「声って忘れやすいと思わない?」
そんなことを言ったのは小鈴だった。
ある春の朝、借りていた本を返しに行くと、お店の掃除をしていたらしくちりり、と鈴の音を鳴らしながら奥から出てきては「あんたか」なんて冷たいような声で言っていた。顔は喜んでいるようにも見えたけれど。
「いきなりね。あ、返しに来たわよ」
答えながらいつも小鈴が座る机に置く。風呂敷を解く。丁寧に一冊ずつ置いていく。
「あー、こっちの掃除終わったら行くから掛けといて」
店の奥から大きな声で話している。パタパタと少し忙しそうにしている。いつもはのんびりとしているように思うけれども。それでも記憶の中の小鈴は……一応店番はちゃんとしていた。今はそんなことは関係ないか。
言われた通りにいつものソファに座る。こじんまりとした部屋で、小鈴が動いているのが分かって。いつもの席、いつものような風景はどこも変わらない。ソファの前の机に目をやると、私の書いた幻想郷縁起が置かれていた。小鈴が読みかけていたんだろうか。それを手に取ると私は読み始めた。書いた内容が覚えていても実物を見れるのであればそれは良い事だと思う。求聞持の能力を疑うわけでは無いがその物がある実感はとても落ち着く、と言った方が良いのだ。
「ごめんねー、お茶も入れてきたよ。生憎紅茶は切らしてたから緑茶で我慢してね」
声に気がついて縁起から顔を上げると、見てて危なっかしい動きでお盆を持ってきていた。
「小鈴、 一週間前に来た時と紅茶を切らしてたわよ。買いに行くのを忘れているんじゃない?」
「もー阿求ってば、そんなこと言わないでよ。明日買いに行くよ!」
力のこもった声で言う小鈴。いつもそう言って忘れているのを私は覚えているのに。言うのも野暮だと思うので言わない。暖かいお茶を受け取って口を付ける。
……うん、美味しい。少し寒かったので暖かいものは美味しい。ほかほかと体が温まってきた。
「それでどうしたの? 今日は返しに来ただけ?」
隣に座った小鈴はうー寒い、と小声で言っている。
「新しい本も借りていくわよ。そういえば小鈴は最近外に出ているの?」
一週間前に鈴奈庵に来てから私は外に出ていなかったので聞いてみる。
「うん? 毎日のように出てるわよ。さては阿求ってばまた屋敷に籠りきりだったんじゃない。身体に触るってば、もう少し外出なよ」
私は小鈴の小言を聞きに来たわけじゃないんだけれど。
「なんで揃いも揃って、ばあやと同じようなことを言うのよ……」
つい、頭を抱えてしまう。屋敷で聞き飽きた小言はもう聞きたくない。私を叱りつけてくれる人なのでとても良い人なのだけれど。
「あはは、あのばあやに怒られるのは怖いね」
他人事のように笑う小鈴にキッと睨みつけた。はははと笑い続ける小鈴。
「小言は置いといて、最近里で何かあった?」
一応はばあやからは噂話程度に小耳に挟んだりはしているけれども、小鈴から見た話を聞きたいと思った。
「最近ねぇ……あ、そういえば」
笑うのをやめた小鈴は考えてなにか思い出したかのような顔をした。
「お父さんの遠い親戚のおじいさんが亡くなったとかで葬儀に行ったよ。奥さんのおばあさんがとても悲しそうだったのがなんか覚えてるな……」
その時の風景を思い出しているのかどこかで遠いような目をしている。小鈴は大きなため息をついた。
私の記憶を掘り起こすとそのおじいさんは鈴奈庵から川を挟んだ所に住んでいる人だった。
「どうしたの」
「いや……なんかね、人が亡くなったのに思い出すことが命蓮寺の説法ってなんだろうって思ってさ。悲しむべきだったんだろうけど、あのおじいさんが遠すぎてどこか違う現実のように思えたんだ」
私の方を向いていた顔は入口付近を見ているのかそっぽ向いた。りりんと髪に結ばれた鈴がまた鳴った。
「その思い出した説法って何だったの」
「人の声が一番始めに忘れるって事。聖さんの説法でさ。人間が一番に忘れるのが声だけれどそれも苦しい事になるかもしれませんが、仏様はそれすら見ていらっしゃるだとか。輪廻転生が出来るものってさ……ちょっと強引過ぎるとは思わない……」
