まず、顔を拭う。汗や皮脂は化粧の天敵だ。隅々までしっかりと、蒸らした毛巾で拭っていく。
すっかり汚れが取れたなら、次に顔全体に白粉をはたいていく。これは言わば、化粧全体の下支えだ。
それから、色を乗せていく。頬に耳、それに目元。この色の差し方が、上手か否かを分ける。ただ乗せる、では駄目なのだ。出来るだけ自然に、美しさを引き出すように化粧を施す。朱を目立ちすぎない程度に、頰に差す。目元は青みを抑えるように白粉を厚く塗り、目が大きく見えるよう薄紫の影を付けた。血色が良く見えると、美しさがぐっと引き立った。
最後に、紅を唇に乗せた。
何処からかため息がもれる。言葉には言い尽くせない賛辞が、それには詰まっていた。
全てを丁寧に、抜かりなく、祈るように。
だってこれは、死者への手向けなのだから。
九代目阿礼乙女稗田阿求は、明け方に静かに息を引き取った。
「……御臨終です」
白い手首に触れていた医師は、そう言って手を離した。
静寂。沈黙。枕元に集っていた一同は皆等しく、目の前の死に打ちのめされていた。まるで時が止まったような錯覚すらあったことを覚えている。
心臓の鼓動一つで何か致命的な出来事を引き起こしてしまいそうな、そんな緊張感が場を支配していた。
それを破ったのは、
「ふ、ふぇぇぇん」
幼い弟、求仁の泣き声だった。
彼があの時、母の死を正確に理解していたとは思えない。
だけど、彼は何かを感じたのだろう。
身動きしない母の姿に。
周りの大人の雰囲気に。
それに、ぎゅうっと彼の手を握った私の横顔に。
求仁は、幼い頃からそういう子だった。
「うぇぇぇぇん、うぇぇぇぇん」
求仁は声の限りに泣き続ける。私は彼を慰めようと、頭をそっとなでた。縋り付くように、弟は私に抱きついてくる。私は彼をあやすように、ゆっくりと背中を叩いた。
彼にとっては、もう私しかいないのだ。その事実は、じわじわと私の胸を締め付けた。生まれる前に父を亡くし、母の記憶も長じれば消えてしまうだろう。彼にとって私は、姉であり、母であり、親であり、唯一の肉親になる。彼を護るのは、私の責務だ。
私は「それ」に目を向けた。
母。いや、母だったモノ。
母は美しかった。白磁のような肌、ぬばたまの黒髪。それに、妖しさすら漂わす深紅の唇。死に化粧を施された姿は、生前よりも綺麗なくらいだ。
ただ、彼女はもう目を開くことはない。本当か嘘かも分からない怪しげな昔話を語ることも、夜半まで黙々と筆を動かし続けることも。眠った私の頭を、不器用に撫でてくことも、もう、ない。
私は、弟を強くかき抱いた。
この子は、阿礼乙女を知らぬままに、その子としての生涯を送ることになる。それはとても、とても残酷なことのように思えた。
求仁は泣き続けた。わんわんと泣く彼に引きずられるように、其処此処からすすり泣きや嗚咽の声が聞こえ出した。旅逝く者に手向けられる、哀悼の合唱曲。
その中心に身をおいて、それでも私は泣けなかった。ただ胸の奥に、黒々とした穴が開いてることを意識させられただけだ。時折じくじくと痛むその穴から、私は目を背けた。
ふと、顔を上げる。この場において、私を除き唯一感情に流されていない人間が、目くばせをした後に腰を上げる。私は弟を隣にいた従姉に託し、彼の後に従った。
「……寒いな」
廊下に座り込んだ、大きな背中の持ち主が呟く。襟元に染め抜かれた橘紋が、今ばかりは萎れたように見えた。
「あれが生まれた日も、思えばこのような吹雪だった。もっともあの時は、あれが御阿礼と分かった直後に止んだがな。御阿礼とは天候すら操るのか、と阿呆な儂は思ったよ」
「……大伯父様」
「理解していたつもりだったがな。あまりに、儚い」
私は大伯父に倣い、廊下に座り込んだ。硝子戸越しに雪化粧の庭を見つめるこの人物こそ、稗田家直系にして本家の当主代行。いや、母が亡くなった今、代行は取れて正真正銘の稗田家当主だ。
