忌々しい朝が来た。
朝は嫌いだ。今までならだらだらと昼間まで寝転ぶもよし、寝起きが良いときは朝一番から人間たちをカモにして稼ぐもよし。自分の好きなように動けていたのに。今となっては誰かにその予定を握られている。それがどうにも気にくわない。
「――女苑」
……ほら、起こしに来た。
声の主が部屋の襖を開けたことで部屋の中に朝日が差し込む。
そこまで強い光でもないけれど、夜の闇に慣れきった依神女苑の瞳には厳しく刺さった。始めのうちは無視して寝ていたが、そうすることによって朝飯が無くなったり、首根っこを掴まれて部屋から放り出されると分かってからは渋々この習慣に染まっている。
「朝ご飯できてますから。向こうで待ってますよ」
女苑が起きたことを確認すると、命蓮寺の住職である聖白蓮は軽い足取りで食卓がある部屋へと向かっていく。
その後ろ姿を細目で見ながら、女苑は朝の支度をし始める。髪をセットしている時間がないため、そのままストレートに。これから行うであろう修行を考えれば、お気に入りの服は着れない。収入のない今、服は汚せない。とりあえず部屋着のパーカーを着て部屋を出る。
朝の冷たい空気は徐々に意識を覚醒させていった。洗面所で顔を洗えば眠気は夜までおさらばである。寝癖が少し立っていたが、どうせ誰と会うわけじゃないし――っと女苑は無視して食卓へ向かった。あんなしょぼい食事だけど、無いよりましだ。
食卓に顔を出すと、なぜだか異様にヒトが少なかった。
さっき起こしに来た聖と、半袖セーラー服のような格好の村紗水蜜。以上二名。
いつもなら七人くらい居てもおかしくはないのに。
そんな女苑の訝しげな目を察してか、先に卓に座っていた水蜜が声をかけた。
「今日はみんな法事とかなんとかでいないのさ。静かなもんだよ」
「やかましいのが少ないなら別にいいでしょ」
「辛辣だね」
水蜜と軽口を交わした女苑は自分の席に座り込む。開けっぱなしの障子の向こうから指す陽射しを鬱陶しく思いながら、目を伏せながら食事を待つ時間は退屈だ。とくにこの二人と話すこともない。
茶碗にご飯をよそっていた聖が顔を上げると、女苑の服装を見ていう。
「あら? そういえばそのパーカー……」
「なによ。パーカーでもいいじゃない」
「いえ、ただ髪を下ろしてその服装だとお姉さんとそっくりね」
言われてみれば……そうなのか?
部屋の隅にある姿見に目をやる。寝癖そのままの長い髪。地味な色のパーカー。確かに姉の要素はある。姉妹故に顔も似ている。まあ、あれほど負のオーラに包まれてはいないけれど。
「へー。お姉ちゃんいるんだ。意外」
「何よ、別に姉さんがいてもいいでしょ」
「えっと……紫苑さん、だったかしら。お元気?」
「さあ? あの巫女の神社に居るらしいけど、何しろ此処に捕まってるわけだから」
「ならいち早く更生して、お姉さんを迎えに行かないとね」
うっさい。誰が更生するもんか。とは口にしなかったけれど。
女苑は運ばれた朝食を前に手を合わせて、いただきます――っと口にすると、食事に手を付け始める。
それにしても姉さんか。今、何してるだろう。ちゃんと朝ご飯は食べるだろうか。……あの神社だと、かなり不安だ。
どうも味が薄い味噌汁を啜りながら、女苑は姉、依神紫苑のことを思い浮かべていた。
そういえばせっかくのご飯を姉さんが落として、私のを分けてあげてたっけ。そう思えば今の方が食べる量多い気が。
お腹が膨れたわけでもないのに、どうも箸が重い。
女苑は大きく息を吐き出して、障子の向こうに広がる青空に視線を向けた。よく晴れた晩春の朝。さよならを告げる春風が何処か遠くを目指して走り去っていく。緑の匂いがふわりと香って、もう初夏を思わせる。
