青い空。
白い雲。
燦々と照りつける真夏の太陽。
そして──
「小鈴ちゃーん、焼きもろこし塩ひとつね」
「お嬢ちゃん、こっちにもひとつ、タレな!」
「はい、ただいまー!」
四方からかけられる注文。
じゅうじゅうと音を立てて焼ける半分に切ったとうもろこし。
団扇で送る風を受けパチパチ弾ける炭火。もうもうと立ち上る煙。体中から噴き出る汗。
「──あっつい!!」
「ほんとうだね。はい、これ追加」
「なぁー!」
冷静に加えられた皮つきとうもろこしの山に、小鈴は言葉にならない悲鳴を上げた。
これもひとえに新たな妖魔本を手に入れるため。分かっている。頭では痛いくらいによく分かっている。だが、内心で叫ばずにはいられない。
(どうして! こうなった!)
元来の風土として祭りやイベント事が盛んな幻想郷では、人間の里に限っても催し物が多い。五節句などの節目には縁起物が軒先に並ぶし、初夏に行われる播種祭、並びに秋に行われる収穫祭は、里を挙げての盛大なものになる。クリスマスやバレンタインなど、外の世界から伝わってきたイベントも、幻想郷風にアレンジされなんのかんのと馴染んでいる。
鈴奈庵に関係が深い催しとして挙げられるのは、年に数度行われる古書市だろう。大通りを二本くらい挟んだ一角を借り受け、店の大小にかかわらず露店を出し、互いの書籍を売ったり買ったりするのだ。古書とはいえ「書籍を買う」という性質上、客のほとんどは同業者か学者だが、思ってもみない掘り出し物があったり、里で話題になっている本の内容について意見を交わすことができるので、小鈴は毎度楽しみにしている。
そう、小鈴にとっての露店とは、出店とは、普段よりも少しだけ気を入れた格好をして、志を同じくする愛書家(なかま)たちと、知的かつ刺激に満ちた議論を交わす場所なのだ。
まかり間違ってもこんな、軒があるとはいえ炎天下の中、炭火の前に陣取って作務衣を汗で湿らせながら、焼きもろこしを売りさばくなんて文字通り暑苦しいこと──「っ、はい、塩とタレいっこずつです、お待ちどう!」
「どうもねー」
「小鈴ちゃん、小鈴ちゃん。悪いんだけども、塩とタレをふたつずつ、作ってもらえんかねぇ? あ、七味とすだちも脇に添えてもらえるとうれしいね。それと、この、まよねぇずってのは、なんなのか知らん?」
「ああ、マヨネーズは、ここの調味屋さんの肝いりですよ。鶏卵と、油と、お酢と、塩を混ぜたものなんです。こってりしてるけどまろやかなお味で、精もつきますよ。特別な仕入れ先から卸しているそうで、これだけ別料金をいただきますが、贅沢の価値はあると思います」
「そうなの。うーん、じゃあ、これも添えてもらっていいかねぇ?」
「はい喜んでー!!」
最早自棄である。
パリッと焼けている皮をむいて、湯屋でも使えない端木を刺したとうもろこしを網の上で回し、焼き目を見る。良い塩梅だ。同じく端木で作られた即席の容器に移して、半分に塩を多めにふり、もう半分にタレを刷く。端のあたりに、七味唐辛子、ふたつに割ったすだち、マヨネーズをたっぷりひと匙添えて、嬉しそうに両手を合わせる老媼に手渡した。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとう。孫も喜ぶわぁ。これ、お代ね」
「はい、丁度ですね、たしかに。まいどありー」
日々の接客で身に馴染んだ満面の笑みで老媼を見送った。他に並んでいる客はいない。
ふーっと息をついて軒を見上げる。さすがに里の目抜き通りで行われている道具市だけあって、入れ替わり立ち替わりの来客に目が回りそうだ。こんな状態で夕方まで、やっていられるのだろうか。
ふっと遠い目になり黄昏れる暇もなく、「もし」と凜とした声がかけられた。「はい失礼しました、ご注文は!」と慌てて目をやると、涼しげな夏服に身を包み、片手を上げた阿求が笑っている。
「なんだ、」小鈴は脱力した。「あんたかぁ……」阿求を見てこんなに安心したのは久しぶりだった。
「はい、麦湯。すこし落ちつきなさいな」
「ありがと」
汗をかいている茶飲みを受け取りひと息であおる。暑さでカラカラに乾いていた体の隅々に香ばしい麦湯が染みこんでいくようだ。ぷはぁー、と息をつく。ようやく人心地ついた。
「おじさまから聞いてはいたけど、ほんとうにお手伝いしているのね」
「まぁねー。お得意さんからのおねがいだし、ちゃんとお返しもいただけるし」
現在小鈴が切り回している露店は、例年鈴奈庵が手伝いをしている紙卸商のものではなく、目抜き通りの端にこじんまりと軒を連ねている調味屋のものだ。店構えこそ小さいものの、年若だが気のいい店主と良質な調味料が評判の商店である。
本居家も時折世話になっているこの店の、店主は鈴奈庵の常連、というわけではなく。この調味屋に品を卸している問屋の男性のほうが華客なのだ。特に、妖魔本を扱うようになってから。
その男性から、道具市を前に、商売仲間の手伝いをしていた店主が腰をやってしまったので助けてくれないか、と申し出があったのは二日前のこと。紙卸商との先約がある上、出店の内容が内容だったので最初は断ろうとした小鈴だったが、必死な男性の「僕がこれまで書き記してきたメモ帳を譲るから」の一言に意見を翻した。
男性が卸している調味料の中には、マヨネーズのような、里ではなかなかお目にかかれないものもある。それが書き記してあるならば資料としての価値は高いし、なにより、男性直筆のメモ帳、それすなわち妖魔本だ。妖魔本コレクターとして、協力しない理由など何ひとつ無かった。
とどのつまり、この男性の正体は妖怪だったりするのだが。
「豆蔵さん、やはりわたしも……」
「わっ、いけませんってお香ちゃん! まだふらついているじゃないか」
「でも、ずっと焼きっぱなしじゃ、熱いでしょ? ただのぎっくり腰なんですから、すこしくらい」
「いけません! 甘く見ると酷い目にあうって、竹林の薬師さんも言っていたでしょう。こちらなら大丈夫だよ。小鈴ちゃんも手伝ってくれてるし、午後からはほれ、お仲間も来てくれるんだから」
「だけど、店主がいない出店というのも、あんまり申し訳な、っ、いつつつつ……」
「ほら、無理をするんじゃないよ! 小鈴ちゃん、悪いけど、すこしだけここの火も見ててくれるかな?」
「あ、はーい」
店主の背に手を添えて、男性、もとい豆蔵は店の奥に引っこんでいく。その横顔は心底気遣わしげだ。筋張った手にしっかりと支えられる店主は、なんとも気恥ずかしそうに眉を下げている。このふたり、商売の仲のみならぬのでは、としきりに噂されているらしいが、あながち間違っていないのかもしれない。
髭と根を適当に切られ、小型の網の上で皮付きのまま焼かれているとうもろこしを引き上げてから、炭を掻き出し火を弱める。水の入ったバケツをすぐに取れるところに動かして、軒先の出店に戻ると、いまのやりとりを聞いていたのだろう、阿求はおかしそうに目を細めていた。
「お香ちゃん、ねぇ。ずいぶん丸くなったこと」
「あれ、知ってるの?」
「あのひとにこのお店を紹介したのは私よ」
「えっ!?」
なんという世間の狭さか。
というか、その発言を信じるなら、阿求は、商売が絡んでいるとはいえ妖怪に人間を紹介したということになるのだが。いや、待て待て、そういえば、商売ならよくあることだったか。
しかし、あれだけ「妖怪は人間の敵」と口を酸っぱくしていた阿求が、陰でそんなことをしていたとは驚きである。小鈴は特に気にしないが、知る相手によっては大変なことになるのではなかろうか。
「……あれ? それ、私に言ってよかったの?」
「なに言ってるの、豆蔵さんは優秀な問屋でしょう? 燻っている人に手を貸すのは当然の勤めよ」
「え、と?」
含みのある物言いになんだか混乱してきて首を傾げる。そんな姿を見、呆れ眼で口を開こうとした阿求を手で制し、小鈴は顎に手を当てた。
おそらく、これは、小鈴が「人里の貸本屋の娘」でしかない時ならば、言ってくれなかった話だろう。せっかく示してくれたチャンスだ。自力で考えたい。
豆蔵は妖怪だ。この眼がそう言っているのだから間違いない。
「私家版百鬼夜行絵巻 最終補遺」に長く触れ続けたからか、それ以外の要因かは分からないが、神隠しの一件以来、己が持つ妖気への感度は以前よりも上がった。その眼による識別と、なによりも、相手のひととなりや言葉を交わした印象を判断材料に、小鈴は妖魔本の貸し出しを行っているのだ。大前提となる眼が狂っていたら商売人としてやっていかれない。
そして、発言から鑑みるに、明言こそしていないが阿求も豆蔵の正体を分かっているのだろう。その上で、人間である店主に豆蔵を紹介している。それだけならまだ分かるが、店主を慕う彼の姿に、ほほえましそうな、和やかな表情を浮かべていた。良いのだろうか、それは?
