人間の里には湯屋がいくつかある。
使用人を数多く雇えるような立派な屋敷ならともかくも、一般的な商家や農家に毎日風呂を焚けるだけの余裕はない。本居宅とて、洗濯室の横にちまっと備え付けられている風呂が使われるのは、阿求が泊まる時か、特別な何かがある時だけだ。
しかし、風呂に浸って日々の疲れを癒やすのは、誰もが求める幸せである。よって、人里における湯屋の需要は高い。短めの梅雨が終わり、本格的な太陽の照りつけが始まってからはなおさらだ。朝から晩まで営業している湯屋には、常に一定数以上の人がいた。
そのうちのひとつ、鈴奈庵からほど近い場所にある湯屋の板間で、小鈴はげんなりと肩をまるめていた。視線の先には母がおり、井戸端会議仲間と話を弾ませている。楽しそうなのは何よりだが、湯からあがり、肌襦袢の上から浴衣を着て髪をひとつにまとめ、入り口で父と声を掛け合ってからも、尚待たされている小鈴である。湯上がり後の爽やかさはとうに消えていた。早く帰って本が読みたい。
もちろん、小鈴も「おとうさんが待ってるよ」と母に声をかけた。しかし、日がな家事や鈴奈庵での仕事にきりきり動き回っている母にとって、湯屋での世間話は数少ない息抜きだ。他のお内儀さんたちもまた然り。なかなか話は終わりを見ず、どころか、小鈴もその輪に加えられそうになったので、慌てて逃げてきたのだった。
"神隠し"騒動から三月近く過ぎ、小鈴を見れば、やれ大丈夫かだの、なにがあったのかだの、心配と好奇心をない交ぜにした言葉を向けるということは、もうほとんどない。けれど、未だふとした拍子に話題に上ることがあるし、そのたびに誤魔化すのも少々手間だ。加えて、小鈴は、誰がどうした彼がどうした、あの家の息子は・娘は云々といった、いわゆる世間話にまったくもって興味がない。
(なにか不思議なことがあったのなら、喜んで聞くんだけどねぇ)
結局、のろのろ身だしなみを整えながらわいのわいのと盛り上がる母たちを、遠目からねめつけるしかできないのだ。
「小鈴ちゃん、小鈴ちゃん」
湯屋番の老媼が手招きをしてきた。父が呼んでいるのだろうか。
念のため荷物をまとめて暖簾をくぐると、老媼は番台に戻ってこっくりしている。早すぎやしないか。
「小鈴、こっちだ」
父を認め駆け寄ると、傍らには贔屓にしている紙卸商の主人がいた。ぺこりと頭を下げたら「まあまあ、小鈴ちゃん。久しぶり」と皺の目立つまなじりをくしゃくしゃに細める。
「お見舞いのとき以来かしら。その後、変わりはない?」
「はい、おかげさまで。以前よりピンピンしてるくらいです」
「それは重畳。神隠しに遭ったのにピンピンしてるなんて、小鈴ちゃんは、ものすごい好運の持ち主なのかもしれないわねぇ」
どうか今後ともご贔屓にね、と悪戯っぽく片目をつぶられ、笑顔で頷く。そこで、父が会話に加わった。紙の包みを小さく開いて見事な鮎の燻製を示す。
わあ、と目を輝かせた小鈴の反応を受け、主人が照れくさそうに頬に手を当てる。
曰く、釣果が意図せぬ豊作で若い鮎を逃がしてもまだおつりが来るほどだったので、お裾分けに回っているらしい。「鈴奈庵さんにはお世話になってるから」と四匹ももらえると聞いて、小鈴は両手を上げた。
「もうすこし遠慮しなさい」とため息をついた父は、鮎を小鈴に手渡し、意味深なまなざしをこちらに向ける。
「お母さんはまだかかるだろうし、お父さんも、もう少し話をしたい。だが、せっかくの頂き物だ。小鈴、おまえ、先に帰って手を入れておいてくれないか」
「ええー! 私ひとりで?」
思わず不満の声を上げた小鈴を肘で小突き、父は言葉を重ねる。
「おまえの好きなようにしていいから。四匹もいただいたんだ、ひとり一匹として、残り一匹は……そうだな、ひとまず、お供えするか」
「お供え?」
「あらやだ、お供えなんて。大げさですよ、本居さん」
小鈴は首を傾げる。
里の人間の例に漏れず本居家も信心深い。だが、特別な頂き物ならともかくも、ちょっとしたお裾分けの品までを供える習慣は、少なくとも父と小鈴には無い。母ならともかく父がそんなことを言うなんて、と考えこみそうになった小鈴だったが、父にもう二度ほど小突かれ「あ」と声を上げた。
「しょ、しょうがないなぁ。好きなようにしていいんだよね?」
「ああ、好きにしなさい」
ようやく父の意図を悟る。途端に、心にかかっていたどことなく重い靄が払われ、ウキウキと弾みだす。
「立派な鮎だもの、残りの一匹は、一手間かけてもいいよね。明日の朝には食べられるようにするから」
「……まあ、そうだな。開店の準備に間に合えばいいよ」
おとうさん言いかた、と思ったが、幸いにして、主人はてれてれと恥ずかしがるばかりで気にした風もない。嬉しそうな様子にちょっとした罪悪感を覚えるが、おいしく頂くのには違いないのだ。
そうと決まれば、と小鈴は立ち上がった。荷物の上に紙でくるんだ鮎も載せて風呂敷でつつむ。主人にもういちど頭を下げて、パッと身を翻した。既に日はとっぷりと落ちていたが夜の人里には昼と違った活気がある。その中を、まずは鈴奈庵に向けて、小鈴は軽やかに駆けた。
風呂敷包みを抱えたままてこてこ行くと、頑丈な塀に囲まれた屋敷が見えてきた。「稗田」と仰々しい表札がかかった門の脇、人ひとりが通れるほどの大きさの通用口をたたく。すぐに応える声があった。軽く咳払いして声を張る。
「こんばんは、夜分にすみません。本居です」
「おや、小鈴ちゃん」
すぐに蝶番が外される音がして、壮年の門衛が顔をのぞかせる。小鈴を認めて頬を綻ばせた。
「いらっしゃい。さあ、どうぞ」
即座に招き入れてくれた門衛に頭を下げる。昔から、なにかと融通を利かせてくれる門衛は、手に持っている風呂敷を見て察したらしい。「阿求様なら、まだ起きておられると思うよ」と詰め所の呼び鈴を鳴らそうとする。それをとどめ、庭を指さした。
「もうけっこうな時間ですし、庭から行きます」
「そうかね。足下に気をつけてな」
「はい。そうだ、おじさん、よかったらこれ、片方どうですか?」
風呂敷の結び目をほどいて鮎を示すと、門衛は「ほう」と目を細めた。
「立派な鮎だね。いいのかい?」
「頂き物なんです。ごはんも食べちゃったし、ふたりなら一匹でも十分なので」
「こりゃありがたい。宵っ張りの楽しみができたね。……そうだ、小鈴ちゃん、これをすこし借りてもいいかね?」
首を傾げると、門衛は詰め所を指さし片頬を上げた。
「燻製には熱いのが合うだろう? せっかくだ、温めてから持って行きますよ」
「いいんですか?」
「なに、お裾分けのお礼さね」
ありがたい申し出に小鈴は目を輝かせた。作る楽しみがあるといっても、これからまた竈に火を熾すのは少々骨だと思っていたのだ。渡りに舟である。
門衛に風呂敷を預け、立派な庭園を一直線につっきる。丁寧に整えられた夏草が涼やかな夜風を受け静かに揺れている。執筆の息抜きに散歩をする阿求のため、四季折々の花を植えているという一角には、桔梗の花が咲いていた。
庭園を南とすると北西の方向に、稗田家の膨大な資料を蔵する堅牢な書庫がある。阿求の寝室、並びに書斎はそこの近くだ。幼い頃から数えきれないほど通っているので、稗田邸の全貌はいまいち把握していなくとも、その一角にだけは詳しい小鈴である。明日に備えて就寝の準備を始めている奉公人を騒がせることなく忍びこむなど、造作もなかった。
目をつぶっていても辿れる馴染んだ道のりを行き、まずは外から寝室を見る。灯りはない。となると書斎か。
庭園側と比べるとささやかな縁側で下駄を脱ぎ「お邪魔しまーす」と小声で言う。書斎に赴くと、はたして、行灯の明かりが漏れていた。
「阿求ー」
