「………………?」
その朝、奇妙な感覚に襲われ、霧雨魔理沙は目を覚ました。
自室のソファ、仰向けの自分、胸の上には読みかけの魔導書。居眠りの後のいつもの光景だ。だが……何かがおかしい。視覚に現れない違和がどこかにある。
とりあえず体を起こそう。それが全ての気づきの始まりだった。
「………………?!」
ふわり。体を起こした、その情報だけが乖離する。現実から漂い、物理を忘れてすり抜ける。体を起こした、自分の身体が自分でないようで……。
……否、体など起こしていない。起こしたと思っただけだ。体を起こしたときに感じるはずの……重さを感じなかった。起き上がったのは意識だけだ。体は未だソファに沈んでいる。では……この起きていると思っている……私は〝何〟だ?
……知っている。
この、横になっているようで、縦になっているような感覚。
……似たような経験ならしたことがある。
そう、金縛り。半分夢を見ているような世界で、自分が体を起こしたと思っていても、それは夢が見せた幻影で、実際の身体はピクリとも動いていない。心だけが起きていて、身体は起きていない。あれに近い。
だがそれでは説明できないものが視界に映っていた。
……自分だ。
金縛りで見る夢は、自分は起きたと思った頭が見せる幻影だ。だから、その夢の中で振り返っても、ベッドに眠る自分は見えない。夢の中の私は、「そこ」ではなく「ここ」にいるのだから。
だが見える、見えるんだ。今は。私の身体が……。
「変だぜ」
もしかして、これが幽体離脱というやつなのだろうか。自分を自分が見ていて――
「……えっ?」
私の思考は、僅かな遅れを以て過去に引き戻された。目からの情報ではない。新たな違和は耳から入ってきた。自分が放った、自分のはずの言葉。それが……
……自分ではない誰かの言葉のように聞こえたのだ。
あまりに予想外の違和だったから、気づくのに遅れてしまった。だが一度認識してしまうと、相当に気分が悪い。知らない誰かが自分の中に居るようだ。
「変……だぜ」
今度こそ確信した。「変だぜ」という、その声自体が「変」だった。身体だけでなく、の声までも。まるで自分ではなかった。
今喋ったのは誰だ。この声の主か。それが私なのか。では私が私ではないのか。ならばこの声は誰だ。私は誰だ。お前は誰だ。誰だ、誰だ、誰だ……。
「誰だお前」
問うたが、答えない。当然だ。ここには霧雨魔理沙しかいないのだから。けれど。
「私はこんな明るい声じゃないぜ」
明るい声が部屋に響き渡る。明るい、そして派手な声が。
――派手なのは自分のブロンドの髪だけでいいと思っていたのに。
改めて振り返る。いつも通り、帽子を顔に被せるように寝ている私。私が本来、見ることの叶わぬ、私自身の姿。
鏡を介さぬ、本当の私の姿。
夢なのか、幽体離脱なのか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。今はこのあからさまな違和感を払拭したい。その想いで一杯だ。今すぐ狂気を抜け出して、元の私に戻りたい。そのためには、どうすればよいだろう。起きているようで寝ている。現を見ているようでいて夢を見ている。どちらだか分からない。確認のしようがない。そんなときは……。
あぁ。
一番手っ取り早い方法があるじゃないか。
……「自分」を起こせばいい。
掴んだ、魔女のとんがり帽子。触り慣れたその感触。それを味わうことも無く握りしめ……
「起き……ろ!」
掴み上げた。その下に眠る私の顔……
「っ……!?」
目に入った光景に息が詰まり。直後。
「っ……きぃぃぃああああああああ!!」
叫び声を上げた。自分ではない、甲高い声で。それに二重に驚き、よろめき、尻もちをつき、震える手で口元を抑え。それでも目が離せない、その「顔」。
――否、「顔」などなかった。
そこにあったのは、色の削げ落ちた、真っ暗な闇。形状より外に情報の存在しない、艶やかな黒。物言わぬ黒い影。空間に沈む黒いヒトガタ。私の容をした、しかし私の色を持たない影……
〝NO DATA〟
ざり、ざりと微かにざらつく影の揺らめきに、浮かび上がるその文字。
「何だ……これ」
〝[!]このキャラクターは未取得です[!]〟
「何だよこれは……!!!!」
〝[!]このキャラクターで遊ぶには、事前登録が必要です[!]〟
* * *
飛び出した、夢うつつの朝。霧晴れた森へ。箒など要らなかった。魔力すら使わずに宙を舞った。何故なら体に重さが無かったから。
初めは、元の体に戻ればどうにかなると思っていた。自分が偽物で、ソファに寝ているのが本物で……離脱した幽体を、元に戻せば大丈夫だと。手段なんて知らないけど。仕組みなんて知らないけど。今の体が自分じゃないのだから、自分を自分に戻すしかないと思っていた。
だが考えが変わった。あんな真っ黒い塊が自分だなんて信じたくない。あれに比べたら……今の身体の方がまだマシだ。ひとまず、今の私を私と信じることにした。
あっという間に森を抜け、人里に出た。ここなら誰かいるはずだ。信頼のおける人間が何人か……。
誰でもいい。手っ取り早く誰かと会って話さなくては。自分の状況を話して、自分の体も診てもらって……この際、アタマも診てもらうことになるかもしれない。だがそれでもいい。今はただ、早くこの違和を解消したかった。
初めに遭遇したのは、寺子屋の前に立っていた慧音。狭い範囲、同じ場所を規則的に行ったり来たりしている。何か考え事をしているのだろうか。だが私の方は一大事だ。少しばかり邪魔しても構わないだろう。
「おい、聞いてくれ!」
自分の声、それをある程度知っている彼女なら、この一言でも異常を感じてくれるのではないか。そう期待したが、すぐに裏切られた。
「魔理沙じゃないか」
普段通りに、慧音がこちらを振り返る。
「あ、あのな、おかしいとは思わないのか?」
慧音は怪訝そうな顔を浮かべるだけで。続いて何事も無かったかのように口を開いた。
「今日は里に何の用だ? 私の授業を受けにでも来たのか?」
慧音にしては変な冗談を言う。
「すまないがそれはまた今度だ。いいから今は聞いてくれ。私の身体がおかしいんだ。重さが無い。動いている心地がしない。生きている心地がしない。今日目を覚ましてからずっとだ。本当の自分の体を置いてきてしまった気がする。見た目はいつも通りに見えるんだが……少なくとも私にはな。だが……あんたはどうだ? 私がどう見えている? 私はいつも通りか? 私は……霧雨魔理沙に見えるか?」
「魔理沙じゃないか」
慧音は躊躇いも無く即答した。
「そ、そうか。そうだよな……それは良かった」
安心していいのか分からない。不安は募るばかりだ。
「……じゃあ声はどうだ? 私はこんな声をしていなかったと思うんだが……私の声も、いつも通りか?」
「魔理沙じゃないか」
やはり即答。
「おっかしいなぁ……」
確かに私の声はこんなものではなかったはずだ。根拠を示せと言われれば困るところだが、生まれてこの方ずっと付き合ってきた自分の声だ。それが変わればすぐに気づく。しかし、慧音がいうことが本当なら……おかしいのは私の方なのかもしれない。私の感覚が狂っているだけで、身体は案外普通なのかもしれない。となると……。
今度こそ本当にアタマの方を疑わなくちゃいけない。昨日は変なキノコでも食べたのだろうか? それとももっとヤバいものを食べたか? 阿片でも吸って変になったか?