堂々巡りに陥りそうになった小鈴だったが、黙ったままこちらを見守る阿求を見て、いや待て待て、と思い直す。
自分が妖魔本の貸し出しをするのは「妖魔本を悪用しない」と判断した相手だけだ。それはすなわち、「人里にいるときは人里のルールに従い、人間に交じって暮らしている妖怪」と同義である。マミゾウなり、文なり、妖怪子狐なり、人として生きている妖怪たちのような。
「あー」
なんとなく腑に落ちた。
彼・彼女らは、人里を騒がせる相手では決してない。加えて、正体を隠しているかぎり普通の人間には妖怪だと見破れないのだから、"人間"となんら変わりないのだ。つまり、妖魔本が絡むならともかくも、小鈴が取るべき対応は。
「そうね、あんたの言うとおりね。にしても豆蔵さんって、あんなに良質な調味料を、いったいどこから仕入れてるのかしら?」
「不思議よね。ま、助かるからいいんじゃない」
「それもそうか」
相手は"人間"で、その枠からはみ出ようともしていないのならば、特別な対応を取る必要はないのだ。言葉の裏に気づきを忍ばせ、カラカラと笑う。
阿求は満足げに目を細めた。
「やっぱりわかってなかったのね。ま、一応は自力で気づけたんだから、及第点としましょうか」
「んぐ」
小鈴よりも高いところから額をペシペシたたかれているかのような言いぐさが腹立たしい。だが、これに関しては阿求に助けられたのだから文句を言えない。"人間"である相手を妙に意識して、妖怪扱いしてしまっては、奇異の目で見られるのは小鈴のほうだ。いや、遠巻きにされる程度ならばさして気にかけないが、やたら騒ぎ立てる小鈴を疎ましく思う相手がいたら、事である。小鈴とて、まだ命は惜しいのだ。
「ところで」
「うん?」
「そっちはいいの? 焦げかけているようだけど」
阿求の言葉に軒先のほうをふり返る。網の上から煙が上がっていた。
「えっ!? あー!? わ、わ、しまったすっかり忘れてた! なんでもっと早く教えてくれなかったのよー!」
「言おうとしたのにあんたが考えこんじゃったんでしょうが。ほら、急ぎなさい」
「そっちだったの!?」
「小鈴ちゃん、大声が聞こえたけどもだ……阿礼乙女様!? お、と、ご、ご無沙汰しておりますお元気そうでなによりです!」
「えっ、阿求様? 豆蔵さんやっぱりわたしも、い゛っ、あいったぁ……」
「お香ちゃん!?」
「あー……」
途端に慌ただしい雰囲気になった。
わたわたととうもろこしを網の脇に避けて、ふぅと息をついて改めて見やると、阿求は困ったような苦笑を浮かべている。
「ちょっとお香さんにあいさつしてくるわ」
「あ、うん、わかった」
土間から部屋に入る阿求を見送る。と、いったん引いていた客がこちらに声をかけてきた。慌てて笑顔を浮かべ、注文に頷き返してゆく。
時折とぎれはするものの、それはほんの一瞬で、客は入れ替わり立ち替わりやってくる。道具市ということもあり、普段の祭りに比べると飲食系の出店が少ないのも影響しているのだろう。小鈴と豆蔵は目が回るような忙しなさに呑みこまれた。
「おっ、ほんとうに鈴奈庵の嬢ちゃんがいらぁ。豆蔵、おまえさん、女将と嬢ちゃんに挟まれるなんざ、役得だなぁ」
「お客さん、からかわないでくださいよ。ただでさえ小さい肝っ玉が無くなっちまう。して、ご注文は?」
「そうだな、タレひとつ、塩ひとつに、せっかくだ、このマヨネーズってのももらおうか」
「かしこまりました。小鈴ちゃん、タレと塩ひとつずつ、マヨネーズ付きで」
「あーごめんなさい! 今焼き目つけてるので、ちょっとお時間いただきますけど」
「かまやしねぇよ」
もとよりこの調味屋は評判の店なのだ。それに加えて、鈴奈庵の看板娘が売り子をするという不思議な光景が話題を呼んだようで、見に来るついでに注文をしていく客が後を絶たず。
「あらまぁ、お香ちゃん、ほんとうに伏せっているのねぇ。小鈴ちゃん、ちょっと上がらせてもらうわね。帰るときにもらうから、そうね、塩六つとタレふたつ、すだちをふたつ、用意しておいてもらえるかしら」
「塩むっ……!? か、かしこまりました、ありがとうございますー! ……豆蔵さん、豆蔵さん、こっちもう蓄えが無くなりそうなんですけど」
「またかい!? すごい回転率だな。わかった、急いで焼くよ」
自分たちの出店は他に任せているのだろう、店主を目当てにやって来て、そのついでとばかりに結構な量を言いつけてくる客もあり。
「差し入れもって……ってあんた、顔真っ赤よ? ちゃんと水飲んでるの?」
「ああ、あきゅう。いわれなくてものんでるわよちゃんと……ラムネだぁー!」
「貸し一ね。豆蔵さんも、どうぞ。いくらあなたでも、この熱さは堪えるでしょう」
「あ、すみません、阿求様」
「お忙しいと思いますが、あの娘が倒れないよう、気をつけてあげてくださいね」
「はい、そうですね……。いやしかし、まさかこんなに繁盛するとは。場合によっては僕のほうがたおれるかも」
「気をつけてあげてくださいね?」
「重々承知しております」
他の店にも挨拶まわりをしている阿求が、合間合間にちょくちょく差し入れをしてくれるものの、最低限の水分を取るのが精一杯で。
「どうも。ずいぶんと好評なようですね、小鈴ちゃん」
「あっ、文さん、いらっしゃいませ。あれ、そちらの方は?」
「同僚の犬走です。里の催し物に参加したことがないと言うので、せっかくですから連れてきたのですよ」
「無理矢理引っ張ってきたんじゃないですか。と、失礼。本居小鈴さん、ですよね。犬走椛と申します。お噂はかねがね」
「はじめまして! 文さんの同僚ってことは、椛さんも、」
「お客さん、お話中相済みません。小鈴ちゃん、注文だよ。塩三つとタレ七つ、マヨネーズとすだちと七味、全部載せで」
「み、ななっ、ぜっ……!? す、すみません、文さん、椛さん。ちょっと今!」
「ふふ、そのようね。大丈夫、姿を見たのであいさつをしたかっただけですから。また日を改めて、鈴奈庵にお邪魔しますよ」
「わーん、ごめんなさい! 椛さんも、ぜひ、鈴奈庵にもいらしてくださいね。そのときは、きちんとおもてなしさせていただきますから!」
「いえ、私は……」
「そうね。今度伺うときはこいつも連れていきましょう」
「お待ちしてますー!」
せっかく知り合いが尋ねてきてくれても、ちょっと立ち話をする暇すらない。歯がみしたい気分である。
「……文さん、隠し撮りはどうかと」
「記事にはしないわ。記念よ、記念」
なんだか不穏なやりとりが聞こえたが、おそらく気のせいだろう。ぺぺぺぺぺぺ、と団扇を片手に当てるようにして細く風を送り続ける。熱を孕み立ち上った煙が目に染みた。
昼八つ時(午後二時)を過ぎたあたりで、(多くの人が昼食を済ませた影響もあるだろう)ようやく客足が一段落ついた。団扇を脇に置き、へなへなと壁にもたれかかる。
体中が熱い上、立ちっぱなしで足が重い。中を覗いたら豆蔵も土間にへたりこんでいた。
山積みにされていたはずのとうもろこしは残り十本あるかないかだ。午後になったら、とうもろこしの補充も兼ねて、店主と提携している小作農たちが助っ人に来ると聞いているが、それまでもつだろうか。
「油断大敵」
「ぅわつめたっ!?」
頬にひんやりとした瓶が当てられた。
見ると、右手に風呂敷包みを、左手にラムネの瓶を持った阿求がおかしそうに頬を緩めている。普通に渡してくれたらいいのに。
本日二本目のラムネをあおる。しゅわしゅわとしたのどごしとスッキリした甘さが身に染みた。もう五年以上前になるか、初めて飲んだときは口に馴染まない刺激に目を白黒させた小鈴だったが、今では、夏の風物詩のひとつとして毎年楽しみにしていた。
豆蔵にもラムネを渡してきたらしい阿求が、風呂敷包みを持ち上げる。
「お弁当あずかってきたんだけれど、抜けられそう?」
「あー、どうかな。もうすこしで助っ人が来るはずだから、交代できれば」
「わっ、ほんとうに小鈴姉ちゃんだー!」
言い終わるよりも早く飛びこんできた陽気な声に条件反射で瞑目する。阿求も思わずといった風な苦笑いを浮かべた。
