だらしなく開けられた口と白い歯。
優柔不断に揺れるそれを、僕は飽きるほど見つめていたものだが当の本人は揺らすだけ揺らしておいて本に夢中になっている。本当は僕も本を読んでいたのだが、気が散って仕方ない。さっきから頁に指を挟んで、手が汗ばむのを待つしか出来ていないくらいだ。
壁に掛かった振り子時計を今見たので、31回目になる。
時計から部屋へ、そして彼女へ。
彼女の悠々自適さには敵わない。楽しそうに足を、そしてそれを揺らす彼女を見て思わず微笑んでしまう。呆れと諦めの含まれた笑みだが、親しみも込められている。
しかし──ついに痺れを切らした。
振り子時計を見る。僕は言った。
「魔理沙、歯を抜くのなら手伝うよ」
魔理沙の手が、一瞬止まった。
〇
「ぬかしつようばないふぇ」
魔理沙は僕の方を見もせずに開口一番にもごもごとそう言った。その間、絶えず魔理沙の左手は口の中に突っ込まれていた。いや、正確に言えば今にも抜けそうな乳歯に貼り付いたように一定のリズムで揺らし続けていた。
一瞬止まったはずの手は、動いている。
「こっちが気になるんだよ」
僕の返事が遅くなったのは魔理沙の言葉を理解出来なかったからではない。彼女はこう言った。「抜く必要はないぜ」と。
ならばなぜ遅くなったかと言うと、簡潔に言えば呆れた。その必要性を求めない割りに歯を弄くり回す魔理沙。手を突っ込んだままの魔理沙の言葉を瞬時に理解してしまう僕自身に。
しばらくそんなことを考えていると、魔理沙の顔がようやくこちらを向いた。
ただし頁はしっかり押さえたまま。
「ならもっと必要はないな」
「頼むよ」
「何をだって?」
僕がなにも言わないでいると、魔理沙は押さえた頁を下に向けて本を置いた。そうすると痕がつくからやめてほしいのに。しかもその本は僕のお気に入りだ。
言ってもどうせ仕方がないと分かっているので、見なかったことにする。こうするのが一番いいと自然と身に付いてしまった癖だ。
「何をではないよ」
立ち上がった魔理沙に注意をする。
「誰が、だ」
先月並べて置いた古いラジカセに触ろうとした魔理沙がこちらを見た。僕の一言で興味が失せたのか、彼女はこちらへ近づいてくる。机へよじ登るように腰掛けると、僕の読んでいた本を奪い取る。
「えー、茹でたほうれん草は氷水にさっとくぐらせ包丁で適当な大きさに……って、料理本じゃないか」
「勿論そうだよ」
奪い取られた本を奪い取る。
「君が今日の昼飯は香霖が作ってくれ、なんて言うからに決まっているだろう。忘れたのかい?」
「忘れてなんかないが本は必要ないだろ。それとも大層なご馳走でも出てくるのか」
「いや、出てきやしないよ」
出てくるのは良くてもほうれん草のおひたしくらいのものだろう。僕が読んでいたのは単なる興味でしかない。しかし、もしかしたら一品や二品くらいは増えることもあるかもしれない。
それより今は──。
「ああ分かってるぜ。誰が、だったな。さて、誰だ?私に物を頼もうっていうお客様は」
こめかみを押さえる。
「僕だよ、頼む」
すると魔理沙はいっそう嬉しそうな顔をした。
何を企んでいるんだ。
机からするすると降りてきた魔理沙は回り込んでくると、僕の目の前に座った。僕は仕方なく本を置いて、魔理沙と正面から目を合わせる。
「で、なんで座っているんだい?」
「なんでって、香霖なんだろ?」
……訳が分からない。
魔理沙は座り心地を確かめるように椅子を撫でた。僕という、椅子を。つまり、魔理沙が座ったのは僕の膝の上で、向き合って座っていると言えばそうなのだが……。
