いっときの熱
八意永琳は月の顕微鏡から目を放して霧雨魔理沙に話しかけた。
「肺に黴が生えているわ」
「ああ、そうだろうと思ってたけど」
魔理沙は椅子から立ちあがって永琳を押しのけた。そうして顕微鏡を覗きこんだ。そこでは薄い硝子の上で茸の胞子がうごめいていた。
「先生、これが何か分かるか」
詠琳は何も言わなかった。魔理沙は別に返事を求めていなかった。そうして勝手に解説しはじめた。
「これはハイサビタケってやつの菌なんだな。それは名のとおり動物の肺に寄生する。正確には肺胞の細胞が好物でね。まあ、魔法の森に行く人間なら特に注意する茸なんだけど……なんでこんな素人のする失敗をーーー
「はい、はい」
「なんだよ」
「私が知りたいのは、それでこの先生は何をすればいいのかってことよ」
「そう、そうだったな」
魔理沙は悩ましそうに腕を組んだ。
「勿論この菌を殺す殺菌薬をわたしは作れる。問題は、そのうち初期症状の熱病で集中力が持たなくなるってことだ。繊細な作業になる、とてもじゃないがそんな状態で作れない」
「はあ」
「普通は常備薬を残しておくんだ、普通は」
「ああ、あなたは普通じゃなかったのね」
「困ったな」
「私はそうでもないけど」
詠琳はにやにやと笑った。
「な。頼むよ、先生。あんたはどんな薬でも作れるんだろう。わたしの肺が死んで息ができなくなるまえに薬をつくってくれ。いや、ください」
へりくだった表情で魔理沙は柏手を打った。しっかりと二回であった。
「分かった、任されてあげます」
「あんたは最高の医家だ」
「そうですとも。まあ三日で充分でしょう」
「恐れいったね」
「でも、あなた森を出たほうがいいわよ。あそこにはほかにも人体によくない菌がいるでしょう、どんな合併症が出るか分からない」
「それなら宛てがある」
魔理沙は振りかえって診察室を出ようと戸に手をかけた。
「薬は博麗神社に頼むよ」
霊夢と魔理沙は昔っから親しかった。それはいつごろからかもよく思いだせなかったけれども、とにかく今のように二人して縁側で茶を飲んだり、稀に些細なことで喧嘩をしていたのは確かだった。そうなると二人の距離は当然ながら歳を重ねるほどに縮まった。すると少なくとも互いの応対に無作法が増えた。そしてそれは失礼に当たる無作法ではなく友情が露出させる一般的な無遠慮であった。
だから魔理沙が菌を患って 「すこし置いてくれ」 と博麗神社に乗りこんできても、霊夢はいやな顔のひとつもしながら了承した。そうしていやな顔のひとつをしても、それは唐突な彼女の要求に対する通例の表情であって習慣であった。なので実際は心に顔筋が表すのと同じ不満があるわけではなかった。
「どこが悪いの」 霊夢が昼間っから布団を敷きながら言った。
「肺だよ」
「肺」
霊夢は飲みこむようにつぶやいた。
「それにしては健康そうね」
「これから悪くなるんだ」
敷かれた布団に胡座を組んだ魔理沙には実際になんの苦もなさそうだった。
「治す薬はなかったけど、抑える薬は残ってた。それを飲んだから、おまえが空気感染することはないはずだ。でも用心はしないとな。できるだけ、私に近づかないように」
「ねえ、もう昼よ。何か作るわ」
「おい聞けよ」
「そんなに元気で実際は大したこともないでしょう」
「治るんだから大したこともないと言えば事実だ」
「ほら」
霊夢は苦笑と皮肉っぽい愛嬌を混ぜて短い返事をした。それに魔理沙は反論した。
「いや、そうでもないんだ。確かに今は大丈夫だけど、おそらく夜くらいから高熱が出る」
魔理沙の言葉は本気なのか冗談なのか要領を得なかった。彼女としても実際に症状が出るまでは魔に疎い霊夢から見ると仮病のようなものだろうこともよく分かっていた。それを分かっていて説明しようともしなかった。あちらからすると言いわけがましく映るだけだからである。
「あんまり熱がひどかったら濡れた布でも顔にぶっつけておくわよ」
「頼むよ」
「うん」
そんな会話を交わしたあと、霊夢は昼を用意しにいった。そうして室に魔理沙だけが残された。
すると魔理沙は霊夢の前では隠していた不安を一気に表情へ表した。彼女は以前、何度もこの菌に感染したことがあった。そうして当然ながらそれに応じて熱病にうなされた。薬のない今回に限って熱が出る直前に感染が分かったのは、ひとえに自分の息が僅かながら黴くさいことに気がついたからであった。
熱病は魔理沙を消沈させるくらいにはつらいものであった。それを霊夢の前で口にしなかったのは、単に彼女の意地であった。
魔理沙は誰かに弱みを握られても平気でいられるほど剛胆な部位があった。しかしみずから弱みを見せるのと弱音を吐くのは平気でなかった。特に霊夢が相手になるとそうであった。それなのに彼女にだけは弱みと弱音を受けわたしてもよいと心の隅で思う自分はさらに平気でなかった。
この微妙な論理はつまり魔理沙の自尊心と繊細な部位に由来していた。彼女はこれから熱病に発症して霊夢に弱みを見せなければならないのが億劫であった。
「できたよう」
そんな魔理沙の自答を知るはずのない霊夢の呑気な合図が聞こえた。それに対して懸念の粒も漏らすことなく彼女は 「ああ」 と言って食卓へ向かった。
夜になった。風呂のあと布団にはいってすぐ、魔理沙は体内の調和を崩しはじめた菌の応答を感じた。それは微熱として表れて、次には息ぐるしさとして顔を見せた。彼女は 「なんで豆粒のようなやつに、こうもつらい思いをさせられるんだろう、わたしにはどうも分からない」 と悪態を念じた。
「霊ーーー
癖のように言いかけて口が止まった。子供が困ったときに親の名前を呼ぶようで恥ずかしかった。
「何」
不運にも声は霊夢に聞こえた。彼女はすぐに襖をすうっとひらけてきた。魔理沙は寝がえりを打って背を向けた。
「別に」
「別にじゃないわ、用があったんじゃない」
「なら気のちがいだ」
そのとき魔理沙は小さく咳きこんだ。予兆があれば我慢も効いたはずだったけれども、急な蠕動に体は素直に反応した。
「ほら」
霊夢は膝をついて、ずいっと魔理沙の顔を覗きこんだ。そうして彼女の髪を手で掻きわけた。
「熱があるの」
「まあ」
勿論そのうち発熱に気づかれるのは自明であった。しかしこうも早々と知られるのは予定していなかった。
