Coolier - 新生・東方創想話

海を見る

2018/05/01 10:16:31
最終更新
サイズ
33.85KB
ページ数
1
閲覧数
2939
評価数
16/29
POINT
2180
Rate
14.70

分類タグ

 秋――暑すぎず寒すぎず、怠惰を謳歌するのに最も適した季節。
 その日、霊夢と魔理沙は、いつものように社務所の居間兼食堂兼応接間の畳に寝転がって、思い思いに本を読んでいた。
 霊夢は、鈴奈庵から借りてきた詩集を。魔理沙は、パチュリーから借りてきた魔術書を。時たま煎餅をかじり緑茶を啜り、安穏とした時間を過ごす。
 読むともなく本を読んでいた霊夢だったが、とある一篇の詩が、心に引っかかった。
 ゆっくりと、読み上げる。

「『――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある』」

「ん? 詩か?」
「そう、詩。海と、たぶん、母親についての詩。魔理沙、海ってどんなところか知ってる?」
「今さらなんだ。一緒に見たじゃないか、月で」
「豊かの海、だったかしら。でもあれは、あくまで月の海よ。生き物のいない場所。それは、この詩に書かれている海ではないわ。ここに書かれているのは、地球の海」
「地球の海か。もちろん見たことはないが――あれだろ。青くて広くて大きくて生くさい水たまり」
「身も蓋もないわね。でもまあ、幻想郷生まれ幻想郷育ちじゃ、その認識が限界か」
 見たこともないものについて、言葉を交わす。決して、結論には辿り着かない。それこそ鵺のように、輪郭も内実も判然としない、曖昧模糊とした何かが浮かぶばかりだ。
 二人、そうやって話していると、
「晴れたので遊びに来ましたっ!」
 玄関口から、早苗の元気の良い声が聞こえてきた。そのまま、自宅のような気軽さで上がり込み、自宅のような気軽さで畳に腰をおろす。
「あ、早苗だ。ちょうどいいところに」
「あら、珍しい。霊夢さんが私に対して、肯定的な態度を取るなんて」
「自覚してんの?」
「ええ。もちろん、気にしませんが」
「いい性格してるぜ」
「魔理沙さんに言われたくありませんよ。――それで、いいところ、というのは?」
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「はい。なんなりと」
「海ってどんなところ?」
「海ですか。そうですね」
 しばし考え、
「青くて広くて大きくて生くさい――」
「「水たまり」」
 早苗と魔理沙、二人の声が重なる。
 霊夢はその答えに対して、大袈裟過ぎるほど大袈裟に、ため息を吐いてみせた。
「まったく、表現の貧困も極まれりね。魔理沙はともかく、早苗の所感がそれ? 仮にも巫女でしょ。自然への敬いみたいなものはないの?」
「霊夢さんがそれ言います? そもそも私、巫女は巫女でも、乾と坤、天と地に関わる巫女ですから。海は管轄外です」
「まあいいけどさ。とにかく、あんた、外の世界から来たんだから、実際に見たことあるでしょ、海。見たことある人間なりのことを言いなさいよ」
「ええと」
 天井の方を見て、記憶を探る早苗。
「ええっと」
 その顔が、徐々に曇っていく。
「どうしたのよ。珍妙な顔して」
「せめて神妙な顔と言ってください!」
「それで、どうしたの」
「私、海、行ったことないかも……です」
「はぁ? あるでしょ。ないわけないでしょ。日本って島国なんでしょ。四方八方海に囲まれてるんでしょ」
「いえ、その……私、海無し県出身なもので。四方が別の県に囲まれてて、海って簡単に行けなかったんですよ」
「それでも海行ったことくらいあるでしょ。旅行とかしなかったの?」
「両親とも、神職に就いてましたからね。あまり、社から離れるわけにもいかなくて。私が巫女になってからはなおさら」
「ああ、じゃ、あれはどうなんだ? シュウガク旅行、とかいうの。外の人間はするらしいじゃないか。神社の娘だって、さすがに行ったろ」
「行きましたよ、小学生の時に。鹿と大仏様を見に。海とは無縁な所です。それで、中学生の時は、飛行機で南の方へ行く予定だったんでずか、運悪く風邪をひいてしまって」
「コーコーの時はどうなんだ?」
「行く前にこちらに越して来ましたから」
「そう……なの」
 三人の間に、なんとも気まずい沈黙が落ちた。
「私自身、わりとショックです。私って、結局、テレビとか映画とか写真でしか海見たことなかったんだな、って」
「まあ、そういうこともあるさ。竹の花を見ずに終わる人生もあるんだ、気を落とすな」
「そのたとえ、少し違うんじゃない?」
「そうか?」
 霊夢と魔理沙が益体のない会話をしている間に、緩慢な動作で腰を上げる早苗。
「今日は……これで、お暇させていただきます」
「悪いわね、なんか、暗い気分にさせちゃって」
「いえ、いいんです。お気にさらず」
 早苗ははそう言い残すと、覚束無い足取りで、博霊神社を去っていった。

