1
雪の中、いつもと変わらず手を合わせて森の小径に立っていた。笠の上に積もっていく雪が重くなり、時折手を伸ばして払う。冷えた指を服で拭っていると、通りがかったアリスと目が合った。
「モデルになってくれない?」と彼女は言った。服を作ってくれるのだろう。色が濃いのであまり気にしていなかったが、確かに私の着ているものはいろいろなところがほつれたり、染みになったりしていた。いつも吹きさらしの外に立っていたからだ。モデルという響きも、服の古さを気づかれたこともなんだか恥ずかしくて、笠の下で少々顔を赤らめながら私は彼女についていった。
彼女は私の身体の寸法を測る。巻尺を持った彼女の金色の髪が、水平にした私の両腕の下を波打ちながら何度も回った。彼女が長さを測るたびに、私の前に浮いている人形が、その小さな手に持っているさらに小さなメモ帳に数字を書き込む。
「少しかかるからね」と彼女は言う。「ゆっくりしてて」
自分の部屋で作業をするそうだ。私は頷いて、廊下に消えていく彼女の背中を見送った。ソファに腰かけて、いつの間にかテーブルの上で湯気を立てている紅茶を啜り、マドレーヌを齧った。
表では雪が降り続いていた。一枚窓を通すと、正方形を無数の白い斜線が切り取り続けているようにも見えた。実際に外にいたときよりも寒そうだった。寒さも雪も取り立てて苦手なわけではなかったけれど、それでもこうしてひとたび暖かい部屋の中で寛いでしまうと、なかなか進んで外に出ようという気にはならないものだと思う。
私は座ったまま部屋の中を見渡す。向かいの棚には異国の人形や天球儀なんかが入っている。色とりどりのマトリョーシカが一番下の列に整列していた。縮小された自分が自分の中に入っているというのは、いったいどういう気分なのだろうか。たとえばそれを自分の身に置き換えてみる。地蔵の中の地蔵。あるいは宝誌和尚の顔の中の顔。それは戸惑うかもしれない。
小さな歯車のモビールが上の方に釣り合って浮いているのを見つけた。普通のモビールと違うのは、それが天井のどこか一点から吊り下がっているのではなくて、どうやら部屋の上の方を水平にゆっくりと移動しているらしいところだ。私はそれを見ているうちにだんだん眠くなってきた。ソファは柔らかく、アリスが戻ってくるまでにはまだまだ時間がかかるだろうと思われた。傍らのクッションを枕にして私は横たわった。
暖かい柔らかい空気がとろとろと身体を包んで、私の意識は溶けていった。
2
目が覚めて、しばらくは自分の周りで起こっていることの意味がわからなかった。そこは眠る前と変わらずアリスの部屋だったけれど、その空間は先程までとは決定的に異なっていた。私は自分自身に圧迫されるのを感じていた。部屋の中には私の身体が何十とあった。私と寸分違わぬ私の人形が。それはソファーにもたれかかり、床に立ち、壁に立てかけられていた。私は思わず声を上げた。
それを聞きつけたのか、アリスがドアを開けて入ってきた。彼女はまたもう一つの私の身体を抱えている。
「おはよう」と彼女は言った。「どうかしたの」
「どうかしてるよ」
アリスは私の人形を静かにドアの横に立てかけた。
「あれ、ごめんなさい。もしかして嫌だった?」
「嫌っていうか……びっくりするでしょう、こんなの」
「でも、モデルになってくれるって言うから」
「それってこういうこと? 服を作ってくれるんじゃなくて?」
「あ、それも作ったわよ」とアリスは少しほっとしたような顔で言った。「ほら」
彼女から手渡された服を私は何とも言えない気持ちで受け取った。
「どうも」
「ほら、お地蔵様ってたくさんいるでしょう。だから」
「だからって」
着替えると、服はまったくぴったりと身体に合って暖かかった。それで結局私はアリスに怒り損ねてしまった。
部屋の中にたくさんいる私をなるべく見ないようにしながら外に出た。雪はやんでいた。青空が見える。先ほど私とアリスがつけた足跡は地面から消えていて、真新しい白い地図が広がっていた。常緑の木の葉の上にも律儀に積もった雪が、日光に照らされてきらきらと輝いていた。光が私の目を射る。
外気が私の顔や手をざらつく指で撫ぜたけれど、身体はぜんぜん冷たくなかった。服の生地はしっかりしていた。そこに関しては彼女は大したものだ。新しい境界は私と私以外を明確に隔てていた。そうしたことを快適に思うのは、考えてみると奇妙なことだった。
私は次第に機嫌をなおして足を進めた。このままいつもの場所に戻るのも何だかもったいないような気がしていた。服を新調したのだ。たまには里に出てみるのも良いかもしれない。そうした考えの後ろには、たくさんの私が突然現れたこの森から離れたいという無意識の考えもあったに違いないが、ともかく歩くほどに身体はいっそう暖かくなって、私はだんだん元気になっていった。
3
里の入り口で向こうからやってくる魔理沙に出くわした。彼女は私の姿を見て目を丸くした。
「やあ」と私は言った。
「おう。あれ、え?」
「なに?」
「どこから来たんだ?」
「アリスの家」
「そうか」と魔理沙は言った。彼女は少し視線を逸らして考えこんでいた。
「どうしたの?」
「いや、良い。こっちの話だ。どこに行くんだ?」
「里」
「私も行こう」
「あなた里から歩いてきたじゃない」
「用を思い出したんだよ」
「嘘」
「嘘じゃないって」
彼女は腕を上げて誤魔化すように私の肩を叩いて歩き出した。本当のことを言っていないなとは思ったが、彼女の気安さのちょうど裏側には、自分で決めたことを覆さない強情さがあるということを知ってもいた。私は諦めてその足取りに倣った。
「何しに行っていたの?」と私は訊いた。魔理沙は荷物を持っていなかった。彼女が買い出しから戻るときにはいつでも大きな袋を提げて、里のこの入り口からすずらんの花のように飛び立つのだ。
「貸本屋に寄るつもりだったんだ。でもそれもなんか忘れちゃってたな」と魔理沙は言った。そして私をじっと見た。その視線の帯びる色合いは、何がとは言い表せないが、いつもと少し違っていた。
「魔理沙、今日変じゃない?」と私は訊いてみた。
「私が? 何が?」
「何って言われるとさ……。でも何か隠してるんじゃないの」
「それは正直私が訊きたいくらいなんだけど」
「何それ。どういうつもり?」
「いや、ごめん。怒るなよ」
「怒ってない」
魔理沙は困ったような笑顔を浮かべてこっちを見た。
「なあ、悪かったって。たぶん私もちょっと疲れてるんだよ」
「帰って寝たら」
「そう言うなよ」
「変な日だな」と私は言って溜め息をついた。
違和感はあったものの、魔理沙の相手をするのに少なくともあの部屋にいたときほどの居心地の悪さは感じなくて、彼女を本当に追い払おうとまでは思わなかった。ただ誰が何を考えているのかさっぱりわからなかった。里はすぐそこだった。
4
「あんたには言っとくけどさ。実は妖怪なんだ、私」
周囲を何度も見回して誰もいないことを確かめてから、眉間にしわをよせ、声を潜めてそんなことを言うので、私は思わず「みんな知ってると思うけど……」と答えてしまった。
赤蛮奇は中途半端に口を開いたまま、しばらく眉も動かさずにじっとしていた。それから首に巻いた布を口元まで引き上げた。表情が上半分しか見えなくなったが、彼女の頬がどんどん赤くなるのでそれで充分だった。
彼女はそのまま惚けたようになっていたが、少し経つと立ち直って「いや、嘘でしょ、そんなわけないじゃん」と言った。その目があまりに真剣なので私は困ってしまった。
私が目を反らして黙っていると「え、ほんとに?」と彼女は囁くように言った。私は仕方なく頷いた。
「なんで? ほら、どうみても人間でしょう」と言って彼女は腕を広げて着物の袖を握ってくるりと回った。彼女の言う通り、その服装に特に違和感はなかった。首を覆う分厚い布も、この季節の中では妥当な装具だった。
「それはもちろん頑張ってると思うけどね。出かけてる間に窓から首が出てくるから……」
彼女は恨めしげな顔を長屋の二階の窓に向けた。私も彼女の視線の先を見た。そこから彼女の顔の複製が、それも時には幾つも連なって排出されてくるのだ。近くの子供たちはそれを福引きと呼んでいた。大人は単に事象全体を指して粗相と呼んだ。でも私はそうしたことまでは言わなかった。彼女がすでに両手を下げてうなだれていたからだ。
しばらくして顔を上げた彼女は「また引っ越しかな」と苦々しく言った。
「しなくても良いんじゃない」
「なんで?」
5
籠を背負い、笠を被った薬売りが行き過ぎようとするのを呼び止めた。彼女は私に気づくと片眉を微かに上げてこちらに来た。
「売れる?」と私は訊いた。
「冬は風邪引きが多いね」と彼女は答えた。「あんたもずっとこんなところに立ってて風邪引かないの?」
「大丈夫」
「なにか変わったことあった?」
「ううん、別に。いや、うーん」
「?」
「あれ? なにかあったかもしれない」
「大丈夫?」と鈴仙は少し笑いながら言った。「お薬出しときましょうか?」
「いや、そんなんじゃないから」
鈴仙とはそのまましばらく立ち話をした。永遠亭は各家庭に常備させた置き薬を折々に補充して回り、それに伴って、というよりもこちらの方が彼女たちにとっては本題であるのだが、里の動きやそれにまつわる細かい情報を集めていた。
もちろん主が不死の者である組織にとっては政治は趣味以外のなにものでもない(彼女らにとってそうでないものが果たしてなにかあるだろうか?)のだが、とはいえそういう意図を知っているからといって私が何かを言うわけでもなくて、私たちの会話はいつでも表層的な世間話にとどまり続けた。相手の方でどういう風に思っているのかはわからないが、私はそういった薄氷を踏むような行為が逆説的に孕む軽やかさが結構好きだった。
「なんでずっと立ってるの?」と彼女は私に訊いた。
「なんで薬を売ってるの?」
「仕事だよ」と言って彼女は笑った。
次の得意先に向かうため、彼女は立ち去った。私とよく似た笠を被った彼女の後ろ姿を眺めながら、たとえば私と彼女が妥協の余地なく決定的に対立することがこの先あり得るのだろうかと私は考えた。それは結局よくわからなかった。そしてその疑問そのものも、先ほど彼女に話そうとして思い出せなかった話と同じように、氷の浮かぶ湖に沈んでいって二度と戻ってはこなかった。
6
帽子を被った背の低い金髪の兎が、先ほどからずっと私を見てくる。最初は通りの向こう側から帽子の縁越しに眺めていたのが、次第にどんどん近づいてきて、今では目の前でじっと私の顔を見上げている。そのまなざしから感情らしいものを読み取ることはできない。
私はもうとっくに声をかけるタイミングも視線を合わせるタイミングも失っていて、ただ合掌して目をそらしたまま、笠の下で困り果てている。
居心地の悪さの中で、私は自分の身体の外郭を感じている。目的のわからない視線に曝されて、私は自分というものがどのように見えているのか考えることをやめられない。それは極めてネガティブな、自己に対する減点法のまなざしだ。
「あなた、さっき向こうにいたのとは別の人?」とようやく兎は口を開いた。
それまでの沈黙があまりにも長かったので、彼女の発した言葉は私の頭の中ですぐには像を結ばなかった。そのとき私は彼女を初めて正面から見た。
彼女の口からは串がくわえ煙草のようにはみ出していた。マフラーはしていたが、この寒さの中にあってはかなり薄い服装をしている。金色の髪の向こうから、二つの赤い目が私をじっと正面から見据えていた。彼女の目は、怒りや敵意を帯びているというわけではなかったが、逆にそこには興味や好奇の色彩もさっぱり浮かんでいなかった。彼女の発した質問は、彼女の求める答えに対して真っ直ぐに、かつ垂直に照射されていた。その角度の鋭さに、私はなんともいえずどぎまぎとした気分にさせられた。
「私……え?」と私は訊き返した。
「あなたさっき向こうにもいた?」と兎はもう一度ゆっくりと訊いた。さっきよりも低い声だった。
「いや、私はずっとここに」と私は答えた。なにも後ろめたいことはないはずなのに、私の言葉は意図せず言い訳じみた口調になってしまう。
「そう」と彼女は一言答えたきりしばらく俯いて黙り込んでいた。
彼女の沈黙と共にまたあの居心地の悪さが戻ってきた。
「なにか?」と私は耐えられなくなって訊いた。彼女は答えなかった。
俯いたまま、突然彼女は私の手首を掴んで引っ張った。それは強い力ではなかったが、私の身体はなんの抵抗もなく動いた。
合掌をしていた私の右手が、左手との接続を解かれて、彼女の意志と力に曳かれて前に出た。足も。彼女は私の足が動くのを見た。私も私の足が動くのを見た。一歩。彼女はそこで止まった。