魔理沙は霊夢の対応が恨めしくなった。それは敗者が勝者に慰めを施された場合の感傷によく似ていた。それでも神社に押しかけた身で不平を言うのはためらわれた。彼女はただ黙していた。
霊夢はその様子を深刻に解釈してしまった。
「悪いのね」
「そうでもないよ」
「何かできない」
「なあ」 とそこで霊夢をしりぞけようとして、魔理沙は思いとどまって 「布、濡れた布を」
「布ね、分かった」
霊夢は慌てて井戸に駆けた。そうして魔理沙の予想よりも早く戻ってきた。布だけでなくて水桶まで持ってきた。
搾った布が魔理沙の額に当てがわれた。ひんやりとした感触に彼女はほうっと息を吐いた。
「汗、拭こうか」
「いいよ、そこまでしなくっても」
「そのままだと寝づらいんじゃない」
「そうでもないって」
「駄目よ清潔にしておかないと」
と言って霊夢は換えとして持ってきていた布の一枚を手にした。そうして魔理沙を起きあがらせて、襦袢の上をはだけさせてから背中を拭きはじめた。
この献身的の態度に魔理沙はどうも弱らせられた。病気を患ったからと謂って、霊夢がこうも自分に優しくなるとは思いもしなかった。
霊夢は普段から魔理沙に冷たいわけでなかった。と謂って普段から多量の親切を与えるほどでもなかった。二人は近しい友人だったけれども、同時に何か距離があった。それは縦の距離でなくって横の距離であった。進む歩幅は同じでも、進む方向がちがうと謂ったふうであった。そうしてそれは二人に快い距離であった…… 「病気をしたからって、こんなふうにべたべたと優しくさわってくるなんて、おまえはそんなやつだったっけ」 と彼女は思考した。
そうして霊夢は朝までつきっきりで看病をしていた。魔理沙がうんうんと暑さでむずがると、すぐに布を取りかえたし汗もぬぐった。
それは転じて魔理沙が眠れない要因になった。自分のためにあれこれと気を回してくれるのはありがたかったけれども、そんなふうにじいっと横で座られていては瞼が落ちてくれなかった。しかし霊夢のほうはそれにまったく頓着しなかった。彼女はそれを熱の刺激に起因すると思っていたのであった。
これは霊夢の他人の感情に疎いところが災いしていた。それは自他が認める彼女の美点であり欠点であった。そうして彼女は自分のそれを欠点でもあると思いながらも同時に評価は美点のほうに傾いていた。それは彼女の職業的の業務に疎さが多大な益をもたらす場合に何度も遭遇したからであった。
「休んだほうがいいんじゃないか」
魔理沙は暗に 「一人にしてくれ」 と言った。
「大丈夫よ」
「でも伝染するかも」
「抑える薬は飲んだんでしょう」
「そうだけど確実はないんだ」
「大丈夫」
「なんでだ」
「勘よ」
「おまえの勘でもはずれる日はあるさ」
二人はそんな問答をしばらく押しつけあった。
それにしても霊夢がどうして急に親切になったのか魔理沙はよく分からなかったけれども、思いあたることはあった。
それも似たような場合で、魔理沙は以前にもこんなふうに神社の室を借りて寝こんだことがあった。そうして今のように霊夢の献身が発揮された。
そのとき魔理沙がさきほどより直接的の表現で 「一人にしてくれ」 と言うと、霊夢は反論するのであった。
「わたしがこうも尽くしているのに、どうしてあんたはそんなふうに言うのか」
霊夢は泣いた。普段は泣かない彼女の涙を見ると魔理沙のほうはどうしても折れなければならなかった。そうして献身のわけを問いあわせることもなく月日が流れて、いつか数多の彼女との美しい記憶の底に必要のない経験として封じてしまっていたのである。
それを覚えていれば魔理沙は発熱するのに神社に泊まったりはしなかったはずである。ただ今と以前では状況がちがっていた。彼女は歳を重ねた。そうして頭が回るようになった。知識も増えた。それで彼女は不意にいつかに読んだ本にこんな台詞があったのを回想した。
如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時として涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知っている筈だ。君はあれを虚偽と思うか」
霊夢は下賤でなかった。無教養でもそれを補える賢さがあった。と魔理沙は思っていた。しかし至純至精の涙を持っているかは知らなかった。
魔理沙は霊夢の並はずれたところを好いていた。またきらってもいた。妬んでもいた。また哀れんでもいた。そうして彼女の“並”を見ると怖れた。
とにかく魔理沙は霊夢に万葉の心を持つなと言わないまでも、ほかに何か持っていてほしかった。そうしてそれは冷たく、しかし矛盾してやさしく、至純至精の涙などと謂う人間的の観念と縁どおいものでなければならなかった。
それは魔理沙だけでなく霊夢を好いている者が思う巫女の理想像であった。それを強制したりはしないけれども、そうあってほしかったのである。
ただ今の霊夢の献身が至純至精の感情であったなら、魔理沙はすこし迷惑ながら嬉しくもあった。それが熱烈なまでに自分へ向けられる機会は、それこそ桜の命よりも儚いはずなのである。
そんなふうに精神的の歓喜を得たとしても別に肉体的の余裕が増えるわけではなかった。初日と同じように二日の夜までも霊夢が世話を焼きすぎるので魔理沙はよく眠れなかった。二人は揃って隈を描いた。
「限界だな」
「何が」
「限界なんだ」
霊夢を無視して同じことを言ってから、魔理沙はこんなふうに頼んだ。
「水が飲みたいな」
「水ね、分かった」
疲れているにも関わらず霊夢の動きは機敏であった。すうっと戸をひらけて、そうしてとじて、魔理沙を煩わせないようにばたばたと大きな音をださずに急いでいった。
また魔理沙も急に機敏になった。ばさりと布団を跳ねっとばして、焦りぎみで縁側に駆けていった。そこに置いてあった箒に乗って、一目散に飛んでいった。逃げる宛てもすでに考えておいたので彼女の飛行には迷いがなかった。竹林を掻きわけて藤原妹紅の住む小屋へと辿りついた。
そこを選んだのにも無論のこと理由があった。
