葉之御霊
一
待ちあい室の窓から外を見わたすと、竹ばかりが見えた。
春らしい風景ではない。
室の一隅には、地平人の理解しかねるオブジェクトが配置されていた。それは黒い直方体であった 「あれはなんだろう。置きものだろうか。あの暗黒の平面を見ていると、なんだか吸いこまれそうだと思う」 霧雨魔理沙はさらに考えた 「黒いあの色は暗示的だ。それもわるい方向に。白黒つけると言う言葉もある。自分の明日を今にも知ろうと言うときに、なんて不吉なのだろう」 診察も終わって、結果が出るまでのあいだ、彼女はぼんやりとそんなふうに思考した。
がらがらと診察室の戸が開くと、鈴仙・優曇華院・イナバがそこから出てきた。
「結果が出ましたよ」
「あの黒いのはなんだろう。置きものだろうか」
鈴仙の言葉は頓着しないで、魔理沙はそのまま聞いてみた。
「そうです、置きものです。永琳さまの趣味の」
「普通は壷や瓶じゃないかな」
「ねえ……」
「分かったよ。病状はどうだった」
「永琳さまが話してくれるよ」
魔理沙はわずかに萎えた長い耳を見のがさなかった。その分かりやすさにくつくつと笑いが漏れてきた。それが自分の体調はよくないのだと解釈させた。
「嘘がヘタ」 とさらに笑ってみせた。
鈴仙はばつがわるくなって、動揺が耳に出る癖をはじた。顔を赤くしたあと、右耳の先をつねってみせた。
その表情と動きはあからさまに相応の娘に見えた。年齢は上であるはずなのに。
こう謂う純真をとどめるために不老不死は望まれるのだ。と考えながら立ちあがった魔理沙の目線は、鈴仙よりわずかに高かった。
ふたりは診察室にはいった。室から濃い薬の匂いがした。
八意永琳が椅子に座って待っていた。
永琳は机に控えた書類と患者を見くらべた。その動作と漂っている薬の匂いが、そのまま彼女の権威になって、魔理沙は自分の肉体的の審判者として医家を強く意識した。
ふたりは対面して椅子に座った。そのうしろで鈴仙は不安そうに立っていた。
「地平人は脆いから駄目ね」 と言う永琳の語気は嘆息のそれであった。
「開口そんなことか」
「思うに、あなたは……いずれ魔法の森の毒が体を蝕んでしまうと知っていた。なのに森を出なかった。どうしてかしら、死にたいのかしら」
「人間の夢は非人に分からないだろうさ」 魔理沙にも言いぶんがあった 「あの森は毒でもあり薬でもある。魔法つかいならあの大気を力にできるんだ。わたしは弱い人間だから、魔法のためにはあの森で暮らさなければならなかった」
「命が縮むとしても」
魔理沙は頷いた。
「私は命を粗末にする人がきらいです」
「それは先生の基準だ。魔法は人生だ。それを追求しないのは、粗末にするのと同じことだ」
「でも長くは生きたいでしょう」
「それはそうだ」
「私ならあなたの寿命を十年は延ばせます」
「先生の世話にならなければ何年だ」
「三年。さらに短いかも」
「三年」 魔理沙も飲みこむように呟いた。
しかし実感は伴わなかった。その宣告は何もないところで転んだ痛みのように、あまりに唐突すぎていた。それに朝は鏡に映った顔がほどよく赤かった。今に胸へ手を当てると心臓の音は正常であった。永遠亭へくるときも、天狗のように速く飛べた。それでも医家は 「三年」 と言う。
魔理沙はもう十八歳になる。その暖かな初春。
手つだってほしい、魔理沙にも
急に博麗霊夢の言葉が思いだされた。
二
入院しても外の風景は変わりばえしなかった。立ちんぼの竹がときおり風で揺れるばかりであった。風が桜の花びらを長旅させて、竹林の外から布団の上まで運んできたときくらいには、胸がすこしときめいた。積もった笹葉の下から兎が跳びだすのを見かけると、季節わすれの雪だと思った。
「入院してしまいなさい。周りのためにも」
永琳の勧めで入院したことを、魔理沙は後悔しないでもなかった。彼女はひとつところに延々といるのが好きではなかった。そのうえ永遠亭にいると世間の流れがよく分からない。
亭内だけが足の許される範囲になって、いつも頭を悩ませなかった世間と呼ばれる観念が、より神経を突っついていた 「先生の言う周りとはなんだろう。もちろん友達はいる。しかし、その友達にとってわたしは人生の中心ではない者だ。またなりたくもない者だ」 魔理沙はそう頭を巡らせた。
仮に自分の体調を案じて入院をしつこく勧める“周り”がいれば、ただ一人は別としても、彼女は迷惑にちがいなかった……。
まとまらない考えを揉んでいると、室に鈴仙がはいってきた。戸がひらく音に気がつかなかった魔理沙は、ぴしゃりと閉まる音がしたとき遅れてそれを知らされた。
「薬の時間だったか」
「なんだかぼうっとしていたよ」
「考えごとだ。薬を届けてくれる兎への、恩がえしについて」
「フフフフ、フフ。恩なら金で返してもらいます」
しかし入院に当たって永琳が請求した金額は、恩と呼ぶにもおこがましいほど少なかった。
「あの先生はやさしいな」
「みんなが思っているよりはそうです」
「それはそうだ。やさしくなければ非人は医家なんてしないさ」
永琳が褒められると、鈴仙は自分が褒められたような顔をした。その顔はじつのところ正しかった。魔理沙は彼女も非人の医家と認めて賞賛していたのである。尤も彼女はそれに気がついていなかった。
鈴仙が注射器を取りだした。もう何度目にもなる治療の儀式を、魔理沙はいまだに慣れなかった。毎回すこし緊張した。
「口で飲む薬では駄目なのかな」
「いずれ飲む薬に移るから我慢しなさい」
針が腕にはいった。中の液体がゆっくりと血の管を通っている気がした。痛くはなかった。なのに不快感があった。
間もなく注射器が液体を送りきりそうなとき、魔理沙はその硝子の表面に顔が映った気がした。まじまじと見ると、同じく映った窓の外から白樺を思わせる髪が覗いている。鈴仙は集中していて気がつかないけれども、少なくとも彼女はそう見えたーーー見えたのに、窓を見るとそこには雀が乗っているだけであった。春だと思わされた。
針が抜かれると、腕に消毒布が押しつけられた。
「窓がどうしたの」
「何、雀だ」
治療が終わって、医家と患者の関係ではなくなったふたりは、落ちついて談笑することができた。
「飲む薬も結局は口に苦いだろう」 と聞くと鈴仙は 「苦いのは効く証拠なのよ」 そんな迷信を盾にした。
魔理沙は別の理屈で攻めた。
「医家ってのは薬と病気にあかるいだろう。でも健康についてはどうなんだ」
「何ができれば健康だって言いたいの」
「わたしなら魔法にちがいないが」
「少なくとも入院していれば寿命は延びるわ」
「寿命と健康はちがうよ」
「同じだと思うわ」
寿命と健康がそのままひとつになっている非人の鈴仙は、平然とそう答えられた。それが魔理沙の目には無自覚な冷淡と見えた。
長命種の心の鈍覚
魔理沙は心中でそう表現した。
急に壁へ立てかけてある自分の箒で、今から月まで行ってしまいたくなった。
考えのちがいが魔理沙を黙らせたけれども、それが分からない鈴仙は、彼女が寿命や治療のことで不安なのだと解釈した。
「うちは専門じゃないから已めてしまったけど、永琳さまは切開も考えたのよ」
と打ちあけられると、魔理沙は目を丸くした。
「でも体の環境を変えないと、いくら臓腑を切ってもしかたがないから、薬で根本的の病を撲滅するのよ」
鈴仙は隠さずに治療の中身を話すことが、魔理沙の慰めになると信じた。
「内蔵がそんなにわるいのか」
「うん。ただ永琳さまがおどろいていたけど、心臓だけは元気なんだって。だから患っていても動けるんだって。体の中心が元気でよかったじゃない。ほかのところが元気になっても、中心が駄目だと弱ってしまうから」
「魂が元気なら心臓もそうだろう。ふしぎなことじゃない」
冷仙は首をかしげた。
魔理沙は急に学者的の光を目に宿した。そうして講釈した 「霊魂は精神を繋いでいるだけではない。それはまことに肉体的の器官なのだ。それこそがわれわれの第二の中心で、そこが弱ると密接に霊魂と繋がっている心臓も弱ってしまう。そこが力に満ちていれば、心臓はほかの部分が弱っていようと強く鼓動を打ちつづける」 ……。
「新しい……理論ね」
本物の理論を学んでいる鈴仙にとって、それは惑病は同源と言っているように思われた。彼女は冷笑した。
「信じてないな」
「うん」
「霊と万葉を見ればそれを認められるだろうよ」
「霊って、幽霊のこと」
さらにおかしなことを言っていると、冗談まじりに魔理沙を見たとき、鈴仙は思いのほか真剣な瞳に射すくめられて、たじろがなければならなかった。
じつのところ魔理沙は鈴仙ではなく、自分の造語に連想されて、彼女の春もみじ色の暮れない瞳を見たくなったに過ぎなかった。
赤い色を見ていると、魔理沙は二年も会わない霊夢の、巫女装束を空でたなびかせる姿が空想された。
空想の中で霊夢は十六歳のまま大人にならない。空想の空を空想の彼女は飛んでいる。
いつでも。
蓬莱国の黄昏を背に浴びながら…… 「しかし、おまえは“次の巫女を育てよう”と言う。また“手つだって”と言う。
わたしたちが接吻しようとして……失敗してすぐのことだ。
失敗の痛みが静まるまで、おまえを避けたかったのに、おまえは爆弾を投げつけてきた。その爆発が、一瞬でわたしを大人にしてしまったのだ。
おまえが巫女にすべての御業を伝えたとき、おまえの霊と万葉は、失われるかもしれなかった。その怖ろしさ、せつなさ。おまえには分からない」 ……。
それは二年のうちに何度も反復した、堂々めぐりの迷いなので、魔理沙はそこで切りあげると 「すこし眠るよ。薬をどうも」 と談笑も切りあげた。
尤もすでに談笑とは呼べなかった。鈴仙が霊と万葉なることを理解できずに、目を白黒とさせていたのである。
三
とは謂え魔理沙も、それを十全に把握してはいなかった。その抽象的の観念は霊夢、あるいは人間の持つ最も尊い部分とだけ思われた。
それは示され、形容される。
魔理沙が望むとき、霊夢は望まれるだけそれを見せた。そうして彼女のほかには見せなかった。
……。
納得できない様子で鈴仙が室から出ていった。
それから魔理沙は窓を見た。雀はもういなかった。
少なくとも雀は。
「もういいかい」 と合図が聞こえて 「もういいよ」 と魔理沙は返した。
藤原妹紅が窓の外から、ひょっこりと顔を覗かせた。
妹紅の顔はふてくされていた。
「気のついたくせに長々と話すんじゃないや」
「はいってこればよかったのに」
「ここの先生と鈴仙ちゃんは私をよく思わんのだ」
「ここの姫さまを殺すからだろう」
「そうだ。しかし殺したって死なないのに、なんとも泣かせる忠誠心じゃないか」
妹紅が靴を脱いだあと、窓を乗りこえた。彼女は花瓶を持っていた。それは瓶と言うより、ただの割られた竹であったけれども、口に桜枝が活けてあるので、花瓶の体裁を成していた。その桜枝には、ふたつの笹葉が草むすびにされていた。
「わたしが入院したってどう知ったんだ」
「さっき」
「ふん、どう言うんだ」
「新聞の、ことよ」
なんとなく聞いたばかりの問いに、思いがけず妹紅が言葉を詰まらせたので、魔理沙はふしぎに思った。
魔理沙の知っている妹紅は、新聞を買うほど世間に執着していなかった。
「何か……嘘めいてるな」
「本当々々。私は嘘が苦手なんだ。正直者の死、嘘つきのままだと死ねないってことね」
「わたしは長く生きられそうだ」
妹紅は勘ぐられるやいなや、あからさまにひらきなおっていた。その図ぶとさと特に興味のなかったことが、魔理沙に追求を已めさせた。
竹瓶を受けとると、布団の横に置いてある、小さな机に飾ってみた。結められた笹が、匂わしい桜の色と風情ちがいでよく目についた。
「草むすびよ」
「なんだそれは」
「おまえ和歌を知らないのかい」
「知らないよそんな古くさいこと」
「ふん、都会っ子め」
「おまえが結んだのか」
妹紅は笑った。くるしそうに腹まで押さえた。
何がそんなにおかしいのだ。と魔理沙は腹を立てた。
「帰ってよろしい」
「ヒヒヒヒ、ヒヒ。わるい、わるい。体の調子はどうなんだ」
「多くてあと十年と言われた」
ようやく妹紅が畳に座った。
長すぎる髪を粗雑にまとめて膝に乗せ、怨敵の城で胡座を組む姿はふてぶてしかった。
魔理沙は嘲笑の仕かえしに、おどろかせようと寿命のことを淡泊に告げた。しかし合いづちすらなかったので、妹紅がその残年をどう飲みこんだのか測りかねた。
妹紅は退屈そうに指で髪を梳いていた。
髪は繊細に見えた。つややかではないけれども、カバノキ科の樹皮を限界まで薄くしたような、量のわりに涼しい印象で、鬱陶しさのない白線の束……。
魔理沙はその一本々々が、長年で繁殖した長命種の神経のように思われた。そうして神経は増えるくせに、長年で麻痺しているように見えた。
黙っている妹紅を分析する試みは、徒労であった。
魔理沙は妹紅の開口を待たなければならなかった。そうして短い沈黙のあと訪れた開口が、彼女の態度と同じくらい奇妙であった。
「おまえたちが来た夜を思いだすの」
「夜って……」
「おぼえてないとは言わないだろう。あの永夜抄……」
妹紅は邂逅した異変のことを話しているのだ。と魔理沙は気がついたので 「肝だめしか」 と返事ができた。
「おまえたちが入れかわり立ちかわり、私を弄んだ肝だめしさ」
「永夜抄か。意外と詩的なんだな」
「誰かに言うなら私が祖だって教えてね」
「そんな機会こないよ」
話しを合わせていた魔理沙は、一方で別の心理を隠していた。
なぜ唐突に昔を語るのだろう。と魔理沙は疑問をかかえていた。
「謎かけでも受けているような顔だな」
その心理は妹紅へ、魔理沙の表情筋から伝播した。
「私が急に以前のことを語るのが謎なのだろう」
「謎だから理由を話してほしいね」
「ところが私にも謎なのさ」
からかわれているのだろうか。と魔理沙は疑った。しかし妹紅の語気にはすこしの嘲弄も感じられない。
「でも思いあたりはするんだよ。それを聞くかい」
「聞いてみよう」
「それなら話そう。じつのところ私はおまえの短命をこれでも悲しんでいるのだ。
おまえは私と会った日を、昔のことだと思っているのだろう。それが常人と不老不死者のちがいだよ。
私はつい先月おまえの友達になった気がするのに、おまえは十年で死ぬと言う……」
「それが昔を語らせるのか」
「最近だよ。この感じ、おまえには分からない。昨日の友達が、明日には死んでいるなんて……」
妹紅の声は次第に小さくなった。それから涙が畳にぽたぽたと落ちていた。
その急激な涙が魔理沙をおどろかせた。妹紅の言葉に過去への感傷はあったけれども、涙を流す予兆はかけらもなかった。涙にも肩や声のふるえはなかった。涙は山水が平地へ流れるように、仏道が説くところの、無情のことわりと思われた。
それを証しするように、涙は一瞬の作用であった。魔理沙がおどろいた次の刹那に、その涙はもう止まっていた。人形のように無神経な顔は、その濡れた痕跡を見せることでしか、涙を証拠だてられていなかった。
「じつのところ」 と魔理沙がまだ動揺の内に佇むとき、妹紅は改まって 「私が急にそんなことを思いだしたのは、何もおまえの短命のためだけではない」
「ふん、どう言うんだ」
妹紅はふところから封筒を取りだした。
「私は霊夢に頼まれて、これを渡しにきたんだよ」
魔理沙の動揺がさらに深まった。彼女の瞳は多種多様な衝動で揺れていた。妹紅はその流動する心傷がありありと見えた。しかし理解はしなかった。それは彼女が恋情と、海境を隔てた離島くらい、無縁なためにほかならない。
それは妹紅に都合がよかった。魔理沙が霊夢を好いていると分かっていて、機械的の無配慮で頼まれごとを終結できたのであるから……。
魔理沙はおずおずと封筒を受けとった。封をひらくと、わずかに桜の匂いがした。手紙を取りだしたあと、封筒を逆さまにすると、桜の花びらがひとひらだけぽとりと落ちた。
竹瓶に活けられた枝は博麗神社の桜なのだ。と魔理沙は悟った。
文の全文……。
魔理沙が病で入院した。と風の便りで聞いたとき、わたしは信じるよりさきに疑いました
なぜなら病は、わたしのように心の弱い者が患うのであって、魔理沙のように心の強い者とは無縁の敵だからです。その無縁の敵に負けたのは、あなたの心が弱くなった証拠です
わたしの記憶が正しければ、魔理沙は八卦より輝かしい光を放ち、まだ見たことのない彗星のように飛んでいました
いつでも
しかし、それは失われてしまったのかもしれません。魔理沙は弱ってしまったのだから
そのうえで、わたしはこう考えるのです
魔理沙はその失われたことを取りもどすために、わたしの傍へ帰ってくる
絶対に
魔理沙の人生の核心はそこにある。そうして同時にあの子のことを、あなたは認めなければならなくなる
わたしの言葉を、あるいは望みを反映した、独りよがりの予言と思うかもしれません。しかし辞書を引いてでも、考えてほしいのです。霊の夢と言う名前の持つ意味を。自画自賛をするようですけれども、わたしの勘はよく当たります
だから霊の夢と呼ばれるのです
魔理沙はあの子のことをおぼえていますか。まだ手つだってくれるのを待っています
……文は燃やして、誰の目にも触れないように
読みおえた魔理沙は、手紙を妹紅へ返してしまうと、火をつけるように頼んでいた。
魔理沙は霊夢の、望むようにした。妹紅も黙って、望むようにしてくれた。二人の。
妹紅の掌の中の短文が、ゆっくりと端から燃えていった。魔理沙は当事者でありながら、ふしぎと失われてゆく文を、惜しむことなく眺められた。
「霊夢は本当に美しい娘だな。今でも」
と妹紅は呟いた。
魔理沙は視線を炎から、すぐに妹紅へ移していた。無情のまなざしと謂い、声の平静と謂い、霊夢へ特別の好意があるわけではないように見えた。
「霊と万葉。それが霊夢を美しく見せているのだろう」
妹紅が霊夢を美しいと称えるのは、器量ではない。
霊と万葉。その形容に於いてだけである。
「聞こえていたのか」
「うん」
「鈴仙は幽霊だと言う」
「残酷で無感性の考えだ」
と妹紅は非難した。それは鈴仙への嘲弄であったけれども、同時に自嘲の属性を有していた。なぜなら彼女は、ほかの非人と同じように、時が自分を残酷で無感性に変えたと信じていた。
それゆえ妹紅はかつての人間として、霊と万葉なることに鈴仙とはちがう答えを示さなければならなかった。
「幽霊と言う考えは、わずかに正解かもしれない。しかし、おまえが言うのはさらに広義的の趣旨があるのだろう。
霊とは常世に漂う白痴の魂のことではなく、さらに超越的の幻想郷の神々だ。万葉とは人間のこころの内にある、非人どもが熱望している至純至上の感情だ。
すなわち、霊とは見えない者。
すなわち、万葉とは見えない力」
「おまえの言うことはわたしの考えとほとんど一緒だよ」
「そう……よかった」
「わたしは霊夢にそれを見せてもらった、と思う。理解は……できなかったけど。知らないうちに……」
そう途ぎれ々ぎれに語る魔理沙は、気がつかないうちに頬が染まった。彼女は、ほほえんでいた。
その微笑が、娘ざかりを過ぎようとしている魔理沙の顔を、とても幼く見せていた。恋情を隠しきれていない、照れかくしに増えた、癖のまばたき……。
これが恋のできる娘の顔なのだ
と妹紅は思った。
他人の思慕の、なかでも蓮華のように垢のない情念を聞いて、気はずかしくなりながらも、一方で妹紅の心中には残酷で無感性のかけらが潜んでいた。
なぜなら妹紅は、どこかに置きわすれてきた恋の手順の巻物を、見つけられずにいたのである。その苦悩は、強烈に出た。
妹紅は多少の羨望に鍵をかけて、取りつくろいながら言ってみせた。
「それはすばらしいことだなあ。何にも変えられない幸せだなあ。他人の内からそれを証しできるなんて」
「霊夢の傍には、それがいくらでもあった」
妹紅は首を横に振った。
「私が霊夢に近づいても、おまえのようには見ないだろう。おまえのように、あの娘に好かれてはいないのよ」
霊夢に“わたしの傍に帰ってくる”と確信させるのは、霊の夢にほかならない。
霊の夢とは辞書で引くまでもなく、神仏が与えてくれる予言である。と魔理沙は知っていた。
……それなら“わたしの傍に帰ってくる”と核心する霊夢は、待っているだけでよいはずなのに、どうして言いきかせるような命令的の予言の文を、逸って魔理沙に送りつけてきたのだろう。
四
一人前の魔女として、魔理沙も入院しているあいだ、ぼうっと日々を過ごしているわけにはいかなかった。
鈴仙に家からあるだけ本を取ってきてもらった。実践派の彼女にとって、何日も箒も鍋もさわらずに、字ばかり読むのは苦痛であった。ただ続けていればいつかは慣れる。
十冊目には桜の花びらが落ちきった。二十六冊目には近ごろ昼の気温が高いと思った。四十二冊目には本が尽きた。なので伝書烏を大図書館に送ってみた。
返事の文の要約……。
死ぬまでに返せば貸す
魔理沙の言うところ“借りていた”本を鈴仙に送ってもらうと、彼女は見たことのない貴重な本を、ぜえぜえと喘ぎながら、山のように押しつけられて帰ってきた。
魔理沙は読みつづけた。そうしていると、ときおり足場を見えなくする霧のように、ある苦悩が立ちこめた。
いずれ死ぬのに知恵を貯めてどうしよう。と魔理沙は思った。
魔法を学ぶ者は稀である。それは魔法が学んだところで、衣食住の根本的の生活の、役に立たないことを示していた。
魔法の美徳はそこにある。
魔法つかいは、それを純粋な学問と信じるだけに、たとえば算盤のような、生活を支えるための学問を、軽蔑する傾きがある。魔理沙を含めて。
それでも溶けて消えゆくと諦めて、孤高に知恵を墓まで持っていけるほど、悟ることはむずかしい。
知恵の作用
それは意思に関わらず、外部へ継承を望むのである。
誰でも自分の学んだことを伝えずにはいられないのだ。と魔理沙は入院してから学んでいた。
尤も継承する相手も手段も見つからない……。
魔理沙はあわてて身を結ぶ、枯れそうな花を鏡と感じた。入院している弱い体を、恥とした。
……。
蝉がやかましく鳴く、その夏の昼どきに、腹がむかついたあと、喉が熱くなった。
突然の嘔吐感のなかでも、借りた本を汚さないように、横へほうりなげるくらいの意思がはたらいてくれた。
そのあと咳をすると、布団の上へ最初の吐血が出た。
赤黒の血に夕日をにごしたような、だいだい色の粘塊が混ざっていた。
魔理沙は、ぞっとした。
「先生、鈴仙」
返事はなかった。声は壁に吸いこまれた。外の廊下が、無限回廊のように思われた。
このとき医家たちは所用で亭を離れていたけれども、それを事前に知らされたとき、魔理沙は本に没頭していて、曖昧に 「うん」 とだけ言った。
それは記憶に残らない返事であった。
さらに事態の焦燥感が、魔理沙の頭のはたらきを止めた。容易に医家の不在を忘れさせた。
蝉の声だけが、いやに聞こえた。その短命種の交配を熱望する儀式が、魔理沙を不安へいざなった。
魔理沙はまだ竹瓶に活けてある、花のない桜枝にすがりついた。それから彼女は見えない者、あるいは見えない力に無心で祈ったーーー祈った矢先に声が聞こえた。
「ふたりはいないわよ」
それが祈った矢先の好都合なので、魔理沙は幻聴を疑った。
「はいるからね」
幻聴ではないとしても、誰かはよく分からない。
戸がひらいた。
魔理沙は安堵しながらもおどろいた。亭のあるじなのである。
「えっ。輝夜」
「まあ、ひどい血。どうしたのそれ」
「吐いた、今……急に。なあ、水さしを持ってきてくれないか。申しわけないけど、姫さまなのに」
「ええ」
と蓬莱山輝夜は気楽に受けおった。彼女が水さしを取りにいっているあいだ、魔理沙は急に現れた彼女の気まぐれを、事実として咀嚼しなければならなかった。
それと謂うのも、見まい客がときおりくるなかで、輝夜はすぐに会えるのに、まったく会いにこなかったから。
別に理由はないのだろう。彼女はいつでも会いにこられた。なのですぐに会わなかった。それは時間の感覚の差異のみで、魔理沙に対する悪感情はすこしもなかったのである。
魔理沙は桜枝を竹瓶に戻した。
間もなく輝夜は戻ってきた。
「どうぞ」
魔理沙は驚愕にさらされた。輝夜が現れたに比して、その驚愕のなんと多大なことだろう。
輝夜は白枝のような指を、茶碗にかたちづくって、そこへ水を入れていた。指のあいだから、支えきれない水の雫が、ぽつぽつとこぼれおちていた。
「おまえビョーキなのか」
「だって自分の室の水さししか分からなかったんだもの」
「それを持ってきてくれよ!」
「自分の水さし、他人に使われたくないし……」
と輝夜は拗ねた。
頭がおかしいのだ。と魔理沙は思った。
それでも喉に、まだ粘質の跡が残っていて不快なために、しぶしぶと水を輝夜の両手から飲みくだした。彼女が自分の行動力を得意に澄ましているので、魔理沙は 「どうも」 と言ってあげた。謝意はかけらもなかった。
「どういたしました」
輝夜は水を飲ませたあと、姿勢を直した。
凛と正座した。それから改めて魔理沙を眺めた。
つやのある、烏色の髪が、笹川ながれのように、うなじを降りて、背後の畳へ広がっていた。
ふたつの新月の影のような、暗色のまなざし。かたちのよい鼻の輪郭。桜色の唇。すべては絹の線のように思われた。
それに見つめられると、魔理沙はふしぎとさきほどの珍事を許せた。
本当の器量には失態を放免する作用があるのかもしれない。と魔理沙は思った。
しかし、それ以上の厚意は特に湧かない。
なぜなら魔理沙は、霊夢を“愛している”のである。
……。
ところでみやびな鶴を思わせる、輝夜の美貌には、恋情とは無関係に別の作用があった。
喀血は魔理沙に、滅びを怖れさせたのである。そのために彼女は、輝夜の優雅な美貌から、尽きない若さの呪いを感応した。
魔理沙は学問としての長命に興味があった。
それが反転した。輝夜の美貌に、生命としての長命を関心させられたのである。
魔理沙は睨むように輝夜を眺めかえしていた。
「どうして見つめるの」
「おまえじゃない、見ているのは肝さ」
「ああ……駄目よ」
と輝夜は忠告したけれども、気迫はなかった。
それでも不老不死が欲しいなら、別に止めません
その意思が裏にあると思われた。
その無関心は、ふたりのあいだに友情がないためである。
「分かってる」
「肝に不老不死の薬が貯まるって本当かしら」
「自分の体じゃないか」
「肝の中なんて調べないから」
その自分の体への無責任を見くびりながら、同時に魔理沙は腑に落ちるような気がした。彼女も自分の体に無知であった。
輝夜に比して、病身を加味すると、その無知の深刻を招くところと謂い、なぜ彼女を見くびれるだろう。
永琳は近ごろ 「よくなっている」 と癖のように言った。
しかし一向に実感はない。
今日なんて血を吐いた。と魔理沙は今に疑った …… 「それだけではない。森を出てから、わたしの力は着実に減っているのだ。その“よくなっている”の、なんと慰めにならないことだろう。
……先生は嘘を言っているんじゃないだろうか。わたしを不安定にしないように」 と心中で疑惑の種が芽ぶいていた。
魔理沙は膝の上でまくられている、血まみれの布団を凝視した。その液体が養分になって、疑惑を育てるのである。
茎は伸ばされて、画策の花を咲かせたのだろう。魔理沙は不道徳を輝夜に持ちかけていた。
「わたしのカルテを取ってきてほしい」
「どうして」
「おまえとちがって、自分のことを知りたいんだ」
「永琳の物を盗めと言うの」
輝夜の瞳にわずかの敵意がひらめいた。尤もそれは想定された。
魔理沙は落ちついて、彼女を教唆しようと構えていた。
しかし、その敵意は魔理沙を向いていなかった。輝夜は別の標的を捉えたのである。
「駄目だよなーーー
「それって、たのしそう。すぐに見つけだすから待っていて」 と子供のように輝夜がはしゃいだ。
「えっ……どうも」 魔理沙の声は予期しない結果のために、急に不道徳の呪縛から放たれたので、ふがいなかった。
「えっ……じゃないのよ。どうして」
「おまえが了承するとは思わなかったんだよ」
「だから、どうして」
「おまえは先生が大切じゃないのか」
「大切に決まってるじゃない。だから」
「だから……」
「すこしは悪戯もかまわないのよ。信頼しあっているんだから」
輝夜は止める暇もなく、ぱたぱたと室を出ていった。
おかしなことになった。と魔理沙は後悔した。
不意に桜枝が気になった。鼻を近づけると、まだ春の匂わしさが、残っているように思われた。
輝夜は 「信頼しあっているんだから」 と言う。その確信した語気が、魔理沙をさらにふがいなくした。
五
十分ほどで戻った輝夜はそわそわとしていた。
魔理沙はカルテを受けとると、すぐに降参していた。
カルテの一文……。
××××××××××××
××××××××××××××
××××××××
××××××××××
門外漢の文字は、容易に彼女を萎えさせた。
月の文字なのだろう。永琳の周到は、魔理沙に舌を巻かせた。
「おまえたちは漢文か何かを使うんじゃないのか」
「漢文より古い文字よ」
輝夜はどこか誇らしそうに言った。
まだ解決はある。と魔理沙は諦めなかった。
すべてが月の文字で書かれたカルテを、揚々と持ってきたのだから、輝夜はそれが読めるはずである。
「なんて書いてある」
「療治のことなんて分からないわ」
「よくなっているとか、なっていないとかは書いてないか」
輝夜はカルテを読んでいった。
「うん……うん……患者、寿命ノ回復ニ希望アリとある」
輝夜のきてれつな性格を見ていたので、魔理沙は簡単に信じられない。
輝夜に嘘を言う理由はなかったけれども、嘘を言わない理由もなかった。信頼している永琳から、彼女は平気でカルテを盗んできたのである。
老獪に嘘を吐くのかもしれない。と魔理沙は疑った。
「本当か」
「疑ってるの」
「いや……」
読んでもらっているうちに、輝夜の機嫌はそこねられない。
「あなたは読めないんだから、私の言うことを無条件で信じなさい」
輝夜は見すかすように言った。袖の向こうに口を隠した。ホホホホと笑った。
結局のところ魔理沙はカルテを読めないために、輝夜の口に検問された言葉を信じるしかない。
「分かったよ。ほかに何かないのか」
魔理沙は催促した。