「今日は里に何の用だ?」
慧音は再び問いかけてきた。
「だから私の身体がおかしいって話を今……」
「私の授業を受けにでもきたのか?」
「だから今はそれどころじゃないって……」
謎のデジャブに襲われる。しかも直近十数秒前の。
「魔理沙じゃないか」
「おい……」
「今日は里に何の用だ?」
「おいお前……」
鋭い不気味さが、忽ち肝を凍らせた。
「私の授業を受けにでも来たのか?」
「慧音!!!」
掴みかかる、その襟元、揺さぶるが、しかし特別な反応は帰って来ない。
「魔理沙じゃないか」
「しっかりしろ……!」
「今日は里に何の用だ?」
「どうしちまったんだよ……!!」
自分が会話だと思っていたもの。それは会話ではなく独り言であった。その衝撃に、思わず手が出てしまった。何とも知らぬ誰かに騙され、誰とも知らぬ何かに裏切られている。そんな気がした。私が話しかけていたのは只の人形だったのか? 私の訴えは誰にも届かぬ遠吠えだったのか?
何なんだ、これは。
途方に暮れ、見上げた空。目線の先には、風にはためくのぼりがあった。
〝祝、三万人突破!〟
祝……? 何を祝っているんだ? だいたい三万人とは何だ。幻想郷にそんなにたくさん人間が居てたまるか。
頭が疑問に埋め尽くされ、気づけば掴んだ手を離していた。体の自由を取り戻した慧音は、再び寺子屋の前を規則的に往復し始めている。
〝目指せ、五万人事前登録!〟
先程は知り合いを探すのに必死で気づかなかったが。見れば、里の通りにはそこら中に派手な色合いののぼりが掲げられていた。
年に一度の夏祭りの日にだって、こんなに派手にはやっていないというのに。何だこの見た目の五月蠅さは。そして仰々しさ。基本的に幻想郷の人間は慎ましく、派手なことをやるのは妖怪どもだ。そして日が昇り始めた今、妖怪どもは眠りについているはず。この幻想郷に、「これ」をやるような存在が居るとは思えない……。
……そんな思考を巡らせながら、並ぶのぼりを見上げて彷徨していた。その足が、あるところで止まった。村の外れ、大きな屋敷の前。そこに一段と大きなのぼりが立っていた。
記された文字を見て、私は鳥肌が立つのを止められなかった。
〝十万人登録で、「霧雨魔理沙」プレゼント!〟
「………………は?」
意味が分からない。そして、意味が分からない。
お 前 は 何 を 言 っ て い る ん だ ?
霧雨魔理沙は私だ。霧雨魔理沙は私のものだ。誰にも渡しはしない。私は霧雨魔理沙を生きる霧雨魔理沙なのだから。その私を誰にプレゼントすると言うのか。
訳も分からず腹が立ってきて、私はそののぼりを掲げる屋敷の玄関を叩いた。
どん、どんどん。
叩くが音は頼りない。重さが無いのだから当然だ。それでも私の姿を見てか、屋敷の使用人が引き戸を開けてくれた。そのとき目の端に映った表札を見て、初めてそれが稗田家の屋敷だと思い出す。
ちょうどいい、あいつならもう少しまともな話ができるだろう。
「ご用件は……」
「阿求と話をさせてくれ」
「どうぞ」
あっけなく通され、それはそれで違和感も覚えながらも、しかし躊躇わずずんずんと廊下を進んでいった。私は彼女に話を聞く権利がある。
襖を開き、遠慮なく書斎に入る。中には正座で筆を走らせている彼女の姿があった。
「おはようございます、魔理沙さん」
「どういうことか説明して貰おうか」
「私は稗田野阿求。稗田家九代目当主……」
「知ってる、知ってるから。自己紹介から始めんでも」
「……幻想郷でセーブデータの管理をしているの」
「何だって?」
耳を疑った。同時に込み上げてきたのは、先程と同じ不気味さ。まるで人形と喋っているかのようで……いや、まだアリスの人形と喋っているときの方が温かみがある。だが今の目の前の彼女は……
「セーブしますか? ロードしますか?」
「だから何を言って……」
「現在、ロードできるデータはありません。セーブしますか?」
「おい、意味が分からないぜ、セーブってなんだ? ロードってなんだ? 何の話をしているんだ?」
「セーブが完了しました。霧雨魔理沙(チュートリアル) レベル 1 レア度 丁 ……」
聞きなれぬ単語が連続する。
「……霊力5/5 ボール 所持 0」
「ボール? オカルトボールのことか?」
幻想郷でボールと言ったらオカルトボールだ。だが聞いても阿求は答えてくれなかった。さっきと同じ、会話が成り立っていない。
「記録をしたければいつでも来てくださいね」
「すまんが……玉揃え遊びはもう懲り懲りなんだ」
言葉が通じないと分かり、私は足早にその場を去った。
「どいつもこいつも……どうしたってんだ」
話の分かる奴は居ないのか。そう願って屋敷を出る。〝「霧雨魔理沙」プレゼント〟ののぼりは、道すがら降ろして折って捨てた。こんなにたくさんあるんだから、一つくらい無くなってもバレないだろう。それより早く、この異常の原因を突きとめなければ。
ただ……話を聞くと言っても、この様子じゃ、里のどこに行ったって結果は同じに思えた。町は一様に狂気に包まれており、そこに居る人々もその気に触れている。要するに手遅れなんだ。どこか、里以外の場所で、正気を保っている奴が居れば……
「そうだ」
話が分かるとしたら、もう、あいつしかいない。
私の身に起こった、おかしなこと。
私の声に起こった、おかしなこと。
里のみんなに起こっている、おかしなこと。
おかしなこと、すなわち……異変。
それに対抗しようとするならば、同じことを考えている奴が、もう一人居る。
私は神社に向かった。
……これは異変だ。そうとしか説明がつかない。私が初めに見たおかしな光景も、その一部に過ぎないんだ。きっと。本当はもっと強大な、私の知らないような脅威が幻想郷に迫っているに違いない。だから異変を解決して、皆を元に戻して……私の身体を取り戻す。
そうだ。いつだって、そうしてきたじゃないか。
境内に続く階段。その上を飛び抜け、鳥居を潜った。見えてきたのは、いつもの見慣れた彼女の姿。
「よぉ霊夢。霧雨魔理沙が悪い知らせを伝えにきたぜ」
自分の変な声。もう開き直り始めたこの黄色い声に、博麗霊夢が顔を上げる。
「朝から騒がしいわね、魔理沙」
「っ……!」
引っかかる。耳から頭へ、情報が伝わらない。何かが理解を拒んでいる。受け入れたくない何かを。
「霊夢、お前……」
たった一言、それだけで十分だった。これもまた、彼女と長く一緒に居たから分かったことだ。
「……お前も、声変わってないか?」
あの声が、返ってこなかった。
期待した声が返って来ないことが、こんなに悔しいことだとは思わなかった。
かつてそこに在ったはずのものが、一晩寝る間に砂山のように崩れ去ってしまった。喪失はいつも気づいてからだ。失って初めて、それにどれだけ自分が寄り縋っていたのか気づかされる。それが余計に悔しかった。自分の声が奪われるよりも悔しかった。彼女からあの声を、あの凛々しく可憐で、そして鋭く美しい声を奪ったのは誰だ……?
