1
ペンギンがたくさんいるので南半球だと思う。私は太陽に濡れて光る、使い物にならない羽をぱたぱたと振り回している鳥たちに囲まれている。それは実際囲まれているなんてものじゃない。大包囲だ。私の視界には肯定ペンギンたちがめちゃくちゃたくさんいて、足下からあの向こうのちょっと高台になってるところまでぜんぶ黒くててかてかした羽毛の塊だ。
私は眼鏡を外し、目を瞬いて何度か擦ってからかけ直す。それが見間違いではないことをしっかりと確かめる。それから、ポケットからスマホだけを取り出し、マントを脱いで脇に抱える。もう片方の手でカメラのアプリを起動して、パシャパシャやり始めた。親指を画面から適切なタイミングで剥がし損ねて、写真の半分くらいはバーストになってしまう。増殖したペンギンの写真の増殖。それを見て私は自分の指がかたかた震えていて、この風景に結構びびっていることに気づく。だって実際めちゃくちゃ気持ち悪いから。それでも考えるよりも先にスマホを向けてしまうのは、現代人の宿痾ってやつと、あとは狂った夢ばかり見続けてきてついた妙な耐性。
ただそういう病的な習性にも一つくらい良いところがあって、画面の中に収まったペンギンたちの写真を見ていると、まあそれがやばい光景であることには変わりないんだけど、ある程度私は落ち着いてくる。なんでって、あんまりうまく説明できないけど、それも結局一つの風景に過ぎないことがわかったっていうか。周りを見渡してみて、これだけ大勢の羽がばたばたやっていれば、飛べない彼らの羽ばたきでもそのうち少しくらい浮き上がっていくんじゃないかと私は思った。そんなわけないけど。とりあえずそんなこと考えるくらい落ち着いたって話。
次に私はもう一段階踏み込んで、写真のアプリをインカメに切り替えて鳥の大群を後景に自撮りしてみる。ペンギンたちは私に一切興味を示さずにインカメの画面の中で蠢いている。シャッターで私はその蠢きを微分していく。
撮れた写真を吟味する。根本的な異様さからうまく目をそらせさえすれば、写真自体はそれなりに撮れている。「インスタ上げよっかな」と私が何気なく呟くと、今まで私に一切関心を示さなかった肯定ペンギンたちが途端に顔を上げて「うん」「素晴らしい」「そうだね」と鳴き始めた。
肯定はウェーブのように放射状に広がっていく。私はめちゃくちゃびっくりする。私が黙っていると鳥たちはまた私から関心を失って元の無目的な蠢きへと戻っていった。私はインスタに繋ごうとするけれど、当然というか圏外だった。ダメ元でWi-Fiを探してみる。あった。マジで? 「Steamer」ってやつで、ばっちり電波三本立っている。パスワードもかかってない。私は烏合の衆との記念撮影をアップする。そのまましばらくじっと画面を眺めていたが、十分待っても二十分待っても一切いいねがつかない。インターネットの連中は全員死んだのだ。私は恨めしげな顔で、知らん顔をしているペンギンたちを見渡した。まあたしかに彼らに尋ねたのは写真を上げるか上げないかということだけで、それがどう見られるかということまでは範疇じゃない。私は諦めて別のことを試してみようと思う。せっかくネットが繋がったので私は地図アプリを開いて現在地を確かめようとするが、インスタと違ってこちらはうんともすんとも言わない。私の実存を示す青い丸は空白の地図の中に所在なげに埋もれている。
「ここは南半球なのかな」と私は小さな声で言った。
「そう」「正しい」「ご名答!」とペンギンたちが次々に叫んだ。
私は顔を上げる。連中の熱烈な肯定にもだんだん慣れてきていて、私には自分の頭の中に浮かんだ疑問を試してみる余裕が生まれている。
「ここは北半球なのかな」と私は訊いてみた。
「うん」「そうだよ」「よくわかったね」
私はため息をついて立ち上がった。ペンギンたちをかき分けかき分け、丘の上に向かって歩き出す。鳥たちは無感情な目で私を見て、億劫そうに身をかわす。私が口を開かない限り、彼らには肯定する対象が何もないのだ。
2
暗い小屋の中で、煤けた小さなテーブルと向かいに座っている魔理沙の顔をランタンの光が浮かび上がらせる。燃料はもう僅かだ。窓の外を照らす余裕はないけれど、別にそんな必要もない。どうせ吹雪だ。
私はポケットの中からかじかんだ手でスマホを取り出す。現代文明の結晶が原始的な照明の役割を果たさないかと、私はもう何度か目のチャレンジをしたけれど、一度低温で落ちた電源は二度と戻らなかった。
魔理沙が髪をかき上げるとぱらぱらと水滴が机の上に降る。
「寒いな」と彼女が言った。
「うん」
「やっぱり探しに行こうと思うんだけど」
「危ないよ」
「朝までもたないだろ」と言って彼女は私の肩の辺りを指さす。指摘されてはじめて私は自分の身体がひどく震えていることに気づく。私はぎゅっと自分の肘を抱く。ウェアは濡れて重く、じっとりとした不快さに集中すれば少しは寒さを忘れられそうだった。
