◇ ◇ ◇
それに気付いたのは、一人の農夫だった。
夏が終わり、日没が日に日に早くなっている時分のことである。農夫がその日の仕事を終えたころには、日も暮れつつあり、あたりは薄暗闇に包まれ始めていた。
農夫の畑は人里から少しばかり離れたところにある。このままゆっくり帰り支度をしていたのでは、日没までに人里にたどり着くことはかなわない。最近は幾分かマシになったとはいえ、夜は元来妖たちの領分である。うかうかしていて、妖どもに見つかり、喰われたのではたまらぬ。
農夫は慌てて農具や竹筒、空の弁当などをまとめると、そそくさと畑を後にし、家路を急ぐ。
その途中。
足早に急いでいたあぜ道の上で、農夫は足を止めた。
なにやら音が、どこからともなく聞こえてくるのである。
ずぶり、ぐちゃり。水気のある泥を手でこねるような、獣の肉を包丁で削ぎ落とすような、奇妙な音。どこか不安をあおる音色だった。
農夫が不思議に思い、あたりを見回すと、向こうのあぜの四辻を左に曲がったところに、何やら動く影がある。
人がうずくまっているのか、それとも獣か。
農夫の頭に、ついおとついまで人里を騒がせていた妖怪猪(イノシシ)がよぎる。永く生き、妖へと変じたか、あるいは山でのたれ死んだ人の屍(かばね)でも喰らって、化け物に身をやつしたか。とかく、人の背丈はあろう山の猪が、ここ数日畑に降りてきては農作物を荒らし回っていた。
いや。農夫は頭(かぶり)を振る。その化け猪ならば、つい今日の昼、巫女によって退治されたばかりではないか。そのような化生(けしょう)が、何匹もいてはたまらぬ。
己の妄想を振り払い、農夫が足早にその影に近づいてみると、どうやらそれは、こちらに背を向けうずくまる人のようだということが分かる。
差し込む西日がやや逆光となって、こちらからつぶさには確認しがたいが、よく目を凝らしてみれば、どうやら年端もいかぬ女子(おなご)のようである。肩まで伸ばした、金の髪が、黒い衣服にかかって、不思議と浮かび上がって見えた。
安堵する。どうやら、化物の類いではないらしい。しかし、安心してばかりもいられぬ。もうじき、世界は宵闇に沈む。目の前にいるのが迷い子ならば、大人として里に連れ帰らねばならぬ。
ぐちゃ、ぬちゃ。不快な音は響く。
その度に、目の前の小さな背は蠢き、頭に結んだ紅いリボンが揺れた。
――嬢ちゃん。こんなとこでどうした。
農夫が、背中に声をかける。
返事はない。音は止まず、背中は蠢く。ふと、その背中が不自然に盛り上がっていることに気づいた。こぶのようなものが、童女の黒い衣服の下から、突き破らんと押し出されており、強烈な西日がその輪郭を歪に強調していた。
はじめ、農夫は、肩の骨の、背中を丸めたときに盛り上がっているものだと思い、気に止めていなかった。だが、これはおかしい。
童女の黒い衣服に日が射し、紅く染まる。ぞぶり。音は止まない。おかしい。
――嬢ちゃん。そろそろ、日が暮れる。早く帰らんと、あぶねえぞ。
声が掠れている。喉が乾く。音が止まない。
――そーなのかー。
童女が返事をした。何かが口に押し込まれているような、そのくぐもった声音で、ようやく農夫は気づいた。
この童女は、喰らっているのだ。何かを。
唾を飲む。その音が嫌に響いた気がした。
童女が、ゆっくりと振り向く。その顔は、逆光で良く見えない。目を凝らす。目の前の顔が、にい、と口元に笑みを称えた、気がした。口の端に、つ、と液体が滴り落ちて、顎を濡らしている、ように見えた。鉄の錆びたような臭いが、鼻をついた。
視線を落とす。童女の足元に転がる、彼女が今までむさぼっていたモノを、視界に捉える。
日はほとんど落ちている。辛うじてわかるのは、人と同じくらいの大きさのモノがぐちゃぐちゃの肉塊となって落ちていることと、そのモノのそばに、濡れ羽色の、長い髪の毛が無造作にあたりに散らばっていることだけだった。
ひ、と声を詰まらせる。もう一度、童女の顔を見る。
宵闇の中で、その紅い瞳だけが、きらめいていた。
――目の前が、取って食べれる人類?
それから、農夫は、持っていた農具や何やらを投げ出し、死に物狂いで逃げ出すと、命からがら人里に逃げ込んだ。
それから、人食い妖怪の噂が里を駆け巡るのに、時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
時を少しさかのぼって。
「ルーミアが、変?」
一仕事を終えて境内に降り立った霊夢を待っていたのは、妖精のチルノと大妖精という珍客、それから「ルーミアが変なの」という、どう反応したらいいのかわからない言葉だった。
「変、って言ったってねえ」
霊夢は、肩に担いでいた大きな頭陀(ずだ)袋を石畳にどさりと降ろす。
それを見て、チルノ達はキョトンとした。霊夢の持ってきた、身の丈くらいはありそうな巨大な袋に興味津々なようだった。
「これ、何?」チルノが、頭陀袋を指をさす。
「あー?」霊夢は、肩をぐるぐる回し、それから伸びをしながら答える。「里の畑を荒らしてた妖怪イノシシよ。大した奴じゃないんだけど、図体ばかりでかくてね」
「それ、担いできたんですか!?」
「すげー! 怪力だ! 怪力巫女!」
にわかに色めきだつ妖精たち。ルーミアの話題はそっちのけである。
はあ、とため息を吐いて、首をこきこきと鳴らした。秋風が吹いて、霊夢の腰まである長い髪がふわりと舞った。
「うっさいわね。この細腕でこんなデカいもの持ってこれるわけないでしょ。霊力よ、霊力のちょっとした応用で筋力に補正かけてんの」
「ずるっこか!」
「これ、食べるんですか?」
「食べないわよ。息の根は止めたとはいえ瘴気もまだちょっとまとってるし。妖怪どもにならともかく、人間に食えたもんじゃないわ。このあときっちりお祓いして、山に埋めてくんの。はいはい、そういうわけだから、帰った帰った」
しっしっ。野良犬を追っ払うみたいにして、手を振る霊夢。
それを見て、妖精たちもようやく当初の目的を思い出したのか、はっとした顔をして、霊夢に食ってかかった。
「そうだ! ルーミア、ルーミアが変なんだよ!」
「変じゃない妖怪なんていないわよ」
「そういうんじゃない! ルーミアは、確かに変なやつだけど。でも今回は違うんだ! 全然、違う!」
「あの、ルーミアちゃん、熱出して苦しそうなんです」
「熱?」
霊夢は眉をひそめる。
妖怪が、人間と同じような病に伏せることは、基本的にはない。であれば、体を壊すとなると呪いの類か、それとも――。
なんにせよ、霊夢の出る幕ではない。なぜ妖怪や妖精のいざござに巻き込まれなくちゃならないのか。こちとら、人間による人間のための巫女である。それに、今回のイノシシ退治だって、重労働だった割りに大した報酬はもらえなかったっていうのに、何が悲しくて見返りの期待できない野良妖怪助けをしないといかないのか。
「なんだって、私にそんな事言うのよ。妖怪の不調が、私に関係あるわけないじゃない」
「それがヒーローの言うことか!」
チルノはむきー、と地団駄を踏んだ。
何か、彼女の中での巫女像は、正義の味方然とした職業であるらしい。
どこでそんな曲解されたのかわからないが、とにかく困ったときにすがりつく先が霊夢しか思いつかなかった、というような感じだろう。妖精のネットワークなんて、そんなもんだ。
「あの、霊夢さんはお優しいので、きっと力になってくださるだろうと……」
しどろもどろになりながら、大妖精が上目遣いで霊夢を見る。
こっちはこっちで、ずいぶんと買い被ってくれているようだ。全くなにを勘違いしてるのかしら。泣く妖怪も黙る鬼巫女だぞ。お前らに優しくした覚えはない。
はあ、と霊夢はため息を吐く。
さて、どうしたものか。
ここで二匹の頼みをあしらうのは簡単だ。
だけど、ここで断ったところで、このあとにやることといえば集中力と根気を必要とするお祓い作業だ。正直気が乗らないし、後回しにしたい気分ではあった。
