一八六五年
ルーマニア公国 ブカレスト
かつてワラキアと呼ばれた土地の、吸血鬼さえも眠る夜。街外れの森の中、赤いレンガの屋敷にて。
……大きな物音がして、私は目を覚ました。
隣の部屋からだ。ベッドを抜け出し、着の身着のまま部屋を飛び出す。廊下を走り、扉の前で叫んだ。
「お姉ちゃん⁈」
返事はない。だが代わりに、彼女の荒い息遣いが聞こえてくる。
「どうしたの? だいじょうぶ⁈」
ドアノブを回した。だが扉は開かなかった。当然だ。鍵がかかっている。これは用心深い彼女の日常的な習慣である。けれど今は非常事態。彼女の身に、何か良くないことが起きていては大変だ。頭に染み渡る眠気を振り払い、私は指先に意識を集中させた。
魔法の手繰り糸。本来人形を操るためのものだが、その用途は人形に限定されない。糸をドアの隙間から部屋の中へ忍ばせ、反対側のドアノブに伸ばす。金属製の冷たい感覚が指先にも伝わってきた。その表面を撫でていき、平たい突起物を見つける。これだ。
かちゃり。
鍵が開き、私は部屋に飛び込んだ。
「パチュリーお姉ちゃん!」
まずに目に飛び込んできたのは、強烈な青白い光。真夜中に見るには眩しすぎて、初めは何も見えなかった。だが暫くして、その光がパチュリーの投影した魔法陣から来るものだと理解した。術式には水と風のシンボル。氷系の呪文だと分かる。敵の動きを止め、捕獲することに特化した魔法だ。
一方、部屋の反対側、ベッドの上にはパチュリーの横顔が見える。彼女は上体を起こし、正面に右手をかざしたまま、肩を大きく上下させていた。咳が交じり、呼吸がひどく乱れている。寝ている間に不意を突かれ、喘息の発作が出ているのかもしれない。どうしていいかも分からぬまま、私は彼女に駆け寄ろうとした。
しかし、彼女はすぐさま私を制止した。彼女の左の掌が、まっすぐこちらに向けられていた。それは「私は大丈夫だ」という意思表明ではなく、「そこを動くな」という警告のように思えた。私は大人しく足を止めた。
再び魔法陣の方に目を向ける。床に描かれた陣の中心、その真上には、私の背丈よりも大きな氷の塊が浮いていた。中に閉じ込められているのは何だろう。私は目を凝らした。
それは一人の少年だった。人間なら一五か一六くらいに見える。鼻が高く、彫りの深い顔立ち。欧州南方系だろうか。片方だけ目を閉じていて、開いている方の目は青かった。
彼の動きは完全に止まっていて、再び動き出す気配は全くなかった。ひとまずの危機は脱したと見て良いのだろう。パチュリーが自力で息を整えるのを待って、私は「何があったの」と問いかけた。
「こいつ……あり得ない」
返ってきたのは回答ではなく感想だった。彼女は私を見ず、少年の方をきっと睨みつけていた。
「この館の外には属性の異なる二十四枚の結界を張ってある。それに私の部屋に入るまでに鍵のかかった扉が三つもあるのよ? その全てには私とあなたしか通れない結界が五枚張ってあった。この全四十二枚の障壁を……全て突破した? しかも一瞬で?」
彼女の腕に、過剰に力が入っているように見えた。
「……あり得ない。絶対にあり得ないわ。あってはならないことよ」
パチュリーは怒っている。私が彼女の世話になるようになってから八年が経つけれど、それくらいの間一緒に居れば、彼女の心の動きも分かるようになる。
「透過の魔法……とか?」
「館の周りには探知境界も引いてあるのよ? 半径100mまで20m毎に」
「まさか、引っかからなかったの?」
「そうみたいね」
「それって……」
浮いていた巨大な氷の塊が、ゆっくりと下降していく。底の部分が平らに成形され、そして床に静置された。右手を下ろした彼女の口から、深い溜息が漏れる。
「こいつは、〝移動〟という過程を一切経ず、ピンポイントでここに〝出現〟したの。この何もない空間に、しかも突然」
そうして、パチュリーは視線だけをこちらに向いた。
「それがあり得ない、って言っているのよ。アリス」
「で、あんた何者」
氷の塊から顔だけを出させ、パチュリーは少年を尋問していた。その異常な状況の割に、少年は驚きや緊張といったものは見せず、寧ろ呆けているように見えた。彼女の最初の質問に対し、彼は首を傾げるだけである。
「あーもしかしてルーマニア人じゃない?」
「お姉ちゃん、それルーマニア語で聞いても意味ないじゃん」
「……」
彼女のおつむが回っていないわけではない。彼女があまりにも多くの言語を習得しているために、言語の壁というものの存在を忘れてしまっているのである。
「クトォ、ティ」
「……」
「キ、ヴァイッ、テ」
「…………」
あんた誰、をこの国近辺の言語で手当たり次第に尋ねるつもりなのだろう。私も知っている範囲で手伝うことにした。
「さん、きむすん」
「………………」
「マァマァナー、アンタ?」
「……」
「き、せい?」
「…………」
「ヴェア、ビス、ドゥ」
「………………」
「きみぇすてしゅ?」
「……………………」
「あんたどんだけ遠くから来てるのよ……」
「……!」
最後のフランス語に少しだけ反応したようである。
「じゅ、ぱーる、ろんぐれ……」
英語でお願いします、と言ったのだど思う。
「成程ね。フーアーユー」
「パトリック・ラフカディオ・ハーン、十六歳です。ダラムに住んでます」
「何よその面接みたいなしゃべり方」
「いや、だってここは……」
「あんたは尋問されてんのよ? で、何が目的」
「目的、とは……?」
「何しに来たの、って聞いてんの。襲撃? 強盗? それとも……」
「いやだから……先生こそ何を言っているんですか、私は……」
「先生って何」
「まってお姉ちゃん」
