堀川雷鼓は上機嫌だった。
腕はすこぶる痛むが、観客の反応は上々。プリズムリバーwith H、今日もまたまた絶好調。
自分の出番以上にひやひやしたのが、ゲストとして参加することになった弦楽デュオ「九十九姉妹」、弁々と八橋の演奏。
(初となる大型ライブに尻込みする二人を半ば強引に誘ってしまったので)本番間際まで膝の震えがずっと止まらないようでけっこう責任を感じていたが、立派に背中に歓声を受けて帰ってきた二人を見れば、要らない心配をしていたと自分まで笑顔になってしまうのだった。
他のものが見ればおかしいと思うかもしれないが、私はライブが終わって片付けが済み皆が帰った後も、一人で会場の空気を味わうのが結構好きだった。
さっきまで荒れ狂うような熱と叫びに満たされていたのが、嘘みたいで。
それでも、私が居て、にぎやかな三姉妹とおしとやかな二人が居て。皆が集まってくれて。
そのおかげで、この何も無かった空間があんなに素敵な時を過ごせる場所になったんだって。
ありがとう。また、戻ってくるからね。 そう心の中で呟き、足を裏手の帰り道に向けようとすると。
『あの・・・』 どこか心細そうな声が静かな空洞に響いた。
「そう…当り前の様に人間の里で見るから忘れてしまっていたけど、貴方も付喪神だったわね。わざわざ待ってくれなくても、よかったのよ。」
「いえ…何というか、同じ付喪神としてどうしてもお話したくなっちゃったもので。ライブの直後で疲れているでしょうに、こちらこそすみません。」
赤青鮮やかな二つの目が気弱そうにこちらを伺う。
「全然OKよ。ちょうど、誰かと飲みたい気分だったの。いい雰囲気でしょう。ここ。私のお気に入りの場所なの。」
傘の付喪神、多々良小傘。どうやら訳アリの彼女と共に、人間の里の片隅にある居酒屋に腰を落ち着けていた。
「本当に…ただただ、凄いなって。…あの騒霊の三姉妹はもちろん、付喪神の雷鼓さんも、弁々さんも、八橋さんも……本当に、皆さん輝いてました。大切な役割を持ってて、それぞれがしっかりとそれを果たしていて。」
「そう?どうもありがとう。でも、そんな話がしたくて居残っていたわけじゃないんでしょう。」
舞台の上から見た時から彼女は変わらず笑顔だったが、どことなく、かげりのような何かをそこに見るのは私だけだろうか。
雨でも降り出したのだろうか、先ほどから天井をこつこつと打ち叩く音が段々と勢いを増していく。
小傘は杯をことりと置いた。
「そうですね…すごいなって思ったのには違いないんです。だけど…自分も同じ付喪神なのに、なんでこんなに違うのかなぁって。私もどうしたらそんな風になれるのかなぁって。もちろん皆さんみたいになれるわけないです。…私も人のために働いているんですけど…鍛冶屋と、ベビーシッターです。だけれど……皆さんに比べれば、月とすっぽんです。鍛冶の依頼なんてあんまり来ませんし、ベビーシッターも自分なりに頑張っているんですけど……子供達に…傘がダサい、どんくさいなんて言われて。なんだか……自分は人とうまく繋がれないなぁって、自分に向いていることなのかなぁって思ってしまって。……。すみません、こんな愚痴をぶつけられても、しょうがないですよね。」
なんだか疲れてしまったような横顔を下に向けている。いつもならば、きっと見ているこっちが元気になってしまうような愉快な笑顔を見せるのだろう。けれど今の彼女にはその光がなかった。
「うーん、人とうまく接することができない気がするのね。でも一緒にライブに来てた子が居なかった?妖怪には見えないし、仲もよさそうに思えたのだけれど。」
「ああ、早苗のことですね。…いつも私にかまってくれるし、色々なところに連れて行ってくれるんですけど…いや、早苗は私のことをどう思ってるか知らないけど、本当に仲はいいんですよ。…でも冗談なのか、それとも本気なのか分からないけど……初めて会った時から、なすび色だの、時代遅れだの言ってくるんですよ。……少ない私の友達だから…それが一番辛くて。」
そうだったのか。付喪神は出自上、自分に自信を持てないのも多くいる。彼女も、そんな一人だったのか。
偶に里で見かける彼女を見る限り、上手くやっているように思えた。本人が思っている以上に仕事の能力はあるみたいだったし。
能力はそれなりにあるようだけれど、気負いすぎてしまっているのか、成功が無いわけではないのだろうけど、失敗ばかり気にしてしまっているようで。
及び腰で気弱に周りと自分を見比べてしまう癖から、なかなか抜け出せないようで。
そんな彼女に、 今一番必要なもの。 それは…………
「『変身』、よ。」
「え?」
「変身よ! 小傘、今の自分が許せないなら新しい自分に変わればいい。」
焼き鳥か何かの脂がまわっているのか、恐ろしく滑る床に足を取られそうになりながらも、それを蹴って豪快に立ち上がる。小傘はきょとんとした表情のままだ。
「貴方も見たでしょう、あのゲストで参加していた付喪神の姉妹の。貴方にはどう見えた?」
「はい…初参加って聞いてたのに、とっても上手く弾けてて、とっても楽しそうで。…そしてとっても、綺麗で。なんだか道具としても、付喪神としても本当の自分になれてる、って感じでした。」
「その通り。あの子たちは、『変身』したのよ小傘。 …私だってそう。昔はこんなことが出来ると思いもしなかった。でもね、私たちは変わった。古い自分を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わったの。だから……貴方も試してみない?付喪神の小傘。」
「そんな…私にはとても……」
「方法はあるわ、小傘。貴方、その傘がコンプレックスなのよね?それなら、いっそ取り替えてしまうってのはどうかしら?かくいう私も、昔は和太鼓なんかにくっついていたのだけれど、ドラムに鞍替えしたの。そのおかげで今はほら、新しい自分として前よりもずっと毎日が輝いて見えるわ。」
「自分のついている道具を取り替えれるなんて…そんなことが本当に?それが、貴方の言う、『変身』なんですか。」
「…それはきっかけに過ぎないの。その力を得て何に使うのか、何を見つけたのかは私達もそれぞれだったから。けれど、保証する。貴方なら、きっと何かを掴めるわ、小傘。」
ちょっと泣き出しそうだった左右非対称の目に、控えめだけれど、何かを期待しているような晴れ間がさしていた。
東風谷早苗は不機嫌だった。
腕は昨日ライブではしゃぎすぎたせいだろうか、すこぶる痛い。おまけに妖怪の山までの長い帰り道に雨が降り始め、ようやく本殿に辿り着いたときには、ぼろぼろに擦り切れた濡れぞうきんにでもなった気がしたものだった。
いつもなら雨から守ってくれるはずの彼女は、すっかりあの堀川なんとかとか言う、あの趣味の悪い地獄の女神とどこか同じ潮流を感じる変なパンク野郎に魅せられてしまったらしい。久しぶりに外食にでも誘おうかと思っていたのに。
「さなえ~~ごはんまだ~~~?」「早く作らないと隣の帽子かぶったカエル丸呑みしちゃうぞー」「冗談でもそれはマジでやめろ」
「…今作りま~す。」
まったく、親に食べ物をせびるひな鳥ですかアンタらは。一応神様なんだから、自分のご飯くらいくらい自分で作れないものか。というかそもそも食事する必要があるんだろうか。
もうだいぶ日も昇っているようで、枕元に目覚まし時計があれば、もう何度目かのモーニングコールを叫んでいることだろう。けれど勿論幻想郷にそんなものないし、代わりに聞こえてくる怨嗟の声も限界まで無視することにする。
昨日の小傘さんのことを思い出す。わざわざ会場に残ると自分から言い出した彼女。あんなに積極的になるなんて珍しい。何かを思い詰めたような、深刻そうな表情。これも彼女らしくない。私は小傘さんのことを、知っているようで何も知らなかったのかもしれない。そんな私の驚きも困惑も全部、あの堀川某に奪われた気分。…
ああもう。なんだか気分が沈んでしまう。ふとんを顔の半分近くまでずり上げる。
「さなえーーー」「はいはい、分かりましたよ!」「もう、そうじゃないってーーーー」
襖が左右にずれて、諏訪子様が顔をのぞかせた。「お客さんだよ、早苗。」
いそいそと身支度を整える。叩き起こして勢いと流れでご飯を作らせる作戦かとも疑ったが、どうもそんな様子はなかった。いつも着ている服をざっと身にまとう。鏡を見てざっと全体をチェック。よし。流石に髪飾りをつけている暇はないからこれでいい。
それにしたって、こんな朝から誰がーーーよく知った顔がひとつ頭に浮かぶが、それをふるふると振り払う。ああもう。小傘さんなんてロックにでもかぶれちゃえばいいんですよ。
あのうるさい騒霊たちと、弦楽器の姉妹と、堀川某と、舞台の上でぜんぜん似合わないパンクの服を着てきんきんする歌でも歌っていればいい。
そんな小傘さんを遠くから眺める想像をして、ちょっと笑った。
春も中ごろとはいえ、山の上はよく冷える。手を動かして寒気を払う。
もれてくる朝の鋭い光に目を細めて立ち向かい、扉に手をかける。
「おはようござ…」
「あっ…ごめんね早苗、こんな朝早くから。…どうしても早苗に見て欲しくってさ。」
誰だコイツ?目の前に美少女が居た。黒くぴかぴかしたドレスで着飾っている。
レースやフリルの黒い艶が眩しい。空の底がぬけたみたいな青い髪色の上には、ちっちゃくてお洒落なこれまた黒い帽子。なんというか、この世のものじゃない感じの綺麗さ。
「早苗…?」
しかもなんか親し気に話しかけてくるし。
