卓袱台に肘をつきながら、博麗霊夢はテレビから流れる映像を眺める。風祝が隙間妖怪に頼んで準備をしてくれた電子の箱は、少女の眼に様々な映像を映す。
映像の中心にいるのは一人の少女。桜の木の下、木漏れ日を浴びながら、少女は穢れの無い笑みを浮かべている。そんな少女の姿を霊夢は呆として眺めている。
かあさまっ
そう、声が聞こえて。霊夢の肩がぴくりと震えた。
話の始まりは、雪がちらつく日も増えた博麗神社でのことだった。神社の巫女である博麗霊夢は境内の掃除を終え、縁側で茶をすすっていた。掃除というよりは、身体の冷えをどうにかするために動いていただけではあったが。
早々に仕事も終えてしまい、さてこれからどうしようかと霊夢は思案しながら空いていたもう一つの湯飲みに茶を注いだ。そろそろ来るだろうと勘が告げていたのだ。その予想は正しかったようで、それからしばらくもしない内に、境内に一つの影が降り立つ。ここ数日、毎日来ている来客への挨拶もそこそこに、霊夢は茶を差し出した。
「こんにちは、霊夢さん」
「寒かったでしょ、お茶、淹れといたわよ」
「わあ!すいません、ありがとうございます」
来客である東風谷早苗は荷物を縁側に降ろすと、霊夢の隣に座り茶を飲み始めた。一息ついたのだろう、緩み切った表情で白い息を吐いた。とりとめのない会話を交わしながら、二人は茶の間に入る。二人は確かに少女だが、流石に目的もなく寒空の下でのほほんとしていられる程幼くもなかった。最近早苗は博麗神社に入り浸っている。その原因をいそいそと取り出した。
「今日で完成なんだっけ?」
「そうですね」
取り出されたのは編みかけのマフラー。早苗は指に糸をかけ作業を開始した。霊夢も和裁などは一応できるが、指だけで編むというものには驚いた。なんでも、以前に香霖堂で並べられていた本の中に指編みについてのものがあったらしい。普段から世話になっている二柱へのサプライズもかねて、こうして博麗神社に通い詰めていた。最初こそ四苦八苦していたが、慣れてきたらしい。霊夢もいくつか作品を貰っているため、特段と何かを言う気はなかった。
「お、今日もやってんのか。精が出るな」
「あ、魔理沙さん。こんにちは」
「あんたもよく来るわね。何も無いわよ」
「お茶があるじゃあないか。あと霊夢がいる」
「私はついでか」
途中でやってきた黒白魔法使い霧雨魔理沙も加わり、短い日が沈もうかというところで、早苗は目的を達することが出来た。完成したのである。そんな早苗の頑張りを小さい拍手で表しながら、霊夢は質問を投げた。今編んだもの以外にも、すでにいくつかの作品を完成させている。それは霊夢が直接確認したから間違いがない。それは誰にあげるのかという質問に対して、早苗は言葉を詰まらせ、少しの間を置いて苦笑いを浮かべた。つまりは勘弁してくれという意味である。少しばかり下世話な想像も浮かんだが、そこまで追求するのも野暮だと思い、霊夢は質問を打ち切った。ほんの少しばかり眉尻を挙げていた魔理沙が少し気にかかってしまったのもあった。
「で、誰にあげる予定なんだ?」
博麗神社を後にした魔理沙と早苗は、幻想郷をゆらりと揺蕩っていた。日はもう山陰に隠れ、空は燃えるような茜と澄んだ黒の綺麗な二層を成している。一旦守矢神社に帰り、二柱に作り上げた作品を渡した時は、すわ戦争が起こるかといわんばかりの騒ぎ方であり、思わず魔理沙は笑ってしまった。夕食食材がないことに気づき、食材を買いに里へ下りることを決めたのだ。視線の先にいくつかの明かりが見えてくる。里も、その姿を夜に変えていくのだ。誰かに言ったことはなかったが、早苗はこの瞬間がとても好きだった。たぶんそれまで澄ましていた空気たちが、里の明かりで、俄かに活気を持ち始めるからなのかもしれない、
「あー、父と母に」
「ふうん。外のか?」
「はい。あそこが一番紫さんに出会いやすいので、その伝手でこっそり送ってもらおうかと、考えていました……まだ、私のことを覚えているかは解りませんが」
幻想郷に来る際に、別れてきた父親と母親。早苗の中にどんな感情があるのかは魔理沙には判断がつかなかったが、決して悪い感情を抱いてはいないだろう。
燃えるような茜は鳴りをひそめ、今は灰色の雲が、早苗たちの上空を覆っていた。山に囲まれた地域では天候が変わりやすい。頬を撫でる風が少しばかりの棘を帯び始めたことに気づきながら、魔理沙は合点した。
「だから霊夢に言われた時にはお茶濁したのか」
「下手、でしたかね?」
「いんや、大丈夫じゃないか、多分。あいつはそういうところの勘は鈍い気がする」
霊夢には両親がいない。育ての親はいるが、今は遠い距離がある。そんな霊夢の生みの親という話は早苗はもちろんとして、魔理沙もとんと聞いたことがなかった。聞こうともしなかった。引け目の様なものがあるのかもしれないと。早苗の中にも似たものがあったからなのだろう。
「覚えてるさ」
「え?」
「父さんも母さんも、きっと早苗のことは覚えているよ。きっと」
慰めなのか、それとも希望なのか。魔理沙はそう言って先に里へと向かっていく。その後姿を見て、そして早苗はその視線を里の中へと向けた。そこで、一組の親子の姿が目に入った。白い息を吐きながらもしきりに母親に笑顔を向ける子供と、それをみる母親の姿を。
早苗が思ったのは、霊夢のことだ。きっと自分よりも年下であろうあの少女は、親子の温もりを知っているのだろうかと。その考えはもしかしたら傲慢なのかもしれない。しかし、それでも考えられずにはいられなかった。
曰く、博麗の巫女は全てのものに対して中立だと。それは、孤独なのではないだろうか。彼女は、どうして孤独なのだろうか。
不思議な夢を見た。私は博麗の巫女じゃなくて、外の世界ではどこにでもいるような女の子になっていて、一人で家への帰り道を歩いている。私は知っている。この道を進めばこの先には私の家があることを。家に帰れば明かりが点いていて、リビングではかわいい弟と妹が、台所では母さんが私に言葉をかけてくれるの。お帰りなさいって。一緒にお夕飯の手伝いをしていると お父さんが帰ってきて、私たちは皆で食卓を囲むの。
弟と妹が、その日学校でこんなことがあったとか、あんなことがあったと言って、お母さんもお父さんも、そして私も笑いながらその話を聞くの。テストが近くなると少しお母さんが口うるさくなるのが嫌だけれど、それでも嫌いにはならない。とっても暖かいから。
だから私は家路を急ぐ。あの温もりに触れたくて。その途中の公園で、私は見た。自分と同じ顔をした少女がこちらを見ているのを。あれは、あの少女は、私なのだろうか。それとも。
「れいむ、れいむっ」
耳に入る言葉で、霊夢は目を覚ました。すでに魔理沙と早苗の姿は無い。寝ぼけた頭を覚醒させながら、寝る前に帰っていったことを思い出した。声の主である小人、少名針妙丸が炬燵の上で跳ねている。何があったのかと聞くと、鬼が来たと言う。きっと萃香だろうと立ち上がり、すでに台所まで侵入している鬼を討伐しに行く。
早苗がマフラーを編み上げた時の顔が思い浮かぶ。あの時、早苗が言いよどんだ理由は、なんとなくわかる。その優しさが少し嬉しくもあり、嫌でもあった。あの表情を、自分は誰かに向けることが出来るのだろうかと。
「……最近、色々あったからなあ」
大きな異変が続いていたというのもあった。時折自分を覆う虚無感はきっと気疲れなのだろうと。夢の内容は既に忘れてしまっていたが、まだ胸の中には暖かいものと、同時に黒いものが残っている。それを頭の隅に追いやりながら、霊夢は台所の侵入者に声を張り上げるのだった。
「あら、いらっしゃい」
とある日の午後、霊夢は森の人形遣いであるアリス・マーガトロイドの家を訪ねていた。特に何か用があったわけではない。追い返されても仕方がないと思っていたが、存外都会派の妖怪は甘いようで、軽い文句の一つだけで霊夢を迎えてくれた。出された紅茶から立ち上る湯気を見てから、霊夢はアリスに視線を向ける。その手では人形たちの衣装なのだろう、布と針と糸が生き物のように動いている。
「ねえ、アリス」
「なあに?」
「母親って、どう思う?」
ぴたりと、注視していた白い指の動きが止まる。そのまま霊夢が視線を上げた先には、それこそ人形のようにぎぎぎと振り返ったアリスの顔があった。
「……どういう意味?」
「いや、母親がいるってどんな気持ちなのかなあって」
「ああ、そっち。思わず貴女が母親になるのかと思ったわ。びっくりしたじゃあない……しかし、だからそんな珍しい表情してたのね」
「そんなに変だった?」
「なんていうか……疲れているような、怒られるのを待っているような、そんな顔していたわよ」
アリスが窓を見ると、どうやら天気は下り坂らしい。雪が降り始めていた。
「少し疲れてるんじゃない?最近異変が続いていたみたいだし。雪が止むまで休んでいきなさいな。そのために来たんでしょう?」
当代の博麗の巫女には似合わない力ない表情で頷き、霊夢は出された紅茶に口をつける。少し、顔がほころんだことで、アリスも自然笑顔になる。まだ話したいことはあるのだろうが、無理に聞くことはしない。ゆっくりと時間が流れていく中で、霊夢は少しずつ口を開いた。
早苗が誰のために編み物をしていたのか。なんとなくではあるが、霊夢にはわかっていた。一人になった後、ふと考えてしまったのだ。自分の親は、どんな人なのだろうか。生きて、健康に過ごしているのだろうか。親と過ごすというのは、どういう気持ちがわくのだろうか。ただ、霊夢がいくら考えようとも、その問いに対して答えを見つけることはできなかった。どこまで行っても、所詮は推論でしかなかったのだ。
「だから、さ。ちょっと聞いてみたくなったのよ。魔理沙は家庭環境のことをあまり話したくないだろうし、咲夜は館に来る前の記憶がないみたいだし」
「だから私ってわけね」
「そ。悪いとは思ってる。いきなり押しかけちゃったしね」
「構わないわよ。ただ、そうねえ……母親、ねえ」
何もない空間をアリスは見上げ、しばし固まった。それが、短くない付き合いの中で霊夢が知った人形遣いの起草の儀式だった。外の雪はまだ止むことは無く地面を白く染めている。その様子を見て、ふと霊夢は子供の頃を思い出した。育ての親である先代の巫女と、手を繋いで白く染まった道を歩いた記憶がある。だが、いったいどこを歩いた時の記憶だったか。
「姉妹が」
「え?」
「私には、姉妹がいるの。私は末っ子で、姉さんたちは、みんな優しくしてくれたわ。もちろん喧嘩もしたけれど。母さんは、そんな私たちを平等に愛してくれたと思う」
「思う?」
「やっぱり、気持ちは本人にしかわからないじゃない。あの頃から少しは大人になった気もするけれど、私も、愛情とかそういうのは未だにわからないわ。ただ、きっと、愛されていたのだとは思うわ」
「愛されていた、ねえ」
愛されている。母親とはという霊夢の問いには少し違っていたが、それでも納得はできた。だが、アリスでもその感情がわからないという。ならば、自分がわかるはずもないだろう。丁度よく雪が止んだのを窓から見て、霊夢はアリスの家を後にした。またいらっしゃいなといったアリスの、笑顔と困ったときの表情を足して二で割ったような表情を見て、また少し、霊夢は自分の中に暖かいものと黒いものが折り重なるのを感じた。
神社の近くにつく頃には、既に日が暮れようとしていた。恐ろしいほどの真っ赤な空が、逢魔が時の到来を知らせる。ふと、霊夢は空を飛ぶことをやめ、階段を昇って行った。特に理由はない。本当に、なんとなくだった。何段か白く染まった階段を昇っていたところで思い出した。そうだ、あの時先代の巫女に手を握られてこの階段を昇っていたのだと。きっと、自分も愛されていたのだ。そう思ったときに、自然に口から言葉が漏れた。
「母さん」
自分の母は、どんな顔をしているのだろう、どんな声をしているのだろう。そして、自分を愛してくれるのだろうか。
空を見上げると、茜と澄んだ黒が混ざった空に、星が輝き始めている。同じ空の下に、母はいるのだろうか。少し、胸が痛くなった。
さようならあ。
「気をつけて帰れよ」
子供たちの挨拶に魔理沙は手を振って応える。皆の後姿が里の景色に溶け込んだとこで、隣で一緒に手を振っていた上白沢慧音に礼を言われた。今日は霧雨魔法店として、寺子屋の引率手伝いの仕事を行った。里の近くにある森を探検するといった内容だったが、子供たちにはとてもいい体験だったようだ。少しばかり、子供たちの行動力に気疲れもしてしまったが。
「今日は助かったよ。お礼は……」
「ああ、報酬ならいらないぜ。代わりに、そこらで一杯とかどうかな、先生?」
「これは報酬分以上に飲まれてしまいそうだ。まあいい、お付き合いしようじゃないか」
残った仕事をささっと行った二人は、そのまま飲み屋街へと足を向ける。その中でも慧音のお気に入りの店が空いていたので、そこに決めた。奥の個室を頼んでもらい、あいさつ代わりに来た最近流行りの果実酒のグラスをそれぞれに持ち、突き合わせた。
「お疲れ」
「ああ、お疲れだ」
言葉もそこそこに、魔理沙はくいくいと果実酒を飲み干していく。けぷっと可愛らしい音を鳴らしながら、グラスをテーブルに置く。豪快な飲み口ではないのだが、するすると酒の嵩が減っていくのは、見るものによっては魔法に見えるかもしれない。酒の肴は最初は他愛もない会話だったが、そこから慧音の愚痴へと移っていった。目下最近の悩みは、子どもたちの恋愛事情であるらしい。慧音本人も木の股から生まれたわけではないためそのような機微はもちろんわかるのだが、人の恋路に茶々を入れるものは馬に蹴られて地獄に落ちるのが常である。さりとて首を突っ込んでもいい内容ではない。その悩みがあまりにも人間臭くて、思わず魔理沙は笑ってしまった。
魔理沙は、一人で酒を飲むことが好きではない。なんとなくではあるが、酒はやはり自分以外の者も交えて飲むのが楽しいのだと思っている。久しぶりに店で飲んだからだろうか、店の喧騒もあって、自然普段よりも飲む速度が上がっていた。
「……霊夢の奴、どうしてるかな」
「おいおい、私がいるのに、浮気は感心せんな」
「あはは、いや、最近ちょっと考えることがあってさ」
そこで魔理沙は、この前の神社での出来事を慧音に話した。何があったというわけでもない、ただ、早苗が霊夢に気を遣った。ただそれだけの話だ。聞いていても面白いものではないだろう。だが、そんな魔理沙の話を聞く慧音の顔は、正しく教育者のそれであった。一通り魔理沙が語り終えた後も、難しい顔を崩すことは無いままに、酒の追加を多めに頼んだ。酒が届いたところで。魔理沙はその行為が慧音なりの人払いなのだと感じた。
「……博麗の巫女、か。何とも、なあ」
「何がだ?」
「うむん、これは昔からだから、私も疑問に思うことは少なかったが……私が知っている限りでは、博麗の巫女になる者は大体の者が生まれつき強い力を宿していたそうだ」
「んん?まあそりゃあ神職なわけだからな。そうなんじゃないか?」
「つまりだ。博麗の巫女は襲名制なわけだ。力の強い子供を引き取り、厳しい修練を積ませ、そして博麗の秘術を伝える。そうして博麗の巫女は幻想郷の調停者としての役割を持っていくわけだ。まあ、当代の巫女は修行をさぼっているとも聞くが」
「……?なあ、慧音センセイ。私が酔っ払っているからなのかな。さっぱり話が見えてこないんだが」
好奇心の塊のように見られている魔理沙ではあるが、人の話を聞くのは嫌いではなかった。貪欲に物事を吸収していく姿勢がなければ、魔法使いは名乗れないだろう。だからこそ、慧音の次の言葉が気になった。先ほどまで心地よかった店の喧騒が、少し耳障りが悪くなる程度には。
「博麗の巫女は、どこから来る?」
慧音の一言に、魔理沙は鈍くなった頭を回転させる。この一言があるから、慧音は人払いをしたかったのだろう。魔理沙はその問いを今までに一度も考えたことがなかった。否、考えたことはあったのかもしれない。ただ、それをしっかりと考えたことは、それこそ今までに碌に無かったのだ。何故かは、わからなかったが。仕方なく、里からじゃないかと返したが、慧音の眼は鋭いまま、動くことは無い。
「里から巫女たりえる者を見出す。もちろんそれもあるさ。随分と昔だが、この里から博麗の巫女が出たこともある」
「だろう?」
「けれども、だ。もし、その資質を持つ者が幻想郷の中にいなかったら?」
そこで、会話が途切れた。思考の鈍りのせいにはしたいが、慧音の話に対する結論は、どれだけ解釈を広げようとも、魔理沙には二つしか考えられなかった。
「素質を持つ子供が生まれるまで待つか、それとも」
「外の世界から連れてくるかだ」
「……まさか」
あくまでも推測だと慧音は続けたが、見たことも、聞いたことも、ましてや調べようとも思ったことがない霊夢の生みの親。それが上手く繋がってしまう気がした。
「もちろん、育ての親は先代の博麗の巫女が行っていくのだろう。そういう意味では親は存在する。だが生まれとなってくると、話は変わってくる。勿論、これは私の勝手な推察だよ。さっきの質問に対しての考えを述べただけだ。もしかしたら、代々子を生して直系の血族なのかもしれない。ただ、私はそんな話を聞いたことはないし、調べたこともない」
「センセイの力とかで、そういう歴史とかってわかるんじゃあないのか」
「私が編纂や確認ができるのは大まかな部分だけだよ。川べりに立っていれば川の流れはわかるだろうが、底にある石ころ一つ一つまでは見えないだろう?それに個々人の歴史を見ることほど下種なこともないだろうしね。まあ、なんにせよだ」
そこまで言ってから、慧音は頼んでから全く口をつけていなかった果実酒をぐいと飲み干した。仰ぎ下したその顔は、今までの鋭い目つきが幾分下がっていた。
「可哀そうだなあと、私は思うよ。傲慢だけどね」
「可哀そう?」
「正直な話、糞の様な親の下に生まれた子供もいるだろう。事実、いる。だが、子はな、望んでいるんだ。親の愛というものをさ。果たして巫女には、そのような時期があったのか、考えると心配だよ。果たして彼女は、愛されたことを覚えているのかとね」
「それは」
「愛情というものは、本来喜怒哀楽のように内から湧き上がってくるものではないんだ。愛がある、というのは愛されたことがある者が、愛情を記憶しているからなのさ」
「……」
魔理沙の言葉を待たずに、慧音は次々と残っていた酒をあおっていく。そうして、先ほどまでの表情は消え去り、破顔した。差し出されたグラスを受け取り、魔理沙もするすると飲み干す。これが合図なだったのだろう。もう、その話題が出ることは無かった。確かに下種の勘繰りだ。本人がいないところで、複雑な問題を酒の肴にしてしまった。今日のことは内緒にしておこうという言葉に、魔理沙は幾分か救われた気がした。だがそれでも、魔理沙の胸の内には感情が残っていた。
どうして彼女は、孤独なのだろうかと。
年の瀬のある日の朝、森近霖之助は珍しく早起きをして店内の掃除を行っていた。あまりの寒さで目が覚めてしまい、寝ることもかなわないからだ。ならばいっそ日が昇りきるまでは体でも動かしていようと、掃除を開始した次第であった。体が段々と温まってきたころに、ふとこちらに向かってくる人影を見た。馴染みのある影を見て、霖之助は店の中に入る。茶と菓子を持って店内に戻ると、来客は店内にある安楽椅子に揺られていた。
「今日は夜更かしでもしていたのかい、霊夢」
「ん、ちょっと眠れなくて。朝も早いのにごめんなさい」
「別に構わないよ。妹のように思っている女の子が来るんだ。嬉しいと思いこそすれ、迷惑だとは思っていないよ」
それまで寒さと感情で強張っていた霊夢の表情が、ふっと緩んだ。それに霖之助は微笑み返す。穏やかに朝の時間が過ぎていく中で、掃除を終えた霖之助は霊夢に茶を出すと、読書を開始した。子供の頃からそうだ。近くで座っている少女は、どうでもいいことは強気に聞いてくるが、相手を気遣ってしおらしく聞く機会をうかがう少女でもあるのだ。それがわかっていたからこそ、霖之助は普段通りの生活をする。少女が意を決するまで。
「霖之助さんって、親の思い出とか、ありますか?」
思わずきょとんとした表情で霖之助は霊夢を見返した。普段と変わらない、いっそ不愛想ともとれる表情を見ながらも、霊夢のその瞳がかすかに揺れているのを感じた。たっぷりとした間が流れる。本を閉じ、ふうと大きな息を吐いてから、霖之助は霊夢に向き直った。
「親、か。たくさんあるよ。拾ってもらった思い出から。仕事を教えてもらった。人の世界に住む術を授けてもらった。今でも、感謝してるよ」
「いや、そうじゃなくて、ああ、そういうことでもあるんですけど……」
「ははは、ごめん。ちょっとからかいたくなってね。気を悪くしてしまったのなら謝るよ。霊夢が聞きたいのは解ってる、僕の生みの親のことだろう」
「いやまぁその……」
「正直、僕は生みの親の顔を覚えていないんだ。こう見えても普通の人間よりは十二分に長生きをしている。記憶が風化するとかじゃあないんだ。単純に、僕が僕として意識を持ち始めた瞬間から、親というのはいなかったんだ……別に気は遣わなくていい。何となく霊夢も察していただろう?」
「なんとなく、ですけど。霖之助さんからそういう話が出たことは無かったし」
「だから、霊夢の質問には答えられないかもしれない。勿論、書物と生活で得た限りでの一般常識的なものならば回答できるがね。でも、欲しいものはそうじゃあないんだろう?」
「霖之助さんは、その、生みの親を憎んだり、怒ったりはしなかったんですか」
「うむん、そう言われると、まだ餓鬼の頃はそういう感情もあったのかもしれないね。こんな髪の色をしているから、やれ異人の子だ化け物だ、なんて呼ばれていたこともあった。結局そうなると集落になんかいられない。物盗りをして、泥の水を啜って、時には出奔してまで住む場所を変えたこともあった」
「そんなこと、してたんですか」
「意外かい?子供の頃は結構な『悪たれ』だったのさ。生きるためとはいえね。あの頃は常に苛ついていた。遠くから見る里の親子を見るたびに、どうして自分はこんな思いをしなくちゃいけないんだ。民家の囲炉裏火を見るたびに、どうして自分には暖かいところで寝られないのか。どうして自分は幸せじゃあないのかってね。探求欲が出てからはそんなこともなくなったけれど。まあ、恨みはしていたんじゃあないかな」
「なんていうか、随分とさっぱりしてますね」
「どうでもよくなったんだろう。それよりも、色々なことが知りたいという気持ちが勝ったんだろうね。おかげ様で、一国一城の主をやらせてもらっているわけだ。そして僕は今の結果に概ね満足している。もし今生みの親というものに会ったとしても、何の感慨もわかないだろう。ただ」
「ただ?」
「『どうして僕を置いていったのか』と聞いてみたい気持ちはあるかもなあ」
一通りの話を聞いた後、霊夢は香霖堂を後にした。帰り際に霖之助に体調を心配されたが、確かに体調がよろしくないのかもしれない。感情的な部分ではあるのだろうが、最近ではそれが身体面にまで影響を及ぼしていることを自覚していた。
帰路の最中に、霊夢は霖之助の最後の言葉を思い出していた。霊夢も、もし生みの親に合うことが出来るのならば、聞いてみたいことがあった。
次に思い浮かんだのが、育ての親である先代の博麗の巫女だった。先代の巫女は、育ててもらった霊夢自身から見ても非常に素晴らしい人物だった。厳しいところも勿論あったが、おおよそ親が子に向ける愛情というものの大半を、しっかりと受けていたように思える。ただ、だからこそ、一度芽生えた感情が消えることなく自分の中で蠢いているのだ。
自分はなぜ、親の元を離れなくてはならなかったのか。先代の巫女に、まだ物心がつくかつかないかの時分に聞いた覚えがある。何と答えてくれたかは忘れてしまったが、彼女は答えた後に少し困ったように笑っていた。今ならば、少しわかる気がする。あの笑顔は、困っていたのではない。きっと、哀しかったのだと。
神社に戻った霊夢は、縁側に来客がいることに気が付いた。縁側で勝手に茶を飲んでいるその姿を見て思わず怒鳴りたくなってしまったが、すんでのところで怒りをため息に変えることが出来た。
「すまんな。勝手に上がらせてもらったぜ」
「……こんな寒い日の朝も早くから、何の用かしら。大した用じゃないならさっさと帰ってほしいんだけど」
魔理沙が博麗神社を訪れた理由は、単純に心配からであった。先日慧音と話したことがどうにも頭から離れなかったのだ。その心配の中には本人がいない処で話題にしてしまったということに対する贖罪も含まれていた。そんなことを心の中で思いながら魔理沙は霊夢の表情を見て、その心配が当たっていたことを確信した。
「なあ霊夢、お前もしかして風邪でも引いてるんじゃあないか?なんかいつもよりも顔が白いぜ」
「……ああ、確かにちょっと風邪っぽいかも」
霊夢の額に手を当てる。果たして、基本体温が高めの魔理沙でもはっきりと感じることが出来るほどに霊夢の身体は熱を持っているようだった。霊夢を炬燵に当たらせ、魔理沙は急いで布団の用意をした。勝手知ったる博麗神社である。いつもならば酒飲みの鬼なりやかましいほどに元気な小人なり守護ると言ってはばからない狛犬らしきものがいるものだが、どうやらこういう時に限っていないらしい。ゆっくり休むことが出来るという点では好都合でもあったが。
どうやら調子の悪さを理解したのであろう、段々と元気がなくなっていく霊夢を手早く寝巻に着替えさせると、布団に叩き込んだ。
「なんかして欲しいこととかあるか?今日の霧雨魔法店は出張出血大サアビスだぜ」
「……じゃあ、治るまで一緒にいて」
思いもがけない一言に、思わずおどけていた仮面が取れてしまった。先ほどよりも上気してきたその顔を見て、そこにいたのが博麗の巫女ではなく風邪で弱った親友の少女だったことに魔理沙は破願した。
「わかったわかった。霊夢が治るまで手厚く看病してやるぜ。私の本気の看病は思わず後で代金を払いたくなるほどだぞ。期待するといい」
「ん。期待しておく……ごめんなさい、寝るわ。お休み」
「ああ、お休み」
す、と霊夢が手を差し出してきた。求めているのだ。魔理沙がその手のひらを優しく握り返すと、その力は段々と弱まっていき、代わりに可愛らしい寝息が聞こえ始める。ふうと一息をついたものの、魔理沙の心の中から心配が消えることは無かった。魔理沙が視線を外す。殺風景な和室に、時計が針を刻む音。ただそれだけが、この場の構成物質だった。
外見に比べると随分と頑丈な霊夢ではあるが、魔理沙が思い返した中でも体調を崩したことは何度かあった。看病をしたこともあった。だが、この場は余りにも、寂しすぎた。自分はまだ恵まれているのだろう。魔理沙は思う。魔法の森はたしかに薄気味が悪い場所ではあるが、寂しくはない。魔道に身を置く者としての感性なのかもしれないが。それに、自分で決めたことだから、耐えることもできる。だが、目の前で静かに寝息を立てている少女はどうだったのだろうか。再び魔理沙は周りを見渡した。時計が時を刻む音を鳴らしていなければ時が止まっていると錯覚を覚えてしまうほどの静謐が魔理沙に与えた感情は、恐怖だった。
ゆっくりと握っていた手を解く。魔理沙は離した霊夢の手を両手で優しく包みなおし、静かに布団の中へ戻した。面倒を見るという気持ちに偽りはない。とりあえず着替えや水も必要だろうと、魔理沙は部屋を離れる。
そして霊夢の体調は、それから十日が経った後にも、快復することは無かった。
二つの夢を見た。一つは、お互いに手を繋ぐ私と同じ衣装の親子、なのだろうと思う。見るたびに場所は変わるのだけれど、子どもは、とても楽しそうに顔を動かしては母親に話しかける。話しかけられた親も、多分、笑っているのだろう顔を子どもに見せる。私からは、二人がどんな表情を浮かべているかはわからないが、笑顔を浮かべていることは、感じることが出来た。
そんな二人を、私は少し離れたところから眺めている。私は、そんな二人の背中を見て、暖かいものに包まれるのだ。
それが、私が見た夢の一つ。
もう一つの夢は、きっと外の世界なのだろう。金属の蛇が走る道に向かい合って、私は一組の親子と対峙している。子の方は、服装こそ違えど、私と全く同じ顔の少女だった。もしかしたら、それは私なのかもしれない。隣には少女よりも幾分か背の高い女性がいる。その顔が、なぜか真正面を向ているはずなのに、黒に塗りつぶされて見えなくて。私は声を上げようとして、手を引かれる。
振り向くと、小さな私が手を引っ張って、とても必死な表情をしている。何かを伝えたいことはわかる。けれど、私の耳には届かない。小さな私は、まるで私に失望したかのように、その手を放してしまう。見ると、親子の姿も遠くになってしまう。
たくさんの人が、妖怪が、私から離れていく。動きたくても足がいうことを聞かなくて、私は背を向けてしまう皆の姿を、ただ眺めることしかできなくて。そこで目が覚めるのだ。
どれが、私なのだろうか。私はあそこに、いたのだろうか。
私は、何を言う気だったのだろうか。わからない。わからないの。
「霊夢は、大丈夫なのか?」
人里に新しくできた茶屋の個室で、魔理沙は先ほどまで霊夢を見ていた者に問いかけた。霊夢が調子を崩してから、そろそろ半月が経とうとしている。その間、魔理沙は甲斐甲斐しく霊夢の面倒を見ていた。約束をした手前、と霊夢には言ったが、心配のほうが強かった。段々と熱も引いていったが、魔理沙の中では逆に不安が大きくなっていった。治りが遅かった、というのもあったが、それ以外にも、動きが鈍かったのだ。それが魔理沙の感じた不安原因の一つだった。まるで、人形のように。ぼうっとすることも多かった気がする。
勿論、まだ復調しきっていないだけなのかもしれない。むしろその可能性が高いだろう。そうして、竹林の薬師を呼んだのだ。霊夢のためと言ってはいるが、自身の不安を解消するために呼んだことに、若干の後ろめたさを感じずにはいられなかった。
茶屋の個室には、窓がついている。そこに映る雪景色に視線を向けながら魔理沙に問われた竹林の薬師、八意永琳は出されていた珈琲で喉を潤した。
「私は別にカウンセラーじゃないのだけれど。とりあえず、今日明日死ぬようなものじゃないから安心しなさい。これからは時々優曇華も向かわせるわ」
「そう、か」
「……もしかしたら、少し気疲れしているのかもしれないわね、彼女。最近は大きな異変が続いたしねえ。ちょっと休養を取ったほうがいいとも思うわ。身体にも、心にも、ね」
そう言って永琳は再び珈琲に口をつける。視線を向けている魔理沙の表情はまだ晴れやかなものではなかった。魔理沙も倣って己の珈琲に口をつける。永琳のついでに同じものを頼んでしまったが、味が良かったのが救いだった。
「何をそんなに不安になっているの」
永琳の言葉に、魔理沙はテーブルに向けていた視線を永琳に向けた。そんな風に見えるか、という魔理沙の問いに、永琳は頷いた。もしかしたらあなたのほうが重症なのかもしれないという言葉が、冗談なのか本意なのかは魔理沙には理解が出来なかった。
入るときに見かけた柱時計が針を鳴らす。ちびりちびりとカップに口をつけながら、魔理沙は空いた片方の人差し指でテーブルを何度もたたいた。はたから見れば不安な子供のように、それは苛ついているようにも見えたかもしれない。不安げな表情のまま珈琲を飲み干し、口を開いた。
「子供の頃から、付き合いがあるんだ。なんだかさ、なんていうか。いつも元気だったんだよ。アイツ。そりゃあ風邪を引いたり熱出したり、なんか妖怪に祟られたりもしたけれどさ、今回もそう思いたいんだ」
「思い、たい?」
「なんかさ、今までのとは違う気がするんだ。なあ永琳、本当に何でもないのか、霊夢は。なんか、違う感じがするんだよ……」
そこまで言って、魔理沙は力なく椅子に背を預けた。依存度が高すぎる気もあるが、魔理沙の言ったことは、間違ってはいなかった。同情の念が少しばかり永琳の眉を動かしたが、それだけだった。言いたいことはもちろんあるのだが、この場で言うことではないだろう、と。だが魔理沙は未だに何かを訴えるように永琳の顔を覗き込む。
「……後で説明だけしてあげるわ。勿論、霊夢が復調したあとに、本人の同意を得たうえでね。これで、いいかしら。あと貴女のあの子に対する依存の高さもね。すぐに命に関わるようなものではないということだけは、約束できるわ。信じて」
何かがあることは、今の鈍っている魔理沙でも理解をすることが出来た。本当ならば、今この場で永琳を押し倒してでも聞きたかったが、約束なのだ。信じると魔理沙が返し、そこで初めて、永琳は魔理沙に笑顔を向けるのだった。
そうして永琳を竹林へと送り、魔理沙は博麗神社に向かっていた。今日は永琳の弟子である薬売りが看病しているようだったが、ここ数日は朝から晩まで毎日通っていたのだ。心配するなということが無理だと考えながら、箒にまたがり速度を上げる。月が昇り始めた薄闇の頃に果たしてたどり着いた博麗神社には、いくらかの来客がいた。魔理沙は手近な薬売りの兎に近寄り、説明を求める。話を聞くと、どうやらメイドに庭師に現人神、人形遣いまで来ているようだ。
「なんやかんやで皆心配してるんでしょう」
月の兎、鈴仙・優曇華院・イナバは魔理沙にそう返した。薄紫の髪が薄闇を取り込み、銀に近くなっている。鈴仙自身は気が付いていないかもしれないが、魔理沙はその髪色を見て、先ほどまで一緒に話していた永琳のことをふと思い出してしまった。
鈴仙とともに寝室へと向かった魔理沙は、布団から身を起こしている霊夢に挨拶をした。きっと何もせずに寝ていろとでもメイド長に言われたのだろう、ぼうとした表情のまま、上半身を起こしている。魔理沙が朝見た時に比べても、あまり変わっていないように思える。段々と快復に向かっているのだろうか。鈴仙は霊夢の瞼を軽く開いてその赤い瞳で覗き込み、数秒の後に静かに顔を離した。大丈夫でしょうという言葉を魔理沙につけて。
「これ以上ここにいても邪魔なだけよ。私は残るから、アンタは台所にいる人間たちの手伝いでもしてきなさい」
その言葉を聞いて、魔理沙は安心したようにその場を離れた。遠くなっていく声が、どことなく弾んでいるようにも聞こえる。くすりと鈴仙は笑った後に、再び霊夢に向き直った。
「愛されているわね」
「何だっていいわよ。おゆはんを作らずにすむならね」
霊夢がついた悪態に鈴仙はくすりと笑う。可笑しかったこともあるが、霊夢を心配させまいと笑ったことに鈴仙本人も気が付いていなかった。しばらくの後に診察終了と鈴仙が言ったところで、霊夢は布団に倒れこんでしまった。疲れさせてしまったのだろう。鈴仙は布団をかぶせる。すわ何事かと駆け込んできた魔理沙を宥めながら、鈴仙も寝室を後にした。魔理沙の背中を押しながら、鈴仙は一人考える。もしかしたら、長引くかもしれない、と。