一に永遠亭が近いこと。二に妹紅とそれなりの交友があること。三に彼女が唐突に夜中に飛びこんでいっても怒りそうにない相手であったこと。魔理沙は特に三の理由を重んじていた。それが決心なった。
確かに妹紅はその程度で怒りはしなかった。それは彼女が柔和だからでなくって、ただ神経がにぶいからであった。それは長く生きすぎた人間だった者に特有の生理であった。身を刺す永遠の針の動きも鋭覚が麻痺していれば耐えられるからであった。
「火を入れるよ」
妹紅が囲炉裏を探りながら言った。
「今年はどうにも寒いな」
「それもだけど、患い者だろう。暖かくしないと」
「どうして知ってるんだ」
「鈴仙ちゃんが言ってた」
「ああ、鈴仙ちゃん……」
ふたりはしばらく黙っていた。ただ火に当たっていた。
「聞かないのか」
「何が」
「来た理由だ」
「聞かれたいの」
「どうだろうな」
「はっきりとしなさいよ」
「まあ話したいよ」
「そうだろうね、悩ましい顔をしてるよ」
「そうなのか」
「当ててやろうか」
「おまえが天眼通とは知らなかった」
妹紅は胡座を組んで瞑想しはじめた。
「見える、々える。おまえが来たわけが見える」
「からかってるな」
「霊夢だ。どうかね当たったかね」 と妹紅は仙人らしい口調で髭を撫でる仕草をした。
魔理沙はぴくりと眉を動かした。それが妹紅にはよく見えた。彼女はけらけらと笑いだした。
「ふん」
「むしろ誰でもそう言うだろうね」
「どうして」
「おまえが霊夢に執着するからだろう」
「みんなしてるじゃないか」
「そうかもしれないが恥ずかしいから表面にはださないだろう」
「わたしもそうさ」
「そうは見えないがね」
「おまえはどうなんだ」
「私か。私はただの友達だ、霊夢の」 そして、つけたしに 「おまえもな」
そんな会話を入りに魔理沙はここへ来たわけを口にしていった。彼女の口はよく回った。それになんの苦もなかった。妹紅が聞きに徹してくれていたので彼女は石に向かって話している気さえした。
魔理沙が言いおえると妹紅がようやく口をひらいた。
「ああ看病。羨ましいじゃない、私もそんな相手が欲しいね。病気に縁はないんだけど」
「実際に四六時中、病気の日に横に延々と座られてみろ。疲れるぜ」
「フフフフ、その実際が永遠にこないんだな」
「ふん」
「しかしね、それは限定的なのかな」
魔理沙は妹紅の言葉の意味を察せなかった。教えるように彼女は句をたした。
「霊夢の献身ってやつは、はたしておまえにだけ与えられるものかな。おまえだけが味わえるものかな」
魔理沙は 「当たりまえだ」 と即答したかった。しかしできなかった。それはあまりに傲慢であった。確証もなかった 「もし誰か病身のやつが現れたら霊夢はわたしにしたように非常の看病をするのかな。それはあいつにとってはすばらしいことだ。しかしわたしには胸の痛むことだ。屈辱的のことだ。その誰かがわたしの親しい相手でもだ」 彼女はそう考えた。
妹紅は愉快そうに聞いた。
「どうかね」
「いいか。わたしが、霊夢の、一番だ」
そのとき 「妹紅、いるの」 と戸を叩く者があった。霊夢の声であった。ふたりは急に慌てはじめた。
「おい、隠してくれ」
「どこに」
「分からないけど、どこかだ」
「えい、その棚のうしろに行くんだ」
妹紅が指を向けた竹製の棚のうしろへ魔理沙は隠れた。それから目だつ髪を棚に置かれていた赤いリボンで括っておいた。
「行くよ、今」
妹紅が歩いていって戸を開けた。近いのでふたりの会話が魔理沙にはよく聞こえた。
「こんな夜中にどうしたの、霊夢」
「魔理沙を探してるの、いるでしょう」
「いないよ、どうしてそう思うんだ」
「勘よ」
「勘か、曖昧だね」
「わたしの勘なら別よ」
「とにかく、それはまちがいだ。ここには一瞬も来てないよ」
「本当なの」
「本当よ、信じて。友達でしょう」
妹紅は息をするように嘘を言えた。そこには蟻の通る隙もなかった。
「分かった、信じる」
霊夢がそう言うと魔理沙は内心で安堵した。しかし、そんなふうに平静を得たのも一刹那だけであった。それは妹紅のこんな言葉で打ちくだかれた。
「まあ、あがりなよ。今日は寒いでしょう」
畜ッ生、何を考えていやがるんだ。と言いかけて、魔理沙はなんとかこらえきった。
「でも探さないと」
「一人でしらみっつぶしに探そうっての、無理々々。それに、こんな寒い日に飛んでたら風邪を引くよ。人間の体は脆いからね」
そんなふうにして妹紅は何かと霊夢を引きとめて、そうして小屋に連れこんだ。魔理沙の耳にふたりが囲炉裏の前に座りこむ音が聞こえた。
魔理沙は妹紅の魂胆が測りかねた。彼女は 「ここには一瞬も来てないよ」 と言った。それは虚偽であった。実際は霊夢の尋ね人はここに来ていたし今もいた。それが発覚すれば匿っている彼女にとっても面倒になるのは自明であった。それでも連れこんだ彼女の思案を要約すると、つまりはこうであった 「おまえたちは仲がよいくせに、互いに意地が強いから、こんなふうにこじれるのだ。だから片方からでも腹を割って話さなければ何も進まないのだ。しかし絶対に腹を割らない、なぜなら意地が強いからだ。そうしてその意地は互いに正面に立たない場合にだけ剥がれるのだ。私がおまえたちのあいだに立って黒いカアテンになってやるから、すこしは素直に腹を白状させてみなさい」 これは彼女の節介であった。また好奇心であった。またおもしろ半分であった。様々な理由を混ぜあいながら、彼女は自分を邪魔な影像にして立ちふさがって、二人を向きあわせようと画策していたのである……。
嘘らしい沈黙の風がふたりのあいだを流れたあとでも、囲炉裏の火は室を淡々と暖めつづけた。暖かさはふたりの体を柔らかくした。なぜか絶えない微妙な緊張を解きほぐした。
「実はね、魔理沙は来たんだよ」
妹紅はさきほどの自分の言葉に容易に逆らった。
「来てないって言ったじゃない」
「あれは嘘」
「どうして」
「おまえとあいつ、どちらの味方をするかすぐには測りかねたからね」
「今はどちらなの」
「どちらだと思う」
「分からない」
「魔理沙だよ、それはどうしてか。簡単だよ、あいつのほうが親しいからだ」
