豊姫様と私が到着したとき、賢者の海沖合は騒然としていた。
海抜数十メートルの上空に仮設のオペレーション・ルームが建てられ、ガラスの向こうから月の民たちが神経質そうに指示を飛ばしている。見知った顔は少ない。普段滅多に人前へ出ない高貴な位の方々が出馬しているようだ。
その下方では手に赤いケーブルを持った玉兎が三匹、緊張した面持ちで海面に待機している。
彼女らは海中から上がってきた仲間から黒いケーブルを受け取ると、慎重に自分のケーブルと接続した。
「豊姫様、あれは……?」
ケーブルは空に浮かぶ建物から何本も延び、その先はすべて海底に繋がっている。どうやら玉兎たちは、一連の作業をもう何度も繰り返しているらしい。
「レイセン。あなたはこの賢者の海を見て、何か気付きませんか?」
豊姫様は私の質問に答えず、かわりに私を試すような問いを投げかけた。
あいにく、私は頭が回る方ではない。それは豊姫様も承知の上だろうが、私は豊姫様の期待に応えたくて、眼前に広がる凪いだ海を懸命に観察した。
「……あれ?」
「気付いた?」
「はい。えっと……、海が凪いでいます。賢者の海は気泡が弾け、常に荒れているはずなのに」
賢者の海。
地球から見ると月の裏側に位置し、私たちが住む月の都の入り口にもなっている場所だ。
入り口と言っても、物理的な門のようなものではない。外部からの侵入には決まったパスルートを辿る必要があり、その順路の終着点がこの海になっている。私にはよく分からないが、この場所には海と都が重なりあって存在しているらしい。
そういった地理的事情から、私もここへはしばしば足を運んでいる。たしか……そう。つい最近も、まさにこの辺りの海域で夜の潮風を楽しんだ。
普段の賢者の海は荒れ狂い、絶え間なく変化を続ける思考の海。それは底へ潜るほど激しさを増し、凪ぐなどということはあり得ないはず……。
「……賢者の海が考えることをやめたとき、月の都はどうなると思う?」豊姫様は再び私に尋ねた。
今度は考える気も起きないほどの難問だった。
「分かりません。見当もつきません」
ため息と共に天を仰ぐと、オペレーション・ルームの壁の一部が消え、一人の月の民が身を乗り出した。
「総員退避! 玉兎たちは速やかに海面から離れるように!」
「あっ、依姫様」
豊姫様の妹、綿月依姫様の命令を聞き、作業を終えた玉兎が慌てて上昇を開始した。
豊姫様もふわりと舞い上がり、妹のいる指令室へと向かっていく。
こういう場合、ただの玉兎である私が入室しても良いのだろうか。
……良いよね、きっと。
全員が建物へ入ると、入り口の穴は真っ白な壁に閉ざされた。
オペレーション・ルームの中は思ったよりも広い。壁のほとんどがガラス張りで、正方形の床の中央にも海面を覗ける窓が付いている。
一人の月の民が命令すると、技術職の玉兎がコンピュータに入力を始めた。エネルギー源が見当たらないが、この手の仮設施設では小型発電機が壁と一体化していることが多い。月の科学技術は世界一だ。
「豊姫様、依姫様。いったい今から何が始まるんですか?」
私は作業の邪魔をしないよう、できる限りの小声で尋ねた。
「まさか、お姉様から何も聞いていないの?」依姫様は怪訝な表情を見せたが、その顔はすぐに姉の豊姫様へと向けられた。
「だって、聞かれなかったから……」
「道中聞いたじゃないですか、三回も!」
「甘いわね、レイセン。正解は四回です」豊姫様は扇子で口を隠し、満足そうに目を細めた。
「はぁ……。今は説明している場合ではないわ。あなたもここで見ていなさい」
私は依姫様に従い、せわしなくキーを叩く玉兎たちの背中を見つめることにした。
玉兎の上司にあたる月の民たちは食い入るようにモニターを監視している。平時の優雅な姿が嘘のように、今日はその余裕の無さを隠そうともしていない。
「……引き上げ準備が整いました!」
