深夜にふと目が覚めた。
見慣れた自室の天井が目に入り、外の幽かな虫の響きを耳にする。障子に差す月の光から、子の刻辺りかと想像する。
博麗霊夢は寝返りを打つと、隣で眠っているはずの霧雨魔理沙がまだ寝付いていないことに気が付いた。霊夢に背を向けて寝ている魔理沙は静かではあったものの、呼吸が眠っているそれではなかったのだ。
「……まだ眠れない?」
背中からそっと尋ねる。少し身じろぎした魔理沙の動きは、肯定のものに見えた。霊夢は身を寄せて、魔理沙を慮るようにその背中に手を添えた。
例大祭まであと数時間。博麗神社で行われる盛大な祭りの日は、すぐそこまで迫っていた。
博麗霊夢が主催する、博麗神社例大祭。幻想郷中から多くの人妖が博麗神社に集まるこの祭りには、種族の違いなど気にする者はいない。人間、妖怪、半妖、鬼、天狗、超人、仙人、天人、神。やってくるのは、純粋に祭りを楽しむ者たちだ。
祭りの参加者には、他の参加者に己の魅力を自慢する者たちもいる。鍛えた身体で力を誇示する者。装飾、仕草、立ち居振る舞いの華やかさで魅了する者。極まった達人芸で他者を感動させる者。道化を演じ、笑いと愛嬌をふりまく者。
芸を披露する者も、ただ見るだけの者も、他者の魅力には惜しみない声援と拍手を送り、そして他を魅せる者たちはその自覚に気高い誇りを持つ。豪華な飯と美酒も併せて、騒ぎ、歌い、誰もが楽しむ。そうして顕現するは楽園の夢。これを象徴として楽園が永遠に続くよう祈り、幻想郷に奉納するのが博麗神社例大祭の趣旨だった。
芸は誰がどんなものを披露しても自由。しかし芸を披露しようと企む者たちの中には、皆から当日どのようなものを魅せてくれるのであろうかと期待されている者もいる。霧雨魔理沙もまた、そんな期待を寄せられた者の一人だった。
例大祭の告知は二か月前。だがそれ以前から、魔理沙は既に『仕込み』を始めていると思われていた。彼女自身もそのことについて隠す様子はなかった。
当日の祭り、最大限に楽しみたいからな。その話題に触れられる度に、彼女が発した言葉だった。
それから二ヶ月。幻想郷の様子も、例大祭の開催を今か今かを思う空気が分かるほどになってきた頃。祭りの前夜、半日かけて当日の準備を終えた霊夢の元に、魔理沙は突然現れたのだ。
ここ数日、眠れてない。夜が怖いのだ―――と。
霊夢は何も訊かずに、魔理沙を招き入れた。目の下に分かるほどのくまを作り、何かに怯えるように不安な表情を浮かべるようになった魔理沙の原因がどこにあるのか、霊夢には大方予想がついていた。霊夢はただつとめて、いつものように振る舞っていた。いつも魔理沙が来た時のように、夕食をもう一食用意し、薪を風呂釜に多く放り込んだ。
魔理沙は、祭りの重圧に押し潰されているのだ。霊夢はそう確信していた。
本来、祭りは快楽のあふれる場。プレッシャーなどあるはずもない。だが言葉に出さないながらも、周りは魔理沙が祭りで何をしてくれるのか期待している。魔理沙もそれが分かってて、それに応えたくて、無意識に自分を追い込んでしまう。それが魔理沙の性分だから。それが皆の幸せに繋がると信じているから。だがそんな過剰な期待と追い込みの連鎖が、望まない結果を呼び込んだならば。その時いったい誰に幸せが訪れるというのだろうか?