また輝夜は読んでいった。しかし、それを唐突に已めた。魔理沙とカルテを何度も見くらべていた。
「どうした。なんで黙るんだ」
「よくないことが書いてあるわ」
「どれくらいだ」
「あなたが失望するくらい」
輝夜は声に、いたわりを乗せていたけれども、それが皮肉にも魔理沙の内で、警笛を鳴りひびかせた。
「ねえ、永琳を呪わないでちょうだい。これを隠していたのはやさしさなのよ。でも私はやさしくないわ。あなたの友達でもないわ。これを話しても平気でいられるわ」
「何を急に弁解しているんだ」
「本当に聞きたいのかしら」 と輝夜はしぶった。
「そこまで言われて、聞きたくならないやつは鈍感だよ」
「身体機能ノ回復ニ希望ナシ。悪化ノ可能性ハナハダ高シ。チカヂカ失明ノ恐レアリと書いてある」
輝夜の予言どおり、魔理沙はひどく失望した。
視覚は生活の必需品と一般であるから。不具の中でも、特に怖れられるたぐいである。
矛さきのない、雷光のような感情が、体をつらぬいた。
自立心の強いーーー魔理沙は魔法のために自立を迫られたーーーために、彼女は余分につらぬかれる。
おまえは自立を失うのだ
と病の魔物が囁いた。近いうちに、高わらいをするのだろう。
「寿命と健康はやっぱり別だ」
「あなたは今、死にたがっている。それがひしひしと伝わってくる」
「思うことは誰にでもある。でも実際に死ぬやつはいない……ほとんど」
「死にたくなるってどんな感じかしら」
「おまえは死にたいと思ったことがないのか」
「ないのよ。死にたくないの、生きるのがたのしいの。いつでも」
輝夜は落ちこんでいる魔理沙のまえで、配慮のかけらもなく言ってのけた。
「なるほど、たしかに……平気でいられるな」
「ホホホホ……」
「どうしたらいいだろう」
「私の知ったことじゃないわ」
「……おまえ、きらいだ」
吐きそうだ。と魔理沙は思った。
魔理沙はうなだれれると、うめいた。癖の強い、金の髪が、汚れた布団に垂れさがった。
日を浴びていないために、色の抜けてきた首の色を、輝夜は見た。そこから苦悩がしみだしていた。
そのさまを輝夜は、美術品を眺めるようにじろじろと眺めた。いつも退屈しているだけに、彼女は嬉戯として苦痛のすべてを飲みこめた。
魔理沙のくるしんでいるさまは、輝夜の好奇心の材料であった。
……霊夢と魔理沙の関係が、ほかの材料として、ゆっくりと鎌首をもたげてきた。
ふたりの不仲を、風の噂で聞いていた輝夜は、その情交をさぐりたくなったのである。
「目が見えなくなったら、霊夢に助けてもらいなさい」
「そんなことはできない」
輝夜は二人のあいだに、ずけずけと足を踏みいれた。
魔理沙の心傷は深すぎるために、その足をしりぞけられなかった。足が踏みこんできたことにさえ、気がつかなかったのかもしれない。
輝夜は容易に、魔理沙から言葉を引きだせた。
「どうして。会いたくないの」
「会いたいよ」
「なら会いなさいよ」
「会おうとしたよ。でも怖ろしいんだ」
「何が怖ろしいの」
「霊夢が変わってしまうのが怖ろしい」
「あなたは臆病なんだな……好きあっていたら、一刻でも一緒にいたいと思うのが、普通じゃないかしら」
まだ詰問を続けるのなら、魔理沙は心の隅に追いつめられて、ついには泣いてしまうだろう。
「会って、言いたいこともないの」
わたしのところへ来てほしい、初恋をふたたび、やりなおすために
「それは……ある」
「それを言うのよ」
「非人と言うのは……簡単なんだな……中身が……本当に」
ぎりぎりの意地で、魔理沙は当てこすりを返したけれども、輝夜は平気で続けられた。
「本当に大切な人なら言うべきよ。それも本音を言ってみせるの。何がなんでも霊夢にあなたを愛させるのよ。そうして……」 輝夜は真に迫って 「愛していると言わせるのよ、何度でも」
「愛していると言わせる!?」
そこで後手々々の魔理沙は、窮地から救われた。
その言葉の霊夢と明瞭に釣りあわないところと謂い、安っぽさと謂い、魔理沙は即座にしらけてしまった。
魔理沙はようやく、輝夜の土足に気がついた。彼女のほうでも、それと感じた。
ふたりのあいだを別種の緊張が支配した。
ふたりはついに敵対した。互いの目線は、にらみを効かせて、火花がばちばちと衝突した。
「ふん、外来的の観念だ。霊夢にふさわしくない」
「あなたは霊夢に“愛している”と言われたいはずよ。それが認められないのは、臆病だからです」
「何が分かるんだ。幾百年も生きているからって、他者を自分の器で推量するな。長命種のその癖が、わたしは本当に傲慢できらいだ」
「よいですか」 のぼせてくると、むしろ丁寧になるのが、輝夜の癖であった 「あなたは霊夢に愛されていると知っている。どうして彼女を他者に取られる恐怖であせらずに構えていられるのか……それは彼女が自分のほかを愛さないと確信しているからです。それが臆病の上に胡座を組ませているのです」
「黙ってくれ」
「かく語られるような、超人的の娘に愛されて、あなたはほかに何を望みますか」
口論は際限がなかった。しかし、とわに熱情は引きとめられない。怒りに満ち々ちていた魔理沙はそのうち、争いながらもゆっくりと、輝夜を俯瞰する位置に浮きあがった。
わたしたちに拘るのはどうしてだろう。と魔理沙は考えた。
しかし考えるまでもなかった。輝夜はそれを、聞くまでもなく、言葉にしてくれたのである。
口論が限界まで煮つまったとき、輝夜の内の“底しれないもの”が、龍火のように吹きあれた。
「笑うかもしれませんけれども、愛や恋と呼ばれることを、私は重んじているのです。それを子供っぽいと、稚拙な感情とかろんじないで、誰かをくるしませるとしても、他者の愛や恋を材料にしても、真剣に解剖して、本当のところを知りたいのです。
あなたには、和の歌が分からないでしょう。いにしえの者たちの感情が、すこしも分からないでしょう。人間に非人が分からないように、非人にも人間が分からないのと同じです。
……ごめんなさい。私の考えかたは、いにしえの時代の考えかたで、今の時代に合ってはいません。それは認めます。
しかし現実的の考えよりも、愛や恋と呼ばれる神秘的の考えが、あなたに力を与えると、認めずにはいられないはずです。
なぜなら霊夢を“愛している”ことが、今のあなたを支えている……」
「帰ってくれ」
「……」
「出ろ!」
「……分かった。帰るわ」
口論はそれで終わった。
輝夜は優雅に頭をさげると、足早に室を出ていった。ぐしぐしと、瞳のあたりを、袖で拭いていた。それが見えた。
……。
「えっ、えっ」
と魔理沙は急におどろいた。
頬が熱いと思って、そこに触れてみると、自分も涙を流していた。
魔理沙の涙は止まらなかった。気がついてしまうと、ひどくなった。
取りつくろってきた寿命の不安、我慢していた入院の鬱屈、まだ実現していない失明の恐怖、口論で何も返せていない図星のくやしさが、破竹の勢いで涙腺に押しよせてきた。
さいわいにも医家たちがいないので、ふたりは互いにちがう場所で、誰の目もはばからず、子供のように気が済むまで泣いた。
六
目を覚ますと暗いので、まだ夜だと思った。しかし半月のころにしては暗すぎた。つめたい光は感じられない。代わりに肌を触れるのは、秋朝の肌ざむさであった。
「見えない」 と呟いた。
すぐに誰も呼ばなかった。ゆっくりと諦念を噛みしめていた。
魔理沙はよたよたと窓まで歩いた。ひたいが窓にぶっつかった。窓を開けると、草を掻くような、笹葉が風にたわむれる音が聞こえた。
置きざりにされた一羽の燕が、魔理沙を見つめていたけれども、彼女はそれを知らなかった。
目を普通にとじるとき、瞼の裏でちらついている、蛍のような残光さえもすでにない。
めくらはそうなのか。と魔理沙は学んだ。
暗闇がそれを教えてくれた。
永琳を呼ぶと、すぐに診察してくれた。
「目の神経が死んでいるわ」
永琳の診断は、分かりきっているだけに、なんの慰めにもならなかった。
「知っていたよ」
と魔理沙は嘯くように言った。
永琳は眉をひそめた。その表情は、魔理沙にすこしも伝わらなかった。
「わたしは知っていた」 魔理沙の唇が、アイロニーを浮かべて 「ここの姫さまにカルテを盗ませた」
魔理沙は素直に白状した。
永琳は瞼をしばたたいたけれども、間もなく呆れたように言った。
「いつだったか、カルテの位置が動いている気がしたけど……」
「輝夜はたのしそうだった」
「あの子は、そうなのよ」
「よく友情が成りたつな」
「別に無条件の友情じゃありません。あの子には三回くらい死んでもらいます」
「わたしはどうなんだ」
「盗んだ輝夜の責任です。それから患者に信頼されなかった私の責任です」
魔理沙が咳をした。血も吐いた。近ごろは咳のたびに血が流れた。血を受けとめた掌は反射的の動きと、その温かさに慣れきっていた。
永琳は掌を拭いてくれた。
「寿命は延びても、健康が失われるばかりなんて……」
「入院した時期がよかった。しなければさらにひどくなっていたわ」
「どう言うんだ」
「喉に血を詰まらせて、死んでいたかも」
魔理沙は失笑した。
それでよかったのかもしれない。と魔理沙は思った。
その自嘲がありありと顔に出たので、永琳は 「自棄になるんじゃありません」 とたしなめた。
「なら健康にしてくれ。目を開けさせてくれ。先生の顔を見させてくれ。いとおしい人の顔も見させてくれ。
寿命が延びたとしてもだよ。わたしは最後まで動けるのか、耳は聞こえるのか、箸は持てるのか、味はするのか」
梃子のこわれた天秤のように、不安定な感情が、魔理沙の内部を蹂躙してしまうと、今度は永琳を標的に定める。それは容易に、化学反応を起こして、興奮に変わった。
「落ちついて。あなたは恐怖でおかしくなっている」
「急に失明したらヘンになろうさ。それより聞いたことに答えてくれ」
「まだ分からないとしか言えません」
「今度は隠さないでくれ」
「知ってどうしますか」
「どうしますかじゃない。なんで黙っていた。なんで教えようとしなかった。それを知らなかったとしたら、わたしの損がどれだけ大きくなったと思っているんだ。それを事前に知っていたから、おかしくならずに、話すくらいはできるんじゃないか。
結構だ。もう、結構……独りにしてくれ。わたしを、しばらく、独りに、してくれ!」
永琳を室から追いだした。しかし望みどおりになったと謂うのに、襲ってくるのは、頭を壁にぶっつけたくなるほどの、みじめであった。
わたしは滑稽なやつだ。と魔理沙は後悔した。心中で永琳に謝った。
悔恨は時間が経つと、静まった。
それにしても、暗い。
ただ失明のために暗いのか、まどろみが視界をせばめているのか、区別ができない。冥府の空も、これほど暗くはないだろう。
怖ろしいまでの、人肌への恋しさ……死者は、寒くてたまらないと聞いたことがある。いつでも。
……。
日が昇って、日が沈む。
楓が夕日の色に見そめられた。
あきづ羽は仲秋をはこんでくる。
壁にすがりながら、あるとき箒を手にすると、力を使うまでもなく、飛べなくなっていると分かった。
魔法は死んだのだ。と魔理沙は知った。
それは魔理沙の人生の死である。
本が要らなくなったので、魔理沙は鈴仙に送りかえしてもらった。
病がくすくすと笑いながら、葬儀の手つづきを、機械的の動きでおこなっている……。
七
霊夢が飛んでいた。その顔を横から眺めているときに、魔理沙は夢だと気がついた。なぜなら彼女はめくらであった。すでに飛べもしなかった。
不意に空を仰いでみると、天のやわ肌に黄色の月が、ほくろのようにくっついていた。
魔理沙が止まると 「どうしたの」 と霊夢が宙空で振りかえって、微笑した。十六歳のころと、彼女は何も変わっていない。
魔理沙は思った 「わたしは現実で、この夢のさきを、知らなければならないのに……手をこまねいているうちに、めくらの枷をはめられたよ。早いうちに、おまえと会うほどの勇気があればよかったのに。
おまえは文をくれた。おまえは本当に一途なやつだ。しかし、わたしも一途だった。
もうすぐ離れて三年になろうとしているけれども、おまえのことを考えない日は一度もなかった」 ……。
魔理沙が黙っているので、霊夢はまた 「どうしたの」 と声をかけた。
「おまえの顔を見ている」
「どうして」
「本当なら見えないんだからしかたがない」
「あんた夜目が鈍かったかしら」
「そうだよ。暗い、とても暗いんだ」
「それなら近づけばいいじゃない。ほら、そこに。わたしの顔があんたの瞳にいるじゃないの」
霊夢は急に、鼻が触れそうなくらい、ずいっと顔を寄せてきた。
魔理沙は黒々とした瞳を直視した。その視線は生糸のように細かった。すべての警戒の網を通りすぎて、簡単に彼女を氷解させた。心臓がわずかに早くなった。それが適度で快かった。
「いた」
「いるに決まってるじゃない」
二人は笑った。
神社に帰ると、二人は満開の桜の下で、酒を飲みはじめた。酒のみなもに映った月は、飲んでも々んでもなくならなかった。
二人は月を飲みほすために、酒を注ぎあった。その無限の児戯が、頭を酔わせた。
この絵画の世界を思わせる、満開の第一夜……。
さきに霊夢は目を回した。桜の木の根にもたれながら、草のしとねに足をあずけて、眠たそうにまばたきをしながら、うつらと盃を手で遊びはじめた。
「おい、外で眠るんじゃないだろうな」
「ンー」
「ンーじゃない」
「起こして、ちょうだい、体を。座らせて、ちょうだい、わたしを……」
魔理沙にゆらゆらと手が差しだされた。鶴の首のように、なよやかな腕が、魔理沙の指に触れようとしていた。手は触れるまえに、蝶のようにひらひらと揺れて、触れられるのを待ちわびている。
なんの規則も感じられない、踊るような腕の動きが、魔理沙に過去をよみがえらせた。
これは過去の復習なのだ。と魔理沙は気がついた。
…… 「この手を取ったから、わたしたちの関係は変わってしまった。それを承知しているのに、また触れてしまいたい。きれいな手だ。しかし魔性の手だ。明晰夢になってまで、この手はわたしに、誤ちを望むのか」 ……。
魔理沙は、望むようになった。その手はすべての忍耐を乱暴に蹴ちらしてきた。彼女は過去と同じように、虫を絡めとるような、魔手の罠へ飛びこんでいた。
魔理沙の手が触れたとき、勢いよく霊夢の腕は、彼女の手首を掴みとった。
霊夢は強く手を引いて、魔理沙の顔を目のまえに倒した。
「危ないじゃないか」
「ンー」
「酔っているだろう」
「酔っているだろうですって。けらけら」
霊夢の酔いはおかしかった。べたべたと魔理沙に触れてきた。その触れかたは、つやめきながらも、子供がじゃれているように、一線だけは踏みこえなかった。
魔理沙は困惑した。
しかし 「けらけら」 が伝染したのかもしれない。その熱病は魔理沙を酔わせて“底しれないもの”を熟成させた。至純至純の感情が、外部へ持ちだされて、二人をそこに結めあわせる。
二人は、しびれた。
魔理沙は手に触れる、肩に触れる、髪に触れる、唇に触れる……霊夢の。
それが無条件で受けいれられた。
受けいれられたのだから、受けいれかえすことは、当然のように思われた。魔理沙も近づいてくる、霊夢の唇を受けいれようと、目をとじた。
……。
しかし互いの唇が、わずかに端へ触れそうなとき、魔理沙は飛びのいていた。
何か“或ることであり、すさまじいこと”が、魔理沙にはたらきかけて、目を覚まさせた。
それは張りつめた糸の切断によく似ていた。そうして切れた糸は勢いのあまり、跳ねかえって、二人の恋情を痛々しくも、祟りつづけることになる。
飛びのいたとき、魔理沙の腕に盃が当たって、すべての中身がこぼれおちた。中身は二人の底しれないものと思われた。
それはこぼれて、自覚させられた。
これが人生の明暗なのだ。と魔理沙は悟った。
…… 「人生には、あかるいところと暗いところを分ける境界がある。そこで敗れると病を患い、病根を根絶しなければ、二度と立ちなおれないのだろう。
おまえは友達だった。恋の対象ではないはずだった。しかし、どこか納得できた。おまえよりも、わたしに近いやつはいなかったのだから。
わたしは霊夢に恋をしている!
それを認めなければ、病根は絶対に根絶できない」 ……。
それから神社を飛びさったことが、明瞭に思いだされてきた。
ただの夢でしかないけれども、魔理沙は誤ちを正そうとした。
霊夢の肩を、両手で強く押さえつけると、魔理沙は顔を近くに寄せた。
二人は、見つめあっていた。
霊夢のうるし色の瞳は、おどろきをひらめかせていたけれども、次第にゆっくりと静まった。
降るような星を包んでいる、本当の暗色がそこに定着していると思われた。
魔理沙はそこに、至純至情の感情をいつも捉えた。
霊と万葉
それは示され、形容される。
「あのとき自分の想いに気づいてしまったんだもの」 霊夢は告白した 「しかたがないわ。抵抗できないわ……わたしは抵抗しないわ。気がついたのなら、行きつくところまで行くしかない。何があっても」
「わたしたちは友達でしかなかったんだよ」
「友達でなくなるしかないわ」
「そう簡単に……」
「そう簡単よ。少なくともあんたは取りつくろわずに、また接吻しようとしてくれたわ。わたしは……うれしかった」
「夢のおまえはよろこぶことを言ってくれるのか。本当のおまえもそう言ってくれるのか」
「何を言っているの。夢はあんたじゃない」
「えっ」
「えっ」
何かおかしいぞ。と魔理沙は思った。
夢の主導権。
それはどこにあるのだろう。
……。
突如として、硝子を砕くように、背景に亀裂が走った。
その亀裂が二人を引きさいた。
それから桜の花びらの渦が、すべてを隠して、互いの声も聞こえない。
魔理沙は別にかまわなかった。今度は目が覚めたあとに、会えればよいのだから。
「おまえ、わたしに愛していると言えるかい」
魔理沙は夢がとじるまえに、呟いていた。
八
夢が繋がっていたのだ。と魔理沙は思った。
別に珍しくもない現象であるけれども、偶然にもそれが、二人のたもとを結めたのである。
魔理沙は目が覚めたとき、秋朝の日ざしの絶妙なぬくもりが、久々にうれしかった。
「会わないと」 と魔理沙は言った。
その過去が夢を背景にして、途中まで完璧な能楽のように演じられていたのは、因果なのかもしれない。しかし最後には即興が勝って、台本が負けた。
魔理沙は病根を根絶したのである。
臆病の風は、急に勢いを弱くした。
「今日は機嫌がいいじゃない」
薬の時間に来た鈴仙は、魔理沙の変化を感じとった。
「分かるのか」
「波長を見るかぎりそうよ」
「安定した波長なんだろうな」
「ちがうわ。そう謂う波長は跳ねっかえる動きよ。兎の跳躍と似ているのよ」
薬を飲んだあと、談笑もほどほどに、魔理沙は言った。
「ここを出るよ」
ふたりのあいだに沈黙が交錯した。
沈黙が鉛のように重くならなかったのは、鈴仙が波長から察したのかもしれない。一夜にして魔理沙の波長は以前のように、彗星の勢いを取りもどしていた。それはじっとしていられるような、陰気な波長では絶対になかった。
「そう。しかたがないわ」
「あっさりと受けいれてくれるんだな」
「受けいれなかったらあんたは出ないの」
「いや、出るよ」
「なら私の了承なんて関係ないのよ」
「しかし長いこと世話をしてもらったのに、勝手に出るなんてせつないぞ」
「まったく。せつなくなんてないわ。あんたの世話の面倒がなくなってうれしいくらい」
鈴仙は驕ってみせた。魔理沙は苦笑するしかなかった。
……。
事情は鈴仙の口から永琳に届いた。
魔理沙の専医的の立場にある永琳が、それを知るのは権利と義務であった。
そこには別の義務が追従した。無謀に退院しようとする無知な患者を、永琳は説得しなければならなかった。
ふたりは夜になると、蝋燭の灯りに対話の場を立てた。
先日の口論が、ふたりの些細な因縁であった。魔理沙は退院するまえに、それを解消したかったのである。
「わたしによくなっていると嘘を言って、失明を黙っていたのは……不安にさせたく、なかったからだ」
「それもあります。しかし本当のところは、あなたが自棄になって、どこかに消えるのを避けたかったのです」
「目が見えるうちなら、どこへでも行けるから」
「そうです……」
それから永琳は説得した。
「あなたの病は森に由来しています。それは魔の力に刺激されると活性するのです。それでも退院すれば、あなたは魔法を使おうと、多大な錯誤をするでしょう。私はそれを認められません」
「先生が延ばしてくれた寿命は、無駄にしてしまうだろうな」
言葉の戦争。
永琳はそれを予感した。説得は長くなると思われた。
「先生、あのときは本当にごめんなさい。わたしは先生に謝ります。頭をさげます。先生の治療に礼を言います。
先生の治療は無駄にしてしまいます。しかし、もう病は治りました。
わたしは体よりも心に病根がありました。それを治すことができたのです」
と魔理沙は急に頭をさげた。それが永琳には、伏兵であった。
言葉の戦争に身がまえていた永琳は、そこで鼻をくじいたと一般であった。
魔理沙の謝意は、さかしかった。
それには永琳を懐柔する作用があった。魔理沙はそれを知っていた。
矛盾するようであるけれども、魔理沙は画策とまことの謝意を両立した。それは互いに乗法して、倍の威力になり、永琳をつかまえた。
「心の病ですか。それは門外漢ね。どうして……」
永琳は悩んだ。それから聞いた。
「ここを出たらどうしますか」
「霊夢のところへ戻るよ」
「戻るところがあるの」
「うん」
「そう……なら、もう……しかたがないわね」
「先生、惑病は同源って信じるか」
「そんなの論理的じゃないわ。でも心が治ると、多少なりとも体がよくなるのは、事実でしょうね」
それから話しあったすえに、治療のない今後を考えて、冬までは体調を整えてから、退院することにまとまった。永琳は完璧主義者であったけれども、患者が本当に望むなら、退院を譲歩できるくらいには柔軟であった。
九
底びえの冬が来た。変化の乏しい竹林に白がたされ、兎たちはその色に同化して、誰の目にもつかなくなった。
命の季節が終わって、すべての死の予感として、その季節は現れるけれども、それは同時に、再生への予感でもあった。
寒さが来たるとき、いとおしい人が傍へいてほしい。いなければ積雪の重みに耐えられはしない。誰でも。
魔理沙は以前とくらべて、厚くなった布団に納まりながら、鈴仙に言った。
「さあ、書こうか」
退院日の朝に文を書くと決めていた魔理沙は、目が見えないために、鈴仙に代筆をしてくれるように、約束を取りつけていた。
「なんだか緊張してきた」
「何も緊張することはないよ。言葉どおりに書いてほしいだけなんだから」
「私にあんたの想いは乗せられないかもしれない。字に……人間の想いなんて分からないから」
代筆を気軽に受けおっていた鈴仙は、それまで感じたこともない緊張のために土壇場でひるんだ。他者の意志を伝達する、電波塔としての立場を彼女は知らなかった。
魔理沙の言葉も、自分を媒介にしては無味になってしまうのかもしれないと、鈴仙は恐れていたのである。結局のところ、書写でもないのだから、字は々でしかないけれども、その想像は彼女の手を止めるには充分すぎていた。
「おまえと離れてもう三年にーーー
「えっ、えっ。急に話さないで!」
「勢いで書けば、緊張する暇もないさ」
「乱暴なんだから」
魔理沙は乱暴であったけれども、延々とまごついているよりは、よいと思われた。
鈴仙は腹を決め、深呼吸をして、それが穏やかになると、魔理沙はゆっくりと語った。
霊夢と離れてもう三年になろうとしている。それが無駄とは思わない。わたしには必要な時間だったと信じている
何も解決がひらめかないとき、座禅のように、ひとつところで考える時間が、わたしのような者でも、ときには大切なのだ
そうして待つんだ。それから待ちわびるようになったとき、本当の夢が見えてきた
しかし、これ以上は必要ない。おまえが横にいないと退屈だ。秋ごろ夢に、それを認めさせられたのだから
ところで“わたしの傍に帰ってくる”と霊夢は文で予言した。それは珍しくも、おまえの勘のはずれになっている
わたしは弱っているために、霊夢のところに帰れなくなってしまっている。目が見えなくなって、飛べなくなって、魔法もほとんど使えなくなって、数年で死んでしまう体になった
霊夢。わたしといられるか。それを許容できるか。できるなら……
「わたしのところへ来てほしい、初恋をふたたび、やりなおすために」
そう文を締めると、鈴仙の 「えっ、えっ」 とたじろいでいる声が、魔理沙の耳にはいってきた。
「うわ、うわ……」 と鈴仙はさらにたじろいだ。
「どうした」
「何か……瞳から、私の狂気の瞳から、流れてる。涙なのに、涙と一緒に、涙とちがうこと」
文を語られているときほど、誰かの波長を初春のようにやわらかで、星のようにせつないと思ったことはないだろう。
それが鈴仙をたじろがせた。彼女の感覚器は、まだ見たことのない恋情を知恵ではなく、六感だけで知ったのかもしれない。
鈴仙の瞳から、涙と別に、底しれないものが、溢れた。
「これだ、これだ。あんたは言ってた。霊と万葉。これが、そうよ」
鈴仙は泣きわらっていた。しかし同時に、憐憫の詩を書いているような、有情のあわれが浮かんでいた。
彼女は一人で納得すると、手紙を封筒に納めてから、暴風のように室を跳びだしていった。
魔理沙は呆然とした。それから、くすくすと、笑った。
証しされたのだ。と魔理沙は思った。
霊と万葉……至純至上の感情……底しれないこと……或ることであり、すさまじいこと……
万珠の形容があり、言葉は選ばないのだろう。
それは他者の内に在ることであり、そのために思いどおりにならないことであり、それゆえに求めることであり、そのうえで他者がわたしの内に発見してくれることであり、そのときに私も他者から得られることである。
いかに無知であろうと、いかに愚かであろうと、人間と非人の区別なしに、底しれないものとして、ときには泉のように溢れだし、それでも絶対に尽きはしない。
文を届けると、鈴仙はすぐに戻ってきた。肝心の霊夢が昼になってもこないので、魔理沙は眠ることにした。
……。
夜になった。
不意に音が聞こえて、目が覚める。
雪と、笹葉と、月の光をざくざくと踏みしめていた。その足音は、まだ遠くであったけれども、目が見えなくなってからの魔理沙は、耳が異様に敏感であった。
間もなく窓の外でそれは止まった。
魔理沙は窓にあゆみよった。そうして窓を開けた。
「遅れちゃった。見まいの品が欲しかったから、天まで行っていたのよ」
霊夢は甘い、桃の香りを漂わせていたので、桃を略奪してきたと明白であった。
自由奔放
その熟語が霊夢のかたちを借りて、現れているように思われた。
霊夢は今でもこう言うやつなのだ。と魔理沙は思った。
何も変わっていない霊夢を祝福した。それが緊張を溶かしてくれるので、魔理沙は遠慮も敵ではなかった。彼女も気楽に言ってみせた。
「要らないよ。すぐに会いに来たらよかったのに」
「すぐに会いたかったの」
「どうかな」
「なら手紙に書いたらよかったのに。すぐに会いたいって。ねえ、桃を食べない。重いわ」
「腹が減らなくてな」
「そう。痩せたわ、あんた」
霊夢はせっかくの桃を、必要ないと思うが早いか、ぽいぽいと竹林にほうりなげた。そうして急に魔理沙を引っぱると、彼女が病身と知っていながら、窓の外へ乱暴に連れだした。外はあまりに寒かった。
魔理沙は霊夢が、望むようにした。
霊夢は背中に魔理沙を乗せた。
「わたしの、重い、女……」
霊夢はぼそぼそと呟いた。魔理沙は消えてしまいそうな声に、すべての生命を消費するような決意を見た。それは闇の奥から、岩塊のように彼女へ落とされた。
それは“或ることであり、すさまじいこと”であった。
魔理沙は、ぞっとした。
合図もなしに、浮遊感をおぼえると、もう飛ばれていた。骨身にしみる、土の空気とはちがって、さらに寒くなったとしても、さわやかに思えるほどの寒風が、二人を導いた。
その寒風が弱まるとき、密着しているためなのか、霊夢の鼓動が聞こえてきた。
雪に吸収されてゆく、子供たちの声のように、とても音は小さかった。
心の弱い……。
十
霊夢は神社に辿りつくと魔理沙を炬燵に押しこんだ。
「寒い、々い」 霊夢は呟いた。
その呟きはいそいだ足音と一緒に遠のいた。その方角は魔理沙の予想するところ、神社の倉と思われた。
霊夢が戻ってくると何かを注ぐような音がした。
酒の匂いもした。霊夢は酒瓶を取ってきたのである。
「飲みなよ」
魔理沙の鼻さきで酒が香った。
「わたしは病人だぞ」
「そう。ないわね」
「何が」
「今の言葉に、飲まない理由はひとつもなかった」
魔理沙は苦笑した。暴力的の理屈であるけれども、退院に伴って、人生に凝縮を余儀なくされた彼女は、酒を断つほどのわけがなかった。
すでに人生は長さよりも、充実の幅を求めるのである。
酒のかぐわしさに手を引かれて、魔理沙は盃を受けとると一気に呷ったーーー呷った途端に喉が焼けるように錯覚した。それから、むせかえった。
「けらけら、けらけら」
「酒ってこんな味だったかな」
「どんな味がするの」
「ただの苦い水だ」
鼻にくらべて、病人の飯に慣れた舌は、もう味覚が変わっていた。
霊夢はむせたときに、口の周りへついた酒を、巫女装束の袖で拭いてくれていた。
わたしの、重い、女
献身的の働きが、魔理沙の脳裏で、その言葉を圧迫感と一緒によみがえらせた。めくらになって自立を失った彼女は、言葉の意図は別にしても、まさしく重いにちがいなかった。
「わたしはおまえと暮らしたいと思っている」
「思うも何も、一人じゃ何もできないから、死んでしまうじゃない。困るわ、そんなの。だから……暮らしなさいよ、いくらでも」
「わたしはめくらだよ。迷惑で厄介とは思わないのか」
「そう思うこともあるでしょうね」
「それを許容できるか」
「できる」
その手紙にも書いた警告を、霊夢は即答で押しのけた。その平然さは、魔理沙に迷惑で厄介な自分が、受けいれられていると分からせた。
「そうか。そう言うなら遠慮なくたよりにするよ。迷惑になるよ。厄介になるよ。おまえの肩に寄りかかるよ。死んでしまうまで」
