1月20日早朝
通学路をいつものように歩いていると、やがて学校と自宅との中途にある守矢神社が見えてきた。
僕は里の学校に通う13歳だ。自宅から学校までは1里ほどあり、毎日歩いて通っている。
クラスメイトからは本名から呼びやすい文字を取って、コウと呼ばれている。家族からはコウちゃんと呼ばれているので、
なんだか格下げされた気分だ。かといって、お母さんからコウちゃんと呼ばれている姿を友達に見せたいかといったら、
それはそれでちょっと恥ずかしい。
ちなみに、僕には定番の持ちギャグがある。それは、「夢は、日本の大統領になることです!」というものだ。
今年のお正月におばあちゃん家に帰省したときも、親戚のはげ頭に銀縁メガネのおじさんや、ハイハイを始めた姪っ子など、
10名にもなろうかというお歴々がおせちの乗った卓を囲むなかで、
「こうちゃんはどんな一年にしようか?はいみなさんご注目!」と新年の抱負を聞かれたときに、
「今年は、一生懸命勉強して・・・」と僕はわざと間を取り、
「学年一番の成績に?」という合いの手を引き出した後に、もったいぶって人差し指を左右に2度3度と振りつつ満を持して、
「日本の大統領になります!」と叫ぶと、一瞬場が静まり返り、親戚一同が目を丸くした後、
ププッ・・・アハハ・・・と笑い声が漏れ、「目標が大きすぎるだろう~」とか、「そもそも日本は大統領じゃなくて、首相だぞ~。」
などと、温かいツッコミを入れてもらったのであった。
フフフ。一人で歩きながらこんな風に空想にふけると、実に鮮やかに情景が思い出されてくる。
そしてはっと気づくともう周りの景色も流れて、守矢神社に到着していた。
守矢神社は新進気鋭の神社である。
祭神である八坂神奈子と守矢諏訪子が数千年にわたって信仰を集める2柱であるから、
神社に対して新進という言葉を用いるのは適切ではないのかもしれない。
だが、出来たばかりの社殿から放たれるすがすがしい杉とヒノキの香り、そして意気揚々と張り切る新人巫女の東風谷早苗。
この2つだけで、参拝客にフレッシュな印象を与えるには十分であった。
ちょっと脚を止めていると、境内のほうで「ガァッ」という、水禽の鳴き声のようなものが聞こえた。
僕は一瞬ビクッとしたが、神社の敷地内にある池に鴨かなにかが泳いで、きまぐれに鳴き声を立てても何も不自然なことはない。
境内を覗くと、一人の巫女さんがスッと一筋の軸が通った美しい立ち姿で、箒をかけていた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんて言葉があるけれど、まさにその言葉がぴったりな少女だった。
年恰好は、僕よりも3~4歳ほど年上だろうか?ふと目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。僕はすっかり恋と憧れの入り混じった感情に
支配されてしまった。歩みを止めて立ち尽くしていると、ビュッ、ビュッと突風が吹いた。ぴっちりと閉ざされていた彼女の装束の襟元が、
突風によってこじ開けられ、すっきりとした首もとと、そこから繋がる鎖骨の一筋がちらりと見えた。
守矢神社を後にして、引き続き通学の途について歩くと、ゆるやかな下り道の突き当たりの丁字路で、幼馴染の福田が待っている。
だいたいいつもここで落ち合って、あとは2人で連れ立って、他愛も無いことを喋りながら登校するのだ。
福田は、片思いをしている同じクラスの美穂について話してくる。
「昨日はさ、体育のフットサルで、俺が点を決めただろ?そのとき美穂ちゃんの顔をチラ見したんだよ。
そしたら目がキラキラしててさ、絶対ありゃ、俺の事をデキる男だと思ったって!」
「いいよな、お前はアピールできる方法があって。俺はスポーツはからっきしダメだからさ。」
福田は優越感をもってニンマリした。気を良くして人を気遣う余裕ができたのか、今度は俺に話を振ってくる。
「なあ、コウはクラスの女子の中で誰が好きなんだ?」
「うーん、明日実ちゃんかな。」
「はは、お前、競争相手多いぞそれ~。」
福田が僕の事を肘でつつく。明日実ちゃんはアイドル然としたルックスで、親は地元の名士ときている。
スクールカースト最上位の女の子だ。福田は、自分の恋に比べて僕の恋が成就するのは大変だといわんばかりに、
安心感の混じった様子でからかった。でも、僕にとってはそれが好都合だった。だって、同級生の女子のことなど
どうでもいい。僕は早苗さんに夢中なのだから。そして早苗さんの事を考えているときの自分と、ありきたりな中学生としての自分の人格は
できれば切り離しておきたかった。何か神聖なものとして大切に取っておきたかったから。だから、親友の福田に対しても、
早苗さんへの恋心を暴露するよりも、明日実ちゃんへのありきたりな恋という偽りのストーリーでごまかしておいたのだ。
ところで、コウちゃんが冒頭で耳にした、「ガアッ!」という音の正体であるが、これは別にこのあとの物語に絡んでくる重要な要素というわけではないので、
種明かしをもうしてしまうことにする。さして重要ではないことを気軽に忘却できたほうが、読書であっても現実での生活であっても快適というものだ。
そのために、時間を1月21日の早朝、視点をコウちゃんではなく早苗にさせていただくので、ご了解願いたい。
早苗は眠い目を擦りながら草履をつっかけて、境内に出た。石畳の通路、狛犬、塵手水・・・目に映るさまざまな物体の上っ面に、薄く紫色の水彩絵の具で撫でたかのような色が乗る。
杉の木の枝の隙間から白い光が差し、雨どいからポタポタとわずかに垂れる水滴がキラリと一瞬輝いたかと思うと、敷石にぶつかって四散した。
その四散したうちのひとつが早苗の頬に当たる。「冷たっ!」と彼女は肩をすくめてまぶたをキュッと閉じた。
と、その拍子に、冷水の刺激によって体に力が入ったのと、腸内に夜のうちに溜まっていたガスがうまいぐあいに調和したらしく、盛大に巫女っ屁をこいた。
「ガアッ!」
その屁の音はまるで、鴨などの水鳥があげたかのような特徴的なものであった。
1月21日早朝
今朝はどういうわけか、いつもより20分も早く目が覚めてしまった。身支度をそのぶんゆっくりやったつもりだが、
結局10分以上早く家を出ることにした。いざ身支度が終わってしまうと、そこから寛ごうと思っても何をしたものかわからず、
お茶の一杯でもこれから淹れるのは面倒だし、もう出てしまうことにしたのだ。
守矢神社に差し掛かると、ちょうど郵便配達員が神社の郵便受けに手紙を入れているところに出くわした。
配達員の仕事ぶりは既に次の配達現場へと向かって心ここにあらずといった具合で、郵便受けのポストからは
2通の手紙が斜に顔を覗かせていた。
僕は、郵便配達員が無造作に投げ入れたその2通の手紙を見て、どういうわけか胸騒ぎが止まらなかった。
そしてこの胸騒ぎの理由を解析して行ったら、きっと犯罪者が格好のタイミングを見つけてしまったときの高揚が混じっていることは、
確かだと懺悔しなければならない。
郵便配達員はもう去ってしまった。神社の人が誰か手紙を取りに来る足音も無い。
「・・・あの2通の手紙のうち、より早苗さんのプライベートに近いと思ったほうを、盗んでから学校へ行こう・・・。」
僕は、ありふれたスーパーマーケットの特売の手紙をポストに残し、
『東風谷早苗殿』
と毛筆でしたためられた手紙を、そっとカバンの中に忍ばせて、早足でその場を去った。