「うわぁぁぁなんかすみません。そういう勧誘間に合っているんで。宗教家の方ですか?本殿の方見れば分かると思うけどウチはガチガチの神社なんですよ。なんなら神様引っ張ってきましょうか。それ以外の用でしたら、多分パーティー会場かなんかと間違えてらっしゃるのでは。では私はこれで。」
営業スマイルは今日も快調。東風谷早苗、この面倒そうな現場をシャットアウトするべく扉に再び手をかける。
すると扉が滑り閉まり切ってしまうより速く、勢いよく手に掴まれた。
「ちょっとひどいよ早苗!?ほら、わたし!わちき!こ・が・さ!多々良小傘だよう!!」
「えっ・・・小傘さ、貴方っ、小傘さんなんですか?ちょ、えぇえ!?」
トレードマークの赤青鮮やかな目が無かったら気づかなかったかも。目の前のこの少女は、確かに多々良小傘だと認識できる声をしていたし、私もよく見知った顔をしていたのだけれど。
それを覆い隠してしまうほど、この壮麗な衣装と、大人びた雰囲気が私のよく知る小傘さんとちぐはぐで。
「どう早苗?私、『変身』したんだ。」「えっ…変身って……」
「堀川さんに教えてもらったんだ。元の道具を変えたら、ほら、こんなに綺麗になっちゃった!あの傘にも結構愛着があったんだけど、早苗も趣味悪いって言ってたしね。」
あっ。本当だ。服にばかり気を取られて気づかなかったが、あの、趣味の悪いなすびを押し固めたような傘が、フリルのついた高級感あふれる黒傘に変わっている。私は確かにあの傘のことを悪く言っていたのだけれど……
「それでそれで、どうしても早苗に見て欲しくって。どう?どう?感想聞かせて?ねっ」「あ……そうですねぇ……」
突然のことで頭が付いてゆかず、言葉が出てこない。確かに、今の小傘さんはすごく綺麗だ。
けれどなんというか、そう、私が小傘さんに感じていたなにかが少し欠けてしまっているようで。
私が答えに詰まっていると、「さなえ~~終わったー?お腹が限界なのか、なんかもう神奈子の目が死にかけてるんだけど~」すっかり忘れかけていた声にはっとする。
「あ~っと、小傘さん、わざわざ山の上まで来ていただいて申し訳ないんですけど、まだ朝食の準備がまだで。」なんだか逃れる言い訳のようだけど、ここは一旦待ってもらって、仕切り直すことにしよう。
「そうなの?じゃあ私が手伝おっか。」そう言うと私の横をさっと通り抜けて奥の方へ上がっていってしまった。「ちょっと、小傘さん!?」
慌てて後を追う。こんなに自分から何かを進んでするほど積極的だったっけ。なんだか、小傘さんが、小傘さんじゃない感じ。ほんとに変身しちゃったのかも。
「えっと、お待たせしました~私が手伝ったんですが、皆さんのお口に合えばと思います。」
小傘さんは手伝うと言ったが、始めから終わりまであまりにもてきぱきと小傘さんのやり方でこなしてしまったので、どちらかというと私が手伝った形になった。
「おお、小傘ちゃんじゃないか。なんだか都会の娘さんみたいでかわいいよ。」「どうもありがとう。本当に見違えたね。」「えへへ~そうでしょうかぁ?」
私が予想していたほどお二人は驚かなかった。きっと無駄に長く生きている分「オイ早苗、神の聴力ナメんなよ」
「これは……驚きだ。今までそんな機会もなかったが、小傘ちゃんがこんなに料理が得意だったとは。」「そうそう。早苗の作ったやつより全然」頸動脈に御幣を押し当て黙らせる。
「ささ、早苗も食べてみて。」
促されるままにまずは味噌汁を口に運ぶ。あっ。何の出汁を使ったのかは分からないが、悔しいけれど、本当にいつものより味に奥行きが感じられて。なんだかじんわりと。体の芯から、不思議と心まで暖かくなるようで。
「美味しい…小傘さんスゴいですよ、こんなこともできたんですね。」「ふふっそうでしょうそうでしょう。」
水加減か、火の入れ方か何を変えているのか、ご飯もふっくらと炊けていて食感もいい。焼き魚もよく焼けているのだけれど、どこも崩れたりしていない。ちょっとした銀細工みたいだ。
あっという間にみんな平らげてしまった。
「…ご馳走様でした。ほんとに美味しかったです。こんなことなら、小傘さんの特技にもっと早く気づけば良かったです。」
私たちの新鮮な驚きに囲まれて、小傘さんも少しはお腹が満たされただろうか。
「ありがとう。ところで早苗、ご飯が済んだら、これからちょっと私に付き合ってくれる?」
「いいですけど……どこに行って何をするんですか?」
「人間の里。今日の私ね、なんか、いける気がする!」
思えばこれもなんだか新しい。どこかに出かけるときはいつも私が小傘さんを誘っていた。なんだか、前よりイキイキしているような。そう、ほんとうに人が変わってしまったようだ。
昼前の人間の里の雑踏を小傘さんは危なげもなくずんずんと通り抜けていってしまう。なんとか歩調を合わせようとするが、人ごみを避けていくのが難しい。
「よ、よーし、頑張るぞぉ~」
なんだか、小傘さんにすごく視線が集中してる。特に男性からの。自分が注目されている訳でもないのに妙な気分になってしまう。
「…この辺りにしようかなぁ」
「へぇ。小傘さんにしては珍しく人気のある場所を選びましたね。今日は奇跡を使ってあげてもいいですよ。」
小傘さんが泣きついてきたときに、または私の気分がのったときに奇跡を起こして小傘さんを助けてあげることは時たまあった。
まぁ、それでも結局上手くいかないことの方が多かったんだけど…
それでも。私のちっぽけな奇跡でも笑顔になってくれるのは、貴方くらいだったから。
小傘さんは私と顔を突き合わせて、すこし思案しているようだった。
「じゃあさ、手を握ってくれる、早苗?」
「こう、ですか。」
なんでもないことなのに、今日に限ってなんだか不器用になってしまう。
そう、いつもの、なんでもないことなんだ。流石に人の目があるから過剰に感じてしまっているのか、小傘さんのイメージががらっと変わってしまっているからか。
それと、小傘さんの手が、少しだけ冷たく震えている気がした。
「早苗はさ、私が驚かすのが苦手なの、どうしてか分かる?」
「そりゃまぁ、まず見た目が怖くないし、そもそも飛び出すときに足をもつれさせたり、色々とどんくさいんですよ。」
「うぐ…それ言われちゃぐうの音も出ないけども!もっと他に他に!!」
「人が…怖いから?」
「うん・・・」
半分茶化して誤魔化していたけど、小傘さんは勿論、ずっと前から私も知っていたその答えは。小傘さんも私も、きっと言葉にしてしまうのを避けていたんだろう。
小傘さんがまだ傘だった頃に負った痛みは、今もきつく心を蝕んでいる。消えないのは、それが付喪神としての彼女の在り方だからだろうか。
それなら、小傘さんの在り方が変わったのなら?
「今だってすごく怖い。奇跡のおかげもあったけど、早苗が一緒になってくれたらちょっと楽になった気がしたの。きっと一番私を大切にしてくれる人だから。でもやっぱり私の問題だから私の力で克服したい。」
そういうと、小傘さんは握った手に一層力を込めた。
「だから、私にちょっとの勇気だけちょうだい。」
自由になった手に傘をぎゅっと掴んで、小傘さんが離れていく。十尺にも満たない距離がなんだか、遠く、遠くに見えてしまう。
「小傘さん…」
「はぁい、ワン、ツー、すりー☆」
間の抜けた掛け声を追いかけるように歓声が沸き起こる。
おお、なんということだ。
あの、陰キャでちきんでおまけにアスペルガーな小傘さんが、手品でオウディエンスを沸かせている。いや、最早彼女は小傘さんじゃない。
傘立て生まれ、路地裏育ち。ドレスはノーブルだがルックスはキュートなエンターテイナーだ。
前方に呼ばれた人がトランプを選ぶと、同じ柄のトランプを小傘さん・・・の持っている傘が上品に吐き出す。流石に傘の装飾も上品になっただけのことはあると感心する。いやそうじゃないだろ。そこから出すのか。
タネもコンセプトも理解不能だけれど、小傘さんの左右の目の色が瞬きするたびに次々と入れ替わる。赤と青だけかと思ったら、えんじ色、ゴールドにレインボーと割と自由だった。なにそれ。
ぱん。開いた傘から白いハトがこれでもかと飛び出す。もう唖然とするほかない。ハトが飛び出しそうなのは私の開いた塞がらない口だよ。
こんなことを挙げていくとキリがないのと、時を追うごとに人が集まりすぎて最後ら辺とかもう殆ど小傘さんが見えなくなってしまったので結論から言うと、こうして大好評のままに小傘さんの初舞台は幕を下ろした。
「ただいま早苗!どうだった?すごかったでしょう!?」
「イヤホント・・・」
「えへへ~そう言ってもらえると心が弾むなぁ♪あっ、そうだ、いろんな人からこんなにもらっちゃったんだ。」
小傘さんの衣装に良く似合った小さな帽子のなかに、オブラートに言うところの『お気持ち』が入っていた。清蘭屋のみたらし団子なら、50本くらいならかるく包んでくれそうだ。
「もうお昼だし、これでご飯いかない?今日は私のおごり!!」
「や、そんなの別に…」
「遠慮なんて体に毒だよ?ささ、一緒に行こう!」こーして私は、半ば強引に引っ張られるように真昼の賑わいの中へ。
「どうしたの早苗?食べないの?」「……」
今、私たちは普段なら来ないような、ちょっといい所の食事に来ている。「ん~美味しっ!驚きとご飯で満腹でわちきしあわせ♪」
本当に隙が無いというか。
茶碗には食べかす一つないし、慎重に発掘された化石のように魚の骨だけが残された綺麗なあり様。
いつもは口の周りにご飯粒をいっぱいくっつけている小傘さん。
酷い時には、汁物を派手にひっくり返してしまう小傘さん。そんな小傘さんの面倒を見るのが同席する私に当たり前のようになっていて。