パチュリーは相当腹を立てていた。自分の不可侵領域のど真ん中、館の懐に部外者の侵入を許したのだ。彼女の心……というより、魔法使いとしてのプライドが傷つけられて当然である。しかし同時に冷静さを失っている。二人の間で何か決定的な勘違いが起きているように私は思った。それがもし本当なら、この光景はちょっとしたコントである。
「ハーンさん。どうしてあなたは、彼女が〝先生〟だと思ったの?」
「だってここは病院ですよね、たくさんの器具や薬品、それに難しそうな本も……」
「あっ」
パチュリーが口元を抑えた。「ありがとう、アリス」と私に囁き、彼女は少年に向き直った。
「つまりあんたは私に敵意は無いと」
「とんでもありません。処置をありがとうございます」
彼は自分の体が動かないのも病院での処置の一環だと思っているらしい。
けれど、それはいくらなんでも理解が早すぎる気がする。自分の身に起きている不可思議に対する疑いの目が無さすぎる。少し視線を下げれば、自分の首から下が氷漬けになっているのが分かるはずだ。そうでなくても肌に触れる冷たさで気づく。普通なら凍え死にそうになって必死にもがくに決まっている。しかし彼は相変わらず呆けた顔をしたままだった。
「なら、〝問診〟を続けましょうか」
ただ、少年がパチュリーを先生だと思ってくれているのは都合の良いことだ。相手の情報を聞き出すのに適したシチュエーションである。彼女もそう思ったのだろう。
「貴方の症状を簡潔に述べて」
「左目が見えなくなりました」
「それはいつ頃から?」
「ここで目を覚ます直前です」
「左目が見えなくなった原因に何か思い当たることは?」
「回転ブランコです。寄宿舎にある遊具。それで遊んでいたときに、ブランコの紐の結び目が、すごい速さで目の前に迫ってきて……強い衝撃を受けました。その後のことは覚えていません。気づいたらここに居たので……だから、ここは病院で、あなたはお医者さんなのかと……」
つまり、彼は〝無意識〟かつ〝無自覚〟にこの空間転移をやってのけたことになる。そしてここに現れたのは偶然で、私たちを攻撃する意図も当然無い。とんでもない能力を発現させておきながら、自分ではそれに気づいていないというわけだ。そうして彼は、瞬く間に……
「あんた……面白いわね」
私たちの研究材料になった。
「ちょっと目を見せてもらうわよ」
「は、はい……」
パチュリーは氷の塊の前に立ち、彼の右目に手を伸ばした。瞼を押し拡げ、中の瞳をのぞき込む。
「あ、あの先生……見えなくなったのは右目じゃなくて左目……」
少年の顔が少し赤くなった気がした。パチュリーはひとたび研究に夢中になると傍から見てもかなりいかがわしい笑みを浮かべるのだが、その表情はしばしば男を勘違いさせる。
「順番に診てあげるから黙ってなさい」
「アイムソーリー……」
「私はあんたの目よりも先に、あんたの正気を疑うことにしただけよ」
「は、はぁ」
「きょろきょろしないで真直ぐ私の目を見なさい」
「それは無理じゃない?」
お年頃の少年には。
彼女は自分が所謂美人に類する顔立ちであることをもう少し自覚した方がいい。
「もういいわ、分かったから」
「何が、でしょうか……」
「あんた、今、夢見てるでしょう」
「へ?」
少し、謎が解けた気がする。
「アリス。棚にある黒い箱取って」
「棚ってたくさんあるけど」
「扉側の棚。下から五段目、右から二番目」
彼が身の回りの不可思議に無頓着な理由、それが少し分かった。理屈じゃ説明はできないけど、確かにあの呆け方は夢を見ていると表現するに相応しい。
「これね」
箱を手に取り、開けてみる。中には何やら棒状のものが入っていた。先端が細くなっていて、触れれば簡単に刺さってしまいそうだ。
「お姉ちゃん、これ何?」
「皮下注射器」
「何に使うの?」
「その針、中空になってるでしょ?」
少し怖いが、正面から針を覗いてみる。
「ほんとだ」
「それを皮膚に刺して、中に薬を注入する」
「えっ!?」
ここで初めて、少年が明らかな動揺を見せた。
「そ、そんな恐ろしい治療、聞いたことないですよ!」
「まぁ、まだ普及はしてないかもね。十年前に開発されたばかりだし」
「本当に大丈夫なんですよね?」
「安心しなさい。これは最先端の技術よ。私は魔……医学に関して常に最先端じゃないと気が済まないの。……アリス、次は机の上の小瓶。一番小さいやつ」
「はい」
中には透明の液体が入っている。そこに彼女は針を入れ、中の液体を吸い上げた。
「それは何の薬ですか?」
「あんたいちいちうるさいわね、黙って治療を受け入れなさいよ」
「いや、お姉ちゃん。お医者さんは最低限の説明を患者にするものだよ」
自分の不調は自分で治療する魔法使いに、医者にかかった経験があるはずもなく。
「これはモルヒネよ。夢の神モルフェウスの涙でできているわ」
説明を面倒くさがっているのが丸見えだ。本当は芥子の実から採れる阿片から単離される。
「ねぇ、神経と血管が少なくて、骨が遠いところってどこかしら」
彼女は私を試しているのだろうか。それとも純粋に知らないから聞いているのだろうか。確かに、人体については私の方が詳しいかもしれない。ヒトに似せて人形を作るには、当然ヒトの体の知識が要る。
そもそも、私はそれを学びにこの世界に来たのだ。これは完全自律人形を作るには必要不可欠な工程だった。なぜなら、私の生まれた魔界には……私以外に人間が居ないのだから。
私は自分の腕のあたりを指して言った。
「この辺じゃない?」
