『忘れっぽい人たちの中で』
あるとき、友達の小鈴が私に訊ねました。
「ねえ、あの本どこにある? うちの『捜神記』は?」
小鈴は家の手伝いで貸本屋の番をしていて、そのときも商品の本を探して棚の間を歩き回っていました。
訊かれ慣れた種類のことです。私はすぐに教えてやりました、「あんたの机の上」って。
小鈴はなかなか信じませんでした。「違う。そこにはないわ」って言うんです。机に山積みされていた六冊の上から二冊目に向けて、私は指まで差していたのに。私の位置から見えるその深草色の背表紙には『捜神記 干宝』と書かれていました。
「さっきあんたが自分で机に置いていったわよ」
「そう? 誰が持って行っちゃったのかな」
小鈴は本棚の上段に手を伸ばしていて、机を見ようともしません。私は仕方なく立ち上がって、探し物を顔の前に突きつけてやりました。あの子は心底から驚いた様子で大きな目をしていました。
「でも、机の上はついさっき探したの。そのとき本はなかったわ!」
「いいえ、あんたは探さなかった。あんたははじめ、あそこの大きな本箱の中で探していたこの本を見つけた。そうして安心した顔でそれを机の上に積み上げたのよ。それきり机には近づいてもいないわ」
「覚えてないわ、そんなこと。……ねえ阿求、本当なの?」
こんなとき何を言えばいいのか、私には分かりません。黙ってしまいます。だって、私は覚えているんですもの。なのに、私の友達は何も覚えていないんです。
私を見るあの子の目はとても驚いていて、なぜか少し悲しげでもあった。まるで、いま初めて目を開けて世界を見たばかりの、無防備な子犬のようなんです。
ひとに話しても信じてもらえない記憶がいくつもあります。絶対にあったことなのに、誰も思い出すことができない記憶。
でも、たぶんそういう記憶は私のような人間にとっては、あって当然のものなんでしょう。だからこそ、大きな目をした小鈴の前で、私は無言でいるしかなかった。生まれつきに記憶能力が備わっていたものですから、実を言うとむしろ自分以外の忘れっぽい人たちの感覚が理解できないくらいなんです。この点はとても重要です。いったい、みんなが過去のことをどれくらい覚えていられるのか、私にはきちんと分かったことがありません。
二人で観に行った芝居の一台詞を、小鈴は一年経ってもまだ覚えています。でも、三日前に誤って私の手を靴で踏んづけたことはもう覚えていません。本当にどうして、前掛けのボタンを縫い直すことを十回も思い出したり忘れたりできるんでしょう。それに、ある本を読み終えたときの空模様を思い出せることと、その本を勧めたのが私だったことを思い出せないことには、どんな違いがあるんでしょうか。
こう書いてよければ、彼女たちは夢見るように日々を生きています。とても不思議なことです。
『捜神記』の一件があったせいなのでしょうか、それから小鈴は私に奇妙な質問を発してくるようになりました。
「初めて会ったとき、私たちどんな話をしたの?」
「一番面白かったことは何? 一番恐ろしかったことは?」
「今日自分が何回あくびをしたか覚えてるの?」
私が答えると、小鈴はいちいち驚きました。でも、ときには驚くのは私の方でした。彼女は日常の細部をほとんど記憶に留めていないだけでなく、ともすると非常に衝撃的だったはずの事件さえ忘れていることが多いんです。
私も質問を考えるようになりました。
「自分の歳を忘れることってある? 自分の名前は? 顔は?」
「いま閉じた本には最後になんて書いてあった?」
「さっき私が質問したことを覚えてる?」
私が訊くと、小鈴はたいがい笑いだすか、でなければ考え込んでしまいました。