だけど、いつもの小傘さんは、もうどこにも居ないんだって。そんなことをふと、考えてしまった。
「ふぅ…氏子さん達の相手をしていたらすっかり遅くなってしまいました。」
陽も長くなり、少し蒸し暑さを感じるようになってきた今日、私は博麗神社の階段をときおり一段飛ばししながら境内を目指していた。
どんなきっかけで行われているのかは毎回多分誰も、霊夢さんでさえも知らない、去る者追わず来るもの拒まず、食べ物や酒を持ち込む奴は特に歓迎。そんな博麗神社のいつもの宴会が好評開催中のはずだった。
「小傘さん、来てるといいなぁ…」
今はもう小傘さんは、人間の里ですっかり人気になってしまっていた。
小傘さんの初舞台から数日後のこと。
「早苗、最近里で会う男の人達からこんなの貰うんだけど…なんだか分かる?」
「こ、これは…!」いろんな色の便せんに包まれた恐らく中身は紙。多分間違いなくアレ。
私は反射的に小傘さんの手からそれらを奪い取ってしまった。
「痛いよ!急にどうしたの早苗」
「小傘さんこれはあれですよ!あれ!なんというか……とにかくヤバいわよ!!ヤバいんです!!」
「?やばい……?」
「その……妖怪に対してメッチャ悪影響なんですこれ!!あと!!その他にも内臓にじりじりと響く電磁波攻撃!!頭にアルミホイルを巻いていないと容赦なく襲う思考盗聴!!挙句の果てには全身黄色い服を着た集団ストーカーに粘着されちゃいますよ!?とにかく、ろくなもんじゃありません!」
「そうなの…?私はなんともないけど…?」
「そうなんですよ!とりあえず私が預かっときますからコレ!今後一切この類のものは受け取らないこと!あと男の人に一人きりで呼び出されたりとかしたら断ること!いいですね!?」
「うん……早苗がそういうなら………」
これ以外にも、里で小傘さんを見かけると、ほとんどいつも誰かと楽しそうに会話をしていた。それは以前からもあることだったんだけど、元から付き合いのあった鍛冶仕事のお得意さん、お母様方や子供達だけでなく私の知らない顔も多かった。
褒められているのか照れたり、嬉しそうだったり、ちょっとした手品を披露して見せたり。
そんな時の小傘さんは悔しいけど、すごくいい笑顔だった。私と一緒にいるときにこんな顔をしていたかと聞かれると自信が無くなるくらい。
そうだよね。ずっとずっと彼女が待ち続けていたこと。小傘さんは今、とても人に大事にされて、すごく愛されている。
本音を言うと、私はあんな日常がいつまでも続くと思ってた。小傘さんはおっちょこちょいで、常識じゃ考えられないようなへまをして。人前に出ると途端に臆病になってしまって。
人間の里で会うたびに小傘さんをからかいながらフォローしたり、慰めたり、勇気づけたり。
私の奇跡じゃ猫の子さえ幸せにはできないけれど、この人の必要にはなれてるのかなぁって思うとそんな小傘さんを不思議と応援したくなっていた。
神様でもきっとどうにもできないほどまぬけだけど、弱音や泣き言をいいながらも人のために一生懸命な小傘さん。
こんな嫌味やいびりの絶えない私にも、お人好しな笑顔を他の人にするように向けてくれる小傘さん。
……でもさ。それってただの私のエゴだ。
彼女の手から奪い取ってしまった手紙の束は、まだ返せていない。開いてみると、ただのファンレターだった。『今日もおったまげちゃいました、 次も期待しています』『今度はぜひうちの近所に!』ああ、私は、何をそんなにムキになっていたんだろう。本当は返すべきだと心の中では分かっているのに、できない。どうして嘘をついたのか小傘さんに説明するのが、怖くて。
小傘さんは変わった。なりたい姿へ、ありたい自分へと。そして自分の力で夢を叶えて、私と居た時よりもずっと幸せそうな笑顔をしているように思える。
そんな事実を素直に受け止めて喜ぶことのできない心が、ひどく醜く思えた。
ああ、情けないな私って。今の私は、小傘さんにとっての何だろうか。どんなにプラスに考えても、私なんかもう小傘さんの役には立っていない、せいぜい、周りにたくさんいる、ただの囲いの一人だ。
そんなことをうじうじと考えて、次第に私は小傘さんを避けるようになった。
それでも。人間の里から離れた今日くらいは、前のように過ごしても、バチは当たらないだろう。
最近疎遠になっていた私を小傘さんはどう思っているだろうか。ちょっと怒っているかもしれない。不思議に思っているかもしれない。なんとも思っていないかもしれない。なんとなくそれが正解の気がした。
小傘さんも私も飲める方ではないので、弱めのお酒を持ってきた。切り詰めた神社の家計の中の、少ない私の小遣いでやっと手の届くくらいものだけれど。
なんだか久しぶりに、小傘さんと話がしてみたいな。私しか知らない外の世界のくだらない知識を一方的に、あるいはあの守矢の二柱が、オフではどんな醜態をさらしているかをつらちらと。なんだっていい。
小傘さんは、いつもどんな話をしても本当におかしそうにくすくすと笑っていてくれた。
それもこれも、こんな私を小傘さんが受け入れてくれたらの絵空事だけど。
「ははっ・・・そう、、ですよねぇ…何考えてたんだろ、、私。」
分かっていたよ、分かっていたけどさ。
小傘さんの、堀川雷鼓と、九十九の姉妹と、騒霊三姉妹の演奏に聞き入っている姿が遠くから見えた。
私が輪に入るにはあまりにもお洒落な服を着ていて。
私が輪に入るには、あまりにも面白おかしい話をしているようで。
社殿の影の、目立たない片隅にうずくまった。買ってきた安い酒を隣に置く。堀川雷鼓。彼女のステージでの立ち振る舞いは圧巻だった。緊張しすぎず、しゃかりきになりすぎず、そこに立っているのが当たり前って感じ。
演奏を聞きに行った、というよりも。お金を払ってでもみんなが見に行こうとするそのパフォーマンスの様子を見たくて私は小傘さんを誘って出かけたのだった。だけれど実際に自分の目で見て分かった。
有名な芸能人を前にした女子高生がやっぱり本物は違うなぁと思うのと同じ。お金を払う必要もない私の演説にあまり人が集まらないのに、なんだかすごく納得してしまった。騒霊の三姉妹も、付喪神の姉妹も、あの人数に囲まれて歓声をあびるのに少しも恥じるところがなかった。
なにより、彼女は小傘さんが願いをかなえるきっかけを作った人だ。私のちっぽけな奇跡で小傘さんが笑顔になることは、私の中では割と重要なことだったのだけれども。それも彼女からすれば取るに足りない些細なことだったらしい。だってあんなにいい笑顔で、小傘さんがこれまでに無いくらい幸せそうにしているんだもの。
「敵わない、、かなぁ……」ひとくち飲んでみる。ああ、美味しくない。お酒ってこんなにも風味がないものだったっけ。全然、味がしないや。こんなの今の小傘さんは飲みたくないだろう。
料理には手を付ける気もしない。他の輪に交じっていくこともできない。ならここに来た意味はないし、帰ればいいのにね。その勇気もない自分はきっとばかだ。前はことあるごとに小傘さんに頭が鈍い、どんくさい、なんて言ってからかっていたのだけれど。どうやら何もできない、度胸もないのは私の方だったみたい。
味のしない酒を胃の中にかきこんでいると、なんだか瞼が重くなってきた。どうせ誰も見ていないしいいだろう。そのまま横になり、自分をさいなむ心の声と、私に向けられることのない喧騒から逃れるべく、ひとり目を閉じる。
「ん・・・」どうやら随分と長く寝てしまっていたようだ。涙のあとが固まっている気がして、目をこする。さっきまであんなに賑やかだったのに、今は何の音も聞き取れない。上体を起こそうとすると、何かが自分の上に被さっている感覚があった。毛布のような?
すぐ近くに人の気配を感じる。一瞬見間違いかとも思った。「やっと起きたね早苗。」「小傘さん・・・」
なぜこんなところに居るんだろう。もう宴会はお開きになっている様子なのに。
「どうして残っているんですか……?」「早苗こそ、どうしてこんなとこで一人で飲んでいたのさ。」「や、……堀川さんたちと楽しそうな様子だったから、私が混ざるのはどうかな、と思って・・・」「そんなこと考えてたんだ。なんだか、早苗らしくないね。」
らしくない。それはこっちの台詞だ…、そんな心の声をしまいこんだ。
「これ、ちょっともらってもいい?」「別に構いやしませんけど……人間の里のスーパーアイドルの小傘さんは、こんな安い酒で満足しますかね。」
そういうと小傘さんは前みたいにおかしそうに笑ってくれた。「なんだか久しぶりに早苗の嫌味を聞いた気がするよ。心配したけど、やっぱり早苗は早苗だね。」別に嫌味を言ったわけじゃ人だけどな……けれど、その言葉と態度が、なんだか昔の小傘さんが戻ってきてくれたみたいに思えて私もちょっと安心した。
「早苗はさ、今の私のこと、どう思ってる?」「え、っと……」「今日はいろんな人にせっつかれて聞かれちゃってさ。やっぱり私にこれは、似合わないかもね。」
うそだ。そんなこと微塵も思っていないくせに。
「とても似合っているし、前よりずっと、綺麗でいいと思いますよ……。」言いたいことは沢山あったけれど、どうしてか言葉が続かない。
「それに、色々なことが上達していますし。」「そう?堀川さんは、私に自信がついたからだ、って教えてくれたよ。前の私は自分に自信が無かったから及び腰になっていたんだって。『変身』ってそういうことなのかなぁ。」
ああ、やっぱり堀川さんのことになるといい笑顔をしているように見える。
「確かに今の小傘さんは、人の前で物怖じしてないですよね。これからはもう私の奇跡が無くても、私が傍に居なくてもきっと大丈夫ですね。いちいち面倒を見る必要がなくなって、何だかせいせいしちゃいました。」