「よし。上げろ」
突然、鈍い地響きのような音が周囲に轟いた。
特殊な技術で空中に固定された部屋は振動を感じさせないが、窓から見える海は波打ち、その波動が遥か遠くまで伝わっていくのが見える。
波はみるみる激しさを増し、やがて足下の海に深い黒が広がり始めた。
「依姫様、これは!?」私は思わず驚愕の悲鳴を上げた。
床窓の下に、真っ黒な四角い物体が現れた。
それは今までに見たどんな黒よりも黒く、表面を滝のように落ちる海水以外、物体の輪郭を知る術すらない。
しかし、私が圧倒された理由は、その寒気のするような暗黒だけではなかった。
暗黒物体は、縦横四十メートルもあろうかという巨大な直方体だったのだ。高さの方向は見えないが、この部屋の高度に鑑みれば六十メートルはあるだろう。
玉兎たちも私と同じようにざわめいた。月の民たちはそれを諌めることも忘れ、皆一様に渋い顔で足下の黒い箱を睨みつけている。
「……これより調査を開始する! RA班はモニター前で待機、RB班は全員降下しろ!」
月の民の命令を感知し、部屋の壁に四角い出口が現れた。RB班と呼ばれた玉兎は重そうな機械を背負い、順番に降下を始める。
「よく見ておきなさい、レイセン」依姫様が冷静な口調で言う。「この物体は、一万年以上も昔に八意様が設計したマジックアイテム、『ブラックボックス』です」
「ブラックボックス……?」
そのまんまですね、とは口にしなかった。
「賢者の海はおよそ二十五万平方キロメートルの総面積を持つ。その全域にこれと同じものが、全部で六千七百万基沈められているわ」そう豊姫様が続ける。「各ユニットは量子状態のもつれ――地上で言う、EPR相関を利用した無線アクセスによって、須臾のラグも無く同期しています。……さてレイセン、この意味が分かりますか?」
「……分かりません」私は俯いて言った。
「お姉様、兎にそこまでの知識はありません」
「依姫は無粋ねぇ。自分の力で考えることこそ、真の学問であるというのに」
「それはそうですが……お姉様の場合、ただペットが困る姿を楽しんでいるだけにしか見えません」
「あ、あの!」私は今にも口論になりそうな二人に割って入った。「それで、どういう意味があるのでしょうか?」
依姫様は伏し目がちに咳払いをし、話を本題に戻した。「要するに……、この広大な賢者の海全体を利用して、一つの巨大なマジックアイテムを機能させているということです。もうずっと、一万年も前からね」
私は話のスケールに目眩がし、しばらく口を開けたまま放心してしまった。つい二日前にも仲間たちと弾幕遊びをしに来たこの海の底に、よもやそんな秘密が眠っていたなんて。
「……そ、それで……、ブラックボックスとはどのようなマジックアイテムなのですか?」私はなんとか我に返り、慌てて次の質問を絞り出す。
「この月の世界が、結界によって地上人から隠されていることは知っていますね?」
私はこくこくと頷いた。
「ブラックボックスはその結界を維持しているのです」依姫様は途端に深刻な顔になった。「それがこの二日前、何らかのトラブルによって停止してしまった……!」
「えっ!?」私は赤い瞳を大きく見開いた。「結界を維持する機構が止まっているなんて……大丈夫なんですか!?」
豊姫様も、珍しく真剣な面持ちで口を開く。「大丈夫ではありません。今はまだ別の区画にある予備ユニットが結界を維持していますが、もういつ停止してもおかしくない……。これは紛れもなく、月の都存亡の危機なのです」
月の都の危機。
十年ほど前、私は豊姫様と行動を共にし、地上の妖怪による侵攻をすんでのところで食い止めたことがあった。
しかし豊姫様は、あのときを遥かに超える非常事態であると言っている。私はそら恐ろしい想像に襲われ、自分の両腕をきつく抱きしめた。