魔理沙の中では、僕が「自分の歯を抜きたいお客様」にでもなっているに違いない。どこにそんなお客様がいると言うんだ。いや、魔理沙にとって見たらそれは僕なのだろう。
「報酬は店先にある狸がいい」
「……あれはこの店のシンボルだ」
「じゃ、決まりな」
ここに来る奴らは大抵僕の話を聞かない。
魔理沙を筆頭に赤い巫女なんかもいるが、どうしてこうも人の話を耳から我先にと溝に捨てるのが上手いのだろう。まあ、いつものことだからもういい。
それに魔理沙は僕が止めても、家まで運ぶのに苦労しても、報酬は貰っていくだろう。
諦めて魔理沙と顔を合わせる。
「歯は糸に結びつけて抜く。ああ、そうだ魔理沙は迷信は信じる方かな?」
「迷信?」
「そうだ。抜けた上の乳歯を床下へ、下の乳歯は屋根の上に投げる例の迷信だ。そうすれば永久歯がちゃんと生えてくるとされている。健やかな身体に成長するようにというような願いが込められているんだ」
「……いや、信じないな」
僕の話に耳を傾けた魔理沙が首を振る。
「古めかしい迷信だろう。今じゃ殆ど聞かない」
「そうか、以前霊夢に聞いた時には霊夢は迷信通りにやっていると答えたが」
「そりゃ霊夢だからな」
納得している魔理沙に妙に僕も同調してしまう。
二人はずっと一緒にいるような気がするが、こういう時迷信だとかを積極的に信じるのは霊夢の方だ。努力は信じていないのに。
魔理沙は普通の人間と同じように殆どの場合信じていないが、ある程度気にしてしまうというようなタチらしい。どこまでも大多数代表意見を貫く奴だ。
「で、君はどうする?」
「……どうする、なあ」
考え込むような言葉がわざとらしい。
「ま、そりゃお客様にお任せするぜ」
「そりゃどうも」
僕は一度膝から魔理沙を下ろすと、棚から糸と鋏を取り出して座る。律儀に魔理沙は意気揚々として登るように座り、僕の服の袖を握った。
「口を開けてくれ」
「あー」
目を閉じて大きく口を開けた魔理沙は少しおかしい。一つ一つ小さなパーツに手を伸ばして悪戯してみたい気もするが、ここは我慢することにする。
前歯の右側にぐらぐらとしている歯を確認する。手を伸ばすと、ふっと取れてしまいそうに揺れた。
「どうだ?」
「今にも取れそうだね」
魔理沙が他人事のように苦笑する。
それを聞き流しながら糸を小さな乳歯にくくりつけた。糸を伸ばして、丁度いい長さで切る。
「魔理沙がいると僕みたいな半妖でも時間の流れっていうものを感じるよ。乳歯がぐらぐらしているなんて、君はいつまで言うんだろうな」
糸の調整をしながら、魔理沙と目を見合わせる。一瞬交わした目が、不思議そうな視線が妙に焼き付く。
息を吸い込むような音とともに声がした。
「寂しいか?」
「寂しそうに見えるかい?」
「いや、ないな」
魔理沙があまりにも真面目な顔で言うものだから、僕は思わず笑ってしまった。
「じゃ、抜くよ」
魔理沙の一瞬の悲鳴と、鈍い音が重なった。僕はもちろん躊躇うことなく糸を引っ張ったのだ。
手元に残ったのは小さな彼女の歯がついた糸。
口を押さえてそのまま気を失ったように僕に寄りかかった魔理沙は、しばらく身動ぎしなかった。安定した呼吸音は聞こえるから安心はしていいのだろう。
「……抜くなよ」
「同意の上だ」
顔が見えないので怒っているのかとも思ったが、起き上がろうとした魔理沙がふっとまた寄りかかってきたので分かった。魔理沙は怒ってなどいないのだろう。
ただ、ちょっと痛かったのだ。
「なぁ香霖、心臓の音ってのは生まれる前から聞かされてたんだとよ。だから安心するんだって」
「僕の心音で安心するのはいいが、そろそろ退いてほしいな」
