まさかね。もちろん僕も馬鹿じゃない。
友達に言ったって笑われるだけさ。
あそこの店に惚れ薬が売ってたなんて。
だから、僕は誰にも言わず豚の貯金箱を壊したのさ。その金を懐いっぱいに詰めて、最も大人びた僕は今、その店に来ていた。
「本当に信じるのか」
「何だよ。信じろと言ったのはお前じゃないか」
「まぁ、そうだがな。俺も本当に信じやがるとは思わなかったぜ」
「ひどい言われようだ。これじゃあまるで僕が騙されているみたいじゃないか」
「安心しな。ウチの商社は詐欺はやらねぇ」
店のじいさんはゲラゲラと笑った。頭も髭も綺麗に剃り上げたスキンヘッドの英国人だ。自分のことを〝ロンドンの不死商人〟などと名乗る胡散臭い奴だが、デカい会社の一員らしく、信頼はできる。
何せ、この街でのクスリのやり取りは、それが阿片だろうが漢方薬だろうが、信頼が全てなのだ。というのも、上海共同租界を治める工部局は、麻薬・劇薬を始めとする薬剤関連の取り締まりや薬局の営業管理等に関して完全に匙を投げている。だからこそ、惚れ薬などという出鱈目を平気で売り物にする薬売りの店が平気で建っているのだ。
もっとも、この店の惚れ薬に関しては、ほぼ間違いなく本物だという確証を得ているのだが。
「八シリング十一ペンスだ」
「へいへい、今数えるよォ……ったく、英国の金の数え方は何だってこんなに面倒くせェんだ?」
「我慢してくれ。ウチの本社は世界中どこの国行ったってポンド以外の支払いは認めんからな」
「……確かに受け取ったぞ」
ことり、と。カウンターに置かれたのは、金色のキャプを被ったガラスの小瓶。中には琥珀色の液体が入っている。僕はそれを掴み、懐に忍ばせた。
「ところでお前、もしかして……」
「あん?何だ」
僕は釣銭を丁寧に仕舞いながら聞き返した。
「例のサーカス団の奴じゃないだろうな」
一瞬、どきりとしたが。今は昔と違って僕は盗賊団じゃない。自分の所属がバレたって、何か不都合があるわけでは無いのだ。無駄な心配をした自分を笑い、僕は適当に答えを返す。
「だったらどうした」
「いやな、あのサーカスは俺も一度見に行ったんだが……なかなか面白い道具を持っているな。そこに少し商売の匂いを嗅ぎ取っただけだ」
面白い道具、とは、どれのことを指しているのだろうか。殆どは手品で騙して面白く見せているだけだが、いくつかはアリスの魔法が仕込まれたタネあり道具だ。彼はそれを、どこまで見抜いているのだろうか。
見れば、店の奥には、薬とは関係のなさそうな不思議な道具が散らばっていて。中には、僕がサーカスの舞台裏でしか見たことのないような珍妙な物品もあった。あまり、踏み込んではいけないのかもしれない。
大人の勘で、そう感じた。
「ふん。じゃア僕らのサーカスが潰れたら買い取りに来るんだな」
僕は席を立つ。
「あぁ、そうするよ。……ただあの人気じゃあ、当分潰れそうにないがな」
店主の独り言を背に、僕は店を出た。
* * *
ついにこの時が来た。僕は待ちわびていたんだ。あれから四年間、ずっと。
人は状況次第で誰でも犯罪者になり得る。かつて盗賊団だった僕はそのことをよく知っている。何もおかしなことは無い。ただいつもと変わらぬ何でもない日に、人はその手を背徳に濡らすことになるのだ。
「待ってろよ……アリス」
眠らぬこの街さえ眠ってしまう程、誰もが寝静まった真夜中。僕はするりと寝床を抜け出し、立ち上がった。雑魚寝している野郎共を踏まぬよう躱しながら、寝室を出る。
男共の部屋から最も離れた部屋。即席で立てられた板の仕切りの向こう側。そこに彼女の部屋はある。もちろん、鍵が掛かっている。ピッキングならやろうと思えばできるだろうが、今日はそんなことはしない。そもそもこの部屋には彼女の魔法で結界とやらが張られていて、彼女が許可しない限り外から開けることは不可能だ。
そう、外からは。
今彼女は、内側から部屋を開けざるを得なくなっているはずだ。
僕は確信している。
扉に耳を当てる。
じっと耳を澄ませる。
彼女の寝息が聞こえてくる。やがて、それは寝息とはいえないものであると気づく。そんな落ち着いた、穏やかなものじゃない。もっと不安定で、上ずっていて……艶めかしい息だ。