その日の深夜のことだった。夜も更けてきて熱が上がってきたのだろう、微かな寝苦しさを見せている霊夢の横に、鈴仙は控えていた。師匠である永琳からは明日の仕事は休むように言われている。別段そこまで気を遣われなくても、月にいた頃には何度も徹夜での行軍演習を行っていたのだ、一日二日の不寝番ぐらいではどうということもなかったが、有りがたく休みを頂いておくことにした。
雨戸は閉めてあるために外の様子をうかがい知ることは出来なかいが、雪が降っていることだけはわかっていた。しんしんと、『雪が音を吸収する音』が感じられるのだ。明日は雪かきも手伝う必要もあるのかもしれない。普段気を遣いながら薬を売ることより、雪かきのほうがよっぽど自分仕事だと、霊夢起こさぬようにくくくと笑うと、寝苦しそうにしている霊夢に視線を向ける。その顔は、普段の無表情か激情か、という顔ばかりを見てきた鈴仙にとって、弱弱しく息を荒げている少女が、異変の時に見せるいっそ傲慢とまで思える笑顔を浮かべるのだと、思わずふんと鼻から息が出ていた。
今、神社には自分と魔理沙以外には来客はいない。大体の者には話し合いで、それでも話を聞かぬモノには弾幕勝負で。そうして、来客を返すことには成功した。
この一連の流れの中、鈴仙は正直に羨ましいと思った。この神社に来た者たちは、人妖問わず、『博麗の巫女』ではなく、『博麗霊夢』を心配しに来ていたのだ。それはもしかしたらあたり前なことなのかもしれない。だがそれでも、鈴仙にはその行動が、当てつけかと思えるほどに羨ましく見たのだ。目の前でうなされている少女に感じる羨望が、だが鈴仙もそれに救われているのだと自答する。だからこそここにいるのだと。
先ほど霊夢の波長を診たときに感じたモノを見て、長引くという予測は立てていた。霊夢の体調そのものは安定しているが、そこから、別の波がずれだしている。博麗の力が激しい波を出しているのだ、まるで互いが反発するように。彼女の体の中は激しく波立っていた。だからこそ自分がいるのだと、気づかぬうちに拳を握っていた。
きいと床板がしなる音に気が付き鈴仙は音の鳴った方を見る。魔理沙が入ってよいのかと身振りで伝えてきた。その姿が普段の魔理沙から見ることは無いほどに静かに、弱弱しく行っているのが滑稽で、鈴仙は思わず吹き出しそうになってしまった。元々夕方頃に行った弾幕勝負が喧しかったので、霊夢の身体に負担をかけぬ範囲で波長をいじっていた。多少の声なら気にせずに眠ることが出来るようになっているので問題ないと告げると、恐る恐るといった体で霊夢を挟んで鈴仙の向かいに腰かけた。
魔理沙が入ってはきたものの、部屋の静けさは変わらない。行燈の微かな明かりが、魔理沙の横顔を照らす。その顔が何の表情も浮かべていないことに鈴仙は気づいた。
「やっぱり心配?」
「……そりゃあ心配してなかったらこの場にはいないからな」
「そういや、付き合い長いんだっけ」
魔理沙は首肯で返すと、ぽつりぽつりと話を始める。お互いに、子供の頃から遊んでいたこと。天才肌な霊夢を羨ましがって喧嘩をしたこと、歌を歌って遊んだこと。看病という目的こそあれ、何もしないでいる時間というものが辛いことを鈴仙は軍人時代に知っている。他人の話を、しかも地上人の話を聞きたいと思いながら聞いているという事実が、どこか鈴仙には楽しく思えた。
幾つかのことを話したところで、魔理沙は一旦話を打ち切る。それまで話していて当時を思い出したのだろう、ころころと変わっていた表情から、途端に表情がなくなった。
「今でも思うのさ」
唐突な魔理沙の切り出しに、何をと鈴仙は返す。俯いたせいか行燈の光から外れた顔は、夜の闇で真っ黒に染まっている。
「沢山の奴らと知り合って、これだけ長い時間が過ぎてるのに、それでもコイツは、霊夢は、きっと孤独なんだ」
「……それはアンタの考え過ぎじゃないかしら。現にアンタがいるじゃあない」
「お前、親はいるか?」
「流石に試験管ベイビーじゃあ、ってアンタらには解らんか。そりゃあいるわよ。もう輪郭くらいしか思い出せないけれど」
「じゃあさ、親に愛されてもらったことはあるか。愛情を貰ったって思うことは」
何を聞きたいのかと鈴仙は口を開こうとしたが、それは霊夢の寝言で妨げられた。
「……ぐ、うっ」
苦し気に放つ霊夢の言葉を聞いて、鈴仙は瞬時に波長を眺めた。先ほど見ていた時よりも激しく波長が波を打っている。霊夢本体の波と、博麗の波が、激しく反発し合っている。見たことのない波の動きだった。だが、わかる。状況は先ほどよりも悪いということを。鈴仙ははっきりとした声で魔理沙に部屋を離れ、永琳を呼んでくるように告げた。
慌ただしく駆けていく魔理沙の足音を背後に聞きながら、鈴仙は霊夢の異変を目に捉えた。体が発光しているのだ。
「嘘でしょ、何よこれ」
意識があるようには見えない。鈴仙は霊夢の肩を掴んだ。その瞬間だった。鈴仙は己の手が熱い何かに貫かれたのを感じたのだ。慌てて己が手を見る。貫かれたわけではない。しかし、その掌は真っ赤に腫れていた。そして、なによりも鈴仙を驚かせたのは、その掌が薄く『透けていた』のだ。
霊夢の意識は戻らない、しかしその身体はふわりと浮き上がると、身体から漏れ出ていた光が、少しずつではあるが確実にその輝きを増していた。
「博麗の力……」
曰く、退魔の力。曰く、破邪の力。この力は、そんな『生易しいもの』ではないと鈴仙は気づいた。掌からの痺れは消えることが無く、むしろ激しくなっている。喉の奥がひっつき、息が上手く吸えない感覚。短くない生の中で何度か体験した現象である。そこには例外なく、恐怖の感情がついていた。
霊夢の身体から溢れる光はさらに輝きを増していく。進むか、退くか。一瞬の躊躇が鈴仙に防御の姿勢を取らせた。直後に光が弾け、鈴仙は前後不覚のままに足場が無くなるのを感じた。背中の衝撃と、先程掌に感じた焼けるような衝撃。そして自分の顔にかかる雪で、鈴仙は自分が雨戸を破り境内まで吹き飛ばされたことを知った。
「霊夢っ」
今受けた衝撃の影響か、それともあの光の影響か、焦点が合わずに霞む目を叱咤しながら飛び起き、寝室へと再び駆け寄る。きゅうと軽くしなった縁側の床の音が、今この瞬間が現実なのだと、いやに強く耳に残る。
「霊夢っ!くそっ、目が……!」
三度呼び掛けたところで、鈴仙は時計の音以外のものを察知した。みしりととした音。何者かが、畳の上にいることを感知したのだ。鈴仙の経験は、今更気配を殺すことよりも速度が必要だと一瞬で判断を下した。文字通りに寝室へと飛び込む。そこには、先程のことなどまるで何もなかったかのように眠る霊夢の姿があった。
「動くなっ!」
鈴仙は指先に霊力を込めたまま、霊夢ともう一つの人影に歩み寄る。眠る霊夢のその傍らに、何かがいたのだ。段々と近づいていく中で、鈴仙はふと違和感を覚えた。霊夢の横にいた何かは、少女だったのだ。
年の頃は、十もいかないだろう。五か六か、といったところに見える。眠る霊夢の布団にしがみつき、顔を俯かせているため、その表情を見ることは出来なかったが、艶やかな黒髪が似ていたのだ。そして、波長も。
「貴女」
鈴仙は目に意識を集中させて霊夢の波長を診た。先程まで反発しあっていた波が、凪が訪れたように治まっている。そのまま、視線をもう一人に向ける。嫌な、予感がした。
何かを感じたのだろうか、少女は弾かれたように顔を上げた。少女の表情は、鈴仙が感じていたものと何ら変わりが無かった。鈴仙は見たことが無かったが、きっとそうなのだろう。
少女は、幼い頃の霊夢と全く変わらぬ顔をしていたのだった。
博麗の巫女が長く不調が続いている。その報は主に霊夢と面識のある者までに留められた。妖怪たちは言わずもがな、面識のある人間たちでも、博麗の巫女という存在がどれほど幻想郷に影響を与えているか、わざわざ進んで火種をばら撒く者もいなかった。今は博麗神社は関係者以外立ち入り禁止の措置を取られている。
「すごいわね。まるで人間と変わらない」
あの雪の夜が明けた次の日。息せき切って駆け込んできた魔理沙と、それから少し遅れてやってきた鈴仙から事の始終を聞かされた永琳は、件の少女をじっと見据えた。簡単な触診を終えて異常なしと告げる。どちらかといえば異常が見受けられるのはもう一方なのだが、その巫女はぽかんとしながら診察を受ける少女の姿を眺めていた。
「霊夢、こちらへ座りなさい」
力なくふらふらと背もたれのない丸椅子に座る。覇気の感じられない動きではあったが、まだ視線だけはこちらを向いていることが、永琳にとっては幸いではあった。
単純な体調不良。後日に精密検査を行うことにはなったが、疲労から来ているものであると永琳は霊夢に説明をした。そこに嘘は含まれていない。霊夢は自身の診断結果には然程興味がないようだったが、魔理沙が少女を連れて診察室を離れると、その目つきが鋭くなった。
「で、八意先生から見てあの子は何だと思うの?」
「何だも何も、貴女ならわかるでしょう?」
「……なんとなくだけどね。体そのものは動くんだけど、上手く力が出ないし、あの子から昔の私と似たようなものを感じるし」
「きっと、人型を為すときに子供の頃の貴女をモデル、ああ原型にしたんでしょうね。何故子どもの姿で現れたかについては、こちらでも調べていきましょう」
「ありがとう……ああ、ごめんなさい。ありがとうございます」
「いいわよ別に言葉遣いくらい。そんなことよりも改めて説明するわね。多分貴女の身体は特に病的な異常は見受けられないわ。けれども、まあ……言わなくてもわかるわね。しばらくは霊的なものはきっと行えないし、しない方がいい。去年は異変続きで大変だったんでしょう?暫くの間はのんびり休養でもしていなさいな」
「ええ、そうさせてもらうわ。まだ体も重いしね、と……」
そういえばと、診察室の扉に手をかけた霊夢を永琳は呼び止めた。まだ何かあるのかと心底面倒臭そうな表情で霊夢は返事をする。
「あの子の名前は決めてあげたの?」
霊夢は返事代わりに大きく脱力して溜息を吐き、診察室を後にした。
ある日、紅魔館のメイドである十六夜咲夜は博麗神社へ足を延ばしていた。主であるレミリア・スカーレットから霊夢の様子を見て来いと言われたからである。ただ、その言葉がなくても最近は見舞いがてらによく顔を出すようになっていた。それとは別に、もう一つ原因がある。
咲夜が博麗神社の境内に降り立つと、その主たる原因は、元気に縁側の掃除を中止してこちらへとやってきた。咲夜の腹あたりまでの身長しかない少女は、その長い黒髪を翻すほど勢いよく、元気にこちらに挨拶をした。
こんにちは、さくやさま!
「はい、こんにちは。お掃除中で悪いのだけれど、霊夢はいるかしら?」
少女はちょっと待ってくださいと言うやいなや、箒とともに生活の場である離れへと向かっていった。かか様という言葉を最後につけながら。妖精メイド達とは違い、とたとたと廊下を走るその姿に、目を細めた。
霊夢が謎の不調から復調したとき、その傍らにはすでに少女がいたらしい。咲夜自身はその場に居合わせていなかったので想像しかできなかった。隠し子、ではないだろう。となると妖怪化生の類か、とも思ったが、そこまで考えたところで咲夜はその考えを思考の枠内から放り投げた。どうでもいいか、と思ったのだ。
年明けから既に二月以上の時間が経っており、ここ最近は穏やかな天気が続いている。寒の戻りなどがなければよいなあと禿げた木たちを見て咲夜は思う。五分も経たぬうちに、少女はかか様と手を繋いでこちらへとやってきた。
かかさま、かかさまっ、さくやさまですよっ。
繋いだ手をぶんぶんと振りながら、かか様、博麗霊夢は力ない笑顔のままに、咲夜を見据えた。その姿を見て、咲夜はくすくすと笑いながら持ってきた紙箱を霊夢の前に掲げて見せた。
「お茶菓子でもいかがかしら、と思いまして。かか様」
「……はあ、ま、お上がんなさいな。アンタは掃除を続けなさい」
はあいと返事を返しつつ、少女はまたも箒を持って境内に向かっていた。境内を見ると、先日降った雪だろう。地面を白く覆っているそれを少女が楽しそうに掃いていた。鼻歌交じりだからか、所々雑になっている部分もあるが、ご愛敬だろう。少女の後姿が見えなくなってから、霊夢は咲夜を居間へと案内した。
咲夜が居間についた時には、既に湯呑には茶が注がれていた。注いだであろう本人は、炬燵に入ってまったりとしている。その表情がなんともまあ気の抜けたもので、咲夜はにやにやとしながら、紙袋から取り出した洋菓子たちを並べていった。今日はマドレーヌ。量が作れるということと作りやすさがポイントであり、またジャムなどを別途に用意すれば、味の種類に困ることもない。
霊夢が用意した大皿にマドレーヌが所狭しと並んでいく。横にはジャムの入った小瓶まで完備ときたものだ。実際、霊夢と咲夜の二人では食べきれないだろう。
「残りは娘さんにあげなさいな」
「だーかーらあ、娘じゃないっつーの。気が付いたら隣にいただけですー」
「むくれないむくれない。で、調子はどうなの?」
「ん、まあ日常生活に支障は無いわよ。いたって健康」
「なら、あの子に掃除を押し付けなくてもいいじゃないかしら?」
「あそこの掃除は、あの子の担当。必要以上に甘やかす気はないわよ」
必要以上、ということはそれ相応には優しい態度をとっている時があるのかと、自分で持ってきたマドレーヌの欠片を咥えながら咲夜は脳内で一人ごちる。霊夢は豪快にマドレーヌを齧ると、もぐもぐと頬を膨らませる。ごっくんという音とともに嚥下した霊夢は、茶で口を湿らせると一言、呟いた。
「多分、あの子は昔の私よ」
「私って……子供の頃の霊夢ってこと?」
「見た目はね。博麗の力が子ども時代の私の姿で現れている」
近い予想はしていたが、いざ本人の口から言われると存外ショックがでかいのだと、咲夜はこの時感じた。なんだかねえ、と息を吐いて、霊夢は言葉を続ける
「阿求のところにある古い蔵書を読んだのよ。片っ端からね。博麗のことが載っているモノもしっかりと残っていたわ。色々とやんややんや書いてあったみたいだけど、要約すると、以前の博麗の巫女にも、今回の私のような症状が出た記録があった」
「それで?」
「症状は様々だったみたい。例えば気がおかしくなるとか、性格が変わるとか、急に体つきが変わるとか、いきなり消えるっていうのもあったわね。あとは、自分の分身が現れたりとか……たぶん私に出ている症状はそれだと思う」
「原因は?」
「アンタが質問ばっかりなんて珍しいわね。なんでも、博麗の力ってのは普通の人間には扱えない代物なんだってさ。で、上手く扱っているうちでも、力の均衡が急に崩れると今回みたいなことが起きちゃうみたい」
「それって……」
「多分欠陥品なんでしょ。普通の力じゃないんだから神降ろしの練習なんかもしたんだなあとしっくり来ていたところよ」
「じゃあ、あの子は」
そう言って咲夜は掃除をしているであろう少女の顔を思い出す。霊夢のおさがりの巫女服を着ながら雪かきを楽しそうにする少女は、見た子がない咲夜にもわかるほどに、あまりにも、霊夢に似すぎていた。まるで、本当に二つに分かれてしまったように。
「だから、あの子確かに子供の頃の私でもあるんだけど、博麗の力そのものに近い存在なんだと思う。ああ、いや、これはほぼ確信だけれど」
「どうしてそう思うの?」
咲夜のその言葉に対して、霊夢は炬燵の中から右手を抜き出す。その手の中には陰陽玉が握られている。時には相手を追いかけ、時には込められた霊力で大きくなって相手を押しつぶす。霊夢を代表する妖怪退治道具の一つだ。霊夢は咲夜の視線がその陰陽玉に移ったことを確認してから、自分の中にあるありったけの霊力を陰陽玉に込める。霊夢から力を込められた陰陽玉は、その手を離れふわふわと咲夜の胸元まで飛んでいき、ごとりと落ちた。
「それが、今の私の全力よ」
「……嘘でしょう」
「まあまだ札と針とかは私自身の力でぶん投げられるからましなんだけれどね。それでも威力は弱まっている。確認もしたわ。はあ、しばらくは体術でも鍛えなおす必要があるかしらね」
「霊夢っ」
咲夜自身も、まさかここまでの大声が出るとは思ってもいなかった。一瞬面を食らったような表情を浮かべていた霊夢だったが、すぐに平素の顔に戻るとどうしたのかと咲夜に尋ねた。その表情の変遷が、咲夜には信じられなかった。なんというか、大人になりすぎている。そのように感じられた。
「戻る方法は、あるの?」
もっともな疑問を咲夜は霊夢に投げかける。失礼は承知で聞いていた。一番に来たのは、心配だった。最初こそ敵対したが、別に今もそうではない。会えば喧嘩もするし、宴会もする。そんな関係なのだ。心配しないわけがなかった。今しがた出した言葉が、あまりにも馬鹿らしい質問だということを理解できないほどには。当たり前だ。もし戻る方法があれば、とっくに戻っているはずなのだから。
「さあ、わからないわ。ただ、時期が来るか満足するか、あとはまあ……勝手にあの子が私の中に戻ってくれるわよ。わからないけれど、そんな気がする」
「はあ、中々悠長ね」
「なってしまったものはしょうがないわ。今はこの状況を最大限利用させてもらいましょう。幸いあの子、よく言うこと聞いてくれるしね……」
その言葉が終わるや否や、廊下をとたとたと走る音が聞こえてくる。元気よく障子戸を開いた少女は、真っ赤な顔をくしゃくしゃにしながら炬燵に足を入れた。そのくしゃくしゃ顔が、のほほんと伸びる。そして、天板の上にずらりと並んでいるマドレーヌたちを見ると、まるで魔法を見せられた里の子どもたちと同じような表情で、ほわあと息を漏らしていた。そこで少女は初めて、掃除を終えたことを霊夢に告げる。ご苦労様という呆れた声の霊夢の突っ込みに、咲夜は思わず笑ってしまった。
それから一月程経った後に、咲夜は再び博麗神社を訪れていた。階段を昇りきったところで、風呂敷を片手に持つ霊夢と、嬉しそうにその手を握る少女の姿が目に入った。元気に挨拶をしてくる少女の頭を撫でながら、何かあるのかと咲夜が尋ねると、霊夢はなんとも言えない、あえて言うのならば困惑した表情を浮かべながら答える。どうやら魔法の森で桜の木が見つかったらしい。瘴気の影響なのだろうか、満開になっているとも。
「そんな話をこの子が魔理沙から聞いちゃってね。花見がてらにピクニックってワケ」
「なるほど、だから嬉しそうなのね……何を持っているの?」
「『ビデヲカメラ』とかいうものらしいわ。魔理沙が霖之助さんのところから拝借して、河童のところで直してくれたの。ブン屋の持っているのと違って、ああ、ええと、なんて言えばいいのかしら……そう、思い出を保存してくれるのよ」
「思い出作りに?」
「私は別にいらないと思うんだけどねえ、この子が、ね」
咲夜は、いまだに頭を撫でられている少女に目を向ける。とてもワクワクしているのが、身体から漏れ出ている。それほどまでかと苦笑したところで霊夢に視線を戻した。霊夢の表情の正体が、なんとなくわかったような気がした。霊夢は、笑っていたのだ。困りながらも笑っていた。そんな咲夜の視線を感じてか、今度は霊夢が咲夜に質問を投げかけた。
「ピクニックってどうやればいいんだっけ……?」
その言葉を聞いて、咲夜はなるほどと得心した。この巫女、人妖入り混じりの宴会ならば何度も経験があるくせに、子どものような少女とどうやって花見を楽しむか。それがわかっていなかった。
「私も。昔行ったきりだからさあ。わからないのよ。詳しく覚えていないから。で、咲夜さん。何か妙案があったりしない?」
霊夢の手鞭を見る限りでは、持っている風呂敷を敷いて、魔法の森の桜を肴にしながら風呂敷の中に包まれている昼食でも取る気なのだろう。そんなもので、十分ではないだろうか。別にそれだけじゃない。他にも面白そうなことが起こったり、知り合いに出会うこともあるかもしれない。そうして、いろいろと膨らんでいくものだと咲夜は思っている。実際、紅魔館の主な住人たちでピクニックに行こうものなら、何も起きないわけがない。何をどうすればいいと言われても、明瞭な返答を返すことは無理だと咲夜は悟った。霊夢の肩に手をポンと置き、ウインクを見せる。「なるようになるわよ」と言葉を添えて。
文句の一つでも飛んでくるかもと咲夜は心の中で身構えていたが、どうやらその心配はなかったらしい。霊夢は綺麗な笑顔で咲夜に礼を返すと、先に階段を下って行った。下りながら、咲夜の後ろでぽかんとしている少女に声をかける。
「レイ、おいて行くわよ」
その言葉が、レイと呼ばれた少女の耳朶にはしっかりと最優先の情報として届いたのだろう。さくや様、すいませんと言い残し逃げる兎もかくやという速度で霊夢の横に並ぶと、手を繋いでいた。その様子を眺めていて、咲夜は思う。あの二人がもし、本当に親子だったらと。そこまで思い至ってから、自分が微笑んでいることに気づくのであった。
映像が切り替わる。そこに映るのは先ほどの少女だ。映像が何度も切り替わるたびに、巫女服だった少女の服装が変わる。
ほら、笑って。可愛い顔が台無しよ?
少女は緊張で顔を硬くしていて、そんな少女に画面の外から人形遣いの声が聞こえてくる。文字通りに着せ替え人形にされている少女を見て、霊夢はくすりと笑った。
また、夢を見た。
夢の中の私は随分と目線が下がっていて、それでも手を繋いでいてくれる母を見上げるのだ。日の光が射していて、母の顔を窺い知ることはできない。ただ、それでも、きっと笑ってくれているのだろう。周りでは桜がきれいに咲いていて、日の光はこんなにも暖かいのだ。そして、手には母の温もりがあるのだ。多分、それは、幸せなことなのだろう。
母様、そう呼んだところで、この幸せな夢は終わりを告げた。
「服?」
「ええ。お願いできないかしら?」
桜が散り、木々が緑の装いを纏う頃に、霊夢は少女と共にアリス・マーガトロイドの館を訪れていた。少女の服を仕立ててもらうためだった。
アリスはどうして私に、と問いかけた。普段ならば、あの物静かな店主のいる道具屋で服を仕立ててもらっているのだ。そこに快や不快といったものは無かったが、単純に気になったのだ。霊夢から帰ってきた返答はアリスにとって意外なもので、自分を勧めたのは外ならぬ店主だったらしい。
「何着か見繕ってあげたいんだけど、霖之助さんだけだと難しいって。流れ着いた服も寸が合わないのばかりでね」
「なるほど、ね。そういえば前に里の市に出した時の服が残ってたっけ……」
服と一口に言っても、一から仕立てるとなると時間も労力もかかる。偶にではあるが、アリスが人里の市で作った服を売っていることを霊夢は知っていた。
出された珈琲に口をつけながら、霊夢の視線は窓へと移る。窓から見える庭先では、少女がアリスの人形たちと追いかけっこなのだろうか、楽しそうに声を上げている。
「しかし、意外ね」
「何がよ」
「前に来た時があったじゃない。その時には悩んでいるように見えたけど、似合ってるわよ。母親の顔」
瞬間、霊夢は自分でも気づかぬほどに小さくではあったが頬を引き攣らせた。そこにどんな意味があったのかアリスは瞬間に理解が出来なかったが、窓から少女を見る顔は間違いなく今まで見たことの無い類の笑顔であり、そこにアリスは故郷の母の姿を重ねていた。
人形たちがふわふわと少女を惑わす。その度に少女は屈託なく笑うのだ。霊夢にも、あのような子ども時代があったのだろうかと、少女の笑顔を見ながらアリスは考えていたが、想像が出来ない事実に思わずくすりとしてしまう。
「出来ているのかしら」
「何が?」
「母親……親?まあいいわ。保護者をやれているのかしら」
霊夢は永琳から聞かされたことをアリスに話した。少女が、幼少期の頃の自分を基にしていることを。
「私は先代様のようにできているのかしら、って思っちゃうのよねえ。比べようもない話なんだけど、あの子に何かをしてあげるたびに、自分が子供だった頃を思い出すことが多くなって、さ」
「そういえば、その先代様って?」
「外」
「え?」
「外の世界に行ったと聞いたわ。本当かどうかは知らないけれど」
アリスは、少なくとも自分の記憶が鮮明である部分の中では、霊夢から親の話を聞いたことが無かった。本人が口には出さないのだ、察しなければいけない部分だとも思ったが、目の前の巫女はそんなアリスの機微をまるで悟っているかのように、ふふっと笑った。
「ありがとね」
「え?」
「先代様のこと無責任だとか、そんなこと思ってるんじゃない? しかめっ面してるんだもの」
「そんな顔してた?」
「あの人に何があったのかは分からないし、力を受け継いだばかりの頃は寂しくなったこともあった。けど、合いたくても会えないんだもの、慣れたわ。それに先代様は精一杯私に付き合ってくれた。なんとなくだけど、あれが愛情ってやつなんでしょ。きっと」
アリスは、霊夢の顔つきが以前よりも少し変わっているような気がした。具体的にどうなった、とは言えないのだが、『大人と子どもを行ったり来たりしているような』顔に見えたのだ。
霊夢は窓を開けて少女に中に入るように告げる。遊んでいる少女が気が付くように、ゆっくりと、名前を伸ばして。その横顔は、やはりどこか故郷の母をアリスの脳裏に呼び起させるのだった。もう少し、この巫女と少女の関係を見ていたいと思った。たとえそれが実の親子でなくても。
「それじゃ、試着タイムと洒落込もうかしら」
霊夢が構えたビデオカメラの先で、少女は緊張した顔を浮かべる。どうにかその緊張を解してあげたくて、アリスは声をかけるのだった。
「ほら、笑って。可愛い顔が台無しよ?」
映像が切り替わる。テレビの画面に映ったのは、黄金に輝く向日葵の海。
かかさまっ、すごいですよっ
少女が映し出される。汗で張り付いた前髪を気にすることもなく、少女は目の前の絶景に声を上げていた。そんな少女を日の光から守るために、霊夢は花の大妖から借りた日傘をくるくると回す。
いい天気ねえ
カメラを構えていた花の妖怪の声が聞こえる。カメラはそんな二人から視点を外し、空を映した。雲一つない青い空が、この日は特に暑かったことを霊夢に思い出させていた。
「あら」
花の大妖、風見幽香は自らが管理する向日葵畑で珍しい客の姿を見つけた。向日葵を眺める博麗霊夢と霧雨魔理沙、そして、霊夢と手を繋ぐ少女の姿を。
幽香の姿を見つけた霊夢は瞬間に据わった目をしたが、何も言わずに向日葵畑に向き直る。隣にいた少女は、繋いでいた手を解くと、うわあと感動の声を上げながら、魔理沙とともに向日葵の海の中へと入っていった。
「体調が悪いって聞いていたけど」
「まあ、なんとかね。弾幕とか妖怪退治は極力するなって言われてるんだけどさ……だから今日は喧嘩は買えないわよ」
「別に売る気も無いわよ。ところで今日は如何用で?」
霊夢はふ、と微笑むと海を見に来たと答えた。幽香はきょとんとした後に、くすりと笑った。意外とロマンチストなのね、と返した幽香の言葉に、霊夢は頬を膨らませた。
霊夢が鈴奈庵から借りた本の中に、海の写真があった。少女は一度でいいから見てみたいと呟いたが、生憎と幻想郷に海は無い。ならば霧の湖でもよいかと考えたが、あそこには悪戯好きな妖精や妖怪が多く住んでいる。力を失っている状態で少女を連れていくことには抵抗があった。
そこで霊夢は魔理沙に頼んで太陽の畑へ少女を連れていくことに決めたのだった。何かあれば魔理沙を頼ればよいし、そうでなくても花の妖怪が目を光らせている場所だからか、妖精たちは多くとも揉め事は少ない。少女が喜んでくれるか不安ではあったが、嬉々として黄金色の海へ飛び込んでいった姿を見て、知らず、口元に笑みがこぼれていた。
「どう?」
「何が?」
「楽しい?」
何が、など聞かなくてもわかっていた。最近は神社に尋ねてくる連中の態度も少し変わってきている。魔理沙などは典型で、神社を訪れるたびに半ば無理やりにでも話のタネを持ってきては、少女の興味を引いていた。少女が現れたばかりの頃は戸惑いも多かったが、今は随分と慣れてしまった。
先代の巫女と、よくこうして外に出たことを思い出す。自分も少女のように溌溂としていただろうかと考えたが、そこまでは思い出せなかった。ただ、思い出の中でこちらを見る先代の顔は、微笑んでいることが多かった。あの微笑みの意味を、霊夢は未だ見出せなかった。
「私は、先代様のように出来ているのかしら」
「神社の仕事は出来ていないと思うわよ」
「うっさいわね……少なくとも今は私があの子の母親代わりだから、一応自分が子供の頃にしてもらったことをしているつもりなんだけど、ね」
「不安?」
「初めてよ、こんなの」
くつくつと幽香が笑いをかみ殺す。何が可笑しいのかと霊夢は尋ねたが、幽香の返事は無く、替わりに日傘の取手を眼前に差し出された。受け取り、その取手をくうるくると弄ぶ。それに連られて、眼下の影もゆらゆらと揺れた。
「あの子も、今の貴女と同じようなことを言ってたわ」
「先代様が?」
「あの子は花が好きだった。とくに向日葵がね。貴女が小さかった頃は何度か負ぶってここに来ていたわ。覚えてない?」
幽香の言葉に、霊夢は頭の中にある棚を開いていく。そんな記憶もあったのかもしれない。全てを思い出すには、少しばかり思い出は擦り切れていた。地面に視線を落としながら記憶を辿っていると、不意に服の裾を引っ張られる。少女が、にひひと笑っていた。
かかさまっ、すごいですよっ
汗で張り付いた前髪を気にすることもなく、少女は霊夢に感動を伝える。霊夢は日傘をくるくると回しながら、そんな少女の話を聞いている。いつの間にやら霊夢の荷物からビデヲカメラを拝借していた幽香は、カメラを空に向けた。青い空にはただ太陽の光がぽつりと輝いている。
「いい天気ねえ」
映像が切り替わる。今までのものとは違い、少女が映ってはおらず、ただ風景が流れていくだけのものだ。ビデオカメラを気に入って、よく無駄なものまで撮っていたことを思い出す。
切り替わっていく思い出たちは再び少女を映した。木彫りの白狐面を被りながら、くるくると独楽のように通りを回る少女を、映像の中の霊夢が嗜める。里で行われた縁日の映像だった。
空は茜で、いやに映像の中に映る西日が眩しく感じられる。映像の中の少女は、顔こそ白狐面で隠れてはいたが、その声には喜びの色が混じっている。思い出す。この映像の前日に、少女が大泣きしていたことを。
あ、れいせんさまっ
少女はそう言って近くの露店に駆け寄っていく。少女の声に気が付いた鈴仙は、少女の眼の高さまで屈み、優しく微笑んでいた。
夏もいよいよ頂点の頃のある日、鈴仙・優曇華院・イナバは博麗神社を訪ねていた。定期的に訪れることは前々からあったが、霊夢が体調を崩し、一人の少女と暮らすことになってから、その頻度は上がっていた。
霊夢の名を呼びながら、鈴仙は廊下を歩く。家人の出迎えを待たずに入るのは不作法ではあったが、勝手知ったるというものである。すると、最近よく見るようになった少女が凄まじい勢いで鈴仙の腹部へと突撃してきた。中々の突撃力を持っているようだ。腹部への衝撃を悟られぬように出来るだけ優しく少女を引き離す。
こちらを見上げた少女の顔は、涙を浮かべていた。少女にいらぬ不安を与えぬように、鈴仙は少女の身長に合わせるように屈み、その目から緊張を消した。
「大丈夫。泣き止んで。なにかあったのかしら?」
少女の頭を撫でていると、後方からごろごろと音が鳴った。空は既に鉄のような色をした雲が覆っている。なんとも、嫌な時に来る雲だと心の中で軽く毒づきながら、鈴仙は少女の言葉を待つ。帰ってきたのは言葉ではなく行動だった。少女は鈴仙の手を取るとそのまま駆け出した。
鈴仙もつられて駆け出した形になったが、その握られた手に激痛が走った。少女の力が強いわけでもない。少女が意図して退魔の力を行使しているわけでもない。自然だ。自然に、少女からは博麗の力が漏れ出ているのだ。鈴仙はその痛みを奥歯を噛み締めることで耐えながら、少女が連れてきてくれた部屋である寝室になだれ込んだ。
薄暗い部屋中心に、一組の布団。大きい方の布団が、少し盛り上がっている。恐る恐る鈴仙が布団をめくると、その中には、いかにもな顔色をした霊夢が、身体を縮こまらせて寝ていたのだ。心配しないわけがなかった。けほけほと咳をこむ霊夢の姿は、普段の博麗の巫女ではなく年相応の少女に見えてしまった。
「ちょっと、霊夢。大丈夫なの!?」
「んん……大丈夫よ。昨日の通り雨にちょっとやられただけ。寝てりゃ治るわよ。それよりも」
霊夢の言葉に案外の張りがあることで鈴仙はひとまず安堵することが出来たが、問題は霊夢が続けた言葉だった。どうやら霊夢の隣で未だに悲観的な顔をしている少女を慰めてほしいというのだ。いきなりの頼みごとに、思わず驚いてしまったが、きっと大泣きしたのだろう、頬まで赤く腫れあがった顔を見てしまったからには、断るわけにはいかなかった。
「わかった、任せておきなさい。だから貴女はゆっくり休むようになさいな」
「はい、はいっと……レイ。こっちへいらっしゃい」
霊夢は上半身を起こすと少女を呼んだ。レイと呼ばれた少女は、部屋の隅からおずおずと華仙の隣に正座した。
「多分お話を聞いてたと思うけれど、私はこれくらい一日寝れば平気だから。今日はいつも通り……いや、簡単でいいからお掃除をお願い。わかった?」
……わかり、ました。
「よろしい。あと、今日は隣の薬師……お医者様の言うことを聞くように。ちょっと、頼りないかもしれないけれど」
「霊夢?」
とりあえず軽口が叩けるのなら大丈夫だろうと鈴仙は判断した。未だに俯いている少女を優しく立ち上がらせ、一緒に寝室を出る。とりあえず、居間の掘り炬燵に少女を導いた。
霊夢が少女と暮らすようになってから、神社へ通う回数は増えた。勿論その分だけ少女と接する機会もだ。いつもなら顔がくしゃっとなるほどの可愛らしい笑みを見せてくれるその顔は、不安と涙のせいで目も頬も、赤く染まってしまっている。鈴仙はそんな少女の顔を優しく両手で包み込んだ。
ゆっくりと、少女が顔を上げる。鈴仙は努めて笑顔で、掃除は終わったのかと尋ねた。少女はまだゆっくりとした動きではあったが、はい、と頷く。今の返答で今日の方針が決まった。少女の顔を包んでいた両手を離し、鈴仙は移動を開始する。少女も霊夢の言いつけ通りに慌ててついていく。止まった場所は、少女には予想外の場所だった。
れ、れいせん様……ここは、炊事場ですけど……
少女のぼそぼそとした言葉は、しっかりと鈴仙の耳には届いていた。ゆっくりと少女のほうに振り向いて、しばらく自分でもしていなかった自信のある表情を浮かべながら口を開いた。
「霊夢のために、おいしいご飯を作ってあげましょう。そうすれば、きっと元気になるわ」
ほ、本当ですか。かか様、元気になってくれますか?