「ん?ああ、すまんな」
僕の心音を聞いていた魔理沙が起き上がると、興味が逸れたように膝から飛び降りた。まるで猫のように静かに着地することもなく派手に音を立てて立つと、彼女は机に置かれた自分の歯を手に取って走り出した。
そしてふいに僕の手をとる。
「早く行こうぜ。やるんだろ?」
気取っていない無表情の顔を見て、無性に魔理沙が大人に近づいていくことを思った。僕は何も言いはしなかったが、頷いた。
強引に外に連れ出されると次の魔理沙の行動は早かった。糸のついたままの乳歯をちらと見ただけで物凄い勢いで屋根の遥か上へと飛ばしたのだ。
「帰れ帰れ帰れ!」
捨て台詞のように魔理沙が空に向かって吼えた。
「なんだい、それ」
「あー?呪い(まじない)だよ。そういうことだろ?」
なにか違う気もしたが、僕は黙って頷いた。
「あ、霊夢」
魔理沙が呟いたように霊夢がゆっくりと飛んでいるところだった。どうやらここに来るつもりらしい。
霊夢の方もこちらに気がついて手を振った。着地した霊夢がスカートの埃を払う。
「二人で何してるの?」
「ちょっと野暮用でね」
「ふうん、珍しいじゃない」
着地した霊夢が僕と魔理沙を交互に見ると、なにやら納得したように頷いた。
「煩わしいあいつの癖は治った?」
自分の前歯あたりを指差して霊夢がニッと笑った。魔理沙は自分もニッと笑いかけると歯抜けの口を見せた。
「ああ、良かった。魔理沙がずっとあんな調子じゃ狂っちゃうわよ」
「霊夢のとこでもかい」
「そうよ!魔理沙のことこんなに考えたの初めてよ!」
「魔理沙の歯だろ」
当の本人は飽きたのか店先の狸の置物を眺めている。大方、どうすれば持って帰れるか考えているのだろう。能天気なやつだ。
霊夢はしばらく魔理沙を見つめていた。
「ねえ魔理沙、このツケは払ってよね」
霊夢がやけに楽しそうに、嬉しそうに言った。魔理沙は狸に体重を任せ、くるりとこちらを向く。
「ちゃーんと払ってやるから安心しろよ」
その顔が満足げに笑っているのを見て、僕はため息を吐いた。まったく、連中は何かと理由をつけて遊び(段幕ごっこをし)たがる。
派手な光が上がるのを見ることもなく、僕は中へと引き上げた。
〇
店に戻ると、日光に照らされて輝く黄金の瞳、趣味の悪い紫色のドレスが見えた。いつの間に入り込んだのか、僕の指定席に我が物顔で座った彼女は読んでいた本から顔を上げた。
「お邪魔してますわ」
「ああ、本当に」
皮肉を言ったつもりだったが、紫は胡散臭げに笑って僕を見つめた。
紫が読んでいたのは今日の昼飯の足しになりそうなレシピはないかと僕がさっきまで読んでいた本だった。それでそろそろ昼時なこと、霊夢が来たので結局三人前作ることになるであろうことも思い出した。
ため息すら出ない。
「これを貰っていきます。今年もストーブは使っているのでしょう?」
「それはたった今非売品になった」
「あら、買うんじゃありませんわ。貰うのよ」
屁理屈をよく言う妖怪だ。
「けど、魔理沙も面白いことをするのね」
「面白いこと?」
窓の外では空を我が物顔で飛び回る霊夢と魔理沙が次々と宣言をしていく。どうやったらあんなに矢継ぎ早に動いたり避けたりするものかと思う。
魔理沙の様子は変わりない。
霊夢も同様にいきいきとした表情だ。
「古い迷信のことです。貴方が教えたのでしょう?」
「ああ、そのことか」
何時から見ていたのだろうか。紫は恐ろしいやつだ。
「外国では抜けた歯を枕の下に入れておけば、歯の妖精(トゥースフェアリー)がコインに変えてくれるそうよ。因みに日本ではねずみ、他の国でも様々に言い伝えがあるようだし……」
