鋭く美しい剣に胸を貫かれた怪物が、森の中からこちらを見ていた。
燃え尽きた炭のようにくすんだ、生気のない瞳で。
爪も牙もみすぼらしく欠け、あるいは割れている。
介錯を乞うように、その化物の頭は低い。
「……」
何かを言った。
私の問いか、それの嗚咽かは分からない。
私は近づき、化物に刺さっていた剣をゆっくりと抜いた。なるべく傷口を拡げないように。
剣はずるりと内蔵のように零れ落ちた。
鋒が少し土で汚れてしまったかもしれない。血のせいでよく滑る……。
「……」
今度ははっきりと分かった。私の声だ。今、化物の名を呼んだのだ、私は。
誰何の応えもまだなのに?
柄に彫られた銘を見た。
剣を握る手に力を込めるまでのほんの一瞬だけ、私は懐旧に我を忘れていた。
不意に溢れた嗚咽のようなその言葉が、決別なのか、弔いなのかさえ、分からないままだった。
「私たちのおしゃべりはもう終わったんだよ」
さあ振り下ろせ。
三千世界の鴉が鳴く内に。
……。
…………。
………………。
見慣れた天井。
呼吸は穏やかだ。
一つ深く息を吸うと、紅茶の香りがして少しづつ頭が冴えてきた。やや不本意な速度で。
(余韻が……)
窓の外でいつぞやの妖精達のかまびすしい声が通り過ぎていく。
(まだ……)
目を瞑り、浅く息を吐いて上体を起こす。立ち上がる前にサイドテーブルの紅茶で口を湿した。やはりまだ自分で淹れた方が美味しい。すぐ隣で、人形が心配そうな顔をしてこちらの顔を覗き込んでいた。今のところは及第点、そんな風に頭を撫でておく。
こんな誤魔化しも、いつかは通じなくなってしまうのだろうか。
「……間に合った試しがないのよね」
言葉ごと何もかも忘れるためにつくようなため息。
次で最後の一錠になった胡蝶夢丸を一瞥して、ベッドを降りた。
・
森に籠って研究生活を続けていると、四季に疎くなる。どころか昼夜の感覚から怪しい。雪月花麗しいこの幻想郷でそんな無粋を恥とは思えども、近頃はどうにも研究の神が降りたまま長尻で仕方がなかった。
里へ下りればもうすっかり冬は終わったようで、うららかな陽気が容赦なく脳髄を蕩かしていく。……と、人間を辞める前の私ならばそんな風に感じたかもしれない。
いくつかの所用を済ませ、気持ちよさそうにうたた寝をしている霊夢を想像しながら博麗神社の鳥居をくぐると、なんとそこには気持ちよさそうにうたた寝をしている霊夢がいた。
「春ねえ」
「んあ?」
「おはよう」
「もう昼よ……」言いながら欠伸をする。朝から昼寝(?)をしていたのだろうか。
「はいこれ」
「……」一呼吸。「!」
「それとも、ひやしあめなんかの方がお好み?」
「そんなわけないじゃない、もう」
嬉しそうにまあ。
全く寄り道した甲斐があったというものだ。
一升で足りるといいけど。
「はーおいし」
「それは何より」
「肴かなんかいる?」
「あそっちも買ってきたんだった」
「やだ完璧……」
「どういたしまして」
霊夢はお酒が絡むと三割増しでリアクションしてくれるので、ちょっと面映ゆい。
この声と表情に触れているだけで、狭くなっていた視野がほぐれていくような。
「もっと飲む?」
「飲む。――んで、どしたの?」
「え?」
「顔に書いてある」
「……。そんなに分かりやすかった?」
「うん。決して私が鋭いからとかじゃないと思う」
「お互いさまってことね……」
短い付き合いでもないが、こう改まって夢の話をするのは少々くすぐったい。それが昨日見た夢でも将来の夢でも同じこと――儚い追想であっても。
「……どこから話せばいいのか……」
ああ、指折り数えてみればすぐに終わってしまうような夢だった。
目覚めたあと、喪失感で呼吸まで億劫になる類いの、ひたすらに懐かしい夢。
それはたとえるなら狭く、窓の向こうに空が映る部屋の中。
懐旧と夢想が手を取って項垂れ、ついに一言もないまま夜が明ける。
目を閉じてはため息、開けば虚ろ。
けれど本当はそれが誰の夢なのかも分からないまま、ぼんやりとそれを眺め続けていた。