どうにも気が緩むというか。この後修行なんてやる気になれない。
もともと本意ではないこの生活。頃合いをみて抜け出すか――そしたら姉さんの顔を見に行くのも悪くない。
けれまあ、今すぐは難しいから。
私が会いに行くその日まで、一人じゃどうしようもない不祥の姉に、たまにでも、小さくてもいいから――いいことがありますように。
「珍しいね、女苑が文句も言わずにご飯食べてるなんて」
「そう? ――今日は悪くないけど」
◇◆◇
五月の昼過ぎは陽射しが厳しくなってくる。先日まで桜の花びらで色づいていた木々も、今ではすっかり青々しい。これが過ぎていけば梅雨になり、そして夏が訪れる。
ああ春よ、戻ってこい。暑いのも寒いのも苦手なんだ。
縁側に足を放り出して座る博麗霊夢はお茶を片手に昼食後の休憩に一息ついていた。
最近増えた同居人のせいで食費も買い出しも支度も始末も二倍かかる。それに加えて余計な出費もかさむときたから、霊夢からしたら不運の数え役満である。
――っと、穏やかな雰囲気の境内にもはや聞き慣れた音が響く。
もう驚きもしない。今週三回目の湯飲みが割れた音。こんなことで目くじらを立てていたら平穏などやってこない。どうせ彼女も後始末に慣れていることだから別に向こうへ行かなくてもいいだろう。
手に握った湯飲みを決して放すことなく、霊夢は視線だけ部屋の中に向けた。
腰まである長い髪を揺らし、何やら張り物が沢山へばりついたボロボロのパーカーを着た依神紫苑が慌てた様子で割れた湯飲みの破片を拾っていた。
周りだけを不運にするなら問答無用で退治してしまうのだけど、自分も含めて不運なのだからやりづらい。そして周りからも嫌われているのだからもはや救いがない。唯一の理解者である妹も、今はあの寺で更生中と聞く。
情が湧いてしまう私は、博麗の巫女として問題だろうか。
しばらく様子を見ていると、顔を上げた紫苑と目が合った。申し訳なさそうに身を縮込ませている。なんだかこっちが悪いことをしているような居心地の悪さを感じて、霊夢は縁側から足早に立ち去った。きっと紫苑もただ置いてもらっているのに居心地の悪さを感じているのだろう。けど何をしても裏目に出てしまうのでは何もさせられない。やらせても今のようになってしまうのが関の山だ。
廊下を渡り台所へ入る。まだお昼が終わったばかりだが、今日はもう買い物に出ないから、暇な内にささっと下ごしらえを済ませてしまいたい。幸か不幸か知らないが作る物が大した物ではないのですぐに済むだろう。手始めに米でも炊くか。
霊夢が流しで米を洗い始めると、湯飲みの破片を新聞紙で包んだ紫苑が台所にやって来た。米を研いでいる霊夢には紫苑の姿は見えないが、きっと申し訳なさそうに顔を伏せているのだろう――っと勝手に想像していた。
破片をゴミ箱にそっと置いた紫苑が消え入りそうな声で言う。
「……ごめんなさい」
「別にそれぐらいどってことないわ。仕方ないことだし」
「――」
「――今はね」
それだと彼女が不運から抜け出せない気がして、霊夢は言葉を改める。
「あんまりいい案は浮かばないけど、何かあるでしょ。幻想郷には色んなヤツがいるんだから、アンタの能力を無効にできるヤツがいるかもしれないし、アンタの能力を受けないヤツも……いるでしょ。どっかに」
幻想郷のトンデモ連中なら、きっとなんとかなる。
幻想郷は全てを受け入れる。作ったヤツがそう言っているのだから、きっとそうなんだろう。なんとかならなかったら……最悪アイツになんとかしてくれる。責任を持って。
「そうかな?」
