Coolier - 新生・東方創想話

序文――――  それは霧雨魔理沙が偶然手にした書物で、内容は最後に挙げる通りの、たった一文で著せるシンプルなものだ。ただ、それを見てもらう前に、この書が齎した幻惑と、その対策について述べたいと思う。本来なら(略

2018/08/18 21:32:36
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 序文――――
 それは霧雨魔理沙が偶然手にした書物で、内容は最後に挙げる通りの、たった一文で著せるシンプルなものだ。ただ、それを見てもらう前に、この書が齎した幻惑と、その対策について述べたいと思う。本来ならばこんな勿体振った構成は伝え書きとしては失格に値するが、人間の里の、あまりにも悲惨な現状を顧みれば、今日この項を省略すべきではない。まず、――この書には真理が描かれている。宇宙との意識結合によって起こるマントラの感覚や、終末後に与えられる神々の幸福、天国に昇った先のハレムのような、具体的な例えで形成される人類宗教学とはまた毛色が違う、曖昧模糊とした“真実”である。読んだものにしか解釈は出来ないようで、何故それが真になるのか、その現象を客観的に記すことは困難である。ただし、多くの人々は、各々の視点でそれを描いている――――詩、演説、宗教画、彫像、踊り、そう云った創造物は、喜びとともに私の眼前で発散された。……みな、騙されていたのだ。その書の持つ、妖しい気配に。
 何故? と問うのは簡単だ。私自身、多くの疑問を持っているし、さきの文章を読んだ者も疑念を抱くだろう。本には何が載っているのか、本の魔力に惑わされたものは何を見たのか、私はどうしてその本の真理を疑ったのか、そして如何なる理由を以って警告を発するのか。それは、出来事を順々に追っていったほうが早く飲み込めるだろう。ともかくも、この序文では、里民がいち早くこの災害から抜け出せるよう、対策のことごとくを立て並べておく。願わくば、迷信に振り回されないよう、確固たる自己を。

・それを深く考えてはいけない。
・それを額面通りの価値で受け取ってはならない。
・それを裏付けなく信仰するのは危険である。
・それを複数の仮説なくして真実と思い込んではならない。
・それを探求するとき手にした手がかりを疑うこと。
・それを省みる場合自説が絶対だと信じてはならない。
・それを持参した他人の意見を鵜呑みにしてはならない。
・それを判断するときは権威の力を借りるべきである。
・それを囲む様々な論理に無闇に触れてはならない。
・それを薦める怪し気な権力者に従ってはならない。
・それを解決するには深い思慮を発揮すべきである。
・それを受け取る際は定量化された数値で見るべきである。
・それを……――――――