お茶の時間や散歩の途中で、ふと会話が途切れたとき、どちらからともなく質問が始まります。一時期の私たちはこの新しい遊びを、何か静かで不安な冒険のように感じて気に入っていました。そうした質問の一つ一つを私は当時の情景とともに思い出すことができます。いずれは私か小鈴、どちらか一人だけのものになるはずの、秘密めいた情景。
残念ながら、そんな質問ごっこの熱が続いたのは本当に短い間だけでした。小鈴が最初の質問をくれた日はちょうどその年の梅雨入りでしたが、梅雨明けと同時に最後の質問を私が発しました。
雨上がりの涼しい午前を散歩に出ているときでした。運河沿いに歩いて湖までやってきました。夏のはじめの青々とした草の匂いが鼻にくすぐったいほどです。湖の上はいつも以上に濃い霧で、そこだけがまだ描かれていない風景画のように白く空いていました。
これは今になってする私の想像ですが、おそらく、その霧を見た瞬間に小鈴はいま言いかけていた私への質問を忘れてしまったのでしょう。だからあんなことを訊いてきたんです。
「私が忘れてることって、何?」
それは私たちにとって一種の合図でした。その一言は、二人の時間をあの貸本屋での『捜神記』の場面まで巻き戻すものでした。あるいは、あの楽しかった質問ごっこの時間全ては、本棚の前で言葉を失ってしまった私への猶予だったのかもしれません。
だから今度は私も口を開きました。
「昔、そう例の紅い霧の異変があったころ、紅魔館の建っている場所はあんな湖のほとりなんかじゃなかった」
それもまた、ずっと以前から言うのをためらっていた言葉、猶予されていた言葉だった気がします。真っ白な霧の奥を指差しながら、私からも最後の質問をしたんです。
「あのころの紅魔館は、湖の中心の小島に建っていたわ。たしかにそうだった。もう誰も覚えていない。あんたは、あんたは覚えてる?」
そうです、私にとっては記憶よりも忘却の方が、ずっと不可思議で神秘なことです。目の前の事実が今にも過ぎ去って永久に無くなるということは、本当に信じられないことです。でも同時にそんな忘却が世界にはあまりにありふれているのです。空間を埋め尽くすあの湖の霧に似て、忘却はあらゆるものを包み込んでいます。
あのとき私が質問の形で小鈴に答えたかったこと、打ち明けたかったこと、どんな風に説明すればいいのでしょうか。私のような人間の心を。
ひどく忘れっぽい人たちの中で、私だけがまるで痛々しく開かれた本のページです。
小鈴とは稗田屋敷の前で別れました。正午を過ぎると幻想郷はにわかに真夏の暑気で、湖を離れてからは二人ともすぐに汗になっていました。私は昼ごはんを食べていけばと勧めたのですが、あの子は店の手伝いをしなければいけなかった。
小鈴とは門の下で手を振って別れたけれど、私はしばらくそこを去らずに見送りに立っていました。
あの子は自分で知っているのでしょうか、塀の角を曲がって見えなくなる間際、私がまだここに立って手を振っていると、小鈴は必ず気がついてもう一度手を振り返すんです。私の手の振り方なんて、ほんのささやかなものなのに。
真夏の暑気と書いたのは嘘や誇張ではありません、まだ六月だったのに。小鈴が塀の角へ歩き去っていくまで少しの間でしたが、ひよわな私はすでに朦朧としてきました。雨上がりの蒸れた地面には陽炎まで立ち昇っていて、通りの明るさは白昼夢のようでした。湖で際どいところをくぐり抜けた後で、私の頭に不意と投げやりな考えが浮かんでしまったのも、あんな暑さのせいだったかもしれません。
小鈴の姿が塀の角へ隠れようとしています。私は挙げかけた手を下へ降ろしてしまいました。
だって、ここで私が手を振らなくても、たとえ小鈴が不審がったとしても、どうせあの子は遠からず忘れてしまうんです。どんなに長くても一年以上は覚えていられないでしょう。振られた手も、振られなかった手も、どちらも同じ忘れられる手です。それにこんなに暑いんですから。
私は手を振りませんでした。
そのとき、奇妙なものを目にしました。