「今までだってそうだったもの」
研ぎ終えた米を竃の方へ。味噌汁は……もっと後でもいいな。他にやることも……ない。境内の葉はまだ青々しいから掃き掃除もやらなくていい。
急に手持ち無沙汰になった霊夢は、流しに下げておいた湯飲みを洗って、それを手に台所を出る。紫苑もその後に続いた。居間に着くと薬缶に入れてあるお茶を注いでまた一息。紫苑に「飲む?」と聞けば、「いい」と首を横に振った。
さて、どう過ごすか。読みかけのアガサクリスQの小説でも読んでいようか。新刊が出る前に、読んでしまわないと後が支える。読書が出来るのは平和な証だろうし。
居間の一角に積み上げてある本の中からお目当ての物を引き抜いて、霊夢は再び縁側に出る。座り込んで本を広げると、紫苑が近くに寄ってきた。覗き込むようにして霊夢の読もうとする本を見て、すぐに顔を引っ込める。
「アンタも読む?」
「いいよ。それ貸本でしょ? 何かあったら不味いし」
「――じゃあ、読んであげるわ」
霊夢がそう口にすると、紫苑は目を瞠って。……それから小さく頷いた。
さすがに朗読だけなら何も起きないでしょ。それでも何か起きたときは……起こったときに考えよう。
ああ、本当に幻想郷の何処かにいないだろうか。彼女の影響を受けないような誰か。彼女が何の負い目も感じずにそばにいられる誰か。
けどそれは私じゃないから。そうすぐには出会えないから。
貴女がそんな誰かと出会うその日まで、辛い日々が続くのなら。
平穏で本を読むことくらいしかやることがないこんな日ぐらい――貴女にいいことがあるように。
「巫女様、読むの上手いんだね」
「そう? ――って陽が傾いてきたわね。ご飯にしましょう」
◆◇◆
すっかり陽の落ちた幻想郷。その何処でもあって、何処でもない場所。
夢と現実の間――の少し夢の方へ踏み込んだ場所に彼女、ドレミー・スイートはいた。
赤いナイトキャップの先についた白いボンボンを揺らしながら、無数の誰かの夢の中を歩いて行く。なんてことはないが、これもれっきとした彼女の仕事なのだ。
夢を渡って世界を越えてきてしまう者を現実へと帰したり。美味しそうな夢ならたまにつまみ食いもする。面白そうな夢があったらお邪魔するし、自作の枕で夢を見ているヒトを見かけたら、アンケートも採りに行く。
誰もが安心して眠りにつき、いい夢を見てる。――結構、結構。
少し前まで異変の解決に精を出していた分、本業の夢の管理を全うできることが、どうしてか平和に感じられた。
「――あら?」
そんな中でどうにも目につく夢がある。
少しばかり覗いてみれば、それはなかなかの悪夢で。誰がこんな夢を――と夢見る本人を見てみれば、先の異変の主犯姉妹。その姉の依神紫苑。
しかしまあ、どうしたものか。正直言ってお邪魔はしたくないし、食べてもお腹を壊しそうだ。枕を売ろうにも、お金も持っていないだろう。
とりあえず様子を見てみよう。
夢の世界から現実の世界へ。ドレミーは夢を渡って紫苑の元へと降りていく。
辿り着いたのは博麗神社の一室。そこに並ぶ布団が二つ。どうやら寝室のようだった。見れば小さく寝息を立てる博麗霊夢と、その隣で悪夢にうなされる紫苑の姿があった。
ふうん。彼女の隣で寝ていても、悪夢にはならないのか。彼女能力の基準はどうも分からない。
悪夢は長い時間見続けると精神衛生上よくないため、普段なら夢を見ている本人を起こして悪夢から解放するのだが……紫苑の場合、起こしたところでまた寝てしまえば悪夢を見かねない。さてはてどうしたものか。
「夢違えは本職じゃないんだけど……」