よく読み聞かせにやってくる五人組に「いらっしゃい」と手をふる。妖怪子狐の姿もあった。小物屋の出店で買ったのだろう、揃いの扇子を帯に差しているのがほほえましい。
「阿求お姉ちゃんもいる。こんにちはー」
「はい、こんにちは」
「うわー、うわー、作務衣着てる。変なの」
「汚れてもいいようにね。どうする、とうもろこし食べる?」
「食べる!」
きっちり揃った五つの声に笑ってしまった。脇に避けておいたとうもろこしを網の中央に並べながら、味つけを説明すると、途端にやんちゃな声が張り上がる。
「オレ塩!」
「え? じゃあ、わたしもお塩……」
「塩とタレかー。どうしよっかなー」
「あたしタレ。焼きもろこしはタレに限る! っておばあちゃんが言ってたもん」
「えっ? じゃ、じゃあ、わたしもタレ……」
「塩のがうまいに決まってンだろ。お子ちゃまだな」
「タレの甘辛いのがおいしいんでしょ。かっこつけちゃってさ」
「え、え……?」
「あの、みんな、一気に言っても小鈴お姉さんが困っちゃ」
「塩ですだちにしようかなー、タレで七味もいいなー。マヨネーズもおいしそうだなー。……あっ、塩でマヨネーズもいいかも」
「えっ、マヨネーズもあんの?」
「マヨネーズ食べられるの?」
「ま、まよ……?」
「ちょっ、ちょっとまった、まったーっ!」
くるくると変わる意見に頭の中がごちゃごちゃになる。思わず悲鳴を上げた小鈴の肩をポンとたたいて、阿求は子どもたちと目線を合わせた。
「マヨネーズはおまけするわ。塩がひとつ、タレがふたつでいい?」
「あ、は、はい……!」
「いいの? やったー!」
「阿求お姉ちゃんありがとー」
「どういたしまして。それで、あなたたちはどうするの?」
「あ、えっと、塩味をください」
「じゃあ、タレにして、七味唐辛子もくださいな」
「あっ、オレも七味ほしい!」
「あんた辛いの食べられるの?」
「んなっ、食えるに決まってんだろ!」
「うん、じゃあ、七味も皆で食べられるようにするから。小鈴、聞いていたわね」
「あいよ。塩ふたつ、タレ三つ、七味とマヨネーズね、まいどありー」
五人でつつけるよう大皿で用意して送り出す。
「ありがとー!」と駆けて行く子らを見送って、小鈴はふぅとため息をついた。
「はい、これマヨネーズ分」
「たしかに。いやぁ、助かったわー」
「子どもは思いついたことを片っ端から言ってくるから。ああいうときは、ある程度まではこちらで決めてやるくらいがちょうどいいのよ」
「なるほど。あんたって子どもの扱い上手だよねぇ。意外に」
「いつまで経っても幼い友人がいるからね」
「へぇ、そうなんだ?」
「…………」
「なにその目……んっ、あ、私のこと? ああ、そういう……ってどういう意味よ!」
子どもたちを見送ったあたりで、背嚢にたっぷりととうもろこしを詰めこんだ助っ人たちがやって来た。逞しい面々に後を託し、阿求と共に賑やかな通りを抜ける。あちこちから威勢の良いかけ声がかかったが今はとにかく涼みたい。店主から渡された駄賃で甘瓜だけ買うことにした。
照りつける太陽への愚痴をこぼしながら、林近くの小川のほとりに辿り着くと、小鈴はホーッと息をついた。文字通り降るような蝉時雨に包まれても、喧しさより涼風の心地よさが勝る。
「さすがに、ここまで来ると涼しいわね」
「ねー」
水縁の木陰に風呂敷を広げ、腰かけた阿求を尻目に、下駄を脱いで作務衣の裾をまくり、川に入る。膝下までの清流は太陽の熱など知らぬとばかりにキンと冷えていて、火照った肌に心地よかった。
頭に巻いていた手ぬぐいを取ると、汗をたっぷり吸って重くなっている。うへぇ、とこぼして手ぬぐいを川で洗い、ついでに顔や首筋にもざぶりと水をかけた。ぶるりと顔を振って水を払った小鈴は顔いっぱいに破顔する。
「っはー、生きかえるわー!」
「小鈴、羞恥心って知ってる?」
「ふふん、今の私にはなにを言っても無駄よ。……いや、暑くってさ」
よく絞った手ぬぐいを首に引っかけ、足は川に入れたまま阿求の隣に腰かけたら、ため息交じりに顔が拭われた。
「せめて拭くぐらいしなさい」言葉尻は厳しいが、こちらに触れる手つきは丁寧だ。なんとなくくすぐったくて笑ってしまう。
風呂敷包みから現れた弁当と竹筒に、思わず万歳と手を上げた。簡素なわっぱに、いなり寿司と塩むすび、白瓜とにんじんの漬け物が詰められている。
阿求の分を渡し、さっそく手を合わせる。塩むすびにかぶりついた小鈴は「うーん!」と頷いた。
「おいしー!」
「さすがおばさま。この塩っ気がありがたいわ」
感想もそこそこに弁当に手をつける。
塩が利いたおむすびは、しっかり固められているけれど中はふかふかで、パリパリの漬け物とよく合っている。いなり寿司には生姜が混ぜられていて、ひたひたになるまで甘辛い煮汁を吸わせた油揚げの後味をサッパリと引き締めていた。口いっぱいに頬張った飯を、竹筒の麦湯で流しこむと、なんとも言えない充足感がある。普段よりも濃いめの味つけは、大量の汗を流してカラカラに乾いていた体中に染み入るようで、腹の底から満たされる。
互いに無言のまま弁当を平らげ、爽やかな甘さの甘瓜まで満喫すると、自然と至福のため息がもれた。わんわんと降りしきる蝉時雨に浸りながら視線を上げたら、突き抜ける青空に綿飴をちぎったような雲が流れている。快晴だ。
「……あー……」
言葉にならない声が落ちる。全身に心地よい疲労感があった。頭の中が空っぽになる。透明な思考に響く蝉の声が遠い。
ふと、隣の阿求がもぞもぞ動いた。なにとはなしに目を向ける。普段は足袋と袴とで守られている、真っ白な素足が澄んだ水面に差し入れられていた。常ならば出先ではまず見られない、ほっそりした足首や丸いかかと、水の中で陰影を作るくるぶしに、刹那、息ができなくなる。世界が止まる。
「──小鈴?」
不思議そうに名が呼ばれた次の瞬間、音の洪水が戻ってきた。
全霊で鳴く蝉。密やかな川の流れ。遠くから聞こえる人々のざわめきに、痛いくらいに跳ね回る鼓動の音。
それから、
「どうしたのよ、ボーッとして」
無防備にこちらを覗きこんでくる阿求の、細いけれどもよく通る声。
「なんでもない」
視線を逸らし、首にかけていた手ぬぐいで顔を覆った。自身の体温が移ってしまったようで、妙に生暖かいのが気持ちわるい。
川縁から立ち上がり、手ぬぐいごと顔に清水をかける。
冷涼な水になんども手をくぐらせていると、身のうちで変な風に燻る熱が徐々に静められていって、小鈴はほうと息をついた。
「いや、なにやってんの」
冷静な指摘にふにゃりと笑う。
招かれるままに阿求の隣に戻ったら、先ほどよりも乱雑な手つきで顔や手が拭われた。ついでとばかりに前髪もぐりぐり拭き取られ、弾みで鈴がちりんと鳴る。
川の水で冷えた皮膚には布越しの体温が快い。頬に触れている両手を自身の手のひらで上から押さえてみたら、阿求がどこか居心地悪そうに眉を下げる。
「……どうしたのよ、いったい」
「いや、べつにどうもしないんだけど、……もうちょっとこうしててもいい?」
「腕が疲れるんだけど」
細めていた目を開ける。少女らしからぬ仏頂面には朱が注がれていた。ほんわりと頬が緩む。
「あら、もしかして照れてるのかしら? って、いひゃいいひゃ、あきゅ、いひゃい」
遠慮なしにぐにぐにと頬を引っ張られ、たまらず降参と両手を上げる。フン、と息をついた阿求は赤くなった頬をそっとなで、さあ、と両膝をぽんとたたく。
「そろそろ戻りましょう。お弁当は私が返しておくから」
「ん、そうね。もうひとふんばり、がんばりますかー」
ぐぐ、と両腕を伸ばして息をつく。
軽く頭をふって立ち上がると、四肢は気力を取り戻していた。
***
翌日。小鈴は受付に突っ伏して唸っていた。
「……つかれた……」
「ひどいありさまね」
「あー……? らっしゃいませー……」
呼び鈴の音に辛うじて顔を上げるも、阿求だったのですぐにへたりこむ。机の端に数冊の本が置かれた。
「今週の返却分なんだけど」
「あとで見るわー……」
「いくつか借りたい本もあるんだけど」
「どーぞー……」
「あんたねぇ」
脱力したまま腕をひらひらやる。それだけで肩や背中や二の腕あたりがキリリと痛んだ。「うぅぅ」たまらず呻いてしまう。
