小さな地獄の上に住んでいる。ここはひどく暖かい。起き出して眠い目を擦りながら家から出ると、そこもまた家の中だ。その二重性に私はもうすっかり慣れていたが、前者については実際のところそれほどでもない。私は伸びと欠伸をしてちゃぶ台から身軽に飛び降り、柔らかく白い光を放つ障子の近くに陣取った。
この温度では、冬の外縁から漏れ出るような微かな光と熱を惜しんで拾い集める必要はないのであって、結局のところ、そうした行動も実態のない一種の儀式にすぎない。
聞いた話では、この一週間ほど、長い冬はいよいよその終わりをちらつかせていて、私たちは芽吹きの季節とのあいだに横たわる一進一退のグラデーションの中にいるということなのだが、それにしても神社の中は暖かすぎた。
霊夢は地下には地獄からやってきた妖精が棲んでいると言っていた。彼女は住処を勝手に地獄にしてしまって、それは強い熱を放っているのだと。ちゃぶ台の上で私は固唾を飲んでその先の説明を待った。でも話はそれで終わりだった。頭に浮かんだいろんな疑問を彼女にぶつけることが私にはなぜだかできなかった。霊夢の語り口の歯切れの悪さは、もちろん私にあまり良い予感を抱かせなかった。
それは真冬のことだった。今ではもうずいぶん昔のことに思える。そして結局これまでに妖精の姿を見たことはない。もちろん地獄も。
釈然としない生暖かさに心では不気味な思いをしながらも、やはり外に出るより身体は快適なので、肉体の慣性に引きずられて私は実際のところそれからずっと室内で過ごしていた。私にとっては冬はもう架空のものとなって久しかった。そうして頭では地獄が見えないことについて考えた。
いつだったかの騒動で戦った寺の僧侶が、地獄について講釈を垂れていたことも思い出した。そのときにはただの負け惜しみにしか聞こえなくて、私は柳に風で流したのだ。今ではそれが何かの宣託であったかのように感じられてきた。
霊夢はしばらく家を空けていた。真空を欠いた神社では、双角の鬼が食事を作ってくれていた。彼女はいつもの怠惰がうそのようだった。掃除や洗濯や炊事を毎日びっくりするような熱意でこなした。この日も彼女は自分の朝食と私のための小さな相似を盆に載せて台所から歩いてきた。
「やあ」と彼女は言った。
「おはよう」と私も言った。「いただきます」
朝食は今日も美味かった。私の目玉焼きはウズラの卵で作ってあるという凝り具合だった。食べ終わったあとに彼女はほうじ茶を淹れた。湯飲みからは穏やかな湯気が立った。彼女は腕を後ろについて足を軽く広げた。
「いよいよ春だねえ」と彼女は言った。
「本当に?」
「外に出たらわかるよ」と彼女は笑って言った。
「霊夢はいつ帰ってくるんだろう」
「どうだろうね。あいつの心配ならいらないと思うけど」
「どうしてこんなに良くしてくれるの?」と私は訊いてみた。
「え? いや、別に……」と言って彼女は笑った。「まあ寄っかかる相手がいないと怠けられないものだよね」
「見られるために怠けてるの?」
「あのね、人をからかっちゃ駄目だよ」と彼女は言って手をぱんと叩いた。「この話はおしまい」
私は外に出た。たしかに春だった。障子に濾過されたものでない生の日差しを私は久しぶりに浴びた。あまりにも眩しい。賽銭箱の脇をすり抜けて、石段を下りた。主人が出払っているのに、石畳は完璧に掃き清められていた。まるで時が止まっているようだと思ったが、本当はそれはもちろん冬ごもりから出てきた私の方で、外の時間は間違いなく進んでいた。
石畳の間の大きな溝を飛び越え飛び越え先へと進むと、鳥居の表に見慣れない狛犬があった。これは昔からあったものだろうか? 訝しんだ私は見上げながら像の周りをぐるぐると回った。視界に入れるには空は明るすぎて、私はずっと目を細めていた。
「そんなに睨まないでくださいよ」と像が居心地悪そうに身じろぎして言った。私は声を上げて驚いて飛びずさり、石畳の隙間にかかとを引っかけて尻餅をついた。
そのまま座り込んで口を開けたまま見上げていると、狛犬はするすると台の上から降りてきた。
「ごめんなさい。別に驚かすつもりじゃなかったんです」と言って狛犬はしゃがみ込み、私の前に指を差し出した。私はその指を取って立ち上がった。「高麗野あうんです」と彼女は言った。