「あんた疲れてんじゃないの? ちゃんと寝てる?」
「名前に似合わず随分科学的ねぇ」
「夢占いは専門外なのよ」
縁側で春の陽にふやけていた霊夢を見た時点でお門違いのサジェストが頭をよぎっていたが、どうやら本当に名前は関係なかったらしい。
「素面じゃないと難しかったり?」
「あと三献くらいしたらやり方思い出すかも」
「生憎EXステージよ」
「もう2コン目なのに」
「まあ……おおよその見当は付いてるんだけどね」
付いてるからここに来た、とも言える。
「んじゃあ聞きたかったのは、もっと別の話?」三献目を仰ぎながら変わらずフラットに言う。「それともまたアレ? 人を百葉箱か何かみたいに……」
「ここに着いてからすっかり春だなって思ったし、やっぱりこのお酒美味しいって思ったわ」
「お酒はあんた一人でも分かるでしょう」
「美味しそうに呑んでる人のとなりで呑むのが一番美味しいのよ」
「ふーん」
静かに味わうお酒も悪くないが、それを夜通し楽しむ才は私にはない。
実のところ私はこの銘柄、特段に好物というほどではなかったけど、以前霊夢が(ほとんど泥酔しながら)絶賛していたのを思い出して、道中財布の紐が緩くなってしまったのだった。
「……一瞬味覚まで捨てちゃったのかと思ったわ」盃を揺らして、わずかに波立った中身を眺めながら霊夢が呟いた。
「んー? 味覚は色々と便利だから捨食を終えても残すと思うわ」
「暑さ、寒さは便利じゃないの?」
「汗で紙がふやけるのよねぇ。寒さで字がのたうつし」
「そう」
「……」
お酒と一緒に何かを呑み込んだ音がした。
さて、一番にここを選んだ私の冴えやいかに。
「今日は随分と静かなのね」
「そう?」
「いつもちっちゃな女の子連れ込んで可愛がってたじゃない」
「人聞き悪いわね……っていうか身に覚えないんだけど」
「レミリアとか、萃香とか」
「勝手に来てただけじゃないの。それに幼いの見た目だけ……でもないけど」
「三妖精とか」
「いや、それもちょっかいかけられてたの私」
「針妙丸とか」
「あれは保護」
「小鈴ちゃん……は連れ込んではいなかったかしら」
「あー、あれよ、保護観察処分」
「私とか?」
「…………」
「もう覚えてない?」
「こーんなにちっちゃくてもっと可愛げがあった気がするわ」澄ました顔で六献目。
「あはは。からかわれるのはいつも私の方だったものね」
「それが今じゃこんな……よよよ」
「この縁側も、二人で夕涼みするにはもう狭いかしら」
「魔界だと踊りながら夕涼みするの?」
「少なくとも掃除しながらしたような気はするけど。ここで」
「いやまぁその……」
「あの時はまだメイドロボがいたはずなんだけどねぇ。元気かしらあのアストロガール」
「よく覚えてるのねぇ……」
「そんなに経ってもいないでしょう?」
「そうかもしれないけどさあ」少なくとも、人妖の時間感覚の違いが表れるほどの長さではない、はずだ。「……それ」
「ん? これ?」躊躇いがちに魔導書の鍵を指差された。
「付いてなかったでしょ、そんなゴテゴテしたの。春雪の時だって……」
抱え込むようにしてどうにかページを繰っていたグリモワール。今は厳重に鎖されているが、それでもなお片手に収まるほど軽い。
「え、ああ、まあちょっとね。いずれこうなるって分かってたから、その前に人形の方も始めてたんだけど」
「そうだったっけ」
「あれ、言ってなかったかしら?」
ちょうどこのあたりで、魔界から遠いのをいいことに、ちょくちょく開帳しては軽い練習をしていた五色の魔法。
縁側で霊夢がなんでもないようなふりをしながら、プラネタリウムでも見るように目を輝かせるものだから、流れとしては私もそれで気を良くして軽率に二色足す運びになった憶えが……そんなことわざわざ言わないけど。
魔法が私の全てで、全ての魔法がいつか私の内に宿るだろうと信じていた、あどけない頃。
「まあ、色々あったしね。私は研究生活だったから、あなたほどは見てきてないけど」
