妖怪に半身を食い千切られたその男は今まさに死に絶えようとしていた。
時刻は夜中の三時を回ったころで、その男はいつも通りの残業を終え、いつも通りの深夜の帰り道を歩き、そうしていつも通り自宅に帰るはずだった。
しかし、今回はいつもとは違った。ぼんやりといつも通りの帰り道を歩いていたところ、彼が歩いていたはずのコンクリートの道路は土の道に変わり、
気がつけば道路に沿って立ち並んでいた電柱は鬱蒼とした木々になっており、辺りは暗闇に飲み込まれていた。
男は疲れ果てていた。
彼の人生を埋め尽くす常軌を逸した仕事の量や、上司から与えられる暴言の数々は彼の肉体と精神を痛めつけ、
どうしようもない苦痛によって麻痺させられた彼の思考回路では自分がその妙な場所に迷い込んだことに暫く気づかなかった。
何やら妙に辺りが暗いし、それに道もずいぶんと荒れているが、時にはそういうこともあるだろうなどと考えていた彼が、
ようやく自らがいつもの帰り道とは違う妙なところに迷い込んだと思ったときには、妖怪は彼の身体に歯を突き立てていた。
男は呆気なく襲われ、襲ったその妖怪は手慣れた様子で男の身体を食べやすいように、ちょうど腰のあたりで二分割にするとその下半身を、何のためらいもなく貪り出した。
かつての自らの肉体が食べられるという状況に直面した男はこれが夢だと推測した。
しかし、明らかに夢のものとは思えない、耐え難い身体の痛みや、あまりにも生々しい血の匂い、まさに目の前で自分の肉を貪り
血をすする異形の者を見て、これが現実だというのは認めざるをえなかった。
強烈な恐怖が男の思考を支配し、何かしらの打開策を考え、モゾモゾと無意味に身体を蠢かすもどうすることも出来ず、
それから、せめてソイツが下半身を食い終えて残る上半身に食指を向ける前に何とか意識を終えられないものだろうかと願い始めたころ、
彼は月明かりの下に立つその少女を見つけた。
黒髪の少女だった。身に纏う衣装は何処となく、巫女服のような外見だったが、実際のところ彼女が巫女なのかどうかは彼には判別できなかった。
黒髪の少女は食事に夢中になっている怪物の後ろに立ち、何やら棒のようなものを振り上げ、手慣れた手つきでそれを一気に振り下ろした。
鈍い音がして、それから怪物は地に倒れ伏せた。
少女は下半分を見て顔をしかめた後、残る上半分に存在に気づき、口を開いた。
「あなた、外から来たの?」
外から来た、とはどういうことだろうか?彼には発言の意味が理解できず、何かしら口を開こうにも、すでに死にかけている身体は
思うように動かなかった。
少女はジッとこちらを見つめていたが、仕方がないとでも言うようにため息をついた。
「時々居るのよね、外からやってきて、フラフラと彷徨って、そのままやられちゃうのが。」
気の毒そうに言い放たれた少女の言葉は男にはやはり理解し難かった。
だが、恐らくは、自分のように死ぬのはきっとそれほど珍しく無いのだろうと、彼はぼんやりと思った。
その事実は、不思議にも幾ばくか恐怖に怯えた彼の精神を慰めた。
「もう、これじゃあどうしようもないわね。せめて、死ぬまでは傍にいるわ。」
彼女は少し微笑み、彼の横に腰を下ろした。
自らの死を告げられ、そのことを認識したにも関わらず彼の心はそれほど怯えなかった。
もはやどう足掻こうにもどうしようもないことなのだという、半ば諦めに近い形で彼は自らを納得させようとしていた。
ただひたすら意味もない仕事に埋め尽くされた苦痛の日々に幸せは無く、それを惜しむ気持ちは無かった。
自分の死を悲しむ人を考えようにも、両親はすでに世を去っており、彼には伴侶も、親しい友人も居なかった。
そのような人生を過ごしていた男には、実際のところ死に抗う理由はもはや存在しなかった。
しかし、自分の意識がゆっくりと薄れていき、そうして完全に無くなってしまうことを考えることには、恐怖があった。
諦めと恐怖が入り混ぜった中で、彼は呆然としていた。
ふと、夜空が輝いていることに気づいた。星が空を埋め尽くしていた。月は爛々と輝いていた。
高層ビルや、LEDの電灯に埋め尽くされた普段の暮らしでは見ることの出来ない光景だった。
かつて、今は亡き両親と共に行った山奥のキャンプ場で、以前にも彼はその美しい光景を見たような気がした。
走馬灯にも似たノスタルジーが、彼の心を通り過ぎていった。
空には星と月だけが輝き、聞こえる音は風に揺られる木々のざわめきだけだった。それは美しい夜だった。
それは、傍に座る少女もそうだった。こちらを見て、自分を安心させるように微笑む少女。
きっと、彼女はこの瞬間だけでも自らの死を悲しんでくれるだろうと思った。
その夜に、彼を怯えさせるものは何もなかった。ただ、純粋な美しさだけがあった。
彼の心から恐怖は消えていた。ただ、ぼんやりと暖かな平穏だけを感じていた。