 緑色の巫女が帰ってからも、紅白の巫女と白黒の魔法使いの会話は続く。
「海かー。年寄り連中なら知ってるんじゃないか? 紫とか幽々子とか永琳とか」
「それあいつらの前で言ったら、塵も残さず消されるわよ」
「わかってるよ。ここにいないから言ったんだ。他には……マミゾウに当たったらどうだ? なんでも、外の世界じゃ島一つ占領してるらしいぜ」
「あいつなら知ってるかもしれないけど、いまいち、どこにいるかわからないからねえ。ああ、古い人間なら、道場の連中がいるか」
「いや、でも、確かあいつらがいた都って、大仏様と近いあたりじゃなかったか? 時代は違うかもしれんが。下手すれば、全員、海見てない可能性があるぞ」
「まあ、見たことがないってことはないだろうけど。青娥は……あいつには、なんとなく、聞きたくないわね。まともな答えが返ってきそうにないわ」
「だろうな。なら、白蓮はどうだ? 旅してたんだろ、昔。弟追っかけて」
「悪くないけど、白蓮って、早苗と同郷、みたいなこと言ってた覚えがあるのよ」
「海無し県出身なのか」
「そう。こっちも、時代は全然違うけれどね。海が無いことには変わらないでしょ。それで、その目的地が……ああ、もう。結局、大仏様の近くじゃない」
「世間は狭いなあ」
「全くね」
「あとは……お前も最初からわかってただろうけど、寺にはあいつがいるな。海を見てないはずがないヤツが一人」
「うん。もちろん、最初からわかってたわ。でも、あいつに海のこと聞くのは、少し……」
「憚られるな。海で死んで海で殺してきたヤツに、海のことを聞く、か。これ以上無い適任ではあるが、これ以上ないほど不謹慎だぜ」
 道理である。双方の見解は一致していた。それでも霊夢の心には、なお諦められない思いがあった。煮え切らぬ表情で、俯く。
「あいつのところに聞きに行くのか?」
「行きたいけど……今はこれでも、お務めの最中だから」
「さっきまでごろごろ床に寝っ転がって本読んでたのに?」
「だから、これでも、と言ったでしょ」
 半分以上は、言い訳だった。行きたい。けれど、行きたくない。海について知りたい。けれど同時に、それが理解できなかった時のことを考えると、怖い。
 ――たぁん、という軽い音が、部屋に響く。
 逡巡する霊夢の肩を、魔理沙が勢いよく叩いたのだった。
「行けよ。わたしが留守番しといてやるから」
「……いいの?」
「本読んで待ってるだけだから、やることは変わらないさ。だいたい、お務めったって、参拝客が来る確率なんて限りなく低いんだから。思い立ったが吉日ってやつだ」
「ありがと、魔理沙」

 神社から命蓮寺へと、ゆっくりと空を飛んでいく。
 天気は快晴。雲一つない、心地の良い陽気。わずかに浮いた汗は、ひんやりとした風に散らされていく。
 と、霊夢の顔に、前触れもなく影がかかった。
 雲であるはずもなし、訝しく思って軽く見上げると、底の読めない薄笑いを浮かべた天狗が、そこにいた。
「おや、霊夢さん。これは奇遇」
「ああ、面倒な天狗。相変わらず暇そうね」
 速度は落とさず、前進しながら応じる。
「相変わらず口の悪い巫女さんですね」
 射命丸文は、当然の如く霊夢と並んで飛行しながら、楽しそうに笑った。
「じゃ、あんた、出先ではたてと出会ったら、まずなんて思う?」
「面倒なヒトに会ったなあ、暇そうなヒトに会ったなあ、って思いますね」
「自覚してるんじゃない」
「それは、はたての話でしょう?」
「天狗全般が面倒で暇そうっていう証明よ」
 この程度で気分を害したわけでもなかろうが、話が進まないと判断したのだろう、「こほん」と、文が空咳を一つ挟む。
「どちらへおでかけで?」
「お寺の方に、少し、ね」
「ふむ。霊夢さんにしては珍しく、真剣ですね」
「珍しくは余計だし、そもそも、そんなに真剣な話でもないわ。ただ――」
 真剣なのか真剣でないのか、霊夢自身にも、わからなかった。海のことが聞きたいのか、あるいはそれ以外のことを知りたいのか。
「ああ、そうだ。一応、あんたにも聞いておくか。あんた、今、千歳ぐらいよね。ってことは、幻想郷が作られる前は、外の世界にいたのよね?」
「実にトートロジー溢れる問いですが、間違いなく、外の世界にいましたね」
「なら、海を見たこと、ある?」
 霊夢の声音で、理解したのだろう。文は半眼で、小さく首を縦を振った。
「ありますよ、もちろん」
「海って、どんな場所?」
 尋ねて、即座に付け足す。
「ちなみに、『青くて広くて大きくて生くさい水たまり』ってのは無しね。仮にもブン屋を名乗るなら、気の利いたこと言ってみせなさい」
「これは厳しい。そうですね……」
 しばしの黙考の後、肩をすくめる文。
「でも実際、その表現は、そう的を外したものでもないんですよ。霧の湖ってありますよね。あれを全て塩水にして、視界の果てまで広げたような場所、という感じです」
「ふぅん」
「ああ、がっかりなされました? 私の所感を抜きにして、辞書的な定義でよければ、詳しく述べることもできますが。それとも、もう少し詩的な表現をした方がよろしい?」
「詩は足りてるわ。そもそも、あんたの言語表現には最初から期待してないし」
「言い訳をさせてもらいますとですね、私、天狗ですから、基本的に山がテリトリーなんですよ。だから、海の方に出る機会ってあまりなかったんです」
「千年も生きてきたのに?」
「はい。見るとしても、こうやって飛びながら、上空から眺めるだけ、というのが大半でしたから。そうすると、飽きちゃうんですよ」
 言いながら文は、彼方にそびえる妖怪の山へと視線を向けた。
「山は、ほら、地域によって植生が違ったりするでしょう? 季節によって色が変わったりもしますし。だから、色々と観察してしまうんですが」
 緋、山吹、橙、焦げ茶――山は、秋の色に染まっていた。もっと近くに行けば、その実りを眼にすることもできるだろう。なるほど確かに、彩りに溢れている。
「海には、変化が少ない?」
「あくまで、私にとっては、ですが」
「ふぅん。私も魔理沙も見たことなくて、少し前に外から来た早苗も見たことなくて、千年も生きてきたあんたも、ほとんど興味を持たなかった」
 言葉を連ね、思わず、嘆息する。
「海って、案外、つまらないものなのかな」
 すると、霊夢の横顔をじっと観察していた文が、負けず劣らず残念そうなため息を吐いた。
「後悔先に立たず、ですねぇ」
「なにが?」
「もっともっと、ちゃんと海を見ておくべきでした。今日この日、霊夢さんをがっかりさせないために」
「……うん」
 それはきっと、文なりの、最大限の優しさなのだろう。霊夢は、小さく頷いた。
 しばしの後、文は、羽の向きを微調整して、進路を右方へと取った。
「それでは、私、家に戻りますね」
「どっかに取材に行くんじゃなかったの?」
「家に戻って、少し、腰を据えて考えてみたくなったんです。どんな言葉を使えば、海を見たことのない人に、ちゃんと、海を想像してもらえるか」
「なんていうか、その……ありがと」
「いえいえ。こちらこそ、ネタのご提供、ありがとうございました。それではっ!」
 文はひらひらと手を振ると、影さえ残さぬスピードで、妖怪の山へと飛んでいった。