……耳が理解を拒むのは当然だ。
私は――今だから気づいた――彼女の声を期待していたのだ。この異変の真っただ中で、だからこそ、動かぬ幻想郷の管理者、彼女の声を聞いて安心したかった。私は……解決ではなく、安心を求めて、彼女の元にやってきたのだろうか。
「そうね。声、変わったわ。今朝起きたときにね。あなたもでしょう?」
「気づいて……くれるんだな」
その言葉だけで、私は救われた気がした。彼女の声は未だに耳が慣れないけれど、それでも、私の声がおかしいことに気づいてくれた、それが嬉しかった。自分の変化に気づいてもらえないこと、それがどんなにもどかしいことか、今日の朝だけでたくさん思い知らされたから。
「前の方がまだマシだったわね」
「私の声がか?」
「私の声がよ」
「……なんだ」
「なんだってなによ」
「いや……何でもない」
自分が変な期待を寄せていたこと気づかされ、私は帽子を目深に被った。その黒い視界の中、聞こえてきた言葉――
「ま、別に声なんてどうでもいいでしょ」
彼女にとっては何気ない言葉だったのだろう。しかし私は聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。その言葉が、変わってしまった彼女の声で放たれたことが、何より許せなかった。
「いや……どうでもよくはないん……じゃないか?」
「声変わりでしょ、だれにでもあることよ」
「思春期の男の子じゃないんだぜ?」
「じゃあ、誰かと喋りすぎたとか?」
「昨日はずっと家で魔導書を呼んでいた」
「風邪でも引いてるんじゃない?」
「魔法使いは風邪なんて引かない」
「昨日お酒を飲みすぎたとか……」
「私は独りで酒は飲まない」
「……じゃぁ私には分かんない。竹林のお医者さんにでも診てもらったら?」
「診てもらったら? って……お前はどうなんだよ、霊夢」
「何よ、私はいたって健康よ」
「そうじゃない、声だよ、声。お前も声変わってるんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ直してもらわないと……」
「だから声なんてどうでもいいって言ってるでしょ」
自分の手が、重さのない手が強く握りしめられるのを感じた。
「どうでもよくなんかないだろ……?!」
叫んでしまう。
「ちょっと魔理沙?」
続く言葉が、一瞬、浮かばなかった。忘れかけていた目的を掘り起こすのに時間がかかった。そう、初めは自分の体がおかしいことを見てもらうためで。しかしいつの間に、霊夢の声で安心することに期待してしまっていて……それができないと知り、行き場のないもどかしさを、声にしてぶつけてしまっていたのだ。
変わってしまった自分の声で。
「分からないのか? これは異変なんだよ!」
そう、異変だ。私には彼女に会う理由がある。彼女に問いただす正当な理由がある。だからこうしてここにいるんだ。
「異変? 大げさね、ただ声が変わっただけでしょ」
「声、だけじゃないんだ。私の身体全体が既におかしいんだよ! まるで現実の身体を置いて意識だけが飛んでるみたいに……。嘘みたいに体が軽いんだ。……体の重さを感じないんだ。……霊夢はどうなんだ?」
「体の重さって何」
「いやだから……」
「私、そんなもの感じたことないんだけど」
「あう……」
空を飛ぶ程度の能力。そうか。初めからきっと、彼女の身体に重さなんて無いのだ。
「ともかく来てくれ、里の様子がおかしいんだ」
「知ってる。変なのぼりがたくさん上がってるんでしょ?」
「そうだよ、それだよ!」
「何か催し物でも始まるんじゃないの? タイトルは確かキャ……」
私は詰め寄った。
「知ってるなら……何でそんなにのんびりしてるんだよ!」
霊夢は掌をこちらに向けるだけで。
「動く必要が無いからよ。誰も妖怪に襲われていない。誰も怯えてなんかいない。特別な危険なんてどこにもない。皆楽しくやってる。私は静かにお茶飲んでる。幻想郷平和。私暇」
ひどく、はぐらかされている気がした。
「霊夢。お前、何か私に隠し事してないか?」
「してないわよ」
「聞き方が悪かったな」
お 前 た ち 、だ。
「あー?」
「お前が解決に乗り気でないときは、だいたい何か裏がある。そしてお前に裏があるとしたら……だいたい〝あいつ〟だ」
「知ったような口きいてくれるわね」
彼女は目を合わせなかった。ならこちらも遠慮なく言いたいことを言わせてもらう。
「あぁ、知ってるぜ? 永夜異変のときと同じだろ? あのスキマ妖怪……何を企んでいるんだ? お前は何か口封じされているのか? 私に言えない何かがあるんだろう? なぁ、霊夢。……言ってみろよ」
ことん。
盆に湯呑を戻した霊夢。返してきたのは反発でもなく挑戦でもなく、顰蹙の目だった。
彼女は、私の挑戦を正面から受ける気が無いらしい。
「あのね、悪いけど、魔理沙。今回は本当に関係ないの」
そんなの、信じられる訳がない。
「嘘だな」
「嘘じゃないわ」
「魔法使いに嘘は高くつくぜ」
「でも嘘じゃないのは本当よ」
「分かった、紫を呼べ」
「だから本当に紫は関係ないって……」
妙だった。普段の彼女なら、多少は挑発に乗ってくるはずだった。食って掛かってくるまでいかなくとも、否定する言葉はもっと強く、鋭いはずだった。その張合いの無さが、余計にもどかしさを刺激した。
「お前がその気なら私にも考えがあるぜ」
「やめてよ、魔理沙」
博麗霊夢から……博麗霊夢の声が聞こえない。
「信じてよ」
よせ。そんな声を出すな。そんな言葉を発するな。博麗霊夢。
そんな目で私を見るな。幻覚に囚われた病人を見るような目で。妄想に囚われてかわいそう、と言わんばかりのその目で……!
「あぁそうかい。なら私から行っていいってことだな……」
私はポケットの中の八卦炉を握りしめた。
「……撃つと動く……!」
放った、星屑の弾幕。境内に散らばる流星の欠片。そうして初めて、彼女がお祓い棒を手に取った。
「付き合ってもいいけどさ――」
初めから重さのない、博麗霊夢が宙に浮く。
「――今のアンタじゃ私に勝てないわよ」
言ってくれる。無抵抗の相手を一方的に叩く趣味の無い私にとっちゃ、それくらいが好都合だ。そう言って次の魔力を錬成した、そのときだった。
「……え?」
掌に溜めた魔力が、目の前で雲散霧消していった。正直、意味が分からない。こんな初歩的なことに、私が失敗すると……? あり得ない。何故……。
考えている暇は無かった。そうしている間にも、霊夢の放ったお札が飛んでくる。攻撃が繰り出せない以上、躱すしかない。箒無しで浮遊する慣れない感覚で、間一髪。全ての札を避け切った。
……危なかった。こんな弾幕とも言えない弾幕で、何故肝を冷やさなくちゃならないんだ。
視線の先、遥か上方で霊夢は胸を張っていた。攻撃を辞め、動くこともせず、ただ、じっと。手を抜いているのだろうか? それとも馬鹿にしているのか。畳みかけるような弾幕のテンポが、全くと言っていいほど感じられない。それがまた妙だった。それがまた……博麗霊夢らしくなかった。
その彼女が、こちらに向けて口を開いだ。
「あんたのターンよ、魔理沙」
「……は?」
やはりナメているのか。
「ターンって何だよ」
「あんたが攻撃する番だって言ってるのよ」
疑いながらも、魔力を錬成してみる。こんどは難なく成功した。七色の星をばら撒き、霊夢に迫る。その間、霊夢はやはり攻撃してこない。
「どういうことだ、霊夢」
「何よ、アンタまさか弾幕ごっこのルール忘れたの?」
「私の知っているのと違うんだぜ」
私の星弾は途中で尽きてしまった。魔力の供給が止まったからだ。また、攻撃ができなくなってしまう。それを察知したかのように、霊夢は今度は針を放ってきた。札よりも素早く、数が多い。多数を避けながらも、いくつかが服を掠めた。
「あぁもう、何なんだよ!」
ただ避けるしかない自分が情けなかった。弾幕の張り合いの無さが物足りなかった。お互いの力をぶつけ合う、その気迫が味わえないのが悔しかった。
――霊夢と本気で向かい合えないのがもどかしかった。
だから私は八卦炉を構えた。力一杯に握りしめ、込められるだけの魔力を込めた。蒼く、紅く、周囲の霊力までをも螺旋状に巻き込みながら、炉は煙を吐いて発熱し始めた。
これが私の本気だ。
やる気がないなら、こっちから喝を入れてやる。呑気に順番を待っているような弾幕ごっこ何て私が許さない。戦いたければ手を抜くな、目を見ろ、私に向き合え……!