「ブラックボックスは簡単にフリーズしてしまうような、やわな設計ではありません。ユニットの周囲は三重の防護壁で覆われ、物理的、魔術的、工学的なあらゆる干渉を拒みます。しかし……二日前はちょうど千年に一度、深夜〇時から二十八秒間だけ防護壁が張り直される、深刻なセキュリティ・ホールがあったのです」
「つまり……その間に、外敵による破壊工作があったのですね?」
深夜〇時と言えば、ちょうど私たちが遊びに来て、ぐだぐだと弾幕を撒き散らしていた時間ではないか。
仮にも都を守る綿月家のペットとして、悪意ある侵入者を見過ごすなんてあってはならない。私は悔しさに震え、固く拳を握った。
「でも……待ってください。仮に防護壁が無くても、物理的な破壊は困難なのでは?」私はあらゆる知識を総動員し、素朴な疑問を発見した。「深い海の底に沈めてあるものなら、そこには常に巨大な水圧がかかっているはずです。それに耐えられるよう、ブラックボックス自身にも相応の強度が必要なはず……」
「正しい分析ね」豊姫様が嬉しそうに微笑む。「でも、残念でした。ブラックボックスの中身はね、ただの海水なのよ」
「海水? 中に何も入っていないんですか?」私はすっとんきょうな声を上げた。
「何も入っていない、ではなく、NaCl溶液で満たされている、と考えるのです」豊姫様は下を向き、巨大な黒い塊と、豆粒のような玉兎を見下ろした。「この箱の中は八一九二の部屋に区切られ、それぞれしきりの壁から水中のNaCl分子に高周波電磁パルスを照射しています」
「電磁パルス? ガンマ線ですか?」
「地上でNMRと呼ばれている技術の完成形よ。要は水中の分子をキュビットとみなし、光子によってスイッチングする程度の技術。彼らに言わせれば、さしずめ賢者の海そのものが『液相量子コンピュータ』……と言ったところでしょうかね」
詳しい話は分からなかったが、水圧対策は必要ないということだろう。しかし、だからと言って、脆弱な素材を使って良い理由にはならない。
「精密なパルスを制御するため、この材質でなくてはならなかったのです」まるで私の考えを見透かしたように、依姫様が解説を始めた。「この外壁と内側のしきりは、月夜見様とそのお姉様が共同で開発した完全黒体。黒体放射による正確無比な電磁パルスこそが、プランク単位オーダーでのキュビット操作の鍵なのです」
材質の強度は諦めざるを得なかった、ということか。そもそもが一万年前の技術だ。今さら悔やんでも仕方がない。
「はっきり言って、防護壁無しでの強度は皆無と言って良い。地上人が使うダイナマイトや、下手をすれば下級玉兎のエネルギー弾でも致命傷になるかもしれない……」
「犯行は誰にでも可能だった、と」
「いいえレイセン。犯人は既に絞り込めています」
豊姫様の一言により、部屋の空気が変わったのが分かった。作業中の玉兎たちも、皆こっそりと聞き耳を立てていたのだろう。
「犯人が……分かっている?」
「セキュリティ・ホールの存在は、この件に関わる者なら誰もが知っています。だからあらかじめ、ここ一週間ほどの間、地上のめぼしい要注意人物を徹底的にマークしていたのです。しかし、怪しい動きをした者はいなかった……」
「でも、それはかえって、容疑者をふるいにかける結果となった」そう言って、豊姫様は小さく笑った。「論理的に考えていけば、こんなことができる犯人は一人しかいない」
「そ、それはいったい……!!」
豊姫様と依姫様は私に向き直り、真剣な眼差しを送った。
「レイセン、あなたにはもう分かるはずです。犯人は賢者の海に来たことのある人物。そして、あの時間にブラックボックスを破壊できた人物……。ほら、知っているでしょう?」
私が知っている? いったい誰が……?
そんな月の都を脅かすような危険人物、私の知り合いには当然いない。
玉兎の誰か? それともまさか、月の民がこんな凶行を?
……いや、違う! そんな……、なんてこと!