私は魔理沙の言及を誤魔化すように戸口を振り返った。スキーの板とストックの二組がぼんやりと見える。そこから水が滴る音を聞いた気がした。
山の方にスキーに行きたいと言い出したのは私だった。天狗たちの黙認のもと、妖怪の山の麓近くの一区画が、スキー場として冬のあいだだけ人間やそれ以外に解放されていた。ただそれは当然というかなんというか、守矢神社のロープウェイとはかなり離れた斜面で、そこを有効活用できるのは妖怪と私たちのような僅かな例外だけだった。
そう、超能力で空を飛ぶことができるのに、心もとない二本の板で雪を滑るなどというのは、それこそ少し前の私であれば意味がないと即座に切って捨てたであろう行為だ。ただ、魔理沙からスキー場の話を聞いて、そういう制限を楽しむことになんだか奇妙な魅力を感じたのだった。実際中学校のスキー合宿も欠席した私だ。
魔理沙が後ろ向きになり、私の手を引いてなだらかな斜面をくだった数時間を経て、私は何度も転びながらも一応彼女について斜面を滑っていくことができるようになった。魔理沙は私が転ぶたび、少し先の平地で退屈しているふりをしながら待ってくれた。
何度も滑って降りしているうちに、魔理沙が「もうちょっと難しいコースに行ってみるか」と言った。「いいね」と私は言った。
少し前から降り始めた雪はやや強くなっていた。しかし、私たちは運動の疲労と倦怠感がもたらす奇妙な作用、つまり続けるよりも途中でやめるのがむしろ億劫になるというあの錯誤によってより悪い方へと進んでいった。
私たちはいつの間にかコースを外れていた。辺りは吹雪で5メートルよりも先がまったく見えなくなって、これはどうやらまずいことになったと気づいた。
「ちょっと待て、照らすから」と魔理沙が言って懐を探った。そこではじめて彼女の表情に焦りが浮かんだ。「八卦炉落とした」
「マジで」
「まいったな」
「探す方法ってないの」
「ない。お前は?」
「無理だよそんなの」
私たちはしばらく途方に暮れたが、吹雪はまったくやむ様子がない。空を飛んでむりやり山を離れることができないわけではなかったのだろうが、そうするともう八卦炉を見つけだすことはまったく不可能になってしまうだろうし、なにしろ方角が分からない状態でそんな危険を冒すことはできなかった。私たちははぐれないようにぴったり身体を寄せ合って辺りを探索し始めた。やがてしばらく使われていない小屋を見つけ、私たちは顔を見合わせて中に転がり込んだ。
3
ペンギンたちを押しのけて進みながら、私は自分がどうしてここにいるのかを考える。それはもちろんどうせ考えても答えのわからない事柄で、答えがわからない事柄について考えるのは問題が解決しない代わりにめちゃくちゃ楽だ。なぜって、そのあいだは自分の能力的な欠陥に気を煩わせられずに済むから。
私が目覚めた場所は海に近い草地で、洗濯洗剤か何かのCMかと思うぐらい景色が良かった。ペンギンたちが現れるまでは。眼下に広がっていたのは、都市の皮脂に濁りきった東京湾みたいなやつじゃなくて、あれ、オーシャンブルーってやつ。あと青空に真上から陽が照ってて、気温は結構高い。夏みたいだけど、海の近くなのに全然湿気がなくて、それほど暑くは感じない。そんなことって日本じゃあまりないんじゃないかな。海外行ったことないけど。
とにかく私はもう全然慌てていなかった。はっきり言って私はこういう状況に対してのちょっとした権威と言っても良いぐらいだ。辺りを見渡しても誰もいない。とりあえず襲ってくる奴さえいなければ、それは大したことじゃない。話す相手さえもいないというのはそれはそれで心もとないけれど。
海と反対側には草地が広がっていて、丘のようになっている。海岸線というか、浜がなくて直接岩になっているやつなんだけど、それがかなりきついカーブを描いている。かなり小さな島なのかもしれない。私は丘に向かって歩き出した。
4
小屋の中には燃料が少しだけ入った埃だらけのランタンがあった。暖炉と薪とマッチもあったが、マッチは二本しか残っていない。一本を魔理沙が試してみたが薪にうまく火が通らないまま燃え尽きてしまった。これはまずいということになり、もう一本のマッチはとりあえず保留ということになった。持ち物を探っても、火にくべられるような燃えやすいものを魔理沙も私も持っていなかった。タロットカードは麓に置いてきてしまっていた。無害な占いで時間を潰すか、住環境の改善を図るかという究極の二択はついに訪れなかった。
私たちは椅子に腰掛けた。さしたる収穫はなかったが、少なくとも雪混じりの風にフードをこじ開けられて顔をなぶられることなく休むことができるという点で、状況は先ほどまでよりずいぶんましだった。
私たちは一つの小さな最後の灯りを隔てて向き合って座った。私はたくさんの雪で機能不全に陥っていた眼鏡を外して拭い、かけ直す。そこではじめて魔理沙の金色の髪についている水滴の一粒一粒が見えた。彼女の疲れた不安げな表情が見えた。それは私にとっては静かな衝撃だった。彼女のそんな様子を私は見たことがなかった。