稗田は御阿礼の子を絶やさぬことを意義とする家だ。必然、生まれ出でた御阿礼の子は名目上であっても当主の座に就く。御阿礼が子を残さない、或いは直系の血筋であった場合はそれでも良かった。
だが母は、九代目阿礼乙女は、血も薄くなりかけた分家筋の人間だった。
そして、私がいた。厄介なことに博覧強記、四歳の頃には歴代の幻想郷縁起を全て諳んじられる天才だった。家中に私も阿礼乙女なのでは、と言う者もいたくらいだ。
全く、馬鹿馬鹿しいにも程がある。彼らは稗田に連なる者ならいの一番に教わる事実、御阿礼の子が出るのは百数十年に一度という事実すら脳内に留めておけないのだろうか。
「なあ、求慈」
「はい」
「なりたいか、当主」
「……はい?」
私が悶々としていると、ひょいという感じに老人が言った。
「だから、なりたいか? 当主」
「……なりたい、と言ってなれるものなのですか」
「なれるぞ。儂がなれる、と言ったらな。お前だって、耳はあり目はあるだろう。自分について語られていることも、知っとるだろ」
「それは、まあ」
「だから、なれる。お前さえその気になればな」
「本家の伯父様伯母様が、納得するでしょうか」
「せんだろうなあ」
からからと笑いながら、大伯父は答えた。それがどうした、と言わんばかりだ。
「それがどうした」
言ってしまっていた。まったく、この老人は。
「下世話な流言に耳を貸す必要は無いし、他者の思惑を忖度する必要も無い。儂が尋ねとるのは、お前の意思だ。何をしたいか。大事なのは、ただそれだけだ。……だが、一つだけ」
そこで初めて、大伯父は私を見つめた。
「お前は、阿礼乙女ではないぞ」
「……そうですね」
私は、阿礼乙女ではない。あんな風にはなれない。ならなくてもいい。大伯父の言葉は、じんわりと私の心に染み込んだ。
「母の代わりなんて、私には無理ですよ」
口にした途端、肩からすっと力が抜ける様な気がした。
「そうか」
大伯父は頷いた。この人がわざわざ私に尋ねた理由。今の気持ちが、その答えなのだろう。
「ありがとうございます、大伯父様」
「なに、年寄りの冷や水よ」
なんでもない、と言うように、大伯父は私の背中を優しく叩いた。こういうところがあるから、誰もがこの老人を嫌いになれないのだ。
「それで、どうする、お前」
「は」
「たわけ。今後の生活よ」
「今後の生活、ですか?」
「ああ。なんかあるだろ」
「……出来れば、弟と二人で暮らしていきたいです。小川の家を使わせて頂いて。あそこは、私たち家族の思い出が多いですから。しかし、」
一息ついて、私は続けた。
「私が決めていいのですか。それは、大人の方が決めることでは」
私が言うと、大伯父は奇妙なものでも見るように私の方をじっと見た。私はなんだかむずむずした。老人の瞳に、見慣れない光があったからかもしれない。それが哀しみという感情なのだと私が気付いたのは、それからずっと後のことだった。
「求慈。お前、幾つだ」
「数えで、六歳です。弟は二歳」
「……そうか」
大伯父はそれきり、しばらく窓の外を見つめていた。私も、それに倣う。
いつの間にか、日が暮れていた。硝子戸から外を覗く事は出来ず、見えるのは鏡写しになった私の姿だけだった。私は、私を見つめる。
母に似ている、と良く言われた。容姿も性格もだ。おかっぱ頭だと見分けつかないわね、と笑って言ってくれたのは、小鈴の叔母さまだった。それが嬉しくて、以来私はずっとおかっぱだ。
いくら周囲が持ち上げたところで、能力で母に及ばない事など誰に言われずとも分かっていた。ただの天才などでは到底辿り着けない場所に、母はいた。その事実に打ちのめされたこともあったが、母の力になりたいという思いが私を支えた。最後の二年間だけだが、母の執筆の助手を務めることができた。母の力になれた。それは、私の誇りだ。
そして、弟がいた。私は彼を、守らなければならない。