「んー……そうね」
「異変の数だけあった宴会のせいであんまり憶えてない?」
「宴会の数だけ異変が語り草になるせいで忘れようもないわよ」
「あはは。それもそうね」
私と彼女が描く追憶の情景は、恐らく違う。
けれどいくつかの一致が、あるいはいくばくかの不一致が、こうして何よりの肴になることだってある。
「霊夢」杯を傾ける仕草を見せた。
「え? ああ……」八献目。「とっとっと」
私の方はこれで四献目。こういうところだけは、今も変わらない。
「あと何献くらいしたら思い出せそう?」
「あんたがあと十献くらいしたらかしら」
「せっかく思い出しても終わったら忘れちゃうじゃない」
「そのくらいでちょうどいいでしょ……昔の話なんて」
「尽きない肴の出来上がり?」
自分の手の杯にもなみなみに注いで、手を差し伸べるように、それを差し出した。
「……。そういうところだけは、変わんないのね」
呆れたように破顔して、霊夢は私の差し出した杯に、その手の杯をこつんと合わせた。
他愛もない思い出話。
時にアルバムをめくるように。
時に指差し確認をするように。
時に揶揄いの種を探すように。
僅かな時間。微かなヴィジョン。幾つかの明瞭に残る感覚。
たったひとつの特異点。
それはこの世界が秩序立つ前の話。
あの日々を彼女に喩えてみようか。
何に囚われることもなく、誰に絆されることもなく。無垢の許すままに自由で、そのために自壊を待つばかりだった美しいこの世界。
全てを受け入れ、星ですら繋ぎとめることのできないあなたが、この世界に不自由と、秩序と、救済とを齎した因果は一体誰が知るのでしょうね。
混沌が故に美しく、無為自然が故に死が身近だった『当たり前』。
異変という言葉さえなかった闊達無窮の小さな箱庭。
私は矜恃と、叡智と、蛮勇を以てあなたに立ち向かい――あなたは自信と、無垢と、不敵を携え受けて立った。
天衣無縫と宙を舞うあなたのあどけない笑みを見る度、怒りにも似た焦燥と、愛おしさとも見まごう憧憬が私から怜悧を奪っていったのをよく憶えている。
いつのまにか私は勝利のための身も蓋もない戦い方ではなく、魔法使いにとってありうべからざる、全てを出し切るような美しい戦い方を選んでいた。……まさかそんなやり方がここのスタンダードになるなんて夢にも思わなかったけれど。
未練も何も残らない失敗なんていうものがあるということを、その時私は初めて知った。
魔導書に囲まれていない場所にも安息があるということ。なんでもない雑事のふとした空白にしか聞こえない、日陰の静寂。
願うどころか想像さえしていなかった日々が価値を持つなんて、この世の誰が知るというのだろう?
それを殊更に修飾するような野暮はしてあげられないけれど。
こうして時折ふたりで思い出すくらいなら、褪せも穢れもしないでしょう。
ため息すら掻き消えるような煌びやかさとは無縁だとしても、ある日呆気なく消えるような儚い跡だとしても。
ほんの少し大切にするだけで…………ほら、こんなにも。
水滴一つ、どこかで蝶の寝息がした。
・
落下する。
地層を遡る根のように。あるいはその根を伝う水のように。
そう、だから彼女/私は初めに木陰で安らかな眠りについたのだ。
悠然と空へ向かう全ての樹の下には、死体よりもグロテスクな盤根が踊り狂っているのだから。
さて、どうやらいつの間にか眠っていたらしい。感触としてはどうやらこれで正解だったようだけれど──気付かない間に落ちてるなんて少し飲みすぎたかな、薬……それとも。
そこには一枚の鏡があった。それと私の他には何もない。この二つが、この二つだけが最後に残ったのだと言うように。
大きな姿見だった。
大人でも容易く鏡の向こうに行けてしまいそうなほど、大きな鏡。堂々とした皮肉もあったものだ、そう思う。
その鏡には同じくらい大きな卵が映っていた。手足の生えた大きな卵。尊大で、傲岸で、栄華の極みを見てきたかのように、泰然と手足を組んで座る卵。