「歯の妖精?外国には変な妖精がいるんだな」
そこで紫が笑う。馬鹿にしているのか。
「今は歯を捨てたり投げたりするのは時代遅れですわ。今風で言うと、抜けた乳歯は銀行に預けるものなのです」
「銀行?」
「お金を預ける場所よ」
「外の人間も変なことをするんだね」
「歯についている幹細胞を増殖し、来るべきときに使うのが賢いやり方です。後になってやっておけば良かった、ああすれば良かった、なんて遅いですからね」
「でも、細胞を増やすなんてちょっと妙な話じゃないかい?自分から離れたその一部は、もう自分ではないじゃないか」
「では、こう考えたらどうかしら。今ここで私が貴方を頭と腕、胴体、脚に切り分ける。貴方はどれ?」
僕は怪訝な表情をしてしまう。
「不気味な話をしてくれるなよ」
「で、貴方はどれなのかしら?」
「……全部じゃ駄目なのかい?」
紫は何も言わずに微笑んだ。
「そうだね」
歯は小さなものだから、自分の身体から離れていけば自分ではないような気もする。けれど、大きく分割されてしまえばもはや個々にあれは自分だし、これも自分だしと考えてしまう。
ただし一つ結論を出すとするなら、僕は、こう答えるだろう。
「僕ならこう答える」
窓の外を見てみると、もう終わりそうな予感がした。僕は紫との話を切り上げるために、早く話をしたかった。
「切り取られた身体の一つ一つを見て、これは全部僕の身体だ、と考えている僕こそ僕だ」
「へえ?」
「つまり僕の外側にこそ僕はいる。僕を僕だと認識している、考えている」
「面白いことを言うのね、気に入ったわ」
紫が聖者気取りにそう言った。
その反応に何も言えなくなってしまう。だって、紫に気に入られたって、気味が悪くて仕様がないだけだ。
──カランカラン
ちょうどいいタイミングで、ドアベルが鳴って霊夢と魔理沙が入ってきた。様子からすると霊夢の方が勝ったようだった。
「あーくそ!なんで勝てないんだよ」
「魔理沙の弾幕はいつも勝手に避けていくのよ、言ってるでしょ」
「いや……」
魔理沙が霊夢を見たまま何も言えなくなっていた。椅子の前で突っ立っている僕を見て、魔理沙が首を傾げる。
「香霖、昼飯は?」
「……作ろうか。霊夢の分も合わせて、三人分」
「あら、ありがとう霖之助さん」
霊夢だけがにっこりと笑った。
さっきまでのことを思い出して、紫のいた場所を振り返ってみる。紫はすっかり居なくなっていた。勿論、僕の読んでいた料理本と一緒に。
「ああそうだ、香霖、これ持っててくれよ」
さっきまで紫が座っていた椅子に魔理沙が勢いよく座った。
右手の拳を突き出した魔理沙はん、としきりに僕に手を出すように促した。仕方なく手を出すと、手のひらに小さくて固いものが触れた。
それは小さな白い、魔理沙が投げたはずの──。
「歯だって私の一部、よもや捨てたりするまいよ」
「だって魔理沙、君さっき──」
「なんだ?」
僕は何も言わなかった。
「香霖に預けとくよ。それは私だ、よく覚えとけよ」
魔理沙がけろっとしてそう言った。
ニッと笑った顔がなんとも、こちらが断る隙を与えてくれない。先ほど僕が出した結論を直ぐにひっくり返してしまった。
「ああ……覚えておこう」
もし、四肢が分かれてしまったとしたら──決して考えたくないことだが──それは、自分だと言えるのだろうか。魔理沙はどんな一部でもそれを自分であると考えているらしいが、僕はどうもそうは考えられない。
しかしどうせ、四肢が分かれるようなことはないだろう。考え直して、僕は今日の昼飯のことを考えてため息を吐いた。