彼女はいつのまにかまた顔を上げて私の顔を見ていた。彼女の赤い目と私の目が合った。やがて彼女の瞳が少しだけ揺れた。私も彼女も何も言わなかった。口の中がひどく乾いていた。
通りには私たち以外に誰もいない。微かに耳鳴りがする。雪はやみ、時は凍りついていた。
彼女は私の瞳の中になにかを見つけたように見えた。いや、そう思ったのは彼女が立ち去ったあとだったのかもしれない。今となってはそれがどちらなのかわからない。
彼女は私の手を離した。それは元の場所には戻らず、ぶらんと下に垂れた。左手は対象のない祈りをかたどったままでいた。それはまるで他人の手であるような気がした。
「ごめん」と彼女は言った。彼女は垂れた私の右手を取ってもとの場所に戻した。右手は左手にはめ込まれたが、それはもう合掌であるようには思えなかった。右手はもう私のものではない、いやそれどころか手でさえもないような気がした。
「なにするの」と私は訊いた。声は微かに震えていた。それは怒りよりも恐怖に近かった。それが外観からするとそれほど恐れるような出来事ではないことが、いっそう困惑の程度を深めていた。「どういうつもり?」
「私が悪かった。ごめんね」と兎は言った。本当に申し訳なく思っているように見えた。
そうやってしおらしくされると、それ以上なんとも私には言いようがなかった。私は自分で説明のつかない感情をぶつける理由と対象を同時に失ったのだ。
彼女がいなくなってから、私は何度も深呼吸をして自分を取り戻そうとした。少しずつ体勢を変えたり、表情を変えたりして、彼女がやってくる前に自分はどうしていたのかを自分の身体でなぞりなおそうとした。私は私をコピーしようとした。
ぎこちなさは私が意識すればするほど顕著になっていったが、やがてはそのことそのものにも慣れた。雪がちらつき、通りに人影がまたいくつか戻るころには私はまたもとの地蔵に、街角の祈りを凝固させた一つの地蔵に戻った。
やがて近所の娘がやってきて、私の笠に薄く積もった雪を手箒で払った。彼女は私に向かって手を合わせた。
それは彼女にとっても私にとっても日々の中のごくありふれた些細なルーティンだったはずなのだが、目を瞑り頭を下げた彼女の前で、実際のところ私はひどくうろたえていた。
私はいつもはそんなときにただじっとして、相手の祈りが終わるのを待っていた。他のすべてが終わるのを待っているのと同じように。なにかを望んでいる相手に向き合うときの、そうした気安い自分の態度になんら疑問を持たなかった。
それは、祈りに対象はなく、本人の心の中で起こるものだということを私が知っていたからだ。私に向かって祈っている者がいたとしても、私はその行為のきっかけにすぎないと考えていたからだ。
私は一種の宗教的標識なのだ。進め、止まれ、危険、祈れ。その表示を受けた者の内の幾分かは私の前で祈る。でもそれは祈れと表示されたら祈る者の祈りなのだし、その祈りは私を経由しては成就しない。私の前で、主体はその願いを叶える力を持っているとは思えない対象に向かって願いを照射する。それが頼りない対象であっても、照射そのものによって願いは明確になるのだ。すなわち、自分がなにを望んでいるのかを知ることこそが祈りの本質であって、そこに外在する因子はないと、そう思っていた。
ところが、先ほど金髪の兎に手を引かれ、歩き出した一歩。その一歩だけで私はまったく打ちのめされてしまった。私はただの標識ではなかった。もちろんそうだ。もちろんそうなのだが、私はそのことを本当の意味ではわかっていなかった。
兎は私を空白から引き剥がしたのだ。私はいるべき場所にいるのではなく、偶然そこにいただけなのだということを、兎は手を少し引いただけで私にわからせた。祈られる私は、私に向かって祈る他者となんの違いもないのだ。そのことを知ったいま、私は私に向かって祈る他者と相まみえたときにどうすれば良いのか、どういった心持ちでいれば良いのかわからなかった。
やがて祈りは済んだ。他のすべてが済んでいくのと同じように。娘は自分の家に帰っていった。彼女はなにを祈っていたのだろう。私にはそれを訊くこともできたのだ。そうすれば、彼女の祈りと差し向かいになっているあいだに私がどうすれば良いのかわかったかもしれない。しかし、結局そんなことはしなかった。
人影はまた途絶えていた。私はひとりきりで、自分のいる場所から動かなかった。どこにいても構わない私は、選んでそこを離れなかった。
私は合掌していた。そうしないでいることもできるのにそうしていた。私は何かを祈っているということだ。しかし、自分が一体何を願っているのか、もちろん私にはわからなかった。
7
貸本屋の子が新しい本を持ってきてくれた。その代わりに、彼女は私が読み終えた本を小脇に抱える。彼女に感想を訊かれた私は、話としては面白いが、登場人物の思考に一貫性がないように思える、と答えた。彼女もそれに同意してくれた。それから彼女は私に向かって手を合わせる。
私たち二人のあいだには、一つの密閉された経済があった。すなわち、彼女は私の前で祈って賽銭を払い、私はその金で本を借りる。
このささやかな永久機関は私の生活の福祉を力強く増進していたが、彼女にとってもそうなのかはよくわからない。推理小説の感想を述べる口がついている相手に敬虔な気持ちを抱くためには非常な努力を要すると思われるからだ。
過度に形式的であるために戯画のようになっている小銭の往復の帰結として新しい本を渡されて、それでも私は少し浮き立った気分になった。
「これはどういう話?」と私は訊いた。ずいぶん分厚い本だった。
「えっと、かなり変なんですけど。一年間でものすごくたくさんの密室首切り殺人が起こるっていう」
「すごい」
「あんまり真剣に読み過ぎない方が良いと思いますよ、本当に」
「最後まで読んで納得する?」
「しません」
「どうしてそれを私に?」
「怒りを共有したくて」と彼女は真剣な表情で言った。
「そう」
手の中の本は先ほどよりも幾分重く感じられた。雪片が表紙の上に舞い降りた。
それから彼女は最近自分が遭遇した、ちょっとした怪異の話をした。
「妖怪ってすごいですよね。私怖いけど憧れもあって。どうやったら仲良くなれるんだろう」と彼女は言った。
彼女は一体、自分の目の前にいる私を何だと思っているのだろうかと私は思ったが黙っていた。
「あと最近変わったお客さんがいるんです。私なにも話してないのに私がいま読んでる本の話をしたり、私がちょうど考えてる話をしたりするんですよ。すごくないですか?」
「そうね」といったきり、私はもちろん私の微笑みと沈黙を守った。
8
寺子屋から吐き出されてきた子どもたちが私の前を行き過ぎていくとき、私は風景になる。子どもたちは私には目もくれない。彼らの神は一夜のうちに街を埋め尽くした雪であって、彼らは肩にかけた荷物を落とさないまま器用にしゃがみこんで本尊を手に取る。彼らはそれを固めて互いに投げつけ合い始めた。
白い戦争がしばらく続き、兵隊たちはもっと広い戦場を求めて駆け出した。あとにはただ二人の子供が残された。彼女たちを見て私は思わず目をみはった。なにしろ二人はまったく同じ顔をしていたのだ。
彼女たちも雪を集めて固めはじめたが、先ほどの軍勢のように信仰の対象を投擲するようなことはしなかった。二人の子供は一つずつ雪玉を持ち、転がして膨張させていった。その様子は植物の生長の早回しを思わせた。作業のあいだも子供たちは私がいることに一切気づく様子がなかった。二人は地面を覆っているものに妥協なく入れ込んでいた。その熱中ぶりには彼女たち互いの存在さえも忍び込む余地がないのではないかと思うくらいだったのだが、彼女たちは一度もぶつかりかけることもなく、要領よく工程をこなしていた。よく見ると、二人の動く範囲はそれぞれ決まっていて、互いに互いの領域を侵すことがなかった。彼女たちは神をうまく分割していた。
やがて二人は領域の接点で雪玉を持ち寄った。道を挟んで私のちょうど反対側に転がして運んでいき、片方がもう片方の上に雪玉を載せた。そこで初めて二人は多少なりとも別の行動を取り、私はそれを見てなんとも言えず安心した。
雪だるまはシンプルだった。目鼻も手もない。それ以上に奇妙なのは二つの雪玉がまったく同じ大きさであることで、端から見るとむしろバランスが悪いのではないかと思われたが、二人は至極満足げに完成したそれを見ていた。
彼女たちは五分ほどひとしきりそれを眺めたあとで振り返った。私と目が合った。二人はそこではじめて私がいることに気づいた。とっさのことで、私はどんな表情をすれば良いのかわからなかった。
彼女たちの行為をずっとそこで見ていたことをあとになって知られるのは、それが単に私の存在に気づかれていなかったからだとしても、なんとなく居心地が悪く気恥ずかしかった。
彼女たちは一瞬顔を見合わせてから通りの向こうに駆け出していった。結局私も二人もなにも言わなかったが、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
のっぺらぼうの雪だるまだけがそこには残された。私は通りを挟んで今や誰の仲介もなく神と対面していた。幾分緊張した。合掌にも自然と力がこもる。神に顔がないのは確かに一つの解決なのかもしれないとも思った。
ひどく静かな数分間が過ぎた。ネズミ一匹入る隙がないように思われた、私と雪だるまとの緊迫した対峙は、しかし思いのほか呆気なく破られることになった。
子供たちを吐き出しきった寺子屋から、教師が伸びをしながら出てきた。欠伸と深呼吸との中間くらいの彼女の吐息が、白いもやとなって発された。そのなんとも言えず脱力した仕草が私の目の隅に入ったとき、それまで空気が孕んでいた神聖さも静けさもきれいに霧散してしまった。
彼女はすぐに私に気づき、柔らかく眠たげな微笑みとともに片手を上げてこちらに向かって歩いてきた。
「やあ」と彼女は言った。それから雪だるまにも気づいて指さした。「作ったの?」
「まさか」と私は言った。
「冗談だよ」と彼女は笑って言った。「雪が降ったらいつもああなんだ」
彼女は二人のことを言っているのだと私にはわかった。
「ねえ、本当に同じ顔だったのよ」と私は言った。「雪だけじゃないでしょう?」
「まあね」と彼女は言った。「とても仲が良い」
彼女の言及は事象が要求する解像度を満たしていないように思えた。
「双子なの?」と私は訊いた。
「いや、それがそんなんじゃないんだ。まったく血の繋がりはない」
私は驚いた。「そんなことってあるの?」
「うん。あのね、これは教師としてはあんまり良い発言じゃないかもしれないけど」と彼女は言った。「もっと興味深いことには、寺子屋に入ったとき、二人は全然似ていなかったんだ」
私は首を横に振った。「信じられない」
「彼女たちは数年かけて同じ顔になった」と彼女は言った。「もちろん最初から仲は良かったけどね」
彼女は私の言葉を少し待ったが、私がなにも喋らないのを見てとると話を続けた。
「当たるのかどうかわからないけれど、私は一つの予想を立てている。つまり、これから彼女たちの顔のかたちはまた少しずつ離れていくんじゃないかっていうこと」と言って彼女は両手の人差し指を立てた。「異なる二人がそれぞれに成長していく。それは任意の二人についてそうだし、彼女たちにしてもそうだ」
そう言って彼女は二本の指を交差させた。「でも彼女たちの外見には交わる一瞬があったんだ。あの二人はいまちょうど外見上の交点にいる」
私は仕方なく頷いた。そして一つだけ、どうしても気になったことを訊いてみた。
「違う顔になったら二人はいまほど仲良くはなくなると思う?」
彼女は笑って首を横に振った。「そんなことはないんじゃないかな。前から友達だったんだ。それに、たとえいっときのことであったとしても、自分と同じ顔だった相手なんてそう何人もいないだろう?」
それは確かにその通りだった。
9
銭湯が火を入れ、高い煙突がガラスのように澄み切った青空に白い煙を吹き始めた。それは私のまさに頭上に伸びている。白を吐き出す煙突の口を見るためには、身体が反り返るほど首を曲げなくてはならない。首を元に戻すと稗田の当主が私の前に立っていた。やたらとにこにこしていた。
「こんにちは」と稗田が言った。
「どうも」と私は言った。知らずぶっきらぼうな声色になった。
通りには湯の沸く柔らかな匂いが漂っていた。里の中心近くで、この時間は人通りが多い。人々は私に気づくと会釈をしたり手を振ったりして通り過ぎた。それが稗田の笑顔の背景になっていて、なんだか奇妙な絵を見ているような感じだった。