 ほどなくして、寺の山門が見えてきた。速度を調整し、地面に降り立つ。
「『――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある』」
 山門をくぐりながら、詩を反芻する。
「海は母親に似ていて、母親は海に似ている……どちらも知らない私は……どちらも決して、わからない……」
 文の饒舌が、一時的に伝染ってしまったのかもしれない。心の中の、まとまらない想いが、言葉となって口から出てくる。
 その時、突然、地面に近いあたりから、幼い大きな声が響いてきた。
「わからない!? なにがわからないんですかー!?」
「うわっ! いたのっ!?」
 驚きのあまり、一歩後ずさる。見るとそこには、幽谷響子がいた。
「いました! ずっといましたよ! こんにちはー!」
「はいはい、こんにちは」
 天真爛漫な小さな妖怪を前にして、霊夢の顔にわずか、笑みが浮かぶ。
「白蓮様にご用事ですか?」
「いや、別のヤツに……」
「あら、霊夢さん」
 霊夢が言い終える前に、妙齢の女性の声が境内を渡った。正式な僧装をまとっているということは、おそらく、檀家参りに行っていたのだろう。
「白蓮様! おかえりなさい!」
「ただいま、響子。それに、霊夢さん、こんにちは」
「どーも」
「そのお顔……ついに仏門に入る決心がついたのですか?」
「そんな顔してないわよ。あんたじゃなくて、あんたの弟子に用事があって来たの。あの船幽霊に」
「あら、お珍しい」
「うん。珍しいね。私も、そう思う――それで、村紗、いる?」
「この時間は、空中遊覧船の船頭を務めております。もう少しで戻って来ますので、庫裏に上がってお待ちになってください。門徒の方から塩饅頭を頂きましたの。響子の分もあるから、一緒にお上がりなさい」
「はーい!」
「……うん」
 甘味に対しても反応の鈍い霊夢に、白蓮が小首を傾げる。
「あまり気分がよろしくない様子ですね」
「ってわけでもない。良くもないけどさ。なんか……ここまで来たはいいけど、もういいかな、って思って。聞いても、がっかりするだけかもしれないし」
 独白のように、言葉を続ける。
「いや、最初から期待してないんだから、がっかりのしようもないか」
 その表情と声音から、白蓮は、何かを察したようだった。庫裏への短い道々、石畳を楚々と歩きながら、霊夢に語りかける。
「仏教には、《一味》という言葉があります」
「一味? 唐辛子の一味? それとも、悪党一味とかの一味?」
 白蓮はうっすらと苦笑を浮かべると、小さく首を横に振った。
「ありとあらゆる川は、海に繋がります。日本に流れる川も、宋に流れる川も、印度に流れる川も。そして皆一様に、海で混ざり合い、塩味となります。どんな地から湧き出ても、どんな川を流れても、同じ味になるのです」
「ふぅん。当たり前の話に聞こえるけど。それで?」
「今の私に言えるのは、これだけです」
 そんなことを言われても、霊夢は釈然としない。しかし、質問を重ねたところで、答えは返ってきそうなかった。

 庫裏の応接間で、塩饅頭と番茶をごちそうになる。程よい塩分と糖分と水分が、身体に染み込む。
 そして、穏やかな白蓮と賑やかな響子、二人の会話を聞くともなく聞いて時間を潰す。
 半刻ほどその場でそうしていると、目的の人物が現れた。
「ただいまー」
 快活な声。額に浮いた汗をハンカチで丁寧に拭いながら、村紗水蜜が庫裏に上がってくる。
「お疲れ様、水蜜」
 彼女はすぐに、来訪者の存在に気づいた。
「あっ、霊夢じゃない。珍しいこともあるもんだ」
「あなたに、少し聞きたいことがあって」