名を呼んだら障子越しの明かりがゆらりと揺れる。「小鈴?」と不思議そうな声がして、障子が細く開けられた。こちらを認めた阿求が呆れ顔になる。
「あんた、今度はなにをやったの」
開口一番それはあんまりではなかろうか。
「ちっが、ちがうわよ。お裾分け!」
「手ぶらで?」
「門のおじさんに預けたの。鮎の燻製だから、熱燗も作って持ってきてくれるって」
「あら、いいじゃない。なら骨酒にしましょうか。せっかくだしつまみもほしいわね」
胡乱気な表情から一転、ふっと頬を綻ばせる阿求に大きく頷く。
と、隣室の障子が開く音がして、阿求の付き人たちが寝室から出てきた。
「阿求様、お布団のご用意が──えっ、小鈴さん?」
「あ、こんばんはー」
「えっ、え? い、いつの間においでに? え?」
ひらひらと手をふった小鈴にふたりそろってぎょっと立ちすくむ。付き人らの反応に阿求がため息をついた。
「そうじゃないかと思っていたけど、また勝手に入ってきたのね。玄関から来なさいって言っているでしょう」
「だって、もう遅いし」
「私室に平然と忍びこめる輩がいるほうが、問題なんだけどねぇ」
「ちゃんとおじさんにあいさつしたよ?」
「それもそれで……ああ、もう、いいわ。あなたたち、悪いんだけど、もうひと組布団を用意しておいてちょうだい。それが済んだら休んでいいから」
阿求の指示を受け、ぺこりと頭を下げたふたりはそそくさと寝室に戻っていく。
調理所に行くのだろう。静まりかえった廊下をすたすた歩く阿求に追いすがり、小鈴は不満をもらす。
「えー、おつまみは?」
「もう遅いって言ったのはどこの誰よ。私が作るの」
「せっかく豪華なのが食べられると思ったのに」
「稗田家当主の手料理に、ご不満でも?」
「だって阿求の料理なんて……なんでもないです、不満なんてないです。あーなにを作ってくれるのかしら、楽しみだわー!」
キッと睨まれて慌てて手をふる。ここで機嫌を損ねて食い扶持を減らされてはたまらない。
ふん、と鼻を鳴らした阿求に続いて調理所に入った。本居宅の炊事場がふたつ入ってもおつりがくるのではないかと思うほど広々とした調理所は、いつ入ってもどことなく気圧されてしまうが、阿求は気にした風もない。当然と言えば当然か。
慣れた手つきで長襦袢にたすきを掛けた阿求に割烹着を渡す。頭からかぶり手拭いで髪をまとめ「簡単なものでいいよね?」とこちらを見る阿求に頷いた。
「手伝いは?」
「食器取ってくれれば」
「はぁーい」
さて、と氷室を覗く阿求に気づかれぬよう、もういちどため息をつく。
不満もなにも、阿求の料理の腕は知っている。本居宅に阿求が泊まる際は一緒に夕餉を作っているし、そもそも、彼女に料理のいろはを教えたのは小鈴の母だ。危険だからと包丁を持たせてもらえない、と珍しく頬を膨らませて鈴奈庵を訪れた阿求と並び、指導を受けたのは懐かしき幼き頃。それから、最低限の技術で満足した小鈴とは異なり、阿求はなんだかんだと教わり続けていた。結果、彼女の抜群の記憶力はここでも発揮され、師である母と遜色ない腕前へと成長したのだが。
何事も、生徒は師に似るものである。味付けから材料の切り方まで、阿求の作る料理の味は母のものとそっくりなのだ。
「毎日食べるんなら阿求のごはんだけどさ。たまには他のも食べてみたいわー」
堪えきれずにぼやいた。しっかりと張りのある胡瓜とトマトを取り出し調味料をこちゃこちゃやっていた手を止めて、阿求がふり返る。
「なら、別の味にしてあげましょうか」
「できるの?」
「私を誰だと思っているのよ」
なんでもないというように、要は調味料の配分だからね、と阿求は肩をすくめる。しばし考えたが「やっぱりいいわ」と首をふった。
「作ったのは阿求なのに味はちがうってのも、なんだか落ち着かないし」
「わがままねぇ」
ふっと笑んだ阿求はまな板に向き直る。とんとんとん、と包丁がまな板をたたく軽快な音に耳を澄ませながら、まぁね、と小さく独りごちた。
つまみと食器をお盆に載せて寝室前の縁側に戻ったら、徳利と紙の包みを持った門衛がひょいと頭を下げた。しっかり温められたそれらを受け取り、代わりに小分けにしてあったつまみを渡して、嬉しそうに詰め所へ戻っていく背中を見送る。自然と小鈴の頬は緩んだ。
縁側に並んで腰かけ、大きめの器に鮎の燻製をいれて、上から熱燗を静かにかける。ジュッと音がたち、湯気と共に燻製特有の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。器の白さを透かしていた酒の色が鮎から滲んだ色で染まる。気づかぬうちにつばを飲みこんでいた。
色が十分に出るまで鮎を泳がせ、琥珀色の酒を猪口に注ぐ。乾杯、と軽く掲げあって口をつけた。思わずきゅーっと目をつむる。
「んー、おいしい!」
「そうね、ちゃんと移ってるわ。……って、あんたもう飲んだの」
「いやぁ、つい、こう、くいっと」
「二合しかないんだからゆっくりね」
「はーい」
言われたとおり、今度はちびちびと舌をつける。燗をつけてまろやかになった酒に、鮎の香ばしさがまざりあっている。思ったよりも軽やかな飲み口だった。油断したらすいすい飲んでしまいそうだ。
阿求はと見ると、小鉢に盛った胡瓜とトマトの和え物を取り分けていた。群青色の小皿と瑞々しい野菜の色合いが美しい。上からぱらりと胡麻をかけ、こちらに手渡す。ほのかに漂う酸っぱい香りに小鈴は首を傾げた。自分が知っている酢よりも香りが控えめだ。
「ん? これ、お酢?」
「まぁ食べてみなさいな」
言われるままに胡瓜を頬張り、小鈴は目を見開いた。酒に慣れた舌をピリリと刺すこの刺激は確実に酢だが、それにしては上品なまろやかさがある。これは料理によく使われる穀物酢ではなく、
「リンゴ酢?」
「そう。去年はリンゴがよく採れたでしょう。多めに作っておいたのよ。リンゴをお酢と氷糖で煮こんで、瓶に詰めて。お酢だから悪くならないし、疲れたときにいいからね。重宝しているの」
「へぇ、リンゴ酢って家でも作れるんだ……って氷糖!?」
氷砂糖とも呼ばれる氷糖は、一般に、お茶請けの甘味や保存食として食べるものであって、料理に用いる類のものではない。リンゴ酢を商品として扱っている店ならまだしも、自宅で使うために氷糖を調味料代わりにするとは。豪勢な話だ。
尊敬とも呆れともつかないまなざしを向けると、阿求は心なし居心地が悪そうに目をそらした。
「これからの時期、特に外で動くのは、大変なのよ。これを薄めて持たせてやると、それだけで体調を崩す家人が減るの。必要経費よ」
「あっ、阿求がひとりで使うわけじゃないんだ」
「当たり前でしょう!? なんだと思ってんのよ!」
いかな阿求とてこの言葉は心外だったのだろう。思いきり食ってかかられ「ごめんごめん」と苦笑する。
そう言われてから改めて見ると、なんだか、小皿に盛られたつまみが輝いて見えた。月明かりだけのせいではないだろう。
自然とのびた背筋はそのままに、今さらだけど、とほのかに笑う。
「いただきます」
言って、丁寧に両手を合わせる。そんな小鈴をちらりと見て、フンと息をついた阿求の横顔が赤らんでいたのは気のせいではあるまい。
本のこと、里のこと、妖怪の話、思い出話。
涼やかな夜風に髪を遊ばせながら、猪口を片手に談じていると、話の種は尽きなかった。蝶が花から花へと飛び移るように、あれやこれやと言葉を交わし、ふたりしてくすくす笑いあう。
奉公人は大半が床についたのだろう、屋敷はしんと静まりかえっていた。耳に届くのは、密やかに抑えられた互いの声と、これはキンヒバリだろうか、番う相手を求める鈴を転がすような虫の鳴き声のみ。ゆっくり回ってきたふわふわした酩酊の感覚も相まって、現世から隔絶された空間にふたりきりでいるようだ。なんだか楽しい。