それも嘘であった。霊夢を連れこんだ刹那から妹紅は魔理沙の味方ではなくなっていた。しかし敵でもなかった。またなんでもよかった。彼女は二人のあいだに立ちながらにして傍観者であり、当事者としてすぐに事態を好転させることも悪化させることも容易であった。今はその中間を択しただけであった。
「魔理沙は何か言ってた」
「まあ言ってたね」
「なんて言ったの」
「おまえがーーー
妹紅は 「鬱陶しいって」 と無神経に言ってしまいそうになった。それは少なからぬ真実であった。しかし歪曲の感もあった。魔理沙はそこまで直接的の非難をしていなかった。そうして真実と嘘が混濁された発言は弁解しづらいのでまさに言わぬが仏の掟をやぶる寸前であった。彼女は自分の神経から言うべき葉を慎重に選んだ。それでいくつかの脈のある葉から一つをつかみとった。脈はそれなりに長かった。
「魔理沙は一人になりたかったんだって。なぜって、おまえの節介はそりゃ嬉しかったけど、どうも何か。なんだ……それに底しれないのを感じて心臓が驚いたんだよ、病気が悪化するかもしれなかったんだよ」
「ふん、どう言いたいの」
「つまり、おまえは看病をしたけど別に医家ってわけじゃないだろう。そうして魔理沙も医家じゃないけど、おまえよりは詳しいだろう。それでおまえの療治がまちがっていることが分かって離れることにしたんだよ」
「まちがってるなら言えばよかったのに、言ってくれたら直したわ」
「どうもそうとは思えなかったから離れたんだろう」
「どうして思えなかったのかな」
「それはおまえ“底しれないの”の加減だ」
二人の会話はずれた背骨をなんとか噛みあわせようとして、そのうえにそれで生じる痛みのほうは錯誤して抑えようとする繊細な按摩であった。魔理沙はむずがる精神を抑えながらただ棚のうしろでじいっとしていた。
「きらわれたかな」
霊夢がぽつりと言った。魔理沙は自分の好意に対する信頼が彼女にあまりなかった事実に少なからぬ不服を思った。
「フフフフ、おまえは馬鹿ね」
「何が」
「あいつがおまえをきらうなんて、おまえがあいつをきらうくらい、ありえないことじゃないか」
魔理沙はぎくりとした。妹紅が軽く言った言葉は彼女に重い負荷を与えた。彼女は霊夢の好意が自分にどれほど向けられているのか知らなかった。測りかねた。知るのは失望への巡礼かもしれなかった。
霊夢の返事がわるければ魔理沙は深刻な打撃をこうむらなければならなかった。彼女はつい耳を塞いだ。それでもその手にはほとんど力がはいっていなかった。
「うん」
霊夢が言った。
「ク、ク、ク、ク。グ、グ」 と妹紅が顔を下に向けて、ついはしたない含みわらいをした。彼女は魔理沙の顔を空想した。その顔は得意な調子だった。そうして頬が赤くて、現実の本人と同じように目の下にはひどい隈があった。
「何が笑えるの」
「笑える」
「からかってるの」
「まあね」
「からかわれるのは好きじゃないわ」
「ごめんよ。しかし、私だって、以外と純情よ。そっか、まあ、よかったねえ」
それから妹紅は魔理沙の言っていたことを、できるだけ霊夢の感情を傷つけないように白状した。彼女は稀に悲しそうな表情をしながらも一応は納得したふうに頷いた。
「とにかく看病はいいけど世話を焼きすぎるのも問題だ。おまえだって風邪のときに、じいっと誰かが傍にいるより一人のほうが気も楽だろう。まあ風邪ってよく分からないけど、なんでもそうらしいじゃないか」
「そうね確かにそうかもしれない」
「納得したなら帰った、々った。そのうち魔理沙だって戻ってくるよ。すこし寒いから火に当たりにいっただけよ、私の家にね」
「あいつ調子がわるいのに本当に探さなくっていいかな」
「丸く収まるって」
霊夢が帰ったあと魔理沙がのそのそと棚のうしろから移動して、囲炉裏の傍に座りこんだ。炎が揺れていた。柔らかい熱に手をかざした。
「気分は」
「うん、まあ」
魔理沙の感傷は複雑であった。それは彼女のほうでの“底しれないの”であった。嬉しくもあったし、残念な気もした。そう考える自分を勝手だともなじった。
「それは、あいつに、好かれたほうが、いいだろうけど……友達なんだし」
「どうした素直に喜びなよ」
「複雑なんだ」
「ちがうね繊細なだけだ、実際は複雑でなくって直線だ」
「わたしはあいつを尊敬しているんだよ」
「それもいいわ。でも信奉はするべきじゃない」
「してない」
「なら怖れてるんだ」
「それは、そうかもしれない」
「なあ。霊夢のところに帰って、もう寝たほうがいいんじゃないの」
「そうだな、そうするよ……待て、教えてくれないか。至純至精の感情って何か分かるか」
「恋よ」
「恋!、!、?、?」
「ああ恥ずかし」
「おまえ、言ったなあ……」
それから無事に薬が神社に届けられて病気が治ると霊夢の態度も以前に戻った。と謂うよりまったく忘れてしまったような態度でさえあった。それは別に冷淡になったわけではないけれども、相対して魔理沙はすこしのあいだ冷淡に感じないわけにはいかなかった。それに腹が立って、彼女はこう考えた 「もしおまえが病気をしたら今度はわたしが眠れないくらいの看病をしてやる。そうすればおまえの献身の正体も分かるかもしれないし、それこそまさにおまえの心中の核への通路でもあるのだ。そうしておまえの万葉の正体もいつかはついに見つけてやるのだ」 ……。
いっときの熱 終わり
八意永琳は月の顕微鏡から目を放して霧雨魔理沙に話しかけた。
「肺に黴が生えているわ」
「ああ、そうだろうと思ってたけど」
魔理沙は椅子から立ちあがって永琳を押しのけた。そうして顕微鏡を覗きこんだ。そこでは薄い硝子の上で茸の胞子がうごめいていた。
「先生、これが何か分かるか」
詠琳は何も言わなかった。魔理沙は別に返事を求めていなかった。そうして勝手に解説しはじめた。
「これはハイサビタケってやつの菌なんだな。それは名のとおり動物の肺に寄生する。正確には肺胞の細胞が好物でね。まあ、魔法の森に行く人間なら特に注意する茸なんだけど……なんでこんな素人のする失敗をーーー
「はい、はい」
「なんだよ」
「私が知りたいのは、それでこの先生は何をすればいいのかってことよ」
「そう、そうだったな」
魔理沙は悩ましそうに腕を組んだ。
「勿論この菌を殺す殺菌薬をわたしは作れる。問題は、そのうち初期症状の熱病で集中力が持たなくなるってことだ。繊細な作業になる、とてもじゃないがそんな状態で作れない」