……見るも無残な、割れ卵。
「お久しぶりです、ミスター」
「お茶会はもういいのかね、アリス」
割れ散らばっていることなど気付いていないかのような口ぶりで、彼は言う。
「とはいえ、私などは昨日のことのように覚えています」
「おお、ついに辿り着いたのか! いやこれはご同慶の至りだな」
いつかの夢と同じように。姿以外は寸分違わず、狂わずに。
「あなたには色々なことを教わりましたね」
「それともやはり、ご愁傷さまというべきだったかね?」
私だけを取り残して。
「今ではもっと虚心に拝聴しておくべきだったと、悔いるばかりです」
「少なくとも、あれにとってはこの世で最も美しい悲劇であったことだろう!」
私だけが、何一つ忘れることもできずに。
「……。……あなたは、いつからそのような姿に?」
「分かりきったことを」
一変して低く、無表情を思わせる冷たい一声。
そんな声は、あの時の無数のやり取りの中でさえ、一度も聞いたことはなかった。
「黄金の冠がとてもよく似合っている」
私は何も応えない。
「数多の人形を支配する姿などまさしく女王さながらだ」
私は何も応えない。
「強いて言うなら、馬が足りないかな」
私は何も応えない。
「……元には戻らなかったのだね」
私は何も応えない。
「もう、元には戻らないのだね」
私は何も応えない。
「諦めてはどうかね、君以外の誰もかものように」
「それはできません」
私は──
瞼の向こうで夕焼けの燃える匂いがした。
まるで今この時だけが歴史から切り取られたかのように、暖かい。
慣れない枕の感触だったが、不思議と心地良いまどろみにはよく合っていた。人肌の温もりがあったからかもしれない。
ありとあらゆる区別を忘れて、何もかもが黄金色に染まる世界の中で、一際綺麗に輝く彼女の髪を見上げていた。
私は万感を込めて、灼熱に焼べられる黒曜石のようなそれに、手を伸ばした。柔らかな熱は、過ぎ去る今を懐かしんでいるようだ。
やっぱり彼女には赤い冠がよく似合っている。
あなただったのね、キティ。
「どこに行ってたの?」
「ちょっとそこまで」
「そう」
私はおはよう、と言おうとして、
「ただいま、霊夢」
そう口にしていた。
「ん、おかえりなさい」
霊夢は当たり前みたいに、そう応えた。
・
「ありがとね」
「んー?」
「起こさないでいてくれて」
「あぁ……いやなんかすごいむにゃむにゃ言ってたから大丈夫かなって」
「……」
ちょっと赤面。
「あんまり太ももが狭いんで霊夢縮んだのかと思ったわ」
「あんたがでかくなったんでしょう……勝手に」
「ふふ、まあね」
「……うまくいった?」
「ええ、おかげさまで」
「そう」
それから、どれだけの沈黙を交わしていただろう。
積み重なる日々に埋もれてしまった抒情の全てが、ふと気まぐれに溶け出すことを赦されたかのような――どこかの誰かがそっと砂時計を倒したのだというような。
その意味さえも推し量りきれない、あるいは完全な時間。
やがて呆気なく木々は風に揺れて、それまで揺蕩っていた永遠のような夕暮れ時が、夜に向かって歩き始めた。
遠くから風に運ばれて届く喧騒を見遣れば、浅黄色に溶ける鳥居の向こうで小さな祭が閉じていく。
久しぶりに見たここからの風景は、記憶のそれよりずいぶん縮んでいた。
「里の方がいつの間にか静かね」
「うん」
「今日はお祭りか何かやってたのかしら?」
「だったと思う」
「良かったの?」
「誰か来る気がしてね……」
「……。ありがと」
「んー」
少しだけ冷たい風が吹いたような気がして、いくつかの別れの言葉が脳裏をよぎった。
一度躊躇い、口を開いて声はなく、二度躊躇い、嚥下に喉が鳴る。三度目は、短い沈黙が許してくれなかった。
「Happiness is a nice long nap」
「あん? なんて?」
「幸せとは、そのままずっと続いて欲しいような、そんな状態のこと――なのだそうよ。異論もあるでしょうけど」