空になった器を脇に置いて仰向けに寝転がる。板張りの廊下の冷たい感触が火照った体に心地よい。「こーら、はしたない」と咎める阿求の声も甘やかだ。小鈴は頬を緩めた。
「べつに、あんたしかいないんだしいいじゃない」
「もうちょっと取り繕ってもいいと思うけど」
「今さらだしー」
力の抜けたやりとりが快くて目を閉じる。酔いで朧気になっている思考がいっそう霞むようだ。このまま寝たらさぞかし気持ちがいいだろう。
じわじわとした欲求がこみ上げてきて、しかし、小鈴は目を開けた。ひさし越しに満天の星が見える。こちらを見ていた阿求がふっとまなじりを綻ばせた。月の光に照らされた静穏な姿に、胸の上、喉のあたりが熱くなって、小鈴は口を引き結ぶ。息を吸って、静かにはいた。
「いい夜ねぇ」
「そうね」
「今日はよく眠れそうだわー」
「なに、寝不足なの?」
「ううん、べつに」
阿求がふわりと破顔した。
「でしょうねぇ。あんたが眠れぬ夜を過ごすなんて、ちょっと想像できないわ」
「んなっ、どういう意味よ」
「言葉通りの意味だけど」
「失礼な。私だって悩み多き乙女なんだから、眠れぬ夜のひとつやふたつ……」
「あるの?」
小鈴は言葉に詰まった。覚えがない。
そもそも、ひとりで寝る時は大概本を読んでいて、気づかぬうちに眠りに落ちていることが多いから、思い悩んだ記憶もないような……。
「……忘れてるだけかもしれないし」
「あんた忘れっぽいもんね」
「し、失礼なっ!」
まるで小鈴が考えなしの脳天気であるかのような言いぐさに、上体を起こそうと腹に力を入れる。
けれど、それよりも早く、もぞもぞと手を動かした阿求が横になるほうが早かった。小鈴と同じように仰向けになり「なるほど、たしかに気持ちいいわね」と目を細める様に、膨らんだ負けん気がひゅるひゅると縮んでいく。中途半端な体勢を戻し、小鈴は苦笑した。
「はしたないんじゃなかったの」
「あんたしかいないんだから、いいの」
「へりくつだわー」
ころころと笑い声をこぼす。
ふぅ、と息をついた小鈴は、もういちど仰向いた。チカチカと光る星が眩しい。すぐに目に付くのは青白く輝く星々だが、よく目をこらすと、一見何もないような藍色にほのかな光が浮かんでくる。肉眼でもこれなのだから、おそらく、望遠鏡などの道具を使ったら、もっとかすかな星の光にも気付くのだろう。想像するだけでも果てが無い。気が遠くなりそうだ。
もしかしたら、記憶とは、目の前の星空のようなものかもしれない。取りとめもない思考は飛躍する。
覚えている記憶、すぐに取り出せるところにある記憶は強く輝く星のようなもので、その隙間に目をこらすと、思ってもみない弱い星が光っている。星が消えたわけではないのに、よく見ないと気付くことができない。よくよく見据えてもどうしても気付けない星がある。身には刻まれているはずなのにすべてを把握することはできない、記憶も似たようなものではあるまいか。
そう考えると、阿求はどんな空を見ているのだろう、とも思う。
「幻想郷の書記」と称され、見たことを、聞いたことを忘れないという彼女は、小鈴だったら見られないような細々とした星もすべて、目に映すことができるのだろうか。いや、目に映すことができるというよりは、映さざるを得ないのか。つまり、彼女の星空は、すべての星が煌々と輝く宝石箱のようなものなのでは──
(……眩しそう)
情緒もへったくれもない己の感想に、しゅるしゅると力が抜けた。なんだかなあ、と内心でほろりと笑う。貸本屋を生業にする者として、空想の豊かさや風流を味わう感性はそれなりに鍛えられているはずなのに、こと阿求が関わってくると、小鈴は浪漫を解さない無骨者に成り下がる。
思えば初めからそうだった。幼い頃、阿求のことを両親から初めて聞いた時は、どんなに凄い人物なのだろうと期待した。けれど、実際に彼女と会った小鈴が思ったのは「ちっちゃな女の子」で、せっかく才媛と名高い阿礼乙女と会えたのに、そんな感想しか抱けない自分にガッカリした。
それから時を重ね、他の人や、阿求本人から色々なことを言われても、小鈴の目に映る阿求は優秀だけれど偉ぶった少女でしかなかった。これはもう仕方ないのだろうと、己の感性の鈍さに諦めたのがいつだったかも覚えていない。
せめて文章で書いてくれたなら、「九代目阿礼乙女」の才をこの眼で見、読むこともできただろうが、あいにく阿求はここにいる人間だ。色が白く、やせ気味で、行動的で、どこか儚げな幼なじみ。小鈴はそうとしか思えない。
(もしかしたら、いつかの私は、阿礼乙女をすごいって思ったのかもしれないけど)
たしか外来本だったと思うが、記憶とは歪みやすいものだと書かれていたのを読んだ覚えがある。阿求と話していても、小鈴の勘違いや記憶違いを指摘されることは多々あるので、自身がスカッと忘れている可能性はゼロではない。
けれど、残念ながら、今の小鈴に記憶がないならば、「そんな出来事は起こっていない」のだ。阿求が教えてくれない限り、本当のところどうだったのかも分からない。
自分のことなのに、と僅かばかりもどかしくおもう。
「……忘れてもいいのよ」
「えっ?」
まるで内心を読まれたような言葉に、つい阿求を見る。こちらを見つめていた阿求はからかうような優しい微笑を浮かべた。
「あんたは忘れっぽいくらいがちょうどいいわ。その小さい脳みそじゃ、いちいち覚えていたらすぐにパンクしちゃうもの」
「……慰めてるようで、貶してない?」
「あら、ばれた? 意外と頭が回るのね」
「あーきゅーうー!」
どことなくしんみりしていたのがバカみたいだ。
遠慮無く挑発に乗り阿求をくすぐりの刑に処す。「わっ、小鈴ちょっ、ま、あはっ、あははは!」勝手知ったるなんとやら、阿求の弱い箇所は熟知しているのだ。的確な小鈴の責めに阿求は身をよじって笑い転げる。
まなじりに涙を浮かべた程度で解放すると、軽く咳きこんでいた阿求だったが、それでもやわらかく笑み崩れる。
「っとに、言い返せなくなったら実力行使なんだから」
「そんなの覚えてませんー。御阿礼様とちがって小さい脳みそですからー」
「その台詞も十三回目よ」
「え、そうだったっけ?」
思わず見ると深々と頷かれる。「よく覚えているね」と頬をかいた。これでは、忘れっぽいと称されても仕方がないかもしれない。
ふー、と息をついて再び縁側に倒れこんだ阿求を覗きこむ。小鈴の頬をそっとなでた手もぱたりと落とし、大の字だ。彼女にしては珍しい姿だけれど、満足げに目を閉じているのを混ぜ返すのも憚られたのでなにも言わないことにする。
「忘れていいの」
小鈴に向けたというよりは、内心がぽろりとこぼれ落ちたのだろう言葉に、ふっと思い起こされる記憶があった。なんだろう、と目を細めると、まぶたの裏に大分幼い頃の自分たちが浮かび上がってくる。
前後の流れは記憶にない。ただ、おそらく、親からの言いつけを忘れてしまい、こっぴどく叱られた自身が阿求に泣き言をこぼしていたのだろう。「阿求みたいに忘れなかったらなぁ」と膝を抱えた小鈴の背中をなでながら、「忘れていいの」と彼女は言った。そんなわけないと反論したかったのに、どこか遠くを見つめる横顔は何故だか寂しそうで、変に胸騒ぎがして息苦しかったのを覚えている。
そうか、そういえばそうだった。はてさて、あの時の自分はなんと言ったのだっけ。
浮かび上がってきた記憶を逃さないようつかみながら、小鈴は投げ出された手にそっと触れる。あの時とは異なる穏やかな満ち足りた微笑に、それでも言葉を投げかける。