学校に到着すると、僕はそそくさとトイレの個室に立てこもり、カバンのなかから手紙を取り出して読んでみた。
”早苗さん、ご機嫌麗しゅう。とうとう25日夜に控える私達の決闘まで、指折って数えるまでになりましたね。
舞台となる駒ケ岳梟平の天候も、晴れの予想だそうですわ。ところで、弾幕決闘は地の利を得ることが勝負の要諦といいますから、
どちらが前日に会場で練習をするのかを巡って揉め、しまいにはそのまま前日に前倒しで決闘を始めてしまうという
血気盛んな御仁もおられるようですの。可笑しいですわね。私達は誇り高き巫女同志、そんな見苦しい真似をするつもりはございませんわ。
24日の夜は、わたくしどもは一切梟平には近づきませんから、どうぞ存分に、前日練習で戦術をお仕上げなさって。
わたくしどもは23日夜に会場練習をさせていただきますわ。それでは、ご武運を。 博麗霊夢 ”
(えっ・・・これは一体なんなんだ?果たし状って奴なのだろうか・・・。)
僕はなんとか心を落ち着けて書いてある内容を整理すると、駒ケ岳梟平は僕の自宅から4kmほどにある小高い丘だ。
そこで23日夜に、この霊夢という人が弾幕決闘?とやらの練習をし、24日は早苗さんが練習をし、そして25日には本番として二人が戦う、ということか・・・。
僕は、神社に訪れる一般の参拝客が誰も見たことのない早苗さんの姿を見られるのではないかという思いを強くし、
夜中にこっそりと自宅を抜け出して、4kmの道のりをママチャリで走って観に行こうと決心すると、トイレの水を流して個室から出た。
ふと洗面台を見ると、蛇口がしっかり締まっていない様子で、水がチョロチョロ・・・チョロチョロ・・・と流れていた。
僕がトイレに入ってきたときには、手紙のことで頭が一杯で気が付かなかったらしい。
「まったく、水道を使い終わったら、ちゃんと元通りに栓を閉めなきゃダメじゃないか。立つ鳥はあとを濁さず、ってね。」
僕はキュッとひとひねりすると、トイレから出た。
1月22日早朝
僕は昨日と同じく少し早く起きると、郵便配達員が守矢神社から去ったのを確認すると、郵便受けに昨日盗んだ霊夢の果たし状を、
そっと入れておいた。
1月23日夜
いよいよ、果たし状に書かれていた日時のうち最初の23日がやってきた。正直なところ、僕は早苗さんの相手である霊夢とかいう人について、
これといって強い興味があるわけでもない。なので今日は駒ヶ岳梟平に出かけていかずに、明日とあさってだけ行くという選択も出来た。
でも、今日行っておけば、梟平のどこで決闘が行われるのか見当がつき、24日の早苗さんの練習と、25日の決闘本番になって、
あたふたとせずにじっくりと腰を落ち着けて観戦ができると思ったのである。
1月24日夜
僕は息を弾ませながら、梟平に到着した。早苗さんは陣形の真ん中に凛として立っていた。
将棋で言う香車の位置に居座った小隊が、まるで一本の線のように間断なく連射される弾幕を放ち、左右の逃げ道をふさいでゆく。
そしてその弾幕で鳥かごのようになった空間のなかで、待ち構えていた次の小隊が、5列の弾を発射した。
夥しく空中に解き放たれてゆく弾の迫力もさることながら、はじめに放たれた左右を囲う弾の薄紫色、
次に放たれた5列の弾の黄緑色が夜空に映え、まるで打ち上げ花火を見るようにあでやかだ。
僕はその美しさにうっとりと恍惚するのと同時に、霊夢が行き場を失い、5列の弾は辛うじて避けたものの、
その黄緑色の弾の列の間で、すっかり身動きが取れなくなった様子がありありと目の前に浮かんできたのだ。
「そこだ!いけっ!霊夢はもう逃げ道がない!」
僕は思わず声に出してしまった。あたり一面に鳴り響く射撃音がこの声を隠してくれていなかったら、きっと早苗さんは僕が隠れて観ていることに気づいたかもしれないと、
ヒヤヒヤした。でも、まるで僕が指示を出したかのように、本当に5列の弾幕の間に、最後に控えていた小隊が侵入していき、とどめの弾を放ったのであった。
その弾は赤っぽいピンク色に輝き、他の弾よりもずいぶん大きかった。きっと発射の準備にも時間がかかる、とっておきの弾なのだ。だから、射撃までの準備時間に
薄紫色と黄緑色の弾で、時間稼ぎをすると同時に、逃げ道をもふさいでしまおうというわけだ。早苗さん、なんて頭がいいんだ・・・。
僕の空想の中で、困り果てた霊夢にそのピンク色の大弾が迫る。(詰みだ!やった!ビンゴ!)今度は声には出さずに、僕は心の中で換気の声をあげた。
全体練習で戦術の確認をした後も、個人の稽古は続いた。
使い魔のうちの一人が、落ちてくる札に弾を当てて打ち落とす稽古をしていた。早苗さんが札を放り、落下するその札を使い魔は見事に打ち落としてみせた。
僕はそれを見て「ほぉ~っ」と一息、溜息をついた。その使い魔は、自分の傍らにおずおずと立ち尽くしているもう一人の使い魔に、何やら話しかけた。
そして、話しかけられた幾分小柄な使い魔がずいと前に出て、また早苗さんが札を放った。
「ははぁ。彼はキット、見習いの使い魔なんだな。先輩が一度見本を見せて、次ぎは見習いの彼がやってみるというわけだ。
弾幕勝負にもこうやって新人教育の場があるんだなぁ。」と、僕は小声でこしょこしょとつぶやいた。
見習いが弾を放つが、宙に浮いた札の上や下を通過してゆく。惜しい弾もいくつかあったものの、結局早苗さんの放った札を射抜くことはできずに、
札は地面へと落ちた。このへまをした見習いは、どんな風に先輩から叱咤されるのだろうか。そんなちょっと悪趣味なことに興味を抱いた僕は、そろりとしのび足で数歩近づいて、
二人の使い魔の会話に耳をそばだたせた。
「何でぇ、佐久ちゃん、札が傷一つなく優雅に着地しちゃったぜ。難しかったかい?」
「・・・そんなこと言ったって成田さん、札が落ちるのを見越して、ちょっと下の方を狙って撃ったら、札の全然下を通っていってしまうし、
それで今度は上を狙ったら、今度は・・・」
「はははっ!そんなこったろうと思ったぜ。あのな、落ちてくる札が止まってると思って、札が今あるところを狙って撃ってみな。
早苗さん!もう一回頼みます。」
佐久と呼ばれた若い使い魔は、早苗の手から離れた札がヒラリと宙に舞ったのを見て、今度は自分の感覚を捨てて、
気を使わずに札の今ある場所をめがけて弾を撃った。すると今度は、札が落ちるのを弾のほうが追いかけるかのようにして、見事に命中した。
若い使い魔は目を丸くした。まるで、自分が今撃った弾に、的をホーミングする機能が備わっているかのように思ったからだ。
教官の使い魔、成田は2度3度、首を縦に振った。
同じ頃、チルノは宿題をしていた。「う~んっと、タテをy軸、横をx軸とした場合、原点oから角度θをもって速度Vで斜めに射出された弾に働くy成分の力を求めよ、かぁ。」
問題文をノートに書き写し終わると、この小さな学生は鉛筆を上唇の上に載せて口を尖らせ、両手を頭の後ろに組んで、斜め上を見上げた。
やがて何かをひらめいた様子で、ほんの少し目を大きく開くと、独り言を始めた。
「・・・x座標はVcosθ、y座標はVsinθに分解できるわね。で、√(Vcos^2θ+Vsin^2θ)で元のVに戻る、と・・・。」上唇の上でやじろべえを演じていた鉛筆は、再びノートの上を走り始めた。
「ほんで、x方向に外部からかかる力は0、y方向に外部からかかる力は重力があるから、-gt^2・・・と。座標の変化は、(x,y)(Vcosθ,Vsinθ-gt^2)ね!