「気付いたようね、レイセン」依姫様が冷たく呟いた。
「そう、犯人はあなたの想像通りの人物です」豊姫様が深くため息をつく。
「そう、犯人は……」
一人しかいない。
「八雲紫!」
「八雲紫よ」
「八雲紫です」
三人の声が綺麗に揃った。
「そう……彼奴は十年前、既に賢者の海に時限装置をしかけていたのよ!」依姫様は悔しそうに額を押さえている。
「あの日、私が月の海と地上を繋いだ少し前、彼女は式神と共に賢者の海の底へ潜っていたことが分かっています」豊姫様は目を瞑ったまま淡々と話す。「奴の本当の狙いに気付けなかった……。これは私の失態です」
指令室は重い沈黙に包まれた。
十年越しの攻撃計画。そんなもの、いったい誰が予期できただろうか。豊姫様はこう言っているが、この状況下で彼女を責められる者はいない。
「……八雲紫の仕掛けた時限装置が単純な爆発物の類いであれば、あるいは大事に至らない可能性もあります」依姫様は、消沈する姉を庇うように言った。「威力にもよりますが、破壊が最外殻のみにとどまる蓋然性が高いからです。しかし、もしも貫通力の高い衝撃……例えば玉兎が放つ銃弾のような攻撃だったとすれば、箱の深部に至る複数の部屋が破壊されているでしょう。そうなれば、結界には修復不能なダメージが……」
「それは下で調べている玉兎が戻れば分かることです」
豊姫様はきっぱりと言い切った。豊姫様は既に、すべての責めを負う覚悟ができているのだろう。
「月の都は……どうなるんでしょう?」私はカラカラに乾いた口を開いた。
「結界の原理は、量子状態の重ね合わせを利用した魔法です」依姫様は顎を触りながら言う。「一万年前、八意様たちは、地上の生き物がこれ以上月へ移り住まぬよう、この月を含む系の量子状態を不定にしました。すなわち、我々月の民がこの自然豊かな月を観測する前の、あらゆる可能性が重なり合った状態に戻したのです」
「戻した……?」
「一度収束した波動関数を強引に再発散させたのです。最近の事例で言えば、稀神サグメが幻想郷に送ったパワーストーンがあるでしょう? あの石には存在しないものを具現化し、確定した過去を変える力がある。原理はほとんど同じです」
依姫様の言う幻想郷での一件は、仲間の玉兎から聞いていた。一時はこの月の都を放棄し、穢れた地上へと遷都する瀬戸際までいったという噂だ。
「八意様の策により、地上の生き物は荒涼とした死の月面を観測した。それは同時に、月の環境だけでなく、二つの世界に住むあらゆる生き物が重ね合わせの状態に陥ったことを意味するのです」
黙って話を聞いていた豊姫様が大きく深呼吸をし、背面の壁にもたれかかった。「結界が消滅するということは、今まで無理やり重ね合わせていた波動関数が、再びどちらか一方に収束するということ……。どちらの確率も五十パーセント。月の民か、地上の生き物か。どちらか一方は〝瞬時に消滅し〟、永遠に確率の海を漂流することになるでしょう」
私は背筋が凍りついた。「そんな……」
「しかし、まだそうなると決まったわけではありません」豊姫様は毅然とした口調で言った。「穢れた地上の妖怪ながら、八雲紫は侮れぬ知能を持っています。二分の一で地上を滅ぼしかねない賭けなど、到底実行するとは思えない」
「そ……、そうですよね!」
他の玉兎からも一斉に安堵の声が漏れる。
これまでの推測は、あくまで最悪の可能性。何か思いもよらない根本的な勘違いでも存在しない限り、実状はそこまで悲観すべきものでもなかったのだ。
「私の読みでは、間もなく八雲紫がコンタクトを取ってくるはずです。そこで奴は何らかの要求を行う……。しかし飲む必要はありません。彼女が本気の戦争を仕掛けるとは思えない。私が責任を持って交渉しましょう」
豊姫様の頼もしい言葉に、この場の誰もが勇気づけられている。
私は唐突に視界が開けた気がした。
暗い未来や残酷な運命など、まだ何一つ決まっていない。そんなものは、無限に存在する可能性の一つに過ぎない。
仮に未来が崩壊へと収束するならば、その条件は例えば……そう、何かの間違いによって真犯人が八雲紫ではなく、加えて下の玉兎が銃痕のような深い損傷を発見する、というような、限られたケースしか考えられないじゃないか。
そんな現実が観測されることは決してない。
なぜならあの時間、この場所で、他ならぬ私が賢者の海を見張っていたからだ。
私という存在が、月の都存続の確率を限りなく百パーセントに近付ける。