「少名針妙丸」と私はなんとか言った。名前だけ言うのもおかしいと少し後で思ったけれど、頭に浮かんだ疑問が多すぎて出力が追いつかなかった。
「ああ」と彼女は頷いて微笑んだ。「霊夢さんから聞いてます」
「霊夢」と疑問をひとまず棚上げにして私は言った。「帰ってこないよね。どうしているか知ってる?」
「私もわかりません」と彼女は言った。私はうなだれた。
彼女はそんな私を見て、慌てたように両手を広げて笑顔を作った。
「ねえ、大丈夫ですよ。昔から見てますけど、何日か家を空けることなんて今まで何度もありましたし……」
「萃香もそう言ってた」
「でしょう?」
狛犬は私の方にかがみ込んだ。緑色をした彼女の頭にも一本の角が生えていることに私は気づいた。
「なにか心配事でもあるんですか?」と彼女は訊いた。
少しのあいだ、私は話そうか迷った。気がかりなことがあるのは確かなのだが、言葉にしてみようとすると、それはずいぶん馬鹿げているというか、子供じみているように思えたのだ。
「地下に妖精が住んでいるのを知ってる?」と結局私は訊いた。
「ええ」と彼女は言った。「困ったやつです」
「見たことがあるの?」
「ええ……」とあうんは困った顔をした。「いえ、実は直接には。霊夢さんがそう言っているのを聞いただけです」
「そっか」と私は答えた。
「なにか悪さをしているんですか?」
「いや、ぜんぜん」と私は言った。
「なにか困ったことがあれば力になりますよ」とあうんは言った。「霊夢さんほど強くないですけど」
「ありがとう」と私は言った。「ねえ、地獄に行ったことがある?」
「倫理的な質問ですか?」とあうんは笑って訊き返した。
「違う、違う」
「わかってますよ。どちらの質問でも答えは否ですけど」
「変なこと訊いてごめん。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
桜はまだ咲いていなかった。神社もそうだし、その外だってそうだった。ほとんどの桜が双子のようなものだということを聞いたことがあった。だから一斉に咲くのだと。
桜の美しさは、薄皮一枚向こうに垣間見えるある種の不気味さによって増幅されるけれど、その不気味さの正体のうちの一つはその複製性にあるのではないかという気が私はしていた。少なくともまだ目の前に咲いていない今のうちはそういう風に考える余裕があった。
とにかく、桜並木を私のごく小さい歩幅で歩いていると、その一瞬一瞬が永遠に複製されているような気持ちになった。
増幅した現在がそのことによって希釈されていくとともに、私の考えはむしろ現在から離れていった。自分の善意がそのまま返ってくるわけではない、他者は自分の複製ではないということを示す、一つの事例について私は思い返していた。あのときどうすれば良かったのかということは今まで何度も考えたけれど、今日もやはり答えは出なかった。すべてが起こる前と今とでは、おそらく今の方が状況が良いということが問題にさらなるねじれを加えていた。一度は信じた他者の裏切りに対する脚註は、信じる相手を誤った自分にも当然そのまま照らされるが、その過程すべてを全体として肯定する材料があるということが、むしろそれらを単純に区分けされた感情の棚にしまい込むことを妨げているのだ。居心地の悪い快適さ。
複製の中を歩いていくと、道の真ん中に傘を差した少女が立っているのを見つけた。彼女は横向きに顔を上げて、咲いていない桜を見ていた。金髪の下に奇妙な形をした虹色の羽が生えていた。
私が近づいていくと、あるところで彼女もこちらに気づいた。私の小さな歩幅がその隙間を埋めるにはいくらかの時間がかかった。彼女は私が足下に辿り着くまで黙ってじっと待っていた。その顔にはおよそ表情というものがまったく浮かんでいなかった。表面上は暖かく華やぎに満ちた春の裏側に極度の単調さを感じ取っていたそのときでなければ、私は彼女に近づこうとは決して考えなかっただろう。
「こんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」
「神社から来たの」
「うん」
「いろんな人が住んでるのね」
