宇佐見菫子は人里の中にある橋の前で立ち尽くしていた。
その橋渡るべからずという看板があったわけではない。周りの風景から浮いているものがあったからだ。
時折洋装の者が歩いているなどややおかしい点はあるものの、幻想郷の人里は概ね江戸時代の町と言って良い町並みだ。
そんな人里の運河を渡す橋の向こうに、信号機があった。
歩行者用信号機だった。
菫子はおつかいを頼まれていた。
その発端は霊夢が風邪をひいて寝込んだことに遡る。
菫子は霊夢のことをどこか超人だと思っていた節があったので、寝込む彼女を見てこの人でも風邪を引くことがあるのだなぁ、と少し意外に感じた。白襦袢に身を包み布団の中でぼうっとしている彼女は、妖怪を容赦なく締め上げる普段の姿からは想像もできなかった。
心配になって霊夢に何か自分にできることはないかと尋ねると、彼女は掠れた声でこう答えた。
「アガサ・クリスQの新作を借りてきてほしい」
アガサ・クリスQといえば幻想郷で最も人気な推理作家であることは菫子も知っていた(そもそも幻想郷で推理小説を出版しているのはアガサ・クリスQ一人なのだが)。
この状況で推理小説か、と菫子は少し呆れた。霊夢のこの作家へのご執心ぶりは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
まあ寝込んでいるときは布団から動けないので確かに暇つぶしは欲しくなるものか。そう思い菫子はこの頼みを請け負った。
返事が返ってくるまで少し間が空いたので自分が呆れられていると気づいたのか、霊夢は一言付け足した。
「……小鈴ちゃんがウチに来ちゃうかもじゃない」
確かにそれは困るわね、と菫子は苦笑した。
小鈴というのは里の貸本屋の看板娘であったが、とかく危なっかしい子であることは数回しか話したことのない菫子にも分かった(もっとも霊夢からは菫子の方も負けず劣らず危うい子だと思われていた)。
非日常的なものに強く憧れているのだ。現に超能力を使える菫子は彼女の質問責めにあった。
霊夢が床に伏せていることを知ったら、彼女は博麗神社に本を届けに来てしまうかもしれない。
いくら博麗神社が妖怪神社であるとはいえ、霊夢の目が黒いうちは小鈴に手出しさせるような真似は出来ないしさせないだろう。しかし今の霊夢の有様では不安が残る。
というようなことを小鈴は一切気にしせず博麗神社に来てしまうかもしれないと思うと、菫子をおつかいに出すのは理になっていた。
しかしこの状態の霊夢を置いていくのは気が引けた。
看病は必要だろうし、彼女が妖怪に襲われたりしないか不安だった。博麗の巫女に復讐したい妖怪などこの幻想郷にごまんといるはずだ。
「霊夢さんのことは私にお任せください!」
先程から後ろで座っていた、沖縄のマスコットキャラクターのような妖怪が笑顔でそう答えた。狛犬の妖怪(本人曰く神獣)で名を高麗野あうんと言う。
正座して笑顔で尻尾をパタパタする様子は、家で飼っている愛犬を菫子に想起させた。必要なのは霊夢を守れるドーベルマンのような存在だったが、彼女はどう見てもチワワだった。
魔理沙を呼ぼうかと菫子は考えたが、彼女を呼びにいくためには結局神社を空ける必要がある。それなら分社を使って連絡できる早苗が適任だろう。
早苗は元は外来人ということもあり、菫子としても話しやすい存在であり声がかけやすい。
そのことを提案すると、霊夢は布団にくるまりながら首を振った。
「大丈夫よ」
その目は寝込んでいる人間とは思えないほど力強かった。風邪を引いていても妖怪の二体や三体であれば何なく退けてやると、眼光が雄弁に語っている。
「そう、大丈夫です!」
一方の沖縄のマスコットキャラクターの方は、今の霊夢の発言を自分を頼ってくれているものと解釈したらしい。得意げな顔で彼女は胸を張る。
まあ看病を任せる分には問題なさそうだし助けを呼ぶくらいはできるかな。
菫子はそう結論づけてアガサ・クリスQの新作のために人里へ向かった。