*     *     *     *     *     *






 初め、書があった。それは魔法使い(プライバシーへの配慮のため、その人物、及び、この事件の関係者、団体はすべて仮名で表記する)M・ケイの行った魔法実験が発端である。
 M氏は、人間でありながら魔法使いと自称する奇妙な人物で、里より離れた魔法の森で小道具店を開いている。魔法の森というのは、名前の通り科学的でない不可思議な現象で満たされた危険区域であり、その代表的な特異性を述べると、異常な高湿度、ガラパゴス的な固有生物、致死毒のある植物の乱立など、おおよそ商店を置いていい場所ではない。そんな中でM氏は何年も生活しており、人間が近寄らないのをいいことに、魔法実験と称して地域的な植生を使った調合を日頃行っていた。
 調合の結果、出来上がるものは爆薬ばかりであった。だが、あるとき、つまりは三ヶ月前――この記録の日付にある通りの夏前の雨季、本は生まれたのであった。これはM氏が書き下ろしたものではない。中空の錬金釜から突如出現した、妖書である。この本自体が妖怪であるのは明白だが、どうやら気配を隠すのが得意らしく、かの博麗の巫女でさえ妖気を感じなかったほどだ。書の最初の読者は、M氏であった。
 本来、妖魔本というものは、人間を狂わせる魔力を持っている。有名なものを挙げると私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺……俗に付喪本と呼ばれるものだ。これは本自体が妖怪化しており、保有した人間に取り憑いて、その精神を喰らってしまう。付喪本の目的は単純だ。より強大な力を持つこと。つまり、書の内容の充実――百鬼夜行図は妖怪が描かれているのだから、ページが増えるという事は、新しく妖怪が作られる、という事だ。所有者は書に操られるがまま、妖魔本から空白が無くなるまで魂を蝕まれ続けるのだろう。
 そんな破滅的な怪文書に惹かれる人間なぞ居るだろうか? いや、居るのである。電熱灯に羽虫が寄ってきて焼き尽くされるように、人間は探究心を抑えられない生き物なのだろう。現に、里では一度、D・K・スズという貸本業者が、その餌食になりかけた事があった。この里が博麗の巫女に守られていなければ、今頃、そのK氏も冷たい土の中に埋められていたはずだ。
 ではM氏はどうなったかと言うと、実は、なんとも無かったのである。氏が特別丈夫であったわけでも、妖魔本が気まぐれを起こしたわけでもない。M氏は、すべてを読み終わる前――それどころか数ページを流し読みしただけで、本を見限ってしまった。余程気に食わない内容だったのか、M氏はその本の価値を見極めるため、魔法の森の入り口にあるR古道具店の主人に鑑定を依頼しに行った。
 R古道具店の主人、R・ロインクロスはM氏に負けず劣らず変人で名が知られていた。身長七尺あまりの長躯に見合わず、一日の殆どを鑑定と道具の手入れに費やし、寡黙で人付き合いも少なく、仙人のような暮らしをしている。しかし、R氏がM氏と比較されるのはこのような生活のためではない。ひとえにその古道具屋を変人の領域に貶めているのは、R氏自身の理屈っぽさが原因である。とにかく、話が長いのだ。普段、必要のない時は口を開く事もないR氏が、一度薀蓄を語り出すと、半刻は店に釘付けにされてしまう。ただ、R氏の長話は自身の知識の量に裏付けされての事であり、氏の鑑定に狂いが生じる事はほぼ無いと言っても過言ではない。堅実で信用に足る目利きであった。
 さて、件の妖書の真贋は如何だったのか。R氏曰く、
「これは真理の描かれた本だね。究極の真実、人生の答えとも取れるかもしれない。哲学書と表現するより、歴史書と解釈したほうが正しいだろう。換字式暗号も頻出するね。文体からして口述筆記と文語が混在していて、少なくとも著者は複数の人間から成るはずだ。初めは何らかの体制に異議を唱えるため執筆されたけれど、後々には儀式的用途に取って代わられ、ここまでの内容になったのだろう。しかし古い羊皮紙が使われているね。そもそも羊皮紙とは(中略)文化的背景を察するに、魔術的な作用が一般大衆にまで広く信じられていた時代であったのは確かだよ。その風潮が外科手術の(中略)まあ、君には(M氏に向けられた言葉だ)必要ないものだろう。書が何にしろ、剽窃を繰り返す小悪党の疑問には答えてくれないだろうからね。僕は要らないけど」
