま手の平で冊子を閉じた。
「どうでした?」
「うーん……、んー……、むー……、いつもはある程度まとめてから書いてるからねえ……」
霊夢は腕を組みながら唸る度に、首を右、左、右と、反対方向に繰り返し捻る。
「まあ、思い付くままで構いませんので」
「……じゃあ、言うけど、今回のって、いわゆる群像劇ってやつよね、あんまり詳しくないけど。だから、それぞれの視点で主人公が三人いるみたいな感じだったけど、相変わらず心理描写は上手な方だと思うから、序盤からそれぞれの意図とか行動が分かりやすかった、かな。あ、でも、内面に割いた分なのかは分からないけど、他の地の文章が薄い時があるような気がしたかも。まあ、あんたの他の小説を知ってるとちょっと、あれ、ってなるかなってぐらいで、悪いとか、そういうんじゃないけど」
霊夢はさとりに言われたように、思ったことを思ったまま、手で冊子をひらひらと振ったり表紙を指先でなぞったり手遊びを交え話していく。一応、感想の前半は合間毎に霊夢は少しだけ間を入れていたが、さとりが一切口を挟もうとしなかったのを受け、後半はもう口を止めなかった。
「えーっと、それで、今回のやつをまとめると……」
しかし、肝心な総括について話す直前、霊夢は口を止めて二度ほど瞬きすると、そのまま手遊びもぴたりと止めてしまった。
「……どうしました? まとめると、何ですか?」
さとりは首を軽く傾げて、感想の続きを催促する。だが、霊夢は黙ったまましばしその目を見て、第三の目を見て、またさとりの目の方へ視線を戻す。
「いや、そういえばさ、目の前に居る訳だし、読めばいいんじゃないの、心」
霊夢は言いながら冊子を弄っていた手で、びしっと第三の目を指差す。
ついついさとりに促されるまま話していたが、いつもは地底と地上だからこそ文面でやり取りしている訳で、今はこうして顔を合わせている。それならば、それこそ時折交わした会話のように心を読めばいいはず。
すると、さとりは小さく、ふふ、と笑う。
「せっかくなので、口から、言葉で聞きたいんですよ」
「あんたは言わなくても分かるのに?」
「はい。自分が腕を振るった料理を出したとして、黙って完食されておかわりをされるより、美味しいと言われておかわりされた方が私は嬉しいんですよ。貴方がどちらかは存じませんが」
それを聞いた霊夢の頭の中に、神社で行われる宴会や魔理沙を泊めたりした時のことがぼんやりと浮かんできて、はあ、と溜息をつく。分からなくもないな、と思ったからだ。ただ、少しばかり悔しいのは、さとりの頬が若干緩んだことだ。しかし、何れにせよこの相手には嘘は吐けない。
「はいはい。多分、今までで一番引き込まれたし、面白かったわ、今回も。次が楽しみなくらい」
「それはよかったです。本心からの言葉、ありがとうございます」
さとりは頬を緩め、たおやかに笑う。霊夢のこの感想が世辞や嫌味じゃないと分かっているからこそ、そして、どう答えるか知っていたうえで本人の口から言わせたことへの満足気な笑顔。霊夢には、それが単純に面白くなかった。
「ほんと、大した能力ね、それ。あーあ、羨ましいわ」
だから、投げやり気味にあからさまな皮肉を返す。
「素直に誉め言葉として受け取っておきますね。ああ、それと、私相手に何とかして出し抜いてやろうとか、あまり考えない方がいいですよ。筒抜けですので」
だが、当然こんなのではさとりは笑顔も余裕ある態度も崩さない。それどころか更に心を読んで、わざわざ嫌味ったらしい文句まで付け足してくる。
これがまた面白くなくて、霊夢は無言で頬杖をついてそっぽを向く。
「あ」
その瞬間、またもや霊夢は気の抜けた声を上げた。
「どうしました?」
「あんたのとこの猫よ」
霊夢は頬杖を崩さずにそっぽを向いたまま、外を、境内の鳥居を目線で指す。そこには、こちらに向かって歩いてくるお燐の姿があった。
「ただいま戻りましたー」
「お帰りなさい、お燐。お疲れ様」
「お疲れ、そこから上がっていいわよ」
「それじゃ、お邪魔しまーす」
二人に迎えられたお燐は、一旦縁側に腰掛けてから靴を脱いでさとりの靴の隣にきちんと揃えると、二人の居る居間へ直接向かう。
「で、お二人は何をして……、あ、それ……」