ターンが何だ。順番が何だ。弾幕にそんなものは必要ない。必要なのは……
「弾幕は、パワーだぜ」
そして、その符を掲げ、その名を叫ぶ。
恋符『マスタースパー……
ぼしゅるるる。
握りしめた八卦炉。赤熱した反応中心。加圧された魔力の奔流が、突如、圧力平衡を崩し……
……放たれることなく煙と化した。
見つめた八卦炉。黒焦げになったその放出口。その黒さはまるで……今朝に見た、私の容の影が如く。
その表面に、あの表示が浮かび上がった。
〝[!]このスペルは使用できません[!]〟
〝[!]レベルとボールが不足しています[!]〟
〝[!]スペルを発動するには、育成を続けるか、または事前登録を行ってください[!]〟
〝[!](事前登録十万人達成で「霧雨魔理沙」もらえる!)[!]〟
――ふざけるな。
「だから言ったじゃない。今のアンタじゃ私に勝てない、って」
――ふざけるなふざけるなふざけるな。
「あんた、ボール一個も持ってないじゃない。ほんとにルール解ってるの? このボール、キャ……」
「ふざけるな!」
ついに口に出た、その言葉。それは許せなかったから。全てが。そして、あらゆる情念がただ一点に集中された。
私から……霧雨魔理沙から、マスタースパークを奪って何が残る。
幻想郷――少なくとも私が知っている幻想郷――において、弾幕は少女たちが紡ぐ言葉だった。口で交わす言葉とはまた別の、声にならない言葉。それは、口では伝わりきらない感情を、感覚を、興奮を、時に愛情を、時に殺意を相手に伝える力を持っている。そう、弾幕ごっこは私たちなりの会話なのだ。それがあって初めて伝わるものがあると、幻想郷の人妖は皆、知っている。
その言葉を失うことが、何を意味するか。それは人それぞれかもしれない。大して影響を受けない奴も居るだろう。口達者な奴は、わざわざ弾幕に頼らずとも、大抵のことを会話で済ませられるのかもしれない。
だが私は違う。
私に……この言葉は必要だ。
今目の前で、半ば憐みの視線を向けてくる彼女、博麗霊夢。彼女に話しかけて、まともな会話ができたことなど……一度も無かった。
できるのは煽り合いだけだ。
そもそも常識が違う。人間のくせに、考え方が人間離れしている。発想は追い付かないし、思考も再現できない。分かりやすいところは分かりやすすぎて逆に困る。取り合ってくれないことが多いくせに、妙なところですごく怒ったりする。けれど。
そうして煽り合いの先に在るのが、弾幕ごっこだった。
そこで初めて、私たちの会話は始まる。言葉の代わりに、弾幕を交わす。そうしている間だけ、私は霊夢が分かった。そうしている間だけ、私は霊夢に敵った。そうしている間だけ……私は霊夢と同じ舞台に立っていた。
互いに互いのペースで弾幕を交わし合う。思いのままに弾幕を放つ。その一粒一粒に、互いの言葉は込められている。放たれた互いの言葉が混ざり合い、ぶつかり合い、弾けていく。その張り合いが、更に言葉を強くする。危険と隣り合わせ、命のやり取りの間に、互いの心を垣間見る。それが弾幕という言葉の法だ。
それを少しずつ積み上げて、私は霊夢を解ろうとした。それと同じくらい、私を霊夢に解らせようとした。解らせるという以上に、半ば強引に、それこそ〝パワー〟で、己の内にあるものをぶつけてきた。自分でさえ上手く説明できないようなこの想い、彼女への、言葉では表現できないような想いを、ぶつけてきた。
そのための、強力にして純粋な〝魔力〟の結晶。
そのための、巨大で膨大な〝想い〟の総体。
私がぶつけ得る、最大の感情の奔流。
それが、マスタースパークだった。
だから私は……
それを「恋符」と名付けたんだ。
もし。……否、今、現実となってしまった恐ろしい仮定。
マスタースパークが使えないとしたら。
私が、マスタースパークを失ったら。
どうやって私は、あいつと言葉を交わせばいい?
どうやって私は、あいつに想いを伝えればいい?
どうやって私は……
……あいつに恋を語ればいい?
分からなかった。解らなかった。判らなかった。
目の前に迫る陰陽玉。それを避けることもせず、それ以前に、私は打ちのめされていた。
――墜ちる。
天から地へ、巫女から魔法使いへ、博麗霊夢から霧雨魔理沙へ。言葉の籠らぬ、型と順序に縛られた、物理的な衝撃としての弾幕が下された。
痛み。
それ以外に何もなかった。
言葉も、想いも。敵意も、殺意も。憐みも、侮蔑も。
何も感じなかった。
それが――
「――それがお前の……言葉なのか?」
そうか。
そうなのか?
そうなんだな。
この痛みが、お前の答えなんだな。
〝言葉〟を失った私に。
それを確かめる術は、もう、無い。
* * *
簡単なことだったんだ。
口で伝えられなくて、私は弾幕という言葉を使った。けれど。
口に頼らない言葉なんて、他にもあるじゃないか。
それも。
これも。
お前が教えてくれたんだぜ、霊夢。
私は博麗神社に居た。
あれから数刻と立たない、その日の夜。
手に握っているのは、八卦炉、ではない。
あの言葉は、もう、私には使えないから。
だから別のものを握っていた。
「うぶ……ぁ……」
霊夢が息を吐くのを、耳元、すぐ傍で感じる。
――こんなに近いのは初めてだ。
「魔理……沙……?」
なぁ霊夢。
今なら全部聞こえるぜ。
お前が零す嗚咽も。
浅くなっていく呼吸も。
鈍くなっていく心拍も。
お前の……全てが。
「……どうして、っ……!」
痛み。
それは私が、新たに学んだ言葉。
口での会話とも違う、弾幕ごっことも違う、もっとまっすぐで、純粋で、強くて、鋭い言葉。
私に相応しい言葉。
抱き寄せた。霊夢の体は小さくて。私と同じで、そこに重さは感じられなかった。
お前と一緒になれるなら。私もこのままで、よかったのかもしれない。
そうしてまた。霊夢が体をよじらせた。刺さったものが食い込んで、きっと奥まで届いている。
私の言葉が届いている。
こんなに簡単に、自分の言葉を届けられるなんて、知らなかった。それが嬉しくって、私の腕には、自然と力が籠った。
ぐりぐりと。
ぐりぐりと。
ぐりぐりぐりと。
手に握ったものを、私は強く押し込んだ。
そう。
〝恋符〟
と刻まれた包丁を――
――彼女の最期に。
私は耳元で囁いた。
「……恋符…………マスタースパーク」
* * *
数週間後。霧雨魔理沙は身体の重さを取り戻した。身体の上に浮かぶ〝十万人事前登録達成記念!〟というポップアップを指で弾き飛ばし、起き上がる。もう残像は残らない。影も残らない。分離もしないし離脱もしない。しっかりと感じる重力。自分はそこに居る。地に足を付けて生きている。それが有難いと想えたのは初めての経験だろう。
彼女は何も違和を覚えていなかった。自分を自分として疑うことなどなかった。その幻想郷において、それは紛れも無い、霧雨魔理沙だった。
あなたは問うかもしれない。
――彼女は博麗霊夢を亡き者にしたのか?