「どうした?」と魔理沙は私の顔を見て言った。小さな灯りに照らされた彼女の大きくぼやけた影が小屋の後方に揺れていた。その薄さがひどく気がかりだった。
「いや」と私は言った。「せめてランプがあって良かったよね」
「寒いだろ」と彼女は言った。「大丈夫か?」
「全然平気」
「嘘つけ」と言って魔理沙は笑った。彼女の様子はどう繕っても快活とは言えなかったが、なんであれそれは笑顔だった。私は少し安心した。
それほど良くない状況の、しかしそれが致命的ではないという一点に寄りかかって、私たちはしばらくぼんやりと過ごした。この小屋に入ることになった原因の振る舞いと同じ過ちを犯していることに頭では気づいていたが、私の身体は動かなかった。
「お前は夢から覚めれば良いだろ。先に行けよ」と魔理沙がふと言った。長い沈黙のあとだった。私は驚いて目を見開き、俯いていた顔を起こした。
「行けない」と私はすぐに言った。魔理沙は私の顔をじっと見ていた。そこには特筆すべき表情は浮かんでいなかった。私は視線を反らさなかった。挑むように彼女の両目を睨むと、彼女は気圧されたようになって顎を引いた。
「そんなこと言うなんて信じられない」と低い声で私は言った。そのときには私は少し冷静になっていたと思う。怒ったふりというか、その言い口には少しばかりの、言ってしまえば演出が入っていた。自分の行動をそういう風に感じたのはもしかすると初めてだった。もちろん、何かを演じたことがそうだというのではない。相手に利するようにというか、相手のことを思ってそうするのが、ということ。魔理沙は頷いて両手を広げた。
「悪かったって」と最終的に彼女は言った。それから魔理沙の表情はずっと明るくなった。
5
丘にのぼると、ペンギンの大群の向こう側に何か黒く大きな円筒のようなものが見えた。
私はペンギンをすすきのようにかき分けて進んでいく。鳥たちは幾度も私に恨めしげな視線を向けたが、私が何も言わなかったので何も言わなかった。彼らは行為そのものを評価することはできないのだ。ちょっと学校に行くときに乗る満員電車を思い出したりもした。
近づいてみると黒い物体は本当に大きかった。私の背の3倍くらいある。熱を放っているようで周囲の空気がかすかに揺れていた。そこで私はWi-Fiの名前を思い出す。Steamer。バカみたいだと思ったけれど、よく見ると筒の上には細いアンテナのようなものが確かに伸びていた。せいろ。
「馬鹿じゃないの」
「そうだ!」「正しい」「君の言うとおり!」
「うるさい」と叫びかけた口をなんとか押さえて耳を塞いだ。ノイローゼになりそう、マジで。
私は舌打ちしながら手を耳から離す。せいろは海に向けて開かれた崖の切っ先に立っていた。目覚めた場所からここまで鳥たちに邪魔をされながら10分歩いたか歩いていないかくらいなのだから、本当に小さい島だ。私は島の中央側に向き直り、私を見つめる幾多の無機質な目を見返す。さて、と思う。
私は自分の超能力が使えないことに気づいていた。まったくなしのつぶてだ。夢を見ているのかどうかについてはいまいち確信が持てなかったが、この島は単なる監獄にしては手が込みすぎていた。つまり、牢屋の一つ二つは郷にあるわけで、私を郷の中の他の者たちと(内部の外部だ)接触させたくないのであれば、他に方法は幾らでもあるはずだった。そして現代日本に島流しの刑はないはずだった(たぶん)。
記憶は定かではなかった。昨日や一昨日、現実や夢の中で何をしたのかさっぱり思い出せない。別に私は自分の無謬性について何か根拠があるわけではなかったけど、大丈夫ではないかという気がしていた。危機があるとすれば、それはもっと直接的な、水がないとかそういうことで、しかし、そもそもこの世界で私の喉が渇くのかどうかということもわからない。
ただ、おそらくこれは出題なのだ。私は腕を組み、歩きながら考え始めた。せいろの周りをぐるりと一周する。せいろの裏側に回り込むと、地面にひどく見覚えのある箒と八卦炉と、それから赤い持ち手のついた大きなペンチが置いてあった。
6
小屋の中の空気は至って良かったが、私は少しずつ焦りはじめていた。問題は何一つ解決していなかった。私の威勢の良い物言いは私の態度を示し、それを魔理沙は受け取ってくれたが、私が問題を解決できる裏付けはまったくなかった。
しかし、私が少なくとももう魔理沙の客ではないというのであれば、私は私にできる何かを差し出さなくてはならなかった。何か有効なものを。私がのたまったのはそういうことであるはずだった。
ひどく寒くて、私は段々意識がふらついてきた。私は太ももをつねり、唇を噛んだ。私は決して目覚めるわけにはいかなかった。私はここにいることを選んだのだ。私はここにいることを選ぶ正当性を私自身で勝ち得たのだ。それを失わないために私は代償を支払わなければならない。