ふふっ、と堪えきれなかったように阿求が噴きだした。じろりと見上げると、顔を背けて肩を震わせている。さすがにイラッときた。
「笑うことないじゃない」
「ごめ……だって、あんた、ひどい声……餅みたいだし……」
「も、餅? 餅ってなによも、ぁいたあ……!」
思わずガバッと跳ね起きるも、全身にビキリとした痛みが走ってすぐにへたりこむ。
「重症ねぇ」と苦笑した阿求に頭をなでられた。子ども扱いは気にくわないが、たおやかな動きで髪を梳かれるのが気持ちいいので、大人しく受け入れてやることにする。
昨日、休憩から戻った小鈴を待っていたのは、これでもかと再び山積みにされたとうもろこしと、弾ける笑顔で客寄せをする筋骨隆々な小作農たち、そして、調味屋の露店まわりだけを不自然に避けていく客足に頭を抱える豆蔵だった。
もちろん、小作農たちに悪気があったわけではないはずだ。丹精こめて作り上げた、いわば我が子のように大事なとうもろこしを、より多くの人に食べてほしい。その一心に他ならないだろう。
だが、非常に失礼ながら、ただでさえ熱気が充ち満ちているこの日に、がたいの良い逞しい面々の中に飛びこんでいくのは、小鈴とて御免被りたかった。あまりにも暑苦しい。
結局、「ほら、小鈴ちゃんは接客の達人でしょう。メインは彼女に任せて、僕たちは手足となって動く。それがいいですよ、ね!」との豆蔵の意見が通り、夕刻の店じまいまで、きりきり舞いのてんてこ舞いだった小鈴である。
当然のごとく全身の筋肉痛に襲われているし、潰れた声も完全には戻っていない。正直な気持ちを言うならば、今日は店を開けずに一日中本を片手にだらだら過ごしていたかった。
「……お疲れさま」
柔らかい労いに目を向ける。緩やかなまなざしと慈しむような手つきを受け、小鈴はふにゃりと頬を綻ばせた。
ちりりん、と来客を告げる鈴が鳴る。立て続けとは珍しい。
パッと離れるぬくもりを少々惜しく思いながらも、小鈴はのそりと身を起こす。
「いらっしゃいませ」
「おはよう、小鈴ちゃ……阿礼乙女さ、っと、阿求様! お、おはようございます」
「おはようございます。お早いですね」
噂をすればなんとやら。竹傘を取り、風呂敷包みを持った豆蔵がやってきた。チラチラと阿求を気にしつつも、「これ、約束の」と風呂敷包みを差し出す。
受け取ると自然と口角が上がる。心なし、全身の痛みも和らいだ。
「ありがとうございます!」
「いや、こちらこそ。昨日はほんとうに助かったよ。お香ちゃんも、お仲間たちも、喜んでいた。ありがとう」
いやぁ、と謙遜しつつ、早速風呂敷の結び目を解く。
両手を並べたくらいの大きさの、薄めの冊子だ。使いこまれて少々くたびれてはいるものの、上質な紙を使っていることもあり、良い状態を保っていた。ぱらぱらと項をめくると、興味を惹かれたのだろう、阿求も覗きこもうとしてくる。ぺち、と手のひらで目元を押さえた。
「閲覧料」
「……わかったわよ」
ぷい、と棚のほうへ歩いて行った阿求に、豆蔵が落ち着かない様子で肩を寄せた。
「い、いいのかい? 阿礼乙女様に……」
「いいんです、いいんです。べつに大して怒ってないんだから」
「聞こえてるんだけど」
「あとで紅茶煎れて幺樂団もかけるからー。で、豆蔵さん、この本ですけども……ほんとうに、無料で譲ってもらっちゃっていいんですか?」
軽くさらった程度だが、それでも十分に分かるほど、この本は全般的に質が良かった。
字はきれいで読みやすいし、文章は平易で分かりやすい。ところどころ覚えの無い調味料の名もあったが、簡単なイラストが添えられているので想像で補える。資料としても、普通の読み物としても、上等だ。約束とはいえ、お代を少しも払わないというのは申し訳ない気がする。
けれど、豆蔵は「いいんだよ」と頷く。
「ほんとうに、昨日は助かったんだから。妥当な報酬だよ」
「うーん、なんだか気が引けちゃいますけど……そういうことなら、遠慮無くいただきます。毎度ありがとうございます」
にこりと笑うと、豆蔵も人の良さそうな笑みを浮かべた。そうして、幾分かくつろいだ様子で「実は」と身を寄せてくる。
「冬の道具市でも、また店を出す予定らしいんだけれど」
「すみません、勘弁してください」
即答だった。
しかし、豆蔵は笑顔を崩さない。
「今度はうどんを扱おうと言っているんだ。お香ちゃんの腰も良くなっているだろうから、今回のようにはならないよ」
「いや、だったら、私が手伝う必要もないですよね? 臨時の助っ人みたいなものだったんですし」
「小鈴ちゃん。僕はね、今回つくづく思ったんだよ」
こちらの言い分を片手で押しとどめ、豆蔵は熱っぽく続ける。
「お香ちゃんと小鈴ちゃんが、並んで客寄せをしてくれたら──きっと、すごく絵になる!」
「いやそれ商売と関係ないと思います」
「なにを言っているんだ、大ありだよ。客商売はつまるところ、この人から買いたい、このお店で買いたい、って思ってもらえるかどうかだからね。昨日のやりとりを見ていて確信した。小鈴ちゃん、向いてるよ」
困った。まったくと言っていいほど引く様子が無い。
勢いこんで身を乗り出してくる豆蔵に若干のけぞりつつ、阿求に視線で助けを求めるも、
(自分でなんとかしなさい)
サクッと切り捨てられてしまった。とりつく島もない。先ほどのやりとりを根に持っているのだろうか。心が狭い友人だ。
しかし、この話を引き受けてはならないと、全身の筋肉痛とかすれた声が告げている。冬場とはいえうどんなんて想像しただけで暑いし、大鍋を扱うだろうから翌日の疲労度も考えるまでもない。今回のことで若干の誤差は生じたが、それでも、小鈴にとっての出店とは、普段よりも少しだけ気を入れた格好をして、志を同じくする愛書家(なかま)たちと、知的かつ刺激に満ちた議論を交わす場所であることに変わりはない。
もういちど、昨日は例外なのだときっぱり断ろうとして、「もちろん」と豆蔵が先手を打った。
「ただ働きなんてさせませんよ。この本、調味料の作り方は載っているけれど、材料の入手方法までは載っていないでしょう?」
「え? ええ、そうですね。でも、それは、そこまで明らかにしちゃったら豆蔵さん、商売あがったりじゃ……」
「いや、そうでもないんだ。僕の調味料は作り上げる課程こそが大事だから。こう言ってはなんだけど、この本の通りに作っても、僕が扱うのとまったく同じにはならないよ」
「あ、そうなんですか。だったら普通に貸し出しても大丈夫ですね」
「うん。小鈴ちゃんの好きにしてもらっていいよ。それでね、実は、材料の手に入れかたや、選ぶコツも、別のものにまとめているんだけれども……手伝ってもらえるなら、これもお譲りしましょう」
どうかなこの条件は? とほほえまれ、小鈴は頭の中で算盤をはじく。
片方に労働条件を、もう片方に対価を置いた天秤は、ちょうど水平に釣り合った。
「はい、喜んでお手伝いさせていただきます! じゃあ、日取りが決まったら教えてください」
「ありがとう、助かるよ!」
これっぽっちも迷わずに、えびす顔を浮かべて豆蔵と握手を交わす。呆れ果てたじとっとしたまなざしを向けられたのに気付いたが、知ったこっちゃない。
先ほどまでの疲れ果てた姿はどこへやら。うきうきと上機嫌で予定を書き残す小鈴に、額を押さえた阿求が大きなため息をついていた。
白い雲。
燦々と照りつける真夏の太陽。
そして──
「小鈴ちゃーん、焼きもろこし塩ひとつね」
「お嬢ちゃん、こっちにもひとつ、タレな!」
「はい、ただいまー!」
四方からかけられる注文。
じゅうじゅうと音を立てて焼ける半分に切ったとうもろこし。
団扇で送る風を受けパチパチ弾ける炭火。もうもうと立ち上る煙。体中から噴き出る汗。
「──あっつい!!」
「ほんとうだね。はい、これ追加」
「なぁー!」
冷静に加えられた皮つきとうもろこしの山に、小鈴は言葉にならない悲鳴を上げた。
これもひとえに新たな妖魔本を手に入れるため。分かっている。頭では痛いくらいによく分かっている。だが、内心で叫ばずにはいられない。
(どうして! こうなった!)