付き人はいなくて、稗田は独りだった。彼女は豪奢な着物の肩から大きな白いタオルをかけ、洗面具の入っているであろう行李を持っていた。
「家に立派な風呂があるんじゃないの」と私はやや意地の悪い訊き方をした。
「ありますよ」と稗田は明るく答えた。「でも好きなんです」
そのあっけらかんとした言いぶりに、私もなんだか毒気を抜かれてしまって、「そう」とだけ答えた。
そのまま会話は終わり、彼女は銭湯の暖簾を潜っていくのかと思ったが、彼女はなおも笑顔のままそこに立っていた。
「どうしたの?」と私は訊いた。
「ねえ、あなたこの頃すごく評判良いんですよ。知ってます?」
「前は悪かったの?」
「そうじゃなくって」
「ふうん」と私は言った。それはまあ別に悪い気はしなかった。
「みんながあなたの話をしています」と彼女は言った。「里の隅々まで。比喩じゃなくって」
「へえ」と私は言った。少し不思議な感じがした。「まあ、確かにここは結構目立つ場所よね」
稗田は少し首を捻った。「ここ? いや、ここもそうですが」
「?」
「とにかく、私は郷のことを書いてるんです。前も言いましたけど。色んな妖怪や、変わった人についてね。あなたのこともすでに書いていたんだけど、これはちょっと追加取材が必要だなって」
「別に良いけど……」
私がそう言うと彼女は目を輝かせた。
「ありがとうございます。じゃあまずは……あなたは魔法を使えるというので私はそう書きましたが、この頃たくさんのあなたが里のあちこちにいるのも魔法によるものなんですか?」
「えっ?」
「なんですか?」
「私がたくさんいるってどういうこと?」
「いや、どういうこともなにも、そのままのことじゃないですか」
私は辺りを見渡した。目が合った通行者はほとんど例外なく私に向かって笑いかけたり会釈をしたりする。その中には知っている者もいるが、まったく見覚えのない者もいた。私は稗田に視線を戻した。
「え、なにそれ。私ぜんぜん知らない」
稗田はしばらく眉をひそめて伺うようにして私の顔を見ていたが、しらを切っているわけではないようだと判断したのか、表情を和らげた。
「まあ私も同時に二人に会ったことはないんですが」と稗田は言った。「いろいろな人から聞いた話を総合するとやっぱりそういうことになるんですよね」
私は釈然としないままとりあえず頷いた。稗田は私の不服そうな顔を見て「自覚はないんですか?」と訊いた。
「悪いけど、何を言っているのかわからない」と私は答えた。
そのとき轟音が響いた。耳ももちろんだが、その音を私は身体に直接伝わる振動として感じた。それは腹の底から私を揺さぶった。何が起こったのかわからなかった。平衡感覚を失いつつあったが、私はそこに宿命的に立ち続けていた。
ぶれた私の視界の中で、稗田の驚いた表情が何とか見えた。稗田は後ろに倒れ、尻餅をついた。そして結局のところそれが彼女の命を救った。私の頭上から、ひときわ大きな音が聞こえた。稗田が何かを叫んだような気がした。私は首をひねって空を見上げた。
10
里の通りのそれぞれの屋根にも雪は積もっていた。分厚く着込んだ子供が軒下で雪をかいている。家の中からもう一人若い女がスコップを持って出てきた。女は子供を一瞥したあとで、スコップをいったん雪の上に置き、なにかに向かって手を合わせ、頭を下げた。そのなにかは屋根の陰になっていて見えなかったのだが、私には予感のようなものがあった。
私は魔理沙の手を引いて走り出した。俯きがちに歩いていた彼女は突然のことに驚いて顔を上げ、つんのめるように慌てて足を前に送った。
私は女の後ろに回り込んだ。肩越しにその信仰の対象を見た。女が手を合わせていた相手は私だった。
隣で魔理沙は手を膝につき、肩で息をして恨めしげに私を見上げたが、私の視線の先に気づくと表情を変えた。私はその場で口もきけずにしばらく黙っていた。
「あれはお前なのか?」と息を整えた魔理沙は私に訊いた。奇妙な質問だったが、他に尋ねようがないことも確かだった。私は黙って頷いた。
魔理沙は私の肩を叩いた。落ち込むなよ、そういうときもあるよな、という感じを出そうとしたことと、それにあえなく失敗していることとがどちらもよくわかる叩き方だった。
もう一人の私は私に気づかなかった。もっと近づいてみるべきなのか私は迷った。私は魔理沙を振り返った。何も言わなくても彼女は私の逡巡を察したようだった。彼女は「ちょっと待て」と言った。「あいつだけじゃないんだ」
「他にもいっぱいいるんでしょう?」
「なぜ知ってる?」
「経験」
魔理沙は怪訝な顔をしたが、それ以上訊かなかった。私たちはそこから離れた。魔理沙は私の姿を先方の視界から隠すように位置を取って、マントを大きく広げて歩いた。
「向こうだ」と彼女は言った。
でも本当は彼女に案内してもらうまでもないのだということはすぐにわかった。私は里のあらゆるところにいた。私はあらゆるところで人々と言葉を交わしたり、笑い合ったり、祈りを受けたり、秘密を打ち明けられたりしていた。私にはそれが見えた。私が私を探して魔理沙と通りを歩いていくと、その途中にすれ違ったあらゆる人々が私に笑顔で手を振ったり、会釈をしたり、話しかけたり、あるいは無言で意味ありげな視線を送ってきたりした。他者は私をすべての私の総合だと思っているのだ。私には私の身に覚えのない他者との親密さが付着していた。それは目には見えないもので、それだけに底が知れなかった。私と並列に存在している私の言行の結果が、いま私の一身に向けて投影されているのだ。
「大丈夫か?」
魔理沙は私の顔を下から覗き込んでいた。心配そうな顔だった。あるいは本当に心配してくれているのかもしれない。
「大丈夫」と私は言った。私は確かに、少なくとも冷静ではあった。ただ本当に大丈夫なのだろうか? 私が冷静であることそのものが問題であるようにも思えた。
もちろん私が複数、恐らくは無数にいるということ自体は異様だった。私はアリスの家でそれを見て驚き、不快な思いもしたが、それは結局驚いたというだけのことで、最初の衝撃が過ぎてしまえば私にとってはそれほど切実な問題とはならなかった。アリスの言っていたことは正しかったのかもしれない。私はある意味で避けがたく地蔵なのだ。
むしろ私にとって問題なのは、ここではないそこにいる私が私自身だということを、すっきりとは飲み込めないことだった。それが私自身だとは納得しきれない私の行いが、私に還元されてくるということ。私は私から決定的に疎外されていた。
いま団子屋の軒下で客と笑いながら話をしている私、あの私の笑いをいま直接自分のものとすることはできそうもなかった。それができるのがあれが本当に自分だということなのではないか。
私の表情を見て魔理沙は心配してくれる。それは優しい、しかし他者の振る舞いだ。私はこれからやろうと思えば、自分以外の自分を初めて見るあの平凡な驚きを通過して、あの団子屋の下での私と客との会話の中に入っていくことができるかもしれない。私と客の交わす冗談、そのおかしみを共有することができるかもしれない。一緒に笑うことができるかもしれない。でもそれは私の顔を覗き込んでくる魔理沙ができることと同じなのだ。目に見える徴候から類推した感情、他者とのあいだの海よりも広い隔絶をなんとか渡ろうという試み、結局のところそれが上手くいこうが失敗に終わろうが、誰からも本当には結果を知らされることのない出題に対する回答。あそこにいる私の内心に対して私が行えるアプローチは僅かにそれのみだと思われた。つまりそれは他人であって、私ではないのではないだろうか?
私はそういうことを考えながら魔理沙の横を歩いていた。道すがら、本当にたくさんの私がいた。彼女たちは、お互いには視認することのできない距離を保ったまま、それぞれの通りに立っていた。そして、その区画の中の人々の心のひだにしっかりと食い込んでいた。私は里のどこを通っても親しみのこもった歓迎を受けた。自分の中に彼らの歓待を適切に受容するための記憶と経験がないのだということを気取られないようにする唯一の方法は、こちらからは話し出さないことだと既に察していたので、私は挨拶だけしてただ微笑んでいた。
でも、それだけでは済まないことが一度だけあった。向こうから俯きがちに歩いてきた背の低い金髪の兎は、顔を上げて私を見るなりびくりと身を竦ませて、目を見開いた。通りを歩く他人同士の目が合ったそのとき、私は先ほど考えていたことのもう片方の側面、つまり私に私の身に覚えのない反目や気まずさが付着している場合について思い起こした。相手とのあいだに一体何が起こったのか知らないまま、緊張関係に投げ込まれるということについて。
彼女の表情の一部分は帽子の陰に入っていて、すべてをつぶさに見ることはできない。それでも、彼女の中で警戒心らしきものと罪悪感や戸惑いらしきものとがほとんど等分になって揺れ動いているであろうことは察せられた。それが最終的にどちらに触れるのかわからなかった。あるいは本人でさえわからないのかもしれない。私たちは通りの中で立ち止まった。魔理沙は彼女と私の顔を見比べていた。間に入るべきなのかどうか、決めかねているように見えた。
奇妙な帰結ではあるが、私が里に入ってから一番私に近いと感じたのは、親しく話しかけてくる大勢の人々でもなく、また無数に存在する私自身でもなく、この金髪の兎の揺れ動く表情だった。内実がわからないのにもかかわらず、私は彼女の中で起こっているせめぎ合いを自分のことのように感じた。それはやはり先ほども考えたような、他者から輸入した感情であることには違いなかったけれど、その隔絶を私は感じなかった。
私の中に彼女と対置される感情がないことに気づいたのか、彼女の中で戸惑いが勝ったようだった。
「あなたは誰?」と兎は訊いた。それは的確な質問だったが、的確であるがゆえに私は答えを持っていなかった。
「矢田寺成美」と私は答えた。そういうことを訊いたのではないということはよくわかっていた。彼女も少し苛立った表情を見せた。「ごめん」と私は素直に謝った。
兎は私と私の視線の向こうにいる私を見て、確認するようにもう一度私の顔を見た。私は頷いた。
「でも私にもよくわからないの」と私は言った。
「そうなんだろうね」と彼女は言った。「わかった。信じるよ」
「ありがとう」
「歩いているのを初めて見た」
私は頷いた。
「いや、本当は二回目」と彼女は言った。「悪かった」
「何が?」
「さっきあなたの手を引っ張った。あなた同士を引き合わせたらどうなるのかと思った。それはあなたじゃないのかもしれないけれどね」と彼女は言った。「でも悪ふざけでそうしたわけじゃないんだ。あなたは里を掌握しつつある。あなたは自覚してないのかもしれないけれど。でも、それが最終的にどういうことになるのか、わからないわけじゃないでしょう? 自覚していないのなら尚更だよ。あなたは利用される。攻撃される。矢面に立たされる上に、最初に尻尾として切られる」
「心配してくれるの?」と私は驚いて言った。
「いまはね」
「ずいぶん里を大切にしているのね」
「違うよ。私は余所者だし外様だ。私はここに住んでいるっていうだけ。でもいま私にはここしかないんだ。そしてそのことは別にどうでも良いことだよ」
「わかった」と私は言った。
「中心に行くの?」
「そう」
「危ないよ」
「そこにいるのは私だよ」
「本当にそう思ってる?」と彼女は訊いた。
「いまはまだ」と私は正直に答えた。
彼女は黙って首を横に振った。私は言葉を継いだ。
「あとね、里にとっての問題は私がどこにでもいることなんでしょう? じゃあここにいてもそこにいても同じことじゃない?」
「それは確かにその通りだよ」と彼女は認めた。「あなたがいることで里はいま一つになっている。こことそこの違いはなにもない。でも、それが一番大きな問題なんだ。誰にも気づかれないうちに、あなた自身も気づかないうちに、あなたはこの土地の中に確かにあった、場所や地位による差異を無化してしまった。それがあなたのやったことだよ」
私は少し黙って彼女の言っていることを考えた。
「もし気を悪くしたら申し訳ないんだけど、それはあなたにとってはどちらかというと都合の良いことなんじゃないの?」と私は訊いた。
「そうだよ」と簡潔に彼女は答えた。「そしてその質問にはもう答えた」
「わかった。ごめんなさい」