彼女はたとえばあうんのように、小さな私に対してかがみ込んで目線を合わせるようなことはしなかった。けれど不思議と上から話しかけられている圧迫感のようなものは覚えなかった。彼女は指先で傘をくるくると回した。日傘の下の彼女の肌は異様なほど白かった。少し勇気を出して私はそのことを訊いてみた。
「ほとんど地下から出ないからね」と彼女は言った。別に気を悪くした風ではなかった。
「地下?」と私はびっくりして訊いた。
「うん。湖の畔に大きな……少しわざとらしいくらいのね、館があるの。その地下」
「あなたは妖精?」と私は訊いてみた。
「妖精ね」と言って彼女は吹き出した。「それも良いな」
「違う?」
「うん。ごめんね、私は吸血鬼だよ」
「吸血鬼」
「そう。吸ってあげよっか?」
「えっ」
「冗談」と言って吸血鬼は笑った。言葉と表情は私を安堵させたが、笑顔の下に見えた彼女の鋭い犬歯がそれをうまく中和した。
彼女は私の表情をじっと観察していた。彼女に見られるとなんだか落ち着かない気分になった。根拠はないのだが、彼女の視線の中ではなにか外観以上のものが析出されるような気がしたのだ。
「どうしたの? 私なにかおかしなこと言った?」と彼女は訊いた。
「ううん」と私は言った。私は結局彼女に神社の地下の地獄について説明をした。なぜ初対面の相手にそんな話をする気になったのかはわからない。もしかすると、彼女にも一種の真空を感じたからなのかもしれない。
彼女は私の一通りの話を頷きながら聞いていた。「なんかわかるような気がするな」と彼女は言った。
「仏教徒なの?」と私は訊いてみた。
「まさか」と彼女は言った。彼女は真剣な顔をして胸元で十字を切った。それからくすくすと笑った。
「変な話だって思わなかった?」
「快適なものを不気味に感じるってことが? そんなことは思わないな」
「良かった」と私は言った。「ねえ、別に出て行ってほしいとか、そういうことを思ってるわけじゃないんだ。私だって立場は似たようなものなんだから」
「でもそのことにかえって罪悪感を覚える」
私は頷いた。
「ひょっとすると自分も他者にとってそうなのかもしれないと感じる?」
「そんなこと考えもしなかった」と私は力なく笑った。「私は結局自分のことしか考えてないんだと思う」
吸血鬼はしばらく黙って考え込んでいた。それから彼女はどこからかごく小さな木箱を取り出した。
「それはなに?」
彼女は質問には答えなかった。彼女は日傘から手を離した。それは地面にまっすぐに落ちた。その途端、彼女の身体からさらさらと砂のようなものが流れ出した。私は声をあげた。
彼女は両手で木箱を包んでいた。次第に手の周りに様々な色の光が集まってきた。だんだんそれは強くなり、眩い閃光になった。私はたまらず目を瞑った。
大きな音がして、瞼の向こうの光が弱まったのを感じた。おそるおそる目を開けると、日傘をさした吸血鬼が微笑んでいた。彼女の身体から流れ出ていた砂はもう止まっていた。彼女はこちらに向かって屈み込むと、手の平を差し出した。そこには先ほどの木箱が載っていた。見た目は先ほどとなにも変わったところがないように思えた。
「あげる」と彼女は言った。
私はそれを受け取った。私にも持ち運べる大きさと重さだった。それは微かな熱を帯びていた。
「これは?」と私は箱に顔を近づけてじっと見ながらもう一度訊いた。
「箱の中に地獄を入れたの」と彼女は微笑んで言った。「魔理沙の魔法を真似してみちゃった」
私はぎょっとして顔を箱から離した。「なんで?」
「うまく言えないけど」と彼女は言った。「持って帰って。自分の近くに置いておくんだよ」
私は渋々頷いた。
「開けたくなっちゃうかもしれないけど、絶対開かないから大丈夫」と言って彼女は満足げに笑い、立ち上がった。「またね」
「待って」と立ち去りかけた彼女に私は声をかけた。「あなたはなにをしにここに来たの?」
彼女は振り返った。それから桜のつぼみのうちの一つを片手で包み込んだ。彼女が手を開くと、その一輪だけが、通りのすべての桜を置き去りにして花開いた。呆気に取られた私を尻目に彼女は軽く手を振って帰っていった。
残された私は、地獄の入った箱を抱えてその場にしばらく佇んでいた。その場所だけがなにからも複製されていなかった。どことも、本当にどことも違っていた。