聞いて、パチュリーは氷を部分的に解き、少年の左腕を引きずり出した。彼の腕に纏わりついていた氷は、溶けて水になることもなく消失していったのだが、それを見ても特に不思議がらない少年は、やはりどこかがおかしい。
「それで、僕はどうなるんですか?」
「そうね。ちょっとハッピーになるかもね」
ぶすり。一切の予告なしに針は刺され、みるみるうちに液体が注入されていった。
彼は一瞬うめいたが、じきに動きが鈍くなった。力の抜けた彼の左手から、ごとりと金属製の何かが落ちる。
「十字架……? しかもカソリックの」
「……持たされている……だけです。僕は……嫌いなんですけど……」
その言葉を最後に、彼は眠りについた。
「奇遇ね。私もよ」
彼女がこの東欧ルーマニア、オスマン帝国宗主権下の土地にやってきた理由。それは他でもない。カトリックの魔女狩りから逃れるためだ。だがそれは百年以上も前の話。最近ではクリミア戦争でオスマン帝国も弱体化し、ルーマニアもその支配から脱し始めている。その証に、今年ルーマニア正教会が正式に設立された。だが、それでもカトリックではないだけ彼女にとっては救いなのだろう。……今でも彼女の前で『魔女』という呼称を口にすると、本気で怒る。だから彼女は、私は、「魔法使い」だ。
「パチュリーお姉ちゃん。ハーンさんが夢を見ている、ってどういうこと?」
氷を全て溶かし、少年を床に転がしてから、彼女は振り返った。
「そのままの意味よ。夢を見たまま活動してる」
「それって……夢遊病……ってやつ?」
「そう。しかもとびっきり明晰なね」
「でも、夢の中で、こんな器用なことできるのかな」
空間転移、とでも名付けたらよいのだろうか。彼の実現した術は既存の魔術体系の枠に収まるようなものではない。博学なパチュリーでさえ知らなかったのだから。
「夢の中だからこそ……かもしれないわ。あいつは自分の異常に無自覚だった。おそらく、能力に〝使われて〟いる。自意識が弱まる睡眠中に、身体を乗っ取られたとか、そんなとこね。それで、乗っ取った張本人が……」
彼女はかがんで、彼の目に手を伸ばした。今度こそ左目だ。
「おそらくこれ」
瞼を少しだけ開ける。中から現れたのは、蒼い瞳だった。右目とは若干色合いが異なる。それどころか……大きささえ違っていた。よく言う「左右の目の大きさが違う」とは別次元だ。あれは瞼の開き具合が違うだけの話。だがこちらは、眼球そのものの大きさが明らかに違う。まるで眼孔に無理やり詰め込まれたかのように、そいつはそこに収まっていた。
その瞳が……突然、素早くぎょろりとこちらを向いた。
背筋が凍る。気持ち悪い目だ。見ているのではなく、見られていると感じた。そいつは私の目だけでなく、目の奥にある何もかもを全て見通している気がして……
「っ……!」
パチュリーはぐいと目を背けた。私と同じ悪寒が走ったに違いない。
「この瞳……見えすぎてる……」
彼女曰く、彼の左目が見えなくなった原因は、目への直接的なダメージではないという。実際、その左目は傷一つついていなかった。寧ろ、目として健康すぎるのだ。何もかもが見えてしまっていて、まぶしくて何も見えない状態に陥っているらしい。
きっと、彼の瞳は回転ブランコの結び目を目前にして、自らの危険を察知し、保身のために能力を発現させたのだろう。その結果、夢を見るという形で身体そのものがその場から転移し、偶然ここに再出現した……というのが彼女の仮説である。
パチュリーは指先を戻し、その左瞼を下ろした。あれと目を合わせてはいけない。彼女の本能がそう告げたのだろう。それは私も同じだった。
しかし、私にはもう一つ、良い方向に直感が働いていた。
「ねぇお姉ちゃん。……この目、私にちょうだい?」
彼女は眉を顰めた。予想通りの反応だった。「やめときなさい、ケガするわよ」と言われている気がした。けれど……これは私の目的のために重要なことだ。
「私ね、ハーンさんが……じゃなくて、この左目が私たちの館に現れたのは、偶然じゃないと思うの」
「……根拠を聞いてもいいかしら」
「この左目は、〝使って〟ほしいんじゃないの? もともとこの目って、彼のものじゃないよ、たぶん。大きさ合ってないし。きっと、彼よりも前の持ち主がいたのよ。もしかしたら、その前も、そのまた前も……。つまりね、この左目は……自分を上手く〝使って〟くれる宿主を、探し回っているんじゃないかな」
「その宿主が、私かあんたのどちらかだ、って?」
「ううん。違うわ。私たちのどちらに宿ったって、うまく能力は発揮できないと思う。意志が強すぎるのよ。相性が悪すぎる。特にパチュリーお姉さんとは……」
「なにそれ、嫌味?」
「ふふーん。どうかしら。……でも言いたいことは分かったでしょ?」
「……」
強い意志、すなわち魂には、適切な器が必要だ。けれど器に初めから意思があっては、喧嘩になってしまう。となると、あの左目みたいに強い魂が宿る器として、一番適しているのは……
「私の人形」
「はぁ」
「そこに埋め込めば、もしかしたら……」
「あー、あー、分かったわ。好きにしなさい。……まったく。本当にあんたは、人形のことになるとすぐそうなんだから」
「魔法の話になったときのパチュリーお姉さんと一緒ね」
「だから嫌なのよ。同族嫌悪。言わせないでよね」
私は自室に戻り、完成したばかりの人形を一体持ってきた。
持ってきたとはいっても、その人形は私より背が高くて、抱えて持ってくるなんてことはできない。魔法の繰り糸をつないで、歩かせてきたのだ。
人形が部屋に入って来るや否や……寝ていたはずの少年が立ち上がった。
「ちょっ」
パチュリーはすぐに構えた。が、私は何故か、その必要は無いと感じた。彼は人形の前まで歩み寄った。
