低く空を覆っていた、暗い色彩が晴れていく。
雲の切れ目からの光の筋とともに太陽が姿を見せる。
私はこの空が、雨上がりが、キライだ。
「やー綺麗に上がったなぁ。」
声と同時に人里少し離れた博麗神社の古びた木製の扉が横にずれ、霧雨魔理沙が顔を出す。
「洗濯物が干せればいいのだけど。」
奥からの足音の距離が近くなり、博麗霊夢が姿を現す。
そんな神社の日常を、私は惚けたように静かに見つめていた。
「よっ」
まだ水気を吸いきっていない地面に足がぶつかり、軽くしぶきが起こる。
「しかし雨上がりって気持ちいいよなぁ~」「そうね」
魔理沙に続き霊夢も神社から抜け出した。
「今までのもやもやが、綺麗さっぱり無くなったって感じで。」
ずきん、と心が痛む。最近こういうことばかり考えてしまっている。
「だな」「アンタも手伝いなさいよ?」
「へいへい分かったよ」
跳ねるようなテンポの良い足音と、ゆったりとした落ち着きある速さの足音が神社の裏に向かう。
「ていうかなんで私だけなんだ?早苗も居るじゃないか」
「分社の掃除と整備にわざわざ来てくれたのに、これ以上仕事を押し付けるのは酷ってものよ」
「それもそうだな…どっちにしても結局霊夢の仕事の怠慢の肩代わりってわけか。」
足音が離れていき、声も届きにくくなる。「手伝いってそういうものでしょ。」
「しっかしさっきまでの雨が嘘みたいないい天気だな…」
物干しざおがどこかにぶつかる音がした。
「こんな空が境界の外までずっと広がってる
んだな。」
また不意にせつなくなる。思い出そうとするのが辛くて、思い出すと苦しくて。
玄関に置いていた傘を取り、少し足早に自分も神社の裏手へ向かうことにする。
「すみません…霊夢さん、魔理沙さん」「どうしたの?」
「用事を思い出したので、帰ります。」
「そっか。せっかく晴れてきて残念なところだけど仕方ないな。また来るんだぜ!」
「ここ私の家なんだけど」「そうだったな」
軽く会釈をしてから、滑らぬように石段に足をかけ降りていく。
「なんか変じゃなかったあの子?」
「確かにそうだな、さっきみたいなつまらない茶番でもいつもならおかしそうにくすくす笑うんだが」
雲は次第に遠ざかっていく。
代わりに、鳥たちの喜びの鳴き声が数を増していく。欠伸が出そうな、まだ夏の暑さも遠い梅雨
に入りたての、いつものようにのどかな幻想郷の風景。
「まぁ、早苗がおかしいのはいつものことか。」「それもそうね。」
人里も遠い妖怪の山への鬱蒼と草木が生い茂っ
た道を駆ける。
「ハァ… ハァ…」
息が切れる。それくらい勢いよく走っていた。今の私を、誰にも見られたくない。
だから、人気もない道を、ただ走って、走って、走った。
「驚け!」木の陰からさっと飛び出してきた紫色の巨大な影を避けきれず、勢いそのままに激突する。
「ってきゃああ!?」
幸いそれは思いのほか柔らかく、双方とも大きな損害なさそうに地面に倒れこむ。
「もうっ!そんなに速く来られたら驚くじゃないですかぁ~ まぁおかげでお腹はふくれましたけど。」
立ち上がって茄子色の奇妙な傘をさしたまま、小傘が口を開く。自分も飛び出してきたくせに、勝手に頬を膨らませている。
「貴方には言われたくないですね・・・」
「あっ。よく見たら早苗さんじゃあないですか~こんな所でどしたんですかぁ?」
「これから神社のほうに帰るつもりなんです。では、これで。」
足早にその場を立ち去る。
「おかしな早苗さん・・・」
向きを変え自分もその場を離れようとしたとき、何かが足に軽くぶつかった。「これは…?」
もう随分動いた。暗い茂みを抜け、開けた場所に出る。
人間の里やそこから離れた深い青を湛えた美しい湖までよく見渡せる。
それよりもっと先の山の向こう側まで見渡してみたかったけど、それは無理だ。
その景観をぼうっと見渡していると早苗、さなえと呼ぶ声がしたような気がした。
私は、ここにいる。ここで生きている。返事をしても、帰ってくるのはこだまだけだった。
またか。最近こんなことばかりあるような気がする。
幻想郷に移ってきてもうかなり時間が経った。それに伴って向こうにいた時の記憶もなくなっていく。それは自然なことだろう。
だが、それは、私と外の世界をつなぎとめる思い出は、もう私の中からいつの間にかその姿を殆ど残らず消していた。
それは二つの世界を隔てる境界のせいだろうか。
思い出そうとするのが難しくて辛くて、断片的な記憶が 息継ぎをする魚のように浮かび上がってもまた姿を消していくのが悲しくて。
そんな中でも、私の中の外の世界の記憶で鮮明に残っているのは、私が幻想郷に渡ってくるときにこんな雨上がりの後の見事な晴れが広がっていることだった。
その日が来て、最後に云われたことも覚えている。
こっちのことは心配するな、向こうでもしっかり役目を果たしてこい と云った人があった。
貴方ならきっと大丈夫。いつでも見守っているからね と云った人があった。
あら早苗ちゃん。雨でこんなおばちゃんくらいしか来ていないのに朝からお勤め大変だねぇ。頑張ってね と云った人があった。
