「えー……」
こいしは思わず声を漏らした。肯定的な意味ではなかった。おかしいな、有名な観光スポットだって聞いていたんだけれど。地図が指し示すのは、がらんとした広い駐車場のその隅っこにある、ただの草薮だ。あまりに予想外過ぎて、手にしたガイドブックを二度見する。地図は間違っていないみたい、何度確認しても方角は合っているし、よく見れば草薮で埋もれた地面は舗装されていたから。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
夕暮れ近づく逢魔ヶ時。古明地こいしは地図を片手に途方に暮れていた。旅館の女将に聞いた地元で有名な橋とやらを見に来たのだが、その場所があまりに寂れていたからだ。なんというか、博麗神社へと続く山道にそっくりである。本当に観光スポットなのか疑いたくなるほどだ。
「うーん……」
流石のこいしも腕組みして迷ってしまった。引き返そうかしらん。しかし、折角だからと草薮に分け入った。その決意を固めるのに、たっぷり二分はかかったが。
道はおしゃれな紅色のアスファルト塗装で、所々に道幅を示すポールも立ててある。だがそれ以上に草木の繁殖力が強く、紅色は緑色で覆い隠されてしまっていた。自己顕示欲の高いぺんぺん草共が、こいしのふくらはぎとふとももとをチクチク刺してきてこそばゆい。まさか、いつものスカート姿でやって来た事を後悔する羽目になるとは。
道を曲がると、沼にかかる一つ目の橋に出くわす。欄干と床板が木造だが橋脚は鉄筋で補強されており、ほとんど揺れることはない。ガイドブックにあるとおり、沼の向かいには目的のもう一つの橋がその美しい姿を見せている。しかし風情はあまり無い。この橋の鉄で出来た塔が上に張り出して、強烈な自己アピールをしているからだ。実はその鉄塔こそがこの橋の名の由来になっているのだが、知らぬこいしには景色に割り込む邪魔者でしかなかった。
橋を渡り終え少し歩くと、ちょっとした広場に突き当たった。ブランコやローラー付きの滑り台、ジャングルジムなどのアスレチック施設が見える。きっと地元の子供達の遊び場なのだろう。
だが、近づいたこいしはすぐさまその認識を訂正することになった。
滑り台のローラーの隙間からは草がはみ出していて、長いこと使われていないように見える。階段も錆びついて、こいしはおろか小さな子どもでさえも登るのは危なそうだ。ジャングルジムは近くの木が枝を伸ばして半分隠れてしまっているし、ブランコに至っては座席のすぐ前に背の高い草が伸びて、花までつけている始末である。あれでは遊べそうもない。
そして、さっきから人の気配がまるで無い。聞こえるのは葉擦れの音と、こいしのため息ばかりだ。
おかしいな、有名な観光スポットだって聞いていたんだけれど。思考が巻き戻ってしまって、歩みも止まる。やっぱり引き返そうかしらん。その誘惑と、折角だからという思いがぶつかり合いせめぎ合い。結局、旅先で出る冒険心が勝って、こいしは重い足を再び持ち上げた。その決意を固めるのに、たっぷり五分はかかったが。
続く道は先程の広場よりももっとジャングルしていて、大量の草と蜘蛛の巣と倒木とが盛大にこいしを歓迎してくれた。草を払い、蜘蛛の巣をくぐり、倒木を飛び越えて進む。気分は探検隊だ。その間も草はチクチクふとももを刺し、羽虫がぶんぶんこいしの周りを踊る。ああもう、虫よけスプレー持ってくればよかった。口を尖らせ、過去の自分を責め立てる。まあ、こんなの予想出来るわけないのだけれど。
そうして、ようやくこいしは橋へとたどり着いた。
それは、大きな屋根付き木橋。薄く青みを帯びたトタン屋根が特徴で、橋の間には二つの建物があり、展望デッキになっているようだ。大きな沼の中に夕日を浴びて悠然と建つ姿は、確かに美しい。橋の向こうを側見通せば、まるで千本鳥居のように折り重なった梁が幻想的な雰囲気を醸し出している。
こいしは橋の中へと足を踏み入れた。