少年の左目だけが、目を覚ましている。
次の瞬間、彼の右手の指が、自らの左の眼孔に突き刺さった。不自然に滑らかな動作で、眼球が抉り出される。視神経が無残にも引きちぎられ、身体から完全に離れた。同時に彼は、私の人形の左目を取り出した。こちらは完全に球体であり、どこにも繋がってはいない。
これはある種の儀式なのだ、と私は思った。自分でも驚くほどに冷静で、一方のパチュリーは腰を抜かしていた。また喘息の発作を起こさなければいいけれど。
そうして彼の瞳が人形に埋め込まれ、人形の義眼が彼の顔に収まった。最後に床に落とした十字架を拾い上げ、少年はそれを人形の手に握らせた。仕事を終えるや否や、彼は糸が切れた人形のように力尽き、再び床に倒れ伏した。
あの瞳を失った今、彼は全くの正常な人間に戻ったのだろう。この部屋にいるという事実はかき消され、瞬きの後には……その姿は無かった。
起きた出来事に見合うくらいの、静寂が流れた。私は目にした光景を反芻していた。彼は、彼の目は、確かに濡れていた。紅い血ではなく、蒼色の涙で。それはまるで、空の色を、雨の雫に溶かし込んだかのようだった。
「目の色くらい、合わせておいた方がよかったかな」
人形の方の目には、紫色の瞳を入れていた。それと交換してしまったのだから、彼は今頃、虹彩異色[オッドアイ]になっているだろう。目の前に立つ、私の人形と同じように。
「あんた……本物の馬鹿ね」
精一杯の強がりを見せて、彼女が立ち上がる。スカートを叩き、ナイトキャップの向きを正した。
「隻眼の人間の目は、しばしば変色するものよ」
「ふぅん……なら良かっ」
ぐい、と指先を強く引かれた。慌て腰を落とし、踏ん張る。床のカーペットごと、私は扉の外へ引きずり出されようとしていた。部屋にあった机が、棚が、かたかたと音を立てて動き始める。
「何してんの、糸切りなさいよ」
――私の指先、魔法の繰り糸に繋がれた人形が、私の意思に関係なく扉の外に駆け出そうとしていた。
「嫌……よ」
それは、今までに味わったことのない感覚だった。本来魔法の繰り糸は一方通行。人形遣いが人形を動かすことはあっても、人形が人形遣いを動かすことは無い。繰り糸は人形遣いの意思を人形に伝えるものなのだから、これは当然である。しかし今、確かにこの指先の糸は双方向に働いていた。向こう側に動かされそうになっていた。私の意思とは別の意思が、指先から流れてきていた。
……間違いない。あの人形には、今、確かに〝意思〟を持っている。
「切りたく、無い」
人形が、自分の思い通りに動かないこと。それは人形遣いにとって本来煩わしいことであり、また、あってはならないことだった。自分の手足を拡張することを一つの動機とする人形操作において、操作の不自由はすなわち手足が言うことを聞かないことを意味する。だが私は、不思議とそれを不快だとは思わなかった。自分の思い通りにならないその人形には、確かに普段の感覚の通用しないもどかしさを感じるが、それと同じくらいに愛しさを感じてしまう。常に人形を操る側だった自分は、もしかしたら、何もかも思い通りに動いてしまう自分の人形たちに退屈していたのかもしれない。
「あの子は……私の人形よ」
これはある種の倒錯なのか。自分では操れない人形を、私は求めていたのだろうか。人形師の究極の目標とされる〝完全自律人形〟が、実際には人形師の意図に全く反する存在であったことに、私は今ここで、初めて気づかされたのだった。
「……じゃあ、あんたが出て行きなさい」
先程から連続して自室を荒らされ、家主はたいそうご立腹のようである。私は仕方なく、片足の糸だけを強く引いた。人形はバランスを崩し、まるでピエロのようにわざとらしくこけた。
「ねぇ、最後に一つ聞いていい?」
「何」
「この子、どこに行きたがってると思う?」
「知らないわよ」
「私はね、上海だと思うの」
「何で」
「この子の名前は上海人形だから」
「あっそ」
「お姉ちゃんは来ないの?」
「私はまだやることがある。この土地に眠る吸血鬼と、まだ決着が付いてない」
「……ふうん」
私の人形――上海人形――は、再び立ち上がり、今にも駆け出そうとしていた。
「じゃあこれでお別れね」
「……」
少し、彼女は悲しそうな顔をした気がする。確証が持てないのは、彼女のそんな表情を見るのが、初めてだったから。
「……本当に出て行くつもり?」
声だけでは、感情の全てを読み取れない。
「私はもう、目的を果たしたから」
「……そう」
今度こそ、私は扉の外に出た。
「ありがとう、お姉ちゃん」
私に姉妹は居ないけれど。私は彼女を、本当の姉のように慕っていたのだと、今になって気づく。
「……アリス」
呼び声に、私は振り返らなかった。
「東の果てで逢いましょう」
魔法使いはいつだって孤独だ。
「……うん」
私たちはそういう種族だ。
「東の果てで、逢いましょう」
研究のために、人と関係を持つことはあっても。人のために、人と関係を持つことは無い。
ただ、自分のために、探究を重ねること。そうして得た成果にこそ、魔法としての価値がある。それが私たち、魔法使いの倫理だ。それを貫かなければ、私たちは、過去の自分を裏切ることになる。魔法を信じる者が減っていく世界で、それを信じ続けられるのは、ただ一人、自分だけなのだから。
私も、彼女も、そのことをよく知っている。魔法使いを貫くからこそ、ここでお別れなんだ。
貫くからこそ、私はここを出て行くんだ。
貫くからこそ……いつかまた、どこかの土地で、逢えるんだ。
再び走り出した、上海人形。その顔が、表情を動かす機構を備えていないはずのその顔が、今、確かに、笑った気がした。