「はあ」
「普通は常備薬を残しておくんだ、普通は」
「ああ、あなたは普通じゃなかったのね」
「困ったな」
「私はそうでもないけど」
詠琳はにやにやと笑った。
「な。頼むよ、先生。あんたはどんな薬でも作れるんだろう。わたしの肺が死んで息ができなくなるまえに薬をつくってくれ。いや、ください」
へりくだった表情で魔理沙は柏手を打った。しっかりと二回であった。
「分かった、任されてあげます」
「あんたは最高の医家だ」
「そうですとも。まあ三日で充分でしょう」
「恐れいったね」
「でも、あなた森を出たほうがいいわよ。あそこにはほかにも人体によくない菌がいるでしょう、どんな合併症が出るか分からない」
「それなら宛てがある」
魔理沙は振りかえって診察室を出ようと戸に手をかけた。
「薬は博麗神社に頼むよ」
霊夢と魔理沙は昔っから親しかった。それはいつごろからかもよく思いだせなかったけれども、とにかく今のように二人して縁側で茶を飲んだり、稀に些細なことで喧嘩をしていたのは確かだった。そうなると二人の距離は当然ながら歳を重ねるほどに縮まった。すると少なくとも互いの応対に無作法が増えた。そしてそれは失礼に当たる無作法ではなく友情が露出させる一般的な無遠慮であった。
だから魔理沙が菌を患って 「すこし置いてくれ」 と博麗神社に乗りこんできても、霊夢はいやな顔のひとつもしながら了承した。そうしていやな顔のひとつをしても、それは唐突な彼女の要求に対する通例の表情であって習慣であった。なので実際は心に顔筋が表すのと同じ不満があるわけではなかった。
「どこが悪いの」 霊夢が昼間っから布団を敷きながら言った。
「肺だよ」
「肺」
霊夢は飲みこむようにつぶやいた。
「それにしては健康そうね」
「これから悪くなるんだ」
敷かれた布団に胡座を組んだ魔理沙には実際になんの苦もなさそうだった。
「治す薬はなかったけど、抑える薬は残ってた。それを飲んだから、おまえが空気感染することはないはずだ。でも用心はしないとな。できるだけ、私に近づかないように」
「ねえ、もう昼よ。何か作るわ」
「おい聞けよ」
「そんなに元気で実際は大したこともないでしょう」
「治るんだから大したこともないと言えば事実だ」
「ほら」
霊夢は苦笑と皮肉っぽい愛嬌を混ぜて短い返事をした。それに魔理沙は反論した。
「いや、そうでもないんだ。確かに今は大丈夫だけど、おそらく夜くらいから高熱が出る」
魔理沙の言葉は本気なのか冗談なのか要領を得なかった。彼女としても実際に症状が出るまでは魔に疎い霊夢から見ると仮病のようなものだろうこともよく分かっていた。それを分かっていて説明しようともしなかった。あちらからすると言いわけがましく映るだけだからである。
「あんまり熱がひどかったら濡れた布でも顔にぶっつけておくわよ」
「頼むよ」
「うん」
そんな会話を交わしたあと、霊夢は昼を用意しにいった。そうして室に魔理沙だけが残された。
すると魔理沙は霊夢の前では隠していた不安を一気に表情へ表した。彼女は以前、何度もこの菌に感染したことがあった。そうして当然ながらそれに応じて熱病にうなされた。薬のない今回に限って熱が出る直前に感染が分かったのは、ひとえに自分の息が僅かながら黴くさいことに気がついたからであった。
熱病は魔理沙を消沈させるくらいにはつらいものであった。それを霊夢の前で口にしなかったのは、単に彼女の意地であった。
魔理沙は誰かに弱みを握られても平気でいられるほど剛胆な部位があった。しかしみずから弱みを見せるのと弱音を吐くのは平気でなかった。特に霊夢が相手になるとそうであった。それなのに彼女にだけは弱みと弱音を受けわたしてもよいと心の隅で思う自分はさらに平気でなかった。
この微妙な論理はつまり魔理沙の自尊心と繊細な部位に由来していた。彼女はこれから熱病に発症して霊夢に弱みを見せなければならないのが億劫であった。
「できたよう」
そんな魔理沙の自答を知るはずのない霊夢の呑気な合図が聞こえた。それに対して懸念の粒も漏らすことなく彼女は 「ああ」 と言って食卓へ向かった。
夜になった。風呂のあと布団にはいってすぐ、魔理沙は体内の調和を崩しはじめた菌の応答を感じた。それは微熱として表れて、次には息ぐるしさとして顔を見せた。彼女は 「なんで豆粒のようなやつに、こうもつらい思いをさせられるんだろう、わたしにはどうも分からない」 と悪態を念じた。
「霊ーーー
癖のように言いかけて口が止まった。子供が困ったときに親の名前を呼ぶようで恥ずかしかった。
「何」
不運にも声は霊夢に聞こえた。彼女はすぐに襖をすうっとひらけてきた。魔理沙は寝がえりを打って背を向けた。
「別に」
「別にじゃないわ、用があったんじゃない」
「なら気のちがいだ」
そのとき魔理沙は小さく咳きこんだ。予兆があれば我慢も効いたはずだったけれども、急な蠕動に体は素直に反応した。
「ほら」
霊夢は膝をついて、ずいっと魔理沙の顔を覗きこんだ。そうして彼女の髪を手で掻きわけた。
「熱があるの」
「まあ」
勿論そのうち発熱に気づかれるのは自明であった。しかしこうも早々と知られるのは予定していなかった。
魔理沙は霊夢の対応が恨めしくなった。それは敗者が勝者に慰めを施された場合の感傷によく似ていた。それでも神社に押しかけた身で不平を言うのはためらわれた。彼女はただ黙していた。
霊夢はその様子を深刻に解釈してしまった。
「悪いのね」
「そうでもないよ」
「何かできない」
「なあ」 とそこで霊夢をしりぞけようとして、魔理沙は思いとどまって 「布、濡れた布を」
「布ね、分かった」
霊夢は慌てて井戸に駆けた。そうして魔理沙の予想よりも早く戻ってきた。布だけでなくて水桶まで持ってきた。
搾った布が魔理沙の額に当てがわれた。ひんやりとした感触に彼女はほうっと息を吐いた。
「汗、拭こうか」
「いいよ、そこまでしなくっても」
「そのままだと寝づらいんじゃない」
「そうでもないって」
「駄目よ清潔にしておかないと」
と言って霊夢は換えとして持ってきていた布の一枚を手にした。そうして魔理沙を起きあがらせて、襦袢の上をはだけさせてから背中を拭きはじめた。