ときに自己犠牲気質を見せる魔理沙の振る舞いや精神は、霊夢にとって嫌いなものではなかった。むしろ自分には決してない精神の気高さを見出しもする為に、尊崇の念さえ自覚することもあることを認めていた。霊夢はただ、そんな彼女の気高さが、彼女自身の可能性を摘み取ることを危惧していた。
傷心した魔理沙に対して、敢えて霊夢は積極的な働きかけはしなかった。魔理沙の精神が平常に戻れるよう、霊夢はただ黙々と必要と思うことをし続けた。食事の時も、入浴の入れ替わりの時も、必要以上の言葉は掛けなかった。ここでは心配しなくても良いという思いだけを、行動と雰囲気で伝え続けた。そんな見守りの姿勢が、魔理沙には良かったのかもしれない。風呂上がりに勧めた夜酒の酔いが心の箍を緩ませたのか、魔理沙はぽつりと霊夢に零していた。
「失敗するのが、怖いんだ」
魔理沙の言葉に、そんなに難しいことをするつもりなのかと霊夢は訊いた。魔理沙は小さく首を振って、霊夢の心配を否定した。
「確かに私のしようとしていることは簡単なことじゃない。絶対成功させるために、これ以上ないくらい丁寧に術式を組んだし、何回もちゃんと出来るか試しもした。今ではどこをどう動かせばどんな結果が出てくるか完全に分かっているし、確実に目的の術式を適切なタイミングで発動させられる自信もある。
でも。それでも、怖くなるんだ。もし、万が一という事態になることが。祭りでは何が起こるか分からない。誰が何をしでかすか、想像だってつかない。状況はまるで完璧じゃない。その中で自分が自分の思った通りにやれるのかどうか、そのことに全く自信が持てずにいるんだ」
魔理沙は身体を竦めて、小さく震えていた。霊夢は魔理沙のそばに近寄ると、静かに彼女に寄り添った。
魔理沙の自信を取り戻さなくては。霊夢は思う。
朝少し早めに起きて、魔理沙を起こして。まだ冷たさの残る朝の空気を深呼吸する。そうして眠気を飛ばした後に、朝食が出来るまでの間、裏で魔理沙に祭りで披露する予定の魔法を練習させよう。なんなら会場の舞台そのものを貸してあげてもいい。その方が本番の時に緊張が取れやすくなるかもしれない。私や常識外れに朝早くからやって来ている連中にはネタバレになるだろうが、この際そんなことは重要ではない。魔理沙が場の雰囲気に馴染むこと、それが今一番大事なことなのだから。
霊夢は魔理沙に、就寝の準備を勧めた。寝るにはまだ少し早い時間ではあったものの、霊夢自身の考えもあり、また魔理沙も霊夢の考えに賛同していたこともあって、特に差し障ることなく二人の手により部屋には二組の布団が敷かれた。
魔理沙の酔いは少々深めのものに見えていた。霊夢は酔いによる睡魔が悩みをいっとき忘れさせ、何事もなく彼女を朝まで誘うことを祈っていた。だから目が覚めて魔理沙が未だ眠れずにいることを知った時、想像するよりも遥かに大きく深い憂慮が彼女に根差しているのだと分かって、霊夢は密かに嘆息したのだ。貴女の心配はそこまで深いものなのか、と。
「霊夢、ごめん」
返ってきたのは謝罪の言葉だった。別に謝らせたくて言ったのではないと霊夢は気遣った。そしてすぐにそんな言葉が出てくる魔理沙の胸中を、霊夢は慮った。
だが魔理沙は続けて言った。呟かれたのは、意外な言葉だった。
「私……霊夢に嘘をついた」
「え?」
正直、戸惑わなかったと言えば嘘になる。霊夢は魔理沙の次の言葉を待った。
魔理沙はゆっくりと霊夢に向き直っていた。その目に涙を溢れさせて。
「本当は私、失敗するのが怖いんじゃない……。ううん、違う。失敗するのは確かに怖い。でもそれが一番じゃないんだ。魔法が上手くいかなくて、それでみんなから笑われることも、自分が情けなくなってしまうことも、本当に怖れていることに比べたらどうでもいいことなんだ。私はそれに今まで気づいていなかった。いや……気づかない振りをしていたんだ。知らないでいようと思っていた。でも、もうだめなんだよ。
霊夢、私は怖いんだ。もう気づいてしまったから。知ってしまったから。自分が本当は、何に一番怖れていたのかを」
嗚咽交じりの訴えを、霊夢は黙って聞いていた。そうして言葉が止み、しばらく二人の間に沈黙が訪れた。時々鼻のすする音だけが、静寂に混じって響いていた。