元来の風土として祭りやイベント事が盛んな幻想郷では、人間の里に限っても催し物が多い。五節句などの節目には縁起物が軒先に並ぶし、初夏に行われる播種祭、並びに秋に行われる収穫祭は、里を挙げての盛大なものになる。クリスマスやバレンタインなど、外の世界から伝わってきたイベントも、幻想郷風にアレンジされなんのかんのと馴染んでいる。
鈴奈庵に関係が深い催しとして挙げられるのは、年に数度行われる古書市だろう。大通りを二本くらい挟んだ一角を借り受け、店の大小にかかわらず露店を出し、互いの書籍を売ったり買ったりするのだ。古書とはいえ「書籍を買う」という性質上、客のほとんどは同業者か学者だが、思ってもみない掘り出し物があったり、里で話題になっている本の内容について意見を交わすことができるので、小鈴は毎度楽しみにしている。
そう、小鈴にとっての露店とは、出店とは、普段よりも少しだけ気を入れた格好をして、志を同じくする愛書家(なかま)たちと、知的かつ刺激に満ちた議論を交わす場所なのだ。
まかり間違ってもこんな、軒があるとはいえ炎天下の中、炭火の前に陣取って作務衣を汗で湿らせながら、焼きもろこしを売りさばくなんて文字通り暑苦しいこと──「っ、はい、塩とタレいっこずつです、お待ちどう!」
「どうもねー」
「小鈴ちゃん、小鈴ちゃん。悪いんだけども、塩とタレをふたつずつ、作ってもらえんかねぇ? あ、七味とすだちも脇に添えてもらえるとうれしいね。それと、この、まよねぇずってのは、なんなのか知らん?」
「ああ、マヨネーズは、ここの調味屋さんの肝いりですよ。鶏卵と、油と、お酢と、塩を混ぜたものなんです。こってりしてるけどまろやかなお味で、精もつきますよ。特別な仕入れ先から卸しているそうで、これだけ別料金をいただきますが、贅沢の価値はあると思います」
「そうなの。うーん、じゃあ、これも添えてもらっていいかねぇ?」
「はい喜んでー!!」
最早自棄である。
パリッと焼けている皮をむいて、湯屋でも使えない端木を刺したとうもろこしを網の上で回し、焼き目を見る。良い塩梅だ。同じく端木で作られた即席の容器に移して、半分に塩を多めにふり、もう半分にタレを刷く。端のあたりに、七味唐辛子、ふたつに割ったすだち、マヨネーズをたっぷりひと匙添えて、嬉しそうに両手を合わせる老媼に手渡した。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとう。孫も喜ぶわぁ。これ、お代ね」
「はい、丁度ですね、たしかに。まいどありー」
日々の接客で身に馴染んだ満面の笑みで老媼を見送った。他に並んでいる客はいない。
ふーっと息をついて軒を見上げる。さすがに里の目抜き通りで行われている道具市だけあって、入れ替わり立ち替わりの来客に目が回りそうだ。こんな状態で夕方まで、やっていられるのだろうか。
ふっと遠い目になり黄昏れる暇もなく、「もし」と凜とした声がかけられた。「はい失礼しました、ご注文は!」と慌てて目をやると、涼しげな夏服に身を包み、片手を上げた阿求が笑っている。
「なんだ、」小鈴は脱力した。「あんたかぁ……」阿求を見てこんなに安心したのは久しぶりだった。
「はい、麦湯。すこし落ちつきなさいな」
「ありがと」
汗をかいている茶飲みを受け取りひと息であおる。暑さでカラカラに乾いていた体の隅々に香ばしい麦湯が染みこんでいくようだ。ぷはぁー、と息をつく。ようやく人心地ついた。
「おじさまから聞いてはいたけど、ほんとうにお手伝いしているのね」
「まぁねー。お得意さんからのおねがいだし、ちゃんとお返しもいただけるし」
現在小鈴が切り回している露店は、例年鈴奈庵が手伝いをしている紙卸商のものではなく、目抜き通りの端にこじんまりと軒を連ねている調味屋のものだ。店構えこそ小さいものの、年若だが気のいい店主と良質な調味料が評判の商店である。
本居家も時折世話になっているこの店の、店主は鈴奈庵の常連、というわけではなく。この調味屋に品を卸している問屋の男性のほうが華客なのだ。特に、妖魔本を扱うようになってから。
その男性から、道具市を前に、商売仲間の手伝いをしていた店主が腰をやってしまったので助けてくれないか、と申し出があったのは二日前のこと。紙卸商との先約がある上、出店の内容が内容だったので最初は断ろうとした小鈴だったが、必死な男性の「僕がこれまで書き記してきたメモ帳を譲るから」の一言に意見を翻した。
男性が卸している調味料の中には、マヨネーズのような、里ではなかなかお目にかかれないものもある。それが書き記してあるならば資料としての価値は高いし、なにより、男性直筆のメモ帳、それすなわち妖魔本だ。妖魔本コレクターとして、協力しない理由など何ひとつ無かった。
とどのつまり、この男性の正体は妖怪だったりするのだが。
「豆蔵さん、やはりわたしも……」
「わっ、いけませんってお香ちゃん! まだふらついているじゃないか」
「でも、ずっと焼きっぱなしじゃ、熱いでしょ? ただのぎっくり腰なんですから、すこしくらい」
「いけません! 甘く見ると酷い目にあうって、竹林の薬師さんも言っていたでしょう。こちらなら大丈夫だよ。小鈴ちゃんも手伝ってくれてるし、午後からはほれ、お仲間も来てくれるんだから」
「だけど、店主がいない出店というのも、あんまり申し訳な、っ、いつつつつ……」
「ほら、無理をするんじゃないよ! 小鈴ちゃん、悪いけど、すこしだけここの火も見ててくれるかな?」
「あ、はーい」
店主の背に手を添えて、男性、もとい豆蔵は店の奥に引っこんでいく。その横顔は心底気遣わしげだ。筋張った手にしっかりと支えられる店主は、なんとも気恥ずかしそうに眉を下げている。このふたり、商売の仲のみならぬのでは、としきりに噂されているらしいが、あながち間違っていないのかもしれない。
髭と根を適当に切られ、小型の網の上で皮付きのまま焼かれているとうもろこしを引き上げてから、炭を掻き出し火を弱める。水の入ったバケツをすぐに取れるところに動かして、軒先の出店に戻ると、いまのやりとりを聞いていたのだろう、阿求はおかしそうに目を細めていた。
「お香ちゃん、ねぇ。ずいぶん丸くなったこと」
「あれ、知ってるの?」
「あのひとにこのお店を紹介したのは私よ」
「えっ!?」
なんという世間の狭さか。
というか、その発言を信じるなら、阿求は、商売が絡んでいるとはいえ妖怪に人間を紹介したということになるのだが。いや、待て待て、そういえば、商売ならよくあることだったか。
しかし、あれだけ「妖怪は人間の敵」と口を酸っぱくしていた阿求が、陰でそんなことをしていたとは驚きである。小鈴は特に気にしないが、知る相手によっては大変なことになるのではなかろうか。
「……あれ? それ、私に言ってよかったの?」
「なに言ってるの、豆蔵さんは優秀な問屋でしょう? 燻っている人に手を貸すのは当然の勤めよ」
「え、と?」
含みのある物言いになんだか混乱してきて首を傾げる。そんな姿を見、呆れ眼で口を開こうとした阿求を手で制し、小鈴は顎に手を当てた。
おそらく、これは、小鈴が「人里の貸本屋の娘」でしかない時ならば、言ってくれなかった話だろう。せっかく示してくれたチャンスだ。自力で考えたい。
豆蔵は妖怪だ。この眼がそう言っているのだから間違いない。
「私家版百鬼夜行絵巻 最終補遺」に長く触れ続けたからか、それ以外の要因かは分からないが、神隠しの一件以来、己が持つ妖気への感度は以前よりも上がった。その眼による識別と、なによりも、相手のひととなりや言葉を交わした印象を判断材料に、小鈴は妖魔本の貸し出しを行っているのだ。大前提となる眼が狂っていたら商売人としてやっていかれない。
そして、発言から鑑みるに、明言こそしていないが阿求も豆蔵の正体を分かっているのだろう。その上で、人間である店主に豆蔵を紹介している。それだけならまだ分かるが、店主を慕う彼の姿に、ほほえましそうな、和やかな表情を浮かべていた。良いのだろうか、それは?