 半分以上内容を削っているが、R氏の書への評価はつまるところ、『真理の本』であるとの事だ。本はあっという間に正体を見破られてしまった。一見すると、全ての話はこの鑑定で終わりを迎えたように感じられる。だが、真理の書がその羊の皮を脱ぎ捨てて、妖魔本へと豹変する大事件は、これから起こるのであった。剽窃者、と評されたM氏は、そこで書を手放さず、R氏のお墨付きを文書で受け取ってから、幻想郷内にある図書組織や古書店に高く売りつけようと画策したのだ。
 ここで一旦、軽く時間の流れを止めて、浮かんできた疑問を2つ掻い摘んでみよう。
 1・魔法実験――すなわち探求を生業とするM氏が、何故、書の真理に感銘を受けなかったのか?
 2・逆に、鑑定によって真理を導き出したR氏が、書を手に入れようとしなかったのは何故か?
 これらの理由に当て嵌まるものは何だろうか。この後、時間差で事件を引き起こしているのだから、単に二人の邪気耐性が強かっただけでは納得がいかない。私が思うに、妖魔本は獲物の選り好みをしていたのだろう。二人もまた、知らずの内に本の邪気にあてられて、取りこぼさざるを得ないよう仕向けられたのだ。
 では、書はどこに落ち着いたのか。M氏はまず、大図書館と呼ばれる施設に赴いた。霧の湖の畔、もしくは中洲に、蜃気楼のように常に靄がかっている屋敷――仮に赤屋敷と呼ぼう――がある。赤屋敷自体、一晩の内にその場所を変えるなど興味深いエピソードを持ってはいるが、今それは置いておいて、例の図書館は屋敷の地下に広がるように存在している。図書館は、幻想郷内で最大の蔵書量を誇る本読みの聖地であり、また、赤屋敷の悪趣味な主と立地のおかげで、並の人間には到達できない伝説の秘境ともされている。
 M氏は、大図書館の魔女P・ビーンスプロートとコネがあり、よく大図書館を訪れては、その蔵書の0.0001%に満たない数の本を無断で拝借していた。R氏に剽窃という言葉を使わせたのは、ほとんどがこれが原因である。魔女PはM氏の行為を知らないわけではなく、かといって見逃している訳でもなかった。言うまでもなく、大図書館の蔵書量は一生かかっても読みきれないほどある。魔女PがM氏を許容するのは、その僅か一片が欠けたとしても、自分の日常――読書対象は大きく変化する事がないからである。彼女に云わせてみれば、M氏との付き合いは羽虫を一匹部屋に入れるかどうか程度のものなのだろう。むしろM氏の到来が、この時の止まったような大図書館で、ある種の時間を伝える虫の知らせになっていたのかもしれない。
 だが、今回はその羽虫が真理の本を携えて現れたわけだ。魔女Pもさすがに頭を抱えた。――なぜなら、本一冊で収まる真理などという馬鹿げたものが本当に実在していたら、これだけある蔵書は生まれなかったからである。魔女Pは人生の真実などに興味がない人種であった。
 M氏は交渉に移る前に門前払いされてしまった。最終的に妖魔本はこの大図書館に収まる事になるのだが、その結末に至るまで、つまりは妖かしとしての本領を発揮し始めるのは、もう間もなくの事であった。
 真理の書のあまりの価値の無さに肩を落としたM氏は、人間の里にあるS庵――さきにチラリと名の出たD・K・スズが店番をする貸本屋に寄った。S庵は里にしては珍しく、その蔵書にかなりの独自性がある店である。生活の知恵や推理小説、新聞紙の他に、多言語で描かれた稀覯本や封のされた特装本のような、普通の店なら気味悪がって置かないような書がいくつか鎮座している。中には妖魔本も混じっているという噂さえある。D氏はS庵の正式な所有者ではなく、その娘であり、幼い頃からこのような異質な書に囲まれて育ったせいで、好奇心旺盛で何にでも首を突っ込みたがる性格を持っていた。
 そこに、真理の本が差し出されたのだ。D氏が断る理由はなかった。私家版百鬼夜行最終章補遺の事件では、D氏は懲りなかったのだろう。幾ばくかの小銭を出して、S庵は妖書を受け入れた。ただ、それだけならば、妖魔本も毎年徐々に積もっていく埃を恨めしく見ているだけで、今回のような大事件は引き起こさなかっただろう。D氏は買取の際、古道具店R氏の鑑定文も共に買い取ったのだ。これが過ちだった。
『真理の本入荷!』
 真贋鑑定に裏打ちされた妖魔本は、大きく描かれた謳い文句に飾られる事となった。まず最初に足を止めたのが博麗の巫女であった。S庵はたびたび妖魔本の噂が持ち上がるので、幻想郷を守る存在である博麗の巫女の巡回ルートにあったのだ。彼女は言う。
「これが真実? 案外つまらないものね。で、あいつ(M氏の事である。ぞんざいな呼ばれ方をしたら大体M氏である)に騙されて買っちゃった訳ね」