優柔不断に揺れるそれを、僕は飽きるほど見つめていたものだが当の本人は揺らすだけ揺らしておいて本に夢中になっている。本当は僕も本を読んでいたのだが、気が散って仕方ない。さっきから頁に指を挟んで、手が汗ばむのを待つしか出来ていないくらいだ。
壁に掛かった振り子時計を今見たので、31回目になる。
時計から部屋へ、そして彼女へ。
彼女の悠々自適さには敵わない。楽しそうに足を、そしてそれを揺らす彼女を見て思わず微笑んでしまう。呆れと諦めの含まれた笑みだが、親しみも込められている。
しかし──ついに痺れを切らした。
振り子時計を見る。僕は言った。
「魔理沙、歯を抜くのなら手伝うよ」
魔理沙の手が、一瞬止まった。
〇
「ぬかしつようばないふぇ」
魔理沙は僕の方を見もせずに開口一番にもごもごとそう言った。その間、絶えず魔理沙の左手は口の中に突っ込まれていた。いや、正確に言えば今にも抜けそうな乳歯に貼り付いたように一定のリズムで揺らし続けていた。
一瞬止まったはずの手は、動いている。
「こっちが気になるんだよ」
僕の返事が遅くなったのは魔理沙の言葉を理解出来なかったからではない。彼女はこう言った。「抜く必要はないぜ」と。
ならばなぜ遅くなったかと言うと、簡潔に言えば呆れた。その必要性を求めない割りに歯を弄くり回す魔理沙。手を突っ込んだままの魔理沙の言葉を瞬時に理解してしまう僕自身に。
しばらくそんなことを考えていると、魔理沙の顔がようやくこちらを向いた。
ただし頁はしっかり押さえたまま。
「ならもっと必要はないな」
「頼むよ」
「何をだって?」
僕がなにも言わないでいると、魔理沙は押さえた頁を下に向けて本を置いた。そうすると痕がつくからやめてほしいのに。しかもその本は僕のお気に入りだ。
言ってもどうせ仕方がないと分かっているので、見なかったことにする。こうするのが一番いいと自然と身に付いてしまった癖だ。
「何をではないよ」
立ち上がった魔理沙に注意をする。
「誰が、だ」
先月並べて置いた古いラジカセに触ろうとした魔理沙がこちらを見た。僕の一言で興味が失せたのか、彼女はこちらへ近づいてくる。机へよじ登るように腰掛けると、僕の読んでいた本を奪い取る。
「えー、茹でたほうれん草は氷水にさっとくぐらせ包丁で適当な大きさに……って、料理本じゃないか」
「勿論そうだよ」
奪い取られた本を奪い取る。
「君が今日の昼飯は香霖が作ってくれ、なんて言うからに決まっているだろう。忘れたのかい?」
「忘れてなんかないが本は必要ないだろ。それとも大層なご馳走でも出てくるのか」
「いや、出てきやしないよ」
出てくるのは良くてもほうれん草のおひたしくらいのものだろう。僕が読んでいたのは単なる興味でしかない。しかし、もしかしたら一品や二品くらいは増えることもあるかもしれない。
それより今は──。
「ああ分かってるぜ。誰が、だったな。さて、誰だ?私に物を頼もうっていうお客様は」
こめかみを押さえる。
「僕だよ、頼む」
すると魔理沙はいっそう嬉しそうな顔をした。
何を企んでいるんだ。
机からするすると降りてきた魔理沙は回り込んでくると、僕の目の前に座った。僕は仕方なく本を置いて、魔理沙と正面から目を合わせる。
「で、なんで座っているんだい?」
「なんでって、香霖なんだろ?」
……訳が分からない。
魔理沙は座り心地を確かめるように椅子を撫でた。僕という、椅子を。つまり、魔理沙が座ったのは僕の膝の上で、向き合って座っていると言えばそうなのだが……。