「ええ、大丈夫。信じなさいな」
つい数舜前まで沈んでいた少女の顔が、ぐんぐんと明るくなっていく。まるで太陽が雨雲を割るように、少女は笑顔を咲かせる。後はもう、簡単なことだった。
朝、霊夢が第一に感じたのは、腹部に感じる重さだった。自分の体に何かが乗っているということを理解して、霊夢は覚醒した。茨華仙の料理が効いたのか、先日までの不調は消えており、すこぶる気分のいい目覚めであった。
身体を持ち上げて、自分にのしかかっている重みの正体を見る。余程心配だったのだろう、両手で布団をしっかりと握りしめながら、少女が眠っていた。起こさぬように注意はしていたつもりだったが、無駄に終わってしまった。
最初は寝ぼけ眼だった少女は、次第に目をぐんぐんと見開いていくと、次の瞬間にはもう泣き出しそうな表情へと変わっていた。よくもまあころころと顔が変わるものだと霊夢は思っていたが、少女はそこまで冷静ではないらしく、しきりに体調をうかがってくる。自分が子供だった頃を思い出し、霊夢は再び少女の頭を柔らかく撫でた。
「レイ」
霊夢が少女の名を呼ぶ。元々は、自分が幼かった頃に先代に呼ばれていた名だった。呼ばれた少女は不安気にはいと頷く。自分の子供の頃を写したと永琳は言っていたが、自分が子供の頃はここまで心配性だったか。
「朝ごはん、食べましょうか」
霊夢のその言葉に、少女の不安が晴れていく。満面の笑顔ではいと頷いたのを見て、霊夢は立ち上がるのだった。
その日の夕方、霊夢は少女と共に縁日へと向かった。霊夢の不調についてはどこから漏れたのか人里の人間たちには知れ渡っており、行く先々で励ましをもらうことになってしまった。そして、立ち並ぶ露店の一角で少女は饅頭を買う鈴仙を見つけた。
あ、れいせんさまっ
少女が駆け寄る。少女の声に気が付いた薬売りは、少女の眼の高さまで屈むと、優しく微笑んでいた。
次に映った映像は、空と幻想郷の大地を映していた。どうやら撮影しながら空を飛んでいるらしい。風を切る音が無いのは随分とゆっくり飛んでいるからなのだろう。青い空とは対照的に、山々はその葉を赤や黄色に染め始めていた。
かかさまっ、かかさまっ、どうでしょうか
映像が切り替わる。神社の茶の間で、少女は幾つかの算術が書かれた問題用紙を広げながら満面の笑みを浮かべている。すごいじゃない、そう、映像の中の自分が褒めた。考えてみたら見てくれこそ瓜二つだったが、自分はこんなに勉強好きではなかったことを霊夢は思い出す。
寺子屋は楽しい?
ほんの少し甲高く聞こえる声で、映像の中の霊夢は少女に問いかけた。
はいっ!
紅葉が綺麗に葉に赤を宿すほどに秋が深まる頃、上白沢慧音は最近開店した喫茶店で相談を受けていた。相談者である博麗霊夢の手を、窓から差す夕日が柔らかく染めている。どのような相談なのか慧音には皆目見当がつかなかったが、いくつか霊夢に聞きたいこともあった。
この時、よく彼女にくっついている少女の姿がないことについて慧音が尋ねると、どうやら神社で留守番をさせているらしい。大丈夫なのかと問うと、今は黒白の魔法使いがロハで面倒を見てくれていると返された。慧音もいくつかの頼みごとを魔理沙に依頼したことがあるが、存外に情けがあることもわかっていた。なんでも『まりさ様』と呼ばれる度ににやけているらしく、その顔を想像して、慧音は笑ってしまった。
「……で、相談っていうのは?」
このまま世間話をしていても構わないのだが、そんなことをしていたら月が出てしまう。慧音が切り出すが、霊夢はしばらく口を開かなかった。決して聞こえていないというわけではない。きっと、探しているのだ。何を、かまでは慧音にはわかりかねたが。
「あぁ……時期的に中途半端なことはわかっているのですが、今からでも子どもを寺子屋に通わせたりとかって出来ます?」
「あの子を通わせたいのかい?」
「はい。もちろん送り迎えもしますし、お金も出させていただきます……お願いします」
頭を下げる霊夢の姿を見て、慧音はどうしてそのような考えにいたったのかを尋ねた。窓から差し込む日を吸い込んで、霊夢の黒髪の一部が白く光っている。その顔は母親に近いものだがどこか違う。不快ではない違和感を覚えながら、慧音は霊夢の言葉を聞く。
元々、そういう考えを持ってはいた。少女は一緒に里へ下りるたびに、遊んでいる子どもたちや寺子屋の様子を遠くから眺めていたらしい。霊夢の中で考えが固まったのは先日里で行われた豊穣祭の時だった。そこで霊夢は少女とはぐれてしまったのだ。昔自分が着ていた紅白のお下がりを着せていたためか、程なくして少女を見つけることは出来た。
少女は広場の隅にある長椅子に、ぽつりと座っていた。祭りの日だ。広場には沢山の人でごった返していたが、そんな人々から少女は正しく浮いていた。霊夢が声をかけることを躊躇うほどに。
少女は、ある方向を凝視していた。声はかけずに近づきながら、霊夢は少女の視線の先を見る。何人かの子どもたちが談笑する姿があった。なんということはない日常の一部。だが、少女と子供たちの間に壁があるように霊夢には見えたのだ。少女の顔が見えるほどに近づく。その顔はとても真摯な表情を浮かべていた。
「あの子を見ていて、改めて思い出したんです。そういえば、私は追いかけっこをして遊んだことも、沢山の子とかくれんぼをして遊んだことも無かったなあって」
「……自分と同じ思いをさせたくない、ということかな」
「神社へと帰る際に、あの子に聞いたんです。寺子屋に行ってみないか、何も我慢をすることなんかないんだって」
「あの子……レイ、と言ったかしら。彼女は何と?」
努めて、薄く微笑みながら慧音は先を促す。霊夢は慧音から目線を外し、無表情に窓へと向ける。何を思っているのか、読み取ることはできない。
「かか様が寂しがるといけないから、だから大丈夫ですって」
「相手のことを思いやれるんだな。素晴らしいじゃあないか」
「私も一緒のことを言ったんです……慧音先生もおかわり、しません?」
そう言われ、慧音は自分が頼んでいたカップの中身が空になっていたことに気が付いた。
「まだ私が先代様と一緒に住んでいた頃、習い事をしてみないかって、言われたことがあるんです。ああ、言葉も一緒でした。我慢をすることは無いのよって、優しく。そこだけは違いますけど。母様が……先代様ですけど、不安だったんです。私がそうやって離れている間に、何処かに消えてしまうんじゃないかって」
「それで、断ったのね」
「はい。ただ、自分が不安だから離れたくないって言うことが出来なかったんです。だから、母様が寂しくなっちゃうから、私は習い事をしないって」
それまで無表情だった霊夢がふふっと笑う。当時のことを思い出しているのだろう。その顔は、少女のことを語るときのような表情でもなく、かといって平素のように無表情でもなく、年相応の少女に見えたのだ。
「……強がってはいましたが、私は結局そういう思いを引きずることが長い期間ありました。そして、今度は私が先代様のように心配してみたら当時の私のように返されたのです。多分、あの子の心の中は当時の私が考えていたこととあまり変わりはないでしょう」
「だから、か」
「お願いいただけませんか?」
深く頭を下げる霊夢の姿を見て、慧音は本人の意志さえしっかりしていれば問題はないと告げた。顔を上げたその表情は、まさに献身の表情であり、そこから安心でほぐれていく顔は、子を案ずる母親のそれだと、慧音は気づいた。
店を先に後にした霊夢の後姿を見ながら、慧音は今日の相談を思い返す。既に日は陰り始めており、絞られた光線は、先ほどまでは暖かい光で輝いていた窓を真っ赤に染めている。慧音は店員に長居して済まない事を告げ、ばつの悪さを消すために三杯目を注文した。
「自分で、自分を育て直しているのか」
それがどれほど歪で、哀しいものか。教える時間もなく店から霊夢の姿は消えていた。
それは人が成長する中では特に重要な部分である。霊夢は、今自分が行っていることの意味が解っているのだろうか。問い質してみたくはあったが、それでも少女に情を求めていることも話しぶりから考えられた。
数日後、少女は里の寺子屋の授業に参加することになった。自体が人間ではないことは伏せられていたが、他の子どもたちもそんなレイに気後れすることも、必要以上に干渉することもなく、時に遊び、時に喧嘩をし、時にみんなで笑いあうような関係になっていた。
木々がその葉を真っ赤に染めるころ、少女はある物を撮ってほしいと霊夢に頼み込んだ。一体何事かと霊夢がビデオカメラを起動すると、少女は一枚の紙を広げて見せた。
かかさまっ、かかさまっ、どうでしょうか
沢山の算術と、拙く書かれた数字。それと同じほど沢山の丸。なんでもテストが行われたらしい。余程嬉しかったのだろう、用紙を広げながら少女はぴょんぴょんと跳ねる。そんな少女の姿を見て、霊夢は微笑む。そして、そんな自分の中に芽生えた感情を胸の奥で噛み締めながら、レイ、と少女の名を呼んだ。
「寺子屋は楽しい?」
純粋な疑問。子供の頃に自分が出来なかったことを少女に『させている』のではないか。そんな疑問が鎌首をもたげていたのだ。自分のエゴなのではないかと。だが少女はそんな霊夢の感情など露も知らぬとばかりに嬉しそうに笑うのだ。
はいっ!
その言葉だけで充分だった。霊夢は、満たされていたのだ。
映像は、いよいよ冬を映した。星空とランタンの灯りが少女の顔を照らす。霊夢はこの映像に覚えが無かったが、撮影者の声が魔理沙だということに気が付いた。
うわあ!すごいすごい!まりささまっ、まりささまっ!お星さまがたくさんですよ!
ああ、たくさんだ。すごいだろう?
魔理沙は、よく少女の気を引くために話のタネを仕入れてくることもあれば、どこかに少女を誘うことが良くあった。霊夢がそこに口を挟み、三人で何処かに行くことになるのだ。
ともにはしゃいでいた声が、段々と静かになっていく。映像は、そんな少女の横顔を映していたが、ふとカメラに向き直る。少女がカメラ越しにだろう、魔理沙の瞳を見つめた。その視線はまるでカメラの向こうを見ているようにも感じられた。少女は口元に少しの哀しみを残して、魔理沙に言う。
ありがとうございます。まりささま
口元に哀しみを残しながらそれでも、映像の中の少女は、微笑みを浮かべていた。
もうすぐ一年も終わろうかというある冬の夜。霧雨魔理沙は博麗神社の少女を誘って夜空の星空観賞としゃれこんでいた。少女に自分の腰を掴ませて、魔理沙は星を出しながらゆっくりと冬の夜空を上昇していく。
元々は、霊夢も交えて三人で流星観賞に洒落込もうという予定であった。しかし、直前になって霊夢の体調があまり思わしくなかったこともあり、かといって楽しみにしていた少女を悲しませるのはどうかとも思い、こうして二人だけの鑑賞会となった。
「いいかあ、私がいいと言うまで目を開けないようにな」
少女は、魔理沙の腰に抱き着きながら、それでも言われたとおりに目を閉じていた。道中、少女の頬には段々と風だけでなく、ちくりとしたほのかな痛みと冷気がふれるようになる。ごろごろと雷のような不穏な音も聞こえた。
ま、まりささまっ、まだ目を開けてはだめですかっ
「ああ、今雲の中を突っ切っているからなあ。あともうちょっとだ。ただ目を開けるなよ。もしかしたら雪が氷になって目とかに刺さるかもしれないからなあ」
ひいい。まりささまっ、まりささまっ。レイはこわいですっ。
「大丈夫だ、私を信じろ。そおれっ」
魔理沙の掛け声とともに、段々と向かい風が強くなる。速度を上げたのだろう。少女は振り落とされないように顔を魔理沙の背中にぴったりとつけながら、時が過ぎるのを我慢した。どれほどの間、目をつぶっていただろうか。
「よおし、ご苦労さん。もういいぜ、目を開けてみな」
言われたとおりに、少女は目をゆっくりと開く。上を向いてみなという魔理沙の言葉を信じて顔を上に向けた。いったい何の星座なのか、それがわからぬほどに、大小さまざまな星々が魔理沙とレイを照らしていた。魔理沙はちゃきちゃきとビデオカメラを起動し、少女の顔を映した。あまりにも風が強かったので壊れるかとも思われたが、どうやら無事だったらしい。
うわあ!すごいすごい!まりささまっ、まりささまっ!お星さまがたくさんですよ!
「ああ、たくさんだ。すごいだろう?」
すごいです!すごいです!きれいですっ!
「ははっそこまで喜ばれるのなら連れてきた甲斐があったってもんさ」
先ほどまでとは打って変わり、魔理沙はその速度を緩やかにする。星の天井と雲の海は、少女に何を思わせているのか。たとえ隣にいても、その心はわからない。少女は魔理沙が隣にいることも忘れているのか、ただひたすらに星の空を眺めている。
ありがとうございます。まりささま
突然だった少女の礼に、魔理沙はきょとんとし、そして笑った。少女が浮かべていた笑顔が、遠い昔に見た霊夢の笑顔に似ていると感じた。そして、それが時間によって霞んでしまった輪郭が似ているだけなのか、それとも本当に自分は昔の霊夢の顔を思い出せているのかわからなくて、少し悲しくもなった。
昔、まだ家を飛び出す前の頃を魔理沙は思い出していた。母親に連れられ、夜の里を二人で散歩したときのことだ。鼻の頭が真っ赤になるほど寒かった日だったことを憶えている。それでも、父親にも内緒で星の光が照らす里を歩いた。あの時、自分は何を思っていただろう。そして、母はどう思っていたのだろうか、ふと聞いてみたくなった。
まりささま
「んん?」
少女の顔はもう笑顔ではなくなっていて。なんとなくではあったが、多分この機会を逃してしまうと、もう少女の本心を聞くとは出来ないのではないか。予感というよりも確信めいたものを魔理沙は感じていた。
こんなにきれいな空を見せてもらえて、レイは幸せものです
「はは、大げさだなあ。こんな景色くらいならいくらでも見せてやるぜ。条件がそろわないとちょいと厳しいがな」
たくさんの人によくしていただいて、あんなにも素敵なかかさまがいて。レイはしあわせでいっぱいなのです。ただ
「ただ?」
……こんどは、できることなら、きちんとかかさまの子として生を成したいなあと、そうおもってしまうのです。まだ私が、かかさまから離れる前の、あの元気だったかかさまといっしょに、みなさんと色々なことをしたいと。そうおもってしまったのです。
少女は腕をまくると、それを魔理沙に見せつける。その腕は、少しずつ、透明になり始めていたのだ。感触はまだある。さっき自分に抱き着かれた時のことを思い出す。腕を元に戻して、少女はにこりと笑った。
かかさまに、力が。もどりつつあります。
「霊夢には、言ったのか」
きっと、きっとかか様も知っているとおもいます。おからだの調子がよくないのも、急に力が戻り始めたからでしょう。
「……お前はどうなるんだ」
だいじょうぶですよ、まりささま。レイはずっとずっと、かかさまのもとにありますから
それは、哀しくないのかと魔理沙は聞こうと思ったが、やめた。少女が決めたことなのだから自分が言うのも筋が違うというものだし、無粋だった。そこで、その話題は終わった。その後は魔理沙と少女は共に星空を楽しみ、偶々見えた流れ星に感嘆の声を上げ、そして少女のくしゃみを合図にするまで、雲海と星空を楽しむのだった。
そうして博麗神社に戻った魔理沙は、来客の姿に目を丸くした。風祝である早苗、そして往診に来たのであろう鈴仙はまだ分かったが、冬の間は冬眠している隙間妖怪、八雲紫が来ていたからだ。何をしているのか、そう尋ねようとしたところで、霊夢の眼が鋭くなっていることに気が付いた。その視線の先には何枚かの写真があった。
「で、どうする?準備はしてあるけど」
そのうちの一枚を手に取る。そこに映っていたのは、霊夢が年齢を重ねればこうなるのだろう顔つきをした女と、霊夢と瓜二つといえるほどに似ている少女の姿。違いといえば服くらいなものだろう。夫であろう男が写っているものもあったが、他の写真は大体がこの二人だった。
高速で頭が回転する。何かが引っかかって、一年ほど前に慧音と飲んでいた時の話を思い出した。この写真は何なのか。何となく予想はついていたが、聞かないわけにはいかなかった。だが、紫に問うよりも前に、霊夢が口を開いたのだった。
「生みの親らしいわ。私の」
もう春も近いというのに、いやに寒いのは風が強いからか、それとも雪にならなかった雨の所為だろうか。ガラスの窓から見下ろす景色に未だ慣れず、霊夢はその場を離れてベッドに横になった。普段寝ている布団と違い床より高い場所で寝るということも、そして、ようやく慣れてきた存在がそこに無いという事実が、僅かに霊夢の気をざわつかせた。
気怠いままの瞼を閉じながら、霊夢は神社に残してきたレイと呼ぶ少女のことを考えていた。最近は自分の調子の裏返しのように、レイは年が明けた頃から少しずつ、だが確実に調子を崩していた。今は魔理沙と鈴仙が面倒を見てくれているはずだった。
元気になっているだろうか。不安にはなっていないだろうか。泣いてはいないだろうか。そんな思いがぐるぐると霊夢の脳内を占めていく。外の世界へ行く条件として、レイを連れて行かないという約束があった。それが何を意味しているのかは霊夢には解らなかったが、連れてこなくて善かったと今になって感じた。どことなく、この世界は霊夢自身『しっくりこない』のだ。きっとあの子もそうだろうと感じたところで、頬に冷たい感触を感じて霊夢は跳ね起きた。
「バネ仕掛けのおもちゃじゃあるまいし、吃驚しすぎじゃぞい」
「いきなりされたら、そりゃあ誰だって驚くでしょうよ……早苗は?」
「食事を買いに行っとるよ。久しぶりの外なんじゃから、少しは羽を伸ばしてもよかろうに」
霊夢の頬を冷やした缶ジュースをゆるゆると振りながら、今回の旅の同行者である二ッ岩マミゾウはにやりと笑った。
結局、霊夢は紫の持ちだした提案を受け入れ、幻想郷を離れて外の世界へとやってきていた。
元々、紫に相談を持ち掛けたのは早苗だった。他人の家庭事情の踏み込むことはそれこそ下種の所業だと、外の世界で道徳を学んだ早苗は思ってはいたが、それでも、なにかしら手助けになりたいという純粋な思いが一番に来ていたことは確かだった。相手は幻想郷の管理者の一角である八雲紫である。諸手を挙げて、ということは無いだろうと思っていたが、相談を持ち掛けた時の紫の反応は思っていたほど悪いものではなかった。曰く、いつかはやらねばならないと思っていたらしい。どうしてそんなことを考えていたのか、そこまで深く聞く気にはなれなかったが、早苗にとっては渡りに船だった。
外の世界への同行者として提案者である早苗は勿論だったが、マミゾウが選ばれた理由としては本人が行きたがっていたという部分の他に、未だ外の世界において力を持っている、というのが一番だった。
幾つかの約束事を交わし、霊夢とマミゾウ、そして早苗は外の世界へとやってきた。ベッドから身体を起こしていた霊夢は再び窓を見る。雪になりきらずに降る雨粒は、幻想郷では珍しいものである。灰色の空と、それと似た色をした建築物たちを濡らしている景色は、部屋の中に居ながらにして霊夢の身体を冷やす。
「戻りました。うう、寒い」
「ご苦労じゃったのう。シャワーでも浴びてきなさい。おぬしに風邪を引かれても困るでな」
「そうさせてもらいます……霊夢さん、先にお風呂使わせてもらいますね」
「構わないわよ。ごゆっくり」
がちゃりとした音とともにドアが開き、早苗が部屋へと戻ってきた。普段の出で立ちとは違い、学校の制服を着ているその姿は霊夢には新鮮に映る。大きく膨らんだコンビニ袋をテーブルに置き、バスルームへと消えていった。
豪華な旅館というわけもない。ほぼ素泊まりのビジネスホテルに少女が二人と女が一人。本来ならば邪推でもされるかもしれない組み合わせではある。従業員にマミゾウの息がかかっていなければ、公権力が尋ねに来た可能性も否定はできない。
重力に負けて少しずつ垂れ下がっていく袋の取っ手を眺め、霊夢は再び窓に視線を移した。幻想郷ならば、今頃は澄んだ空気で綺麗な星空が見られただろう。水滴によって滲んだ街の明かりは、幻想郷では見ない光であった。
「なあ博麗の」
「何よ」
「こんな光も綺麗じゃろ?」
「……まあね」
マミゾウはそれきり霊夢には語り掛けなかった。バスルームから戻ってきた早苗を交えて夕飯をとる。外の世界の食事は、霊夢にはいささか味が濃く感じられた。
マミゾウが自分の部屋に戻り、霊夢もシャワーを浴びると早々にベッドに潜り込んだ。自分が何で外の世界にいるのか、忘れそうになってしまう。母に会う。会う、というよりは見ると言った方が正しいだろう。ただそれだけのために自分の分身を放り出して外の世界にやってきているのだ。
さっさと見て帰ろう。そう思う自分が確かにいるのだが、きっとそれだけでは済まないだろうと思っている自分も確かに存在していた。
上手く寝付けずに寝返りを打つと、先に寝ていたはずの早苗が窓辺へと身を寄せていた。外から入る繁華街の光と車のヘッドライトが、早苗の顔を照らす。その時に見える顔は、霊夢が初めて見るものだった。
「眠れないの?」
「霊夢さん。起こしちゃいましたか」
「そういうワケじゃあないわよ」
「……少し、懐かしんでいました」
外の世界から幻想郷へとやってきた少女は、少し目を細めてくすりと笑った。なにか可笑しいものでも見たのかと霊夢が尋ねると、早苗は声を殺しながら肩を震わせる。余程可笑しかったのだろう、ひとしきり笑い終えた早苗は目尻に溜まった涙を指で軽く拭うと何年か前、と呟いた。
「今日みたいに寒い日でした。初恋だった近所のお兄さんが、学業で遠くに引っ越すことになることを私は母から聞いたんです」
「へえ、アンタにもそんなことがあったんだ」
「そりゃあ当時はもう衝撃でしたよ。暫く何も手につかなくて、神奈子様と諏訪子様もおろおろしてましたっけ。それから何日か経って、ここみたいな繁華街で、泣いちゃったんです。私」
「まあ、そりゃ、色恋沙汰だものね。泣いたり怒ったり、仕方ないと思うわよ。うん」
霊夢の励ましがいやにぎこちなく、早苗は再びくくくと笑った。笑われた霊夢も何よと目を据わらせたが悪い気はしていない。
「あの当時、私の世界はとても狭かったのです。初恋が実らなかった。ただそれだけでこの世の終わりが来てしまったとも思いましたし、これから先の人生はきっと何も私を感動させるものは無いのだろう。そう思っていました。そんなこと、全然無かったんですけど」
「子どもの頃ってそういうもんじゃないの?」
「きっとそうなんでしょうね。ただ、その後も日々を過ごしたら、聞いたこともない場所に引っ越して、そこには魔法を使ったり空を飛んだりする人がいて、沢山の妖怪変化がいて……なによりもおかしいのは、気が付いたら自分も『そっち側』に入っていたってところですけどね」
くすくすと笑っていたが、それも少しの間で。再び窓から外に視線を投げる早苗の表情は、こんどは何処か気怠く見える。よく表情が変わると霊夢は思ったが、同時に神社に置いてきた少女を思い出し、胸の中に少しの痛みが走った。
「一年位前でしたか。博麗神社で編み物をしてたじゃないですか。私」
「ああ、そういえばしてたわね」
「父と、母に送ろうと思っていたんです」
雨音が響く。
「どんなご両親だったの?」
「母は、そうですね。気風のいいというか豪快というか、まあ、私はよく父から母親似だとは言われていました。父は、穏やかな人でした。私が何を言ってもにこにこと微笑んでいたのを覚えています」
「幸せだった?」
「……当時は何とも思っていませんでしたが、違う環境に身を置いたからでしょうか。きっと幸せだったと思います。勿論、今だって幸せ、というかなんというか、まあ、ですよ」
「歯切れが悪いわね」
「きっと、私は後になって振り返ってからじゃないとわからないんです」
そう言いながらも、早苗は笑っていた。その表情を見ると、やはり幸せだったのだろうと霊夢は思う。だからこそ霊夢は口から出しそうになった言葉を、ぐっと飲み込んだ。喉が鳴ったのが聞こえたか、それとも霊夢の表情から何かを感じ取ったのか。
「どうして、幻想郷に来たの、ですか?」
「口に出した覚えはないのだけれど」
「わかりますよ、それくらい」
霊夢が以前に宴会の席で聞いた時には、二柱の神のためと言っていた記憶があった。それはそれで決して間違いではないのだろう。己が身を違う環境に投げうつことは、並大抵の覚悟ではないはずだと霊夢は感じる。それでも、この外の世界から幻想郷へとやってきたのだ。なにか『抜き差しならない事情』というものでもあったのだろう。
早苗はテーブルに置いてあったコンビニ袋から、ペットボトルのお茶を取り出し、口をつけてこくこくと喉を鳴らした。
サイドテーブルに置かれたデジタル時計に霊夢は目を移す。普段ならばそろそろ寝ている時間だが、やはり眠気はまだやってこない。どうしたものかと思っているといつの間にか早苗が目の前にあった。どうしたのかと尋ねる間もなく、コートを渡された。
どこに行くのよ、そう問う前に早苗は少し歩きましょうと口を開いた。未だ気怠くはあったが、眠気が無いこともまた事実であり、霊夢は少しの間を置いてコートを羽織るのだった。
外は、いつの間にか雨から雪へと変わり始めていた。
霊夢にとっては就寝の時間帯が近づいていたが、外の世界では未だに道の先々で街灯がともり、店の軒先からは光が漏れている。それがただの飾りでないことは、道を行き交う人々がまだいることからも見て取れた。
どこに行くのか、そう聞こうとも思ったが、きっと何も考えていないのだろう。定食屋のメニューを見て二人で目を輝かせ、ウィンドウに並ぶ服を見てはため息と感嘆が混ざる。相合傘から外れた肩にかかる雪を払いながら、早苗はあるところで足を止めた。
鉄と石で作られようとしている建物。工事現場のフェンスの間を、早苗は器用にすり抜ける。霊夢も倣って、誰かに見られないようにするりと潜り込んだ。
むき出しの赤い鉄骨が雨と雪で輪郭をあやふやにして、まるで脈を打っているように見える。そんな骨組みと、わずかなアスファルトの皮を纏った建物の中で、早苗は霊夢に手を差し出す。きっと、今はこの世界の誰もが二人のことを見ていない。
霊夢の手を取った早苗は目を閉じると、静かに息を吐く。ふわりと、霊夢の足元に浮遊感が現れ、足場が離れていった。浮いていたのだ。きっと普段ならば、こんなことにはならないだろう。霊夢は宙に浮けたのだから。しかし今はその力は無く、早苗に身を任せるがままになっている。だが、そこにきっと以前ならばあったであろう誰かに身をゆだねる不信感は形を潜めていた。
音もなく、少女二人は建物の最上階へとたどり着く。今にも落ちそうな鉄骨の上に降り立ち、霊夢と早苗は眼下の景色を眺める。きっと、普段見ている景色の方が高低差はあるだろう。しかし今見ている景色は暗く、灰色に濡れ、その中の光が見たこともないほどの輝きとなって二人の視界を彩った。
「綺麗でしょう?」
「さっきマミゾウにも言われたわ」
「そうなんですか?まああの人なら言いそうですね。確かに」
二人で肩を寄せ合う。少し足を踏み外すだけでも身体は地面へと落下してしまうだろう。だが、そんなことは決してない。霊夢は早苗を信頼し、早苗は霊夢の信頼に応えていたのだ。
霊夢の横で、微かに空気が流れた。その流れを追うように顔を向ける。そこにあった早苗の表情は、いつか見た真摯な表情で。早苗の言葉を聞いてから、霊夢はその表情が幻想郷に来たばかりの頃に早苗がよく浮かべていた表情だと気が付いた。
「さっき、父と母のことを話したじゃないですか」
「ええ」
「父も、母も。私のことを一番に考えてくれていました。そして、神奈子様と諏訪子様も……見えなかったんです。二人には」
雪の粒が、少しばかり大きくなっていた。
「私が神奈子様と話すたびに、母は不安気な表情を浮かべました。私が諏訪子様と話すたびに、にこにことしていた父は真顔になりました。両親は最初は私を慰めていましたが、私が何度か 『奇跡』 を見せるたびに、二人の表情は深刻さを増していったのです。ある時の事でした。十歳くらい、だったかな。私は二人に必死に説明したんです。神様がいるって。神様は私たちを守ってくれているんだって、泣きながら」
「それは、なんというか……ごめんなさい。わかるとも、わからないとも私には言えない」
「そんなのわからなくていいんですよ。わかってもらおうとも思いませんし、何より私もあの頃の気持ちがわからないんですから。ああ、そうです。そんなことが続いたある日、病院に連れていかれたんです。永遠亭をもっともっと大きくしたような場所にです。とち狂っていると思われたんです。勿論、私の身体も精神も健康そのものでしたし、奇跡は科学で解明できるようなものではありませんでした」
結果として、と早苗が言葉を続けた。言葉が一瞬途切れ、風がひときわ強く吹いたことで、霊夢はここが外の世界だということを思い出した。それほどに、早苗の話に聞き入っていたのだ。 湿気の混じりの冷えた空気は重く、息苦しさを感じさせた。
「私ではなく、母が駄目になってしまいました。その頃には私はもう少し大きくなっていて。母の前で神様の話をすることは無くなりました。父に言われた、というのもありましたが」
「……それで幻想郷に?」
「母はっ」
霊夢の言葉を遮って、早苗は口を開いた。
「母は、それでも私を案じてくれたのです。自分がどれほどに傷ついていても、私に非など無いと。私にはそれがっ」
「耐えられなかった」
「……数日前に、私だけ外の世界に出させていただきました。実家に寄ったのです、あの時に編んだマフラーを渡したくて」
「うん」
「死んだことになってました。私」
幻想郷は常識の結界になっている。この世界は 『東風谷早苗』 という人間の不在を埋めるために、そのような措置を取ったのだろう。世界に齟齬が生まれぬように、誰もが不幸にならないように。語っていくうちに、早苗の横顔は、夜の闇と差した傘の影で表情があやふやになっていく。横に並び立つ少女が何を考えているのかやはり霊夢にはわからなかった。
「ほっとしたんです」
「ほっとした?」
「幸せそうでした、二人とも。あの世界は、私がいなくなっても完成していたんです。間違っていたんです。あの世界には本当は私もいなくてはならなくて、だから、きっと二人はまだ乗り越えられていないんじゃないかって、勝手に思っていたんです」
それは、寂しくは無いのだろうか。霊夢が口を開こうとしたが、早苗の身じろぎがその言葉を止める。傘を少し上げた少女の口の端は、ほんの少し、上がっていた。満たされていたのだ。
雪の花が早苗の頬にさわりと触れる。笑みを浮かべるその頬にじわりと溶けた水滴は、嬉し泣きの跡のように、つ、と滑っていく。
「私の方が、乗り越えられていなかったんです。幸せがありました、あそこには。何もマイナスなものは沸き上がってきませんでした。あの場所はもう私の居場所ではなくて、今は神奈子様と諏訪子様のいる、あの家が、しっかりと私の居場所になっていたんです」
だから、きっと。そう唇を動かしながら早苗の瞳が霊夢を捉える。穏やかな笑顔のままに、早苗は大丈夫ですよと言葉を続けた。
風がどんどんと強くなる、霊夢の不安を表すように。今繋いでいるこの手を放してしまったら、自分は取り残されてしまうのではないだろうか。見下ろす外の世界は、ただ光だけを映して。それでも時間は進んでいるのだ。そこに色々な輝きがあることはわかっていても、霊夢にはその輝きに自分が入れないこともわかっていてた。
大丈夫なのだろうか。私は、あの人たちに会っても。元のままで、博麗霊夢のままでいられるのだろうか。
次の日。霊夢と早苗はマミゾウの運転のもとに目的地へと向かっていた。昨晩に雪を降らせていた雲ははるか遠くに、穏やかなほどの晴れた空を眺めながら、霊夢はため息を吐く。
車での移動はマミゾウが提案したことだった。普段からのどかな幻想郷で生活している霊夢にとっては都市部ほどではないとはいえ、人込みは負荷になるだろうという考えがあってのことだった。程なくして、車はあるところでその駆動を止めた。海を臨む国道沿い、その踏切近くのコンビニで。
「ここから少し行ったところに踏切が……ああ、守矢のに着いていくといい。儂はここで待っとるよ」
「ええ」
気怠そうな返事と共に、霊夢は一足先に車を降りる。霊夢と早苗の背中が随分と小さくなってから、マミゾウも車を降りると煙草に火をつけた。海を見る。日が昇り始めた水面は、それでも彼方はまだ薄紫に白んでいる。暖房が効いた車内から出た所為もあるのだろう、普段よりも寒さが鼻に沁みた。
「ありがとうございました」
声の方角に視線を向ける。いつの間にいたのだろうか。セーターとスカートに身を包んだ紫の姿を見て、マミゾウは少しの間呆け、微かな逡巡の後に煙草の味を再度堪能することに決めた。
「必要なことなのかいの?」
「何がです?」
「わかっとるくせに」
「あの子は、確りと人間なのです。例えどれだけその力が人の範疇を超えているとしても。私たちでは」
「無理よな。きっと。自分で納得しない限りはなあ」
ごめんなさいと、言葉が耳に乗った。頭を下げる紫の姿を見ながら、どうしてこの妖怪は妖怪として生まれたのかとマミゾウは考える。この姿が本来なのか、それとも永く人と関わってきたが故のものなのか。どちらにせよ。人間のふりをしている時の自分よりは、目の前の隙間妖怪は余程人間だった。
二本目の煙草を吸い終えたところで、少女たちが戻ってきたのを視界にとらえた。マミゾウが視線を向けた先では既に紫の姿は消えていた。きっと、あの隙間妖怪は最後までこんな立場を貫くのだろう。マミゾウは大袈裟に肩を震わせて、霊夢と早苗を早く車に乗るようにと促した。
暖房の利いた車内では、最近流行っているらしいガールズポップだけが響く。車は微かな振動を伝えながら、どんどんと山を登っていく。マミゾウが歌の音量を少し下げたところで、霊夢は言った。幸せそうだった、と。
「お母さんがか?」
「遠くから眺めるだけだったんだけど。なんとなくわかったわ。きっと、あの人が母親なんだろうって」
「眺めただけかい。話してもよかったんじゃないかの?」
「いいのよ。きっと何も沸かないと思っていたんだけど、あの人の顔を見たらさ、ちょっとほっとしたの、私。昨日の早苗じゃないけど……ああ、私は確かに人間だったんだって。そんなことを」
自分は人間だと、そんな当たり前の事すら、博麗霊夢には足りていなかった。先代という育ての親は確かに人間だったが、もしや自分はヒトの形をしているだけで、その中身はもしかしたら別の者なのではないかと、そんなことを考えてしまうこともあったと霊夢は言葉を続ける。
「もしかしたら外の世界で、両親がいて、弟とか妹とかがいたりして、そんな普通の生活を送る未来があったのかもしれないって。あったのよ。あの人の顔を見たときに、いろいろ浮かんできたの。そう思ったらさ、今度は幻想郷の色々な奴等とか景色とか、そんなのが浮かんできたの。今もそう……ああ、もっと本を読んでおけばよかったと思うわ」