早苗ちゃんおはよう!今週末お母さんにスキーに行こうって言われたんだけど、早苗ちゃんも一緒にどう? と云った人があった。
そんな顔してどうしたの?悩み事でもあるの?私も一緒に居るから一人じゃないよ。 と云った人があった。
それなのに、あの人たちの姿も声も もう私の中から消えかかっていて。
どうあっても形にすることができないソレが、私の上に重く覆いかぶさっていた。
「まだ早苗は若い、それなのに家族や友人をすべて失ってしまうのはあまりにも酷だろう!人と支え合うのが神の本分であれば、早苗の助力なしにそれが為せないのなら、我々はその支えを失くした神として任に幕を降ろすべきなんだ!」
こう諏訪子様は仰った。
「お前の言うことは正しい。選ぶのは早苗、人と神は支えあうもの、だからこそだ。」
神奈子様は苦しそうに言いよどんでいらっしゃった。
「早苗は、もう弱りきって消えかけの私たちを、私たちを受け入れ再び人との繋がりを保ってくれる幻想郷を、愛してしまったんだよ…」
今その選択の結果を、今突き付けられているのだと私は確信した。
私はただお二人を守りたかった。
向こうのみんなならきっと大丈夫だ。たとえみんなが忘れてしまっても私はずっと憶えている。違う世界でも、みんなと繋がっている。
そう思っていた。
先ほどの魔理沙さんの言葉が浮かんでくる。
「こんな空が境界の外までずっと広がってるんだな。」
本当にそうなのだろうか。目の前には、私が外の世界を飛び出した日そのままのような雨上がりの空が広がっていて。
だけどその先を私はどうやっても見ることができなかった。
早苗さん、さなえさん また、声が聞こえる。この声もまたむなしく消えてしまうのだろうか。
早苗さーーん!さなえさーーん!声は消えず、その強さを増していくようだ。 はっとその方向を向く。
「早苗さーーん!さなえさーーん!」むぎゅっ。またしても視界が紫色の物体に覆われたと思ったら、体が軽く浮かんだ。そのまま地面と激突する。
「やっと追いついたぁ~ こんなところに居たんですね。ずうっと足跡を辿ってここまで来たんですよ。えっへへ~ 驚きました?」
「いつもいつも貴方は…」咎めようとも思ったが、地面に自分と同じように転がった、目の前の天真爛漫で陰りのない澄んだ青空みたいな笑顔を見て、すっかり毒気が抜けてしまった。
「…何しに来たんですか。」
「おっとそうだった。これを渡しに来たんです
よ。」
そういうと手に持っている趣味の悪い茄子色の傘の中で何やらごそごそし始めた。
「じゃじゃーーん!おっちょこちょいな早苗さんのために、小傘が落とし物を届けに来ましたようっ!」
それは雨が降っているときに博麗神社に寄るために守矢神社から持ってきたビニール傘だった。かなり前から使っているので所々傷んでいる。
恐らく今日最初にぶつかったときに落としてしまったのだろう。
「そうだったんですね…わざわざありがとうございます。」
「やだなぁ~ 付喪神として当然のことをしただけですよう~」
少しだけ邪険にしてしまったことが恥ずかしくなった。
「こんな傘も有ったんですね~ 透明でさしてても前が見やすそうで、何だかあったかくていいですね!」
そう言いながら彼女はもう馴れたような態度で私の横に腰を下ろし、同じ景色を眺めだした。
「わぁ~ 綺麗ですね!こんなところがあったなんて!」「…そうですね。」
小傘は笑顔を深刻そうな表情に変えおもむろに口を開いた。
「…それともう一つ。実は貴方のことが心配でもあったんです。今日の早苗さん、何だか追い詰められているようで、余裕がなかったですよね。」
「...そうですか。」
「それは見た感じからのただの勘だったんですけどね、もう一つ確信できることがありました。」
そう言って手に持った私のビニール傘をおもむろに開きだす。
「この傘、だいぶ昔から大事に使われてきているみたいですね。だからあなたの想いが詰まっていて、それに影響を受けやすい。一応私 傘の付喪神なのでそういうのとか分かってしまうんですけどね、...早苗さん、なんだか何かに責任を感じているみたいでとても辛そうでした。そうこの子が教えてくれたんですよ。」
「・・・・」
自分のことを見透かされたようであることと、いつも気楽そうな小傘にもこんな一面があったことを思い知らされて、とても驚いていた。
「だからと言って私にできることもないんですけどね… 余計なお世話でごめんなさい。」
「いえ…」
話すべきかどうか、迷った。しかし小傘の言葉を聞いて、ほんの少しとはいえ私の事情を察してくれ、そのうえ私の苦しみに肩入れしすぎることもなくただ聞いて受け入れてくれそうな彼女の態度を見て取り、気持ちは固まった。
「少し、私の昔の話をしてもいいですか…?」
今まで閉ざしていた心の壁の内側から想いをすべてすくい上げ溢れさせるように、言葉を続けて
いった。
口がつまることもあった。視界が霞んでくることもあった。