霊夢の即答は養われることへの忌避と、魔理沙の遠慮を氷解させて、へつらいの意思も自立への意地も叩きこわした。
魔理沙は素直に礼を言えた。
「わたしも寄りかかるのよ」
霊夢はごそごそと炬燵から動いた。そうして本当に魔理沙のとなりで、肩に寄りかかってみせた。こごえる者たちがそうするように、寄りそいながら、二人の片手は、炬燵の中でつながった。
ゆたかな髪が、魔理沙の頬をくすぐった。その髪からは、まだ冬を乗りこえるために、花をひそめているはずの、椿のあぶらの香りがした。
化粧をしている。と魔理沙は分かった。
気がつかれないように、鼻で息をすると、おしろいの匂いもした。
魔理沙の目も見えないのに、霊夢はそれを怠けなかったのである。
その椿のあぶらも、おしろいも、霊夢の匂いたつような、女の部分を示しているように思われて、魔理沙はときめいた。
「迷惑でも厄介でも文句はないのよ。でも誤解しては駄目よ。わたしは……あんたに無償で奉仕できるように……できてない。あんたに代償を払わせるのよ。沢山、々々」
「おまえのがめついところはよく知っているよ。」
「よかった」
二人はそこで、示しあわせたように静寂した。
しばらくは黙っていた。
月光が雲にかげるとき、肺の凍るような、さらに深い静寂が訪れると思われた。すうすうと息づかいが、となりの襖から聞こえてきた。
魔理沙は聞いた。
「おまえは“手つだって”と言った、一人では無理なのか」
「無理じゃないのよ。一人に教えられるより、二人に教えられるほうが単純にすばらしいじゃない。そうでしょう」
魔理沙は思考した 「わたしが魔法を学んできたことも、患ったことも終局には、おまえのためのできごとなのかもしれない。おまえは奸計を弄さない。しかし、おまえは見えない者と見えない力に愛されている。
わたしは考えたことがある。幻想郷の神々は、霊夢が望むようにする」 ……。
魔理沙は言った。
「分かったよ。あの子に魔法を教えよう。それがおまえの“手つだって”なんだろう。そのために次の巫女を育てはじめたんだろう」
「うん」
「おまえは怖ろしいやつだな。そうすることで、わたしを逃げられなくしてしまった」
「……うん」
「かまわないよ。もう理由はないから。今は近いほうが嬉しい」
「うん」
その代償に魔理沙はこれから、霊夢の想いを吸う、海綿として暮らすのである。
十一
魔理沙が神社に住むうえで、次の巫女は念頭に置かれる。
その神社の住人を、かつての魔理沙は爆弾とたとえて、今の霊夢は代償とたとえた。
巫女はもう、霊夢が三年ほど一人で連れていた。
幼児のころから、霊夢の手にあったわけではない。三年前に紹介されたとき、本当に産まれたばかりなら、鬼子の体格と一般なので、それと分かった。
紹介……
謂ってしまえば、霊夢が“手つだって”と言ったとき、それを魔理沙が認めなかったとき、巫女は連れられていたのである。しかし巫女は、彼女を初対面と思っていた。
それを忘れて、闖入者の魔理沙を呑気に受けいれられるのは、霊夢の影響と思われた。
一度は巫女を拒否しているために、おぼえられていないことは、魔理沙を安心させた。それと知ると、確実に心傷を受けるために、巫女にも都合がよかったのかもしれない。
巫女はまだ使える魔法で指先ほどの炎を見せると、きゃいきゃいとよろこんで、近づいてくるくらいには危うかった。同時に魔理沙が頭を撫でるために手を伸ばすと、照れるくらいには成熟していた。
巫女は十歳くらいであった。
……。
退院してから二日、三日で鈴仙と会った。
「様子を見にきたよ」
そのわりに鈴仙は薬箱もないようなので、それを口実に遊びにきたと明白であった。
それが魔理沙には都合がよかった。
すぐに帰りたいと思われないように、鈴仙を炬燵に催促して、蜜柑を渡すと、魔理沙は聞いた。
「魔法とは他人にどう教えるべきだろう。まず他人に何かを教えるにはどうするべきだろう」
魔理沙は師事がないために、それを知りたかったのである。
「おまえは先生に教えられている。教えられているなら、教えることを体で知っているはずだ」
「教えられること、教えることはちがうのよ」
「しかし先生を近くで見ているじゃないか」
「見ていても、しているわけではないから。
本当に分からないのよ。私のように単純だと駄目ね。永琳さまの言うことを一から十まで、何も考えずに淡々と飲みこむだけなんだから」
「一から十まで一度に飲みこめるならそれだけで才覚だよ」
「そうかな」
「一から十を知ろうとしているのに、一から六までしか理解できないから、わたしのような魔女がいるのさ」
「まあ。謙虚なのね」
「殊勝なだけだよ」
「悩みを一人で解決しようとしないだけ殊勝ね」
蜜柑の皮を剥き々きに、鈴仙は実を食べながら、魔理沙の具合が気になっていた。遊びにきたのだとしても、それを心配してしまうところに、医家の自覚と友情があった。
雪が降っていた。それが恐ろしいまでの勢いで積もった。
鈴仙は神社で冬を乗りこえることが、魔理沙の困難になると思っていた。
神社に至るとき、非人の鈴仙でも今冬の一陣はこたえたので、病身の魔理沙を心配したけれども、じっさいに顔色を見ると、彼女は平気そうに見えた。
魔理沙は魔女装束を着こんでいた。その服が入院しているころの襦袢や褞袍より、彼女に精力的のつやを与えているのかもしれない。
その格好は魔理沙にぴったりと合致していた。
「本当に。病は気からってやつかな。馬鹿にできないわね」
「元気そうに見えるか」
「魂が元気なのね」
昨年の春ごろに語った理論が、鈴仙の口から飛びだしたので、魔理沙は意外に思った。
「その理屈を信じるのか」
「半分くらいは信じてもかまわないわ」
それから会話は当初の問答に戻った。しかし今度は鈴仙のほうにも問いたいことがあった。
好奇心が煮つまってきたとき、鈴仙は聞いた。
「どうして教えかたってやつを知りたいの」
魔理沙の唇が不敵に歪んだ。それが鈴仙に、いたずらっ子のような印象をいだかせた。
悪事を予告するように、魔理沙は言った。
「わたしは魔を譲渡するのさ」
「誰に」
「次の巫女」
鈴仙は目を丸くした。何も返してこないので、彼女の表情を想像しながら、魔理沙は蜜柑の粒を食べると言った。
「昼寝しているけど、会いたいなら呼ぼうか」
「いや……」
「フフフフ、フフ……巫女の御業と、魔も継承する、誰も見たことのない人物」 魔理沙は興奮した様子で続けた 「先生が冷仙にそうするように、わたしも誰かに受けつがせたい。まだ生きているうちに。それが魔女として、後世を繋ぐと言うことだ」
「あんたは、最高に……ロマンティックね」
鈴仙が途ぎれ々ぎれに口から漏らした言葉は、魔理沙を奇妙な気分にした。
ロマンティック(Romantic)
その英字が魔理沙におもはゆさを与えた。
鈴仙は説明した。
「だって……次の巫女は霊夢が育てたんだから、彼女の子であるわけでしょう。そうして魔理沙は、その子に魔法を教えたいんでしょう」
魔理沙は頷いた。
鈴仙はだんだんと興奮して、耳を天井に向かって、ぴんと立てた。
「ほら、ロマンよ!」
「声が大きい」
「ロマンよ。それに……大人よ」
と言うと鈴仙は、こっそりとかたわらに置いていた、渡すか々すまいか、悩んでいた物を持ちあげた。
じつのところ鈴仙は、様子を見にくるだけではなく、それを渡すために神社へ来たと謂っても過言ではない。
それが魔理沙に必要かどうか、測りかねていた鈴仙は、決心したように、彼女へそれを握らせた。
その感触に、魔理沙は愁いさえも感じた。
箒だ。と魔理沙は即座に悟っていた。
「置きわすれていたよ」
「もう飛べないから敢えて置きわすれていたんだよ」
魔理沙の言葉には、諦念が入りまじっていた。もう飛べもしない彼女にとって、その道具は近くにあるだけで、いたずらに心を痛めるのである。
それと知ると、鈴仙は鼓舞した。
「飛べもしないやつに、魔法なんて、教えられない。それは絶対に、必要になる。
大丈夫よ、あんたは飛べるわ。そうじゃない……なんと言うのか……飛ばなければならないわ。
文を書いたときに思ったの。ふたりの恋は、絶対に行きつくところまで、行くことができると。それが分かった。
私はあんたの世話をした。箒を握らせるくらいの権利は、あると思うわ」
鈴仙は無自覚に、魔理沙を圧倒するまでの語気で迫った。
鈴仙は文を書いたとき、涙と一緒に、至純至上の感情を見た。そうして次の巫女と言うのに、その感情が継承されることを、彼女は今に確信したのである。
魔理沙は 「誰も見たことのない人物」 と言った。鈴仙には、その人物の生誕を援助しようとする、医家の親切が表出しているのかもしれない。
鈴仙は講釈した。
「私は医家のはしくれとして、不老不死者の弟子として考えたことがあります。
生命と言うのは隕鉄や、龍骨や、水銀を体に入れなくとも、すでに不老を得ているのではないかと。
子供たちは親々の体の一部から成されている。しかし子供は産まれるとき、親の一部であったのに、若年として産まれてくるのです。
親は老いているのに……それは親々の一部がひとつになって、産まれなおしたと言えないだろうか。それが永遠に循環して、人間たちの不老のかたちを創造する」
「おまえは仏門なのか」
「茶化さないで。別に輪廻転生のことじゃないわ」
「まじめに聞いた」
鈴仙は咳をはらった。そうして続けた。
「ただ……ほかの無垢で無知な生命とちがうのは、人間たちに意思があること。いかに親々の一部でも、個々の意思が内部へ芽ばえるために、同一の人間は産まれられないのです。それで人間たちの不老のかたちは、中途半端に完成してしまった。
しかし……もしも、もしも親々が自分たちの意思や力を、等分に受けつがせることができたのなら……二人は死んでも、次の巫女の内に産まれなおす」
魔理沙は、気がついた。
そのとき霊夢が“手つだって”と言ったことの本当の意味が分かった。
霊夢は完璧な和合を求めているのだ。と魔理沙は悟った。
それが霊夢の“或ることであり、すさまじいことの”の正体であった。
巫女の御業と魔の力が、次の巫女の内で融和するとき、それが成されるのだろう。
魔理沙は講釈をする鈴仙の、その丁寧な調子が、永琳のようだと思われた。
「おまえ、先生に似てるよ」
「そう。どのあたりが」
と言った鈴仙には照れくさそうな、あるいは得意な語気があるので講釈者の貫禄がすでになかった。
「うん……髪の長さとか」
「見えないじゃん」
それから昼まで取りとめのない談笑をした。そうして鈴仙は亭に帰った。
十二
何かを考えるとき、魔理沙は畳に座るより、椅子に座ると明快に頭がはたらいた。また彼女の知っている魔女たちも椅子をこのんでいた。なので彼女は、魔女には椅子が必要なのだと信じていた。
冷仙の来た日の夜に魔理沙は、明かりのない室で椅子に沈んでいた。霊夢がそれを、彼女の魔法店、あるいは家から、はこんでくれたのであった。
椅子は安楽式で、体を動かすと、ゆらゆらと揺れた。その揺れは、学問に正面から向かうときは、集中力を妨げるので使わなかったけれども、何ごとかを深夜に思考して、耽っているときは役に立った。
「埃まみれだったわ」
霊夢は家をそんなふうに揶揄していた。以前からがらくた屋敷も同然の家は、あるじが一年ほど不在のあいだに、醜態をきわめていたようであった。
「なんでかしらね。使われていない物って、使われている物より、却って古くなってしまうわ。磨耗してもいないのにね」
また霊夢はそうも言っていた。その言葉が、魔理沙を深夜まで眠らせずにいた。
わたしの魔法も使われなければ古くなってしまうのかもしれない。と魔理沙は悩んだ。
魔法はすでに頭の外部へ引用されることがないけれども、それが魔法を古びさせるのかはあやしかった。
ただ、いかに冷やして、保存しようとも、塩や油に漬けこまなければ、腐るように、知恵も使えなければ、腐敗を待つばかりなのかもしれない。知恵をどうして、塩や油に漬けこめるだろう。
「もしも、もしも親々が自分たちの意思や力を、等分に受けつがせることができたのなら……二人は死んでも、次の巫女の内に産まれなおす」
と魔理沙は、口にした。
鈴仙の講釈は、その腐敗を妨げる、最良の因子かもしれない。
知恵は他者に受けつがれるとき、濾過されて、ただ古きとして残るのではなく、古き“よき”として種子を残すのだろう。それが知恵の機能であり、知恵が望むところである。
「もう寝ないの」
頭の深いところに沈んでいた魔理沙は、耳元の声に肩を跳ねさせられた。
蝋燭の暖かさを、近くに感じたころには、起きだした霊夢が傍にいた。
「近いぞ」
「何度も呼んだのに聞かないから」
「こんな時間にどうした」
「あんたがこんな時間なのに布団にこないからよ」
「そう言う日もあるんだ」
「悩みごとかしら」
魔理沙は舌を巻かされた。しかし霊夢は別に持ちまえの点眼通で彼女の思考を当てたわけではなかった。
霊夢はくすくすと笑った。
「顔に出てる」
月の薄明に照らされた魔理沙の表情は、話しかけられるまえまで分かりやすい苦悩の線上にあった。
魔理沙は思いきって問いあわせた。
「霊夢、不能の魔女に魔法を教えられるのかな」
霊夢が魔に通じていないために。その問いは慰めを求めていると誤解される属性を有していた。それでも魔理沙が聞いたのは、彼女が先天的の怜悧さで、ことを解決すると知っているからである。
魔理沙は霊夢の勘を信じていた。
「できるわよ」
霊夢は即座に言ってみせた。彼女の理屈は単純であった。
「あんたの教えかたが下手でも関係ないのよ。魔法を教えられたくない子供なんていない。子供はみんな、無条件で魔法に憧れているじゃない」
それは筋のない理屈であった。それでも魔理沙は納得できた。師事もなしに、独りで魔法を学んでいた彼女は、その筋のない理屈にしがみついて幼年を暮らした。霊夢の理屈は奇しくも彼女の身のうえであった。
「昔はあんたが羨ましかった……」
その発言がまだ発見していない霊夢の内面を露出させた。幼いころの彼女が魔法をそんなふうに思っていたと魔理沙は考えもしていなかった。
「教えたのに」
「言えなかったわ。照れくさいもん」
「霊夢。おいで」
魔理沙は霊夢を催促して膝の上に座らせた。それから強く抱きしめた。
「駄目だな。おまえがまえより大きくなったのか抱きしめても分からない」
「急にどうしたの」
「おまえが魔法を羨んでいると知ったら、以前のわたしは失望したよ。おまえには完璧であってほしかったから」
「今はちがうの」
「今は不完全でもかまわない。わたしが死んだとき、泣いてくれてもいい……」
こうして素直に心中を明かしたのが、魔理沙にとっても、奇妙に映った。強情な自分の、霊夢にだけは見せられる、正直な部分……。
わたしは飛ぶしかないのだ。と魔理沙は思った。
そのときに、すべてが解決すると、分かった。
十三
魔理沙に十九歳の春が訪れた。
すこし経つと、春風に誘われて、桜のつぼみが芽ぶいた。
めくらの魔理沙でも、慣れしたしんでいる神社の桜は、暗闇の壁に幻影となって咲いてくれた。 それは闇と調和して、うす墨の色をしていた。 霊夢が境内を覆うように咲いている桜のうちでも、特に大きな桜木に魔理沙を導いた。
その淡くかぐわしい匂いが、今度は入院しているころ霊夢が送ってくれた、桃色の桜枝を暗闇にえがいた。
霊夢は魔理沙の手を引いて、その桜の枝を撫でさせた。ざらざらの表面を、引かれるに任せて辿ってゆくと、枝が途中で折れていた。
「ここを折って送ってくれたんだな」
二人は桜の根本に腰を降ろした。
「また魔理沙の箒で掃除してる」
鳥居の下で箒を振りまわしている巫女を霊夢は捉えた。彼女の語気は窘めようとする意思があった。
親心……
それが霊夢から醸しだされた。
神社で暮らして、巫女に魔法を教えようとする以上、魔理沙は相手が幼いので、親の立場に置かれなければならなかった。霊夢はそれを、口にしてまで求めなかったけれども。
魔理沙は霊夢を笑って止めた。
「箒は本来そう使うよ」
巫女は二人に気がつくと、うやうやしくも一礼するので、その態度が霊夢を落胆させた。
「親に向いてないのね、わたし」
「あの子がおまえを師とする態度でも見せたのか」
それが手に取るように感じとれた。巫女と言うのが、霊夢を尊敬していたので、その態度は必ずしも、親に向けるような尊敬ではなく、師に向ける態度になりがちであった。
霊夢がそれに困っているのを、魔理沙は言っていた。
「ふん。本当は目が見えるのね」
「おまえの一挙手一投足だけは見えるんだな、実際のところ」
「魔理沙。親に向いているのか、そうでないのかって、生来の才覚なのかしら」
「三年もあの子と一緒のおまえが分からないなら、わたしにも分からない」
「昔のわたしによく似てきたのよ」
「わるいことじゃない」
「わたしはあんたの友達になるまえの自分が好きじゃないの」
「どうして」
「それを上手に説明するのは難しいの。分かってほしいのは、思っているよりも、あんたはすばらしいことを、わたしに与えてくれたのよ」
実際に昔の霊夢は並はずれていた。
今よりも。
それは残酷で無感性と似ていながら、塵のひとつも混ざっていない、小箱に封じこめられた、純水のように思われた。
そこに魔理沙がはいりこんで、ゆっくりと浸透するように、無垢な霊夢の内へ、恋を植えつけたのだろう。
しかし魔理沙のほうは、霊夢が無垢でいてほしかった。それは巫女の職種につきまとう、一種の信奉にほかならない。
そのために魔理沙は霊夢と接吻しそうになるまで、信奉の殻に隠された、恋情を知らずにいたのである。
霊夢の並はずれたところを好いていた、その信奉は、魔理沙の“或ることであり、すさまじいこと”になって、ついに接吻しそうになったとき、彼女の霊と万葉を、手垢で汚しすぎたと信じこませた。
それが三年も二人を隔てた。
「わたしが退院するまえに、おまえも夢を見なかったか」
「夢って……」
その返事はにごしているようにも、忘れているようにも思われた。
魔理沙の場合は明晰夢であっても、霊夢の場合はそうでないのかもしれなかった。
本当に大切な人なら言うべきよ。それも本音を言ってみせるの。何がなんでも霊夢にあなたを愛させるのよ。そうして …… 愛していると言わせるのよ、何度でも
その箴言が脳裏にひらめいたとき、魔理沙は夢中で言った、最後の言葉を回想した。
おまえ、わたしに愛していると言えるかい
しかし言われてよいのだろうか。と魔理沙は怯えた。
今に対等の関係を、その言葉が滅茶苦茶にして、かつての信奉を湧きあがらせ、すべてが崩れてしまうかもしれない……。
「いや、なんでもないんだよ。忘れてほしい」
「愛している」
魔理沙は、ぎょっとした。
安全な択を手にしたのに、霊夢の言葉が、虫でも叩きおとすように、手から択を落とさせた。
霊夢はその横暴で、魔理沙の心を、一瞬で捕らえたと言っても過言ではない。
桜の花びらが、掌に落ちてきたとき、何も返せずにいた魔理沙は、その感触で心を覚ました。ついに喉を振るわせられた。
「おまえ、夢で最後に聞こえていやがったな」
「愛している」
「おい」
「愛している」
「……」
霊夢は止まらなかった。それで魔理沙も、諦めた。
「愛している」
「もう一度」
「愛している」
「もう一度だ」
「幻想郷と同じくらい、愛している」
「幻想郷よりも。と言ってくれ」
「駄目よ」
「言ってくれないと、また離れてしまうかも」
「ずるい。脅迫じゃないの」
「魔女は悪党と古来より決まっている。おまえは悪党に惚れないように、用心するべきだったな」
「……幻想郷よりも、愛している」
言われてしまえば、なんのこともなかった。
何も崩れはしなかった。
それどころか二人の情交は、その刹那で強固になった。
福音のように、言葉が何度も唱えられると、魔理沙は暗闇の奥に、最良の道が、見えてきた…
…それを辿ると、力が溢れた。
…… 「なんと言う、遠まわり! 今に分かった。わたしの力の源は、あの森だけではなかったのだ。
おまえはいつも、導いてくれる。
おまえは人生で最大の発見だ!
体が弱ってしまっても、力の源があるかぎり、わたしは飛ぶ。絶対に尽きない、恋の魔法の源は、おまえの霊と万葉にほかならない」 ……。
箒が、ふるえた。
巫女がその異様を認めたときには、もう箒は手の内から、風のように飛びだして、魔理沙の手の内に収まっていた。
桜の根本で風が吹きあれた。
その花びらは舞いあがって、空を薄桃の幕で染めた。
霊夢が風のために眇めていた、右の瞳をひらけるころに、もう魔理沙は宙空にいた。
「おいで」
魔理沙は不敵に挑発した。
霊夢が立ちあがった。そうして魔理沙の目前まで飛ぶと 「めくらがわたしに勝てるかしら」 と挑発を返した。
「今のうちに、調子に乗らせてやる。わたしは発見したんだ。絶対に尽きない、恋の魔法の源を。それは以前よりも傍にある。
霊夢、おまえはもう……わたしを“愛している”かぎり……勝てない」
「こんなふうに、遊んだような」 霊夢は思いかえすように言って 「そう。夜だった」
魔理沙もふしぎと、それを考えていた。
尤も記憶の夜と今はちがっている。
空は日の光で満たされていた。
今度は二人だけであった。
「永夜抄と呼べ」
「何それ」
「わたしが考えた」
魔理沙は平気で嘘を言った。
話しはそこで終わった。
空へ大輪の花が咲きみだれた。それはつぶさな光の種で創られていた。
軌跡は鳥が、遊んでいるように、螺旋をえがく。
……。
祈りたまえ。
流星へそうするように。
魔理沙は幻想郷の神々に、こころの奥で叫んでいた 「幻想郷の神々よ。祝福したまえ。祝福したまえ。
まさに今! 次の巫女に魔への啓蒙を証したまえ、魔への尊敬の光で照らしたまえ!
霊夢が望むように、叶えたまえ……」 ……。
十四
「よく聞きなさい。
おまえはこれまで見たことのない魔の領域で、困惑するにちがいない。しかし恐れることはないんだよ」
魔理沙は緊張をほぐそうと、巫女の頭を撫でた。彼女は照れて、うつむいていた。
「おまえは霊夢に習っている。幻想郷の神々の声を聞く、巫女の御業をな。それは万能の力なんだ。神々は無限の力を有している。
おまえが魔法に悩むとき、神々がおまえを助けてくれる。
幻想郷の神々は、おまえが望むようにする」
魔法を修めなおしたあと、すぐに巫女へ魔法を教えはじめた。興味を持ってくれるのか、不安はあったけれども、それも杞憂に終わった。霊夢の言うとおり、巫女は子供であるために、無条件でそれに憧れてくれた。また先日のふたりの飛行が、興味をいだかせるには充分であった。
師事の役目は魔理沙の想像を越えて、非常におもしろくもあった。それは巫女が教えられることを余さずに、一から十まで飲みこめたからである。
ある才覚。
周囲の影響を受けづらい、霊夢の才覚を鏡へ映したように、巫女には周囲の影響を貪欲に吸収する才覚があった。
その才覚があるからこそ、霊夢に選ばれたのかもしれない。
巫女は魔理沙の数倍も、魔法のおぼえが早かった。
熱心に教えると、すぐに巫女は魔理沙に懐いた。
そうして魔理沙が、霊夢と巫女のあいだに立って関係を繋ぐこともできた。不器用な両者は、徐々に親子の関係へ、傾いていた。
魔理差は二人に手を繋がせ、頭を撫でさせ、抱きしめさせ、一緒に飛ばせた。
すべては解決していた。
風が山境から、夏の香りを、連れいたるとき、生活が満たされた。
魔理沙は人生に、これ以上は望めない、幸福のさえずりを聞いていた。
……。
「次は何を教えようかな」
魔理沙は独りごとのように呟いた。
呟きながら、掌で八卦炉を弄んでいた。声は瓦に落ちてくる、梅雨の足音を気にもしないくらいに浮かれていた。
霊夢は横で、茶を啜っていた。
「たのしそうね」
「うん、おぼえるのが早いから。わたしは初歩の魔法にも時間を費やしていたのに、あの子はすぐにおぼえてしまう」
「嫉妬はないの」 と霊夢は揶揄した。
「それがないんだな。嫉妬しようにも、あの子はかわいらしすぎるよ」
「そう。よかった」
その 「よかった」 を魔理沙は自分の情感にくらべて、あまりに無味で儚いと感じた。あるいは彼女の耳がめくらの敏感さを持たなければ、瀑布のような雨の喧しさに、その声は素どおりしていたかもしれない。
長年の交友だけが得られる、一種の鋭覚で霊夢の変化を感じとっていた。
飛行の後日に、それと感じた。
それは霊夢の勘にも似て、占いのように無根拠であるけれども、無根拠であることが、その場合は魔理沙を納得させた。
愛している
その言葉はひたむきな熱情にも、軽率な陳腐にも変質できた。霊夢はそれを、見事にひたむきな熱情へと傾かせて、魔理沙が見たことのない、感情の起伏を、彼女へ一身にぶっつけた。
それが魔理沙を不安にした。
魔理沙の鋭覚は、あの刹那が霊夢の最盛で、それ以降は終わりを悟ったように、満足して手足を草枕に委ねるのではないだろうかと警告したのである。
それと思うのも、魔理沙は桜木の宙空へ舞いもどり 「勝てない」 と霊夢に予言した。
そのとおりになった。
魔理沙は勝った。それも完膚なきまでに。
魔理沙は霊夢の性格を知っていた。負けると露骨にくやしがるはずの当人は、以前とちがって、何ごとの不満もないように、急須から湯器に茶を注いでいた。
音が聞こえて、それと知られた。
「死ぬんじゃないだろうな」
魔理沙は気がつくと聞いていた。
音がすぐに止まった。それは動揺のかけらもなかった。不意に話しかけられたので、中断したと言うだけの止まりかたでしかない。
「急にどうしたの」
声にも動揺はなかった。
「おまえは次の巫女を連れてきた。失敗の傷も乾かないうちに。
思うんだよ。おまえは何かの理由で、いそいでいたんじゃないのかな。わたしの病も発覚していなかったのに、まだ時間に余裕はあると思われていたのに」
怪馬のいななきのような雷鳴が、天にとどろいた。
そう思ったときに、魔理沙は手を引かれて、椅子から落ちていた。
腰のあたりに、重さを感じたあと、鼻のあたりを糸のような物がくすぐった。口には息が吹きられので、霊夢に覆いかぶさられたのだと分かった。
「考えすぎよ」
それが霊夢の返事であった。
「ねえ、好きあっているのよ」
と続けられても、魔理沙は頷くこともできなかった。
「わたしが死んでしまうと思うんでしょう。死んでしまうまえに、互いのことを知らないと」
「全部?」
霊夢は返事の代わりに、魔理沙の頬を撫でた。
魔理沙はふしぎと、互いが女であることを、意識したこともなかった。
なぜなら魔理沙は、霊夢を“愛している”ために、それを不問にできたのである……今は意識された。
それは強烈に出て、背徳の楔を打ちつけたけれども、悔恨はなかった。むしろ魔理沙は背徳に酔わされた。彼女は自分たちの恋が、思ったよりもぎりぎりのところで、成りたっているような気がした。それをたのしんでいた。
霊夢は体を押しつけてきた。その圧迫が、彼女の匂いを、魔理沙の全身に伝えていた。
魔理沙は霊夢が、望むようにした。
霊夢の髪が、魔理沙の髪に降り、それは黒金の糸で繕うように、混じりあった。
何かをごまかされている。と魔理沙は頭の隅で思った。
それも一瞬で、酩酊に潰された。
魔理沙は薄っぺらの襦袢を着ていた。
夜であった。
巫女は寝ていた……。
霊夢は 「ンー」 と唸ると、襦袢の帯をはずそうとした。
指を這わせると、魔理沙の肉感が、霊夢へつぶさに伝わった。彼女は小さくて、細かった。
「蝋燭」 と魔理沙は消えそうに言った 「消せよ」 命令的のわりに、彼女の瞳はうるんでいた。
それが不敵な魔理沙をあどけなくしていた。
霊夢は、ふるえた。
そうして 「駄目」 と言った。
……。
霊夢の感触から、魔理沙はついに、もう見るはずのない、三年後の彼女を観察するように思われた。肉感で、成長を知られた。彼女の体は、弾力に富んで、どこもかしこも水をはじいてしまうような、生命的の力に満ちていた。
それが魔理沙に、不安は杞憂だと信じさせた。
十五
動きはじめた、二人の一夜は、急に魔理沙の胸を襲った、くるしさで打ちけされた。彼女は霊夢をぐいぐいとしりぞかせた。そうして次の間に、沢山の血を吐いていた。
魔理沙は起きあがろうとしたけれども、すぐに倒れそうになった。霊夢がそれを支えた。
「あんたのほうが、死にそうじゃない」
霊夢の声は、不安が端に漏れだしていた。
永琳は正しかった。また魔法を使いはじめると、魔理沙の具合はひどくなった。巫女へ魔法を教えるために、力を惜しまなかった彼女は、そのぶん病を受けいれなければならなかった。
「静かにしないと、あの子に気づかれてしまう」
この小さな悶着も、さいわい隣室の巫女には聞こえなかった。
「雨が降っていてよかった」
「おまえと同じで、眠りが深いんだよ」
霊夢の温かな手が魔理沙の手に添えられた。彼女はその熱が自分の細部に浸透して、わずかでも病を癒してくれるように思われた。
「先生を呼ぼう」
「また入院するなんていやよ」
「しないよ。ただ寿命を知りたいんだ」
「嘘よ。入院するならしてもかまわないのよ。そのほうが体のためになるんでしょう」
霊夢の声は明白に臆病な嘘であるために、寂しさに連れられて虚空へ消えてしまいそうに聞こえていた。しかし彼女の不安を魔理沙はすぐにぬぐいされた。
「今度は死ぬまで一緒だよ、おまえ」
「うん」
「続きは今度な」
と魔理沙は茶化した。
霊夢は自分から仕かけたくせに、あれほど官能的の空気をまとっていたのが嘘のように、赤くなった。
……。
永琳が来たのは梅雨が明けてからになった。この年の梅雨は外を出あるけないほどよく降った。
ようやく朝日が出て晴れ々れとしたとき、永琳が神社で再会した魔理沙は、布団で横になっていた。
「あなた本当は布団が好きでしょう」
「こう横になっていると醜く肥えてしまうな」
布団から起きあがった魔理沙は、そう言うわりに痩せすぎていた。
「先生。解熱剤を処方してくれ。頭が熱い」
「いつからです」
「七日くらいまえにひどく血を吐いてから治らんのだ」
永琳と一緒に来ていた鈴仙が、すぐに薬箱から処方した。
師が傍にいるため鈴仙は抑えて黙っていた。
「私の言うとおり悪化したでしょう」