「どうしたんじゃいきなり」
「悲しいのよ、とっても。泣きそうなくらい。同じくらい辛い。ただ、なんで辛いのかもわからないし、それと同じくらいね、嬉しい、のかしら……そう、きっと嬉しいの。この気持ちを、どう表せばいいのかしらって。そう思ったの」
助手席に座る弾幕少女がどのように考えを咀嚼していくのか、早苗もつられて気分に波が立つ。だがその感情に名前を付けることが出来ないまま、車は次なる場所をフロントガラスの中に映した。寂れた住宅街を抜けた先。林の中の道を昇りきった先に見えたのは、真っ白な壁の大きな建物。この旅の終着点だった。
マミゾウを先頭に、霊夢たちは建物の中に入る。老若男女問わずに、ゆったりとした空気がそこには流れていた。
早苗はこの場所が病院だということは建物が見えた時点でわかっていた。そして、紫が見せた写真の中に、霊夢の実母ではない女の写真が混ざっていたこともまた、思い出していた。
「さ、会ってくるといい」
マミゾウが連れてきた職員に促され、霊夢はエレベーターに乗り込んだ。マミゾウも、早苗もいない。職員と共に下りた先、その廊下の突き当りに、先程見た扉よりも幾分か分厚くなった扉が見える。その扉の先、真っ白い廊下。少し方向感覚や距離感があやふやになるのを感じながら、霊夢は職員の背中を追っていた。その背中がぴたりと止まる。職員は事務的に、こちらですと霊夢に向き直った。
扉の横に、名前が書いてあった。それが誰の名前かわからず、そこで霊夢は彼女の真名を知らないことに気づいた。長い間、共にいたはずだったのに。その事実に少し、胸の奥が痛んだ。
「失礼します」
声と共に開けた。真っ白な病室。格子のかかった窓からは、あの日自分がせがんだ海が見えた。
女は、ベッドの上で半身を起こしていた。霊夢の声が聞こえたのか、ゆっくりと首を動かす。その瞳が、霊夢を捉えた。
様々な感情が、記憶が、霊夢の胸に去来した。その顔を見たのは何時振りだろうか。よろよろとベッドに近づき、その横に設えてあった丸椅子に座る。そんな霊夢の様子を、女はにこにことした表情で眺めていた。
「母様」
育ての親、先代の博麗の巫女は、霊夢の言葉を聞く。にこりと瞼を閉じたその顔を見て、霊夢は何処かで心の割れる音を聞いた。
永遠亭への帰り道。もう少しで迷いの竹林へ入るという道すがらで、椅子代わりの岩に腰掛けながら鈴仙は休息を取っていた。日はまだまだ天高く。もう暫くもすれば桜が咲き始めるだろう季節のことだった。
最近は薬を売ったり置き薬の確認などをした後に博麗神社に寄ることが日課となっていた。何度か泊っていけばと霊夢に誘われたこともあるが、丁重に断っている。本当ならばついていたいというのが本音だったが、人間ではないものの治療は門外である。自分がいたところでどうしようもないというのも現実であったし、何よりも、自分がいてはいけないような気がした。
魔理沙の話を思い出す。親に愛されてもらったことはあるかと。愛、というものを深く考えたことなど、少なくとも鈴仙の生の中では存在しなかった。考えなかったということは、満たされているということなのだろうか。
両親の顔を思い出す。地上に来てから随分と経った。記憶のなかにある顔は笑顔を浮かべているが、きっともう、この思い出のような顔はしていないだろう。だとすれば、思い出は墓碑なのかもしれないと考えていると、背中に微かな粟立ちを感じ、振り向いた。
「こんにちは、うさぎさん」
「……なによ」
「少し、お話でもどうでしょう?」
そのまま立ち去ることも考えたが、この妖怪に聞いてみたいことがあるのもまた事実だった。了承代わりに送った視線を受け止めながら、紫は隙間の縁に腰掛けると、礼を述べた。
「ありがとうございます」
「……どうしたのよ突然。礼を言われるようなことをした覚えはないのだけれど」
「あの子たちと一緒にいてくれて、助けていただきました」
あの子たち、というのが誰を指すのか。そんなことはわかっている。緩く拳を握ったことを自分自身気が付かぬままに、鈴仙は気にしないでと返す。
「私からも聞きたいことがあるの。答えてもらえるとは思っていないけれど」
「博麗の力、についてでしょう」
「……意外。もっと煙に巻くものと思っていたから」
「別に隠すほどのものでもありません。それに私も、あの力の源泉が何処から来ているかわかりませんし。ただ、あの力は意思、心のようなものでしょうか。それを持っているということだけは確かです」
意思を持つ力。言葉短ながらもその言葉に恐ろしさを感じたのは決して鈴仙の性格の所為ではない。ぎゅっと、拳に力をこめながら、鈴仙は続きを待つ。
「あの力は、持つ者の成長を促す時があります」
「成長?」
「ええ。力の持ち主が最高の性能を発揮できるように。最高の力を持ちながら自律することができるように。力は持ち主に試練を課すのです」
「……それが、あの子だと」
「ええ。あの子がもっと博麗の力を持つものとして相応しくなるように、使いこなすための精神性を獲得するために。きっとこの試練が終わった時には、あの子は今まで以上に、幻想郷の巫女として素晴らしくなる」
無意識だった。握った拳に溜まった熱は臨界点を超えて、紫の頬を打ち抜いた。わかっているのだ。この妖怪は、敢えてこんな言葉遣いをしているのだと。わかっているのだ。きっと、自分が手助けをしたいに決まっているのだと。
見据えた先の紫の表情に感情はなく、それが敬愛する師匠が時折浮かべる表情と似ていることが、鈴仙の鎮まりかけた心に再び火をつける。言われなくてもわかっているのだろう。だが、それでは、あまりにも浮かばれない。
「お前はッ、お前はッ……あの子は人間だ!! 泣き、笑い、霊夢を母と慕う、人間だろう!! わかるでしょう。永い時を生きている賢者様なら、あの子がどれほど重いものを背負っているのか、わかるでしょう」
鈴仙の脳裏にあの夏の記憶が走る。霊夢を心配し、必死に料理を作る少女は、祈りを込めていた。早く治るようにと。よくなるようにと。今、自分が口走っている言葉も、真実ではないこともわかっている。それでも鈴仙は信じていたいのだ。どれだけ眼が曇ろうとも、あの子の心は人間なのだと。
「霊夢は、自分で自分を育てなおしている。そうでしょう。とても悲しく、尊いことをあの子たちはしている。私はそれを助けたい。魔理沙だって、センセイだって、他のみんながそう思っている!! 声をかければいいじゃない。一緒に寄り添えばいいじゃないかッ!! 」
わかっているのだ、頭のどこかでは。様々なことを考えたうえで、紫は今の立ち位置を選んだのだろうことも、それでも霊夢の負担をどうにかして和らげたいということも、そこに自分が介在する余地がないからこそ、こうしているのだということも。
感情のない顔を戻すことなく、紫は隙間から降りると鈴仙の前に歩を進める。目線は外さない。ここで逃げるということは、あの時の少女の気持ちも自分の激情も嘘になることを鈴仙は知っていた。
「あの子たちのこと、どうか、よろしくお願い申し上げます」
自分が子供なのだと鈴仙は考えながら、必死に唇に力を込めた。何も言うことはできなかった。口を開けば、またも激情が溢れ出してしまうだろうから。紫から背を向け、鈴仙は逃げるように迷いの竹林へ駆け出した。
先代様と過ごした期間は短くはあったが、今でも記憶に残っている。女の私から見ても、綺麗な肌の色をした、美しい人だった。寡黙ではあったけれど、決して私のことを見捨てたりはしなかったし、修行は厳しかったけれど、その分優しくもしてくれた。お腹を痛めて、というわけではないのは知っているが、それでも私が、自分はもしや木の股から産まれてきたのではないかというような悩みを今まで持たずに過ごしてこれたのは、この人の存在が大きかった。
ある夏の日のことだった。鉄の色をした入道雲が大きな音を鳴らしているのを見た私は、言いつけられていた掃除を手早く済ませた。お説教よりも、濡れ鼠になる方が嫌だったのだ。ただ、普段よりも明らかに早く終わってしまったことをなんて言おうか。そんなことを考えていた気がする。居間にいた先代様が俯せに倒れていて、私はひどく取り乱してしまった。バチが当たったのだと、そんなことをぐるぐると回る頭の中で考えていた気がする。
本当ならば、とりあえず何があったのかを確認してから対応すればいい。家事だって教わっていたし、看病の真似事ぐらいもできる。だが、そう思っていながらも、どうしていいのかわからず、私はとにかく誰かを助けに呼ばなくてはいけないと、里へ向かって駆け出した。まだ、まともに飛ぶこともできない雛鳥がだ。今の幻想郷よりもはるかに危険な道程だった。あの時妖怪たちに食われなかったのは、運がよかったのだろう。
雨に打たれて何度も転んで、新調してもらったばかりの服を泥だらけにしながら、私は里にたどり着いた。結局、当時の私には倒れた理由はわからなかったのだが、先代様の体があまり強くないことは子どもながらに理解はしていた。もしかしたら、博麗の力を持ったことが原因だったのかもしれない。
里からの助けもあって大事には至らなかったが、結局私も風邪をこじらせてしまい、その次の日は二人仲良く布団で寝ることになってしまった。熱が上がって苦しくはあったけれど、先代様と二人で笑いあった記憶が、今も鮮明に残っている。
何時の頃だっただろうか、先代様が私に言ったのだ。里に下りて、習い事でもしてみないかと。思えば、彼女なりに私を気遣ってくれていたのだろう。あまりにもいきなり言われたので、多分我ながら間の抜けた表情をしていたと思う。
当時の私には、その話はとても魅力的なものに映った。神社の手伝いは面倒なことも多かったし、寂しいことも多かった。ただ、それと同時に嫌な気持ちも強くあった。
恥ずかしい事ではあるが、私はあの子供たちの輪に入る勇気を持てなかったのだ。ただ、それを悟られることも嫌だったので強がりながら断ったのだ。
先代様は驚いた顔を浮かべた後に、困ったような笑顔を浮かべていた。あの時、あの人が何を思っていたのか。今ならほんの少しだけど、わかる気がする。
そうして幾度か季節が巡って、先代様は神社を去って、私が跡を継いだ。
理由は、よく憶えていない。私は確か仕事で里へ下りたのだ。その頃にはもう寂しさとかそういうものは無くて、新しい博麗の巫女として今よりも随分と忙しかったことは印象に残っている。
陳腐な言い方かもしれないが、人里から山に沈んでいく夕日を眺めた時、まるで燃えているようだと思った。あまりにも西日が強くて目を細めないといけないあの感じが、火を眺めている時と同じように感じられたのだ。
仕事を終えて、大通りを歩いていた。特にあてもなくだ。さっさと帰ればいいものを、私は心のどこかで、外の世界に行ったはずの先代様に会えるのではないかと、淡い期待を持っていたのだ。
結局、見つけることは出来なかった。当たり前の話だった。すれ違う家族や親子連れの数を数えていくうちに、自分が酷く惨めに思えて、私は里の大路を駆け出した。
眠るときに少しでも温もりが欲しいと思って、もう先代様はここにはいないのだと改めて感じた。それから私はどれだけ布団が冷たくても眠れるようになった。それは、成長といえるのだろうか。
ただ、ただそれでも、彼女は確かに私の母だった。
「母様、かあさまっ」
女は、壊れていた。
もし会うことが出来るのならば、何を言おうか。まとまらなかったのだ。ただ、その必要は無かった。霊夢の問いかけに、女はゆるゆると首を動かした。理解をしているわけではない。ただ、女の魂はここではなく、自分の世界に閉じ籠っているということは霊夢にも理解が出来た。女が見ている世界に、もう自分はいないのだと。
思わず、女の手を強く握ってしまった。慌ててその手を放しても、女はただ霊夢の肩越しに海を眺めるのだ。その横顔があの頃、今よりも背が小さかった頃に見た横顔と変わりがなくて、今この瞬間が事実なのだと霊夢の胸を押しつぶす。
霊夢は布団越しに、女の膝に顔を押し付けた。涙が溢れて止まらなかった。声だけは出すまいと強く、ベッドシーツを握った。どんな結末でもよかった。だが、そんなものはくだらない幻想だった。女の手が、優しく、霊夢の頭に乗せられる。その行為になんの感情も無いことが、より霊夢の胸に激情を呼び起こすのだ。
「かあさま、かあさまっ……」
怒りたかった。悲しみたかった。褒めてほしかった。それすらも出来なかった。
胸の中にある激情が、昏く形を作っていく。渦のように、激しく広がっていくそれは霊夢の中にある感情や、記憶を飲み込んでどんどんと大きさを増していくのだ。何を壊したいのか。それすらもわからない。だが、このよくわからない昏いものを制御することが霊夢には出来ない。
「ぐ、ううっ……」
名前のつかない感情でぐしゃぐしゃになっているその霊夢の手に、何かが触れた。顔を上げる。手が、重ねられていた。
かかさま
レイが、横に立っていた。その顔を見て、ただ感情のままに、霊夢は娘を抱きしめた。
時は、一日巻き戻る。霊夢が外の世界で早苗と話している時、博麗神社には明かりが灯っていた。
「寝かしつけてきたぜ」
「ご苦労様っと、はい、永遠亭特性の竹酒よ」
「お、サンキュ」
そう言いながら、魔理沙はやれやれとした表情で炬燵へと足を滑り込ませる。主のいない博麗神社は、宴会の時を除けば普段よりも人妖密度が高いはずなのに、何故か静かに感じられる。魔理沙は竹の節目に空いていた穴から、ぐい呑みに酒を注ぐ。微かな青臭さが、知らず魔理沙の飲酒欲求を刺激した。
少女が霊夢の前に現れてから、魔理沙は何度も博麗神社を訪れている。一番はもちろん霊夢のことが心配だったということがある。だが、少女の存在が例え例外的で少しではあったとしても、魔理沙は霊夢の周りに起きた今回の出来事に風を感じていたこともまた事実だった。
少女は、普段ならばとても寝つきがよいことを魔理沙は知っていたが、何故か今日に限っては大分とぐずったのだ。やはり、かか様がいなくてはならないのだろう。
(違うか?)
あの星空を鑑賞したときのことを思い出す。あの時、少女の腕は確かに透けていた。そして自分はいずれ消えるとも。ぐずついている理由は、もしかしたら恐怖なのかもしれない。考えてみれば当たり前の話ではある。だが、やはり少女が何を思っているか、その真意まではわからないし、分かってもどうしようもないのだ。これは、霊夢と少女の話なのだから。
こちり、こちりと柱にかけられた時計が針を鳴らす。鈴仙と魔理沙は互いに酒をあおりながら来客を待った。どちらが酒を新しく持ってくるか互いに指遊びを始めたところで、玄関を開ける音が聞こえた。
「あら、人里のセンセイじゃない……どうしたのよ、こんな夜更けにここを訪ねてくるなんて」
「なに、ここ数日あの子が寺子屋に来ていないからさ、見舞い代わりの看病さ。主は今はいないんだろう?魔理沙から聞いたんだ、それに呼び出されたものでね」
「私が呼んだんだ。ちょっと、真面目な話がしたくてな」
鈴仙も慧音も、今日は魔理沙に呼ばれてここにやってきていた。慧音は寝付いた少女のいる寝室の襖を開けた。少女の寝顔を見て安心した表情を誰にも見られずに浮かべると、すぐに表情を戻して炬燵へと足を潜らせる。どうして、霊夢のいない時に魔理沙に呼ばれたのか。慧音は察しが悪い方だと自覚はしていたが、それでもなんとなく感ずるところはあった。
慧音に酒を差し出した魔理沙は、しばらく天井に視線を巡らせていた。既に夜も更けている。慧音が差し出された酒を空にしたのを見計らっていたのだろう、魔理沙は鈴仙、慧音の順に視線を投げかけると。わざとらしく大きな息を吐いた。
「霊夢に確認は取ってある。ただそれでも、私は嫌な奴だ。霊夢のいないところで、きっと私は自分以外にも荷物を持ってほしいんだ」
「荷物って、霊夢の事? まあここに呼ばれたんだからそうでしょうけど」
「自分のことを卑下する必要もないとは思うがな。興味があってここに来たんだ。そういう意味では私たちもさほど変わらんさ」
「いや、違うんだ。言い方が適切じゃあなかったかな。私はもしかしたら」
霊夢を、可哀想だと思っているのかもしれない。
魔理沙の口からするりと出たその言葉には、滑らかさとは裏腹に、痛切に満ちていた。ぐいと酒を一気に煽り、魔理沙は口火を切った。既に思い出していたのだろう、その語り口に、兎と白澤は耳を傾けた。
博麗霊夢は、先代の博麗の巫女に育てられた。外の世界で産まれた霊夢がどのようにして幻想郷に辿り着いたのか、その経緯は定かではない。人為的な力が働いたのは間違いがないだろうということは、明白だった。
先代もまた、今の霊夢と同じくらいの年だった。幾分か身体が弱かったが、スペルカードの無い時代に、それでも献身的に幻想郷のために、日々を精力的に過ごしていた。
先代は、霊夢のことを『レイ』と呼んでいた。自分の名前から一文字を取ったというその名前を、幼かった霊夢は大層気に入っていたらしい。当時、魔理沙は何度か親と共に博麗神社を訪れたことがあるが、今よりもお転婆な少女だった。
先代の巫女は、霊夢を時に厳しく、そして時に愛情をもって育てた。そのことについて霊夢は何の疑問も抱いていなかったという。このままでいけば、麗しい話で終わったのかもしれない。だが、そうはいかなかった。
「私も後から知ったんだが、先代様は……心が一杯一杯だったんだ。まあ、無理もないと思うよ。今以上に切った張ったの世界だったんだ」
先代の巫女にとって、霊夢の存在は自身が正常でいるための縁であり、砦でもあったのだ。魔理沙の語りを聞いて、慧音も数年前のことを思い返していた。慧音自身は先代の巫女と親しい付き合いがあったわけではなかった。何度か街の催しや地鎮祭などで見たことがあるくらいだ。だが、その程度の知識しかなくとも、先代の巫女がどうなったのかという顛末は記憶に残っていた。
「初夏だった。人里で殺しが起きたんだ。最初、里の住人は妖怪だと思って当時除霊や退魔で名を上げてた奴等や、猟師たちにも付近の妖怪退治を依頼した。ただ、妖怪を退治しても殺しが止まることは無かった。むしろ妖怪に返り討ちにされる奴まで現れちまう始末さ」
「……鈴仙殿は知らないかもしれないが、事件当時の人里は、本当に厳重な警戒がなされていた。それこそ蟻の一匹も、というやつだ。私も子どもたちを一まとめにして帰っていた覚えがある」
「それでも寺子屋をやっていた、ということも私には驚きなんだけどね。しかし、そんなことがあったとは。のほほんとしているのに、ねえ」
「畑仕事に出なくてはならない者が多いしね。どうしても、ということだったのさ。そして、一月が経っても解決が出来ず、当時の里の顔役たちは体調が思わしくなく療養していた、博麗の巫女に助けを求めた」
療養していた、というのは言葉こそ濁しているものの、きっと”両方”だったのだろうと鈴仙は二人の話し口を聞いて確信していた。話がどう繋がっていくのか確かに興味はあるが、ハッピーエンドというわけではないこともまた、この幻想郷に先代の巫女がいないということが物語っていた。口を挿まず、目で続きを促す。一息ついた魔理沙の告白を、慧音が引き継ぐ。
「犯人は、悪霊に憑かれていた里の住人だった。先代の巫女は犯人を退治こそしたが、その際に深い怪我を負い、その後暫くをして亡くなった、と聞いている……けど、違うんだろう?」
「ああ、怪我を負ったというのは本当らしいが、先代様は外の世界に連れていかれたのさ。幻想郷では治すことが難しかったらしい」
「そんなに酷い怪我だったの?」
鈴仙の問いに、魔理沙は首を横に振り、しかしぴたりと止まると今度は首肯した。少し俯いた魔理沙の表情は、前髪に隠れて視線が鈴仙から隠れる。誰もが喋らなくなった空間は、冬独特のいやな静けさに包まれた。そして、しばらくの間を置いて開かれた魔理沙の言葉に、鈴仙の耳が動いた。
「憑いていなかったんだ」
「……何ですって?」
「犯人には、何も憑いてなんかいなかったのさ。怨恨か、貧してか、好奇心か。何が理由なのかまでは知らん。ただ、先代様が退治したのは間違いなく人間だったらしい。犯人がどういうやつだったか、三途の川を越えて直接閻魔に聞いてきたんだ。間違いは無いだろうさ」
人が、人を殺す。それがどれほどに重いことか。人の道を歩んできた魔理沙も、人に道を教える慧音も、そして命を奪うということが職務に入っていた鈴仙も、なまじ人間と触れ合ったがゆえに、その重さを重々承知していた。
理屈ではないのだ。同族を殺すというのは、その魂に重く、錆びた鎖を巻き付ける。そして事あるごとに錆が魂を蝕み、鎖の重みで魂を締め付ける。それを耐えられるというのは、ある意味では才能なのだ。そして大体の者はその重みに耐えきれず、沈んでいく。
「先代様は気が付いていたのか、いなかったのか。それは最早わからない。ただ、その犯人に手を下して、先代様は限界を、超えてしまったらしい。公には死んだことにされ、幻想郷の英雄とされた。そして霊夢が跡を継いだんだ……霊夢は」
孤独だったんだ。そう呟いて魔理沙は口を閉じた。
「私は、霊夢が好きだ。だから、あいつの力になってあげたいし、助けても欲しい。けど、それでも私はこの話を誰かに話した。私も結局、自分がかわいいだけなのかもしれない。そう思って……」
俯いたまま言葉を続ける魔理沙の眼前に、ことりとぐい呑みが置かれた。魔理沙が顔を上げた先には、何も言わずに酒を飲む、鈴仙と慧音の姿があった。言葉は無かった。それが、魔理沙にとっては慰めだった。そこからは何も言わずに各々が酒を注ぎ、飲み干し、そして倒れるように眠った。各々が各々の胸にしまうという、それは儀式だった。
重い微睡みから魔理沙が目を覚ましたのは、既に次の日の正午が近づこうとしている頃だった。未だに夢の中にいる半獣と兎を見て、よい仲を持ったと微笑む。そして次に、レイのことが頭に浮かんだ。朝餉の準備をしなくては、きっと腹を空かせているだろうと魔理沙は寝室の襖を開けた。
「……レイ?」
そこに、レイの姿は無かった。そしてその日の夕方に霊夢と共に帰ってきたのだ。
霊夢が外の世界に行ってから、数週間が経った。朝晩は未だに冷え込むが寒さは段々とやわらぎはじめていた。その日も霊夢は少女と共に縁側で陽の光を浴びていた。ほうと吐いた息はまだ微かに白く煙る。霊夢がちらりと横に視線を向ける。そこに居たはずの少女は、白手袋に抱かれていた。
「あら、もう冬眠は終わったの」
「ええ。もう大分と暖かくなってきたからね」
隙間妖怪、八雲紫は霊夢の言葉に応えながら腕の中にいる少女をあやす。少女は自身が何者に抱かれているのかもわかっていないのか、にこやかに微笑みながらゆかり、ゆかりと声を上げた。
「ふふ、可愛い。食べちゃいたいくらい」
「ぶっ飛ばすわよ」
「おお怖い怖い。かか様は怖いですねー」
紫のおどけるような語尾につられて少女もねーと紫に返す。陽の光が紫たちを照らすその景色に霊夢はどこか頭に甘い痺れを感じながら用件を尋ねた。隙間妖怪は大なりであれ小なりであれ、理由が無ければ神社に現れることが無いことを知っていたのだ。
腕から解放された少女は、少々覚束ない足取りで今度は霊夢の胸元に飛び込む。紫から目線を外さずに、霊夢は少女を抱きとめる。陽光に照らされた金の髪は白く輝き、霊夢の黒の髪もまた陽光を吸い込んで白く光る。
「霊夢」
「なによ」
「辛いわよ」
その目線は鋭く、口元から笑みを消して、紫は告げた。紫の顔を少女に見せぬように抱きしめながら、霊夢は言葉を紡ぐ。自身が少女の頭を撫でているのに気づかぬままに。
「……母様に会った時、私の心は酷く波立ったわ。自分でも抑えることができないような黒いものと、幼いころの記憶が混ざって、とても辛かった。ああいうのを絶望っていうのかしらね」
撫でていた頭がもぞりと動く。霊夢が落とした視線の先で、嬉しいのか楽しいのか、少女は霊夢を見上げて笑い、その首に手をまわした。
「もう、甘えん坊さん……きっとあのままだったら、私はこの世界に負けていたと思う。初めてだった。足元が無くなって落ちていくような。異変とか、妖怪退治とか、そういう時に感じるものじゃなくてね、ただひたすらに辛いものに負けそうになった」
「今は違うのかしら?」
「どうかしら、ね。ただ、立っていることは出来ると思う。もしこの子が」
言葉は続かず、霊夢は少女を抱く腕に力を込めた。それは心の声を少女に聞かれぬようにするために出た自然な行動で、そして霊夢は気づいていない。それは親がすることと変わりがないことに。
そう、と紫は呟くと片手を宙に薙いだ。裂けた空間にぬるりと身体を滑り込ませていく。それだけ言えるなら、きっと大丈夫ねと言葉を残して。空間が閉じて、そこには陽光だけが降り注ぐ。まるでそこには何もいなかったように。
かかさま
耳元をくすぐるように声が聞こえる。少女はお腹が減ったと霊夢に言う。お昼にしましょうかという霊夢の言葉に少女は飛び跳ねながら居間へと駆け込んでいく。
あの時、霊夢が外の世界に行ってから、少女の身には異変が起こっていた。背は少しずつ小さくなり、寺子屋で覚えていった言葉を、段々と忘れていった。替わりに感情がより豊かになり、そして声こそ小さいものの、よく泣くようになった。少しずつ、少女は幼くなっていったのだ。
少女の後姿を見て、霊夢は誰に言うこともなく確信を得ていた。この生活は、もうあと僅かなのだろうと。
昼餉を摂った少女を膝に乗せながら、先程紫が来た時と同じように縁側に佇む。家事は既に大体が終わっており、特に仕事の依頼もなく、つまりは暇だったのだ。
ふと、撫でていた少女の髪の毛が、軽く指に絡んだ。反応がないことに気づいて顔を覗き込むと、きっと満たされたのだろう、少女は寝息を立てていた。霊夢は自身が同じように膝の上に乗っていた頃を思い出した。
まだ空も飛べない頃に、膝の上に乗りながら、空を眺めていた。先代の巫女がそんな自分の髪を梳いてくれたことをいまだに覚えている。あの頃は、ただ享受していただけだった。ただ、こんな時間が続けばいいと。穏やかな日を見ながら微睡に沈むことが、霊夢は好きだった。そうして日が傾いたころに、優しく揺り起こされて、一日の終わりを感じたのだ。
少女は、何を思いながら夢を見ているのだろうか。聞きたい気持ちもあったが、それよりもただ、この瞬間を噛みしめていたかった。胸の奥にある気持ちが、きっと幸せというものの欠片なのだろうと。
先代の巫女も、あの時このような気持ちでいたのだろうかと撫でていた手を止める。風もなく、日はまだ高い。音も、動きもない世界はただほんの少しの温かさと、幸せだけで形成されている気がした。
微かな身じろぎの後に、少女が閉じていた瞼を開く。目線の先の少女は、霊夢にとっても不思議な感じがあったが、以前に感じていた『子供の頃の自分を見ている』ような感覚は大分と薄くなっていた。
「どうしたの?」
少女の言葉はない。しがみつく腕に込められた力が、今では言葉代わりになっている。何か訴えたいことがあるが言葉がわからない時の態度である。昔の自分は、悪い意味で聡かったのかもしれないと霊夢は自問する。こんなに、正直に自身を表現したことがあったのだろうかと。きっとあったのだろう、だが、記憶の箱の奥底にまで潜り込んでしまっているようで、だからこそ霊夢は少女と幼いころの自分が違うのだと考えていた。
少女はただ、何も言わずに霊夢を見つめ返す。その眉尻が下がっていることから何かしらを訴えたいことはわかる。諭す霊夢の言葉に、しかし少女はしかめ面を戻さない。なんとなくそんな気がして、霊夢は少女の名前を囁く。
「レイ」
ただそれだけで少女の顔には笑みの花が咲いた。
その夜、少女は熱を出した。
次の日。霊夢は目を覚ましたところで、己の身体に違和を感じた。昔、初めて空を飛んだ時に感じた、あの全能感に似たような感覚が身体を走っていたのだ。
軽く伸びをし、拳を二度三度と握る。確信した。自身の身体に博麗の力が満ちていることを。久しぶりの感覚だったからか、少しばかりの窮屈さを己の内に感じたが、それもすぐに慣れるだろう。元々霊夢と力は一つだったのだから。
隣でまだ夢を見ている少女の寝顔を眺めながら、紫の言葉が霊夢の頭に浮かぶ。辛いと。そんなことはもう分かりきっていた。熱は少し落ち着き、少女の寝顔は穏やかなものになっている。どのような結末を迎えるにしても。きっと悲しみに暮れるのだろう。それはきっとすぐ間近にまで来ているもので、ただ抗うという気持ちはわかなかった。諦観でも、絶望でもなく、受容できるのだ。
「成長、したのかしら」
あの時、壊れた先代を見たときに、霊夢の心は確かに軋み、ひび割れたのだ。砕けなかったのは決して自分の力だけではない。少女がいてくれたからだ。おせっかい焼きの風祝も、面倒を見てくれた狸妖怪も。そしてこの楽園の人妖たちが、自分の心を形成している一部なのだと。
成長とは、なんなのか。確かに以前に比べると自分でも変わったように思う。だがそれが正しい方向に進んでいるのかはわからない。その自問と自答は、きっとこの先も尽きることはないのだろう。
かかさま
「あら、おはよう」
お互いに何ということのないやり取りを交わす。随分と長い時を一緒に過ごしてきたが、霊夢の内にあった思いは、自身の身体に戻った力で確信になっていた。今日が、きっと最後なのだということを。
互いに無言のまま、顔を洗い、朝餉を摂る。縁側に座ると、桜がつぼみをつけ始めるのが見えた。腿に感じる愛しい圧迫感。少女と一緒に境内を眺める。
「レイ」
何度となく読んだ少女の名前。続く言葉を紡ごうとして、ぐっと喉が詰まるのを必死に隠した。あの時のように、先代を見ていた自分が感じていたように。少女の前でだけは、見栄を張っていたかった。
かかさま
「なあに?」
レイは、レイは。強いかかさまをみたいです
少女の言葉と同時に、空気が揺れた。神社の上空に穴が開き、ずるりと何かを吐き出した。それは粘性のある墨を全身に塗りたくられたような、巨大な赤ん坊だった。その顔は目を閉じていたが、霊夢と、そして少女に似ていたのだ。
この子はきっと私が抱いてきたものなのだと、自身の中にあった、ないがしろにしてきたものが形を成しているのだとなんとなく理解ができた。少女を膝の上から降ろし、霊夢は赤ん坊と相対する。
『巫女以外にになりたいと思ったことはないのか』
昔、魔理沙がそんな質問を投げかけたことがあった。その時霊夢は素っ気なく特にないと返した。考えるのが面倒だったというのもあったが、恥ずかしくて言えなかったのだ。先代の後姿に憧れていたということを。
意識が戻る。赤ん坊は霊夢の身体より一回りはあろうかという掌を、弾丸のように突き出した。質量をもった死の形に、しかし霊夢は避けることも受けることもせずに、重ねるように広げた掌を眼前にゆっくりと突き出す。
霊夢と赤ん坊の手が触れ合う。ただそれだけだった。ただそれだけで赤ん坊の手は弾け、黒い体は光の粒子となって消えていった。最初からいなかったように、神社には静寂だけが残る。霊夢が視線を少女に向ける。驚いているのだろうか、固まったままの少女は何度か眼を瞬かせると、霊夢に視線を合わせる。その顔に、笑みが浮かんだ。その笑みが別れの笑みだったことに気が付いて、霊夢は口を開いた。
「今日は、宴会をしましょう。とっても大きい宴会を」
博麗霊夢復活の報。それは弾幕勝負を随時受け付けるという文言とともに知己悪友たちに瞬時に広まった。快気を祝うもの。冷やかしに来たもの。弾幕をしに来たものと、人妖が入り乱れた博麗神社は、久しぶりの大盛況に包まれていた。
勝手に屋台を広げるもの。それに舌鼓を打つもの。待ちきれないとばかりに喧嘩を売り歩く者もいれば、それを諫める者はいない。そんな博麗神社の境内で、霊夢は参道を挟んで魔理沙と対している。
「久しぶりだからって手加減なんかしないぜ」
「別に構わないわよ。負けた時の言い訳にされても困るしね」
「言うじゃあないか。この一年で進化した魔理沙様の妙技に酔いしれるといい!」
空に飛びあがり、舞のように鮮やかな弾幕勝負を繰り広げるその背中を、風祝に抱きかかえられながら、少女は見つめていた。
人間たちも妖怪たちも、各々が楽しんでいる。それは力だけしか持たなかった少女にとって、決して届かない理想郷であった。それを叶えてくれたのだ。それだけで、もう充分だった。
結局霊夢は並みいる挑戦者を全て退け、宴は終わりを告げた。酒と弾幕によって死屍累々の様相を呈している境内や茶の間と違い、寝室では霊夢と少女が同じ布団で天井を見上げている。響くのは誰かの鼾と時計の音。それだけだった。
かかさま
少女が呟く。闇夜に紛れるような小さな声に、霊夢はなあにと返す。
ありがとう、ございました
少女の言葉を聞いて、霊夢は天井を見る目に力を込めた。
「ねえ、レイ」
霊夢が呟く。少女が横を向くのと一緒に、霊夢も顔を少女に向けた。深い夜の帳が、輪郭だけを視界に映す。少女を柔らかく抱きながら、霊夢は耳元で願う。
「かかさまって、よんで」
……かかさま
「もう一回」
かかさまっ
「もう一回」
もう……かかさまっ
耳にかかる少女の声を、霊夢は必死に記憶した。きっといずれ忘れてしまうであろう声色を、思い出に脚色されてしまうその声を、少しでも焼き付けるために、霊夢は眠りに落ちるまで何度も少女に呼びかけるのだった。
朝だった。霊夢が目を覚ますと、乱痴気騒ぎをしていた者たちは一様に姿を消し、神社は整然とした姿を取り戻していた。誰もいない、ただ静寂だけがある神社を一通り見て回り、誰もいないことを確認してから、寝室に戻った霊夢は少女が着ていた服を抱きしめ、ただひたすらに声をあげて泣くのだった。
力を取り戻した博麗の巫女は、それからも大小様々な異変を解決に導くことになる。巫女は、ただ己の信ずる道のままに生き、そしてたくさんの者がそんな巫女に魅了された。そして巫女も、ただ自然に、助ける者を助け、挫くべき者を挫いた。博麗の巫女は幻想郷において最も中立な存在であった。だが、決して孤独ではなくなっていた。
かあさまっ
ぴくりと身体を震わせて、霊夢は振り返る。巫女服と大きなリボンでおめかしをした少女は、小動物のようにとたとたと忙しなくかけながら、霊夢の膝の上に腰を下ろす。思い出を映したテレビの電源を消して、外へと出る。今日は永遠亭へ先代の見舞いに行くことになっていた。
最近は日常生活程度なら問題なくできるようになっている。あの頃に感じていた絶対的な憧れは、もう消えていて、ただ彼女も自分も同じ人間なのだということが、少しずつ分かってきた。見舞いに行くたびに少女がばば様と呼ぶのをどうにかしたいとぽつりと言っていたが、もうしばらくは無理だろう。
少女の手を離さぬように、石段を下りていく。木の幹と土肌の荒涼とした冬は終わり、もうすぐ桜が咲くだろう。
かあさま
「なあに?」
さっき、なにをみていたのですか?