「忘れても、また思い出すわ」
忘却は、抗いようがないほど圧倒的なものだから、それにばかり気が向けられがちだが、忘れたはずのことを思い出す力も自分たちには備わっているのだ。
なんでもない時間を過ごしていたら、ふと昔のことを思い出したり、きれいに忘れ去りたい記憶(例えば、初の店番でお客様第一号に向けるあいさつを思いっきり噛んで、当の阿求がしばらく笑いっぱなしだったとか)が不意に襲ってきて、布団に潜って足をバタバタさせたり。考えてみたら、初めて読むと思っていた本なのに、最初の一文を目に映した瞬間わき水のように内容を思い出して、以前読んだのだと気付くこともある。
阿求と同じ星空を見上げることはできないが、よく目をこらして見つめていたら、気付ける星もたしかにある。肉眼では見られない星だって、道具を使えば見つけられる。
身体の深いところまで染みこんだ記憶は、ふとしたきっかけで想起されるのだ。
「何度だって思い出すよ」
阿求の言を借りるなら、小鈴は忘れっぽいようだから、今夜のことだって一週間も経てばすっかり忘れてしまっているかもしれない。
けれど、それでも。星空を見上げ、キンヒバリの鳴き声を聞き、冷たい廊下の板に触れ、骨酒を飲み、リンゴ酢が香るたびに、また思い出すだろう。穏やかな頰笑みを、微かな呼吸を、手に触れる低めの体温を、甘やかな匂いを、痛いくらいにかき立てられる心のざわつきを。
何年経っても、何十年経っても、きっと、この瞬間は呼び起こされる。
「……阿求?」
反応がないので顔を寄せてみると、静かな寝息が聞こえてきた。がくっ、と脱力してしまう。これっぽっちも聞いちゃいない。
「えー……ちょっと、阿求。阿求ってば」
一抹の期待をこめて肩を揺するが少しも起きる気配がない。完全に寝入ってしまっている。ええー、と肩を落とす。
阿求は眠りが深い上に、本格的に寝はじめたらなかなか起きない。短い距離に加えて体重の軽さを踏まえても、意識のない彼女を布団まで運ぶのは骨が折れる。かといって、こんなところに当主を放置したとあっては、奉公人らから殺意を向けられる未来は必至だろう。第一、夏とはいえ夜は冷える。風邪をひいたりしたら大事だ。
「……あー、もー、仕方ないなぁ」
ぺちりと頬をはたき気持ちを張る。
縁側に細い足を引き上げ、横向きになるよう体勢を整えて、腕を肩に引っかけ脇の下に手を入れる。体が固定できたことを確かめてから、気合い一発、立ち上がった。膝が折れそうになるが、大量の返却本を鈴奈庵まで運ぶことに比べたらこのくらいどうということはない。いや待てよ、よく考えたら、あの量の本を一挙に返してくるのは稗田以外にいないような。
「今度からっ、賃料、割り増しして、やろうかしらっ」
できもしないことを呟きつつ障子を開ける。はずみで阿求の体がずり落ちそうになり慌ててしっかと抱きとめた。そんなことをしていても乱れない寝息に、ホッと安堵の息をつく一方、無防備すぎやしないかと苦笑が浮かぶ。小鈴が良からぬことを考えたらどうするのだ。
だが、とにかく布団にと室内に目を向けた小鈴は、苦笑いを浮かべたまま固まってしまう。ほのかな行灯の光を受けぼんやりと照らし出された寝室には、上等だと一目で分かる夏用の布団が敷かれていた。
ひと組だけ、枕をふたつ並べて。
言いたいことが山のようにわき起こり、なにを言うのも面倒くさくてため息となってはき出されてゆく。もういい。考えたら負けだ。公認、そういうことにしておこう。知らないけれど。
柔らかい布団に阿求を寝かせ、くしゃりと乱れてしまった髪を手で整える。あどけない寝顔にちらりと笑い、少しも迷わず隣に潜りこんだ。
***
目を開けると、障子越しに日の光が差しこんでいた。すわ寝過ぎたかと跳ね起きる。薄手の布団を阿求にかけ直してから急いで表に出、小鈴は安堵の息をついた。澄んだ空にかかる薄雲に朝焼けの色が移りこんでいる。まだ明け方だ。
脱がずに寝てしまったせいで着乱れた浴衣と髪とを整え直し、抜き足差し足で廊下を抜ける。幸い、まだほとんどの奉公人が寝ているらしく、タライを拝借し井戸の水をくみ、阿求の寝室まで戻ってきても、誰にも見咎められなかった。
枕元に放っておいた手ぬぐいをつかみ、縁側でじゃぶじゃぶと顔を洗っていたら、衣擦れの音と一緒に、阿求がうめき声ともうなり声とも形容しがたい声を漏らす。見ると、小鈴が寝ていたあたりをぽふぽふと手で探り、妙に気落ちした様子で気怠げに身を起こしていた。阿求がひとりで起きるなんて珍しいこともあるものだ。今日は雹でも降るのだろうか。
「襦袢、おもしろいことになってるわよ」
目元をこすっていた手を止め、阿求がこちらを見る。しょぼしょぼと目を細めながらも「……こすず」と舌っ足らずに呟いて、のそのそ歩いてきた。大幅にずれた長襦袢の袷から肌襦袢がのぞいている。
「いや、だから、襦袢」
聞いているのかいないのか、小鈴の隣にぺたりと座り、こっくりこっくりと舟を漕ぐ阿求に苦笑する。紐帯に手をかけ、一応見られる格好に整えてから、水を絞った手ぬぐいを渡した。手ぬぐいを顔に押し当てる阿求に「まだ早いみたいだし、寝ててもいいんじゃない?」と問うと、無言のまま首をふられる。本当に珍しい。本居宅に泊まるときも、このくらいしっかりしてくれないだろうか。
「朝餉、用意するけど」
「いやぁ、いいわよ。目も覚めたし、もう帰るわ」
朝ごはん落ち着かないし、と続けると、阿求は「……そ」と頷いただけだった。皮肉のひとつも飛んでくるかと思ったが。
稗田邸では、他の食事のタイミングがばらける分、朝餉だけは皆で揃って食べる。小鈴も厄介になる場合は、阿求の友人ということで彼女の隣に膳が備えられるのだが、当然と言うべきか、その場所は上座なのだ。
ずらりと勢揃いした奉公人を一望できるので圧巻なのだけれども、何度経験しても慣れないので、できるなら遠慮願いたい。阿求も、奉公人らも、さして気にした風もなく話をしているし、なんなら小鈴にも話が飛んでくるけども、緊張してしまってしどろもどろになってしまう。
稗田邸でご馳走されるなら、朝餉は避ける。小鈴が身につけた教訓のひとつである。
残り水を庭にまき、阿求にタライを預けて下駄をつっかける。返された手ぬぐいを帯に挟んで「じゃあ」と手を振ろうとしたら、どこに置いていたのか阿求も下駄に足をいれていた。
「門まで送るわよ」
「あら、殊勝な心がけね。ようやくお客をもてなす大切さがわかってきたのかしら」
「あんたをお客だと思ったのは一度だけだけどね」
「え、ひどくない? もうちょっとこう……せめて校閲手伝うときくらいは」
「読んでばかりで手が進まないのはどちら様?」
斜眼を向けられそっと目をそらす。だって面白いのだから、仕方がないじゃないか。
適当な軽口を交わしながら、朝日を受け鮮やかに輝く草木のあいだを歩く。湿気が強くないのが幸いだけれど今日も暑くなりそうだ。詰め所から手をふってきた門衛に会釈し、通用口から表に出ると、目に刺さるくらい青い空が視界に広がった。
「夏ねぇ」
「夏ね」
意図せず言葉が重なった。あれ、と思って阿求を見ると、あちらも少し驚いたような顔をしている。一拍おいてそろって噴きだした。
くすくす笑いながら「じゃあ、またね」と手を上げる。「ええ、また」と返される微笑も柔らかだ。
優しい声に背を押され、小鈴は一面の空の下を歩き出した。
使用人を数多く雇えるような立派な屋敷ならともかくも、一般的な商家や農家に毎日風呂を焚けるだけの余裕はない。本居宅とて、洗濯室の横にちまっと備え付けられている風呂が使われるのは、阿求が泊まる時か、特別な何かがある時だけだ。