そうだ、この事実をさりげなく報告書に記載しよう。きっと偉い人たちの目に留まって、私は月の都の救世主として有名になるんだ。ゆくゆくはでっかい銅像が立てられたりして、私の名前は永遠につ
海抜数十メートルの上空に仮設のオペレーション・ルームが建てられ、ガラスの向こうから月の民たちが神経質そうに指示を飛ばしている。見知った顔は少ない。普段滅多に人前へ出ない高貴な位の方々が出馬しているようだ。
その下方では手に赤いケーブルを持った玉兎が三匹、緊張した面持ちで海面に待機している。
彼女らは海中から上がってきた仲間から黒いケーブルを受け取ると、慎重に自分のケーブルと接続した。
「豊姫様、あれは……?」
ケーブルは空に浮かぶ建物から何本も延び、その先はすべて海底に繋がっている。どうやら玉兎たちは、一連の作業をもう何度も繰り返しているらしい。
「レイセン。あなたはこの賢者の海を見て、何か気付きませんか?」
豊姫様は私の質問に答えず、かわりに私を試すような問いを投げかけた。
あいにく、私は頭が回る方ではない。それは豊姫様も承知の上だろうが、私は豊姫様の期待に応えたくて、眼前に広がる凪いだ海を懸命に観察した。
「……あれ?」
「気付いた?」
「はい。えっと……、海が凪いでいます。賢者の海は気泡が弾け、常に荒れているはずなのに」
賢者の海。
地球から見ると月の裏側に位置し、私たちが住む月の都の入り口にもなっている場所だ。
入り口と言っても、物理的な門のようなものではない。外部からの侵入には決まったパスルートを辿る必要があり、その順路の終着点がこの海になっている。私にはよく分からないが、この場所には海と都が重なりあって存在しているらしい。
そういった地理的事情から、私もここへはしばしば足を運んでいる。たしか……そう。つい最近も、まさにこの辺りの海域で夜の潮風を楽しんだ。
普段の賢者の海は荒れ狂い、絶え間なく変化を続ける思考の海。それは底へ潜るほど激しさを増し、凪ぐなどということはあり得ないはず……。
「……賢者の海が考えることをやめたとき、月の都はどうなると思う?」豊姫様は再び私に尋ねた。
今度は考える気も起きないほどの難問だった。
「分かりません。見当もつきません」
ため息と共に天を仰ぐと、オペレーション・ルームの壁の一部が消え、一人の月の民が身を乗り出した。
「総員退避! 玉兎たちは速やかに海面から離れるように!」
「あっ、依姫様」
豊姫様の妹、綿月依姫様の命令を聞き、作業を終えた玉兎が慌てて上昇を開始した。
豊姫様もふわりと舞い上がり、妹のいる指令室へと向かっていく。
こういう場合、ただの玉兎である私が入室しても良いのだろうか。
……良いよね、きっと。
全員が建物へ入ると、入り口の穴は真っ白な壁に閉ざされた。
オペレーション・ルームの中は思ったよりも広い。壁のほとんどがガラス張りで、正方形の床の中央にも海面を覗ける窓が付いている。
一人の月の民が命令すると、技術職の玉兎がコンピュータに入力を始めた。エネルギー源が見当たらないが、この手の仮設施設では小型発電機が壁と一体化していることが多い。月の科学技術は世界一だ。
「豊姫様、依姫様。いったい今から何が始まるんですか?」
私は作業の邪魔をしないよう、できる限りの小声で尋ねた。
「まさか、お姉様から何も聞いていないの?」依姫様は怪訝な表情を見せたが、その顔はすぐに姉の豊姫様へと向けられた。
「だって、聞かれなかったから……」
「道中聞いたじゃないですか、三回も!」
「甘いわね、レイセン。正解は四回です」豊姫様は扇子で口を隠し、満足そうに目を細めた。
「はぁ……。今は説明している場合ではないわ。あなたもここで見ていなさい」
私は依姫様に従い、せわしなくキーを叩く玉兎たちの背中を見つめることにした。
玉兎の上司にあたる月の民たちは食い入るようにモニターを監視している。平時の優雅な姿が嘘のように、今日はその余裕の無さを隠そうともしていない。
「……引き上げ準備が整いました!」
「よし。上げろ」
突然、鈍い地響きのような音が周囲に轟いた。
特殊な技術で空中に固定された部屋は振動を感じさせないが、窓から見える海は波打ち、その波動が遥か遠くまで伝わっていくのが見える。
波はみるみる激しさを増し、やがて足下の海に深い黒が広がり始めた。
「依姫様、これは!?」私は思わず驚愕の悲鳴を上げた。
床窓の下に、真っ黒な四角い物体が現れた。
それは今までに見たどんな黒よりも黒く、表面を滝のように落ちる海水以外、物体の輪郭を知る術すらない。