ん?ちょっと待って。-gt^2って、自由落下するだけの物体にかかる外力と同じだわ。gとt、つまり重力加速度と時間だけに依るので、この問題で斜めに射出された弾と、
例えば『落ちるマト』なんかがあったとしても、この2つにかかるのは共に-gt^2。両者の質量が違っても変わらない。
じゃあ狙撃手は、弾が放たれたあとに『落ちるマト』の落下する移動分を計算には入れずに、ただ今マトがある場所を狙って撃てば、吸いよせられるように命中するってわけだわ!」
もし、見習いの使い魔佐久がたった今やっていた狙撃の稽古をチルノにやらせたら、きっとチルノは一発で札を撃ち抜いて、「こいつ、最強か?」と思わせたに違いない。
興が乗ってきたチルノは、続いて慧音先生に出された2次方程式の問題、X^2+3X=18を解いてみることにした。
読者の皆さんにとっては、解の公式を使えば簡単に解けてしまわれるだろう。だが慧音はあえて一次方程式までしか教えず、
寺子屋の子供達に頭をひねって考えてくるように宿題を出した。例え解けなくても、自力で解法への道筋を立てる経験は後に生きてくるし、
次回の授業で慧音が教える解法への興味も沸く。これが慧音のやり方なのだ。
チルノはとりあえず、ノートに幾何的にこの式を表現してみることにした。X^2というのは一辺がXの正方形である。
そして3Xは一辺がX、もう一辺が3の四角形だ。
「あっ、この2つの図形、少なくとも一辺の長さが同じだわ。じゃあこうすれば・・・っと。」
チルノはノートから3Xの四角形をハサミで切り取り、4等分した。そしてそれを、X^2の正方形の4辺に貼り付けてみた。
「できたっ!この十字の形をした図形の、欠けた4隅の面積は、欠けの一辺が3Xの3のほうの辺を4等分したものだから、4・(3/4)^2=9/4。
これを十字の面積18に合わせて、81/4を面積とする、大きな正方形ができたわ。だから、その正方形の一辺は、√(81/4)=9/2。
ここから、4隅に埋めた3/4が2つあるので引いて、3。答えはX=3ね!やったぁ!明日はこの解き方を、慧音先生が教えてくれるんだろうなぁ。
えへへ。なんだか映画を先に観て、初めて観る友達と2回目を観に行くような、不思議な気分だわ。」
慧音はこのような手法で解いてくるチルノに驚きを隠せず、手放しで褒めて頭をなでるのであった。
話がわき道に逸れてしまったが、ここらで先ほどの使い魔の射撃訓練へとシーンを戻そう。彼らの訓練を物陰から盗み見ていた13歳の少年、コウは、
若輩の使い魔がてっきり教官の使い魔に叱責されるものとばかり思っていたので、半分は拍子抜けし、半分はなんだかむずがゆいような違和感の混じった感情に浸った。
「僕は家では学校の成績が悪ければ怒られ、部活動ではグズグズしていると怒られ、友達連れでゲームをするときも、
自分が原因で負けでもしたら怒られる。そうやって育ってきたんだ。なのに彼は、失敗しても一切責められずに正しいやり方を教わり、
すぐに成功させてしまった・・・。こんなのって不公平だよ。」
物陰から少年に嫉妬されているとも知らず、若い使い魔佐久は稽古を無事終えた安心感と、新たなスキルを得た達成感に満足げな表情を浮かべるのであった。
1月24日深夜
教官の使い魔成田は、退勤して自室に戻り、缶ビールを開けて飲んでいた。明日に迫った霊夢との決闘において、
彼は霊夢に近づいていって自機狙い弾を放つ役割を与えられていた。彼は空ろな目をしながら柿の種をかじり、たまに缶ビールを啜った。
部屋にはポリポリという咀嚼の音だけが一定のリズムで響いていた。
「狙撃手として腕を磨いてきた半生・・・。あんな誰にでもできるような仕事が、俺の人生の集大成なのだろうか・・・。あらかじめ早苗に決められた座標へと移動し、
前もって早苗に指示された場所へと弾を放つ。そんな機械的な仕事は、言ってみりゃあ今日俺が稽古をつけてやった新入りにだって出来るだろう。」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると、唇が乾いてきたのでまたビールを啜って湿らせた。
「仮に、指示を無視して俺が霊夢の避け方を、俺の狙撃手としての長年の勘から読み、早苗の事前の指示からはかけ離れた位置へと弾を打ち、
命中させたとしても、それは命令不履行として罰せられ、俺は立場を失うだろう。俺は情けなくも、当日は早苗の指示に従うだろう。
ただ己の生活を維持するために。己の生活のために、当たりもしない方向へ、当たりもしないと自分でわかっている弾を放つのだ。」
もう一度ビールを啜ると、350mlの缶はもう空になってしまった。
ピンポーン
「おや?こんな夜分に誰だろう?」
成田は畳に掌をついて立ち上がると、真っ暗な廊下を歩いて、心もとないほどの明るさしかないオレンジ色の電球が照らす
玄関へと向かった。廊下の電球は半年ほど前に切れたままでほったらかしにしているのだ。
ガララ・・・
引き戸を開けると、そこには外套に身を包んだ少女が立っていた。
「どちら様?」
成田は少し面倒臭そうに誰何しつつ、オレンジ色の弱い光ではよく見えない彼女の顔を覗いてみた。
年齢は彼の主である早苗とさほど変わらないように見え、やや面長な早苗の顔に比べると、彼女の顔はやや頬骨が出た形をしており、
髪はつややかに黒かった。もみ上げの辺りには、赤い筒の両端に白いレースの付いたちくわのような不思議な髪飾りを付けており、
成田はそこまで観察すると何かを理解して顔がわずかに強張った。その様子を見た少女は口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと自らの名を告げたのであった。
1月25日夜
「まず陰陽玉隊、君達はいつもやっているようなランダムなばら撒きではなく、開幕と同時に両端に集中砲火だ。」
成田の指示通り、巨大で頑丈な陰陽玉が、将棋で言う香車が占める盤上の両端に向けて発射された。早苗の使い魔が放つ薄紫色の弾幕と真正面からかち合うが、
なかなか大量の被弾を受けなければ破壊されない陰陽玉が、次から次へと放たれるために、あっという間にラインは早苗の陣地へと押し上げられた。
霊夢の行く手を薄紫色の弾幕で囲って、真ん中の座標へと針路を限定するという早苗のもくろみは、早くも失敗の色濃いものとなった。
それでも健気な使い魔たちは、薄紫色の弾幕を力尽きるまで放ち続け、なんとか陰陽玉を破壊しようと必死だ。自らの身の安全を省みないほどに・・・。
「何をしているの!もういいわ!撤退なさい!」早苗は蒼白になって叫んだ。薄紫色の弾を放ち、霊夢の行く手をはばんで機先を制するはずだった使い魔たちは、
大部分が陰陽玉の直撃によって命を失っていたが、生き残りの数体は一度早苗のもとへ撤退した。早苗は帰ってきた彼らに指示を出す。
「もうあなたたち少人数では、行く手をはばむだけの密度のある弾幕は撃てないから、作戦変更よ!これから出撃する大赤玉隊の後ろから、援護射撃をなさい!」
成田は舌なめずりをしてからニヤリと笑い、自分と同じ臙脂色の装束を身にまとった部隊に指示を出す。
「次ぎは、5列の弾幕を撃とうと小隊が出てくるぜ。俺一人でこいつらの射撃能力を奪ってやるから、あとは死に体になったこいつら雑魚を、
お前らみんなで煮るなり焼くなり、好きにしな!」
そう言うと成田は、自ら先陣を切って前進すると、彼の言ったとおりに、紺色の装束に身を包んだ使い魔が5体現れた。
「やっとお出ましかよ!遅いぜ!」
成田はフィールドを右から左に横切りつつ、5発の弾を放つと、それら全てが5列の弾幕を放とうとする早苗の使い魔の手に命中した。
手を吹き飛ばされ、何らの攻撃能力を失った彼らは、もはや単なる的に過ぎなかったが、それでも最後の矜持を見せて、
早苗をプロテクトするように隊陣をくみなおして、早苗を守る楯となろうとした。
臙脂色の霊夢の使い魔たちは、弾を撃ってこない敵を討つというノーリスクハイリターンな戦果に心躍らせ、
成田が去ったあとの紺色の早苗の使い魔たちに殺到した。成田は有象無象の輩の使い方を良く心得ていた。
彼らのように取り留めのない人員水増し要員である兵は、戦況が均衡している場面では、全く率先して勇気を奮った
動きは出来ないが、ひとたび自軍の有利と己の安全が担保されると、このあとに待ち構える勝利の美酒を注ぐ盃に自分の
名前を刻ませようと、我先になって駆け出していくのだ。果たしてその通りとなったわけである。
「うひゃ~~」「ぐへへへ」
下卑た笑いをだらしない口元から漏らしつつ、臙脂色の使い魔たちは紺色の使い魔たちに思い思いに弾を撃ち込む。正々堂々としたスキルのぶつかり合いにおいては
全く命中率の悪いであろう彼らの射撃も、早苗の前に人柱となる覚悟を決めてじっと居座る的に対しては、あたかも百戦錬磨の手練のようによく当たる。
しかも皮肉なことに、早苗の目の前でそれが行われているために、着弾の閃光やら硝煙やらで辺りは蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、早苗の視界は遮られてしまったのだ。
「み・・・見えない・・・っ!」
「早苗さん!これからどうしましょう!私どもはどのように戦ったらよろしいですかッ!」
堪りかねた佐久が早苗に指示を仰ぐ。しかし彼女は「わからないわ、あなたたちで考えてッ!私、負けたくないわ」と金切り声で叫ぶのが精一杯なのであった。
成田は自分の周囲に防壁を張り、身の安全を確保してから、悠々と佐久に対して弾を放ってきた。佐久は眼前に迫ってくる成田の弾を見て、皮肉めいた先輩風を吹かして
自分の実力を査定している意図を汲み取り、こうつぶやいた。
「成田さん・・・これは、昨日のレッスンの確認ですか?動く弾の撃ち落とし方は、まさに昨日あなたが教えてくれたことじゃないですか?なめられたもんですよね?えぇ」
昨日教わったことをなぞれば、成田の攻撃の打開策に即つながるということは、佐久が成田に教わったことを確実に自分の血肉にしているかどうかを見定める行為と、
真剣勝負(少なくとも佐久にとっては)を同時並行して行っているに等しかった。だが佐久は、昨日の教官に宿題を提出するにとどまるような飼いならされた気骨のない若者ではなかった。
「僕はその防壁だって破ってみせる!」
成田が弾を放つペースを、佐久が迎え撃つペースが徐々に上回り始めた。その結果、成田の弾と佐久の弾がぶつかる位置は、
はじめのうちは佐久の目前であったが、今や成田の目前まで近づいてきている。
バシューンッ!