ルーマニア公国 ブカレスト
かつてワラキアと呼ばれた土地の、吸血鬼さえも眠る夜。街外れの森の中、赤いレンガの屋敷にて。
……大きな物音がして、私は目を覚ました。
隣の部屋からだ。ベッドを抜け出し、着の身着のまま部屋を飛び出す。廊下を走り、扉の前で叫んだ。
「お姉ちゃん⁈」
返事はない。だが代わりに、彼女の荒い息遣いが聞こえてくる。
「どうしたの? だいじょうぶ⁈」
ドアノブを回した。だが扉は開かなかった。当然だ。鍵がかかっている。これは用心深い彼女の日常的な習慣である。けれど今は非常事態。彼女の身に、何か良くないことが起きていては大変だ。頭に染み渡る眠気を振り払い、私は指先に意識を集中させた。
魔法の手繰り糸。本来人形を操るためのものだが、その用途は人形に限定されない。糸をドアの隙間から部屋の中へ忍ばせ、反対側のドアノブに伸ばす。金属製の冷たい感覚が指先にも伝わってきた。その表面を撫でていき、平たい突起物を見つける。これだ。
かちゃり。
鍵が開き、私は部屋に飛び込んだ。
「パチュリーお姉ちゃん!」
まずに目に飛び込んできたのは、強烈な青白い光。真夜中に見るには眩しすぎて、初めは何も見えなかった。だが暫くして、その光がパチュリーの投影した魔法陣から来るものだと理解した。術式には水と風のシンボル。氷系の呪文だと分かる。敵の動きを止め、捕獲することに特化した魔法だ。
一方、部屋の反対側、ベッドの上にはパチュリーの横顔が見える。彼女は上体を起こし、正面に右手をかざしたまま、肩を大きく上下させていた。咳が交じり、呼吸がひどく乱れている。寝ている間に不意を突かれ、喘息の発作が出ているのかもしれない。どうしていいかも分からぬまま、私は彼女に駆け寄ろうとした。
しかし、彼女はすぐさま私を制止した。彼女の左の掌が、まっすぐこちらに向けられていた。それは「私は大丈夫だ」という意思表明ではなく、「そこを動くな」という警告のように思えた。私は大人しく足を止めた。
再び魔法陣の方に目を向ける。床に描かれた陣の中心、その真上には、私の背丈よりも大きな氷の塊が浮いていた。中に閉じ込められているのは何だろう。私は目を凝らした。
それは一人の少年だった。人間なら一五か一六くらいに見える。鼻が高く、彫りの深い顔立ち。欧州南方系だろうか。片方だけ目を閉じていて、開いている方の目は青かった。
彼の動きは完全に止まっていて、再び動き出す気配は全くなかった。ひとまずの危機は脱したと見て良いのだろう。パチュリーが自力で息を整えるのを待って、私は「何があったの」と問いかけた。
「こいつ……あり得ない」
返ってきたのは回答ではなく感想だった。彼女は私を見ず、少年の方をきっと睨みつけていた。
「この館の外には属性の異なる二十四枚の結界を張ってある。それに私の部屋に入るまでに鍵のかかった扉が三つもあるのよ? その全てには私とあなたしか通れない結界が五枚張ってあった。この全四十二枚の障壁を……全て突破した? しかも一瞬で?」
彼女の腕に、過剰に力が入っているように見えた。
「……あり得ない。絶対にあり得ないわ。あってはならないことよ」
パチュリーは怒っている。私が彼女の世話になるようになってから八年が経つけれど、それくらいの間一緒に居れば、彼女の心の動きも分かるようになる。
「透過の魔法……とか?」
「館の周りには探知境界も引いてあるのよ? 半径100mまで20m毎に」
「まさか、引っかからなかったの?」
「そうみたいね」
「それって……」
浮いていた巨大な氷の塊が、ゆっくりと下降していく。底の部分が平らに成形され、そして床に静置された。右手を下ろした彼女の口から、深い溜息が漏れる。
「こいつは、〝移動〟という過程を一切経ず、ピンポイントでここに〝出現〟したの。この何もない空間に、しかも突然」
そうして、パチュリーは視線だけをこちらに向いた。
「それがあり得ない、って言っているのよ。アリス」
「で、あんた何者」
氷の塊から顔だけを出させ、パチュリーは少年を尋問していた。その異常な状況の割に、少年は驚きや緊張といったものは見せず、寧ろ呆けているように見えた。彼女の最初の質問に対し、彼は首を傾げるだけである。
「あーもしかしてルーマニア人じゃない?」
「お姉ちゃん、それルーマニア語で聞いても意味ないじゃん」
「……」
彼女のおつむが回っていないわけではない。彼女があまりにも多くの言語を習得しているために、言語の壁というものの存在を忘れてしまっているのである。
「クトォ、ティ」
「……」
「キ、ヴァイッ、テ」
「…………」
あんた誰、をこの国近辺の言語で手当たり次第に尋ねるつもりなのだろう。私も知っている範囲で手伝うことにした。
「さん、きむすん」
「………………」
「マァマァナー、アンタ?」
「……」
「き、せい?」
「…………」
「ヴェア、ビス、ドゥ」
「………………」
「きみぇすてしゅ?」
「……………………」
「あんたどんだけ遠くから来てるのよ……」
「……!」
最後のフランス語に少しだけ反応したようである。
「じゅ、ぱーる、ろんぐれ……」
英語でお願いします、と言ったのだど思う。
「成程ね。フーアーユー」
「パトリック・ラフカディオ・ハーン、十六歳です。ダラムに住んでます」
「何よその面接みたいなしゃべり方」
「いや、だってここは……」
「あんたは尋問されてんのよ? で、何が目的」
「目的、とは……?」
「何しに来たの、って聞いてんの。襲撃? 強盗? それとも……」
「いやだから……先生こそ何を言っているんですか、私は……」
「先生って何」
「まってお姉ちゃん」