「とにかく私はそのことに気づいた。私じゃない誰かがそのことにいつまでも気づかない保証はない。まったくない」と彼女は言った。「私もいろいろ試してみた。あなたたちは感覚や記憶を共有しているわけじゃない。でもそれだけじゃなくて、あなたは他のあなたとは違うみたいだ。あなたは向こうから歩いてきた。他のあなたたちは自分の持ち場から動かない。あなたは里の外から来たんでしょう?」
「ええ」
「元の場所に戻りなよ。あなたが追われることはないかもしれない。保証はできないけれど、知らないで通るかもしれない。どちらにしてももう少し状況を見た方が良い」と鈴瑚は言った。彼女の言葉を聞いているうちに、私は自分の心の中に何か温かいものが流れるのを感じていた。しかし結局私は首を横に振った。
「そうね。でもここにいるのはぜんぶ私なのよ」
「さっき……」
「うん。そう言ったけどね。あなたと話してやっぱり行かなきゃって思ったの」と私は言った。兎は私の目をじっと見上げていた。しばらく私たちは無言だった。
ようやく彼女が口を開いたのは数十秒後だった。そのあいだに私は自分の中で何かが変化するのを感じていた。いままでとは少しだけ違った、別の自分に。自分の代替物を山ほど見せられたあとでそういう風に感じるというのは冷静に考えれば滑稽なことだったが、そのときの私はそうは思わなかった。それでも何かが違うことに価値を見出せそうな気がした。目の前の兎はそれを見守っていた。彼女にもそれをわかってほしいと私は切実に思った。
「わかったよ」と彼女は静かに言った。
「ありがとう」と私は言った。
「それで」と言って彼女はずっと彫像のように黙りこくっていた魔理沙を睨んだ。「あんたはどういうつもり?」
「え、私? 何が?」と魔理沙は言った。本当に驚いたようだった。
「あんたはどこに立つつもりなの?」
「ああ、なるほどね。いや……まあ、見守るだけかなって」
「本当に?」
「本当だって」
「まあ良いよ。私もついて行く」
「ええ? いや、良いけどさ」
「ねえ、あなたの名前を教えてくれない?」と私は訊いた。
「鈴瑚」と彼女は答えた。
11
私たちは里の中心に向かった。人々の結節点を示す標識として通りに立ち並ぶ私たちは、相変わらず自分の複製が前を歩いていることには気づかずに、その全体的で分け隔てのない掌握を行っていた。私は十数人の私を行き過ぎた。
鈴瑚の言った通り、その分け隔てのなさがあまりにも徹底的であるせいで、私は一体どこで歩みを止めれば良いのかわからなかった。自分の探しているものがどこにあるのかわからなかった。
「あ」と魔理沙は小さく声を上げた。彼女は帽子がずり落ちないようにもう片方の手を縁に添えて、視界の上の方を指さしていた。灰色にくすんだ高い煙突があった。
「どうしたの?」
「煙を吹いている。風呂屋が始まったんだ」
「ふうん」
「いや、昔よく入ったんだよ」と魔理沙は場違いな言及を釈明するように言った。「風呂屋の親父と私の親父が仲良くてさ。外ほっつき歩いてるとよく怒られたんだけど、あそこなら親父は何も言わなかったな」
「そうなんだ」
彼女の言う通り、煙突から出始めた煙は次第に濃くなり、勢いを増していった。青空の中で煙突とその煙はくっきりとした影を作っている。
歩いていくと、煙突の下にも私がいるのが見えた。誰かと話し込んでいる。その私は少し戸惑っているように見えた。
「阿求だ」と魔理沙が言った。私は頷いた。彼女には私も会ったことがあった。能力や生活について根掘り葉掘り訊かれたのを覚えている。
彼女はある部分で間違いなく里の中枢を占めている人物だ。しかし、その一方で、彼女が何というか、強硬的な手段を使うようには、というか使えるようには思えなかった。会話の内容も気になる。もしかするといま起こっていることについて私の知らないことを知っているかもしれない。
鈴瑚の顔を見ると、彼女も頷いた。私たちは稗田の方に近づいていった。
そのとき轟音が響いた。一瞬光が弾け、衝撃波のような音が私たちを襲った。身体が竦み、思わず両手で視界を覆った。
指の隙間から稗田が尻餅をつくのが見えた。
煙突の上部が崩れ、空を満たしていたその影の一部が落ちてきて、稗田と話していた私をぐしゃりと押し潰した。土煙が舞い、すぐに私は見えなくなった。
私は私に向かって走り出した。
「成美!」と鈴瑚が後ろから叫んだ。
私は土埃の中から手探りで私を探しあて、その身体を抱き起こした。身体は煙突の一部の下敷きにはなっておらず、膝と肩の下に手を入れて腰に力を入れると抵抗なく引き出せた。煙の中心部から少し離れた通りの中央に私を運んでいった。目に土が入り、痛くて前が見えなかったが、何度も瞬きをして視界を取り戻した。私は私を抱えたまましゃがみ込んだ。
私はひどい状態だった。明らかに息はなかった。息をする場所が見当たらなかった。身体は冷えかかっていた。顔と片手が潰れ、もう片方の手は対のない合掌を象っていた。流れるおびただしい量の血が私の腕にも服にもついていた。
風呂屋の店主らしき男が血の気の引いた顔で店を飛び出してきた。壊れた煙突と私の骸を見て引き攣ったような叫び声を上げた。さらなる爆発を恐れながらも、通りにいた人々が集まってきて、遠巻きに私たちを見ていた。私の無惨な姿を見て悲鳴を上げる者もいたし、私の骸を私が抱えている状況をうまく飲み込めず、恐怖と疑問が入り交じった奇妙な表情を浮かべている者もいた。明らかに妖怪だろうというような者も擬態を忘れて成り行きを見守っていた。稗田は過呼吸のようになって口がきけないようだった。鈴瑚と魔理沙は私の脇に黙って立っていた。
私にはすべきことがわかっていた。それは本当にはじめからわかっていたみたいだった。
私は両目を瞑り、私の腕の中に横たわる私の口があったはずのところ、いまでは肉塊と化した顔の空洞のような部分に自分の口をつけた。
12
私は死んでいた。死んでいることがわかっていた。痛みはなかった。ただ、視界が少しずつのぼっていくのを感じていた。死んだ私を私が抱えていた。異様な光景だった。死んだ私はそれを上から見ていた。多くの人々が集まっていた。集まってきたすべての人のことを私はよく知っていた。自分のこと以上に知っていた。
のぼっていく私の視界が、折れた煙突の切り口まで辿り着いたとき、私が私の骸に口をつけた。その瞬間、頭の中に閃光がほとばしった。視界ががくがくと上下に揺れた。そして様々な記憶が私の中に流れ込んできた。
そのとき、私は私が里の中に同時に無数に存在していることを知った。稗田が言ったことは正しかった。私は一人でも二人でもなく大勢で、この里に整然と並んでいたのだ。私はまだ残滓のような煙を細く上げる煙突の、そのざらついた切片に座って、私で形作られた曼荼羅である人里を見下ろしていた。
私はここに、そこに、里のすべてに存在していた。
正方形に区分けされたそれぞれの区域の中で蓄積された、すべての人々に関する情報がそのとき統合された。私は里のすべての人々のことを知っていた。その来し方や好み、何を喜ぶか、悩み、秘密、そのすべてを知っていた。私は里の人々の心の奥に深く入り込んでいた。里の人々の一部は私だった。私は彼らが吸う空気と同じように里に蔓延していた。私は里の薬であり毒だった。
私はすべての私の感覚を同時に共有していた。私が無数に存在していたことにほとんど全員が驚いていたが、他の自分も同じように思っていることを知ると、すぐにそれを受け入れた。何しろ私は地蔵なのだ。地蔵がたくさんあることの何がそんなにおかしいのだろうか。それよりも、私のうちの一人が死んでいることを私たちは悲しんでいた。でも、私が死んだことを悲しみながら、同時に私は死んでいるのだ。死んでいる私にこうして意識があることを、この死によってそれほど多くのものごとが失われてはいないことを私は知っている。私が知っているということはすべての私が知っているということだ。では一体何を悲しんでいるのか。自分が死ぬことを恐れるというあの古くさい慣習の残り香なのか。
そのとき、私に口づけされた私の肉体が蘇りはじめた。肉は戻り、傷は癒え、血はおさまった。なくなった私の腕が蘇生すると、不完全だった合掌は元の祈りを取り戻した。
私の意識は煙突の切片に腰掛けるのをやめた。肉体の修復とともに、少しずつ私の視界は降りていった。集まった誰もがそれを見守っていた。彼らはいつの間にか、横たわる私と同じように両手を合わせていた。
そうして私は復活した。私は私の口から口を離した。私の零した一滴の涙が私の口に入った。手を合わせたまま、私は私の腕の中から起き上がり、立ち上がった。もう一人もそうした。私は私を見た。私も私を見た。二人の私が互いを見ながら立っていた。一人は手を合わせ、もう一人はそうではなかった。それから二人の私は集まった人々を見渡した。
私のことを訊きだそうとしていた稗田は尻餅をついて座り込んだままだったが、その目にはこれまでの好奇心とは違った種類の光があった。
視界の中に、群衆の中で手を合わせる本居小鈴がいた。彼女の足下には一冊の本が落ちていたが、彼女はそれに目もくれなかった。自分だけは自分が妖怪だと露見していないと幸福にも思い込んでいるろくろ首がいた。後天的な双子の成長を見守る教師がいた。常備薬と微かな情報を交換している薬売りがいた。彼女らはいまや、顔が同じであるということ以上の紐帯で結ばれていた。
彼ら彼女らの中で、無害な宗教的標識に対する素朴な親愛の情が、もっと強固で絶対的な畏敬の念にすり替わったのを私は感じていた。人々の目の中にそれは確かに宿っていた。私は人々の意識の中に、それと気づかれないうちにすでに入り込んでいて、内側からもそれを感じ取っていた。そして、人々の中に入り込んだ私は、これから先いつまでもその信仰心を維持し、高め続けるだろう。
私は安らぎ、しかしすぐにひどく不安になった。私は後ろを振り返った。里の外からついてきて、私の行く末を見守ると言っていた魔理沙はもうそこにはいなかった。彼女はきれいさっぱり消え失せていた。彼女はどこかに行ってしまった。
私は目でもう一人を探した。あの兎を。彼女は見知らぬ私を疑い、信じ、庇ってくれたのだ。鈴瑚は、彼女だけは……。
彼女はそこにいた。彼女も私の四つの目を見ていた。私は一瞬安堵した。でもそれは次の瞬間にまったく反転した。彼女の目の中には他の者たちと同じ、あの無反省な崇拝の色が浮かんでいた。私は茫然とした。
「鈴瑚」と私は彼女を呼んだ。息を潜めるような、秘密を打ち明けるような小さな声で。
彼女はこちらに歩いてきて私の両手を、合わされていない方の私の手を取った。そして私の目を下から覗き込んだ。彼女の手は温かかった。
しかし、いまでは私にとっては鈴瑚のことがこの里で一番遠い存在に感じられた。
13
目が覚めた。喉がいがいがと渇き、かなりの量の汗をかいていた。身体を柔らかいソファが支えていた。立ち上がり、明るい部屋の中で私は伸びをした。全身に倦怠感があった。
ひどく奇妙な夢を見ていた。総体としては恐ろしかったが、局部としては一言では言い尽くせないような感覚を含んでいた。身体を起こすのが億劫だった。
部屋の中には私ひとりだった。机の上のカップの底に残っていた冷めた紅茶を啜る頃には、もう夢の細部が曖昧になっていた。
ドアを開けてアリスが入ってきた。真新しい服を持っている。
「できたわ」と彼女は笑顔で言った。
「やった」と私は言った。「ありがとう」
「どういたしまして」
水をもらって飲み、シャワーを借りて新しい服を着た。それは身体にぴったりと合っていて暖かかった。私はすっかり気分が良くなった。起きたときの不快感も、あの奇妙な夢のことも、ほとんど忘れてしまっていた。
窓から外を見ると雪はやんでいた。出て歩くのが楽しみだった。
玄関で私はくるりとまわった。
「似合ってる」とアリスは言った。私は笑って「ありがとうね」と言った。
ドアを開けると外気は冷たく、しかし服がそれを見事に遮っていて、身体はまったく寒くなかった。良い一日になりそうだと思った。
家の前には私がいた。私は魔理沙と話していた。手を合わせたまま振り返り、私を見た。
雪の中、いつもと変わらず手を合わせて森の小径に立っていた。笠の上に積もっていく雪が重くなり、時折手を伸ばして払う。冷えた指を服で拭っていると、通りがかったアリスと目が合った。
「モデルになってくれない?」と彼女は言った。服を作ってくれるのだろう。色が濃いのであまり気にしていなかったが、確かに私の着ているものはいろいろなところがほつれたり、染みになったりしていた。いつも吹きさらしの外に立っていたからだ。モデルという響きも、服の古さを気づかれたこともなんだか恥ずかしくて、笠の下で少々顔を赤らめながら私は彼女についていった。