そんなすべてを小傘はただまっすぐに受け止め、ときにはそんな私の背中をさすったりして、再び言葉が続くまで黙って待っていてくれた。
「こちらに来る前に、そんなことが有ったんですね…」
「ええ、今でも頭の中に残っているんです。それらを忘れかけているという気づきが。その悲しみが。こういうとおかしいですよね?」
いいえ、と小傘はかぶりを振る。
「大切な人と離れてしまう時の苦しみや辛さ、昔道具だった私にもありますから。」
「それで特にこんな雨上がりの時とかには不安になるんです。いつか私と記憶を結び付けているこの苦しみさえなくなってしまうんじゃないかと。」
「早苗さんにとってそれは、いいことではないんですよね?」
ええ、と頷く。
「忘れて解放されるなんて、その道を自分自身で選んでたくさんの人たちを傷つけた私に許されることではありません。そんなものは私が外の世界を発った時と同じこの雨上がりの空みたいに、黒雲が通り過ぎ去ったあとのにわかの喜びでしかありません。」
「それは…」
小傘も私も、伏し目がちにしたまましばらくの間黙っていた。水たまりに落ちる雫のかすかな音が、やけに響いた。
「...思い出したいんですね、外の記憶?」
幾ばくかの沈黙の後、小傘が明るい笑顔とともに急にこう切り出した。
「ええ、でも私にはもう何も…」
「それなら、どうぞこっちに。この貴方の傘の中に。」
一瞬何を言い出したのかわからなかった。
「えぇと…」「いいからどうぞ!私にもできることがありました!」「きゃっ」
肩を抱き寄せられ、相合傘のような形になる。体が密着していて、かなり恥ずかしい。
「…こ、こんなことをして何に…」
「さっきも言ったじゃないですか、この傘はあなたに昔から大事に使われてて、その気持ちが、思い出がぎゅっと詰まっているんです。その一部をお見せすることができるかもしれませんよ?」
「…本当に?」
「本当です。早苗さん、よろしければ頭を私に預けてください!」
いわれるがままに頭を向けた。すると小傘は私の後頭部に手をまわした。鼓動の速度が跳ね上がる。
「早苗さん、心の用意はできましたか?」
「ひゃ、はい…」
「では、始めますね。」
そう言いながら小傘は顔をぐんと近づけて、私たちは傘の中で額と額をそっとくっつけた。
それから起こったことはとても一口には言い表せない。何しろ今まで失っていた思い出が、私の中に一斉に流れ込んできたのだ。
走馬灯を見るとすれば、こんな感じなのだろう。
その光景を眺めながら、ぼうっと頭の片隅でそう思った。
小さいころ両親と(こっそりと神奈子様と諏訪子様も)東京に旅行に行ったこと。
あまりの人の多さに帰るときに両親とはぐれ、泣きながらなれない都会の電車について言い争いをしている神奈子様と諏訪子様と一緒になんとか帰ってこれたこと。
両親に泣きながら本当に嬉しそうな顔できつく抱きしめられたこと。帰りでもしていたように、喧嘩の多かったお二人がその日は仲がよさそうにしていたこと。
神職の娘で敬遠されていた私に、ようやく友達ができたこと。神奈子様と諏訪子様が自分のことのように喜んでいらっしゃったこと。
気づけば友達も増え、次第に遊びに行くことも増えてきたこと。
両親が慣れないながらも、友達も招待して私のために頑張って誕生日パーティーを開いてくれたこと。お二人が少し寂しそうだけれど、本当に嬉しそうにそれを見守ってくださっていたこと。
友達だけで旅行に行けるくらいになり、県内のスキー場に遊びに行ったこと。心配でついてきたお二人が逆に遭難して迷い、友達の目を忍んで探
しに行ったこと。
…お二人の姿が私にも見えづらくなっているのに気が付いた時のこと。なんとかして助けたいと、いろいろな所を回ったこと。お二人が心配しなくても大丈夫と言ってくださったときのこと。その顔がどこか悲し気だったこと。
両親にそのことを相談したときのこと。私たちはどちらにせよここで生きていることに変わりはないから気を使う必要はない、もうこんなに成長したんだ。どちらがいいかお前が決めなさい、と言われたときのこと。
神奈子様と諏訪子様が今まで見たこともないくらい激しく喧嘩をしていたときのこと。
そんなお二人に自分の精いっぱいの気持ちをぶつけたこと。最後に夜の神社から夜景を眺めた時のこと。両親に涙を流しながらきつく抱き合しめられたこと。
雨上がりの空の下、改めてお二人のために力を尽くそうと思った時のこと。
はっとして目覚めたとき、隣には小傘が居た。
ただ黙ったまま、長い時間がたった。
こんなにも美しい思い出を忘れてしまっていたのか。そしてそれらを今取り戻すことができた。外の世界と、その別れにはただ黒雲が広がっていたわけではなかった。
皆私のためにたくさんのことをしてくれていた。そして私の決断を最後は応援してくれた。そんな皆のために、私はよい選択をしようとして今ここにいる。
だからこそ、その選択が迷いも曇りもないものになるよう、これからよく考え、生きていこう。
そんな想いがいっぱいになり、私はこの苦しみに頸木をうつように、ただ泣いた。大粒の涙をこぼした。そんな私を小傘はただ抱きしめて、幼子をあやすかのように宥め、黙っていた。