パチュリーは相当腹を立てていた。自分の不可侵領域のど真ん中、館の懐に部外者の侵入を許したのだ。彼女の心……というより、魔法使いとしてのプライドが傷つけられて当然である。しかし同時に冷静さを失っている。二人の間で何か決定的な勘違いが起きているように私は思った。それがもし本当なら、この光景はちょっとしたコントである。
「ハーンさん。どうしてあなたは、彼女が〝先生〟だと思ったの?」
「だってここは病院ですよね、たくさんの器具や薬品、それに難しそうな本も……」
「あっ」
パチュリーが口元を抑えた。「ありがとう、アリス」と私に囁き、彼女は少年に向き直った。
「つまりあんたは私に敵意は無いと」
「とんでもありません。処置をありがとうございます」
彼は自分の体が動かないのも病院での処置の一環だと思っているらしい。
けれど、それはいくらなんでも理解が早すぎる気がする。自分の身に起きている不可思議に対する疑いの目が無さすぎる。少し視線を下げれば、自分の首から下が氷漬けになっているのが分かるはずだ。そうでなくても肌に触れる冷たさで気づく。普通なら凍え死にそうになって必死にもがくに決まっている。しかし彼は相変わらず呆けた顔をしたままだった。
「なら、〝問診〟を続けましょうか」
ただ、少年がパチュリーを先生だと思ってくれているのは都合の良いことだ。相手の情報を聞き出すのに適したシチュエーションである。彼女もそう思ったのだろう。
「貴方の症状を簡潔に述べて」
「左目が見えなくなりました」
「それはいつ頃から?」
「ここで目を覚ます直前です」
「左目が見えなくなった原因に何か思い当たることは?」
「回転ブランコです。寄宿舎にある遊具。それで遊んでいたときに、ブランコの紐の結び目が、すごい速さで目の前に迫ってきて……強い衝撃を受けました。その後のことは覚えていません。気づいたらここに居たので……だから、ここは病院で、あなたはお医者さんなのかと……」
つまり、彼は〝無意識〟かつ〝無自覚〟にこの空間転移をやってのけたことになる。そしてここに現れたのは偶然で、私たちを攻撃する意図も当然無い。とんでもない能力を発現させておきながら、自分ではそれに気づいていないというわけだ。そうして彼は、瞬く間に……
「あんた……面白いわね」
私たちの研究材料になった。
「ちょっと目を見せてもらうわよ」
「は、はい……」
パチュリーは氷の塊の前に立ち、彼の右目に手を伸ばした。瞼を押し拡げ、中の瞳をのぞき込む。
「あ、あの先生……見えなくなったのは右目じゃなくて左目……」
少年の顔が少し赤くなった気がした。パチュリーはひとたび研究に夢中になると傍から見てもかなりいかがわしい笑みを浮かべるのだが、その表情はしばしば男を勘違いさせる。
「順番に診てあげるから黙ってなさい」
「アイムソーリー……」
「私はあんたの目よりも先に、あんたの正気を疑うことにしただけよ」
「は、はぁ」
「きょろきょろしないで真直ぐ私の目を見なさい」
「それは無理じゃない?」
お年頃の少年には。
彼女は自分が所謂美人に類する顔立ちであることをもう少し自覚した方がいい。
「もういいわ、分かったから」
「何が、でしょうか……」
「あんた、今、夢見てるでしょう」
「へ?」
少し、謎が解けた気がする。
「アリス。棚にある黒い箱取って」
「棚ってたくさんあるけど」
「扉側の棚。下から五段目、右から二番目」
彼が身の回りの不可思議に無頓着な理由、それが少し分かった。理屈じゃ説明はできないけど、確かにあの呆け方は夢を見ていると表現するに相応しい。
「これね」
箱を手に取り、開けてみる。中には何やら棒状のものが入っていた。先端が細くなっていて、触れれば簡単に刺さってしまいそうだ。
「お姉ちゃん、これ何?」
「皮下注射器」
「何に使うの?」
「その針、中空になってるでしょ?」
少し怖いが、正面から針を覗いてみる。
「ほんとだ」
「それを皮膚に刺して、中に薬を注入する」
「えっ!?」
ここで初めて、少年が明らかな動揺を見せた。
「そ、そんな恐ろしい治療、聞いたことないですよ!」
「まぁ、まだ普及はしてないかもね。十年前に開発されたばかりだし」
「本当に大丈夫なんですよね?」
「安心しなさい。これは最先端の技術よ。私は魔……医学に関して常に最先端じゃないと気が済まないの。……アリス、次は机の上の小瓶。一番小さいやつ」
「はい」
中には透明の液体が入っている。そこに彼女は針を入れ、中の液体を吸い上げた。
「それは何の薬ですか?」
「あんたいちいちうるさいわね、黙って治療を受け入れなさいよ」
「いや、お姉ちゃん。お医者さんは最低限の説明を患者にするものだよ」
自分の不調は自分で治療する魔法使いに、医者にかかった経験があるはずもなく。
「これはモルヒネよ。夢の神モルフェウスの涙でできているわ」
説明を面倒くさがっているのが丸見えだ。本当は芥子の実から採れる阿片から単離される。
「ねぇ、神経と血管が少なくて、骨が遠いところってどこかしら」
彼女は私を試しているのだろうか。それとも純粋に知らないから聞いているのだろうか。確かに、人体については私の方が詳しいかもしれない。ヒトに似せて人形を作るには、当然ヒトの体の知識が要る。
そもそも、私はそれを学びにこの世界に来たのだ。これは完全自律人形を作るには必要不可欠な工程だった。なぜなら、私の生まれた魔界には……私以外に人間が居ないのだから。
私は自分の腕のあたりを指して言った。
「この辺じゃない?」