声。外の世界での本に書いてあった。人は一番始めに忘れる、と。
その感覚は分からない。忘れるということが出来ない私には。求聞持の能力が開花してからお世話になったおじい様の声を覚えている。小さな私を前に慌てふためき、悪戯をすれば大きな声で怒ってくれる声も覚えている。数年前に亡くなった奉公の娘の声を覚えている。少し高い声で私をよく呼んでは作ったお菓子を分けてくれたこともあった。
……小さな小鈴が、私を前に怯える声を覚えている。本居の娘としての挨拶で初めて会った。同じ背丈の私を前に怯えて震えた声ではじめまして、と小声で言ったことも。
いつか死んだ時、小鈴は私の声を忘れるのだろうか。
「……あきゅ……阿求ってば!」
大きな声で私の意識は切り替わった。
「あ、何、小鈴」
「いきなり思考に入り込まないでよ! 私が独り言を言ってるみたいじゃないの」
困惑したような顔で小鈴は言う。
「小鈴は小さい時に会った人のとかの声は覚えているの?」
私が忘れないのはそういうものだと思っている。分からないけれども共感だけは出来る。
「んー……小さい時にお隣さんだった男の子はいたけど。引っ越しちゃってさ。その後会うこともなかったからいたって事しか覚えてないの。声なんて尚更。気がついたら忘れてた。直ぐに忘れちゃうものだし、思い出せないし。分からないなあ」
やっぱり覚えてられないのかな。思い出すような瞳で小鈴は話し続ける。
「……あ。でもね……」
続きが来るのだろうと思っていると声が途切れた。不自然に声を切ったようで疑問に思う。
「小鈴?」
「……あんたに初めて会ったことだけは覚えてる。どんな話をしたのかも覚えてないけどさ。あんたが、阿求が可愛いって思ったことだけは」
恥ずかしそうに、言葉を告げて赤くなって顔を隠す小鈴。顔を振った時にちりんと鈴が鳴る。私は理解をするのに数秒かかって顔に熱が上がってくるのを感じた。
「こ、小鈴……良くそんな恥ずかしいこと言えるわね……」
そんなに大胆な言葉を私は初めて聞いた。
「阿求うるさい。私だって言うつもり無かったのになんで口が滑ったの……ふぇぇ……」
「ふふ、小鈴。私は言ったことや見たことはずっと覚えているのよ。だから、あんたが言ったこと忘れられないわ」
くすくすと私は笑い出す。おかしくて、嬉しくて。
「あーっ! なんでよ、忘れてよ! こんな恥ずかしいことなのに!」
赤い顔のまま私を軽く叩いてくる小鈴。
「覚えられたくなかったら失言しないことよ!」
「なんでこんなに恥ずかしい思いしなきゃいけなかったの!」
うわーん、と小鈴は大きく頭を振った。ちりちりと鈴が鳴っていた。
***
恥ずかしくなった私は小鈴に帰ると告げて屋敷に戻った。借りると言っていた本はまた明日に行けば良いかなと思いながら。
赤くなっまた顔を見て、ばあやはどうしましたか、とか聞いてくるのだけれど、私は部屋に戻るということを言った。不信そうな顔をするばあやを横目に部屋に戻った。
たん、と襖を閉める。机の前に座って腕を枕にして考える。
忘れやすい声とか今はどうでも良くて、小鈴がとてもとても恥ずかしいことを言ったこと。声の一言一句を忘れられそうにないこと。鮮明に思い出されるのがこちらもとても恥ずかしくなって。また体の温度が上がる。
話の中で感じた、いつか小鈴が私の声を忘れることはあるのだろうけれども、いつか消えるその時まで一緒に話せたらいいな、そんなことを思った。
「でも、小鈴……可愛いはないじゃない……恥ずかしいのよ……」
明日はもう一度鈴奈庵に行って、本を借りに行って。紅茶を買いに行くのも一緒に着いていこうかな。そんなことしなくていいって言われそうだけど。
小鈴にとって忘れられないような存在になってやろうかな、そんなわるだくみを決心した日だった。
そんなことを言ったのは小鈴だった。