しかし、風呂に浸って日々の疲れを癒やすのは、誰もが求める幸せである。よって、人里における湯屋の需要は高い。短めの梅雨が終わり、本格的な太陽の照りつけが始まってからはなおさらだ。朝から晩まで営業している湯屋には、常に一定数以上の人がいた。
そのうちのひとつ、鈴奈庵からほど近い場所にある湯屋の板間で、小鈴はげんなりと肩をまるめていた。視線の先には母がおり、井戸端会議仲間と話を弾ませている。楽しそうなのは何よりだが、湯からあがり、肌襦袢の上から浴衣を着て髪をひとつにまとめ、入り口で父と声を掛け合ってからも、尚待たされている小鈴である。湯上がり後の爽やかさはとうに消えていた。早く帰って本が読みたい。
もちろん、小鈴も「おとうさんが待ってるよ」と母に声をかけた。しかし、日がな家事や鈴奈庵での仕事にきりきり動き回っている母にとって、湯屋での世間話は数少ない息抜きだ。他のお内儀さんたちもまた然り。なかなか話は終わりを見ず、どころか、小鈴もその輪に加えられそうになったので、慌てて逃げてきたのだった。
"神隠し"騒動から三月近く過ぎ、小鈴を見れば、やれ大丈夫かだの、なにがあったのかだの、心配と好奇心をない交ぜにした言葉を向けるということは、もうほとんどない。けれど、未だふとした拍子に話題に上ることがあるし、そのたびに誤魔化すのも少々手間だ。加えて、小鈴は、誰がどうした彼がどうした、あの家の息子は・娘は云々といった、いわゆる世間話にまったくもって興味がない。
(なにか不思議なことがあったのなら、喜んで聞くんだけどねぇ)
結局、のろのろ身だしなみを整えながらわいのわいのと盛り上がる母たちを、遠目からねめつけるしかできないのだ。
「小鈴ちゃん、小鈴ちゃん」
湯屋番の老媼が手招きをしてきた。父が呼んでいるのだろうか。
念のため荷物をまとめて暖簾をくぐると、老媼は番台に戻ってこっくりしている。早すぎやしないか。
「小鈴、こっちだ」
父を認め駆け寄ると、傍らには贔屓にしている紙卸商の主人がいた。ぺこりと頭を下げたら「まあまあ、小鈴ちゃん。久しぶり」と皺の目立つまなじりをくしゃくしゃに細める。
「お見舞いのとき以来かしら。その後、変わりはない?」
「はい、おかげさまで。以前よりピンピンしてるくらいです」
「それは重畳。神隠しに遭ったのにピンピンしてるなんて、小鈴ちゃんは、ものすごい好運の持ち主なのかもしれないわねぇ」
どうか今後ともご贔屓にね、と悪戯っぽく片目をつぶられ、笑顔で頷く。そこで、父が会話に加わった。紙の包みを小さく開いて見事な鮎の燻製を示す。
わあ、と目を輝かせた小鈴の反応を受け、主人が照れくさそうに頬に手を当てる。
曰く、釣果が意図せぬ豊作で若い鮎を逃がしてもまだおつりが来るほどだったので、お裾分けに回っているらしい。「鈴奈庵さんにはお世話になってるから」と四匹ももらえると聞いて、小鈴は両手を上げた。
「もうすこし遠慮しなさい」とため息をついた父は、鮎を小鈴に手渡し、意味深なまなざしをこちらに向ける。
「お母さんはまだかかるだろうし、お父さんも、もう少し話をしたい。だが、せっかくの頂き物だ。小鈴、おまえ、先に帰って手を入れておいてくれないか」
「ええー! 私ひとりで?」
思わず不満の声を上げた小鈴を肘で小突き、父は言葉を重ねる。
「おまえの好きなようにしていいから。四匹もいただいたんだ、ひとり一匹として、残り一匹は……そうだな、ひとまず、お供えするか」
「お供え?」
「あらやだ、お供えなんて。大げさですよ、本居さん」
小鈴は首を傾げる。
里の人間の例に漏れず本居家も信心深い。だが、特別な頂き物ならともかくも、ちょっとしたお裾分けの品までを供える習慣は、少なくとも父と小鈴には無い。母ならともかく父がそんなことを言うなんて、と考えこみそうになった小鈴だったが、父にもう二度ほど小突かれ「あ」と声を上げた。
「しょ、しょうがないなぁ。好きなようにしていいんだよね?」
「ああ、好きにしなさい」
ようやく父の意図を悟る。途端に、心にかかっていたどことなく重い靄が払われ、ウキウキと弾みだす。
「立派な鮎だもの、残りの一匹は、一手間かけてもいいよね。明日の朝には食べられるようにするから」
「……まあ、そうだな。開店の準備に間に合えばいいよ」
おとうさん言いかた、と思ったが、幸いにして、主人はてれてれと恥ずかしがるばかりで気にした風もない。嬉しそうな様子にちょっとした罪悪感を覚えるが、おいしく頂くのには違いないのだ。
そうと決まれば、と小鈴は立ち上がった。荷物の上に紙でくるんだ鮎も載せて風呂敷でつつむ。主人にもういちど頭を下げて、パッと身を翻した。既に日はとっぷりと落ちていたが夜の人里には昼と違った活気がある。その中を、まずは鈴奈庵に向けて、小鈴は軽やかに駆けた。
風呂敷包みを抱えたままてこてこ行くと、頑丈な塀に囲まれた屋敷が見えてきた。「稗田」と仰々しい表札がかかった門の脇、人ひとりが通れるほどの大きさの通用口をたたく。すぐに応える声があった。軽く咳払いして声を張る。
「こんばんは、夜分にすみません。本居です」
「おや、小鈴ちゃん」
すぐに蝶番が外される音がして、壮年の門衛が顔をのぞかせる。小鈴を認めて頬を綻ばせた。
「いらっしゃい。さあ、どうぞ」
即座に招き入れてくれた門衛に頭を下げる。昔から、なにかと融通を利かせてくれる門衛は、手に持っている風呂敷を見て察したらしい。「阿求様なら、まだ起きておられると思うよ」と詰め所の呼び鈴を鳴らそうとする。それをとどめ、庭を指さした。
「もうけっこうな時間ですし、庭から行きます」
「そうかね。足下に気をつけてな」
「はい。そうだ、おじさん、よかったらこれ、片方どうですか?」
風呂敷の結び目をほどいて鮎を示すと、門衛は「ほう」と目を細めた。
「立派な鮎だね。いいのかい?」
「頂き物なんです。ごはんも食べちゃったし、ふたりなら一匹でも十分なので」
「こりゃありがたい。宵っ張りの楽しみができたね。……そうだ、小鈴ちゃん、これをすこし借りてもいいかね?」
首を傾げると、門衛は詰め所を指さし片頬を上げた。
「燻製には熱いのが合うだろう? せっかくだ、温めてから持って行きますよ」
「いいんですか?」
「なに、お裾分けのお礼さね」
ありがたい申し出に小鈴は目を輝かせた。作る楽しみがあるといっても、これからまた竈に火を熾すのは少々骨だと思っていたのだ。渡りに舟である。
門衛に風呂敷を預け、立派な庭園を一直線につっきる。丁寧に整えられた夏草が涼やかな夜風を受け静かに揺れている。執筆の息抜きに散歩をする阿求のため、四季折々の花を植えているという一角には、桔梗の花が咲いていた。
庭園を南とすると北西の方向に、稗田家の膨大な資料を蔵する堅牢な書庫がある。阿求の寝室、並びに書斎はそこの近くだ。幼い頃から数えきれないほど通っているので、稗田邸の全貌はいまいち把握していなくとも、その一角にだけは詳しい小鈴である。明日に備えて就寝の準備を始めている奉公人を騒がせることなく忍びこむなど、造作もなかった。
目をつぶっていても辿れる馴染んだ道のりを行き、まずは外から寝室を見る。灯りはない。となると書斎か。
庭園側と比べるとささやかな縁側で下駄を脱ぎ「お邪魔しまーす」と小声で言う。書斎に赴くと、はたして、行灯の明かりが漏れていた。
「阿求ー」
名を呼んだら障子越しの明かりがゆらりと揺れる。「小鈴?」と不思議そうな声がして、障子が細く開けられた。こちらを認めた阿求が呆れ顔になる。
「あんた、今度はなにをやったの」
開口一番それはあんまりではなかろうか。
「ちっが、ちがうわよ。お裾分け!」
「手ぶらで?」