顔を歪めながら寝返りを打つ紫苑の頭の上にドレミーは人差し指をそっと添え、宙に円を描くようにし小さく回す。するとうなされていた紫苑の顔が徐々に和らいでいき、寝息のリズムも整いだした。
「これはまた」
自分の指先で絡め取った夢を見て、ドレミーは少々顔を引きつらせたが、すぐに微笑んでそれを口にした。――んっ……やっぱりこういう味か……。
むせそうになるのを必死に押さえる。せっかく悪夢から解放されたんだ。今起こしたら可哀想じゃないか。
さて、そろそろお暇しよう。口直しに美味しくて甘い夢を見つけに行かなくては。
現実ではそう簡単に幸せになれないから。世界は彼女に優しくないから。
せめて今日だけでも、夢の中だけでも――いいことがあってもいいでしょう。
「お休みなさい――素敵な夢を」
◇◆◇
見渡す限りの青の中に、眩しい太陽が一人ぽつんと浮かんでいた。
いよいよ陽射しが厳しくなる五月の末。これから梅雨に入る気配など微塵も感じないのに、毎年ちゃんと梅雨になるのだから驚きだ。
そんな得体のないことを考えながら私はぼーっと空を見上げていた。
ここ最近、住む世界が変わったというか。変わりすぎというか。
「んー。どうしたの? 行くわよ」
そして今も変わろうとしている。
博麗神社にお世話になって少し、私は彼女と出会った。
理由とかよく分からないけど、彼女には私の能力が効きにくいようだ。話を聞くにどうにも彼女は空の上に住んでいたようだけど、訳あって今は地上を歩き回っているらしい。
始めて出会った、私の能力が通じない相手。
憑いて行っていいか尋ねると、二つ返事で了承してくれた。彼女があまりにも簡単に頷くもんで、私は慌てて自分のことを説明した。――自分で自分の不運さをアピールするのも、なかなかに間抜けな話だけども。
それでも彼女の返事は変わらなかった。
『いいじゃない。そっちの方が面白そうだし、退屈しないし』
あっけらかんと言ってのける彼女に驚いたし、そんなことを言うヒトは初めてだった。
そして今日、私は博麗神社を出て、彼女に憑いて行く。巫女様への挨拶は済ませたし、後は出て行くだけなのだけど……どうにも後ろ髪を引かれる。それなりに過ごした場所だからだろうか。愛着が湧いたのかもしれない。
「あっ――そうだ」
ふと、頭を過ぎる。
そうだ。挨拶していかなくちゃいけない人がもう一人いる。――人間じゃないけど。
私は彼女に「少し待ってて」と伝えて、神社の本堂の方へ走った。そうだ、神社に祀られている神様に私は一度も挨拶したことがない。本当はお世話になるまえに挨拶しておかなきゃ行けなかったのだろうが、過ぎてしまったことは仕方ない。せめて別れの挨拶くらいは。
本堂の前に立ち、軽くお辞儀をした。それから持っていても仕方ないくらいのお金を賽銭箱に投げ入れる。二礼二拍――貧乏神だけど一応神様だ。向こうの神様に礼を損なうわけにはいかない。
お願いごと……どうしようかな。
最後の一礼をしながら私はあれやこれや考える。お世話になった挨拶なら去り際にお願い事までするなんて、厚かましいだろうか。そこは大目に見て欲しい。私じゃ誰の願いも叶えられないわけだし。これから先だって神様に願う機会なんてないだろう。
考える中で一つ、「これだ」と思えるものがあった。
これからも私は貧乏神として沢山の不運を誰かに運んでしまう。
それで辛い思いをする人もいるだろうから。そうならないように私もできるだけ変われるように頑張るから。誰も不運にしなくて済むその日が来るまで。
どうかどうか――誰かにいいことがありますように。