しかし、私が圧倒された理由は、その寒気のするような暗黒だけではなかった。
暗黒物体は、縦横四十メートルもあろうかという巨大な直方体だったのだ。高さの方向は見えないが、この部屋の高度に鑑みれば六十メートルはあるだろう。
玉兎たちも私と同じようにざわめいた。月の民たちはそれを諌めることも忘れ、皆一様に渋い顔で足下の黒い箱を睨みつけている。
「……これより調査を開始する! RA班はモニター前で待機、RB班は全員降下しろ!」
月の民の命令を感知し、部屋の壁に四角い出口が現れた。RB班と呼ばれた玉兎は重そうな機械を背負い、順番に降下を始める。
「よく見ておきなさい、レイセン」依姫様が冷静な口調で言う。「この物体は、一万年以上も昔に八意様が設計したマジックアイテム、『ブラックボックス』です」
「ブラックボックス……?」
そのまんまですね、とは口にしなかった。
「賢者の海はおよそ二十五万平方キロメートルの総面積を持つ。その全域にこれと同じものが、全部で六千七百万基沈められているわ」そう豊姫様が続ける。「各ユニットは量子状態のもつれ――地上で言う、EPR相関を利用した無線アクセスによって、須臾のラグも無く同期しています。……さてレイセン、この意味が分かりますか?」
「……分かりません」私は俯いて言った。
「お姉様、兎にそこまでの知識はありません」
「依姫は無粋ねぇ。自分の力で考えることこそ、真の学問であるというのに」
「それはそうですが……お姉様の場合、ただペットが困る姿を楽しんでいるだけにしか見えません」
「あ、あの!」私は今にも口論になりそうな二人に割って入った。「それで、どういう意味があるのでしょうか?」
依姫様は伏し目がちに咳払いをし、話を本題に戻した。「要するに……、この広大な賢者の海全体を利用して、一つの巨大なマジックアイテムを機能させているということです。もうずっと、一万年も前からね」
私は話のスケールに目眩がし、しばらく口を開けたまま放心してしまった。つい二日前にも仲間たちと弾幕遊びをしに来たこの海の底に、よもやそんな秘密が眠っていたなんて。
「……そ、それで……、ブラックボックスとはどのようなマジックアイテムなのですか?」私はなんとか我に返り、慌てて次の質問を絞り出す。
「この月の世界が、結界によって地上人から隠されていることは知っていますね?」
私はこくこくと頷いた。
「ブラックボックスはその結界を維持しているのです」依姫様は途端に深刻な顔になった。「それがこの二日前、何らかのトラブルによって停止してしまった……!」
「えっ!?」私は赤い瞳を大きく見開いた。「結界を維持する機構が止まっているなんて……大丈夫なんですか!?」
豊姫様も、珍しく真剣な面持ちで口を開く。「大丈夫ではありません。今はまだ別の区画にある予備ユニットが結界を維持していますが、もういつ停止してもおかしくない……。これは紛れもなく、月の都存亡の危機なのです」
月の都の危機。
十年ほど前、私は豊姫様と行動を共にし、地上の妖怪による侵攻をすんでのところで食い止めたことがあった。
しかし豊姫様は、あのときを遥かに超える非常事態であると言っている。私はそら恐ろしい想像に襲われ、自分の両腕をきつく抱きしめた。
「ブラックボックスは簡単にフリーズしてしまうような、やわな設計ではありません。ユニットの周囲は三重の防護壁で覆われ、物理的、魔術的、工学的なあらゆる干渉を拒みます。しかし……二日前はちょうど千年に一度、深夜〇時から二十八秒間だけ防護壁が張り直される、深刻なセキュリティ・ホールがあったのです」
「つまり……その間に、外敵による破壊工作があったのですね?」
深夜〇時と言えば、ちょうど私たちが遊びに来て、ぐだぐだと弾幕を撒き散らしていた時間ではないか。
仮にも都を守る綿月家のペットとして、悪意ある侵入者を見過ごすなんてあってはならない。私は悔しさに震え、固く拳を握った。
「でも……待ってください。仮に防護壁が無くても、物理的な破壊は困難なのでは?」私はあらゆる知識を総動員し、素朴な疑問を発見した。「深い海の底に沈めてあるものなら、そこには常に巨大な水圧がかかっているはずです。それに耐えられるよう、ブラックボックス自身にも相応の強度が必要なはず……」
「正しい分析ね」豊姫様が嬉しそうに微笑む。「でも、残念でした。ブラックボックスの中身はね、ただの海水なのよ」