と、考えると、気分転換がてら、こいつらについて行ってルーミアの様子を冷やかすのも、悪くない選択肢かもしれない。
霊夢は、大きく息を吐いた。
「仕方ないわね。ルーミアの居場所を教えなさい」
別に、二匹の熱意に絆されたわけではないし、ましてや顔見知りがなんとなく心配だったわけでは決してない。
◇ ◇ ◇
二匹の妖精に案内されて辿り着いたのは、妖怪の森の入り口近くところに、ぽつんと立っている一軒のあばら家だった。ここがルーミアの根城、とのことだ。
野良妖怪風情に家を建てる文化があるはずがない。恐らく昔、人間が住んでいたのを、いなくなったあとで勝手に住み着いただけだろう。手入れも掃除もろくにされていない木造家屋は、そこらじゅうが朽ち果ててボロボロであった。
「ルーミア、助けを呼んできたぞ!」
「ルーミアちゃん、大丈夫……?」
大して広くもない家内にズカズカと入っていく。
ルーミアは、布団――と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい、ボロ布を適当に敷いたもの――に寝かされていた。
霊夢はその寝顔を覗き込む。
その顔は真っ赤に上気し、呼吸は息苦しそうであった。荒く息をするたびに、胸が大きく上下している。なるほど、確かに、普段ののほほんとしたルーミアからは考えられないくらい、変だ。
霊夢は、ルーミアの額にそっと手をやる。
「確かに、熱があるわね」
見た目からわかっていたことではあるが、かなり熱があった。
妖怪の平熱なぞ知るよしもないが、異常であるというのは見間違いようもない。しかし、人間ならば病気と早々に判断して、早急に医者にかからせるように手配するところだが、妖怪の場合、果たしてどうするのが正しいのか。病気ということが、あり得るのか。妖怪の病気というのも、あまり聞いたことのない話であった。
霊夢は、額から手をどけると、ルーミアの首筋に這わせた。少し力を込めてみるが、風邪にかかったときのように、首筋が腫れている様子もない。ルーミアがくすぐったそうに身をよじった。
チルノに生成させた氷を革袋に詰めて氷嚢を作ると、そっと額に乗せた。
「ひゃっこい……」
ルーミアのか細い声。
見れば、彼女は薄く目を開いていた。
「あ、目、さめた?」
「大丈夫? ルーミアちゃん」
チルノと大妖精が、同時に顔を覗き込む。
当のルーミアは、現状把握に時間がかかってるのか、きょろきょろとしばらく視線をさまよわせたあとで、霊夢をまじまじと見た。
「あ、巫女みたいな人がいる」
「残念、巫女よ」
「巫女さんは、私に食べられにきたの?」
「んなわけあるか」
開口一番、それか。
霊夢はあきれる。そんな軽口叩けるなら、案外すぐ良くなるんじゃない。心配して損した。
しかし――そのなんでもない憎まれ口に、霊夢には少し思うことがあった。
食べる。そうか、食べる、か。
「ねえあんた。最近、変なもの食べなかった?」
「え?」
ルーミアは、きょとんとした。
『変なものを食べなかったか』。それは、傷んでるものを食べたりしなかったか――というだけの話ではない。
食べる、という行為には、洋の東西を問わずタブーが数多く存在する。それほど、さまざまな人にとってセンシティブな行為なのだ。そのタブーを何らかの形で破ることにより、なにがしかから罰則を科せられることもあるだろう。例えば、呪いという形で。
先程も思ったことだ。妖怪が病気にならないのならば、次に考えるべきは、呪いや呪術の類だ。
しかし、ルーミアはその問いに、首を横に振った。
「ううん。食べてない」
「本当に? あんた、すぐつまみ食いとかしそうじゃない。お供えとか、こっそり食べちゃったんじゃないの?」
「そんなことしないわ。だって、そんなことしたら、怖い巫女がぼこりにくるもの。面倒くさいわ。面倒くさいことはいや。――そうじゃなくて、ホントに、何も食べてない。何も」
「何も?」
おや、と霊夢は思った。
妖怪である以上、飲み食いは生きる上で必ずしも必要ではない。ないが――。
「あんた、最近なにか食べたの、いつ?」
「うーん。こないだの、神社のお祭りで何か食べたような」
「一年以上前じゃない。あんた、食べるの好きじゃないんだっけ」
「食べるのは好きよ。でも面倒くさいのは嫌い。だから、誰かが作ってくれでもしない限り、いいや、って」
「ねえ、あんた、さあ」霊夢は、なんとなく視線を窓の方へやった。ひび割れたガラスの向こうでは、だんだんと日が傾きつつある。「あんた、最後に人を襲ったのは、いつ」
なんとなくではあるが、霊夢にはだんだんと予想がつきはじめていた。ルーミアの不調、その原因について。
彼女の、極度の面倒くさがり。人里で耳にした、とある噂。そもそも、ルーミアの危機を知らせに来たのが、妖精たちであったことがすでに不自然だったのだ。
霊夢の頭の中で、ピースがはまりつつあった。
ルーミアは、中空を見つめ考えていたが、やがてぽつりと言った。
「覚えてないわ。人を襲ったのも、人の肉を喰らったのも、ずっと、ずうっと昔よ。だって、ね。面倒くさいんだもん。人を襲えば巫女が来る。肉を喰らえばそれこそ、調伏されるわ。どうすれば安全に人を襲えるか、なんて考えても思いつかないし。そんなことにエネルギー使うなら、闇の中で寝てたり、チルノたちと遊んでたほうが、よっぽど楽しいもん」
ルーミアは、気楽に笑う。
霊夢は呆れた。妖怪とは、いったい何なのだ。お前は、いったい何だ。
「あ、でも。紅い霧の騒ぎのとき。あのときは霊夢を襲ったわね。簡単に返り討ちだったけど」
「それもずいぶん昔ね。覚えてるのはそれくらい?」
「うん」
「そっか」
霊夢は腕を組んで、目を閉じ、しばし考えをまとめる。
自分の今考えていることが本当ならば。少々、面倒くさいことになってるかもしれない。
霊夢は自分の中で情報を整理すると、目を開いた。
「――今日人里に行ったときにね。こんな話を聞いたのよ。さいきん、妖精たちが楽しく遊び回っているのを見る、ってね」
それを聞いたときは単なるよもやま話としか思っていなかった。でも、この話をピースとして組み込むと、徐々に話の全景が見えてくるのだ。
「妖精たち? それは、あたいたちのこと?」チルノは首をかしげる。
「サニーちゃんたちかもしれないよ、チルノちゃん」と大妖精。
「その妖精たちの中でひときわ目立つ妖精がいたらしいの」
妖精たちの相槌に構わず、話を進める。
「妖精は自然の権化だから、自然界にあるきらびやかな色彩を衣装に反映してることが多い。赤や黄色、青、って具合にね。でも、その妖精は」
霊夢は、言葉を区切って視線をルーミアにやった。
ルーミアは、話の意図が見えていないらしく、目をぱちくりやっている。
「真っ黒な衣装に身を包んでいるらしいわ」
「そーなのかー」
素っ頓狂な返事。
霊夢は、ため息を吐いて、話を続ける。
「ルーミア。あんた、最近妖怪連中とつるんでる?」
「そういえば、あんまりあってないなー他の妖怪。なんかいつも、人間襲うーとかなんとか、面倒くさいことばっか言っててさ。話が合わないんだもん」
「だから、妖精とつるんでるの?」
「そう言われてみれば、チルノたちと遊んでばっかりかも」
霊夢は、もう一度ため息。
ため息を吐くことで幸運が逃げるなら、もう今年の運勢くらいはとうに使い果たしているかもしれない。
「あんた、もし閻魔にあったら言われるわよ。『貴方は少し妖怪としての自覚がなさすぎる。妖怪としての本分を全うしなさい』」
「面倒くさーい」
「あんた、人里で、なんて言われてるか知ってる?」
「うん? なんか噂されてた?」
「あんたはね。こう言われてたの。妖精といつも一緒にいる――」
「――宵闇の、妖精だって」
◇ ◇ ◇
永く生きて、人々の畏怖から、生物から化生へとなるものがいる。
人を喰らい、人々の憎悪を浴びて、生物から妖怪変化へと身を変ずるものがいる。
では、妖怪でありながら、妖怪ではないと思い込まれたものは、どうなるのだろう?