朝は嫌いだ。今までならだらだらと昼間まで寝転ぶもよし、寝起きが良いときは朝一番から人間たちをカモにして稼ぐもよし。自分の好きなように動けていたのに。今となっては誰かにその予定を握られている。それがどうにも気にくわない。
「――女苑」
……ほら、起こしに来た。
声の主が部屋の襖を開けたことで部屋の中に朝日が差し込む。
そこまで強い光でもないけれど、夜の闇に慣れきった依神女苑の瞳には厳しく刺さった。始めのうちは無視して寝ていたが、そうすることによって朝飯が無くなったり、首根っこを掴まれて部屋から放り出されると分かってからは渋々この習慣に染まっている。
「朝ご飯できてますから。向こうで待ってますよ」
女苑が起きたことを確認すると、命蓮寺の住職である聖白蓮は軽い足取りで食卓がある部屋へと向かっていく。
その後ろ姿を細目で見ながら、女苑は朝の支度をし始める。髪をセットしている時間がないため、そのままストレートに。これから行うであろう修行を考えれば、お気に入りの服は着れない。収入のない今、服は汚せない。とりあえず部屋着のパーカーを着て部屋を出る。
朝の冷たい空気は徐々に意識を覚醒させていった。洗面所で顔を洗えば眠気は夜までおさらばである。寝癖が少し立っていたが、どうせ誰と会うわけじゃないし――っと女苑は無視して食卓へ向かった。あんなしょぼい食事だけど、無いよりましだ。
食卓に顔を出すと、なぜだか異様にヒトが少なかった。
さっき起こしに来た聖と、半袖セーラー服のような格好の村紗水蜜。以上二名。
いつもなら七人くらい居てもおかしくはないのに。
そんな女苑の訝しげな目を察してか、先に卓に座っていた水蜜が声をかけた。
「今日はみんな法事とかなんとかでいないのさ。静かなもんだよ」
「やかましいのが少ないなら別にいいでしょ」
「辛辣だね」
水蜜と軽口を交わした女苑は自分の席に座り込む。開けっぱなしの障子の向こうから指す陽射しを鬱陶しく思いながら、目を伏せながら食事を待つ時間は退屈だ。とくにこの二人と話すこともない。
茶碗にご飯をよそっていた聖が顔を上げると、女苑の服装を見ていう。
「あら? そういえばそのパーカー……」
「なによ。パーカーでもいいじゃない」
「いえ、ただ髪を下ろしてその服装だとお姉さんとそっくりね」
言われてみれば……そうなのか?
部屋の隅にある姿見に目をやる。寝癖そのままの長い髪。地味な色のパーカー。確かに姉の要素はある。姉妹故に顔も似ている。まあ、あれほど負のオーラに包まれてはいないけれど。
「へー。お姉ちゃんいるんだ。意外」
「何よ、別に姉さんがいてもいいでしょ」
「えっと……紫苑さん、だったかしら。お元気?」
「さあ? あの巫女の神社に居るらしいけど、何しろ此処に捕まってるわけだから」
「ならいち早く更生して、お姉さんを迎えに行かないとね」
うっさい。誰が更生するもんか。とは口にしなかったけれど。
女苑は運ばれた朝食を前に手を合わせて、いただきます――っと口にすると、食事に手を付け始める。
それにしても姉さんか。今、何してるだろう。ちゃんと朝ご飯は食べるだろうか。……あの神社だと、かなり不安だ。
どうも味が薄い味噌汁を啜りながら、女苑は姉、依神紫苑のことを思い浮かべていた。
そういえばせっかくのご飯を姉さんが落として、私のを分けてあげてたっけ。そう思えば今の方が食べる量多い気が。
お腹が膨れたわけでもないのに、どうも箸が重い。
女苑は大きく息を吐き出して、障子の向こうに広がる青空に視線を向けた。よく晴れた晩春の朝。さよならを告げる春風が何処か遠くを目指して走り去っていく。緑の匂いがふわりと香って、もう初夏を思わせる。
どうにも気が緩むというか。この後修行なんてやる気になれない。