その後菫子は人里にたどり着いたのだが、そこで道に迷ってしまった。菫子は今まで一度しか鈴奈庵に行ったことがなく、ノーヒントで鈴奈庵にたどり着くのは彼女の乏しい方向感覚では荷が重かった。
鈴奈庵がある通りに辿り着けず同じ場所をぐるぐる回り始め、この歳で迷子とは情けないと焦り始めた頃、それは目の前に現れた。
「何で信号が……」
人里の小さな運河に架かった橋を横断歩道に見立てたかのように、橋の向こう側に歩行者用信号機が一本立っていた。
信号機は赤く光っている。電気はどこから通っているのだろうかという疑問が菫子の中で首をもたげる。
時代劇で見るような風景の中にそびえ立つ信号機は明らかに異様というかシュールだった。
しかし街行く人は大して気に留める様子はない。当たり前だが、赤信号でも誰も気にせず橋を渡っていく。
菫子が突如現れた信号機に呆気にとられていると、後ろから声をかけられた。
「菫子さんじゃないですか」
「あ、小鈴ちゃん」
溌剌とした声の主は目的地の看板娘である本居小鈴だった。本の回収の帰りだったのだろう。両手で本を抱えていた。
重そうだったので菫子は小鈴の本を半分ほど持ち受けた。
向こうの方から現れてくれるとは幸運だったが、今の菫子の関心ごとは信号機にあった。
「あ、あれ見える……?」
周りの人が誰も気に留めないものだから、本当は自分にしか見えてないのではないだろうかと菫子は少し変な聞き方をしてしまった。
「ああ、こうつうしんごうき、でしたっけ? ニ日前くらいに出てきちゃったんですよねー」
小鈴はこともなげに言った。
誰も気に留めてなかったのは、出現後から時間が経っていて、ひとしきり騒いだ後だったからなのだろう。
「何であれが幻想郷に……」
「菫子さんには馴染みのあるものですかね。たまにあるんですよ、外の世界のものが中途半端に入って来ちゃうこと。霖之助さん曰く路に植えられた木が伸びて来て、塀を越えて敷地にかかってるような状態だとか」
森近霖之助の持ち出した喩えの意味はよくわからなかったが、あの店主の比喩がわかりづらいのは今に始まった話じゃないなと菫子は気にしないことにした。
「あれどうするの?」
「大体ああいうのは何日かすると消えるので放っておいてます。まあ何人かの外の世界が嫌いな頭の固いおじいさんたちは早く撤去しろと騒いでますが」
見たところ深く地中に埋まってるようですし、そう簡単に撤去できないと思いますが、と彼女は肩をすくめた。
「霖之助さんが見に来ましたが、危険なものではないらしいので放っておいて問題ないでしょう。……危険じゃないんですよね?」
「うん大丈夫」
里の外れで商いを営む森近霖之助は、道具の名前と用途がわかるという特殊な能力を持っていた。
小鈴が交通信号機という名前を知っていたのは彼に聞いたからだろう。
常々何の役に立つんだろうその力、と菫子は彼の能力を小馬鹿にしていたが、こういう突如幻想郷の外のものが現れたときは役に立つのだなぁ、と菫子は感心した。
信号機が現れてるのがそんな異常事態ではないとわかったところで、菫子は本題に入ることにした。
「そうそう、私神社のおつかいでアガサ・クリスQの新作を借りに来たんだけど」
「あら、そうだったんですね。大丈夫でした? もしや迷子になってたりしないですよね?」
揶揄うように小鈴が口元に手を当てて笑うものだったから、菫子は咄嗟に取り繕ってしまう。
「ま、まさか。鈴奈庵には前にも来たことあるし」
菫子はさも迷子になんかなってませんよとアピールするように、信号が赤のままの橋を渡ろうとした。
「それは失礼しました。ちなみにその方向はウチと反対方向ですよ」
小鈴はニコニコと笑顔でそう言った。振り返った菫子はいじけた声で非難した。
「……意地悪」
「はっ、そろそろ帰らないと」
鈴奈庵にはネクロノミコンの第一漢字写本を始めとして、菫子の興味を引くものがたくさんあった。小鈴の方もコレクションを披露するのが楽しくなってしまい、しまいには店奥の倉庫までひっくり返す始末だった。