 妖怪退治の専門家である博麗の巫女に、面と向かって妖気はない、と断言されてD氏は相当堪えたようである。展開初日だと云うのに、真理の本は店頭入り口からカウンター横のこじんまりとした凹部に収まった。が、捨てる神あれば拾う神あり、という諺をその身に体現するように、真理の本を欲しがるものが現れた。しかも二日と経たない内にである。
 今でもその人物の詳細ははっきりしていない。今後の出来事から推測すると、博麗の巫女の対立陣営であるJK神社の関係者であった可能性が高い。D氏曰く、身長が高く、武術の嗜みを感じさせる身のこなしと、貴婦人を思わせる美貌の持ち主だったそうだ。まるで戦女神である。もっとも、この神は、神の中でも疫病神に近い性質を持っている事が後から判明するのだが、ともかくも書に価値を感じた彼女は、法外な金銭を積み上げて妖魔本をまるごと買い取ってしまったのだ。
 数日後、里で街頭演説を行っていたJK神社の巫女が、“慈善事業”と称して見慣れない書物をばらまき始めた。これこそが例の妖魔の複写本、今では悪名高き「旧約真書」である。
 JK神社は近年現れた急新鋭の新興宗教である。博麗の巫女が教義も主神もわからない自然信仰と伝統性に重きを置くのとは対照的に、JK神社は代表者を現人神として祀り、明確な博愛と人道主義を前に出した正統派の宗教である。Z・I・ユールサナはJK神社の巫女であり、同時に教祖も務めている。彼女の裏には優秀な参謀が二人は居るとされ、現れてまだ短いというのに、数百年以上の歴史がある博麗神社の良きライバルとなっていた。どのような戦略だったのかは推して知るべしだが、この妖魔本を配る慈善事業はまずまずの成功を収めた。
 教祖Zの主張する書の解釈はこうだ。
「これは皆様の日常に使える生活の知恵です。皆が皆に対して優しさを持てばトラブルは起こりません。ゆきては妖怪さえも跳ね除ける団結力が生まれます。まずは一冊。もし気に入っていただければ、他の方々に薦めるための分も無料で手渡します。その際、一冊ごとに私達神社のお守りをひとつ進呈致します。もし効果があるとお思いになられましたら、是非とも私達の神社に参拝しに来てください。今なら索道も開通して簡単に来られますよ!」
 果たして、書を受け取った者達が、本当に内容にまで到達しただろうか。だが、このキャンペーンは一般家庭に本を普及させる下地を作った。無料という言葉は人間をよく働かせるようで、JK神社の参拝客はその時期二~三割増加した。本を印刷し、更に護符までプレゼントしようというものだから、相当なコストが掛かったはずだ。JK神社の財源だけで賄えるか甚だ疑問であるが、これには、裏で糸を引いていたものが居ると考えるのが妥当だろう。JK神社に魅せられた殉教者か、博麗の巫女に反する団体か、もしくは書の正体を知っている妖怪がJK神社を利用したのか、推測の域を出ないが、ともかくも書は一般的なものになった。
 妖魔本が、実用書の中に紛れて置かれるようになるとは、何と恐ろしいことだろうか。だが、それによって心を喰われる人間は未だに現れていなかった。妖書は機を窺っていたのだ。徐々にその牙を剥き出したと云えるのは、里に隣接しているN寺院が書の解釈を再発見したときであった。
 N寺院は構成員十名以下の小さな仏閣である。宗派は不明だが、その由来は信貴山縁起にまで遡る。寺社を建立した法師は、病の床にあった醍醐天皇を治療したことで有名な高僧である。通常、寺社縁起は開山の逸話が多いが、この法師においては事情が異なり、信貴山で修行を積み中興の祖として活躍した人物として描かれる。宇治拾遺物語や今昔物語にも法師を揶揄しているエピソードが登場するため、生前、よほど徳を積んだのだろう。現在は法師の血族――妹と名乗る尼僧N・サンが住職を務めている。法師は平安の生まれである。八百年以上経った今、その妹が生きているはずはないが、これは恐らく、肩書だけを世襲していく名跡の一種だと思われる。近代まで僧侶は妻帯を禁じられていたため、跡継ぎを残すのが困難であった。その対策として、僧侶の血縁者であるとされる人物が寺院の運営を引き継いでいく、という体裁を取ることがままあったのだ。
 寺院内には毘沙門天に関係する意匠が散見され、福の神としてのご利益を謳っている。尼僧Nの掲げる方針は絶対平等主義というもので、虐げられた民を救い、欲に増長するものを挫くという富の分配――福徳増進を主にするものだから、ここに祀神の影響が見て取れる。尼僧Nは熱心な仏教徒であり、民衆の間に悪習がはびこり始めると、たびたび里に降りてきてはその身を持って仏の教えを説く事を使命としていた。