「門のおじさんに預けたの。鮎の燻製だから、熱燗も作って持ってきてくれるって」
「あら、いいじゃない。なら骨酒にしましょうか。せっかくだしつまみもほしいわね」
胡乱気な表情から一転、ふっと頬を綻ばせる阿求に大きく頷く。
と、隣室の障子が開く音がして、阿求の付き人たちが寝室から出てきた。
「阿求様、お布団のご用意が──えっ、小鈴さん?」
「あ、こんばんはー」
「えっ、え? い、いつの間においでに? え?」
ひらひらと手をふった小鈴にふたりそろってぎょっと立ちすくむ。付き人らの反応に阿求がため息をついた。
「そうじゃないかと思っていたけど、また勝手に入ってきたのね。玄関から来なさいって言っているでしょう」
「だって、もう遅いし」
「私室に平然と忍びこめる輩がいるほうが、問題なんだけどねぇ」
「ちゃんとおじさんにあいさつしたよ?」
「それもそれで……ああ、もう、いいわ。あなたたち、悪いんだけど、もうひと組布団を用意しておいてちょうだい。それが済んだら休んでいいから」
阿求の指示を受け、ぺこりと頭を下げたふたりはそそくさと寝室に戻っていく。
調理所に行くのだろう。静まりかえった廊下をすたすた歩く阿求に追いすがり、小鈴は不満をもらす。
「えー、おつまみは?」
「もう遅いって言ったのはどこの誰よ。私が作るの」
「せっかく豪華なのが食べられると思ったのに」
「稗田家当主の手料理に、ご不満でも?」
「だって阿求の料理なんて……なんでもないです、不満なんてないです。あーなにを作ってくれるのかしら、楽しみだわー!」
キッと睨まれて慌てて手をふる。ここで機嫌を損ねて食い扶持を減らされてはたまらない。
ふん、と鼻を鳴らした阿求に続いて調理所に入った。本居宅の炊事場がふたつ入ってもおつりがくるのではないかと思うほど広々とした調理所は、いつ入ってもどことなく気圧されてしまうが、阿求は気にした風もない。当然と言えば当然か。
慣れた手つきで長襦袢にたすきを掛けた阿求に割烹着を渡す。頭からかぶり手拭いで髪をまとめ「簡単なものでいいよね?」とこちらを見る阿求に頷いた。
「手伝いは?」
「食器取ってくれれば」
「はぁーい」
さて、と氷室を覗く阿求に気づかれぬよう、もういちどため息をつく。
不満もなにも、阿求の料理の腕は知っている。本居宅に阿求が泊まる際は一緒に夕餉を作っているし、そもそも、彼女に料理のいろはを教えたのは小鈴の母だ。危険だからと包丁を持たせてもらえない、と珍しく頬を膨らませて鈴奈庵を訪れた阿求と並び、指導を受けたのは懐かしき幼き頃。それから、最低限の技術で満足した小鈴とは異なり、阿求はなんだかんだと教わり続けていた。結果、彼女の抜群の記憶力はここでも発揮され、師である母と遜色ない腕前へと成長したのだが。
何事も、生徒は師に似るものである。味付けから材料の切り方まで、阿求の作る料理の味は母のものとそっくりなのだ。
「毎日食べるんなら阿求のごはんだけどさ。たまには他のも食べてみたいわー」
堪えきれずにぼやいた。しっかりと張りのある胡瓜とトマトを取り出し調味料をこちゃこちゃやっていた手を止めて、阿求がふり返る。
「なら、別の味にしてあげましょうか」
「できるの?」
「私を誰だと思っているのよ」
なんでもないというように、要は調味料の配分だからね、と阿求は肩をすくめる。しばし考えたが「やっぱりいいわ」と首をふった。
「作ったのは阿求なのに味はちがうってのも、なんだか落ち着かないし」
「わがままねぇ」
ふっと笑んだ阿求はまな板に向き直る。とんとんとん、と包丁がまな板をたたく軽快な音に耳を澄ませながら、まぁね、と小さく独りごちた。
つまみと食器をお盆に載せて寝室前の縁側に戻ったら、徳利と紙の包みを持った門衛がひょいと頭を下げた。しっかり温められたそれらを受け取り、代わりに小分けにしてあったつまみを渡して、嬉しそうに詰め所へ戻っていく背中を見送る。自然と小鈴の頬は緩んだ。
縁側に並んで腰かけ、大きめの器に鮎の燻製をいれて、上から熱燗を静かにかける。ジュッと音がたち、湯気と共に燻製特有の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。器の白さを透かしていた酒の色が鮎から滲んだ色で染まる。気づかぬうちにつばを飲みこんでいた。
色が十分に出るまで鮎を泳がせ、琥珀色の酒を猪口に注ぐ。乾杯、と軽く掲げあって口をつけた。思わずきゅーっと目をつむる。
「んー、おいしい!」
「そうね、ちゃんと移ってるわ。……って、あんたもう飲んだの」
「いやぁ、つい、こう、くいっと」
「二合しかないんだからゆっくりね」
「はーい」
言われたとおり、今度はちびちびと舌をつける。燗をつけてまろやかになった酒に、鮎の香ばしさがまざりあっている。思ったよりも軽やかな飲み口だった。油断したらすいすい飲んでしまいそうだ。
阿求はと見ると、小鉢に盛った胡瓜とトマトの和え物を取り分けていた。群青色の小皿と瑞々しい野菜の色合いが美しい。上からぱらりと胡麻をかけ、こちらに手渡す。ほのかに漂う酸っぱい香りに小鈴は首を傾げた。自分が知っている酢よりも香りが控えめだ。
「ん? これ、お酢?」
「まぁ食べてみなさいな」
言われるままに胡瓜を頬張り、小鈴は目を見開いた。酒に慣れた舌をピリリと刺すこの刺激は確実に酢だが、それにしては上品なまろやかさがある。これは料理によく使われる穀物酢ではなく、
「リンゴ酢?」
「そう。去年はリンゴがよく採れたでしょう。多めに作っておいたのよ。リンゴをお酢と氷糖で煮こんで、瓶に詰めて。お酢だから悪くならないし、疲れたときにいいからね。重宝しているの」
「へぇ、リンゴ酢って家でも作れるんだ……って氷糖!?」
氷砂糖とも呼ばれる氷糖は、一般に、お茶請けの甘味や保存食として食べるものであって、料理に用いる類のものではない。リンゴ酢を商品として扱っている店ならまだしも、自宅で使うために氷糖を調味料代わりにするとは。豪勢な話だ。
尊敬とも呆れともつかないまなざしを向けると、阿求は心なし居心地が悪そうに目をそらした。
「これからの時期、特に外で動くのは、大変なのよ。これを薄めて持たせてやると、それだけで体調を崩す家人が減るの。必要経費よ」
「あっ、阿求がひとりで使うわけじゃないんだ」
「当たり前でしょう!? なんだと思ってんのよ!」
いかな阿求とてこの言葉は心外だったのだろう。思いきり食ってかかられ「ごめんごめん」と苦笑する。
そう言われてから改めて見ると、なんだか、小皿に盛られたつまみが輝いて見えた。月明かりだけのせいではないだろう。
自然とのびた背筋はそのままに、今さらだけど、とほのかに笑う。
「いただきます」
言って、丁寧に両手を合わせる。そんな小鈴をちらりと見て、フンと息をついた阿求の横顔が赤らんでいたのは気のせいではあるまい。
本のこと、里のこと、妖怪の話、思い出話。
涼やかな夜風に髪を遊ばせながら、猪口を片手に談じていると、話の種は尽きなかった。蝶が花から花へと飛び移るように、あれやこれやと言葉を交わし、ふたりしてくすくす笑いあう。
奉公人は大半が床についたのだろう、屋敷はしんと静まりかえっていた。耳に届くのは、密やかに抑えられた互いの声と、これはキンヒバリだろうか、番う相手を求める鈴を転がすような虫の鳴き声のみ。ゆっくり回ってきたふわふわした酩酊の感覚も相まって、現世から隔絶された空間にふたりきりでいるようだ。なんだか楽しい。
空になった器を脇に置いて仰向けに寝転がる。板張りの廊下の冷たい感触が火照った体に心地よい。「こーら、はしたない」と咎める阿求の声も甘やかだ。小鈴は頬を緩めた。