「うん……でも夢が叶いそうだ」
「ふん?」
魔理沙はふしぎそうに首を傾げる永琳が見えるように思われた。
「あっ……」
と急に永琳のうしろで座っていた鈴仙が声を漏らした。彼女が振りかえると、巫女がいつの間にか襖の向こうから室を除いていた。
巫女は見つかると、すうっと襖の向こうから逃げていった。
「あの子が魔理沙のロマンね」
その英字で魔理沙はなんとなく事態を察した。
「わたしが死ぬまでからかう気だな」
「フフフフ、フフ」
「おまえ、ちょっとあの子と遊ばないか」
「怪我するわよ」
「そうだな」
魔理沙は警告を気楽にかろんじた。
「そう。それなら遠慮しないわ」
意外と好戦的の気がある鈴仙は、揚々と室を出ていった。
魔理沙は鈴仙がいなくなると、不敵に唇を歪めてみせた。
「遊ばれる、だった」
「それに怪我をするのはうちの弟子です」
「だから“そうだな”と言ったじゃないか」
「うちの弟子は馬鹿だから駆けひきなんて無理なんです」
巫女と鈴仙が遠のくと、ふたりの気配はまじめくさった。そのまじめくさった空気を望んでいただけに、ふたりはこれから重くのしかかる対話に平気でいられた。
「先生、わたしの寿命はあといくらかな」
「入院の相談じゃないのね」
「入院より優先することがあるんだ」
「寿命が本当に知りたいですか」
「うん」
「分かりました。でも知るからには、あなた失望しないように用心しなければならないわよ。惑病は同源なんでしょう」
意趣がえしが魔理沙をおどろかせた。対してその様子が永琳をなごませるのであった。
薬箱から取りだされたからくりが魔理沙を診察した。それは彼女の要望を予期していたように、あらかじめ箱に入れられていたので、亭へ取りもどる手間はなかった。
見すかされている。と魔理沙は舌を巻いた。
「頭のいいやつってのはみんな予言者なのかな」
「なんのことです」
「姫さまに伝えたいことがあるんだ」
「へえ。伝えておきましょう」
「愛させてやったぞ。そう伝えてほしい」
魔理沙の耳もとでからくりがピ、ピと音を発していた。診察の邪魔になりそうなので、それから彼女は黙ってしまった。
沈黙の内で起こりやすい、葛藤や不安との争いはなかった 「それは思考を麻痺させて、襲いかかる診察の結果からのがれるための作用だろうか」 それは即座にしりぞけられた 「このように落ちついていられるのは、わたしがまことに幸福な生活をしているためだ。幸福をまえにして、あらゆる不幸はこうべを垂れる。幸福な者だけが、あらゆる不幸を、支配するにたるのだろう」 ……。
診察が終わると永琳は言った。
「冬さらば……」
「さらば?」
「冬、になったら……」
「半年か」
「そうです」
「本当に先生の治療を無駄にしてしまったな」
魔理沙はそれが、特にこたえていないように見えた。
それが永琳の謎になった。
魔理沙は 「入院より優先することがあるんだ」 と言った。永琳は長命種的の、職業的の観念から、生命よりも尊いことがあるとは信じなかった。
「あなた魔法を使っているでしょう」
魔理沙は首を縦に振った。
「あなたは、本当に、愚かだ……」
「ごめんよ」
永琳の内で、癇癪の虫がざわめいた。不老不死者でありながら、命を尊んでいる彼女には、謝罪よりも非難のほうが、どれだけ心を慰めたのだろう。
「あなたは愚かなために死ぬのです。そうして私は無能なためにあなたを殺すのです」
その“無能”の部分がいかにも自分を責めていた。
別に魔理沙を想って言うのではない。ただ魔の誇りがあるように、医の誇りもあるのだろう。
魔理沙の淡泊な謝罪は、永琳の誇りを刃で掠めていた。その傷口から、彼女の“底しれないもの”が、わずかに顔を覗かせていた……。
このひとの顔は怒りに歪んでいるのだろうか。と魔理沙は思った。
「幾百年も生きているのに、わたしのような娘に真剣になってくれるなんて、あんたはやさしいよ」
それが賞賛なのか、皮肉なのか判別できないところに、永琳の鈍覚があった。どちらにせよ、その言葉は、彼女の傷口に薬を塗ったのかもしれない。
永琳は、急にほぐれた。
「鈴仙もそれを認めていた」
「あの子が、私は……やさしいなんて……仕事ですから」
「照れてるのか」
「照れてません」
ふたりはくすくすと笑った。
今日が最後の診察と思われた。ふたりとも最初から、そのつもりでいた。
とにかく今後の治療がない以上、ふたりはもう医家と患者の関係を已めることになった。そうして歳の離れた知りあい、あるいは以前どおり縁のない他者の位置に座った。ふたりは別に、それがどちらでもかまわなかった。
「先生、助かったよ」
と魔理沙が診察の礼もほどほどに、切りあげようとすると、足音がした。
鈴仙が室に戻ってきたのである。なんとか歩いていたけれども、彼女は傷だらけで、耳を垂れさせ、目を回しそうになっていた。
「まあ」 と永琳がおどろいた。
「遊ばれた……」
と鈴仙が後悔を滲ませるので、魔理沙のほうでも、彼女の醜態は想像された。
「わたしたちの娘は強いだろう」
と魔理沙は笑った。さらに笑ってやろうとしたーーーしたのに喉がはずむ直前に、室を永琳の笑いが響きわたったので、彼女の声は引っこまなければならなかった。
「うどんげ、笑える!」
「永琳さま……?」
鈴仙は息を呑んだ。
あの永琳が目に涙を浮かべてまで、笑っているのだから、それも当然であった。
鈴仙の記憶が正しければ、微笑はあっても、永琳の高笑と言うのは、これまで一度も見たことがなかった。
永琳は、笑いころげた。なぜ笑いころげるのかは、自分でも分からない。分からないけれども、笑えるのだから、涙が収まるまで、好きなだけ、笑うことにした。それは止まることを待つしかない、傷口から溢れる血とよく似ていた……。
十六
神社へ続く石段と言うのが、これまた苦痛を感じるほど長いので、飛べる者ならまず歩かない。
幻想郷の神々に対してかけらの信心を持たない妹紅も、石段を飛びこえるひとりであった。
にもかかわらず、その日にかぎって石段を一段々々まじめに踏んでいる自分の精力が、妹紅にとっても奇妙に映った。
それは秋空に映りこんだ。
不意に振りかえると、太陽が遠くの山陰へ沈もうとしている。その光が空の白紙に、赤と青むらさき色のインキを塗っていた。その色々の空境は、淡く混ざりあっていた。
下方には、通りすぎてきた人里が臨まれた。暮れの買いだしで商い町を歩く人々は、米粒のように小さく見えた。そこから東になる田地では、よく育った稲に向かって、黄金の風が吹いている。
妹紅の頬を横ぎって飛ぶ、蜻蛉たち……。
「私はいい場所で暮らしているなあ……」
おもはゆい心情は、誰もいないから吐露されたのかもしれない。
魔理沙から手紙が来たのは、夏ごろになる。
文の要約……。
妹紅に頼みたいことがある。おまえにしか頼めないことだ
それは最後の診察の直後であったけれども、妹紅にとって、水面下の事情でしかなかった。彼女は魔理沙の寿命を知らなかった。
ただ妹紅は、死になれているだけあって、ことさら死相に敏感であった。
頼まれの筆。
妹紅は友達が死ぬと思った。
それが石段を踏ませたのである。
……。
鳥居の下まで登りついたとき、偶然にも霊夢と擦れちがった。
「買いだしよ」
霊夢はそんなふうに人里へ降りるわけを話した。
「こんな時間に行くの」
「こんな時間にくるやつに言われたくないわ」
「私は魔理沙に呼ばれてきたんだよ。手紙が来たから」
「手紙って、わたしが書いたあれかしら」
「おまえが書いたのかい」
「それはそうよ。魔理沙、もう目が見えないから」
「へえ」
おどろいているのか、いないのか判別のしずらい調子で、妹紅は言った。
幾度か見まいに行っていたものの、去年の初秋ごろから偶然にも魔理沙と会わずにいた妹紅は、その事情も知らなかった。
「めくらの連れか。大変だな」
「大変よ。でも、かまわないのよ。目が見えなくても、肩に寄りかかれはするんだから」
霊夢の髪も、瞳も、黄昏の斜陽を照りかえして、輝いていた。
あいかわらず、なんて美しい娘だろう……
と妹紅は思った。
霊夢に対して、特別な好意のかけらもない妹紅が、そう思うのである。
魔理沙の言う霊と万葉が、手にはいらないと諦めているだけに、妹紅がそれを遠方から眺めるまなざしはせつなかった。
妹紅はそれを巷の子供たちや、他人の恋に認めるだけなのである。そうして霊夢にも。
妹紅は霊夢が、人間とは思えなかった。
亭の者どものように、無限の闇をつらぬいて、はるかの月から来たのでもなければ、さらに遠くの星から来たのでもない。霊夢のような人間は、別の空境に遮られた、亜空の星から産まれるのだと信じていた。それは彼女が、人間の産まれながらに持っている、至純至上の感情を、常人よりも有しているためにほかならない。
それが今は、一人のために、向けられている。
霊夢は魔理沙を愛している。
しかし妹紅に言わせれば、霊夢を恋の猛毒でたぶらかし、魔理沙は蓬莱国の巫女を独占するのである……。
「私ね。石段を歩いてきたんだよ」
「珍しいやつね」
「そのとき振りかえって思ったよ。幻想郷と言うのは、なかなかに……なかなかに……まあ、わるくないところだと」
霊夢はほほえんだ。そうして言った。
「今さら気づいたの」
その微笑は美しかった。
その美しさを改めるとき、これほどに霊夢を認めていても、いとおしくはないことを、妹紅は知っていた。
十七
賽銭箱に小銭をほうりなげたあと、妹紅は柏手も打たないで、ただ待っていた。
そうしていると、賽銭の音で来客を知った巫女が、神社の中からすうっと現れてくれた。
妹紅の風貌は、髪が白く、瞳は赤く、そのわりに顔つきが幼いために、あからさまに不審であったので、巫女は警戒した。黄昏の明暗が、余計に彼女を魔性と見せていた。
妹紅は、他者のそう言う態度には、もう慣れていた。それどころか、彼女は自分を卑下しているために、それを納得してさえいた。
仮に自分の風貌を人間が見て、のこのこと近づいてきたら、それは彼女にとって、却って気味のわるいことであった。
狐狸のたぐいと思って、殺してしまうかもしれない。
「どうも。魔理沙に会いに来たの」
とぶっきらぼうにわけを話して、魔理沙のもとへ案内してもらった。
妹紅が来たと知った魔理沙は見えない目をしばたたかせずにはいられなかった。
「遅い」
開口そんなふうに言われた妹紅のほうも、目をしばたたいた。
「二ヶ月もこないから、来てくれないと思いこんでいたぞ」
「えっ。そんなに経っていたの」
非人の例に漏れない妹紅は、時間に無神経であった。常人が時を、流水のように考えるなら、彼女にとって、時はその流水に削られる、川底の石ころの変化のほうであった。そちらにこそ、時があった。
無神経で、愚鈍な時……。
呼びだした身分であるために、魔理沙はそれより追求しなかったけれども、彼女に対して輝夜と似た印象を、いだかずにはいられなかった。気をわるくすると思われたので、それは言わなかった。
「えへ、えへ。ごめんよ」
妹紅の卑屈な謝罪が、椅子から身を乗りだしていた魔理沙の背中を、もとの位置に収めさせた。
巫女が茶をはこんできてくれた。妹紅は温かな茶を、ちびちびと啜った。
相手がめくらであるために、妹紅は魔理沙を、一方的の視線で観察できる立場にいた。
室は暮れの時刻で、すこし暗かった。魔理沙の顔もそれにしたがって、帽子の影で見えづらかった。なので妹紅は、衣服に隠れていない指を眺めた。指はひどく細く見えた。
妹紅は相手が見えないのをよいことに、姿勢を崩して、楽にした。
頼まれの筆は、共通の話題になるはずでありながら、ふたりはしばらく外から響きわたる虫の声に耳を傾けるふりをしながら黙っていた。別に苦慮はないけれども、ふたりは何かを待ちうける者のように、そうした。
この常人があの霊夢を占有しているのだ
と妹紅は思考した。
妹紅はひさびさに対面した魔理沙から、匂わしい短命を感じとれた。この彼女にとって不必要な才覚は、目前の娘をあまりに弱々しい者と確信させた。
その反面、久しぶりに会った霊夢は、以前のように匂わしい生命的の力が溢れる者であった。
生命の性格
と妹紅は心中でたとえてみた。それは個人ごとにちがっていて、ときには反発する作用があると思われた。しかし反対の性格があるらしい二人の性格は、なぜか惹かれあう性質があった。と妹紅は分析した。
「さっき霊夢と擦れちがったよ」
室がより暗さを深めたとき、妹紅は口をひらいてみた。
「あの娘はおまえとちがって、当分は死にそうにないね」
「そう、だろうな……」
「うまくいっているのかい」
「うん。幸福だよ」
「つまらない。死の際まで会わなければ、より燃えあがれたのに」
「そこまで情熱的にわたしたちはなれない」
「ならどうして一緒になるんだ」
「情熱的でなくても一緒にくらいなるよ」
「いいかい」 妹紅は改まって 「誰かと々かが一緒になるのは、相手を求めているからだろう」
「うん」
「しかし結局のところ別々の者なんだから、どうしたってひとつにはなれないじゃないか。相手を貪ったって、ひとつにはなれないじゃないか。妖怪どもがそれを証明しているじゃないか」
「なぜ妖怪の話になるんだ。それはちがうんじゃないか」
「ところがまったく話はずれていないのさ」 妹紅は言いはなった 「妖怪は人間の心中から産まれたので、人間を喰らって、産まれた場所に戻ろうとするのだ。しかし絶対にひとつにはなれない。なぜなら完全に、切りはなされてしまったからだ。喰らってもひとつになれないくらい、他者と他者は、ちがうのだ」
「おまえは寂しいのか」
「うん。私は寂しいんだ。こんなふうに勢い語っているのは、結局のところおまえたちの仲を、羨んでいるのかもしれない。
ねえ、まえに私は泣いただろう。でもあれは、おまえのために泣いたんじゃない。友達に死なれる自分がかわいそうだから泣いたんだ。結局のところあれは自分のための涙でしかなかったんだよ。非人と言うのはみんな自己のための涙しか知らないんだ」
「しかし鈴仙はわたしたちのために泣いてくれたと思うよ」
「それは自分のための感傷かもしれない」
「ちがう」 魔理沙は確信を込めて言った。
「そうかい。まあ信じたいならいい」
「わたしはおまえの涙も信じるよ」
「どうも」
問答はそれで終わった。
その 「どうも」 は、特に謝意が込められていないので、いかにも残酷で無感性であった。
十八
それから魔理沙は、件の筆を話頭に持ちこんだ。
「おまえを呼んだのは、頼まれてほしいことがあるからなんだ」
「知ってる」
「死んだら竹林の深いところへ埋めてくれ」
「分かった」
「……」
魔理沙の刹那の沈黙は、奇妙な違和感を映しだしていた。要するに彼女は、おどろかれなかったことに、おどろいているのである。
去年の春ごろの対話ーーー自分の寿命に対する、妹紅の無神経さーーーが回想された。
さきほど、あれだけ自分の理屈を熱心に語っていた妹紅は、また別者と錯覚されるほど、神経の通っていない者に戻っていた 「長命種の神経の急な逆転は、いったいどう言う作用で起こるのだろう。泣きつかれた子供が、静かに眠ってしまうようだ」 魔理沙は考えずにはいられなかった。
「なんで黙るの」
「簡単に受けおうからだろう」
「不老不死者のじん生には、おまえの頼みなんかよりおどろくべきことが千もあったのさ」
妹紅は得意そうに鼻を鳴らした。
「ふん。まあ、理由くらい聞いておくよ。どうして竹林なの。おまえはあすこと縁はないはずだけど」
「わたしは人里から離れているし、妖怪坊主の世話になるのも気分がよくない。かと言って、もう魔法の森は出てしまったし、巫女でもないのに神社の鎮守には納まれない。去年あそこで過ごして思ったんだよ。静かで、よく眠れそうだとな。それに、縁ならもうできている」
「迷いの竹林と言うのは名ばかりじゃないよ。竹は伸びては折れる。風景は、変わりつづける。内に住む、私……“たち”を除いて、誰もおまえの墓を見つけられない」
妹紅は言いおくれて使った“たち”を、露骨にいやがっていた。
「そこが肝心なんだ」
妹紅の忠告を、魔理沙はむしろよろこんでいた。
「いいかい。このことは、まだ霊夢にも話していない。そうして死ぬまで話すつもりもない」
「おまえ、意味不明よ」
「まあ聞いてくれ。わたしが死んだあとに開けるよう忠告して、霊夢に文を残すつもりだ。そこに、こう書く。
“わたしが死んだら、遺骨を竹林の不老不死者たちに譲りわたせ”……。
おまえたちは、絶対に霊夢にわたしの墓を教えてはならない。霊夢へ伝わらないように、ほかの者に話してもならない」
「……」
「おまえたちの時間は早いんだ。それくらいの秘密は守れるだろう」
「ふん」
と妹紅は鼻を鳴らした。ただ今度は、余裕のためでなくって、魔理沙の画策のためにそうするのである。
それまで分かりやすい人間であった魔理沙は、妹紅の中で、急に不可解な人物になった。彼女はわけを聞かずにはいられなかった。
「どうしてそんなことをしたいんだ」
「わたしは幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする……と信じている。それを最後くらい、なんとか欺いてみたいのさ」
魔理沙の望みを、やはり妹紅は理解できずに首を傾げた。
ただ“幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする”と言う部分だけは、水を飲むように受けいれられた。妹紅も彼女を常人ではないと思っていたからである。
「なるほど霊夢は神々の寵愛があるから、あんなふうにすさまじいのか」
「少なくともわたしはそう信じている」
「うん、わたしも信じるよ。それは信じられるよ。そうかい神々を欺きたいかい。なかなかに大きな野心を秘めているね」
「手つだってくれるか」
それがありありと見えたわけではなかった。
妹紅はその刹那に、魔理沙の瞳に、天頂で不動に輝く、小熊の光のような印象を受けた。虹彩の端が、室にはいりこむ仄かな夕日を受けて、ぎらぎらと炎をひらめかせているさま……それは、物理的の現象が、魔理沙の顔の角度のために、偶然にも引きおこしたばかりである。
妹紅はそこに“あることであり、すさまじいこと”を見た。それはむしろ、霊夢から受ける影像によく似ていた。
結局のところ、巫女をたぶらかせるようなやつは、巫女と同じくらい奇妙なやつかもしれない
と妹紅は思った。
「おまえの墓を教えろって霊夢にすごまれたり、遺骨を渡してくれなかったら、手つだわずに已めるくらいの意思しかないけど、それでもかまわないの」
「そう言うからには手つだってくれるんだな」
そう言う魔理沙からはあることであり、すさまじいことが、もう見えなくなっていた。
妹紅は胡座を組んで、魔理沙の目も見えないのに、悩むふりをしてあげた。
「おまえは死んだら、地獄へ行くだろうな。楽園へ行くには、現世で幸福を使いすぎている」
「どうなんだ」
肘を膝に乗せて、頬杖をつき、食卓に置いてある、醤油でも渡すような調子で、妹紅は頼まれてあげた。
「かまわないよ」
最後の冬が迫っている……。
十九
仲冬になる。ちらほらと雪が現れるだろう。それは、山の楓たちが、土に積もらせた葉のむくろに、死粧を施すために訪れる。
冬は終末。
死の友達として、真珠の色の、粒を雲に貯めこんで、落ちるころより、ときには眠りの先ぶれのように。
……。
昼ごろに具合をわるくした魔理沙の、看病をしていた霊夢の代わりに、買いだしに人里へ降りていた巫女が、もう戻るころになった。
そのころには、魔理沙の具合も、安定していた。二人は出むかえに神社へ至る石段、鳥居のすぐ近くで座って待つことにした。そこからなら、誰かが飛んでくると、すぐに気がつけるからである。
永琳は“冬さらば”と言う。魔理沙はいまだに生きている。彼女は本当のところ自分は幾年も生きるような気がしてきた。
魔理沙は白い息を両手に吹きかけたあと、それを合わせて摩擦した。
「死ぬ々ぬって言うやつほど死なないと言うけど……」 と魔理沙は自嘲した。
「しぶといやつ」
「寒い日だな」
「抱きしめてあげようか」
「うん」
霊夢は横から抱きついてきた。その内にすっぽりと収まると、魔理沙は彼女の音を静かに聞いた。
その脈動が、霊夢に亭から連れだされた日を思いおこさせた。その日も魔理沙は、彼女の音をうしろから聞いていたからである。
なんと言う、岩むらのように穏やかで、衣を染める染料のように、こころへ響く、音だろう……不器用な霊夢の、抱きしめた腕から精いっぱいに押しつけてくるその感情が、魔理沙の芯まで、伝わるかと思われた。ただ音は、やはり以前も思ったように、あまりに弱々しいものだ。死にかけた、彼女を追いて、今にあらた世へ、消えてしまいそうな感じがする。
「もうすこしときめいてくれないのかな」
「充分にときめいているわ」
魔理沙の右頬に、手が添えられた。その手が、彼女の顔を誘うように、横にある霊夢の顔へ振りむかせた。
そうして自分の唇に、霊夢の息が降りかかるとき、魔理沙はさきに顔をまえに動かしていた。
その先手が、霊夢をおどろかせたけれでも、それまで自分の腕に収まっていた魔理沙の体が、わずかに距離を取って、支えるように左肩に手を添えられてしまうと、もう穏やかな心地に傾いていた。互いの胸の内に、すべていとおしいこと、はじめて顔を合わせた日の美しい映像、短くも幸福なこの一年の思いでが、溢れてくる……。
唇が離れた。
「してしまったな」
「今さらじゃないの」
「おまえの顔が見られないのが残念だな。ひどく、赤くなっているだろうに」
「あんたのほうがなってるわよ」
「いや、おまえだね」
「見えないでしょう」
「ほら、なった」
「なっていませんったら」
「なっているだろう。絶対になっているだろう」
魔理沙は背中を軽く叩かれた。さきほどの一瞬とちがう、なりを潜めた二人の子供っぽさが、すぐに帰った。彼女はそれが、なんとも言えずたのしかった。
常盤の松葉のような日々が、続いてほしい。かけまくも、おもはゆさから、口も少なに言わないけれども、あしひきの山に色が映ってしまうほどの、はしき想いがここにある……。
「しあわせだな」
魔理沙は呟いた。
「本当に……」
俯いて、そうして目をとじた。幸福を噛みしめるように。
風に吹かれると、消えてしまいそうなくらい、体を迷わず霊夢に預けた。
「魔理沙」
霊夢が声をかけても、魔理沙は何も返さなかった。彼女が顔を覗きこむと、深い眠りに落ちたようなその顔が近くに見えた。
「魔理沙!」
「なんだよ」
魔理沙は大声で名前を呼ばれると、平然と目を開けた。
「死んだかと思った」
魔理沙は笑わずにはいられなかった。
「笑わないでよ、本気で死んだかと思った!」
「考えごとをしていたんだよ」
魔理沙はふところをさぐると、八卦炉を取りだした。
「これをあの子に譲ろう」
それを大切にしていると知っているだけに、霊夢はまたおどろかされなければならなかった。
「大切な物なんじゃないの」
「うん。でも、いいんだ。魔法はもう、譲りわたされたのだから。だからわたしに、魔法はもう必要ない。あの子がまた、誰かに譲ってくれたらそれでいい」
そのとき空を飛んでくる人影が、霊夢の目にはいった。
「帰ってきた」
霊夢は魔理沙にそう教えた。
「よろこぶだろうな、あの子はこれを、欲しがっていたから」
霊夢が立ちあがった。魔理沙もそれにしたがって、足に力を入れた。
「えっ」
と魔理沙は声を発した。体に力がはいらないのである。そうして、闇の奥から迫ってくる、なんとも眠たい心地がじわじわと全身に広がったとき、彼女はもう背中を境内の上に預けていた。
視界いっぱいに、空が満たされたけれども、すぐに霊夢が背中を起こしてくれた。しかし背中を支えてる手の感触も、自分に声をかけている彼女の声も、淡く溶けて、体を擦りぬけてしまうような感じがした。
「眠いの」
霊夢が言った。魔理沙は何も返さなかった。
「眠いなら、々ってしまいなさい」
そうしようと思った。今にまどろみが、全身を覆ってくれるだろう。目が覚めたときには、雪が降っていたらいい。そうしたら、三人で炬燵にはいって、蜜柑でも食べて談笑しよう。そのとき魔理沙はなんのまえぶれもなく、唐突に八卦炉を巫女に譲るのである。おどろく彼女を、霊夢と一緒に、祝福できれば、それ以上のことはない……しかし眠ってしまうまえに、聞いておきたいことがある。
魔理沙は力を振りしぼって、霊夢に向かってこう聞いた。
「似ているのか……あの子の……飛びかたは……わたしたちに……似ているのか」
「うん」
「そうか。よかった……」 魔理沙は、続けた 「よかった。わたし、たちの、娘……どうか、どうか幻想郷の神々に、愛されるように……」
霊夢は巫女が戻ってくるまで、魔理沙の髪を撫でてあげた。左手は、自分の心臓に当てていた。
そのあと魔理沙の文を見た霊夢は、そこに書かれていたとおりに、彼女を火葬すると、骨壺に収めた。
骨壺は魔理沙の望むように竹林の不老不死者たち、なかでもそれなりの交際があった妹紅に引きわたされた。
二十
枯れ笹を踏みあるく音は、小さいものでしかなかったけれども、ほとんで静寂に満たされている竹林にはよく響いた。そのうえ輝夜がずるずると着物の裾を引きずっているので、音は余計にふえていた。その高級そうな着物は、地面が笹で埋まっているために、それほど汚れずに済まされた。
音に反応した野うさぎが、ぴょんと跳ねて、また笹に隠れた。その白い塊がゆきげしたとき、消えた色をつぎこむように、本当の雪が降ってきた。
輝夜と並んで歩いていた妹紅は、鼻さきに乗った雪をはらおうと、かかえていた骨壺を片手で持った。
「はじめ雪」
と輝夜が囁いた。
「そんな時期か」
「寒いから火をだしてちょうだい」
「おまえのために灯すくらいならこごえて死ぬわ」
「その壷の中の娘が寒そうにしているかも」
なるほど骨壺の中と言うのは、いかにも寒そうな印象を与えた。理由は最もらしく聞こえた。しかし妹紅は、死者にそんな感傷をおぼえる神経が輝夜にないことをよく知っていた。
「死んだらいくら暖かくしても駄目。死者は……寒くてたまらないって聞いたことがある、いつでも」
妹紅は竹林の、道なき道を途中で逸れた。目的の場所を知らない輝夜は、うしろから彼女についていった。
道は竹林の東部へと続いていた。
月の光が、竹間から糸を垂らしている。
妹紅は急にぴたりと止まった。
「おまえ、なんでくるの」
「来ちゃわるいの」
「わるい」
輝夜がきらいな妹紅が、それを快く思うわけがなかった。
「私は恋の終わる瞬間が見たいのよ」
「これを埋めたら恋が終わると言うの」
「そうよ。死者は、寒くてたまらないんでしょう」
妹紅はまた歩きだした。
「確かに、いま私はひとつの恋の終わりを届けているのかもしれない。なんの因果かそれを押しつけられている。あの娘たちとそれほどしたしいわけではなかったのに。なぜだろう。分からない。特に霊夢の考えていることはよく分からない」
不意に月あかりが、雲に隠れた。同時に竹林に振りそそいでいた光源が失せて、何も見えなくなった。
その人物を、骨壺に入れているためだろうか。妹紅は、なぜか慣れている竹林の暗闇が、怖ろしくなった。それは暗闇を怖れる、人間的の原始的の感情ではなかった。そこには底しれないものがあった。見てはいけない他人の裏を、見てしまったときのような忌まわしさ……しかし、また肌に触れてくる暗闇は、やさしくもあった。つめたく包みこむような愛撫。それが死者を、起きあがらせずに済ませているように思われた。
幻想郷の巫女として、竹林の不老不死者たちに言う
博麗霊夢の遺骨を、霧雨魔理沙のとなりにうずめなければならない。また墓の所在を知らしめてはならない
これをおこなわなければ、竹林の不老不死者たちは幻想郷の神々に、はなはだしく呪われる
これをおこなえば、竹林の不老不死者たちは幻想郷の神々に、はなはだしく証しされる
頼みごとではなく、あからさまな命令の文を巫女が妹紅と亭に送ったのは、霊夢が死んですぐであった。
霊夢は二十二歳。魔理沙が死んで三年後の冬に、心臓の病で亡くなった。
それは妹紅を驚嘆させた。自分に他者の死を察知する才覚があると自負していた彼女は、霊夢の死相をまるで見ないでいたのである。
ありありと妹紅の頭に浮かぶのは、近ごろのことよりも、魔理沙に頼まれた日に、擦れちがったあの霊夢である。あの生命に溢れていた人物が、あっさりと死んでしまったことに、彼女はなぜかいきどおりすらおぼえるのである。
「心臓の病だなんて信じない」
「自分で死んだかしら」
「どうして」
「魔理沙がいないから」
「余計にありえない」
「こだわるのね」
「私はこれでも、霊夢の強い生命の力を尊敬していたんだ。あの娘は、おまえよりも美しかったよ」
「まあ」
「器量の問題じゃないんだ。内側の問題なんだよ。おまえの内側は、どうしようもなく醜いのだ。いや、私もだ。不老不死者なんぞが醜いのだ。私たちの肉は腐ってる」
「分かってるわ」
「いや、分かってない。私は人間だったから分かる。そうじゃないおまえには分からない」
もうすぐ竹林の東部の、より奥まった場所にたどりつく。そこは妹紅の知っているかぎり、竹林で最も静かな場所であった。その場所は、内に住むわずかな者しか知らず、何もない場所であるために、誰も寄りつきはしないのである。
「霊夢の病が知られたら、妖怪どもはどんな手段を使ってでも、あの娘を助けようとしただろう。私もそうしたかった。あいつはそれがいやだったんだ。だから隠した。誰もそれに気がつけなかった、魔理沙も……死の予感を知ってしまったら、それを悟られないようにするなんて不可能だ」
「不可能じゃなかったわ」
「結局のところ魔理沙の頼まれごとも、やぶることになってしまったわ。でも、しかたがない。私は幻想郷の神々に呪われたくない」
幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする
魔理沙の言葉が、妹紅の脳裏によみがえった。こうして彼女のとなりに自分が終局的には埋められると、霊夢が分かっていたように思えてならなかった。
妹紅は、ぞっとした。
そのうえで、感じるのは、なんと謂うせつなさ!