 書が尼僧Nの目に止まったとき、すでに一般民衆の中には書を起点とした新勢力が勃興していた。それは今に見られる過激派などではなく、記述の意味を研究しようと集まった同好の士であった。その内のひとりが、真理を探るためにN寺院に講釈を望んだのである。尼僧Nは快く引き受けた。
 真理の読解は困難を極めたという。N寺院には尼僧Nを始めとした高僧五人と門下生一人が集まり、その筆跡を大衆でも親しめる平文へと直していった。翻訳作業は偏向的な記述を防ぐため、外部の手を交えず非公開で行われたので良からぬ噂が流されることもあった。寺院には見合わない派手な衣装を着込んだ異邦人が頻繁に出入りしていただの、途中から合流した元修行僧が編纂のほとんどを行ったなどと云うものがそれである。真偽の程は定かではないが、完成した「真訳覚書」は依頼者を満足させる出来だったようである。
 この、妖魔本の複写の複写は研究者達によって多少の変更を加えられて、N寺院共同執筆という形で発表された。鍋敷きにしか使われていなかった分厚い本を再読する気は民衆にはさらさら無かったが、これにすぐさま反応したのが、すでに普及していた「旧約真書」の発行元であるJK神社である。教祖Zは「真訳覚書」を「ひとつの解釈ではあるが、些か財産に対して厳しすぎる」と名指しで批判した。
 正直、この時点ではたいして騒動が起こる予兆などなかった。尼僧Nは覚書に対して何らかの声明を出す気はなく、研究者達もJK神社の信奉者であったからだ。だが、運悪く、ここで道教思想を持つ宗教施設、L廟が横から入り込んできたのだ。L廟は聖人と呼ばれるタワム・O氏を中心にして形成された団体で、主に教義や思想を形骸化して教えることなく、教主である聖人の一挙手一投足から学ぶという実践主義と帝王学が混じったような珍しい観念から成り立っている。O氏曰く、
「このような風潮は危険である。真の道は書によって教わるものではない」
 として、この些細な問題に一石を投じてしまった。そして、それを待っていたかのように、突如として里に号外の新聞が乱れ飛んだ。内容はまるで妖魔本に唆されたような代物で、さきに挙げた三つの宗教施設と、更には博麗の巫女まで巻き込んで対立を煽るような文章が描かれていた。以下にその一部を抜粋する。
『真理は誰が持っている? 四大勢力と里の行方は。前日未明、ついにL廟のO氏が真理について語った。「真実は書によって教わらず」こうして言及が行われたのは、里で流行りつつある書物の体系についてである。ここで語られる一連の書物は、失われた原著に対してJK神社とN寺院がそれぞれ独自の視点で考究を加えたものであり、「旧約真書」「真訳覚書」と呼ばれている。原著には、暗号を読み解く先に解脱への道が隠されているという。書に対して、JK神社の教祖、N寺院の住職、L廟の聖人が現在それぞれの立場を表明している。近々博麗の巫女までも加わるそうである。民間には研究施設も存在し、大いなる謎への熱は増すばかりである。一体、誰が真理に最も近いのか。誰につけば最良か。里はいま転機を迎えている。』
 見てわかるように、本来ならば誰にも公開されていないはずの“原著”にまで話が及んでいる。その上、JK神社とN寺院の書が源流を同じくすることにすら触れている。これが意味するものは何か――JK神社が書を複製して配布する際のパトロンが、この新聞記事をでっちあげたと考えると納得がいく。このあと、続報を求めた人々によって、とある機関紙Aが飛ぶように売れた。S庵で真理の書に目をつけた人物と、この謎の発行元は恐らくグルなのだろう。JK神社は自社のPRができて、パトロンはスクープによって富を得る。しかし、忘れてはならないのが、話題の渦中にある書は妖魔本であるという事実である。つまり、機関紙Aは妖怪を擁護している――それを構成する要素の頭文字を取ってAYYと呼称する――組織から発行されているのである。
 AYYについて、詳しい事は何も解っていない。ただ、人間の里で起こるトラブルのほぼすべてが、それら妖怪に与する者の仕業である、と考えると辻褄が合うことが多いのである。狂気に陥るもの、ありもしない不安に身を震わせるもの、邪法邪淫を行おうとするもの、博麗の巫女に不平不満を漏らすもの……そう言った社会不道徳は、AYYに煽動されて引き起こされているケースが少なくない。それほどまでに、AYYは妖怪的で、かつ民衆に浸透している社会観念的存在なのだ。