「べつに、あんたしかいないんだしいいじゃない」
「もうちょっと取り繕ってもいいと思うけど」
「今さらだしー」
力の抜けたやりとりが快くて目を閉じる。酔いで朧気になっている思考がいっそう霞むようだ。このまま寝たらさぞかし気持ちがいいだろう。
じわじわとした欲求がこみ上げてきて、しかし、小鈴は目を開けた。ひさし越しに満天の星が見える。こちらを見ていた阿求がふっとまなじりを綻ばせた。月の光に照らされた静穏な姿に、胸の上、喉のあたりが熱くなって、小鈴は口を引き結ぶ。息を吸って、静かにはいた。
「いい夜ねぇ」
「そうね」
「今日はよく眠れそうだわー」
「なに、寝不足なの?」
「ううん、べつに」
阿求がふわりと破顔した。
「でしょうねぇ。あんたが眠れぬ夜を過ごすなんて、ちょっと想像できないわ」
「んなっ、どういう意味よ」
「言葉通りの意味だけど」
「失礼な。私だって悩み多き乙女なんだから、眠れぬ夜のひとつやふたつ……」
「あるの?」
小鈴は言葉に詰まった。覚えがない。
そもそも、ひとりで寝る時は大概本を読んでいて、気づかぬうちに眠りに落ちていることが多いから、思い悩んだ記憶もないような……。
「……忘れてるだけかもしれないし」
「あんた忘れっぽいもんね」
「し、失礼なっ!」
まるで小鈴が考えなしの脳天気であるかのような言いぐさに、上体を起こそうと腹に力を入れる。
けれど、それよりも早く、もぞもぞと手を動かした阿求が横になるほうが早かった。小鈴と同じように仰向けになり「なるほど、たしかに気持ちいいわね」と目を細める様に、膨らんだ負けん気がひゅるひゅると縮んでいく。中途半端な体勢を戻し、小鈴は苦笑した。
「はしたないんじゃなかったの」
「あんたしかいないんだから、いいの」
「へりくつだわー」
ころころと笑い声をこぼす。
ふぅ、と息をついた小鈴は、もういちど仰向いた。チカチカと光る星が眩しい。すぐに目に付くのは青白く輝く星々だが、よく目をこらすと、一見何もないような藍色にほのかな光が浮かんでくる。肉眼でもこれなのだから、おそらく、望遠鏡などの道具を使ったら、もっとかすかな星の光にも気付くのだろう。想像するだけでも果てが無い。気が遠くなりそうだ。
もしかしたら、記憶とは、目の前の星空のようなものかもしれない。取りとめもない思考は飛躍する。
覚えている記憶、すぐに取り出せるところにある記憶は強く輝く星のようなもので、その隙間に目をこらすと、思ってもみない弱い星が光っている。星が消えたわけではないのに、よく見ないと気付くことができない。よくよく見据えてもどうしても気付けない星がある。身には刻まれているはずなのにすべてを把握することはできない、記憶も似たようなものではあるまいか。
そう考えると、阿求はどんな空を見ているのだろう、とも思う。
「幻想郷の書記」と称され、見たことを、聞いたことを忘れないという彼女は、小鈴だったら見られないような細々とした星もすべて、目に映すことができるのだろうか。いや、目に映すことができるというよりは、映さざるを得ないのか。つまり、彼女の星空は、すべての星が煌々と輝く宝石箱のようなものなのでは──
(……眩しそう)
情緒もへったくれもない己の感想に、しゅるしゅると力が抜けた。なんだかなあ、と内心でほろりと笑う。貸本屋を生業にする者として、空想の豊かさや風流を味わう感性はそれなりに鍛えられているはずなのに、こと阿求が関わってくると、小鈴は浪漫を解さない無骨者に成り下がる。
思えば初めからそうだった。幼い頃、阿求のことを両親から初めて聞いた時は、どんなに凄い人物なのだろうと期待した。けれど、実際に彼女と会った小鈴が思ったのは「ちっちゃな女の子」で、せっかく才媛と名高い阿礼乙女と会えたのに、そんな感想しか抱けない自分にガッカリした。
それから時を重ね、他の人や、阿求本人から色々なことを言われても、小鈴の目に映る阿求は優秀だけれど偉ぶった少女でしかなかった。これはもう仕方ないのだろうと、己の感性の鈍さに諦めたのがいつだったかも覚えていない。
せめて文章で書いてくれたなら、「九代目阿礼乙女」の才をこの眼で見、読むこともできただろうが、あいにく阿求はここにいる人間だ。色が白く、やせ気味で、行動的で、どこか儚げな幼なじみ。小鈴はそうとしか思えない。
(もしかしたら、いつかの私は、阿礼乙女をすごいって思ったのかもしれないけど)
たしか外来本だったと思うが、記憶とは歪みやすいものだと書かれていたのを読んだ覚えがある。阿求と話していても、小鈴の勘違いや記憶違いを指摘されることは多々あるので、自身がスカッと忘れている可能性はゼロではない。
けれど、残念ながら、今の小鈴に記憶がないならば、「そんな出来事は起こっていない」のだ。阿求が教えてくれない限り、本当のところどうだったのかも分からない。
自分のことなのに、と僅かばかりもどかしくおもう。
「……忘れてもいいのよ」
「えっ?」
まるで内心を読まれたような言葉に、つい阿求を見る。こちらを見つめていた阿求はからかうような優しい微笑を浮かべた。
「あんたは忘れっぽいくらいがちょうどいいわ。その小さい脳みそじゃ、いちいち覚えていたらすぐにパンクしちゃうもの」
「……慰めてるようで、貶してない?」
「あら、ばれた? 意外と頭が回るのね」
「あーきゅーうー!」
どことなくしんみりしていたのがバカみたいだ。
遠慮無く挑発に乗り阿求をくすぐりの刑に処す。「わっ、小鈴ちょっ、ま、あはっ、あははは!」勝手知ったるなんとやら、阿求の弱い箇所は熟知しているのだ。的確な小鈴の責めに阿求は身をよじって笑い転げる。
まなじりに涙を浮かべた程度で解放すると、軽く咳きこんでいた阿求だったが、それでもやわらかく笑み崩れる。
「っとに、言い返せなくなったら実力行使なんだから」
「そんなの覚えてませんー。御阿礼様とちがって小さい脳みそですからー」
「その台詞も十三回目よ」
「え、そうだったっけ?」
思わず見ると深々と頷かれる。「よく覚えているね」と頬をかいた。これでは、忘れっぽいと称されても仕方がないかもしれない。
ふー、と息をついて再び縁側に倒れこんだ阿求を覗きこむ。小鈴の頬をそっとなでた手もぱたりと落とし、大の字だ。彼女にしては珍しい姿だけれど、満足げに目を閉じているのを混ぜ返すのも憚られたのでなにも言わないことにする。
「忘れていいの」
小鈴に向けたというよりは、内心がぽろりとこぼれ落ちたのだろう言葉に、ふっと思い起こされる記憶があった。なんだろう、と目を細めると、まぶたの裏に大分幼い頃の自分たちが浮かび上がってくる。
前後の流れは記憶にない。ただ、おそらく、親からの言いつけを忘れてしまい、こっぴどく叱られた自身が阿求に泣き言をこぼしていたのだろう。「阿求みたいに忘れなかったらなぁ」と膝を抱えた小鈴の背中をなでながら、「忘れていいの」と彼女は言った。そんなわけないと反論したかったのに、どこか遠くを見つめる横顔は何故だか寂しそうで、変に胸騒ぎがして息苦しかったのを覚えている。
そうか、そういえばそうだった。はてさて、あの時の自分はなんと言ったのだっけ。
浮かび上がってきた記憶を逃さないようつかみながら、小鈴は投げ出された手にそっと触れる。あの時とは異なる穏やかな満ち足りた微笑に、それでも言葉を投げかける。
「忘れても、また思い出すわ」
忘却は、抗いようがないほど圧倒的なものだから、それにばかり気が向けられがちだが、忘れたはずのことを思い出す力も自分たちには備わっているのだ。