とうとう成田の防壁に佐久の弾が届き、穴が開いた。それは成田の右手60度の位置に開いたもので、佐久から見れば左方に偏った位置だった。
「今すぐ、その穴からあなたに引導を渡してやります!」
佐久の眼はギョロリと光り、まるで別人のようであった。どうせ老獪な成田のことだ、防壁に開いた穴もいずれふさいでしまうだろう。
この好機を逃すまいと、佐久は左へと移動し、成田の右手に向かって突進した。と同時に、成田の顔には何やら力の抜けたような、
嫌みったらしい笑みが張り付いた。
「あ~あ~、今横に飛び出したりしたら・・・」
ピチュウゥン!
佐久は背中に今まで感じたこともない衝撃を受け、次いで強烈な熱さに襲われた。あとでわかったことだが、その熱さは特に火炎放射などの
高温による攻撃を受けたからではなく、肉がズタズタに引き裂かれたために、その痛みを熱さとして誤認したのである。
ユラユラと地上に落ち、薄目を開ける佐久。その背後からは、ひきつった表情の紺色の装束の使い魔が現れた。
彼の姿を成田の眼から隠していた佐久の姿が消えたために、まるで紙芝居をめくるようにして、彼は成田の眼前に現れたのである。
その手からはまだ、今しがた佐久に致命的な一撃を与えた薄紫色の弾が漏れていた。佐久はこうして、味方の援護射撃を背中に受けて倒れたのである。
物陰から戦況を見つめていたコウちゃんは、あまりにも昨夜のリハーサルと違う早苗たちの挙動に絶句した。
「な・・・なんだよぅ・・・薄紫色の弾が放たれたのはほんの最初だけで、なんだかよくわからない麻辣火鍋の鍋みたいなのに潰されちゃったし、
その次に放たれるはずの黄緑色の弾なんて、狙撃手は現れたのに弾を撃ちもしないで、固まっちゃった。一体、どうなってるんだよ!」
「あいつが・・・霊夢が・・・一枚上手だったんだ!」心にどうやってもこの一言が浮かぶ。クソ・・・いまいましい。
他のポジティブな言葉を口にしようじゃないか。
「早苗さん・・!霊夢にも効いていますよ!今かわされたのは、たまたまですッ!続けましょう!」・・・やめだ。
自分でも気づいている。「あいつが・・・霊夢が・・・一枚上手だったんだ!」のほうが、ずっと良く頭が働いている人間の言葉だ。
負けを認めたくないからって、バカの振りをするのはむなしいだけだった。
霊夢の放った札がとうとう早苗に当たり、白と紺の装束が引き裂かれた。上衣の破損がはなはだしく、片方の乳房が露になる。
僕は、あの日の事を思い出していた。笑顔でおはようとあいさつを返してくれた早苗さんの襟元からわずかに見えた白い肌にドキッとしたあの日。
僕にとって、いや僕の世界にとって、それだけ早苗さんの肌は簡単に露出させて良い物ではないのだ。
それなのに、霊夢の放つ札は無情にも、早苗さんの身にまとう布地を引き剥がしてゆく。僕の現実が一緒に壊れていく。
あの日にちらりと肌が見えたときだって、心の準備ができていなかったのに、あの霊夢の札に至っては、僕に心の準備が出来ているかどうかなど、全く聞く気すらないのだ。
あぁ、なんということだ。僕は自己嫌悪にさいなまれた。必死になって戦い、美しく散った早苗さんを目の前にして、
僕は彼女の白くみずみずしい肌と、汗ばんだ乙女の体臭を想像して、ムクムクと劣情の虜になってしまったのだ。
ズボンを下ろし、オンバシラをしごいた。遠くに見える早苗さんの裸体を目に焼きつけながら、一回・・2回・・と、握り締めた右手を力強く上下させると、
僕は「あぁ~っ」という情けない声とともに、絶頂に達した。そして草むらにピュッ、ピュッと、僕の"日本の大統領になりたいという気持ち"が発射された。
へなへなと腰が砕けそうになり、僕はとっさにどこか座る所を探した。5mほど右に、今はもう使われなくなった古い井戸を見つけたので、井戸の丸い穴に沿って
積んである円筒の石の上へと腰掛けた。ひんやりとつめたい石が、今しがた仕事を終えたばかりのマミゾウ袋に触れる。「冷たっ!」と、
僕は肩をすくめてまぶたをギュッと閉じた。「井戸の上にチンチン(※)・・・これがほんとの、チンチン井上・・・。」(※ミスティア・ローレライのことです。)
腕だけになった使い魔から、チョロチョロ・・・チョロチョロ・・・と、残留思念のように弾が漏れ、あらぬ方向へと飛んで行っては、岩肌に当たって「カン!」と音を立てたり、
樹木の枝葉をいたずらに傷つけたりしていた。霊夢はうんざりしたような顔で、その腕に近づいていき、何のためらいもなく弾を一発撃って四散させた。
「まったく、いつまでセンチメンタルに負けの味に浸っておられるのかしら?勝負が付いたら、自軍の使い魔やフィールドにばら撒かれた弾幕は、すべて引っ込めて片付け、
立つ鳥はあとを濁さずという言葉のとおりに、周囲の環境を傷つけるのを最小限に抑えて美しく終わるのがマナーじゃありませんの?」
弾幕勝負は決着し、霊夢は去った。僕はそれを見て、自分も帰らなければならないと悟り、半時前と同じように、暗い夜道を歩き出した。
来た道を折り返して帰ったのだろうが、不思議なことに、往路ではあんなに五感に響いてきた星空や虫の声、集落の明かりが、
復路ではまったく印象に残っていない。まるで音もない完全な暗闇の中を移動して家に帰ったかのようなのだ。
1月26日
翌朝になっても僕の気持ちは腑抜けたままで、まるで亡霊のように漫然と朝飯を口に運び、制服に着替えて家を出た。
空を見上げてみる。晴れだ。
真っ青な空をスクリーンにして、昨日見た赤や黄、緑の色とりどりの弾幕が網膜に映る。
ただし、昨日赤だった弾は緑に、青だった弾はピンクっぽい色に変わっていた。
「あぁ・・・これは・・・あれだ。あるものをじっと瞬きせずに見続けてから、壁か何かに視線を移すと、じっと見たものの像が補色になって壁に浮かんで見える現象・・・。
目の錯覚の一種。・・・ははっ、昨日どれだけ熱心に早苗さんの戦いを見ていたんだろうな。」
自分に呆れつつ、僕は登校のために脚を動かし続けた。ありがたいもので、頭はこんなにボーッとしているのに、
脚はいつもの調子で僕を守矢神社まで届けてくれた。
「昨夜、あんな負け方をしたんだ。今朝は早苗さん、いないだろうな・・・。」
サーッ・・サーッ・・竹箒が境内の落ち葉を掃き清めようとして砂利に擦れる音がする。音の主は、昨夜の激闘を繰り広げた厳しい表情とは打って変わった、
穏やかな表情の早苗さんだった。
僕はなんてバカだったんだろう。負けて誰よりも辛いはずの早苗さんがこうやって、いつもと変わらぬ仕事を淡々とやっているのに、
ただただ圧倒されて眺めておることしかできなかった僕が落ち込んでいるなんて!