「海水? 中に何も入っていないんですか?」私はすっとんきょうな声を上げた。
「何も入っていない、ではなく、NaCl溶液で満たされている、と考えるのです」豊姫様は下を向き、巨大な黒い塊と、豆粒のような玉兎を見下ろした。「この箱の中は八一九二の部屋に区切られ、それぞれしきりの壁から水中のNaCl分子に高周波電磁パルスを照射しています」
「電磁パルス? ガンマ線ですか?」
「地上でNMRと呼ばれている技術の完成形よ。要は水中の分子をキュビットとみなし、光子によってスイッチングする程度の技術。彼らに言わせれば、さしずめ賢者の海そのものが『液相量子コンピュータ』……と言ったところでしょうかね」
詳しい話は分からなかったが、水圧対策は必要ないということだろう。しかし、だからと言って、脆弱な素材を使って良い理由にはならない。
「精密なパルスを制御するため、この材質でなくてはならなかったのです」まるで私の考えを見透かしたように、依姫様が解説を始めた。「この外壁と内側のしきりは、月夜見様とそのお姉様が共同で開発した完全黒体。黒体放射による正確無比な電磁パルスこそが、プランク単位オーダーでのキュビット操作の鍵なのです」
材質の強度は諦めざるを得なかった、ということか。そもそもが一万年前の技術だ。今さら悔やんでも仕方がない。
「はっきり言って、防護壁無しでの強度は皆無と言って良い。地上人が使うダイナマイトや、下手をすれば下級玉兎のエネルギー弾でも致命傷になるかもしれない……」
「犯行は誰にでも可能だった、と」
「いいえレイセン。犯人は既に絞り込めています」
豊姫様の一言により、部屋の空気が変わったのが分かった。作業中の玉兎たちも、皆こっそりと聞き耳を立てていたのだろう。
「犯人が……分かっている?」
「セキュリティ・ホールの存在は、この件に関わる者なら誰もが知っています。だからあらかじめ、ここ一週間ほどの間、地上のめぼしい要注意人物を徹底的にマークしていたのです。しかし、怪しい動きをした者はいなかった……」
「でも、それはかえって、容疑者をふるいにかける結果となった」そう言って、豊姫様は小さく笑った。「論理的に考えていけば、こんなことができる犯人は一人しかいない」
「そ、それはいったい……!!」
豊姫様と依姫様は私に向き直り、真剣な眼差しを送った。
「レイセン、あなたにはもう分かるはずです。犯人は賢者の海に来たことのある人物。そして、あの時間にブラックボックスを破壊できた人物……。ほら、知っているでしょう?」
私が知っている? いったい誰が……?
そんな月の都を脅かすような危険人物、私の知り合いには当然いない。
玉兎の誰か? それともまさか、月の民がこんな凶行を?
……いや、違う! そんな……、なんてこと!
「気付いたようね、レイセン」依姫様が冷たく呟いた。
「そう、犯人はあなたの想像通りの人物です」豊姫様が深くため息をつく。
「そう、犯人は……」
一人しかいない。
「八雲紫!」
「八雲紫よ」
「八雲紫です」
三人の声が綺麗に揃った。
「そう……彼奴は十年前、既に賢者の海に時限装置をしかけていたのよ!」依姫様は悔しそうに額を押さえている。
「あの日、私が月の海と地上を繋いだ少し前、彼女は式神と共に賢者の海の底へ潜っていたことが分かっています」豊姫様は目を瞑ったまま淡々と話す。「奴の本当の狙いに気付けなかった……。これは私の失態です」
指令室は重い沈黙に包まれた。
十年越しの攻撃計画。そんなもの、いったい誰が予期できただろうか。豊姫様はこう言っているが、この状況下で彼女を責められる者はいない。
「……八雲紫の仕掛けた時限装置が単純な爆発物の類いであれば、あるいは大事に至らない可能性もあります」依姫様は、消沈する姉を庇うように言った。「威力にもよりますが、破壊が最外殻のみにとどまる蓋然性が高いからです。しかし、もしも貫通力の高い衝撃……例えば玉兎が放つ銃弾のような攻撃だったとすれば、箱の深部に至る複数の部屋が破壊されているでしょう。そうなれば、結界には修復不能なダメージが……」
「それは下で調べている玉兎が戻れば分かることです」
豊姫様はきっぱりと言い切った。豊姫様は既に、すべての責めを負う覚悟ができているのだろう。
「月の都は……どうなるんでしょう?」私はカラカラに乾いた口を開いた。
「結界の原理は、量子状態の重ね合わせを利用した魔法です」依姫様は顎を触りながら言う。「一万年前、八意様たちは、地上の生き物がこれ以上月へ移り住まぬよう、この月を含む系の量子状態を不定にしました。すなわち、我々月の民がこの自然豊かな月を観測する前の、あらゆる可能性が重なり合った状態に戻したのです」