霊夢にあったのは、自分をいとおしい人に独占させようとする、強固な決心にほかならない。それが妹紅を畏れさせた。結局のところ彼女が隠していたのは、病のことよりも、その決心のほうかもしれなかった。
「あっ。上よ」
と輝夜が言った。
妹紅は釣られて空を見あげた。
宙空で誰かがとどまっている。
それが霊夢にも見えたし、魔理沙にも見えた。しかし次の間には、幻像も消えて、それが次代の巫女であるとよく分かった。
巫女の左手に持っているおはらい棒の幣は、上空の風を受けて、勢いよくたなびいていた。右手には八卦炉が握りしめられており、それがきらきらと天の川をかたちづくる、乳白色で、小星のような光の粒を、際限もなく零れおとした。
その光景は、疑いようもなく和合の実在を証ししている。
それらは継がれて、統一された。
葉之御霊 終わり
一
待ちあい室の窓から外を見わたすと、竹ばかりが見えた。
春らしい風景ではない。
室の一隅には、地平人の理解しかねるオブジェクトが配置されていた。それは黒い直方体であった 「あれはなんだろう。置きものだろうか。あの暗黒の平面を見ていると、なんだか吸いこまれそうだと思う」 霧雨魔理沙はさらに考えた 「黒いあの色は暗示的だ。それもわるい方向に。白黒つけると言う言葉もある。自分の明日を今にも知ろうと言うときに、なんて不吉なのだろう」 診察も終わって、結果が出るまでのあいだ、彼女はぼんやりとそんなふうに思考した。
がらがらと診察室の戸が開くと、鈴仙・優曇華院・イナバがそこから出てきた。
「結果が出ましたよ」
「あの黒いのはなんだろう。置きものだろうか」
鈴仙の言葉は頓着しないで、魔理沙はそのまま聞いてみた。
「そうです、置きものです。永琳さまの趣味の」
「普通は壷や瓶じゃないかな」
「ねえ……」
「分かったよ。病状はどうだった」
「永琳さまが話してくれるよ」
魔理沙はわずかに萎えた長い耳を見のがさなかった。その分かりやすさにくつくつと笑いが漏れてきた。それが自分の体調はよくないのだと解釈させた。
「嘘がヘタ」 とさらに笑ってみせた。
鈴仙はばつがわるくなって、動揺が耳に出る癖をはじた。顔を赤くしたあと、右耳の先をつねってみせた。
その表情と動きはあからさまに相応の娘に見えた。年齢は上であるはずなのに。
こう謂う純真をとどめるために不老不死は望まれるのだ。と考えながら立ちあがった魔理沙の目線は、鈴仙よりわずかに高かった。
ふたりは診察室にはいった。室から濃い薬の匂いがした。
八意永琳が椅子に座って待っていた。
永琳は机に控えた書類と患者を見くらべた。その動作と漂っている薬の匂いが、そのまま彼女の権威になって、魔理沙は自分の肉体的の審判者として医家を強く意識した。
ふたりは対面して椅子に座った。そのうしろで鈴仙は不安そうに立っていた。
「地平人は脆いから駄目ね」 と言う永琳の語気は嘆息のそれであった。
「開口そんなことか」
「思うに、あなたは……いずれ魔法の森の毒が体を蝕んでしまうと知っていた。なのに森を出なかった。どうしてかしら、死にたいのかしら」
「人間の夢は非人に分からないだろうさ」 魔理沙にも言いぶんがあった 「あの森は毒でもあり薬でもある。魔法つかいならあの大気を力にできるんだ。わたしは弱い人間だから、魔法のためにはあの森で暮らさなければならなかった」
「命が縮むとしても」
魔理沙は頷いた。
「私は命を粗末にする人がきらいです」
「それは先生の基準だ。魔法は人生だ。それを追求しないのは、粗末にするのと同じことだ」
「でも長くは生きたいでしょう」
「それはそうだ」
「私ならあなたの寿命を十年は延ばせます」
「先生の世話にならなければ何年だ」
「三年。さらに短いかも」
「三年」 魔理沙も飲みこむように呟いた。
しかし実感は伴わなかった。その宣告は何もないところで転んだ痛みのように、あまりに唐突すぎていた。それに朝は鏡に映った顔がほどよく赤かった。今に胸へ手を当てると心臓の音は正常であった。永遠亭へくるときも、天狗のように速く飛べた。それでも医家は 「三年」 と言う。
魔理沙はもう十八歳になる。その暖かな初春。
手つだってほしい、魔理沙にも
急に博麗霊夢の言葉が思いだされた。
二
入院しても外の風景は変わりばえしなかった。立ちんぼの竹がときおり風で揺れるばかりであった。風が桜の花びらを長旅させて、竹林の外から布団の上まで運んできたときくらいには、胸がすこしときめいた。積もった笹葉の下から兎が跳びだすのを見かけると、季節わすれの雪だと思った。
「入院してしまいなさい。周りのためにも」
永琳の勧めで入院したことを、魔理沙は後悔しないでもなかった。彼女はひとつところに延々といるのが好きではなかった。そのうえ永遠亭にいると世間の流れがよく分からない。
亭内だけが足の許される範囲になって、いつも頭を悩ませなかった世間と呼ばれる観念が、より神経を突っついていた 「先生の言う周りとはなんだろう。もちろん友達はいる。しかし、その友達にとってわたしは人生の中心ではない者だ。またなりたくもない者だ」 魔理沙はそう頭を巡らせた。
仮に自分の体調を案じて入院をしつこく勧める“周り”がいれば、ただ一人は別としても、彼女は迷惑にちがいなかった……。
まとまらない考えを揉んでいると、室に鈴仙がはいってきた。戸がひらく音に気がつかなかった魔理沙は、ぴしゃりと閉まる音がしたとき遅れてそれを知らされた。
「薬の時間だったか」
「なんだかぼうっとしていたよ」
「考えごとだ。薬を届けてくれる兎への、恩がえしについて」
「フフフフ、フフ。恩なら金で返してもらいます」
しかし入院に当たって永琳が請求した金額は、恩と呼ぶにもおこがましいほど少なかった。
「あの先生はやさしいな」
「みんなが思っているよりはそうです」
「それはそうだ。やさしくなければ非人は医家なんてしないさ」
永琳が褒められると、鈴仙は自分が褒められたような顔をした。その顔はじつのところ正しかった。魔理沙は彼女も非人の医家と認めて賞賛していたのである。尤も彼女はそれに気がついていなかった。
鈴仙が注射器を取りだした。もう何度目にもなる治療の儀式を、魔理沙はいまだに慣れなかった。毎回すこし緊張した。
「口で飲む薬では駄目なのかな」
「いずれ飲む薬に移るから我慢しなさい」
針が腕にはいった。中の液体がゆっくりと血の管を通っている気がした。痛くはなかった。なのに不快感があった。
間もなく注射器が液体を送りきりそうなとき、魔理沙はその硝子の表面に顔が映った気がした。まじまじと見ると、同じく映った窓の外から白樺を思わせる髪が覗いている。鈴仙は集中していて気がつかないけれども、少なくとも彼女はそう見えたーーー見えたのに、窓を見るとそこには雀が乗っているだけであった。春だと思わされた。
針が抜かれると、腕に消毒布が押しつけられた。
「窓がどうしたの」
「何、雀だ」
治療が終わって、医家と患者の関係ではなくなったふたりは、落ちついて談笑することができた。
「飲む薬も結局は口に苦いだろう」 と聞くと鈴仙は 「苦いのは効く証拠なのよ」 そんな迷信を盾にした。
魔理沙は別の理屈で攻めた。
「医家ってのは薬と病気にあかるいだろう。でも健康についてはどうなんだ」
「何ができれば健康だって言いたいの」
「わたしなら魔法にちがいないが」
「少なくとも入院していれば寿命は延びるわ」
「寿命と健康はちがうよ」
「同じだと思うわ」
寿命と健康がそのままひとつになっている非人の鈴仙は、平然とそう答えられた。それが魔理沙の目には無自覚な冷淡と見えた。
長命種の心の鈍覚
魔理沙は心中でそう表現した。
急に壁へ立てかけてある自分の箒で、今から月まで行ってしまいたくなった。
考えのちがいが魔理沙を黙らせたけれども、それが分からない鈴仙は、彼女が寿命や治療のことで不安なのだと解釈した。
「うちは専門じゃないから已めてしまったけど、永琳さまは切開も考えたのよ」
と打ちあけられると、魔理沙は目を丸くした。
「でも体の環境を変えないと、いくら臓腑を切ってもしかたがないから、薬で根本的の病を撲滅するのよ」
鈴仙は隠さずに治療の中身を話すことが、魔理沙の慰めになると信じた。
「内蔵がそんなにわるいのか」
「うん。ただ永琳さまがおどろいていたけど、心臓だけは元気なんだって。だから患っていても動けるんだって。体の中心が元気でよかったじゃない。ほかのところが元気になっても、中心が駄目だと弱ってしまうから」
「魂が元気なら心臓もそうだろう。ふしぎなことじゃない」
冷仙は首をかしげた。
魔理沙は急に学者的の光を目に宿した。そうして講釈した 「霊魂は精神を繋いでいるだけではない。それはまことに肉体的の器官なのだ。それこそがわれわれの第二の中心で、そこが弱ると密接に霊魂と繋がっている心臓も弱ってしまう。そこが力に満ちていれば、心臓はほかの部分が弱っていようと強く鼓動を打ちつづける」 ……。
「新しい……理論ね」
本物の理論を学んでいる鈴仙にとって、それは惑病は同源と言っているように思われた。彼女は冷笑した。
「信じてないな」
「うん」
「霊と万葉を見ればそれを認められるだろうよ」
「霊って、幽霊のこと」
さらにおかしなことを言っていると、冗談まじりに魔理沙を見たとき、鈴仙は思いのほか真剣な瞳に射すくめられて、たじろがなければならなかった。
じつのところ魔理沙は鈴仙ではなく、自分の造語に連想されて、彼女の春もみじ色の暮れない瞳を見たくなったに過ぎなかった。
赤い色を見ていると、魔理沙は二年も会わない霊夢の、巫女装束を空でたなびかせる姿が空想された。
空想の中で霊夢は十六歳のまま大人にならない。空想の空を空想の彼女は飛んでいる。
いつでも。
蓬莱国の黄昏を背に浴びながら…… 「しかし、おまえは“次の巫女を育てよう”と言う。また“手つだって”と言う。
わたしたちが接吻しようとして……失敗してすぐのことだ。
失敗の痛みが静まるまで、おまえを避けたかったのに、おまえは爆弾を投げつけてきた。その爆発が、一瞬でわたしを大人にしてしまったのだ。
おまえが巫女にすべての御業を伝えたとき、おまえの霊と万葉は、失われるかもしれなかった。その怖ろしさ、せつなさ。おまえには分からない」 ……。
それは二年のうちに何度も反復した、堂々めぐりの迷いなので、魔理沙はそこで切りあげると 「すこし眠るよ。薬をどうも」 と談笑も切りあげた。
尤もすでに談笑とは呼べなかった。鈴仙が霊と万葉なることを理解できずに、目を白黒とさせていたのである。
三
とは謂え魔理沙も、それを十全に把握してはいなかった。その抽象的の観念は霊夢、あるいは人間の持つ最も尊い部分とだけ思われた。
それは示され、形容される。
魔理沙が望むとき、霊夢は望まれるだけそれを見せた。そうして彼女のほかには見せなかった。
……。
納得できない様子で鈴仙が室から出ていった。
それから魔理沙は窓を見た。雀はもういなかった。
少なくとも雀は。
「もういいかい」 と合図が聞こえて 「もういいよ」 と魔理沙は返した。
藤原妹紅が窓の外から、ひょっこりと顔を覗かせた。
妹紅の顔はふてくされていた。
「気のついたくせに長々と話すんじゃないや」
「はいってこればよかったのに」
「ここの先生と鈴仙ちゃんは私をよく思わんのだ」
「ここの姫さまを殺すからだろう」
「そうだ。しかし殺したって死なないのに、なんとも泣かせる忠誠心じゃないか」
妹紅が靴を脱いだあと、窓を乗りこえた。彼女は花瓶を持っていた。それは瓶と言うより、ただの割られた竹であったけれども、口に桜枝が活けてあるので、花瓶の体裁を成していた。その桜枝には、ふたつの笹葉が草むすびにされていた。
「わたしが入院したってどう知ったんだ」
「さっき」
「ふん、どう言うんだ」
「新聞の、ことよ」
なんとなく聞いたばかりの問いに、思いがけず妹紅が言葉を詰まらせたので、魔理沙はふしぎに思った。
魔理沙の知っている妹紅は、新聞を買うほど世間に執着していなかった。
「何か……嘘めいてるな」
「本当々々。私は嘘が苦手なんだ。正直者の死、嘘つきのままだと死ねないってことね」
「わたしは長く生きられそうだ」
妹紅は勘ぐられるやいなや、あからさまにひらきなおっていた。その図ぶとさと特に興味のなかったことが、魔理沙に追求を已めさせた。
竹瓶を受けとると、布団の横に置いてある、小さな机に飾ってみた。結められた笹が、匂わしい桜の色と風情ちがいでよく目についた。
「草むすびよ」
「なんだそれは」
「おまえ和歌を知らないのかい」
「知らないよそんな古くさいこと」
「ふん、都会っ子め」
「おまえが結んだのか」
妹紅は笑った。くるしそうに腹まで押さえた。
何がそんなにおかしいのだ。と魔理沙は腹を立てた。
「帰ってよろしい」
「ヒヒヒヒ、ヒヒ。わるい、わるい。体の調子はどうなんだ」
「多くてあと十年と言われた」
ようやく妹紅が畳に座った。
長すぎる髪を粗雑にまとめて膝に乗せ、怨敵の城で胡座を組む姿はふてぶてしかった。
魔理沙は嘲笑の仕かえしに、おどろかせようと寿命のことを淡泊に告げた。しかし合いづちすらなかったので、妹紅がその残年をどう飲みこんだのか測りかねた。
妹紅は退屈そうに指で髪を梳いていた。
髪は繊細に見えた。つややかではないけれども、カバノキ科の樹皮を限界まで薄くしたような、量のわりに涼しい印象で、鬱陶しさのない白線の束……。
魔理沙はその一本々々が、長年で繁殖した長命種の神経のように思われた。そうして神経は増えるくせに、長年で麻痺しているように見えた。
黙っている妹紅を分析する試みは、徒労であった。
魔理沙は妹紅の開口を待たなければならなかった。そうして短い沈黙のあと訪れた開口が、彼女の態度と同じくらい奇妙であった。
「おまえたちが来た夜を思いだすの」
「夜って……」
「おぼえてないとは言わないだろう。あの永夜抄……」
妹紅は邂逅した異変のことを話しているのだ。と魔理沙は気がついたので 「肝だめしか」 と返事ができた。
「おまえたちが入れかわり立ちかわり、私を弄んだ肝だめしさ」
「永夜抄か。意外と詩的なんだな」
「誰かに言うなら私が祖だって教えてね」
「そんな機会こないよ」
話しを合わせていた魔理沙は、一方で別の心理を隠していた。
なぜ唐突に昔を語るのだろう。と魔理沙は疑問をかかえていた。
「謎かけでも受けているような顔だな」
その心理は妹紅へ、魔理沙の表情筋から伝播した。
「私が急に以前のことを語るのが謎なのだろう」
「謎だから理由を話してほしいね」
「ところが私にも謎なのさ」
からかわれているのだろうか。と魔理沙は疑った。しかし妹紅の語気にはすこしの嘲弄も感じられない。
「でも思いあたりはするんだよ。それを聞くかい」
「聞いてみよう」
「それなら話そう。じつのところ私はおまえの短命をこれでも悲しんでいるのだ。
おまえは私と会った日を、昔のことだと思っているのだろう。それが常人と不老不死者のちがいだよ。
私はつい先月おまえの友達になった気がするのに、おまえは十年で死ぬと言う……」
「それが昔を語らせるのか」
「最近だよ。この感じ、おまえには分からない。昨日の友達が、明日には死んでいるなんて……」
妹紅の声は次第に小さくなった。それから涙が畳にぽたぽたと落ちていた。
その急激な涙が魔理沙をおどろかせた。妹紅の言葉に過去への感傷はあったけれども、涙を流す予兆はかけらもなかった。涙にも肩や声のふるえはなかった。涙は山水が平地へ流れるように、仏道が説くところの、無情のことわりと思われた。
それを証しするように、涙は一瞬の作用であった。魔理沙がおどろいた次の刹那に、その涙はもう止まっていた。人形のように無神経な顔は、その濡れた痕跡を見せることでしか、涙を証拠だてられていなかった。
「じつのところ」 と魔理沙がまだ動揺の内に佇むとき、妹紅は改まって 「私が急にそんなことを思いだしたのは、何もおまえの短命のためだけではない」
「ふん、どう言うんだ」
妹紅はふところから封筒を取りだした。
「私は霊夢に頼まれて、これを渡しにきたんだよ」
魔理沙の動揺がさらに深まった。彼女の瞳は多種多様な衝動で揺れていた。妹紅はその流動する心傷がありありと見えた。しかし理解はしなかった。それは彼女が恋情と、海境を隔てた離島くらい、無縁なためにほかならない。
それは妹紅に都合がよかった。魔理沙が霊夢を好いていると分かっていて、機械的の無配慮で頼まれごとを終結できたのであるから……。
魔理沙はおずおずと封筒を受けとった。封をひらくと、わずかに桜の匂いがした。手紙を取りだしたあと、封筒を逆さまにすると、桜の花びらがひとひらだけぽとりと落ちた。
竹瓶に活けられた枝は博麗神社の桜なのだ。と魔理沙は悟った。
文の全文……。
魔理沙が病で入院した。と風の便りで聞いたとき、わたしは信じるよりさきに疑いました
なぜなら病は、わたしのように心の弱い者が患うのであって、魔理沙のように心の強い者とは無縁の敵だからです。その無縁の敵に負けたのは、あなたの心が弱くなった証拠です
わたしの記憶が正しければ、魔理沙は八卦より輝かしい光を放ち、まだ見たことのない彗星のように飛んでいました
いつでも
しかし、それは失われてしまったのかもしれません。魔理沙は弱ってしまったのだから
そのうえで、わたしはこう考えるのです
魔理沙はその失われたことを取りもどすために、わたしの傍へ帰ってくる
絶対に
魔理沙の人生の核心はそこにある。そうして同時にあの子のことを、あなたは認めなければならなくなる
わたしの言葉を、あるいは望みを反映した、独りよがりの予言と思うかもしれません。しかし辞書を引いてでも、考えてほしいのです。霊の夢と言う名前の持つ意味を。自画自賛をするようですけれども、わたしの勘はよく当たります
だから霊の夢と呼ばれるのです
魔理沙はあの子のことをおぼえていますか。まだ手つだってくれるのを待っています
……文は燃やして、誰の目にも触れないように
読みおえた魔理沙は、手紙を妹紅へ返してしまうと、火をつけるように頼んでいた。
魔理沙は霊夢の、望むようにした。妹紅も黙って、望むようにしてくれた。二人の。
妹紅の掌の中の短文が、ゆっくりと端から燃えていった。魔理沙は当事者でありながら、ふしぎと失われてゆく文を、惜しむことなく眺められた。
「霊夢は本当に美しい娘だな。今でも」
と妹紅は呟いた。
魔理沙は視線を炎から、すぐに妹紅へ移していた。無情のまなざしと謂い、声の平静と謂い、霊夢へ特別の好意があるわけではないように見えた。
「霊と万葉。それが霊夢を美しく見せているのだろう」
妹紅が霊夢を美しいと称えるのは、器量ではない。
霊と万葉。その形容に於いてだけである。
「聞こえていたのか」
「うん」
「鈴仙は幽霊だと言う」
「残酷で無感性の考えだ」
と妹紅は非難した。それは鈴仙への嘲弄であったけれども、同時に自嘲の属性を有していた。なぜなら彼女は、ほかの非人と同じように、時が自分を残酷で無感性に変えたと信じていた。
それゆえ妹紅はかつての人間として、霊と万葉なることに鈴仙とはちがう答えを示さなければならなかった。
「幽霊と言う考えは、わずかに正解かもしれない。しかし、おまえが言うのはさらに広義的の趣旨があるのだろう。
霊とは常世に漂う白痴の魂のことではなく、さらに超越的の幻想郷の神々だ。万葉とは人間のこころの内にある、非人どもが熱望している至純至上の感情だ。
すなわち、霊とは見えない者。
すなわち、万葉とは見えない力」
「おまえの言うことはわたしの考えとほとんど一緒だよ」
「そう……よかった」
「わたしは霊夢にそれを見せてもらった、と思う。理解は……できなかったけど。知らないうちに……」
そう途ぎれ々ぎれに語る魔理沙は、気がつかないうちに頬が染まった。彼女は、ほほえんでいた。
その微笑が、娘ざかりを過ぎようとしている魔理沙の顔を、とても幼く見せていた。恋情を隠しきれていない、照れかくしに増えた、癖のまばたき……。
これが恋のできる娘の顔なのだ
と妹紅は思った。
他人の思慕の、なかでも蓮華のように垢のない情念を聞いて、気はずかしくなりながらも、一方で妹紅の心中には残酷で無感性のかけらが潜んでいた。
なぜなら妹紅は、どこかに置きわすれてきた恋の手順の巻物を、見つけられずにいたのである。その苦悩は、強烈に出た。
妹紅は多少の羨望に鍵をかけて、取りつくろいながら言ってみせた。
「それはすばらしいことだなあ。何にも変えられない幸せだなあ。他人の内からそれを証しできるなんて」
「霊夢の傍には、それがいくらでもあった」
妹紅は首を横に振った。
「私が霊夢に近づいても、おまえのようには見ないだろう。おまえのように、あの娘に好かれてはいないのよ」
霊夢に“わたしの傍に帰ってくる”と確信させるのは、霊の夢にほかならない。
霊の夢とは辞書で引くまでもなく、神仏が与えてくれる予言である。と魔理沙は知っていた。
……それなら“わたしの傍に帰ってくる”と核心する霊夢は、待っているだけでよいはずなのに、どうして言いきかせるような命令的の予言の文を、逸って魔理沙に送りつけてきたのだろう。
四
一人前の魔女として、魔理沙も入院しているあいだ、ぼうっと日々を過ごしているわけにはいかなかった。
鈴仙に家からあるだけ本を取ってきてもらった。実践派の彼女にとって、何日も箒も鍋もさわらずに、字ばかり読むのは苦痛であった。ただ続けていればいつかは慣れる。
十冊目には桜の花びらが落ちきった。二十六冊目には近ごろ昼の気温が高いと思った。四十二冊目には本が尽きた。なので伝書烏を大図書館に送ってみた。
返事の文の要約……。
死ぬまでに返せば貸す
魔理沙の言うところ“借りていた”本を鈴仙に送ってもらうと、彼女は見たことのない貴重な本を、ぜえぜえと喘ぎながら、山のように押しつけられて帰ってきた。
魔理沙は読みつづけた。そうしていると、ときおり足場を見えなくする霧のように、ある苦悩が立ちこめた。
いずれ死ぬのに知恵を貯めてどうしよう。と魔理沙は思った。
魔法を学ぶ者は稀である。それは魔法が学んだところで、衣食住の根本的の生活の、役に立たないことを示していた。
魔法の美徳はそこにある。
魔法つかいは、それを純粋な学問と信じるだけに、たとえば算盤のような、生活を支えるための学問を、軽蔑する傾きがある。魔理沙を含めて。
それでも溶けて消えゆくと諦めて、孤高に知恵を墓まで持っていけるほど、悟ることはむずかしい。
知恵の作用
それは意思に関わらず、外部へ継承を望むのである。
誰でも自分の学んだことを伝えずにはいられないのだ。と魔理沙は入院してから学んでいた。
尤も継承する相手も手段も見つからない……。
魔理沙はあわてて身を結ぶ、枯れそうな花を鏡と感じた。入院している弱い体を、恥とした。
……。
蝉がやかましく鳴く、その夏の昼どきに、腹がむかついたあと、喉が熱くなった。
突然の嘔吐感のなかでも、借りた本を汚さないように、横へほうりなげるくらいの意思がはたらいてくれた。
そのあと咳をすると、布団の上へ最初の吐血が出た。
赤黒の血に夕日をにごしたような、だいだい色の粘塊が混ざっていた。
魔理沙は、ぞっとした。
「先生、鈴仙」
返事はなかった。声は壁に吸いこまれた。外の廊下が、無限回廊のように思われた。
このとき医家たちは所用で亭を離れていたけれども、それを事前に知らされたとき、魔理沙は本に没頭していて、曖昧に 「うん」 とだけ言った。
それは記憶に残らない返事であった。
さらに事態の焦燥感が、魔理沙の頭のはたらきを止めた。容易に医家の不在を忘れさせた。
蝉の声だけが、いやに聞こえた。その短命種の交配を熱望する儀式が、魔理沙を不安へいざなった。
魔理沙はまだ竹瓶に活けてある、花のない桜枝にすがりついた。それから彼女は見えない者、あるいは見えない力に無心で祈ったーーー祈った矢先に声が聞こえた。
「ふたりはいないわよ」
それが祈った矢先の好都合なので、魔理沙は幻聴を疑った。
「はいるからね」
幻聴ではないとしても、誰かはよく分からない。
戸がひらいた。
魔理沙は安堵しながらもおどろいた。亭のあるじなのである。
「えっ。輝夜」
「まあ、ひどい血。どうしたのそれ」
「吐いた、今……急に。なあ、水さしを持ってきてくれないか。申しわけないけど、姫さまなのに」
「ええ」
と蓬莱山輝夜は気楽に受けおった。彼女が水さしを取りにいっているあいだ、魔理沙は急に現れた彼女の気まぐれを、事実として咀嚼しなければならなかった。
それと謂うのも、見まい客がときおりくるなかで、輝夜はすぐに会えるのに、まったく会いにこなかったから。
別に理由はないのだろう。彼女はいつでも会いにこられた。なのですぐに会わなかった。それは時間の感覚の差異のみで、魔理沙に対する悪感情はすこしもなかったのである。
魔理沙は桜枝を竹瓶に戻した。
間もなく輝夜は戻ってきた。
「どうぞ」
魔理沙は驚愕にさらされた。輝夜が現れたに比して、その驚愕のなんと多大なことだろう。
輝夜は白枝のような指を、茶碗にかたちづくって、そこへ水を入れていた。指のあいだから、支えきれない水の雫が、ぽつぽつとこぼれおちていた。
「おまえビョーキなのか」
「だって自分の室の水さししか分からなかったんだもの」
「それを持ってきてくれよ!」
「自分の水さし、他人に使われたくないし……」
と輝夜は拗ねた。
頭がおかしいのだ。と魔理沙は思った。
それでも喉に、まだ粘質の跡が残っていて不快なために、しぶしぶと水を輝夜の両手から飲みくだした。彼女が自分の行動力を得意に澄ましているので、魔理沙は 「どうも」 と言ってあげた。謝意はかけらもなかった。
「どういたしました」
輝夜は水を飲ませたあと、姿勢を直した。
凛と正座した。それから改めて魔理沙を眺めた。
つやのある、烏色の髪が、笹川ながれのように、うなじを降りて、背後の畳へ広がっていた。
ふたつの新月の影のような、暗色のまなざし。かたちのよい鼻の輪郭。桜色の唇。すべては絹の線のように思われた。
それに見つめられると、魔理沙はふしぎとさきほどの珍事を許せた。
本当の器量には失態を放免する作用があるのかもしれない。と魔理沙は思った。
しかし、それ以上の厚意は特に湧かない。
なぜなら魔理沙は、霊夢を“愛している”のである。
……。
ところでみやびな鶴を思わせる、輝夜の美貌には、恋情とは無関係に別の作用があった。
喀血は魔理沙に、滅びを怖れさせたのである。そのために彼女は、輝夜の優雅な美貌から、尽きない若さの呪いを感応した。
魔理沙は学問としての長命に興味があった。
それが反転した。輝夜の美貌に、生命としての長命を関心させられたのである。
魔理沙は睨むように輝夜を眺めかえしていた。
「どうして見つめるの」
「おまえじゃない、見ているのは肝さ」
「ああ……駄目よ」
と輝夜は忠告したけれども、気迫はなかった。
それでも不老不死が欲しいなら、別に止めません
その意思が裏にあると思われた。
その無関心は、ふたりのあいだに友情がないためである。
「分かってる」
「肝に不老不死の薬が貯まるって本当かしら」
「自分の体じゃないか」
「肝の中なんて調べないから」
その自分の体への無責任を見くびりながら、同時に魔理沙は腑に落ちるような気がした。彼女も自分の体に無知であった。
輝夜に比して、病身を加味すると、その無知の深刻を招くところと謂い、なぜ彼女を見くびれるだろう。
永琳は近ごろ 「よくなっている」 と癖のように言った。
しかし一向に実感はない。
今日なんて血を吐いた。と魔理沙は今に疑った …… 「それだけではない。森を出てから、わたしの力は着実に減っているのだ。その“よくなっている”の、なんと慰めにならないことだろう。
……先生は嘘を言っているんじゃないだろうか。わたしを不安定にしないように」 と心中で疑惑の種が芽ぶいていた。
魔理沙は膝の上でまくられている、血まみれの布団を凝視した。その液体が養分になって、疑惑を育てるのである。
茎は伸ばされて、画策の花を咲かせたのだろう。魔理沙は不道徳を輝夜に持ちかけていた。
「わたしのカルテを取ってきてほしい」
「どうして」
「おまえとちがって、自分のことを知りたいんだ」
「永琳の物を盗めと言うの」
輝夜の瞳にわずかの敵意がひらめいた。尤もそれは想定された。
魔理沙は落ちついて、彼女を教唆しようと構えていた。
しかし、その敵意は魔理沙を向いていなかった。輝夜は別の標的を捉えたのである。
「駄目だよなーーー
「それって、たのしそう。すぐに見つけだすから待っていて」 と子供のように輝夜がはしゃいだ。
「えっ……どうも」 魔理沙の声は予期しない結果のために、急に不道徳の呪縛から放たれたので、ふがいなかった。
「えっ……じゃないのよ。どうして」
「おまえが了承するとは思わなかったんだよ」
「だから、どうして」
「おまえは先生が大切じゃないのか」
「大切に決まってるじゃない。だから」
「だから……」
「すこしは悪戯もかまわないのよ。信頼しあっているんだから」
輝夜は止める暇もなく、ぱたぱたと室を出ていった。
おかしなことになった。と魔理沙は後悔した。
不意に桜枝が気になった。鼻を近づけると、まだ春の匂わしさが、残っているように思われた。
輝夜は 「信頼しあっているんだから」 と言う。その確信した語気が、魔理沙をさらにふがいなくした。
五
十分ほどで戻った輝夜はそわそわとしていた。
魔理沙はカルテを受けとると、すぐに降参していた。
カルテの一文……。
××××××××××××
××××××××××××××
××××××××
××××××××××
門外漢の文字は、容易に彼女を萎えさせた。
月の文字なのだろう。永琳の周到は、魔理沙に舌を巻かせた。
「おまえたちは漢文か何かを使うんじゃないのか」
「漢文より古い文字よ」
輝夜はどこか誇らしそうに言った。
まだ解決はある。と魔理沙は諦めなかった。
すべてが月の文字で書かれたカルテを、揚々と持ってきたのだから、輝夜はそれが読めるはずである。
「なんて書いてある」
「療治のことなんて分からないわ」
「よくなっているとか、なっていないとかは書いてないか」
輝夜はカルテを読んでいった。
「うん……うん……患者、寿命ノ回復ニ希望アリとある」
輝夜のきてれつな性格を見ていたので、魔理沙は簡単に信じられない。
輝夜に嘘を言う理由はなかったけれども、嘘を言わない理由もなかった。信頼している永琳から、彼女は平気でカルテを盗んできたのである。
老獪に嘘を吐くのかもしれない。と魔理沙は疑った。
「本当か」
「疑ってるの」
「いや……」
読んでもらっているうちに、輝夜の機嫌はそこねられない。
「あなたは読めないんだから、私の言うことを無条件で信じなさい」
輝夜は見すかすように言った。袖の向こうに口を隠した。ホホホホと笑った。
結局のところ魔理沙はカルテを読めないために、輝夜の口に検問された言葉を信じるしかない。