その体越しに見える雨上がりの陽光が、私の涙に濡れた目に眩しく映った。
「…どうでした?」私の気持ちが一段落ついたのを見計らって小傘が声をかけてきた。
「…本当に、驚きでした。外の世界にはただ悲しみが広がっていて、それを忘れまいとやっきになっていました。だけどちゃんと光もあった事を、思い出しました。感謝の気持ちも言葉では言い表せません。」
いえいえ、こちらこそと小傘はあくまでもかぶりを振った。
「あの異変のときは私の傘に難癖つけてきて嫌な人だなって正直思ったんですが、そのあと早苗さんはよくしてくれましたし。それに貴方の傘がすごく大事に使われてきていて、そこに詰まっている思いも私には一部しか分からなかったんですけど、本当に暖かかったんです。こんなに大事に使ってくれる人間も居たんだなって改めて思わされましたよ。私たちどっちの心も、雨上がりみたいですね。」
本当にそうですね、とふたりでくすくす笑いあう。
すると早苗ー、さなえーと呼ぶ別の声が聞こえてきた。
「あっ神奈子様と諏訪子様のようです!おーーい!ここですよう!」
返事を返す。今度は、お二人の聞きなれた声が返ってきた。
足音が近づいて近くの茂みが内側から勢いよくめくられ、神奈子様と諏訪子様が顔をのぞかせた。
「ここに居たのか!心配したんだぞ!」
「申し訳ございません…」
「誰かと話していたみたいだったけど、誰だったの?」
「あっそれはですねぇ~ こがさ… あれ?」
さっきまですぐ隣に温もりを感じていたのに、誰も居ない。
「古賀さんが何だって?狸にでも化かされたんじゃないのかい?」「ちょ!ホントですぅ!」「あはは!それあり得る!」「諏訪子様まで…」「馬鹿言ってんじゃないよ、とにかくもう家に帰るよ。」
「馬鹿じゃ…」
その時、地面に置かれたビニール傘が目に入る。手に取ると、先ほどまで誰かが持ち手を持っていたようにほんのりと暖かい。
「小傘…」
今は彼女の姿は見えないけれど。
「ありがとう、またね…」そう何処へとなく呟いて、立ち上がった。
「誰と話してたんだろうね?」神奈子が首をかしげる。
「さあ、誰だっていいじゃあないか。早苗、ここ最近目に見えて元気がなかったからどうしようと思ったけど、急に元気になっちゃった。よかったじゃん。」
諏訪子はあくまで明るい調子で返す。「それはそうだけど何だか抜け駆けされたようで悔しいねぇ。」
「あはは。神奈子は嫉妬深いおばさんだねぇ。」「あ゛?」
「お二人とも、待ってくださーーい!」後ろから元気よく声とぬかるみを踏みしめる音が追い付いてきた。
「ほら来た。」「諏訪子よ、我、いい考え有り。耳かせ。」「なんだい?」
瞬間、諏訪子の体がぬかるんだ地面に勢いよく倒れこむ。「一番最後に本殿についた間抜けが今日の飯当番だ!いいだろう?」
間髪入れずに神奈子が駆けだす。「あっチクショウ ババァ汚ねぇ~!」
「諏訪子様~!」
早苗が追い付き、その後ろで急停止する。
「随分と泥だらけで…大丈夫ですか…?」「ああ、ぬかるみに足を取られたみたいで。大丈夫さ。」
「そうですか。それは難儀でし」その次の瞬間、早苗の体が空中をおどった。泥と水が勢いよく撥ねる。
「ふぇ?」状況がわからない早苗は、ただ諏訪子のしたり顔を泥だらけの顔で呆けたように見つ
めている。
「しゃああ!今日の飯当番一名けってぇぇ~~い!ってことで!」
その小さい体からは考えられないようなスピードで駆けだしていく。
「~~~~~~~!」
あまりのことにしばらく動きをとめていた早苗だったが、すぐに体を持ち上げ先行している二人に猛烈な勢いで迫っていった。
「絶対、絶対許さないんですからぁぁ~~~!」
同じころ、妖怪の山にほど近い丘に小傘がその騒がしくも微笑ましい光景を眺めていた。
その姿はまるで大きな紫色の紫陽花が一輪だけ抜け出し、佇んでいるようだった。
(早苗…忘れてしまって楽になってしまうのなら、そんな自分は雨上がりの後のにわかの晴れみたいに浅はかだって言ってたっけ。)
ここからでも山を巻き込んだ三柱の神の熾烈なデッドヒートが見て取れた。
(でも私にはなるべく周りに辛い気持ちを隠そうとするけど、上手に隠せないものだからか、そのことがかえって周りを傷つけてしまう、なんだか天気雨みたいに見えたな。)
もう陽光は傾き始め、既に橙色の色彩を帯びつつあった。
(でも最後は大雨みたいに自分の気持ちを出し惜しみなくぶつけることができて、ようやく晴れ間がさしたんだね…)
太陽が空に顔を出したら、傘の役目は終了。邪魔なだけの長物だ。 だが彼女が私を必要としてくれるのなら、また彼女の晴れ間がかげるようなことがあれば、その時は。どれだけできることが自分にあるかは分からないが、それでも。
彼女の手を取り、私が哀しみの雨から守ってあげよう。傘の付喪神として、そして1人の友人として、そう私は心に誓ったのだった。
雲の切れ目からの光の筋とともに太陽が姿を見せる。
私はこの空が、雨上がりが、キライだ。