彼女は私の身体の寸法を測る。巻尺を持った彼女の金色の髪が、水平にした私の両腕の下を波打ちながら何度も回った。彼女が長さを測るたびに、私の前に浮いている人形が、その小さな手に持っているさらに小さなメモ帳に数字を書き込む。
「少しかかるからね」と彼女は言う。「ゆっくりしてて」
自分の部屋で作業をするそうだ。私は頷いて、廊下に消えていく彼女の背中を見送った。ソファに腰かけて、いつの間にかテーブルの上で湯気を立てている紅茶を啜り、マドレーヌを齧った。
表では雪が降り続いていた。一枚窓を通すと、正方形を無数の白い斜線が切り取り続けているようにも見えた。実際に外にいたときよりも寒そうだった。寒さも雪も取り立てて苦手なわけではなかったけれど、それでもこうしてひとたび暖かい部屋の中で寛いでしまうと、なかなか進んで外に出ようという気にはならないものだと思う。
私は座ったまま部屋の中を見渡す。向かいの棚には異国の人形や天球儀なんかが入っている。色とりどりのマトリョーシカが一番下の列に整列していた。縮小された自分が自分の中に入っているというのは、いったいどういう気分なのだろうか。たとえばそれを自分の身に置き換えてみる。地蔵の中の地蔵。あるいは宝誌和尚の顔の中の顔。それは戸惑うかもしれない。
小さな歯車のモビールが上の方に釣り合って浮いているのを見つけた。普通のモビールと違うのは、それが天井のどこか一点から吊り下がっているのではなくて、どうやら部屋の上の方を水平にゆっくりと移動しているらしいところだ。私はそれを見ているうちにだんだん眠くなってきた。ソファは柔らかく、アリスが戻ってくるまでにはまだまだ時間がかかるだろうと思われた。傍らのクッションを枕にして私は横たわった。
暖かい柔らかい空気がとろとろと身体を包んで、私の意識は溶けていった。
2
目が覚めて、しばらくは自分の周りで起こっていることの意味がわからなかった。そこは眠る前と変わらずアリスの部屋だったけれど、その空間は先程までとは決定的に異なっていた。私は自分自身に圧迫されるのを感じていた。部屋の中には私の身体が何十とあった。私と寸分違わぬ私の人形が。それはソファーにもたれかかり、床に立ち、壁に立てかけられていた。私は思わず声を上げた。
それを聞きつけたのか、アリスがドアを開けて入ってきた。彼女はまたもう一つの私の身体を抱えている。
「おはよう」と彼女は言った。「どうかしたの」
「どうかしてるよ」
アリスは私の人形を静かにドアの横に立てかけた。
「あれ、ごめんなさい。もしかして嫌だった?」
「嫌っていうか……びっくりするでしょう、こんなの」
「でも、モデルになってくれるって言うから」
「それってこういうこと? 服を作ってくれるんじゃなくて?」
「あ、それも作ったわよ」とアリスは少しほっとしたような顔で言った。「ほら」
彼女から手渡された服を私は何とも言えない気持ちで受け取った。
「どうも」
「ほら、お地蔵様ってたくさんいるでしょう。だから」
「だからって」
着替えると、服はまったくぴったりと身体に合って暖かかった。それで結局私はアリスに怒り損ねてしまった。
部屋の中にたくさんいる私をなるべく見ないようにしながら外に出た。雪はやんでいた。青空が見える。先ほど私とアリスがつけた足跡は地面から消えていて、真新しい白い地図が広がっていた。常緑の木の葉の上にも律儀に積もった雪が、日光に照らされてきらきらと輝いていた。光が私の目を射る。
外気が私の顔や手をざらつく指で撫ぜたけれど、身体はぜんぜん冷たくなかった。服の生地はしっかりしていた。そこに関しては彼女は大したものだ。新しい境界は私と私以外を明確に隔てていた。そうしたことを快適に思うのは、考えてみると奇妙なことだった。
私は次第に機嫌をなおして足を進めた。このままいつもの場所に戻るのも何だかもったいないような気がしていた。服を新調したのだ。たまには里に出てみるのも良いかもしれない。そうした考えの後ろには、たくさんの私が突然現れたこの森から離れたいという無意識の考えもあったに違いないが、ともかく歩くほどに身体はいっそう暖かくなって、私はだんだん元気になっていった。
3
里の入り口で向こうからやってくる魔理沙に出くわした。彼女は私の姿を見て目を丸くした。
「やあ」と私は言った。
「おう。あれ、え?」
「なに?」
「どこから来たんだ?」
「アリスの家」
「そうか」と魔理沙は言った。彼女は少し視線を逸らして考えこんでいた。
「どうしたの?」
「いや、良い。こっちの話だ。どこに行くんだ?」
「里」
「私も行こう」
「あなた里から歩いてきたじゃない」
「用を思い出したんだよ」
「嘘」
「嘘じゃないって」
彼女は腕を上げて誤魔化すように私の肩を叩いて歩き出した。本当のことを言っていないなとは思ったが、彼女の気安さのちょうど裏側には、自分で決めたことを覆さない強情さがあるということを知ってもいた。私は諦めてその足取りに倣った。
「何しに行っていたの?」と私は訊いた。魔理沙は荷物を持っていなかった。彼女が買い出しから戻るときにはいつでも大きな袋を提げて、里のこの入り口からすずらんの花のように飛び立つのだ。
「貸本屋に寄るつもりだったんだ。でもそれもなんか忘れちゃってたな」と魔理沙は言った。そして私をじっと見た。その視線の帯びる色合いは、何がとは言い表せないが、いつもと少し違っていた。
「魔理沙、今日変じゃない?」と私は訊いてみた。
「私が? 何が?」
「何って言われるとさ……。でも何か隠してるんじゃないの」
「それは正直私が訊きたいくらいなんだけど」
「何それ。どういうつもり?」
「いや、ごめん。怒るなよ」
「怒ってない」
魔理沙は困ったような笑顔を浮かべてこっちを見た。
「なあ、悪かったって。たぶん私もちょっと疲れてるんだよ」
「帰って寝たら」
「そう言うなよ」
「変な日だな」と私は言って溜め息をついた。
違和感はあったものの、魔理沙の相手をするのに少なくともあの部屋にいたときほどの居心地の悪さは感じなくて、彼女を本当に追い払おうとまでは思わなかった。ただ誰が何を考えているのかさっぱりわからなかった。里はすぐそこだった。
4
「あんたには言っとくけどさ。実は妖怪なんだ、私」
周囲を何度も見回して誰もいないことを確かめてから、眉間にしわをよせ、声を潜めてそんなことを言うので、私は思わず「みんな知ってると思うけど……」と答えてしまった。
赤蛮奇は中途半端に口を開いたまま、しばらく眉も動かさずにじっとしていた。それから首に巻いた布を口元まで引き上げた。表情が上半分しか見えなくなったが、彼女の頬がどんどん赤くなるのでそれで充分だった。
彼女はそのまま惚けたようになっていたが、少し経つと立ち直って「いや、嘘でしょ、そんなわけないじゃん」と言った。その目があまりに真剣なので私は困ってしまった。
私が目を反らして黙っていると「え、ほんとに?」と彼女は囁くように言った。私は仕方なく頷いた。
「なんで? ほら、どうみても人間でしょう」と言って彼女は腕を広げて着物の袖を握ってくるりと回った。彼女の言う通り、その服装に特に違和感はなかった。首を覆う分厚い布も、この季節の中では妥当な装具だった。
「それはもちろん頑張ってると思うけどね。出かけてる間に窓から首が出てくるから……」
彼女は恨めしげな顔を長屋の二階の窓に向けた。私も彼女の視線の先を見た。そこから彼女の顔の複製が、それも時には幾つも連なって排出されてくるのだ。近くの子供たちはそれを福引きと呼んでいた。大人は単に事象全体を指して粗相と呼んだ。でも私はそうしたことまでは言わなかった。彼女がすでに両手を下げてうなだれていたからだ。
しばらくして顔を上げた彼女は「また引っ越しかな」と苦々しく言った。
「しなくても良いんじゃない」
「なんで?」
5
籠を背負い、笠を被った薬売りが行き過ぎようとするのを呼び止めた。彼女は私に気づくと片眉を微かに上げてこちらに来た。
「売れる?」と私は訊いた。
「冬は風邪引きが多いね」と彼女は答えた。「あんたもずっとこんなところに立ってて風邪引かないの?」
「大丈夫」
「なにか変わったことあった?」
「ううん、別に。いや、うーん」
「?」
「あれ? なにかあったかもしれない」
「大丈夫?」と鈴仙は少し笑いながら言った。「お薬出しときましょうか?」
「いや、そんなんじゃないから」
鈴仙とはそのまましばらく立ち話をした。永遠亭は各家庭に常備させた置き薬を折々に補充して回り、それに伴って、というよりもこちらの方が彼女たちにとっては本題であるのだが、里の動きやそれにまつわる細かい情報を集めていた。
もちろん主が不死の者である組織にとっては政治は趣味以外のなにものでもない(彼女らにとってそうでないものが果たしてなにかあるだろうか?)のだが、とはいえそういう意図を知っているからといって私が何かを言うわけでもなくて、私たちの会話はいつでも表層的な世間話にとどまり続けた。相手の方でどういう風に思っているのかはわからないが、私はそういった薄氷を踏むような行為が逆説的に孕む軽やかさが結構好きだった。
「なんでずっと立ってるの?」と彼女は私に訊いた。
「なんで薬を売ってるの?」
「仕事だよ」と言って彼女は笑った。
次の得意先に向かうため、彼女は立ち去った。私とよく似た笠を被った彼女の後ろ姿を眺めながら、たとえば私と彼女が妥協の余地なく決定的に対立することがこの先あり得るのだろうかと私は考えた。それは結局よくわからなかった。そしてその疑問そのものも、先ほど彼女に話そうとして思い出せなかった話と同じように、氷の浮かぶ湖に沈んでいって二度と戻ってはこなかった。
6
帽子を被った背の低い金髪の兎が、先ほどからずっと私を見てくる。最初は通りの向こう側から帽子の縁越しに眺めていたのが、次第にどんどん近づいてきて、今では目の前でじっと私の顔を見上げている。そのまなざしから感情らしいものを読み取ることはできない。
私はもうとっくに声をかけるタイミングも視線を合わせるタイミングも失っていて、ただ合掌して目をそらしたまま、笠の下で困り果てている。
居心地の悪さの中で、私は自分の身体の外郭を感じている。目的のわからない視線に曝されて、私は自分というものがどのように見えているのか考えることをやめられない。それは極めてネガティブな、自己に対する減点法のまなざしだ。
「あなた、さっき向こうにいたのとは別の人?」とようやく兎は口を開いた。
それまでの沈黙があまりにも長かったので、彼女の発した言葉は私の頭の中ですぐには像を結ばなかった。そのとき私は彼女を初めて正面から見た。
彼女の口からは串がくわえ煙草のようにはみ出していた。マフラーはしていたが、この寒さの中にあってはかなり薄い服装をしている。金色の髪の向こうから、二つの赤い目が私をじっと正面から見据えていた。彼女の目は、怒りや敵意を帯びているというわけではなかったが、逆にそこには興味や好奇の色彩もさっぱり浮かんでいなかった。彼女の発した質問は、彼女の求める答えに対して真っ直ぐに、かつ垂直に照射されていた。その角度の鋭さに、私はなんともいえずどぎまぎとした気分にさせられた。
「私……え?」と私は訊き返した。
「あなたさっき向こうにもいた?」と兎はもう一度ゆっくりと訊いた。さっきよりも低い声だった。
「いや、私はずっとここに」と私は答えた。なにも後ろめたいことはないはずなのに、私の言葉は意図せず言い訳じみた口調になってしまう。
「そう」と彼女は一言答えたきりしばらく俯いて黙り込んでいた。
彼女の沈黙と共にまたあの居心地の悪さが戻ってきた。
「なにか?」と私は耐えられなくなって訊いた。彼女は答えなかった。
俯いたまま、突然彼女は私の手首を掴んで引っ張った。それは強い力ではなかったが、私の身体はなんの抵抗もなく動いた。
合掌をしていた私の右手が、左手との接続を解かれて、彼女の意志と力に曳かれて前に出た。足も。彼女は私の足が動くのを見た。私も私の足が動くのを見た。一歩。彼女はそこで止まった。
彼女はいつのまにかまた顔を上げて私の顔を見ていた。彼女の赤い目と私の目が合った。やがて彼女の瞳が少しだけ揺れた。私も彼女も何も言わなかった。口の中がひどく乾いていた。
通りには私たち以外に誰もいない。微かに耳鳴りがする。雪はやみ、時は凍りついていた。
彼女は私の瞳の中になにかを見つけたように見えた。いや、そう思ったのは彼女が立ち去ったあとだったのかもしれない。今となってはそれがどちらなのかわからない。