ランプは消えかけ、魔理沙は疲れ切っていた。もはやするべき話はなく、時間は更になかった。私はもう一度小屋の中を見渡した。朝までここで凌ぐために、吹雪をやり過ごすために、何か役に立つものがないかと。
7
私は箒と八卦炉とペンチを持ってせいろの前に立っていた。箒に跨がって何度か跳ねてみたが、私は魔法使いでないので当然飛び上がることはできなかった。八卦炉を掲げてみてもそれは同じだった。これは魔理沙のものだろう。私はため息をついた。私はこの趣味の悪い牢獄の勘所をつかみ始めていた。熱をふつふつと放っているせいろの正面には大きな扉がある。その取っ手を挟んで引っ張るのにちょうど良い大きさのペンチがあるということ。
「申し訳ないんだけど」と私は言った。口の中がひどく乾いていた。「友達のところに帰らなくちゃいけないの。道具をなくして困ってると思うし」
「そうとも!」「良いと思う」「もちろんだよ」
「燃料が必要なんだよ」
「そりゃそうだ」「任せとけ!」「はい」
私は絶叫するペンギンたちの無機質な目を見た。その一つ一つを。私の次の言葉を待っていた。でももう私には言うべきことは何もなかった。エクスキューズを作っても気はまったく晴れなかった。ペンギンたちは私の行為を肯定しないだろう。否定もしないだろう。何も、何もしないだろう。しかし私のやることは同じだった。
私はペンチでせいろの扉を開けた。湯気が吹き出し、顔が焼けるかと思った。私はその熱をまともに受けた。これも意味のないことだ。曇った眼鏡を拭うと、私は手近なところにいるペンギンを一羽一羽せいろの中に投げ入れ、蒸し始めた。私がそれを始めると、ペンギンたちは黙って列をなして私の前に並んだ。一匹を取り上げるたび、湿った羽毛の生暖かい感触が私の手に残った。鳥たちは無言のまま油になっていった。
8
私は諦めて立ち上がった。そのとき懐にずっしりとした重みを感じた。先ほどまでは決して存在しなかった重力を。
「えっ」と思わず声が漏れた。
「どうした?」と魔理沙が顔をこちらに向けて訊いた。
「いや……」
私はかじかむ手でウェアのジッパーを下ろし、中に入っているものを取り出した。それは瓶だった。色がよく見えないが、振ってみると粘性がある。私は栓を抜いてそれを魔理沙に見せる。彼女は手で瓶の口を仰ぎ、匂いを嗅いだ。
「油じゃないか? これ」
「かも」
「どうしたんだ?」
「わかんない。ほんとに」
私たちは瓶とマッチと消えかけのランタンを持って暖炉に駆け寄った。並べた薪に油を垂らす。私はマッチの最後の一本が入った箱を魔理沙に渡そうとする。
「お前がやってくれよ」と彼女は言った。「大丈夫。マッチ擦ったことくらいあるだろ?」
「たぶん」と私は言った。
私は手を擦って息を吐きつけて指を温めた。マッチを擦り、油の染みた薪に近づけると、ボッと音がして、瞬く間に薪全体に暖かな炎が行き渡った。
「やったな、おい」と言って魔理沙がくしゃくしゃの笑顔で私の首の後ろに手を回し、肩を叩いた。
「うん」と私は言った。私は後ろ向きにへたり込んだ。魔理沙の腕ごと。私の目には涙が溢れて、明るく淡く照らされた小屋の内装がぼやけた。
「おい、泣くなよ」と彼女は笑って言った。
「うん」と私は言った。「良かった」
9
すべてのペンギンを蒸し終わると、足下に置いていた八卦炉が、モーターの回るような甲高い音を発した。私はそれを取り上げる。熱を持っている。箒が独りでに浮き上がり、私が跨がるのを待った。
「さて」と私は言った。誰も何も答えなかった。
私は突然強烈な吐き気を催した。私は両手を草むらにつき、えずいた。胃の中には何も入っていなくて、胃液と唾液の混合物だけがぽたぽたと口の端から垂れた。10分以上も私は荒い息をつきながらそうしていた。やがて私は口を拭い、箒に跨がった。八卦炉を懐にしまい、足をバネのように縮めて地面を蹴る。
どんどん高度と速度が上がっていく。魔理沙の箒は自分の道具であるかのごとく、思った通りに動いた。私は少し海面に近づいた。潮の香りが漂い、水平線がどこまでも広がっていた。
私はあるところで速度を落とし、後ろを振り返った。すでに島から遠く離れていて、何も見えなかった。私は首を戻した。そして、魔理沙がやるように前向きに屈み込み、足をぴったりと箒のブラシの下につけて、再び速度を上げていった。
私は風になり音になり、海の彼方に消えていった。
ペンギンがたくさんいるので南半球だと思う。私は太陽に濡れて光る、使い物にならない羽をぱたぱたと振り回している鳥たちに囲まれている。それは実際囲まれているなんてものじゃない。大包囲だ。私の視界には肯定ペンギンたちがめちゃくちゃたくさんいて、足下からあの向こうのちょっと高台になってるところまでぜんぶ黒くててかてかした羽毛の塊だ。