妖怪には、種族ごとの「そうあれかし」という定義がある。
例えば、河童は尻子玉を抜く。
例えば、天狗は子供をさらう。
そういう、大多数の人々による認識があり、種族全体としてそこから大きく外れることはない。それゆえに、種族全体として認識が揺らぐことさえなければ、種族の中での個々は、好き勝手に振る舞ってもその存在が大きく揺らぐことはない。
だが、ルーミアは違った。
もともと、彼女は、珍しい一人一種族の妖怪だ。河童はこう、天狗はこう、といったような種族ごとの共通認識など存在せず、それゆえに、ひどく定義が難しく、一度定義されてもその時代による考え方の変化で簡単に変容しうる。妖怪として、ひどく不安定な存在である。
だからこそ。河童や天狗よりも、よほど己の行動でそれを定義せしめる必要があった。妖怪の定義、妖怪の存在理由。つまるところ、その異能の力を使って人を襲い、その恐怖を人々に植えつける必要がある。宵闇の妖怪はこういうものだ、と意図して思わせるように振る舞う必要がある。
あったのだ。
「ちょっと、起き上がってみて」
霊夢は、ルーミアに言う。ルーミアは、不承不承といった感じで、ゆっくりと起き上がる。
霊夢はルーミアの背中に回る。
そこで見た。その背中が、ぼこり、と歪に膨らんでいるのを。
チルノと大妖精も、それを不安そうに見ている。当のルーミアだけが「?」を頭の上に浮かべていた。
ルーミアの上を脱がせて、直接それを見る。
霊夢は息を飲む。ルーミアの白磁のような背中を、食い破らんとするかのように、白い毛に覆われた羽のようなものが生えてきていた。
ルーミアが、恥ずかしそうに身じろぎをすると、合わせるかのように、羽はどくどくと蠕動した。まるで、今にも孵化せんとする昆虫のようだ、と霊夢は思った。
ここには、新しい生命のエネルギーが、脈打っている。
「霊夢さん、これ……」
「妖精の羽? ルーミアは、あたいたちと同じ、妖精だったのか?」
「いえ、違うわ」霊夢はかぶりを振る。「ルーミアは、宵闇の妖怪よ。だけど、今、定義がひどく揺らいでいる。妖精になりかけてるの」
ルーミアは、妖怪の本分をおろそかにしすぎた。
人を襲うことを忘れ、人に恐れられることを忘れ、妖精と馴れ合いすぎた。きっと、決して格の高い妖怪であることも、その定義の不安定さに拍車をかけているに違いない。
「じゃあ、いっそ妖精になっちゃえば、楽になれるんじゃない?」
「いえ、恐らくそれは難しいわね。妖精というのは自然の発露そのもののが意志を持ったようなもの。人間の恐怖という、人から発露した妖怪とは、存在の仕方そのものがずいぶん違うの。相性が悪すぎる。仮に、人間たちが『ルーミアは宵闇の妖精だ』と強く思い続けたとしても、そこから妖精が生まれることはないでしょう」
「じゃあ、ルーミアちゃんは?」
「妖怪としての定義を保てずに、そして他の存在になることもできず、このまま消滅するでしょうね」
「そんな……!」
霊夢は、ルーミアの背中をもう一度見た。
今にも、羽が開き、飛び立とうとしているように見える。だけど、無理だ。飛び立つことはない。決して。
ルーミアが咳をした。連動するように背中が揺れ、羽がふるふると脈打った。
なんとなく見ていられなくなって、目線を外した。
ふと、霊夢は、感傷的になりすぎてる自分に気づいた。
なぜ、妖怪にここまで肩入れしているのだろう、自分は。妖怪が消滅する? 結構じゃないか。こんな木っ端妖怪が消えたところで、何が起こるでもない。
だけど――。
「霊夢さん」気づけば、大妖精が霊夢の顔を心配そうに覗き込んでいた。「何か、方法はないんですか。ルーミアちゃんが消えなくなる方法」
「そうだよ、霊夢はヒーローなんだろ?」チルノも、霊夢の袖を引っ張った。「頼むよ。あとで凍らせた木の実やるから。凍らせたカエルもやるよ。なんなら一番キレイに凍らせられたやつでもいいよ。だから、なあ。頼むよ」
泣き出さんばかりの妖精たちの懇願。
霊夢は、ぼりぼりと頭をかいた。
――あーもう。ここで断ったら、寝覚めが悪いったら!
「無くはないわ。ルーミアが消えない方法」
それを聞いた瞬間、チルノと大妖精は、みるみるうちに顔をほころばせた。
全く、単純な奴ら。思いつつ、霊夢もなんとなく気持ちが軽くなったような気がしていた。断ると、それこそ面倒くさいことになりそうだし。
ごほん、と咳を一つしてから、霊夢は説明を始める。
「ようは、『妖怪としてのルーミア』を再度確固たるものとして定義できればいいのよ」
「再度、定義……」
「手っ取り早いのは人を襲うこと。それも、最大限に人の恐怖を煽る方法で、ね」
「えっ、でもそれは、えっと」
大妖精が、顔をしかめた。
チルノも、難しい顔をしている。
二匹の言いたいことは、よくわかった。博麗の巫女が、妖怪の手助けをして、人を襲わせる。その方法が果たして許されるのか。
霊夢は二匹の言外の疑問には答えず、ルーミアに向き直る。
「あんた、ここに刃物とか、ある?」
「え? 確か、台所のほうに、昔住んでた人のっぽい古びたナイフがあったけど。でも、錆び付いててなんも切れないよ?」
「いや、十分」
霊夢は、首を巡らすと、部屋の奥の方に、炊事スペースらしき場所を見つける。ルーミアの言っているのは、恐らくあそこのことだろう。
霊夢は立ち上がり、つかつかと歩いていくと、備え付けの棚を順々に開いていく。埃とクモの巣だらけで、やはり手入れもろくにされていないらしい戸棚の中には、前の家主が持ち出しそこねたらしい皿や椀が投げ出されていた。
「霊夢?」
ルーミアが、その背中に不安そうに声をかける。
霊夢は、それに答えることなく、背中越しに話を続ける。
「確かに、妖怪を生かすために、人を襲わせるように仕向ける、なんてことをやり始めたら、巫女は終わりよ。だけど、ね。あるじゃない。誰も困らない、誰も損をしない、そんな『人を襲わせる方法』が」
幾つ目かの棚の戸をあけると、お目当てのものが転がっていた。刃渡り六、七寸くらいの西洋包丁。誰も使わなくなって久しいらしいその刃先はぼろぼろで、ひどく錆び付いていた。
柄を左手に取り感触を確かめる。そうして、ぐっと握ると、霊力を刃に込めていく。みるみるうちに霊力を帯びた刃が、光を湛え始める。
風が霊夢を中心に巻き起こり、彼女の長い、濡れ羽色の黒髪が、はためいた。
「霊夢、それ」不思議そうに、チルノ。
「霊力のちょっとした応用よ。道具を活性化させ、強化する。この程度歯こぼれしていても、包丁という形を保ってる限り、相当な切れ味を再現できるわ。これなら――そう、人体程度ならば、切れない箇所はないわね」
「霊夢さん?」不安そうな、大妖精の顔。
霊夢は、ルーミアのもとに戻っていく。ルーミアは、何もわかってない顔で、ぽかんと口を開けて、霊夢を見上げていた。
霊夢は、その傍らに、どっかりと座り込んで、胡座をかく。そして、大きく長く息を吐いて、それから口を開いた。
「私が、犠牲になれば。誰も何も、困らないわね?」
ルーミアがぎょっとする。自分の背後で、妖精たちが驚き戸惑っているのが、霊夢には背中で感じられていた。
「霊夢! それは――」
チルノが騒ぎ立てるのを、霊夢は、振り向かずに右手で制した。それから、ゆっくりと窓の外を指さした。四角く切り取られた世界で、日がだんだんと傾き、暮れ始めていた。
「もうそろそろ日が暮れるわ。時間がない、あんたら全員の協力が必要なの。いい?」
「でもっ……」
「これを逃したらチャンスはないかもしれない。ルーミアを助けたいでしょ? 説明してる暇はないわ。私の言うとおりに動いて頂戴」
妖精たちに目配せをする。チルノも大妖精も、渋々といった感じで、頷いた。
友達想いね、と霊夢は感心する。妖精なんて、何も考えてない、薄情者ばかりの気がしてたけど。
それから、手早く二匹の妖精に、指示を出す。神妙な顔でそれを聞き終えると、二匹は素早く立ち上がり、あばら屋を出ていった。
頼むわよ。あんたらが、割りと頼みなんだから。ちょっと、文字通り荷が重いかもしれないけど。
心の中で妖精たちにエールを送ると、ルーミアに改めて向きなおった。
「で、ルーミア。あんたも、ひと踏ん張りしてもらうわよ。てか、あんたが一番頑張らないと駄目なんだから。しんどいとは思うけど、失敗したら消滅するんだから、気合いでなんとかなさい」
霊夢は、刃物を持っていない方の腕を優しく背中に回して、ゆっくりとルーミアを抱き起こした。
間近で目があう。
紅い瞳が、最後の灯火みたいにきらめいて見えた。
「でも、れいむ」
「いいから。よく聞きなさい。今から、あんたは人里に行くの。里の中に降り立っちゃダメよ。里の近くの……そうね。北の門から出たところに田畑が広がってる。そこら辺に降り立つの。今は作物の収穫時期が近いから、農夫たちはみんな農作業に精を出してるわ。時間を忘れるくらいにね。だから、一人や二人、日が暮れるくらいまで作業して、慌てて人里に帰る人がいる可能性は、高い」
「れいむ」
泣きそうな声。ルーミアは顔をしかめて、今にも泣きそうに見えた。それは、熱で苦しいからだけでは、けっしてあるまい。
はあ、とため息を吐く。まったく、こんなの見殺しにしたらほんと、明日から酒が不味くなるったらありゃしない。背に手を回した手を、赤子をあやすように、ぽんぽんと叩く。
こりゃ、魔理沙に「お前も丸くなった」なんて言われるわけだわ。
「巫女の勘を信じなさい。私の言うとおりに動けば、全部、良くなる。きっと良くなるから。だから、ね」
ゆっくりと、体を離す。
霊夢は真正面から、その緋色の目を覗き込んで、諭すように言った。
「あんたは、これから人里近くまで行って、演じるのよ。――最高に恐怖を煽る、宵闇の人喰い妖怪を」
きっとできるはずだ。
二匹に取りに行かせた"あれ"。そして霊夢がこれから手渡そうとしているもの。
この二つがあればきっと、ルーミアなら演じ切れる。
霊夢は、ゆっくりと右手で、長く伸びた髪を器用に束ねて、ぐいと持ち上げて見せた。その下から、細い首筋が露になる。ルーミアはそれに、釘付けになっている。
それから、霊夢は左手にもった西洋包丁を、ゆっくりと掲げて、首の高さまでいったところで、停止させると。
「あんたは、妖精にはならない」
一閃。
刃が音もなく閃いた。
◇ ◇ ◇
――よう、畑仕事に精が出るじゃねェか。ずいぶん遅くまで帰ってこねェんでよ、心配してたとこだ。
――……。
――どうしたんだい、そんなに怖い顔して、息切らしてよ。
――俺は見たんだよ。
――何を。
――妖怪だ。
――ハハ、馬鹿言っちゃいけねェよ。妖怪なら、昼間、巫女さんがやっつけたばっかでねェか。
――違うんだ。人型の、童の妖怪だ。西洋人形みたいな顔に、金の髪に、紅いリボンに紅い目に、不気味な笑みに、黒い衣きて。
――まてまて。そりゃおめぇ、最近よく見る妖精じゃねェか。黒い、宵闇の妖精。おめェさん、妖精に化かされてンだよ。
――違う。よく見た目は似てるけど、アイツは妖怪だった。人を喰ってた。
――人を? そりゃ、ホントか?