聞いて、パチュリーは氷を部分的に解き、少年の左腕を引きずり出した。彼の腕に纏わりついていた氷は、溶けて水になることもなく消失していったのだが、それを見ても特に不思議がらない少年は、やはりどこかがおかしい。
「それで、僕はどうなるんですか?」
「そうね。ちょっとハッピーになるかもね」
ぶすり。一切の予告なしに針は刺され、みるみるうちに液体が注入されていった。
彼は一瞬うめいたが、じきに動きが鈍くなった。力の抜けた彼の左手から、ごとりと金属製の何かが落ちる。
「十字架……? しかもカソリックの」
「……持たされている……だけです。僕は……嫌いなんですけど……」
その言葉を最後に、彼は眠りについた。
「奇遇ね。私もよ」
彼女がこの東欧ルーマニア、オスマン帝国宗主権下の土地にやってきた理由。それは他でもない。カトリックの魔女狩りから逃れるためだ。だがそれは百年以上も前の話。最近ではクリミア戦争でオスマン帝国も弱体化し、ルーマニアもその支配から脱し始めている。その証に、今年ルーマニア正教会が正式に設立された。だが、それでもカトリックではないだけ彼女にとっては救いなのだろう。……今でも彼女の前で『魔女』という呼称を口にすると、本気で怒る。だから彼女は、私は、「魔法使い」だ。
「パチュリーお姉ちゃん。ハーンさんが夢を見ている、ってどういうこと?」
氷を全て溶かし、少年を床に転がしてから、彼女は振り返った。
「そのままの意味よ。夢を見たまま活動してる」
「それって……夢遊病……ってやつ?」
「そう。しかもとびっきり明晰なね」
「でも、夢の中で、こんな器用なことできるのかな」
空間転移、とでも名付けたらよいのだろうか。彼の実現した術は既存の魔術体系の枠に収まるようなものではない。博学なパチュリーでさえ知らなかったのだから。
「夢の中だからこそ……かもしれないわ。あいつは自分の異常に無自覚だった。おそらく、能力に〝使われて〟いる。自意識が弱まる睡眠中に、身体を乗っ取られたとか、そんなとこね。それで、乗っ取った張本人が……」
彼女はかがんで、彼の目に手を伸ばした。今度こそ左目だ。
「おそらくこれ」
瞼を少しだけ開ける。中から現れたのは、蒼い瞳だった。右目とは若干色合いが異なる。それどころか……大きささえ違っていた。よく言う「左右の目の大きさが違う」とは別次元だ。あれは瞼の開き具合が違うだけの話。だがこちらは、眼球そのものの大きさが明らかに違う。まるで眼孔に無理やり詰め込まれたかのように、そいつはそこに収まっていた。
その瞳が……突然、素早くぎょろりとこちらを向いた。
背筋が凍る。気持ち悪い目だ。見ているのではなく、見られていると感じた。そいつは私の目だけでなく、目の奥にある何もかもを全て見通している気がして……
「っ……!」
パチュリーはぐいと目を背けた。私と同じ悪寒が走ったに違いない。
「この瞳……見えすぎてる……」
彼女曰く、彼の左目が見えなくなった原因は、目への直接的なダメージではないという。実際、その左目は傷一つついていなかった。寧ろ、目として健康すぎるのだ。何もかもが見えてしまっていて、まぶしくて何も見えない状態に陥っているらしい。
きっと、彼の瞳は回転ブランコの結び目を目前にして、自らの危険を察知し、保身のために能力を発現させたのだろう。その結果、夢を見るという形で身体そのものがその場から転移し、偶然ここに再出現した……というのが彼女の仮説である。
パチュリーは指先を戻し、その左瞼を下ろした。あれと目を合わせてはいけない。彼女の本能がそう告げたのだろう。それは私も同じだった。
しかし、私にはもう一つ、良い方向に直感が働いていた。
「ねぇお姉ちゃん。……この目、私にちょうだい?」
彼女は眉を顰めた。予想通りの反応だった。「やめときなさい、ケガするわよ」と言われている気がした。けれど……これは私の目的のために重要なことだ。
「私ね、ハーンさんが……じゃなくて、この左目が私たちの館に現れたのは、偶然じゃないと思うの」
「……根拠を聞いてもいいかしら」
「この左目は、〝使って〟ほしいんじゃないの? もともとこの目って、彼のものじゃないよ、たぶん。大きさ合ってないし。きっと、彼よりも前の持ち主がいたのよ。もしかしたら、その前も、そのまた前も……。つまりね、この左目は……自分を上手く〝使って〟くれる宿主を、探し回っているんじゃないかな」
「その宿主が、私かあんたのどちらかだ、って?」
「ううん。違うわ。私たちのどちらに宿ったって、うまく能力は発揮できないと思う。意志が強すぎるのよ。相性が悪すぎる。特にパチュリーお姉さんとは……」
「なにそれ、嫌味?」
「ふふーん。どうかしら。……でも言いたいことは分かったでしょ?」
「……」
強い意志、すなわち魂には、適切な器が必要だ。けれど器に初めから意思があっては、喧嘩になってしまう。となると、あの左目みたいに強い魂が宿る器として、一番適しているのは……
「私の人形」
「はぁ」
「そこに埋め込めば、もしかしたら……」
「あー、あー、分かったわ。好きにしなさい。……まったく。本当にあんたは、人形のことになるとすぐそうなんだから」
「魔法の話になったときのパチュリーお姉さんと一緒ね」
「だから嫌なのよ。同族嫌悪。言わせないでよね」
私は自室に戻り、完成したばかりの人形を一体持ってきた。
持ってきたとはいっても、その人形は私より背が高くて、抱えて持ってくるなんてことはできない。魔法の繰り糸をつないで、歩かせてきたのだ。
人形が部屋に入って来るや否や……寝ていたはずの少年が立ち上がった。
「ちょっ」
パチュリーはすぐに構えた。が、私は何故か、その必要は無いと感じた。彼は人形の前まで歩み寄った。
少年の左目だけが、目を覚ましている。