霊夢は慎重に言葉を選んで、魔理沙に訊いた。
「魔理沙が今一番怖れていることって、何なの」
魔理沙の視線が、少々泳いだ。わずかな逡巡。そして再び目が合うと、はっきりと魔理沙は言った。
「親父が、見に来るんだ。祭りの日に。私の魔法を、見るために」
ハッと霊夢は、胸が詰まる思いがした。一筋の涙が、魔理沙の目から零れていった。
「噂だったんだ。見に来るって。気にしなければ良かったのに、でも我慢できなかった。里の知り合いに訊いたら、本当だって。間違いなかった。後で訊いた自分を恨んだよ。こんなこと、確かめなければ良かったって。でなければ、こんな気持ちになることなんか、なかったのに。あいつのことなんかどうでもいいって思ってたくせに、心の奥底ではまだあいつへの思いを捨てきれずにいた、そんな自分に気づかされずに済んだのにって……」
「魔理沙……」
霊夢は静かに彼女の名を呟いていた。他に言葉はなかった。魔理沙の目からはぼろぼろと涙が溢れて零れ、枕に深い染みを作っていった。
魔理沙は胸元で自分の手を握り締めて、ぶるぶると震えていた。それは自分の中の何かがこれ以上溢れ出さないよう、必死で堪えているようにも見えた。彼女と彼女の父親との間に何があったのか、霊夢は巷で知られた上辺だけの事実しか知らない。だがそれが全てではないことくらいは、親子関係を経験したことがない霊夢でも分かっている。理解しえないほど複雑な事情があったのだろうとだけ、想像するのみだ。そして霊夢はそれ以上の事実を求めようとは思わなかった。魔理沙の口から自発的に、そのことが語られるようなことがない限りは。他人の家庭事情に首を突っ込むこと程、野暮なものはないと霊夢は知っていた。
霊夢はそっと手を伸ばして、魔理沙の胸元の拳を包み込むように触れていた。霊夢に魔理沙の苦しみは分からない。でも少しでも彼女の苦しみが紛れるならばと思った上での振る舞いだった。魔理沙の表情が一瞬、驚きと戸惑いの入り混じったものに変わった。固く握りしめられていた手が恐る恐る解けていった。魔理沙の手は冷たかった。そんな魔理沙の手を温めるように、霊夢は彼女の手を取っていた。
「霊夢……」
魔理沙が何かを言おうとして、結局その名を呟くに留まった。言おうとしたのは気遣いへの感謝か、はたまた更なる懇願か。霊夢はただ黙って魔理沙を見つめていた。
「……霊夢。私は、独りだ。ずっと独りだった」
「うん」
「独りでいることなんて、もう怖くないって思ってた」
「…………」
「でも、今は違う。私は今、独りでいるのが怖い。霊夢。私、独りでいるのが怖いんだ……」
霊夢は何も言わずに、そっと魔理沙を抱き寄せていた。それが魔理沙にとって一番必要なことだと分かったからだ。魔理沙は無意識に霊夢の胸元に顔を埋めていた。まるで探し求めていた母親の姿を、ようやく見つけられた少女のように。
我が子をあやすように背中をさすり、静かな嗚咽を耳にしながら、霊夢は思う。
森でいっとき道を見失ってしまった魔法使いの少女。霧雨魔理沙は人生という森にさまよいこんだ、独りぼっちの迷子だったのだ、と。
※ ※ ※
例大祭で自らの魅力を披露する者たちのことを、時折霊夢は想像する。
彼ら、彼女らがその時惜しげもなく他者に見せつけているそれは、そのとき一瞬のものでは決してなく、陰で膨大な時間と労力を重ね、血と汗と涙を流し、多大な身体的、精神的苦労と努力が積み重なって到達した一点であることを、霊夢は知っている。
即ち、それは。その者が生み出し、辿り着いた到達点とは。それはまさしく、その者自身である。霊夢はそう考えるのだ。
鍛え上げし肉体。絢爛煌びやかな衣装。万人には為し得ない、限られし者のみが習得し、体現する技の数々。
華やかなものばかりではない。他者から見れば、何故これを披露する? と不躾にも思ってしまう事象もある。霊夢は敢えてこのことを否定しない。だが間違えてはならないのが、そう思える対象がどこを差しているかを意識することだと霊夢は自戒している。
努力に貴賤無し。蔑まれる努力など存在しない。
評価しうる価値は、受け入れる側に存在する。しかし絶対的な真の価値は、それを生み出した行為者のみが持つものだ。それは決して受け入れる側には存在しない。