――暗かったけど間違いねえ。人ぐらいのでかさのナニカを、ぐちゃぐちゃにしてバラバラにして、喰ってたんだ。そのそばには、長い、女の髪が、無造作に散らばってて……。
――おいおい。そりゃホントか。
――ああ、あの髪は間違いなく人の髪だ。獣なんかじゃ断じてねえ。
――やべェな。おい、大丈夫なんだろうな。追いかけて来てたりしねェんだろうな。
――大丈夫だ、と思う。いや、でも。
――何だよ。
――いつの間にか、辺りが真っ暗じゃねえか。ってことは、だ。仮に、すぐそこに、そいつがいてもよ。その、気づかねえんじゃねぇか。
――怖ェこと言うなよ。チッ、仕方ねェ。今日は戸締まりしっかりして寝るか。念のため、隣近所にも言っとくか。人喰い妖怪が出た、ってよ。
◇ ◇ ◇
それから、三日が立って。
夜の帳の降り始めた博麗神社の境内にふわりと降り立つ、黒い影があった。
金の髪に、黒い衣服。トレードマークの紅いお札リボン。宵闇の妖怪、ルーミアである。
三日前の体調不良が嘘のようにけろりとした顔で、きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、ひょこひょこ歩いて神社の拝殿に近づいていく。
二、三段の石段を登ると、賽銭箱があった。見れば、賽銭箱の上には、大きな氷漬けのカエルが、でん、と乗っかっている。先客が置いていったらしい。ルーミアは苦笑しながら、箱の中を覗くと、氷から落ちた水滴が濡らした、わずかに散らばった硬貨や紙幣にまぎれて、珍しい形の石や、キレイな花などが落ちていた。これも、先客の一人の置き土産らしい。
しばし考えて、ルーミアは、おもむろに吊り下げられた紐を引っ張る。がらんがらん、と鈴がなる。
参拝の手順なんて、宵闇の野良妖怪にはわからない。とにかく、大きな音を響かせようと、がむしゃらに、紐を引っ張って鈴を鳴らした。
そうして、もういいか、と思ったら手を離した。突然の静寂。世界に自分ひとりしかいないような感覚。
「――ねえ、霊夢」
ルーミアは、呼ぶ。
そこにいない、者の名を。
「どこいったのさ。霊夢。私のお礼も受け取らずに」
ルーミアは、どかりと拝殿の前の石段に腰をおろした。
「霊夢がいないと、神社も寂しいんだなあ」
ぽつりとつぶやく。息が少しだけ煙って、宙に散った。
どこかで鈴虫の鳴く声がした。静かな夜だった。
目を閉じる。まぶたの裏に浮かび上がるのは、あのとき助けてくれた、霊夢の姿。
「霊夢。私は――」
――ぽかり。
「あいたっ」
「何勝手に、感傷に浸ってんのよ」
目を開ける。
そこには、呆れた顔で大幣を肩に担ぐ、博麗霊夢の姿があった。
「あ、霊夢。いたの」
「いるに決まってるでしょ。どこだと思ってるのよここを」
「妖怪神社」
「人間神社よ。追い返すぞ妖怪」
ぽかり、ともう一度幣で叩かれる。
「ったく、あんたのおかげでこっちは大分大変だったっていうのに。のんきなもんね」
「それは、ありがと」ルーミアは素直にペコリと頭を下げると、ポケットからじゃらじゃらと小粒の何かを差し出す。
「これ、お礼のどんぐり」
「いらない」
霊夢は、ため息を吐いて、自分の肩を揉む。
肩上でばっさり切り揃えられた黒い髪が、夜風に揺れた。
「あれから、大変だったのよ。今だって、あんたの食べ残しのイノシシを山に埋めてきたところなんだから」
「生臭くて喰えたもんじゃなかったわ。霊夢が、できるだけ凄惨な感じで喰え、っていうから喰ったけどさ。――それにしても、あの演技でよくなんとかなったわね」
妖怪イノシシの死体と、霊夢の、切った髪。
あのとき、用意したのはそれだけだった。それ以外にルーミアが指示されたのは、人の見てる前で、できるだけもったいぶるようにイノシシの死体を貪り食うこと、相手の逆光になるように立ち、不安感を煽ること、そのくらいだった。
それなのに、あんなに簡単に「人喰い妖怪」が噂になるなんて。
「ま、人里の連中も、妖怪への恐怖心を麻痺させ始めてたからね。まあ、いい刺激になったでしょ。しばらくしたら、退治したってことにしてこの件は終わり」
ルーミアの隣に、霊夢が腰をかける。
ふわりと、霊夢の絹のような髪が舞った。それを見てると、ルーミアはなんだか申し訳なくなった。
「ごめんね。せっかくキレイな髪だったのに」
「ホントよ、髪は女の命っていうくらいなのに。文字通り命を賭して救って上げたんだから感謝しなさいよね」
「うん。ありがとう」
「……あんたみたいなのに素直になられると、気持ち悪いわね」
霊夢は、立ち上がり、ぐうっと伸びをする。
それから、座ったままのルーミアに向き直ると、大幣の先を彼女に突きつけた。
「これからは定期的に妖怪らしいこともしなさい。人を喰えとは言わないし、妖精とつるむなとも言わないけど。人を適度に脅かすの。脅かして、退治して、そうやってバランスとってるんだから、幻想郷は」
「そーなのかー」
「そうやって人里で噂になったら、私がとっちめてやるから」
「ふーん。返り討ちにしてもいいの?」
「雑魚妖怪にできるわけないじゃない」
「なんだとー!」
ルーミアも、勢いをつけて立ち上がった。
その背中に羽はもうない。だけど、彼女の体は驚くほど、軽かった。
「こんにゃろーとって喰っちゃるぞー! 食べられる人類か貴様ー!」
「良薬は口に苦しって知ってる?」
おどけて襲いかかるルーミアの手を、霊夢はするりとかわすと、ふわりと夜空に飛び立つ。
負けじと、ルーミアも空に躍り出た。そして、どちらからともなく放たれる弾幕。御札にレーザー、激しくなる弾と弾の応酬。誰も見てない妖怪討伐劇が始まった。
このあと、あっけなく巫女に退治された宵闇妖怪だったが、その瞳は、間違いなく宵闇にらんらんときらめいていた。
<おわり>
それに気付いたのは、一人の農夫だった。
夏が終わり、日没が日に日に早くなっている時分のことである。農夫がその日の仕事を終えたころには、日も暮れつつあり、あたりは薄暗闇に包まれ始めていた。
農夫の畑は人里から少しばかり離れたところにある。このままゆっくり帰り支度をしていたのでは、日没までに人里にたどり着くことはかなわない。最近は幾分かマシになったとはいえ、夜は元来妖たちの領分である。うかうかしていて、妖どもに見つかり、喰われたのではたまらぬ。
農夫は慌てて農具や竹筒、空の弁当などをまとめると、そそくさと畑を後にし、家路を急ぐ。
その途中。
足早に急いでいたあぜ道の上で、農夫は足を止めた。
なにやら音が、どこからともなく聞こえてくるのである。
ずぶり、ぐちゃり。水気のある泥を手でこねるような、獣の肉を包丁で削ぎ落とすような、奇妙な音。どこか不安をあおる音色だった。
農夫が不思議に思い、あたりを見回すと、向こうのあぜの四辻を左に曲がったところに、何やら動く影がある。
人がうずくまっているのか、それとも獣か。
農夫の頭に、ついおとついまで人里を騒がせていた妖怪猪(イノシシ)がよぎる。永く生き、妖へと変じたか、あるいは山でのたれ死んだ人の屍(かばね)でも喰らって、化け物に身をやつしたか。とかく、人の背丈はあろう山の猪が、ここ数日畑に降りてきては農作物を荒らし回っていた。