この献身的の態度に魔理沙はどうも弱らせられた。病気を患ったからと謂って、霊夢がこうも自分に優しくなるとは思いもしなかった。
霊夢は普段から魔理沙に冷たいわけでなかった。と謂って普段から多量の親切を与えるほどでもなかった。二人は近しい友人だったけれども、同時に何か距離があった。それは縦の距離でなくって横の距離であった。進む歩幅は同じでも、進む方向がちがうと謂ったふうであった。そうしてそれは二人に快い距離であった…… 「病気をしたからって、こんなふうにべたべたと優しくさわってくるなんて、おまえはそんなやつだったっけ」 と彼女は思考した。
そうして霊夢は朝までつきっきりで看病をしていた。魔理沙がうんうんと暑さでむずがると、すぐに布を取りかえたし汗もぬぐった。
それは転じて魔理沙が眠れない要因になった。自分のためにあれこれと気を回してくれるのはありがたかったけれども、そんなふうにじいっと横で座られていては瞼が落ちてくれなかった。しかし霊夢のほうはそれにまったく頓着しなかった。彼女はそれを熱の刺激に起因すると思っていたのであった。
これは霊夢の他人の感情に疎いところが災いしていた。それは自他が認める彼女の美点であり欠点であった。そうして彼女は自分のそれを欠点でもあると思いながらも同時に評価は美点のほうに傾いていた。それは彼女の職業的の業務に疎さが多大な益をもたらす場合に何度も遭遇したからであった。
「休んだほうがいいんじゃないか」
魔理沙は暗に 「一人にしてくれ」 と言った。
「大丈夫よ」
「でも伝染するかも」
「抑える薬は飲んだんでしょう」
「そうだけど確実はないんだ」
「大丈夫」
「なんでだ」
「勘よ」
「おまえの勘でもはずれる日はあるさ」
二人はそんな問答をしばらく押しつけあった。
それにしても霊夢がどうして急に親切になったのか魔理沙はよく分からなかったけれども、思いあたることはあった。
それも似たような場合で、魔理沙は以前にもこんなふうに神社の室を借りて寝こんだことがあった。そうして今のように霊夢の献身が発揮された。
そのとき魔理沙がさきほどより直接的の表現で 「一人にしてくれ」 と言うと、霊夢は反論するのであった。
「わたしがこうも尽くしているのに、どうしてあんたはそんなふうに言うのか」
霊夢は泣いた。普段は泣かない彼女の涙を見ると魔理沙のほうはどうしても折れなければならなかった。そうして献身のわけを問いあわせることもなく月日が流れて、いつか数多の彼女との美しい記憶の底に必要のない経験として封じてしまっていたのである。
それを覚えていれば魔理沙は発熱するのに神社に泊まったりはしなかったはずである。ただ今と以前では状況がちがっていた。彼女は歳を重ねた。そうして頭が回るようになった。知識も増えた。それで彼女は不意にいつかに読んだ本にこんな台詞があったのを回想した。
如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教養であろうとも、時として涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知っている筈だ。君はあれを虚偽と思うか」
霊夢は下賤でなかった。無教養でもそれを補える賢さがあった。と魔理沙は思っていた。しかし至純至精の涙を持っているかは知らなかった。
魔理沙は霊夢の並はずれたところを好いていた。またきらってもいた。妬んでもいた。また哀れんでもいた。そうして彼女の“並”を見ると怖れた。
とにかく魔理沙は霊夢に万葉の心を持つなと言わないまでも、ほかに何か持っていてほしかった。そうしてそれは冷たく、しかし矛盾してやさしく、至純至精の涙などと謂う人間的の観念と縁どおいものでなければならなかった。
それは魔理沙だけでなく霊夢を好いている者が思う巫女の理想像であった。それを強制したりはしないけれども、そうあってほしかったのである。
ただ今の霊夢の献身が至純至精の感情であったなら、魔理沙はすこし迷惑ながら嬉しくもあった。それが熱烈なまでに自分へ向けられる機会は、それこそ桜の命よりも儚いはずなのである。
そんなふうに精神的の歓喜を得たとしても別に肉体的の余裕が増えるわけではなかった。初日と同じように二日の夜までも霊夢が世話を焼きすぎるので魔理沙はよく眠れなかった。二人は揃って隈を描いた。
「限界だな」
「何が」
「限界なんだ」
霊夢を無視して同じことを言ってから、魔理沙はこんなふうに頼んだ。
「水が飲みたいな」
「水ね、分かった」
疲れているにも関わらず霊夢の動きは機敏であった。すうっと戸をひらけて、そうしてとじて、魔理沙を煩わせないようにばたばたと大きな音をださずに急いでいった。
また魔理沙も急に機敏になった。ばさりと布団を跳ねっとばして、焦りぎみで縁側に駆けていった。そこに置いてあった箒に乗って、一目散に飛んでいった。逃げる宛てもすでに考えておいたので彼女の飛行には迷いがなかった。竹林を掻きわけて藤原妹紅の住む小屋へと辿りついた。
そこを選んだのにも無論のこと理由があった。
一に永遠亭が近いこと。二に妹紅とそれなりの交友があること。三に彼女が唐突に夜中に飛びこんでいっても怒りそうにない相手であったこと。魔理沙は特に三の理由を重んじていた。それが決心なった。
確かに妹紅はその程度で怒りはしなかった。それは彼女が柔和だからでなくって、ただ神経がにぶいからであった。それは長く生きすぎた人間だった者に特有の生理であった。身を刺す永遠の針の動きも鋭覚が麻痺していれば耐えられるからであった。
「火を入れるよ」
妹紅が囲炉裏を探りながら言った。
「今年はどうにも寒いな」
「それもだけど、患い者だろう。暖かくしないと」
「どうして知ってるんだ」
「鈴仙ちゃんが言ってた」
「ああ、鈴仙ちゃん……」
ふたりはしばらく黙っていた。ただ火に当たっていた。
「聞かないのか」
「何が」
「来た理由だ」
「聞かれたいの」
「どうだろうな」
「はっきりとしなさいよ」
「まあ話したいよ」
「そうだろうね、悩ましい顔をしてるよ」
「そうなのか」
「当ててやろうか」
「おまえが天眼通とは知らなかった」