小傘さんは変わったのに、私は何も変わらない。こんなこと言いたくないのに、思わず口に出してしまうような意地っ張りで。そして本当に言いたいことも言えないほど臆病だ。一人では何もできなくて、支えてくれる誰かが私にはまだ必要で。
それでも、結果的にはよかったのかな。前の方が良かったなんてはっきりと言ってしまえば、本当に戻してしまいそうで。小傘さんはそういう人なんだ。
自分の助けを必要としてくれる人が居たことは、私の心を強く支えていてくれたのだけれど。小傘さんには私の助けなんてもう必要じゃない。だから、私一人が足を引っ張ることなんてできない。しちゃいけない。
人と手を繋ぎたいけど、ちょっとの勇気が出ずに繋がることが出来なかった付喪神と、それを助けているつもりでほんとうは逆に支えられていた私。その繋がりはこれでおしまい。
もう誰の人影も見えない静まりかえった夜の境内。風は平らかに吹いてきていて、星だけが私たちを見つめている。心を押し潰して言葉を尽くしたあとの沈黙が私には耐えがたいものだった。
「早苗……どうかした?」「藪から棒にどうしたんですか。」なんとかして沈黙を破ろうとしたけど、小傘さんに先を越されてしまった。
「ほら。」小傘さんの手が頬に伸びてくる。触れられると同時に、水っぽい冷たさが肌に広がった。「あ、あれ・・・」
「泣いてるの、早苗。」ああ、自分が表情を崩していることにさえ気づかなかったなんて。「はは、ほんとうに、どうしちゃったんでしょう私…」一度それに触れてられてしまうと、いくら止めようと思ってもせき止めることは、出来なかった。「なんでだろう、おかしいですよね……。」にじんでゆく視界の中で、間に合わせの台詞すら思い浮かばない。
「早苗はさ、初めて会った時から悪趣味ななすび色とか、そんな傘勧められるくらいなら濡れて帰るとか、散々な言いようだったね。」「……。」
「それなのに、勧めたら案外何も言わずに普通に入ってくれたりしてさ、ずっと不思議に思ってたんだよね。どうしてだったの。」「…逆に聞きますけど、どうしてそんな奴を小傘さんは放っておかなかったんですか。」「んーー。」
小傘さんは何か大切な記憶を愛でているかのように、目を細めた穏やかな表情でしばらく思案していた。
「やっぱり、見返してやる絶好の機会だったからだと思うよ。誰だって濡れるのも待ちぼうけをするのも辛いものだし。」
「拒絶されてしまうのは、怖くなかったんですか。」
「怖かったよ。でも早苗も、あんな雨の中で誰からも忘れられたみたいに、一人で立っているのはとてもつらいだろうな、って思ったの。おかしいよね、私と早苗は違うのに…」
「ああ、だからでしょうね。」「?」
「そんなお人好しからの誘いなんて、断れるわけないじゃないですか。あの時の小傘さん、まるで自分がそうするのは当然のことみたいに助けてくれたんですから。」「当然のことじゃないんだよ早苗。あれは、私を使ってくれる人が居たから、貴方が居たからできたことなんだもん。」「なんですか、変に格好つけちゃって。」「早苗こそ、まともなこと言うなんて、どうかしたの?」
互いにこづきあって、笑って見返す。ああ、こんな当たり前の時間。ひと月も経っていないはずなのに、なんだかひどく懐かしく、愛おしく思えた。
「たくさんの人に喜んでもらえて、必要とされて、愛されて、ほんとうに幸せだった。でもその分早苗がなんだか、遠くに行ってしまったみたいで。最近全然会うことができなかったのは、ごめん。早苗に悲しい思いをさせて泣かせてしまうくらいなら、もういいんだ。」
そうじゃない。自分勝手だったのは私の方だ。
「違うんですよ!会えなかったのは私が小傘さんを避けていたからなんです!私が小傘さんを助けていたんじゃなくて、奇跡で笑顔になってくれる小傘さんに心のどこかで救われていたのは私の方なんです……。だけど、私にできることがなくなった今、これ以上小傘さんの足を引っ張りたくなかった。だから、私のなんかの為に止めちゃうなんて絶対にダメです!!人間に必要としてもらうのが、人間を見返してやるのが、小傘さんの願いじゃなかったんですか!?」
「確かにね。今は何もできなくても、自信が持てれば、強くなれれば、私を捨てた人間にあっと言わせることができれば、それで満たされると思った。……けどね、ダメだったんだ。前の私じゃ考えられないようなお金や贈り物をもらっても、前の私じゃ気絶しちゃうくらいの人達に驚いてもらえても、幸せにはなれても、心が満たされなかったんだ。……それで気づいたの。私はとうの昔に満たされてたんだって。」
小傘さんが私に微笑む。見たことないような、びっくりしちゃうくらいのいい笑顔で。
「例えへなちゃこで弱い私でも、綺麗な私じゃなくても、いろんなことが上手くできなくても、笑って支えてくれる人たちは居た。もちろん沢山は居なかったけど、依頼に来る人達、世話をする子供達、そして早苗もその一人。何でもないありのままの私を受け入れて、大切にしてくれたの。見渡せないくらいの集まってくれた人達も、食べきれないくらいのご馳走も、抱えきれないほどの幸せも、私にはきっと……少し、眩しすぎたのかな。だからこれで私の変身はおしまい。毛局は、私は元の私が一番だったんだ。」
「何ですかそれ……そんなの自分勝手で、ずるいですよ。」「妖怪だからね、そりゃあ自分勝手でずるいものだよ。」「前の小傘さんは妖怪だと思えないくらいお気楽で、まぬけだったんですよ。今はどうか知らないですけど。」「早苗は、相変わらずのイヤミだね……。けどまぁこんなくだらないことで言い合うのが、今までの早苗に、今までの私だって気がするよ。なんだか凄く安心するなぁ。」
そう。今までの私に、今までの小傘さん。隔てもなく、遠慮もなく。ようやく、日常のレールの上で走り出せたみたい。何も変わらず、退屈になってしまいそうだけど、それでも私と、小傘さんにとっての大切がぎゅっと詰まっている。
そんな久方振りの飾り気のない喜びを、どれほど長くまた二人で分け合っただろうか。
「……行っちゃうんですか。」「うん。あんまり夜遅くになると、雷鼓さんにも悪いし。日が昇るまでには、きっと元の私を始める。じゃあね、早苗。明日の私によろしく。」
軽く手を振ってから駆け出し、後ろ姿がどんどん小さくなる。大層な着物のわりにその足は軽く。そのまま階段を下りて行ってしまうかとも思ったけど、鳥居の下で
足が止まった。
「早苗ーーー!!」ここまではっきりと伝わってくる小傘さんの声。きっともう、こんなに勢いよく大声を出す小傘さんを見ることはないのだろう。そう思うと、少し寂しくもあったけど。「なんですか~~~!?」そんな小傘さんに負けないくらいの、せいいっぱいの声で。
「私に驚いてくれてありがとう!今までの私じゃ絶対聞けないような早苗の想いも全部聞くことができた!!変身も、そこまで悪くなかったよ!!」
そう言い切ったあとの小傘さんは、何かを切り出すのを躊躇しているようにも見えたけど。
「早苗ーーーー!!明日の私はもしかすると、センスがなすびで、まぬけで、ダメダメで、どんくさくて、すごく臆病な奴になっちゃうかもしれない!!早苗は、そんな私を、今までの私を、早苗はちゃんと受け入れてくれて、助けてくれるよね?」
「あったりまえじゃないですか!!」
いつも通りの小傘さんと私に戻る再確認は、それだけで十分だった。他に言い残すことも、やり残したことも無い。それを聞き届けた小傘さんは、すごく安心したみたいで。明日に続く階段を駆け下りて行って、今度は、彼女しか知らない夜の帳の中に、本当に見えなくなってしまった。
堀川雷鼓は不思議だった。見たところ順風満帆で、宴会で顔を合わせた時まであんなに幸せそうだった彼女が、急にどうして。
昨夜尋ねられ、聞かされたのは本体の道具を戻してほしいという、ほんとうに意外な申し出だった。けれど変えられない決意をしたような、少しの迷いもないような彼女の表情を見ると、その訳も、後悔しないかどうかという問いかけさえも、何も聞くこともできずに。
「やーーーーだ!!!」朝もまだ早く人影のまばらな、人間の里の静寂を真っ二つにするかのような駄々をこねるような声にびくりとすると。この声はもしや。
「もうやだよぉ……手品は大失敗だし、抱いた子供は泣き止んでくれないし、びっくりさせるのもてんでダメだし。それなのに、それなのに。」
「もう何回私の奇跡を使って失敗したと思うんですか。泣きたいのは私ですよ……」
「ぐすん。…早苗の鬼畜ぴーまん、さでずむ……もうやだぁ!!堀川さんとこ行ってまた取り替えてもらうぅ!!」「だーーー!分かりましたよ!あともう一回!もう一回だけ!そうすれば、小傘さんの大好きな鈴瑚屋でお団子を買いましょう!!」「ひっく……えっぐ……ぐすん。」「私の奢り!私の奢りで!大事なことなので二回言いましたよ!!」「えっ奢ってくれるの……えへへ、じゃあもう一回だけ頑張っちゃおうかなぁ………♪」「その意気です小傘さん!できるだけ弱っちい奴を狙っちゃいましょう!心臓止めるくらいの勢いで!!」「殺すのはダメだよぉ!?」
ああ、そうか。私は彼女が必要としているものは、自信だと思っていた。本体の道具を取り替えて、見た目が変わることなんて大したことじゃない。問題は、新しい自分になったことで何かをできるかもしれない、やってみようと思う、自信とやる気の問題で。
実際のところ彼女は上手くやっていたようだった。新しいことにも挑戦して、見事にそれを成し遂げてみせた。ではどうしてそんな彼女が、元に戻る選択をしたのか?