もともと本意ではないこの生活。頃合いをみて抜け出すか――そしたら姉さんの顔を見に行くのも悪くない。
けれまあ、今すぐは難しいから。
私が会いに行くその日まで、一人じゃどうしようもない不祥の姉に、たまにでも、小さくてもいいから――いいことがありますように。
「珍しいね、女苑が文句も言わずにご飯食べてるなんて」
「そう? ――今日は悪くないけど」
◇◆◇
五月の昼過ぎは陽射しが厳しくなってくる。先日まで桜の花びらで色づいていた木々も、今ではすっかり青々しい。これが過ぎていけば梅雨になり、そして夏が訪れる。
ああ春よ、戻ってこい。暑いのも寒いのも苦手なんだ。
縁側に足を放り出して座る博麗霊夢はお茶を片手に昼食後の休憩に一息ついていた。
最近増えた同居人のせいで食費も買い出しも支度も始末も二倍かかる。それに加えて余計な出費もかさむときたから、霊夢からしたら不運の数え役満である。
――っと、穏やかな雰囲気の境内にもはや聞き慣れた音が響く。
もう驚きもしない。今週三回目の湯飲みが割れた音。こんなことで目くじらを立てていたら平穏などやってこない。どうせ彼女も後始末に慣れていることだから別に向こうへ行かなくてもいいだろう。
手に握った湯飲みを決して放すことなく、霊夢は視線だけ部屋の中に向けた。
腰まである長い髪を揺らし、何やら張り物が沢山へばりついたボロボロのパーカーを着た依神紫苑が慌てた様子で割れた湯飲みの破片を拾っていた。
周りだけを不運にするなら問答無用で退治してしまうのだけど、自分も含めて不運なのだからやりづらい。そして周りからも嫌われているのだからもはや救いがない。唯一の理解者である妹も、今はあの寺で更生中と聞く。
情が湧いてしまう私は、博麗の巫女として問題だろうか。
しばらく様子を見ていると、顔を上げた紫苑と目が合った。申し訳なさそうに身を縮込ませている。なんだかこっちが悪いことをしているような居心地の悪さを感じて、霊夢は縁側から足早に立ち去った。きっと紫苑もただ置いてもらっているのに居心地の悪さを感じているのだろう。けど何をしても裏目に出てしまうのでは何もさせられない。やらせても今のようになってしまうのが関の山だ。
廊下を渡り台所へ入る。まだお昼が終わったばかりだが、今日はもう買い物に出ないから、暇な内にささっと下ごしらえを済ませてしまいたい。幸か不幸か知らないが作る物が大した物ではないのですぐに済むだろう。手始めに米でも炊くか。
霊夢が流しで米を洗い始めると、湯飲みの破片を新聞紙で包んだ紫苑が台所にやって来た。米を研いでいる霊夢には紫苑の姿は見えないが、きっと申し訳なさそうに顔を伏せているのだろう――っと勝手に想像していた。
破片をゴミ箱にそっと置いた紫苑が消え入りそうな声で言う。
「……ごめんなさい」
「別にそれぐらいどってことないわ。仕方ないことだし」
「――」
「――今はね」
それだと彼女が不運から抜け出せない気がして、霊夢は言葉を改める。
「あんまりいい案は浮かばないけど、何かあるでしょ。幻想郷には色んなヤツがいるんだから、アンタの能力を無効にできるヤツがいるかもしれないし、アンタの能力を受けないヤツも……いるでしょ。どっかに」
幻想郷のトンデモ連中なら、きっとなんとかなる。
幻想郷は全てを受け入れる。作ったヤツがそう言っているのだから、きっとそうなんだろう。なんとかならなかったら……最悪アイツになんとかしてくれる。責任を持って。
「そうかな?」
「今までだってそうだったもの」