故に努力とは、絶対的な価値である。努力により成し得た行為、すなわち結果が評価しうる価値なのである。
努力が絶対的な価値とみなせるなら、敢えて乱暴な捉え方をするならば、努力の形がその者の魂、あるいはその一部の顕現と見なせる、という考え方も出来るかもしれない。
そう考える思考過程が霊夢にはあった。だからこそ霊夢は、その全てを受け入れねばならないと認識しているのだ。博麗神社例大祭を主催し、そこで生まれた魂の輝きを幻想へと奉納する役目を持った、博麗の巫女として。
努力が人の形を成すものであるのなら。魂に貴賤の無いものと信ずる信念があるのなら。
これを拒否する権利など、博麗の巫女には存在しない。
故に巫女は祈り、願う。努力に幸あれ。魂に幸あれ、と。
努力の形は年月を経るごとに一層多様化していく。その全てを認めようなど、まるで現実的ではない。
だが博麗の巫女はその全てを受け入れる。それが彼女の役目である故に。
誇りを忘れたもうな。決して自らの誇りを忘れたもうな。
そして生み出せし者たちへ、永遠に幸の途切れることなかれ。
生きとし生ける者の持つ、原初の願いの一つ。無から有を生み出そうとする意欲の永続。
それが博麗の巫女の、唯一の望みである。
※ ※ ※
嗚咽の響きは、意外にもすぐに収まっていた。慰められて落ち着いた魔理沙は頭をもたげて、するすると霊夢の顔と同じ位置に戻っていた。
目と鼻の頭、そして頬が紅い。ちらちらと視線をそらしてこちらと目を合わせようとしないのは、魔理沙が恥ずかしがっているからだということに霊夢が気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「霊夢、その……。子供っぽくて、気持ち悪い女で、ごめん……」
謝る姿が霊夢にはとてもいじらしかった。胸元を涙で濡らされたくらい、霊夢にはなんでもないことだった。それはそうしたのが霧雨魔理沙だったからだ。霊夢はふっと笑みを浮かべると、親友の額にこつんと自分のそれを当てて返していた。
『あんたは独りじゃないわ。いつも私がそばにいるんだから』
恥ずかしい台詞だった。流石に霊夢もこれを口に出しては言おうとは思わなかった。でもいつか、そんなことを口にする日が来るのだろうな、とは予想していた。
それが明日のことであったのは、また別のお話である。
例大祭の朝は、もうすぐだ。
見慣れた自室の天井が目に入り、外の幽かな虫の響きを耳にする。障子に差す月の光から、子の刻辺りかと想像する。
博麗霊夢は寝返りを打つと、隣で眠っているはずの霧雨魔理沙がまだ寝付いていないことに気が付いた。霊夢に背を向けて寝ている魔理沙は静かではあったものの、呼吸が眠っているそれではなかったのだ。
「……まだ眠れない?」
背中からそっと尋ねる。少し身じろぎした魔理沙の動きは、肯定のものに見えた。霊夢は身を寄せて、魔理沙を慮るようにその背中に手を添えた。
例大祭まであと数時間。博麗神社で行われる盛大な祭りの日は、すぐそこまで迫っていた。
博麗霊夢が主催する、博麗神社例大祭。幻想郷中から多くの人妖が博麗神社に集まるこの祭りには、種族の違いなど気にする者はいない。人間、妖怪、半妖、鬼、天狗、超人、仙人、天人、神。やってくるのは、純粋に祭りを楽しむ者たちだ。
祭りの参加者には、他の参加者に己の魅力を自慢する者たちもいる。鍛えた身体で力を誇示する者。装飾、仕草、立ち居振る舞いの華やかさで魅了する者。極まった達人芸で他者を感動させる者。道化を演じ、笑いと愛嬌をふりまく者。
芸を披露する者も、ただ見るだけの者も、他者の魅力には惜しみない声援と拍手を送り、そして他を魅せる者たちはその自覚に気高い誇りを持つ。豪華な飯と美酒も併せて、騒ぎ、歌い、誰もが楽しむ。そうして顕現するは楽園の夢。これを象徴として楽園が永遠に続くよう祈り、幻想郷に奉納するのが博麗神社例大祭の趣旨だった。
芸は誰がどんなものを披露しても自由。しかし芸を披露しようと企む者たちの中には、皆から当日どのようなものを魅せてくれるのであろうかと期待されている者もいる。霧雨魔理沙もまた、そんな期待を寄せられた者の一人だった。