「ふぅん。誰が言ったの?」
「私でないことは確かね」
「アリスは異論がある方なのかしら?」
「私は魔法使いだからねぇ」
「……」
「あの喧騒の中にいたのよ。長いことずっと」私は顔を里の方に向けた。
けれど視線と追憶の向かう先は、私にも曖昧なままだった。
「退屈な眠りを妨げ、かまびすしい夢を作り上げた、無辜の烏合の中に」
薄紫の斜陽に混ざってぼやける灯が一つ、一つと消えていく。
「三千世界の鴉はもう眠る頃かしら」思わず、私は呟いていた。
「みんな早起きだもの」
「うん……」
「……」
「……」
「あっ」
「なに?」
「今日の当番、鴉だったわ」
「鴉?」
「鴉」
「黒と言えば白、白と言えば黒の?」
「その鴉」
「ご挨拶だぜ」風を連れ、すとっと軽やかに箒から降りて、魔理沙はその頭の大きな黒帽子を直した。「三人前でいいのかな?」
「あんた今日はずいぶん話が早いのね」
「私はいつだって軽快迅速さ、そうだろ?」
「帽子の中身は五人前くらいありそうね。お祭りの帰り?」
「アリスー……お前はそういうところがだな」
「あ、じゃあ作り置きして神社に置いといてくれる?」
「ほれみろ霊夢はこういうこという」
「じゃあ私にも」
「……」
魔理沙はまた別の意味で表情が豊かだ。
「あなたこの前決闘すっぽかしたでしょう」
「あー? ……あっ」
「その分よ」
「よし分かった。こうしよう」
「どうもしなくていいんだけど……」
「今から仕切り直して、お前が勝ったらお前の言う通りに、私が勝ったらお前が私の代わりに」
「…………」
「どうだ?」
「ま、いいか」軽く勢いをつけて、起き上がる。
「終わったら教えてねー」
霊夢がまた呑み始めてるから早めに終わらせよう。
「はーい。──何枚?」
「5枚で!」
「おや決闘ですか?」風より先に言葉を連れて、圧し退けるような鴉天狗の羽ばたきが石畳の塵を薙ぎ払った。「あやや私のことはお気になさらず。どうぞどうぞそのままそのまま」
「ど真ん中に降りてきてお気になさらずもないもんだな」
そう言うと、魔理沙はくるりと踵を返して台所の方に向かった。
「決闘はもういいの?」
「決闘ー? 忘れちまったぜ。黒くて大きな鴉が来たからな」
「あら、いつ私があなたと姉妹になったのかしら?」
「丁度音もちょっと似てるし、いいじゃないか。英雄だぜ?」
「臆病な、でしょ」
ルーティーンのような会話をしていると、背中からそれはもうひしひしと、霊夢の嫌そうな視線を感じた。答え合わせに振り返れば、またわけわかんないこという、と顔に書いてあった。
「魔法使いってみんなああなの? 文」
「魔法少女もそうみたいですよ」
「うえぇ」
うえぇって。
「じゃあ作ってくるぜ。……言っとくけど五人前もないからな? いくつかは本だ」
「うん。ちょっと魔力漏れてたし」
「こ、こいつ……うん? 霊夢?」
「さすがに四人前だと時間かかるから手伝うわ。お腹すいてきたし」
「私も呼ばれていいんです?」
「お酒だけ置いてってくれるならもっと歓迎よ?」
「さっすがー。ばれてましたか」
「あ、じゃあ私も──」立ち上がりかけて、
「いいから。……あん時は結局ずっとあんたが作り通しだったでしょう」
「……」思わずきょとんとしてしまった。
台所に向かう二人から、「あん時ってどん時だ」「今じゃないことは確かね」「何をまた言ってんだ……」少しづつ小さくなる声がかろうじて聞き取れた。
「相変わらずですねぇ」
「そうね」
「あなたも、ですよ」何やらごそごそと服の内を探っている文。「――っと。アリスさん火ィ持ってません?」
「生憎と今は」
「そっちの人形をちょっとどかーんと。あるいはビゴーっと」
「そんなもん有事でもないのに持ち歩くわけないでしょう……この子は優秀な助手よ」
「それは失礼」
大して残念でもなさそうに言う。
「魔理沙の前だと遠慮してるの? それとも霊夢の前だと?」
「んー、両方ですね。理由は異なりますが」