私は眼鏡を外し、目を瞬いて何度か擦ってからかけ直す。それが見間違いではないことをしっかりと確かめる。それから、ポケットからスマホだけを取り出し、マントを脱いで脇に抱える。もう片方の手でカメラのアプリを起動して、パシャパシャやり始めた。親指を画面から適切なタイミングで剥がし損ねて、写真の半分くらいはバーストになってしまう。増殖したペンギンの写真の増殖。それを見て私は自分の指がかたかた震えていて、この風景に結構びびっていることに気づく。だって実際めちゃくちゃ気持ち悪いから。それでも考えるよりも先にスマホを向けてしまうのは、現代人の宿痾ってやつと、あとは狂った夢ばかり見続けてきてついた妙な耐性。
ただそういう病的な習性にも一つくらい良いところがあって、画面の中に収まったペンギンたちの写真を見ていると、まあそれがやばい光景であることには変わりないんだけど、ある程度私は落ち着いてくる。なんでって、あんまりうまく説明できないけど、それも結局一つの風景に過ぎないことがわかったっていうか。周りを見渡してみて、これだけ大勢の羽がばたばたやっていれば、飛べない彼らの羽ばたきでもそのうち少しくらい浮き上がっていくんじゃないかと私は思った。そんなわけないけど。とりあえずそんなこと考えるくらい落ち着いたって話。
次に私はもう一段階踏み込んで、写真のアプリをインカメに切り替えて鳥の大群を後景に自撮りしてみる。ペンギンたちは私に一切興味を示さずにインカメの画面の中で蠢いている。シャッターで私はその蠢きを微分していく。
撮れた写真を吟味する。根本的な異様さからうまく目をそらせさえすれば、写真自体はそれなりに撮れている。「インスタ上げよっかな」と私が何気なく呟くと、今まで私に一切関心を示さなかった肯定ペンギンたちが途端に顔を上げて「うん」「素晴らしい」「そうだね」と鳴き始めた。
肯定はウェーブのように放射状に広がっていく。私はめちゃくちゃびっくりする。私が黙っていると鳥たちはまた私から関心を失って元の無目的な蠢きへと戻っていった。私はインスタに繋ごうとするけれど、当然というか圏外だった。ダメ元でWi-Fiを探してみる。あった。マジで? 「Steamer」ってやつで、ばっちり電波三本立っている。パスワードもかかってない。私は烏合の衆との記念撮影をアップする。そのまましばらくじっと画面を眺めていたが、十分待っても二十分待っても一切いいねがつかない。インターネットの連中は全員死んだのだ。私は恨めしげな顔で、知らん顔をしているペンギンたちを見渡した。まあたしかに彼らに尋ねたのは写真を上げるか上げないかということだけで、それがどう見られるかということまでは範疇じゃない。私は諦めて別のことを試してみようと思う。せっかくネットが繋がったので私は地図アプリを開いて現在地を確かめようとするが、インスタと違ってこちらはうんともすんとも言わない。私の実存を示す青い丸は空白の地図の中に所在なげに埋もれている。
「ここは南半球なのかな」と私は小さな声で言った。
「そう」「正しい」「ご名答!」とペンギンたちが次々に叫んだ。
私は顔を上げる。連中の熱烈な肯定にもだんだん慣れてきていて、私には自分の頭の中に浮かんだ疑問を試してみる余裕が生まれている。
「ここは北半球なのかな」と私は訊いてみた。
「うん」「そうだよ」「よくわかったね」
私はため息をついて立ち上がった。ペンギンたちをかき分けかき分け、丘の上に向かって歩き出す。鳥たちは無感情な目で私を見て、億劫そうに身をかわす。私が口を開かない限り、彼らには肯定する対象が何もないのだ。
2
暗い小屋の中で、煤けた小さなテーブルと向かいに座っている魔理沙の顔をランタンの光が浮かび上がらせる。燃料はもう僅かだ。窓の外を照らす余裕はないけれど、別にそんな必要もない。どうせ吹雪だ。
私はポケットの中からかじかんだ手でスマホを取り出す。現代文明の結晶が原始的な照明の役割を果たさないかと、私はもう何度か目のチャレンジをしたけれど、一度低温で落ちた電源は二度と戻らなかった。
魔理沙が髪をかき上げるとぱらぱらと水滴が机の上に降る。
「寒いな」と彼女が言った。
「うん」
「やっぱり探しに行こうと思うんだけど」
「危ないよ」
「朝までもたないだろ」と言って彼女は私の肩の辺りを指さす。指摘されてはじめて私は自分の身体がひどく震えていることに気づく。私はぎゅっと自分の肘を抱く。ウェアは濡れて重く、じっとりとした不快さに集中すれば少しは寒さを忘れられそうだった。
私は魔理沙の言及を誤魔化すように戸口を振り返った。スキーの板とストックの二組がぼんやりと見える。そこから水が滴る音を聞いた気がした。
山の方にスキーに行きたいと言い出したのは私だった。天狗たちの黙認のもと、妖怪の山の麓近くの一区画が、スキー場として冬のあいだだけ人間やそれ以外に解放されていた。ただそれは当然というかなんというか、守矢神社のロープウェイとはかなり離れた斜面で、そこを有効活用できるのは妖怪と私たちのような僅かな例外だけだった。