生まれ変わった自分が新しく掴めそうな幸せを目前にしてみて、かえって彼女には今までの方が合っていると気づけたのかもしれない。普通は辛い思いをすることで、それまで気が付かなかった今までの幸せに目がいくものなんだけれども……
自信がついて結果も伴い、自分の中での幸せの基準線を押し上げることなんてしなくても良かった。それまでの自分がはっきり見え、今までの幸せの基準線に気づけたことで、それをしっかりと理解して手に戻せたこと。彼女にはきっと、それだけで十分だったんだ。今だってほら、ぶつぶつ文句を言いながらもきちんと背中を押してくれる友達がそばに居る。
『変身』は単に姿や力が変わること? いや。きっと、そうじゃない。
私の言う『変身』。それは見た目が変わることでも、能力が上がることでも、人気者になることでも、なんでもないんだ。『変身』とは、心の中身が変わること。時には自分と向き合って選んだ道に、泣きそうになったり、投げ出したくなったり、後悔したっていい。こうと決めて前を向いて向き合うこと。時には傷だらけになりながらも進んでいくこと。
心以外の変化を伴うことも多いけれど、それは結果的に後からついてきたもので、それも必ずしもついてくるものではない。
私は、まず姿とやる事から変えてみて、新しい自分になってみることに決めた。当然そこは私の知らない世界で、たくさんの苦労や涙もあった。
九十九姉妹も、ただの道具に戻ってこれまで通り、ひっそりと暮らすこともできた。だけど彼女たちは新しい付喪神としての自分になり先の見えない道を進むことを選んだ。
あの子は、変わらなかった。けれど、姿が元のままだからといって、変身しなかったわけじゃない。あの子自身が変わらないことを選んだ。
楽な日常に逃げたわけではない。自分がそれまで持っていたものを一つもも投げ出さないで、自分の弱いところもダメなところも、これから苦労をするだろう所も、目を逸らさずにしっかりと受け止め、それまでの自分をきちんと肯定して進んでいくことを選んだんだ。そうすることの価値が今の彼女にはよく分かっているから。それも。立派な『変身』だ。
あんな弱気なこと言っているけれども、彼女が自分のもとにそれを頼みに訪れることはもう無いのだろうなと、不思議と確信が持てた。
「ちょっとの間だったけど、これまで見てきた中で、今の貴方が一番幸せそうね、小傘。」
堀川雷鼓は今日も上機嫌だった。
腕はすこぶる痛むが、観客の反応は上々。プリズムリバーwith H、今日もまたまた絶好調。
自分の出番以上にひやひやしたのが、ゲストとして参加することになった弦楽デュオ「九十九姉妹」、弁々と八橋の演奏。
(初となる大型ライブに尻込みする二人を半ば強引に誘ってしまったので)本番間際まで膝の震えがずっと止まらないようでけっこう責任を感じていたが、立派に背中に歓声を受けて帰ってきた二人を見れば、要らない心配をしていたと自分まで笑顔になってしまうのだった。
他のものが見ればおかしいと思うかもしれないが、私はライブが終わって片付けが済み皆が帰った後も、一人で会場の空気を味わうのが結構好きだった。
さっきまで荒れ狂うような熱と叫びに満たされていたのが、嘘みたいで。
それでも、私が居て、にぎやかな三姉妹とおしとやかな二人が居て。皆が集まってくれて。
そのおかげで、この何も無かった空間があんなに素敵な時を過ごせる場所になったんだって。
ありがとう。また、戻ってくるからね。 そう心の中で呟き、足を裏手の帰り道に向けようとすると。
『あの・・・』 どこか心細そうな声が静かな空洞に響いた。
「そう…当り前の様に人間の里で見るから忘れてしまっていたけど、貴方も付喪神だったわね。わざわざ待ってくれなくても、よかったのよ。」
「いえ…何というか、同じ付喪神としてどうしてもお話したくなっちゃったもので。ライブの直後で疲れているでしょうに、こちらこそすみません。」
赤青鮮やかな二つの目が気弱そうにこちらを伺う。
「全然OKよ。ちょうど、誰かと飲みたい気分だったの。いい雰囲気でしょう。ここ。私のお気に入りの場所なの。」
傘の付喪神、多々良小傘。どうやら訳アリの彼女と共に、人間の里の片隅にある居酒屋に腰を落ち着けていた。
「本当に…ただただ、凄いなって。…あの騒霊の三姉妹はもちろん、付喪神の雷鼓さんも、弁々さんも、八橋さんも……本当に、皆さん輝いてました。大切な役割を持ってて、それぞれがしっかりとそれを果たしていて。」
「そう?どうもありがとう。でも、そんな話がしたくて居残っていたわけじゃないんでしょう。」
舞台の上から見た時から彼女は変わらず笑顔だったが、どことなく、かげりのような何かをそこに見るのは私だけだろうか。
雨でも降り出したのだろうか、先ほどから天井をこつこつと打ち叩く音が段々と勢いを増していく。
小傘は杯をことりと置いた。
「そうですね…すごいなって思ったのには違いないんです。だけど…自分も同じ付喪神なのに、なんでこんなに違うのかなぁって。私もどうしたらそんな風になれるのかなぁって。もちろん皆さんみたいになれるわけないです。…私も人のために働いているんですけど…鍛冶屋と、ベビーシッターです。だけれど……皆さんに比べれば、月とすっぽんです。鍛冶の依頼なんてあんまり来ませんし、ベビーシッターも自分なりに頑張っているんですけど……子供達に…傘がダサい、どんくさいなんて言われて。なんだか……自分は人とうまく繋がれないなぁって、自分に向いていることなのかなぁって思ってしまって。……。すみません、こんな愚痴をぶつけられても、しょうがないですよね。」
なんだか疲れてしまったような横顔を下に向けている。いつもならば、きっと見ているこっちが元気になってしまうような愉快な笑顔を見せるのだろう。けれど今の彼女にはその光がなかった。
「うーん、人とうまく接することができない気がするのね。でも一緒にライブに来てた子が居なかった?妖怪には見えないし、仲もよさそうに思えたのだけれど。」
「ああ、早苗のことですね。…いつも私にかまってくれるし、色々なところに連れて行ってくれるんですけど…いや、早苗は私のことをどう思ってるか知らないけど、本当に仲はいいんですよ。…でも冗談なのか、それとも本気なのか分からないけど……初めて会った時から、なすび色だの、時代遅れだの言ってくるんですよ。……少ない私の友達だから…それが一番辛くて。」
そうだったのか。付喪神は出自上、自分に自信を持てないのも多くいる。彼女も、そんな一人だったのか。
偶に里で見かける彼女を見る限り、上手くやっているように思えた。本人が思っている以上に仕事の能力はあるみたいだったし。
能力はそれなりにあるようだけれど、気負いすぎてしまっているのか、成功が無いわけではないのだろうけど、失敗ばかり気にしてしまっているようで。
及び腰で気弱に周りと自分を見比べてしまう癖から、なかなか抜け出せないようで。
そんな彼女に、 今一番必要なもの。 それは…………
「『変身』、よ。」
「え?」
「変身よ! 小傘、今の自分が許せないなら新しい自分に変わればいい。」
焼き鳥か何かの脂がまわっているのか、恐ろしく滑る床に足を取られそうになりながらも、それを蹴って豪快に立ち上がる。小傘はきょとんとした表情のままだ。
「貴方も見たでしょう、あのゲストで参加していた付喪神の姉妹の。貴方にはどう見えた?」
「はい…初参加って聞いてたのに、とっても上手く弾けてて、とっても楽しそうで。…そしてとっても、綺麗で。なんだか道具としても、付喪神としても本当の自分になれてる、って感じでした。」
「その通り。あの子たちは、『変身』したのよ小傘。 …私だってそう。昔はこんなことが出来ると思いもしなかった。でもね、私たちは変わった。古い自分を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わったの。だから……貴方も試してみない?付喪神の小傘。」
「そんな…私にはとても……」
「方法はあるわ、小傘。貴方、その傘がコンプレックスなのよね?それなら、いっそ取り替えてしまうってのはどうかしら?かくいう私も、昔は和太鼓なんかにくっついていたのだけれど、ドラムに鞍替えしたの。そのおかげで今はほら、新しい自分として前よりもずっと毎日が輝いて見えるわ。」
「自分のついている道具を取り替えれるなんて…そんなことが本当に?それが、貴方の言う、『変身』なんですか。」
「…それはきっかけに過ぎないの。その力を得て何に使うのか、何を見つけたのかは私達もそれぞれだったから。けれど、保証する。貴方なら、きっと何かを掴めるわ、小傘。」
ちょっと泣き出しそうだった左右非対称の目に、控えめだけれど、何かを期待しているような晴れ間がさしていた。
東風谷早苗は不機嫌だった。
腕は昨日ライブではしゃぎすぎたせいだろうか、すこぶる痛い。おまけに妖怪の山までの長い帰り道に雨が降り始め、ようやく本殿に辿り着いたときには、ぼろぼろに擦り切れた濡れぞうきんにでもなった気がしたものだった。
いつもなら雨から守ってくれるはずの彼女は、すっかりあの堀川なんとかとか言う、あの趣味の悪い地獄の女神とどこか同じ潮流を感じる変なパンク野郎に魅せられてしまったらしい。久しぶりに外食にでも誘おうかと思っていたのに。
「さなえ~~ごはんまだ~~~?」「早く作らないと隣の帽子かぶったカエル丸呑みしちゃうぞー」「冗談でもそれはマジでやめろ」
「…今作りま~す。」
まったく、親に食べ物をせびるひな鳥ですかアンタらは。一応神様なんだから、自分のご飯くらいくらい自分で作れないものか。というかそもそも食事する必要があるんだろうか。
もうだいぶ日も昇っているようで、枕元に目覚まし時計があれば、もう何度目かのモーニングコールを叫んでいることだろう。けれど勿論幻想郷にそんなものないし、代わりに聞こえてくる怨嗟の声も限界まで無視することにする。
昨日の小傘さんのことを思い出す。わざわざ会場に残ると自分から言い出した彼女。あんなに積極的になるなんて珍しい。何かを思い詰めたような、深刻そうな表情。これも彼女らしくない。私は小傘さんのことを、知っているようで何も知らなかったのかもしれない。そんな私の驚きも困惑も全部、あの堀川某に奪われた気分。…
ああもう。なんだか気分が沈んでしまう。ふとんを顔の半分近くまでずり上げる。
「さなえーーー」「はいはい、分かりましたよ!」「もう、そうじゃないってーーーー」
襖が左右にずれて、諏訪子様が顔をのぞかせた。「お客さんだよ、早苗。」
いそいそと身支度を整える。叩き起こして勢いと流れでご飯を作らせる作戦かとも疑ったが、どうもそんな様子はなかった。いつも着ている服をざっと身にまとう。鏡を見てざっと全体をチェック。よし。流石に髪飾りをつけている暇はないからこれでいい。
それにしたって、こんな朝から誰がーーーよく知った顔がひとつ頭に浮かぶが、それをふるふると振り払う。ああもう。小傘さんなんてロックにでもかぶれちゃえばいいんですよ。