彼女は私の手を離した。それは元の場所には戻らず、ぶらんと下に垂れた。左手は対象のない祈りをかたどったままでいた。それはまるで他人の手であるような気がした。
「ごめん」と彼女は言った。彼女は垂れた私の右手を取ってもとの場所に戻した。右手は左手にはめ込まれたが、それはもう合掌であるようには思えなかった。右手はもう私のものではない、いやそれどころか手でさえもないような気がした。
「なにするの」と私は訊いた。声は微かに震えていた。それは怒りよりも恐怖に近かった。それが外観からするとそれほど恐れるような出来事ではないことが、いっそう困惑の程度を深めていた。「どういうつもり?」
「私が悪かった。ごめんね」と兎は言った。本当に申し訳なく思っているように見えた。
そうやってしおらしくされると、それ以上なんとも私には言いようがなかった。私は自分で説明のつかない感情をぶつける理由と対象を同時に失ったのだ。
彼女がいなくなってから、私は何度も深呼吸をして自分を取り戻そうとした。少しずつ体勢を変えたり、表情を変えたりして、彼女がやってくる前に自分はどうしていたのかを自分の身体でなぞりなおそうとした。私は私をコピーしようとした。
ぎこちなさは私が意識すればするほど顕著になっていったが、やがてはそのことそのものにも慣れた。雪がちらつき、通りに人影がまたいくつか戻るころには私はまたもとの地蔵に、街角の祈りを凝固させた一つの地蔵に戻った。
やがて近所の娘がやってきて、私の笠に薄く積もった雪を手箒で払った。彼女は私に向かって手を合わせた。
それは彼女にとっても私にとっても日々の中のごくありふれた些細なルーティンだったはずなのだが、目を瞑り頭を下げた彼女の前で、実際のところ私はひどくうろたえていた。
私はいつもはそんなときにただじっとして、相手の祈りが終わるのを待っていた。他のすべてが終わるのを待っているのと同じように。なにかを望んでいる相手に向き合うときの、そうした気安い自分の態度になんら疑問を持たなかった。
それは、祈りに対象はなく、本人の心の中で起こるものだということを私が知っていたからだ。私に向かって祈っている者がいたとしても、私はその行為のきっかけにすぎないと考えていたからだ。
私は一種の宗教的標識なのだ。進め、止まれ、危険、祈れ。その表示を受けた者の内の幾分かは私の前で祈る。でもそれは祈れと表示されたら祈る者の祈りなのだし、その祈りは私を経由しては成就しない。私の前で、主体はその願いを叶える力を持っているとは思えない対象に向かって願いを照射する。それが頼りない対象であっても、照射そのものによって願いは明確になるのだ。すなわち、自分がなにを望んでいるのかを知ることこそが祈りの本質であって、そこに外在する因子はないと、そう思っていた。
ところが、先ほど金髪の兎に手を引かれ、歩き出した一歩。その一歩だけで私はまったく打ちのめされてしまった。私はただの標識ではなかった。もちろんそうだ。もちろんそうなのだが、私はそのことを本当の意味ではわかっていなかった。
兎は私を空白から引き剥がしたのだ。私はいるべき場所にいるのではなく、偶然そこにいただけなのだということを、兎は手を少し引いただけで私にわからせた。祈られる私は、私に向かって祈る他者となんの違いもないのだ。そのことを知ったいま、私は私に向かって祈る他者と相まみえたときにどうすれば良いのか、どういった心持ちでいれば良いのかわからなかった。
やがて祈りは済んだ。他のすべてが済んでいくのと同じように。娘は自分の家に帰っていった。彼女はなにを祈っていたのだろう。私にはそれを訊くこともできたのだ。そうすれば、彼女の祈りと差し向かいになっているあいだに私がどうすれば良いのかわかったかもしれない。しかし、結局そんなことはしなかった。
人影はまた途絶えていた。私はひとりきりで、自分のいる場所から動かなかった。どこにいても構わない私は、選んでそこを離れなかった。
私は合掌していた。そうしないでいることもできるのにそうしていた。私は何かを祈っているということだ。しかし、自分が一体何を願っているのか、もちろん私にはわからなかった。
7
貸本屋の子が新しい本を持ってきてくれた。その代わりに、彼女は私が読み終えた本を小脇に抱える。彼女に感想を訊かれた私は、話としては面白いが、登場人物の思考に一貫性がないように思える、と答えた。彼女もそれに同意してくれた。それから彼女は私に向かって手を合わせる。
私たち二人のあいだには、一つの密閉された経済があった。すなわち、彼女は私の前で祈って賽銭を払い、私はその金で本を借りる。
このささやかな永久機関は私の生活の福祉を力強く増進していたが、彼女にとってもそうなのかはよくわからない。推理小説の感想を述べる口がついている相手に敬虔な気持ちを抱くためには非常な努力を要すると思われるからだ。
過度に形式的であるために戯画のようになっている小銭の往復の帰結として新しい本を渡されて、それでも私は少し浮き立った気分になった。
「これはどういう話?」と私は訊いた。ずいぶん分厚い本だった。
「えっと、かなり変なんですけど。一年間でものすごくたくさんの密室首切り殺人が起こるっていう」
「すごい」
「あんまり真剣に読み過ぎない方が良いと思いますよ、本当に」
「最後まで読んで納得する?」
「しません」
「どうしてそれを私に?」
「怒りを共有したくて」と彼女は真剣な表情で言った。
「そう」
手の中の本は先ほどよりも幾分重く感じられた。雪片が表紙の上に舞い降りた。
それから彼女は最近自分が遭遇した、ちょっとした怪異の話をした。
「妖怪ってすごいですよね。私怖いけど憧れもあって。どうやったら仲良くなれるんだろう」と彼女は言った。
彼女は一体、自分の目の前にいる私を何だと思っているのだろうかと私は思ったが黙っていた。
「あと最近変わったお客さんがいるんです。私なにも話してないのに私がいま読んでる本の話をしたり、私がちょうど考えてる話をしたりするんですよ。すごくないですか?」
「そうね」といったきり、私はもちろん私の微笑みと沈黙を守った。
8
寺子屋から吐き出されてきた子どもたちが私の前を行き過ぎていくとき、私は風景になる。子どもたちは私には目もくれない。彼らの神は一夜のうちに街を埋め尽くした雪であって、彼らは肩にかけた荷物を落とさないまま器用にしゃがみこんで本尊を手に取る。彼らはそれを固めて互いに投げつけ合い始めた。
白い戦争がしばらく続き、兵隊たちはもっと広い戦場を求めて駆け出した。あとにはただ二人の子供が残された。彼女たちを見て私は思わず目をみはった。なにしろ二人はまったく同じ顔をしていたのだ。
彼女たちも雪を集めて固めはじめたが、先ほどの軍勢のように信仰の対象を投擲するようなことはしなかった。二人の子供は一つずつ雪玉を持ち、転がして膨張させていった。その様子は植物の生長の早回しを思わせた。作業のあいだも子供たちは私がいることに一切気づく様子がなかった。二人は地面を覆っているものに妥協なく入れ込んでいた。その熱中ぶりには彼女たち互いの存在さえも忍び込む余地がないのではないかと思うくらいだったのだが、彼女たちは一度もぶつかりかけることもなく、要領よく工程をこなしていた。よく見ると、二人の動く範囲はそれぞれ決まっていて、互いに互いの領域を侵すことがなかった。彼女たちは神をうまく分割していた。
やがて二人は領域の接点で雪玉を持ち寄った。道を挟んで私のちょうど反対側に転がして運んでいき、片方がもう片方の上に雪玉を載せた。そこで初めて二人は多少なりとも別の行動を取り、私はそれを見てなんとも言えず安心した。
雪だるまはシンプルだった。目鼻も手もない。それ以上に奇妙なのは二つの雪玉がまったく同じ大きさであることで、端から見るとむしろバランスが悪いのではないかと思われたが、二人は至極満足げに完成したそれを見ていた。
彼女たちは五分ほどひとしきりそれを眺めたあとで振り返った。私と目が合った。二人はそこではじめて私がいることに気づいた。とっさのことで、私はどんな表情をすれば良いのかわからなかった。
彼女たちの行為をずっとそこで見ていたことをあとになって知られるのは、それが単に私の存在に気づかれていなかったからだとしても、なんとなく居心地が悪く気恥ずかしかった。
彼女たちは一瞬顔を見合わせてから通りの向こうに駆け出していった。結局私も二人もなにも言わなかったが、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
のっぺらぼうの雪だるまだけがそこには残された。私は通りを挟んで今や誰の仲介もなく神と対面していた。幾分緊張した。合掌にも自然と力がこもる。神に顔がないのは確かに一つの解決なのかもしれないとも思った。
ひどく静かな数分間が過ぎた。ネズミ一匹入る隙がないように思われた、私と雪だるまとの緊迫した対峙は、しかし思いのほか呆気なく破られることになった。
子供たちを吐き出しきった寺子屋から、教師が伸びをしながら出てきた。欠伸と深呼吸との中間くらいの彼女の吐息が、白いもやとなって発された。そのなんとも言えず脱力した仕草が私の目の隅に入ったとき、それまで空気が孕んでいた神聖さも静けさもきれいに霧散してしまった。
彼女はすぐに私に気づき、柔らかく眠たげな微笑みとともに片手を上げてこちらに向かって歩いてきた。
「やあ」と彼女は言った。それから雪だるまにも気づいて指さした。「作ったの?」
「まさか」と私は言った。
「冗談だよ」と彼女は笑って言った。「雪が降ったらいつもああなんだ」
彼女は二人のことを言っているのだと私にはわかった。
「ねえ、本当に同じ顔だったのよ」と私は言った。「雪だけじゃないでしょう?」
「まあね」と彼女は言った。「とても仲が良い」
彼女の言及は事象が要求する解像度を満たしていないように思えた。
「双子なの?」と私は訊いた。
「いや、それがそんなんじゃないんだ。まったく血の繋がりはない」
私は驚いた。「そんなことってあるの?」
「うん。あのね、これは教師としてはあんまり良い発言じゃないかもしれないけど」と彼女は言った。「もっと興味深いことには、寺子屋に入ったとき、二人は全然似ていなかったんだ」
私は首を横に振った。「信じられない」
「彼女たちは数年かけて同じ顔になった」と彼女は言った。「もちろん最初から仲は良かったけどね」
彼女は私の言葉を少し待ったが、私がなにも喋らないのを見てとると話を続けた。
「当たるのかどうかわからないけれど、私は一つの予想を立てている。つまり、これから彼女たちの顔のかたちはまた少しずつ離れていくんじゃないかっていうこと」と言って彼女は両手の人差し指を立てた。「異なる二人がそれぞれに成長していく。それは任意の二人についてそうだし、彼女たちにしてもそうだ」
そう言って彼女は二本の指を交差させた。「でも彼女たちの外見には交わる一瞬があったんだ。あの二人はいまちょうど外見上の交点にいる」
私は仕方なく頷いた。そして一つだけ、どうしても気になったことを訊いてみた。
「違う顔になったら二人はいまほど仲良くはなくなると思う?」
彼女は笑って首を横に振った。「そんなことはないんじゃないかな。前から友達だったんだ。それに、たとえいっときのことであったとしても、自分と同じ顔だった相手なんてそう何人もいないだろう?」
それは確かにその通りだった。
9
銭湯が火を入れ、高い煙突がガラスのように澄み切った青空に白い煙を吹き始めた。それは私のまさに頭上に伸びている。白を吐き出す煙突の口を見るためには、身体が反り返るほど首を曲げなくてはならない。首を元に戻すと稗田の当主が私の前に立っていた。やたらとにこにこしていた。
「こんにちは」と稗田が言った。
「どうも」と私は言った。知らずぶっきらぼうな声色になった。
通りには湯の沸く柔らかな匂いが漂っていた。里の中心近くで、この時間は人通りが多い。人々は私に気づくと会釈をしたり手を振ったりして通り過ぎた。それが稗田の笑顔の背景になっていて、なんだか奇妙な絵を見ているような感じだった。
付き人はいなくて、稗田は独りだった。彼女は豪奢な着物の肩から大きな白いタオルをかけ、洗面具の入っているであろう行李を持っていた。
「家に立派な風呂があるんじゃないの」と私はやや意地の悪い訊き方をした。
「ありますよ」と稗田は明るく答えた。「でも好きなんです」
そのあっけらかんとした言いぶりに、私もなんだか毒気を抜かれてしまって、「そう」とだけ答えた。