いや。農夫は頭(かぶり)を振る。その化け猪ならば、つい今日の昼、巫女によって退治されたばかりではないか。そのような化生(けしょう)が、何匹もいてはたまらぬ。
己の妄想を振り払い、農夫が足早にその影に近づいてみると、どうやらそれは、こちらに背を向けうずくまる人のようだということが分かる。
差し込む西日がやや逆光となって、こちらからつぶさには確認しがたいが、よく目を凝らしてみれば、どうやら年端もいかぬ女子(おなご)のようである。肩まで伸ばした、金の髪が、黒い衣服にかかって、不思議と浮かび上がって見えた。
安堵する。どうやら、化物の類いではないらしい。しかし、安心してばかりもいられぬ。もうじき、世界は宵闇に沈む。目の前にいるのが迷い子ならば、大人として里に連れ帰らねばならぬ。
ぐちゃ、ぬちゃ。不快な音は響く。
その度に、目の前の小さな背は蠢き、頭に結んだ紅いリボンが揺れた。
――嬢ちゃん。こんなとこでどうした。
農夫が、背中に声をかける。
返事はない。音は止まず、背中は蠢く。ふと、その背中が不自然に盛り上がっていることに気づいた。こぶのようなものが、童女の黒い衣服の下から、突き破らんと押し出されており、強烈な西日がその輪郭を歪に強調していた。
はじめ、農夫は、肩の骨の、背中を丸めたときに盛り上がっているものだと思い、気に止めていなかった。だが、これはおかしい。
童女の黒い衣服に日が射し、紅く染まる。ぞぶり。音は止まない。おかしい。
――嬢ちゃん。そろそろ、日が暮れる。早く帰らんと、あぶねえぞ。
声が掠れている。喉が乾く。音が止まない。
――そーなのかー。
童女が返事をした。何かが口に押し込まれているような、そのくぐもった声音で、ようやく農夫は気づいた。
この童女は、喰らっているのだ。何かを。
唾を飲む。その音が嫌に響いた気がした。
童女が、ゆっくりと振り向く。その顔は、逆光で良く見えない。目を凝らす。目の前の顔が、にい、と口元に笑みを称えた、気がした。口の端に、つ、と液体が滴り落ちて、顎を濡らしている、ように見えた。鉄の錆びたような臭いが、鼻をついた。
視線を落とす。童女の足元に転がる、彼女が今までむさぼっていたモノを、視界に捉える。
日はほとんど落ちている。辛うじてわかるのは、人と同じくらいの大きさのモノがぐちゃぐちゃの肉塊となって落ちていることと、そのモノのそばに、濡れ羽色の、長い髪の毛が無造作にあたりに散らばっていることだけだった。
ひ、と声を詰まらせる。もう一度、童女の顔を見る。
宵闇の中で、その紅い瞳だけが、きらめいていた。
――目の前が、取って食べれる人類?
それから、農夫は、持っていた農具や何やらを投げ出し、死に物狂いで逃げ出すと、命からがら人里に逃げ込んだ。
それから、人食い妖怪の噂が里を駆け巡るのに、時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
時を少しさかのぼって。
「ルーミアが、変?」
一仕事を終えて境内に降り立った霊夢を待っていたのは、妖精のチルノと大妖精という珍客、それから「ルーミアが変なの」という、どう反応したらいいのかわからない言葉だった。
「変、って言ったってねえ」
霊夢は、肩に担いでいた大きな頭陀(ずだ)袋を石畳にどさりと降ろす。
それを見て、チルノ達はキョトンとした。霊夢の持ってきた、身の丈くらいはありそうな巨大な袋に興味津々なようだった。
「これ、何?」チルノが、頭陀袋を指をさす。
「あー?」霊夢は、肩をぐるぐる回し、それから伸びをしながら答える。「里の畑を荒らしてた妖怪イノシシよ。大した奴じゃないんだけど、図体ばかりでかくてね」
「それ、担いできたんですか!?」
「すげー! 怪力だ! 怪力巫女!」
にわかに色めきだつ妖精たち。ルーミアの話題はそっちのけである。
はあ、とため息を吐いて、首をこきこきと鳴らした。秋風が吹いて、霊夢の腰まである長い髪がふわりと舞った。
「うっさいわね。この細腕でこんなデカいもの持ってこれるわけないでしょ。霊力よ、霊力のちょっとした応用で筋力に補正かけてんの」
「ずるっこか!」
「これ、食べるんですか?」
「食べないわよ。息の根は止めたとはいえ瘴気もまだちょっとまとってるし。妖怪どもにならともかく、人間に食えたもんじゃないわ。このあときっちりお祓いして、山に埋めてくんの。はいはい、そういうわけだから、帰った帰った」
しっしっ。野良犬を追っ払うみたいにして、手を振る霊夢。
それを見て、妖精たちもようやく当初の目的を思い出したのか、はっとした顔をして、霊夢に食ってかかった。
「そうだ! ルーミア、ルーミアが変なんだよ!」
「変じゃない妖怪なんていないわよ」
「そういうんじゃない! ルーミアは、確かに変なやつだけど。でも今回は違うんだ! 全然、違う!」
「あの、ルーミアちゃん、熱出して苦しそうなんです」
「熱?」
霊夢は眉をひそめる。
妖怪が、人間と同じような病に伏せることは、基本的にはない。であれば、体を壊すとなると呪いの類か、それとも――。
なんにせよ、霊夢の出る幕ではない。なぜ妖怪や妖精のいざござに巻き込まれなくちゃならないのか。こちとら、人間による人間のための巫女である。それに、今回のイノシシ退治だって、重労働だった割りに大した報酬はもらえなかったっていうのに、何が悲しくて見返りの期待できない野良妖怪助けをしないといかないのか。
「なんだって、私にそんな事言うのよ。妖怪の不調が、私に関係あるわけないじゃない」
「それがヒーローの言うことか!」
チルノはむきー、と地団駄を踏んだ。
何か、彼女の中での巫女像は、正義の味方然とした職業であるらしい。
どこでそんな曲解されたのかわからないが、とにかく困ったときにすがりつく先が霊夢しか思いつかなかった、というような感じだろう。妖精のネットワークなんて、そんなもんだ。
「あの、霊夢さんはお優しいので、きっと力になってくださるだろうと……」
しどろもどろになりながら、大妖精が上目遣いで霊夢を見る。
こっちはこっちで、ずいぶんと買い被ってくれているようだ。全くなにを勘違いしてるのかしら。泣く妖怪も黙る鬼巫女だぞ。お前らに優しくした覚えはない。
はあ、と霊夢はため息を吐く。
さて、どうしたものか。
ここで二匹の頼みをあしらうのは簡単だ。
だけど、ここで断ったところで、このあとにやることといえば集中力と根気を必要とするお祓い作業だ。正直気が乗らないし、後回しにしたい気分ではあった。
と、考えると、気分転換がてら、こいつらについて行ってルーミアの様子を冷やかすのも、悪くない選択肢かもしれない。
霊夢は、大きく息を吐いた。
「仕方ないわね。ルーミアの居場所を教えなさい」
別に、二匹の熱意に絆されたわけではないし、ましてや顔見知りがなんとなく心配だったわけでは決してない。
◇ ◇ ◇
二匹の妖精に案内されて辿り着いたのは、妖怪の森の入り口近くところに、ぽつんと立っている一軒のあばら家だった。ここがルーミアの根城、とのことだ。
野良妖怪風情に家を建てる文化があるはずがない。恐らく昔、人間が住んでいたのを、いなくなったあとで勝手に住み着いただけだろう。手入れも掃除もろくにされていない木造家屋は、そこらじゅうが朽ち果ててボロボロであった。