「――わかった」
 話を聞き終えた水蜜は、にっこりと笑って、言った。
「じゃあ、霧の湖に行こう」

 霧の湖へと向かう道中、水蜜は白蓮の握ったおにぎりを頬張りながら飛んだ。霊夢が急かしたわけではなかったのだが、水蜜自身が、やたらと急いだのだった。
 言葉を交わせるようになったのは、水蜜の腹ごなしが終わった頃――霧の湖に到着してからのことだった。
「霊夢、ずっと仏頂面だったけど、なんで?」
「…………」
 何か色々と言いたいこと、聞きたいことがあるのだけれど、上手にまとまらない。仕方なく、心に浮かんだ心を次々と言葉にしていく。
「海を見たことのない魔理沙と早苗は、『青くて広くて大きくて生くさい水たまり』と言ったわ。大昔に海を見たことのある文は、『霧の湖を全て塩水にして、視界の果てまで広げたような場所』と言った。そしてあなたは、私をここに連れてきた」
 全てが、予想の範疇で、空想の範疇で、つまらないものに思えた。
「やっぱり、海ってその程度のものなの?」
「いやいや、それは早計ってものさ。ここに来たのは、海を想像するための補助。あくまで、補助。ちょっと待ってて」
 水蜜は言うや否や、低木の生い茂る入江に分け入っていった。
「ほんと、よく晴れてるわね」
 言われた通り、その場で待つ。手持ち無沙汰になって、わかりきったことを言葉にする。
 ぼんやりと、霧の湖を見る。快晴のためだろうか、いつもは濃い霧が、今日だけは薄い。おかげで、湖面がよく見えた。青と碧の狭間の色合いをしている。
 ややあって、水蜜が、茂みの中から小舟を引きずって出てきた。
「よいしょっ、と」
「なにそれ?」
「私の私物。たまに、ここに一人で来て、乗るんだ。ちょっと前に、聖にお咎め喰らってね。血の池地獄に行きにくくなったから、その代わり。ま、趣味だよ、趣味」
「趣味、ね。本当に?」
「本当さ。舟底に寝そべって、海のことを思い出すんだ。――今は私のことはいいから、乗って乗って」
 水蜜に背中を押され、霊夢はそろそろと舟に乗った。
 水の上なので当然のことだが、上下左右にわずかに揺れている。空を浮くのともまた少し違う、独特の不安定さがあった。
「さっ、行くよ」
 船頭が櫂を繰ると、舟は音もなく、滑るように湖面を移動していった。
「…………」
 二人して、沈黙する。水蜜は、舟に乗っているだけで、陸にいる時の何倍も楽しそうだ。櫂でもって水を掻くのに夢中になっている。霊夢は、そんな船幽霊の顔を、見るともなく見ていた。
 次第に舟は、湖の中央へと近づいていった。段々と、霧が濃くなっていく。
「このあたりでいいかな」
「霧まみれで、何も見えないんだけど」
「見る必要はないよ。頭の中で、想像するんだから」
 そう言うと水蜜は、ゆっくりと、舟の底に身を横たえた。
「いきなりどうしたのよ」
 慌てて、霊夢は舟の端に身を寄せた。とはいえ、そもそも狭いので、尻を置き直す程度の変化しかない。
「よくここでこんな風に寝そべって、海のことを思い浮かべるんだ。いつもは一人だけだから、普通に仰向けになれるんだけど――これでいいかな」
 言いながら水蜜は、舟底の片側に身を寄せた。ちょうど、彼女のすぐ隣に、人一人分が横たわることのできるスペースが作られる。
「さあ、霊夢、ここに横になって」
 とんとん、と舟の底を叩く水蜜。
「…………」
「ほら、早く」
「…………」
 ここまで来て、船頭に逆らったところで、得などない。水蜜の言葉に従って、横になる。よほど大切にしているのだろう、舟底は、綺麗に掃き清められていた。
 すぐ目の前に、水蜜の透き通るほど白い貌がある。
「狭い……近い……」
 霊夢は、憮然と言った。
「宿命さ。どんな規模の舟だって、底は狭くて、人の距離は近いものだよ」
「それで、どうするの?」
「まずは、眼をつぶって」
「私が眼をつぶってる間に、舟、ひっくり返したりしないわよね?」
「船幽霊の流儀としては、柄杓で沈める、かな」
「ちょっと!」
「冗談だよ。霊夢、ずっと緊張してるみたいだったから。リラックスして欲しくて」
 水蜜が、少しだけ声を落として、言う。
「海を見たことのない人に、海ってどんなところか聞かれたんだ。私だって、ちゃんと、真面目にやる」
 そう語る水蜜の眼に、偽りの色はなかった。
「もう。冗談が冗談にならないから、困るんじゃない……」
 霊夢は、口の中でもごもごと言いながらも、言われた通り、目蓋を落とした。
 視覚が閉ざされ、世界が黒で塗り潰される。
「それじゃ、想像してみて。まずは、さっき、岸から見た、この霧の湖」
「大きな水たまり……?」
「まずは、それでいい。大きな水たまりを、頭の中に描いて」
「うん」
「それが、視界いっぱいに広がっている」
「うん」
「どこまでも、どこまでも広がっている」
 想像する。
 先ほど湖畔から見た、青と碧の狭間のような湖面。
 それを、考えられる限り広く、遠くまで、拡張していく。
「大きく息をして。鼻から吸って、口から吐く。そうすると、海の匂いがする」
 そう言われても、霊夢には、わからない。海の匂いなど、想像もできない。
「生くさいの?」
「少し違う」
「海の匂いは、命の匂いだよ。水の匂い、塩の匂い、砂の匂い、魚の匂い、海藻の匂い、鳥の匂い、風の匂い、人の匂い。その全てだ」
「混ざると、生くさいんじゃない?」
「……少し恥ずかしいけど」
「――ぅわっ! な、なにすんのよっ?」
 突然、水蜜に抱き締められた。
 ほんの一瞬、振りほどこうとして、辞めた。今、彼女が気まぐれでこんなことをするはずがない。大人しく、水蜜の腕に抱かれる。
 相手の体温が伝わる。肌の柔らかさの奥に、しなやかな筋肉のうねりを感じる。
「私、遊覧船の船頭した後、着替える間もなくここまで来たんだ。あれで結構、体力使うからね。当然、汗もかく」
「……汗の匂い」
「これが、海の匂いに、少しは近い、かな。……生ぐさかったら、ホントに恥ずかしいけど」