あのうるさい騒霊たちと、弦楽器の姉妹と、堀川某と、舞台の上でぜんぜん似合わないパンクの服を着てきんきんする歌でも歌っていればいい。
そんな小傘さんを遠くから眺める想像をして、ちょっと笑った。
春も中ごろとはいえ、山の上はよく冷える。手を動かして寒気を払う。
もれてくる朝の鋭い光に目を細めて立ち向かい、扉に手をかける。
「おはようござ…」
「あっ…ごめんね早苗、こんな朝早くから。…どうしても早苗に見て欲しくってさ。」
誰だコイツ?目の前に美少女が居た。黒くぴかぴかしたドレスで着飾っている。
レースやフリルの黒い艶が眩しい。空の底がぬけたみたいな青い髪色の上には、ちっちゃくてお洒落なこれまた黒い帽子。なんというか、この世のものじゃない感じの綺麗さ。
「早苗…?」
しかもなんか親し気に話しかけてくるし。
「うわぁぁぁなんかすみません。そういう勧誘間に合っているんで。宗教家の方ですか?本殿の方見れば分かると思うけどウチはガチガチの神社なんですよ。なんなら神様引っ張ってきましょうか。それ以外の用でしたら、多分パーティー会場かなんかと間違えてらっしゃるのでは。では私はこれで。」
営業スマイルは今日も快調。東風谷早苗、この面倒そうな現場をシャットアウトするべく扉に再び手をかける。
すると扉が滑り閉まり切ってしまうより速く、勢いよく手に掴まれた。
「ちょっとひどいよ早苗!?ほら、わたし!わちき!こ・が・さ!多々良小傘だよう!!」
「えっ・・・小傘さ、貴方っ、小傘さんなんですか?ちょ、えぇえ!?」
トレードマークの赤青鮮やかな目が無かったら気づかなかったかも。目の前のこの少女は、確かに多々良小傘だと認識できる声をしていたし、私もよく見知った顔をしていたのだけれど。
それを覆い隠してしまうほど、この壮麗な衣装と、大人びた雰囲気が私のよく知る小傘さんとちぐはぐで。
「どう早苗?私、『変身』したんだ。」「えっ…変身って……」
「堀川さんに教えてもらったんだ。元の道具を変えたら、ほら、こんなに綺麗になっちゃった!あの傘にも結構愛着があったんだけど、早苗も趣味悪いって言ってたしね。」
あっ。本当だ。服にばかり気を取られて気づかなかったが、あの、趣味の悪いなすびを押し固めたような傘が、フリルのついた高級感あふれる黒傘に変わっている。私は確かにあの傘のことを悪く言っていたのだけれど……
「それでそれで、どうしても早苗に見て欲しくって。どう?どう?感想聞かせて?ねっ」「あ……そうですねぇ……」
突然のことで頭が付いてゆかず、言葉が出てこない。確かに、今の小傘さんはすごく綺麗だ。
けれどなんというか、そう、私が小傘さんに感じていたなにかが少し欠けてしまっているようで。
私が答えに詰まっていると、「さなえ~~終わったー?お腹が限界なのか、なんかもう神奈子の目が死にかけてるんだけど~」すっかり忘れかけていた声にはっとする。
「あ~っと、小傘さん、わざわざ山の上まで来ていただいて申し訳ないんですけど、まだ朝食の準備がまだで。」なんだか逃れる言い訳のようだけど、ここは一旦待ってもらって、仕切り直すことにしよう。
「そうなの?じゃあ私が手伝おっか。」そう言うと私の横をさっと通り抜けて奥の方へ上がっていってしまった。「ちょっと、小傘さん!?」
慌てて後を追う。こんなに自分から何かを進んでするほど積極的だったっけ。なんだか、小傘さんが、小傘さんじゃない感じ。ほんとに変身しちゃったのかも。
「えっと、お待たせしました~私が手伝ったんですが、皆さんのお口に合えばと思います。」
小傘さんは手伝うと言ったが、始めから終わりまであまりにもてきぱきと小傘さんのやり方でこなしてしまったので、どちらかというと私が手伝った形になった。
「おお、小傘ちゃんじゃないか。なんだか都会の娘さんみたいでかわいいよ。」「どうもありがとう。本当に見違えたね。」「えへへ~そうでしょうかぁ?」
私が予想していたほどお二人は驚かなかった。きっと無駄に長く生きている分「オイ早苗、神の聴力ナメんなよ」
「これは……驚きだ。今までそんな機会もなかったが、小傘ちゃんがこんなに料理が得意だったとは。」「そうそう。早苗の作ったやつより全然」頸動脈に御幣を押し当て黙らせる。
「ささ、早苗も食べてみて。」
促されるままにまずは味噌汁を口に運ぶ。あっ。何の出汁を使ったのかは分からないが、悔しいけれど、本当にいつものより味に奥行きが感じられて。なんだかじんわりと。体の芯から、不思議と心まで暖かくなるようで。
「美味しい…小傘さんスゴいですよ、こんなこともできたんですね。」「ふふっそうでしょうそうでしょう。」
水加減か、火の入れ方か何を変えているのか、ご飯もふっくらと炊けていて食感もいい。焼き魚もよく焼けているのだけれど、どこも崩れたりしていない。ちょっとした銀細工みたいだ。
あっという間にみんな平らげてしまった。
「…ご馳走様でした。ほんとに美味しかったです。こんなことなら、小傘さんの特技にもっと早く気づけば良かったです。」
私たちの新鮮な驚きに囲まれて、小傘さんも少しはお腹が満たされただろうか。
「ありがとう。ところで早苗、ご飯が済んだら、これからちょっと私に付き合ってくれる?」
「いいですけど……どこに行って何をするんですか?」
「人間の里。今日の私ね、なんか、いける気がする!」
思えばこれもなんだか新しい。どこかに出かけるときはいつも私が小傘さんを誘っていた。なんだか、前よりイキイキしているような。そう、ほんとうに人が変わってしまったようだ。
昼前の人間の里の雑踏を小傘さんは危なげもなくずんずんと通り抜けていってしまう。なんとか歩調を合わせようとするが、人ごみを避けていくのが難しい。
「よ、よーし、頑張るぞぉ~」
なんだか、小傘さんにすごく視線が集中してる。特に男性からの。自分が注目されている訳でもないのに妙な気分になってしまう。
「…この辺りにしようかなぁ」
「へぇ。小傘さんにしては珍しく人気のある場所を選びましたね。今日は奇跡を使ってあげてもいいですよ。」
小傘さんが泣きついてきたときに、または私の気分がのったときに奇跡を起こして小傘さんを助けてあげることは時たまあった。
まぁ、それでも結局上手くいかないことの方が多かったんだけど…
それでも。私のちっぽけな奇跡でも笑顔になってくれるのは、貴方くらいだったから。
小傘さんは私と顔を突き合わせて、すこし思案しているようだった。
「じゃあさ、手を握ってくれる、早苗?」
「こう、ですか。」
なんでもないことなのに、今日に限ってなんだか不器用になってしまう。
そう、いつもの、なんでもないことなんだ。流石に人の目があるから過剰に感じてしまっているのか、小傘さんのイメージががらっと変わってしまっているからか。
それと、小傘さんの手が、少しだけ冷たく震えている気がした。
「早苗はさ、私が驚かすのが苦手なの、どうしてか分かる?」
「そりゃまぁ、まず見た目が怖くないし、そもそも飛び出すときに足をもつれさせたり、色々とどんくさいんですよ。」
「うぐ…それ言われちゃぐうの音も出ないけども!もっと他に他に!!」
「人が…怖いから?」
「うん・・・」
半分茶化して誤魔化していたけど、小傘さんは勿論、ずっと前から私も知っていたその答えは。小傘さんも私も、きっと言葉にしてしまうのを避けていたんだろう。
小傘さんがまだ傘だった頃に負った痛みは、今もきつく心を蝕んでいる。消えないのは、それが付喪神としての彼女の在り方だからだろうか。
それなら、小傘さんの在り方が変わったのなら?
「今だってすごく怖い。奇跡のおかげもあったけど、早苗が一緒になってくれたらちょっと楽になった気がしたの。きっと一番私を大切にしてくれる人だから。でもやっぱり私の問題だから私の力で克服したい。」
そういうと、小傘さんは握った手に一層力を込めた。
「だから、私にちょっとの勇気だけちょうだい。」
自由になった手に傘をぎゅっと掴んで、小傘さんが離れていく。十尺にも満たない距離がなんだか、遠く、遠くに見えてしまう。
「小傘さん…」
「はぁい、ワン、ツー、すりー☆」
間の抜けた掛け声を追いかけるように歓声が沸き起こる。
おお、なんということだ。
あの、陰キャでちきんでおまけにアスペルガーな小傘さんが、手品でオウディエンスを沸かせている。いや、最早彼女は小傘さんじゃない。
傘立て生まれ、路地裏育ち。ドレスはノーブルだがルックスはキュートなエンターテイナーだ。
前方に呼ばれた人がトランプを選ぶと、同じ柄のトランプを小傘さん・・・の持っている傘が上品に吐き出す。流石に傘の装飾も上品になっただけのことはあると感心する。いやそうじゃないだろ。そこから出すのか。
タネもコンセプトも理解不能だけれど、小傘さんの左右の目の色が瞬きするたびに次々と入れ替わる。赤と青だけかと思ったら、えんじ色、ゴールドにレインボーと割と自由だった。なにそれ。
ぱん。開いた傘から白いハトがこれでもかと飛び出す。もう唖然とするほかない。ハトが飛び出しそうなのは私の開いた塞がらない口だよ。
こんなことを挙げていくとキリがないのと、時を追うごとに人が集まりすぎて最後ら辺とかもう殆ど小傘さんが見えなくなってしまったので結論から言うと、こうして大好評のままに小傘さんの初舞台は幕を下ろした。
「ただいま早苗!どうだった?すごかったでしょう!?」
「イヤホント・・・」
「えへへ~そう言ってもらえると心が弾むなぁ♪あっ、そうだ、いろんな人からこんなにもらっちゃったんだ。」
小傘さんの衣装に良く似合った小さな帽子のなかに、オブラートに言うところの『お気持ち』が入っていた。清蘭屋のみたらし団子なら、50本くらいならかるく包んでくれそうだ。
「もうお昼だし、これでご飯いかない?今日は私のおごり!!」
「や、そんなの別に…」
「遠慮なんて体に毒だよ?ささ、一緒に行こう!」こーして私は、半ば強引に引っ張られるように真昼の賑わいの中へ。
「どうしたの早苗?食べないの?」「……」
今、私たちは普段なら来ないような、ちょっといい所の食事に来ている。「ん~美味しっ!驚きとご飯で満腹でわちきしあわせ♪」
本当に隙が無いというか。
茶碗には食べかす一つないし、慎重に発掘された化石のように魚の骨だけが残された綺麗なあり様。
いつもは口の周りにご飯粒をいっぱいくっつけている小傘さん。
酷い時には、汁物を派手にひっくり返してしまう小傘さん。そんな小傘さんの面倒を見るのが同席する私に当たり前のようになっていて。
だけど、いつもの小傘さんは、もうどこにも居ないんだって。そんなことをふと、考えてしまった。
「ふぅ…氏子さん達の相手をしていたらすっかり遅くなってしまいました。」
陽も長くなり、少し蒸し暑さを感じるようになってきた今日、私は博麗神社の階段をときおり一段飛ばししながら境内を目指していた。
どんなきっかけで行われているのかは毎回多分誰も、霊夢さんでさえも知らない、去る者追わず来るもの拒まず、食べ物や酒を持ち込む奴は特に歓迎。そんな博麗神社のいつもの宴会が好評開催中のはずだった。