神社に戻ると、あうんは二人に分裂していた。角が二本。そのせいで彼女はまるで鬼のようだった。でもおそらく彼女は本質的に善い人だった。萃香がそうであるのと同じように。私にはそれがわかっていると思いたかった。自分の判断というものをもう一度信じてみたかった。
「お帰りなさい」と二人の狛犬が私に向かって言った。
「ただいま」と私は言った。
「お土産ですか?」とあうんは私の手元を見て訊いた。
「ちょっとね」
萃香は問題の焦点がどこにあるのかをもう少ししっかり知っていた。
「これは珍しいね」と彼女は木箱を片手で持ち上げて、下から覗き込むようにして見た。「携帯地獄だ」
「わかるの?」
「もちろん」と彼女は言った。「私はそこから来たんだよ」
「知らなかった」
「言ってなかったっけ?」
「どんなところ?」
萃香は唸って考えて、結局「まあ、酒は美味いよね」とだけ言った。
私は吸血鬼にもらった木箱を自分の家の中に置いた。これで暖房器具が二つになった。
春は深まり、これからは暖かくなるばかりだ。暖房はどんどん無用の長物となるだろう。でも、それで私の家はこれまでよりずっと私の家であるように思えた。
眠りにつく前、自分の部屋にある木箱を見ながら、地獄はその内部に対する苛烈な枷である以上に、その外部に対する福祉であるのかもしれないと私はある種の素直さをもって考えた。つまり地獄の外部にあることは、地獄から疎外されているということではないという風に。私はずいぶん安心した。
それは結局のところ、私がそれほど良い人間ではないからだろう。
何日か経つと霊夢が帰ってきた。あるいは萃香たちの言っていたように、彼女は近所に散歩にでも出かけていたような気安さで玄関をくぐった。室内の暑さに顔をしかめた彼女が強制的に地獄の温度を下げさせるまでほとんど時間はかからなかった。
かつての問題はあっけなく片づいてしまったが、それは既に問題ではなかった。だから、それがもう必要でなくなっても、私は吸血鬼にもらった木箱を捨てようとは思わなかった。
この温度では、冬の外縁から漏れ出るような微かな光と熱を惜しんで拾い集める必要はないのであって、結局のところ、そうした行動も実態のない一種の儀式にすぎない。
聞いた話では、この一週間ほど、長い冬はいよいよその終わりをちらつかせていて、私たちは芽吹きの季節とのあいだに横たわる一進一退のグラデーションの中にいるということなのだが、それにしても神社の中は暖かすぎた。
霊夢は地下には地獄からやってきた妖精が棲んでいると言っていた。彼女は住処を勝手に地獄にしてしまって、それは強い熱を放っているのだと。ちゃぶ台の上で私は固唾を飲んでその先の説明を待った。でも話はそれで終わりだった。頭に浮かんだいろんな疑問を彼女にぶつけることが私にはなぜだかできなかった。霊夢の語り口の歯切れの悪さは、もちろん私にあまり良い予感を抱かせなかった。
それは真冬のことだった。今ではもうずいぶん昔のことに思える。そして結局これまでに妖精の姿を見たことはない。もちろん地獄も。
釈然としない生暖かさに心では不気味な思いをしながらも、やはり外に出るより身体は快適なので、肉体の慣性に引きずられて私は実際のところそれからずっと室内で過ごしていた。私にとっては冬はもう架空のものとなって久しかった。そうして頭では地獄が見えないことについて考えた。
いつだったかの騒動で戦った寺の僧侶が、地獄について講釈を垂れていたことも思い出した。そのときにはただの負け惜しみにしか聞こえなくて、私は柳に風で流したのだ。今ではそれが何かの宣託であったかのように感じられてきた。
霊夢はしばらく家を空けていた。真空を欠いた神社では、双角の鬼が食事を作ってくれていた。彼女はいつもの怠惰がうそのようだった。掃除や洗濯や炊事を毎日びっくりするような熱意でこなした。この日も彼女は自分の朝食と私のための小さな相似を盆に載せて台所から歩いてきた。
「やあ」と彼女は言った。
「おはよう」と私も言った。「いただきます」
朝食は今日も美味かった。私の目玉焼きはウズラの卵で作ってあるという凝り具合だった。食べ終わったあとに彼女はほうじ茶を淹れた。湯飲みからは穏やかな湯気が立った。彼女は腕を後ろについて足を軽く広げた。