「ルーミア、助けを呼んできたぞ!」
「ルーミアちゃん、大丈夫……?」
大して広くもない家内にズカズカと入っていく。
ルーミアは、布団――と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい、ボロ布を適当に敷いたもの――に寝かされていた。
霊夢はその寝顔を覗き込む。
その顔は真っ赤に上気し、呼吸は息苦しそうであった。荒く息をするたびに、胸が大きく上下している。なるほど、確かに、普段ののほほんとしたルーミアからは考えられないくらい、変だ。
霊夢は、ルーミアの額にそっと手をやる。
「確かに、熱があるわね」
見た目からわかっていたことではあるが、かなり熱があった。
妖怪の平熱なぞ知るよしもないが、異常であるというのは見間違いようもない。しかし、人間ならば病気と早々に判断して、早急に医者にかからせるように手配するところだが、妖怪の場合、果たしてどうするのが正しいのか。病気ということが、あり得るのか。妖怪の病気というのも、あまり聞いたことのない話であった。
霊夢は、額から手をどけると、ルーミアの首筋に這わせた。少し力を込めてみるが、風邪にかかったときのように、首筋が腫れている様子もない。ルーミアがくすぐったそうに身をよじった。
チルノに生成させた氷を革袋に詰めて氷嚢を作ると、そっと額に乗せた。
「ひゃっこい……」
ルーミアのか細い声。
見れば、彼女は薄く目を開いていた。
「あ、目、さめた?」
「大丈夫? ルーミアちゃん」
チルノと大妖精が、同時に顔を覗き込む。
当のルーミアは、現状把握に時間がかかってるのか、きょろきょろとしばらく視線をさまよわせたあとで、霊夢をまじまじと見た。
「あ、巫女みたいな人がいる」
「残念、巫女よ」
「巫女さんは、私に食べられにきたの?」
「んなわけあるか」
開口一番、それか。
霊夢はあきれる。そんな軽口叩けるなら、案外すぐ良くなるんじゃない。心配して損した。
しかし――そのなんでもない憎まれ口に、霊夢には少し思うことがあった。
食べる。そうか、食べる、か。
「ねえあんた。最近、変なもの食べなかった?」
「え?」
ルーミアは、きょとんとした。
『変なものを食べなかったか』。それは、傷んでるものを食べたりしなかったか――というだけの話ではない。
食べる、という行為には、洋の東西を問わずタブーが数多く存在する。それほど、さまざまな人にとってセンシティブな行為なのだ。そのタブーを何らかの形で破ることにより、なにがしかから罰則を科せられることもあるだろう。例えば、呪いという形で。
先程も思ったことだ。妖怪が病気にならないのならば、次に考えるべきは、呪いや呪術の類だ。
しかし、ルーミアはその問いに、首を横に振った。
「ううん。食べてない」
「本当に? あんた、すぐつまみ食いとかしそうじゃない。お供えとか、こっそり食べちゃったんじゃないの?」
「そんなことしないわ。だって、そんなことしたら、怖い巫女がぼこりにくるもの。面倒くさいわ。面倒くさいことはいや。――そうじゃなくて、ホントに、何も食べてない。何も」
「何も?」
おや、と霊夢は思った。
妖怪である以上、飲み食いは生きる上で必ずしも必要ではない。ないが――。
「あんた、最近なにか食べたの、いつ?」
「うーん。こないだの、神社のお祭りで何か食べたような」
「一年以上前じゃない。あんた、食べるの好きじゃないんだっけ」
「食べるのは好きよ。でも面倒くさいのは嫌い。だから、誰かが作ってくれでもしない限り、いいや、って」
「ねえ、あんた、さあ」霊夢は、なんとなく視線を窓の方へやった。ひび割れたガラスの向こうでは、だんだんと日が傾きつつある。「あんた、最後に人を襲ったのは、いつ」
なんとなくではあるが、霊夢にはだんだんと予想がつきはじめていた。ルーミアの不調、その原因について。
彼女の、極度の面倒くさがり。人里で耳にした、とある噂。そもそも、ルーミアの危機を知らせに来たのが、妖精たちであったことがすでに不自然だったのだ。
霊夢の頭の中で、ピースがはまりつつあった。
ルーミアは、中空を見つめ考えていたが、やがてぽつりと言った。
「覚えてないわ。人を襲ったのも、人の肉を喰らったのも、ずっと、ずうっと昔よ。だって、ね。面倒くさいんだもん。人を襲えば巫女が来る。肉を喰らえばそれこそ、調伏されるわ。どうすれば安全に人を襲えるか、なんて考えても思いつかないし。そんなことにエネルギー使うなら、闇の中で寝てたり、チルノたちと遊んでたほうが、よっぽど楽しいもん」
ルーミアは、気楽に笑う。
霊夢は呆れた。妖怪とは、いったい何なのだ。お前は、いったい何だ。
「あ、でも。紅い霧の騒ぎのとき。あのときは霊夢を襲ったわね。簡単に返り討ちだったけど」
「それもずいぶん昔ね。覚えてるのはそれくらい?」
「うん」
「そっか」
霊夢は腕を組んで、目を閉じ、しばし考えをまとめる。
自分の今考えていることが本当ならば。少々、面倒くさいことになってるかもしれない。
霊夢は自分の中で情報を整理すると、目を開いた。
「――今日人里に行ったときにね。こんな話を聞いたのよ。さいきん、妖精たちが楽しく遊び回っているのを見る、ってね」
それを聞いたときは単なるよもやま話としか思っていなかった。でも、この話をピースとして組み込むと、徐々に話の全景が見えてくるのだ。
「妖精たち? それは、あたいたちのこと?」チルノは首をかしげる。
「サニーちゃんたちかもしれないよ、チルノちゃん」と大妖精。
「その妖精たちの中でひときわ目立つ妖精がいたらしいの」
妖精たちの相槌に構わず、話を進める。
「妖精は自然の権化だから、自然界にあるきらびやかな色彩を衣装に反映してることが多い。赤や黄色、青、って具合にね。でも、その妖精は」
霊夢は、言葉を区切って視線をルーミアにやった。
ルーミアは、話の意図が見えていないらしく、目をぱちくりやっている。
「真っ黒な衣装に身を包んでいるらしいわ」
「そーなのかー」
素っ頓狂な返事。
霊夢は、ため息を吐いて、話を続ける。
「ルーミア。あんた、最近妖怪連中とつるんでる?」
「そういえば、あんまりあってないなー他の妖怪。なんかいつも、人間襲うーとかなんとか、面倒くさいことばっか言っててさ。話が合わないんだもん」
「だから、妖精とつるんでるの?」
「そう言われてみれば、チルノたちと遊んでばっかりかも」
霊夢は、もう一度ため息。
ため息を吐くことで幸運が逃げるなら、もう今年の運勢くらいはとうに使い果たしているかもしれない。
「あんた、もし閻魔にあったら言われるわよ。『貴方は少し妖怪としての自覚がなさすぎる。妖怪としての本分を全うしなさい』」
「面倒くさーい」
「あんた、人里で、なんて言われてるか知ってる?」
「うん? なんか噂されてた?」
「あんたはね。こう言われてたの。妖精といつも一緒にいる――」
「――宵闇の、妖精だって」
◇ ◇ ◇
永く生きて、人々の畏怖から、生物から化生へとなるものがいる。
人を喰らい、人々の憎悪を浴びて、生物から妖怪変化へと身を変ずるものがいる。
では、妖怪でありながら、妖怪ではないと思い込まれたものは、どうなるのだろう?