小鈴は、あの子は手を振り返してきました。角へ消えるまえの一瞬に、明らかに私の方に気づいたという様子で、手を頭の上に大きく振って見せたのです。あれは確かに、私のために応えて振り返したという手でした。
私は門前に一人残されて、思わず周囲を見回しました。いったい誰が私に代わって手を振ったのかと。やはり私一人です。立っているのは陽炎ばかりでした。
豁然として一つのことを理解しました。小鈴に手を振ったのはこの陽炎たちでした。この、はるばると透きとおった大気の揺らめきの中に、あの一瞬、私と同じ何かがいたのです。そして小鈴にお別れの手を振ったのです。
もし、私たちの立場が逆だったら、小鈴はこんな微妙な感覚を味わっても、きっとすぐに忘れてしまうでしょう。彼女たちが得意な「気のせい」という言葉で、どこか目立たない場所に置き去りにするのかもしれません。にもかかわらず、彼女たちは本当は全てのことに気づいているのです。ただ忘れっぽいだけなのです。
あの別れ際の一瞬、小鈴は陽炎の中から手を振った阿求に手を振り返しました。本当は普段からそんなふうにして、世界にただよう幽かなささやきを読みとりながら、それら全てを私の一部として受け入れていたのです。
いいえ、おそらくは私の方こそが、そうしたささやきたちの一つの現れなのです。
これもまた、ひとには信じてもらえない記憶です。
私は寂しくはありません。生きていたいんです、あの忘れっぽい人たちの中で。まだ私を覚えている人たち……
その日の昼ごはんは茶粥と、豆腐と辛味大根の味噌汁と、生姜の佃煮、それから卵を一つ割った出汁巻を食べました。猫はどこか外へ遊びに行ったようでした。
あるとき、友達の小鈴が私に訊ねました。
「ねえ、あの本どこにある? うちの『捜神記』は?」
小鈴は家の手伝いで貸本屋の番をしていて、そのときも商品の本を探して棚の間を歩き回っていました。
訊かれ慣れた種類のことです。私はすぐに教えてやりました、「あんたの机の上」って。
小鈴はなかなか信じませんでした。「違う。そこにはないわ」って言うんです。机に山積みされていた六冊の上から二冊目に向けて、私は指まで差していたのに。私の位置から見えるその深草色の背表紙には『捜神記 干宝』と書かれていました。
「さっきあんたが自分で机に置いていったわよ」
「そう? 誰が持って行っちゃったのかな」
小鈴は本棚の上段に手を伸ばしていて、机を見ようともしません。私は仕方なく立ち上がって、探し物を顔の前に突きつけてやりました。あの子は心底から驚いた様子で大きな目をしていました。
「でも、机の上はついさっき探したの。そのとき本はなかったわ!」
「いいえ、あんたは探さなかった。あんたははじめ、あそこの大きな本箱の中で探していたこの本を見つけた。そうして安心した顔でそれを机の上に積み上げたのよ。それきり机には近づいてもいないわ」
「覚えてないわ、そんなこと。……ねえ阿求、本当なの?」
こんなとき何を言えばいいのか、私には分かりません。黙ってしまいます。だって、私は覚えているんですもの。なのに、私の友達は何も覚えていないんです。
私を見るあの子の目はとても驚いていて、なぜか少し悲しげでもあった。まるで、いま初めて目を開けて世界を見たばかりの、無防備な子犬のようなんです。
ひとに話しても信じてもらえない記憶がいくつもあります。絶対にあったことなのに、誰も思い出すことができない記憶。
でも、たぶんそういう記憶は私のような人間にとっては、あって当然のものなんでしょう。だからこそ、大きな目をした小鈴の前で、私は無言でいるしかなかった。生まれつきに記憶能力が備わっていたものですから、実を言うとむしろ自分以外の忘れっぽい人たちの感覚が理解できないくらいなんです。この点はとても重要です。いったい、みんなが過去のことをどれくらい覚えていられるのか、私にはきちんと分かったことがありません。