「いよいよ春だねえ」と彼女は言った。
「本当に?」
「外に出たらわかるよ」と彼女は笑って言った。
「霊夢はいつ帰ってくるんだろう」
「どうだろうね。あいつの心配ならいらないと思うけど」
「どうしてこんなに良くしてくれるの?」と私は訊いてみた。
「え? いや、別に……」と言って彼女は笑った。「まあ寄っかかる相手がいないと怠けられないものだよね」
「見られるために怠けてるの?」
「あのね、人をからかっちゃ駄目だよ」と彼女は言って手をぱんと叩いた。「この話はおしまい」
私は外に出た。たしかに春だった。障子に濾過されたものでない生の日差しを私は久しぶりに浴びた。あまりにも眩しい。賽銭箱の脇をすり抜けて、石段を下りた。主人が出払っているのに、石畳は完璧に掃き清められていた。まるで時が止まっているようだと思ったが、本当はそれはもちろん冬ごもりから出てきた私の方で、外の時間は間違いなく進んでいた。
石畳の間の大きな溝を飛び越え飛び越え先へと進むと、鳥居の表に見慣れない狛犬があった。これは昔からあったものだろうか? 訝しんだ私は見上げながら像の周りをぐるぐると回った。視界に入れるには空は明るすぎて、私はずっと目を細めていた。
「そんなに睨まないでくださいよ」と像が居心地悪そうに身じろぎして言った。私は声を上げて驚いて飛びずさり、石畳の隙間にかかとを引っかけて尻餅をついた。
そのまま座り込んで口を開けたまま見上げていると、狛犬はするすると台の上から降りてきた。
「ごめんなさい。別に驚かすつもりじゃなかったんです」と言って狛犬はしゃがみ込み、私の前に指を差し出した。私はその指を取って立ち上がった。「高麗野あうんです」と彼女は言った。
「少名針妙丸」と私はなんとか言った。名前だけ言うのもおかしいと少し後で思ったけれど、頭に浮かんだ疑問が多すぎて出力が追いつかなかった。
「ああ」と彼女は頷いて微笑んだ。「霊夢さんから聞いてます」
「霊夢」と疑問をひとまず棚上げにして私は言った。「帰ってこないよね。どうしているか知ってる?」
「私もわかりません」と彼女は言った。私はうなだれた。
彼女はそんな私を見て、慌てたように両手を広げて笑顔を作った。
「ねえ、大丈夫ですよ。昔から見てますけど、何日か家を空けることなんて今まで何度もありましたし……」
「萃香もそう言ってた」
「でしょう?」
狛犬は私の方にかがみ込んだ。緑色をした彼女の頭にも一本の角が生えていることに私は気づいた。
「なにか心配事でもあるんですか?」と彼女は訊いた。
少しのあいだ、私は話そうか迷った。気がかりなことがあるのは確かなのだが、言葉にしてみようとすると、それはずいぶん馬鹿げているというか、子供じみているように思えたのだ。
「地下に妖精が住んでいるのを知ってる?」と結局私は訊いた。
「ええ」と彼女は言った。「困ったやつです」
「見たことがあるの?」
「ええ……」とあうんは困った顔をした。「いえ、実は直接には。霊夢さんがそう言っているのを聞いただけです」
「そっか」と私は答えた。
「なにか悪さをしているんですか?」
「いや、ぜんぜん」と私は言った。
「なにか困ったことがあれば力になりますよ」とあうんは言った。「霊夢さんほど強くないですけど」
「ありがとう」と私は言った。「ねえ、地獄に行ったことがある?」
「倫理的な質問ですか?」とあうんは笑って訊き返した。
「違う、違う」
「わかってますよ。どちらの質問でも答えは否ですけど」
「変なこと訊いてごめん。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
桜はまだ咲いていなかった。神社もそうだし、その外だってそうだった。ほとんどの桜が双子のようなものだということを聞いたことがあった。だから一斉に咲くのだと。
桜の美しさは、薄皮一枚向こうに垣間見えるある種の不気味さによって増幅されるけれど、その不気味さの正体のうちの一つはその複製性にあるのではないかという気が私はしていた。少なくともまだ目の前に咲いていない今のうちはそういう風に考える余裕があった。
とにかく、桜並木を私のごく小さい歩幅で歩いていると、その一瞬一瞬が永遠に複製されているような気持ちになった。