「……お前は、もう大人だよ」
大伯父はそう囁いた。
「えっ」
「大人だよ、お前は。立派な、な」
それだけを言い残し、大伯父は母のいる部屋へと戻って行った。
一人取り残された私は、再び外を見た。
闇の中に、母がいる。その瞳から、はらりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
あれから、随分と年月が経った。
私は石を擦る手を止め、出来栄えを確かめた。充分、綺麗だろう。そう判断し、手桶に束子を放り込んで流し場に向かった。雪が緩み始めたとはいえ、水はまだまだ冷たい。それでも、其処彼処に顔を出す草の芽は、生命の息吹を十二分に感じさせた。
水を流し、掃除用具を片付けて戻る。少年が花を片手に、うんうんと考え込んでいた。
「求仁。終わった?」
「ごめん姉ちゃん、まだ」
求仁は悪びれずに答えた。まあ、私も期待はしてない。この弟は、私からすればそんなことで、と思うような部分に、物凄いこだわりを見せることがあった。今も、花の色や角度、配置を何度も手直ししている。花なんて供えてあればそれでいい、と私などは思うのだが、求仁は首を振った。
「だって、母さんに見せるんだから。綺麗な方がいいじゃん」
当然だ、という口ぶりで弟は言いのけた。彼にとっては眼に見えない想い、そのものが何よりも重要なのだ。そういった他者の想いに対する感覚は、弟は私などよりはるかに優れていた。
「よし。まあ、これでいいか」
ようやく納得する形になったのか、求仁が声を上げた。やっぱり、私には違いがよくわからない。それでも弟を労うように頭を撫でてから、私たちは墓石の前に佇んだ。
揃って、手を合わせる。母の墓は、私たちの住む家の庭、その片隅にひっそりと建っている。ごくありふれた立柱状の墓地は、しかしその実、細心の注意を払って造られていた。宗教の色を、出来るだけ排除したのだ。
幻想郷は仏教、神道、道教などの宗教勢力が水面下で危うい均衡を保っている状況だ。仮に今、里の代表者と目される稗田の当主が何れかの宗教に傾倒したと見なされたとしたら、地下での争いが表面化する可能性がある。母には死した後にも、それだけの影響力があった。
私は五秒ほど目をつぶって、手を合わせた。特に思うことは何もない。墓前で手を合わせるのも私にとっては供えの花と同じ、ただの儀礼に過ぎない。
目を開け、横の弟を見る。求仁はこれまた真面目に、母に手を合わせ続けていた。唇が音も無く動いている。何を、語りかけているのだろうか。 彼には、母の記憶すらないはずなのに。
そうして弟を見つめていると、出し抜けに声を掛けられた。
「求慈ちゃん、求仁くん」
ちりん、と鈴の音。振り返ると、片手に花束を持ったちんまりとした女性が、門をくぐってこちらに歩き寄ってきていた。
「小鈴叔母さま、お久し振りです」
私は頭を下げる。求仁も手を合わせるのをやめて、ぺこりとした。
「む。その叔母さまっての、いい加減やめてほしいんだけどなぁ」
唇を尖らせ、叔母さまは不満げに言った。思わずくすりとしてしまう。このやり取り自体が、私たちの交わす挨拶のようなものだった。
「それにしても求仁くん、大っきくなったねえ。私、あっという間に抜かれちゃった」
「この前測ったら、五尺六寸を超えてました」
やや自慢げに、求仁は言った。
「え、そんなにあったの。お姉ちゃん聞いてないわよ」
「言ったよ、俺」
「言ってないわよ。だって、聞いた覚えないもの」
私がぴしゃりと言い放つと、求仁は顔をしかめて沈黙した。ことこういう口喧嘩において、私は弟に負けたことがない。
くすくす、と笑い声が聞こえた。
「仲良いわね、ふたりとも」
袖口で口元を隠すようにして、叔母さまは笑う。その時、ようやく私は気付いた。
「叔母さま、その服」
「うん、形見分けでね。私の方が似合ってるぞ、って見せつけてやろうと思って」