例大祭の告知は二か月前。だがそれ以前から、魔理沙は既に『仕込み』を始めていると思われていた。彼女自身もそのことについて隠す様子はなかった。
当日の祭り、最大限に楽しみたいからな。その話題に触れられる度に、彼女が発した言葉だった。
それから二ヶ月。幻想郷の様子も、例大祭の開催を今か今かを思う空気が分かるほどになってきた頃。祭りの前夜、半日かけて当日の準備を終えた霊夢の元に、魔理沙は突然現れたのだ。
ここ数日、眠れてない。夜が怖いのだ―――と。
霊夢は何も訊かずに、魔理沙を招き入れた。目の下に分かるほどのくまを作り、何かに怯えるように不安な表情を浮かべるようになった魔理沙の原因がどこにあるのか、霊夢には大方予想がついていた。霊夢はただつとめて、いつものように振る舞っていた。いつも魔理沙が来た時のように、夕食をもう一食用意し、薪を風呂釜に多く放り込んだ。
魔理沙は、祭りの重圧に押し潰されているのだ。霊夢はそう確信していた。
本来、祭りは快楽のあふれる場。プレッシャーなどあるはずもない。だが言葉に出さないながらも、周りは魔理沙が祭りで何をしてくれるのか期待している。魔理沙もそれが分かってて、それに応えたくて、無意識に自分を追い込んでしまう。それが魔理沙の性分だから。それが皆の幸せに繋がると信じているから。だがそんな過剰な期待と追い込みの連鎖が、望まない結果を呼び込んだならば。その時いったい誰に幸せが訪れるというのだろうか?
ときに自己犠牲気質を見せる魔理沙の振る舞いや精神は、霊夢にとって嫌いなものではなかった。むしろ自分には決してない精神の気高さを見出しもする為に、尊崇の念さえ自覚することもあることを認めていた。霊夢はただ、そんな彼女の気高さが、彼女自身の可能性を摘み取ることを危惧していた。
傷心した魔理沙に対して、敢えて霊夢は積極的な働きかけはしなかった。魔理沙の精神が平常に戻れるよう、霊夢はただ黙々と必要と思うことをし続けた。食事の時も、入浴の入れ替わりの時も、必要以上の言葉は掛けなかった。ここでは心配しなくても良いという思いだけを、行動と雰囲気で伝え続けた。そんな見守りの姿勢が、魔理沙には良かったのかもしれない。風呂上がりに勧めた夜酒の酔いが心の箍を緩ませたのか、魔理沙はぽつりと霊夢に零していた。
「失敗するのが、怖いんだ」
魔理沙の言葉に、そんなに難しいことをするつもりなのかと霊夢は訊いた。魔理沙は小さく首を振って、霊夢の心配を否定した。
「確かに私のしようとしていることは簡単なことじゃない。絶対成功させるために、これ以上ないくらい丁寧に術式を組んだし、何回もちゃんと出来るか試しもした。今ではどこをどう動かせばどんな結果が出てくるか完全に分かっているし、確実に目的の術式を適切なタイミングで発動させられる自信もある。
でも。それでも、怖くなるんだ。もし、万が一という事態になることが。祭りでは何が起こるか分からない。誰が何をしでかすか、想像だってつかない。状況はまるで完璧じゃない。その中で自分が自分の思った通りにやれるのかどうか、そのことに全く自信が持てずにいるんだ」
魔理沙は身体を竦めて、小さく震えていた。霊夢は魔理沙のそばに近寄ると、静かに彼女に寄り添った。
魔理沙の自信を取り戻さなくては。霊夢は思う。
朝少し早めに起きて、魔理沙を起こして。まだ冷たさの残る朝の空気を深呼吸する。そうして眠気を飛ばした後に、朝食が出来るまでの間、裏で魔理沙に祭りで披露する予定の魔法を練習させよう。なんなら会場の舞台そのものを貸してあげてもいい。その方が本番の時に緊張が取れやすくなるかもしれない。私や常識外れに朝早くからやって来ている連中にはネタバレになるだろうが、この際そんなことは重要ではない。魔理沙が場の雰囲気に馴染むこと、それが今一番大事なことなのだから。
霊夢は魔理沙に、就寝の準備を勧めた。寝るにはまだ少し早い時間ではあったものの、霊夢自身の考えもあり、また魔理沙も霊夢の考えに賛同していたこともあって、特に差し障ることなく二人の手により部屋には二組の布団が敷かれた。