妖怪には、種族ごとの「そうあれかし」という定義がある。
例えば、河童は尻子玉を抜く。
例えば、天狗は子供をさらう。
そういう、大多数の人々による認識があり、種族全体としてそこから大きく外れることはない。それゆえに、種族全体として認識が揺らぐことさえなければ、種族の中での個々は、好き勝手に振る舞ってもその存在が大きく揺らぐことはない。
だが、ルーミアは違った。
もともと、彼女は、珍しい一人一種族の妖怪だ。河童はこう、天狗はこう、といったような種族ごとの共通認識など存在せず、それゆえに、ひどく定義が難しく、一度定義されてもその時代による考え方の変化で簡単に変容しうる。妖怪として、ひどく不安定な存在である。
だからこそ。河童や天狗よりも、よほど己の行動でそれを定義せしめる必要があった。妖怪の定義、妖怪の存在理由。つまるところ、その異能の力を使って人を襲い、その恐怖を人々に植えつける必要がある。宵闇の妖怪はこういうものだ、と意図して思わせるように振る舞う必要がある。
あったのだ。
「ちょっと、起き上がってみて」
霊夢は、ルーミアに言う。ルーミアは、不承不承といった感じで、ゆっくりと起き上がる。
霊夢はルーミアの背中に回る。
そこで見た。その背中が、ぼこり、と歪に膨らんでいるのを。
チルノと大妖精も、それを不安そうに見ている。当のルーミアだけが「?」を頭の上に浮かべていた。
ルーミアの上を脱がせて、直接それを見る。
霊夢は息を飲む。ルーミアの白磁のような背中を、食い破らんとするかのように、白い毛に覆われた羽のようなものが生えてきていた。
ルーミアが、恥ずかしそうに身じろぎをすると、合わせるかのように、羽はどくどくと蠕動した。まるで、今にも孵化せんとする昆虫のようだ、と霊夢は思った。
ここには、新しい生命のエネルギーが、脈打っている。
「霊夢さん、これ……」
「妖精の羽? ルーミアは、あたいたちと同じ、妖精だったのか?」
「いえ、違うわ」霊夢はかぶりを振る。「ルーミアは、宵闇の妖怪よ。だけど、今、定義がひどく揺らいでいる。妖精になりかけてるの」
ルーミアは、妖怪の本分をおろそかにしすぎた。
人を襲うことを忘れ、人に恐れられることを忘れ、妖精と馴れ合いすぎた。きっと、決して格の高い妖怪であることも、その定義の不安定さに拍車をかけているに違いない。
「じゃあ、いっそ妖精になっちゃえば、楽になれるんじゃない?」
「いえ、恐らくそれは難しいわね。妖精というのは自然の発露そのもののが意志を持ったようなもの。人間の恐怖という、人から発露した妖怪とは、存在の仕方そのものがずいぶん違うの。相性が悪すぎる。仮に、人間たちが『ルーミアは宵闇の妖精だ』と強く思い続けたとしても、そこから妖精が生まれることはないでしょう」
「じゃあ、ルーミアちゃんは?」
「妖怪としての定義を保てずに、そして他の存在になることもできず、このまま消滅するでしょうね」
「そんな……!」
霊夢は、ルーミアの背中をもう一度見た。
今にも、羽が開き、飛び立とうとしているように見える。だけど、無理だ。飛び立つことはない。決して。
ルーミアが咳をした。連動するように背中が揺れ、羽がふるふると脈打った。
なんとなく見ていられなくなって、目線を外した。
ふと、霊夢は、感傷的になりすぎてる自分に気づいた。
なぜ、妖怪にここまで肩入れしているのだろう、自分は。妖怪が消滅する? 結構じゃないか。こんな木っ端妖怪が消えたところで、何が起こるでもない。
だけど――。
「霊夢さん」気づけば、大妖精が霊夢の顔を心配そうに覗き込んでいた。「何か、方法はないんですか。ルーミアちゃんが消えなくなる方法」
「そうだよ、霊夢はヒーローなんだろ?」チルノも、霊夢の袖を引っ張った。「頼むよ。あとで凍らせた木の実やるから。凍らせたカエルもやるよ。なんなら一番キレイに凍らせられたやつでもいいよ。だから、なあ。頼むよ」
泣き出さんばかりの妖精たちの懇願。
霊夢は、ぼりぼりと頭をかいた。
――あーもう。ここで断ったら、寝覚めが悪いったら!
「無くはないわ。ルーミアが消えない方法」
それを聞いた瞬間、チルノと大妖精は、みるみるうちに顔をほころばせた。
全く、単純な奴ら。思いつつ、霊夢もなんとなく気持ちが軽くなったような気がしていた。断ると、それこそ面倒くさいことになりそうだし。
ごほん、と咳を一つしてから、霊夢は説明を始める。
「ようは、『妖怪としてのルーミア』を再度確固たるものとして定義できればいいのよ」
「再度、定義……」
「手っ取り早いのは人を襲うこと。それも、最大限に人の恐怖を煽る方法で、ね」
「えっ、でもそれは、えっと」
大妖精が、顔をしかめた。
チルノも、難しい顔をしている。
二匹の言いたいことは、よくわかった。博麗の巫女が、妖怪の手助けをして、人を襲わせる。その方法が果たして許されるのか。
霊夢は二匹の言外の疑問には答えず、ルーミアに向き直る。
「あんた、ここに刃物とか、ある?」
「え? 確か、台所のほうに、昔住んでた人のっぽい古びたナイフがあったけど。でも、錆び付いててなんも切れないよ?」
「いや、十分」
霊夢は、首を巡らすと、部屋の奥の方に、炊事スペースらしき場所を見つける。ルーミアの言っているのは、恐らくあそこのことだろう。
霊夢は立ち上がり、つかつかと歩いていくと、備え付けの棚を順々に開いていく。埃とクモの巣だらけで、やはり手入れもろくにされていないらしい戸棚の中には、前の家主が持ち出しそこねたらしい皿や椀が投げ出されていた。
「霊夢?」
ルーミアが、その背中に不安そうに声をかける。
霊夢は、それに答えることなく、背中越しに話を続ける。
「確かに、妖怪を生かすために、人を襲わせるように仕向ける、なんてことをやり始めたら、巫女は終わりよ。だけど、ね。あるじゃない。誰も困らない、誰も損をしない、そんな『人を襲わせる方法』が」
幾つ目かの棚の戸をあけると、お目当てのものが転がっていた。刃渡り六、七寸くらいの西洋包丁。誰も使わなくなって久しいらしいその刃先はぼろぼろで、ひどく錆び付いていた。
柄を左手に取り感触を確かめる。そうして、ぐっと握ると、霊力を刃に込めていく。みるみるうちに霊力を帯びた刃が、光を湛え始める。
風が霊夢を中心に巻き起こり、彼女の長い、濡れ羽色の黒髪が、はためいた。
「霊夢、それ」不思議そうに、チルノ。
「霊力のちょっとした応用よ。道具を活性化させ、強化する。この程度歯こぼれしていても、包丁という形を保ってる限り、相当な切れ味を再現できるわ。これなら――そう、人体程度ならば、切れない箇所はないわね」
「霊夢さん?」不安そうな、大妖精の顔。
霊夢は、ルーミアのもとに戻っていく。ルーミアは、何もわかってない顔で、ぽかんと口を開けて、霊夢を見上げていた。
霊夢は、その傍らに、どっかりと座り込んで、胡座をかく。そして、大きく長く息を吐いて、それから口を開いた。
「私が、犠牲になれば。誰も何も、困らないわね?」
ルーミアがぎょっとする。自分の背後で、妖精たちが驚き戸惑っているのが、霊夢には背中で感じられていた。
「霊夢! それは――」
チルノが騒ぎ立てるのを、霊夢は、振り向かずに右手で制した。それから、ゆっくりと窓の外を指さした。四角く切り取られた世界で、日がだんだんと傾き、暮れ始めていた。
「もうそろそろ日が暮れるわ。時間がない、あんたら全員の協力が必要なの。いい?」
「でもっ……」
「これを逃したらチャンスはないかもしれない。ルーミアを助けたいでしょ? 説明してる暇はないわ。私の言うとおりに動いて頂戴」
妖精たちに目配せをする。チルノも大妖精も、渋々といった感じで、頷いた。
友達想いね、と霊夢は感心する。妖精なんて、何も考えてない、薄情者ばかりの気がしてたけど。
それから、手早く二匹の妖精に、指示を出す。神妙な顔でそれを聞き終えると、二匹は素早く立ち上がり、あばら屋を出ていった。
頼むわよ。あんたらが、割りと頼みなんだから。ちょっと、文字通り荷が重いかもしれないけど。
心の中で妖精たちにエールを送ると、ルーミアに改めて向きなおった。
「で、ルーミア。あんたも、ひと踏ん張りしてもらうわよ。てか、あんたが一番頑張らないと駄目なんだから。しんどいとは思うけど、失敗したら消滅するんだから、気合いでなんとかなさい」
霊夢は、刃物を持っていない方の腕を優しく背中に回して、ゆっくりとルーミアを抱き起こした。
間近で目があう。
紅い瞳が、最後の灯火みたいにきらめいて見えた。
「でも、れいむ」
「いいから。よく聞きなさい。今から、あんたは人里に行くの。里の中に降り立っちゃダメよ。里の近くの……そうね。北の門から出たところに田畑が広がってる。そこら辺に降り立つの。今は作物の収穫時期が近いから、農夫たちはみんな農作業に精を出してるわ。時間を忘れるくらいにね。だから、一人や二人、日が暮れるくらいまで作業して、慌てて人里に帰る人がいる可能性は、高い」
「れいむ」
泣きそうな声。ルーミアは顔をしかめて、今にも泣きそうに見えた。それは、熱で苦しいからだけでは、けっしてあるまい。
はあ、とため息を吐く。まったく、こんなの見殺しにしたらほんと、明日から酒が不味くなるったらありゃしない。背に手を回した手を、赤子をあやすように、ぽんぽんと叩く。
こりゃ、魔理沙に「お前も丸くなった」なんて言われるわけだわ。
「巫女の勘を信じなさい。私の言うとおりに動けば、全部、良くなる。きっと良くなるから。だから、ね」
ゆっくりと、体を離す。
霊夢は真正面から、その緋色の目を覗き込んで、諭すように言った。
「あんたは、これから人里近くまで行って、演じるのよ。――最高に恐怖を煽る、宵闇の人喰い妖怪を」
きっとできるはずだ。
二匹に取りに行かせた"あれ"。そして霊夢がこれから手渡そうとしているもの。
この二つがあればきっと、ルーミアなら演じ切れる。
霊夢は、ゆっくりと右手で、長く伸びた髪を器用に束ねて、ぐいと持ち上げて見せた。その下から、細い首筋が露になる。ルーミアはそれに、釘付けになっている。
それから、霊夢は左手にもった西洋包丁を、ゆっくりと掲げて、首の高さまでいったところで、停止させると。
「あんたは、妖精にはならない」
一閃。
刃が音もなく閃いた。
◇ ◇ ◇
――よう、畑仕事に精が出るじゃねェか。ずいぶん遅くまで帰ってこねェんでよ、心配してたとこだ。
――……。
――どうしたんだい、そんなに怖い顔して、息切らしてよ。
――俺は見たんだよ。
――何を。
――妖怪だ。
――ハハ、馬鹿言っちゃいけねェよ。妖怪なら、昼間、巫女さんがやっつけたばっかでねェか。
――違うんだ。人型の、童の妖怪だ。西洋人形みたいな顔に、金の髪に、紅いリボンに紅い目に、不気味な笑みに、黒い衣きて。
――まてまて。そりゃおめぇ、最近よく見る妖精じゃねェか。黒い、宵闇の妖精。おめェさん、妖精に化かされてンだよ。
――違う。よく見た目は似てるけど、アイツは妖怪だった。人を喰ってた。
――人を? そりゃ、ホントか?