※ ここで社会観念的存在という表現を使用したのは、その組織構造が実にうまく機能しているからである。AYYは特定の代表者によって運営されている訳でなく、姿無き亡霊が突然人間に取り憑き、その思想を一時的に変えてしまうように、言うなれば流行病のように、散発的に現れては消えていくからだ。あるときは数人の見ず知らずの男女数名が同時多発的に発作を起こしたり、またあるときは商店がまるごとひとつ現体制に反対するようになる。どのような方法を使用しているかは皆目検討はつかないが、妖怪は必ず何処かで人間を誑かそうとその手を拱いているのだ。

 AYYの記事は真実とは程遠い具体性の無さを持っていたが、これが里民の想像力を掻き立てた。何の価値もなかった鍋敷きの紙束が、この号外を経て金言集に化けたのである。三つの宗教組織、博麗の巫女が真理に向けて競争状態にあるという出鱈目も背中を押した。それら関係者には、連日の如く信奉者が助言を求めて殺到した。そのうえ、真理という曖昧で、かつ哲学的なものを問われるものだから、各施設の代表者は本の解釈について結論を出さざるを得ない状況に追い込まれた。もしここで言葉に詰まるようなら、他の同業者たちより自動的にランクが低いと見なされてしまうからである。
 まず初めに一般大衆に向けて見解を発表したのは、意外にも書との関係が最も薄い博麗の巫女であった。彼女はいち早く問題の核心をついてみせた。
「これは娯楽なのかしら? それとも真剣な話? あまりにも不自然すぎるから、妖怪の関与を疑ったほうが良いかもね。強い言葉を使う宣伝には気をつけなさい」
 だが、民衆はこの忠告を聴かないばかりか、記述されているとされる謎に一切触れない彼女の態度に不信感を覚えたようである。この機を逃さんとばかりに、対抗陣営であるJK神社が書の自己解釈を大々的に発表した。
「これはですね、何度もそう云うように、生活の知恵です。もし、何かお悩みやトラブルがありましたら、一度辞典のように項目を引いてみれば必ず見つかるはずです。暗号や別解本に惑わされてはいけません。一家に一冊、真理とは、いますぐ使える生活の知恵なのです」
 この、解釈を里民に任せるような教祖Zの言葉はまずまずの支持を受けた。本に秘められた謎や別解を排除したような物言いは、旧約真書の研究者たちを幻滅させるには充分な威力を持っていたが、実際に生活の知恵として利用した婦人層から根強い人気を得たのだ。また、ごく一部の狂信的研究者は発表そのものに疑問を持ち、この後、悪名を轟かせる事になる旧約真書原理主義者へと成長していくのだった。
 真訳覚書の作者である寺院Nはこのやんわりとした批判を受けてもまだ沈黙を保っていた。だが、真面目に探求を続けていた研究者達が何人も泣きついてきて、とうとう尼僧Nは一般大衆に向けて声明を出すに至った。
「覚書に書かれるのは厳密には真理ではありません。ですが、これは真理になり得ます。暗号として見るのも、支流として補完するのも間違いではありません。観察からは智慧が得られ、音読し覚えるのは禅定と言えるでしょう。あなた方が記述より戒律を得るのならば、それは三学となり解脱に至るための厳しい修行の助けとなるでしょう」
 仏教思想に彩られた住職の言葉は、無学なものにとっては全く理解できないものだった。しかし、逆にそれが神秘的な呪文のように感じられたのだろう、真訳覚書は宗教への素養がない人々によって様々な解釈をされることになる。また、新解釈を自分の流派だと偽って新宗教を興隆させるものも少なからず現れた。尼僧Nは、基本的に貧しい者達で構成されたその新興宗教を政敵とせず、ただ静観した。
 三つの主要組織の反応を見て、L廟のO氏も自説を切り出さなければならないように追い込まれた。O氏は教義を曲げることはせず、度々集会を開いては、音楽や舞いのある祭りのような喧騒の中、ひとりひとりの信者に対して答えていった。それは途方もない作業だった。以下にO氏の発した真理を並列する。
「清浄さを欠いてはならない。ラッキーアニマルは羊」
「気を乱してはいけない。ラッキーアニマルは鶏」
「ここに属する限り安全である。ラッキーアニマルは牛」
「表裏どちらも正答である。ラッキーアニマルは猪」
「キミは成長から目を逸らしてはならない。ラッキーアニマルは犬」
「書にある各々の道は中空だ。そこに陰陽魚を生かすのはキミ達の経験に掛かっている。頑張りなさい」
 O氏の超人的な言語把握能力を見せ、一日に百人を超える相談者に回答を用意した。中にはL廟の様子を視察しにきた別陣営のスパイも混じっていたが、O氏のあまりの即答ぶりには目を見張ったという。しかし、O氏の応答が始まって一週間を過ぎたあたり、突如としてL廟の扉は閉ざされてしまった。これには心労が祟ったとも、民衆に与えられる道のすべてを託し終えたからだとも云われている。この後は信者たちが集まり、O氏の言葉を元にしての布教活動が主となった。
 さて、四つの陣営はこうして互いの立場を明確に示したのだが、ここに横槍を入れる人物が居た。それは、一番始めに書を手にした、いわば創造主であるM氏である。
 M氏は最初里で起こっている騒動が何なのか把握していなかった。だが、出版された旧約真書、真訳覚書を見てピンと来たようだ。すぐさま自分がその原著を書いた、と主張した。しかし、もうその時点で同じような事を嘯く偽物が大量に現れていたため、M氏は人々の波に埋もれ、また魔法研究の日々に戻っていってしまった。
 日に日に真理への研究は円熟していき、里人は自分の信仰する宗派を持つようになった。人々は思いを詩にしたため、偶像にし、特有の舞いを踊っては賛美歌を歌った。代表的なのは先に述べた四つの陣営、博霊派、旧約真書派、真訳覚書派、O氏金言派である。これに次いで大きくなったのは旧約真書の研究者達を中心とした真理派と、失われた原著を求める旧約真書原理主義者達によって構成された原理派の二つであった。特に後述の二陣営は激しく対立しており、互いに起源を同じくしているせいもあって、暴力沙汰に発展することもままあった。
 真理派の主張は、純粋に真理を求めることである。元々、旧約真書を研究していた彼らは、JK神社の声明によって方針転換を余儀なくされた。その結果、どの陣営の主張も正しいと認め、真理だけを抜き出すという研究にシフトしたのだ。ここでは学術的な体系と云えるほど多くの論文が発表され、それに関する記述は真学と呼ばれた。