小鈴コレクションの発表会は盛り上がり二人はすっかり時間を忘れてしまっていたが、菫子はふと我に帰り自分がおつかいの途中だということを思いだした。
霊夢にはあうんが看病についているので急いで帰る必要はないが、あまり菫子の帰りが遅くなると心配するかもしれない。
「あら、雨降ってる?」
会話に夢中で気がつかなかったが、雨音が聞こえる。
菫子が戸を開けると、ざあざあという雨音が一層大きくなる。通りに水たまりができていた。
「さっきまで雨降りそうな気配無かったんだけどなぁ……」
「はい、濡れないように包んどきましたので、これで持って行ってください」
「あー、ありがと」
小鈴は慣れた手つきで手早くアガサ・クリスQの新作「いろは殺人事件」を油紙で包んだ。
彼女は本を菫子に渡すと、さらに戸の近くに立てかけてあった紫色の番傘を菫子の前で開いた。
「使ってください」
「なんだか悪いね。あとで返させるから」
「ええ。霊夢さんにはお大事にとお伝えください」
ばさり、と傘を開いて菫子は外へ出た。振り返って小鈴に手を振ると、彼女も手を振り返した。
踵を返した菫子は、水たまりを避けながら雨の中を歩いていく。
番傘に雨粒が当たる音は外の世界の傘とはまた異なる音色で、菫子にはそれが新鮮に感じられた。
雨は豪雨と言うほどでは無かったが、外の人通りは大分疎らになっていた。いつもの客の呼び込みの声が途絶えることのない活気に満ちた様子からは想像がつかない。
ニュースで見た台風でも出勤しようとするサラリーマンたちの映像を思い出して、こういうところは幻想郷の方を見習うべきだよなぁ、と菫子は思った。
そういえば先程の信号機はどうなっただろうか。もう元の世界へ戻ってしまっただろうか。
なんてことを考えながら菫子が曲がり角を曲がると、信号機は変わらずそこにあった。橋の向こう側で相変わらず赤色に光っている。
「……ん?」
橋の手前に誰かがいた。赤い傘をさしたその人物は何をするでもなく、ただそこに立ち尽くしていた。
青と白の巫女服に緑色の長い髪の毛。東風谷早苗だった。
「どうしたの?」
「あら菫子さん、こんにちわ」
隣まで近づいて声をかけると、早苗は目を細めて応えた。
「車が通ってるわけでもないのに、つい立ち止まっちゃいましてね。そしたら少しぼうっとしてしまいまして」
早苗はそう言ってはにかんだ。菫子は「何かそれわかる」と笑った。
二人の少女は信号機のある橋の手前に並んで話し始めた。
「にしてもずっと赤ですねこの信号。そもそも電気がどこから来てるのかわからないですけど」
「また聞きだけど、結界が揺らいで顔だけ出してるみたいな状態みたいね。幻想郷の外と繋がったままみたいだから、電気も平気なんじゃないかな」
街路樹の枝葉が庭に入ってきてしまっている、という森近霖之助の話を菫子はそう解釈していた。
「へぇ、じゃあ信号がずっと赤なのは……」
「押しボタン式なんじゃないかな。それなら向こう側で誰か押さなきゃずっと赤だろうし」
「じゃあ押しボタンだけ外の世界に残ったままなんですかね」
「まあ推測だけど」
取り残されちゃったんだ、という早苗の呟きは雨音の中に消えていった。
彼女はぼんやりと信号機の方を見ていた。
だがその目は焦点を結んでいるように見えず、どこかもっと遠くを見ていた。きっと信号機のその先にある景色を見ていた。
早苗の横顔を見て菫子はハッとした。
彼女は外の世界の話をしない。携帯電話がどうだとか一般知識の話はしても、外の世界の思い出を語ったことはなかった。彼女に家族がいるかどうかすらわからないほどだ。
どうしてだろうか。
それを考えたとき、菫子は青ざめた。
自分は今まで何も考えなさすぎた、あまりに配慮がなかったと気付いてしまった。
もし早苗が元の世界を恋しく思っているなら、菫子の存在は彼女の目にどう映っただろうか。元の世界と幻想郷を自由に行き来できる菫子のことを。
自分が身を切るような思いで故郷を離れたとしたら、二度と戻れない向こうとこちらを行ったり来たりする菫子のことがどう見えるだろうか。