堂々巡りに陥りそうになった小鈴だったが、黙ったままこちらを見守る阿求を見て、いや待て待て、と思い直す。
自分が妖魔本の貸し出しをするのは「妖魔本を悪用しない」と判断した相手だけだ。それはすなわち、「人里にいるときは人里のルールに従い、人間に交じって暮らしている妖怪」と同義である。マミゾウなり、文なり、妖怪子狐なり、人として生きている妖怪たちのような。
「あー」
なんとなく腑に落ちた。
彼・彼女らは、人里を騒がせる相手では決してない。加えて、正体を隠しているかぎり普通の人間には妖怪だと見破れないのだから、"人間"となんら変わりないのだ。つまり、妖魔本が絡むならともかくも、小鈴が取るべき対応は。
「そうね、あんたの言うとおりね。にしても豆蔵さんって、あんなに良質な調味料を、いったいどこから仕入れてるのかしら?」
「不思議よね。ま、助かるからいいんじゃない」
「それもそうか」
相手は"人間"で、その枠からはみ出ようともしていないのならば、特別な対応を取る必要はないのだ。言葉の裏に気づきを忍ばせ、カラカラと笑う。
阿求は満足げに目を細めた。
「やっぱりわかってなかったのね。ま、一応は自力で気づけたんだから、及第点としましょうか」
「んぐ」
小鈴よりも高いところから額をペシペシたたかれているかのような言いぐさが腹立たしい。だが、これに関しては阿求に助けられたのだから文句を言えない。"人間"である相手を妙に意識して、妖怪扱いしてしまっては、奇異の目で見られるのは小鈴のほうだ。いや、遠巻きにされる程度ならばさして気にかけないが、やたら騒ぎ立てる小鈴を疎ましく思う相手がいたら、事である。小鈴とて、まだ命は惜しいのだ。
「ところで」
「うん?」
「そっちはいいの? 焦げかけているようだけど」
阿求の言葉に軒先のほうをふり返る。網の上から煙が上がっていた。
「えっ!? あー!? わ、わ、しまったすっかり忘れてた! なんでもっと早く教えてくれなかったのよー!」
「言おうとしたのにあんたが考えこんじゃったんでしょうが。ほら、急ぎなさい」
「そっちだったの!?」
「小鈴ちゃん、大声が聞こえたけどもだ……阿礼乙女様!? お、と、ご、ご無沙汰しておりますお元気そうでなによりです!」
「えっ、阿求様? 豆蔵さんやっぱりわたしも、い゛っ、あいったぁ……」
「お香ちゃん!?」
「あー……」
途端に慌ただしい雰囲気になった。
わたわたととうもろこしを網の脇に避けて、ふぅと息をついて改めて見やると、阿求は困ったような苦笑を浮かべている。
「ちょっとお香さんにあいさつしてくるわ」
「あ、うん、わかった」
土間から部屋に入る阿求を見送る。と、いったん引いていた客がこちらに声をかけてきた。慌てて笑顔を浮かべ、注文に頷き返してゆく。
時折とぎれはするものの、それはほんの一瞬で、客は入れ替わり立ち替わりやってくる。道具市ということもあり、普段の祭りに比べると飲食系の出店が少ないのも影響しているのだろう。小鈴と豆蔵は目が回るような忙しなさに呑みこまれた。
「おっ、ほんとうに鈴奈庵の嬢ちゃんがいらぁ。豆蔵、おまえさん、女将と嬢ちゃんに挟まれるなんざ、役得だなぁ」
「お客さん、からかわないでくださいよ。ただでさえ小さい肝っ玉が無くなっちまう。して、ご注文は?」
「そうだな、タレひとつ、塩ひとつに、せっかくだ、このマヨネーズってのももらおうか」
「かしこまりました。小鈴ちゃん、タレと塩ひとつずつ、マヨネーズ付きで」
「あーごめんなさい! 今焼き目つけてるので、ちょっとお時間いただきますけど」
「かまやしねぇよ」
もとよりこの調味屋は評判の店なのだ。それに加えて、鈴奈庵の看板娘が売り子をするという不思議な光景が話題を呼んだようで、見に来るついでに注文をしていく客が後を絶たず。
「あらまぁ、お香ちゃん、ほんとうに伏せっているのねぇ。小鈴ちゃん、ちょっと上がらせてもらうわね。帰るときにもらうから、そうね、塩六つとタレふたつ、すだちをふたつ、用意しておいてもらえるかしら」
「塩むっ……!? か、かしこまりました、ありがとうございますー! ……豆蔵さん、豆蔵さん、こっちもう蓄えが無くなりそうなんですけど」
「またかい!? すごい回転率だな。わかった、急いで焼くよ」
自分たちの出店は他に任せているのだろう、店主を目当てにやって来て、そのついでとばかりに結構な量を言いつけてくる客もあり。
「差し入れもって……ってあんた、顔真っ赤よ? ちゃんと水飲んでるの?」
「ああ、あきゅう。いわれなくてものんでるわよちゃんと……ラムネだぁー!」
「貸し一ね。豆蔵さんも、どうぞ。いくらあなたでも、この熱さは堪えるでしょう」
「あ、すみません、阿求様」
「お忙しいと思いますが、あの娘が倒れないよう、気をつけてあげてくださいね」
「はい、そうですね……。いやしかし、まさかこんなに繁盛するとは。場合によっては僕のほうがたおれるかも」
「気をつけてあげてくださいね?」
「重々承知しております」
他の店にも挨拶まわりをしている阿求が、合間合間にちょくちょく差し入れをしてくれるものの、最低限の水分を取るのが精一杯で。
「どうも。ずいぶんと好評なようですね、小鈴ちゃん」
「あっ、文さん、いらっしゃいませ。あれ、そちらの方は?」
「同僚の犬走です。里の催し物に参加したことがないと言うので、せっかくですから連れてきたのですよ」
「無理矢理引っ張ってきたんじゃないですか。と、失礼。本居小鈴さん、ですよね。犬走椛と申します。お噂はかねがね」
「はじめまして! 文さんの同僚ってことは、椛さんも、」
「お客さん、お話中相済みません。小鈴ちゃん、注文だよ。塩三つとタレ七つ、マヨネーズとすだちと七味、全部載せで」
「み、ななっ、ぜっ……!? す、すみません、文さん、椛さん。ちょっと今!」
「ふふ、そのようね。大丈夫、姿を見たのであいさつをしたかっただけですから。また日を改めて、鈴奈庵にお邪魔しますよ」
「わーん、ごめんなさい! 椛さんも、ぜひ、鈴奈庵にもいらしてくださいね。そのときは、きちんとおもてなしさせていただきますから!」
「いえ、私は……」
「そうね。今度伺うときはこいつも連れていきましょう」
「お待ちしてますー!」
せっかく知り合いが尋ねてきてくれても、ちょっと立ち話をする暇すらない。歯がみしたい気分である。
「……文さん、隠し撮りはどうかと」
「記事にはしないわ。記念よ、記念」
なんだか不穏なやりとりが聞こえたが、おそらく気のせいだろう。ぺぺぺぺぺぺ、と団扇を片手に当てるようにして細く風を送り続ける。熱を孕み立ち上った煙が目に染みた。
昼八つ時(午後二時)を過ぎたあたりで、(多くの人が昼食を済ませた影響もあるだろう)ようやく客足が一段落ついた。団扇を脇に置き、へなへなと壁にもたれかかる。
体中が熱い上、立ちっぱなしで足が重い。中を覗いたら豆蔵も土間にへたりこんでいた。
山積みにされていたはずのとうもろこしは残り十本あるかないかだ。午後になったら、とうもろこしの補充も兼ねて、店主と提携している小作農たちが助っ人に来ると聞いているが、それまでもつだろうか。
「油断大敵」
「ぅわつめたっ!?」
頬にひんやりとした瓶が当てられた。
見ると、右手に風呂敷包みを、左手にラムネの瓶を持った阿求がおかしそうに頬を緩めている。普通に渡してくれたらいいのに。
本日二本目のラムネをあおる。しゅわしゅわとしたのどごしとスッキリした甘さが身に染みた。もう五年以上前になるか、初めて飲んだときは口に馴染まない刺激に目を白黒させた小鈴だったが、今では、夏の風物詩のひとつとして毎年楽しみにしていた。
豆蔵にもラムネを渡してきたらしい阿求が、風呂敷包みを持ち上げる。
「お弁当あずかってきたんだけれど、抜けられそう?」
「あー、どうかな。もうすこしで助っ人が来るはずだから、交代できれば」