そのまま会話は終わり、彼女は銭湯の暖簾を潜っていくのかと思ったが、彼女はなおも笑顔のままそこに立っていた。
「どうしたの?」と私は訊いた。
「ねえ、あなたこの頃すごく評判良いんですよ。知ってます?」
「前は悪かったの?」
「そうじゃなくって」
「ふうん」と私は言った。それはまあ別に悪い気はしなかった。
「みんながあなたの話をしています」と彼女は言った。「里の隅々まで。比喩じゃなくって」
「へえ」と私は言った。少し不思議な感じがした。「まあ、確かにここは結構目立つ場所よね」
稗田は少し首を捻った。「ここ? いや、ここもそうですが」
「?」
「とにかく、私は郷のことを書いてるんです。前も言いましたけど。色んな妖怪や、変わった人についてね。あなたのこともすでに書いていたんだけど、これはちょっと追加取材が必要だなって」
「別に良いけど……」
私がそう言うと彼女は目を輝かせた。
「ありがとうございます。じゃあまずは……あなたは魔法を使えるというので私はそう書きましたが、この頃たくさんのあなたが里のあちこちにいるのも魔法によるものなんですか?」
「えっ?」
「なんですか?」
「私がたくさんいるってどういうこと?」
「いや、どういうこともなにも、そのままのことじゃないですか」
私は辺りを見渡した。目が合った通行者はほとんど例外なく私に向かって笑いかけたり会釈をしたりする。その中には知っている者もいるが、まったく見覚えのない者もいた。私は稗田に視線を戻した。
「え、なにそれ。私ぜんぜん知らない」
稗田はしばらく眉をひそめて伺うようにして私の顔を見ていたが、しらを切っているわけではないようだと判断したのか、表情を和らげた。
「まあ私も同時に二人に会ったことはないんですが」と稗田は言った。「いろいろな人から聞いた話を総合するとやっぱりそういうことになるんですよね」
私は釈然としないままとりあえず頷いた。稗田は私の不服そうな顔を見て「自覚はないんですか?」と訊いた。
「悪いけど、何を言っているのかわからない」と私は答えた。
そのとき轟音が響いた。耳ももちろんだが、その音を私は身体に直接伝わる振動として感じた。それは腹の底から私を揺さぶった。何が起こったのかわからなかった。平衡感覚を失いつつあったが、私はそこに宿命的に立ち続けていた。
ぶれた私の視界の中で、稗田の驚いた表情が何とか見えた。稗田は後ろに倒れ、尻餅をついた。そして結局のところそれが彼女の命を救った。私の頭上から、ひときわ大きな音が聞こえた。稗田が何かを叫んだような気がした。私は首をひねって空を見上げた。
10
里の通りのそれぞれの屋根にも雪は積もっていた。分厚く着込んだ子供が軒下で雪をかいている。家の中からもう一人若い女がスコップを持って出てきた。女は子供を一瞥したあとで、スコップをいったん雪の上に置き、なにかに向かって手を合わせ、頭を下げた。そのなにかは屋根の陰になっていて見えなかったのだが、私には予感のようなものがあった。
私は魔理沙の手を引いて走り出した。俯きがちに歩いていた彼女は突然のことに驚いて顔を上げ、つんのめるように慌てて足を前に送った。
私は女の後ろに回り込んだ。肩越しにその信仰の対象を見た。女が手を合わせていた相手は私だった。
隣で魔理沙は手を膝につき、肩で息をして恨めしげに私を見上げたが、私の視線の先に気づくと表情を変えた。私はその場で口もきけずにしばらく黙っていた。
「あれはお前なのか?」と息を整えた魔理沙は私に訊いた。奇妙な質問だったが、他に尋ねようがないことも確かだった。私は黙って頷いた。
魔理沙は私の肩を叩いた。落ち込むなよ、そういうときもあるよな、という感じを出そうとしたことと、それにあえなく失敗していることとがどちらもよくわかる叩き方だった。
もう一人の私は私に気づかなかった。もっと近づいてみるべきなのか私は迷った。私は魔理沙を振り返った。何も言わなくても彼女は私の逡巡を察したようだった。彼女は「ちょっと待て」と言った。「あいつだけじゃないんだ」
「他にもいっぱいいるんでしょう?」
「なぜ知ってる?」
「経験」
魔理沙は怪訝な顔をしたが、それ以上訊かなかった。私たちはそこから離れた。魔理沙は私の姿を先方の視界から隠すように位置を取って、マントを大きく広げて歩いた。
「向こうだ」と彼女は言った。
でも本当は彼女に案内してもらうまでもないのだということはすぐにわかった。私は里のあらゆるところにいた。私はあらゆるところで人々と言葉を交わしたり、笑い合ったり、祈りを受けたり、秘密を打ち明けられたりしていた。私にはそれが見えた。私が私を探して魔理沙と通りを歩いていくと、その途中にすれ違ったあらゆる人々が私に笑顔で手を振ったり、会釈をしたり、話しかけたり、あるいは無言で意味ありげな視線を送ってきたりした。他者は私をすべての私の総合だと思っているのだ。私には私の身に覚えのない他者との親密さが付着していた。それは目には見えないもので、それだけに底が知れなかった。私と並列に存在している私の言行の結果が、いま私の一身に向けて投影されているのだ。
「大丈夫か?」
魔理沙は私の顔を下から覗き込んでいた。心配そうな顔だった。あるいは本当に心配してくれているのかもしれない。
「大丈夫」と私は言った。私は確かに、少なくとも冷静ではあった。ただ本当に大丈夫なのだろうか? 私が冷静であることそのものが問題であるようにも思えた。
もちろん私が複数、恐らくは無数にいるということ自体は異様だった。私はアリスの家でそれを見て驚き、不快な思いもしたが、それは結局驚いたというだけのことで、最初の衝撃が過ぎてしまえば私にとってはそれほど切実な問題とはならなかった。アリスの言っていたことは正しかったのかもしれない。私はある意味で避けがたく地蔵なのだ。
むしろ私にとって問題なのは、ここではないそこにいる私が私自身だということを、すっきりとは飲み込めないことだった。それが私自身だとは納得しきれない私の行いが、私に還元されてくるということ。私は私から決定的に疎外されていた。
いま団子屋の軒下で客と笑いながら話をしている私、あの私の笑いをいま直接自分のものとすることはできそうもなかった。それができるのがあれが本当に自分だということなのではないか。
私の表情を見て魔理沙は心配してくれる。それは優しい、しかし他者の振る舞いだ。私はこれからやろうと思えば、自分以外の自分を初めて見るあの平凡な驚きを通過して、あの団子屋の下での私と客との会話の中に入っていくことができるかもしれない。私と客の交わす冗談、そのおかしみを共有することができるかもしれない。一緒に笑うことができるかもしれない。でもそれは私の顔を覗き込んでくる魔理沙ができることと同じなのだ。目に見える徴候から類推した感情、他者とのあいだの海よりも広い隔絶をなんとか渡ろうという試み、結局のところそれが上手くいこうが失敗に終わろうが、誰からも本当には結果を知らされることのない出題に対する回答。あそこにいる私の内心に対して私が行えるアプローチは僅かにそれのみだと思われた。つまりそれは他人であって、私ではないのではないだろうか?
私はそういうことを考えながら魔理沙の横を歩いていた。道すがら、本当にたくさんの私がいた。彼女たちは、お互いには視認することのできない距離を保ったまま、それぞれの通りに立っていた。そして、その区画の中の人々の心のひだにしっかりと食い込んでいた。私は里のどこを通っても親しみのこもった歓迎を受けた。自分の中に彼らの歓待を適切に受容するための記憶と経験がないのだということを気取られないようにする唯一の方法は、こちらからは話し出さないことだと既に察していたので、私は挨拶だけしてただ微笑んでいた。
でも、それだけでは済まないことが一度だけあった。向こうから俯きがちに歩いてきた背の低い金髪の兎は、顔を上げて私を見るなりびくりと身を竦ませて、目を見開いた。通りを歩く他人同士の目が合ったそのとき、私は先ほど考えていたことのもう片方の側面、つまり私に私の身に覚えのない反目や気まずさが付着している場合について思い起こした。相手とのあいだに一体何が起こったのか知らないまま、緊張関係に投げ込まれるということについて。
彼女の表情の一部分は帽子の陰に入っていて、すべてをつぶさに見ることはできない。それでも、彼女の中で警戒心らしきものと罪悪感や戸惑いらしきものとがほとんど等分になって揺れ動いているであろうことは察せられた。それが最終的にどちらに触れるのかわからなかった。あるいは本人でさえわからないのかもしれない。私たちは通りの中で立ち止まった。魔理沙は彼女と私の顔を見比べていた。間に入るべきなのかどうか、決めかねているように見えた。
奇妙な帰結ではあるが、私が里に入ってから一番私に近いと感じたのは、親しく話しかけてくる大勢の人々でもなく、また無数に存在する私自身でもなく、この金髪の兎の揺れ動く表情だった。内実がわからないのにもかかわらず、私は彼女の中で起こっているせめぎ合いを自分のことのように感じた。それはやはり先ほども考えたような、他者から輸入した感情であることには違いなかったけれど、その隔絶を私は感じなかった。
私の中に彼女と対置される感情がないことに気づいたのか、彼女の中で戸惑いが勝ったようだった。
「あなたは誰?」と兎は訊いた。それは的確な質問だったが、的確であるがゆえに私は答えを持っていなかった。
「矢田寺成美」と私は答えた。そういうことを訊いたのではないということはよくわかっていた。彼女も少し苛立った表情を見せた。「ごめん」と私は素直に謝った。
兎は私と私の視線の向こうにいる私を見て、確認するようにもう一度私の顔を見た。私は頷いた。
「でも私にもよくわからないの」と私は言った。
「そうなんだろうね」と彼女は言った。「わかった。信じるよ」
「ありがとう」
「歩いているのを初めて見た」
私は頷いた。
「いや、本当は二回目」と彼女は言った。「悪かった」
「何が?」
「さっきあなたの手を引っ張った。あなた同士を引き合わせたらどうなるのかと思った。それはあなたじゃないのかもしれないけれどね」と彼女は言った。「でも悪ふざけでそうしたわけじゃないんだ。あなたは里を掌握しつつある。あなたは自覚してないのかもしれないけれど。でも、それが最終的にどういうことになるのか、わからないわけじゃないでしょう? 自覚していないのなら尚更だよ。あなたは利用される。攻撃される。矢面に立たされる上に、最初に尻尾として切られる」
「心配してくれるの?」と私は驚いて言った。
「いまはね」
「ずいぶん里を大切にしているのね」
「違うよ。私は余所者だし外様だ。私はここに住んでいるっていうだけ。でもいま私にはここしかないんだ。そしてそのことは別にどうでも良いことだよ」
「わかった」と私は言った。
「中心に行くの?」
「そう」
「危ないよ」
「そこにいるのは私だよ」
「本当にそう思ってる?」と彼女は訊いた。
「いまはまだ」と私は正直に答えた。
彼女は黙って首を横に振った。私は言葉を継いだ。
「あとね、里にとっての問題は私がどこにでもいることなんでしょう? じゃあここにいてもそこにいても同じことじゃない?」
「それは確かにその通りだよ」と彼女は認めた。「あなたがいることで里はいま一つになっている。こことそこの違いはなにもない。でも、それが一番大きな問題なんだ。誰にも気づかれないうちに、あなた自身も気づかないうちに、あなたはこの土地の中に確かにあった、場所や地位による差異を無化してしまった。それがあなたのやったことだよ」
私は少し黙って彼女の言っていることを考えた。
「もし気を悪くしたら申し訳ないんだけど、それはあなたにとってはどちらかというと都合の良いことなんじゃないの?」と私は訊いた。
「そうだよ」と簡潔に彼女は答えた。「そしてその質問にはもう答えた」
「わかった。ごめんなさい」
「とにかく私はそのことに気づいた。私じゃない誰かがそのことにいつまでも気づかない保証はない。まったくない」と彼女は言った。「私もいろいろ試してみた。あなたたちは感覚や記憶を共有しているわけじゃない。でもそれだけじゃなくて、あなたは他のあなたとは違うみたいだ。あなたは向こうから歩いてきた。他のあなたたちは自分の持ち場から動かない。あなたは里の外から来たんでしょう?」
「ええ」
「元の場所に戻りなよ。あなたが追われることはないかもしれない。保証はできないけれど、知らないで通るかもしれない。どちらにしてももう少し状況を見た方が良い」と鈴瑚は言った。彼女の言葉を聞いているうちに、私は自分の心の中に何か温かいものが流れるのを感じていた。しかし結局私は首を横に振った。