ある春の朝、借りていた本を返しに行くと、お店の掃除をしていたらしくちりり、と鈴の音を鳴らしながら奥から出てきては「あんたか」なんて冷たいような声で言っていた。顔は喜んでいるようにも見えたけれど。
「いきなりね。あ、返しに来たわよ」
答えながらいつも小鈴が座る机に置く。風呂敷を解く。丁寧に一冊ずつ置いていく。
「あー、こっちの掃除終わったら行くから掛けといて」
店の奥から大きな声で話している。パタパタと少し忙しそうにしている。いつもはのんびりとしているように思うけれども。それでも記憶の中の小鈴は……一応店番はちゃんとしていた。今はそんなことは関係ないか。
言われた通りにいつものソファに座る。こじんまりとした部屋で、小鈴が動いているのが分かって。いつもの席、いつものような風景はどこも変わらない。ソファの前の机に目をやると、私の書いた幻想郷縁起が置かれていた。小鈴が読みかけていたんだろうか。それを手に取ると私は読み始めた。書いた内容が覚えていても実物を見れるのであればそれは良い事だと思う。求聞持の能力を疑うわけでは無いがその物がある実感はとても落ち着く、と言った方が良いのだ。
「ごめんねー、お茶も入れてきたよ。生憎紅茶は切らしてたから緑茶で我慢してね」
声に気がついて縁起から顔を上げると、見てて危なっかしい動きでお盆を持ってきていた。
「小鈴、 一週間前に来た時と紅茶を切らしてたわよ。買いに行くのを忘れているんじゃない?」
「もー阿求ってば、そんなこと言わないでよ。明日買いに行くよ!」
力のこもった声で言う小鈴。いつもそう言って忘れているのを私は覚えているのに。言うのも野暮だと思うので言わない。暖かいお茶を受け取って口を付ける。
……うん、美味しい。少し寒かったので暖かいものは美味しい。ほかほかと体が温まってきた。
「それでどうしたの? 今日は返しに来ただけ?」
隣に座った小鈴はうー寒い、と小声で言っている。
「新しい本も借りていくわよ。そういえば小鈴は最近外に出ているの?」
一週間前に鈴奈庵に来てから私は外に出ていなかったので聞いてみる。
「うん? 毎日のように出てるわよ。さては阿求ってばまた屋敷に籠りきりだったんじゃない。身体に触るってば、もう少し外出なよ」
私は小鈴の小言を聞きに来たわけじゃないんだけれど。
「なんで揃いも揃って、ばあやと同じようなことを言うのよ……」
つい、頭を抱えてしまう。屋敷で聞き飽きた小言はもう聞きたくない。私を叱りつけてくれる人なのでとても良い人なのだけれど。
「あはは、あのばあやに怒られるのは怖いね」
他人事のように笑う小鈴にキッと睨みつけた。はははと笑い続ける小鈴。
「小言は置いといて、最近里で何かあった?」
一応はばあやからは噂話程度に小耳に挟んだりはしているけれども、小鈴から見た話を聞きたいと思った。
「最近ねぇ……あ、そういえば」
笑うのをやめた小鈴は考えてなにか思い出したかのような顔をした。
「お父さんの遠い親戚のおじいさんが亡くなったとかで葬儀に行ったよ。奥さんのおばあさんがとても悲しそうだったのがなんか覚えてるな……」
その時の風景を思い出しているのかどこかで遠いような目をしている。小鈴は大きなため息をついた。
私の記憶を掘り起こすとそのおじいさんは鈴奈庵から川を挟んだ所に住んでいる人だった。
「どうしたの」
「いや……なんかね、人が亡くなったのに思い出すことが命蓮寺の説法ってなんだろうって思ってさ。悲しむべきだったんだろうけど、あのおじいさんが遠すぎてどこか違う現実のように思えたんだ」
私の方を向いていた顔は入口付近を見ているのかそっぽ向いた。りりんと髪に結ばれた鈴がまた鳴った。
「その思い出した説法って何だったの」
「人の声が一番始めに忘れるって事。聖さんの説法でさ。人間が一番に忘れるのが声だけれどそれも苦しい事になるかもしれませんが、仏様はそれすら見ていらっしゃるだとか。輪廻転生が出来るものってさ……ちょっと強引過ぎるとは思わない……」