「早苗さん、僕、がんばります!」
それはほとんど絶叫に近いような声が出ていたらしく、早苗さんは目を丸くしてこちらを見た。
そしてはじめて会ったあの日のように微笑みかけると、
「フフッ、良い心がけね。勉強に、スポーツに・・・家のお手伝いなんかもがんばって!」
彼女が箒を持っていた手の片方は箒から離され、小さくガッツポーズをしていた。
早苗さんのかわいらしい仕草を見て、僕のテンションは爆上がりした。これを言うなら、今しかない。
「日本の大統領になります!ッ!」真顔で敬礼しつつ僕は叫ぶと、きびすを返して学校へと向かって駆け出した。
彼が駆け出していった方向へは、突き当たりの丁字路まで緩やかな下り坂となっているので、この中学生の姿は、
早苗から見ると徐々に腰までが地面に隠れ、肩、頭まで隠れ、じきにすっかり見えなくなった。
早苗は彼の姿が見えなくなると、「わけわかんねえよ。キモ」と、ボソリとつぶやいた。
この物語はひとまずここで終わりなのですが、最後のシーンについて私見を述べます。「昨夜、あんな負け方をしたんだ。今朝は早苗さん、いないだろうな・・・。」と、
早苗の境遇を承知しておきながら、いざ早苗の姿を見かけると、有頂天になって話しかけてしまう。ここがマジで生理的に無理。
早苗が辛いのがわかってるのなら、そっとしておいてやれよって話ですよ。結局このコウとかいうガキは、早苗の事を労わるよりも、
自分の舞い上がった気持ちに早苗の作り笑いで花を添えることを優先するという自己愛に塗れた人間だったというわけなんですよね。
これは、「わけわかんねえよ。キモ」といわれてしまうのも、庇って上げられないというのが正直な気持ちです。
通学路をいつものように歩いていると、やがて学校と自宅との中途にある守矢神社が見えてきた。
僕は里の学校に通う13歳だ。自宅から学校までは1里ほどあり、毎日歩いて通っている。
クラスメイトからは本名から呼びやすい文字を取って、コウと呼ばれている。家族からはコウちゃんと呼ばれているので、
なんだか格下げされた気分だ。かといって、お母さんからコウちゃんと呼ばれている姿を友達に見せたいかといったら、
それはそれでちょっと恥ずかしい。
ちなみに、僕には定番の持ちギャグがある。それは、「夢は、日本の大統領になることです!」というものだ。
今年のお正月におばあちゃん家に帰省したときも、親戚のはげ頭に銀縁メガネのおじさんや、ハイハイを始めた姪っ子など、
10名にもなろうかというお歴々がおせちの乗った卓を囲むなかで、
「こうちゃんはどんな一年にしようか?はいみなさんご注目!」と新年の抱負を聞かれたときに、
「今年は、一生懸命勉強して・・・」と僕はわざと間を取り、
「学年一番の成績に?」という合いの手を引き出した後に、もったいぶって人差し指を左右に2度3度と振りつつ満を持して、
「日本の大統領になります!」と叫ぶと、一瞬場が静まり返り、親戚一同が目を丸くした後、
ププッ・・・アハハ・・・と笑い声が漏れ、「目標が大きすぎるだろう~」とか、「そもそも日本は大統領じゃなくて、首相だぞ~。」
などと、温かいツッコミを入れてもらったのであった。
フフフ。一人で歩きながらこんな風に空想にふけると、実に鮮やかに情景が思い出されてくる。
そしてはっと気づくともう周りの景色も流れて、守矢神社に到着していた。
守矢神社は新進気鋭の神社である。
祭神である八坂神奈子と守矢諏訪子が数千年にわたって信仰を集める2柱であるから、
神社に対して新進という言葉を用いるのは適切ではないのかもしれない。
だが、出来たばかりの社殿から放たれるすがすがしい杉とヒノキの香り、そして意気揚々と張り切る新人巫女の東風谷早苗。
この2つだけで、参拝客にフレッシュな印象を与えるには十分であった。
ちょっと脚を止めていると、境内のほうで「ガァッ」という、水禽の鳴き声のようなものが聞こえた。
僕は一瞬ビクッとしたが、神社の敷地内にある池に鴨かなにかが泳いで、きまぐれに鳴き声を立てても何も不自然なことはない。
境内を覗くと、一人の巫女さんがスッと一筋の軸が通った美しい立ち姿で、箒をかけていた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんて言葉があるけれど、まさにその言葉がぴったりな少女だった。
年恰好は、僕よりも3~4歳ほど年上だろうか?ふと目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。僕はすっかり恋と憧れの入り混じった感情に
支配されてしまった。歩みを止めて立ち尽くしていると、ビュッ、ビュッと突風が吹いた。ぴっちりと閉ざされていた彼女の装束の襟元が、
突風によってこじ開けられ、すっきりとした首もとと、そこから繋がる鎖骨の一筋がちらりと見えた。
守矢神社を後にして、引き続き通学の途について歩くと、ゆるやかな下り道の突き当たりの丁字路で、幼馴染の福田が待っている。
だいたいいつもここで落ち合って、あとは2人で連れ立って、他愛も無いことを喋りながら登校するのだ。
福田は、片思いをしている同じクラスの美穂について話してくる。
「昨日はさ、体育のフットサルで、俺が点を決めただろ?そのとき美穂ちゃんの顔をチラ見したんだよ。
そしたら目がキラキラしててさ、絶対ありゃ、俺の事をデキる男だと思ったって!」
「いいよな、お前はアピールできる方法があって。俺はスポーツはからっきしダメだからさ。」
福田は優越感をもってニンマリした。気を良くして人を気遣う余裕ができたのか、今度は俺に話を振ってくる。
「なあ、コウはクラスの女子の中で誰が好きなんだ?」
「うーん、明日実ちゃんかな。」
「はは、お前、競争相手多いぞそれ~。」
福田が僕の事を肘でつつく。明日実ちゃんはアイドル然としたルックスで、親は地元の名士ときている。
スクールカースト最上位の女の子だ。福田は、自分の恋に比べて僕の恋が成就するのは大変だといわんばかりに、
安心感の混じった様子でからかった。でも、僕にとってはそれが好都合だった。だって、同級生の女子のことなど
どうでもいい。僕は早苗さんに夢中なのだから。そして早苗さんの事を考えているときの自分と、ありきたりな中学生としての自分の人格は
できれば切り離しておきたかった。何か神聖なものとして大切に取っておきたかったから。だから、親友の福田に対しても、
早苗さんへの恋心を暴露するよりも、明日実ちゃんへのありきたりな恋という偽りのストーリーでごまかしておいたのだ。
ところで、コウちゃんが冒頭で耳にした、「ガアッ!」という音の正体であるが、これは別にこのあとの物語に絡んでくる重要な要素というわけではないので、
種明かしをもうしてしまうことにする。さして重要ではないことを気軽に忘却できたほうが、読書であっても現実での生活であっても快適というものだ。
そのために、時間を1月21日の早朝、視点をコウちゃんではなく早苗にさせていただくので、ご了解願いたい。
早苗は眠い目を擦りながら草履をつっかけて、境内に出た。石畳の通路、狛犬、塵手水・・・目に映るさまざまな物体の上っ面に、薄く紫色の水彩絵の具で撫でたかのような色が乗る。
杉の木の枝の隙間から白い光が差し、雨どいからポタポタとわずかに垂れる水滴がキラリと一瞬輝いたかと思うと、敷石にぶつかって四散した。
その四散したうちのひとつが早苗の頬に当たる。「冷たっ!」と彼女は肩をすくめてまぶたをキュッと閉じた。
と、その拍子に、冷水の刺激によって体に力が入ったのと、腸内に夜のうちに溜まっていたガスがうまいぐあいに調和したらしく、盛大に巫女っ屁をこいた。
「ガアッ!」
その屁の音はまるで、鴨などの水鳥があげたかのような特徴的なものであった。
1月21日早朝
今朝はどういうわけか、いつもより20分も早く目が覚めてしまった。身支度をそのぶんゆっくりやったつもりだが、
結局10分以上早く家を出ることにした。いざ身支度が終わってしまうと、そこから寛ごうと思っても何をしたものかわからず、
お茶の一杯でもこれから淹れるのは面倒だし、もう出てしまうことにしたのだ。
守矢神社に差し掛かると、ちょうど郵便配達員が神社の郵便受けに手紙を入れているところに出くわした。