その質問には彼女自身が答えてくれる。
「そんなこと心配する必要はないぜ」
朝一番に、部屋には、明るい声が響き渡っていた。
「またガチャで引けばいいんだからな」
* * *
その朝、奇妙な感覚に襲われ、霧雨魔理沙は目を覚ました。
自室のソファ、仰向けの自分、胸の上には読みかけの魔導書。居眠りの後のいつもの光景だ。だが……何かがおかしい。視覚に現れない違和がどこかにある。
とりあえず体を起こそう。それが全ての気づきの始まりだった。
「………………?!」
ふわり。体を起こした、その情報だけが乖離する。現実から漂い、物理を忘れてすり抜ける。体を起こした、自分の身体が自分でないようで……。
……否、体など起こしていない。起こしたと思っただけだ。体を起こしたときに感じるはずの……重さを感じなかった。起き上がったのは意識だけだ。体は未だソファに沈んでいる。では……この起きていると思っている……私は〝何〟だ?
……知っている。
この、横になっているようで、縦になっているような感覚。
……似たような経験ならしたことがある。
そう、金縛り。半分夢を見ているような世界で、自分が体を起こしたと思っていても、それは夢が見せた幻影で、実際の身体はピクリとも動いていない。心だけが起きていて、身体は起きていない。あれに近い。
だがそれでは説明できないものが視界に映っていた。
……自分だ。
金縛りで見る夢は、自分は起きたと思った頭が見せる幻影だ。だから、その夢の中で振り返っても、ベッドに眠る自分は見えない。夢の中の私は、「そこ」ではなく「ここ」にいるのだから。
だが見える、見えるんだ。今は。私の身体が……。
「変だぜ」
もしかして、これが幽体離脱というやつなのだろうか。自分を自分が見ていて――
「……えっ?」
私の思考は、僅かな遅れを以て過去に引き戻された。目からの情報ではない。新たな違和は耳から入ってきた。自分が放った、自分のはずの言葉。それが……
……自分ではない誰かの言葉のように聞こえたのだ。
あまりに予想外の違和だったから、気づくのに遅れてしまった。だが一度認識してしまうと、相当に気分が悪い。知らない誰かが自分の中に居るようだ。
「変……だぜ」
今度こそ確信した。「変だぜ」という、その声自体が「変」だった。身体だけでなく、の声までも。まるで自分ではなかった。
今喋ったのは誰だ。この声の主か。それが私なのか。では私が私ではないのか。ならばこの声は誰だ。私は誰だ。お前は誰だ。誰だ、誰だ、誰だ……。
「誰だお前」
問うたが、答えない。当然だ。ここには霧雨魔理沙しかいないのだから。けれど。
「私はこんな明るい声じゃないぜ」
明るい声が部屋に響き渡る。明るい、そして派手な声が。
――派手なのは自分のブロンドの髪だけでいいと思っていたのに。
改めて振り返る。いつも通り、帽子を顔に被せるように寝ている私。私が本来、見ることの叶わぬ、私自身の姿。
鏡を介さぬ、本当の私の姿。
夢なのか、幽体離脱なのか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。今はこのあからさまな違和感を払拭したい。その想いで一杯だ。今すぐ狂気を抜け出して、元の私に戻りたい。そのためには、どうすればよいだろう。起きているようで寝ている。現を見ているようでいて夢を見ている。どちらだか分からない。確認のしようがない。そんなときは……。
あぁ。
一番手っ取り早い方法があるじゃないか。
……「自分」を起こせばいい。
掴んだ、魔女のとんがり帽子。触り慣れたその感触。それを味わうことも無く握りしめ……
「起き……ろ!」
掴み上げた。その下に眠る私の顔……
「っ……!?」
目に入った光景に息が詰まり。直後。
「っ……きぃぃぃああああああああ!!」
叫び声を上げた。自分ではない、甲高い声で。それに二重に驚き、よろめき、尻もちをつき、震える手で口元を抑え。それでも目が離せない、その「顔」。
――否、「顔」などなかった。
そこにあったのは、色の削げ落ちた、真っ暗な闇。形状より外に情報の存在しない、艶やかな黒。物言わぬ黒い影。空間に沈む黒いヒトガタ。私の容をした、しかし私の色を持たない影……
〝NO DATA〟
ざり、ざりと微かにざらつく影の揺らめきに、浮かび上がるその文字。
「何だ……これ」
〝[!]このキャラクターは未取得です[!]〟
「何だよこれは……!!!!」
〝[!]このキャラクターで遊ぶには、事前登録が必要です[!]〟
* * *
飛び出した、夢うつつの朝。霧晴れた森へ。箒など要らなかった。魔力すら使わずに宙を舞った。何故なら体に重さが無かったから。
初めは、元の体に戻ればどうにかなると思っていた。自分が偽物で、ソファに寝ているのが本物で……離脱した幽体を、元に戻せば大丈夫だと。手段なんて知らないけど。仕組みなんて知らないけど。今の体が自分じゃないのだから、自分を自分に戻すしかないと思っていた。
だが考えが変わった。あんな真っ黒い塊が自分だなんて信じたくない。あれに比べたら……今の身体の方がまだマシだ。ひとまず、今の私を私と信じることにした。
あっという間に森を抜け、人里に出た。ここなら誰かいるはずだ。信頼のおける人間が何人か……。
誰でもいい。手っ取り早く誰かと会って話さなくては。自分の状況を話して、自分の体も診てもらって……この際、アタマも診てもらうことになるかもしれない。だがそれでもいい。今はただ、早くこの違和を解消したかった。
初めに遭遇したのは、寺子屋の前に立っていた慧音。狭い範囲、同じ場所を規則的に行ったり来たりしている。何か考え事をしているのだろうか。だが私の方は一大事だ。少しばかり邪魔しても構わないだろう。
「おい、聞いてくれ!」
自分の声、それをある程度知っている彼女なら、この一言でも異常を感じてくれるのではないか。そう期待したが、すぐに裏切られた。
「魔理沙じゃないか」
普段通りに、慧音がこちらを振り返る。
「あ、あのな、おかしいとは思わないのか?」
慧音は怪訝そうな顔を浮かべるだけで。続いて何事も無かったかのように口を開いた。
「今日は里に何の用だ? 私の授業を受けにでも来たのか?」
慧音にしては変な冗談を言う。
「すまないがそれはまた今度だ。いいから今は聞いてくれ。私の身体がおかしいんだ。重さが無い。動いている心地がしない。生きている心地がしない。今日目を覚ましてからずっとだ。本当の自分の体を置いてきてしまった気がする。見た目はいつも通りに見えるんだが……少なくとも私にはな。だが……あんたはどうだ? 私がどう見えている? 私はいつも通りか? 私は……霧雨魔理沙に見えるか?」
「魔理沙じゃないか」
慧音は躊躇いも無く即答した。
「そ、そうか。そうだよな……それは良かった」
安心していいのか分からない。不安は募るばかりだ。
「……じゃあ声はどうだ? 私はこんな声をしていなかったと思うんだが……私の声も、いつも通りか?」
「魔理沙じゃないか」
やはり即答。
「おっかしいなぁ……」
確かに私の声はこんなものではなかったはずだ。根拠を示せと言われれば困るところだが、生まれてこの方ずっと付き合ってきた自分の声だ。それが変わればすぐに気づく。しかし、慧音がいうことが本当なら……おかしいのは私の方なのかもしれない。私の感覚が狂っているだけで、身体は案外普通なのかもしれない。となると……。
今度こそ本当にアタマの方を疑わなくちゃいけない。昨日は変なキノコでも食べたのだろうか? それとももっとヤバいものを食べたか? 阿片でも吸って変になったか?
「今日は里に何の用だ?」
慧音は再び問いかけてきた。
「だから私の身体がおかしいって話を今……」
「私の授業を受けにでもきたのか?」
「だから今はそれどころじゃないって……」
謎のデジャブに襲われる。しかも直近十数秒前の。
「魔理沙じゃないか」
「おい……」
「今日は里に何の用だ?」
「おいお前……」
鋭い不気味さが、忽ち肝を凍らせた。
「私の授業を受けにでも来たのか?」
「慧音!!!」
掴みかかる、その襟元、揺さぶるが、しかし特別な反応は帰って来ない。
「魔理沙じゃないか」
「しっかりしろ……!」
「今日は里に何の用だ?」
「どうしちまったんだよ……!!」
自分が会話だと思っていたもの。それは会話ではなく独り言であった。その衝撃に、思わず手が出てしまった。何とも知らぬ誰かに騙され、誰とも知らぬ何かに裏切られている。そんな気がした。私が話しかけていたのは只の人形だったのか? 私の訴えは誰にも届かぬ遠吠えだったのか?