声。外の世界での本に書いてあった。人は一番始めに忘れる、と。
その感覚は分からない。忘れるということが出来ない私には。求聞持の能力が開花してからお世話になったおじい様の声を覚えている。小さな私を前に慌てふためき、悪戯をすれば大きな声で怒ってくれる声も覚えている。数年前に亡くなった奉公の娘の声を覚えている。少し高い声で私をよく呼んでは作ったお菓子を分けてくれたこともあった。
……小さな小鈴が、私を前に怯える声を覚えている。本居の娘としての挨拶で初めて会った。同じ背丈の私を前に怯えて震えた声ではじめまして、と小声で言ったことも。
いつか死んだ時、小鈴は私の声を忘れるのだろうか。
「……あきゅ……阿求ってば!」
大きな声で私の意識は切り替わった。
「あ、何、小鈴」
「いきなり思考に入り込まないでよ! 私が独り言を言ってるみたいじゃないの」
困惑したような顔で小鈴は言う。
「小鈴は小さい時に会った人のとかの声は覚えているの?」
私が忘れないのはそういうものだと思っている。分からないけれども共感だけは出来る。
「んー……小さい時にお隣さんだった男の子はいたけど。引っ越しちゃってさ。その後会うこともなかったからいたって事しか覚えてないの。声なんて尚更。気がついたら忘れてた。直ぐに忘れちゃうものだし、思い出せないし。分からないなあ」
やっぱり覚えてられないのかな。思い出すような瞳で小鈴は話し続ける。
「……あ。でもね……」
続きが来るのだろうと思っていると声が途切れた。不自然に声を切ったようで疑問に思う。
「小鈴?」
「……あんたに初めて会ったことだけは覚えてる。どんな話をしたのかも覚えてないけどさ。あんたが、阿求が可愛いって思ったことだけは」
恥ずかしそうに、言葉を告げて赤くなって顔を隠す小鈴。顔を振った時にちりんと鈴が鳴る。私は理解をするのに数秒かかって顔に熱が上がってくるのを感じた。
「こ、小鈴……良くそんな恥ずかしいこと言えるわね……」
そんなに大胆な言葉を私は初めて聞いた。
「阿求うるさい。私だって言うつもり無かったのになんで口が滑ったの……ふぇぇ……」
「ふふ、小鈴。私は言ったことや見たことはずっと覚えているのよ。だから、あんたが言ったこと忘れられないわ」
くすくすと私は笑い出す。おかしくて、嬉しくて。
「あーっ! なんでよ、忘れてよ! こんな恥ずかしいことなのに!」
赤い顔のまま私を軽く叩いてくる小鈴。
「覚えられたくなかったら失言しないことよ!」
「なんでこんなに恥ずかしい思いしなきゃいけなかったの!」
うわーん、と小鈴は大きく頭を振った。ちりちりと鈴が鳴っていた。
***
恥ずかしくなった私は小鈴に帰ると告げて屋敷に戻った。借りると言っていた本はまた明日に行けば良いかなと思いながら。
赤くなっまた顔を見て、ばあやはどうしましたか、とか聞いてくるのだけれど、私は部屋に戻るということを言った。不信そうな顔をするばあやを横目に部屋に戻った。
たん、と襖を閉める。机の前に座って腕を枕にして考える。
忘れやすい声とか今はどうでも良くて、小鈴がとてもとても恥ずかしいことを言ったこと。声の一言一句を忘れられそうにないこと。鮮明に思い出されるのがこちらもとても恥ずかしくなって。また体の温度が上がる。
話の中で感じた、いつか小鈴が私の声を忘れることはあるのだろうけれども、いつか消えるその時まで一緒に話せたらいいな、そんなことを思った。
「でも、小鈴……可愛いはないじゃない……恥ずかしいのよ……」
明日はもう一度鈴奈庵に行って、本を借りに行って。紅茶を買いに行くのも一緒に着いていこうかな。そんなことしなくていいって言われそうだけど。
小鈴にとって忘れられないような存在になってやろうかな、そんなわるだくみを決心した日だった。
ごちそうさまでした
とてもほのぼのとした雰囲気の中に薄っすらと哀愁のような者も漂っていて良い作風になっていると思いました。面白かったです。