――暗かったけど間違いねえ。人ぐらいのでかさのナニカを、ぐちゃぐちゃにしてバラバラにして、喰ってたんだ。そのそばには、長い、女の髪が、無造作に散らばってて……。
――おいおい。そりゃホントか。
――ああ、あの髪は間違いなく人の髪だ。獣なんかじゃ断じてねえ。
――やべェな。おい、大丈夫なんだろうな。追いかけて来てたりしねェんだろうな。
――大丈夫だ、と思う。いや、でも。
――何だよ。
――いつの間にか、辺りが真っ暗じゃねえか。ってことは、だ。仮に、すぐそこに、そいつがいてもよ。その、気づかねえんじゃねぇか。
――怖ェこと言うなよ。チッ、仕方ねェ。今日は戸締まりしっかりして寝るか。念のため、隣近所にも言っとくか。人喰い妖怪が出た、ってよ。
◇ ◇ ◇
それから、三日が立って。
夜の帳の降り始めた博麗神社の境内にふわりと降り立つ、黒い影があった。
金の髪に、黒い衣服。トレードマークの紅いお札リボン。宵闇の妖怪、ルーミアである。
三日前の体調不良が嘘のようにけろりとした顔で、きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、ひょこひょこ歩いて神社の拝殿に近づいていく。
二、三段の石段を登ると、賽銭箱があった。見れば、賽銭箱の上には、大きな氷漬けのカエルが、でん、と乗っかっている。先客が置いていったらしい。ルーミアは苦笑しながら、箱の中を覗くと、氷から落ちた水滴が濡らした、わずかに散らばった硬貨や紙幣にまぎれて、珍しい形の石や、キレイな花などが落ちていた。これも、先客の一人の置き土産らしい。
しばし考えて、ルーミアは、おもむろに吊り下げられた紐を引っ張る。がらんがらん、と鈴がなる。
参拝の手順なんて、宵闇の野良妖怪にはわからない。とにかく、大きな音を響かせようと、がむしゃらに、紐を引っ張って鈴を鳴らした。
そうして、もういいか、と思ったら手を離した。突然の静寂。世界に自分ひとりしかいないような感覚。
「――ねえ、霊夢」
ルーミアは、呼ぶ。
そこにいない、者の名を。
「どこいったのさ。霊夢。私のお礼も受け取らずに」
ルーミアは、どかりと拝殿の前の石段に腰をおろした。
「霊夢がいないと、神社も寂しいんだなあ」
ぽつりとつぶやく。息が少しだけ煙って、宙に散った。
どこかで鈴虫の鳴く声がした。静かな夜だった。
目を閉じる。まぶたの裏に浮かび上がるのは、あのとき助けてくれた、霊夢の姿。
「霊夢。私は――」
――ぽかり。
「あいたっ」
「何勝手に、感傷に浸ってんのよ」
目を開ける。
そこには、呆れた顔で大幣を肩に担ぐ、博麗霊夢の姿があった。
「あ、霊夢。いたの」
「いるに決まってるでしょ。どこだと思ってるのよここを」
「妖怪神社」
「人間神社よ。追い返すぞ妖怪」
ぽかり、ともう一度幣で叩かれる。
「ったく、あんたのおかげでこっちは大分大変だったっていうのに。のんきなもんね」
「それは、ありがと」ルーミアは素直にペコリと頭を下げると、ポケットからじゃらじゃらと小粒の何かを差し出す。
「これ、お礼のどんぐり」
「いらない」
霊夢は、ため息を吐いて、自分の肩を揉む。
肩上でばっさり切り揃えられた黒い髪が、夜風に揺れた。
「あれから、大変だったのよ。今だって、あんたの食べ残しのイノシシを山に埋めてきたところなんだから」
「生臭くて喰えたもんじゃなかったわ。霊夢が、できるだけ凄惨な感じで喰え、っていうから喰ったけどさ。――それにしても、あの演技でよくなんとかなったわね」
妖怪イノシシの死体と、霊夢の、切った髪。
あのとき、用意したのはそれだけだった。それ以外にルーミアが指示されたのは、人の見てる前で、できるだけもったいぶるようにイノシシの死体を貪り食うこと、相手の逆光になるように立ち、不安感を煽ること、そのくらいだった。
それなのに、あんなに簡単に「人喰い妖怪」が噂になるなんて。
「ま、人里の連中も、妖怪への恐怖心を麻痺させ始めてたからね。まあ、いい刺激になったでしょ。しばらくしたら、退治したってことにしてこの件は終わり」
ルーミアの隣に、霊夢が腰をかける。
ふわりと、霊夢の絹のような髪が舞った。それを見てると、ルーミアはなんだか申し訳なくなった。
「ごめんね。せっかくキレイな髪だったのに」
「ホントよ、髪は女の命っていうくらいなのに。文字通り命を賭して救って上げたんだから感謝しなさいよね」
「うん。ありがとう」
「……あんたみたいなのに素直になられると、気持ち悪いわね」
霊夢は、立ち上がり、ぐうっと伸びをする。
それから、座ったままのルーミアに向き直ると、大幣の先を彼女に突きつけた。
「これからは定期的に妖怪らしいこともしなさい。人を喰えとは言わないし、妖精とつるむなとも言わないけど。人を適度に脅かすの。脅かして、退治して、そうやってバランスとってるんだから、幻想郷は」
「そーなのかー」
「そうやって人里で噂になったら、私がとっちめてやるから」
「ふーん。返り討ちにしてもいいの?」
「雑魚妖怪にできるわけないじゃない」
「なんだとー!」
ルーミアも、勢いをつけて立ち上がった。
その背中に羽はもうない。だけど、彼女の体は驚くほど、軽かった。
「こんにゃろーとって喰っちゃるぞー! 食べられる人類か貴様ー!」
「良薬は口に苦しって知ってる?」
おどけて襲いかかるルーミアの手を、霊夢はするりとかわすと、ふわりと夜空に飛び立つ。
負けじと、ルーミアも空に躍り出た。そして、どちらからともなく放たれる弾幕。御札にレーザー、激しくなる弾と弾の応酬。誰も見てない妖怪討伐劇が始まった。
このあと、あっけなく巫女に退治された宵闇妖怪だったが、その瞳は、間違いなく宵闇にらんらんときらめいていた。
<おわり>
だからこそ妖怪神社になるんでしょうね。
シリアスとコミカルのバランスが良く感じました。
各キャラのやり取りも好みでした。良いです。
ちょっぴり怖いけど、みんな優しくて素敵なお話でした。
所々にある原作のフレーズとかやっぱり妖怪巫女な霊夢さんも好き
霊夢もなんだかんだで協力してくれてやさしい
東方でした
ルーミアたちの物語がとても丁寧に描かれていて読んでいて楽しかったです
なんだかんだやさしい霊夢がよかったです
ストーリーラインが明確でいいと思ったぶん細かなところが気になっちゃうかも