しかし、居間への敷居を跨ぐ寸前、霊夢の傍らに置かれた折り畳み式の蠅帳の中にあるパウンドケーキが入った皿に気付くと、口と足を止めて霊夢の方をちらりと見て、さとりの前の空の皿を見て、また霊夢を見る。一方、見られた霊夢は小さく笑う。
「これはあんたの分よ。ほら、早く手を洗ってきなさい」
言うが早いかお燐は台所へ駆けて行き、それを見送った霊夢は蠅帳を外して皿と箸をお燐が座る場所へ準備する。その後、早々と、だがきちんと手洗いを済まして戻ってきたお燐は皿が置かれた所、先程自分が踏み出し掛けていた縁側の方へすとんと腰掛けた。
「ありがとー、お姉さん。ではでは頂きまーす」
そして、元気にぱちんと手を叩くと、早速ケーキを箸で一口大サイズに切り出してぱくりと咥え、しっかりと咀嚼し、味わい、切り分けた際に綻び落ちた欠片も綺麗に食していく。
その表情は見ている方も思わず顔が綻ぶような、満面の笑顔だった。
「本当にあんたはこれ好きねえ」
「んむ……。だって、すっごく美味しいもん。これだけでここに来た甲斐があるってもんだよ」
「そういえば、これはどうしたんですか?」
「……どうした、ってどういう意味よ」
ケーキにはしゃぐお燐の横で、さとりはケーキを指差して霊夢に問う。しかし、どういう意味だ、の返答どおり、霊夢は質問の意図が理解出来ず、さとりは言葉でも心でも明確な答えを得ることが出来なかった。
「あ、ええと、こんなに上質な洋菓子が何故この神社に、と? 高名なお店の物だと思いますが、妖怪退治の謝礼か何かですか?」
さとりの質問はつまり、博麗神社に色々と似つかわしくないお菓子があるのは何故だ、という意味だった。それを聞いて霊夢は、神社だからと言って煎餅や饅頭ばかりじゃないわよ、と真っ先に思ったが、それも質問への回答にはなっていない。
「あのねえ、謝礼も何も、そもそも……」
だが、口から発しようとしている言葉はその回答となるものだった。しかし、それを霊夢が口にするよりも先に、お燐の口が開いた。ケーキを食べるためじゃなく、これらの会話を聞いて、思わず、無意識に。
「え? さとり様、何も聞いて無かったの?」
「聞くって、何を?」
「だってこれ、お姉さんが……」
お燐がそこまで言った瞬間、一連の質問にどこか困惑気味だった霊夢が「ああ!」と合点がいったと言わんばかりに大きな声を上げた。
「そういえば、よく神社に来る魔理沙やお燐達にはもう当たり前に出してたから、あんたに対してもいちいち、意識して、出して無かったわ。だから、出処が分からないお菓子になっちゃったのね」
「…………あ」
霊夢はわざと『意識』という言葉を強調しつつ言いながら、うんうんと繰り返し頷き、一人納得する。方や、霊夢とお燐の心から、遅れてその答えに行き着いたさとりは、ぽかんと口を開けて小さく声を漏らす。
「確かにあんたの言うように、こういう洋菓子は神社に馴染みが無いから分からないかも知れないけど、私の知り合いにはこんなのも作れるやつが何人か居てね。だから、作り方だって知ってるし、材料も揃えるのは難しくないのよねー。そもそも具に至っては梅酒の余りだし」
霊夢はさとりの先の反応から、既にさとりが回答を得ていることに気付いていた。だから、もはや出処なんてわざわざ言いはしない。しかし、構わず得意気に何故ケーキがあるのかの説明を続けると、さとりの顔を自信たっぷりに見据えてにやりと笑う。
「ところで、さとり。あんた、私に言うべきことあるんじゃないの? まあ、言わなくても今後出してあげない、みたいな意地悪はしないつもりだけど、せっかくだし、ね」
霊夢はさとりに何を言わせたいのか。明言はされずとも、そんなのは心を読まずともさとりには分かる。何せ、自分が霊夢に言った言葉なのだから。
「…………とても美味しかったです、また、ご馳走になりたいくらい」
「それはよかったわ。心からの誉め言葉って、気分いいわねー」
さとりの照れの混じった顔と感想に霊夢は勝ち誇った笑みを浮かべ、さとりは第三の目に手を添えてやれやれと頭を振る。唯一、話の流れも心も読めないお燐だけが首を傾げていた。
心を読まれても滞りなく進む会話が好きです
結局見事に出し抜かれたさとりがかわいらしかったです