「魔理沙の方は父親を思い出すから……だったかしら」
「普段からもっとやばいもん吸ったり触ったりしてるはずなんですけどねぇ」
「まあね」
長寿の妖怪にも魔法使いという職種はそのように映るらしい――それが少しだけ可笑しかった。
「紫はなんて?」
瞬きするにも心許ない、刹那の間。
「声色、タイミングともに完璧な鎌かけです。嘘なんてつき慣れてないはずでしょうに、器用なもんですねぇ。ただ、まだまだ抑えの効かないところは多いようです。例えば……そう指とか」
視線だけ動かして指に目を移すと、確かに少しだけ不自然な形で硬直していた。
「それは鎌かけ――ではないようね、降参。千年を生きる妖怪にこんな駆け引きするもんじゃなかったわ」
「ははは。鴉天狗ならば若くともこのくらいは……。――忘れ形見を持つには、あの子は幼すぎる、だそうで。あ、霊夢さんのことです」
「私死んだ覚えないんだけど……」
「記憶と人格の連続性にいくつか境界めいたものがあったそうですよ? 何かアブない儀式でも?」
「あー……」
やけにすんなり本命に会えるとは思ったけど、やっぱり紫のさしが――手助けか。夢と現実の境がいくらなんでも虚ろすぎた。
しかし忘れ形見とはまた物々しい。……ああいや、そうか幽々子か……当事者だと重なって見えてしまうのも、まあ分からなくはない。記憶と人格の連続性、ね。確かにあれは――人ならざる時間を生きる者達の嗜みかもしれない。
「儀式なんてたいそうなものじゃなくてその……旅行よ、旅行」
「大冒険ではなく?」
「小旅行。ほら、可愛い子には旅させろっていうでしょう?」あ、取材を餌にして様子を見に来させたわけか……まったくあちらもこちらも如才ない。
「親御さん公認と」
「生憎うちのは溺愛することだけが取り柄だったわ」
「では盗んだ単車で?」
「お誕生日に買ってもらった最高級箒でひとっ飛びよ」
「……目当てのものは手に入りましたか?」
「……」
あの時とは違い、鍵のかかったグリモワール。二色を増した究極の魔法。
日記のように固く閉ざされたそれを見せて、その意味が分からない文ではないだろう。
「桑原桑原」
「マナの元素だから雷は……まあ作れはするかしら」
「魔界の秘奥を煮詰めてさらに開拓し、なお新たな魔術に着手せんとするあなたに、ですよ?」
「煮詰めて蓋をして、もう随分経ってしまったけれどね」
気を急いた代償は、呆れ返るほどの清算。
それも、結局色んな人の手を煩わせてしまった。
「躊躇うほどの時間ですかねぇ?」
「開けなくてはならなくなった時が時期なのよ、きっと」
「少なくともこちらは頃合いのようです」
文が首を伸ばして台所の方を見遣るのと、夕餉の匂いが鼻孔をくすぐったのはほぼ同時だった。
「紫さんには上首尾とお伝えしておきますね」
「委細漏らさず伝わるなら有難いわ」
「それは勿論、一字と一句も漏らさずこちらに」くたびれ気味の手帳を誇らしそうに見せる文。
「じゃあ、思う存分酩酊しましょうか」
・
「霊夢、呑みすぎじゃない?」
「私にコンテニューできないステージはないのよ」
「だいぶ酔いが回ってますねぇ」
「そういうあんたは相変わらずザルね……」
「天狗なもので。いえ、霊夢さんは強い方だと思いますよ。人間の中では」
「そう? そういえばアリスも結構強いのよね」
「私はペース守ってるだけだから」
「そんな呑み方してたら百年の酔いも覚めるぜ」
「あなたはあなたで潰れるまで本当に一直線に酔うのよね……。 ? 文、どうかした?」
「あ、いえ、なんでも……」
ああ、百年の酔いでどこぞの鬼でも思い出したか。
「文も気苦労が絶えなくて大変だなー。気苦労が」
「山で魔理沙さん匿うのも原因だったりするんですけどね。一割くらいは」
「はっはっは。目の保養になっていいだろ?」
「否定はしませんけどね。……。あなたのお母さんの幼いころにそっくりです」
「お、おう。そっかそっか」
珍しく照れている。真っ直ぐなくせに他人からの直球には弱いらしい。