魔理沙の酔いは少々深めのものに見えていた。霊夢は酔いによる睡魔が悩みをいっとき忘れさせ、何事もなく彼女を朝まで誘うことを祈っていた。だから目が覚めて魔理沙が未だ眠れずにいることを知った時、想像するよりも遥かに大きく深い憂慮が彼女に根差しているのだと分かって、霊夢は密かに嘆息したのだ。貴女の心配はそこまで深いものなのか、と。
「霊夢、ごめん」
返ってきたのは謝罪の言葉だった。別に謝らせたくて言ったのではないと霊夢は気遣った。そしてすぐにそんな言葉が出てくる魔理沙の胸中を、霊夢は慮った。
だが魔理沙は続けて言った。呟かれたのは、意外な言葉だった。
「私……霊夢に嘘をついた」
「え?」
正直、戸惑わなかったと言えば嘘になる。霊夢は魔理沙の次の言葉を待った。
魔理沙はゆっくりと霊夢に向き直っていた。その目に涙を溢れさせて。
「本当は私、失敗するのが怖いんじゃない……。ううん、違う。失敗するのは確かに怖い。でもそれが一番じゃないんだ。魔法が上手くいかなくて、それでみんなから笑われることも、自分が情けなくなってしまうことも、本当に怖れていることに比べたらどうでもいいことなんだ。私はそれに今まで気づいていなかった。いや……気づかない振りをしていたんだ。知らないでいようと思っていた。でも、もうだめなんだよ。
霊夢、私は怖いんだ。もう気づいてしまったから。知ってしまったから。自分が本当は、何に一番怖れていたのかを」
嗚咽交じりの訴えを、霊夢は黙って聞いていた。そうして言葉が止み、しばらく二人の間に沈黙が訪れた。時々鼻のすする音だけが、静寂に混じって響いていた。
霊夢は慎重に言葉を選んで、魔理沙に訊いた。
「魔理沙が今一番怖れていることって、何なの」
魔理沙の視線が、少々泳いだ。わずかな逡巡。そして再び目が合うと、はっきりと魔理沙は言った。
「親父が、見に来るんだ。祭りの日に。私の魔法を、見るために」
ハッと霊夢は、胸が詰まる思いがした。一筋の涙が、魔理沙の目から零れていった。
「噂だったんだ。見に来るって。気にしなければ良かったのに、でも我慢できなかった。里の知り合いに訊いたら、本当だって。間違いなかった。後で訊いた自分を恨んだよ。こんなこと、確かめなければ良かったって。でなければ、こんな気持ちになることなんか、なかったのに。あいつのことなんかどうでもいいって思ってたくせに、心の奥底ではまだあいつへの思いを捨てきれずにいた、そんな自分に気づかされずに済んだのにって……」
「魔理沙……」
霊夢は静かに彼女の名を呟いていた。他に言葉はなかった。魔理沙の目からはぼろぼろと涙が溢れて零れ、枕に深い染みを作っていった。
魔理沙は胸元で自分の手を握り締めて、ぶるぶると震えていた。それは自分の中の何かがこれ以上溢れ出さないよう、必死で堪えているようにも見えた。彼女と彼女の父親との間に何があったのか、霊夢は巷で知られた上辺だけの事実しか知らない。だがそれが全てではないことくらいは、親子関係を経験したことがない霊夢でも分かっている。理解しえないほど複雑な事情があったのだろうとだけ、想像するのみだ。そして霊夢はそれ以上の事実を求めようとは思わなかった。魔理沙の口から自発的に、そのことが語られるようなことがない限りは。他人の家庭事情に首を突っ込むこと程、野暮なものはないと霊夢は知っていた。
霊夢はそっと手を伸ばして、魔理沙の胸元の拳を包み込むように触れていた。霊夢に魔理沙の苦しみは分からない。でも少しでも彼女の苦しみが紛れるならばと思った上での振る舞いだった。魔理沙の表情が一瞬、驚きと戸惑いの入り混じったものに変わった。固く握りしめられていた手が恐る恐る解けていった。魔理沙の手は冷たかった。そんな魔理沙の手を温めるように、霊夢は彼女の手を取っていた。
「霊夢……」
魔理沙が何かを言おうとして、結局その名を呟くに留まった。言おうとしたのは気遣いへの感謝か、はたまた更なる懇願か。霊夢はただ黙って魔理沙を見つめていた。
「……霊夢。私は、独りだ。ずっと独りだった」
「うん」
「独りでいることなんて、もう怖くないって思ってた」
「…………」
「でも、今は違う。私は今、独りでいるのが怖い。霊夢。私、独りでいるのが怖いんだ……」