何なんだ、これは。
途方に暮れ、見上げた空。目線の先には、風にはためくのぼりがあった。
〝祝、三万人突破!〟
祝……? 何を祝っているんだ? だいたい三万人とは何だ。幻想郷にそんなにたくさん人間が居てたまるか。
頭が疑問に埋め尽くされ、気づけば掴んだ手を離していた。体の自由を取り戻した慧音は、再び寺子屋の前を規則的に往復し始めている。
〝目指せ、五万人事前登録!〟
先程は知り合いを探すのに必死で気づかなかったが。見れば、里の通りにはそこら中に派手な色合いののぼりが掲げられていた。
年に一度の夏祭りの日にだって、こんなに派手にはやっていないというのに。何だこの見た目の五月蠅さは。そして仰々しさ。基本的に幻想郷の人間は慎ましく、派手なことをやるのは妖怪どもだ。そして日が昇り始めた今、妖怪どもは眠りについているはず。この幻想郷に、「これ」をやるような存在が居るとは思えない……。
……そんな思考を巡らせながら、並ぶのぼりを見上げて彷徨していた。その足が、あるところで止まった。村の外れ、大きな屋敷の前。そこに一段と大きなのぼりが立っていた。
記された文字を見て、私は鳥肌が立つのを止められなかった。
〝十万人登録で、「霧雨魔理沙」プレゼント!〟
「………………は?」
意味が分からない。そして、意味が分からない。
お 前 は 何 を 言 っ て い る ん だ ?
霧雨魔理沙は私だ。霧雨魔理沙は私のものだ。誰にも渡しはしない。私は霧雨魔理沙を生きる霧雨魔理沙なのだから。その私を誰にプレゼントすると言うのか。
訳も分からず腹が立ってきて、私はそののぼりを掲げる屋敷の玄関を叩いた。
どん、どんどん。
叩くが音は頼りない。重さが無いのだから当然だ。それでも私の姿を見てか、屋敷の使用人が引き戸を開けてくれた。そのとき目の端に映った表札を見て、初めてそれが稗田家の屋敷だと思い出す。
ちょうどいい、あいつならもう少しまともな話ができるだろう。
「ご用件は……」
「阿求と話をさせてくれ」
「どうぞ」
あっけなく通され、それはそれで違和感も覚えながらも、しかし躊躇わずずんずんと廊下を進んでいった。私は彼女に話を聞く権利がある。
襖を開き、遠慮なく書斎に入る。中には正座で筆を走らせている彼女の姿があった。
「おはようございます、魔理沙さん」
「どういうことか説明して貰おうか」
「私は稗田野阿求。稗田家九代目当主……」
「知ってる、知ってるから。自己紹介から始めんでも」
「……幻想郷でセーブデータの管理をしているの」
「何だって?」
耳を疑った。同時に込み上げてきたのは、先程と同じ不気味さ。まるで人形と喋っているかのようで……いや、まだアリスの人形と喋っているときの方が温かみがある。だが今の目の前の彼女は……
「セーブしますか? ロードしますか?」
「だから何を言って……」
「現在、ロードできるデータはありません。セーブしますか?」
「おい、意味が分からないぜ、セーブってなんだ? ロードってなんだ? 何の話をしているんだ?」
「セーブが完了しました。霧雨魔理沙(チュートリアル) レベル 1 レア度 丁 ……」
聞きなれぬ単語が連続する。
「……霊力5/5 ボール 所持 0」
「ボール? オカルトボールのことか?」
幻想郷でボールと言ったらオカルトボールだ。だが聞いても阿求は答えてくれなかった。さっきと同じ、会話が成り立っていない。
「記録をしたければいつでも来てくださいね」
「すまんが……玉揃え遊びはもう懲り懲りなんだ」
言葉が通じないと分かり、私は足早にその場を去った。
「どいつもこいつも……どうしたってんだ」
話の分かる奴は居ないのか。そう願って屋敷を出る。〝「霧雨魔理沙」プレゼント〟ののぼりは、道すがら降ろして折って捨てた。こんなにたくさんあるんだから、一つくらい無くなってもバレないだろう。それより早く、この異常の原因を突きとめなければ。
ただ……話を聞くと言っても、この様子じゃ、里のどこに行ったって結果は同じに思えた。町は一様に狂気に包まれており、そこに居る人々もその気に触れている。要するに手遅れなんだ。どこか、里以外の場所で、正気を保っている奴が居れば……
「そうだ」
話が分かるとしたら、もう、あいつしかいない。
私の身に起こった、おかしなこと。
私の声に起こった、おかしなこと。
里のみんなに起こっている、おかしなこと。
おかしなこと、すなわち……異変。
それに対抗しようとするならば、同じことを考えている奴が、もう一人居る。
私は神社に向かった。
……これは異変だ。そうとしか説明がつかない。私が初めに見たおかしな光景も、その一部に過ぎないんだ。きっと。本当はもっと強大な、私の知らないような脅威が幻想郷に迫っているに違いない。だから異変を解決して、皆を元に戻して……私の身体を取り戻す。
そうだ。いつだって、そうしてきたじゃないか。
境内に続く階段。その上を飛び抜け、鳥居を潜った。見えてきたのは、いつもの見慣れた彼女の姿。
「よぉ霊夢。霧雨魔理沙が悪い知らせを伝えにきたぜ」
自分の変な声。もう開き直り始めたこの黄色い声に、博麗霊夢が顔を上げる。
「朝から騒がしいわね、魔理沙」
「っ……!」
引っかかる。耳から頭へ、情報が伝わらない。何かが理解を拒んでいる。受け入れたくない何かを。
「霊夢、お前……」
たった一言、それだけで十分だった。これもまた、彼女と長く一緒に居たから分かったことだ。
「……お前も、声変わってないか?」
あの声が、返ってこなかった。
期待した声が返って来ないことが、こんなに悔しいことだとは思わなかった。
かつてそこに在ったはずのものが、一晩寝る間に砂山のように崩れ去ってしまった。喪失はいつも気づいてからだ。失って初めて、それにどれだけ自分が寄り縋っていたのか気づかされる。それが余計に悔しかった。自分の声が奪われるよりも悔しかった。彼女からあの声を、あの凛々しく可憐で、そして鋭く美しい声を奪ったのは誰だ……?