少女に言ったことは無かったなと口を開き、一度閉じた。霊夢は少女を抱き上げる。その思い出にあったのは、少しの悲しみと、沢山の幸せだった。
「知りたい?」
はいっ
「あなたの、とっても素敵なお姉さんのお話」
映像の中心にいるのは一人の少女。桜の木の下、木漏れ日を浴びながら、少女は穢れの無い笑みを浮かべている。そんな少女の姿を霊夢は呆として眺めている。
かあさまっ
そう、声が聞こえて。霊夢の肩がぴくりと震えた。
話の始まりは、雪がちらつく日も増えた博麗神社でのことだった。神社の巫女である博麗霊夢は境内の掃除を終え、縁側で茶をすすっていた。掃除というよりは、身体の冷えをどうにかするために動いていただけではあったが。
早々に仕事も終えてしまい、さてこれからどうしようかと霊夢は思案しながら空いていたもう一つの湯飲みに茶を注いだ。そろそろ来るだろうと勘が告げていたのだ。その予想は正しかったようで、それからしばらくもしない内に、境内に一つの影が降り立つ。ここ数日、毎日来ている来客への挨拶もそこそこに、霊夢は茶を差し出した。
「こんにちは、霊夢さん」
「寒かったでしょ、お茶、淹れといたわよ」
「わあ!すいません、ありがとうございます」
来客である東風谷早苗は荷物を縁側に降ろすと、霊夢の隣に座り茶を飲み始めた。一息ついたのだろう、緩み切った表情で白い息を吐いた。とりとめのない会話を交わしながら、二人は茶の間に入る。二人は確かに少女だが、流石に目的もなく寒空の下でのほほんとしていられる程幼くもなかった。最近早苗は博麗神社に入り浸っている。その原因をいそいそと取り出した。
「今日で完成なんだっけ?」
「そうですね」
取り出されたのは編みかけのマフラー。早苗は指に糸をかけ作業を開始した。霊夢も和裁などは一応できるが、指だけで編むというものには驚いた。なんでも、以前に香霖堂で並べられていた本の中に指編みについてのものがあったらしい。普段から世話になっている二柱へのサプライズもかねて、こうして博麗神社に通い詰めていた。最初こそ四苦八苦していたが、慣れてきたらしい。霊夢もいくつか作品を貰っているため、特段と何かを言う気はなかった。
「お、今日もやってんのか。精が出るな」
「あ、魔理沙さん。こんにちは」
「あんたもよく来るわね。何も無いわよ」
「お茶があるじゃあないか。あと霊夢がいる」
「私はついでか」
途中でやってきた黒白魔法使い霧雨魔理沙も加わり、短い日が沈もうかというところで、早苗は目的を達することが出来た。完成したのである。そんな早苗の頑張りを小さい拍手で表しながら、霊夢は質問を投げた。今編んだもの以外にも、すでにいくつかの作品を完成させている。それは霊夢が直接確認したから間違いがない。それは誰にあげるのかという質問に対して、早苗は言葉を詰まらせ、少しの間を置いて苦笑いを浮かべた。つまりは勘弁してくれという意味である。少しばかり下世話な想像も浮かんだが、そこまで追求するのも野暮だと思い、霊夢は質問を打ち切った。ほんの少しばかり眉尻を挙げていた魔理沙が少し気にかかってしまったのもあった。
「で、誰にあげる予定なんだ?」
博麗神社を後にした魔理沙と早苗は、幻想郷をゆらりと揺蕩っていた。日はもう山陰に隠れ、空は燃えるような茜と澄んだ黒の綺麗な二層を成している。一旦守矢神社に帰り、二柱に作り上げた作品を渡した時は、すわ戦争が起こるかといわんばかりの騒ぎ方であり、思わず魔理沙は笑ってしまった。夕食食材がないことに気づき、食材を買いに里へ下りることを決めたのだ。視線の先にいくつかの明かりが見えてくる。里も、その姿を夜に変えていくのだ。誰かに言ったことはなかったが、早苗はこの瞬間がとても好きだった。たぶんそれまで澄ましていた空気たちが、里の明かりで、俄かに活気を持ち始めるからなのかもしれない、
「あー、父と母に」
「ふうん。外のか?」
「はい。あそこが一番紫さんに出会いやすいので、その伝手でこっそり送ってもらおうかと、考えていました……まだ、私のことを覚えているかは解りませんが」
幻想郷に来る際に、別れてきた父親と母親。早苗の中にどんな感情があるのかは魔理沙には判断がつかなかったが、決して悪い感情を抱いてはいないだろう。
燃えるような茜は鳴りをひそめ、今は灰色の雲が、早苗たちの上空を覆っていた。山に囲まれた地域では天候が変わりやすい。頬を撫でる風が少しばかりの棘を帯び始めたことに気づきながら、魔理沙は合点した。
「だから霊夢に言われた時にはお茶濁したのか」
「下手、でしたかね?」
「いんや、大丈夫じゃないか、多分。あいつはそういうところの勘は鈍い気がする」
霊夢には両親がいない。育ての親はいるが、今は遠い距離がある。そんな霊夢の生みの親という話は早苗はもちろんとして、魔理沙もとんと聞いたことがなかった。聞こうともしなかった。引け目の様なものがあるのかもしれないと。早苗の中にも似たものがあったからなのだろう。
「覚えてるさ」
「え?」
「父さんも母さんも、きっと早苗のことは覚えているよ。きっと」
慰めなのか、それとも希望なのか。魔理沙はそう言って先に里へと向かっていく。その後姿を見て、そして早苗はその視線を里の中へと向けた。そこで、一組の親子の姿が目に入った。白い息を吐きながらもしきりに母親に笑顔を向ける子供と、それをみる母親の姿を。
早苗が思ったのは、霊夢のことだ。きっと自分よりも年下であろうあの少女は、親子の温もりを知っているのだろうかと。その考えはもしかしたら傲慢なのかもしれない。しかし、それでも考えられずにはいられなかった。
曰く、博麗の巫女は全てのものに対して中立だと。それは、孤独なのではないだろうか。彼女は、どうして孤独なのだろうか。
不思議な夢を見た。私は博麗の巫女じゃなくて、外の世界ではどこにでもいるような女の子になっていて、一人で家への帰り道を歩いている。私は知っている。この道を進めばこの先には私の家があることを。家に帰れば明かりが点いていて、リビングではかわいい弟と妹が、台所では母さんが私に言葉をかけてくれるの。お帰りなさいって。一緒にお夕飯の手伝いをしていると お父さんが帰ってきて、私たちは皆で食卓を囲むの。
弟と妹が、その日学校でこんなことがあったとか、あんなことがあったと言って、お母さんもお父さんも、そして私も笑いながらその話を聞くの。テストが近くなると少しお母さんが口うるさくなるのが嫌だけれど、それでも嫌いにはならない。とっても暖かいから。
だから私は家路を急ぐ。あの温もりに触れたくて。その途中の公園で、私は見た。自分と同じ顔をした少女がこちらを見ているのを。あれは、あの少女は、私なのだろうか。それとも。
「れいむ、れいむっ」
耳に入る言葉で、霊夢は目を覚ました。すでに魔理沙と早苗の姿は無い。寝ぼけた頭を覚醒させながら、寝る前に帰っていったことを思い出した。声の主である小人、少名針妙丸が炬燵の上で跳ねている。何があったのかと聞くと、鬼が来たと言う。きっと萃香だろうと立ち上がり、すでに台所まで侵入している鬼を討伐しに行く。
早苗がマフラーを編み上げた時の顔が思い浮かぶ。あの時、早苗が言いよどんだ理由は、なんとなくわかる。その優しさが少し嬉しくもあり、嫌でもあった。あの表情を、自分は誰かに向けることが出来るのだろうかと。
「……最近、色々あったからなあ」
大きな異変が続いていたというのもあった。時折自分を覆う虚無感はきっと気疲れなのだろうと。夢の内容は既に忘れてしまっていたが、まだ胸の中には暖かいものと、同時に黒いものが残っている。それを頭の隅に追いやりながら、霊夢は台所の侵入者に声を張り上げるのだった。
「あら、いらっしゃい」
とある日の午後、霊夢は森の人形遣いであるアリス・マーガトロイドの家を訪ねていた。特に何か用があったわけではない。追い返されても仕方がないと思っていたが、存外都会派の妖怪は甘いようで、軽い文句の一つだけで霊夢を迎えてくれた。出された紅茶から立ち上る湯気を見てから、霊夢はアリスに視線を向ける。その手では人形たちの衣装なのだろう、布と針と糸が生き物のように動いている。
「ねえ、アリス」
「なあに?」
「母親って、どう思う?」
ぴたりと、注視していた白い指の動きが止まる。そのまま霊夢が視線を上げた先には、それこそ人形のようにぎぎぎと振り返ったアリスの顔があった。
「……どういう意味?」
「いや、母親がいるってどんな気持ちなのかなあって」
「ああ、そっち。思わず貴女が母親になるのかと思ったわ。びっくりしたじゃあない……しかし、だからそんな珍しい表情してたのね」
「そんなに変だった?」
「なんていうか……疲れているような、怒られるのを待っているような、そんな顔していたわよ」
アリスが窓を見ると、どうやら天気は下り坂らしい。雪が降り始めていた。
「少し疲れてるんじゃない?最近異変が続いていたみたいだし。雪が止むまで休んでいきなさいな。そのために来たんでしょう?」
当代の博麗の巫女には似合わない力ない表情で頷き、霊夢は出された紅茶に口をつける。少し、顔がほころんだことで、アリスも自然笑顔になる。まだ話したいことはあるのだろうが、無理に聞くことはしない。ゆっくりと時間が流れていく中で、霊夢は少しずつ口を開いた。
早苗が誰のために編み物をしていたのか。なんとなくではあるが、霊夢にはわかっていた。一人になった後、ふと考えてしまったのだ。自分の親は、どんな人なのだろうか。生きて、健康に過ごしているのだろうか。親と過ごすというのは、どういう気持ちがわくのだろうか。ただ、霊夢がいくら考えようとも、その問いに対して答えを見つけることはできなかった。どこまで行っても、所詮は推論でしかなかったのだ。
「だから、さ。ちょっと聞いてみたくなったのよ。魔理沙は家庭環境のことをあまり話したくないだろうし、咲夜は館に来る前の記憶がないみたいだし」
「だから私ってわけね」
「そ。悪いとは思ってる。いきなり押しかけちゃったしね」
「構わないわよ。ただ、そうねえ……母親、ねえ」
何もない空間をアリスは見上げ、しばし固まった。それが、短くない付き合いの中で霊夢が知った人形遣いの起草の儀式だった。外の雪はまだ止むことは無く地面を白く染めている。その様子を見て、ふと霊夢は子供の頃を思い出した。育ての親である先代の巫女と、手を繋いで白く染まった道を歩いた記憶がある。だが、いったいどこを歩いた時の記憶だったか。
「姉妹が」
「え?」
「私には、姉妹がいるの。私は末っ子で、姉さんたちは、みんな優しくしてくれたわ。もちろん喧嘩もしたけれど。母さんは、そんな私たちを平等に愛してくれたと思う」
「思う?」
「やっぱり、気持ちは本人にしかわからないじゃない。あの頃から少しは大人になった気もするけれど、私も、愛情とかそういうのは未だにわからないわ。ただ、きっと、愛されていたのだとは思うわ」
「愛されていた、ねえ」
愛されている。母親とはという霊夢の問いには少し違っていたが、それでも納得はできた。だが、アリスでもその感情がわからないという。ならば、自分がわかるはずもないだろう。丁度よく雪が止んだのを窓から見て、霊夢はアリスの家を後にした。またいらっしゃいなといったアリスの、笑顔と困ったときの表情を足して二で割ったような表情を見て、また少し、霊夢は自分の中に暖かいものと黒いものが折り重なるのを感じた。
神社の近くにつく頃には、既に日が暮れようとしていた。恐ろしいほどの真っ赤な空が、逢魔が時の到来を知らせる。ふと、霊夢は空を飛ぶことをやめ、階段を昇って行った。特に理由はない。本当に、なんとなくだった。何段か白く染まった階段を昇っていたところで思い出した。そうだ、あの時先代の巫女に手を握られてこの階段を昇っていたのだと。きっと、自分も愛されていたのだ。そう思ったときに、自然に口から言葉が漏れた。
「母さん」
自分の母は、どんな顔をしているのだろう、どんな声をしているのだろう。そして、自分を愛してくれるのだろうか。
空を見上げると、茜と澄んだ黒が混ざった空に、星が輝き始めている。同じ空の下に、母はいるのだろうか。少し、胸が痛くなった。
さようならあ。
「気をつけて帰れよ」
子供たちの挨拶に魔理沙は手を振って応える。皆の後姿が里の景色に溶け込んだとこで、隣で一緒に手を振っていた上白沢慧音に礼を言われた。今日は霧雨魔法店として、寺子屋の引率手伝いの仕事を行った。里の近くにある森を探検するといった内容だったが、子供たちにはとてもいい体験だったようだ。少しばかり、子供たちの行動力に気疲れもしてしまったが。
「今日は助かったよ。お礼は……」
「ああ、報酬ならいらないぜ。代わりに、そこらで一杯とかどうかな、先生?」
「これは報酬分以上に飲まれてしまいそうだ。まあいい、お付き合いしようじゃないか」
残った仕事をささっと行った二人は、そのまま飲み屋街へと足を向ける。その中でも慧音のお気に入りの店が空いていたので、そこに決めた。奥の個室を頼んでもらい、あいさつ代わりに来た最近流行りの果実酒のグラスをそれぞれに持ち、突き合わせた。
「お疲れ」
「ああ、お疲れだ」
言葉もそこそこに、魔理沙はくいくいと果実酒を飲み干していく。けぷっと可愛らしい音を鳴らしながら、グラスをテーブルに置く。豪快な飲み口ではないのだが、するすると酒の嵩が減っていくのは、見るものによっては魔法に見えるかもしれない。酒の肴は最初は他愛もない会話だったが、そこから慧音の愚痴へと移っていった。目下最近の悩みは、子どもたちの恋愛事情であるらしい。慧音本人も木の股から生まれたわけではないためそのような機微はもちろんわかるのだが、人の恋路に茶々を入れるものは馬に蹴られて地獄に落ちるのが常である。さりとて首を突っ込んでもいい内容ではない。その悩みがあまりにも人間臭くて、思わず魔理沙は笑ってしまった。
魔理沙は、一人で酒を飲むことが好きではない。なんとなくではあるが、酒はやはり自分以外の者も交えて飲むのが楽しいのだと思っている。久しぶりに店で飲んだからだろうか、店の喧騒もあって、自然普段よりも飲む速度が上がっていた。
「……霊夢の奴、どうしてるかな」
「おいおい、私がいるのに、浮気は感心せんな」
「あはは、いや、最近ちょっと考えることがあってさ」
そこで魔理沙は、この前の神社での出来事を慧音に話した。何があったというわけでもない、ただ、早苗が霊夢に気を遣った。ただそれだけの話だ。聞いていても面白いものではないだろう。だが、そんな魔理沙の話を聞く慧音の顔は、正しく教育者のそれであった。一通り魔理沙が語り終えた後も、難しい顔を崩すことは無いままに、酒の追加を多めに頼んだ。酒が届いたところで。魔理沙はその行為が慧音なりの人払いなのだと感じた。
「……博麗の巫女、か。何とも、なあ」
「何がだ?」
「うむん、これは昔からだから、私も疑問に思うことは少なかったが……私が知っている限りでは、博麗の巫女になる者は大体の者が生まれつき強い力を宿していたそうだ」
「んん?まあそりゃあ神職なわけだからな。そうなんじゃないか?」
「つまりだ。博麗の巫女は襲名制なわけだ。力の強い子供を引き取り、厳しい修練を積ませ、そして博麗の秘術を伝える。そうして博麗の巫女は幻想郷の調停者としての役割を持っていくわけだ。まあ、当代の巫女は修行をさぼっているとも聞くが」
「……?なあ、慧音センセイ。私が酔っ払っているからなのかな。さっぱり話が見えてこないんだが」
好奇心の塊のように見られている魔理沙ではあるが、人の話を聞くのは嫌いではなかった。貪欲に物事を吸収していく姿勢がなければ、魔法使いは名乗れないだろう。だからこそ、慧音の次の言葉が気になった。先ほどまで心地よかった店の喧騒が、少し耳障りが悪くなる程度には。
「博麗の巫女は、どこから来る?」
慧音の一言に、魔理沙は鈍くなった頭を回転させる。この一言があるから、慧音は人払いをしたかったのだろう。魔理沙はその問いを今までに一度も考えたことがなかった。否、考えたことはあったのかもしれない。ただ、それをしっかりと考えたことは、それこそ今までに碌に無かったのだ。何故かは、わからなかったが。仕方なく、里からじゃないかと返したが、慧音の眼は鋭いまま、動くことは無い。
「里から巫女たりえる者を見出す。もちろんそれもあるさ。随分と昔だが、この里から博麗の巫女が出たこともある」
「だろう?」
「けれども、だ。もし、その資質を持つ者が幻想郷の中にいなかったら?」
そこで、会話が途切れた。思考の鈍りのせいにはしたいが、慧音の話に対する結論は、どれだけ解釈を広げようとも、魔理沙には二つしか考えられなかった。
「素質を持つ子供が生まれるまで待つか、それとも」
「外の世界から連れてくるかだ」
「……まさか」
あくまでも推測だと慧音は続けたが、見たことも、聞いたことも、ましてや調べようとも思ったことがない霊夢の生みの親。それが上手く繋がってしまう気がした。
「もちろん、育ての親は先代の博麗の巫女が行っていくのだろう。そういう意味では親は存在する。だが生まれとなってくると、話は変わってくる。勿論、これは私の勝手な推察だよ。さっきの質問に対しての考えを述べただけだ。もしかしたら、代々子を生して直系の血族なのかもしれない。ただ、私はそんな話を聞いたことはないし、調べたこともない」
「センセイの力とかで、そういう歴史とかってわかるんじゃあないのか」
「私が編纂や確認ができるのは大まかな部分だけだよ。川べりに立っていれば川の流れはわかるだろうが、底にある石ころ一つ一つまでは見えないだろう?それに個々人の歴史を見ることほど下種なこともないだろうしね。まあ、なんにせよだ」
そこまで言ってから、慧音は頼んでから全く口をつけていなかった果実酒をぐいと飲み干した。仰ぎ下したその顔は、今までの鋭い目つきが幾分下がっていた。
「可哀そうだなあと、私は思うよ。傲慢だけどね」
「可哀そう?」
「正直な話、糞の様な親の下に生まれた子供もいるだろう。事実、いる。だが、子はな、望んでいるんだ。親の愛というものをさ。果たして巫女には、そのような時期があったのか、考えると心配だよ。果たして彼女は、愛されたことを覚えているのかとね」
「それは」
「愛情というものは、本来喜怒哀楽のように内から湧き上がってくるものではないんだ。愛がある、というのは愛されたことがある者が、愛情を記憶しているからなのさ」
「……」
魔理沙の言葉を待たずに、慧音は次々と残っていた酒をあおっていく。そうして、先ほどまでの表情は消え去り、破顔した。差し出されたグラスを受け取り、魔理沙もするすると飲み干す。これが合図なだったのだろう。もう、その話題が出ることは無かった。確かに下種の勘繰りだ。本人がいないところで、複雑な問題を酒の肴にしてしまった。今日のことは内緒にしておこうという言葉に、魔理沙は幾分か救われた気がした。だがそれでも、魔理沙の胸の内には感情が残っていた。
どうして彼女は、孤独なのだろうかと。
年の瀬のある日の朝、森近霖之助は珍しく早起きをして店内の掃除を行っていた。あまりの寒さで目が覚めてしまい、寝ることもかなわないからだ。ならばいっそ日が昇りきるまでは体でも動かしていようと、掃除を開始した次第であった。体が段々と温まってきたころに、ふとこちらに向かってくる人影を見た。馴染みのある影を見て、霖之助は店の中に入る。茶と菓子を持って店内に戻ると、来客は店内にある安楽椅子に揺られていた。
「今日は夜更かしでもしていたのかい、霊夢」
「ん、ちょっと眠れなくて。朝も早いのにごめんなさい」
「別に構わないよ。妹のように思っている女の子が来るんだ。嬉しいと思いこそすれ、迷惑だとは思っていないよ」
それまで寒さと感情で強張っていた霊夢の表情が、ふっと緩んだ。それに霖之助は微笑み返す。穏やかに朝の時間が過ぎていく中で、掃除を終えた霖之助は霊夢に茶を出すと、読書を開始した。子供の頃からそうだ。近くで座っている少女は、どうでもいいことは強気に聞いてくるが、相手を気遣ってしおらしく聞く機会をうかがう少女でもあるのだ。それがわかっていたからこそ、霖之助は普段通りの生活をする。少女が意を決するまで。
「霖之助さんって、親の思い出とか、ありますか?」
思わずきょとんとした表情で霖之助は霊夢を見返した。普段と変わらない、いっそ不愛想ともとれる表情を見ながらも、霊夢のその瞳がかすかに揺れているのを感じた。たっぷりとした間が流れる。本を閉じ、ふうと大きな息を吐いてから、霖之助は霊夢に向き直った。
「親、か。たくさんあるよ。拾ってもらった思い出から。仕事を教えてもらった。人の世界に住む術を授けてもらった。今でも、感謝してるよ」
「いや、そうじゃなくて、ああ、そういうことでもあるんですけど……」
「ははは、ごめん。ちょっとからかいたくなってね。気を悪くしてしまったのなら謝るよ。霊夢が聞きたいのは解ってる、僕の生みの親のことだろう」
「いやまぁその……」
「正直、僕は生みの親の顔を覚えていないんだ。こう見えても普通の人間よりは十二分に長生きをしている。記憶が風化するとかじゃあないんだ。単純に、僕が僕として意識を持ち始めた瞬間から、親というのはいなかったんだ……別に気は遣わなくていい。何となく霊夢も察していただろう?」
「なんとなく、ですけど。霖之助さんからそういう話が出たことは無かったし」
「だから、霊夢の質問には答えられないかもしれない。勿論、書物と生活で得た限りでの一般常識的なものならば回答できるがね。でも、欲しいものはそうじゃあないんだろう?」
「霖之助さんは、その、生みの親を憎んだり、怒ったりはしなかったんですか」
「うむん、そう言われると、まだ餓鬼の頃はそういう感情もあったのかもしれないね。こんな髪の色をしているから、やれ異人の子だ化け物だ、なんて呼ばれていたこともあった。結局そうなると集落になんかいられない。物盗りをして、泥の水を啜って、時には出奔してまで住む場所を変えたこともあった」
「そんなこと、してたんですか」
「意外かい?子供の頃は結構な『悪たれ』だったのさ。生きるためとはいえね。あの頃は常に苛ついていた。遠くから見る里の親子を見るたびに、どうして自分はこんな思いをしなくちゃいけないんだ。民家の囲炉裏火を見るたびに、どうして自分には暖かいところで寝られないのか。どうして自分は幸せじゃあないのかってね。探求欲が出てからはそんなこともなくなったけれど。まあ、恨みはしていたんじゃあないかな」
「なんていうか、随分とさっぱりしてますね」
「どうでもよくなったんだろう。それよりも、色々なことが知りたいという気持ちが勝ったんだろうね。おかげ様で、一国一城の主をやらせてもらっているわけだ。そして僕は今の結果に概ね満足している。もし今生みの親というものに会ったとしても、何の感慨もわかないだろう。ただ」
「ただ?」
「『どうして僕を置いていったのか』と聞いてみたい気持ちはあるかもなあ」
一通りの話を聞いた後、霊夢は香霖堂を後にした。帰り際に霖之助に体調を心配されたが、確かに体調がよろしくないのかもしれない。感情的な部分ではあるのだろうが、最近ではそれが身体面にまで影響を及ぼしていることを自覚していた。
帰路の最中に、霊夢は霖之助の最後の言葉を思い出していた。霊夢も、もし生みの親に合うことが出来るのならば、聞いてみたいことがあった。
次に思い浮かんだのが、育ての親である先代の博麗の巫女だった。先代の巫女は、育ててもらった霊夢自身から見ても非常に素晴らしい人物だった。厳しいところも勿論あったが、おおよそ親が子に向ける愛情というものの大半を、しっかりと受けていたように思える。ただ、だからこそ、一度芽生えた感情が消えることなく自分の中で蠢いているのだ。
自分はなぜ、親の元を離れなくてはならなかったのか。先代の巫女に、まだ物心がつくかつかないかの時分に聞いた覚えがある。何と答えてくれたかは忘れてしまったが、彼女は答えた後に少し困ったように笑っていた。今ならば、少しわかる気がする。あの笑顔は、困っていたのではない。きっと、哀しかったのだと。
神社に戻った霊夢は、縁側に来客がいることに気が付いた。縁側で勝手に茶を飲んでいるその姿を見て思わず怒鳴りたくなってしまったが、すんでのところで怒りをため息に変えることが出来た。
「すまんな。勝手に上がらせてもらったぜ」
「……こんな寒い日の朝も早くから、何の用かしら。大した用じゃないならさっさと帰ってほしいんだけど」
魔理沙が博麗神社を訪れた理由は、単純に心配からであった。先日慧音と話したことがどうにも頭から離れなかったのだ。その心配の中には本人がいない処で話題にしてしまったということに対する贖罪も含まれていた。そんなことを心の中で思いながら魔理沙は霊夢の表情を見て、その心配が当たっていたことを確信した。
「なあ霊夢、お前もしかして風邪でも引いてるんじゃあないか?なんかいつもよりも顔が白いぜ」
「……ああ、確かにちょっと風邪っぽいかも」
霊夢の額に手を当てる。果たして、基本体温が高めの魔理沙でもはっきりと感じることが出来るほどに霊夢の身体は熱を持っているようだった。霊夢を炬燵に当たらせ、魔理沙は急いで布団の用意をした。勝手知ったる博麗神社である。いつもならば酒飲みの鬼なりやかましいほどに元気な小人なり守護ると言ってはばからない狛犬らしきものがいるものだが、どうやらこういう時に限っていないらしい。ゆっくり休むことが出来るという点では好都合でもあったが。
どうやら調子の悪さを理解したのであろう、段々と元気がなくなっていく霊夢を手早く寝巻に着替えさせると、布団に叩き込んだ。
「なんかして欲しいこととかあるか?今日の霧雨魔法店は出張出血大サアビスだぜ」
「……じゃあ、治るまで一緒にいて」
思いもがけない一言に、思わずおどけていた仮面が取れてしまった。先ほどよりも上気してきたその顔を見て、そこにいたのが博麗の巫女ではなく風邪で弱った親友の少女だったことに魔理沙は破願した。
「わかったわかった。霊夢が治るまで手厚く看病してやるぜ。私の本気の看病は思わず後で代金を払いたくなるほどだぞ。期待するといい」
「ん。期待しておく……ごめんなさい、寝るわ。お休み」
「ああ、お休み」
す、と霊夢が手を差し出してきた。求めているのだ。魔理沙がその手のひらを優しく握り返すと、その力は段々と弱まっていき、代わりに可愛らしい寝息が聞こえ始める。ふうと一息をついたものの、魔理沙の心の中から心配が消えることは無かった。魔理沙が視線を外す。殺風景な和室に、時計が針を刻む音。ただそれだけが、この場の構成物質だった。
外見に比べると随分と頑丈な霊夢ではあるが、魔理沙が思い返した中でも体調を崩したことは何度かあった。看病をしたこともあった。だが、この場は余りにも、寂しすぎた。自分はまだ恵まれているのだろう。魔理沙は思う。魔法の森はたしかに薄気味が悪い場所ではあるが、寂しくはない。魔道に身を置く者としての感性なのかもしれないが。それに、自分で決めたことだから、耐えることもできる。だが、目の前で静かに寝息を立てている少女はどうだったのだろうか。再び魔理沙は周りを見渡した。時計が時を刻む音を鳴らしていなければ時が止まっていると錯覚を覚えてしまうほどの静謐が魔理沙に与えた感情は、恐怖だった。
ゆっくりと握っていた手を解く。魔理沙は離した霊夢の手を両手で優しく包みなおし、静かに布団の中へ戻した。面倒を見るという気持ちに偽りはない。とりあえず着替えや水も必要だろうと、魔理沙は部屋を離れる。
そして霊夢の体調は、それから十日が経った後にも、快復することは無かった。
二つの夢を見た。一つは、お互いに手を繋ぐ私と同じ衣装の親子、なのだろうと思う。見るたびに場所は変わるのだけれど、子どもは、とても楽しそうに顔を動かしては母親に話しかける。話しかけられた親も、多分、笑っているのだろう顔を子どもに見せる。私からは、二人がどんな表情を浮かべているかはわからないが、笑顔を浮かべていることは、感じることが出来た。
そんな二人を、私は少し離れたところから眺めている。私は、そんな二人の背中を見て、暖かいものに包まれるのだ。
それが、私が見た夢の一つ。
もう一つの夢は、きっと外の世界なのだろう。金属の蛇が走る道に向かい合って、私は一組の親子と対峙している。子の方は、服装こそ違えど、私と全く同じ顔の少女だった。もしかしたら、それは私なのかもしれない。隣には少女よりも幾分か背の高い女性がいる。その顔が、なぜか真正面を向ているはずなのに、黒に塗りつぶされて見えなくて。私は声を上げようとして、手を引かれる。
振り向くと、小さな私が手を引っ張って、とても必死な表情をしている。何かを伝えたいことはわかる。けれど、私の耳には届かない。小さな私は、まるで私に失望したかのように、その手を放してしまう。見ると、親子の姿も遠くになってしまう。
たくさんの人が、妖怪が、私から離れていく。動きたくても足がいうことを聞かなくて、私は背を向けてしまう皆の姿を、ただ眺めることしかできなくて。そこで目が覚めるのだ。
どれが、私なのだろうか。私はあそこに、いたのだろうか。
私は、何を言う気だったのだろうか。わからない。わからないの。
「霊夢は、大丈夫なのか?」
人里に新しくできた茶屋の個室で、魔理沙は先ほどまで霊夢を見ていた者に問いかけた。霊夢が調子を崩してから、そろそろ半月が経とうとしている。その間、魔理沙は甲斐甲斐しく霊夢の面倒を見ていた。約束をした手前、と霊夢には言ったが、心配のほうが強かった。段々と熱も引いていったが、魔理沙の中では逆に不安が大きくなっていった。治りが遅かった、というのもあったが、それ以外にも、動きが鈍かったのだ。それが魔理沙の感じた不安原因の一つだった。まるで、人形のように。ぼうっとすることも多かった気がする。
勿論、まだ復調しきっていないだけなのかもしれない。むしろその可能性が高いだろう。そうして、竹林の薬師を呼んだのだ。霊夢のためと言ってはいるが、自身の不安を解消するために呼んだことに、若干の後ろめたさを感じずにはいられなかった。
茶屋の個室には、窓がついている。そこに映る雪景色に視線を向けながら魔理沙に問われた竹林の薬師、八意永琳は出されていた珈琲で喉を潤した。
「私は別にカウンセラーじゃないのだけれど。とりあえず、今日明日死ぬようなものじゃないから安心しなさい。これからは時々優曇華も向かわせるわ」
「そう、か」
「……もしかしたら、少し気疲れしているのかもしれないわね、彼女。最近は大きな異変が続いたしねえ。ちょっと休養を取ったほうがいいとも思うわ。身体にも、心にも、ね」
そう言って永琳は再び珈琲に口をつける。視線を向けている魔理沙の表情はまだ晴れやかなものではなかった。魔理沙も倣って己の珈琲に口をつける。永琳のついでに同じものを頼んでしまったが、味が良かったのが救いだった。
「何をそんなに不安になっているの」
永琳の言葉に、魔理沙はテーブルに向けていた視線を永琳に向けた。そんな風に見えるか、という魔理沙の問いに、永琳は頷いた。もしかしたらあなたのほうが重症なのかもしれないという言葉が、冗談なのか本意なのかは魔理沙には理解が出来なかった。
入るときに見かけた柱時計が針を鳴らす。ちびりちびりとカップに口をつけながら、魔理沙は空いた片方の人差し指でテーブルを何度もたたいた。はたから見れば不安な子供のように、それは苛ついているようにも見えたかもしれない。不安げな表情のまま珈琲を飲み干し、口を開いた。
「子供の頃から、付き合いがあるんだ。なんだかさ、なんていうか。いつも元気だったんだよ。アイツ。そりゃあ風邪を引いたり熱出したり、なんか妖怪に祟られたりもしたけれどさ、今回もそう思いたいんだ」
「思い、たい?」
「なんかさ、今までのとは違う気がするんだ。なあ永琳、本当に何でもないのか、霊夢は。なんか、違う感じがするんだよ……」
そこまで言って、魔理沙は力なく椅子に背を預けた。依存度が高すぎる気もあるが、魔理沙の言ったことは、間違ってはいなかった。同情の念が少しばかり永琳の眉を動かしたが、それだけだった。言いたいことはもちろんあるのだが、この場で言うことではないだろう、と。だが魔理沙は未だに何かを訴えるように永琳の顔を覗き込む。
「……後で説明だけしてあげるわ。勿論、霊夢が復調したあとに、本人の同意を得たうえでね。これで、いいかしら。あと貴女のあの子に対する依存の高さもね。すぐに命に関わるようなものではないということだけは、約束できるわ。信じて」
何かがあることは、今の鈍っている魔理沙でも理解をすることが出来た。本当ならば、今この場で永琳を押し倒してでも聞きたかったが、約束なのだ。信じると魔理沙が返し、そこで初めて、永琳は魔理沙に笑顔を向けるのだった。
そうして永琳を竹林へと送り、魔理沙は博麗神社に向かっていた。今日は永琳の弟子である薬売りが看病しているようだったが、ここ数日は朝から晩まで毎日通っていたのだ。心配するなということが無理だと考えながら、箒にまたがり速度を上げる。月が昇り始めた薄闇の頃に果たしてたどり着いた博麗神社には、いくらかの来客がいた。魔理沙は手近な薬売りの兎に近寄り、説明を求める。話を聞くと、どうやらメイドに庭師に現人神、人形遣いまで来ているようだ。
「なんやかんやで皆心配してるんでしょう」
月の兎、鈴仙・優曇華院・イナバは魔理沙にそう返した。薄紫の髪が薄闇を取り込み、銀に近くなっている。鈴仙自身は気が付いていないかもしれないが、魔理沙はその髪色を見て、先ほどまで一緒に話していた永琳のことをふと思い出してしまった。
鈴仙とともに寝室へと向かった魔理沙は、布団から身を起こしている霊夢に挨拶をした。きっと何もせずに寝ていろとでもメイド長に言われたのだろう、ぼうとした表情のまま、上半身を起こしている。魔理沙が朝見た時に比べても、あまり変わっていないように思える。段々と快復に向かっているのだろうか。鈴仙は霊夢の瞼を軽く開いてその赤い瞳で覗き込み、数秒の後に静かに顔を離した。大丈夫でしょうという言葉を魔理沙につけて。
「これ以上ここにいても邪魔なだけよ。私は残るから、アンタは台所にいる人間たちの手伝いでもしてきなさい」
その言葉を聞いて、魔理沙は安心したようにその場を離れた。遠くなっていく声が、どことなく弾んでいるようにも聞こえる。くすりと鈴仙は笑った後に、再び霊夢に向き直った。
「愛されているわね」
「何だっていいわよ。おゆはんを作らずにすむならね」
霊夢がついた悪態に鈴仙はくすりと笑う。可笑しかったこともあるが、霊夢を心配させまいと笑ったことに鈴仙本人も気が付いていなかった。しばらくの後に診察終了と鈴仙が言ったところで、霊夢は布団に倒れこんでしまった。疲れさせてしまったのだろう。鈴仙は布団をかぶせる。すわ何事かと駆け込んできた魔理沙を宥めながら、鈴仙も寝室を後にした。魔理沙の背中を押しながら、鈴仙は一人考える。もしかしたら、長引くかもしれない、と。
その日の深夜のことだった。夜も更けてきて熱が上がってきたのだろう、微かな寝苦しさを見せている霊夢の横に、鈴仙は控えていた。師匠である永琳からは明日の仕事は休むように言われている。別段そこまで気を遣われなくても、月にいた頃には何度も徹夜での行軍演習を行っていたのだ、一日二日の不寝番ぐらいではどうということもなかったが、有りがたく休みを頂いておくことにした。
雨戸は閉めてあるために外の様子をうかがい知ることは出来なかいが、雪が降っていることだけはわかっていた。しんしんと、『雪が音を吸収する音』が感じられるのだ。明日は雪かきも手伝う必要もあるのかもしれない。普段気を遣いながら薬を売ることより、雪かきのほうがよっぽど自分仕事だと、霊夢起こさぬようにくくくと笑うと、寝苦しそうにしている霊夢に視線を向ける。その顔は、普段の無表情か激情か、という顔ばかりを見てきた鈴仙にとって、弱弱しく息を荒げている少女が、異変の時に見せるいっそ傲慢とまで思える笑顔を浮かべるのだと、思わずふんと鼻から息が出ていた。
今、神社には自分と魔理沙以外には来客はいない。大体の者には話し合いで、それでも話を聞かぬモノには弾幕勝負で。そうして、来客を返すことには成功した。
この一連の流れの中、鈴仙は正直に羨ましいと思った。この神社に来た者たちは、人妖問わず、『博麗の巫女』ではなく、『博麗霊夢』を心配しに来ていたのだ。それはもしかしたらあたり前なことなのかもしれない。だがそれでも、鈴仙にはその行動が、当てつけかと思えるほどに羨ましく見たのだ。目の前でうなされている少女に感じる羨望が、だが鈴仙もそれに救われているのだと自答する。だからこそここにいるのだと。
先ほど霊夢の波長を診たときに感じたモノを見て、長引くという予測は立てていた。霊夢の体調そのものは安定しているが、そこから、別の波がずれだしている。博麗の力が激しい波を出しているのだ、まるで互いが反発するように。彼女の体の中は激しく波立っていた。だからこそ自分がいるのだと、気づかぬうちに拳を握っていた。
きいと床板がしなる音に気が付き鈴仙は音の鳴った方を見る。魔理沙が入ってよいのかと身振りで伝えてきた。その姿が普段の魔理沙から見ることは無いほどに静かに、弱弱しく行っているのが滑稽で、鈴仙は思わず吹き出しそうになってしまった。元々夕方頃に行った弾幕勝負が喧しかったので、霊夢の身体に負担をかけぬ範囲で波長をいじっていた。多少の声なら気にせずに眠ることが出来るようになっているので問題ないと告げると、恐る恐るといった体で霊夢を挟んで鈴仙の向かいに腰かけた。
魔理沙が入ってはきたものの、部屋の静けさは変わらない。行燈の微かな明かりが、魔理沙の横顔を照らす。その顔が何の表情も浮かべていないことに鈴仙は気づいた。
「やっぱり心配?」
「……そりゃあ心配してなかったらこの場にはいないからな」
「そういや、付き合い長いんだっけ」
魔理沙は首肯で返すと、ぽつりぽつりと話を始める。お互いに、子供の頃から遊んでいたこと。天才肌な霊夢を羨ましがって喧嘩をしたこと、歌を歌って遊んだこと。看病という目的こそあれ、何もしないでいる時間というものが辛いことを鈴仙は軍人時代に知っている。他人の話を、しかも地上人の話を聞きたいと思いながら聞いているという事実が、どこか鈴仙には楽しく思えた。
幾つかのことを話したところで、魔理沙は一旦話を打ち切る。それまで話していて当時を思い出したのだろう、ころころと変わっていた表情から、途端に表情がなくなった。
「今でも思うのさ」
唐突な魔理沙の切り出しに、何をと鈴仙は返す。俯いたせいか行燈の光から外れた顔は、夜の闇で真っ黒に染まっている。
「沢山の奴らと知り合って、これだけ長い時間が過ぎてるのに、それでもコイツは、霊夢は、きっと孤独なんだ」
「……それはアンタの考え過ぎじゃないかしら。現にアンタがいるじゃあない」
「お前、親はいるか?」
「流石に試験管ベイビーじゃあ、ってアンタらには解らんか。そりゃあいるわよ。もう輪郭くらいしか思い出せないけれど」
「じゃあさ、親に愛されてもらったことはあるか。愛情を貰ったって思うことは」
何を聞きたいのかと鈴仙は口を開こうとしたが、それは霊夢の寝言で妨げられた。
「……ぐ、うっ」
苦し気に放つ霊夢の言葉を聞いて、鈴仙は瞬時に波長を眺めた。先ほど見ていた時よりも激しく波長が波を打っている。霊夢本体の波と、博麗の波が、激しく反発し合っている。見たことのない波の動きだった。だが、わかる。状況は先ほどよりも悪いということを。鈴仙ははっきりとした声で魔理沙に部屋を離れ、永琳を呼んでくるように告げた。
慌ただしく駆けていく魔理沙の足音を背後に聞きながら、鈴仙は霊夢の異変を目に捉えた。体が発光しているのだ。
「嘘でしょ、何よこれ」
意識があるようには見えない。鈴仙は霊夢の肩を掴んだ。その瞬間だった。鈴仙は己の手が熱い何かに貫かれたのを感じたのだ。慌てて己が手を見る。貫かれたわけではない。しかし、その掌は真っ赤に腫れていた。そして、なによりも鈴仙を驚かせたのは、その掌が薄く『透けていた』のだ。
霊夢の意識は戻らない、しかしその身体はふわりと浮き上がると、身体から漏れ出ていた光が、少しずつではあるが確実にその輝きを増していた。
「博麗の力……」
曰く、退魔の力。曰く、破邪の力。この力は、そんな『生易しいもの』ではないと鈴仙は気づいた。掌からの痺れは消えることが無く、むしろ激しくなっている。喉の奥がひっつき、息が上手く吸えない感覚。短くない生の中で何度か体験した現象である。そこには例外なく、恐怖の感情がついていた。
霊夢の身体から溢れる光はさらに輝きを増していく。進むか、退くか。一瞬の躊躇が鈴仙に防御の姿勢を取らせた。直後に光が弾け、鈴仙は前後不覚のままに足場が無くなるのを感じた。背中の衝撃と、先程掌に感じた焼けるような衝撃。そして自分の顔にかかる雪で、鈴仙は自分が雨戸を破り境内まで吹き飛ばされたことを知った。
「霊夢っ」
今受けた衝撃の影響か、それともあの光の影響か、焦点が合わずに霞む目を叱咤しながら飛び起き、寝室へと再び駆け寄る。きゅうと軽くしなった縁側の床の音が、今この瞬間が現実なのだと、いやに強く耳に残る。
「霊夢っ!くそっ、目が……!」
三度呼び掛けたところで、鈴仙は時計の音以外のものを察知した。みしりととした音。何者かが、畳の上にいることを感知したのだ。鈴仙の経験は、今更気配を殺すことよりも速度が必要だと一瞬で判断を下した。文字通りに寝室へと飛び込む。そこには、先程のことなどまるで何もなかったかのように眠る霊夢の姿があった。
「動くなっ!」
鈴仙は指先に霊力を込めたまま、霊夢ともう一つの人影に歩み寄る。眠る霊夢のその傍らに、何かがいたのだ。段々と近づいていく中で、鈴仙はふと違和感を覚えた。霊夢の横にいた何かは、少女だったのだ。
年の頃は、十もいかないだろう。五か六か、といったところに見える。眠る霊夢の布団にしがみつき、顔を俯かせているため、その表情を見ることは出来なかったが、艶やかな黒髪が似ていたのだ。そして、波長も。
「貴女」
鈴仙は目に意識を集中させて霊夢の波長を診た。先程まで反発しあっていた波が、凪が訪れたように治まっている。そのまま、視線をもう一人に向ける。嫌な、予感がした。
何かを感じたのだろうか、少女は弾かれたように顔を上げた。少女の表情は、鈴仙が感じていたものと何ら変わりが無かった。鈴仙は見たことが無かったが、きっとそうなのだろう。
少女は、幼い頃の霊夢と全く変わらぬ顔をしていたのだった。
博麗の巫女が長く不調が続いている。その報は主に霊夢と面識のある者までに留められた。妖怪たちは言わずもがな、面識のある人間たちでも、博麗の巫女という存在がどれほど幻想郷に影響を与えているか、わざわざ進んで火種をばら撒く者もいなかった。今は博麗神社は関係者以外立ち入り禁止の措置を取られている。
「すごいわね。まるで人間と変わらない」
あの雪の夜が明けた次の日。息せき切って駆け込んできた魔理沙と、それから少し遅れてやってきた鈴仙から事の始終を聞かされた永琳は、件の少女をじっと見据えた。簡単な触診を終えて異常なしと告げる。どちらかといえば異常が見受けられるのはもう一方なのだが、その巫女はぽかんとしながら診察を受ける少女の姿を眺めていた。
「霊夢、こちらへ座りなさい」
力なくふらふらと背もたれのない丸椅子に座る。覇気の感じられない動きではあったが、まだ視線だけはこちらを向いていることが、永琳にとっては幸いではあった。
単純な体調不良。後日に精密検査を行うことにはなったが、疲労から来ているものであると永琳は霊夢に説明をした。そこに嘘は含まれていない。霊夢は自身の診断結果には然程興味がないようだったが、魔理沙が少女を連れて診察室を離れると、その目つきが鋭くなった。
「で、八意先生から見てあの子は何だと思うの?」
「何だも何も、貴女ならわかるでしょう?」
「……なんとなくだけどね。体そのものは動くんだけど、上手く力が出ないし、あの子から昔の私と似たようなものを感じるし」
「きっと、人型を為すときに子供の頃の貴女をモデル、ああ原型にしたんでしょうね。何故子どもの姿で現れたかについては、こちらでも調べていきましょう」
「ありがとう……ああ、ごめんなさい。ありがとうございます」
「いいわよ別に言葉遣いくらい。そんなことよりも改めて説明するわね。多分貴女の身体は特に病的な異常は見受けられないわ。けれども、まあ……言わなくてもわかるわね。しばらくは霊的なものはきっと行えないし、しない方がいい。去年は異変続きで大変だったんでしょう?暫くの間はのんびり休養でもしていなさいな」
「ええ、そうさせてもらうわ。まだ体も重いしね、と……」
そういえばと、診察室の扉に手をかけた霊夢を永琳は呼び止めた。まだ何かあるのかと心底面倒臭そうな表情で霊夢は返事をする。
「あの子の名前は決めてあげたの?」
霊夢は返事代わりに大きく脱力して溜息を吐き、診察室を後にした。
ある日、紅魔館のメイドである十六夜咲夜は博麗神社へ足を延ばしていた。主であるレミリア・スカーレットから霊夢の様子を見て来いと言われたからである。ただ、その言葉がなくても最近は見舞いがてらによく顔を出すようになっていた。それとは別に、もう一つ原因がある。
咲夜が博麗神社の境内に降り立つと、その主たる原因は、元気に縁側の掃除を中止してこちらへとやってきた。咲夜の腹あたりまでの身長しかない少女は、その長い黒髪を翻すほど勢いよく、元気にこちらに挨拶をした。
こんにちは、さくやさま!