「やー綺麗に上がったなぁ。」
声と同時に人里少し離れた博麗神社の古びた木製の扉が横にずれ、霧雨魔理沙が顔を出す。
「洗濯物が干せればいいのだけど。」
奥からの足音の距離が近くなり、博麗霊夢が姿を現す。
そんな神社の日常を、私は惚けたように静かに見つめていた。
「よっ」
まだ水気を吸いきっていない地面に足がぶつかり、軽くしぶきが起こる。
「しかし雨上がりって気持ちいいよなぁ~」「そうね」
魔理沙に続き霊夢も神社から抜け出した。
「今までのもやもやが、綺麗さっぱり無くなったって感じで。」
ずきん、と心が痛む。最近こういうことばかり考えてしまっている。
「だな」「アンタも手伝いなさいよ?」
「へいへい分かったよ」
跳ねるようなテンポの良い足音と、ゆったりとした落ち着きある速さの足音が神社の裏に向かう。
「ていうかなんで私だけなんだ?早苗も居るじゃないか」
「分社の掃除と整備にわざわざ来てくれたのに、これ以上仕事を押し付けるのは酷ってものよ」
「それもそうだな…どっちにしても結局霊夢の仕事の怠慢の肩代わりってわけか。」
足音が離れていき、声も届きにくくなる。「手伝いってそういうものでしょ。」
「しっかしさっきまでの雨が嘘みたいないい天気だな…」
物干しざおがどこかにぶつかる音がした。
「こんな空が境界の外までずっと広がってる
んだな。」
また不意にせつなくなる。思い出そうとするのが辛くて、思い出すと苦しくて。
玄関に置いていた傘を取り、少し足早に自分も神社の裏手へ向かうことにする。
「すみません…霊夢さん、魔理沙さん」「どうしたの?」
「用事を思い出したので、帰ります。」
「そっか。せっかく晴れてきて残念なところだけど仕方ないな。また来るんだぜ!」
「ここ私の家なんだけど」「そうだったな」
軽く会釈をしてから、滑らぬように石段に足をかけ降りていく。
「なんか変じゃなかったあの子?」
「確かにそうだな、さっきみたいなつまらない茶番でもいつもならおかしそうにくすくす笑うんだが」
雲は次第に遠ざかっていく。
代わりに、鳥たちの喜びの鳴き声が数を増していく。欠伸が出そうな、まだ夏の暑さも遠い梅雨
に入りたての、いつものようにのどかな幻想郷の風景。
「まぁ、早苗がおかしいのはいつものことか。」「それもそうね。」
人里も遠い妖怪の山への鬱蒼と草木が生い茂っ
た道を駆ける。
「ハァ… ハァ…」
息が切れる。それくらい勢いよく走っていた。今の私を、誰にも見られたくない。
だから、人気もない道を、ただ走って、走って、走った。
「驚け!」木の陰からさっと飛び出してきた紫色の巨大な影を避けきれず、勢いそのままに激突する。
「ってきゃああ!?」
幸いそれは思いのほか柔らかく、双方とも大きな損害なさそうに地面に倒れこむ。
「もうっ!そんなに速く来られたら驚くじゃないですかぁ~ まぁおかげでお腹はふくれましたけど。」
立ち上がって茄子色の奇妙な傘をさしたまま、小傘が口を開く。自分も飛び出してきたくせに、勝手に頬を膨らませている。
「貴方には言われたくないですね・・・」
「あっ。よく見たら早苗さんじゃあないですか~こんな所でどしたんですかぁ?」
「これから神社のほうに帰るつもりなんです。では、これで。」
足早にその場を立ち去る。
「おかしな早苗さん・・・」
向きを変え自分もその場を離れようとしたとき、何かが足に軽くぶつかった。「これは…?」
もう随分動いた。暗い茂みを抜け、開けた場所に出る。
人間の里やそこから離れた深い青を湛えた美しい湖までよく見渡せる。
それよりもっと先の山の向こう側まで見渡してみたかったけど、それは無理だ。
その景観をぼうっと見渡していると早苗、さなえと呼ぶ声がしたような気がした。
私は、ここにいる。ここで生きている。返事をしても、帰ってくるのはこだまだけだった。
またか。最近こんなことばかりあるような気がする。
幻想郷に移ってきてもうかなり時間が経った。それに伴って向こうにいた時の記憶もなくなっていく。それは自然なことだろう。
だが、それは、私と外の世界をつなぎとめる思い出は、もう私の中からいつの間にかその姿を殆ど残らず消していた。
それは二つの世界を隔てる境界のせいだろうか。
思い出そうとするのが難しくて辛くて、断片的な記憶が 息継ぎをする魚のように浮かび上がってもまた姿を消していくのが悲しくて。
そんな中でも、私の中の外の世界の記憶で鮮明に残っているのは、私が幻想郷に渡ってくるときにこんな雨上がりの後の見事な晴れが広がっていることだった。
その日が来て、最後に云われたことも覚えている。
こっちのことは心配するな、向こうでもしっかり役目を果たしてこい と云った人があった。
貴方ならきっと大丈夫。いつでも見守っているからね と云った人があった。
あら早苗ちゃん。雨でこんなおばちゃんくらいしか来ていないのに朝からお勤め大変だねぇ。頑張ってね と云った人があった。
早苗ちゃんおはよう!今週末お母さんにスキーに行こうって言われたんだけど、早苗ちゃんも一緒にどう? と云った人があった。