……耳が理解を拒むのは当然だ。
私は――今だから気づいた――彼女の声を期待していたのだ。この異変の真っただ中で、だからこそ、動かぬ幻想郷の管理者、彼女の声を聞いて安心したかった。私は……解決ではなく、安心を求めて、彼女の元にやってきたのだろうか。
「そうね。声、変わったわ。今朝起きたときにね。あなたもでしょう?」
「気づいて……くれるんだな」
その言葉だけで、私は救われた気がした。彼女の声は未だに耳が慣れないけれど、それでも、私の声がおかしいことに気づいてくれた、それが嬉しかった。自分の変化に気づいてもらえないこと、それがどんなにもどかしいことか、今日の朝だけでたくさん思い知らされたから。
「前の方がまだマシだったわね」
「私の声がか?」
「私の声がよ」
「……なんだ」
「なんだってなによ」
「いや……何でもない」
自分が変な期待を寄せていたこと気づかされ、私は帽子を目深に被った。その黒い視界の中、聞こえてきた言葉――
「ま、別に声なんてどうでもいいでしょ」
彼女にとっては何気ない言葉だったのだろう。しかし私は聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。その言葉が、変わってしまった彼女の声で放たれたことが、何より許せなかった。
「いや……どうでもよくはないん……じゃないか?」
「声変わりでしょ、だれにでもあることよ」
「思春期の男の子じゃないんだぜ?」
「じゃあ、誰かと喋りすぎたとか?」
「昨日はずっと家で魔導書を呼んでいた」
「風邪でも引いてるんじゃない?」
「魔法使いは風邪なんて引かない」
「昨日お酒を飲みすぎたとか……」
「私は独りで酒は飲まない」
「……じゃぁ私には分かんない。竹林のお医者さんにでも診てもらったら?」
「診てもらったら? って……お前はどうなんだよ、霊夢」
「何よ、私はいたって健康よ」
「そうじゃない、声だよ、声。お前も声変わってるんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ直してもらわないと……」
「だから声なんてどうでもいいって言ってるでしょ」
自分の手が、重さのない手が強く握りしめられるのを感じた。
「どうでもよくなんかないだろ……?!」
叫んでしまう。
「ちょっと魔理沙?」
続く言葉が、一瞬、浮かばなかった。忘れかけていた目的を掘り起こすのに時間がかかった。そう、初めは自分の体がおかしいことを見てもらうためで。しかしいつの間に、霊夢の声で安心することに期待してしまっていて……それができないと知り、行き場のないもどかしさを、声にしてぶつけてしまっていたのだ。
変わってしまった自分の声で。
「分からないのか? これは異変なんだよ!」
そう、異変だ。私には彼女に会う理由がある。彼女に問いただす正当な理由がある。だからこうしてここにいるんだ。
「異変? 大げさね、ただ声が変わっただけでしょ」
「声、だけじゃないんだ。私の身体全体が既におかしいんだよ! まるで現実の身体を置いて意識だけが飛んでるみたいに……。嘘みたいに体が軽いんだ。……体の重さを感じないんだ。……霊夢はどうなんだ?」
「体の重さって何」
「いやだから……」
「私、そんなもの感じたことないんだけど」
「あう……」
空を飛ぶ程度の能力。そうか。初めからきっと、彼女の身体に重さなんて無いのだ。
「ともかく来てくれ、里の様子がおかしいんだ」
「知ってる。変なのぼりがたくさん上がってるんでしょ?」
「そうだよ、それだよ!」
「何か催し物でも始まるんじゃないの? タイトルは確かキャ……」
私は詰め寄った。
「知ってるなら……何でそんなにのんびりしてるんだよ!」
霊夢は掌をこちらに向けるだけで。
「動く必要が無いからよ。誰も妖怪に襲われていない。誰も怯えてなんかいない。特別な危険なんてどこにもない。皆楽しくやってる。私は静かにお茶飲んでる。幻想郷平和。私暇」
ひどく、はぐらかされている気がした。
「霊夢。お前、何か私に隠し事してないか?」
「してないわよ」
「聞き方が悪かったな」
お 前 た ち 、だ。
「あー?」
「お前が解決に乗り気でないときは、だいたい何か裏がある。そしてお前に裏があるとしたら……だいたい〝あいつ〟だ」
「知ったような口きいてくれるわね」
彼女は目を合わせなかった。ならこちらも遠慮なく言いたいことを言わせてもらう。
「あぁ、知ってるぜ? 永夜異変のときと同じだろ? あのスキマ妖怪……何を企んでいるんだ? お前は何か口封じされているのか? 私に言えない何かがあるんだろう? なぁ、霊夢。……言ってみろよ」
ことん。
盆に湯呑を戻した霊夢。返してきたのは反発でもなく挑戦でもなく、顰蹙の目だった。
彼女は、私の挑戦を正面から受ける気が無いらしい。
「あのね、悪いけど、魔理沙。今回は本当に関係ないの」
そんなの、信じられる訳がない。
「嘘だな」
「嘘じゃないわ」
「魔法使いに嘘は高くつくぜ」
「でも嘘じゃないのは本当よ」
「分かった、紫を呼べ」
「だから本当に紫は関係ないって……」
妙だった。普段の彼女なら、多少は挑発に乗ってくるはずだった。食って掛かってくるまでいかなくとも、否定する言葉はもっと強く、鋭いはずだった。その張合いの無さが、余計にもどかしさを刺激した。
「お前がその気なら私にも考えがあるぜ」
「やめてよ、魔理沙」
博麗霊夢から……博麗霊夢の声が聞こえない。
「信じてよ」
よせ。そんな声を出すな。そんな言葉を発するな。博麗霊夢。
そんな目で私を見るな。幻覚に囚われた病人を見るような目で。妄想に囚われてかわいそう、と言わんばかりのその目で……!
「あぁそうかい。なら私から行っていいってことだな……」
私はポケットの中の八卦炉を握りしめた。
「……撃つと動く……!」
放った、星屑の弾幕。境内に散らばる流星の欠片。そうして初めて、彼女がお祓い棒を手に取った。
「付き合ってもいいけどさ――」
初めから重さのない、博麗霊夢が宙に浮く。
「――今のアンタじゃ私に勝てないわよ」
言ってくれる。無抵抗の相手を一方的に叩く趣味の無い私にとっちゃ、それくらいが好都合だ。そう言って次の魔力を錬成した、そのときだった。
「……え?」
掌に溜めた魔力が、目の前で雲散霧消していった。正直、意味が分からない。こんな初歩的なことに、私が失敗すると……? あり得ない。何故……。
考えている暇は無かった。そうしている間にも、霊夢の放ったお札が飛んでくる。攻撃が繰り出せない以上、躱すしかない。箒無しで浮遊する慣れない感覚で、間一髪。全ての札を避け切った。
……危なかった。こんな弾幕とも言えない弾幕で、何故肝を冷やさなくちゃならないんだ。
視線の先、遥か上方で霊夢は胸を張っていた。攻撃を辞め、動くこともせず、ただ、じっと。手を抜いているのだろうか? それとも馬鹿にしているのか。畳みかけるような弾幕のテンポが、全くと言っていいほど感じられない。それがまた妙だった。それがまた……博麗霊夢らしくなかった。
その彼女が、こちらに向けて口を開いだ。
「あんたのターンよ、魔理沙」
「……は?」
やはりナメているのか。
「ターンって何だよ」
「あんたが攻撃する番だって言ってるのよ」
疑いながらも、魔力を錬成してみる。こんどは難なく成功した。七色の星をばら撒き、霊夢に迫る。その間、霊夢はやはり攻撃してこない。
「どういうことだ、霊夢」
「何よ、アンタまさか弾幕ごっこのルール忘れたの?」
「私の知っているのと違うんだぜ」
私の星弾は途中で尽きてしまった。魔力の供給が止まったからだ。また、攻撃ができなくなってしまう。それを察知したかのように、霊夢は今度は針を放ってきた。札よりも素早く、数が多い。多数を避けながらも、いくつかが服を掠めた。
「あぁもう、何なんだよ!」
ただ避けるしかない自分が情けなかった。弾幕の張り合いの無さが物足りなかった。お互いの力をぶつけ合う、その気迫が味わえないのが悔しかった。
――霊夢と本気で向かい合えないのがもどかしかった。
だから私は八卦炉を構えた。力一杯に握りしめ、込められるだけの魔力を込めた。蒼く、紅く、周囲の霊力までをも螺旋状に巻き込みながら、炉は煙を吐いて発熱し始めた。
これが私の本気だ。
やる気がないなら、こっちから喝を入れてやる。呑気に順番を待っているような弾幕ごっこ何て私が許さない。戦いたければ手を抜くな、目を見ろ、私に向き合え……!