増幅した現在がそのことによって希釈されていくとともに、私の考えはむしろ現在から離れていった。自分の善意がそのまま返ってくるわけではない、他者は自分の複製ではないということを示す、一つの事例について私は思い返していた。あのときどうすれば良かったのかということは今まで何度も考えたけれど、今日もやはり答えは出なかった。すべてが起こる前と今とでは、おそらく今の方が状況が良いということが問題にさらなるねじれを加えていた。一度は信じた他者の裏切りに対する脚註は、信じる相手を誤った自分にも当然そのまま照らされるが、その過程すべてを全体として肯定する材料があるということが、むしろそれらを単純に区分けされた感情の棚にしまい込むことを妨げているのだ。居心地の悪い快適さ。
複製の中を歩いていくと、道の真ん中に傘を差した少女が立っているのを見つけた。彼女は横向きに顔を上げて、咲いていない桜を見ていた。金髪の下に奇妙な形をした虹色の羽が生えていた。
私が近づいていくと、あるところで彼女もこちらに気づいた。私の小さな歩幅がその隙間を埋めるにはいくらかの時間がかかった。彼女は私が足下に辿り着くまで黙ってじっと待っていた。その顔にはおよそ表情というものがまったく浮かんでいなかった。表面上は暖かく華やぎに満ちた春の裏側に極度の単調さを感じ取っていたそのときでなければ、私は彼女に近づこうとは決して考えなかっただろう。
「こんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」
「神社から来たの」
「うん」
「いろんな人が住んでるのね」
彼女はたとえばあうんのように、小さな私に対してかがみ込んで目線を合わせるようなことはしなかった。けれど不思議と上から話しかけられている圧迫感のようなものは覚えなかった。彼女は指先で傘をくるくると回した。日傘の下の彼女の肌は異様なほど白かった。少し勇気を出して私はそのことを訊いてみた。
「ほとんど地下から出ないからね」と彼女は言った。別に気を悪くした風ではなかった。
「地下?」と私はびっくりして訊いた。
「うん。湖の畔に大きな……少しわざとらしいくらいのね、館があるの。その地下」
「あなたは妖精?」と私は訊いてみた。
「妖精ね」と言って彼女は吹き出した。「それも良いな」
「違う?」
「うん。ごめんね、私は吸血鬼だよ」
「吸血鬼」
「そう。吸ってあげよっか?」
「えっ」
「冗談」と言って吸血鬼は笑った。言葉と表情は私を安堵させたが、笑顔の下に見えた彼女の鋭い犬歯がそれをうまく中和した。
彼女は私の表情をじっと観察していた。彼女に見られるとなんだか落ち着かない気分になった。根拠はないのだが、彼女の視線の中ではなにか外観以上のものが析出されるような気がしたのだ。
「どうしたの? 私なにかおかしなこと言った?」と彼女は訊いた。
「ううん」と私は言った。私は結局彼女に神社の地下の地獄について説明をした。なぜ初対面の相手にそんな話をする気になったのかはわからない。もしかすると、彼女にも一種の真空を感じたからなのかもしれない。
彼女は私の一通りの話を頷きながら聞いていた。「なんかわかるような気がするな」と彼女は言った。
「仏教徒なの?」と私は訊いてみた。
「まさか」と彼女は言った。彼女は真剣な顔をして胸元で十字を切った。それからくすくすと笑った。
「変な話だって思わなかった?」
「快適なものを不気味に感じるってことが? そんなことは思わないな」
「良かった」と私は言った。「ねえ、別に出て行ってほしいとか、そういうことを思ってるわけじゃないんだ。私だって立場は似たようなものなんだから」
「でもそのことにかえって罪悪感を覚える」
私は頷いた。
「ひょっとすると自分も他者にとってそうなのかもしれないと感じる?」
「そんなこと考えもしなかった」と私は力なく笑った。「私は結局自分のことしか考えてないんだと思う」
吸血鬼はしばらく黙って考え込んでいた。それから彼女はどこからかごく小さな木箱を取り出した。
「それはなに?」
彼女は質問には答えなかった。彼女は日傘から手を離した。それは地面にまっすぐに落ちた。その途端、彼女の身体からさらさらと砂のようなものが流れ出した。私は声をあげた。