研ぎ終えた米を竃の方へ。味噌汁は……もっと後でもいいな。他にやることも……ない。境内の葉はまだ青々しいから掃き掃除もやらなくていい。
急に手持ち無沙汰になった霊夢は、流しに下げておいた湯飲みを洗って、それを手に台所を出る。紫苑もその後に続いた。居間に着くと薬缶に入れてあるお茶を注いでまた一息。紫苑に「飲む?」と聞けば、「いい」と首を横に振った。
さて、どう過ごすか。読みかけのアガサクリスQの小説でも読んでいようか。新刊が出る前に、読んでしまわないと後が支える。読書が出来るのは平和な証だろうし。
居間の一角に積み上げてある本の中からお目当ての物を引き抜いて、霊夢は再び縁側に出る。座り込んで本を広げると、紫苑が近くに寄ってきた。覗き込むようにして霊夢の読もうとする本を見て、すぐに顔を引っ込める。
「アンタも読む?」
「いいよ。それ貸本でしょ? 何かあったら不味いし」
「――じゃあ、読んであげるわ」
霊夢がそう口にすると、紫苑は目を瞠って。……それから小さく頷いた。
さすがに朗読だけなら何も起きないでしょ。それでも何か起きたときは……起こったときに考えよう。
ああ、本当に幻想郷の何処かにいないだろうか。彼女の影響を受けないような誰か。彼女が何の負い目も感じずにそばにいられる誰か。
けどそれは私じゃないから。そうすぐには出会えないから。
貴女がそんな誰かと出会うその日まで、辛い日々が続くのなら。
平穏で本を読むことくらいしかやることがないこんな日ぐらい――貴女にいいことがあるように。
「巫女様、読むの上手いんだね」
「そう? ――って陽が傾いてきたわね。ご飯にしましょう」
◆◇◆
すっかり陽の落ちた幻想郷。その何処でもあって、何処でもない場所。
夢と現実の間――の少し夢の方へ踏み込んだ場所に彼女、ドレミー・スイートはいた。
赤いナイトキャップの先についた白いボンボンを揺らしながら、無数の誰かの夢の中を歩いて行く。なんてことはないが、これもれっきとした彼女の仕事なのだ。
夢を渡って世界を越えてきてしまう者を現実へと帰したり。美味しそうな夢ならたまにつまみ食いもする。面白そうな夢があったらお邪魔するし、自作の枕で夢を見ているヒトを見かけたら、アンケートも採りに行く。
誰もが安心して眠りにつき、いい夢を見てる。――結構、結構。
少し前まで異変の解決に精を出していた分、本業の夢の管理を全うできることが、どうしてか平和に感じられた。
「――あら?」
そんな中でどうにも目につく夢がある。
少しばかり覗いてみれば、それはなかなかの悪夢で。誰がこんな夢を――と夢見る本人を見てみれば、先の異変の主犯姉妹。その姉の依神紫苑。
しかしまあ、どうしたものか。正直言ってお邪魔はしたくないし、食べてもお腹を壊しそうだ。枕を売ろうにも、お金も持っていないだろう。
とりあえず様子を見てみよう。
夢の世界から現実の世界へ。ドレミーは夢を渡って紫苑の元へと降りていく。
辿り着いたのは博麗神社の一室。そこに並ぶ布団が二つ。どうやら寝室のようだった。見れば小さく寝息を立てる博麗霊夢と、その隣で悪夢にうなされる紫苑の姿があった。
ふうん。彼女の隣で寝ていても、悪夢にはならないのか。彼女能力の基準はどうも分からない。
悪夢は長い時間見続けると精神衛生上よくないため、普段なら夢を見ている本人を起こして悪夢から解放するのだが……紫苑の場合、起こしたところでまた寝てしまえば悪夢を見かねない。さてはてどうしたものか。
「夢違えは本職じゃないんだけど……」
顔を歪めながら寝返りを打つ紫苑の頭の上にドレミーは人差し指をそっと添え、宙に円を描くようにし小さく回す。するとうなされていた紫苑の顔が徐々に和らいでいき、寝息のリズムも整いだした。