逆に元の世界が嫌いで逃げてきたとしたらどうだろうか。
嫌いだったのなら元の世界のことは考えないように脳の奥へ押し込んでいるはずだ。なのに菫子に会うたび捨てたい記憶を無理やり思い出させられて、厭な気持ちを味わっているのではないか。
菫子は考えたこともなかった。自分は何て無神経だったんだろうか。
早苗は外の世界で育ったから常識が共有されているというか、菫子が外の世界の知識を当然のように話してしまい何それ、となることがなく話しやすかった。
そもそも彼女の物腰が柔らかく明るい性分もあって話しやすかったというのもあるのだろう。
珍しいことに、菫子は早苗に大分懐いていた
宴会のときはつい居心地の良い早苗のところへ足が向かってしまうほどだ。
だがそれは迷惑だったのではないだろうか。
菫子個人に恨みは無かったとしても、幻想郷と外の世界を自由に出入りできるという存在は早苗にとってかなり疎ましいのではないだろうか。
(……か、帰ろう)
ひょっとしたら自分は早苗に疎ましく思われているかもしれない。そう考えると彼女の隣にいることが酷く居心地が悪いような気がしてきた。
「そ」
「西表島って信号が二箇所しかないらしいですよ」
それじゃあ私はそろそろお暇させてもらおうかな。
菫子はそう言うとつもりだったのだが、早苗の声に遮られた。
「……はい?」
あまりに唐突な話題に菫子は戸惑った。
「西表島って……イリオモテヤマネコの西表島?」
早苗は頷いた。
「その内一台は小学校の前にあるそうです。別に無くても困らないくらい交通量が無いそうなんですけど……何で信号が付いてると思います?」
「うーん……心配性の親御さんたちが安全のために取り付けてくれと頼んだとか?」
「私の聞いた話だと、小学生の交通教育のためだそうです」
「あーっと……そういうことね。赤は止まれっていうのを習慣で身につけられるようにってことか」
なるほど考えるものだなぁと思う一方、早苗が急にそんな雑学を披露した意図が掴めずにいた。
彼女は相変わらず信号機の方を見ていた。
「現地の方にそう聞いたんですよ」
柔らかい声で、彼女はこう続けた。
「昔、行ったんです。家族旅行で」
「……そうなんだ」
菫子は早苗が元の世界での思い出を語るのを初めて聞いた。
彼女の横顔を覗くと、昔を懐かしむ優しい表情をしていた。
故郷に対して二度と帰りたくないとか、早く帰りたいだとかの深刻な感情を抱えている様子には見えなかった。彼女はただただ故郷を懐かしんでいた。
先程は早苗が自分のことを疎ましく思っているのではという不安になっていた菫子だったが、自分の考えすぎかもしれないと思い直した。
彼女は彼女なりに戻れない故郷に対しての気持ちを整理できている。自分なんかが勝手に気持ちを想像して可哀想だと思い込むのは違うと菫子は思った。
「あっ」
菫子が早苗の横顔を眺めていると、彼女は目を見開いた。
彼女の目線の先を見てみると、ずっと赤だった信号機が青になっていた。
「あれ? 青になったね」
「何ででしょう」
「向こう側に残った押しボタンを誰かが押したんじゃない?」
菫子の仮説が正しければ、幻想郷の外には押しボタンだけが残っているはずだった。
「それだとその誰かが信号機がないボタンを押したってことになっちゃいますよね」
「山奥に押しボタンだけ見つけたりしたら私だったら押しちゃうかなー。まあわかんないけどね」
「まあそうですよね。わかんないですよね」
結局のところ話は推測の域を出ない。
ただ菫子には早苗がどこか嬉しそうな表情をしているように見えた。
「青になったし帰ろっか」
菫子がそう言うと、早苗も頷いた。
二つの傘が並んで橋を渡る。信号機を通り過ぎて雨の町を歩いて行った。
翌朝になる頃には雨は止んでいた。
信号機も外の世界へ戻っていったのか、跡形もなく消えてしまった。
その橋渡るべからずという看板があったわけではない。周りの風景から浮いているものがあったからだ。