妹紅は胡座を組んで瞑想しはじめた。
「見える、々える。おまえが来たわけが見える」
「からかってるな」
「霊夢だ。どうかね当たったかね」 と妹紅は仙人らしい口調で髭を撫でる仕草をした。
魔理沙はぴくりと眉を動かした。それが妹紅にはよく見えた。彼女はけらけらと笑いだした。
「ふん」
「むしろ誰でもそう言うだろうね」
「どうして」
「おまえが霊夢に執着するからだろう」
「みんなしてるじゃないか」
「そうかもしれないが恥ずかしいから表面にはださないだろう」
「わたしもそうさ」
「そうは見えないがね」
「おまえはどうなんだ」
「私か。私はただの友達だ、霊夢の」 そして、つけたしに 「おまえもな」
そんな会話を入りに魔理沙はここへ来たわけを口にしていった。彼女の口はよく回った。それになんの苦もなかった。妹紅が聞きに徹してくれていたので彼女は石に向かって話している気さえした。
魔理沙が言いおえると妹紅がようやく口をひらいた。
「ああ看病。羨ましいじゃない、私もそんな相手が欲しいね。病気に縁はないんだけど」
「実際に四六時中、病気の日に横に延々と座られてみろ。疲れるぜ」
「フフフフ、その実際が永遠にこないんだな」
「ふん」
「しかしね、それは限定的なのかな」
魔理沙は妹紅の言葉の意味を察せなかった。教えるように彼女は句をたした。
「霊夢の献身ってやつは、はたしておまえにだけ与えられるものかな。おまえだけが味わえるものかな」
魔理沙は 「当たりまえだ」 と即答したかった。しかしできなかった。それはあまりに傲慢であった。確証もなかった 「もし誰か病身のやつが現れたら霊夢はわたしにしたように非常の看病をするのかな。それはあいつにとってはすばらしいことだ。しかしわたしには胸の痛むことだ。屈辱的のことだ。その誰かがわたしの親しい相手でもだ」 彼女はそう考えた。
妹紅は愉快そうに聞いた。
「どうかね」
「いいか。わたしが、霊夢の、一番だ」
そのとき 「妹紅、いるの」 と戸を叩く者があった。霊夢の声であった。ふたりは急に慌てはじめた。
「おい、隠してくれ」
「どこに」
「分からないけど、どこかだ」
「えい、その棚のうしろに行くんだ」
妹紅が指を向けた竹製の棚のうしろへ魔理沙は隠れた。それから目だつ髪を棚に置かれていた赤いリボンで括っておいた。
「行くよ、今」
妹紅が歩いていって戸を開けた。近いのでふたりの会話が魔理沙にはよく聞こえた。
「こんな夜中にどうしたの、霊夢」
「魔理沙を探してるの、いるでしょう」
「いないよ、どうしてそう思うんだ」
「勘よ」
「勘か、曖昧だね」
「わたしの勘なら別よ」
「とにかく、それはまちがいだ。ここには一瞬も来てないよ」
「本当なの」
「本当よ、信じて。友達でしょう」
妹紅は息をするように嘘を言えた。そこには蟻の通る隙もなかった。
「分かった、信じる」
霊夢がそう言うと魔理沙は内心で安堵した。しかし、そんなふうに平静を得たのも一刹那だけであった。それは妹紅のこんな言葉で打ちくだかれた。
「まあ、あがりなよ。今日は寒いでしょう」
畜ッ生、何を考えていやがるんだ。と言いかけて、魔理沙はなんとかこらえきった。
「でも探さないと」
「一人でしらみっつぶしに探そうっての、無理々々。それに、こんな寒い日に飛んでたら風邪を引くよ。人間の体は脆いからね」
そんなふうにして妹紅は何かと霊夢を引きとめて、そうして小屋に連れこんだ。魔理沙の耳にふたりが囲炉裏の前に座りこむ音が聞こえた。
魔理沙は妹紅の魂胆が測りかねた。彼女は 「ここには一瞬も来てないよ」 と言った。それは虚偽であった。実際は霊夢の尋ね人はここに来ていたし今もいた。それが発覚すれば匿っている彼女にとっても面倒になるのは自明であった。それでも連れこんだ彼女の思案を要約すると、つまりはこうであった 「おまえたちは仲がよいくせに、互いに意地が強いから、こんなふうにこじれるのだ。だから片方からでも腹を割って話さなければ何も進まないのだ。しかし絶対に腹を割らない、なぜなら意地が強いからだ。そうしてその意地は互いに正面に立たない場合にだけ剥がれるのだ。私がおまえたちのあいだに立って黒いカアテンになってやるから、すこしは素直に腹を白状させてみなさい」 これは彼女の節介であった。また好奇心であった。またおもしろ半分であった。様々な理由を混ぜあいながら、彼女は自分を邪魔な影像にして立ちふさがって、二人を向きあわせようと画策していたのである……。
嘘らしい沈黙の風がふたりのあいだを流れたあとでも、囲炉裏の火は室を淡々と暖めつづけた。暖かさはふたりの体を柔らかくした。なぜか絶えない微妙な緊張を解きほぐした。
「実はね、魔理沙は来たんだよ」
妹紅はさきほどの自分の言葉に容易に逆らった。
「来てないって言ったじゃない」
「あれは嘘」
「どうして」
「おまえとあいつ、どちらの味方をするかすぐには測りかねたからね」
「今はどちらなの」
「どちらだと思う」
「分からない」
「魔理沙だよ、それはどうしてか。簡単だよ、あいつのほうが親しいからだ」
それも嘘であった。霊夢を連れこんだ刹那から妹紅は魔理沙の味方ではなくなっていた。しかし敵でもなかった。またなんでもよかった。彼女は二人のあいだに立ちながらにして傍観者であり、当事者としてすぐに事態を好転させることも悪化させることも容易であった。今はその中間を択しただけであった。
「魔理沙は何か言ってた」
「まあ言ってたね」
「なんて言ったの」
「おまえがーーー
妹紅は 「鬱陶しいって」 と無神経に言ってしまいそうになった。それは少なからぬ真実であった。しかし歪曲の感もあった。魔理沙はそこまで直接的の非難をしていなかった。そうして真実と嘘が混濁された発言は弁解しづらいのでまさに言わぬが仏の掟をやぶる寸前であった。彼女は自分の神経から言うべき葉を慎重に選んだ。それでいくつかの脈のある葉から一つをつかみとった。脈はそれなりに長かった。
「魔理沙は一人になりたかったんだって。なぜって、おまえの節介はそりゃ嬉しかったけど、どうも何か。なんだ……それに底しれないのを感じて心臓が驚いたんだよ、病気が悪化するかもしれなかったんだよ」
「ふん、どう言いたいの」