見せびらかすように、叔母さまは両手を大きく開く。袖に花模様のあしらわれた黄色の着物。かつて、母が好んでよく着ていたものだ。
「はい、お願い」
叔母さまは思い出したように、持っていた花束を求仁に押し付けた。
「生けてきて頂戴。ちゃんと水が揚がるように、少し切ってね」
「わかった」
求仁は頷いて、水場まで駆けて行った。私に対しては反抗することも増えてきたが、根の素直さは変わらないのだ。
「……」
叔母さまは母の墓前に座り込んで、静かに手を合わせていた。なんとなく居心地が悪いので、私も右に倣う。線香についた白檀の香りが、鼻腔をくすぐった。
「……早いね。あなた達を見るたびに、そう思うわ」
ぼそりと、呟く。私は横を向く。叔母さまが手を合わせたまま、その頰をつう、と涙が滑り落ちた。
あっという間ね、時が経つのなんて。まさか、あなたが先とは思わなかったけど。
声が聞こえる。夏の日差し。蝉の鳴き声。沈香の香り。
……違う。これは、違う。
これは、今じゃない。
「……求慈ちゃん?」
気づくと、叔母さまの顔がすぐ目の前にあった。奇妙に、視界がぼやけている。何回か瞬きすると、はっきりと顔が見えた。目元を優しく手巾で拭われる。いつの間にか、私も泣いてしまっていた。
「……母を、思い出しました」
涙を拭う手が、束の間止まった。
「父が亡くなった後、母も泣いていました。叔母さまの様に、手を合わせたまま」
「……そっか」
私は石に彫り込まれた文字を見た。母の名。先に逝った父に寄り添う様に、並べられている。
「求慈ちゃん、お父さんのことは?」
「憶えています。手が大きくて、よく笑う人でした。求仁が産まれる前に、流行り病で亡くなりましたが」
いかにも文学青年、という面差しだったのに、一俵は軽々と持ち上げられるがっしりとした体軀の持ち主だった。幼い頃の私は、父に肩車されるのが好きだった。視線が急に高くなってはしゃぐでなく、泣き出すでもなく、ただじっと周囲を見回している、そんな一見無関心の癖に何度も肩車をねだる私を、変な子だなあ、と言っては持ち上げていた。
「うん。求仁くん、似てきたよね」
叔母さまに言われて、初めて私は記憶にあるふたりの顔を比べてみた。……うん、確かに似ている。笑い顔なんか、そっくりだ。
「背なんかあっという間に伸びて、びっくりしちゃったよ。求慈ちゃんと並んでると、ほんとに……」
そこで、不自然に叔母さまは口をつぐんだ。
何かを堪えるように、小さな肩が震える。
「ほんとに……ふたりが……」
私はそっと、叔母さまを抱きしめる。腕の中で毀れてしまいそうな、華奢なからだ。私も女性としては背の高い方なので、からだ全体を包み込むように抱きしめられる。
「あ……ああ……あああああ……!」
叔母さまが、呻く。長く堰きとめられていた感情が決壊するように、悲痛な声が長く、長く続いた。
「阿求……阿求……どうして……!」
(…………ああ)
私は、心の中で嘆息した。
この人の中では、母がまだ生きているのだ。
生きて、生きて、どうしようもないほどに生きていて、だからこそ、この矛盾に耐えられない。
母が、既にこの世のものではない、ということに。
胸の奥が、ちくりちくりと疼き痛む。
黒々と開いたそれは、母が亡くなって以来感じ続けているものだ。
「ごめんね。突然泣き出しちゃって」
「いえ」
「ありがとう。……本当に、お母さんそっくりになったね、求慈ちゃん」
お母さんそっくり。
何度、その言葉を聞いただろうか。
いつでも、私は母と較べられた。あの、母と。
私が普通の女の子だったら、いつまでも母への尊敬を抱き続け、それで終わりだっただろう。よくわからないけど、凄かったひと、として。
だけど私は、中途半端に天才だった。母が如何に外れた存在か、正確に理解してしまっていた。
母のようになれる?冗談でしょう?