何故彼女がそんな息をしているのか、僕は知っている。
――何故なら僕が、彼女に惚れ薬を盛ったのだから。
昨日の夕方、酒盛りから抜け出した少年。彼が持って行ったココアには、惚れ薬が入っていた。ちょうど二人分のココアで使い切りそうなだけ牛乳を残しておき、そこに僕が予め薬を混ぜておいたのだ。もちろん、彼も含めて、誰にも気づかれていないはずだ。
アリスの部屋に気軽に入れるのは彼を除いて他には居なかった。だからこのシチュエーションを僕はひたすら待った。そして今日、実行した。ただそれだけのことだ。
薬を入れたココアは二人分。片方は彼が飲むことになるだろうが、最も幼い彼に対しては、惚れ薬が本来の効用を発揮することは無いだろう。せいぜい眠くなるくらいだ。一方の彼女、これは一か八かではあったが、きっと効いたに違いない。
一旦扉から耳を離し、そして静かに語りかける。
「なァ、アリス」
「……!いっ?」
「開けろよォ……」
「ハリー?っ、?!」
そうだ、アリス。僕を見ろ。
「だめ……、今は」
良い子だ。僕を見るんだ。僕を求めるんだ。僕はずっと君を見てきた。ずっと君を求めてきた。どんなに無視されようが、見向きもされないようなことがあろうが、僕はずっと君を求めていたんだ。だから……
「今来ちゃ……ダメ……」
「扉、開けろよ。僕が手伝って[傍点4]やるから……」
「今来たらダメえっ!」
「は……………………?」
突然、身体に強い衝撃。目の前の扉が勢いよく開け放たれた。そのまま通路の反対まで突き飛ばされ、背中を壁に強打した。
「アリ……ス…………?」
何が起きた?分からない。突然のことで頭が回らない。自分の状況が分からない。アリスの様子も分からない。頭がくらくらする。頭をぶつけたせいか、視界が揺らいでいる。耳鳴りがして周りの様子も窺えない。全てが曇って、くぐもって、どんどん分からなくなっていく。僕は……拒まれたのだろうか?彼女に拒絶されたのだろうか?
扉が吹き飛んだ今、部屋の様子が露になっていた。寝床の上で、彼女はいつものワンピースをはだけさせていた。乱れた短いブロンドの髪、仰向けに反り上がるその身体。痙攣する腰と、強く握られた手と足の指先。そうして彼女は、ゆっくりと、動かなくなった。
彼女は――
――〝誰〟に、そんなことをされたんだ?
答えはそこに立っていた。
視線を上げれば、自分が〝誰か〟の脚の間を通すように部屋を見ていたことに気づく。
暗い紫のロングスカート。同じ色のベスト。フリルの多いブラウスに、陶器のような肌。
その指は――人形のくせに――白くふやけていた。
「おま、え……」
「クスリ、ドコダ」
こいつ……喋りやがる。
「な、何だ、ァ?」
この声を聞いたのはこれで二度目だ。一度目は初めてアリスに会ったとき。サーカスで口上を述べることはあっても、こいつが〝自分の意思で〟喋っているのを聞いたことは、あの日以来無かった。だが今、確かにこいつは自分の意思で喋っている。何せ、アリスは今……白目を剥いて失神しているのだから。
「キミ、モッテル、クスリ」
見た目相応の女の声ではあるが、その片言具合は非常に不気味だった。
「何を、言って……」
「ダシテ」
その手が差し伸べられる。
「……やら、ねェよ、お前なんか、に……!」
「ハヤク」
「……!」
一瞬のうちに、僕の喉元には鉈がかけられていた。
恐怖で息が止まる。もしまた息をすれば、たちまち首が切れてしまう気がした。
そっと、懐に手を入れる。大事なものは肌身離さず持っておくのが、盗賊団だった時からの習慣だった。だからあの惚れ薬もここに入ったままだ。
彼女にそれを渡す、自分の手は震えていた。
「ぶは、っ」
鉈が降ろされ、止めていた息を吐きだした。
再び物言わぬ人形となった彼女は、僕を一瞥し、その場を立ち去った。何かを求めるように、足りない何かを探しに行くように。薬をスカートのポケットに突っ込むと、左手に鉈を、右手に十字架を取り、彼女はアジトの出口へと向かった。
階段を上がっていく。ばさばさとスカートをなびかせる上海人形。その後ろ姿を見るのを最後に、僕の意識は、ぷつりと途切れた。