配達員の仕事ぶりは既に次の配達現場へと向かって心ここにあらずといった具合で、郵便受けのポストからは
2通の手紙が斜に顔を覗かせていた。
僕は、郵便配達員が無造作に投げ入れたその2通の手紙を見て、どういうわけか胸騒ぎが止まらなかった。
そしてこの胸騒ぎの理由を解析して行ったら、きっと犯罪者が格好のタイミングを見つけてしまったときの高揚が混じっていることは、
確かだと懺悔しなければならない。
郵便配達員はもう去ってしまった。神社の人が誰か手紙を取りに来る足音も無い。
「・・・あの2通の手紙のうち、より早苗さんのプライベートに近いと思ったほうを、盗んでから学校へ行こう・・・。」
僕は、ありふれたスーパーマーケットの特売の手紙をポストに残し、
『東風谷早苗殿』
と毛筆でしたためられた手紙を、そっとカバンの中に忍ばせて、早足でその場を去った。
学校に到着すると、僕はそそくさとトイレの個室に立てこもり、カバンのなかから手紙を取り出して読んでみた。
”早苗さん、ご機嫌麗しゅう。とうとう25日夜に控える私達の決闘まで、指折って数えるまでになりましたね。
舞台となる駒ケ岳梟平の天候も、晴れの予想だそうですわ。ところで、弾幕決闘は地の利を得ることが勝負の要諦といいますから、
どちらが前日に会場で練習をするのかを巡って揉め、しまいにはそのまま前日に前倒しで決闘を始めてしまうという
血気盛んな御仁もおられるようですの。可笑しいですわね。私達は誇り高き巫女同志、そんな見苦しい真似をするつもりはございませんわ。
24日の夜は、わたくしどもは一切梟平には近づきませんから、どうぞ存分に、前日練習で戦術をお仕上げなさって。
わたくしどもは23日夜に会場練習をさせていただきますわ。それでは、ご武運を。 博麗霊夢 ”
(えっ・・・これは一体なんなんだ?果たし状って奴なのだろうか・・・。)
僕はなんとか心を落ち着けて書いてある内容を整理すると、駒ケ岳梟平は僕の自宅から4kmほどにある小高い丘だ。
そこで23日夜に、この霊夢という人が弾幕決闘?とやらの練習をし、24日は早苗さんが練習をし、そして25日には本番として二人が戦う、ということか・・・。
僕は、神社に訪れる一般の参拝客が誰も見たことのない早苗さんの姿を見られるのではないかという思いを強くし、
夜中にこっそりと自宅を抜け出して、4kmの道のりをママチャリで走って観に行こうと決心すると、トイレの水を流して個室から出た。
ふと洗面台を見ると、蛇口がしっかり締まっていない様子で、水がチョロチョロ・・・チョロチョロ・・・と流れていた。
僕がトイレに入ってきたときには、手紙のことで頭が一杯で気が付かなかったらしい。
「まったく、水道を使い終わったら、ちゃんと元通りに栓を閉めなきゃダメじゃないか。立つ鳥はあとを濁さず、ってね。」
僕はキュッとひとひねりすると、トイレから出た。
1月22日早朝
僕は昨日と同じく少し早く起きると、郵便配達員が守矢神社から去ったのを確認すると、郵便受けに昨日盗んだ霊夢の果たし状を、
そっと入れておいた。
1月23日夜
いよいよ、果たし状に書かれていた日時のうち最初の23日がやってきた。正直なところ、僕は早苗さんの相手である霊夢とかいう人について、
これといって強い興味があるわけでもない。なので今日は駒ヶ岳梟平に出かけていかずに、明日とあさってだけ行くという選択も出来た。
でも、今日行っておけば、梟平のどこで決闘が行われるのか見当がつき、24日の早苗さんの練習と、25日の決闘本番になって、
あたふたとせずにじっくりと腰を落ち着けて観戦ができると思ったのである。
1月24日夜
僕は息を弾ませながら、梟平に到着した。早苗さんは陣形の真ん中に凛として立っていた。
将棋で言う香車の位置に居座った小隊が、まるで一本の線のように間断なく連射される弾幕を放ち、左右の逃げ道をふさいでゆく。
そしてその弾幕で鳥かごのようになった空間のなかで、待ち構えていた次の小隊が、5列の弾を発射した。
夥しく空中に解き放たれてゆく弾の迫力もさることながら、はじめに放たれた左右を囲う弾の薄紫色、
次に放たれた5列の弾の黄緑色が夜空に映え、まるで打ち上げ花火を見るようにあでやかだ。
僕はその美しさにうっとりと恍惚するのと同時に、霊夢が行き場を失い、5列の弾は辛うじて避けたものの、
その黄緑色の弾の列の間で、すっかり身動きが取れなくなった様子がありありと目の前に浮かんできたのだ。
「そこだ!いけっ!霊夢はもう逃げ道がない!」
僕は思わず声に出してしまった。あたり一面に鳴り響く射撃音がこの声を隠してくれていなかったら、きっと早苗さんは僕が隠れて観ていることに気づいたかもしれないと、
ヒヤヒヤした。でも、まるで僕が指示を出したかのように、本当に5列の弾幕の間に、最後に控えていた小隊が侵入していき、とどめの弾を放ったのであった。
その弾は赤っぽいピンク色に輝き、他の弾よりもずいぶん大きかった。きっと発射の準備にも時間がかかる、とっておきの弾なのだ。だから、射撃までの準備時間に
薄紫色と黄緑色の弾で、時間稼ぎをすると同時に、逃げ道をもふさいでしまおうというわけだ。早苗さん、なんて頭がいいんだ・・・。
僕の空想の中で、困り果てた霊夢にそのピンク色の大弾が迫る。(詰みだ!やった!ビンゴ!)今度は声には出さずに、僕は心の中で換気の声をあげた。
全体練習で戦術の確認をした後も、個人の稽古は続いた。
使い魔のうちの一人が、落ちてくる札に弾を当てて打ち落とす稽古をしていた。早苗さんが札を放り、落下するその札を使い魔は見事に打ち落としてみせた。
僕はそれを見て「ほぉ~っ」と一息、溜息をついた。その使い魔は、自分の傍らにおずおずと立ち尽くしているもう一人の使い魔に、何やら話しかけた。
そして、話しかけられた幾分小柄な使い魔がずいと前に出て、また早苗さんが札を放った。
「ははぁ。彼はキット、見習いの使い魔なんだな。先輩が一度見本を見せて、次ぎは見習いの彼がやってみるというわけだ。
弾幕勝負にもこうやって新人教育の場があるんだなぁ。」と、僕は小声でこしょこしょとつぶやいた。
見習いが弾を放つが、宙に浮いた札の上や下を通過してゆく。惜しい弾もいくつかあったものの、結局早苗さんの放った札を射抜くことはできずに、
札は地面へと落ちた。このへまをした見習いは、どんな風に先輩から叱咤されるのだろうか。そんなちょっと悪趣味なことに興味を抱いた僕は、そろりとしのび足で数歩近づいて、
二人の使い魔の会話に耳をそばだたせた。
「何でぇ、佐久ちゃん、札が傷一つなく優雅に着地しちゃったぜ。難しかったかい?」
「・・・そんなこと言ったって成田さん、札が落ちるのを見越して、ちょっと下の方を狙って撃ったら、札の全然下を通っていってしまうし、
それで今度は上を狙ったら、今度は・・・」
「はははっ!そんなこったろうと思ったぜ。あのな、落ちてくる札が止まってると思って、札が今あるところを狙って撃ってみな。
早苗さん!もう一回頼みます。」
佐久と呼ばれた若い使い魔は、早苗の手から離れた札がヒラリと宙に舞ったのを見て、今度は自分の感覚を捨てて、
気を使わずに札の今ある場所をめがけて弾を撃った。すると今度は、札が落ちるのを弾のほうが追いかけるかのようにして、見事に命中した。
若い使い魔は目を丸くした。まるで、自分が今撃った弾に、的をホーミングする機能が備わっているかのように思ったからだ。
教官の使い魔、成田は2度3度、首を縦に振った。
同じ頃、チルノは宿題をしていた。「う~んっと、タテをy軸、横をx軸とした場合、原点oから角度θをもって速度Vで斜めに射出された弾に働くy成分の力を求めよ、かぁ。」
問題文をノートに書き写し終わると、この小さな学生は鉛筆を上唇の上に載せて口を尖らせ、両手を頭の後ろに組んで、斜め上を見上げた。
やがて何かをひらめいた様子で、ほんの少し目を大きく開くと、独り言を始めた。
「・・・x座標はVcosθ、y座標はVsinθに分解できるわね。で、√(Vcos^2θ+Vsin^2θ)で元のVに戻る、と・・・。」上唇の上でやじろべえを演じていた鉛筆は、再びノートの上を走り始めた。
「ほんで、x方向に外部からかかる力は0、y方向に外部からかかる力は重力があるから、-gt^2・・・と。座標の変化は、(x,y)(Vcosθ,Vsinθ-gt^2)ね!