「つまり、おまえは看病をしたけど別に医家ってわけじゃないだろう。そうして魔理沙も医家じゃないけど、おまえよりは詳しいだろう。それでおまえの療治がまちがっていることが分かって離れることにしたんだよ」
「まちがってるなら言えばよかったのに、言ってくれたら直したわ」
「どうもそうとは思えなかったから離れたんだろう」
「どうして思えなかったのかな」
「それはおまえ“底しれないの”の加減だ」
二人の会話はずれた背骨をなんとか噛みあわせようとして、そのうえにそれで生じる痛みのほうは錯誤して抑えようとする繊細な按摩であった。魔理沙はむずがる精神を抑えながらただ棚のうしろでじいっとしていた。
「きらわれたかな」
霊夢がぽつりと言った。魔理沙は自分の好意に対する信頼が彼女にあまりなかった事実に少なからぬ不服を思った。
「フフフフ、おまえは馬鹿ね」
「何が」
「あいつがおまえをきらうなんて、おまえがあいつをきらうくらい、ありえないことじゃないか」
魔理沙はぎくりとした。妹紅が軽く言った言葉は彼女に重い負荷を与えた。彼女は霊夢の好意が自分にどれほど向けられているのか知らなかった。測りかねた。知るのは失望への巡礼かもしれなかった。
霊夢の返事がわるければ魔理沙は深刻な打撃をこうむらなければならなかった。彼女はつい耳を塞いだ。それでもその手にはほとんど力がはいっていなかった。
「うん」
霊夢が言った。
「ク、ク、ク、ク。グ、グ」 と妹紅が顔を下に向けて、ついはしたない含みわらいをした。彼女は魔理沙の顔を空想した。その顔は得意な調子だった。そうして頬が赤くて、現実の本人と同じように目の下にはひどい隈があった。
「何が笑えるの」
「笑える」
「からかってるの」
「まあね」
「からかわれるのは好きじゃないわ」
「ごめんよ。しかし、私だって、以外と純情よ。そっか、まあ、よかったねえ」
それから妹紅は魔理沙の言っていたことを、できるだけ霊夢の感情を傷つけないように白状した。彼女は稀に悲しそうな表情をしながらも一応は納得したふうに頷いた。
「とにかく看病はいいけど世話を焼きすぎるのも問題だ。おまえだって風邪のときに、じいっと誰かが傍にいるより一人のほうが気も楽だろう。まあ風邪ってよく分からないけど、なんでもそうらしいじゃないか」
「そうね確かにそうかもしれない」
「納得したなら帰った、々った。そのうち魔理沙だって戻ってくるよ。すこし寒いから火に当たりにいっただけよ、私の家にね」
「あいつ調子がわるいのに本当に探さなくっていいかな」
「丸く収まるって」
霊夢が帰ったあと魔理沙がのそのそと棚のうしろから移動して、囲炉裏の傍に座りこんだ。炎が揺れていた。柔らかい熱に手をかざした。
「気分は」
「うん、まあ」
魔理沙の感傷は複雑であった。それは彼女のほうでの“底しれないの”であった。嬉しくもあったし、残念な気もした。そう考える自分を勝手だともなじった。
「それは、あいつに、好かれたほうが、いいだろうけど……友達なんだし」
「どうした素直に喜びなよ」
「複雑なんだ」
「ちがうね繊細なだけだ、実際は複雑でなくって直線だ」
「わたしはあいつを尊敬しているんだよ」
「それもいいわ。でも信奉はするべきじゃない」
「してない」
「なら怖れてるんだ」
「それは、そうかもしれない」
「なあ。霊夢のところに帰って、もう寝たほうがいいんじゃないの」
「そうだな、そうするよ……待て、教えてくれないか。至純至精の感情って何か分かるか」
「恋よ」
「恋!、!、?、?」
「ああ恥ずかし」
「おまえ、言ったなあ……」
それから無事に薬が神社に届けられて病気が治ると霊夢の態度も以前に戻った。と謂うよりまったく忘れてしまったような態度でさえあった。それは別に冷淡になったわけではないけれども、相対して魔理沙はすこしのあいだ冷淡に感じないわけにはいかなかった。それに腹が立って、彼女はこう考えた 「もしおまえが病気をしたら今度はわたしが眠れないくらいの看病をしてやる。そうすればおまえの献身の正体も分かるかもしれないし、それこそまさにおまえの心中の核への通路でもあるのだ。そうしておまえの万葉の正体もいつかはついに見つけてやるのだ」 ……。
いっときの熱 終わり
誤字報告ですが、冒頭で何か所か永琳が詠琳になっています
最近霊夢魔理沙アリス早苗妖夢咲夜あたりの友情のあり方にしか興味がないから
やっぱり霊夢は聖母サマポジが似合う
ほんとなんて言っていいかわからないけど良い
本当の意味でマイペースな霊夢と戸惑う魔理沙、じんわりとした距離感と空気感
良いレイマリでした。
コクコクと頷きました。
やっぱりドクターのレイマリは最高なんですよね…。棚の裏に隠れている時の魔理沙の顔を想像するともう。
また、脇役として出てきた妹紅も味があって素敵でした。
タイトル通り熱に浮かされたようにじわりと熱い良いSSでした。昔の小説っぽい文章や台詞回しも巧みで読みやすく、全体の雰囲気によく馴染んでいてとても良かったです。
なんだか得意げな永琳も老成しつつも少女らしい妹紅も、もちろん不器用なレイマリもそれぞれにキャラが立っていて愛おしい。
特に相手の内心を見透かして上手に導く妹紅には仙人や導師のような風格があって新鮮でした。彼女は年を重ねた不死者の割にどちらかと言えば未熟な感じの役割を振られることが多い気がしますので。
結末で示唆されているように逆の立場だったらどうなるか、というのも気になるところですね。この霊夢は魔理沙のように逃げない気はしますが、照れて布団に隠れるか、それとも熱に任せるまま思いきり甘えるのか。
ありがとうございます
始めはよくある看病ものかとも思いましたが、霊夢の底知れなさや妹紅のおせっかいがよいスパイスになっていたと思います
本人がいないと思い込んでるところで本人について本音をしゃべっちゃう展開は本当に面白かったです
思ったのですが、私はあなたの文章が好きなのかもしれません
ただ読み方を間違えたのか作者さんの拘りだったのかもしれませんが
これならもう素直に魔理沙の家に霊夢が訪ねる形でよかったのではと少し。
この魔理沙がこの状態で博麗神社を訪れるというイメージがちょっと湧かなかったです。