二人で観に行った芝居の一台詞を、小鈴は一年経ってもまだ覚えています。でも、三日前に誤って私の手を靴で踏んづけたことはもう覚えていません。本当にどうして、前掛けのボタンを縫い直すことを十回も思い出したり忘れたりできるんでしょう。それに、ある本を読み終えたときの空模様を思い出せることと、その本を勧めたのが私だったことを思い出せないことには、どんな違いがあるんでしょうか。
こう書いてよければ、彼女たちは夢見るように日々を生きています。とても不思議なことです。
『捜神記』の一件があったせいなのでしょうか、それから小鈴は私に奇妙な質問を発してくるようになりました。
「初めて会ったとき、私たちどんな話をしたの?」
「一番面白かったことは何? 一番恐ろしかったことは?」
「今日自分が何回あくびをしたか覚えてるの?」
私が答えると、小鈴はいちいち驚きました。でも、ときには驚くのは私の方でした。彼女は日常の細部をほとんど記憶に留めていないだけでなく、ともすると非常に衝撃的だったはずの事件さえ忘れていることが多いんです。
私も質問を考えるようになりました。
「自分の歳を忘れることってある? 自分の名前は? 顔は?」
「いま閉じた本には最後になんて書いてあった?」
「さっき私が質問したことを覚えてる?」
私が訊くと、小鈴はたいがい笑いだすか、でなければ考え込んでしまいました。
お茶の時間や散歩の途中で、ふと会話が途切れたとき、どちらからともなく質問が始まります。一時期の私たちはこの新しい遊びを、何か静かで不安な冒険のように感じて気に入っていました。そうした質問の一つ一つを私は当時の情景とともに思い出すことができます。いずれは私か小鈴、どちらか一人だけのものになるはずの、秘密めいた情景。
残念ながら、そんな質問ごっこの熱が続いたのは本当に短い間だけでした。小鈴が最初の質問をくれた日はちょうどその年の梅雨入りでしたが、梅雨明けと同時に最後の質問を私が発しました。
雨上がりの涼しい午前を散歩に出ているときでした。運河沿いに歩いて湖までやってきました。夏のはじめの青々とした草の匂いが鼻にくすぐったいほどです。湖の上はいつも以上に濃い霧で、そこだけがまだ描かれていない風景画のように白く空いていました。
これは今になってする私の想像ですが、おそらく、その霧を見た瞬間に小鈴はいま言いかけていた私への質問を忘れてしまったのでしょう。だからあんなことを訊いてきたんです。
「私が忘れてることって、何?」
それは私たちにとって一種の合図でした。その一言は、二人の時間をあの貸本屋での『捜神記』の場面まで巻き戻すものでした。あるいは、あの楽しかった質問ごっこの時間全ては、本棚の前で言葉を失ってしまった私への猶予だったのかもしれません。
だから今度は私も口を開きました。
「昔、そう例の紅い霧の異変があったころ、紅魔館の建っている場所はあんな湖のほとりなんかじゃなかった」
それもまた、ずっと以前から言うのをためらっていた言葉、猶予されていた言葉だった気がします。真っ白な霧の奥を指差しながら、私からも最後の質問をしたんです。
「あのころの紅魔館は、湖の中心の小島に建っていたわ。たしかにそうだった。もう誰も覚えていない。あんたは、あんたは覚えてる?」
そうです、私にとっては記憶よりも忘却の方が、ずっと不可思議で神秘なことです。目の前の事実が今にも過ぎ去って永久に無くなるということは、本当に信じられないことです。でも同時にそんな忘却が世界にはあまりにありふれているのです。空間を埋め尽くすあの湖の霧に似て、忘却はあらゆるものを包み込んでいます。
あのとき私が質問の形で小鈴に答えたかったこと、打ち明けたかったこと、どんな風に説明すればいいのでしょうか。私のような人間の心を。