「はい、こんにちは。お掃除中で悪いのだけれど、霊夢はいるかしら?」
少女はちょっと待ってくださいと言うやいなや、箒とともに生活の場である離れへと向かっていった。かか様という言葉を最後につけながら。妖精メイド達とは違い、とたとたと廊下を走るその姿に、目を細めた。
霊夢が謎の不調から復調したとき、その傍らにはすでに少女がいたらしい。咲夜自身はその場に居合わせていなかったので想像しかできなかった。隠し子、ではないだろう。となると妖怪化生の類か、とも思ったが、そこまで考えたところで咲夜はその考えを思考の枠内から放り投げた。どうでもいいか、と思ったのだ。
年明けから既に二月以上の時間が経っており、ここ最近は穏やかな天気が続いている。寒の戻りなどがなければよいなあと禿げた木たちを見て咲夜は思う。五分も経たぬうちに、少女はかか様と手を繋いでこちらへとやってきた。
かかさま、かかさまっ、さくやさまですよっ。
繋いだ手をぶんぶんと振りながら、かか様、博麗霊夢は力ない笑顔のままに、咲夜を見据えた。その姿を見て、咲夜はくすくすと笑いながら持ってきた紙箱を霊夢の前に掲げて見せた。
「お茶菓子でもいかがかしら、と思いまして。かか様」
「……はあ、ま、お上がんなさいな。アンタは掃除を続けなさい」
はあいと返事を返しつつ、少女はまたも箒を持って境内に向かっていた。境内を見ると、先日降った雪だろう。地面を白く覆っているそれを少女が楽しそうに掃いていた。鼻歌交じりだからか、所々雑になっている部分もあるが、ご愛敬だろう。少女の後姿が見えなくなってから、霊夢は咲夜を居間へと案内した。
咲夜が居間についた時には、既に湯呑には茶が注がれていた。注いだであろう本人は、炬燵に入ってまったりとしている。その表情がなんともまあ気の抜けたもので、咲夜はにやにやとしながら、紙袋から取り出した洋菓子たちを並べていった。今日はマドレーヌ。量が作れるということと作りやすさがポイントであり、またジャムなどを別途に用意すれば、味の種類に困ることもない。
霊夢が用意した大皿にマドレーヌが所狭しと並んでいく。横にはジャムの入った小瓶まで完備ときたものだ。実際、霊夢と咲夜の二人では食べきれないだろう。
「残りは娘さんにあげなさいな」
「だーかーらあ、娘じゃないっつーの。気が付いたら隣にいただけですー」
「むくれないむくれない。で、調子はどうなの?」
「ん、まあ日常生活に支障は無いわよ。いたって健康」
「なら、あの子に掃除を押し付けなくてもいいじゃないかしら?」
「あそこの掃除は、あの子の担当。必要以上に甘やかす気はないわよ」
必要以上、ということはそれ相応には優しい態度をとっている時があるのかと、自分で持ってきたマドレーヌの欠片を咥えながら咲夜は脳内で一人ごちる。霊夢は豪快にマドレーヌを齧ると、もぐもぐと頬を膨らませる。ごっくんという音とともに嚥下した霊夢は、茶で口を湿らせると一言、呟いた。
「多分、あの子は昔の私よ」
「私って……子供の頃の霊夢ってこと?」
「見た目はね。博麗の力が子ども時代の私の姿で現れている」
近い予想はしていたが、いざ本人の口から言われると存外ショックがでかいのだと、咲夜はこの時感じた。なんだかねえ、と息を吐いて、霊夢は言葉を続ける
「阿求のところにある古い蔵書を読んだのよ。片っ端からね。博麗のことが載っているモノもしっかりと残っていたわ。色々とやんややんや書いてあったみたいだけど、要約すると、以前の博麗の巫女にも、今回の私のような症状が出た記録があった」
「それで?」
「症状は様々だったみたい。例えば気がおかしくなるとか、性格が変わるとか、急に体つきが変わるとか、いきなり消えるっていうのもあったわね。あとは、自分の分身が現れたりとか……たぶん私に出ている症状はそれだと思う」
「原因は?」
「アンタが質問ばっかりなんて珍しいわね。なんでも、博麗の力ってのは普通の人間には扱えない代物なんだってさ。で、上手く扱っているうちでも、力の均衡が急に崩れると今回みたいなことが起きちゃうみたい」
「それって……」
「多分欠陥品なんでしょ。普通の力じゃないんだから神降ろしの練習なんかもしたんだなあとしっくり来ていたところよ」
「じゃあ、あの子は」
そう言って咲夜は掃除をしているであろう少女の顔を思い出す。霊夢のおさがりの巫女服を着ながら雪かきを楽しそうにする少女は、見た子がない咲夜にもわかるほどに、あまりにも、霊夢に似すぎていた。まるで、本当に二つに分かれてしまったように。
「だから、あの子確かに子供の頃の私でもあるんだけど、博麗の力そのものに近い存在なんだと思う。ああ、いや、これはほぼ確信だけれど」
「どうしてそう思うの?」
咲夜のその言葉に対して、霊夢は炬燵の中から右手を抜き出す。その手の中には陰陽玉が握られている。時には相手を追いかけ、時には込められた霊力で大きくなって相手を押しつぶす。霊夢を代表する妖怪退治道具の一つだ。霊夢は咲夜の視線がその陰陽玉に移ったことを確認してから、自分の中にあるありったけの霊力を陰陽玉に込める。霊夢から力を込められた陰陽玉は、その手を離れふわふわと咲夜の胸元まで飛んでいき、ごとりと落ちた。
「それが、今の私の全力よ」
「……嘘でしょう」
「まあまだ札と針とかは私自身の力でぶん投げられるからましなんだけれどね。それでも威力は弱まっている。確認もしたわ。はあ、しばらくは体術でも鍛えなおす必要があるかしらね」
「霊夢っ」
咲夜自身も、まさかここまでの大声が出るとは思ってもいなかった。一瞬面を食らったような表情を浮かべていた霊夢だったが、すぐに平素の顔に戻るとどうしたのかと咲夜に尋ねた。その表情の変遷が、咲夜には信じられなかった。なんというか、大人になりすぎている。そのように感じられた。
「戻る方法は、あるの?」
もっともな疑問を咲夜は霊夢に投げかける。失礼は承知で聞いていた。一番に来たのは、心配だった。最初こそ敵対したが、別に今もそうではない。会えば喧嘩もするし、宴会もする。そんな関係なのだ。心配しないわけがなかった。今しがた出した言葉が、あまりにも馬鹿らしい質問だということを理解できないほどには。当たり前だ。もし戻る方法があれば、とっくに戻っているはずなのだから。
「さあ、わからないわ。ただ、時期が来るか満足するか、あとはまあ……勝手にあの子が私の中に戻ってくれるわよ。わからないけれど、そんな気がする」
「はあ、中々悠長ね」
「なってしまったものはしょうがないわ。今はこの状況を最大限利用させてもらいましょう。幸いあの子、よく言うこと聞いてくれるしね……」
その言葉が終わるや否や、廊下をとたとたと走る音が聞こえてくる。元気よく障子戸を開いた少女は、真っ赤な顔をくしゃくしゃにしながら炬燵に足を入れた。そのくしゃくしゃ顔が、のほほんと伸びる。そして、天板の上にずらりと並んでいるマドレーヌたちを見ると、まるで魔法を見せられた里の子どもたちと同じような表情で、ほわあと息を漏らしていた。そこで少女は初めて、掃除を終えたことを霊夢に告げる。ご苦労様という呆れた声の霊夢の突っ込みに、咲夜は思わず笑ってしまった。
それから一月程経った後に、咲夜は再び博麗神社を訪れていた。階段を昇りきったところで、風呂敷を片手に持つ霊夢と、嬉しそうにその手を握る少女の姿が目に入った。元気に挨拶をしてくる少女の頭を撫でながら、何かあるのかと咲夜が尋ねると、霊夢はなんとも言えない、あえて言うのならば困惑した表情を浮かべながら答える。どうやら魔法の森で桜の木が見つかったらしい。瘴気の影響なのだろうか、満開になっているとも。
「そんな話をこの子が魔理沙から聞いちゃってね。花見がてらにピクニックってワケ」
「なるほど、だから嬉しそうなのね……何を持っているの?」
「『ビデヲカメラ』とかいうものらしいわ。魔理沙が霖之助さんのところから拝借して、河童のところで直してくれたの。ブン屋の持っているのと違って、ああ、ええと、なんて言えばいいのかしら……そう、思い出を保存してくれるのよ」
「思い出作りに?」
「私は別にいらないと思うんだけどねえ、この子が、ね」
咲夜は、いまだに頭を撫でられている少女に目を向ける。とてもワクワクしているのが、身体から漏れ出ている。それほどまでかと苦笑したところで霊夢に視線を戻した。霊夢の表情の正体が、なんとなくわかったような気がした。霊夢は、笑っていたのだ。困りながらも笑っていた。そんな咲夜の視線を感じてか、今度は霊夢が咲夜に質問を投げかけた。
「ピクニックってどうやればいいんだっけ……?」
その言葉を聞いて、咲夜はなるほどと得心した。この巫女、人妖入り混じりの宴会ならば何度も経験があるくせに、子どものような少女とどうやって花見を楽しむか。それがわかっていなかった。
「私も。昔行ったきりだからさあ。わからないのよ。詳しく覚えていないから。で、咲夜さん。何か妙案があったりしない?」
霊夢の手鞭を見る限りでは、持っている風呂敷を敷いて、魔法の森の桜を肴にしながら風呂敷の中に包まれている昼食でも取る気なのだろう。そんなもので、十分ではないだろうか。別にそれだけじゃない。他にも面白そうなことが起こったり、知り合いに出会うこともあるかもしれない。そうして、いろいろと膨らんでいくものだと咲夜は思っている。実際、紅魔館の主な住人たちでピクニックに行こうものなら、何も起きないわけがない。何をどうすればいいと言われても、明瞭な返答を返すことは無理だと咲夜は悟った。霊夢の肩に手をポンと置き、ウインクを見せる。「なるようになるわよ」と言葉を添えて。
文句の一つでも飛んでくるかもと咲夜は心の中で身構えていたが、どうやらその心配はなかったらしい。霊夢は綺麗な笑顔で咲夜に礼を返すと、先に階段を下って行った。下りながら、咲夜の後ろでぽかんとしている少女に声をかける。
「レイ、おいて行くわよ」
その言葉が、レイと呼ばれた少女の耳朶にはしっかりと最優先の情報として届いたのだろう。さくや様、すいませんと言い残し逃げる兎もかくやという速度で霊夢の横に並ぶと、手を繋いでいた。その様子を眺めていて、咲夜は思う。あの二人がもし、本当に親子だったらと。そこまで思い至ってから、自分が微笑んでいることに気づくのであった。
映像が切り替わる。そこに映るのは先ほどの少女だ。映像が何度も切り替わるたびに、巫女服だった少女の服装が変わる。
ほら、笑って。可愛い顔が台無しよ?
少女は緊張で顔を硬くしていて、そんな少女に画面の外から人形遣いの声が聞こえてくる。文字通りに着せ替え人形にされている少女を見て、霊夢はくすりと笑った。
また、夢を見た。
夢の中の私は随分と目線が下がっていて、それでも手を繋いでいてくれる母を見上げるのだ。日の光が射していて、母の顔を窺い知ることはできない。ただ、それでも、きっと笑ってくれているのだろう。周りでは桜がきれいに咲いていて、日の光はこんなにも暖かいのだ。そして、手には母の温もりがあるのだ。多分、それは、幸せなことなのだろう。
母様、そう呼んだところで、この幸せな夢は終わりを告げた。
「服?」
「ええ。お願いできないかしら?」
桜が散り、木々が緑の装いを纏う頃に、霊夢は少女と共にアリス・マーガトロイドの館を訪れていた。少女の服を仕立ててもらうためだった。
アリスはどうして私に、と問いかけた。普段ならば、あの物静かな店主のいる道具屋で服を仕立ててもらっているのだ。そこに快や不快といったものは無かったが、単純に気になったのだ。霊夢から帰ってきた返答はアリスにとって意外なもので、自分を勧めたのは外ならぬ店主だったらしい。
「何着か見繕ってあげたいんだけど、霖之助さんだけだと難しいって。流れ着いた服も寸が合わないのばかりでね」
「なるほど、ね。そういえば前に里の市に出した時の服が残ってたっけ……」
服と一口に言っても、一から仕立てるとなると時間も労力もかかる。偶にではあるが、アリスが人里の市で作った服を売っていることを霊夢は知っていた。
出された珈琲に口をつけながら、霊夢の視線は窓へと移る。窓から見える庭先では、少女がアリスの人形たちと追いかけっこなのだろうか、楽しそうに声を上げている。
「しかし、意外ね」
「何がよ」
「前に来た時があったじゃない。その時には悩んでいるように見えたけど、似合ってるわよ。母親の顔」
瞬間、霊夢は自分でも気づかぬほどに小さくではあったが頬を引き攣らせた。そこにどんな意味があったのかアリスは瞬間に理解が出来なかったが、窓から少女を見る顔は間違いなく今まで見たことの無い類の笑顔であり、そこにアリスは故郷の母の姿を重ねていた。
人形たちがふわふわと少女を惑わす。その度に少女は屈託なく笑うのだ。霊夢にも、あのような子ども時代があったのだろうかと、少女の笑顔を見ながらアリスは考えていたが、想像が出来ない事実に思わずくすりとしてしまう。
「出来ているのかしら」
「何が?」
「母親……親?まあいいわ。保護者をやれているのかしら」
霊夢は永琳から聞かされたことをアリスに話した。少女が、幼少期の頃の自分を基にしていることを。
「私は先代様のようにできているのかしら、って思っちゃうのよねえ。比べようもない話なんだけど、あの子に何かをしてあげるたびに、自分が子供だった頃を思い出すことが多くなって、さ」
「そういえば、その先代様って?」
「外」
「え?」
「外の世界に行ったと聞いたわ。本当かどうかは知らないけれど」
アリスは、少なくとも自分の記憶が鮮明である部分の中では、霊夢から親の話を聞いたことが無かった。本人が口には出さないのだ、察しなければいけない部分だとも思ったが、目の前の巫女はそんなアリスの機微をまるで悟っているかのように、ふふっと笑った。
「ありがとね」
「え?」
「先代様のこと無責任だとか、そんなこと思ってるんじゃない? しかめっ面してるんだもの」
「そんな顔してた?」
「あの人に何があったのかは分からないし、力を受け継いだばかりの頃は寂しくなったこともあった。けど、合いたくても会えないんだもの、慣れたわ。それに先代様は精一杯私に付き合ってくれた。なんとなくだけど、あれが愛情ってやつなんでしょ。きっと」
アリスは、霊夢の顔つきが以前よりも少し変わっているような気がした。具体的にどうなった、とは言えないのだが、『大人と子どもを行ったり来たりしているような』顔に見えたのだ。
霊夢は窓を開けて少女に中に入るように告げる。遊んでいる少女が気が付くように、ゆっくりと、名前を伸ばして。その横顔は、やはりどこか故郷の母をアリスの脳裏に呼び起させるのだった。もう少し、この巫女と少女の関係を見ていたいと思った。たとえそれが実の親子でなくても。
「それじゃ、試着タイムと洒落込もうかしら」
霊夢が構えたビデオカメラの先で、少女は緊張した顔を浮かべる。どうにかその緊張を解してあげたくて、アリスは声をかけるのだった。
「ほら、笑って。可愛い顔が台無しよ?」
映像が切り替わる。テレビの画面に映ったのは、黄金に輝く向日葵の海。
かかさまっ、すごいですよっ
少女が映し出される。汗で張り付いた前髪を気にすることもなく、少女は目の前の絶景に声を上げていた。そんな少女を日の光から守るために、霊夢は花の大妖から借りた日傘をくるくると回す。
いい天気ねえ
カメラを構えていた花の妖怪の声が聞こえる。カメラはそんな二人から視点を外し、空を映した。雲一つない青い空が、この日は特に暑かったことを霊夢に思い出させていた。
「あら」
花の大妖、風見幽香は自らが管理する向日葵畑で珍しい客の姿を見つけた。向日葵を眺める博麗霊夢と霧雨魔理沙、そして、霊夢と手を繋ぐ少女の姿を。
幽香の姿を見つけた霊夢は瞬間に据わった目をしたが、何も言わずに向日葵畑に向き直る。隣にいた少女は、繋いでいた手を解くと、うわあと感動の声を上げながら、魔理沙とともに向日葵の海の中へと入っていった。
「体調が悪いって聞いていたけど」
「まあ、なんとかね。弾幕とか妖怪退治は極力するなって言われてるんだけどさ……だから今日は喧嘩は買えないわよ」
「別に売る気も無いわよ。ところで今日は如何用で?」
霊夢はふ、と微笑むと海を見に来たと答えた。幽香はきょとんとした後に、くすりと笑った。意外とロマンチストなのね、と返した幽香の言葉に、霊夢は頬を膨らませた。
霊夢が鈴奈庵から借りた本の中に、海の写真があった。少女は一度でいいから見てみたいと呟いたが、生憎と幻想郷に海は無い。ならば霧の湖でもよいかと考えたが、あそこには悪戯好きな妖精や妖怪が多く住んでいる。力を失っている状態で少女を連れていくことには抵抗があった。
そこで霊夢は魔理沙に頼んで太陽の畑へ少女を連れていくことに決めたのだった。何かあれば魔理沙を頼ればよいし、そうでなくても花の妖怪が目を光らせている場所だからか、妖精たちは多くとも揉め事は少ない。少女が喜んでくれるか不安ではあったが、嬉々として黄金色の海へ飛び込んでいった姿を見て、知らず、口元に笑みがこぼれていた。
「どう?」
「何が?」
「楽しい?」
何が、など聞かなくてもわかっていた。最近は神社に尋ねてくる連中の態度も少し変わってきている。魔理沙などは典型で、神社を訪れるたびに半ば無理やりにでも話のタネを持ってきては、少女の興味を引いていた。少女が現れたばかりの頃は戸惑いも多かったが、今は随分と慣れてしまった。
先代の巫女と、よくこうして外に出たことを思い出す。自分も少女のように溌溂としていただろうかと考えたが、そこまでは思い出せなかった。ただ、思い出の中でこちらを見る先代の顔は、微笑んでいることが多かった。あの微笑みの意味を、霊夢は未だ見出せなかった。
「私は、先代様のように出来ているのかしら」
「神社の仕事は出来ていないと思うわよ」
「うっさいわね……少なくとも今は私があの子の母親代わりだから、一応自分が子供の頃にしてもらったことをしているつもりなんだけど、ね」
「不安?」
「初めてよ、こんなの」
くつくつと幽香が笑いをかみ殺す。何が可笑しいのかと霊夢は尋ねたが、幽香の返事は無く、替わりに日傘の取手を眼前に差し出された。受け取り、その取手をくうるくると弄ぶ。それに連られて、眼下の影もゆらゆらと揺れた。
「あの子も、今の貴女と同じようなことを言ってたわ」
「先代様が?」
「あの子は花が好きだった。とくに向日葵がね。貴女が小さかった頃は何度か負ぶってここに来ていたわ。覚えてない?」
幽香の言葉に、霊夢は頭の中にある棚を開いていく。そんな記憶もあったのかもしれない。全てを思い出すには、少しばかり思い出は擦り切れていた。地面に視線を落としながら記憶を辿っていると、不意に服の裾を引っ張られる。少女が、にひひと笑っていた。
かかさまっ、すごいですよっ
汗で張り付いた前髪を気にすることもなく、少女は霊夢に感動を伝える。霊夢は日傘をくるくると回しながら、そんな少女の話を聞いている。いつの間にやら霊夢の荷物からビデヲカメラを拝借していた幽香は、カメラを空に向けた。青い空にはただ太陽の光がぽつりと輝いている。
「いい天気ねえ」
映像が切り替わる。今までのものとは違い、少女が映ってはおらず、ただ風景が流れていくだけのものだ。ビデオカメラを気に入って、よく無駄なものまで撮っていたことを思い出す。
切り替わっていく思い出たちは再び少女を映した。木彫りの白狐面を被りながら、くるくると独楽のように通りを回る少女を、映像の中の霊夢が嗜める。里で行われた縁日の映像だった。
空は茜で、いやに映像の中に映る西日が眩しく感じられる。映像の中の少女は、顔こそ白狐面で隠れてはいたが、その声には喜びの色が混じっている。思い出す。この映像の前日に、少女が大泣きしていたことを。
あ、れいせんさまっ
少女はそう言って近くの露店に駆け寄っていく。少女の声に気が付いた鈴仙は、少女の眼の高さまで屈み、優しく微笑んでいた。
夏もいよいよ頂点の頃のある日、鈴仙・優曇華院・イナバは博麗神社を訪ねていた。定期的に訪れることは前々からあったが、霊夢が体調を崩し、一人の少女と暮らすことになってから、その頻度は上がっていた。
霊夢の名を呼びながら、鈴仙は廊下を歩く。家人の出迎えを待たずに入るのは不作法ではあったが、勝手知ったるというものである。すると、最近よく見るようになった少女が凄まじい勢いで鈴仙の腹部へと突撃してきた。中々の突撃力を持っているようだ。腹部への衝撃を悟られぬように出来るだけ優しく少女を引き離す。
こちらを見上げた少女の顔は、涙を浮かべていた。少女にいらぬ不安を与えぬように、鈴仙は少女の身長に合わせるように屈み、その目から緊張を消した。
「大丈夫。泣き止んで。なにかあったのかしら?」
少女の頭を撫でていると、後方からごろごろと音が鳴った。空は既に鉄のような色をした雲が覆っている。なんとも、嫌な時に来る雲だと心の中で軽く毒づきながら、鈴仙は少女の言葉を待つ。帰ってきたのは言葉ではなく行動だった。少女は鈴仙の手を取るとそのまま駆け出した。
鈴仙もつられて駆け出した形になったが、その握られた手に激痛が走った。少女の力が強いわけでもない。少女が意図して退魔の力を行使しているわけでもない。自然だ。自然に、少女からは博麗の力が漏れ出ているのだ。鈴仙はその痛みを奥歯を噛み締めることで耐えながら、少女が連れてきてくれた部屋である寝室になだれ込んだ。
薄暗い部屋中心に、一組の布団。大きい方の布団が、少し盛り上がっている。恐る恐る鈴仙が布団をめくると、その中には、いかにもな顔色をした霊夢が、身体を縮こまらせて寝ていたのだ。心配しないわけがなかった。けほけほと咳をこむ霊夢の姿は、普段の博麗の巫女ではなく年相応の少女に見えてしまった。
「ちょっと、霊夢。大丈夫なの!?」
「んん……大丈夫よ。昨日の通り雨にちょっとやられただけ。寝てりゃ治るわよ。それよりも」
霊夢の言葉に案外の張りがあることで鈴仙はひとまず安堵することが出来たが、問題は霊夢が続けた言葉だった。どうやら霊夢の隣で未だに悲観的な顔をしている少女を慰めてほしいというのだ。いきなりの頼みごとに、思わず驚いてしまったが、きっと大泣きしたのだろう、頬まで赤く腫れあがった顔を見てしまったからには、断るわけにはいかなかった。
「わかった、任せておきなさい。だから貴女はゆっくり休むようになさいな」
「はい、はいっと……レイ。こっちへいらっしゃい」
霊夢は上半身を起こすと少女を呼んだ。レイと呼ばれた少女は、部屋の隅からおずおずと華仙の隣に正座した。
「多分お話を聞いてたと思うけれど、私はこれくらい一日寝れば平気だから。今日はいつも通り……いや、簡単でいいからお掃除をお願い。わかった?」
……わかり、ました。
「よろしい。あと、今日は隣の薬師……お医者様の言うことを聞くように。ちょっと、頼りないかもしれないけれど」
「霊夢?」
とりあえず軽口が叩けるのなら大丈夫だろうと鈴仙は判断した。未だに俯いている少女を優しく立ち上がらせ、一緒に寝室を出る。とりあえず、居間の掘り炬燵に少女を導いた。
霊夢が少女と暮らすようになってから、神社へ通う回数は増えた。勿論その分だけ少女と接する機会もだ。いつもなら顔がくしゃっとなるほどの可愛らしい笑みを見せてくれるその顔は、不安と涙のせいで目も頬も、赤く染まってしまっている。鈴仙はそんな少女の顔を優しく両手で包み込んだ。
ゆっくりと、少女が顔を上げる。鈴仙は努めて笑顔で、掃除は終わったのかと尋ねた。少女はまだゆっくりとした動きではあったが、はい、と頷く。今の返答で今日の方針が決まった。少女の顔を包んでいた両手を離し、鈴仙は移動を開始する。少女も霊夢の言いつけ通りに慌ててついていく。止まった場所は、少女には予想外の場所だった。
れ、れいせん様……ここは、炊事場ですけど……
少女のぼそぼそとした言葉は、しっかりと鈴仙の耳には届いていた。ゆっくりと少女のほうに振り向いて、しばらく自分でもしていなかった自信のある表情を浮かべながら口を開いた。
「霊夢のために、おいしいご飯を作ってあげましょう。そうすれば、きっと元気になるわ」
ほ、本当ですか。かか様、元気になってくれますか?