魔理沙の中では、僕が「自分の歯を抜きたいお客様」にでもなっているに違いない。どこにそんなお客様がいると言うんだ。いや、魔理沙にとって見たらそれは僕なのだろう。
「報酬は店先にある狸がいい」
「……あれはこの店のシンボルだ」
「じゃ、決まりな」
ここに来る奴らは大抵僕の話を聞かない。
魔理沙を筆頭に赤い巫女なんかもいるが、どうしてこうも人の話を耳から我先にと溝に捨てるのが上手いのだろう。まあ、いつものことだからもういい。
それに魔理沙は僕が止めても、家まで運ぶのに苦労しても、報酬は貰っていくだろう。
諦めて魔理沙と顔を合わせる。
「歯は糸に結びつけて抜く。ああ、そうだ魔理沙は迷信は信じる方かな?」
「迷信?」
「そうだ。抜けた上の乳歯を床下へ、下の乳歯は屋根の上に投げる例の迷信だ。そうすれば永久歯がちゃんと生えてくるとされている。健やかな身体に成長するようにというような願いが込められているんだ」
「……いや、信じないな」
僕の話に耳を傾けた魔理沙が首を振る。
「古めかしい迷信だろう。今じゃ殆ど聞かない」
「そうか、以前霊夢に聞いた時には霊夢は迷信通りにやっていると答えたが」
「そりゃ霊夢だからな」
納得している魔理沙に妙に僕も同調してしまう。
二人はずっと一緒にいるような気がするが、こういう時迷信だとかを積極的に信じるのは霊夢の方だ。努力は信じていないのに。
魔理沙は普通の人間と同じように殆どの場合信じていないが、ある程度気にしてしまうというようなタチらしい。どこまでも大多数代表意見を貫く奴だ。
「で、君はどうする?」
「……どうする、なあ」
考え込むような言葉がわざとらしい。
「ま、そりゃお客様にお任せするぜ」
「そりゃどうも」
僕は一度膝から魔理沙を下ろすと、棚から糸と鋏を取り出して座る。律儀に魔理沙は意気揚々として登るように座り、僕の服の袖を握った。
「口を開けてくれ」
「あー」
目を閉じて大きく口を開けた魔理沙は少しおかしい。一つ一つ小さなパーツに手を伸ばして悪戯してみたい気もするが、ここは我慢することにする。
前歯の右側にぐらぐらとしている歯を確認する。手を伸ばすと、ふっと取れてしまいそうに揺れた。
「どうだ?」
「今にも取れそうだね」
魔理沙が他人事のように苦笑する。
それを聞き流しながら糸を小さな乳歯にくくりつけた。糸を伸ばして、丁度いい長さで切る。
「魔理沙がいると僕みたいな半妖でも時間の流れっていうものを感じるよ。乳歯がぐらぐらしているなんて、君はいつまで言うんだろうな」
糸の調整をしながら、魔理沙と目を見合わせる。一瞬交わした目が、不思議そうな視線が妙に焼き付く。
息を吸い込むような音とともに声がした。
「寂しいか?」
「寂しそうに見えるかい?」
「いや、ないな」
魔理沙があまりにも真面目な顔で言うものだから、僕は思わず笑ってしまった。
「じゃ、抜くよ」
魔理沙の一瞬の悲鳴と、鈍い音が重なった。僕はもちろん躊躇うことなく糸を引っ張ったのだ。
手元に残ったのは小さな彼女の歯がついた糸。
口を押さえてそのまま気を失ったように僕に寄りかかった魔理沙は、しばらく身動ぎしなかった。安定した呼吸音は聞こえるから安心はしていいのだろう。
「……抜くなよ」
「同意の上だ」
顔が見えないので怒っているのかとも思ったが、起き上がろうとした魔理沙がふっとまた寄りかかってきたので分かった。魔理沙は怒ってなどいないのだろう。
ただ、ちょっと痛かったのだ。
「なぁ香霖、心臓の音ってのは生まれる前から聞かされてたんだとよ。だから安心するんだって」
「僕の心音で安心するのはいいが、そろそろ退いてほしいな」
「ん?ああ、すまんな」