時折洋装の者が歩いているなどややおかしい点はあるものの、幻想郷の人里は概ね江戸時代の町と言って良い町並みだ。
そんな人里の運河を渡す橋の向こうに、信号機があった。
歩行者用信号機だった。
菫子はおつかいを頼まれていた。
その発端は霊夢が風邪をひいて寝込んだことに遡る。
菫子は霊夢のことをどこか超人だと思っていた節があったので、寝込む彼女を見てこの人でも風邪を引くことがあるのだなぁ、と少し意外に感じた。白襦袢に身を包み布団の中でぼうっとしている彼女は、妖怪を容赦なく締め上げる普段の姿からは想像もできなかった。
心配になって霊夢に何か自分にできることはないかと尋ねると、彼女は掠れた声でこう答えた。
「アガサ・クリスQの新作を借りてきてほしい」
アガサ・クリスQといえば幻想郷で最も人気な推理作家であることは菫子も知っていた(そもそも幻想郷で推理小説を出版しているのはアガサ・クリスQ一人なのだが)。
この状況で推理小説か、と菫子は少し呆れた。霊夢のこの作家へのご執心ぶりは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
まあ寝込んでいるときは布団から動けないので確かに暇つぶしは欲しくなるものか。そう思い菫子はこの頼みを請け負った。
返事が返ってくるまで少し間が空いたので自分が呆れられていると気づいたのか、霊夢は一言付け足した。
「……小鈴ちゃんがウチに来ちゃうかもじゃない」
確かにそれは困るわね、と菫子は苦笑した。
小鈴というのは里の貸本屋の看板娘であったが、とかく危なっかしい子であることは数回しか話したことのない菫子にも分かった(もっとも霊夢からは菫子の方も負けず劣らず危うい子だと思われていた)。
非日常的なものに強く憧れているのだ。現に超能力を使える菫子は彼女の質問責めにあった。
霊夢が床に伏せていることを知ったら、彼女は博麗神社に本を届けに来てしまうかもしれない。
いくら博麗神社が妖怪神社であるとはいえ、霊夢の目が黒いうちは小鈴に手出しさせるような真似は出来ないしさせないだろう。しかし今の霊夢の有様では不安が残る。
というようなことを小鈴は一切気にしせず博麗神社に来てしまうかもしれないと思うと、菫子をおつかいに出すのは理になっていた。
しかしこの状態の霊夢を置いていくのは気が引けた。
看病は必要だろうし、彼女が妖怪に襲われたりしないか不安だった。博麗の巫女に復讐したい妖怪などこの幻想郷にごまんといるはずだ。
「霊夢さんのことは私にお任せください!」
先程から後ろで座っていた、沖縄のマスコットキャラクターのような妖怪が笑顔でそう答えた。狛犬の妖怪(本人曰く神獣)で名を高麗野あうんと言う。
正座して笑顔で尻尾をパタパタする様子は、家で飼っている愛犬を菫子に想起させた。必要なのは霊夢を守れるドーベルマンのような存在だったが、彼女はどう見てもチワワだった。
魔理沙を呼ぼうかと菫子は考えたが、彼女を呼びにいくためには結局神社を空ける必要がある。それなら分社を使って連絡できる早苗が適任だろう。
早苗は元は外来人ということもあり、菫子としても話しやすい存在であり声がかけやすい。
そのことを提案すると、霊夢は布団にくるまりながら首を振った。
「大丈夫よ」
その目は寝込んでいる人間とは思えないほど力強かった。風邪を引いていても妖怪の二体や三体であれば何なく退けてやると、眼光が雄弁に語っている。
「そう、大丈夫です!」
一方の沖縄のマスコットキャラクターの方は、今の霊夢の発言を自分を頼ってくれているものと解釈したらしい。得意げな顔で彼女は胸を張る。
まあ看病を任せる分には問題なさそうだし助けを呼ぶくらいはできるかな。
菫子はそう結論づけてアガサ・クリスQの新作のために人里へ向かった。
その後菫子は人里にたどり着いたのだが、そこで道に迷ってしまった。菫子は今まで一度しか鈴奈庵に行ったことがなく、ノーヒントで鈴奈庵にたどり着くのは彼女の乏しい方向感覚では荷が重かった。