「ええ、大丈夫。信じなさいな」
つい数舜前まで沈んでいた少女の顔が、ぐんぐんと明るくなっていく。まるで太陽が雨雲を割るように、少女は笑顔を咲かせる。後はもう、簡単なことだった。
朝、霊夢が第一に感じたのは、腹部に感じる重さだった。自分の体に何かが乗っているということを理解して、霊夢は覚醒した。茨華仙の料理が効いたのか、先日までの不調は消えており、すこぶる気分のいい目覚めであった。
身体を持ち上げて、自分にのしかかっている重みの正体を見る。余程心配だったのだろう、両手で布団をしっかりと握りしめながら、少女が眠っていた。起こさぬように注意はしていたつもりだったが、無駄に終わってしまった。
最初は寝ぼけ眼だった少女は、次第に目をぐんぐんと見開いていくと、次の瞬間にはもう泣き出しそうな表情へと変わっていた。よくもまあころころと顔が変わるものだと霊夢は思っていたが、少女はそこまで冷静ではないらしく、しきりに体調をうかがってくる。自分が子供だった頃を思い出し、霊夢は再び少女の頭を柔らかく撫でた。
「レイ」
霊夢が少女の名を呼ぶ。元々は、自分が幼かった頃に先代に呼ばれていた名だった。呼ばれた少女は不安気にはいと頷く。自分の子供の頃を写したと永琳は言っていたが、自分が子供の頃はここまで心配性だったか。
「朝ごはん、食べましょうか」
霊夢のその言葉に、少女の不安が晴れていく。満面の笑顔ではいと頷いたのを見て、霊夢は立ち上がるのだった。
その日の夕方、霊夢は少女と共に縁日へと向かった。霊夢の不調についてはどこから漏れたのか人里の人間たちには知れ渡っており、行く先々で励ましをもらうことになってしまった。そして、立ち並ぶ露店の一角で少女は饅頭を買う鈴仙を見つけた。
あ、れいせんさまっ
少女が駆け寄る。少女の声に気が付いた薬売りは、少女の眼の高さまで屈むと、優しく微笑んでいた。
次に映った映像は、空と幻想郷の大地を映していた。どうやら撮影しながら空を飛んでいるらしい。風を切る音が無いのは随分とゆっくり飛んでいるからなのだろう。青い空とは対照的に、山々はその葉を赤や黄色に染め始めていた。
かかさまっ、かかさまっ、どうでしょうか
映像が切り替わる。神社の茶の間で、少女は幾つかの算術が書かれた問題用紙を広げながら満面の笑みを浮かべている。すごいじゃない、そう、映像の中の自分が褒めた。考えてみたら見てくれこそ瓜二つだったが、自分はこんなに勉強好きではなかったことを霊夢は思い出す。
寺子屋は楽しい?
ほんの少し甲高く聞こえる声で、映像の中の霊夢は少女に問いかけた。
はいっ!
紅葉が綺麗に葉に赤を宿すほどに秋が深まる頃、上白沢慧音は最近開店した喫茶店で相談を受けていた。相談者である博麗霊夢の手を、窓から差す夕日が柔らかく染めている。どのような相談なのか慧音には皆目見当がつかなかったが、いくつか霊夢に聞きたいこともあった。
この時、よく彼女にくっついている少女の姿がないことについて慧音が尋ねると、どうやら神社で留守番をさせているらしい。大丈夫なのかと問うと、今は黒白の魔法使いがロハで面倒を見てくれていると返された。慧音もいくつかの頼みごとを魔理沙に依頼したことがあるが、存外に情けがあることもわかっていた。なんでも『まりさ様』と呼ばれる度ににやけているらしく、その顔を想像して、慧音は笑ってしまった。
「……で、相談っていうのは?」
このまま世間話をしていても構わないのだが、そんなことをしていたら月が出てしまう。慧音が切り出すが、霊夢はしばらく口を開かなかった。決して聞こえていないというわけではない。きっと、探しているのだ。何を、かまでは慧音にはわかりかねたが。
「あぁ……時期的に中途半端なことはわかっているのですが、今からでも子どもを寺子屋に通わせたりとかって出来ます?」
「あの子を通わせたいのかい?」
「はい。もちろん送り迎えもしますし、お金も出させていただきます……お願いします」
頭を下げる霊夢の姿を見て、慧音はどうしてそのような考えにいたったのかを尋ねた。窓から差し込む日を吸い込んで、霊夢の黒髪の一部が白く光っている。その顔は母親に近いものだがどこか違う。不快ではない違和感を覚えながら、慧音は霊夢の言葉を聞く。
元々、そういう考えを持ってはいた。少女は一緒に里へ下りるたびに、遊んでいる子どもたちや寺子屋の様子を遠くから眺めていたらしい。霊夢の中で考えが固まったのは先日里で行われた豊穣祭の時だった。そこで霊夢は少女とはぐれてしまったのだ。昔自分が着ていた紅白のお下がりを着せていたためか、程なくして少女を見つけることは出来た。
少女は広場の隅にある長椅子に、ぽつりと座っていた。祭りの日だ。広場には沢山の人でごった返していたが、そんな人々から少女は正しく浮いていた。霊夢が声をかけることを躊躇うほどに。
少女は、ある方向を凝視していた。声はかけずに近づきながら、霊夢は少女の視線の先を見る。何人かの子どもたちが談笑する姿があった。なんということはない日常の一部。だが、少女と子供たちの間に壁があるように霊夢には見えたのだ。少女の顔が見えるほどに近づく。その顔はとても真摯な表情を浮かべていた。
「あの子を見ていて、改めて思い出したんです。そういえば、私は追いかけっこをして遊んだことも、沢山の子とかくれんぼをして遊んだことも無かったなあって」
「……自分と同じ思いをさせたくない、ということかな」
「神社へと帰る際に、あの子に聞いたんです。寺子屋に行ってみないか、何も我慢をすることなんかないんだって」
「あの子……レイ、と言ったかしら。彼女は何と?」
努めて、薄く微笑みながら慧音は先を促す。霊夢は慧音から目線を外し、無表情に窓へと向ける。何を思っているのか、読み取ることはできない。
「かか様が寂しがるといけないから、だから大丈夫ですって」
「相手のことを思いやれるんだな。素晴らしいじゃあないか」
「私も一緒のことを言ったんです……慧音先生もおかわり、しません?」
そう言われ、慧音は自分が頼んでいたカップの中身が空になっていたことに気が付いた。
「まだ私が先代様と一緒に住んでいた頃、習い事をしてみないかって、言われたことがあるんです。ああ、言葉も一緒でした。我慢をすることは無いのよって、優しく。そこだけは違いますけど。母様が……先代様ですけど、不安だったんです。私がそうやって離れている間に、何処かに消えてしまうんじゃないかって」
「それで、断ったのね」
「はい。ただ、自分が不安だから離れたくないって言うことが出来なかったんです。だから、母様が寂しくなっちゃうから、私は習い事をしないって」
それまで無表情だった霊夢がふふっと笑う。当時のことを思い出しているのだろう。その顔は、少女のことを語るときのような表情でもなく、かといって平素のように無表情でもなく、年相応の少女に見えたのだ。
「……強がってはいましたが、私は結局そういう思いを引きずることが長い期間ありました。そして、今度は私が先代様のように心配してみたら当時の私のように返されたのです。多分、あの子の心の中は当時の私が考えていたこととあまり変わりはないでしょう」
「だから、か」
「お願いいただけませんか?」
深く頭を下げる霊夢の姿を見て、慧音は本人の意志さえしっかりしていれば問題はないと告げた。顔を上げたその表情は、まさに献身の表情であり、そこから安心でほぐれていく顔は、子を案ずる母親のそれだと、慧音は気づいた。
店を先に後にした霊夢の後姿を見ながら、慧音は今日の相談を思い返す。既に日は陰り始めており、絞られた光線は、先ほどまでは暖かい光で輝いていた窓を真っ赤に染めている。慧音は店員に長居して済まない事を告げ、ばつの悪さを消すために三杯目を注文した。
「自分で、自分を育て直しているのか」
それがどれほど歪で、哀しいものか。教える時間もなく店から霊夢の姿は消えていた。
それは人が成長する中では特に重要な部分である。霊夢は、今自分が行っていることの意味が解っているのだろうか。問い質してみたくはあったが、それでも少女に情を求めていることも話しぶりから考えられた。
数日後、少女は里の寺子屋の授業に参加することになった。自体が人間ではないことは伏せられていたが、他の子どもたちもそんなレイに気後れすることも、必要以上に干渉することもなく、時に遊び、時に喧嘩をし、時にみんなで笑いあうような関係になっていた。
木々がその葉を真っ赤に染めるころ、少女はある物を撮ってほしいと霊夢に頼み込んだ。一体何事かと霊夢がビデオカメラを起動すると、少女は一枚の紙を広げて見せた。
かかさまっ、かかさまっ、どうでしょうか
沢山の算術と、拙く書かれた数字。それと同じほど沢山の丸。なんでもテストが行われたらしい。余程嬉しかったのだろう、用紙を広げながら少女はぴょんぴょんと跳ねる。そんな少女の姿を見て、霊夢は微笑む。そして、そんな自分の中に芽生えた感情を胸の奥で噛み締めながら、レイ、と少女の名を呼んだ。
「寺子屋は楽しい?」
純粋な疑問。子供の頃に自分が出来なかったことを少女に『させている』のではないか。そんな疑問が鎌首をもたげていたのだ。自分のエゴなのではないかと。だが少女はそんな霊夢の感情など露も知らぬとばかりに嬉しそうに笑うのだ。
はいっ!
その言葉だけで充分だった。霊夢は、満たされていたのだ。
映像は、いよいよ冬を映した。星空とランタンの灯りが少女の顔を照らす。霊夢はこの映像に覚えが無かったが、撮影者の声が魔理沙だということに気が付いた。
うわあ!すごいすごい!まりささまっ、まりささまっ!お星さまがたくさんですよ!
ああ、たくさんだ。すごいだろう?
魔理沙は、よく少女の気を引くために話のタネを仕入れてくることもあれば、どこかに少女を誘うことが良くあった。霊夢がそこに口を挟み、三人で何処かに行くことになるのだ。
ともにはしゃいでいた声が、段々と静かになっていく。映像は、そんな少女の横顔を映していたが、ふとカメラに向き直る。少女がカメラ越しにだろう、魔理沙の瞳を見つめた。その視線はまるでカメラの向こうを見ているようにも感じられた。少女は口元に少しの哀しみを残して、魔理沙に言う。
ありがとうございます。まりささま
口元に哀しみを残しながらそれでも、映像の中の少女は、微笑みを浮かべていた。
もうすぐ一年も終わろうかというある冬の夜。霧雨魔理沙は博麗神社の少女を誘って夜空の星空観賞としゃれこんでいた。少女に自分の腰を掴ませて、魔理沙は星を出しながらゆっくりと冬の夜空を上昇していく。
元々は、霊夢も交えて三人で流星観賞に洒落込もうという予定であった。しかし、直前になって霊夢の体調があまり思わしくなかったこともあり、かといって楽しみにしていた少女を悲しませるのはどうかとも思い、こうして二人だけの鑑賞会となった。
「いいかあ、私がいいと言うまで目を開けないようにな」
少女は、魔理沙の腰に抱き着きながら、それでも言われたとおりに目を閉じていた。道中、少女の頬には段々と風だけでなく、ちくりとしたほのかな痛みと冷気がふれるようになる。ごろごろと雷のような不穏な音も聞こえた。
ま、まりささまっ、まだ目を開けてはだめですかっ
「ああ、今雲の中を突っ切っているからなあ。あともうちょっとだ。ただ目を開けるなよ。もしかしたら雪が氷になって目とかに刺さるかもしれないからなあ」
ひいい。まりささまっ、まりささまっ。レイはこわいですっ。
「大丈夫だ、私を信じろ。そおれっ」
魔理沙の掛け声とともに、段々と向かい風が強くなる。速度を上げたのだろう。少女は振り落とされないように顔を魔理沙の背中にぴったりとつけながら、時が過ぎるのを我慢した。どれほどの間、目をつぶっていただろうか。
「よおし、ご苦労さん。もういいぜ、目を開けてみな」
言われたとおりに、少女は目をゆっくりと開く。上を向いてみなという魔理沙の言葉を信じて顔を上に向けた。いったい何の星座なのか、それがわからぬほどに、大小さまざまな星々が魔理沙とレイを照らしていた。魔理沙はちゃきちゃきとビデオカメラを起動し、少女の顔を映した。あまりにも風が強かったので壊れるかとも思われたが、どうやら無事だったらしい。
うわあ!すごいすごい!まりささまっ、まりささまっ!お星さまがたくさんですよ!
「ああ、たくさんだ。すごいだろう?」
すごいです!すごいです!きれいですっ!
「ははっそこまで喜ばれるのなら連れてきた甲斐があったってもんさ」
先ほどまでとは打って変わり、魔理沙はその速度を緩やかにする。星の天井と雲の海は、少女に何を思わせているのか。たとえ隣にいても、その心はわからない。少女は魔理沙が隣にいることも忘れているのか、ただひたすらに星の空を眺めている。
ありがとうございます。まりささま
突然だった少女の礼に、魔理沙はきょとんとし、そして笑った。少女が浮かべていた笑顔が、遠い昔に見た霊夢の笑顔に似ていると感じた。そして、それが時間によって霞んでしまった輪郭が似ているだけなのか、それとも本当に自分は昔の霊夢の顔を思い出せているのかわからなくて、少し悲しくもなった。
昔、まだ家を飛び出す前の頃を魔理沙は思い出していた。母親に連れられ、夜の里を二人で散歩したときのことだ。鼻の頭が真っ赤になるほど寒かった日だったことを憶えている。それでも、父親にも内緒で星の光が照らす里を歩いた。あの時、自分は何を思っていただろう。そして、母はどう思っていたのだろうか、ふと聞いてみたくなった。
まりささま
「んん?」
少女の顔はもう笑顔ではなくなっていて。なんとなくではあったが、多分この機会を逃してしまうと、もう少女の本心を聞くとは出来ないのではないか。予感というよりも確信めいたものを魔理沙は感じていた。
こんなにきれいな空を見せてもらえて、レイは幸せものです
「はは、大げさだなあ。こんな景色くらいならいくらでも見せてやるぜ。条件がそろわないとちょいと厳しいがな」
たくさんの人によくしていただいて、あんなにも素敵なかかさまがいて。レイはしあわせでいっぱいなのです。ただ
「ただ?」
……こんどは、できることなら、きちんとかかさまの子として生を成したいなあと、そうおもってしまうのです。まだ私が、かかさまから離れる前の、あの元気だったかかさまといっしょに、みなさんと色々なことをしたいと。そうおもってしまったのです。
少女は腕をまくると、それを魔理沙に見せつける。その腕は、少しずつ、透明になり始めていたのだ。感触はまだある。さっき自分に抱き着かれた時のことを思い出す。腕を元に戻して、少女はにこりと笑った。
かかさまに、力が。もどりつつあります。
「霊夢には、言ったのか」
きっと、きっとかか様も知っているとおもいます。おからだの調子がよくないのも、急に力が戻り始めたからでしょう。
「……お前はどうなるんだ」
だいじょうぶですよ、まりささま。レイはずっとずっと、かかさまのもとにありますから
それは、哀しくないのかと魔理沙は聞こうと思ったが、やめた。少女が決めたことなのだから自分が言うのも筋が違うというものだし、無粋だった。そこで、その話題は終わった。その後は魔理沙と少女は共に星空を楽しみ、偶々見えた流れ星に感嘆の声を上げ、そして少女のくしゃみを合図にするまで、雲海と星空を楽しむのだった。
そうして博麗神社に戻った魔理沙は、来客の姿に目を丸くした。風祝である早苗、そして往診に来たのであろう鈴仙はまだ分かったが、冬の間は冬眠している隙間妖怪、八雲紫が来ていたからだ。何をしているのか、そう尋ねようとしたところで、霊夢の眼が鋭くなっていることに気が付いた。その視線の先には何枚かの写真があった。
「で、どうする?準備はしてあるけど」
そのうちの一枚を手に取る。そこに映っていたのは、霊夢が年齢を重ねればこうなるのだろう顔つきをした女と、霊夢と瓜二つといえるほどに似ている少女の姿。違いといえば服くらいなものだろう。夫であろう男が写っているものもあったが、他の写真は大体がこの二人だった。
高速で頭が回転する。何かが引っかかって、一年ほど前に慧音と飲んでいた時の話を思い出した。この写真は何なのか。何となく予想はついていたが、聞かないわけにはいかなかった。だが、紫に問うよりも前に、霊夢が口を開いたのだった。
「生みの親らしいわ。私の」
もう春も近いというのに、いやに寒いのは風が強いからか、それとも雪にならなかった雨の所為だろうか。ガラスの窓から見下ろす景色に未だ慣れず、霊夢はその場を離れてベッドに横になった。普段寝ている布団と違い床より高い場所で寝るということも、そして、ようやく慣れてきた存在がそこに無いという事実が、僅かに霊夢の気をざわつかせた。
気怠いままの瞼を閉じながら、霊夢は神社に残してきたレイと呼ぶ少女のことを考えていた。最近は自分の調子の裏返しのように、レイは年が明けた頃から少しずつ、だが確実に調子を崩していた。今は魔理沙と鈴仙が面倒を見てくれているはずだった。
元気になっているだろうか。不安にはなっていないだろうか。泣いてはいないだろうか。そんな思いがぐるぐると霊夢の脳内を占めていく。外の世界へ行く条件として、レイを連れて行かないという約束があった。それが何を意味しているのかは霊夢には解らなかったが、連れてこなくて善かったと今になって感じた。どことなく、この世界は霊夢自身『しっくりこない』のだ。きっとあの子もそうだろうと感じたところで、頬に冷たい感触を感じて霊夢は跳ね起きた。
「バネ仕掛けのおもちゃじゃあるまいし、吃驚しすぎじゃぞい」
「いきなりされたら、そりゃあ誰だって驚くでしょうよ……早苗は?」
「食事を買いに行っとるよ。久しぶりの外なんじゃから、少しは羽を伸ばしてもよかろうに」
霊夢の頬を冷やした缶ジュースをゆるゆると振りながら、今回の旅の同行者である二ッ岩マミゾウはにやりと笑った。
結局、霊夢は紫の持ちだした提案を受け入れ、幻想郷を離れて外の世界へとやってきていた。
元々、紫に相談を持ち掛けたのは早苗だった。他人の家庭事情の踏み込むことはそれこそ下種の所業だと、外の世界で道徳を学んだ早苗は思ってはいたが、それでも、なにかしら手助けになりたいという純粋な思いが一番に来ていたことは確かだった。相手は幻想郷の管理者の一角である八雲紫である。諸手を挙げて、ということは無いだろうと思っていたが、相談を持ち掛けた時の紫の反応は思っていたほど悪いものではなかった。曰く、いつかはやらねばならないと思っていたらしい。どうしてそんなことを考えていたのか、そこまで深く聞く気にはなれなかったが、早苗にとっては渡りに船だった。
外の世界への同行者として提案者である早苗は勿論だったが、マミゾウが選ばれた理由としては本人が行きたがっていたという部分の他に、未だ外の世界において力を持っている、というのが一番だった。
幾つかの約束事を交わし、霊夢とマミゾウ、そして早苗は外の世界へとやってきた。ベッドから身体を起こしていた霊夢は再び窓を見る。雪になりきらずに降る雨粒は、幻想郷では珍しいものである。灰色の空と、それと似た色をした建築物たちを濡らしている景色は、部屋の中に居ながらにして霊夢の身体を冷やす。
「戻りました。うう、寒い」
「ご苦労じゃったのう。シャワーでも浴びてきなさい。おぬしに風邪を引かれても困るでな」
「そうさせてもらいます……霊夢さん、先にお風呂使わせてもらいますね」
「構わないわよ。ごゆっくり」
がちゃりとした音とともにドアが開き、早苗が部屋へと戻ってきた。普段の出で立ちとは違い、学校の制服を着ているその姿は霊夢には新鮮に映る。大きく膨らんだコンビニ袋をテーブルに置き、バスルームへと消えていった。
豪華な旅館というわけもない。ほぼ素泊まりのビジネスホテルに少女が二人と女が一人。本来ならば邪推でもされるかもしれない組み合わせではある。従業員にマミゾウの息がかかっていなければ、公権力が尋ねに来た可能性も否定はできない。
重力に負けて少しずつ垂れ下がっていく袋の取っ手を眺め、霊夢は再び窓に視線を移した。幻想郷ならば、今頃は澄んだ空気で綺麗な星空が見られただろう。水滴によって滲んだ街の明かりは、幻想郷では見ない光であった。
「なあ博麗の」
「何よ」
「こんな光も綺麗じゃろ?」
「……まあね」
マミゾウはそれきり霊夢には語り掛けなかった。バスルームから戻ってきた早苗を交えて夕飯をとる。外の世界の食事は、霊夢にはいささか味が濃く感じられた。
マミゾウが自分の部屋に戻り、霊夢もシャワーを浴びると早々にベッドに潜り込んだ。自分が何で外の世界にいるのか、忘れそうになってしまう。母に会う。会う、というよりは見ると言った方が正しいだろう。ただそれだけのために自分の分身を放り出して外の世界にやってきているのだ。
さっさと見て帰ろう。そう思う自分が確かにいるのだが、きっとそれだけでは済まないだろうと思っている自分も確かに存在していた。
上手く寝付けずに寝返りを打つと、先に寝ていたはずの早苗が窓辺へと身を寄せていた。外から入る繁華街の光と車のヘッドライトが、早苗の顔を照らす。その時に見える顔は、霊夢が初めて見るものだった。
「眠れないの?」
「霊夢さん。起こしちゃいましたか」
「そういうワケじゃあないわよ」
「……少し、懐かしんでいました」
外の世界から幻想郷へとやってきた少女は、少し目を細めてくすりと笑った。なにか可笑しいものでも見たのかと霊夢が尋ねると、早苗は声を殺しながら肩を震わせる。余程可笑しかったのだろう、ひとしきり笑い終えた早苗は目尻に溜まった涙を指で軽く拭うと何年か前、と呟いた。
「今日みたいに寒い日でした。初恋だった近所のお兄さんが、学業で遠くに引っ越すことになることを私は母から聞いたんです」
「へえ、アンタにもそんなことがあったんだ」
「そりゃあ当時はもう衝撃でしたよ。暫く何も手につかなくて、神奈子様と諏訪子様もおろおろしてましたっけ。それから何日か経って、ここみたいな繁華街で、泣いちゃったんです。私」
「まあ、そりゃ、色恋沙汰だものね。泣いたり怒ったり、仕方ないと思うわよ。うん」
霊夢の励ましがいやにぎこちなく、早苗は再びくくくと笑った。笑われた霊夢も何よと目を据わらせたが悪い気はしていない。
「あの当時、私の世界はとても狭かったのです。初恋が実らなかった。ただそれだけでこの世の終わりが来てしまったとも思いましたし、これから先の人生はきっと何も私を感動させるものは無いのだろう。そう思っていました。そんなこと、全然無かったんですけど」
「子どもの頃ってそういうもんじゃないの?」
「きっとそうなんでしょうね。ただ、その後も日々を過ごしたら、聞いたこともない場所に引っ越して、そこには魔法を使ったり空を飛んだりする人がいて、沢山の妖怪変化がいて……なによりもおかしいのは、気が付いたら自分も『そっち側』に入っていたってところですけどね」
くすくすと笑っていたが、それも少しの間で。再び窓から外に視線を投げる早苗の表情は、こんどは何処か気怠く見える。よく表情が変わると霊夢は思ったが、同時に神社に置いてきた少女を思い出し、胸の中に少しの痛みが走った。
「一年位前でしたか。博麗神社で編み物をしてたじゃないですか。私」
「ああ、そういえばしてたわね」
「父と、母に送ろうと思っていたんです」
雨音が響く。
「どんなご両親だったの?」
「母は、そうですね。気風のいいというか豪快というか、まあ、私はよく父から母親似だとは言われていました。父は、穏やかな人でした。私が何を言ってもにこにこと微笑んでいたのを覚えています」
「幸せだった?」
「……当時は何とも思っていませんでしたが、違う環境に身を置いたからでしょうか。きっと幸せだったと思います。勿論、今だって幸せ、というかなんというか、まあ、ですよ」
「歯切れが悪いわね」
「きっと、私は後になって振り返ってからじゃないとわからないんです」
そう言いながらも、早苗は笑っていた。その表情を見ると、やはり幸せだったのだろうと霊夢は思う。だからこそ霊夢は口から出しそうになった言葉を、ぐっと飲み込んだ。喉が鳴ったのが聞こえたか、それとも霊夢の表情から何かを感じ取ったのか。
「どうして、幻想郷に来たの、ですか?」
「口に出した覚えはないのだけれど」
「わかりますよ、それくらい」
霊夢が以前に宴会の席で聞いた時には、二柱の神のためと言っていた記憶があった。それはそれで決して間違いではないのだろう。己が身を違う環境に投げうつことは、並大抵の覚悟ではないはずだと霊夢は感じる。それでも、この外の世界から幻想郷へとやってきたのだ。なにか『抜き差しならない事情』というものでもあったのだろう。
早苗はテーブルに置いてあったコンビニ袋から、ペットボトルのお茶を取り出し、口をつけてこくこくと喉を鳴らした。
サイドテーブルに置かれたデジタル時計に霊夢は目を移す。普段ならばそろそろ寝ている時間だが、やはり眠気はまだやってこない。どうしたものかと思っているといつの間にか早苗が目の前にあった。どうしたのかと尋ねる間もなく、コートを渡された。
どこに行くのよ、そう問う前に早苗は少し歩きましょうと口を開いた。未だ気怠くはあったが、眠気が無いこともまた事実であり、霊夢は少しの間を置いてコートを羽織るのだった。
外は、いつの間にか雨から雪へと変わり始めていた。
霊夢にとっては就寝の時間帯が近づいていたが、外の世界では未だに道の先々で街灯がともり、店の軒先からは光が漏れている。それがただの飾りでないことは、道を行き交う人々がまだいることからも見て取れた。
どこに行くのか、そう聞こうとも思ったが、きっと何も考えていないのだろう。定食屋のメニューを見て二人で目を輝かせ、ウィンドウに並ぶ服を見てはため息と感嘆が混ざる。相合傘から外れた肩にかかる雪を払いながら、早苗はあるところで足を止めた。
鉄と石で作られようとしている建物。工事現場のフェンスの間を、早苗は器用にすり抜ける。霊夢も倣って、誰かに見られないようにするりと潜り込んだ。
むき出しの赤い鉄骨が雨と雪で輪郭をあやふやにして、まるで脈を打っているように見える。そんな骨組みと、わずかなアスファルトの皮を纏った建物の中で、早苗は霊夢に手を差し出す。きっと、今はこの世界の誰もが二人のことを見ていない。
霊夢の手を取った早苗は目を閉じると、静かに息を吐く。ふわりと、霊夢の足元に浮遊感が現れ、足場が離れていった。浮いていたのだ。きっと普段ならば、こんなことにはならないだろう。霊夢は宙に浮けたのだから。しかし今はその力は無く、早苗に身を任せるがままになっている。だが、そこにきっと以前ならばあったであろう誰かに身をゆだねる不信感は形を潜めていた。
音もなく、少女二人は建物の最上階へとたどり着く。今にも落ちそうな鉄骨の上に降り立ち、霊夢と早苗は眼下の景色を眺める。きっと、普段見ている景色の方が高低差はあるだろう。しかし今見ている景色は暗く、灰色に濡れ、その中の光が見たこともないほどの輝きとなって二人の視界を彩った。
「綺麗でしょう?」
「さっきマミゾウにも言われたわ」
「そうなんですか?まああの人なら言いそうですね。確かに」
二人で肩を寄せ合う。少し足を踏み外すだけでも身体は地面へと落下してしまうだろう。だが、そんなことは決してない。霊夢は早苗を信頼し、早苗は霊夢の信頼に応えていたのだ。
霊夢の横で、微かに空気が流れた。その流れを追うように顔を向ける。そこにあった早苗の表情は、いつか見た真摯な表情で。早苗の言葉を聞いてから、霊夢はその表情が幻想郷に来たばかりの頃に早苗がよく浮かべていた表情だと気が付いた。
「さっき、父と母のことを話したじゃないですか」
「ええ」
「父も、母も。私のことを一番に考えてくれていました。そして、神奈子様と諏訪子様も……見えなかったんです。二人には」
雪の粒が、少しばかり大きくなっていた。
「私が神奈子様と話すたびに、母は不安気な表情を浮かべました。私が諏訪子様と話すたびに、にこにことしていた父は真顔になりました。両親は最初は私を慰めていましたが、私が何度か 『奇跡』 を見せるたびに、二人の表情は深刻さを増していったのです。ある時の事でした。十歳くらい、だったかな。私は二人に必死に説明したんです。神様がいるって。神様は私たちを守ってくれているんだって、泣きながら」
「それは、なんというか……ごめんなさい。わかるとも、わからないとも私には言えない」
「そんなのわからなくていいんですよ。わかってもらおうとも思いませんし、何より私もあの頃の気持ちがわからないんですから。ああ、そうです。そんなことが続いたある日、病院に連れていかれたんです。永遠亭をもっともっと大きくしたような場所にです。とち狂っていると思われたんです。勿論、私の身体も精神も健康そのものでしたし、奇跡は科学で解明できるようなものではありませんでした」
結果として、と早苗が言葉を続けた。言葉が一瞬途切れ、風がひときわ強く吹いたことで、霊夢はここが外の世界だということを思い出した。それほどに、早苗の話に聞き入っていたのだ。 湿気の混じりの冷えた空気は重く、息苦しさを感じさせた。
「私ではなく、母が駄目になってしまいました。その頃には私はもう少し大きくなっていて。母の前で神様の話をすることは無くなりました。父に言われた、というのもありましたが」
「……それで幻想郷に?」
「母はっ」
霊夢の言葉を遮って、早苗は口を開いた。
「母は、それでも私を案じてくれたのです。自分がどれほどに傷ついていても、私に非など無いと。私にはそれがっ」
「耐えられなかった」
「……数日前に、私だけ外の世界に出させていただきました。実家に寄ったのです、あの時に編んだマフラーを渡したくて」
「うん」
「死んだことになってました。私」
幻想郷は常識の結界になっている。この世界は 『東風谷早苗』 という人間の不在を埋めるために、そのような措置を取ったのだろう。世界に齟齬が生まれぬように、誰もが不幸にならないように。語っていくうちに、早苗の横顔は、夜の闇と差した傘の影で表情があやふやになっていく。横に並び立つ少女が何を考えているのかやはり霊夢にはわからなかった。
「ほっとしたんです」
「ほっとした?」
「幸せそうでした、二人とも。あの世界は、私がいなくなっても完成していたんです。間違っていたんです。あの世界には本当は私もいなくてはならなくて、だから、きっと二人はまだ乗り越えられていないんじゃないかって、勝手に思っていたんです」
それは、寂しくは無いのだろうか。霊夢が口を開こうとしたが、早苗の身じろぎがその言葉を止める。傘を少し上げた少女の口の端は、ほんの少し、上がっていた。満たされていたのだ。
雪の花が早苗の頬にさわりと触れる。笑みを浮かべるその頬にじわりと溶けた水滴は、嬉し泣きの跡のように、つ、と滑っていく。
「私の方が、乗り越えられていなかったんです。幸せがありました、あそこには。何もマイナスなものは沸き上がってきませんでした。あの場所はもう私の居場所ではなくて、今は神奈子様と諏訪子様のいる、あの家が、しっかりと私の居場所になっていたんです」
だから、きっと。そう唇を動かしながら早苗の瞳が霊夢を捉える。穏やかな笑顔のままに、早苗は大丈夫ですよと言葉を続けた。
風がどんどんと強くなる、霊夢の不安を表すように。今繋いでいるこの手を放してしまったら、自分は取り残されてしまうのではないだろうか。見下ろす外の世界は、ただ光だけを映して。それでも時間は進んでいるのだ。そこに色々な輝きがあることはわかっていても、霊夢にはその輝きに自分が入れないこともわかっていてた。
大丈夫なのだろうか。私は、あの人たちに会っても。元のままで、博麗霊夢のままでいられるのだろうか。
次の日。霊夢と早苗はマミゾウの運転のもとに目的地へと向かっていた。昨晩に雪を降らせていた雲ははるか遠くに、穏やかなほどの晴れた空を眺めながら、霊夢はため息を吐く。
車での移動はマミゾウが提案したことだった。普段からのどかな幻想郷で生活している霊夢にとっては都市部ほどではないとはいえ、人込みは負荷になるだろうという考えがあってのことだった。程なくして、車はあるところでその駆動を止めた。海を臨む国道沿い、その踏切近くのコンビニで。
「ここから少し行ったところに踏切が……ああ、守矢のに着いていくといい。儂はここで待っとるよ」
「ええ」
気怠そうな返事と共に、霊夢は一足先に車を降りる。霊夢と早苗の背中が随分と小さくなってから、マミゾウも車を降りると煙草に火をつけた。海を見る。日が昇り始めた水面は、それでも彼方はまだ薄紫に白んでいる。暖房が効いた車内から出た所為もあるのだろう、普段よりも寒さが鼻に沁みた。
「ありがとうございました」
声の方角に視線を向ける。いつの間にいたのだろうか。セーターとスカートに身を包んだ紫の姿を見て、マミゾウは少しの間呆け、微かな逡巡の後に煙草の味を再度堪能することに決めた。
「必要なことなのかいの?」
「何がです?」
「わかっとるくせに」
「あの子は、確りと人間なのです。例えどれだけその力が人の範疇を超えているとしても。私たちでは」
「無理よな。きっと。自分で納得しない限りはなあ」
ごめんなさいと、言葉が耳に乗った。頭を下げる紫の姿を見ながら、どうしてこの妖怪は妖怪として生まれたのかとマミゾウは考える。この姿が本来なのか、それとも永く人と関わってきたが故のものなのか。どちらにせよ。人間のふりをしている時の自分よりは、目の前の隙間妖怪は余程人間だった。
二本目の煙草を吸い終えたところで、少女たちが戻ってきたのを視界にとらえた。マミゾウが視線を向けた先では既に紫の姿は消えていた。きっと、あの隙間妖怪は最後までこんな立場を貫くのだろう。マミゾウは大袈裟に肩を震わせて、霊夢と早苗を早く車に乗るようにと促した。
暖房の利いた車内では、最近流行っているらしいガールズポップだけが響く。車は微かな振動を伝えながら、どんどんと山を登っていく。マミゾウが歌の音量を少し下げたところで、霊夢は言った。幸せそうだった、と。
「お母さんがか?」
「遠くから眺めるだけだったんだけど。なんとなくわかったわ。きっと、あの人が母親なんだろうって」
「眺めただけかい。話してもよかったんじゃないかの?」
「いいのよ。きっと何も沸かないと思っていたんだけど、あの人の顔を見たらさ、ちょっとほっとしたの、私。昨日の早苗じゃないけど……ああ、私は確かに人間だったんだって。そんなことを」
自分は人間だと、そんな当たり前の事すら、博麗霊夢には足りていなかった。先代という育ての親は確かに人間だったが、もしや自分はヒトの形をしているだけで、その中身はもしかしたら別の者なのではないかと、そんなことを考えてしまうこともあったと霊夢は言葉を続ける。
「もしかしたら外の世界で、両親がいて、弟とか妹とかがいたりして、そんな普通の生活を送る未来があったのかもしれないって。あったのよ。あの人の顔を見たときに、いろいろ浮かんできたの。そう思ったらさ、今度は幻想郷の色々な奴等とか景色とか、そんなのが浮かんできたの。今もそう……ああ、もっと本を読んでおけばよかったと思うわ」
「どうしたんじゃいきなり」
「悲しいのよ、とっても。泣きそうなくらい。同じくらい辛い。ただ、なんで辛いのかもわからないし、それと同じくらいね、嬉しい、のかしら……そう、きっと嬉しいの。この気持ちを、どう表せばいいのかしらって。そう思ったの」