あぁ。僕って本当に、大人げない馬鹿だ。
友達に言ったって笑われるだけさ。
あそこの店に惚れ薬が売ってたなんて。
だから、僕は誰にも言わず豚の貯金箱を壊したのさ。その金を懐いっぱいに詰めて、最も大人びた僕は今、その店に来ていた。
「本当に信じるのか」
「何だよ。信じろと言ったのはお前じゃないか」
「まぁ、そうだがな。俺も本当に信じやがるとは思わなかったぜ」
「ひどい言われようだ。これじゃあまるで僕が騙されているみたいじゃないか」
「安心しな。ウチの商社は詐欺はやらねぇ」
店のじいさんはゲラゲラと笑った。頭も髭も綺麗に剃り上げたスキンヘッドの英国人だ。自分のことを〝ロンドンの不死商人〟などと名乗る胡散臭い奴だが、デカい会社の一員らしく、信頼はできる。
何せ、この街でのクスリのやり取りは、それが阿片だろうが漢方薬だろうが、信頼が全てなのだ。というのも、上海共同租界を治める工部局は、麻薬・劇薬を始めとする薬剤関連の取り締まりや薬局の営業管理等に関して完全に匙を投げている。だからこそ、惚れ薬などという出鱈目を平気で売り物にする薬売りの店が平気で建っているのだ。
もっとも、この店の惚れ薬に関しては、ほぼ間違いなく本物だという確証を得ているのだが。
「八シリング十一ペンスだ」
「へいへい、今数えるよォ……ったく、英国の金の数え方は何だってこんなに面倒くせェんだ?」
「我慢してくれ。ウチの本社は世界中どこの国行ったってポンド以外の支払いは認めんからな」
「……確かに受け取ったぞ」
ことり、と。カウンターに置かれたのは、金色のキャプを被ったガラスの小瓶。中には琥珀色の液体が入っている。僕はそれを掴み、懐に忍ばせた。
「ところでお前、もしかして……」
「あん?何だ」
僕は釣銭を丁寧に仕舞いながら聞き返した。
「例のサーカス団の奴じゃないだろうな」
一瞬、どきりとしたが。今は昔と違って僕は盗賊団じゃない。自分の所属がバレたって、何か不都合があるわけでは無いのだ。無駄な心配をした自分を笑い、僕は適当に答えを返す。
「だったらどうした」
「いやな、あのサーカスは俺も一度見に行ったんだが……なかなか面白い道具を持っているな。そこに少し商売の匂いを嗅ぎ取っただけだ」
面白い道具、とは、どれのことを指しているのだろうか。殆どは手品で騙して面白く見せているだけだが、いくつかはアリスの魔法が仕込まれたタネあり道具だ。彼はそれを、どこまで見抜いているのだろうか。
見れば、店の奥には、薬とは関係のなさそうな不思議な道具が散らばっていて。中には、僕がサーカスの舞台裏でしか見たことのないような珍妙な物品もあった。あまり、踏み込んではいけないのかもしれない。
大人の勘で、そう感じた。
「ふん。じゃア僕らのサーカスが潰れたら買い取りに来るんだな」
僕は席を立つ。
「あぁ、そうするよ。……ただあの人気じゃあ、当分潰れそうにないがな」
店主の独り言を背に、僕は店を出た。
* * *
ついにこの時が来た。僕は待ちわびていたんだ。あれから四年間、ずっと。
人は状況次第で誰でも犯罪者になり得る。かつて盗賊団だった僕はそのことをよく知っている。何もおかしなことは無い。ただいつもと変わらぬ何でもない日に、人はその手を背徳に濡らすことになるのだ。
「待ってろよ……アリス」
眠らぬこの街さえ眠ってしまう程、誰もが寝静まった真夜中。僕はするりと寝床を抜け出し、立ち上がった。雑魚寝している野郎共を踏まぬよう躱しながら、寝室を出る。
男共の部屋から最も離れた部屋。即席で立てられた板の仕切りの向こう側。そこに彼女の部屋はある。もちろん、鍵が掛かっている。ピッキングならやろうと思えばできるだろうが、今日はそんなことはしない。そもそもこの部屋には彼女の魔法で結界とやらが張られていて、彼女が許可しない限り外から開けることは不可能だ。
そう、外からは。
今彼女は、内側から部屋を開けざるを得なくなっているはずだ。
僕は確信している。
扉に耳を当てる。
じっと耳を澄ませる。
彼女の寝息が聞こえてくる。やがて、それは寝息とはいえないものであると気づく。そんな落ち着いた、穏やかなものじゃない。もっと不安定で、上ずっていて……艶めかしい息だ。