そう、超能力で空を飛ぶことができるのに、心もとない二本の板で雪を滑るなどというのは、それこそ少し前の私であれば意味がないと即座に切って捨てたであろう行為だ。ただ、魔理沙からスキー場の話を聞いて、そういう制限を楽しむことになんだか奇妙な魅力を感じたのだった。実際中学校のスキー合宿も欠席した私だ。
魔理沙が後ろ向きになり、私の手を引いてなだらかな斜面をくだった数時間を経て、私は何度も転びながらも一応彼女について斜面を滑っていくことができるようになった。魔理沙は私が転ぶたび、少し先の平地で退屈しているふりをしながら待ってくれた。
何度も滑って降りしているうちに、魔理沙が「もうちょっと難しいコースに行ってみるか」と言った。「いいね」と私は言った。
少し前から降り始めた雪はやや強くなっていた。しかし、私たちは運動の疲労と倦怠感がもたらす奇妙な作用、つまり続けるよりも途中でやめるのがむしろ億劫になるというあの錯誤によってより悪い方へと進んでいった。
私たちはいつの間にかコースを外れていた。辺りは吹雪で5メートルよりも先がまったく見えなくなって、これはどうやらまずいことになったと気づいた。
「ちょっと待て、照らすから」と魔理沙が言って懐を探った。そこではじめて彼女の表情に焦りが浮かんだ。「八卦炉落とした」
「マジで」
「まいったな」
「探す方法ってないの」
「ない。お前は?」
「無理だよそんなの」
私たちはしばらく途方に暮れたが、吹雪はまったくやむ様子がない。空を飛んでむりやり山を離れることができないわけではなかったのだろうが、そうするともう八卦炉を見つけだすことはまったく不可能になってしまうだろうし、なにしろ方角が分からない状態でそんな危険を冒すことはできなかった。私たちははぐれないようにぴったり身体を寄せ合って辺りを探索し始めた。やがてしばらく使われていない小屋を見つけ、私たちは顔を見合わせて中に転がり込んだ。
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ペンギンたちを押しのけて進みながら、私は自分がどうしてここにいるのかを考える。それはもちろんどうせ考えても答えのわからない事柄で、答えがわからない事柄について考えるのは問題が解決しない代わりにめちゃくちゃ楽だ。なぜって、そのあいだは自分の能力的な欠陥に気を煩わせられずに済むから。
私が目覚めた場所は海に近い草地で、洗濯洗剤か何かのCMかと思うぐらい景色が良かった。ペンギンたちが現れるまでは。眼下に広がっていたのは、都市の皮脂に濁りきった東京湾みたいなやつじゃなくて、あれ、オーシャンブルーってやつ。あと青空に真上から陽が照ってて、気温は結構高い。夏みたいだけど、海の近くなのに全然湿気がなくて、それほど暑くは感じない。そんなことって日本じゃあまりないんじゃないかな。海外行ったことないけど。
とにかく私はもう全然慌てていなかった。はっきり言って私はこういう状況に対してのちょっとした権威と言っても良いぐらいだ。辺りを見渡しても誰もいない。とりあえず襲ってくる奴さえいなければ、それは大したことじゃない。話す相手さえもいないというのはそれはそれで心もとないけれど。
海と反対側には草地が広がっていて、丘のようになっている。海岸線というか、浜がなくて直接岩になっているやつなんだけど、それがかなりきついカーブを描いている。かなり小さな島なのかもしれない。私は丘に向かって歩き出した。
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小屋の中には燃料が少しだけ入った埃だらけのランタンがあった。暖炉と薪とマッチもあったが、マッチは二本しか残っていない。一本を魔理沙が試してみたが薪にうまく火が通らないまま燃え尽きてしまった。これはまずいということになり、もう一本のマッチはとりあえず保留ということになった。持ち物を探っても、火にくべられるような燃えやすいものを魔理沙も私も持っていなかった。タロットカードは麓に置いてきてしまっていた。無害な占いで時間を潰すか、住環境の改善を図るかという究極の二択はついに訪れなかった。
私たちは椅子に腰掛けた。さしたる収穫はなかったが、少なくとも雪混じりの風にフードをこじ開けられて顔をなぶられることなく休むことができるという点で、状況は先ほどまでよりずいぶんましだった。
私たちは一つの小さな最後の灯りを隔てて向き合って座った。私はたくさんの雪で機能不全に陥っていた眼鏡を外して拭い、かけ直す。そこではじめて魔理沙の金色の髪についている水滴の一粒一粒が見えた。彼女の疲れた不安げな表情が見えた。それは私にとっては静かな衝撃だった。彼女のそんな様子を私は見たことがなかった。