整然と並ぶ柱が不思議な安心感を与えてくれる。屋根が創る優しい薄闇、その間を吹き抜ける風。欄干にはすべすべとした上品な木材が使われていて、まだその白さを残している。橋は意外と新しいようで、掛けられてからそう長い年月は経ていないようにも見えた。往時はさぞ心地よい香りがしたに違いない。
だが、橋は鳥の糞で汚され、蜘蛛の巣が張り、青い黴がはびこって、歪な斑模様になってしまっていた。しばらく人の手が入っていないことは明らかだった。
二階へと続く木造の階段を登り、展望デッキに出てみる。静かな沼を一望出来る風情は素晴らしいが、吹き抜ける風がこいしに寂しさを与えた。
新しいはずなのに、ここは既に人々の記憶から忘れ去られようとしている。そう感じる。時間の流れには、どんな素敵なものだって太刀打ち出来ないのだろうか。
きっと、昔は。
でも、今は。
打ちつけるような静寂に、身を任せて。遠く斜陽を浴びて回る風車の回転を一人、こいしはただ見つめていた。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりは眉を吊り上げて、珍しくぷりぷり怒っていた。「あんたちょっと、お燐とお空見なかった?」
「ううん」
「そう。まったくあの子達、どこに逃げちゃったのよ、もうっ」
そうして爪を噛むさとり。足はイライラと貧乏ゆすり。わりと短気な所があるさとりだった。
こいしは首を傾げた。
「どうかしたの?」
「いや、あの子達、これから橋の大掃除だってのに逃げちゃってね。まったく」
「橋って、あの橋姫のいる?」
「そ」橋脚の一つ一つに百鬼夜行図を彫るという凝った造りになっている、嫉妬が専売特許のはずの橋姫でも自慢するほどの芸術品だ。「旧地獄で唯一のまともな観光スポットだもん。綺麗にしとかなきゃ。それに私達地霊殿がやらないとだぁれも整備しないでしょ、あんなでっかい橋。橋姫だけじゃ過労死しちゃうわよ」
それなのに、お燐にお空ときたら。
最近、ペット達のさぼりグセがひどい気がする。もしかして舐められてるのだろうか? 飼い主として、ここらで一つビシっと言ってやったほうが良いのかもしれない。
「でもさ」
こいしは帽子を胸に抱えた。
「そんなことしても意味無いかもしれないよ。旧地獄のことなんて地上の人はもう忘れてるだろうし、どうせ橋もいつか無くなっちゃう」
さとりは溜息を吐いた。
またどこかでセンチメンタルにかぶれて来たのか、この妹は。
毎度毎度仕方の無い子だが、放ってもおけない。
「馬鹿ね、あんたは」さとりはこいしの髪を撫ぜながら、優しく言った。「自分の存在価値ってのは自分で生み出すモンなの。そうしないと、誰からも忘れられちゃうわ。いくら待ってたって、路傍の小石に蜘蛛の糸を垂らしてくれる奴なんて現れない。誰かに見てもらうためには、自分から輝かないと」
「輝く」
「それに。あんな素敵な橋が腐っちゃうなんて、もったいないでしょ? ご先祖様に申し訳が立たないわ」
「……うん!」
さとりがウインクしてみせると、こいしはパッと顔を輝かせた。
「お姉ちゃん、私もお掃除、手伝う!」
「あらそう?」
こいしがそんな事言うなんて珍しい。今日は槍でも降るのだろうか。
だが、妹がようやく地霊殿の活動に興味を示してくれたこと、さとりは素直に嬉しく思った。
「じゃ、お願いしちゃおうかしら」
さとりはこいしに仕事道具一式を手渡した。
「……何これ」
「何って、水着だけど」
「水着」
「それ着て橋の掃除するの。もちろん通行料とってね。作業着も要らないし、見物客も集められるで一石二鳥でしょ。それで橋脚掃除すれば、上から見下ろしても下から見上げても絶景って寸法よ。きっと橋を往復する客が続出するわね。これで外貨もがっぽりよぉ!」
そうしてさとりはガッハッハと笑った。
こいしは水着を投げ捨てた。
しかしやはりこいしちゃんと荒廃風景の親和性はたいへん高いですね。素晴らしいと思います。良かったです。
あの橋と地獄の橋は同じなのかな、と思いました。とても良かったです。
こいしよりむしろさとりがたくましくてよかったです
これは11点の女
物語がどっちに転がるかと思ったら空中に飛んでった