「そうね。でもここにいるのはぜんぶ私なのよ」
「さっき……」
「うん。そう言ったけどね。あなたと話してやっぱり行かなきゃって思ったの」と私は言った。兎は私の目をじっと見上げていた。しばらく私たちは無言だった。
ようやく彼女が口を開いたのは数十秒後だった。そのあいだに私は自分の中で何かが変化するのを感じていた。いままでとは少しだけ違った、別の自分に。自分の代替物を山ほど見せられたあとでそういう風に感じるというのは冷静に考えれば滑稽なことだったが、そのときの私はそうは思わなかった。それでも何かが違うことに価値を見出せそうな気がした。目の前の兎はそれを見守っていた。彼女にもそれをわかってほしいと私は切実に思った。
「わかったよ」と彼女は静かに言った。
「ありがとう」と私は言った。
「それで」と言って彼女はずっと彫像のように黙りこくっていた魔理沙を睨んだ。「あんたはどういうつもり?」
「え、私? 何が?」と魔理沙は言った。本当に驚いたようだった。
「あんたはどこに立つつもりなの?」
「ああ、なるほどね。いや……まあ、見守るだけかなって」
「本当に?」
「本当だって」
「まあ良いよ。私もついて行く」
「ええ? いや、良いけどさ」
「ねえ、あなたの名前を教えてくれない?」と私は訊いた。
「鈴瑚」と彼女は答えた。
11
私たちは里の中心に向かった。人々の結節点を示す標識として通りに立ち並ぶ私たちは、相変わらず自分の複製が前を歩いていることには気づかずに、その全体的で分け隔てのない掌握を行っていた。私は十数人の私を行き過ぎた。
鈴瑚の言った通り、その分け隔てのなさがあまりにも徹底的であるせいで、私は一体どこで歩みを止めれば良いのかわからなかった。自分の探しているものがどこにあるのかわからなかった。
「あ」と魔理沙は小さく声を上げた。彼女は帽子がずり落ちないようにもう片方の手を縁に添えて、視界の上の方を指さしていた。灰色にくすんだ高い煙突があった。
「どうしたの?」
「煙を吹いている。風呂屋が始まったんだ」
「ふうん」
「いや、昔よく入ったんだよ」と魔理沙は場違いな言及を釈明するように言った。「風呂屋の親父と私の親父が仲良くてさ。外ほっつき歩いてるとよく怒られたんだけど、あそこなら親父は何も言わなかったな」
「そうなんだ」
彼女の言う通り、煙突から出始めた煙は次第に濃くなり、勢いを増していった。青空の中で煙突とその煙はくっきりとした影を作っている。
歩いていくと、煙突の下にも私がいるのが見えた。誰かと話し込んでいる。その私は少し戸惑っているように見えた。
「阿求だ」と魔理沙が言った。私は頷いた。彼女には私も会ったことがあった。能力や生活について根掘り葉掘り訊かれたのを覚えている。
彼女はある部分で間違いなく里の中枢を占めている人物だ。しかし、その一方で、彼女が何というか、強硬的な手段を使うようには、というか使えるようには思えなかった。会話の内容も気になる。もしかするといま起こっていることについて私の知らないことを知っているかもしれない。
鈴瑚の顔を見ると、彼女も頷いた。私たちは稗田の方に近づいていった。
そのとき轟音が響いた。一瞬光が弾け、衝撃波のような音が私たちを襲った。身体が竦み、思わず両手で視界を覆った。
指の隙間から稗田が尻餅をつくのが見えた。
煙突の上部が崩れ、空を満たしていたその影の一部が落ちてきて、稗田と話していた私をぐしゃりと押し潰した。土煙が舞い、すぐに私は見えなくなった。
私は私に向かって走り出した。
「成美!」と鈴瑚が後ろから叫んだ。
私は土埃の中から手探りで私を探しあて、その身体を抱き起こした。身体は煙突の一部の下敷きにはなっておらず、膝と肩の下に手を入れて腰に力を入れると抵抗なく引き出せた。煙の中心部から少し離れた通りの中央に私を運んでいった。目に土が入り、痛くて前が見えなかったが、何度も瞬きをして視界を取り戻した。私は私を抱えたまましゃがみ込んだ。
私はひどい状態だった。明らかに息はなかった。息をする場所が見当たらなかった。身体は冷えかかっていた。顔と片手が潰れ、もう片方の手は対のない合掌を象っていた。流れるおびただしい量の血が私の腕にも服にもついていた。
風呂屋の店主らしき男が血の気の引いた顔で店を飛び出してきた。壊れた煙突と私の骸を見て引き攣ったような叫び声を上げた。さらなる爆発を恐れながらも、通りにいた人々が集まってきて、遠巻きに私たちを見ていた。私の無惨な姿を見て悲鳴を上げる者もいたし、私の骸を私が抱えている状況をうまく飲み込めず、恐怖と疑問が入り交じった奇妙な表情を浮かべている者もいた。明らかに妖怪だろうというような者も擬態を忘れて成り行きを見守っていた。稗田は過呼吸のようになって口がきけないようだった。鈴瑚と魔理沙は私の脇に黙って立っていた。
私にはすべきことがわかっていた。それは本当にはじめからわかっていたみたいだった。
私は両目を瞑り、私の腕の中に横たわる私の口があったはずのところ、いまでは肉塊と化した顔の空洞のような部分に自分の口をつけた。
12
私は死んでいた。死んでいることがわかっていた。痛みはなかった。ただ、視界が少しずつのぼっていくのを感じていた。死んだ私を私が抱えていた。異様な光景だった。死んだ私はそれを上から見ていた。多くの人々が集まっていた。集まってきたすべての人のことを私はよく知っていた。自分のこと以上に知っていた。
のぼっていく私の視界が、折れた煙突の切り口まで辿り着いたとき、私が私の骸に口をつけた。その瞬間、頭の中に閃光がほとばしった。視界ががくがくと上下に揺れた。そして様々な記憶が私の中に流れ込んできた。
そのとき、私は私が里の中に同時に無数に存在していることを知った。稗田が言ったことは正しかった。私は一人でも二人でもなく大勢で、この里に整然と並んでいたのだ。私はまだ残滓のような煙を細く上げる煙突の、そのざらついた切片に座って、私で形作られた曼荼羅である人里を見下ろしていた。
私はここに、そこに、里のすべてに存在していた。
正方形に区分けされたそれぞれの区域の中で蓄積された、すべての人々に関する情報がそのとき統合された。私は里のすべての人々のことを知っていた。その来し方や好み、何を喜ぶか、悩み、秘密、そのすべてを知っていた。私は里の人々の心の奥に深く入り込んでいた。里の人々の一部は私だった。私は彼らが吸う空気と同じように里に蔓延していた。私は里の薬であり毒だった。
私はすべての私の感覚を同時に共有していた。私が無数に存在していたことにほとんど全員が驚いていたが、他の自分も同じように思っていることを知ると、すぐにそれを受け入れた。何しろ私は地蔵なのだ。地蔵がたくさんあることの何がそんなにおかしいのだろうか。それよりも、私のうちの一人が死んでいることを私たちは悲しんでいた。でも、私が死んだことを悲しみながら、同時に私は死んでいるのだ。死んでいる私にこうして意識があることを、この死によってそれほど多くのものごとが失われてはいないことを私は知っている。私が知っているということはすべての私が知っているということだ。では一体何を悲しんでいるのか。自分が死ぬことを恐れるというあの古くさい慣習の残り香なのか。
そのとき、私に口づけされた私の肉体が蘇りはじめた。肉は戻り、傷は癒え、血はおさまった。なくなった私の腕が蘇生すると、不完全だった合掌は元の祈りを取り戻した。
私の意識は煙突の切片に腰掛けるのをやめた。肉体の修復とともに、少しずつ私の視界は降りていった。集まった誰もがそれを見守っていた。彼らはいつの間にか、横たわる私と同じように両手を合わせていた。
そうして私は復活した。私は私の口から口を離した。私の零した一滴の涙が私の口に入った。手を合わせたまま、私は私の腕の中から起き上がり、立ち上がった。もう一人もそうした。私は私を見た。私も私を見た。二人の私が互いを見ながら立っていた。一人は手を合わせ、もう一人はそうではなかった。それから二人の私は集まった人々を見渡した。
私のことを訊きだそうとしていた稗田は尻餅をついて座り込んだままだったが、その目にはこれまでの好奇心とは違った種類の光があった。
視界の中に、群衆の中で手を合わせる本居小鈴がいた。彼女の足下には一冊の本が落ちていたが、彼女はそれに目もくれなかった。自分だけは自分が妖怪だと露見していないと幸福にも思い込んでいるろくろ首がいた。後天的な双子の成長を見守る教師がいた。常備薬と微かな情報を交換している薬売りがいた。彼女らはいまや、顔が同じであるということ以上の紐帯で結ばれていた。
彼ら彼女らの中で、無害な宗教的標識に対する素朴な親愛の情が、もっと強固で絶対的な畏敬の念にすり替わったのを私は感じていた。人々の目の中にそれは確かに宿っていた。私は人々の意識の中に、それと気づかれないうちにすでに入り込んでいて、内側からもそれを感じ取っていた。そして、人々の中に入り込んだ私は、これから先いつまでもその信仰心を維持し、高め続けるだろう。
私は安らぎ、しかしすぐにひどく不安になった。私は後ろを振り返った。里の外からついてきて、私の行く末を見守ると言っていた魔理沙はもうそこにはいなかった。彼女はきれいさっぱり消え失せていた。彼女はどこかに行ってしまった。
私は目でもう一人を探した。あの兎を。彼女は見知らぬ私を疑い、信じ、庇ってくれたのだ。鈴瑚は、彼女だけは……。
彼女はそこにいた。彼女も私の四つの目を見ていた。私は一瞬安堵した。でもそれは次の瞬間にまったく反転した。彼女の目の中には他の者たちと同じ、あの無反省な崇拝の色が浮かんでいた。私は茫然とした。
「鈴瑚」と私は彼女を呼んだ。息を潜めるような、秘密を打ち明けるような小さな声で。
彼女はこちらに歩いてきて私の両手を、合わされていない方の私の手を取った。そして私の目を下から覗き込んだ。彼女の手は温かかった。
しかし、いまでは私にとっては鈴瑚のことがこの里で一番遠い存在に感じられた。
13
目が覚めた。喉がいがいがと渇き、かなりの量の汗をかいていた。身体を柔らかいソファが支えていた。立ち上がり、明るい部屋の中で私は伸びをした。全身に倦怠感があった。
ひどく奇妙な夢を見ていた。総体としては恐ろしかったが、局部としては一言では言い尽くせないような感覚を含んでいた。身体を起こすのが億劫だった。
部屋の中には私ひとりだった。机の上のカップの底に残っていた冷めた紅茶を啜る頃には、もう夢の細部が曖昧になっていた。
ドアを開けてアリスが入ってきた。真新しい服を持っている。
「できたわ」と彼女は笑顔で言った。
「やった」と私は言った。「ありがとう」
「どういたしまして」
水をもらって飲み、シャワーを借りて新しい服を着た。それは身体にぴったりと合っていて暖かかった。私はすっかり気分が良くなった。起きたときの不快感も、あの奇妙な夢のことも、ほとんど忘れてしまっていた。
窓から外を見ると雪はやんでいた。出て歩くのが楽しみだった。
玄関で私はくるりとまわった。
「似合ってる」とアリスは言った。私は笑って「ありがとうね」と言った。
ドアを開けると外気は冷たく、しかし服がそれを見事に遮っていて、身体はまったく寒くなかった。良い一日になりそうだと思った。
家の前には私がいた。私は魔理沙と話していた。手を合わせたまま振り返り、私を見た。
魔理沙がいなくなって、鈴瑚が変わってしまったシーン、ぞわぞわする。
(716という数字になにか意味はあるのだろうか)
本来地蔵が偏在していることを考えると、
そこから成美が人里へ融和し、人格が拡張していく様はすごく興味深い視点だなぁ……と思いつつ、
その侵略具合が尋常ではなかったので、人里の勢力争いをしていた妖怪たちからしたら戦争ものだなぁとか
色々考えさせられました
増殖した各局所の私たちが私の全体に統合されていくところで、読んでいる側も同じように各節の俯瞰の感覚を得られるのが鮮やかだと思いました。その後に"総体としては恐ろしかったが、局部としては一言では言い尽くせないような感覚を含んでいた。"という一節が来るので一層良かったです。
成美のお地蔵様としての性質を持つ側面がとてもうまく表現された物語だと感じました。
主でない登場人物も、腑に落ちぬ作品を共有したい小鈴とか、知らずの内に「粗相」していた蛮奇とか、それぞれの人間(妖怪)らしさみたいなものを感じられてとても良かったです。
とても面白かったし、また凄い作品であると思いました。素晴らしいです。