鈴奈庵がある通りに辿り着けず同じ場所をぐるぐる回り始め、この歳で迷子とは情けないと焦り始めた頃、それは目の前に現れた。
「何で信号が……」
人里の小さな運河に架かった橋を横断歩道に見立てたかのように、橋の向こう側に歩行者用信号機が一本立っていた。
信号機は赤く光っている。電気はどこから通っているのだろうかという疑問が菫子の中で首をもたげる。
時代劇で見るような風景の中にそびえ立つ信号機は明らかに異様というかシュールだった。
しかし街行く人は大して気に留める様子はない。当たり前だが、赤信号でも誰も気にせず橋を渡っていく。
菫子が突如現れた信号機に呆気にとられていると、後ろから声をかけられた。
「菫子さんじゃないですか」
「あ、小鈴ちゃん」
溌剌とした声の主は目的地の看板娘である本居小鈴だった。本の回収の帰りだったのだろう。両手で本を抱えていた。
重そうだったので菫子は小鈴の本を半分ほど持ち受けた。
向こうの方から現れてくれるとは幸運だったが、今の菫子の関心ごとは信号機にあった。
「あ、あれ見える……?」
周りの人が誰も気に留めないものだから、本当は自分にしか見えてないのではないだろうかと菫子は少し変な聞き方をしてしまった。
「ああ、こうつうしんごうき、でしたっけ? ニ日前くらいに出てきちゃったんですよねー」
小鈴はこともなげに言った。
誰も気に留めてなかったのは、出現後から時間が経っていて、ひとしきり騒いだ後だったからなのだろう。
「何であれが幻想郷に……」
「菫子さんには馴染みのあるものですかね。たまにあるんですよ、外の世界のものが中途半端に入って来ちゃうこと。霖之助さん曰く路に植えられた木が伸びて来て、塀を越えて敷地にかかってるような状態だとか」
森近霖之助の持ち出した喩えの意味はよくわからなかったが、あの店主の比喩がわかりづらいのは今に始まった話じゃないなと菫子は気にしないことにした。
「あれどうするの?」
「大体ああいうのは何日かすると消えるので放っておいてます。まあ何人かの外の世界が嫌いな頭の固いおじいさんたちは早く撤去しろと騒いでますが」
見たところ深く地中に埋まってるようですし、そう簡単に撤去できないと思いますが、と彼女は肩をすくめた。
「霖之助さんが見に来ましたが、危険なものではないらしいので放っておいて問題ないでしょう。……危険じゃないんですよね?」
「うん大丈夫」
里の外れで商いを営む森近霖之助は、道具の名前と用途がわかるという特殊な能力を持っていた。
小鈴が交通信号機という名前を知っていたのは彼に聞いたからだろう。
常々何の役に立つんだろうその力、と菫子は彼の能力を小馬鹿にしていたが、こういう突如幻想郷の外のものが現れたときは役に立つのだなぁ、と菫子は感心した。
信号機が現れてるのがそんな異常事態ではないとわかったところで、菫子は本題に入ることにした。
「そうそう、私神社のおつかいでアガサ・クリスQの新作を借りに来たんだけど」
「あら、そうだったんですね。大丈夫でした? もしや迷子になってたりしないですよね?」
揶揄うように小鈴が口元に手を当てて笑うものだったから、菫子は咄嗟に取り繕ってしまう。
「ま、まさか。鈴奈庵には前にも来たことあるし」
菫子はさも迷子になんかなってませんよとアピールするように、信号が赤のままの橋を渡ろうとした。
「それは失礼しました。ちなみにその方向はウチと反対方向ですよ」
小鈴はニコニコと笑顔でそう言った。振り返った菫子はいじけた声で非難した。
「……意地悪」
「はっ、そろそろ帰らないと」
鈴奈庵にはネクロノミコンの第一漢字写本を始めとして、菫子の興味を引くものがたくさんあった。小鈴の方もコレクションを披露するのが楽しくなってしまい、しまいには店奥の倉庫までひっくり返す始末だった。
小鈴コレクションの発表会は盛り上がり二人はすっかり時間を忘れてしまっていたが、菫子はふと我に帰り自分がおつかいの途中だということを思いだした。