ひどく忘れっぽい人たちの中で、私だけがまるで痛々しく開かれた本のページです。
小鈴とは稗田屋敷の前で別れました。正午を過ぎると幻想郷はにわかに真夏の暑気で、湖を離れてからは二人ともすぐに汗になっていました。私は昼ごはんを食べていけばと勧めたのですが、あの子は店の手伝いをしなければいけなかった。
小鈴とは門の下で手を振って別れたけれど、私はしばらくそこを去らずに見送りに立っていました。
あの子は自分で知っているのでしょうか、塀の角を曲がって見えなくなる間際、私がまだここに立って手を振っていると、小鈴は必ず気がついてもう一度手を振り返すんです。私の手の振り方なんて、ほんのささやかなものなのに。
真夏の暑気と書いたのは嘘や誇張ではありません、まだ六月だったのに。小鈴が塀の角へ歩き去っていくまで少しの間でしたが、ひよわな私はすでに朦朧としてきました。雨上がりの蒸れた地面には陽炎まで立ち昇っていて、通りの明るさは白昼夢のようでした。湖で際どいところをくぐり抜けた後で、私の頭に不意と投げやりな考えが浮かんでしまったのも、あんな暑さのせいだったかもしれません。
小鈴の姿が塀の角へ隠れようとしています。私は挙げかけた手を下へ降ろしてしまいました。
だって、ここで私が手を振らなくても、たとえ小鈴が不審がったとしても、どうせあの子は遠からず忘れてしまうんです。どんなに長くても一年以上は覚えていられないでしょう。振られた手も、振られなかった手も、どちらも同じ忘れられる手です。それにこんなに暑いんですから。
私は手を振りませんでした。
そのとき、奇妙なものを目にしました。
小鈴は、あの子は手を振り返してきました。角へ消えるまえの一瞬に、明らかに私の方に気づいたという様子で、手を頭の上に大きく振って見せたのです。あれは確かに、私のために応えて振り返したという手でした。
私は門前に一人残されて、思わず周囲を見回しました。いったい誰が私に代わって手を振ったのかと。やはり私一人です。立っているのは陽炎ばかりでした。
豁然として一つのことを理解しました。小鈴に手を振ったのはこの陽炎たちでした。この、はるばると透きとおった大気の揺らめきの中に、あの一瞬、私と同じ何かがいたのです。そして小鈴にお別れの手を振ったのです。
もし、私たちの立場が逆だったら、小鈴はこんな微妙な感覚を味わっても、きっとすぐに忘れてしまうでしょう。彼女たちが得意な「気のせい」という言葉で、どこか目立たない場所に置き去りにするのかもしれません。にもかかわらず、彼女たちは本当は全てのことに気づいているのです。ただ忘れっぽいだけなのです。
あの別れ際の一瞬、小鈴は陽炎の中から手を振った阿求に手を振り返しました。本当は普段からそんなふうにして、世界にただよう幽かなささやきを読みとりながら、それら全てを私の一部として受け入れていたのです。
いいえ、おそらくは私の方こそが、そうしたささやきたちの一つの現れなのです。
これもまた、ひとには信じてもらえない記憶です。
私は寂しくはありません。生きていたいんです、あの忘れっぽい人たちの中で。まだ私を覚えている人たち……
その日の昼ごはんは茶粥と、豆腐と辛味大根の味噌汁と、生姜の佃煮、それから卵を一つ割った出汁巻を食べました。猫はどこか外へ遊びに行ったようでした。
そしてそうした正常な記憶と異常な忘却のやり取りを遊ぶことができる彼女達が、羨ましいとも、思えてしまいました。
然らば76億分の1という個々で視る世界は実に限定的なものなのかもしれません。
なかったことになる事実。夢を見ているように生きている人々。陽炎の中にとける想い。
6月中に読めてよかったです。
これですよ
この注意力不足とうかつさが小鈴ですよ
誰よりも覚えていられる阿求が誰よりも覚えていてほしいのですね
阿求の記憶についての解釈も面白い視点で良かったです