「わっ、ほんとうに小鈴姉ちゃんだー!」
言い終わるよりも早く飛びこんできた陽気な声に条件反射で瞑目する。阿求も思わずといった風な苦笑いを浮かべた。
よく読み聞かせにやってくる五人組に「いらっしゃい」と手をふる。妖怪子狐の姿もあった。小物屋の出店で買ったのだろう、揃いの扇子を帯に差しているのがほほえましい。
「阿求お姉ちゃんもいる。こんにちはー」
「はい、こんにちは」
「うわー、うわー、作務衣着てる。変なの」
「汚れてもいいようにね。どうする、とうもろこし食べる?」
「食べる!」
きっちり揃った五つの声に笑ってしまった。脇に避けておいたとうもろこしを網の中央に並べながら、味つけを説明すると、途端にやんちゃな声が張り上がる。
「オレ塩!」
「え? じゃあ、わたしもお塩……」
「塩とタレかー。どうしよっかなー」
「あたしタレ。焼きもろこしはタレに限る! っておばあちゃんが言ってたもん」
「えっ? じゃ、じゃあ、わたしもタレ……」
「塩のがうまいに決まってンだろ。お子ちゃまだな」
「タレの甘辛いのがおいしいんでしょ。かっこつけちゃってさ」
「え、え……?」
「あの、みんな、一気に言っても小鈴お姉さんが困っちゃ」
「塩ですだちにしようかなー、タレで七味もいいなー。マヨネーズもおいしそうだなー。……あっ、塩でマヨネーズもいいかも」
「えっ、マヨネーズもあんの?」
「マヨネーズ食べられるの?」
「ま、まよ……?」
「ちょっ、ちょっとまった、まったーっ!」
くるくると変わる意見に頭の中がごちゃごちゃになる。思わず悲鳴を上げた小鈴の肩をポンとたたいて、阿求は子どもたちと目線を合わせた。
「マヨネーズはおまけするわ。塩がひとつ、タレがふたつでいい?」
「あ、は、はい……!」
「いいの? やったー!」
「阿求お姉ちゃんありがとー」
「どういたしまして。それで、あなたたちはどうするの?」
「あ、えっと、塩味をください」
「じゃあ、タレにして、七味唐辛子もくださいな」
「あっ、オレも七味ほしい!」
「あんた辛いの食べられるの?」
「んなっ、食えるに決まってんだろ!」
「うん、じゃあ、七味も皆で食べられるようにするから。小鈴、聞いていたわね」
「あいよ。塩ふたつ、タレ三つ、七味とマヨネーズね、まいどありー」
五人でつつけるよう大皿で用意して送り出す。
「ありがとー!」と駆けて行く子らを見送って、小鈴はふぅとため息をついた。
「はい、これマヨネーズ分」
「たしかに。いやぁ、助かったわー」
「子どもは思いついたことを片っ端から言ってくるから。ああいうときは、ある程度まではこちらで決めてやるくらいがちょうどいいのよ」
「なるほど。あんたって子どもの扱い上手だよねぇ。意外に」
「いつまで経っても幼い友人がいるからね」
「へぇ、そうなんだ?」
「…………」
「なにその目……んっ、あ、私のこと? ああ、そういう……ってどういう意味よ!」
子どもたちを見送ったあたりで、背嚢にたっぷりととうもろこしを詰めこんだ助っ人たちがやって来た。逞しい面々に後を託し、阿求と共に賑やかな通りを抜ける。あちこちから威勢の良いかけ声がかかったが今はとにかく涼みたい。店主から渡された駄賃で甘瓜だけ買うことにした。
照りつける太陽への愚痴をこぼしながら、林近くの小川のほとりに辿り着くと、小鈴はホーッと息をついた。文字通り降るような蝉時雨に包まれても、喧しさより涼風の心地よさが勝る。
「さすがに、ここまで来ると涼しいわね」
「ねー」
水縁の木陰に風呂敷を広げ、腰かけた阿求を尻目に、下駄を脱いで作務衣の裾をまくり、川に入る。膝下までの清流は太陽の熱など知らぬとばかりにキンと冷えていて、火照った肌に心地よかった。
頭に巻いていた手ぬぐいを取ると、汗をたっぷり吸って重くなっている。うへぇ、とこぼして手ぬぐいを川で洗い、ついでに顔や首筋にもざぶりと水をかけた。ぶるりと顔を振って水を払った小鈴は顔いっぱいに破顔する。
「っはー、生きかえるわー!」
「小鈴、羞恥心って知ってる?」
「ふふん、今の私にはなにを言っても無駄よ。……いや、暑くってさ」
よく絞った手ぬぐいを首に引っかけ、足は川に入れたまま阿求の隣に腰かけたら、ため息交じりに顔が拭われた。
「せめて拭くぐらいしなさい」言葉尻は厳しいが、こちらに触れる手つきは丁寧だ。なんとなくくすぐったくて笑ってしまう。
風呂敷包みから現れた弁当と竹筒に、思わず万歳と手を上げた。簡素なわっぱに、いなり寿司と塩むすび、白瓜とにんじんの漬け物が詰められている。
阿求の分を渡し、さっそく手を合わせる。塩むすびにかぶりついた小鈴は「うーん!」と頷いた。
「おいしー!」
「さすがおばさま。この塩っ気がありがたいわ」
感想もそこそこに弁当に手をつける。
塩が利いたおむすびは、しっかり固められているけれど中はふかふかで、パリパリの漬け物とよく合っている。いなり寿司には生姜が混ぜられていて、ひたひたになるまで甘辛い煮汁を吸わせた油揚げの後味をサッパリと引き締めていた。口いっぱいに頬張った飯を、竹筒の麦湯で流しこむと、なんとも言えない充足感がある。普段よりも濃いめの味つけは、大量の汗を流してカラカラに乾いていた体中に染み入るようで、腹の底から満たされる。
互いに無言のまま弁当を平らげ、爽やかな甘さの甘瓜まで満喫すると、自然と至福のため息がもれた。わんわんと降りしきる蝉時雨に浸りながら視線を上げたら、突き抜ける青空に綿飴をちぎったような雲が流れている。快晴だ。
「……あー……」
言葉にならない声が落ちる。全身に心地よい疲労感があった。頭の中が空っぽになる。透明な思考に響く蝉の声が遠い。
ふと、隣の阿求がもぞもぞ動いた。なにとはなしに目を向ける。普段は足袋と袴とで守られている、真っ白な素足が澄んだ水面に差し入れられていた。常ならば出先ではまず見られない、ほっそりした足首や丸いかかと、水の中で陰影を作るくるぶしに、刹那、息ができなくなる。世界が止まる。
「──小鈴?」
不思議そうに名が呼ばれた次の瞬間、音の洪水が戻ってきた。
全霊で鳴く蝉。密やかな川の流れ。遠くから聞こえる人々のざわめきに、痛いくらいに跳ね回る鼓動の音。
それから、
「どうしたのよ、ボーッとして」
無防備にこちらを覗きこんでくる阿求の、細いけれどもよく通る声。
「なんでもない」
視線を逸らし、首にかけていた手ぬぐいで顔を覆った。自身の体温が移ってしまったようで、妙に生暖かいのが気持ちわるい。
川縁から立ち上がり、手ぬぐいごと顔に清水をかける。
冷涼な水になんども手をくぐらせていると、身のうちで変な風に燻る熱が徐々に静められていって、小鈴はほうと息をついた。
「いや、なにやってんの」
冷静な指摘にふにゃりと笑う。
招かれるままに阿求の隣に戻ったら、先ほどよりも乱雑な手つきで顔や手が拭われた。ついでとばかりに前髪もぐりぐり拭き取られ、弾みで鈴がちりんと鳴る。
川の水で冷えた皮膚には布越しの体温が快い。頬に触れている両手を自身の手のひらで上から押さえてみたら、阿求がどこか居心地悪そうに眉を下げる。
「……どうしたのよ、いったい」
「いや、べつにどうもしないんだけど、……もうちょっとこうしててもいい?」
「腕が疲れるんだけど」
細めていた目を開ける。少女らしからぬ仏頂面には朱が注がれていた。ほんわりと頬が緩む。
「あら、もしかして照れてるのかしら? って、いひゃいいひゃ、あきゅ、いひゃい」
遠慮なしにぐにぐにと頬を引っ張られ、たまらず降参と両手を上げる。フン、と息をついた阿求は赤くなった頬をそっとなで、さあ、と両膝をぽんとたたく。
「そろそろ戻りましょう。お弁当は私が返しておくから」
「ん、そうね。もうひとふんばり、がんばりますかー」
ぐぐ、と両腕を伸ばして息をつく。
軽く頭をふって立ち上がると、四肢は気力を取り戻していた。
***
翌日。小鈴は受付に突っ伏して唸っていた。