 対する原理派は、いわゆる過激な夢追い人の集まりであった。原理主義者の主張は、絶対的である書が存在し、それを持ち出したJK神社の功績を称えると共に、その書のあまりの威光に日和った教祖Mの愚かさを糾弾するものであった。原理派に云わせれば、旧約真書を読み解けば原著の真理が見えてくるという。そこには、本書には一度も使われていなかった“神”という言葉が登場した。実は、原著である妖魔本にも神という単語は一度も登場せず、代わりに『主人』という歴史書によく見られる統治者が出るだけで、その存在は完全に彼らの創作であった。
 原理派はしばしばJK神社もその暴力の標的にした。境内に火を放ったのである。それは運良く大事になる前に関係者に発見され事なきを得たが、現状の宗教闘争に波風を立てる事になったのは確かである。事件の実行犯はすぐさま拘束され、里の自警組織に引き渡された。恐るべき事にその過激派は、体中に爆弾を巻いて自爆する気もあったと陳述した。襲われた教祖Zはただちに博麗の巫女と接触した。ついに妖怪の存在が疑われたのだ。
 これまでを見て分かる通り、この妖魔本は人間の本性をエスカレートさせていく。少数派ではあるが、派閥の中には激しい性行為を推奨するものすら誕生している。流通と宣伝によって広まった妖書は、すでに価値観のスタンダードになりつつあった。それもそのはずである。この書の教えは、人間に元々備わっているモラルを利用して、自書の項目に当てはめているだけに過ぎないのだから。
 そして、ついに妖怪に精神を喰われた者が現れた。文字として書き出すのもおぞましい猟奇自殺事件だ。夏らしからぬ幅広の外套を着た見ず知らずの女性五人が、里の広場で突如爆発四散して死ぬという異常事態が起きたのだ。五つ転がった生首は、その髪が血で真っ赤に染まるほどで、そのあまりに酷い光景に里は騒然となった。
 事件の検分に真っ先に飛んで来たのは博麗の巫女であった。次に近場で活動していた教祖Zも姿を現し、犠牲者に祈りを捧げるために尼僧Nも呼ばれた。遺体の身元特定のためO氏にも声がかかり、更に野次馬として眺めていたM氏も、その爆発物研究知識から広場に召喚された。ここに、“偶然にも”書の主要関係者全員が揃ったのである。不可解な事に自殺者はみな遺書を残しておらず、別々の宗派に所属していた。しかも、その誰もが天涯孤独の人間である事がわかった。関係性も、詳細もわからぬまま広場は一時封鎖され、遺体の行方もわからなくなった。唯一共通していたのは、全員が原著らしき本のページを一枚持っていたことだった。
 ここで疑問がひとつ浮かぶだろう。何故、これが『自殺事件』なのか、という事だ。どう見ても自爆テロ、控えめに見ても殺人であり、有識者ならば尋常ならざる力が加わっていることも察せるだろう。結論を先に述べてしまうと、集まった五人全員が口を揃えて自殺であると判断したからだ。では、何故か?
 博麗の巫女の云う、この恐るべき現象の正体はこうである。
「彼らはもう完全に妖怪になり変わってしまっていた。これに取り憑かれたものは、最終的にこうなるみたいね」
 彼女は集まってきた野次馬に血まみれのページを見せつけた。妖怪とは、人間の恐れによって増長する。こうして妖魔本の本性が、もっとも忌避される形をとって姿を現したのは、人間社会への侵略の手はずが整い、あとは引き金を引くだけの段階に到達していたからである。女性達がどうして自殺したのか、――それは里を恐怖で満たすためであった。次に爆発するのはお前だぞ、と。
 爆発の原理は説明されなかったが、この死病のような妖怪の性質は民衆の間に瞬く間に知れ渡った。そしてすぐにも原著が妖怪なのではないか、という恐怖の噂が立ち昇った。これには原理派が烈火の如く反論を加えたが、前のJK神社放火事件のような、自身の体に爆弾を巻き付けた過激派はついぞ現れなかった。もし自爆テロを行ってしまえば、自分達が人間ならざるものであると言っているようなものだからだ。妖怪とは、里では絶対悪なのである。
 五人の代表者達は日を改めてこの事件の対策を練ることにした。それまでのたった数日の夜は、里にとって最も長く辛い時間となった。あるものは家に引き篭もって一歩も外に出ようとせず、あるものは家族親戚を全員集めて一睡もせずに互いの安全を確かめあった。薬屋で調合された抗うつ薬を大量に飲んで倒れた男性も居た。中でも、最も賑わいを見せた――こう表現すると楽しげに思えるが、事実その通りなのである――のは、里の外れで行われた厭世の焚書である。その晩、恐怖感と共に関係のない本まで投げ捨てるものが続出した。中にはあれほど熱中していた研究者の姿もあった。なるほど、すでに知識は頭に入っているのだから、もはや書など必要ないわけだ。妖書なんて元よりタダの本ですらある。
 だが、事態は思わぬ方向へと動いた。本を捨てようとしないものを迫害する暴徒が現れたのだ。そして原理主義者との激しい抗争の末、大勢の怪我人が出た。最終的には寺院の僧達が総出で鎮圧に当たり、博麗の巫女との協力を経て停戦へとこぎ着けた。諍いは到るところで発生し、博麗の巫女たち代表者は対策をすぐさま実行に移さなければならなくなった。たった三日間の出来事であるのにも関わらず、かつて生活の知恵や真理であったものが禁忌へと貶められた。
 代表者達は、書そのものと書の影響を消すため、里で教師を行っている著名な歴史学者と、里の歴史的記述のすべてを担っている私のもとに訪れた。そうして真理を忘れる護符が完成し、その日の内に、出来上がった分から順次配られ始めた。護符が全里民に行き渡るまでは一日半のもの時間を要した。人間同士の札の奪い合いが起こるかと心配されたが、各宗教勢力の協力もあって事なきを得た。現在、原著と思われる書は森中の洋館から発掘されたあと、赤屋敷の大図書館に厳重に封印されている。
 これによって里には平穏が戻ってきたかに見えた。だが、書の残した傷跡は大きく、人々は信仰心を失いつつあった。真理だと追い求め、信じ、利用してきたものがものの一晩で崩れ去ったのだ。確かに、思い出してみれば有用な記述は多かったように感じる。これを描いている私自身も、かの書の一節一節には思うところがある。
 ――ここで初心に戻ろう。何故? と問うのは簡単だ。私自身、多くの疑問を持っているし、さきの書を読んだ者も疑念を抱くだろう。原著には何が載っていたのか、本の魔力に惑わされたものは何を見たのか、私はどうしてその本の真理を説こうとしているのか、そして如何なる理由を以って警告を発するのか。ともかくも、里民がいち早くこの災害から抜け出せるよう、私はこの妖魔本の齎す真理をたった一文に集約する事にした。そしてそれは成功した。