「分かったよ。ほかに何かないのか」
魔理沙は催促した。
また輝夜は読んでいった。しかし、それを唐突に已めた。魔理沙とカルテを何度も見くらべていた。
「どうした。なんで黙るんだ」
「よくないことが書いてあるわ」
「どれくらいだ」
「あなたが失望するくらい」
輝夜は声に、いたわりを乗せていたけれども、それが皮肉にも魔理沙の内で、警笛を鳴りひびかせた。
「ねえ、永琳を呪わないでちょうだい。これを隠していたのはやさしさなのよ。でも私はやさしくないわ。あなたの友達でもないわ。これを話しても平気でいられるわ」
「何を急に弁解しているんだ」
「本当に聞きたいのかしら」 と輝夜はしぶった。
「そこまで言われて、聞きたくならないやつは鈍感だよ」
「身体機能ノ回復ニ希望ナシ。悪化ノ可能性ハナハダ高シ。チカヂカ失明ノ恐レアリと書いてある」
輝夜の予言どおり、魔理沙はひどく失望した。
視覚は生活の必需品と一般であるから。不具の中でも、特に怖れられるたぐいである。
矛さきのない、雷光のような感情が、体をつらぬいた。
自立心の強いーーー魔理沙は魔法のために自立を迫られたーーーために、彼女は余分につらぬかれる。
おまえは自立を失うのだ
と病の魔物が囁いた。近いうちに、高わらいをするのだろう。
「寿命と健康はやっぱり別だ」
「あなたは今、死にたがっている。それがひしひしと伝わってくる」
「思うことは誰にでもある。でも実際に死ぬやつはいない……ほとんど」
「死にたくなるってどんな感じかしら」
「おまえは死にたいと思ったことがないのか」
「ないのよ。死にたくないの、生きるのがたのしいの。いつでも」
輝夜は落ちこんでいる魔理沙のまえで、配慮のかけらもなく言ってのけた。
「なるほど、たしかに……平気でいられるな」
「ホホホホ……」
「どうしたらいいだろう」
「私の知ったことじゃないわ」
「……おまえ、きらいだ」
吐きそうだ。と魔理沙は思った。
魔理沙はうなだれれると、うめいた。癖の強い、金の髪が、汚れた布団に垂れさがった。
日を浴びていないために、色の抜けてきた首の色を、輝夜は見た。そこから苦悩がしみだしていた。
そのさまを輝夜は、美術品を眺めるようにじろじろと眺めた。いつも退屈しているだけに、彼女は嬉戯として苦痛のすべてを飲みこめた。
魔理沙のくるしんでいるさまは、輝夜の好奇心の材料であった。
……霊夢と魔理沙の関係が、ほかの材料として、ゆっくりと鎌首をもたげてきた。
ふたりの不仲を、風の噂で聞いていた輝夜は、その情交をさぐりたくなったのである。
「目が見えなくなったら、霊夢に助けてもらいなさい」
「そんなことはできない」
輝夜は二人のあいだに、ずけずけと足を踏みいれた。
魔理沙の心傷は深すぎるために、その足をしりぞけられなかった。足が踏みこんできたことにさえ、気がつかなかったのかもしれない。
輝夜は容易に、魔理沙から言葉を引きだせた。
「どうして。会いたくないの」
「会いたいよ」
「なら会いなさいよ」
「会おうとしたよ。でも怖ろしいんだ」
「何が怖ろしいの」
「霊夢が変わってしまうのが怖ろしい」
「あなたは臆病なんだな……好きあっていたら、一刻でも一緒にいたいと思うのが、普通じゃないかしら」
まだ詰問を続けるのなら、魔理沙は心の隅に追いつめられて、ついには泣いてしまうだろう。
「会って、言いたいこともないの」
わたしのところへ来てほしい、初恋をふたたび、やりなおすために
「それは……ある」
「それを言うのよ」
「非人と言うのは……簡単なんだな……中身が……本当に」
ぎりぎりの意地で、魔理沙は当てこすりを返したけれども、輝夜は平気で続けられた。
「本当に大切な人なら言うべきよ。それも本音を言ってみせるの。何がなんでも霊夢にあなたを愛させるのよ。そうして……」 輝夜は真に迫って 「愛していると言わせるのよ、何度でも」
「愛していると言わせる!?」
そこで後手々々の魔理沙は、窮地から救われた。
その言葉の霊夢と明瞭に釣りあわないところと謂い、安っぽさと謂い、魔理沙は即座にしらけてしまった。
魔理沙はようやく、輝夜の土足に気がついた。彼女のほうでも、それと感じた。
ふたりのあいだを別種の緊張が支配した。
ふたりはついに敵対した。互いの目線は、にらみを効かせて、火花がばちばちと衝突した。
「ふん、外来的の観念だ。霊夢にふさわしくない」
「あなたは霊夢に“愛している”と言われたいはずよ。それが認められないのは、臆病だからです」
「何が分かるんだ。幾百年も生きているからって、他者を自分の器で推量するな。長命種のその癖が、わたしは本当に傲慢できらいだ」
「よいですか」 のぼせてくると、むしろ丁寧になるのが、輝夜の癖であった 「あなたは霊夢に愛されていると知っている。どうして彼女を他者に取られる恐怖であせらずに構えていられるのか……それは彼女が自分のほかを愛さないと確信しているからです。それが臆病の上に胡座を組ませているのです」
「黙ってくれ」
「かく語られるような、超人的の娘に愛されて、あなたはほかに何を望みますか」
口論は際限がなかった。しかし、とわに熱情は引きとめられない。怒りに満ち々ちていた魔理沙はそのうち、争いながらもゆっくりと、輝夜を俯瞰する位置に浮きあがった。
わたしたちに拘るのはどうしてだろう。と魔理沙は考えた。
しかし考えるまでもなかった。輝夜はそれを、聞くまでもなく、言葉にしてくれたのである。
口論が限界まで煮つまったとき、輝夜の内の“底しれないもの”が、龍火のように吹きあれた。
「笑うかもしれませんけれども、愛や恋と呼ばれることを、私は重んじているのです。それを子供っぽいと、稚拙な感情とかろんじないで、誰かをくるしませるとしても、他者の愛や恋を材料にしても、真剣に解剖して、本当のところを知りたいのです。
あなたには、和の歌が分からないでしょう。いにしえの者たちの感情が、すこしも分からないでしょう。人間に非人が分からないように、非人にも人間が分からないのと同じです。
……ごめんなさい。私の考えかたは、いにしえの時代の考えかたで、今の時代に合ってはいません。それは認めます。
しかし現実的の考えよりも、愛や恋と呼ばれる神秘的の考えが、あなたに力を与えると、認めずにはいられないはずです。
なぜなら霊夢を“愛している”ことが、今のあなたを支えている……」
「帰ってくれ」
「……」
「出ろ!」
「……分かった。帰るわ」
口論はそれで終わった。
輝夜は優雅に頭をさげると、足早に室を出ていった。ぐしぐしと、瞳のあたりを、袖で拭いていた。それが見えた。
……。
「えっ、えっ」
と魔理沙は急におどろいた。
頬が熱いと思って、そこに触れてみると、自分も涙を流していた。
魔理沙の涙は止まらなかった。気がついてしまうと、ひどくなった。
取りつくろってきた寿命の不安、我慢していた入院の鬱屈、まだ実現していない失明の恐怖、口論で何も返せていない図星のくやしさが、破竹の勢いで涙腺に押しよせてきた。
さいわいにも医家たちがいないので、ふたりは互いにちがう場所で、誰の目もはばからず、子供のように気が済むまで泣いた。
六
目を覚ますと暗いので、まだ夜だと思った。しかし半月のころにしては暗すぎた。つめたい光は感じられない。代わりに肌を触れるのは、秋朝の肌ざむさであった。
「見えない」 と呟いた。
すぐに誰も呼ばなかった。ゆっくりと諦念を噛みしめていた。
魔理沙はよたよたと窓まで歩いた。ひたいが窓にぶっつかった。窓を開けると、草を掻くような、笹葉が風にたわむれる音が聞こえた。
置きざりにされた一羽の燕が、魔理沙を見つめていたけれども、彼女はそれを知らなかった。
目を普通にとじるとき、瞼の裏でちらついている、蛍のような残光さえもすでにない。
めくらはそうなのか。と魔理沙は学んだ。
暗闇がそれを教えてくれた。
永琳を呼ぶと、すぐに診察してくれた。
「目の神経が死んでいるわ」
永琳の診断は、分かりきっているだけに、なんの慰めにもならなかった。
「知っていたよ」
と魔理沙は嘯くように言った。
永琳は眉をひそめた。その表情は、魔理沙にすこしも伝わらなかった。
「わたしは知っていた」 魔理沙の唇が、アイロニーを浮かべて 「ここの姫さまにカルテを盗ませた」
魔理沙は素直に白状した。
永琳は瞼をしばたたいたけれども、間もなく呆れたように言った。
「いつだったか、カルテの位置が動いている気がしたけど……」
「輝夜はたのしそうだった」
「あの子は、そうなのよ」
「よく友情が成りたつな」
「別に無条件の友情じゃありません。あの子には三回くらい死んでもらいます」
「わたしはどうなんだ」
「盗んだ輝夜の責任です。それから患者に信頼されなかった私の責任です」
魔理沙が咳をした。血も吐いた。近ごろは咳のたびに血が流れた。血を受けとめた掌は反射的の動きと、その温かさに慣れきっていた。
永琳は掌を拭いてくれた。
「寿命は延びても、健康が失われるばかりなんて……」
「入院した時期がよかった。しなければさらにひどくなっていたわ」
「どう言うんだ」
「喉に血を詰まらせて、死んでいたかも」
魔理沙は失笑した。
それでよかったのかもしれない。と魔理沙は思った。
その自嘲がありありと顔に出たので、永琳は 「自棄になるんじゃありません」 とたしなめた。
「なら健康にしてくれ。目を開けさせてくれ。先生の顔を見させてくれ。いとおしい人の顔も見させてくれ。
寿命が延びたとしてもだよ。わたしは最後まで動けるのか、耳は聞こえるのか、箸は持てるのか、味はするのか」
梃子のこわれた天秤のように、不安定な感情が、魔理沙の内部を蹂躙してしまうと、今度は永琳を標的に定める。それは容易に、化学反応を起こして、興奮に変わった。
「落ちついて。あなたは恐怖でおかしくなっている」
「急に失明したらヘンになろうさ。それより聞いたことに答えてくれ」
「まだ分からないとしか言えません」
「今度は隠さないでくれ」
「知ってどうしますか」
「どうしますかじゃない。なんで黙っていた。なんで教えようとしなかった。それを知らなかったとしたら、わたしの損がどれだけ大きくなったと思っているんだ。それを事前に知っていたから、おかしくならずに、話すくらいはできるんじゃないか。
結構だ。もう、結構……独りにしてくれ。わたしを、しばらく、独りに、してくれ!」
永琳を室から追いだした。しかし望みどおりになったと謂うのに、襲ってくるのは、頭を壁にぶっつけたくなるほどの、みじめであった。
わたしは滑稽なやつだ。と魔理沙は後悔した。心中で永琳に謝った。
悔恨は時間が経つと、静まった。
それにしても、暗い。
ただ失明のために暗いのか、まどろみが視界をせばめているのか、区別ができない。冥府の空も、これほど暗くはないだろう。
怖ろしいまでの、人肌への恋しさ……死者は、寒くてたまらないと聞いたことがある。いつでも。
……。
日が昇って、日が沈む。
楓が夕日の色に見そめられた。
あきづ羽は仲秋をはこんでくる。
壁にすがりながら、あるとき箒を手にすると、力を使うまでもなく、飛べなくなっていると分かった。
魔法は死んだのだ。と魔理沙は知った。
それは魔理沙の人生の死である。
本が要らなくなったので、魔理沙は鈴仙に送りかえしてもらった。
病がくすくすと笑いながら、葬儀の手つづきを、機械的の動きでおこなっている……。
七
霊夢が飛んでいた。その顔を横から眺めているときに、魔理沙は夢だと気がついた。なぜなら彼女はめくらであった。すでに飛べもしなかった。
不意に空を仰いでみると、天のやわ肌に黄色の月が、ほくろのようにくっついていた。
魔理沙が止まると 「どうしたの」 と霊夢が宙空で振りかえって、微笑した。十六歳のころと、彼女は何も変わっていない。
魔理沙は思った 「わたしは現実で、この夢のさきを、知らなければならないのに……手をこまねいているうちに、めくらの枷をはめられたよ。早いうちに、おまえと会うほどの勇気があればよかったのに。
おまえは文をくれた。おまえは本当に一途なやつだ。しかし、わたしも一途だった。
もうすぐ離れて三年になろうとしているけれども、おまえのことを考えない日は一度もなかった」 ……。
魔理沙が黙っているので、霊夢はまた 「どうしたの」 と声をかけた。
「おまえの顔を見ている」
「どうして」
「本当なら見えないんだからしかたがない」
「あんた夜目が鈍かったかしら」
「そうだよ。暗い、とても暗いんだ」
「それなら近づけばいいじゃない。ほら、そこに。わたしの顔があんたの瞳にいるじゃないの」
霊夢は急に、鼻が触れそうなくらい、ずいっと顔を寄せてきた。
魔理沙は黒々とした瞳を直視した。その視線は生糸のように細かった。すべての警戒の網を通りすぎて、簡単に彼女を氷解させた。心臓がわずかに早くなった。それが適度で快かった。
「いた」
「いるに決まってるじゃない」
二人は笑った。
神社に帰ると、二人は満開の桜の下で、酒を飲みはじめた。酒のみなもに映った月は、飲んでも々んでもなくならなかった。
二人は月を飲みほすために、酒を注ぎあった。その無限の児戯が、頭を酔わせた。
この絵画の世界を思わせる、満開の第一夜……。
さきに霊夢は目を回した。桜の木の根にもたれながら、草のしとねに足をあずけて、眠たそうにまばたきをしながら、うつらと盃を手で遊びはじめた。
「おい、外で眠るんじゃないだろうな」
「ンー」
「ンーじゃない」
「起こして、ちょうだい、体を。座らせて、ちょうだい、わたしを……」
魔理沙にゆらゆらと手が差しだされた。鶴の首のように、なよやかな腕が、魔理沙の指に触れようとしていた。手は触れるまえに、蝶のようにひらひらと揺れて、触れられるのを待ちわびている。
なんの規則も感じられない、踊るような腕の動きが、魔理沙に過去をよみがえらせた。
これは過去の復習なのだ。と魔理沙は気がついた。
…… 「この手を取ったから、わたしたちの関係は変わってしまった。それを承知しているのに、また触れてしまいたい。きれいな手だ。しかし魔性の手だ。明晰夢になってまで、この手はわたしに、誤ちを望むのか」 ……。
魔理沙は、望むようになった。その手はすべての忍耐を乱暴に蹴ちらしてきた。彼女は過去と同じように、虫を絡めとるような、魔手の罠へ飛びこんでいた。
魔理沙の手が触れたとき、勢いよく霊夢の腕は、彼女の手首を掴みとった。
霊夢は強く手を引いて、魔理沙の顔を目のまえに倒した。
「危ないじゃないか」
「ンー」
「酔っているだろう」
「酔っているだろうですって。けらけら」
霊夢の酔いはおかしかった。べたべたと魔理沙に触れてきた。その触れかたは、つやめきながらも、子供がじゃれているように、一線だけは踏みこえなかった。
魔理沙は困惑した。
しかし 「けらけら」 が伝染したのかもしれない。その熱病は魔理沙を酔わせて“底しれないもの”を熟成させた。至純至純の感情が、外部へ持ちだされて、二人をそこに結めあわせる。
二人は、しびれた。
魔理沙は手に触れる、肩に触れる、髪に触れる、唇に触れる……霊夢の。
それが無条件で受けいれられた。
受けいれられたのだから、受けいれかえすことは、当然のように思われた。魔理沙も近づいてくる、霊夢の唇を受けいれようと、目をとじた。
……。
しかし互いの唇が、わずかに端へ触れそうなとき、魔理沙は飛びのいていた。
何か“或ることであり、すさまじいこと”が、魔理沙にはたらきかけて、目を覚まさせた。
それは張りつめた糸の切断によく似ていた。そうして切れた糸は勢いのあまり、跳ねかえって、二人の恋情を痛々しくも、祟りつづけることになる。
飛びのいたとき、魔理沙の腕に盃が当たって、すべての中身がこぼれおちた。中身は二人の底しれないものと思われた。
それはこぼれて、自覚させられた。
これが人生の明暗なのだ。と魔理沙は悟った。
…… 「人生には、あかるいところと暗いところを分ける境界がある。そこで敗れると病を患い、病根を根絶しなければ、二度と立ちなおれないのだろう。
おまえは友達だった。恋の対象ではないはずだった。しかし、どこか納得できた。おまえよりも、わたしに近いやつはいなかったのだから。
わたしは霊夢に恋をしている!
それを認めなければ、病根は絶対に根絶できない」 ……。
それから神社を飛びさったことが、明瞭に思いだされてきた。
ただの夢でしかないけれども、魔理沙は誤ちを正そうとした。
霊夢の肩を、両手で強く押さえつけると、魔理沙は顔を近くに寄せた。
二人は、見つめあっていた。
霊夢のうるし色の瞳は、おどろきをひらめかせていたけれども、次第にゆっくりと静まった。
降るような星を包んでいる、本当の暗色がそこに定着していると思われた。
魔理沙はそこに、至純至情の感情をいつも捉えた。
霊と万葉
それは示され、形容される。
「あのとき自分の想いに気づいてしまったんだもの」 霊夢は告白した 「しかたがないわ。抵抗できないわ……わたしは抵抗しないわ。気がついたのなら、行きつくところまで行くしかない。何があっても」
「わたしたちは友達でしかなかったんだよ」
「友達でなくなるしかないわ」
「そう簡単に……」
「そう簡単よ。少なくともあんたは取りつくろわずに、また接吻しようとしてくれたわ。わたしは……うれしかった」
「夢のおまえはよろこぶことを言ってくれるのか。本当のおまえもそう言ってくれるのか」
「何を言っているの。夢はあんたじゃない」
「えっ」
「えっ」
何かおかしいぞ。と魔理沙は思った。
夢の主導権。
それはどこにあるのだろう。
……。
突如として、硝子を砕くように、背景に亀裂が走った。
その亀裂が二人を引きさいた。
それから桜の花びらの渦が、すべてを隠して、互いの声も聞こえない。
魔理沙は別にかまわなかった。今度は目が覚めたあとに、会えればよいのだから。
「おまえ、わたしに愛していると言えるかい」
魔理沙は夢がとじるまえに、呟いていた。
八
夢が繋がっていたのだ。と魔理沙は思った。
別に珍しくもない現象であるけれども、偶然にもそれが、二人のたもとを結めたのである。
魔理沙は目が覚めたとき、秋朝の日ざしの絶妙なぬくもりが、久々にうれしかった。
「会わないと」 と魔理沙は言った。
その過去が夢を背景にして、途中まで完璧な能楽のように演じられていたのは、因果なのかもしれない。しかし最後には即興が勝って、台本が負けた。
魔理沙は病根を根絶したのである。
臆病の風は、急に勢いを弱くした。
「今日は機嫌がいいじゃない」
薬の時間に来た鈴仙は、魔理沙の変化を感じとった。
「分かるのか」
「波長を見るかぎりそうよ」
「安定した波長なんだろうな」
「ちがうわ。そう謂う波長は跳ねっかえる動きよ。兎の跳躍と似ているのよ」
薬を飲んだあと、談笑もほどほどに、魔理沙は言った。
「ここを出るよ」
ふたりのあいだに沈黙が交錯した。
沈黙が鉛のように重くならなかったのは、鈴仙が波長から察したのかもしれない。一夜にして魔理沙の波長は以前のように、彗星の勢いを取りもどしていた。それはじっとしていられるような、陰気な波長では絶対になかった。
「そう。しかたがないわ」
「あっさりと受けいれてくれるんだな」
「受けいれなかったらあんたは出ないの」
「いや、出るよ」
「なら私の了承なんて関係ないのよ」
「しかし長いこと世話をしてもらったのに、勝手に出るなんてせつないぞ」
「まったく。せつなくなんてないわ。あんたの世話の面倒がなくなってうれしいくらい」
鈴仙は驕ってみせた。魔理沙は苦笑するしかなかった。
……。
事情は鈴仙の口から永琳に届いた。
魔理沙の専医的の立場にある永琳が、それを知るのは権利と義務であった。
そこには別の義務が追従した。無謀に退院しようとする無知な患者を、永琳は説得しなければならなかった。
ふたりは夜になると、蝋燭の灯りに対話の場を立てた。
先日の口論が、ふたりの些細な因縁であった。魔理沙は退院するまえに、それを解消したかったのである。
「わたしによくなっていると嘘を言って、失明を黙っていたのは……不安にさせたく、なかったからだ」
「それもあります。しかし本当のところは、あなたが自棄になって、どこかに消えるのを避けたかったのです」
「目が見えるうちなら、どこへでも行けるから」
「そうです……」
それから永琳は説得した。
「あなたの病は森に由来しています。それは魔の力に刺激されると活性するのです。それでも退院すれば、あなたは魔法を使おうと、多大な錯誤をするでしょう。私はそれを認められません」
「先生が延ばしてくれた寿命は、無駄にしてしまうだろうな」
言葉の戦争。
永琳はそれを予感した。説得は長くなると思われた。
「先生、あのときは本当にごめんなさい。わたしは先生に謝ります。頭をさげます。先生の治療に礼を言います。
先生の治療は無駄にしてしまいます。しかし、もう病は治りました。
わたしは体よりも心に病根がありました。それを治すことができたのです」
と魔理沙は急に頭をさげた。それが永琳には、伏兵であった。
言葉の戦争に身がまえていた永琳は、そこで鼻をくじいたと一般であった。
魔理沙の謝意は、さかしかった。
それには永琳を懐柔する作用があった。魔理沙はそれを知っていた。
矛盾するようであるけれども、魔理沙は画策とまことの謝意を両立した。それは互いに乗法して、倍の威力になり、永琳をつかまえた。
「心の病ですか。それは門外漢ね。どうして……」
永琳は悩んだ。それから聞いた。
「ここを出たらどうしますか」
「霊夢のところへ戻るよ」
「戻るところがあるの」
「うん」
「そう……なら、もう……しかたがないわね」
「先生、惑病は同源って信じるか」
「そんなの論理的じゃないわ。でも心が治ると、多少なりとも体がよくなるのは、事実でしょうね」
それから話しあったすえに、治療のない今後を考えて、冬までは体調を整えてから、退院することにまとまった。永琳は完璧主義者であったけれども、患者が本当に望むなら、退院を譲歩できるくらいには柔軟であった。
九
底びえの冬が来た。変化の乏しい竹林に白がたされ、兎たちはその色に同化して、誰の目にもつかなくなった。
命の季節が終わって、すべての死の予感として、その季節は現れるけれども、それは同時に、再生への予感でもあった。
寒さが来たるとき、いとおしい人が傍へいてほしい。いなければ積雪の重みに耐えられはしない。誰でも。
魔理沙は以前とくらべて、厚くなった布団に納まりながら、鈴仙に言った。
「さあ、書こうか」
退院日の朝に文を書くと決めていた魔理沙は、目が見えないために、鈴仙に代筆をしてくれるように、約束を取りつけていた。
「なんだか緊張してきた」
「何も緊張することはないよ。言葉どおりに書いてほしいだけなんだから」
「私にあんたの想いは乗せられないかもしれない。字に……人間の想いなんて分からないから」
代筆を気軽に受けおっていた鈴仙は、それまで感じたこともない緊張のために土壇場でひるんだ。他者の意志を伝達する、電波塔としての立場を彼女は知らなかった。
魔理沙の言葉も、自分を媒介にしては無味になってしまうのかもしれないと、鈴仙は恐れていたのである。結局のところ、書写でもないのだから、字は々でしかないけれども、その想像は彼女の手を止めるには充分すぎていた。
「おまえと離れてもう三年にーーー
「えっ、えっ。急に話さないで!」
「勢いで書けば、緊張する暇もないさ」
「乱暴なんだから」
魔理沙は乱暴であったけれども、延々とまごついているよりは、よいと思われた。
鈴仙は腹を決め、深呼吸をして、それが穏やかになると、魔理沙はゆっくりと語った。
霊夢と離れてもう三年になろうとしている。それが無駄とは思わない。わたしには必要な時間だったと信じている
何も解決がひらめかないとき、座禅のように、ひとつところで考える時間が、わたしのような者でも、ときには大切なのだ
そうして待つんだ。それから待ちわびるようになったとき、本当の夢が見えてきた
しかし、これ以上は必要ない。おまえが横にいないと退屈だ。秋ごろ夢に、それを認めさせられたのだから
ところで“わたしの傍に帰ってくる”と霊夢は文で予言した。それは珍しくも、おまえの勘のはずれになっている
わたしは弱っているために、霊夢のところに帰れなくなってしまっている。目が見えなくなって、飛べなくなって、魔法もほとんど使えなくなって、数年で死んでしまう体になった
霊夢。わたしといられるか。それを許容できるか。できるなら……
「わたしのところへ来てほしい、初恋をふたたび、やりなおすために」
そう文を締めると、鈴仙の 「えっ、えっ」 とたじろいでいる声が、魔理沙の耳にはいってきた。
「うわ、うわ……」 と鈴仙はさらにたじろいだ。
「どうした」
「何か……瞳から、私の狂気の瞳から、流れてる。涙なのに、涙と一緒に、涙とちがうこと」
文を語られているときほど、誰かの波長を初春のようにやわらかで、星のようにせつないと思ったことはないだろう。
それが鈴仙をたじろがせた。彼女の感覚器は、まだ見たことのない恋情を知恵ではなく、六感だけで知ったのかもしれない。
鈴仙の瞳から、涙と別に、底しれないものが、溢れた。
「これだ、これだ。あんたは言ってた。霊と万葉。これが、そうよ」
鈴仙は泣きわらっていた。しかし同時に、憐憫の詩を書いているような、有情のあわれが浮かんでいた。
彼女は一人で納得すると、手紙を封筒に納めてから、暴風のように室を跳びだしていった。
魔理沙は呆然とした。それから、くすくすと、笑った。
証しされたのだ。と魔理沙は思った。
霊と万葉……至純至上の感情……底しれないこと……或ることであり、すさまじいこと……
万珠の形容があり、言葉は選ばないのだろう。
それは他者の内に在ることであり、そのために思いどおりにならないことであり、それゆえに求めることであり、そのうえで他者がわたしの内に発見してくれることであり、そのときに私も他者から得られることである。
いかに無知であろうと、いかに愚かであろうと、人間と非人の区別なしに、底しれないものとして、ときには泉のように溢れだし、それでも絶対に尽きはしない。
文を届けると、鈴仙はすぐに戻ってきた。肝心の霊夢が昼になってもこないので、魔理沙は眠ることにした。
……。
夜になった。
不意に音が聞こえて、目が覚める。
雪と、笹葉と、月の光をざくざくと踏みしめていた。その足音は、まだ遠くであったけれども、目が見えなくなってからの魔理沙は、耳が異様に敏感であった。
間もなく窓の外でそれは止まった。
魔理沙は窓にあゆみよった。そうして窓を開けた。
「遅れちゃった。見まいの品が欲しかったから、天まで行っていたのよ」
霊夢は甘い、桃の香りを漂わせていたので、桃を略奪してきたと明白であった。
自由奔放
その熟語が霊夢のかたちを借りて、現れているように思われた。
霊夢は今でもこう言うやつなのだ。と魔理沙は思った。
何も変わっていない霊夢を祝福した。それが緊張を溶かしてくれるので、魔理沙は遠慮も敵ではなかった。彼女も気楽に言ってみせた。
「要らないよ。すぐに会いに来たらよかったのに」
「すぐに会いたかったの」
「どうかな」
「なら手紙に書いたらよかったのに。すぐに会いたいって。ねえ、桃を食べない。重いわ」
「腹が減らなくてな」
「そう。痩せたわ、あんた」
霊夢はせっかくの桃を、必要ないと思うが早いか、ぽいぽいと竹林にほうりなげた。そうして急に魔理沙を引っぱると、彼女が病身と知っていながら、窓の外へ乱暴に連れだした。外はあまりに寒かった。
魔理沙は霊夢が、望むようにした。
霊夢は背中に魔理沙を乗せた。
「わたしの、重い、女……」
霊夢はぼそぼそと呟いた。魔理沙は消えてしまいそうな声に、すべての生命を消費するような決意を見た。それは闇の奥から、岩塊のように彼女へ落とされた。
それは“或ることであり、すさまじいこと”であった。
魔理沙は、ぞっとした。
合図もなしに、浮遊感をおぼえると、もう飛ばれていた。骨身にしみる、土の空気とはちがって、さらに寒くなったとしても、さわやかに思えるほどの寒風が、二人を導いた。
その寒風が弱まるとき、密着しているためなのか、霊夢の鼓動が聞こえてきた。
雪に吸収されてゆく、子供たちの声のように、とても音は小さかった。
心の弱い……。
十
霊夢は神社に辿りつくと魔理沙を炬燵に押しこんだ。
「寒い、々い」 霊夢は呟いた。
その呟きはいそいだ足音と一緒に遠のいた。その方角は魔理沙の予想するところ、神社の倉と思われた。
霊夢が戻ってくると何かを注ぐような音がした。
酒の匂いもした。霊夢は酒瓶を取ってきたのである。
「飲みなよ」
魔理沙の鼻さきで酒が香った。
「わたしは病人だぞ」
「そう。ないわね」
「何が」
「今の言葉に、飲まない理由はひとつもなかった」
魔理沙は苦笑した。暴力的の理屈であるけれども、退院に伴って、人生に凝縮を余儀なくされた彼女は、酒を断つほどのわけがなかった。
すでに人生は長さよりも、充実の幅を求めるのである。
酒のかぐわしさに手を引かれて、魔理沙は盃を受けとると一気に呷ったーーー呷った途端に喉が焼けるように錯覚した。それから、むせかえった。
「けらけら、けらけら」
「酒ってこんな味だったかな」
「どんな味がするの」
「ただの苦い水だ」
鼻にくらべて、病人の飯に慣れた舌は、もう味覚が変わっていた。
霊夢はむせたときに、口の周りへついた酒を、巫女装束の袖で拭いてくれていた。
わたしの、重い、女
献身的の働きが、魔理沙の脳裏で、その言葉を圧迫感と一緒によみがえらせた。めくらになって自立を失った彼女は、言葉の意図は別にしても、まさしく重いにちがいなかった。
「わたしはおまえと暮らしたいと思っている」
「思うも何も、一人じゃ何もできないから、死んでしまうじゃない。困るわ、そんなの。だから……暮らしなさいよ、いくらでも」
「わたしはめくらだよ。迷惑で厄介とは思わないのか」
「そう思うこともあるでしょうね」
「それを許容できるか」
「できる」
その手紙にも書いた警告を、霊夢は即答で押しのけた。その平然さは、魔理沙に迷惑で厄介な自分が、受けいれられていると分からせた。
「そうか。そう言うなら遠慮なくたよりにするよ。迷惑になるよ。厄介になるよ。おまえの肩に寄りかかるよ。死んでしまうまで」
霊夢の即答は養われることへの忌避と、魔理沙の遠慮を氷解させて、へつらいの意思も自立への意地も叩きこわした。
魔理沙は素直に礼を言えた。
「わたしも寄りかかるのよ」
霊夢はごそごそと炬燵から動いた。そうして本当に魔理沙のとなりで、肩に寄りかかってみせた。こごえる者たちがそうするように、寄りそいながら、二人の片手は、炬燵の中でつながった。
ゆたかな髪が、魔理沙の頬をくすぐった。その髪からは、まだ冬を乗りこえるために、花をひそめているはずの、椿のあぶらの香りがした。
化粧をしている。と魔理沙は分かった。
気がつかれないように、鼻で息をすると、おしろいの匂いもした。