成長に従い、その想いはますます強固になっていく。いつしか、母は越えられない絶対の壁になって、私を押し潰しそうになっていた。
私は母じゃない。声にならない声で、私は叫ぶ。
比べないで。私を、私自身をちゃんと見て。
心の中で暴れまわる言葉の刃は、しかし喉を震わせて外へ出ることなく、私の内へ内へと沈んでいった。
「求慈ちゃん?」
訝しげな表情をしたおばさまに、なんでもないです、と私は笑いかける。胸の痛みは、続いている。
私がいくら拒絶しようと、世界が求める私は、稗田阿求の娘で。いくら世界を呪おうと、私は母の生き写しなのだ。
「母なら、どうするだろう。そんな風に考えてました」
「うん」
「笑いますね。着物、似合ってないって」
「……あ〜〜」
うんうん、と叔母さまが頷く。
「だから、」
えへん、と咳を一つ。そして、顔に笑顔を張り付けた。記憶にある、母の笑顔を。
『だから、いつまでもその服を着てて欲しいわ。そうすれば、いつまでも私たち、好きな時に笑えるじゃない?』
叔母さまの眼が、大きく見開かれる。その瞳からぽろり、と一際大きな涙が零れ落ちた。
私に出来るのは、こんな事だけだ。生き写しと言われた母の影を、演じる事だけだ。
「……うん。約束」
一つ頷いて、叔母さまは私に、いや母に笑いかけた。
「ありがとう。私、前を向いて生きていくよ」
「そうして下さい。素敵な知らせ、待ってます」
「あれ、知ってた?」
叔母さまはぺろりと舌を出しながら、膨らみかけのお腹にそっと手をおいた。
「ええ。割と有名でしたよ。……ところで、向こうで旦那さまがずっと待ってますけど」
「ああ、うん。そうね、行かなきゃ」
そう言って、叔母さまは手を振って立ち去った。
「ばいばい、阿求」
『ええ、また来世』
「姉ちゃん」
求仁が戻ってきたのは、叔母さまたちが行ったすぐ後だった。
私は縁側に腰掛けて、ぼうっと庭先を眺めている。
「あんた、途中から隠れて聞いてたでしょ」
「……うん」
「ヘタレねぇ」
「うるさいな」
花瓶に生けた花々を供えながら、求慈は言い返す。
「ねえ、求仁」
「うん」
「……なんでもない」
頭を振ってごまかす私を、弟は切なそうに見つめていた。
「姉ちゃん」
「なによ」
「姉ちゃんは、姉ちゃんだよ」
その言葉は、確かに私の心に突き刺さった。
私は動揺を悟られないよう、瞳を閉じる。求仁は時々こうして、私の心を読んだような言動をする。
「俺にとっては、優しい姉ちゃんだ。時々、おっかないけど。でも、母さんでも、父ちゃんでもなく、姉ちゃんは俺の姉ちゃんだよ」
「……ばか」
私はふいとそっぽを向いて、家の中に引っ込んだ。こんな顔、見せられない。なんとなくそう思った。
私は、そっと襖を開けて、その部屋に立ち入った。紙の匂いと、墨の匂い。この家全体に染み付いているものだが、ここは特にそれが強い。
私は入り口に一番近い角、そこに敷かれた座布団の上に腰を降ろした。そこは、かつての私の指定席だ。
部屋の中央に今も佇む文机を見つめ、そっと目を閉じた。
母の記憶が、ここにはあった。
母の執筆活動が本格化したのは、父が亡くなった直後あたりからだ。多分だが、自分の残り時間も意識せざるを得なかったのだろう。
その変化は激しかった。母の予定に「余暇」の二文字は事実上なくなった。
朝起きて、朝食を食べ、机に向かい、昼食をつまみ、机に向かい、夕食を摂り、机に向かい、湯を浴びて、眠る。
最後の方はそんな有様で、昼を抜くこともしばしばだった。日々やつれながらも黙々と筆を動かすその姿は、まるで人形めいていた。
私は稗田の家中で子弟に施している基礎教育をできる限りの早さで修めると、母の手伝いを始めた。校正、清書、書き上げたものの整理など、言ってみれば執筆に伴う周辺作業が、私の担当だった。
だから母の書いたものは、私は全て目を通している。文章には、筆者の人となりがどこかで滲み出る。そこから読み取ったものと、普段から接していた母の振る舞いとを組み合わせて、限定的なら、私は母になりきることだって出来た。
こうしてこの部屋にいると、思い出す。澱みなく動き続ける筆先。定期的に文机から下ろされる、墨の色も新しい原稿の数々。ちらちらとゆらめく蝋燭の灯。私からは影になった、母の小さくなった背中。
全てが懐かしく、同時に胸を締め付けられるような思い出だ。