霊夢にはあうんが看病についているので急いで帰る必要はないが、あまり菫子の帰りが遅くなると心配するかもしれない。
「あら、雨降ってる?」
会話に夢中で気がつかなかったが、雨音が聞こえる。
菫子が戸を開けると、ざあざあという雨音が一層大きくなる。通りに水たまりができていた。
「さっきまで雨降りそうな気配無かったんだけどなぁ……」
「はい、濡れないように包んどきましたので、これで持って行ってください」
「あー、ありがと」
小鈴は慣れた手つきで手早くアガサ・クリスQの新作「いろは殺人事件」を油紙で包んだ。
彼女は本を菫子に渡すと、さらに戸の近くに立てかけてあった紫色の番傘を菫子の前で開いた。
「使ってください」
「なんだか悪いね。あとで返させるから」
「ええ。霊夢さんにはお大事にとお伝えください」
ばさり、と傘を開いて菫子は外へ出た。振り返って小鈴に手を振ると、彼女も手を振り返した。
踵を返した菫子は、水たまりを避けながら雨の中を歩いていく。
番傘に雨粒が当たる音は外の世界の傘とはまた異なる音色で、菫子にはそれが新鮮に感じられた。
雨は豪雨と言うほどでは無かったが、外の人通りは大分疎らになっていた。いつもの客の呼び込みの声が途絶えることのない活気に満ちた様子からは想像がつかない。
ニュースで見た台風でも出勤しようとするサラリーマンたちの映像を思い出して、こういうところは幻想郷の方を見習うべきだよなぁ、と菫子は思った。
そういえば先程の信号機はどうなっただろうか。もう元の世界へ戻ってしまっただろうか。
なんてことを考えながら菫子が曲がり角を曲がると、信号機は変わらずそこにあった。橋の向こう側で相変わらず赤色に光っている。
「……ん?」
橋の手前に誰かがいた。赤い傘をさしたその人物は何をするでもなく、ただそこに立ち尽くしていた。
青と白の巫女服に緑色の長い髪の毛。東風谷早苗だった。
「どうしたの?」
「あら菫子さん、こんにちわ」
隣まで近づいて声をかけると、早苗は目を細めて応えた。
「車が通ってるわけでもないのに、つい立ち止まっちゃいましてね。そしたら少しぼうっとしてしまいまして」
早苗はそう言ってはにかんだ。菫子は「何かそれわかる」と笑った。
二人の少女は信号機のある橋の手前に並んで話し始めた。
「にしてもずっと赤ですねこの信号。そもそも電気がどこから来てるのかわからないですけど」
「また聞きだけど、結界が揺らいで顔だけ出してるみたいな状態みたいね。幻想郷の外と繋がったままみたいだから、電気も平気なんじゃないかな」
街路樹の枝葉が庭に入ってきてしまっている、という森近霖之助の話を菫子はそう解釈していた。
「へぇ、じゃあ信号がずっと赤なのは……」
「押しボタン式なんじゃないかな。それなら向こう側で誰か押さなきゃずっと赤だろうし」
「じゃあ押しボタンだけ外の世界に残ったままなんですかね」
「まあ推測だけど」
取り残されちゃったんだ、という早苗の呟きは雨音の中に消えていった。
彼女はぼんやりと信号機の方を見ていた。
だがその目は焦点を結んでいるように見えず、どこかもっと遠くを見ていた。きっと信号機のその先にある景色を見ていた。
早苗の横顔を見て菫子はハッとした。
彼女は外の世界の話をしない。携帯電話がどうだとか一般知識の話はしても、外の世界の思い出を語ったことはなかった。彼女に家族がいるかどうかすらわからないほどだ。
どうしてだろうか。
それを考えたとき、菫子は青ざめた。
自分は今まで何も考えなさすぎた、あまりに配慮がなかったと気付いてしまった。
もし早苗が元の世界を恋しく思っているなら、菫子の存在は彼女の目にどう映っただろうか。元の世界と幻想郷を自由に行き来できる菫子のことを。
自分が身を切るような思いで故郷を離れたとしたら、二度と戻れない向こうとこちらを行ったり来たりする菫子のことがどう見えるだろうか。
逆に元の世界が嫌いで逃げてきたとしたらどうだろうか。