魔理沙の目も見えないのに、霊夢はそれを怠けなかったのである。
その椿のあぶらも、おしろいも、霊夢の匂いたつような、女の部分を示しているように思われて、魔理沙はときめいた。
「迷惑でも厄介でも文句はないのよ。でも誤解しては駄目よ。わたしは……あんたに無償で奉仕できるように……できてない。あんたに代償を払わせるのよ。沢山、々々」
「おまえのがめついところはよく知っているよ。」
「よかった」
二人はそこで、示しあわせたように静寂した。
しばらくは黙っていた。
月光が雲にかげるとき、肺の凍るような、さらに深い静寂が訪れると思われた。すうすうと息づかいが、となりの襖から聞こえてきた。
魔理沙は聞いた。
「おまえは“手つだって”と言った、一人では無理なのか」
「無理じゃないのよ。一人に教えられるより、二人に教えられるほうが単純にすばらしいじゃない。そうでしょう」
魔理沙は思考した 「わたしが魔法を学んできたことも、患ったことも終局には、おまえのためのできごとなのかもしれない。おまえは奸計を弄さない。しかし、おまえは見えない者と見えない力に愛されている。
わたしは考えたことがある。幻想郷の神々は、霊夢が望むようにする」 ……。
魔理沙は言った。
「分かったよ。あの子に魔法を教えよう。それがおまえの“手つだって”なんだろう。そのために次の巫女を育てはじめたんだろう」
「うん」
「おまえは怖ろしいやつだな。そうすることで、わたしを逃げられなくしてしまった」
「……うん」
「かまわないよ。もう理由はないから。今は近いほうが嬉しい」
「うん」
その代償に魔理沙はこれから、霊夢の想いを吸う、海綿として暮らすのである。
十一
魔理沙が神社に住むうえで、次の巫女は念頭に置かれる。
その神社の住人を、かつての魔理沙は爆弾とたとえて、今の霊夢は代償とたとえた。
巫女はもう、霊夢が三年ほど一人で連れていた。
幼児のころから、霊夢の手にあったわけではない。三年前に紹介されたとき、本当に産まれたばかりなら、鬼子の体格と一般なので、それと分かった。
紹介……
謂ってしまえば、霊夢が“手つだって”と言ったとき、それを魔理沙が認めなかったとき、巫女は連れられていたのである。しかし巫女は、彼女を初対面と思っていた。
それを忘れて、闖入者の魔理沙を呑気に受けいれられるのは、霊夢の影響と思われた。
一度は巫女を拒否しているために、おぼえられていないことは、魔理沙を安心させた。それと知ると、確実に心傷を受けるために、巫女にも都合がよかったのかもしれない。
巫女はまだ使える魔法で指先ほどの炎を見せると、きゃいきゃいとよろこんで、近づいてくるくらいには危うかった。同時に魔理沙が頭を撫でるために手を伸ばすと、照れるくらいには成熟していた。
巫女は十歳くらいであった。
……。
退院してから二日、三日で鈴仙と会った。
「様子を見にきたよ」
そのわりに鈴仙は薬箱もないようなので、それを口実に遊びにきたと明白であった。
それが魔理沙には都合がよかった。
すぐに帰りたいと思われないように、鈴仙を炬燵に催促して、蜜柑を渡すと、魔理沙は聞いた。
「魔法とは他人にどう教えるべきだろう。まず他人に何かを教えるにはどうするべきだろう」
魔理沙は師事がないために、それを知りたかったのである。
「おまえは先生に教えられている。教えられているなら、教えることを体で知っているはずだ」
「教えられること、教えることはちがうのよ」
「しかし先生を近くで見ているじゃないか」
「見ていても、しているわけではないから。
本当に分からないのよ。私のように単純だと駄目ね。永琳さまの言うことを一から十まで、何も考えずに淡々と飲みこむだけなんだから」
「一から十まで一度に飲みこめるならそれだけで才覚だよ」
「そうかな」
「一から十を知ろうとしているのに、一から六までしか理解できないから、わたしのような魔女がいるのさ」
「まあ。謙虚なのね」
「殊勝なだけだよ」
「悩みを一人で解決しようとしないだけ殊勝ね」
蜜柑の皮を剥き々きに、鈴仙は実を食べながら、魔理沙の具合が気になっていた。遊びにきたのだとしても、それを心配してしまうところに、医家の自覚と友情があった。
雪が降っていた。それが恐ろしいまでの勢いで積もった。
鈴仙は神社で冬を乗りこえることが、魔理沙の困難になると思っていた。
神社に至るとき、非人の鈴仙でも今冬の一陣はこたえたので、病身の魔理沙を心配したけれども、じっさいに顔色を見ると、彼女は平気そうに見えた。
魔理沙は魔女装束を着こんでいた。その服が入院しているころの襦袢や褞袍より、彼女に精力的のつやを与えているのかもしれない。
その格好は魔理沙にぴったりと合致していた。
「本当に。病は気からってやつかな。馬鹿にできないわね」
「元気そうに見えるか」
「魂が元気なのね」
昨年の春ごろに語った理論が、鈴仙の口から飛びだしたので、魔理沙は意外に思った。
「その理屈を信じるのか」
「半分くらいは信じてもかまわないわ」
それから会話は当初の問答に戻った。しかし今度は鈴仙のほうにも問いたいことがあった。
好奇心が煮つまってきたとき、鈴仙は聞いた。
「どうして教えかたってやつを知りたいの」
魔理沙の唇が不敵に歪んだ。それが鈴仙に、いたずらっ子のような印象をいだかせた。
悪事を予告するように、魔理沙は言った。
「わたしは魔を譲渡するのさ」
「誰に」
「次の巫女」
鈴仙は目を丸くした。何も返してこないので、彼女の表情を想像しながら、魔理沙は蜜柑の粒を食べると言った。
「昼寝しているけど、会いたいなら呼ぼうか」
「いや……」
「フフフフ、フフ……巫女の御業と、魔も継承する、誰も見たことのない人物」 魔理沙は興奮した様子で続けた 「先生が冷仙にそうするように、わたしも誰かに受けつがせたい。まだ生きているうちに。それが魔女として、後世を繋ぐと言うことだ」
「あんたは、最高に……ロマンティックね」
鈴仙が途ぎれ々ぎれに口から漏らした言葉は、魔理沙を奇妙な気分にした。
ロマンティック(Romantic)
その英字が魔理沙におもはゆさを与えた。
鈴仙は説明した。
「だって……次の巫女は霊夢が育てたんだから、彼女の子であるわけでしょう。そうして魔理沙は、その子に魔法を教えたいんでしょう」
魔理沙は頷いた。
鈴仙はだんだんと興奮して、耳を天井に向かって、ぴんと立てた。
「ほら、ロマンよ!」
「声が大きい」
「ロマンよ。それに……大人よ」
と言うと鈴仙は、こっそりとかたわらに置いていた、渡すか々すまいか、悩んでいた物を持ちあげた。
じつのところ鈴仙は、様子を見にくるだけではなく、それを渡すために神社へ来たと謂っても過言ではない。
それが魔理沙に必要かどうか、測りかねていた鈴仙は、決心したように、彼女へそれを握らせた。
その感触に、魔理沙は愁いさえも感じた。
箒だ。と魔理沙は即座に悟っていた。
「置きわすれていたよ」
「もう飛べないから敢えて置きわすれていたんだよ」
魔理沙の言葉には、諦念が入りまじっていた。もう飛べもしない彼女にとって、その道具は近くにあるだけで、いたずらに心を痛めるのである。
それと知ると、鈴仙は鼓舞した。
「飛べもしないやつに、魔法なんて、教えられない。それは絶対に、必要になる。
大丈夫よ、あんたは飛べるわ。そうじゃない……なんと言うのか……飛ばなければならないわ。
文を書いたときに思ったの。ふたりの恋は、絶対に行きつくところまで、行くことができると。それが分かった。
私はあんたの世話をした。箒を握らせるくらいの権利は、あると思うわ」
鈴仙は無自覚に、魔理沙を圧倒するまでの語気で迫った。
鈴仙は文を書いたとき、涙と一緒に、至純至上の感情を見た。そうして次の巫女と言うのに、その感情が継承されることを、彼女は今に確信したのである。
魔理沙は 「誰も見たことのない人物」 と言った。鈴仙には、その人物の生誕を援助しようとする、医家の親切が表出しているのかもしれない。
鈴仙は講釈した。
「私は医家のはしくれとして、不老不死者の弟子として考えたことがあります。
生命と言うのは隕鉄や、龍骨や、水銀を体に入れなくとも、すでに不老を得ているのではないかと。
子供たちは親々の体の一部から成されている。しかし子供は産まれるとき、親の一部であったのに、若年として産まれてくるのです。
親は老いているのに……それは親々の一部がひとつになって、産まれなおしたと言えないだろうか。それが永遠に循環して、人間たちの不老のかたちを創造する」
「おまえは仏門なのか」
「茶化さないで。別に輪廻転生のことじゃないわ」
「まじめに聞いた」
鈴仙は咳をはらった。そうして続けた。
「ただ……ほかの無垢で無知な生命とちがうのは、人間たちに意思があること。いかに親々の一部でも、個々の意思が内部へ芽ばえるために、同一の人間は産まれられないのです。それで人間たちの不老のかたちは、中途半端に完成してしまった。
しかし……もしも、もしも親々が自分たちの意思や力を、等分に受けつがせることができたのなら……二人は死んでも、次の巫女の内に産まれなおす」
魔理沙は、気がついた。
そのとき霊夢が“手つだって”と言ったことの本当の意味が分かった。
霊夢は完璧な和合を求めているのだ。と魔理沙は悟った。
それが霊夢の“或ることであり、すさまじいことの”の正体であった。
巫女の御業と魔の力が、次の巫女の内で融和するとき、それが成されるのだろう。
魔理沙は講釈をする鈴仙の、その丁寧な調子が、永琳のようだと思われた。
「おまえ、先生に似てるよ」
「そう。どのあたりが」
と言った鈴仙には照れくさそうな、あるいは得意な語気があるので講釈者の貫禄がすでになかった。
「うん……髪の長さとか」
「見えないじゃん」
それから昼まで取りとめのない談笑をした。そうして鈴仙は亭に帰った。
十二
何かを考えるとき、魔理沙は畳に座るより、椅子に座ると明快に頭がはたらいた。また彼女の知っている魔女たちも椅子をこのんでいた。なので彼女は、魔女には椅子が必要なのだと信じていた。
冷仙の来た日の夜に魔理沙は、明かりのない室で椅子に沈んでいた。霊夢がそれを、彼女の魔法店、あるいは家から、はこんでくれたのであった。
椅子は安楽式で、体を動かすと、ゆらゆらと揺れた。その揺れは、学問に正面から向かうときは、集中力を妨げるので使わなかったけれども、何ごとかを深夜に思考して、耽っているときは役に立った。
「埃まみれだったわ」
霊夢は家をそんなふうに揶揄していた。以前からがらくた屋敷も同然の家は、あるじが一年ほど不在のあいだに、醜態をきわめていたようであった。
「なんでかしらね。使われていない物って、使われている物より、却って古くなってしまうわ。磨耗してもいないのにね」
また霊夢はそうも言っていた。その言葉が、魔理沙を深夜まで眠らせずにいた。
わたしの魔法も使われなければ古くなってしまうのかもしれない。と魔理沙は悩んだ。
魔法はすでに頭の外部へ引用されることがないけれども、それが魔法を古びさせるのかはあやしかった。
ただ、いかに冷やして、保存しようとも、塩や油に漬けこまなければ、腐るように、知恵も使えなければ、腐敗を待つばかりなのかもしれない。知恵をどうして、塩や油に漬けこめるだろう。
「もしも、もしも親々が自分たちの意思や力を、等分に受けつがせることができたのなら……二人は死んでも、次の巫女の内に産まれなおす」
と魔理沙は、口にした。
鈴仙の講釈は、その腐敗を妨げる、最良の因子かもしれない。
知恵は他者に受けつがれるとき、濾過されて、ただ古きとして残るのではなく、古き“よき”として種子を残すのだろう。それが知恵の機能であり、知恵が望むところである。
「もう寝ないの」
頭の深いところに沈んでいた魔理沙は、耳元の声に肩を跳ねさせられた。
蝋燭の暖かさを、近くに感じたころには、起きだした霊夢が傍にいた。
「近いぞ」
「何度も呼んだのに聞かないから」
「こんな時間にどうした」
「あんたがこんな時間なのに布団にこないからよ」
「そう言う日もあるんだ」
「悩みごとかしら」
魔理沙は舌を巻かされた。しかし霊夢は別に持ちまえの点眼通で彼女の思考を当てたわけではなかった。
霊夢はくすくすと笑った。
「顔に出てる」
月の薄明に照らされた魔理沙の表情は、話しかけられるまえまで分かりやすい苦悩の線上にあった。
魔理沙は思いきって問いあわせた。
「霊夢、不能の魔女に魔法を教えられるのかな」
霊夢が魔に通じていないために。その問いは慰めを求めていると誤解される属性を有していた。それでも魔理沙が聞いたのは、彼女が先天的の怜悧さで、ことを解決すると知っているからである。
魔理沙は霊夢の勘を信じていた。
「できるわよ」
霊夢は即座に言ってみせた。彼女の理屈は単純であった。
「あんたの教えかたが下手でも関係ないのよ。魔法を教えられたくない子供なんていない。子供はみんな、無条件で魔法に憧れているじゃない」
それは筋のない理屈であった。それでも魔理沙は納得できた。師事もなしに、独りで魔法を学んでいた彼女は、その筋のない理屈にしがみついて幼年を暮らした。霊夢の理屈は奇しくも彼女の身のうえであった。
「昔はあんたが羨ましかった……」
その発言がまだ発見していない霊夢の内面を露出させた。幼いころの彼女が魔法をそんなふうに思っていたと魔理沙は考えもしていなかった。
「教えたのに」
「言えなかったわ。照れくさいもん」
「霊夢。おいで」
魔理沙は霊夢を催促して膝の上に座らせた。それから強く抱きしめた。
「駄目だな。おまえがまえより大きくなったのか抱きしめても分からない」
「急にどうしたの」
「おまえが魔法を羨んでいると知ったら、以前のわたしは失望したよ。おまえには完璧であってほしかったから」
「今はちがうの」
「今は不完全でもかまわない。わたしが死んだとき、泣いてくれてもいい……」
こうして素直に心中を明かしたのが、魔理沙にとっても、奇妙に映った。強情な自分の、霊夢にだけは見せられる、正直な部分……。
わたしは飛ぶしかないのだ。と魔理沙は思った。
そのときに、すべてが解決すると、分かった。
十三
魔理沙に十九歳の春が訪れた。
すこし経つと、春風に誘われて、桜のつぼみが芽ぶいた。
めくらの魔理沙でも、慣れしたしんでいる神社の桜は、暗闇の壁に幻影となって咲いてくれた。 それは闇と調和して、うす墨の色をしていた。 霊夢が境内を覆うように咲いている桜のうちでも、特に大きな桜木に魔理沙を導いた。
その淡くかぐわしい匂いが、今度は入院しているころ霊夢が送ってくれた、桃色の桜枝を暗闇にえがいた。
霊夢は魔理沙の手を引いて、その桜の枝を撫でさせた。ざらざらの表面を、引かれるに任せて辿ってゆくと、枝が途中で折れていた。
「ここを折って送ってくれたんだな」
二人は桜の根本に腰を降ろした。
「また魔理沙の箒で掃除してる」
鳥居の下で箒を振りまわしている巫女を霊夢は捉えた。彼女の語気は窘めようとする意思があった。
親心……
それが霊夢から醸しだされた。
神社で暮らして、巫女に魔法を教えようとする以上、魔理沙は相手が幼いので、親の立場に置かれなければならなかった。霊夢はそれを、口にしてまで求めなかったけれども。
魔理沙は霊夢を笑って止めた。
「箒は本来そう使うよ」
巫女は二人に気がつくと、うやうやしくも一礼するので、その態度が霊夢を落胆させた。
「親に向いてないのね、わたし」
「あの子がおまえを師とする態度でも見せたのか」
それが手に取るように感じとれた。巫女と言うのが、霊夢を尊敬していたので、その態度は必ずしも、親に向けるような尊敬ではなく、師に向ける態度になりがちであった。
霊夢がそれに困っているのを、魔理沙は言っていた。
「ふん。本当は目が見えるのね」
「おまえの一挙手一投足だけは見えるんだな、実際のところ」
「魔理沙。親に向いているのか、そうでないのかって、生来の才覚なのかしら」
「三年もあの子と一緒のおまえが分からないなら、わたしにも分からない」
「昔のわたしによく似てきたのよ」
「わるいことじゃない」
「わたしはあんたの友達になるまえの自分が好きじゃないの」
「どうして」
「それを上手に説明するのは難しいの。分かってほしいのは、思っているよりも、あんたはすばらしいことを、わたしに与えてくれたのよ」
実際に昔の霊夢は並はずれていた。
今よりも。
それは残酷で無感性と似ていながら、塵のひとつも混ざっていない、小箱に封じこめられた、純水のように思われた。
そこに魔理沙がはいりこんで、ゆっくりと浸透するように、無垢な霊夢の内へ、恋を植えつけたのだろう。
しかし魔理沙のほうは、霊夢が無垢でいてほしかった。それは巫女の職種につきまとう、一種の信奉にほかならない。
そのために魔理沙は霊夢と接吻しそうになるまで、信奉の殻に隠された、恋情を知らずにいたのである。
霊夢の並はずれたところを好いていた、その信奉は、魔理沙の“或ることであり、すさまじいこと”になって、ついに接吻しそうになったとき、彼女の霊と万葉を、手垢で汚しすぎたと信じこませた。
それが三年も二人を隔てた。
「わたしが退院するまえに、おまえも夢を見なかったか」
「夢って……」
その返事はにごしているようにも、忘れているようにも思われた。
魔理沙の場合は明晰夢であっても、霊夢の場合はそうでないのかもしれなかった。
本当に大切な人なら言うべきよ。それも本音を言ってみせるの。何がなんでも霊夢にあなたを愛させるのよ。そうして …… 愛していると言わせるのよ、何度でも
その箴言が脳裏にひらめいたとき、魔理沙は夢中で言った、最後の言葉を回想した。
おまえ、わたしに愛していると言えるかい
しかし言われてよいのだろうか。と魔理沙は怯えた。
今に対等の関係を、その言葉が滅茶苦茶にして、かつての信奉を湧きあがらせ、すべてが崩れてしまうかもしれない……。
「いや、なんでもないんだよ。忘れてほしい」
「愛している」
魔理沙は、ぎょっとした。
安全な択を手にしたのに、霊夢の言葉が、虫でも叩きおとすように、手から択を落とさせた。
霊夢はその横暴で、魔理沙の心を、一瞬で捕らえたと言っても過言ではない。
桜の花びらが、掌に落ちてきたとき、何も返せずにいた魔理沙は、その感触で心を覚ました。ついに喉を振るわせられた。
「おまえ、夢で最後に聞こえていやがったな」
「愛している」
「おい」
「愛している」
「……」
霊夢は止まらなかった。それで魔理沙も、諦めた。
「愛している」
「もう一度」
「愛している」
「もう一度だ」
「幻想郷と同じくらい、愛している」
「幻想郷よりも。と言ってくれ」
「駄目よ」
「言ってくれないと、また離れてしまうかも」
「ずるい。脅迫じゃないの」
「魔女は悪党と古来より決まっている。おまえは悪党に惚れないように、用心するべきだったな」
「……幻想郷よりも、愛している」
言われてしまえば、なんのこともなかった。
何も崩れはしなかった。
それどころか二人の情交は、その刹那で強固になった。
福音のように、言葉が何度も唱えられると、魔理沙は暗闇の奥に、最良の道が、見えてきた…
…それを辿ると、力が溢れた。
…… 「なんと言う、遠まわり! 今に分かった。わたしの力の源は、あの森だけではなかったのだ。
おまえはいつも、導いてくれる。
おまえは人生で最大の発見だ!
体が弱ってしまっても、力の源があるかぎり、わたしは飛ぶ。絶対に尽きない、恋の魔法の源は、おまえの霊と万葉にほかならない」 ……。
箒が、ふるえた。
巫女がその異様を認めたときには、もう箒は手の内から、風のように飛びだして、魔理沙の手の内に収まっていた。
桜の根本で風が吹きあれた。
その花びらは舞いあがって、空を薄桃の幕で染めた。
霊夢が風のために眇めていた、右の瞳をひらけるころに、もう魔理沙は宙空にいた。
「おいで」
魔理沙は不敵に挑発した。
霊夢が立ちあがった。そうして魔理沙の目前まで飛ぶと 「めくらがわたしに勝てるかしら」 と挑発を返した。
「今のうちに、調子に乗らせてやる。わたしは発見したんだ。絶対に尽きない、恋の魔法の源を。それは以前よりも傍にある。
霊夢、おまえはもう……わたしを“愛している”かぎり……勝てない」
「こんなふうに、遊んだような」 霊夢は思いかえすように言って 「そう。夜だった」
魔理沙もふしぎと、それを考えていた。
尤も記憶の夜と今はちがっている。
空は日の光で満たされていた。
今度は二人だけであった。
「永夜抄と呼べ」
「何それ」
「わたしが考えた」
魔理沙は平気で嘘を言った。
話しはそこで終わった。
空へ大輪の花が咲きみだれた。それはつぶさな光の種で創られていた。
軌跡は鳥が、遊んでいるように、螺旋をえがく。
……。
祈りたまえ。
流星へそうするように。
魔理沙は幻想郷の神々に、こころの奥で叫んでいた 「幻想郷の神々よ。祝福したまえ。祝福したまえ。
まさに今! 次の巫女に魔への啓蒙を証したまえ、魔への尊敬の光で照らしたまえ!
霊夢が望むように、叶えたまえ……」 ……。
十四
「よく聞きなさい。
おまえはこれまで見たことのない魔の領域で、困惑するにちがいない。しかし恐れることはないんだよ」
魔理沙は緊張をほぐそうと、巫女の頭を撫でた。彼女は照れて、うつむいていた。
「おまえは霊夢に習っている。幻想郷の神々の声を聞く、巫女の御業をな。それは万能の力なんだ。神々は無限の力を有している。
おまえが魔法に悩むとき、神々がおまえを助けてくれる。
幻想郷の神々は、おまえが望むようにする」
魔法を修めなおしたあと、すぐに巫女へ魔法を教えはじめた。興味を持ってくれるのか、不安はあったけれども、それも杞憂に終わった。霊夢の言うとおり、巫女は子供であるために、無条件でそれに憧れてくれた。また先日のふたりの飛行が、興味をいだかせるには充分であった。
師事の役目は魔理沙の想像を越えて、非常におもしろくもあった。それは巫女が教えられることを余さずに、一から十まで飲みこめたからである。
ある才覚。
周囲の影響を受けづらい、霊夢の才覚を鏡へ映したように、巫女には周囲の影響を貪欲に吸収する才覚があった。
その才覚があるからこそ、霊夢に選ばれたのかもしれない。
巫女は魔理沙の数倍も、魔法のおぼえが早かった。
熱心に教えると、すぐに巫女は魔理沙に懐いた。
そうして魔理沙が、霊夢と巫女のあいだに立って関係を繋ぐこともできた。不器用な両者は、徐々に親子の関係へ、傾いていた。
魔理差は二人に手を繋がせ、頭を撫でさせ、抱きしめさせ、一緒に飛ばせた。
すべては解決していた。
風が山境から、夏の香りを、連れいたるとき、生活が満たされた。
魔理沙は人生に、これ以上は望めない、幸福のさえずりを聞いていた。
……。
「次は何を教えようかな」
魔理沙は独りごとのように呟いた。
呟きながら、掌で八卦炉を弄んでいた。声は瓦に落ちてくる、梅雨の足音を気にもしないくらいに浮かれていた。
霊夢は横で、茶を啜っていた。
「たのしそうね」
「うん、おぼえるのが早いから。わたしは初歩の魔法にも時間を費やしていたのに、あの子はすぐにおぼえてしまう」
「嫉妬はないの」 と霊夢は揶揄した。
「それがないんだな。嫉妬しようにも、あの子はかわいらしすぎるよ」
「そう。よかった」
その 「よかった」 を魔理沙は自分の情感にくらべて、あまりに無味で儚いと感じた。あるいは彼女の耳がめくらの敏感さを持たなければ、瀑布のような雨の喧しさに、その声は素どおりしていたかもしれない。
長年の交友だけが得られる、一種の鋭覚で霊夢の変化を感じとっていた。
飛行の後日に、それと感じた。
それは霊夢の勘にも似て、占いのように無根拠であるけれども、無根拠であることが、その場合は魔理沙を納得させた。
愛している
その言葉はひたむきな熱情にも、軽率な陳腐にも変質できた。霊夢はそれを、見事にひたむきな熱情へと傾かせて、魔理沙が見たことのない、感情の起伏を、彼女へ一身にぶっつけた。
それが魔理沙を不安にした。
魔理沙の鋭覚は、あの刹那が霊夢の最盛で、それ以降は終わりを悟ったように、満足して手足を草枕に委ねるのではないだろうかと警告したのである。
それと思うのも、魔理沙は桜木の宙空へ舞いもどり 「勝てない」 と霊夢に予言した。
そのとおりになった。
魔理沙は勝った。それも完膚なきまでに。
魔理沙は霊夢の性格を知っていた。負けると露骨にくやしがるはずの当人は、以前とちがって、何ごとの不満もないように、急須から湯器に茶を注いでいた。
音が聞こえて、それと知られた。
「死ぬんじゃないだろうな」
魔理沙は気がつくと聞いていた。
音がすぐに止まった。それは動揺のかけらもなかった。不意に話しかけられたので、中断したと言うだけの止まりかたでしかない。
「急にどうしたの」
声にも動揺はなかった。
「おまえは次の巫女を連れてきた。失敗の傷も乾かないうちに。
思うんだよ。おまえは何かの理由で、いそいでいたんじゃないのかな。わたしの病も発覚していなかったのに、まだ時間に余裕はあると思われていたのに」
怪馬のいななきのような雷鳴が、天にとどろいた。
そう思ったときに、魔理沙は手を引かれて、椅子から落ちていた。
腰のあたりに、重さを感じたあと、鼻のあたりを糸のような物がくすぐった。口には息が吹きられので、霊夢に覆いかぶさられたのだと分かった。
「考えすぎよ」
それが霊夢の返事であった。
「ねえ、好きあっているのよ」
と続けられても、魔理沙は頷くこともできなかった。
「わたしが死んでしまうと思うんでしょう。死んでしまうまえに、互いのことを知らないと」
「全部?」
霊夢は返事の代わりに、魔理沙の頬を撫でた。
魔理沙はふしぎと、互いが女であることを、意識したこともなかった。
なぜなら魔理沙は、霊夢を“愛している”ために、それを不問にできたのである……今は意識された。
それは強烈に出て、背徳の楔を打ちつけたけれども、悔恨はなかった。むしろ魔理沙は背徳に酔わされた。彼女は自分たちの恋が、思ったよりもぎりぎりのところで、成りたっているような気がした。それをたのしんでいた。
霊夢は体を押しつけてきた。その圧迫が、彼女の匂いを、魔理沙の全身に伝えていた。
魔理沙は霊夢が、望むようにした。
霊夢の髪が、魔理沙の髪に降り、それは黒金の糸で繕うように、混じりあった。
何かをごまかされている。と魔理沙は頭の隅で思った。
それも一瞬で、酩酊に潰された。
魔理沙は薄っぺらの襦袢を着ていた。
夜であった。
巫女は寝ていた……。
霊夢は 「ンー」 と唸ると、襦袢の帯をはずそうとした。
指を這わせると、魔理沙の肉感が、霊夢へつぶさに伝わった。彼女は小さくて、細かった。
「蝋燭」 と魔理沙は消えそうに言った 「消せよ」 命令的のわりに、彼女の瞳はうるんでいた。
それが不敵な魔理沙をあどけなくしていた。
霊夢は、ふるえた。
そうして 「駄目」 と言った。
……。
霊夢の感触から、魔理沙はついに、もう見るはずのない、三年後の彼女を観察するように思われた。肉感で、成長を知られた。彼女の体は、弾力に富んで、どこもかしこも水をはじいてしまうような、生命的の力に満ちていた。
それが魔理沙に、不安は杞憂だと信じさせた。
十五
動きはじめた、二人の一夜は、急に魔理沙の胸を襲った、くるしさで打ちけされた。彼女は霊夢をぐいぐいとしりぞかせた。そうして次の間に、沢山の血を吐いていた。
魔理沙は起きあがろうとしたけれども、すぐに倒れそうになった。霊夢がそれを支えた。
「あんたのほうが、死にそうじゃない」
霊夢の声は、不安が端に漏れだしていた。
永琳は正しかった。また魔法を使いはじめると、魔理沙の具合はひどくなった。巫女へ魔法を教えるために、力を惜しまなかった彼女は、そのぶん病を受けいれなければならなかった。
「静かにしないと、あの子に気づかれてしまう」
この小さな悶着も、さいわい隣室の巫女には聞こえなかった。
「雨が降っていてよかった」
「おまえと同じで、眠りが深いんだよ」
霊夢の温かな手が魔理沙の手に添えられた。彼女はその熱が自分の細部に浸透して、わずかでも病を癒してくれるように思われた。
「先生を呼ぼう」
「また入院するなんていやよ」
「しないよ。ただ寿命を知りたいんだ」
「嘘よ。入院するならしてもかまわないのよ。そのほうが体のためになるんでしょう」
霊夢の声は明白に臆病な嘘であるために、寂しさに連れられて虚空へ消えてしまいそうに聞こえていた。しかし彼女の不安を魔理沙はすぐにぬぐいされた。
「今度は死ぬまで一緒だよ、おまえ」
「うん」
「続きは今度な」
と魔理沙は茶化した。
霊夢は自分から仕かけたくせに、あれほど官能的の空気をまとっていたのが嘘のように、赤くなった。
……。
永琳が来たのは梅雨が明けてからになった。この年の梅雨は外を出あるけないほどよく降った。
ようやく朝日が出て晴れ々れとしたとき、永琳が神社で再会した魔理沙は、布団で横になっていた。
「あなた本当は布団が好きでしょう」
「こう横になっていると醜く肥えてしまうな」
布団から起きあがった魔理沙は、そう言うわりに痩せすぎていた。
「先生。解熱剤を処方してくれ。頭が熱い」
「いつからです」
「七日くらいまえにひどく血を吐いてから治らんのだ」
永琳と一緒に来ていた鈴仙が、すぐに薬箱から処方した。
師が傍にいるため鈴仙は抑えて黙っていた。
「私の言うとおり悪化したでしょう」
「うん……でも夢が叶いそうだ」
「ふん?」
魔理沙はふしぎそうに首を傾げる永琳が見えるように思われた。
「あっ……」
と急に永琳のうしろで座っていた鈴仙が声を漏らした。彼女が振りかえると、巫女がいつの間にか襖の向こうから室を除いていた。
巫女は見つかると、すうっと襖の向こうから逃げていった。
「あの子が魔理沙のロマンね」
その英字で魔理沙はなんとなく事態を察した。
「わたしが死ぬまでからかう気だな」
「フフフフ、フフ」
「おまえ、ちょっとあの子と遊ばないか」
「怪我するわよ」
「そうだな」
魔理沙は警告を気楽にかろんじた。
「そう。それなら遠慮しないわ」
意外と好戦的の気がある鈴仙は、揚々と室を出ていった。
魔理沙は鈴仙がいなくなると、不敵に唇を歪めてみせた。
「遊ばれる、だった」
「それに怪我をするのはうちの弟子です」
「だから“そうだな”と言ったじゃないか」
「うちの弟子は馬鹿だから駆けひきなんて無理なんです」
巫女と鈴仙が遠のくと、ふたりの気配はまじめくさった。そのまじめくさった空気を望んでいただけに、ふたりはこれから重くのしかかる対話に平気でいられた。
「先生、わたしの寿命はあといくらかな」
「入院の相談じゃないのね」
「入院より優先することがあるんだ」
「寿命が本当に知りたいですか」
「うん」
「分かりました。でも知るからには、あなた失望しないように用心しなければならないわよ。惑病は同源なんでしょう」
意趣がえしが魔理沙をおどろかせた。対してその様子が永琳をなごませるのであった。