ん?ちょっと待って。-gt^2って、自由落下するだけの物体にかかる外力と同じだわ。gとt、つまり重力加速度と時間だけに依るので、この問題で斜めに射出された弾と、
例えば『落ちるマト』なんかがあったとしても、この2つにかかるのは共に-gt^2。両者の質量が違っても変わらない。
じゃあ狙撃手は、弾が放たれたあとに『落ちるマト』の落下する移動分を計算には入れずに、ただ今マトがある場所を狙って撃てば、吸いよせられるように命中するってわけだわ!」
もし、見習いの使い魔佐久がたった今やっていた狙撃の稽古をチルノにやらせたら、きっとチルノは一発で札を撃ち抜いて、「こいつ、最強か?」と思わせたに違いない。
興が乗ってきたチルノは、続いて慧音先生に出された2次方程式の問題、X^2+3X=18を解いてみることにした。
読者の皆さんにとっては、解の公式を使えば簡単に解けてしまわれるだろう。だが慧音はあえて一次方程式までしか教えず、
寺子屋の子供達に頭をひねって考えてくるように宿題を出した。例え解けなくても、自力で解法への道筋を立てる経験は後に生きてくるし、
次回の授業で慧音が教える解法への興味も沸く。これが慧音のやり方なのだ。
チルノはとりあえず、ノートに幾何的にこの式を表現してみることにした。X^2というのは一辺がXの正方形である。
そして3Xは一辺がX、もう一辺が3の四角形だ。
「あっ、この2つの図形、少なくとも一辺の長さが同じだわ。じゃあこうすれば・・・っと。」
チルノはノートから3Xの四角形をハサミで切り取り、4等分した。そしてそれを、X^2の正方形の4辺に貼り付けてみた。
「できたっ!この十字の形をした図形の、欠けた4隅の面積は、欠けの一辺が3Xの3のほうの辺を4等分したものだから、4・(3/4)^2=9/4。
これを十字の面積18に合わせて、81/4を面積とする、大きな正方形ができたわ。だから、その正方形の一辺は、√(81/4)=9/2。
ここから、4隅に埋めた3/4が2つあるので引いて、3。答えはX=3ね!やったぁ!明日はこの解き方を、慧音先生が教えてくれるんだろうなぁ。
えへへ。なんだか映画を先に観て、初めて観る友達と2回目を観に行くような、不思議な気分だわ。」
慧音はこのような手法で解いてくるチルノに驚きを隠せず、手放しで褒めて頭をなでるのであった。
話がわき道に逸れてしまったが、ここらで先ほどの使い魔の射撃訓練へとシーンを戻そう。彼らの訓練を物陰から盗み見ていた13歳の少年、コウは、
若輩の使い魔がてっきり教官の使い魔に叱責されるものとばかり思っていたので、半分は拍子抜けし、半分はなんだかむずがゆいような違和感の混じった感情に浸った。
「僕は家では学校の成績が悪ければ怒られ、部活動ではグズグズしていると怒られ、友達連れでゲームをするときも、
自分が原因で負けでもしたら怒られる。そうやって育ってきたんだ。なのに彼は、失敗しても一切責められずに正しいやり方を教わり、
すぐに成功させてしまった・・・。こんなのって不公平だよ。」
物陰から少年に嫉妬されているとも知らず、若い使い魔佐久は稽古を無事終えた安心感と、新たなスキルを得た達成感に満足げな表情を浮かべるのであった。
1月24日深夜
教官の使い魔成田は、退勤して自室に戻り、缶ビールを開けて飲んでいた。明日に迫った霊夢との決闘において、
彼は霊夢に近づいていって自機狙い弾を放つ役割を与えられていた。彼は空ろな目をしながら柿の種をかじり、たまに缶ビールを啜った。
部屋にはポリポリという咀嚼の音だけが一定のリズムで響いていた。
「狙撃手として腕を磨いてきた半生・・・。あんな誰にでもできるような仕事が、俺の人生の集大成なのだろうか・・・。あらかじめ早苗に決められた座標へと移動し、
前もって早苗に指示された場所へと弾を放つ。そんな機械的な仕事は、言ってみりゃあ今日俺が稽古をつけてやった新入りにだって出来るだろう。」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると、唇が乾いてきたのでまたビールを啜って湿らせた。
「仮に、指示を無視して俺が霊夢の避け方を、俺の狙撃手としての長年の勘から読み、早苗の事前の指示からはかけ離れた位置へと弾を打ち、
命中させたとしても、それは命令不履行として罰せられ、俺は立場を失うだろう。俺は情けなくも、当日は早苗の指示に従うだろう。
ただ己の生活を維持するために。己の生活のために、当たりもしない方向へ、当たりもしないと自分でわかっている弾を放つのだ。」
もう一度ビールを啜ると、350mlの缶はもう空になってしまった。
ピンポーン
「おや?こんな夜分に誰だろう?」
成田は畳に掌をついて立ち上がると、真っ暗な廊下を歩いて、心もとないほどの明るさしかないオレンジ色の電球が照らす
玄関へと向かった。廊下の電球は半年ほど前に切れたままでほったらかしにしているのだ。
ガララ・・・
引き戸を開けると、そこには外套に身を包んだ少女が立っていた。
「どちら様?」
成田は少し面倒臭そうに誰何しつつ、オレンジ色の弱い光ではよく見えない彼女の顔を覗いてみた。
年齢は彼の主である早苗とさほど変わらないように見え、やや面長な早苗の顔に比べると、彼女の顔はやや頬骨が出た形をしており、
髪はつややかに黒かった。もみ上げの辺りには、赤い筒の両端に白いレースの付いたちくわのような不思議な髪飾りを付けており、
成田はそこまで観察すると何かを理解して顔がわずかに強張った。その様子を見た少女は口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと自らの名を告げたのであった。
1月25日夜
「まず陰陽玉隊、君達はいつもやっているようなランダムなばら撒きではなく、開幕と同時に両端に集中砲火だ。」
成田の指示通り、巨大で頑丈な陰陽玉が、将棋で言う香車が占める盤上の両端に向けて発射された。早苗の使い魔が放つ薄紫色の弾幕と真正面からかち合うが、
なかなか大量の被弾を受けなければ破壊されない陰陽玉が、次から次へと放たれるために、あっという間にラインは早苗の陣地へと押し上げられた。
霊夢の行く手を薄紫色の弾幕で囲って、真ん中の座標へと針路を限定するという早苗のもくろみは、早くも失敗の色濃いものとなった。
それでも健気な使い魔たちは、薄紫色の弾幕を力尽きるまで放ち続け、なんとか陰陽玉を破壊しようと必死だ。自らの身の安全を省みないほどに・・・。
「何をしているの!もういいわ!撤退なさい!」早苗は蒼白になって叫んだ。薄紫色の弾を放ち、霊夢の行く手をはばんで機先を制するはずだった使い魔たちは、
大部分が陰陽玉の直撃によって命を失っていたが、生き残りの数体は一度早苗のもとへ撤退した。早苗は帰ってきた彼らに指示を出す。
「もうあなたたち少人数では、行く手をはばむだけの密度のある弾幕は撃てないから、作戦変更よ!これから出撃する大赤玉隊の後ろから、援護射撃をなさい!」
成田は舌なめずりをしてからニヤリと笑い、自分と同じ臙脂色の装束を身にまとった部隊に指示を出す。
「次ぎは、5列の弾幕を撃とうと小隊が出てくるぜ。俺一人でこいつらの射撃能力を奪ってやるから、あとは死に体になったこいつら雑魚を、
お前らみんなで煮るなり焼くなり、好きにしな!」
そう言うと成田は、自ら先陣を切って前進すると、彼の言ったとおりに、紺色の装束に身を包んだ使い魔が5体現れた。
「やっとお出ましかよ!遅いぜ!」
成田はフィールドを右から左に横切りつつ、5発の弾を放つと、それら全てが5列の弾幕を放とうとする早苗の使い魔の手に命中した。
手を吹き飛ばされ、何らの攻撃能力を失った彼らは、もはや単なる的に過ぎなかったが、それでも最後の矜持を見せて、
早苗をプロテクトするように隊陣をくみなおして、早苗を守る楯となろうとした。
臙脂色の霊夢の使い魔たちは、弾を撃ってこない敵を討つというノーリスクハイリターンな戦果に心躍らせ、
成田が去ったあとの紺色の早苗の使い魔たちに殺到した。成田は有象無象の輩の使い方を良く心得ていた。
彼らのように取り留めのない人員水増し要員である兵は、戦況が均衡している場面では、全く率先して勇気を奮った
動きは出来ないが、ひとたび自軍の有利と己の安全が担保されると、このあとに待ち構える勝利の美酒を注ぐ盃に自分の
名前を刻ませようと、我先になって駆け出していくのだ。果たしてその通りとなったわけである。
「うひゃ~~」「ぐへへへ」
下卑た笑いをだらしない口元から漏らしつつ、臙脂色の使い魔たちは紺色の使い魔たちに思い思いに弾を撃ち込む。正々堂々としたスキルのぶつかり合いにおいては
全く命中率の悪いであろう彼らの射撃も、早苗の前に人柱となる覚悟を決めてじっと居座る的に対しては、あたかも百戦錬磨の手練のようによく当たる。
しかも皮肉なことに、早苗の目の前でそれが行われているために、着弾の閃光やら硝煙やらで辺りは蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、早苗の視界は遮られてしまったのだ。
「み・・・見えない・・・っ!」
「早苗さん!これからどうしましょう!私どもはどのように戦ったらよろしいですかッ!」
堪りかねた佐久が早苗に指示を仰ぐ。しかし彼女は「わからないわ、あなたたちで考えてッ!私、負けたくないわ」と金切り声で叫ぶのが精一杯なのであった。
成田は自分の周囲に防壁を張り、身の安全を確保してから、悠々と佐久に対して弾を放ってきた。佐久は眼前に迫ってくる成田の弾を見て、皮肉めいた先輩風を吹かして
自分の実力を査定している意図を汲み取り、こうつぶやいた。
「成田さん・・・これは、昨日のレッスンの確認ですか?動く弾の撃ち落とし方は、まさに昨日あなたが教えてくれたことじゃないですか?なめられたもんですよね?えぇ」
昨日教わったことをなぞれば、成田の攻撃の打開策に即つながるということは、佐久が成田に教わったことを確実に自分の血肉にしているかどうかを見定める行為と、
真剣勝負(少なくとも佐久にとっては)を同時並行して行っているに等しかった。だが佐久は、昨日の教官に宿題を提出するにとどまるような飼いならされた気骨のない若者ではなかった。
「僕はその防壁だって破ってみせる!」
成田が弾を放つペースを、佐久が迎え撃つペースが徐々に上回り始めた。その結果、成田の弾と佐久の弾がぶつかる位置は、
はじめのうちは佐久の目前であったが、今や成田の目前まで近づいてきている。
バシューンッ!