「戻した……?」
「一度収束した波動関数を強引に再発散させたのです。最近の事例で言えば、稀神サグメが幻想郷に送ったパワーストーンがあるでしょう? あの石には存在しないものを具現化し、確定した過去を変える力がある。原理はほとんど同じです」
依姫様の言う幻想郷での一件は、仲間の玉兎から聞いていた。一時はこの月の都を放棄し、穢れた地上へと遷都する瀬戸際までいったという噂だ。
「八意様の策により、地上の生き物は荒涼とした死の月面を観測した。それは同時に、月の環境だけでなく、二つの世界に住むあらゆる生き物が重ね合わせの状態に陥ったことを意味するのです」
黙って話を聞いていた豊姫様が大きく深呼吸をし、背面の壁にもたれかかった。「結界が消滅するということは、今まで無理やり重ね合わせていた波動関数が、再びどちらか一方に収束するということ……。どちらの確率も五十パーセント。月の民か、地上の生き物か。どちらか一方は〝瞬時に消滅し〟、永遠に確率の海を漂流することになるでしょう」
私は背筋が凍りついた。「そんな……」
「しかし、まだそうなると決まったわけではありません」豊姫様は毅然とした口調で言った。「穢れた地上の妖怪ながら、八雲紫は侮れぬ知能を持っています。二分の一で地上を滅ぼしかねない賭けなど、到底実行するとは思えない」
「そ……、そうですよね!」
他の玉兎からも一斉に安堵の声が漏れる。
これまでの推測は、あくまで最悪の可能性。何か思いもよらない根本的な勘違いでも存在しない限り、実状はそこまで悲観すべきものでもなかったのだ。
「私の読みでは、間もなく八雲紫がコンタクトを取ってくるはずです。そこで奴は何らかの要求を行う……。しかし飲む必要はありません。彼女が本気の戦争を仕掛けるとは思えない。私が責任を持って交渉しましょう」
豊姫様の頼もしい言葉に、この場の誰もが勇気づけられている。
私は唐突に視界が開けた気がした。
暗い未来や残酷な運命など、まだ何一つ決まっていない。そんなものは、無限に存在する可能性の一つに過ぎない。
仮に未来が崩壊へと収束するならば、その条件は例えば……そう、何かの間違いによって真犯人が八雲紫ではなく、加えて下の玉兎が銃痕のような深い損傷を発見する、というような、限られたケースしか考えられないじゃないか。
そんな現実が観測されることは決してない。
なぜならあの時間、この場所で、他ならぬ私が賢者の海を見張っていたからだ。
私という存在が、月の都存続の確率を限りなく百パーセントに近付ける。
そうだ、この事実をさりげなく報告書に記載しよう。きっと偉い人たちの目に留まって、私は月の都の救世主として有名になるんだ。ゆくゆくはでっかい銅像が立てられたりして、私の名前は永遠につ
あっ
それにしても、壮大で緻密な設定ですけど、一発ネタに使うのはもったいなくないですか?
感想ありがとうございます。
本作のテーマは『最高峰の知能を備えた月の民の文明が、頭空っぽの天然兎によって台無しになる』というブラックユーモアです。堅苦しい理論パートはあくまでその落差を強調するための、いわゆる「フリ」の役割を持たせたつもりでした。あの内容は「何やら難しいことを言っている」こと自体に意味があり、そもそも理解されないことを前提に書いているのです(ただし、秘封系考察勢の方なら分かる部分もあるでしょう)。
しかしSFファンである筆者の感覚が麻痺していたのか、そういった〝装飾部分〟を考え、詰まってしまう読者を想定できていませんでした。こうして解説が必要になっていることも含めて、完全に私の力不足だったと勉強になっております。ありがとうございました。
最後、途切れているのも面白いです。とても良かったです。
やっちまったぜレイセン
そんな脆弱性を1万年も放置し続けたツケが回ってきたように思えました
永琳の英知がぶち抜けすぎていて誰もシステムの強化や更新をできなかったのでしょうか
穢れのない月には進歩もないのかもしれませんね
しかも難しい言葉が続くようで風が吹くように頭と心で理解が出来るのは流石としか言いようがない。面白かったです。
それにしても、だれかひとりくらいは気づけよw
結界の解釈も腑に落ちてよかった
天才があれこれ複雑な事を言ってからの落差が良かったです。
他の5つの作品も良かったですっ。