「これはまた」
自分の指先で絡め取った夢を見て、ドレミーは少々顔を引きつらせたが、すぐに微笑んでそれを口にした。――んっ……やっぱりこういう味か……。
むせそうになるのを必死に押さえる。せっかく悪夢から解放されたんだ。今起こしたら可哀想じゃないか。
さて、そろそろお暇しよう。口直しに美味しくて甘い夢を見つけに行かなくては。
現実ではそう簡単に幸せになれないから。世界は彼女に優しくないから。
せめて今日だけでも、夢の中だけでも――いいことがあってもいいでしょう。
「お休みなさい――素敵な夢を」
◇◆◇
見渡す限りの青の中に、眩しい太陽が一人ぽつんと浮かんでいた。
いよいよ陽射しが厳しくなる五月の末。これから梅雨に入る気配など微塵も感じないのに、毎年ちゃんと梅雨になるのだから驚きだ。
そんな得体のないことを考えながら私はぼーっと空を見上げていた。
ここ最近、住む世界が変わったというか。変わりすぎというか。
「んー。どうしたの? 行くわよ」
そして今も変わろうとしている。
博麗神社にお世話になって少し、私は彼女と出会った。
理由とかよく分からないけど、彼女には私の能力が効きにくいようだ。話を聞くにどうにも彼女は空の上に住んでいたようだけど、訳あって今は地上を歩き回っているらしい。
始めて出会った、私の能力が通じない相手。
憑いて行っていいか尋ねると、二つ返事で了承してくれた。彼女があまりにも簡単に頷くもんで、私は慌てて自分のことを説明した。――自分で自分の不運さをアピールするのも、なかなかに間抜けな話だけども。
それでも彼女の返事は変わらなかった。
『いいじゃない。そっちの方が面白そうだし、退屈しないし』
あっけらかんと言ってのける彼女に驚いたし、そんなことを言うヒトは初めてだった。
そして今日、私は博麗神社を出て、彼女に憑いて行く。巫女様への挨拶は済ませたし、後は出て行くだけなのだけど……どうにも後ろ髪を引かれる。それなりに過ごした場所だからだろうか。愛着が湧いたのかもしれない。
「あっ――そうだ」
ふと、頭を過ぎる。
そうだ。挨拶していかなくちゃいけない人がもう一人いる。――人間じゃないけど。
私は彼女に「少し待ってて」と伝えて、神社の本堂の方へ走った。そうだ、神社に祀られている神様に私は一度も挨拶したことがない。本当はお世話になるまえに挨拶しておかなきゃ行けなかったのだろうが、過ぎてしまったことは仕方ない。せめて別れの挨拶くらいは。
本堂の前に立ち、軽くお辞儀をした。それから持っていても仕方ないくらいのお金を賽銭箱に投げ入れる。二礼二拍――貧乏神だけど一応神様だ。向こうの神様に礼を損なうわけにはいかない。
お願いごと……どうしようかな。
最後の一礼をしながら私はあれやこれや考える。お世話になった挨拶なら去り際にお願い事までするなんて、厚かましいだろうか。そこは大目に見て欲しい。私じゃ誰の願いも叶えられないわけだし。これから先だって神様に願う機会なんてないだろう。
考える中で一つ、「これだ」と思えるものがあった。
これからも私は貧乏神として沢山の不運を誰かに運んでしまう。
それで辛い思いをする人もいるだろうから。そうならないように私もできるだけ変われるように頑張るから。誰も不運にしなくて済むその日が来るまで。
どうかどうか――誰かにいいことがありますように。
あなたが次にどんなものを書いて下さるか、楽しみです。
短いながらも各キャラの良さが表れていて心温まるお話でした。
人を思いやる優しい心の持ち主ばかりで、読んでいて妙な安堵を覚えました