霊夢は何も言わずに、そっと魔理沙を抱き寄せていた。それが魔理沙にとって一番必要なことだと分かったからだ。魔理沙は無意識に霊夢の胸元に顔を埋めていた。まるで探し求めていた母親の姿を、ようやく見つけられた少女のように。
我が子をあやすように背中をさすり、静かな嗚咽を耳にしながら、霊夢は思う。
森でいっとき道を見失ってしまった魔法使いの少女。霧雨魔理沙は人生という森にさまよいこんだ、独りぼっちの迷子だったのだ、と。
※ ※ ※
例大祭で自らの魅力を披露する者たちのことを、時折霊夢は想像する。
彼ら、彼女らがその時惜しげもなく他者に見せつけているそれは、そのとき一瞬のものでは決してなく、陰で膨大な時間と労力を重ね、血と汗と涙を流し、多大な身体的、精神的苦労と努力が積み重なって到達した一点であることを、霊夢は知っている。
即ち、それは。その者が生み出し、辿り着いた到達点とは。それはまさしく、その者自身である。霊夢はそう考えるのだ。
鍛え上げし肉体。絢爛煌びやかな衣装。万人には為し得ない、限られし者のみが習得し、体現する技の数々。
華やかなものばかりではない。他者から見れば、何故これを披露する? と不躾にも思ってしまう事象もある。霊夢は敢えてこのことを否定しない。だが間違えてはならないのが、そう思える対象がどこを差しているかを意識することだと霊夢は自戒している。
努力に貴賤無し。蔑まれる努力など存在しない。
評価しうる価値は、受け入れる側に存在する。しかし絶対的な真の価値は、それを生み出した行為者のみが持つものだ。それは決して受け入れる側には存在しない。
故に努力とは、絶対的な価値である。努力により成し得た行為、すなわち結果が評価しうる価値なのである。
努力が絶対的な価値とみなせるなら、敢えて乱暴な捉え方をするならば、努力の形がその者の魂、あるいはその一部の顕現と見なせる、という考え方も出来るかもしれない。
そう考える思考過程が霊夢にはあった。だからこそ霊夢は、その全てを受け入れねばならないと認識しているのだ。博麗神社例大祭を主催し、そこで生まれた魂の輝きを幻想へと奉納する役目を持った、博麗の巫女として。
努力が人の形を成すものであるのなら。魂に貴賤の無いものと信ずる信念があるのなら。
これを拒否する権利など、博麗の巫女には存在しない。
故に巫女は祈り、願う。努力に幸あれ。魂に幸あれ、と。
努力の形は年月を経るごとに一層多様化していく。その全てを認めようなど、まるで現実的ではない。
だが博麗の巫女はその全てを受け入れる。それが彼女の役目である故に。
誇りを忘れたもうな。決して自らの誇りを忘れたもうな。
そして生み出せし者たちへ、永遠に幸の途切れることなかれ。
生きとし生ける者の持つ、原初の願いの一つ。無から有を生み出そうとする意欲の永続。
それが博麗の巫女の、唯一の望みである。
※ ※ ※
嗚咽の響きは、意外にもすぐに収まっていた。慰められて落ち着いた魔理沙は頭をもたげて、するすると霊夢の顔と同じ位置に戻っていた。
目と鼻の頭、そして頬が紅い。ちらちらと視線をそらしてこちらと目を合わせようとしないのは、魔理沙が恥ずかしがっているからだということに霊夢が気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「霊夢、その……。子供っぽくて、気持ち悪い女で、ごめん……」
謝る姿が霊夢にはとてもいじらしかった。胸元を涙で濡らされたくらい、霊夢にはなんでもないことだった。それはそうしたのが霧雨魔理沙だったからだ。霊夢はふっと笑みを浮かべると、親友の額にこつんと自分のそれを当てて返していた。
『あんたは独りじゃないわ。いつも私がそばにいるんだから』
恥ずかしい台詞だった。流石に霊夢もこれを口に出しては言おうとは思わなかった。でもいつか、そんなことを口にする日が来るのだろうな、とは予想していた。
それが明日のことであったのは、また別のお話である。
例大祭の朝は、もうすぐだ。
良かったです。
霊夢の告白時の話も読んでみたいです。
良い作品でした。
続きあれば読んでみたいお話です。
魔理沙を慮る霊夢の温かい気持ちが伝わってきました
博麗神社には布団が一組しかないはずでは?