 水蜜の身体に、心持ち強く、鼻を押しつける。先ほど言われた通りに、鼻から息を吸って、口からゆっくりと吐き出す。
 水と塩の匂いがした。
「くさくなんてないわ。なんだか、落ち着く……」
「それは重畳」
 楽しそうに頷く水蜜。
「次は、音だ。波の音。霧の湖にも、少しは波があるね」
 耳を澄ます。
 静かな、あるかないかの波が、二人を乗せた舟を揺らしている。水と水とが、波と波とがぶつかり合って、ささやかな音を生む。
「この音が、時に大きく、時に小さく、ずっと続いてる。どんな音かは、お天気次第だ。霊夢の中の海は、今、どんな天気?」
 先ほどの湖畔のイメージを、そのまま抱いていた。
 目蓋の裏に焼きついた青空を、そのまま、なぞる。
「――よく晴れてるわ」
「それじゃ、穏やかな波だ。ざざぁ、ざざぁ、って、波が白い泡を立てて、砂浜に打ち寄せる。霊夢が見ている時も、霊夢が見ていない時も、ずっと変わらず、波は打ち寄せる」
 砂浜に、寄せては返す、さざ波。同じ形の波など、一つとしてありはしない。瞬間瞬間、全く異なる形を見せる。
「霊夢は、波打ち際に、裸足で立っている」
 足の裏で、しっかりと砂を踏む。神社の庭よりも、湖畔の砂よりも、もっとずっと細かい砂。塩よりも細かい、上質の砂糖のような、流れるような粒子を想う。
「霊夢は、春夏秋冬、どの季節が好き?」
「春……かな。桜が咲いて、お花見ができて、みんなでお酒が飲めるから」
「うん。素敵な答えだ。じゃ、砂は、少し冷たい。ほんの少しね。心地いいくらいの冷たさ。海の砂は、少し、くすぐったい。肌がちょっとぞわぞわする。そうやって少しずつ、海に近づいていく」
 一歩踏み出すたび、砂を踏むたび、密やかな音が生まれる。
 くすぐったいけれど、気持ちいい。
「ほら、波の先が、足に当たった。春の海は、砂より冷たい。でも、その冷たさにも、すぐに慣れる。優しい冷たさだから」
「優しい冷たさ」
 水蜜の言葉を、繰り返し唱える。そうすることで、想像を補強していく。
「波が、寄せては返し、寄せては返し、霊夢の足に触れる。白い泡が、肌を撫でる。たまに強めの波が来て、足を取られそうになる」
 霊夢は、想像の浜辺に立つ。
 慣れない揺れに、少し、身体が傾く。けれど、すぐにバランスを取り戻す。
「浜と海の境界は、砂がとっても柔らかい。少し力を入れて踏み込むだけで、くるぶしまで、砂に沈み込む」
 身体が、柔らかく固定される。少しぐらい強い波が来ても、しっかりと立っていられる。
 腕を伸ばし、少し開く。身体の前面に、潮風が当たる。
「春の海の風は、強いよ。霊夢の黒髪が、霊夢の巫女服が、風に煽られて、ひらひらと舞う。まるで、水の中を泳ぐ金魚みたいに」
「金魚は淡水魚でしょ?」
「ふふ。たとえだよ。霊夢は、金魚みたいに赤くて、綺麗で、可愛いから」
「適当」
「適当じゃないさ。思った通りのことを言ってる」
 そんなことを言われても、どう返していいか、わからない。
 だから霊夢は、はぐらかすようにして、ずっと気になっていたことを聞くことにした。
「ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「海は、どうして青いの?」
 海を見て、子供が親に、そう尋ねる。そして親は答えに窮する。かつて読んだ小説に、そんな一場面があった。村紗水蜜は、なんと答えてくれるだろう。
「見たことがないのに、青いとわかるんだ」
「だって、魔理沙も早苗も、青いと言ったわ。今まで読んできた本にも、青いと書いてあった。この霧の湖も、青と碧の間の色――やっぱり、青、としか言えないわ」
「じゃあ、さっき、眼を閉じる直前に見ていた霧の湖は、何色だった?」
「霧が出てた時は……鉛色、だったかしら」
「それじゃ、霊夢が一番好きな時間は、いつ?」
 突然、予想外の問いが飛んで来た。
 こちらの質問をごまかされたのかと、霊夢は少し、不機嫌になる。
「いきなり、なんの話よ」
「いいから。霊夢が一番好きな時間帯。朝、昼、夕、夜。好きなように答えて」
 少し考えてから、言われた通り、好きなように答える。
「……じゃあ、夕方。昼が終わって、夜が始まる、その中間の時間。町の人達が仕事を終えて、自分の家に……家族の待つ家に帰っていく時間」
「空は、何色?」
「赤色……茜色、って言うのかしら。普通の赤とも、橙色とも、緋色とも、ほおずき色とも違う、色々な赤が混ざった赤色」
「それじゃ、聞くよ」
 ほんの少しの間を置いて、水蜜はその言葉を口にした。
「空は、どうして青いの?」
「だから、今、言ったでしょ。私の好きな空の色は、青じゃなくて、赤。夕暮れの赤」
「でも、空は青い時もある」
「当然じゃない。ここに来るまではよく晴れてたから、抜けるような青だったわ」
「晴れたら青。夜は真っ黒。曇れば灰色。朝焼けの色は、紫立ちたる、って言われたりもするね」
「何が言いたいのよ」
「空は、青いだけじゃない」
「そうね」
「海も、青いだけじゃない、ってこと。海は、空の色を映し返す。もしかしたら、空が海の色を映し返しているのかもしれない。晴れたら青に、夕暮れには赤に、曇れば灰に、夜には黒に。時間によって、天気によって、季節によって、色々な色に染まる」
 水蜜の語ることは、当たり前のことだった。当たり前のことだけれど、海は青いものだと思い込んでいた霊夢には、なにか、ひどく新鮮な考えのように思えた。
「霊夢は、夕暮れの空の色が好きなんだよね じゃあ、今、霊夢の眼の前にある海も、青じゃなくっていいんだ。茜色に染まる海でいいんだ」
 海は、青じゃなくていい。
「海は、青いだけじゃない」
 同じ言葉を心の中で繰り返し、声に出して、もう一度、絵を描きなおす。
 霊夢の見る海は、広くて、大きくて、そして――赤くて、朱くて、紅い。
「想像できた?」
「ええ」
「海の果ての果て、はるか彼方の水平線に、円い大きな太陽が、ゆっくりと沈んでいく」
 霊夢は、夕暮れの色が好きだった。
 空も海も、それを見る自分自身も、世界の全てが、赤に、朱に、紅に染まる。