《書は、矛盾している。》

 だからこそ、あらゆる意見を網羅して、真理に到達できるのだ。だからこそ、魅力が無く、かつ謎めいているのだ。自己矛盾は恥を引き起こすが、知識の矛盾は謎を生み出す。自我の強い変わり者の魔法使い、鑑定屋、魔女はそれを恥じて手元に残さなかった。しかし、それも致し方ない。何故、矛盾しているのか? それはこの本が、元歴史書だからである。為政者の行動とは、常に情勢によってフラフラと移り変わる。価値を、――――社会経済を回すために。
 私達は解釈してしまったのだ。彼らの都合の良いように。
 ……どうか希望を失わないでほしい。傷は明日にも癒えるはずだ。歴史の流れは激流だ。もし、誰もが何もかもを覚えていなくとも――“忘れてしまって”も、記述として、この出来事を残しておく。
 最後に、この事件を記録するにあたってお世話になった幻想郷の賢者たちへの謝辞と、執筆の意図を並べておく。

 この文は、以下の協力者によって詳細な推移の描写が可能になった。ここに改めて感謝する。

博麗神社代表・博麗霊夢
守矢神社代表・東風谷早苗
命蓮寺和尚・聖白蓮
神霊廟道士・豊聡耳神子
郷土史学者・上白沢慧音
鑑定、取材協力・森近霖之助、本居小鈴
資料考察・霧雨魔理沙
市井代表・赤蛮奇(Normal)

 ――――――この物語は真実である。
 私は、執筆するにあたり出来事の“正しさ”を第一に描写する事に努めた。未だ里にはAYYが拡散した妖怪の芽がそこかしこに見られる。願わくば、皆に妖怪を憎む心あらんことを。

                       第九代目稗田家当主・稗田阿求





















                      印刷、発行代表者・射命丸文
 書き終わったあと、歴史を鑑みた私は一度全文を見直し、そして、恥じて、序文だけを引き裂いて屑籠へ投げ入れた。
henry
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コメント



0.190簡易評価
1.60名前が無い程度の能力削除
仮名での表現が哀しいくらいに目を滑らせる要因になってしまってる気がする。
誰が誰だったか分からなくて読み直さなきゃいけないのは、ちょっと良くない。
がんばって。
2.100創想話好き削除
な、何か書こう
文章に阿求が憑依してるしー ここまで整然と書けるの凄いなー
執筆にあたり作者の敷いたテーマは『これは只の記録である』かしら
うん、多分大成功

妖魔本 どんな妖怪か(ヒトから生まれたモノだし広義な意味で妖かしよね
旧約聖書? デマゴーグ? シビリアン? 理の真逆、思い込みとバイアスの妖怪かな?
魔理沙の釜から生まれたのは何でだ?

D.K. D○NでK○?
L廟 LawとLowのDM?

重箱の隅
・博霊派 まあ間違いではない
・スズ D氏、K氏と表記が異なる部分がある これも間違いとまでは言えない
・日和った教祖Mの愚かさを糾弾するものであった <教祖Z
・一日半のもの時間を要した <もの
・これを描いている私自身も 勿論"描いて"で間違いではない
3.60奇声を発する程度の能力削除
これはこれで良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
次へ次へと読んでいってしまいました。面白かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
魔理沙は聖書を拾ったのかな?
6.100名前が無い程度の能力削除
最後のオチが好き
情報量に圧倒されてしまってうまいこと言えないけど、とても良かったです
8.90サク_ウマ削除
3回目でそこそこ把握できました。面白い視点で、興味深い作品でした。でもちょっと目が滑る・・・