私は文机の前に座ってみた。そうすることで、少しでも母に近づけるような気がしたからだ。
「……なんてね」
私は、そっと呟いた。母に近づけるなんて、考えるだけでも愚かしい。そのことを私が骨身に沁みて思い知ったのは、まさにこの場所だ。あれだけの文章を、瞬く間に書き上げてしまう。それも、特に文献などを当たったりはしない。全ては、頭の中だからだ。そんなことができるのは、後にも先にも母だけだろう。
私に出来たのは、ほんの些細な手伝いだけ。
それでも、私は信じていた。母のくれた、ありがとうの言葉。役に立てたのだという想い。
母は、私を愛してくれたのだと。
「……ん?」
文机の下にいれた手指が、妙な感触を伝えた。穴だ。指を突っ込むと、板のようなものにぶちあたる。
もしかして。私は文机の引き出しを引く。思った通り、二重底だ。私は二重底になった引き出しの中を探る。母はここに、何を隠したのか。
やがて、私の手が引っ張り出したのは、
「……日記?」
角の丸くなった、文庫本だ。表紙に母の字で「日記」と書かれている。
こんな場所に隠すとは。余程、読まれたくなかったのだろうか。母が日記をつけていたとは知らなかった。私が知らないのだから、多分他の誰も知らないのだろう。
好奇心は猫をも殺す、なんて言葉がちらりとよぎる。だけど、私は誘惑に抗えなかった。
ぺらり、と日記の表紙をめくる。
そして私は、母の物語を知った。
母の日記は、父との出会いから始まっていた。初めて知ったのだが、父は外来人だったらしい。外の知識を得る為に、母は父に近付いた。見返りに父が里に根付くことの出来るよう、あれこれと世話を焼いてあげたようだ。未知のものへの興味が好意に変わり、やがてそれが愛情となる。その過程が事細かに綴られていた。母の日記は、父への愛情に満ちた眼差しに溢れていた。
父が亡くなった後も、それは変わらなかった。父を喪って、溢れんばかりとなった母の愛情の鉾先は、今度は求仁へと向かっていた。曰く、食べ方が父とそっくりだ。曰く、寝顔が父と瓜二つだ。母は求仁を通して、父の姿を見つめ続けていた。
この子は、きっとお父さんそっくりに育つ。
日記には何度も、この言葉が出てきた。
最後の頁をめくる。
私のことは、ただ一言。環境が整って、執筆の効率が上がった、と喜ぶ文章。日付けは、私が母の助手を始めた日だ。
そこに、私の名前は無かった。
(……ああ)
視界が、急速に暗くなる。
がたん、と音がした。
自らの体が文机に突っ伏しているのを、どこか他人事のように感じている。
胸の奥から、激痛が襲ってきた。いくらかきむしっても無駄だった。いつか心の中に開いた穴が、奈落のように黒々と広がっていく。
耳元で、繰り返し囁き声が聞こえてくる。
それは、心に開いた穴を自覚した時にも聞こえてきた声。
何度も何度も否定してきたその声が、今は拒絶出来ない真実であると認めてしまっている。
名も無き声は私に囁く。
お前は、愛されてなどいなかったと。
その日の深夜、私は竃へ火を入れた。
乾燥した紙束は焚付けに最適だ。
ぱちぱち、ぱちぱち。墨と紙が燃える匂い。
表紙に書かれた端正な「日記」の文字が、ぐにゃりと歪み、灰にのまれていく。
私は、火が燃え尽き灰になるまで、その様を眺め続けた。
涙が止めどなく、私の頬を濡らし続ける。
まず、顔を拭う。汗や皮脂は化粧の天敵だ。隅々までしっかりと、蒸らした毛巾で拭っていく。
すっかり汚れが取れたなら、次に顔全体に白粉をはたいていく。これは言わば、化粧全体の下支えだ。
それから、色を乗せていく。頬に耳、それに目元。この色の差し方が、上手か否かを分ける。ただ乗せる、では駄目なのだ。出来るだけ自然に、美しさを引き出すように化粧を施す。朱を目立ちすぎない程度に、頰に差す。目元は青みを抑えるように白粉を厚く塗り、目が大きく見えるよう薄紫の影を付けた。血色が良く見えると、美しさがぐっと引き立った。
最後に、紅を唇に乗せた。
鏡の中の少女が、妖艶な笑みを浮かべる。
全てを丁寧に、抜かりなく、祈るように。
だってこれは、死者への復讐なのだから。
扉が開く気配がして、私は振り返った。
薄暗い室内に、光が漏れる。私はそっと、そちらに歩み寄った。
「母……さん……?」
震える声で、求仁は訊ねる。私は唇を歪めて笑った。花の髪飾りに、母の着物。化粧を施した私は、見た目的には母そのものだ。
「やっぱり、そうよね」