時刻は夜中の三時を回ったころで、その男はいつも通りの残業を終え、いつも通りの深夜の帰り道を歩き、そうしていつも通り自宅に帰るはずだった。
しかし、今回はいつもとは違った。ぼんやりといつも通りの帰り道を歩いていたところ、彼が歩いていたはずのコンクリートの道路は土の道に変わり、
気がつけば道路に沿って立ち並んでいた電柱は鬱蒼とした木々になっており、辺りは暗闇に飲み込まれていた。
男は疲れ果てていた。
彼の人生を埋め尽くす常軌を逸した仕事の量や、上司から与えられる暴言の数々は彼の肉体と精神を痛めつけ、
どうしようもない苦痛によって麻痺させられた彼の思考回路では自分がその妙な場所に迷い込んだことに暫く気づかなかった。
何やら妙に辺りが暗いし、それに道もずいぶんと荒れているが、時にはそういうこともあるだろうなどと考えていた彼が、
ようやく自らがいつもの帰り道とは違う妙なところに迷い込んだと思ったときには、妖怪は彼の身体に歯を突き立てていた。
男は呆気なく襲われ、襲ったその妖怪は手慣れた様子で男の身体を食べやすいように、ちょうど腰のあたりで二分割にするとその下半身を、何のためらいもなく貪り出した。
かつての自らの肉体が食べられるという状況に直面した男はこれが夢だと推測した。
しかし、明らかに夢のものとは思えない、耐え難い身体の痛みや、あまりにも生々しい血の匂い、まさに目の前で自分の肉を貪り
血をすする異形の者を見て、これが現実だというのは認めざるをえなかった。
強烈な恐怖が男の思考を支配し、何かしらの打開策を考え、モゾモゾと無意味に身体を蠢かすもどうすることも出来ず、
それから、せめてソイツが下半身を食い終えて残る上半身に食指を向ける前に何とか意識を終えられないものだろうかと願い始めたころ、
彼は月明かりの下に立つその少女を見つけた。
黒髪の少女だった。身に纏う衣装は何処となく、巫女服のような外見だったが、実際のところ彼女が巫女なのかどうかは彼には判別できなかった。
黒髪の少女は食事に夢中になっている怪物の後ろに立ち、何やら棒のようなものを振り上げ、手慣れた手つきでそれを一気に振り下ろした。
鈍い音がして、それから怪物は地に倒れ伏せた。
少女は下半分を見て顔をしかめた後、残る上半分に存在に気づき、口を開いた。
「あなた、外から来たの?」
外から来た、とはどういうことだろうか?彼には発言の意味が理解できず、何かしら口を開こうにも、すでに死にかけている身体は
思うように動かなかった。
少女はジッとこちらを見つめていたが、仕方がないとでも言うようにため息をついた。
「時々居るのよね、外からやってきて、フラフラと彷徨って、そのままやられちゃうのが。」
気の毒そうに言い放たれた少女の言葉は男にはやはり理解し難かった。
だが、恐らくは、自分のように死ぬのはきっとそれほど珍しく無いのだろうと、彼はぼんやりと思った。
その事実は、不思議にも幾ばくか恐怖に怯えた彼の精神を慰めた。
「もう、これじゃあどうしようもないわね。せめて、死ぬまでは傍にいるわ。」
彼女は少し微笑み、彼の横に腰を下ろした。
自らの死を告げられ、そのことを認識したにも関わらず彼の心はそれほど怯えなかった。
もはやどう足掻こうにもどうしようもないことなのだという、半ば諦めに近い形で彼は自らを納得させようとしていた。
ただひたすら意味もない仕事に埋め尽くされた苦痛の日々に幸せは無く、それを惜しむ気持ちは無かった。
自分の死を悲しむ人を考えようにも、両親はすでに世を去っており、彼には伴侶も、親しい友人も居なかった。
そのような人生を過ごしていた男には、実際のところ死に抗う理由はもはや存在しなかった。
しかし、自分の意識がゆっくりと薄れていき、そうして完全に無くなってしまうことを考えることには、恐怖があった。
諦めと恐怖が入り混ぜった中で、彼は呆然としていた。
ふと、夜空が輝いていることに気づいた。星が空を埋め尽くしていた。月は爛々と輝いていた。
高層ビルや、LEDの電灯に埋め尽くされた普段の暮らしでは見ることの出来ない光景だった。
かつて、今は亡き両親と共に行った山奥のキャンプ場で、以前にも彼はその美しい光景を見たような気がした。
走馬灯にも似たノスタルジーが、彼の心を通り過ぎていった。
空には星と月だけが輝き、聞こえる音は風に揺られる木々のざわめきだけだった。それは美しい夜だった。
それは、傍に座る少女もそうだった。こちらを見て、自分を安心させるように微笑む少女。
きっと、彼女はこの瞬間だけでも自らの死を悲しんでくれるだろうと思った。
その夜に、彼を怯えさせるものは何もなかった。ただ、純粋な美しさだけがあった。
彼の心から恐怖は消えていた。ただ、ぼんやりと暖かな平穏だけを感じていた。
途中の雰囲気の変化が凄く良かったと思います。