「小傘さん、来てるといいなぁ…」
今はもう小傘さんは、人間の里ですっかり人気になってしまっていた。
小傘さんの初舞台から数日後のこと。
「早苗、最近里で会う男の人達からこんなの貰うんだけど…なんだか分かる?」
「こ、これは…!」いろんな色の便せんに包まれた恐らく中身は紙。多分間違いなくアレ。
私は反射的に小傘さんの手からそれらを奪い取ってしまった。
「痛いよ!急にどうしたの早苗」
「小傘さんこれはあれですよ!あれ!なんというか……とにかくヤバいわよ!!ヤバいんです!!」
「?やばい……?」
「その……妖怪に対してメッチャ悪影響なんですこれ!!あと!!その他にも内臓にじりじりと響く電磁波攻撃!!頭にアルミホイルを巻いていないと容赦なく襲う思考盗聴!!挙句の果てには全身黄色い服を着た集団ストーカーに粘着されちゃいますよ!?とにかく、ろくなもんじゃありません!」
「そうなの…?私はなんともないけど…?」
「そうなんですよ!とりあえず私が預かっときますからコレ!今後一切この類のものは受け取らないこと!あと男の人に一人きりで呼び出されたりとかしたら断ること!いいですね!?」
「うん……早苗がそういうなら………」
これ以外にも、里で小傘さんを見かけると、ほとんどいつも誰かと楽しそうに会話をしていた。それは以前からもあることだったんだけど、元から付き合いのあった鍛冶仕事のお得意さん、お母様方や子供達だけでなく私の知らない顔も多かった。
褒められているのか照れたり、嬉しそうだったり、ちょっとした手品を披露して見せたり。
そんな時の小傘さんは悔しいけど、すごくいい笑顔だった。私と一緒にいるときにこんな顔をしていたかと聞かれると自信が無くなるくらい。
そうだよね。ずっとずっと彼女が待ち続けていたこと。小傘さんは今、とても人に大事にされて、すごく愛されている。
本音を言うと、私はあんな日常がいつまでも続くと思ってた。小傘さんはおっちょこちょいで、常識じゃ考えられないようなへまをして。人前に出ると途端に臆病になってしまって。
人間の里で会うたびに小傘さんをからかいながらフォローしたり、慰めたり、勇気づけたり。
私の奇跡じゃ猫の子さえ幸せにはできないけれど、この人の必要にはなれてるのかなぁって思うとそんな小傘さんを不思議と応援したくなっていた。
神様でもきっとどうにもできないほどまぬけだけど、弱音や泣き言をいいながらも人のために一生懸命な小傘さん。
こんな嫌味やいびりの絶えない私にも、お人好しな笑顔を他の人にするように向けてくれる小傘さん。
……でもさ。それってただの私のエゴだ。
彼女の手から奪い取ってしまった手紙の束は、まだ返せていない。開いてみると、ただのファンレターだった。『今日もおったまげちゃいました、 次も期待しています』『今度はぜひうちの近所に!』ああ、私は、何をそんなにムキになっていたんだろう。本当は返すべきだと心の中では分かっているのに、できない。どうして嘘をついたのか小傘さんに説明するのが、怖くて。
小傘さんは変わった。なりたい姿へ、ありたい自分へと。そして自分の力で夢を叶えて、私と居た時よりもずっと幸せそうな笑顔をしているように思える。
そんな事実を素直に受け止めて喜ぶことのできない心が、ひどく醜く思えた。
ああ、情けないな私って。今の私は、小傘さんにとっての何だろうか。どんなにプラスに考えても、私なんかもう小傘さんの役には立っていない、せいぜい、周りにたくさんいる、ただの囲いの一人だ。
そんなことをうじうじと考えて、次第に私は小傘さんを避けるようになった。
それでも。人間の里から離れた今日くらいは、前のように過ごしても、バチは当たらないだろう。
最近疎遠になっていた私を小傘さんはどう思っているだろうか。ちょっと怒っているかもしれない。不思議に思っているかもしれない。なんとも思っていないかもしれない。なんとなくそれが正解の気がした。
小傘さんも私も飲める方ではないので、弱めのお酒を持ってきた。切り詰めた神社の家計の中の、少ない私の小遣いでやっと手の届くくらいものだけれど。
なんだか久しぶりに、小傘さんと話がしてみたいな。私しか知らない外の世界のくだらない知識を一方的に、あるいはあの守矢の二柱が、オフではどんな醜態をさらしているかをつらちらと。なんだっていい。
小傘さんは、いつもどんな話をしても本当におかしそうにくすくすと笑っていてくれた。
それもこれも、こんな私を小傘さんが受け入れてくれたらの絵空事だけど。
「ははっ・・・そう、、ですよねぇ…何考えてたんだろ、、私。」
分かっていたよ、分かっていたけどさ。
小傘さんの、堀川雷鼓と、九十九の姉妹と、騒霊三姉妹の演奏に聞き入っている姿が遠くから見えた。
私が輪に入るにはあまりにもお洒落な服を着ていて。
私が輪に入るには、あまりにも面白おかしい話をしているようで。
社殿の影の、目立たない片隅にうずくまった。買ってきた安い酒を隣に置く。堀川雷鼓。彼女のステージでの立ち振る舞いは圧巻だった。緊張しすぎず、しゃかりきになりすぎず、そこに立っているのが当たり前って感じ。
演奏を聞きに行った、というよりも。お金を払ってでもみんなが見に行こうとするそのパフォーマンスの様子を見たくて私は小傘さんを誘って出かけたのだった。だけれど実際に自分の目で見て分かった。
有名な芸能人を前にした女子高生がやっぱり本物は違うなぁと思うのと同じ。お金を払う必要もない私の演説にあまり人が集まらないのに、なんだかすごく納得してしまった。騒霊の三姉妹も、付喪神の姉妹も、あの人数に囲まれて歓声をあびるのに少しも恥じるところがなかった。
なにより、彼女は小傘さんが願いをかなえるきっかけを作った人だ。私のちっぽけな奇跡で小傘さんが笑顔になることは、私の中では割と重要なことだったのだけれども。それも彼女からすれば取るに足りない些細なことだったらしい。だってあんなにいい笑顔で、小傘さんがこれまでに無いくらい幸せそうにしているんだもの。
「敵わない、、かなぁ……」ひとくち飲んでみる。ああ、美味しくない。お酒ってこんなにも風味がないものだったっけ。全然、味がしないや。こんなの今の小傘さんは飲みたくないだろう。
料理には手を付ける気もしない。他の輪に交じっていくこともできない。ならここに来た意味はないし、帰ればいいのにね。その勇気もない自分はきっとばかだ。前はことあるごとに小傘さんに頭が鈍い、どんくさい、なんて言ってからかっていたのだけれど。どうやら何もできない、度胸もないのは私の方だったみたい。
味のしない酒を胃の中にかきこんでいると、なんだか瞼が重くなってきた。どうせ誰も見ていないしいいだろう。そのまま横になり、自分をさいなむ心の声と、私に向けられることのない喧騒から逃れるべく、ひとり目を閉じる。
「ん・・・」どうやら随分と長く寝てしまっていたようだ。涙のあとが固まっている気がして、目をこする。さっきまであんなに賑やかだったのに、今は何の音も聞き取れない。上体を起こそうとすると、何かが自分の上に被さっている感覚があった。毛布のような?
すぐ近くに人の気配を感じる。一瞬見間違いかとも思った。「やっと起きたね早苗。」「小傘さん・・・」
なぜこんなところに居るんだろう。もう宴会はお開きになっている様子なのに。
「どうして残っているんですか……?」「早苗こそ、どうしてこんなとこで一人で飲んでいたのさ。」「や、……堀川さんたちと楽しそうな様子だったから、私が混ざるのはどうかな、と思って・・・」「そんなこと考えてたんだ。なんだか、早苗らしくないね。」
らしくない。それはこっちの台詞だ…、そんな心の声をしまいこんだ。
「これ、ちょっともらってもいい?」「別に構いやしませんけど……人間の里のスーパーアイドルの小傘さんは、こんな安い酒で満足しますかね。」
そういうと小傘さんは前みたいにおかしそうに笑ってくれた。「なんだか久しぶりに早苗の嫌味を聞いた気がするよ。心配したけど、やっぱり早苗は早苗だね。」別に嫌味を言ったわけじゃ人だけどな……けれど、その言葉と態度が、なんだか昔の小傘さんが戻ってきてくれたみたいに思えて私もちょっと安心した。
「早苗はさ、今の私のこと、どう思ってる?」「え、っと……」「今日はいろんな人にせっつかれて聞かれちゃってさ。やっぱり私にこれは、似合わないかもね。」
うそだ。そんなこと微塵も思っていないくせに。
「とても似合っているし、前よりずっと、綺麗でいいと思いますよ……。」言いたいことは沢山あったけれど、どうしてか言葉が続かない。
「それに、色々なことが上達していますし。」「そう?堀川さんは、私に自信がついたからだ、って教えてくれたよ。前の私は自分に自信が無かったから及び腰になっていたんだって。『変身』ってそういうことなのかなぁ。」
ああ、やっぱり堀川さんのことになるといい笑顔をしているように見える。
「確かに今の小傘さんは、人の前で物怖じしてないですよね。これからはもう私の奇跡が無くても、私が傍に居なくてもきっと大丈夫ですね。いちいち面倒を見る必要がなくなって、何だかせいせいしちゃいました。」
小傘さんは変わったのに、私は何も変わらない。こんなこと言いたくないのに、思わず口に出してしまうような意地っ張りで。そして本当に言いたいことも言えないほど臆病だ。一人では何もできなくて、支えてくれる誰かが私にはまだ必要で。
それでも、結果的にはよかったのかな。前の方が良かったなんてはっきりと言ってしまえば、本当に戻してしまいそうで。小傘さんはそういう人なんだ。
自分の助けを必要としてくれる人が居たことは、私の心を強く支えていてくれたのだけれど。小傘さんには私の助けなんてもう必要じゃない。だから、私一人が足を引っ張ることなんてできない。しちゃいけない。
人と手を繋ぎたいけど、ちょっとの勇気が出ずに繋がることが出来なかった付喪神と、それを助けているつもりでほんとうは逆に支えられていた私。その繋がりはこれでおしまい。
もう誰の人影も見えない静まりかえった夜の境内。風は平らかに吹いてきていて、星だけが私たちを見つめている。心を押し潰して言葉を尽くしたあとの沈黙が私には耐えがたいものだった。
「早苗……どうかした?」「藪から棒にどうしたんですか。」なんとかして沈黙を破ろうとしたけど、小傘さんに先を越されてしまった。
「ほら。」小傘さんの手が頬に伸びてくる。触れられると同時に、水っぽい冷たさが肌に広がった。「あ、あれ・・・」
「泣いてるの、早苗。」ああ、自分が表情を崩していることにさえ気づかなかったなんて。「はは、ほんとうに、どうしちゃったんでしょう私…」一度それに触れてられてしまうと、いくら止めようと思ってもせき止めることは、出来なかった。「なんでだろう、おかしいですよね……。」にじんでゆく視界の中で、間に合わせの台詞すら思い浮かばない。
「早苗はさ、初めて会った時から悪趣味ななすび色とか、そんな傘勧められるくらいなら濡れて帰るとか、散々な言いようだったね。」「……。」