嫌いだったのなら元の世界のことは考えないように脳の奥へ押し込んでいるはずだ。なのに菫子に会うたび捨てたい記憶を無理やり思い出させられて、厭な気持ちを味わっているのではないか。
菫子は考えたこともなかった。自分は何て無神経だったんだろうか。
早苗は外の世界で育ったから常識が共有されているというか、菫子が外の世界の知識を当然のように話してしまい何それ、となることがなく話しやすかった。
そもそも彼女の物腰が柔らかく明るい性分もあって話しやすかったというのもあるのだろう。
珍しいことに、菫子は早苗に大分懐いていた
宴会のときはつい居心地の良い早苗のところへ足が向かってしまうほどだ。
だがそれは迷惑だったのではないだろうか。
菫子個人に恨みは無かったとしても、幻想郷と外の世界を自由に出入りできるという存在は早苗にとってかなり疎ましいのではないだろうか。
(……か、帰ろう)
ひょっとしたら自分は早苗に疎ましく思われているかもしれない。そう考えると彼女の隣にいることが酷く居心地が悪いような気がしてきた。
「そ」
「西表島って信号が二箇所しかないらしいですよ」
それじゃあ私はそろそろお暇させてもらおうかな。
菫子はそう言うとつもりだったのだが、早苗の声に遮られた。
「……はい?」
あまりに唐突な話題に菫子は戸惑った。
「西表島って……イリオモテヤマネコの西表島?」
早苗は頷いた。
「その内一台は小学校の前にあるそうです。別に無くても困らないくらい交通量が無いそうなんですけど……何で信号が付いてると思います?」
「うーん……心配性の親御さんたちが安全のために取り付けてくれと頼んだとか?」
「私の聞いた話だと、小学生の交通教育のためだそうです」
「あーっと……そういうことね。赤は止まれっていうのを習慣で身につけられるようにってことか」
なるほど考えるものだなぁと思う一方、早苗が急にそんな雑学を披露した意図が掴めずにいた。
彼女は相変わらず信号機の方を見ていた。
「現地の方にそう聞いたんですよ」
柔らかい声で、彼女はこう続けた。
「昔、行ったんです。家族旅行で」
「……そうなんだ」
菫子は早苗が元の世界での思い出を語るのを初めて聞いた。
彼女の横顔を覗くと、昔を懐かしむ優しい表情をしていた。
故郷に対して二度と帰りたくないとか、早く帰りたいだとかの深刻な感情を抱えている様子には見えなかった。彼女はただただ故郷を懐かしんでいた。
先程は早苗が自分のことを疎ましく思っているのではという不安になっていた菫子だったが、自分の考えすぎかもしれないと思い直した。
彼女は彼女なりに戻れない故郷に対しての気持ちを整理できている。自分なんかが勝手に気持ちを想像して可哀想だと思い込むのは違うと菫子は思った。
「あっ」
菫子が早苗の横顔を眺めていると、彼女は目を見開いた。
彼女の目線の先を見てみると、ずっと赤だった信号機が青になっていた。
「あれ? 青になったね」
「何ででしょう」
「向こう側に残った押しボタンを誰かが押したんじゃない?」
菫子の仮説が正しければ、幻想郷の外には押しボタンだけが残っているはずだった。
「それだとその誰かが信号機がないボタンを押したってことになっちゃいますよね」
「山奥に押しボタンだけ見つけたりしたら私だったら押しちゃうかなー。まあわかんないけどね」
「まあそうですよね。わかんないですよね」
結局のところ話は推測の域を出ない。
ただ菫子には早苗がどこか嬉しそうな表情をしているように見えた。
「青になったし帰ろっか」
菫子がそう言うと、早苗も頷いた。
二つの傘が並んで橋を渡る。信号機を通り過ぎて雨の町を歩いて行った。
翌朝になる頃には雨は止んでいた。
信号機も外の世界へ戻っていったのか、跡形もなく消えてしまった。
早苗が菫子についての思うところはなるほどと思った
信号機というネタも幻想郷らしさがあって早苗の気持ちに簡単に共感できてよかった
雨の里、運河の橋の向こう側にある歩行者用信号機って、なぜかすっと想像できる不思議
たしかに信号機のないボタンだけあったら押したくなると思いました