なんでもない時間を過ごしていたら、ふと昔のことを思い出したり、きれいに忘れ去りたい記憶(例えば、初の店番でお客様第一号に向けるあいさつを思いっきり噛んで、当の阿求がしばらく笑いっぱなしだったとか)が不意に襲ってきて、布団に潜って足をバタバタさせたり。考えてみたら、初めて読むと思っていた本なのに、最初の一文を目に映した瞬間わき水のように内容を思い出して、以前読んだのだと気付くこともある。
阿求と同じ星空を見上げることはできないが、よく目をこらして見つめていたら、気付ける星もたしかにある。肉眼では見られない星だって、道具を使えば見つけられる。
身体の深いところまで染みこんだ記憶は、ふとしたきっかけで想起されるのだ。
「何度だって思い出すよ」
阿求の言を借りるなら、小鈴は忘れっぽいようだから、今夜のことだって一週間も経てばすっかり忘れてしまっているかもしれない。
けれど、それでも。星空を見上げ、キンヒバリの鳴き声を聞き、冷たい廊下の板に触れ、骨酒を飲み、リンゴ酢が香るたびに、また思い出すだろう。穏やかな頰笑みを、微かな呼吸を、手に触れる低めの体温を、甘やかな匂いを、痛いくらいにかき立てられる心のざわつきを。
何年経っても、何十年経っても、きっと、この瞬間は呼び起こされる。
「……阿求?」
反応がないので顔を寄せてみると、静かな寝息が聞こえてきた。がくっ、と脱力してしまう。これっぽっちも聞いちゃいない。
「えー……ちょっと、阿求。阿求ってば」
一抹の期待をこめて肩を揺するが少しも起きる気配がない。完全に寝入ってしまっている。ええー、と肩を落とす。
阿求は眠りが深い上に、本格的に寝はじめたらなかなか起きない。短い距離に加えて体重の軽さを踏まえても、意識のない彼女を布団まで運ぶのは骨が折れる。かといって、こんなところに当主を放置したとあっては、奉公人らから殺意を向けられる未来は必至だろう。第一、夏とはいえ夜は冷える。風邪をひいたりしたら大事だ。
「……あー、もー、仕方ないなぁ」
ぺちりと頬をはたき気持ちを張る。
縁側に細い足を引き上げ、横向きになるよう体勢を整えて、腕を肩に引っかけ脇の下に手を入れる。体が固定できたことを確かめてから、気合い一発、立ち上がった。膝が折れそうになるが、大量の返却本を鈴奈庵まで運ぶことに比べたらこのくらいどうということはない。いや待てよ、よく考えたら、あの量の本を一挙に返してくるのは稗田以外にいないような。
「今度からっ、賃料、割り増しして、やろうかしらっ」
できもしないことを呟きつつ障子を開ける。はずみで阿求の体がずり落ちそうになり慌ててしっかと抱きとめた。そんなことをしていても乱れない寝息に、ホッと安堵の息をつく一方、無防備すぎやしないかと苦笑が浮かぶ。小鈴が良からぬことを考えたらどうするのだ。
だが、とにかく布団にと室内に目を向けた小鈴は、苦笑いを浮かべたまま固まってしまう。ほのかな行灯の光を受けぼんやりと照らし出された寝室には、上等だと一目で分かる夏用の布団が敷かれていた。
ひと組だけ、枕をふたつ並べて。
言いたいことが山のようにわき起こり、なにを言うのも面倒くさくてため息となってはき出されてゆく。もういい。考えたら負けだ。公認、そういうことにしておこう。知らないけれど。
柔らかい布団に阿求を寝かせ、くしゃりと乱れてしまった髪を手で整える。あどけない寝顔にちらりと笑い、少しも迷わず隣に潜りこんだ。
***
目を開けると、障子越しに日の光が差しこんでいた。すわ寝過ぎたかと跳ね起きる。薄手の布団を阿求にかけ直してから急いで表に出、小鈴は安堵の息をついた。澄んだ空にかかる薄雲に朝焼けの色が移りこんでいる。まだ明け方だ。
脱がずに寝てしまったせいで着乱れた浴衣と髪とを整え直し、抜き足差し足で廊下を抜ける。幸い、まだほとんどの奉公人が寝ているらしく、タライを拝借し井戸の水をくみ、阿求の寝室まで戻ってきても、誰にも見咎められなかった。
枕元に放っておいた手ぬぐいをつかみ、縁側でじゃぶじゃぶと顔を洗っていたら、衣擦れの音と一緒に、阿求がうめき声ともうなり声とも形容しがたい声を漏らす。見ると、小鈴が寝ていたあたりをぽふぽふと手で探り、妙に気落ちした様子で気怠げに身を起こしていた。阿求がひとりで起きるなんて珍しいこともあるものだ。今日は雹でも降るのだろうか。
「襦袢、おもしろいことになってるわよ」
目元をこすっていた手を止め、阿求がこちらを見る。しょぼしょぼと目を細めながらも「……こすず」と舌っ足らずに呟いて、のそのそ歩いてきた。大幅にずれた長襦袢の袷から肌襦袢がのぞいている。
「いや、だから、襦袢」
聞いているのかいないのか、小鈴の隣にぺたりと座り、こっくりこっくりと舟を漕ぐ阿求に苦笑する。紐帯に手をかけ、一応見られる格好に整えてから、水を絞った手ぬぐいを渡した。手ぬぐいを顔に押し当てる阿求に「まだ早いみたいだし、寝ててもいいんじゃない?」と問うと、無言のまま首をふられる。本当に珍しい。本居宅に泊まるときも、このくらいしっかりしてくれないだろうか。
「朝餉、用意するけど」
「いやぁ、いいわよ。目も覚めたし、もう帰るわ」
朝ごはん落ち着かないし、と続けると、阿求は「……そ」と頷いただけだった。皮肉のひとつも飛んでくるかと思ったが。
稗田邸では、他の食事のタイミングがばらける分、朝餉だけは皆で揃って食べる。小鈴も厄介になる場合は、阿求の友人ということで彼女の隣に膳が備えられるのだが、当然と言うべきか、その場所は上座なのだ。
ずらりと勢揃いした奉公人を一望できるので圧巻なのだけれども、何度経験しても慣れないので、できるなら遠慮願いたい。阿求も、奉公人らも、さして気にした風もなく話をしているし、なんなら小鈴にも話が飛んでくるけども、緊張してしまってしどろもどろになってしまう。
稗田邸でご馳走されるなら、朝餉は避ける。小鈴が身につけた教訓のひとつである。
残り水を庭にまき、阿求にタライを預けて下駄をつっかける。返された手ぬぐいを帯に挟んで「じゃあ」と手を振ろうとしたら、どこに置いていたのか阿求も下駄に足をいれていた。
「門まで送るわよ」
「あら、殊勝な心がけね。ようやくお客をもてなす大切さがわかってきたのかしら」
「あんたをお客だと思ったのは一度だけだけどね」
「え、ひどくない? もうちょっとこう……せめて校閲手伝うときくらいは」
「読んでばかりで手が進まないのはどちら様?」
斜眼を向けられそっと目をそらす。だって面白いのだから、仕方がないじゃないか。
適当な軽口を交わしながら、朝日を受け鮮やかに輝く草木のあいだを歩く。湿気が強くないのが幸いだけれど今日も暑くなりそうだ。詰め所から手をふってきた門衛に会釈し、通用口から表に出ると、目に刺さるくらい青い空が視界に広がった。
「夏ねぇ」
「夏ね」
意図せず言葉が重なった。あれ、と思って阿求を見ると、あちらも少し驚いたような顔をしている。一拍おいてそろって噴きだした。
くすくす笑いながら「じゃあ、またね」と手を上げる。「ええ、また」と返される微笑も柔らかだ。
優しい声に背を押され、小鈴は一面の空の下を歩き出した。
小鈴は阿求が亡くなった後もふとした日常の中にこの日のことを思い出すのでしょうね。二人の掛け合いも自然でかわいらしく、良いあきゅすずでした。
あきゅすずはもっとイチャイチャしてもいいと思う。
短文のリズムと、音読に似合う言葉がそれを感じさせるのかな?
色とりどりの可愛い擬音もその一つ。
内容は…私が今バラバラなので端的に
感性が見る光…強い光、弱い光、阿求に只の少女を見るなら小鈴の目は相当良いのね
「忘れていいの」一言に詰まった両者のひきこもごも
記憶と星空の重ね合わせ。ここ創想話もなんか似てるかな