彼女は両手で木箱を包んでいた。次第に手の周りに様々な色の光が集まってきた。だんだんそれは強くなり、眩い閃光になった。私はたまらず目を瞑った。
大きな音がして、瞼の向こうの光が弱まったのを感じた。おそるおそる目を開けると、日傘をさした吸血鬼が微笑んでいた。彼女の身体から流れ出ていた砂はもう止まっていた。彼女はこちらに向かって屈み込むと、手の平を差し出した。そこには先ほどの木箱が載っていた。見た目は先ほどとなにも変わったところがないように思えた。
「あげる」と彼女は言った。
私はそれを受け取った。私にも持ち運べる大きさと重さだった。それは微かな熱を帯びていた。
「これは?」と私は箱に顔を近づけてじっと見ながらもう一度訊いた。
「箱の中に地獄を入れたの」と彼女は微笑んで言った。「魔理沙の魔法を真似してみちゃった」
私はぎょっとして顔を箱から離した。「なんで?」
「うまく言えないけど」と彼女は言った。「持って帰って。自分の近くに置いておくんだよ」
私は渋々頷いた。
「開けたくなっちゃうかもしれないけど、絶対開かないから大丈夫」と言って彼女は満足げに笑い、立ち上がった。「またね」
「待って」と立ち去りかけた彼女に私は声をかけた。「あなたはなにをしにここに来たの?」
彼女は振り返った。それから桜のつぼみのうちの一つを片手で包み込んだ。彼女が手を開くと、その一輪だけが、通りのすべての桜を置き去りにして花開いた。呆気に取られた私を尻目に彼女は軽く手を振って帰っていった。
残された私は、地獄の入った箱を抱えてその場にしばらく佇んでいた。その場所だけがなにからも複製されていなかった。どことも、本当にどことも違っていた。
神社に戻ると、あうんは二人に分裂していた。角が二本。そのせいで彼女はまるで鬼のようだった。でもおそらく彼女は本質的に善い人だった。萃香がそうであるのと同じように。私にはそれがわかっていると思いたかった。自分の判断というものをもう一度信じてみたかった。
「お帰りなさい」と二人の狛犬が私に向かって言った。
「ただいま」と私は言った。
「お土産ですか?」とあうんは私の手元を見て訊いた。
「ちょっとね」
萃香は問題の焦点がどこにあるのかをもう少ししっかり知っていた。
「これは珍しいね」と彼女は木箱を片手で持ち上げて、下から覗き込むようにして見た。「携帯地獄だ」
「わかるの?」
「もちろん」と彼女は言った。「私はそこから来たんだよ」
「知らなかった」
「言ってなかったっけ?」
「どんなところ?」
萃香は唸って考えて、結局「まあ、酒は美味いよね」とだけ言った。
私は吸血鬼にもらった木箱を自分の家の中に置いた。これで暖房器具が二つになった。
春は深まり、これからは暖かくなるばかりだ。暖房はどんどん無用の長物となるだろう。でも、それで私の家はこれまでよりずっと私の家であるように思えた。
眠りにつく前、自分の部屋にある木箱を見ながら、地獄はその内部に対する苛烈な枷である以上に、その外部に対する福祉であるのかもしれないと私はある種の素直さをもって考えた。つまり地獄の外部にあることは、地獄から疎外されているということではないという風に。私はずいぶん安心した。
それは結局のところ、私がそれほど良い人間ではないからだろう。
何日か経つと霊夢が帰ってきた。あるいは萃香たちの言っていたように、彼女は近所に散歩にでも出かけていたような気安さで玄関をくぐった。室内の暑さに顔をしかめた彼女が強制的に地獄の温度を下げさせるまでほとんど時間はかからなかった。
かつての問題はあっけなく片づいてしまったが、それは既に問題ではなかった。だから、それがもう必要でなくなっても、私は吸血鬼にもらった木箱を捨てようとは思わなかった。
地獄って温かいんですね
針妙丸が日ごろから感じている漠然とした不安感や罪悪感を感じました
すぐ隣に地獄を感じることでそれらが薄まっていくというのも素敵でした
贖罪を果たせていない罪悪感、不可解な快適さに感じる居心地の悪さ、帰ってこない家主、
理解しきれない部分もありましたがなんていうかとにかく良いと感じました。
あと家主がいないところでしっかり者になる萃香とか優しげながらもどこか
怪しげな雰囲気を持ってるフランとかも良かったです。
次作も楽しみです