「さあ、もっと前に進もう。一歩一歩、踏みしめるようにして、足を前に出していく。くるぶしまでしか触れてなかった海の水が、脛に触れる。膝に、腿に触れる」
 服が濡れるのも構わず、前進する。波の勢いが強くなっていく。けれど構わない。前に進み続ける。
「そこまで来ると、急に足がつかなくなる。海は、突然、深くなる。身体全てが、海に沈む。霊夢は開いた腕をゆっくりと動かして、身体を浮かせる。顔だけが、海の上に出ている」
「……溺れないか……心配だわ」
 全ては、頭の中のことなのだ。溺れるはずなどないのだけれど、心配する必要なんてないのだけれど、つい、そう呟く。
 すると水蜜が、霊夢の耳元で、優しく囁きかけた。
「私が、傍にいるよ」
 水蜜の右手が、霊夢の左手を、ぎゅっと握る。
「…………っ!」
 少し驚く。けれど、すぐに落ち着いて、その手を握り返す。
 櫂を繰ることが多いからだろうか、水蜜の掌は、霊夢のそれよりも、ずっと分厚い。その厚さを、頼もしく感じる。
 二人して、空想の中に赤い海に浮かぶ。
「波がやむことはない。海はずっとずっと動き続けてるから、波は絶えず来る。波が、耳に触れて、くぐもった音をつくる。たまに、海水が口に入ったりもする」
「塩辛いの?」
「もちろん。塩水で濡れた唇を舐めてみると、びっくりするほど辛いよ」
 思わず、自分の下唇を軽く舐めてしまう。もちろん、味なんてしない。けれど、味の想像はつく。塩水を乾かして舐めたら、きっと同じ味するはずだ。
「もしかしたら、汗の味に――」
「おっと、変なことはしないでね、お客さん」
「わ、わかってるわよっ!」
 身体を触れ合わせていると、心まで読まれるのだろうか。絶妙のタイミンングで突っ込みを入れられて、霊夢はつい、焦ってしまう。頬が紅潮するのを感じる。
 水蜜は優しく微笑してから、穏やかな声音で語りかけた。
「波の動きに合わせて、身体が上に下に動く。でも、緊張しなくていい。力を抜けば、決して沈みはしない。人の身体は、水に浮くようにできている」
「――私が、空に浮くように?」
「貴方が空に浮くように。人は皆、水に浮くようにできているんだ」
 身体から力を抜く。波に揺られながら、ぷかぷかと浮かぶ自分を想像する。
「今、霊夢の眼は、空だけを向いている。茜色に燃える空だけを見ている」
 そう言われると、少しだけ、眼球が熱いような気がした。眼を閉じたまま、目蓋に力を込める。眼の奥で、鈍色の光が渦を巻いた。
「鼓膜は絶えず、波の音に揺らされる。その狭間に、微かに、霊夢自身の呼吸の音と、心臓の音が聞こえる」
「呼吸の音は、わかるけど……私の心臓の音? そんなものまで聞こえるの?」
「海の水は、音を通しやすいんだ。だから、霊夢の心臓が脈打つ音が、全身を血が巡る音が、はっきりと聞こえる。ほら、この音だよ」
 そう言うと水蜜は、霊夢の頭を軽く抱いた。
 霊夢の右耳が、水蜜の左胸に触れる。幽霊だけれど、水蜜には身体がある。肌があり、肉があり、骨があり、血があり、脈がある。
「この鼓動は私の音だけど、きっと今は、貴方とそう違わない」
「どくどく、どくどく、鳴ってる。速いのね」
「海の中にいると思うと、懐かしくなって、落ち着くんだ。でも……ふふ」
「なによ、いきなり笑って。気味悪いわね」
「船幽霊だからね。海を思い出すと、つい、興奮しちゃうんだ。今だって、貴方を水の中に引きずり込みたいって思ってる。血の池地獄みたいな朱色に染まった海に、貴方を道連れにして潜ってみたい。貴方みたいな素敵な巫女は、溺れ死ぬ時、どんな顔をするんだろうって。それを想像するだけで……堪らなくなる」
「でも、今は、そうしない?」
「うん――ちゃんと、我慢してる。約束するよ。今、私は、貴方だけの船頭だから」
 水蜜の言葉に、偽りはない。霊夢を引きずり込みたいという衝動を抱くことも、それを今は決してしないことも、両方が、嘘のない本当の言葉なのだ。肌と肌とを触れ合わせた霊夢には、それがわかった。
「ねえ、村紗。私の胸に触って。私の心臓は、どんな音を立ててる?」
 霊夢の胸に、水蜜が厚くて熱い掌を当てる。
「……とっても、どきどきしてる」
「興奮してるってこと?」
「緊張もあるかな。でも、一定している。楽しくて、わくわくしてる、って感じ。わくわくするのって、少し怖いから、音が似てるんだ。でも、不安なんて全然ない」
「それは……あなたが傍にいてくれるおかげかも」
「船頭冥利につきるよ」
 しばらく、互いの鼓動に耳を傾ける。
 集中すると、自分自身の鼓動も聞き取れるようになってくる。水蜜の言う通り、彼女とほとんど同じ速度で、霊夢の心臓は脈打っていた。
「浜辺から少し離れると、離岸流っていう、速い波に流される。空を見ている間に、霊夢と私は、ずっと沖に流されてる」
 二人、手を繋いだまま、沖へと沖へと流されていく。
「前も後ろも、右も左も、海だ。さっきまで立っていた砂浜は、どこにも見えない。見えるのは、どこまでも広がる海と、ゆっくりと沈んでゆくお日様だけ」
「少し、怖い」
「うん。海は、怖いんだ」
 海の底は、深く深く。海面は緋色に燃えているというのに、少し潜れば、きっとすぐに真っ暗になる。もっと潜れば、いずれ日の当たらぬ漆黒の世界に至る。とても怖い。でも、
「でも、今はあなたがいる」
「うん。今は私がいる。貴方の傍に、私がいる。だから、安心して」
 怯えることはない。海は、揺り籠に似ている。
「どこまでもどこまでも、海が広がっている。もう、前も後ろも右も左もない。海に、真ん中なんかない。霊夢と私は、波間に漂う小さな点だ。人の眼でも、鳥の眼でも、天狗の眼でも、捉えられない。どこまでも続く水面に、霊夢と私だけがいる」
 水蜜の透徹した声が、身体の奥深くまで染み込んでいく。
「やがて、全ての境界が失われる。揺られ、揺られ、揺られて、身体と海の狭間がなくなっていく。霊夢と海は、一つになる。私と海は、一つになる。貴方と私が、一つになる」
「怖い……でも、とても、落ち着く……」