「それなのに、勧めたら案外何も言わずに普通に入ってくれたりしてさ、ずっと不思議に思ってたんだよね。どうしてだったの。」「…逆に聞きますけど、どうしてそんな奴を小傘さんは放っておかなかったんですか。」「んーー。」
小傘さんは何か大切な記憶を愛でているかのように、目を細めた穏やかな表情でしばらく思案していた。
「やっぱり、見返してやる絶好の機会だったからだと思うよ。誰だって濡れるのも待ちぼうけをするのも辛いものだし。」
「拒絶されてしまうのは、怖くなかったんですか。」
「怖かったよ。でも早苗も、あんな雨の中で誰からも忘れられたみたいに、一人で立っているのはとてもつらいだろうな、って思ったの。おかしいよね、私と早苗は違うのに…」
「ああ、だからでしょうね。」「?」
「そんなお人好しからの誘いなんて、断れるわけないじゃないですか。あの時の小傘さん、まるで自分がそうするのは当然のことみたいに助けてくれたんですから。」「当然のことじゃないんだよ早苗。あれは、私を使ってくれる人が居たから、貴方が居たからできたことなんだもん。」「なんですか、変に格好つけちゃって。」「早苗こそ、まともなこと言うなんて、どうかしたの?」
互いにこづきあって、笑って見返す。ああ、こんな当たり前の時間。ひと月も経っていないはずなのに、なんだかひどく懐かしく、愛おしく思えた。
「たくさんの人に喜んでもらえて、必要とされて、愛されて、ほんとうに幸せだった。でもその分早苗がなんだか、遠くに行ってしまったみたいで。最近全然会うことができなかったのは、ごめん。早苗に悲しい思いをさせて泣かせてしまうくらいなら、もういいんだ。」
そうじゃない。自分勝手だったのは私の方だ。
「違うんですよ!会えなかったのは私が小傘さんを避けていたからなんです!私が小傘さんを助けていたんじゃなくて、奇跡で笑顔になってくれる小傘さんに心のどこかで救われていたのは私の方なんです……。だけど、私にできることがなくなった今、これ以上小傘さんの足を引っ張りたくなかった。だから、私のなんかの為に止めちゃうなんて絶対にダメです!!人間に必要としてもらうのが、人間を見返してやるのが、小傘さんの願いじゃなかったんですか!?」
「確かにね。今は何もできなくても、自信が持てれば、強くなれれば、私を捨てた人間にあっと言わせることができれば、それで満たされると思った。……けどね、ダメだったんだ。前の私じゃ考えられないようなお金や贈り物をもらっても、前の私じゃ気絶しちゃうくらいの人達に驚いてもらえても、幸せにはなれても、心が満たされなかったんだ。……それで気づいたの。私はとうの昔に満たされてたんだって。」
小傘さんが私に微笑む。見たことないような、びっくりしちゃうくらいのいい笑顔で。
「例えへなちゃこで弱い私でも、綺麗な私じゃなくても、いろんなことが上手くできなくても、笑って支えてくれる人たちは居た。もちろん沢山は居なかったけど、依頼に来る人達、世話をする子供達、そして早苗もその一人。何でもないありのままの私を受け入れて、大切にしてくれたの。見渡せないくらいの集まってくれた人達も、食べきれないくらいのご馳走も、抱えきれないほどの幸せも、私にはきっと……少し、眩しすぎたのかな。だからこれで私の変身はおしまい。毛局は、私は元の私が一番だったんだ。」
「何ですかそれ……そんなの自分勝手で、ずるいですよ。」「妖怪だからね、そりゃあ自分勝手でずるいものだよ。」「前の小傘さんは妖怪だと思えないくらいお気楽で、まぬけだったんですよ。今はどうか知らないですけど。」「早苗は、相変わらずのイヤミだね……。けどまぁこんなくだらないことで言い合うのが、今までの早苗に、今までの私だって気がするよ。なんだか凄く安心するなぁ。」
そう。今までの私に、今までの小傘さん。隔てもなく、遠慮もなく。ようやく、日常のレールの上で走り出せたみたい。何も変わらず、退屈になってしまいそうだけど、それでも私と、小傘さんにとっての大切がぎゅっと詰まっている。
そんな久方振りの飾り気のない喜びを、どれほど長くまた二人で分け合っただろうか。
「……行っちゃうんですか。」「うん。あんまり夜遅くになると、雷鼓さんにも悪いし。日が昇るまでには、きっと元の私を始める。じゃあね、早苗。明日の私によろしく。」
軽く手を振ってから駆け出し、後ろ姿がどんどん小さくなる。大層な着物のわりにその足は軽く。そのまま階段を下りて行ってしまうかとも思ったけど、鳥居の下で
足が止まった。
「早苗ーーー!!」ここまではっきりと伝わってくる小傘さんの声。きっともう、こんなに勢いよく大声を出す小傘さんを見ることはないのだろう。そう思うと、少し寂しくもあったけど。「なんですか~~~!?」そんな小傘さんに負けないくらいの、せいいっぱいの声で。
「私に驚いてくれてありがとう!今までの私じゃ絶対聞けないような早苗の想いも全部聞くことができた!!変身も、そこまで悪くなかったよ!!」
そう言い切ったあとの小傘さんは、何かを切り出すのを躊躇しているようにも見えたけど。
「早苗ーーーー!!明日の私はもしかすると、センスがなすびで、まぬけで、ダメダメで、どんくさくて、すごく臆病な奴になっちゃうかもしれない!!早苗は、そんな私を、今までの私を、早苗はちゃんと受け入れてくれて、助けてくれるよね?」
「あったりまえじゃないですか!!」
いつも通りの小傘さんと私に戻る再確認は、それだけで十分だった。他に言い残すことも、やり残したことも無い。それを聞き届けた小傘さんは、すごく安心したみたいで。明日に続く階段を駆け下りて行って、今度は、彼女しか知らない夜の帳の中に、本当に見えなくなってしまった。
堀川雷鼓は不思議だった。見たところ順風満帆で、宴会で顔を合わせた時まであんなに幸せそうだった彼女が、急にどうして。
昨夜尋ねられ、聞かされたのは本体の道具を戻してほしいという、ほんとうに意外な申し出だった。けれど変えられない決意をしたような、少しの迷いもないような彼女の表情を見ると、その訳も、後悔しないかどうかという問いかけさえも、何も聞くこともできずに。
「やーーーーだ!!!」朝もまだ早く人影のまばらな、人間の里の静寂を真っ二つにするかのような駄々をこねるような声にびくりとすると。この声はもしや。
「もうやだよぉ……手品は大失敗だし、抱いた子供は泣き止んでくれないし、びっくりさせるのもてんでダメだし。それなのに、それなのに。」
「もう何回私の奇跡を使って失敗したと思うんですか。泣きたいのは私ですよ……」
「ぐすん。…早苗の鬼畜ぴーまん、さでずむ……もうやだぁ!!堀川さんとこ行ってまた取り替えてもらうぅ!!」「だーーー!分かりましたよ!あともう一回!もう一回だけ!そうすれば、小傘さんの大好きな鈴瑚屋でお団子を買いましょう!!」「ひっく……えっぐ……ぐすん。」「私の奢り!私の奢りで!大事なことなので二回言いましたよ!!」「えっ奢ってくれるの……えへへ、じゃあもう一回だけ頑張っちゃおうかなぁ………♪」「その意気です小傘さん!できるだけ弱っちい奴を狙っちゃいましょう!心臓止めるくらいの勢いで!!」「殺すのはダメだよぉ!?」
ああ、そうか。私は彼女が必要としているものは、自信だと思っていた。本体の道具を取り替えて、見た目が変わることなんて大したことじゃない。問題は、新しい自分になったことで何かをできるかもしれない、やってみようと思う、自信とやる気の問題で。
実際のところ彼女は上手くやっていたようだった。新しいことにも挑戦して、見事にそれを成し遂げてみせた。ではどうしてそんな彼女が、元に戻る選択をしたのか?
生まれ変わった自分が新しく掴めそうな幸せを目前にしてみて、かえって彼女には今までの方が合っていると気づけたのかもしれない。普通は辛い思いをすることで、それまで気が付かなかった今までの幸せに目がいくものなんだけれども……
自信がついて結果も伴い、自分の中での幸せの基準線を押し上げることなんてしなくても良かった。それまでの自分がはっきり見え、今までの幸せの基準線に気づけたことで、それをしっかりと理解して手に戻せたこと。彼女にはきっと、それだけで十分だったんだ。今だってほら、ぶつぶつ文句を言いながらもきちんと背中を押してくれる友達がそばに居る。
『変身』は単に姿や力が変わること? いや。きっと、そうじゃない。
私の言う『変身』。それは見た目が変わることでも、能力が上がることでも、人気者になることでも、なんでもないんだ。『変身』とは、心の中身が変わること。時には自分と向き合って選んだ道に、泣きそうになったり、投げ出したくなったり、後悔したっていい。こうと決めて前を向いて向き合うこと。時には傷だらけになりながらも進んでいくこと。
心以外の変化を伴うことも多いけれど、それは結果的に後からついてきたもので、それも必ずしもついてくるものではない。
私は、まず姿とやる事から変えてみて、新しい自分になってみることに決めた。当然そこは私の知らない世界で、たくさんの苦労や涙もあった。
九十九姉妹も、ただの道具に戻ってこれまで通り、ひっそりと暮らすこともできた。だけど彼女たちは新しい付喪神としての自分になり先の見えない道を進むことを選んだ。
あの子は、変わらなかった。けれど、姿が元のままだからといって、変身しなかったわけじゃない。あの子自身が変わらないことを選んだ。
楽な日常に逃げたわけではない。自分がそれまで持っていたものを一つもも投げ出さないで、自分の弱いところもダメなところも、これから苦労をするだろう所も、目を逸らさずにしっかりと受け止め、それまでの自分をきちんと肯定して進んでいくことを選んだんだ。そうすることの価値が今の彼女にはよく分かっているから。それも。立派な『変身』だ。
あんな弱気なこと言っているけれども、彼女が自分のもとにそれを頼みに訪れることはもう無いのだろうなと、不思議と確信が持てた。
「ちょっとの間だったけど、これまで見てきた中で、今の貴方が一番幸せそうね、小傘。」
堀川雷鼓は今日も上機嫌だった。
変わろうとするのはとても大変なことですが、変身前の幸せがあっていたということを理解出来たところが本当にもう……
悩ましくも、分かりあって楽しそうなこがさなをありがとうございます。とても面白かったです。
途中からの早苗パートも、昔から知っていた親しい友達が良い意味で変わっていくことに複雑な感情を抱いてしまうという友人関係のあるあるな関係が捉えられていて好きです。よいこがさなでした。
あと2068年で魔王になってそうな台詞言ってる小傘ちゃんで笑いました
素晴らしい物語でした。
お見事でした。素晴らしいと思います。
嫉妬の使い方がすごい上手い……
早苗パート小傘パート奥行きあってよかったです
幻想郷!
早苗も小傘も終始輝いていました
変わってしまう喜びと寂しさや、それでも変わらない友情を感じました
小綺麗な小傘もいいけど、やっぱり早苗と一緒にいるような小傘がいいね