僕の心音を聞いていた魔理沙が起き上がると、興味が逸れたように膝から飛び降りた。まるで猫のように静かに着地することもなく派手に音を立てて立つと、彼女は机に置かれた自分の歯を手に取って走り出した。
そしてふいに僕の手をとる。
「早く行こうぜ。やるんだろ?」
気取っていない無表情の顔を見て、無性に魔理沙が大人に近づいていくことを思った。僕は何も言いはしなかったが、頷いた。
強引に外に連れ出されると次の魔理沙の行動は早かった。糸のついたままの乳歯をちらと見ただけで物凄い勢いで屋根の遥か上へと飛ばしたのだ。
「帰れ帰れ帰れ!」
捨て台詞のように魔理沙が空に向かって吼えた。
「なんだい、それ」
「あー?呪い(まじない)だよ。そういうことだろ?」
なにか違う気もしたが、僕は黙って頷いた。
「あ、霊夢」
魔理沙が呟いたように霊夢がゆっくりと飛んでいるところだった。どうやらここに来るつもりらしい。
霊夢の方もこちらに気がついて手を振った。着地した霊夢がスカートの埃を払う。
「二人で何してるの?」
「ちょっと野暮用でね」
「ふうん、珍しいじゃない」
着地した霊夢が僕と魔理沙を交互に見ると、なにやら納得したように頷いた。
「煩わしいあいつの癖は治った?」
自分の前歯あたりを指差して霊夢がニッと笑った。魔理沙は自分もニッと笑いかけると歯抜けの口を見せた。
「ああ、良かった。魔理沙がずっとあんな調子じゃ狂っちゃうわよ」
「霊夢のとこでもかい」
「そうよ!魔理沙のことこんなに考えたの初めてよ!」
「魔理沙の歯だろ」
当の本人は飽きたのか店先の狸の置物を眺めている。大方、どうすれば持って帰れるか考えているのだろう。能天気なやつだ。
霊夢はしばらく魔理沙を見つめていた。
「ねえ魔理沙、このツケは払ってよね」
霊夢がやけに楽しそうに、嬉しそうに言った。魔理沙は狸に体重を任せ、くるりとこちらを向く。
「ちゃーんと払ってやるから安心しろよ」
その顔が満足げに笑っているのを見て、僕はため息を吐いた。まったく、連中は何かと理由をつけて遊び(段幕ごっこをし)たがる。
派手な光が上がるのを見ることもなく、僕は中へと引き上げた。
〇
店に戻ると、日光に照らされて輝く黄金の瞳、趣味の悪い紫色のドレスが見えた。いつの間に入り込んだのか、僕の指定席に我が物顔で座った彼女は読んでいた本から顔を上げた。
「お邪魔してますわ」
「ああ、本当に」
皮肉を言ったつもりだったが、紫は胡散臭げに笑って僕を見つめた。
紫が読んでいたのは今日の昼飯の足しになりそうなレシピはないかと僕がさっきまで読んでいた本だった。それでそろそろ昼時なこと、霊夢が来たので結局三人前作ることになるであろうことも思い出した。
ため息すら出ない。
「これを貰っていきます。今年もストーブは使っているのでしょう?」
「それはたった今非売品になった」
「あら、買うんじゃありませんわ。貰うのよ」
屁理屈をよく言う妖怪だ。
「けど、魔理沙も面白いことをするのね」
「面白いこと?」
窓の外では空を我が物顔で飛び回る霊夢と魔理沙が次々と宣言をしていく。どうやったらあんなに矢継ぎ早に動いたり避けたりするものかと思う。
魔理沙の様子は変わりない。
霊夢も同様にいきいきとした表情だ。
「古い迷信のことです。貴方が教えたのでしょう?」
「ああ、そのことか」
何時から見ていたのだろうか。紫は恐ろしいやつだ。
「外国では抜けた歯を枕の下に入れておけば、歯の妖精(トゥースフェアリー)がコインに変えてくれるそうよ。因みに日本ではねずみ、他の国でも様々に言い伝えがあるようだし……」
「歯の妖精?外国には変な妖精がいるんだな」