霊夢を真ん中に、私は右隣、文は左隣で縁側に腰掛けて、(ほとんど文の肝臓に消えたが)かれこれ七升近く空にした。
魔理沙はと言えばいつの間にか文の体の正面にすっぽりと収まっている。あまりに綺麗に収まりすぎていて、最初からそうなっていたかのような趣さえあった。
「あんたら二人とも暑くないの?」
「私は妖怪ですし特には」
「もう火照っててよく分からん……」
「──風もほとんどないし、本当に暖かそうね。霊夢」
「今晩は特にね」
暖かそうというか、少し眠そうだ。
まあ、無理もない。
どこからともなく花の香りが流れてきて、
月には薄雲が御簾のようにかかっている。
里の灯もすっかり消え、けれどたまに吹く風はずっと柔らかなままだ。
「月やあらぬ……なんて感傷も溶けて消え行くような夜ですねぇ。春宵一刻値千金、ですか。弥栄弥栄」
「こんなん呑むなって方が無理よね」
本当に美味しそうに杯を傾ける霊夢。いや、不味そうに呑んでいるところはそもそも見たことがないけれど……。
「ああん峻峭? むにゃむにゃ……」
「おっと」
いつの間にか顔を真っ赤にするまで一直線に酩酊していた魔理沙が滑り落ちかけるのを、文が咄嗟に支えた。すると支えられたまま、魔理沙は杯を月に掲げて朗々と謳い上げた。
「絶景かな絶景かな、春宵一刻値千金とは小せえ小せえ、この霧雨魔理沙の目には値万両、万々両…………ぐー」
「……寝てるわ」
「落ちたわねー」
「お疲れだったんでしょうねぇ」
霊夢ほどではないが、なんとも幸せそうな寝顔を晒している。
「私もぼちぼちお先に失礼しましょうかね……見ての通り動けませんし……ふあぁ」
魔理沙が落とした杯を当然のように宙で捉え、中身を空にしてから脇に置いてそのまますとんと後を追いかける文。彼女もなんだかんだ他三人を合わせたよりなお呑んでいたので、そろそろ頃合いだったのかもしれない。
「四人でも全然余裕ね」
「んー?」
「縁側」
「そりゃあね……くぁ」
「あら、霊夢も?」
「んー……」
「……。ふふ、さっきと逆ね」
私の膝の上に寝転びながら、甘えた声で目をこする霊夢。場所がうろ覚えだったけど、毛布をとりあえず人数分、人形に取りに行かせた。
「やっぱり明日はあんたが作って……」
「和洋中?」
「…………」
「……できるだけ思い出して作ってみるわ」
「うん……」
…………。
………………。
……………………。
のんびり屋の時計の針のような寝息だと、なんとなく思った。
あるいはこんな時計なら、誰も地の底の夢には落ちなくて済んだのかもしれない。
霊夢の口元にかかっていた髪を、人差し指でゆっくりとすくった。夕焼けに染められていた時とはまるで別人のように、涼しく潤んでいる――赤らんだ頬は、けれど愛しい熱を帯びたままで。
風は緩やかに、青を深める葉を起こすことなく通り過ぎる。
夜は自らの価値を知るかのように、ためらいながら沈んでいく。
「おやすみ、霊夢」
三千世界の鴉も眠る、暖かい春の宵。
もうすぐ夏が来る。
御自分でもう一度読み直してみては
いいもの読めて満足です
旧作の頃を謳うシーンがとても良かった。世界観や、アリスの憧れについての解釈はすとんとハマりました
旧作レイアリの関係についてを、ここまで綺麗な文章で書かれた作品は中々ないと思います。感動しました
穏やかな時間の流れを感じる作中の空気感も良いですね
ただアリスの夢?の小旅行のシーンはよくわからなかった
もしかしてシリーズもの?
それとも不思議の国のアリスと東方のアリスを=にしてる?不思議の国のアリスを読んだらわかる文章なの?といろいろ考えてしまいました
多分違うんでしょうね
コメント1の方が言うように描写不足、あるいは書きたいところだけ書いたのかな
それでも僕は好きですが
霊夢ロリコン説良いですよね……成長してなかったら、「誰があんたなんかと友達なのよ」って邪険にされてなさそう
ただ、繋がりがよく分からない部分があり、描写がもっと欲しいかな...