「どうした?」と魔理沙は私の顔を見て言った。小さな灯りに照らされた彼女の大きくぼやけた影が小屋の後方に揺れていた。その薄さがひどく気がかりだった。
「いや」と私は言った。「せめてランプがあって良かったよね」
「寒いだろ」と彼女は言った。「大丈夫か?」
「全然平気」
「嘘つけ」と言って魔理沙は笑った。彼女の様子はどう繕っても快活とは言えなかったが、なんであれそれは笑顔だった。私は少し安心した。
それほど良くない状況の、しかしそれが致命的ではないという一点に寄りかかって、私たちはしばらくぼんやりと過ごした。この小屋に入ることになった原因の振る舞いと同じ過ちを犯していることに頭では気づいていたが、私の身体は動かなかった。
「お前は夢から覚めれば良いだろ。先に行けよ」と魔理沙がふと言った。長い沈黙のあとだった。私は驚いて目を見開き、俯いていた顔を起こした。
「行けない」と私はすぐに言った。魔理沙は私の顔をじっと見ていた。そこには特筆すべき表情は浮かんでいなかった。私は視線を反らさなかった。挑むように彼女の両目を睨むと、彼女は気圧されたようになって顎を引いた。
「そんなこと言うなんて信じられない」と低い声で私は言った。そのときには私は少し冷静になっていたと思う。怒ったふりというか、その言い口には少しばかりの、言ってしまえば演出が入っていた。自分の行動をそういう風に感じたのはもしかすると初めてだった。もちろん、何かを演じたことがそうだというのではない。相手に利するようにというか、相手のことを思ってそうするのが、ということ。魔理沙は頷いて両手を広げた。
「悪かったって」と最終的に彼女は言った。それから魔理沙の表情はずっと明るくなった。
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丘にのぼると、ペンギンの大群の向こう側に何か黒く大きな円筒のようなものが見えた。
私はペンギンをすすきのようにかき分けて進んでいく。鳥たちは幾度も私に恨めしげな視線を向けたが、私が何も言わなかったので何も言わなかった。彼らは行為そのものを評価することはできないのだ。ちょっと学校に行くときに乗る満員電車を思い出したりもした。
近づいてみると黒い物体は本当に大きかった。私の背の3倍くらいある。熱を放っているようで周囲の空気がかすかに揺れていた。そこで私はWi-Fiの名前を思い出す。Steamer。バカみたいだと思ったけれど、よく見ると筒の上には細いアンテナのようなものが確かに伸びていた。せいろ。
「馬鹿じゃないの」
「そうだ!」「正しい」「君の言うとおり!」
「うるさい」と叫びかけた口をなんとか押さえて耳を塞いだ。ノイローゼになりそう、マジで。
私は舌打ちしながら手を耳から離す。せいろは海に向けて開かれた崖の切っ先に立っていた。目覚めた場所からここまで鳥たちに邪魔をされながら10分歩いたか歩いていないかくらいなのだから、本当に小さい島だ。私は島の中央側に向き直り、私を見つめる幾多の無機質な目を見返す。さて、と思う。
私は自分の超能力が使えないことに気づいていた。まったくなしのつぶてだ。夢を見ているのかどうかについてはいまいち確信が持てなかったが、この島は単なる監獄にしては手が込みすぎていた。つまり、牢屋の一つ二つは郷にあるわけで、私を郷の中の他の者たちと(内部の外部だ)接触させたくないのであれば、他に方法は幾らでもあるはずだった。そして現代日本に島流しの刑はないはずだった(たぶん)。
記憶は定かではなかった。昨日や一昨日、現実や夢の中で何をしたのかさっぱり思い出せない。別に私は自分の無謬性について何か根拠があるわけではなかったけど、大丈夫ではないかという気がしていた。危機があるとすれば、それはもっと直接的な、水がないとかそういうことで、しかし、そもそもこの世界で私の喉が渇くのかどうかということもわからない。
ただ、おそらくこれは出題なのだ。私は腕を組み、歩きながら考え始めた。せいろの周りをぐるりと一周する。せいろの裏側に回り込むと、地面にひどく見覚えのある箒と八卦炉と、それから赤い持ち手のついた大きなペンチが置いてあった。
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小屋の中の空気は至って良かったが、私は少しずつ焦りはじめていた。問題は何一つ解決していなかった。私の威勢の良い物言いは私の態度を示し、それを魔理沙は受け取ってくれたが、私が問題を解決できる裏付けはまったくなかった。
しかし、私が少なくとももう魔理沙の客ではないというのであれば、私は私にできる何かを差し出さなくてはならなかった。何か有効なものを。私がのたまったのはそういうことであるはずだった。
ひどく寒くて、私は段々意識がふらついてきた。私は太ももをつねり、唇を噛んだ。私は決して目覚めるわけにはいかなかった。私はここにいることを選んだのだ。私はここにいることを選ぶ正当性を私自身で勝ち得たのだ。それを失わないために私は代償を支払わなければならない。