次の瞬間、彼の右手の指が、自らの左の眼孔に突き刺さった。不自然に滑らかな動作で、眼球が抉り出される。視神経が無残にも引きちぎられ、身体から完全に離れた。同時に彼は、私の人形の左目を取り出した。こちらは完全に球体であり、どこにも繋がってはいない。
これはある種の儀式なのだ、と私は思った。自分でも驚くほどに冷静で、一方のパチュリーは腰を抜かしていた。また喘息の発作を起こさなければいいけれど。
そうして彼の瞳が人形に埋め込まれ、人形の義眼が彼の顔に収まった。最後に床に落とした十字架を拾い上げ、少年はそれを人形の手に握らせた。仕事を終えるや否や、彼は糸が切れた人形のように力尽き、再び床に倒れ伏した。
あの瞳を失った今、彼は全くの正常な人間に戻ったのだろう。この部屋にいるという事実はかき消され、瞬きの後には……その姿は無かった。
起きた出来事に見合うくらいの、静寂が流れた。私は目にした光景を反芻していた。彼は、彼の目は、確かに濡れていた。紅い血ではなく、蒼色の涙で。それはまるで、空の色を、雨の雫に溶かし込んだかのようだった。
「目の色くらい、合わせておいた方がよかったかな」
人形の方の目には、紫色の瞳を入れていた。それと交換してしまったのだから、彼は今頃、虹彩異色[オッドアイ]になっているだろう。目の前に立つ、私の人形と同じように。
「あんた……本物の馬鹿ね」
精一杯の強がりを見せて、彼女が立ち上がる。スカートを叩き、ナイトキャップの向きを正した。
「隻眼の人間の目は、しばしば変色するものよ」
「ふぅん……なら良かっ」
ぐい、と指先を強く引かれた。慌て腰を落とし、踏ん張る。床のカーペットごと、私は扉の外へ引きずり出されようとしていた。部屋にあった机が、棚が、かたかたと音を立てて動き始める。
「何してんの、糸切りなさいよ」
――私の指先、魔法の繰り糸に繋がれた人形が、私の意思に関係なく扉の外に駆け出そうとしていた。
「嫌……よ」
それは、今までに味わったことのない感覚だった。本来魔法の繰り糸は一方通行。人形遣いが人形を動かすことはあっても、人形が人形遣いを動かすことは無い。繰り糸は人形遣いの意思を人形に伝えるものなのだから、これは当然である。しかし今、確かにこの指先の糸は双方向に働いていた。向こう側に動かされそうになっていた。私の意思とは別の意思が、指先から流れてきていた。
……間違いない。あの人形には、今、確かに〝意思〟を持っている。
「切りたく、無い」
人形が、自分の思い通りに動かないこと。それは人形遣いにとって本来煩わしいことであり、また、あってはならないことだった。自分の手足を拡張することを一つの動機とする人形操作において、操作の不自由はすなわち手足が言うことを聞かないことを意味する。だが私は、不思議とそれを不快だとは思わなかった。自分の思い通りにならないその人形には、確かに普段の感覚の通用しないもどかしさを感じるが、それと同じくらいに愛しさを感じてしまう。常に人形を操る側だった自分は、もしかしたら、何もかも思い通りに動いてしまう自分の人形たちに退屈していたのかもしれない。
「あの子は……私の人形よ」
これはある種の倒錯なのか。自分では操れない人形を、私は求めていたのだろうか。人形師の究極の目標とされる〝完全自律人形〟が、実際には人形師の意図に全く反する存在であったことに、私は今ここで、初めて気づかされたのだった。
「……じゃあ、あんたが出て行きなさい」
先程から連続して自室を荒らされ、家主はたいそうご立腹のようである。私は仕方なく、片足の糸だけを強く引いた。人形はバランスを崩し、まるでピエロのようにわざとらしくこけた。
「ねぇ、最後に一つ聞いていい?」
「何」
「この子、どこに行きたがってると思う?」
「知らないわよ」
「私はね、上海だと思うの」
「何で」
「この子の名前は上海人形だから」
「あっそ」
「お姉ちゃんは来ないの?」
「私はまだやることがある。この土地に眠る吸血鬼と、まだ決着が付いてない」
「……ふうん」
私の人形――上海人形――は、再び立ち上がり、今にも駆け出そうとしていた。
「じゃあこれでお別れね」
「……」
少し、彼女は悲しそうな顔をした気がする。確証が持てないのは、彼女のそんな表情を見るのが、初めてだったから。
「……本当に出て行くつもり?」
声だけでは、感情の全てを読み取れない。
「私はもう、目的を果たしたから」
「……そう」
今度こそ、私は扉の外に出た。
「ありがとう、お姉ちゃん」
私に姉妹は居ないけれど。私は彼女を、本当の姉のように慕っていたのだと、今になって気づく。
「……アリス」
呼び声に、私は振り返らなかった。
「東の果てで逢いましょう」
魔法使いはいつだって孤独だ。
「……うん」
私たちはそういう種族だ。
「東の果てで、逢いましょう」
研究のために、人と関係を持つことはあっても。人のために、人と関係を持つことは無い。
ただ、自分のために、探究を重ねること。そうして得た成果にこそ、魔法としての価値がある。それが私たち、魔法使いの倫理だ。それを貫かなければ、私たちは、過去の自分を裏切ることになる。魔法を信じる者が減っていく世界で、それを信じ続けられるのは、ただ一人、自分だけなのだから。
私も、彼女も、そのことをよく知っている。魔法使いを貫くからこそ、ここでお別れなんだ。
貫くからこそ、私はここを出て行くんだ。
貫くからこそ……いつかまた、どこかの土地で、逢えるんだ。
再び走り出した、上海人形。その顔が、表情を動かす機構を備えていないはずのその顔が、今、確かに、笑った気がした。