そんな顔してどうしたの?悩み事でもあるの?私も一緒に居るから一人じゃないよ。 と云った人があった。
それなのに、あの人たちの姿も声も もう私の中から消えかかっていて。
どうあっても形にすることができないソレが、私の上に重く覆いかぶさっていた。
「まだ早苗は若い、それなのに家族や友人をすべて失ってしまうのはあまりにも酷だろう!人と支え合うのが神の本分であれば、早苗の助力なしにそれが為せないのなら、我々はその支えを失くした神として任に幕を降ろすべきなんだ!」
こう諏訪子様は仰った。
「お前の言うことは正しい。選ぶのは早苗、人と神は支えあうもの、だからこそだ。」
神奈子様は苦しそうに言いよどんでいらっしゃった。
「早苗は、もう弱りきって消えかけの私たちを、私たちを受け入れ再び人との繋がりを保ってくれる幻想郷を、愛してしまったんだよ…」
今その選択の結果を、今突き付けられているのだと私は確信した。
私はただお二人を守りたかった。
向こうのみんなならきっと大丈夫だ。たとえみんなが忘れてしまっても私はずっと憶えている。違う世界でも、みんなと繋がっている。
そう思っていた。
先ほどの魔理沙さんの言葉が浮かんでくる。
「こんな空が境界の外までずっと広がってるんだな。」
本当にそうなのだろうか。目の前には、私が外の世界を飛び出した日そのままのような雨上がりの空が広がっていて。
だけどその先を私はどうやっても見ることができなかった。
早苗さん、さなえさん また、声が聞こえる。この声もまたむなしく消えてしまうのだろうか。
早苗さーーん!さなえさーーん!声は消えず、その強さを増していくようだ。 はっとその方向を向く。
「早苗さーーん!さなえさーーん!」むぎゅっ。またしても視界が紫色の物体に覆われたと思ったら、体が軽く浮かんだ。そのまま地面と激突する。
「やっと追いついたぁ~ こんなところに居たんですね。ずうっと足跡を辿ってここまで来たんですよ。えっへへ~ 驚きました?」
「いつもいつも貴方は…」咎めようとも思ったが、地面に自分と同じように転がった、目の前の天真爛漫で陰りのない澄んだ青空みたいな笑顔を見て、すっかり毒気が抜けてしまった。
「…何しに来たんですか。」
「おっとそうだった。これを渡しに来たんです
よ。」
そういうと手に持っている趣味の悪い茄子色の傘の中で何やらごそごそし始めた。
「じゃじゃーーん!おっちょこちょいな早苗さんのために、小傘が落とし物を届けに来ましたようっ!」
それは雨が降っているときに博麗神社に寄るために守矢神社から持ってきたビニール傘だった。かなり前から使っているので所々傷んでいる。
恐らく今日最初にぶつかったときに落としてしまったのだろう。
「そうだったんですね…わざわざありがとうございます。」
「やだなぁ~ 付喪神として当然のことをしただけですよう~」
少しだけ邪険にしてしまったことが恥ずかしくなった。
「こんな傘も有ったんですね~ 透明でさしてても前が見やすそうで、何だかあったかくていいですね!」
そう言いながら彼女はもう馴れたような態度で私の横に腰を下ろし、同じ景色を眺めだした。
「わぁ~ 綺麗ですね!こんなところがあったなんて!」「…そうですね。」
小傘は笑顔を深刻そうな表情に変えおもむろに口を開いた。
「…それともう一つ。実は貴方のことが心配でもあったんです。今日の早苗さん、何だか追い詰められているようで、余裕がなかったですよね。」
「...そうですか。」
「それは見た感じからのただの勘だったんですけどね、もう一つ確信できることがありました。」
そう言って手に持った私のビニール傘をおもむろに開きだす。
「この傘、だいぶ昔から大事に使われてきているみたいですね。だからあなたの想いが詰まっていて、それに影響を受けやすい。一応私 傘の付喪神なのでそういうのとか分かってしまうんですけどね、...早苗さん、なんだか何かに責任を感じているみたいでとても辛そうでした。そうこの子が教えてくれたんですよ。」
「・・・・」
自分のことを見透かされたようであることと、いつも気楽そうな小傘にもこんな一面があったことを思い知らされて、とても驚いていた。
「だからと言って私にできることもないんですけどね… 余計なお世話でごめんなさい。」
「いえ…」
話すべきかどうか、迷った。しかし小傘の言葉を聞いて、ほんの少しとはいえ私の事情を察してくれ、そのうえ私の苦しみに肩入れしすぎることもなくただ聞いて受け入れてくれそうな彼女の態度を見て取り、気持ちは固まった。
「少し、私の昔の話をしてもいいですか…?」
今まで閉ざしていた心の壁の内側から想いをすべてすくい上げ溢れさせるように、言葉を続けて
いった。
口がつまることもあった。視界が霞んでくることもあった。
そんなすべてを小傘はただまっすぐに受け止め、ときにはそんな私の背中をさすったりして、再び言葉が続くまで黙って待っていてくれた。
「こちらに来る前に、そんなことが有ったんですね…」