助手席に座る弾幕少女がどのように考えを咀嚼していくのか、早苗もつられて気分に波が立つ。だがその感情に名前を付けることが出来ないまま、車は次なる場所をフロントガラスの中に映した。寂れた住宅街を抜けた先。林の中の道を昇りきった先に見えたのは、真っ白な壁の大きな建物。この旅の終着点だった。
マミゾウを先頭に、霊夢たちは建物の中に入る。老若男女問わずに、ゆったりとした空気がそこには流れていた。
早苗はこの場所が病院だということは建物が見えた時点でわかっていた。そして、紫が見せた写真の中に、霊夢の実母ではない女の写真が混ざっていたこともまた、思い出していた。
「さ、会ってくるといい」
マミゾウが連れてきた職員に促され、霊夢はエレベーターに乗り込んだ。マミゾウも、早苗もいない。職員と共に下りた先、その廊下の突き当りに、先程見た扉よりも幾分か分厚くなった扉が見える。その扉の先、真っ白い廊下。少し方向感覚や距離感があやふやになるのを感じながら、霊夢は職員の背中を追っていた。その背中がぴたりと止まる。職員は事務的に、こちらですと霊夢に向き直った。
扉の横に、名前が書いてあった。それが誰の名前かわからず、そこで霊夢は彼女の真名を知らないことに気づいた。長い間、共にいたはずだったのに。その事実に少し、胸の奥が痛んだ。
「失礼します」
声と共に開けた。真っ白な病室。格子のかかった窓からは、あの日自分がせがんだ海が見えた。
女は、ベッドの上で半身を起こしていた。霊夢の声が聞こえたのか、ゆっくりと首を動かす。その瞳が、霊夢を捉えた。
様々な感情が、記憶が、霊夢の胸に去来した。その顔を見たのは何時振りだろうか。よろよろとベッドに近づき、その横に設えてあった丸椅子に座る。そんな霊夢の様子を、女はにこにことした表情で眺めていた。
「母様」
育ての親、先代の博麗の巫女は、霊夢の言葉を聞く。にこりと瞼を閉じたその顔を見て、霊夢は何処かで心の割れる音を聞いた。
永遠亭への帰り道。もう少しで迷いの竹林へ入るという道すがらで、椅子代わりの岩に腰掛けながら鈴仙は休息を取っていた。日はまだまだ天高く。もう暫くもすれば桜が咲き始めるだろう季節のことだった。
最近は薬を売ったり置き薬の確認などをした後に博麗神社に寄ることが日課となっていた。何度か泊っていけばと霊夢に誘われたこともあるが、丁重に断っている。本当ならばついていたいというのが本音だったが、人間ではないものの治療は門外である。自分がいたところでどうしようもないというのも現実であったし、何よりも、自分がいてはいけないような気がした。
魔理沙の話を思い出す。親に愛されてもらったことはあるかと。愛、というものを深く考えたことなど、少なくとも鈴仙の生の中では存在しなかった。考えなかったということは、満たされているということなのだろうか。
両親の顔を思い出す。地上に来てから随分と経った。記憶のなかにある顔は笑顔を浮かべているが、きっともう、この思い出のような顔はしていないだろう。だとすれば、思い出は墓碑なのかもしれないと考えていると、背中に微かな粟立ちを感じ、振り向いた。
「こんにちは、うさぎさん」
「……なによ」
「少し、お話でもどうでしょう?」
そのまま立ち去ることも考えたが、この妖怪に聞いてみたいことがあるのもまた事実だった。了承代わりに送った視線を受け止めながら、紫は隙間の縁に腰掛けると、礼を述べた。
「ありがとうございます」
「……どうしたのよ突然。礼を言われるようなことをした覚えはないのだけれど」
「あの子たちと一緒にいてくれて、助けていただきました」
あの子たち、というのが誰を指すのか。そんなことはわかっている。緩く拳を握ったことを自分自身気が付かぬままに、鈴仙は気にしないでと返す。
「私からも聞きたいことがあるの。答えてもらえるとは思っていないけれど」
「博麗の力、についてでしょう」
「……意外。もっと煙に巻くものと思っていたから」
「別に隠すほどのものでもありません。それに私も、あの力の源泉が何処から来ているかわかりませんし。ただ、あの力は意思、心のようなものでしょうか。それを持っているということだけは確かです」
意思を持つ力。言葉短ながらもその言葉に恐ろしさを感じたのは決して鈴仙の性格の所為ではない。ぎゅっと、拳に力をこめながら、鈴仙は続きを待つ。
「あの力は、持つ者の成長を促す時があります」
「成長?」
「ええ。力の持ち主が最高の性能を発揮できるように。最高の力を持ちながら自律することができるように。力は持ち主に試練を課すのです」
「……それが、あの子だと」
「ええ。あの子がもっと博麗の力を持つものとして相応しくなるように、使いこなすための精神性を獲得するために。きっとこの試練が終わった時には、あの子は今まで以上に、幻想郷の巫女として素晴らしくなる」
無意識だった。握った拳に溜まった熱は臨界点を超えて、紫の頬を打ち抜いた。わかっているのだ。この妖怪は、敢えてこんな言葉遣いをしているのだと。わかっているのだ。きっと、自分が手助けをしたいに決まっているのだと。
見据えた先の紫の表情に感情はなく、それが敬愛する師匠が時折浮かべる表情と似ていることが、鈴仙の鎮まりかけた心に再び火をつける。言われなくてもわかっているのだろう。だが、それでは、あまりにも浮かばれない。
「お前はッ、お前はッ……あの子は人間だ!! 泣き、笑い、霊夢を母と慕う、人間だろう!! わかるでしょう。永い時を生きている賢者様なら、あの子がどれほど重いものを背負っているのか、わかるでしょう」
鈴仙の脳裏にあの夏の記憶が走る。霊夢を心配し、必死に料理を作る少女は、祈りを込めていた。早く治るようにと。よくなるようにと。今、自分が口走っている言葉も、真実ではないこともわかっている。それでも鈴仙は信じていたいのだ。どれだけ眼が曇ろうとも、あの子の心は人間なのだと。
「霊夢は、自分で自分を育てなおしている。そうでしょう。とても悲しく、尊いことをあの子たちはしている。私はそれを助けたい。魔理沙だって、センセイだって、他のみんながそう思っている!! 声をかければいいじゃない。一緒に寄り添えばいいじゃないかッ!! 」
わかっているのだ、頭のどこかでは。様々なことを考えたうえで、紫は今の立ち位置を選んだのだろうことも、それでも霊夢の負担をどうにかして和らげたいということも、そこに自分が介在する余地がないからこそ、こうしているのだということも。
感情のない顔を戻すことなく、紫は隙間から降りると鈴仙の前に歩を進める。目線は外さない。ここで逃げるということは、あの時の少女の気持ちも自分の激情も嘘になることを鈴仙は知っていた。
「あの子たちのこと、どうか、よろしくお願い申し上げます」
自分が子供なのだと鈴仙は考えながら、必死に唇に力を込めた。何も言うことはできなかった。口を開けば、またも激情が溢れ出してしまうだろうから。紫から背を向け、鈴仙は逃げるように迷いの竹林へ駆け出した。
先代様と過ごした期間は短くはあったが、今でも記憶に残っている。女の私から見ても、綺麗な肌の色をした、美しい人だった。寡黙ではあったけれど、決して私のことを見捨てたりはしなかったし、修行は厳しかったけれど、その分優しくもしてくれた。お腹を痛めて、というわけではないのは知っているが、それでも私が、自分はもしや木の股から産まれてきたのではないかというような悩みを今まで持たずに過ごしてこれたのは、この人の存在が大きかった。
ある夏の日のことだった。鉄の色をした入道雲が大きな音を鳴らしているのを見た私は、言いつけられていた掃除を手早く済ませた。お説教よりも、濡れ鼠になる方が嫌だったのだ。ただ、普段よりも明らかに早く終わってしまったことをなんて言おうか。そんなことを考えていた気がする。居間にいた先代様が俯せに倒れていて、私はひどく取り乱してしまった。バチが当たったのだと、そんなことをぐるぐると回る頭の中で考えていた気がする。
本当ならば、とりあえず何があったのかを確認してから対応すればいい。家事だって教わっていたし、看病の真似事ぐらいもできる。だが、そう思っていながらも、どうしていいのかわからず、私はとにかく誰かを助けに呼ばなくてはいけないと、里へ向かって駆け出した。まだ、まともに飛ぶこともできない雛鳥がだ。今の幻想郷よりもはるかに危険な道程だった。あの時妖怪たちに食われなかったのは、運がよかったのだろう。
雨に打たれて何度も転んで、新調してもらったばかりの服を泥だらけにしながら、私は里にたどり着いた。結局、当時の私には倒れた理由はわからなかったのだが、先代様の体があまり強くないことは子どもながらに理解はしていた。もしかしたら、博麗の力を持ったことが原因だったのかもしれない。
里からの助けもあって大事には至らなかったが、結局私も風邪をこじらせてしまい、その次の日は二人仲良く布団で寝ることになってしまった。熱が上がって苦しくはあったけれど、先代様と二人で笑いあった記憶が、今も鮮明に残っている。
何時の頃だっただろうか、先代様が私に言ったのだ。里に下りて、習い事でもしてみないかと。思えば、彼女なりに私を気遣ってくれていたのだろう。あまりにもいきなり言われたので、多分我ながら間の抜けた表情をしていたと思う。
当時の私には、その話はとても魅力的なものに映った。神社の手伝いは面倒なことも多かったし、寂しいことも多かった。ただ、それと同時に嫌な気持ちも強くあった。
恥ずかしい事ではあるが、私はあの子供たちの輪に入る勇気を持てなかったのだ。ただ、それを悟られることも嫌だったので強がりながら断ったのだ。
先代様は驚いた顔を浮かべた後に、困ったような笑顔を浮かべていた。あの時、あの人が何を思っていたのか。今ならほんの少しだけど、わかる気がする。
そうして幾度か季節が巡って、先代様は神社を去って、私が跡を継いだ。
理由は、よく憶えていない。私は確か仕事で里へ下りたのだ。その頃にはもう寂しさとかそういうものは無くて、新しい博麗の巫女として今よりも随分と忙しかったことは印象に残っている。
陳腐な言い方かもしれないが、人里から山に沈んでいく夕日を眺めた時、まるで燃えているようだと思った。あまりにも西日が強くて目を細めないといけないあの感じが、火を眺めている時と同じように感じられたのだ。
仕事を終えて、大通りを歩いていた。特にあてもなくだ。さっさと帰ればいいものを、私は心のどこかで、外の世界に行ったはずの先代様に会えるのではないかと、淡い期待を持っていたのだ。
結局、見つけることは出来なかった。当たり前の話だった。すれ違う家族や親子連れの数を数えていくうちに、自分が酷く惨めに思えて、私は里の大路を駆け出した。
眠るときに少しでも温もりが欲しいと思って、もう先代様はここにはいないのだと改めて感じた。それから私はどれだけ布団が冷たくても眠れるようになった。それは、成長といえるのだろうか。
ただ、ただそれでも、彼女は確かに私の母だった。
「母様、かあさまっ」
女は、壊れていた。
もし会うことが出来るのならば、何を言おうか。まとまらなかったのだ。ただ、その必要は無かった。霊夢の問いかけに、女はゆるゆると首を動かした。理解をしているわけではない。ただ、女の魂はここではなく、自分の世界に閉じ籠っているということは霊夢にも理解が出来た。女が見ている世界に、もう自分はいないのだと。
思わず、女の手を強く握ってしまった。慌ててその手を放しても、女はただ霊夢の肩越しに海を眺めるのだ。その横顔があの頃、今よりも背が小さかった頃に見た横顔と変わりがなくて、今この瞬間が事実なのだと霊夢の胸を押しつぶす。
霊夢は布団越しに、女の膝に顔を押し付けた。涙が溢れて止まらなかった。声だけは出すまいと強く、ベッドシーツを握った。どんな結末でもよかった。だが、そんなものはくだらない幻想だった。女の手が、優しく、霊夢の頭に乗せられる。その行為になんの感情も無いことが、より霊夢の胸に激情を呼び起こすのだ。
「かあさま、かあさまっ……」
怒りたかった。悲しみたかった。褒めてほしかった。それすらも出来なかった。
胸の中にある激情が、昏く形を作っていく。渦のように、激しく広がっていくそれは霊夢の中にある感情や、記憶を飲み込んでどんどんと大きさを増していくのだ。何を壊したいのか。それすらもわからない。だが、このよくわからない昏いものを制御することが霊夢には出来ない。
「ぐ、ううっ……」
名前のつかない感情でぐしゃぐしゃになっているその霊夢の手に、何かが触れた。顔を上げる。手が、重ねられていた。
かかさま
レイが、横に立っていた。その顔を見て、ただ感情のままに、霊夢は娘を抱きしめた。
時は、一日巻き戻る。霊夢が外の世界で早苗と話している時、博麗神社には明かりが灯っていた。
「寝かしつけてきたぜ」
「ご苦労様っと、はい、永遠亭特性の竹酒よ」
「お、サンキュ」
そう言いながら、魔理沙はやれやれとした表情で炬燵へと足を滑り込ませる。主のいない博麗神社は、宴会の時を除けば普段よりも人妖密度が高いはずなのに、何故か静かに感じられる。魔理沙は竹の節目に空いていた穴から、ぐい呑みに酒を注ぐ。微かな青臭さが、知らず魔理沙の飲酒欲求を刺激した。
少女が霊夢の前に現れてから、魔理沙は何度も博麗神社を訪れている。一番はもちろん霊夢のことが心配だったということがある。だが、少女の存在が例え例外的で少しではあったとしても、魔理沙は霊夢の周りに起きた今回の出来事に風を感じていたこともまた事実だった。
少女は、普段ならばとても寝つきがよいことを魔理沙は知っていたが、何故か今日に限っては大分とぐずったのだ。やはり、かか様がいなくてはならないのだろう。
(違うか?)
あの星空を鑑賞したときのことを思い出す。あの時、少女の腕は確かに透けていた。そして自分はいずれ消えるとも。ぐずついている理由は、もしかしたら恐怖なのかもしれない。考えてみれば当たり前の話ではある。だが、やはり少女が何を思っているか、その真意まではわからないし、分かってもどうしようもないのだ。これは、霊夢と少女の話なのだから。
こちり、こちりと柱にかけられた時計が針を鳴らす。鈴仙と魔理沙は互いに酒をあおりながら来客を待った。どちらが酒を新しく持ってくるか互いに指遊びを始めたところで、玄関を開ける音が聞こえた。
「あら、人里のセンセイじゃない……どうしたのよ、こんな夜更けにここを訪ねてくるなんて」
「なに、ここ数日あの子が寺子屋に来ていないからさ、見舞い代わりの看病さ。主は今はいないんだろう?魔理沙から聞いたんだ、それに呼び出されたものでね」
「私が呼んだんだ。ちょっと、真面目な話がしたくてな」
鈴仙も慧音も、今日は魔理沙に呼ばれてここにやってきていた。慧音は寝付いた少女のいる寝室の襖を開けた。少女の寝顔を見て安心した表情を誰にも見られずに浮かべると、すぐに表情を戻して炬燵へと足を潜らせる。どうして、霊夢のいない時に魔理沙に呼ばれたのか。慧音は察しが悪い方だと自覚はしていたが、それでもなんとなく感ずるところはあった。
慧音に酒を差し出した魔理沙は、しばらく天井に視線を巡らせていた。既に夜も更けている。慧音が差し出された酒を空にしたのを見計らっていたのだろう、魔理沙は鈴仙、慧音の順に視線を投げかけると。わざとらしく大きな息を吐いた。
「霊夢に確認は取ってある。ただそれでも、私は嫌な奴だ。霊夢のいないところで、きっと私は自分以外にも荷物を持ってほしいんだ」
「荷物って、霊夢の事? まあここに呼ばれたんだからそうでしょうけど」
「自分のことを卑下する必要もないとは思うがな。興味があってここに来たんだ。そういう意味では私たちもさほど変わらんさ」
「いや、違うんだ。言い方が適切じゃあなかったかな。私はもしかしたら」
霊夢を、可哀想だと思っているのかもしれない。
魔理沙の口からするりと出たその言葉には、滑らかさとは裏腹に、痛切に満ちていた。ぐいと酒を一気に煽り、魔理沙は口火を切った。既に思い出していたのだろう、その語り口に、兎と白澤は耳を傾けた。
博麗霊夢は、先代の博麗の巫女に育てられた。外の世界で産まれた霊夢がどのようにして幻想郷に辿り着いたのか、その経緯は定かではない。人為的な力が働いたのは間違いがないだろうということは、明白だった。
先代もまた、今の霊夢と同じくらいの年だった。幾分か身体が弱かったが、スペルカードの無い時代に、それでも献身的に幻想郷のために、日々を精力的に過ごしていた。
先代は、霊夢のことを『レイ』と呼んでいた。自分の名前から一文字を取ったというその名前を、幼かった霊夢は大層気に入っていたらしい。当時、魔理沙は何度か親と共に博麗神社を訪れたことがあるが、今よりもお転婆な少女だった。
先代の巫女は、霊夢を時に厳しく、そして時に愛情をもって育てた。そのことについて霊夢は何の疑問も抱いていなかったという。このままでいけば、麗しい話で終わったのかもしれない。だが、そうはいかなかった。
「私も後から知ったんだが、先代様は……心が一杯一杯だったんだ。まあ、無理もないと思うよ。今以上に切った張ったの世界だったんだ」
先代の巫女にとって、霊夢の存在は自身が正常でいるための縁であり、砦でもあったのだ。魔理沙の語りを聞いて、慧音も数年前のことを思い返していた。慧音自身は先代の巫女と親しい付き合いがあったわけではなかった。何度か街の催しや地鎮祭などで見たことがあるくらいだ。だが、その程度の知識しかなくとも、先代の巫女がどうなったのかという顛末は記憶に残っていた。
「初夏だった。人里で殺しが起きたんだ。最初、里の住人は妖怪だと思って当時除霊や退魔で名を上げてた奴等や、猟師たちにも付近の妖怪退治を依頼した。ただ、妖怪を退治しても殺しが止まることは無かった。むしろ妖怪に返り討ちにされる奴まで現れちまう始末さ」
「……鈴仙殿は知らないかもしれないが、事件当時の人里は、本当に厳重な警戒がなされていた。それこそ蟻の一匹も、というやつだ。私も子どもたちを一まとめにして帰っていた覚えがある」
「それでも寺子屋をやっていた、ということも私には驚きなんだけどね。しかし、そんなことがあったとは。のほほんとしているのに、ねえ」
「畑仕事に出なくてはならない者が多いしね。どうしても、ということだったのさ。そして、一月が経っても解決が出来ず、当時の里の顔役たちは体調が思わしくなく療養していた、博麗の巫女に助けを求めた」
療養していた、というのは言葉こそ濁しているものの、きっと”両方”だったのだろうと鈴仙は二人の話し口を聞いて確信していた。話がどう繋がっていくのか確かに興味はあるが、ハッピーエンドというわけではないこともまた、この幻想郷に先代の巫女がいないということが物語っていた。口を挿まず、目で続きを促す。一息ついた魔理沙の告白を、慧音が引き継ぐ。
「犯人は、悪霊に憑かれていた里の住人だった。先代の巫女は犯人を退治こそしたが、その際に深い怪我を負い、その後暫くをして亡くなった、と聞いている……けど、違うんだろう?」
「ああ、怪我を負ったというのは本当らしいが、先代様は外の世界に連れていかれたのさ。幻想郷では治すことが難しかったらしい」
「そんなに酷い怪我だったの?」
鈴仙の問いに、魔理沙は首を横に振り、しかしぴたりと止まると今度は首肯した。少し俯いた魔理沙の表情は、前髪に隠れて視線が鈴仙から隠れる。誰もが喋らなくなった空間は、冬独特のいやな静けさに包まれた。そして、しばらくの間を置いて開かれた魔理沙の言葉に、鈴仙の耳が動いた。
「憑いていなかったんだ」
「……何ですって?」
「犯人には、何も憑いてなんかいなかったのさ。怨恨か、貧してか、好奇心か。何が理由なのかまでは知らん。ただ、先代様が退治したのは間違いなく人間だったらしい。犯人がどういうやつだったか、三途の川を越えて直接閻魔に聞いてきたんだ。間違いは無いだろうさ」
人が、人を殺す。それがどれほどに重いことか。人の道を歩んできた魔理沙も、人に道を教える慧音も、そして命を奪うということが職務に入っていた鈴仙も、なまじ人間と触れ合ったがゆえに、その重さを重々承知していた。
理屈ではないのだ。同族を殺すというのは、その魂に重く、錆びた鎖を巻き付ける。そして事あるごとに錆が魂を蝕み、鎖の重みで魂を締め付ける。それを耐えられるというのは、ある意味では才能なのだ。そして大体の者はその重みに耐えきれず、沈んでいく。
「先代様は気が付いていたのか、いなかったのか。それは最早わからない。ただ、その犯人に手を下して、先代様は限界を、超えてしまったらしい。公には死んだことにされ、幻想郷の英雄とされた。そして霊夢が跡を継いだんだ……霊夢は」
孤独だったんだ。そう呟いて魔理沙は口を閉じた。
「私は、霊夢が好きだ。だから、あいつの力になってあげたいし、助けても欲しい。けど、それでも私はこの話を誰かに話した。私も結局、自分がかわいいだけなのかもしれない。そう思って……」
俯いたまま言葉を続ける魔理沙の眼前に、ことりとぐい呑みが置かれた。魔理沙が顔を上げた先には、何も言わずに酒を飲む、鈴仙と慧音の姿があった。言葉は無かった。それが、魔理沙にとっては慰めだった。そこからは何も言わずに各々が酒を注ぎ、飲み干し、そして倒れるように眠った。各々が各々の胸にしまうという、それは儀式だった。
重い微睡みから魔理沙が目を覚ましたのは、既に次の日の正午が近づこうとしている頃だった。未だに夢の中にいる半獣と兎を見て、よい仲を持ったと微笑む。そして次に、レイのことが頭に浮かんだ。朝餉の準備をしなくては、きっと腹を空かせているだろうと魔理沙は寝室の襖を開けた。
「……レイ?」
そこに、レイの姿は無かった。そしてその日の夕方に霊夢と共に帰ってきたのだ。
霊夢が外の世界に行ってから、数週間が経った。朝晩は未だに冷え込むが寒さは段々とやわらぎはじめていた。その日も霊夢は少女と共に縁側で陽の光を浴びていた。ほうと吐いた息はまだ微かに白く煙る。霊夢がちらりと横に視線を向ける。そこに居たはずの少女は、白手袋に抱かれていた。
「あら、もう冬眠は終わったの」
「ええ。もう大分と暖かくなってきたからね」
隙間妖怪、八雲紫は霊夢の言葉に応えながら腕の中にいる少女をあやす。少女は自身が何者に抱かれているのかもわかっていないのか、にこやかに微笑みながらゆかり、ゆかりと声を上げた。
「ふふ、可愛い。食べちゃいたいくらい」
「ぶっ飛ばすわよ」
「おお怖い怖い。かか様は怖いですねー」
紫のおどけるような語尾につられて少女もねーと紫に返す。陽の光が紫たちを照らすその景色に霊夢はどこか頭に甘い痺れを感じながら用件を尋ねた。隙間妖怪は大なりであれ小なりであれ、理由が無ければ神社に現れることが無いことを知っていたのだ。
腕から解放された少女は、少々覚束ない足取りで今度は霊夢の胸元に飛び込む。紫から目線を外さずに、霊夢は少女を抱きとめる。陽光に照らされた金の髪は白く輝き、霊夢の黒の髪もまた陽光を吸い込んで白く光る。
「霊夢」
「なによ」
「辛いわよ」
その目線は鋭く、口元から笑みを消して、紫は告げた。紫の顔を少女に見せぬように抱きしめながら、霊夢は言葉を紡ぐ。自身が少女の頭を撫でているのに気づかぬままに。
「……母様に会った時、私の心は酷く波立ったわ。自分でも抑えることができないような黒いものと、幼いころの記憶が混ざって、とても辛かった。ああいうのを絶望っていうのかしらね」
撫でていた頭がもぞりと動く。霊夢が落とした視線の先で、嬉しいのか楽しいのか、少女は霊夢を見上げて笑い、その首に手をまわした。
「もう、甘えん坊さん……きっとあのままだったら、私はこの世界に負けていたと思う。初めてだった。足元が無くなって落ちていくような。異変とか、妖怪退治とか、そういう時に感じるものじゃなくてね、ただひたすらに辛いものに負けそうになった」
「今は違うのかしら?」
「どうかしら、ね。ただ、立っていることは出来ると思う。もしこの子が」
言葉は続かず、霊夢は少女を抱く腕に力を込めた。それは心の声を少女に聞かれぬようにするために出た自然な行動で、そして霊夢は気づいていない。それは親がすることと変わりがないことに。
そう、と紫は呟くと片手を宙に薙いだ。裂けた空間にぬるりと身体を滑り込ませていく。それだけ言えるなら、きっと大丈夫ねと言葉を残して。空間が閉じて、そこには陽光だけが降り注ぐ。まるでそこには何もいなかったように。
かかさま
耳元をくすぐるように声が聞こえる。少女はお腹が減ったと霊夢に言う。お昼にしましょうかという霊夢の言葉に少女は飛び跳ねながら居間へと駆け込んでいく。
あの時、霊夢が外の世界に行ってから、少女の身には異変が起こっていた。背は少しずつ小さくなり、寺子屋で覚えていった言葉を、段々と忘れていった。替わりに感情がより豊かになり、そして声こそ小さいものの、よく泣くようになった。少しずつ、少女は幼くなっていったのだ。
少女の後姿を見て、霊夢は誰に言うこともなく確信を得ていた。この生活は、もうあと僅かなのだろうと。
昼餉を摂った少女を膝に乗せながら、先程紫が来た時と同じように縁側に佇む。家事は既に大体が終わっており、特に仕事の依頼もなく、つまりは暇だったのだ。
ふと、撫でていた少女の髪の毛が、軽く指に絡んだ。反応がないことに気づいて顔を覗き込むと、きっと満たされたのだろう、少女は寝息を立てていた。霊夢は自身が同じように膝の上に乗っていた頃を思い出した。
まだ空も飛べない頃に、膝の上に乗りながら、空を眺めていた。先代の巫女がそんな自分の髪を梳いてくれたことをいまだに覚えている。あの頃は、ただ享受していただけだった。ただ、こんな時間が続けばいいと。穏やかな日を見ながら微睡に沈むことが、霊夢は好きだった。そうして日が傾いたころに、優しく揺り起こされて、一日の終わりを感じたのだ。
少女は、何を思いながら夢を見ているのだろうか。聞きたい気持ちもあったが、それよりもただ、この瞬間を噛みしめていたかった。胸の奥にある気持ちが、きっと幸せというものの欠片なのだろうと。
先代の巫女も、あの時このような気持ちでいたのだろうかと撫でていた手を止める。風もなく、日はまだ高い。音も、動きもない世界はただほんの少しの温かさと、幸せだけで形成されている気がした。
微かな身じろぎの後に、少女が閉じていた瞼を開く。目線の先の少女は、霊夢にとっても不思議な感じがあったが、以前に感じていた『子供の頃の自分を見ている』ような感覚は大分と薄くなっていた。
「どうしたの?」
少女の言葉はない。しがみつく腕に込められた力が、今では言葉代わりになっている。何か訴えたいことがあるが言葉がわからない時の態度である。昔の自分は、悪い意味で聡かったのかもしれないと霊夢は自問する。こんなに、正直に自身を表現したことがあったのだろうかと。きっとあったのだろう、だが、記憶の箱の奥底にまで潜り込んでしまっているようで、だからこそ霊夢は少女と幼いころの自分が違うのだと考えていた。
少女はただ、何も言わずに霊夢を見つめ返す。その眉尻が下がっていることから何かしらを訴えたいことはわかる。諭す霊夢の言葉に、しかし少女はしかめ面を戻さない。なんとなくそんな気がして、霊夢は少女の名前を囁く。
「レイ」
ただそれだけで少女の顔には笑みの花が咲いた。
その夜、少女は熱を出した。
次の日。霊夢は目を覚ましたところで、己の身体に違和を感じた。昔、初めて空を飛んだ時に感じた、あの全能感に似たような感覚が身体を走っていたのだ。
軽く伸びをし、拳を二度三度と握る。確信した。自身の身体に博麗の力が満ちていることを。久しぶりの感覚だったからか、少しばかりの窮屈さを己の内に感じたが、それもすぐに慣れるだろう。元々霊夢と力は一つだったのだから。
隣でまだ夢を見ている少女の寝顔を眺めながら、紫の言葉が霊夢の頭に浮かぶ。辛いと。そんなことはもう分かりきっていた。熱は少し落ち着き、少女の寝顔は穏やかなものになっている。どのような結末を迎えるにしても。きっと悲しみに暮れるのだろう。それはきっとすぐ間近にまで来ているもので、ただ抗うという気持ちはわかなかった。諦観でも、絶望でもなく、受容できるのだ。
「成長、したのかしら」
あの時、壊れた先代を見たときに、霊夢の心は確かに軋み、ひび割れたのだ。砕けなかったのは決して自分の力だけではない。少女がいてくれたからだ。おせっかい焼きの風祝も、面倒を見てくれた狸妖怪も。そしてこの楽園の人妖たちが、自分の心を形成している一部なのだと。
成長とは、なんなのか。確かに以前に比べると自分でも変わったように思う。だがそれが正しい方向に進んでいるのかはわからない。その自問と自答は、きっとこの先も尽きることはないのだろう。
かかさま
「あら、おはよう」
お互いに何ということのないやり取りを交わす。随分と長い時を一緒に過ごしてきたが、霊夢の内にあった思いは、自身の身体に戻った力で確信になっていた。今日が、きっと最後なのだということを。
互いに無言のまま、顔を洗い、朝餉を摂る。縁側に座ると、桜がつぼみをつけ始めるのが見えた。腿に感じる愛しい圧迫感。少女と一緒に境内を眺める。
「レイ」
何度となく読んだ少女の名前。続く言葉を紡ごうとして、ぐっと喉が詰まるのを必死に隠した。あの時のように、先代を見ていた自分が感じていたように。少女の前でだけは、見栄を張っていたかった。
かかさま
「なあに?」
レイは、レイは。強いかかさまをみたいです
少女の言葉と同時に、空気が揺れた。神社の上空に穴が開き、ずるりと何かを吐き出した。それは粘性のある墨を全身に塗りたくられたような、巨大な赤ん坊だった。その顔は目を閉じていたが、霊夢と、そして少女に似ていたのだ。
この子はきっと私が抱いてきたものなのだと、自身の中にあった、ないがしろにしてきたものが形を成しているのだとなんとなく理解ができた。少女を膝の上から降ろし、霊夢は赤ん坊と相対する。
『巫女以外にになりたいと思ったことはないのか』
昔、魔理沙がそんな質問を投げかけたことがあった。その時霊夢は素っ気なく特にないと返した。考えるのが面倒だったというのもあったが、恥ずかしくて言えなかったのだ。先代の後姿に憧れていたということを。
意識が戻る。赤ん坊は霊夢の身体より一回りはあろうかという掌を、弾丸のように突き出した。質量をもった死の形に、しかし霊夢は避けることも受けることもせずに、重ねるように広げた掌を眼前にゆっくりと突き出す。
霊夢と赤ん坊の手が触れ合う。ただそれだけだった。ただそれだけで赤ん坊の手は弾け、黒い体は光の粒子となって消えていった。最初からいなかったように、神社には静寂だけが残る。霊夢が視線を少女に向ける。驚いているのだろうか、固まったままの少女は何度か眼を瞬かせると、霊夢に視線を合わせる。その顔に、笑みが浮かんだ。その笑みが別れの笑みだったことに気が付いて、霊夢は口を開いた。
「今日は、宴会をしましょう。とっても大きい宴会を」
博麗霊夢復活の報。それは弾幕勝負を随時受け付けるという文言とともに知己悪友たちに瞬時に広まった。快気を祝うもの。冷やかしに来たもの。弾幕をしに来たものと、人妖が入り乱れた博麗神社は、久しぶりの大盛況に包まれていた。
勝手に屋台を広げるもの。それに舌鼓を打つもの。待ちきれないとばかりに喧嘩を売り歩く者もいれば、それを諫める者はいない。そんな博麗神社の境内で、霊夢は参道を挟んで魔理沙と対している。
「久しぶりだからって手加減なんかしないぜ」
「別に構わないわよ。負けた時の言い訳にされても困るしね」
「言うじゃあないか。この一年で進化した魔理沙様の妙技に酔いしれるといい!」
空に飛びあがり、舞のように鮮やかな弾幕勝負を繰り広げるその背中を、風祝に抱きかかえられながら、少女は見つめていた。
人間たちも妖怪たちも、各々が楽しんでいる。それは力だけしか持たなかった少女にとって、決して届かない理想郷であった。それを叶えてくれたのだ。それだけで、もう充分だった。
結局霊夢は並みいる挑戦者を全て退け、宴は終わりを告げた。酒と弾幕によって死屍累々の様相を呈している境内や茶の間と違い、寝室では霊夢と少女が同じ布団で天井を見上げている。響くのは誰かの鼾と時計の音。それだけだった。
かかさま
少女が呟く。闇夜に紛れるような小さな声に、霊夢はなあにと返す。
ありがとう、ございました
少女の言葉を聞いて、霊夢は天井を見る目に力を込めた。
「ねえ、レイ」
霊夢が呟く。少女が横を向くのと一緒に、霊夢も顔を少女に向けた。深い夜の帳が、輪郭だけを視界に映す。少女を柔らかく抱きながら、霊夢は耳元で願う。
「かかさまって、よんで」
……かかさま
「もう一回」
かかさまっ
「もう一回」
もう……かかさまっ
耳にかかる少女の声を、霊夢は必死に記憶した。きっといずれ忘れてしまうであろう声色を、思い出に脚色されてしまうその声を、少しでも焼き付けるために、霊夢は眠りに落ちるまで何度も少女に呼びかけるのだった。
朝だった。霊夢が目を覚ますと、乱痴気騒ぎをしていた者たちは一様に姿を消し、神社は整然とした姿を取り戻していた。誰もいない、ただ静寂だけがある神社を一通り見て回り、誰もいないことを確認してから、寝室に戻った霊夢は少女が着ていた服を抱きしめ、ただひたすらに声をあげて泣くのだった。
力を取り戻した博麗の巫女は、それからも大小様々な異変を解決に導くことになる。巫女は、ただ己の信ずる道のままに生き、そしてたくさんの者がそんな巫女に魅了された。そして巫女も、ただ自然に、助ける者を助け、挫くべき者を挫いた。博麗の巫女は幻想郷において最も中立な存在であった。だが、決して孤独ではなくなっていた。
かあさまっ
ぴくりと身体を震わせて、霊夢は振り返る。巫女服と大きなリボンでおめかしをした少女は、小動物のようにとたとたと忙しなくかけながら、霊夢の膝の上に腰を下ろす。思い出を映したテレビの電源を消して、外へと出る。今日は永遠亭へ先代の見舞いに行くことになっていた。
最近は日常生活程度なら問題なくできるようになっている。あの頃に感じていた絶対的な憧れは、もう消えていて、ただ彼女も自分も同じ人間なのだということが、少しずつ分かってきた。見舞いに行くたびに少女がばば様と呼ぶのをどうにかしたいとぽつりと言っていたが、もうしばらくは無理だろう。
少女の手を離さぬように、石段を下りていく。木の幹と土肌の荒涼とした冬は終わり、もうすぐ桜が咲くだろう。
かあさま
「なあに?」
さっき、なにをみていたのですか?
少女に言ったことは無かったなと口を開き、一度閉じた。霊夢は少女を抱き上げる。その思い出にあったのは、少しの悲しみと、沢山の幸せだった。
「知りたい?」
はいっ
「あなたの、とっても素敵なお姉さんのお話」
冒頭の霊夢のように、その時の思い出を閉じ込めたビデオを一人で物思いに耽りながら観ているような気持ちで読みました
とても人間らしいお話をありがとうございます
悩みながら進んでいく霊夢や、周りの人達の交流なんかもとても良かったです。母親になって分かることなんだろうな、とぼんやりと思いました。
本当に良かったです。ありがとうございます……
ビデオカメラを通した記録として描写するのが巧妙ですね
オリ設定もりもりでしたが、とても楽しめました