 ――海がある。
 波に合わせて、身体が揺れる。
 波の音が、呼吸の音が、心臓の音が、穏やかに鼓膜を揺さぶる。
 潮の匂いが、鼻をくすぐる。
 時折、口の中に塩水が入って、しょっぱい。
 眼に映るのは、茜色に燃える空だけ。
 ――他には、何もない。
 ――何もない。
 ――何も。

 朱色に染められた世界の中で、波に漂いながら、呟く。
「『――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある』」
 一句違えず、暗誦できた。この詩を初めて眼にしたのが、つい数時間前だったことを、忘れてしまいそうになる。それだけ深く、心に突き立っている。
「海のことは、わかった?」
「村紗のおかげで、少しだけ、わかった気がする」
「じゃあ、お母さんのことは?」
 問われるが、すぐには、答えられなかった。
「……命蓮寺であなたを待っている時、白蓮が言っていたわ。一味、とかなんとか。どんな川も、海に繋がっている。そして、どの川の水も、海で混ざって、塩味になる。どんな川から来た水も、そうなる」
 村紗は、何も言わず、聞いてくれた。
「母親のことも、この言葉の意味も、私にはわからない。きっと、簡単なことのはずなのに……私には、全然、わからない」
 そしてゆっくりと、霊夢を眼を開けた。
 船底に横たえていた身体を起こす。水蜜も、それに合わせて、起き上がる。
 手は、繋いだままだった。
「どうして……涙が出るのかしら」
 気づけば、霊夢の眼から、一筋、涙がこぼれていた。哀しくはない。つらいわけではない。何かに怒っているわけでもない。何かに感動しているわけでもない。自分がどうして泣いているのか、霊夢には、わからなかった。
 水蜜の白い指が、その涙を、そっと掬う。
「ねえ、霊夢。この涙は、どこから来たと思う?」
「どういう、意味?」
 突然の問いに、霊夢は応えに窮した。それには構わず、水蜜が、質問を重ねる。
「霊夢は水を飲むよね。それは、どこで汲む?」
 よくわからない問い。よくわからないけれど、答える。
「井戸、かしら」
「井戸水って、どこから流れて来る?」
「地下水だから……山に降った雨が集まって、かな」
「その雨は、どこから?」
「雨雲から」
「雨雲はどうやってできるか知ってる?」
 なんとなく想像はつくが、深く考えたことはなかった。霊夢が応える前に、水蜜が言う。
「海面から蒸発した水が、集まってできるんだ」
「…………」
「さっき、私は、霊夢の涙を湖に落とした。霧の湖は、川に繋がってる。そして川は、海に繋がってる。幻想郷とか、外の世界とか、そんなのは関係無い。全ての川は、海へと繋がる」
 幻想郷は完全に閉じているわけではない。どこかで、外の世界と繋がっている。
「海の水は、雨雲になって、雨になって、地下を通って、井戸で汲み上げられて、霊夢の身体に入って、霊夢の涙になった。霊夢の涙は、湖に混ざって、川に流れて、海に注がれる」
 小さな水が、遠大な旅を、延々と続ける。境界など、水には最初から存在しない。
「海はね、ここにあるんだ」
 そう言うと水蜜は、左手の人差し指で、涙に濡れた霊夢の瞳を示した。
「そして、ここにもある」
 今度は、自分の眼を示す。黒くて澄んだ、夜の海を思わせる眼。
 海はどこにでもある。海は母は似ていて、母は海に似ている。ならば、母もまた、
「じゃあ――お母さんは、ここにいる?」
 霊夢は、空いている右の掌で、水蜜の左胸を示した。
「いるかもしれないね」
「ここにも?」
 今度は、自分の左胸を示す。
「きっといるよ」
「…………」
 色々な想いが、胸の奥から湧き上がってきた。嬉しいのか、哀しいのか、切ないのか。わからない。けれど、今、心の中にある一番大きな感情を、霊夢は言葉にした。
「ありがとう、村紗……楽園の素敵な船頭さん」
「どういたしまして、霊夢」

 命蓮寺の面々に挨拶をしてから、霊夢は帰路についた。
 いつものように、空を飛ぶ。けれど今日は、少しだけ、浮遊感が強い。水蜜と共に見た幻想の海の名残りが、身体の芯を揺らしている。
 昼は終わり、夜の手前、黄昏時。幻想郷が、複雑な赤の色に染まっている。
「ああ、晩ご飯の用意、何もできてない」
 さすがにこの時間になれば、魔理沙も森に帰っているだろう。一人分、何か適当にでっち上げねばならない。身体は疲れているけれど、心は軽い。たくさん食べよう、と思った。
 鳥居の手前で地に降りて、本殿の前で柏手を打ってから、社務所に上がる。
 と、鼻孔を、なにか香ばしい匂いがくすぐった。
「あ、霊夢さん! おかえりなさい」
 匂いに誘われて台所を覗くと、そこには、割烹着姿の早苗がいた。左手には、湯気を上げるフライパンを握っている。
「おかえり、霊夢」
 居間兼食堂兼応接間から、魔理沙が這い出てくる。
「ただいま、と言いたいところだけど、どうして二人ともいるの?」
「ひどいな。せっかく留守番してやってたのに。もちろん客は来なかったが」
「霊夢さんも魔理沙もひどいです! 私は立派なお客さんですよ」
「そのお客さんがどうして台所に立ってるのよ。夕飯作ってくれたんならありがたいけど」
「あれから家に戻って、考えたんです。そして閃きました! 海といえばこれ! これぞ海の味! です!」
 言いながら、フライパンを突き出してくる早苗。
 覗くと、なにやら麺と野菜が一緒くたに炒められている物があった。全体として、茶色がかっている。見た目はともかく、食欲をそそる香りがした。
「おいしそうだけど……なにこれ」
「焼きそばです。海に行ったら、これを食べるのが日本のしきたりです!」
「村紗はそんなこと言ってなかったけど」
「まぁ! 現代の現人神たる私の言葉を疑うんですか?」
「胡散くささが増したぜ」
 霊夢と魔理沙にやいのやいのと言われても、早苗は全く堪えない。楽しそうに胸を張って、解説をしてくれる。
「焼きそば用の麺はなかったので普通のラーメンの麺を、オイスターソースはなかったので醤油と塩を、豚肉が手に入らなかったので鶏肉を使いました。でも、味は保証付きです! モヤシとキャベツとニンジンも入ってるので、栄養ばっちり! これぞ完全食品!」
 なるほど、ジャンクな食べ物特有の見事な栄養バランスだ。焼きそばと海との間にどのような因果関係があるのかはわからないが、早苗の心遣いは、十分伝わってきた。
「ありがと、早苗」
「さあさあ、冷める前に食べましょう。冷めたのを食べるのもまた一興ですが、ここは、できたてを、ぜひ!」
 早苗に押されるようにして、食卓に座る。
 せめてこれぐらいはと、霊夢は三つの平皿に、均等に盛り付けた。
「私からはこれだぜ」
 言いながら、黒い液体の入った瓶を差し出す魔理沙。
「これは……確か、霖之助さんの所で飲んだ?」
「ああ。早苗曰く、焼きそばには炭酸が合うんだと。せっかくだから、香霖のとこにひとっ飛びして、もらってきた」
 栓抜きで蓋を外す。ぷしゅっ、と小気味いい音が立つ。
「「「いただきます」」」
 三人、手を合わせてから、箸を伸ばす。
 ずるずるずる、という少し間の抜けた音が、三つ、重なる。
「うん、これです、これ。ちゃんと再現できてます!」
「なかなかいけるな。繊細さには欠けるが。こっちの炭酸も、相変わらず、うまい。繊細さには欠けるが」
「それがいいんですよ、それが。どうですか、霊夢さん。なかなかの出来だと思いません? ――ああ、でも、ちょっとだけ塩を利かせ過ぎたかな?」
「そうね――」
 問われてからも、ずるずるずる、と食べ続ける。
 幻想郷で、海を見ることはできない。けれど、海を想像できないわけではない。水蜜と一緒に、海を感じた。魔理沙や早苗と一緒に、海を感じている。ならば、母親のことだって、感じられるはずだ。あるいは、感じているはずだ。
 涙がこぼれそうになるのを堪えて、霊夢は、笑顔をつくった。
「少し、しょっぱくて……でも、とても、おいしいわ」