「……姉ちゃん?」
私は求仁の、目の前に立った。いつの間にか、私よりも高くなった顔を見上げる。
私の、おとうと。愛しい、おとうと。
「求仁」
抱きつき、背を伸ばし、口付けをする。
「姉ちゃん、なにして、」
「駄目」
「……何が」
「名前。呼んで、求仁」
求仁の顔が、歪む。私はぼろぼろと泣いていた。
「わたしを、みて。あなたは、あなただけは、わたしを、」
わたしを。言い募ろうとした時、予想外に強い力で抱き締められた。
「求慈」
呼ばれた。名前。
思わず、口付けをする。求仁も、それに応えてくれた。互いの唇にむしゃぶりつき、舌を絡め、唾液を啜り合う、浅ましいふたり。
ずっと、守っているつもりだった。弟だけは自由に生きさせてやりたい、その為にやってきたつもりだった。
なんのことはない、守られていたのは私の方だ。
母の呪縛から逃れる為に、私はずっと、求仁を利用してきた。欲しい時に、欲しい言葉をくれる存在。そんな彼を利用して、私は自分自身を保ってきた。
それは、今も変わらない。
ようやく、唇を離す。つう、とふたりの間を糸が引き、すぐに切れた。
「ねえ」
耳元で囁くと、求仁はびくりと震えた。手を取り、部屋の奥の寝台まで導いた。大きな手。父のような。
私は、着物をはだけた。誰にも触れさせたことのない柔肌が、蝋燭のゆらめきの中で浮かび上がる。ごくり、と生唾を飲み込む音がはっきりと聴こえた。
母は、この子の事は愛したのだ。
どろりとした悪意が、胸を焦がす。だからこそ、これは復讐なのだ。
このからだは。この髪は。この脚は。このおしりは。このおっぱいは。このあそこは。この子宮は。これは、これらは、母ではない。ぜんぶ、ぜんぶ、私自身のものなのだ。
だから私はこのからだを、思いつく限り最低の方法で穢してしまう。それは、母なら決してやらないことだから。それが、私が母でなく、私自身であることの証明だ。
手を取り、左胸に押し付けた。反射的に蠢く指の感触に、思わず声が漏れる。求仁の呼吸が、一段と荒くなった。
「きて、求仁」
上目遣いで、そっと囁く。
その瞬間、糸が切れるように、彼の理性が限界を越えた。
荒々しく抱きしめられる。そのまま、寝台に倒れこんだ。
快感が、身体中を包み込む。
私は、叫んだ。快楽のおもむくままに、叫び、身をよじり、身体中を汚していく。
ああ。私は、わたしは、稗田求慈だ。
他の誰でもなく、私は、わたしなのだ。
姿見に映った女の顔。紅の唇が、にんまりと微笑んだ。
髪飾りの具合を確かめていると、背後に気配を感じて振り返った。
「本当に、それで行くの」
求仁が、やや不満げな口振りで言った。
私は微笑んだ。今日の私が着ているのは、母のお下がりだ。桃地に桜の花柄。化粧をした私の姿は、誰が見ようと。
「母さんの真似事なんて、しなくても」
「……いいのよ」
私は言った。心からの言葉だ。私はそっと求仁を引き寄せ、口付けをした。
甘い痺れが脳内を駆け巡る。これさえあれば、母の影に怯える事ももうない。たとえこの世界の全てが私を母の紛いものとしか見なさなくても。たった一人だけは、わたしのことを愛していると信じることができるから。
「じゃあ、行くよ」
「あ、待って、求慈」
母にとって私は何だったのだろう。
道具としか、見られていなかったのだろうか。
あまりにも似過ぎた者への、憎悪があったのだろうか。
それとも。文字に出来ないほどの、大いなる愛があったのか。
もう、どうでもよかった。今の私にとって、求仁の存在が全てだ。彼だけがいればよい。丁度、母が父を求めたように。
そこまで考えて、思わず私は笑いそうになった。
まったく、私たち母娘はそっくりだ。
違う点があるとするなら、それは、私には母にはなかった劣等感、挫折感、に満ち満ちていることだろうか。
まあ、それも仕方ない。
「ね、求仁」
「なに?」
「手、握って」
ルージュの唇が、心の中でそっとささやく。
私は、阿礼乙女ではないのだから。
お見事でした。
きっと求慈はこの先何度も阿求と比べられるのでしょうね。そしてその度に喉元まで上る感情を押し殺し、母が愛していたであろう弟を征服したことを噛みしめ、その度に復讐の炎を燃え上がらせて、そしてそのあとどうなるのかはわかりませんが、復讐というのはそういうものだとも思います。
長々とした文章になってしまいました。ご馳走様でした。面白かったです。