「ええ、今でも頭の中に残っているんです。それらを忘れかけているという気づきが。その悲しみが。こういうとおかしいですよね?」
いいえ、と小傘はかぶりを振る。
「大切な人と離れてしまう時の苦しみや辛さ、昔道具だった私にもありますから。」
「それで特にこんな雨上がりの時とかには不安になるんです。いつか私と記憶を結び付けているこの苦しみさえなくなってしまうんじゃないかと。」
「早苗さんにとってそれは、いいことではないんですよね?」
ええ、と頷く。
「忘れて解放されるなんて、その道を自分自身で選んでたくさんの人たちを傷つけた私に許されることではありません。そんなものは私が外の世界を発った時と同じこの雨上がりの空みたいに、黒雲が通り過ぎ去ったあとのにわかの喜びでしかありません。」
「それは…」
小傘も私も、伏し目がちにしたまましばらくの間黙っていた。水たまりに落ちる雫のかすかな音が、やけに響いた。
「...思い出したいんですね、外の記憶?」
幾ばくかの沈黙の後、小傘が明るい笑顔とともに急にこう切り出した。
「ええ、でも私にはもう何も…」
「それなら、どうぞこっちに。この貴方の傘の中に。」
一瞬何を言い出したのかわからなかった。
「えぇと…」「いいからどうぞ!私にもできることがありました!」「きゃっ」
肩を抱き寄せられ、相合傘のような形になる。体が密着していて、かなり恥ずかしい。
「…こ、こんなことをして何に…」
「さっきも言ったじゃないですか、この傘はあなたに昔から大事に使われてて、その気持ちが、思い出がぎゅっと詰まっているんです。その一部をお見せすることができるかもしれませんよ?」
「…本当に?」
「本当です。早苗さん、よろしければ頭を私に預けてください!」
いわれるがままに頭を向けた。すると小傘は私の後頭部に手をまわした。鼓動の速度が跳ね上がる。
「早苗さん、心の用意はできましたか?」
「ひゃ、はい…」
「では、始めますね。」
そう言いながら小傘は顔をぐんと近づけて、私たちは傘の中で額と額をそっとくっつけた。
それから起こったことはとても一口には言い表せない。何しろ今まで失っていた思い出が、私の中に一斉に流れ込んできたのだ。
走馬灯を見るとすれば、こんな感じなのだろう。
その光景を眺めながら、ぼうっと頭の片隅でそう思った。
小さいころ両親と(こっそりと神奈子様と諏訪子様も)東京に旅行に行ったこと。
あまりの人の多さに帰るときに両親とはぐれ、泣きながらなれない都会の電車について言い争いをしている神奈子様と諏訪子様と一緒になんとか帰ってこれたこと。
両親に泣きながら本当に嬉しそうな顔できつく抱きしめられたこと。帰りでもしていたように、喧嘩の多かったお二人がその日は仲がよさそうにしていたこと。
神職の娘で敬遠されていた私に、ようやく友達ができたこと。神奈子様と諏訪子様が自分のことのように喜んでいらっしゃったこと。
気づけば友達も増え、次第に遊びに行くことも増えてきたこと。
両親が慣れないながらも、友達も招待して私のために頑張って誕生日パーティーを開いてくれたこと。お二人が少し寂しそうだけれど、本当に嬉しそうにそれを見守ってくださっていたこと。
友達だけで旅行に行けるくらいになり、県内のスキー場に遊びに行ったこと。心配でついてきたお二人が逆に遭難して迷い、友達の目を忍んで探
しに行ったこと。
…お二人の姿が私にも見えづらくなっているのに気が付いた時のこと。なんとかして助けたいと、いろいろな所を回ったこと。お二人が心配しなくても大丈夫と言ってくださったときのこと。その顔がどこか悲し気だったこと。
両親にそのことを相談したときのこと。私たちはどちらにせよここで生きていることに変わりはないから気を使う必要はない、もうこんなに成長したんだ。どちらがいいかお前が決めなさい、と言われたときのこと。
神奈子様と諏訪子様が今まで見たこともないくらい激しく喧嘩をしていたときのこと。
そんなお二人に自分の精いっぱいの気持ちをぶつけたこと。最後に夜の神社から夜景を眺めた時のこと。両親に涙を流しながらきつく抱き合しめられたこと。
雨上がりの空の下、改めてお二人のために力を尽くそうと思った時のこと。
はっとして目覚めたとき、隣には小傘が居た。
ただ黙ったまま、長い時間がたった。
こんなにも美しい思い出を忘れてしまっていたのか。そしてそれらを今取り戻すことができた。外の世界と、その別れにはただ黒雲が広がっていたわけではなかった。
皆私のためにたくさんのことをしてくれていた。そして私の決断を最後は応援してくれた。そんな皆のために、私はよい選択をしようとして今ここにいる。
だからこそ、その選択が迷いも曇りもないものになるよう、これからよく考え、生きていこう。
そんな想いがいっぱいになり、私はこの苦しみに頸木をうつように、ただ泣いた。大粒の涙をこぼした。そんな私を小傘はただ抱きしめて、幼子をあやすかのように宥め、黙っていた。
その体越しに見える雨上がりの陽光が、私の涙に濡れた目に眩しく映った。