ターンが何だ。順番が何だ。弾幕にそんなものは必要ない。必要なのは……
「弾幕は、パワーだぜ」
そして、その符を掲げ、その名を叫ぶ。
恋符『マスタースパー……
ぼしゅるるる。
握りしめた八卦炉。赤熱した反応中心。加圧された魔力の奔流が、突如、圧力平衡を崩し……
……放たれることなく煙と化した。
見つめた八卦炉。黒焦げになったその放出口。その黒さはまるで……今朝に見た、私の容の影が如く。
その表面に、あの表示が浮かび上がった。
〝[!]このスペルは使用できません[!]〟
〝[!]レベルとボールが不足しています[!]〟
〝[!]スペルを発動するには、育成を続けるか、または事前登録を行ってください[!]〟
〝[!](事前登録十万人達成で「霧雨魔理沙」もらえる!)[!]〟
――ふざけるな。
「だから言ったじゃない。今のアンタじゃ私に勝てない、って」
――ふざけるなふざけるなふざけるな。
「あんた、ボール一個も持ってないじゃない。ほんとにルール解ってるの? このボール、キャ……」
「ふざけるな!」
ついに口に出た、その言葉。それは許せなかったから。全てが。そして、あらゆる情念がただ一点に集中された。
私から……霧雨魔理沙から、マスタースパークを奪って何が残る。
幻想郷――少なくとも私が知っている幻想郷――において、弾幕は少女たちが紡ぐ言葉だった。口で交わす言葉とはまた別の、声にならない言葉。それは、口では伝わりきらない感情を、感覚を、興奮を、時に愛情を、時に殺意を相手に伝える力を持っている。そう、弾幕ごっこは私たちなりの会話なのだ。それがあって初めて伝わるものがあると、幻想郷の人妖は皆、知っている。
その言葉を失うことが、何を意味するか。それは人それぞれかもしれない。大して影響を受けない奴も居るだろう。口達者な奴は、わざわざ弾幕に頼らずとも、大抵のことを会話で済ませられるのかもしれない。
だが私は違う。
私に……この言葉は必要だ。
今目の前で、半ば憐みの視線を向けてくる彼女、博麗霊夢。彼女に話しかけて、まともな会話ができたことなど……一度も無かった。
できるのは煽り合いだけだ。
そもそも常識が違う。人間のくせに、考え方が人間離れしている。発想は追い付かないし、思考も再現できない。分かりやすいところは分かりやすすぎて逆に困る。取り合ってくれないことが多いくせに、妙なところですごく怒ったりする。けれど。
そうして煽り合いの先に在るのが、弾幕ごっこだった。
そこで初めて、私たちの会話は始まる。言葉の代わりに、弾幕を交わす。そうしている間だけ、私は霊夢が分かった。そうしている間だけ、私は霊夢に敵った。そうしている間だけ……私は霊夢と同じ舞台に立っていた。
互いに互いのペースで弾幕を交わし合う。思いのままに弾幕を放つ。その一粒一粒に、互いの言葉は込められている。放たれた互いの言葉が混ざり合い、ぶつかり合い、弾けていく。その張り合いが、更に言葉を強くする。危険と隣り合わせ、命のやり取りの間に、互いの心を垣間見る。それが弾幕という言葉の法だ。
それを少しずつ積み上げて、私は霊夢を解ろうとした。それと同じくらい、私を霊夢に解らせようとした。解らせるという以上に、半ば強引に、それこそ〝パワー〟で、己の内にあるものをぶつけてきた。自分でさえ上手く説明できないようなこの想い、彼女への、言葉では表現できないような想いを、ぶつけてきた。
そのための、強力にして純粋な〝魔力〟の結晶。
そのための、巨大で膨大な〝想い〟の総体。
私がぶつけ得る、最大の感情の奔流。
それが、マスタースパークだった。
だから私は……
それを「恋符」と名付けたんだ。
もし。……否、今、現実となってしまった恐ろしい仮定。
マスタースパークが使えないとしたら。
私が、マスタースパークを失ったら。
どうやって私は、あいつと言葉を交わせばいい?
どうやって私は、あいつに想いを伝えればいい?
どうやって私は……
……あいつに恋を語ればいい?
分からなかった。解らなかった。判らなかった。
目の前に迫る陰陽玉。それを避けることもせず、それ以前に、私は打ちのめされていた。
――墜ちる。
天から地へ、巫女から魔法使いへ、博麗霊夢から霧雨魔理沙へ。言葉の籠らぬ、型と順序に縛られた、物理的な衝撃としての弾幕が下された。
痛み。
それ以外に何もなかった。
言葉も、想いも。敵意も、殺意も。憐みも、侮蔑も。
何も感じなかった。
それが――
「――それがお前の……言葉なのか?」
そうか。
そうなのか?
そうなんだな。
この痛みが、お前の答えなんだな。
〝言葉〟を失った私に。
それを確かめる術は、もう、無い。
* * *
簡単なことだったんだ。
口で伝えられなくて、私は弾幕という言葉を使った。けれど。
口に頼らない言葉なんて、他にもあるじゃないか。
それも。
これも。
お前が教えてくれたんだぜ、霊夢。
私は博麗神社に居た。
あれから数刻と立たない、その日の夜。
手に握っているのは、八卦炉、ではない。
あの言葉は、もう、私には使えないから。
だから別のものを握っていた。
「うぶ……ぁ……」
霊夢が息を吐くのを、耳元、すぐ傍で感じる。
――こんなに近いのは初めてだ。
「魔理……沙……?」
なぁ霊夢。
今なら全部聞こえるぜ。
お前が零す嗚咽も。
浅くなっていく呼吸も。
鈍くなっていく心拍も。
お前の……全てが。
「……どうして、っ……!」
痛み。
それは私が、新たに学んだ言葉。
口での会話とも違う、弾幕ごっことも違う、もっとまっすぐで、純粋で、強くて、鋭い言葉。
私に相応しい言葉。
抱き寄せた。霊夢の体は小さくて。私と同じで、そこに重さは感じられなかった。
お前と一緒になれるなら。私もこのままで、よかったのかもしれない。
そうしてまた。霊夢が体をよじらせた。刺さったものが食い込んで、きっと奥まで届いている。
私の言葉が届いている。
こんなに簡単に、自分の言葉を届けられるなんて、知らなかった。それが嬉しくって、私の腕には、自然と力が籠った。
ぐりぐりと。
ぐりぐりと。
ぐりぐりぐりと。
手に握ったものを、私は強く押し込んだ。
そう。
〝恋符〟
と刻まれた包丁を――
――彼女の最期に。
私は耳元で囁いた。
「……恋符…………マスタースパーク」
* * *
数週間後。霧雨魔理沙は身体の重さを取り戻した。身体の上に浮かぶ〝十万人事前登録達成記念!〟というポップアップを指で弾き飛ばし、起き上がる。もう残像は残らない。影も残らない。分離もしないし離脱もしない。しっかりと感じる重力。自分はそこに居る。地に足を付けて生きている。それが有難いと想えたのは初めての経験だろう。
彼女は何も違和を覚えていなかった。自分を自分として疑うことなどなかった。その幻想郷において、それは紛れも無い、霧雨魔理沙だった。
あなたは問うかもしれない。
――彼女は博麗霊夢を亡き者にしたのか?
その質問には彼女自身が答えてくれる。
「そんなこと心配する必要はないぜ」
朝一番に、部屋には、明るい声が響き渡っていた。
「またガチャで引けばいいんだからな」
* * *
まさか本当に魔理沙もらえるで一本書いてくる人がいるとは……
おみそれしました。面白い作品でした。
どうしてこうなったの…
中盤の何とも言えぬ気持ち悪さもよかったです!
最終的にそうなったのが好きでした。
シュールなのに魔理沙だけまじめにシリアスしててよかったです
配役がそれらし過ぎてたまりませんでした
絵がありありと浮かんでくるのも非常にコレクト。