何故彼女がそんな息をしているのか、僕は知っている。
――何故なら僕が、彼女に惚れ薬を盛ったのだから。
昨日の夕方、酒盛りから抜け出した少年。彼が持って行ったココアには、惚れ薬が入っていた。ちょうど二人分のココアで使い切りそうなだけ牛乳を残しておき、そこに僕が予め薬を混ぜておいたのだ。もちろん、彼も含めて、誰にも気づかれていないはずだ。
アリスの部屋に気軽に入れるのは彼を除いて他には居なかった。だからこのシチュエーションを僕はひたすら待った。そして今日、実行した。ただそれだけのことだ。
薬を入れたココアは二人分。片方は彼が飲むことになるだろうが、最も幼い彼に対しては、惚れ薬が本来の効用を発揮することは無いだろう。せいぜい眠くなるくらいだ。一方の彼女、これは一か八かではあったが、きっと効いたに違いない。
一旦扉から耳を離し、そして静かに語りかける。
「なァ、アリス」
「……!いっ?」
「開けろよォ……」
「ハリー?っ、?!」
そうだ、アリス。僕を見ろ。
「だめ……、今は」
良い子だ。僕を見るんだ。僕を求めるんだ。僕はずっと君を見てきた。ずっと君を求めてきた。どんなに無視されようが、見向きもされないようなことがあろうが、僕はずっと君を求めていたんだ。だから……
「今来ちゃ……ダメ……」
「扉、開けろよ。僕が手伝って[傍点4]やるから……」
「今来たらダメえっ!」
「は……………………?」
突然、身体に強い衝撃。目の前の扉が勢いよく開け放たれた。そのまま通路の反対まで突き飛ばされ、背中を壁に強打した。
「アリ……ス…………?」
何が起きた?分からない。突然のことで頭が回らない。自分の状況が分からない。アリスの様子も分からない。頭がくらくらする。頭をぶつけたせいか、視界が揺らいでいる。耳鳴りがして周りの様子も窺えない。全てが曇って、くぐもって、どんどん分からなくなっていく。僕は……拒まれたのだろうか?彼女に拒絶されたのだろうか?
扉が吹き飛んだ今、部屋の様子が露になっていた。寝床の上で、彼女はいつものワンピースをはだけさせていた。乱れた短いブロンドの髪、仰向けに反り上がるその身体。痙攣する腰と、強く握られた手と足の指先。そうして彼女は、ゆっくりと、動かなくなった。
彼女は――
――〝誰〟に、そんなことをされたんだ?
答えはそこに立っていた。
視線を上げれば、自分が〝誰か〟の脚の間を通すように部屋を見ていたことに気づく。
暗い紫のロングスカート。同じ色のベスト。フリルの多いブラウスに、陶器のような肌。
その指は――人形のくせに――白くふやけていた。
「おま、え……」
「クスリ、ドコダ」
こいつ……喋りやがる。
「な、何だ、ァ?」
この声を聞いたのはこれで二度目だ。一度目は初めてアリスに会ったとき。サーカスで口上を述べることはあっても、こいつが〝自分の意思で〟喋っているのを聞いたことは、あの日以来無かった。だが今、確かにこいつは自分の意思で喋っている。何せ、アリスは今……白目を剥いて失神しているのだから。
「キミ、モッテル、クスリ」
見た目相応の女の声ではあるが、その片言具合は非常に不気味だった。
「何を、言って……」
「ダシテ」
その手が差し伸べられる。
「……やら、ねェよ、お前なんか、に……!」
「ハヤク」
「……!」
一瞬のうちに、僕の喉元には鉈がかけられていた。
恐怖で息が止まる。もしまた息をすれば、たちまち首が切れてしまう気がした。
そっと、懐に手を入れる。大事なものは肌身離さず持っておくのが、盗賊団だった時からの習慣だった。だからあの惚れ薬もここに入ったままだ。
彼女にそれを渡す、自分の手は震えていた。
「ぶは、っ」
鉈が降ろされ、止めていた息を吐きだした。
再び物言わぬ人形となった彼女は、僕を一瞥し、その場を立ち去った。何かを求めるように、足りない何かを探しに行くように。薬をスカートのポケットに突っ込むと、左手に鉈を、右手に十字架を取り、彼女はアジトの出口へと向かった。
階段を上がっていく。ばさばさとスカートをなびかせる上海人形。その後ろ姿を見るのを最後に、僕の意識は、ぷつりと途切れた。
あぁ。僕って本当に、大人げない馬鹿だ。