ランプは消えかけ、魔理沙は疲れ切っていた。もはやするべき話はなく、時間は更になかった。私はもう一度小屋の中を見渡した。朝までここで凌ぐために、吹雪をやり過ごすために、何か役に立つものがないかと。
7
私は箒と八卦炉とペンチを持ってせいろの前に立っていた。箒に跨がって何度か跳ねてみたが、私は魔法使いでないので当然飛び上がることはできなかった。八卦炉を掲げてみてもそれは同じだった。これは魔理沙のものだろう。私はため息をついた。私はこの趣味の悪い牢獄の勘所をつかみ始めていた。熱をふつふつと放っているせいろの正面には大きな扉がある。その取っ手を挟んで引っ張るのにちょうど良い大きさのペンチがあるということ。
「申し訳ないんだけど」と私は言った。口の中がひどく乾いていた。「友達のところに帰らなくちゃいけないの。道具をなくして困ってると思うし」
「そうとも!」「良いと思う」「もちろんだよ」
「燃料が必要なんだよ」
「そりゃそうだ」「任せとけ!」「はい」
私は絶叫するペンギンたちの無機質な目を見た。その一つ一つを。私の次の言葉を待っていた。でももう私には言うべきことは何もなかった。エクスキューズを作っても気はまったく晴れなかった。ペンギンたちは私の行為を肯定しないだろう。否定もしないだろう。何も、何もしないだろう。しかし私のやることは同じだった。
私はペンチでせいろの扉を開けた。湯気が吹き出し、顔が焼けるかと思った。私はその熱をまともに受けた。これも意味のないことだ。曇った眼鏡を拭うと、私は手近なところにいるペンギンを一羽一羽せいろの中に投げ入れ、蒸し始めた。私がそれを始めると、ペンギンたちは黙って列をなして私の前に並んだ。一匹を取り上げるたび、湿った羽毛の生暖かい感触が私の手に残った。鳥たちは無言のまま油になっていった。
8
私は諦めて立ち上がった。そのとき懐にずっしりとした重みを感じた。先ほどまでは決して存在しなかった重力を。
「えっ」と思わず声が漏れた。
「どうした?」と魔理沙が顔をこちらに向けて訊いた。
「いや……」
私はかじかむ手でウェアのジッパーを下ろし、中に入っているものを取り出した。それは瓶だった。色がよく見えないが、振ってみると粘性がある。私は栓を抜いてそれを魔理沙に見せる。彼女は手で瓶の口を仰ぎ、匂いを嗅いだ。
「油じゃないか? これ」
「かも」
「どうしたんだ?」
「わかんない。ほんとに」
私たちは瓶とマッチと消えかけのランタンを持って暖炉に駆け寄った。並べた薪に油を垂らす。私はマッチの最後の一本が入った箱を魔理沙に渡そうとする。
「お前がやってくれよ」と彼女は言った。「大丈夫。マッチ擦ったことくらいあるだろ?」
「たぶん」と私は言った。
私は手を擦って息を吐きつけて指を温めた。マッチを擦り、油の染みた薪に近づけると、ボッと音がして、瞬く間に薪全体に暖かな炎が行き渡った。
「やったな、おい」と言って魔理沙がくしゃくしゃの笑顔で私の首の後ろに手を回し、肩を叩いた。
「うん」と私は言った。私は後ろ向きにへたり込んだ。魔理沙の腕ごと。私の目には涙が溢れて、明るく淡く照らされた小屋の内装がぼやけた。
「おい、泣くなよ」と彼女は笑って言った。
「うん」と私は言った。「良かった」
9
すべてのペンギンを蒸し終わると、足下に置いていた八卦炉が、モーターの回るような甲高い音を発した。私はそれを取り上げる。熱を持っている。箒が独りでに浮き上がり、私が跨がるのを待った。
「さて」と私は言った。誰も何も答えなかった。
私は突然強烈な吐き気を催した。私は両手を草むらにつき、えずいた。胃の中には何も入っていなくて、胃液と唾液の混合物だけがぽたぽたと口の端から垂れた。10分以上も私は荒い息をつきながらそうしていた。やがて私は口を拭い、箒に跨がった。八卦炉を懐にしまい、足をバネのように縮めて地面を蹴る。
どんどん高度と速度が上がっていく。魔理沙の箒は自分の道具であるかのごとく、思った通りに動いた。私は少し海面に近づいた。潮の香りが漂い、水平線がどこまでも広がっていた。
私はあるところで速度を落とし、後ろを振り返った。すでに島から遠く離れていて、何も見えなかった。私は首を戻した。そして、魔理沙がやるように前向きに屈み込み、足をぴったりと箒のブラシの下につけて、再び速度を上げていった。
私は風になり音になり、海の彼方に消えていった。
支離滅裂で不条理なのに何で面白いのさ
何かを持っていくためのものかと思います……面白かったです。
まったく関係なさそうな2つのシーンがじわじわ影響を与えあっていて不思議な感覚を覚えました
菫子は最終的にペンギンから搾取するかたちとは思うのですが、
菫子が魔理沙を想って流した涙を見ると、なんともいえない感慨がありました