とうとう成田の防壁に佐久の弾が届き、穴が開いた。それは成田の右手60度の位置に開いたもので、佐久から見れば左方に偏った位置だった。
「今すぐ、その穴からあなたに引導を渡してやります!」
佐久の眼はギョロリと光り、まるで別人のようであった。どうせ老獪な成田のことだ、防壁に開いた穴もいずれふさいでしまうだろう。
この好機を逃すまいと、佐久は左へと移動し、成田の右手に向かって突進した。と同時に、成田の顔には何やら力の抜けたような、
嫌みったらしい笑みが張り付いた。
「あ~あ~、今横に飛び出したりしたら・・・」
ピチュウゥン!
佐久は背中に今まで感じたこともない衝撃を受け、次いで強烈な熱さに襲われた。あとでわかったことだが、その熱さは特に火炎放射などの
高温による攻撃を受けたからではなく、肉がズタズタに引き裂かれたために、その痛みを熱さとして誤認したのである。
ユラユラと地上に落ち、薄目を開ける佐久。その背後からは、ひきつった表情の紺色の装束の使い魔が現れた。
彼の姿を成田の眼から隠していた佐久の姿が消えたために、まるで紙芝居をめくるようにして、彼は成田の眼前に現れたのである。
その手からはまだ、今しがた佐久に致命的な一撃を与えた薄紫色の弾が漏れていた。佐久はこうして、味方の援護射撃を背中に受けて倒れたのである。
物陰から戦況を見つめていたコウちゃんは、あまりにも昨夜のリハーサルと違う早苗たちの挙動に絶句した。
「な・・・なんだよぅ・・・薄紫色の弾が放たれたのはほんの最初だけで、なんだかよくわからない麻辣火鍋の鍋みたいなのに潰されちゃったし、
その次に放たれるはずの黄緑色の弾なんて、狙撃手は現れたのに弾を撃ちもしないで、固まっちゃった。一体、どうなってるんだよ!」
「あいつが・・・霊夢が・・・一枚上手だったんだ!」心にどうやってもこの一言が浮かぶ。クソ・・・いまいましい。
他のポジティブな言葉を口にしようじゃないか。
「早苗さん・・!霊夢にも効いていますよ!今かわされたのは、たまたまですッ!続けましょう!」・・・やめだ。
自分でも気づいている。「あいつが・・・霊夢が・・・一枚上手だったんだ!」のほうが、ずっと良く頭が働いている人間の言葉だ。
負けを認めたくないからって、バカの振りをするのはむなしいだけだった。
霊夢の放った札がとうとう早苗に当たり、白と紺の装束が引き裂かれた。上衣の破損がはなはだしく、片方の乳房が露になる。
僕は、あの日の事を思い出していた。笑顔でおはようとあいさつを返してくれた早苗さんの襟元からわずかに見えた白い肌にドキッとしたあの日。
僕にとって、いや僕の世界にとって、それだけ早苗さんの肌は簡単に露出させて良い物ではないのだ。
それなのに、霊夢の放つ札は無情にも、早苗さんの身にまとう布地を引き剥がしてゆく。僕の現実が一緒に壊れていく。
あの日にちらりと肌が見えたときだって、心の準備ができていなかったのに、あの霊夢の札に至っては、僕に心の準備が出来ているかどうかなど、全く聞く気すらないのだ。
あぁ、なんということだ。僕は自己嫌悪にさいなまれた。必死になって戦い、美しく散った早苗さんを目の前にして、
僕は彼女の白くみずみずしい肌と、汗ばんだ乙女の体臭を想像して、ムクムクと劣情の虜になってしまったのだ。
ズボンを下ろし、オンバシラをしごいた。遠くに見える早苗さんの裸体を目に焼きつけながら、一回・・2回・・と、握り締めた右手を力強く上下させると、
僕は「あぁ~っ」という情けない声とともに、絶頂に達した。そして草むらにピュッ、ピュッと、僕の"日本の大統領になりたいという気持ち"が発射された。
へなへなと腰が砕けそうになり、僕はとっさにどこか座る所を探した。5mほど右に、今はもう使われなくなった古い井戸を見つけたので、井戸の丸い穴に沿って
積んである円筒の石の上へと腰掛けた。ひんやりとつめたい石が、今しがた仕事を終えたばかりのマミゾウ袋に触れる。「冷たっ!」と、
僕は肩をすくめてまぶたをギュッと閉じた。「井戸の上にチンチン(※)・・・これがほんとの、チンチン井上・・・。」(※ミスティア・ローレライのことです。)
腕だけになった使い魔から、チョロチョロ・・・チョロチョロ・・・と、残留思念のように弾が漏れ、あらぬ方向へと飛んで行っては、岩肌に当たって「カン!」と音を立てたり、
樹木の枝葉をいたずらに傷つけたりしていた。霊夢はうんざりしたような顔で、その腕に近づいていき、何のためらいもなく弾を一発撃って四散させた。
「まったく、いつまでセンチメンタルに負けの味に浸っておられるのかしら?勝負が付いたら、自軍の使い魔やフィールドにばら撒かれた弾幕は、すべて引っ込めて片付け、
立つ鳥はあとを濁さずという言葉のとおりに、周囲の環境を傷つけるのを最小限に抑えて美しく終わるのがマナーじゃありませんの?」
弾幕勝負は決着し、霊夢は去った。僕はそれを見て、自分も帰らなければならないと悟り、半時前と同じように、暗い夜道を歩き出した。
来た道を折り返して帰ったのだろうが、不思議なことに、往路ではあんなに五感に響いてきた星空や虫の声、集落の明かりが、
復路ではまったく印象に残っていない。まるで音もない完全な暗闇の中を移動して家に帰ったかのようなのだ。
1月26日
翌朝になっても僕の気持ちは腑抜けたままで、まるで亡霊のように漫然と朝飯を口に運び、制服に着替えて家を出た。
空を見上げてみる。晴れだ。
真っ青な空をスクリーンにして、昨日見た赤や黄、緑の色とりどりの弾幕が網膜に映る。
ただし、昨日赤だった弾は緑に、青だった弾はピンクっぽい色に変わっていた。
「あぁ・・・これは・・・あれだ。あるものをじっと瞬きせずに見続けてから、壁か何かに視線を移すと、じっと見たものの像が補色になって壁に浮かんで見える現象・・・。
目の錯覚の一種。・・・ははっ、昨日どれだけ熱心に早苗さんの戦いを見ていたんだろうな。」
自分に呆れつつ、僕は登校のために脚を動かし続けた。ありがたいもので、頭はこんなにボーッとしているのに、
脚はいつもの調子で僕を守矢神社まで届けてくれた。
「昨夜、あんな負け方をしたんだ。今朝は早苗さん、いないだろうな・・・。」
サーッ・・サーッ・・竹箒が境内の落ち葉を掃き清めようとして砂利に擦れる音がする。音の主は、昨夜の激闘を繰り広げた厳しい表情とは打って変わった、
穏やかな表情の早苗さんだった。
僕はなんてバカだったんだろう。負けて誰よりも辛いはずの早苗さんがこうやって、いつもと変わらぬ仕事を淡々とやっているのに、
ただただ圧倒されて眺めておることしかできなかった僕が落ち込んでいるなんて!
「早苗さん、僕、がんばります!」
それはほとんど絶叫に近いような声が出ていたらしく、早苗さんは目を丸くしてこちらを見た。
そしてはじめて会ったあの日のように微笑みかけると、
「フフッ、良い心がけね。勉強に、スポーツに・・・家のお手伝いなんかもがんばって!」
彼女が箒を持っていた手の片方は箒から離され、小さくガッツポーズをしていた。
早苗さんのかわいらしい仕草を見て、僕のテンションは爆上がりした。これを言うなら、今しかない。
「日本の大統領になります!ッ!」真顔で敬礼しつつ僕は叫ぶと、きびすを返して学校へと向かって駆け出した。
彼が駆け出していった方向へは、突き当たりの丁字路まで緩やかな下り坂となっているので、この中学生の姿は、
早苗から見ると徐々に腰までが地面に隠れ、肩、頭まで隠れ、じきにすっかり見えなくなった。
早苗は彼の姿が見えなくなると、「わけわかんねえよ。キモ」と、ボソリとつぶやいた。
この物語はひとまずここで終わりなのですが、最後のシーンについて私見を述べます。「昨夜、あんな負け方をしたんだ。今朝は早苗さん、いないだろうな・・・。」と、
早苗の境遇を承知しておきながら、いざ早苗の姿を見かけると、有頂天になって話しかけてしまう。ここがマジで生理的に無理。
早苗が辛いのがわかってるのなら、そっとしておいてやれよって話ですよ。結局このコウとかいうガキは、早苗の事を労わるよりも、
自分の舞い上がった気持ちに早苗の作り笑いで花を添えることを優先するという自己愛に塗れた人間だったというわけなんですよね。
これは、「わけわかんねえよ。キモ」といわれてしまうのも、庇って上げられないというのが正直な気持ちです。