そこで紫が笑う。馬鹿にしているのか。
「今は歯を捨てたり投げたりするのは時代遅れですわ。今風で言うと、抜けた乳歯は銀行に預けるものなのです」
「銀行?」
「お金を預ける場所よ」
「外の人間も変なことをするんだね」
「歯についている幹細胞を増殖し、来るべきときに使うのが賢いやり方です。後になってやっておけば良かった、ああすれば良かった、なんて遅いですからね」
「でも、細胞を増やすなんてちょっと妙な話じゃないかい?自分から離れたその一部は、もう自分ではないじゃないか」
「では、こう考えたらどうかしら。今ここで私が貴方を頭と腕、胴体、脚に切り分ける。貴方はどれ?」
僕は怪訝な表情をしてしまう。
「不気味な話をしてくれるなよ」
「で、貴方はどれなのかしら?」
「……全部じゃ駄目なのかい?」
紫は何も言わずに微笑んだ。
「そうだね」
歯は小さなものだから、自分の身体から離れていけば自分ではないような気もする。けれど、大きく分割されてしまえばもはや個々にあれは自分だし、これも自分だしと考えてしまう。
ただし一つ結論を出すとするなら、僕は、こう答えるだろう。
「僕ならこう答える」
窓の外を見てみると、もう終わりそうな予感がした。僕は紫との話を切り上げるために、早く話をしたかった。
「切り取られた身体の一つ一つを見て、これは全部僕の身体だ、と考えている僕こそ僕だ」
「へえ?」
「つまり僕の外側にこそ僕はいる。僕を僕だと認識している、考えている」
「面白いことを言うのね、気に入ったわ」
紫が聖者気取りにそう言った。
その反応に何も言えなくなってしまう。だって、紫に気に入られたって、気味が悪くて仕様がないだけだ。
──カランカラン
ちょうどいいタイミングで、ドアベルが鳴って霊夢と魔理沙が入ってきた。様子からすると霊夢の方が勝ったようだった。
「あーくそ!なんで勝てないんだよ」
「魔理沙の弾幕はいつも勝手に避けていくのよ、言ってるでしょ」
「いや……」
魔理沙が霊夢を見たまま何も言えなくなっていた。椅子の前で突っ立っている僕を見て、魔理沙が首を傾げる。
「香霖、昼飯は?」
「……作ろうか。霊夢の分も合わせて、三人分」
「あら、ありがとう霖之助さん」
霊夢だけがにっこりと笑った。
さっきまでのことを思い出して、紫のいた場所を振り返ってみる。紫はすっかり居なくなっていた。勿論、僕の読んでいた料理本と一緒に。
「ああそうだ、香霖、これ持っててくれよ」
さっきまで紫が座っていた椅子に魔理沙が勢いよく座った。
右手の拳を突き出した魔理沙はん、としきりに僕に手を出すように促した。仕方なく手を出すと、手のひらに小さくて固いものが触れた。
それは小さな白い、魔理沙が投げたはずの──。
「歯だって私の一部、よもや捨てたりするまいよ」
「だって魔理沙、君さっき──」
「なんだ?」
僕は何も言わなかった。
「香霖に預けとくよ。それは私だ、よく覚えとけよ」
魔理沙がけろっとしてそう言った。
ニッと笑った顔がなんとも、こちらが断る隙を与えてくれない。先ほど僕が出した結論を直ぐにひっくり返してしまった。
「ああ……覚えておこう」
もし、四肢が分かれてしまったとしたら──決して考えたくないことだが──それは、自分だと言えるのだろうか。魔理沙はどんな一部でもそれを自分であると考えているらしいが、僕はどうもそうは考えられない。
しかしどうせ、四肢が分かれるようなことはないだろう。考え直して、僕は今日の昼飯のことを考えてため息を吐いた。
「……抜くなよ」「同意の上だ」というやり取りがよかったです