「…どうでした?」私の気持ちが一段落ついたのを見計らって小傘が声をかけてきた。
「…本当に、驚きでした。外の世界にはただ悲しみが広がっていて、それを忘れまいとやっきになっていました。だけどちゃんと光もあった事を、思い出しました。感謝の気持ちも言葉では言い表せません。」
いえいえ、こちらこそと小傘はあくまでもかぶりを振った。
「あの異変のときは私の傘に難癖つけてきて嫌な人だなって正直思ったんですが、そのあと早苗さんはよくしてくれましたし。それに貴方の傘がすごく大事に使われてきていて、そこに詰まっている思いも私には一部しか分からなかったんですけど、本当に暖かかったんです。こんなに大事に使ってくれる人間も居たんだなって改めて思わされましたよ。私たちどっちの心も、雨上がりみたいですね。」
本当にそうですね、とふたりでくすくす笑いあう。
すると早苗ー、さなえーと呼ぶ別の声が聞こえてきた。
「あっ神奈子様と諏訪子様のようです!おーーい!ここですよう!」
返事を返す。今度は、お二人の聞きなれた声が返ってきた。
足音が近づいて近くの茂みが内側から勢いよくめくられ、神奈子様と諏訪子様が顔をのぞかせた。
「ここに居たのか!心配したんだぞ!」
「申し訳ございません…」
「誰かと話していたみたいだったけど、誰だったの?」
「あっそれはですねぇ~ こがさ… あれ?」
さっきまですぐ隣に温もりを感じていたのに、誰も居ない。
「古賀さんが何だって?狸にでも化かされたんじゃないのかい?」「ちょ!ホントですぅ!」「あはは!それあり得る!」「諏訪子様まで…」「馬鹿言ってんじゃないよ、とにかくもう家に帰るよ。」
「馬鹿じゃ…」
その時、地面に置かれたビニール傘が目に入る。手に取ると、先ほどまで誰かが持ち手を持っていたようにほんのりと暖かい。
「小傘…」
今は彼女の姿は見えないけれど。
「ありがとう、またね…」そう何処へとなく呟いて、立ち上がった。
「誰と話してたんだろうね?」神奈子が首をかしげる。
「さあ、誰だっていいじゃあないか。早苗、ここ最近目に見えて元気がなかったからどうしようと思ったけど、急に元気になっちゃった。よかったじゃん。」
諏訪子はあくまで明るい調子で返す。「それはそうだけど何だか抜け駆けされたようで悔しいねぇ。」
「あはは。神奈子は嫉妬深いおばさんだねぇ。」「あ゛?」
「お二人とも、待ってくださーーい!」後ろから元気よく声とぬかるみを踏みしめる音が追い付いてきた。
「ほら来た。」「諏訪子よ、我、いい考え有り。耳かせ。」「なんだい?」
瞬間、諏訪子の体がぬかるんだ地面に勢いよく倒れこむ。「一番最後に本殿についた間抜けが今日の飯当番だ!いいだろう?」
間髪入れずに神奈子が駆けだす。「あっチクショウ ババァ汚ねぇ~!」
「諏訪子様~!」
早苗が追い付き、その後ろで急停止する。
「随分と泥だらけで…大丈夫ですか…?」「ああ、ぬかるみに足を取られたみたいで。大丈夫さ。」
「そうですか。それは難儀でし」その次の瞬間、早苗の体が空中をおどった。泥と水が勢いよく撥ねる。
「ふぇ?」状況がわからない早苗は、ただ諏訪子のしたり顔を泥だらけの顔で呆けたように見つ
めている。
「しゃああ!今日の飯当番一名けってぇぇ~~い!ってことで!」
その小さい体からは考えられないようなスピードで駆けだしていく。
「~~~~~~~!」
あまりのことにしばらく動きをとめていた早苗だったが、すぐに体を持ち上げ先行している二人に猛烈な勢いで迫っていった。
「絶対、絶対許さないんですからぁぁ~~~!」
同じころ、妖怪の山にほど近い丘に小傘がその騒がしくも微笑ましい光景を眺めていた。
その姿はまるで大きな紫色の紫陽花が一輪だけ抜け出し、佇んでいるようだった。
(早苗…忘れてしまって楽になってしまうのなら、そんな自分は雨上がりの後のにわかの晴れみたいに浅はかだって言ってたっけ。)
ここからでも山を巻き込んだ三柱の神の熾烈なデッドヒートが見て取れた。
(でも私にはなるべく周りに辛い気持ちを隠そうとするけど、上手に隠せないものだからか、そのことがかえって周りを傷つけてしまう、なんだか天気雨みたいに見えたな。)
もう陽光は傾き始め、既に橙色の色彩を帯びつつあった。
(でも最後は大雨みたいに自分の気持ちを出し惜しみなくぶつけることができて、ようやく晴れ間がさしたんだね…)
太陽が空に顔を出したら、傘の役目は終了。邪魔なだけの長物だ。 だが彼女が私を必要としてくれるのなら、また彼女の晴れ間がかげるようなことがあれば、その時は。どれだけできることが自分にあるかは分からないが、それでも。
彼女の手を取り、私が哀しみの雨から守ってあげよう。傘の付喪神として、そして1人の友人として、そう私は心に誓ったのだった。
しかし、早苗さんと小傘の距離感とわすれた思い出を思い出すシーンがとても良かったです。
晴れてもいつでも必要でいられるものでありますように。
とても面白かったです!
のどかで
これは洗脳されました
時代はこがさなです