「……つかれた……」
「ひどいありさまね」
「あー……? らっしゃいませー……」
呼び鈴の音に辛うじて顔を上げるも、阿求だったのですぐにへたりこむ。机の端に数冊の本が置かれた。
「今週の返却分なんだけど」
「あとで見るわー……」
「いくつか借りたい本もあるんだけど」
「どーぞー……」
「あんたねぇ」
脱力したまま腕をひらひらやる。それだけで肩や背中や二の腕あたりがキリリと痛んだ。「うぅぅ」たまらず呻いてしまう。
ふふっ、と堪えきれなかったように阿求が噴きだした。じろりと見上げると、顔を背けて肩を震わせている。さすがにイラッときた。
「笑うことないじゃない」
「ごめ……だって、あんた、ひどい声……餅みたいだし……」
「も、餅? 餅ってなによも、ぁいたあ……!」
思わずガバッと跳ね起きるも、全身にビキリとした痛みが走ってすぐにへたりこむ。
「重症ねぇ」と苦笑した阿求に頭をなでられた。子ども扱いは気にくわないが、たおやかな動きで髪を梳かれるのが気持ちいいので、大人しく受け入れてやることにする。
昨日、休憩から戻った小鈴を待っていたのは、これでもかと再び山積みにされたとうもろこしと、弾ける笑顔で客寄せをする筋骨隆々な小作農たち、そして、調味屋の露店まわりだけを不自然に避けていく客足に頭を抱える豆蔵だった。
もちろん、小作農たちに悪気があったわけではないはずだ。丹精こめて作り上げた、いわば我が子のように大事なとうもろこしを、より多くの人に食べてほしい。その一心に他ならないだろう。
だが、非常に失礼ながら、ただでさえ熱気が充ち満ちているこの日に、がたいの良い逞しい面々の中に飛びこんでいくのは、小鈴とて御免被りたかった。あまりにも暑苦しい。
結局、「ほら、小鈴ちゃんは接客の達人でしょう。メインは彼女に任せて、僕たちは手足となって動く。それがいいですよ、ね!」との豆蔵の意見が通り、夕刻の店じまいまで、きりきり舞いのてんてこ舞いだった小鈴である。
当然のごとく全身の筋肉痛に襲われているし、潰れた声も完全には戻っていない。正直な気持ちを言うならば、今日は店を開けずに一日中本を片手にだらだら過ごしていたかった。
「……お疲れさま」
柔らかい労いに目を向ける。緩やかなまなざしと慈しむような手つきを受け、小鈴はふにゃりと頬を綻ばせた。
ちりりん、と来客を告げる鈴が鳴る。立て続けとは珍しい。
パッと離れるぬくもりを少々惜しく思いながらも、小鈴はのそりと身を起こす。
「いらっしゃいませ」
「おはよう、小鈴ちゃ……阿礼乙女さ、っと、阿求様! お、おはようございます」
「おはようございます。お早いですね」
噂をすればなんとやら。竹傘を取り、風呂敷包みを持った豆蔵がやってきた。チラチラと阿求を気にしつつも、「これ、約束の」と風呂敷包みを差し出す。
受け取ると自然と口角が上がる。心なし、全身の痛みも和らいだ。
「ありがとうございます!」
「いや、こちらこそ。昨日はほんとうに助かったよ。お香ちゃんも、お仲間たちも、喜んでいた。ありがとう」
いやぁ、と謙遜しつつ、早速風呂敷の結び目を解く。
両手を並べたくらいの大きさの、薄めの冊子だ。使いこまれて少々くたびれてはいるものの、上質な紙を使っていることもあり、良い状態を保っていた。ぱらぱらと項をめくると、興味を惹かれたのだろう、阿求も覗きこもうとしてくる。ぺち、と手のひらで目元を押さえた。
「閲覧料」
「……わかったわよ」
ぷい、と棚のほうへ歩いて行った阿求に、豆蔵が落ち着かない様子で肩を寄せた。
「い、いいのかい? 阿礼乙女様に……」
「いいんです、いいんです。べつに大して怒ってないんだから」
「聞こえてるんだけど」
「あとで紅茶煎れて幺樂団もかけるからー。で、豆蔵さん、この本ですけども……ほんとうに、無料で譲ってもらっちゃっていいんですか?」
軽くさらった程度だが、それでも十分に分かるほど、この本は全般的に質が良かった。
字はきれいで読みやすいし、文章は平易で分かりやすい。ところどころ覚えの無い調味料の名もあったが、簡単なイラストが添えられているので想像で補える。資料としても、普通の読み物としても、上等だ。約束とはいえ、お代を少しも払わないというのは申し訳ない気がする。
けれど、豆蔵は「いいんだよ」と頷く。
「ほんとうに、昨日は助かったんだから。妥当な報酬だよ」
「うーん、なんだか気が引けちゃいますけど……そういうことなら、遠慮無くいただきます。毎度ありがとうございます」
にこりと笑うと、豆蔵も人の良さそうな笑みを浮かべた。そうして、幾分かくつろいだ様子で「実は」と身を寄せてくる。
「冬の道具市でも、また店を出す予定らしいんだけれど」
「すみません、勘弁してください」
即答だった。
しかし、豆蔵は笑顔を崩さない。
「今度はうどんを扱おうと言っているんだ。お香ちゃんの腰も良くなっているだろうから、今回のようにはならないよ」
「いや、だったら、私が手伝う必要もないですよね? 臨時の助っ人みたいなものだったんですし」
「小鈴ちゃん。僕はね、今回つくづく思ったんだよ」
こちらの言い分を片手で押しとどめ、豆蔵は熱っぽく続ける。
「お香ちゃんと小鈴ちゃんが、並んで客寄せをしてくれたら──きっと、すごく絵になる!」
「いやそれ商売と関係ないと思います」
「なにを言っているんだ、大ありだよ。客商売はつまるところ、この人から買いたい、このお店で買いたい、って思ってもらえるかどうかだからね。昨日のやりとりを見ていて確信した。小鈴ちゃん、向いてるよ」
困った。まったくと言っていいほど引く様子が無い。
勢いこんで身を乗り出してくる豆蔵に若干のけぞりつつ、阿求に視線で助けを求めるも、
(自分でなんとかしなさい)
サクッと切り捨てられてしまった。とりつく島もない。先ほどのやりとりを根に持っているのだろうか。心が狭い友人だ。
しかし、この話を引き受けてはならないと、全身の筋肉痛とかすれた声が告げている。冬場とはいえうどんなんて想像しただけで暑いし、大鍋を扱うだろうから翌日の疲労度も考えるまでもない。今回のことで若干の誤差は生じたが、それでも、小鈴にとっての出店とは、普段よりも少しだけ気を入れた格好をして、志を同じくする愛書家(なかま)たちと、知的かつ刺激に満ちた議論を交わす場所であることに変わりはない。
もういちど、昨日は例外なのだときっぱり断ろうとして、「もちろん」と豆蔵が先手を打った。
「ただ働きなんてさせませんよ。この本、調味料の作り方は載っているけれど、材料の入手方法までは載っていないでしょう?」
「え? ええ、そうですね。でも、それは、そこまで明らかにしちゃったら豆蔵さん、商売あがったりじゃ……」
「いや、そうでもないんだ。僕の調味料は作り上げる課程こそが大事だから。こう言ってはなんだけど、この本の通りに作っても、僕が扱うのとまったく同じにはならないよ」
「あ、そうなんですか。だったら普通に貸し出しても大丈夫ですね」
「うん。小鈴ちゃんの好きにしてもらっていいよ。それでね、実は、材料の手に入れかたや、選ぶコツも、別のものにまとめているんだけれども……手伝ってもらえるなら、これもお譲りしましょう」
どうかなこの条件は? とほほえまれ、小鈴は頭の中で算盤をはじく。
片方に労働条件を、もう片方に対価を置いた天秤は、ちょうど水平に釣り合った。
「はい、喜んでお手伝いさせていただきます! じゃあ、日取りが決まったら教えてください」
「ありがとう、助かるよ!」
これっぽっちも迷わずに、えびす顔を浮かべて豆蔵と握手を交わす。呆れ果てたじとっとしたまなざしを向けられたのに気付いたが、知ったこっちゃない。
先ほどまでの疲れ果てた姿はどこへやら。うきうきと上機嫌で予定を書き残す小鈴に、額を押さえた阿求が大きなため息をついていた。
そして、・・・もしや題名は、最後のシーンの阿求の心の声?