   作中の詩は、三好達治『郷愁』より引用させていただきました
初投稿です。水蜜×霊夢というよりは、「霊夢が本当に悩んでいたら、みんなは真剣に相談に乗ってくれるだろうな」みたいなことを考えて書きました。海を思い描いて頂ければ幸いです。


6/26 感想ありがとうございます。
コメント返信させていただきます。

>1様
ありがとうございます。

>2様
博麗の巫女ではない状態の霊夢、というのは、周囲の人間から見ると放っておけない感がありそう、という土台が私の中にあって、そこから、村紗水蜜ならば母性的に接するだろうな、となりました。

>4様
海を見たことのない人間から海について尋ねられたら、普段は飄々とした物腰の村紗も真剣になるだろう、と思って書きました。

>奇声を発する程度の能力様
ありがとうございます。

>8様
茨歌仙でたまに表面化する、年相応に少女な霊夢を目指しました。
次作、頑張ります。

>大豆まめ様
海をどこまで言語化できるか、というのが今回の大きな挑戦でした。
村紗水蜜の台詞回しに情景が乗っておりましたら幸いです。
東方のキャラクター間の関係性は基本的にドライな印象ですが、ドライはドライなままに親身になれる、ということの結論が焼きそばになりました。

>10様
ありがとうございます。
お粗末さまでした。

>南条様
秋山瑞人先生の『猫の地球儀』という作品に、あるキャラクターが地球降下について熱っぽく語りかけるシーンがあって、及ばずながら、それを意識いたしました。

>ふつん様
海の描写は、私自身の海での記憶をベースに、五十嵐大介先生・天野こずえ先生の諸作品を読み返して、「どうすればこの情景を文章化できるか」と考えながら書きました。
村紗水蜜に関して、彼女自身も、おそらく二度と本物の海に行くことはできず、おそらく母になることもないけれど、それでも弱っている人間にそれを求められたら自然と応じる。求聞口授での「話し上手」という設定を、そういう形で拡大解釈いたしました。
話のテンポ上、割愛しましたが、この後、文が書きたてのエッセイを持って来てくれるはず。

>15様
ありがとうございます。
原作の霊夢は即断即決タイプなので、悩むとこうなるのでは、と想像して書きました。

>創想話好き様
「誰かが困っているのを見たら、できる範囲で助ける」「親身になってもらったら、ちゃんとお礼をする」という、石黒正数先生の『それ町』イズムで書きました。
読んでいただき、ありがとうございました。次作が完成しましたら、また投稿させていただきます。

>21様
ありがとうございます。

>十六茶様
ありがとうございます。
仏門の徒としての水蜜に、水の循環システムと、涙と海の因と縁とを同時に語ってもらう、という感じで書きました。

>24様
ありがとうございます。
海を見たことのない霊夢に海を見てもらう、というコンセプトで書いたので、読みやすかったと言っていただけると非常に嬉しいです。
霊夢、魔理沙、早苗は、竹本泉先生の『さくらの境』みたいな、女の子三人がそれぞれに考えて、適度な距離で接し合う、みたいな雰囲気が好きで、及ばずながら目指してみました。

>ばかのひ様
ありがとうございます。
なんだかんだ世話焼きだったり、色々とイベントを開いたり、飲み会の場所を提供してくれたりする霊夢なので、そういう彼女が思い悩んでいたら、周りのみんなも真剣に応えてくれるだろう、みたいなことを考えて書かせて頂きました。
七節ミサオ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.640簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
2.100カワセミ削除
素敵でした。人を沈めてた村紗が説明の中で母親の要素を内包したことに彼女の成長を感じました。
4.100名前が無い程度の能力削除
これはキャプテン村紗
5.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
霊夢が可愛らしかったです。
あなたが次にどんなものを書いて下さるか、楽しみです。
9.100大豆まめ削除
素敵でした。
ムラサ船長の染み入るような語りがすっと頭に浸透して、霊夢と一緒に夕暮れの海を漂っているような心地でした。
三者三葉のキャラ付けされた人たちもみんな生き生きしててよかったです
10.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。御馳走様でした
11.100南条削除
面白かったです
染み入るようなキャプテンの語りが良かったです
12.100ふつん削除
凄く良かったです。
リアルな描写と詩的な表現のバランスが心地良く、頭というか心の中で海をイメージする事が出来ました。
海を、母を探し求める霊夢とそれに応える村紗、また他の面々もそれぞれの味というか優しさみたいなものを感じられて良かったです。
15.90名前が無い程度の能力削除
これはいいですね。
霊夢が可愛いです
次回作も期待しています
20.90創想話好き削除
しっかりプロット出来てると読み進めてても安心感ある。実は気持もらった皆にありがとう伝えてるのね。私には眩しい
……ここに投稿してくれてありがとね
21.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませていただきました。
23.100十六茶削除
面白かったです。
涙の一粒から、壮大な海へとつながる語りが素敵でした。
24.無評価名前が無い程度の能力削除
とても読みやすいテンポでした。そのわりに、情景への誘導は深く浸透するものだったので、読み応えも貰えました。
霊夢の年相応さと魔理沙の気遣いと早苗の素直な感情表現にニヤニヤ(笑)
27.90ばかのひ削除
とても面白かったです
愛されてますね、彼女は
29.100名前が無い程度の能力削除
美しかったです
30.100クソザコナメクジ削除
素敵