薬箱から取りだされたからくりが魔理沙を診察した。それは彼女の要望を予期していたように、あらかじめ箱に入れられていたので、亭へ取りもどる手間はなかった。
見すかされている。と魔理沙は舌を巻いた。
「頭のいいやつってのはみんな予言者なのかな」
「なんのことです」
「姫さまに伝えたいことがあるんだ」
「へえ。伝えておきましょう」
「愛させてやったぞ。そう伝えてほしい」
魔理沙の耳もとでからくりがピ、ピと音を発していた。診察の邪魔になりそうなので、それから彼女は黙ってしまった。
沈黙の内で起こりやすい、葛藤や不安との争いはなかった 「それは思考を麻痺させて、襲いかかる診察の結果からのがれるための作用だろうか」 それは即座にしりぞけられた 「このように落ちついていられるのは、わたしがまことに幸福な生活をしているためだ。幸福をまえにして、あらゆる不幸はこうべを垂れる。幸福な者だけが、あらゆる不幸を、支配するにたるのだろう」 ……。
診察が終わると永琳は言った。
「冬さらば……」
「さらば?」
「冬、になったら……」
「半年か」
「そうです」
「本当に先生の治療を無駄にしてしまったな」
魔理沙はそれが、特にこたえていないように見えた。
それが永琳の謎になった。
魔理沙は 「入院より優先することがあるんだ」 と言った。永琳は長命種的の、職業的の観念から、生命よりも尊いことがあるとは信じなかった。
「あなた魔法を使っているでしょう」
魔理沙は首を縦に振った。
「あなたは、本当に、愚かだ……」
「ごめんよ」
永琳の内で、癇癪の虫がざわめいた。不老不死者でありながら、命を尊んでいる彼女には、謝罪よりも非難のほうが、どれだけ心を慰めたのだろう。
「あなたは愚かなために死ぬのです。そうして私は無能なためにあなたを殺すのです」
その“無能”の部分がいかにも自分を責めていた。
別に魔理沙を想って言うのではない。ただ魔の誇りがあるように、医の誇りもあるのだろう。
魔理沙の淡泊な謝罪は、永琳の誇りを刃で掠めていた。その傷口から、彼女の“底しれないもの”が、わずかに顔を覗かせていた……。
このひとの顔は怒りに歪んでいるのだろうか。と魔理沙は思った。
「幾百年も生きているのに、わたしのような娘に真剣になってくれるなんて、あんたはやさしいよ」
それが賞賛なのか、皮肉なのか判別できないところに、永琳の鈍覚があった。どちらにせよ、その言葉は、彼女の傷口に薬を塗ったのかもしれない。
永琳は、急にほぐれた。
「鈴仙もそれを認めていた」
「あの子が、私は……やさしいなんて……仕事ですから」
「照れてるのか」
「照れてません」
ふたりはくすくすと笑った。
今日が最後の診察と思われた。ふたりとも最初から、そのつもりでいた。
とにかく今後の治療がない以上、ふたりはもう医家と患者の関係を已めることになった。そうして歳の離れた知りあい、あるいは以前どおり縁のない他者の位置に座った。ふたりは別に、それがどちらでもかまわなかった。
「先生、助かったよ」
と魔理沙が診察の礼もほどほどに、切りあげようとすると、足音がした。
鈴仙が室に戻ってきたのである。なんとか歩いていたけれども、彼女は傷だらけで、耳を垂れさせ、目を回しそうになっていた。
「まあ」 と永琳がおどろいた。
「遊ばれた……」
と鈴仙が後悔を滲ませるので、魔理沙のほうでも、彼女の醜態は想像された。
「わたしたちの娘は強いだろう」
と魔理沙は笑った。さらに笑ってやろうとしたーーーしたのに喉がはずむ直前に、室を永琳の笑いが響きわたったので、彼女の声は引っこまなければならなかった。
「うどんげ、笑える!」
「永琳さま……?」
鈴仙は息を呑んだ。
あの永琳が目に涙を浮かべてまで、笑っているのだから、それも当然であった。
鈴仙の記憶が正しければ、微笑はあっても、永琳の高笑と言うのは、これまで一度も見たことがなかった。
永琳は、笑いころげた。なぜ笑いころげるのかは、自分でも分からない。分からないけれども、笑えるのだから、涙が収まるまで、好きなだけ、笑うことにした。それは止まることを待つしかない、傷口から溢れる血とよく似ていた……。
十六
神社へ続く石段と言うのが、これまた苦痛を感じるほど長いので、飛べる者ならまず歩かない。
幻想郷の神々に対してかけらの信心を持たない妹紅も、石段を飛びこえるひとりであった。
にもかかわらず、その日にかぎって石段を一段々々まじめに踏んでいる自分の精力が、妹紅にとっても奇妙に映った。
それは秋空に映りこんだ。
不意に振りかえると、太陽が遠くの山陰へ沈もうとしている。その光が空の白紙に、赤と青むらさき色のインキを塗っていた。その色々の空境は、淡く混ざりあっていた。
下方には、通りすぎてきた人里が臨まれた。暮れの買いだしで商い町を歩く人々は、米粒のように小さく見えた。そこから東になる田地では、よく育った稲に向かって、黄金の風が吹いている。
妹紅の頬を横ぎって飛ぶ、蜻蛉たち……。
「私はいい場所で暮らしているなあ……」
おもはゆい心情は、誰もいないから吐露されたのかもしれない。
魔理沙から手紙が来たのは、夏ごろになる。
文の要約……。
妹紅に頼みたいことがある。おまえにしか頼めないことだ
それは最後の診察の直後であったけれども、妹紅にとって、水面下の事情でしかなかった。彼女は魔理沙の寿命を知らなかった。
ただ妹紅は、死になれているだけあって、ことさら死相に敏感であった。
頼まれの筆。
妹紅は友達が死ぬと思った。
それが石段を踏ませたのである。
……。
鳥居の下まで登りついたとき、偶然にも霊夢と擦れちがった。
「買いだしよ」
霊夢はそんなふうに人里へ降りるわけを話した。
「こんな時間に行くの」
「こんな時間にくるやつに言われたくないわ」
「私は魔理沙に呼ばれてきたんだよ。手紙が来たから」
「手紙って、わたしが書いたあれかしら」
「おまえが書いたのかい」
「それはそうよ。魔理沙、もう目が見えないから」
「へえ」
おどろいているのか、いないのか判別のしずらい調子で、妹紅は言った。
幾度か見まいに行っていたものの、去年の初秋ごろから偶然にも魔理沙と会わずにいた妹紅は、その事情も知らなかった。
「めくらの連れか。大変だな」
「大変よ。でも、かまわないのよ。目が見えなくても、肩に寄りかかれはするんだから」
霊夢の髪も、瞳も、黄昏の斜陽を照りかえして、輝いていた。
あいかわらず、なんて美しい娘だろう……
と妹紅は思った。
霊夢に対して、特別な好意のかけらもない妹紅が、そう思うのである。
魔理沙の言う霊と万葉が、手にはいらないと諦めているだけに、妹紅がそれを遠方から眺めるまなざしはせつなかった。
妹紅はそれを巷の子供たちや、他人の恋に認めるだけなのである。そうして霊夢にも。
妹紅は霊夢が、人間とは思えなかった。
亭の者どものように、無限の闇をつらぬいて、はるかの月から来たのでもなければ、さらに遠くの星から来たのでもない。霊夢のような人間は、別の空境に遮られた、亜空の星から産まれるのだと信じていた。それは彼女が、人間の産まれながらに持っている、至純至上の感情を、常人よりも有しているためにほかならない。
それが今は、一人のために、向けられている。
霊夢は魔理沙を愛している。
しかし妹紅に言わせれば、霊夢を恋の猛毒でたぶらかし、魔理沙は蓬莱国の巫女を独占するのである……。
「私ね。石段を歩いてきたんだよ」
「珍しいやつね」
「そのとき振りかえって思ったよ。幻想郷と言うのは、なかなかに……なかなかに……まあ、わるくないところだと」
霊夢はほほえんだ。そうして言った。
「今さら気づいたの」
その微笑は美しかった。
その美しさを改めるとき、これほどに霊夢を認めていても、いとおしくはないことを、妹紅は知っていた。
十七
賽銭箱に小銭をほうりなげたあと、妹紅は柏手も打たないで、ただ待っていた。
そうしていると、賽銭の音で来客を知った巫女が、神社の中からすうっと現れてくれた。
妹紅の風貌は、髪が白く、瞳は赤く、そのわりに顔つきが幼いために、あからさまに不審であったので、巫女は警戒した。黄昏の明暗が、余計に彼女を魔性と見せていた。
妹紅は、他者のそう言う態度には、もう慣れていた。それどころか、彼女は自分を卑下しているために、それを納得してさえいた。
仮に自分の風貌を人間が見て、のこのこと近づいてきたら、それは彼女にとって、却って気味のわるいことであった。
狐狸のたぐいと思って、殺してしまうかもしれない。
「どうも。魔理沙に会いに来たの」
とぶっきらぼうにわけを話して、魔理沙のもとへ案内してもらった。
妹紅が来たと知った魔理沙は見えない目をしばたたかせずにはいられなかった。
「遅い」
開口そんなふうに言われた妹紅のほうも、目をしばたたいた。
「二ヶ月もこないから、来てくれないと思いこんでいたぞ」
「えっ。そんなに経っていたの」
非人の例に漏れない妹紅は、時間に無神経であった。常人が時を、流水のように考えるなら、彼女にとって、時はその流水に削られる、川底の石ころの変化のほうであった。そちらにこそ、時があった。
無神経で、愚鈍な時……。
呼びだした身分であるために、魔理沙はそれより追求しなかったけれども、彼女に対して輝夜と似た印象を、いだかずにはいられなかった。気をわるくすると思われたので、それは言わなかった。
「えへ、えへ。ごめんよ」
妹紅の卑屈な謝罪が、椅子から身を乗りだしていた魔理沙の背中を、もとの位置に収めさせた。
巫女が茶をはこんできてくれた。妹紅は温かな茶を、ちびちびと啜った。
相手がめくらであるために、妹紅は魔理沙を、一方的の視線で観察できる立場にいた。
室は暮れの時刻で、すこし暗かった。魔理沙の顔もそれにしたがって、帽子の影で見えづらかった。なので妹紅は、衣服に隠れていない指を眺めた。指はひどく細く見えた。
妹紅は相手が見えないのをよいことに、姿勢を崩して、楽にした。
頼まれの筆は、共通の話題になるはずでありながら、ふたりはしばらく外から響きわたる虫の声に耳を傾けるふりをしながら黙っていた。別に苦慮はないけれども、ふたりは何かを待ちうける者のように、そうした。
この常人があの霊夢を占有しているのだ
と妹紅は思考した。
妹紅はひさびさに対面した魔理沙から、匂わしい短命を感じとれた。この彼女にとって不必要な才覚は、目前の娘をあまりに弱々しい者と確信させた。
その反面、久しぶりに会った霊夢は、以前のように匂わしい生命的の力が溢れる者であった。
生命の性格
と妹紅は心中でたとえてみた。それは個人ごとにちがっていて、ときには反発する作用があると思われた。しかし反対の性格があるらしい二人の性格は、なぜか惹かれあう性質があった。と妹紅は分析した。
「さっき霊夢と擦れちがったよ」
室がより暗さを深めたとき、妹紅は口をひらいてみた。
「あの娘はおまえとちがって、当分は死にそうにないね」
「そう、だろうな……」
「うまくいっているのかい」
「うん。幸福だよ」
「つまらない。死の際まで会わなければ、より燃えあがれたのに」
「そこまで情熱的にわたしたちはなれない」
「ならどうして一緒になるんだ」
「情熱的でなくても一緒にくらいなるよ」
「いいかい」 妹紅は改まって 「誰かと々かが一緒になるのは、相手を求めているからだろう」
「うん」
「しかし結局のところ別々の者なんだから、どうしたってひとつにはなれないじゃないか。相手を貪ったって、ひとつにはなれないじゃないか。妖怪どもがそれを証明しているじゃないか」
「なぜ妖怪の話になるんだ。それはちがうんじゃないか」
「ところがまったく話はずれていないのさ」 妹紅は言いはなった 「妖怪は人間の心中から産まれたので、人間を喰らって、産まれた場所に戻ろうとするのだ。しかし絶対にひとつにはなれない。なぜなら完全に、切りはなされてしまったからだ。喰らってもひとつになれないくらい、他者と他者は、ちがうのだ」
「おまえは寂しいのか」
「うん。私は寂しいんだ。こんなふうに勢い語っているのは、結局のところおまえたちの仲を、羨んでいるのかもしれない。
ねえ、まえに私は泣いただろう。でもあれは、おまえのために泣いたんじゃない。友達に死なれる自分がかわいそうだから泣いたんだ。結局のところあれは自分のための涙でしかなかったんだよ。非人と言うのはみんな自己のための涙しか知らないんだ」
「しかし鈴仙はわたしたちのために泣いてくれたと思うよ」
「それは自分のための感傷かもしれない」
「ちがう」 魔理沙は確信を込めて言った。
「そうかい。まあ信じたいならいい」
「わたしはおまえの涙も信じるよ」
「どうも」
問答はそれで終わった。
その 「どうも」 は、特に謝意が込められていないので、いかにも残酷で無感性であった。
十八
それから魔理沙は、件の筆を話頭に持ちこんだ。
「おまえを呼んだのは、頼まれてほしいことがあるからなんだ」
「知ってる」
「死んだら竹林の深いところへ埋めてくれ」
「分かった」
「……」
魔理沙の刹那の沈黙は、奇妙な違和感を映しだしていた。要するに彼女は、おどろかれなかったことに、おどろいているのである。
去年の春ごろの対話ーーー自分の寿命に対する、妹紅の無神経さーーーが回想された。
さきほど、あれだけ自分の理屈を熱心に語っていた妹紅は、また別者と錯覚されるほど、神経の通っていない者に戻っていた 「長命種の神経の急な逆転は、いったいどう言う作用で起こるのだろう。泣きつかれた子供が、静かに眠ってしまうようだ」 魔理沙は考えずにはいられなかった。
「なんで黙るの」
「簡単に受けおうからだろう」
「不老不死者のじん生には、おまえの頼みなんかよりおどろくべきことが千もあったのさ」
妹紅は得意そうに鼻を鳴らした。
「ふん。まあ、理由くらい聞いておくよ。どうして竹林なの。おまえはあすこと縁はないはずだけど」
「わたしは人里から離れているし、妖怪坊主の世話になるのも気分がよくない。かと言って、もう魔法の森は出てしまったし、巫女でもないのに神社の鎮守には納まれない。去年あそこで過ごして思ったんだよ。静かで、よく眠れそうだとな。それに、縁ならもうできている」
「迷いの竹林と言うのは名ばかりじゃないよ。竹は伸びては折れる。風景は、変わりつづける。内に住む、私……“たち”を除いて、誰もおまえの墓を見つけられない」
妹紅は言いおくれて使った“たち”を、露骨にいやがっていた。
「そこが肝心なんだ」
妹紅の忠告を、魔理沙はむしろよろこんでいた。
「いいかい。このことは、まだ霊夢にも話していない。そうして死ぬまで話すつもりもない」
「おまえ、意味不明よ」
「まあ聞いてくれ。わたしが死んだあとに開けるよう忠告して、霊夢に文を残すつもりだ。そこに、こう書く。
“わたしが死んだら、遺骨を竹林の不老不死者たちに譲りわたせ”……。
おまえたちは、絶対に霊夢にわたしの墓を教えてはならない。霊夢へ伝わらないように、ほかの者に話してもならない」
「……」
「おまえたちの時間は早いんだ。それくらいの秘密は守れるだろう」
「ふん」
と妹紅は鼻を鳴らした。ただ今度は、余裕のためでなくって、魔理沙の画策のためにそうするのである。
それまで分かりやすい人間であった魔理沙は、妹紅の中で、急に不可解な人物になった。彼女はわけを聞かずにはいられなかった。
「どうしてそんなことをしたいんだ」
「わたしは幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする……と信じている。それを最後くらい、なんとか欺いてみたいのさ」
魔理沙の望みを、やはり妹紅は理解できずに首を傾げた。
ただ“幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする”と言う部分だけは、水を飲むように受けいれられた。妹紅も彼女を常人ではないと思っていたからである。
「なるほど霊夢は神々の寵愛があるから、あんなふうにすさまじいのか」
「少なくともわたしはそう信じている」
「うん、わたしも信じるよ。それは信じられるよ。そうかい神々を欺きたいかい。なかなかに大きな野心を秘めているね」
「手つだってくれるか」
それがありありと見えたわけではなかった。
妹紅はその刹那に、魔理沙の瞳に、天頂で不動に輝く、小熊の光のような印象を受けた。虹彩の端が、室にはいりこむ仄かな夕日を受けて、ぎらぎらと炎をひらめかせているさま……それは、物理的の現象が、魔理沙の顔の角度のために、偶然にも引きおこしたばかりである。
妹紅はそこに“あることであり、すさまじいこと”を見た。それはむしろ、霊夢から受ける影像によく似ていた。
結局のところ、巫女をたぶらかせるようなやつは、巫女と同じくらい奇妙なやつかもしれない
と妹紅は思った。
「おまえの墓を教えろって霊夢にすごまれたり、遺骨を渡してくれなかったら、手つだわずに已めるくらいの意思しかないけど、それでもかまわないの」
「そう言うからには手つだってくれるんだな」
そう言う魔理沙からはあることであり、すさまじいことが、もう見えなくなっていた。
妹紅は胡座を組んで、魔理沙の目も見えないのに、悩むふりをしてあげた。
「おまえは死んだら、地獄へ行くだろうな。楽園へ行くには、現世で幸福を使いすぎている」
「どうなんだ」
肘を膝に乗せて、頬杖をつき、食卓に置いてある、醤油でも渡すような調子で、妹紅は頼まれてあげた。
「かまわないよ」
最後の冬が迫っている……。
十九
仲冬になる。ちらほらと雪が現れるだろう。それは、山の楓たちが、土に積もらせた葉のむくろに、死粧を施すために訪れる。
冬は終末。
死の友達として、真珠の色の、粒を雲に貯めこんで、落ちるころより、ときには眠りの先ぶれのように。
……。
昼ごろに具合をわるくした魔理沙の、看病をしていた霊夢の代わりに、買いだしに人里へ降りていた巫女が、もう戻るころになった。
そのころには、魔理沙の具合も、安定していた。二人は出むかえに神社へ至る石段、鳥居のすぐ近くで座って待つことにした。そこからなら、誰かが飛んでくると、すぐに気がつけるからである。
永琳は“冬さらば”と言う。魔理沙はいまだに生きている。彼女は本当のところ自分は幾年も生きるような気がしてきた。
魔理沙は白い息を両手に吹きかけたあと、それを合わせて摩擦した。
「死ぬ々ぬって言うやつほど死なないと言うけど……」 と魔理沙は自嘲した。
「しぶといやつ」
「寒い日だな」
「抱きしめてあげようか」
「うん」
霊夢は横から抱きついてきた。その内にすっぽりと収まると、魔理沙は彼女の音を静かに聞いた。
その脈動が、霊夢に亭から連れだされた日を思いおこさせた。その日も魔理沙は、彼女の音をうしろから聞いていたからである。
なんと言う、岩むらのように穏やかで、衣を染める染料のように、こころへ響く、音だろう……不器用な霊夢の、抱きしめた腕から精いっぱいに押しつけてくるその感情が、魔理沙の芯まで、伝わるかと思われた。ただ音は、やはり以前も思ったように、あまりに弱々しいものだ。死にかけた、彼女を追いて、今にあらた世へ、消えてしまいそうな感じがする。
「もうすこしときめいてくれないのかな」
「充分にときめいているわ」
魔理沙の右頬に、手が添えられた。その手が、彼女の顔を誘うように、横にある霊夢の顔へ振りむかせた。
そうして自分の唇に、霊夢の息が降りかかるとき、魔理沙はさきに顔をまえに動かしていた。
その先手が、霊夢をおどろかせたけれでも、それまで自分の腕に収まっていた魔理沙の体が、わずかに距離を取って、支えるように左肩に手を添えられてしまうと、もう穏やかな心地に傾いていた。互いの胸の内に、すべていとおしいこと、はじめて顔を合わせた日の美しい映像、短くも幸福なこの一年の思いでが、溢れてくる……。
唇が離れた。
「してしまったな」
「今さらじゃないの」
「おまえの顔が見られないのが残念だな。ひどく、赤くなっているだろうに」
「あんたのほうがなってるわよ」
「いや、おまえだね」
「見えないでしょう」
「ほら、なった」
「なっていませんったら」
「なっているだろう。絶対になっているだろう」
魔理沙は背中を軽く叩かれた。さきほどの一瞬とちがう、なりを潜めた二人の子供っぽさが、すぐに帰った。彼女はそれが、なんとも言えずたのしかった。
常盤の松葉のような日々が、続いてほしい。かけまくも、おもはゆさから、口も少なに言わないけれども、あしひきの山に色が映ってしまうほどの、はしき想いがここにある……。
「しあわせだな」
魔理沙は呟いた。
「本当に……」
俯いて、そうして目をとじた。幸福を噛みしめるように。
風に吹かれると、消えてしまいそうなくらい、体を迷わず霊夢に預けた。
「魔理沙」
霊夢が声をかけても、魔理沙は何も返さなかった。彼女が顔を覗きこむと、深い眠りに落ちたようなその顔が近くに見えた。
「魔理沙!」
「なんだよ」
魔理沙は大声で名前を呼ばれると、平然と目を開けた。
「死んだかと思った」
魔理沙は笑わずにはいられなかった。
「笑わないでよ、本気で死んだかと思った!」
「考えごとをしていたんだよ」
魔理沙はふところをさぐると、八卦炉を取りだした。
「これをあの子に譲ろう」
それを大切にしていると知っているだけに、霊夢はまたおどろかされなければならなかった。
「大切な物なんじゃないの」
「うん。でも、いいんだ。魔法はもう、譲りわたされたのだから。だからわたしに、魔法はもう必要ない。あの子がまた、誰かに譲ってくれたらそれでいい」
そのとき空を飛んでくる人影が、霊夢の目にはいった。
「帰ってきた」
霊夢は魔理沙にそう教えた。
「よろこぶだろうな、あの子はこれを、欲しがっていたから」
霊夢が立ちあがった。魔理沙もそれにしたがって、足に力を入れた。
「えっ」
と魔理沙は声を発した。体に力がはいらないのである。そうして、闇の奥から迫ってくる、なんとも眠たい心地がじわじわと全身に広がったとき、彼女はもう背中を境内の上に預けていた。
視界いっぱいに、空が満たされたけれども、すぐに霊夢が背中を起こしてくれた。しかし背中を支えてる手の感触も、自分に声をかけている彼女の声も、淡く溶けて、体を擦りぬけてしまうような感じがした。
「眠いの」
霊夢が言った。魔理沙は何も返さなかった。
「眠いなら、々ってしまいなさい」
そうしようと思った。今にまどろみが、全身を覆ってくれるだろう。目が覚めたときには、雪が降っていたらいい。そうしたら、三人で炬燵にはいって、蜜柑でも食べて談笑しよう。そのとき魔理沙はなんのまえぶれもなく、唐突に八卦炉を巫女に譲るのである。おどろく彼女を、霊夢と一緒に、祝福できれば、それ以上のことはない……しかし眠ってしまうまえに、聞いておきたいことがある。
魔理沙は力を振りしぼって、霊夢に向かってこう聞いた。
「似ているのか……あの子の……飛びかたは……わたしたちに……似ているのか」
「うん」
「そうか。よかった……」 魔理沙は、続けた 「よかった。わたし、たちの、娘……どうか、どうか幻想郷の神々に、愛されるように……」
霊夢は巫女が戻ってくるまで、魔理沙の髪を撫でてあげた。左手は、自分の心臓に当てていた。
そのあと魔理沙の文を見た霊夢は、そこに書かれていたとおりに、彼女を火葬すると、骨壺に収めた。
骨壺は魔理沙の望むように竹林の不老不死者たち、なかでもそれなりの交際があった妹紅に引きわたされた。
二十
枯れ笹を踏みあるく音は、小さいものでしかなかったけれども、ほとんで静寂に満たされている竹林にはよく響いた。そのうえ輝夜がずるずると着物の裾を引きずっているので、音は余計にふえていた。その高級そうな着物は、地面が笹で埋まっているために、それほど汚れずに済まされた。
音に反応した野うさぎが、ぴょんと跳ねて、また笹に隠れた。その白い塊がゆきげしたとき、消えた色をつぎこむように、本当の雪が降ってきた。
輝夜と並んで歩いていた妹紅は、鼻さきに乗った雪をはらおうと、かかえていた骨壺を片手で持った。
「はじめ雪」
と輝夜が囁いた。
「そんな時期か」
「寒いから火をだしてちょうだい」
「おまえのために灯すくらいならこごえて死ぬわ」
「その壷の中の娘が寒そうにしているかも」
なるほど骨壺の中と言うのは、いかにも寒そうな印象を与えた。理由は最もらしく聞こえた。しかし妹紅は、死者にそんな感傷をおぼえる神経が輝夜にないことをよく知っていた。
「死んだらいくら暖かくしても駄目。死者は……寒くてたまらないって聞いたことがある、いつでも」
妹紅は竹林の、道なき道を途中で逸れた。目的の場所を知らない輝夜は、うしろから彼女についていった。
道は竹林の東部へと続いていた。
月の光が、竹間から糸を垂らしている。
妹紅は急にぴたりと止まった。
「おまえ、なんでくるの」
「来ちゃわるいの」
「わるい」
輝夜がきらいな妹紅が、それを快く思うわけがなかった。
「私は恋の終わる瞬間が見たいのよ」
「これを埋めたら恋が終わると言うの」
「そうよ。死者は、寒くてたまらないんでしょう」
妹紅はまた歩きだした。
「確かに、いま私はひとつの恋の終わりを届けているのかもしれない。なんの因果かそれを押しつけられている。あの娘たちとそれほどしたしいわけではなかったのに。なぜだろう。分からない。特に霊夢の考えていることはよく分からない」
不意に月あかりが、雲に隠れた。同時に竹林に振りそそいでいた光源が失せて、何も見えなくなった。
その人物を、骨壺に入れているためだろうか。妹紅は、なぜか慣れている竹林の暗闇が、怖ろしくなった。それは暗闇を怖れる、人間的の原始的の感情ではなかった。そこには底しれないものがあった。見てはいけない他人の裏を、見てしまったときのような忌まわしさ……しかし、また肌に触れてくる暗闇は、やさしくもあった。つめたく包みこむような愛撫。それが死者を、起きあがらせずに済ませているように思われた。
幻想郷の巫女として、竹林の不老不死者たちに言う
博麗霊夢の遺骨を、霧雨魔理沙のとなりにうずめなければならない。また墓の所在を知らしめてはならない
これをおこなわなければ、竹林の不老不死者たちは幻想郷の神々に、はなはだしく呪われる
これをおこなえば、竹林の不老不死者たちは幻想郷の神々に、はなはだしく証しされる
頼みごとではなく、あからさまな命令の文を巫女が妹紅と亭に送ったのは、霊夢が死んですぐであった。
霊夢は二十二歳。魔理沙が死んで三年後の冬に、心臓の病で亡くなった。
それは妹紅を驚嘆させた。自分に他者の死を察知する才覚があると自負していた彼女は、霊夢の死相をまるで見ないでいたのである。
ありありと妹紅の頭に浮かぶのは、近ごろのことよりも、魔理沙に頼まれた日に、擦れちがったあの霊夢である。あの生命に溢れていた人物が、あっさりと死んでしまったことに、彼女はなぜかいきどおりすらおぼえるのである。
「心臓の病だなんて信じない」
「自分で死んだかしら」
「どうして」
「魔理沙がいないから」
「余計にありえない」
「こだわるのね」
「私はこれでも、霊夢の強い生命の力を尊敬していたんだ。あの娘は、おまえよりも美しかったよ」
「まあ」
「器量の問題じゃないんだ。内側の問題なんだよ。おまえの内側は、どうしようもなく醜いのだ。いや、私もだ。不老不死者なんぞが醜いのだ。私たちの肉は腐ってる」
「分かってるわ」
「いや、分かってない。私は人間だったから分かる。そうじゃないおまえには分からない」
もうすぐ竹林の東部の、より奥まった場所にたどりつく。そこは妹紅の知っているかぎり、竹林で最も静かな場所であった。その場所は、内に住むわずかな者しか知らず、何もない場所であるために、誰も寄りつきはしないのである。
「霊夢の病が知られたら、妖怪どもはどんな手段を使ってでも、あの娘を助けようとしただろう。私もそうしたかった。あいつはそれがいやだったんだ。だから隠した。誰もそれに気がつけなかった、魔理沙も……死の予感を知ってしまったら、それを悟られないようにするなんて不可能だ」
「不可能じゃなかったわ」
「結局のところ魔理沙の頼まれごとも、やぶることになってしまったわ。でも、しかたがない。私は幻想郷の神々に呪われたくない」
幻想郷の神々は、霊夢の望むようにする
魔理沙の言葉が、妹紅の脳裏によみがえった。こうして彼女のとなりに自分が終局的には埋められると、霊夢が分かっていたように思えてならなかった。
妹紅は、ぞっとした。
そのうえで、感じるのは、なんと謂うせつなさ!
霊夢にあったのは、自分をいとおしい人に独占させようとする、強固な決心にほかならない。それが妹紅を畏れさせた。結局のところ彼女が隠していたのは、病のことよりも、その決心のほうかもしれなかった。
「あっ。上よ」
と輝夜が言った。
妹紅は釣られて空を見あげた。
宙空で誰かがとどまっている。
それが霊夢にも見えたし、魔理沙にも見えた。しかし次の間には、幻像も消えて、それが次代の巫女であるとよく分かった。
巫女の左手に持っているおはらい棒の幣は、上空の風を受けて、勢いよくたなびいていた。右手には八卦炉が握りしめられており、それがきらきらと天の川をかたちづくる、乳白色で、小星のような光の粒を、際限もなく零れおとした。
その光景は、疑いようもなく和合の実在を証ししている。
それらは継がれて、統一された。
葉之御霊 終わり
鈴仙
面白く良かったです
てめえww
死にゆくものでも、子を残せないものだとしても、意志を引き継ぎ、新しい人に繋がる……本当にとてもよかったです。
ゆったりと死に向かう魔理沙はどこか未来を見ていて、それを見守る、いいや、隣に立つ霊夢は一緒に見ていくのを是として……
霊と万葉ははじめからあったのでしょうし、それらを理解する永琳、鈴仙もよかったです。
甘い二人が本当に……良かったです……!長文失礼しました。
霊夢の変質を恐れる魔理沙が、徐々に霊夢と融和し、愛し合っていく過程がとてもよかったです。
最期には二人とも死んでしまうものの、暖かい読後感がとても心地いい。
序盤がかなり哲学臭く、なかなかレイマリに辿り着かないのが苦しかったですが……
もうちょっとイチャイチャしても良かったかなと思ました。
霊と万葉がすべてであり、そのすさまじい何かを満たすには霊夢に会うしかないのだと、わかっていても小賢しい魔理沙はそれができず、智に走ってしまう。だからある種、寵愛の完成ともとれる輝夜の言葉が胸を砕くように刺さってしまう。読みながら伝わってくるその感情の機微が、心苦しいリアリティを孕んでいたように感じます。
病院を抜け出してから一転、霊夢と共に次世代への継承がはじまるわけですが、盲目に至って、欠落してようやくやるべきことに猛進できるようになった様は痛々しくもあり、わずかにさわやかさもありました。終わる前に何かを残す、そんな生物の原始的な本能が、二人を統合した美しい愛の形と変貌していくようで、非常に愛おしかったです。レイマリ万歳。