Coolier - 新生・東方創想話

本居小鈴の稀覯本

2018/04/24 21:13:44
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 「喧嘩するほど仲がいい」という言葉がある。
 たくさんの本を読んでは、物語の中にたびたび出てくるその言葉に、私はほんの少しのあこがれを抱いていた。
 いつもいがみ合っていても、大事な時には息が合う。悪口ばかり言い合っていても病気の時なんかには一番に看病しにきてくれる。
 そういうものが、うまく言葉にはできないけれど、いいなと思ったんだ。

 だけど先日、その言葉は嘘だと知った。理由は、そうじゃない喧嘩を、昨日友達としたから。
 事の発端は一昨日。貸していた本をそいつのもとに返してもらいに行った時の事。と言っても個人的に貸し借りした本じゃない。
 私の家は鈴奈庵という貸本屋を経営していて、私は喧嘩したそいつはうちのお得意様なのだ。そいつの体が特別弱いこともあって、大量の本を借りる場合は私が荷物持ちの役割を買って出ていた。
 そいつの家は人里の中でもひときわ大きな屋敷で、使用人とかもたくさんいる。最初は入るたびにかしこまった気持ちになっていたけれど、最近はそれもなくなってきた。

 そうして屋敷に上がり込んで、本の回収ついでに軽い雑談と、一つの約束をした。
 内容は『明日近くの甘味処で一緒にお昼を食べよう』というもの。誘ったのは私からだ。本の執筆が忙しいとかで最近出不精になっていたそいつへの、私なりの気遣いのつもりだった。そいつもまんざらでもなさそうだったので、私はなんていいことをしたんだと気分爽快。明日を楽しみに待っていた。

 ところが約束当日、つまりは昨日。時間を過ぎてもそいつは現れなかった。最初は場所を間違えたかと思ったがそんなことはなく、あいつに限って約束を忘れるなどということもあり得ない。
 すっぽかされたのだと、四半刻ほど待って私は理解した。
 しかしまだこの時点では、私の中に明確な怒りの感情はなかった。相手だって年中暇なわけじゃない。最近は特に忙しそうだったし、何か用事でも入ってしまったのだろうと思ったからだ。それでもどこか釈然としない思いはあったけど、相手だって破りたくて約束を破ったわけではないはずだからと、その思いに蓋をする。

 そして日も沈み始めた数刻後、私のムカムカは明確なものとなって、お腹の真ん中を陣取ることになる。別にその後何かがあったわけじゃない。むしろなかったから問題なんだ。
 あいつがどうして約束をすっぽかしたのか、この時の私は知る由もなかったが、どんな用事だろうとそろそろ片付いている頃のはずだ。
 なのに顔を見せに来ない。私がこの時間ここ鈴奈庵で店番をしているのは知っているはずなのにだ。

 別にどうして来なかったんだと問い詰めたいわけじゃない。ただ顔を見せて、「今日は行けなくてごめん」とでも謝ってくれるなら、その理由が重要な用事だろうとただの寝坊だろうと許すつもりでいたのに。
 一瞬病気にでもかかったかと心配になったが、それならこの狭い人里で騒ぎのうわさが聞こえないはずはない。人里において、あいつの不調は一大事を意味するのだから。しかし今日来たお客さんたちも、そんなことは一言も口にしていない。つまり違う。

 この時点で、「何らかの用事で約束を守れず、しかしそれが片付いても謝りに来ていない」という考えが私の頭の中で最大勢力となった。
 しかし、もしかしたらほかの可能性があるかもしれない。真実が確定しない故に、このムカムカをうまく消化できずにいた。そしてそれがより大きなムカムカとなる。悪循環。この時の私の気分は最悪と言ってよかった。
 この最悪の気分を晴らすためにも真実を確かめなければならないと、鈴奈庵を少し早めに閉めて私は駆け出した。
 この時ムカムカしている頭の隅っこで思ったのは、私、本居小鈴はこんなにも約束に対して神経質な人間だったかということ。自分で言うのもなんだけど、決まりとかルールとか約束とか、そういうものを結構いい加減に考えている部分が私にはある、と思う。なのになぜこんなにムカムカするんだろう。別に大事な約束でもなかったのに。

 そんな物思いも一瞬。人里の端、「稗田」とかかれた大きな屋敷の敷居をまたぐと同時に、私の頭をムカムカとほんの少しのどきどきが埋め尽くした。
 そこそこに見慣れた通路だが、若干の緊張があった。まるでこれから全く知らない人と話すかのような。
 そいつの部屋までの見知った道中もどこか未知のドキドキを感じた。

『阿求ーっ!』
『うひゃあ!』
 
 ドンッと勢いよく襖を開けて、ぐいぐいと詰め寄る。赤い袴に袂の長い花柄の着物、かしこまった格好からひょっこり飛び出た紫色の頭には、トレードマークの大きな白い花飾り。
 見紛うことなき私の約束相手、稗田阿求がそこにいた。少なくとも、あんな情けない声を上げれる程度には元気らしい。
 ならば遠慮は不要と、私は顔を近づけ問い詰めた。

『約束、あんたに限って忘れてたわけじゃないんでしょう?』
『あー、その、そうなんだけど……えっと、怒らないで聞いてね?』
『酌量の余地があればね』
 
 阿求のいまいちはっきりしない態度に、私は酌量の余地がないことをほぼ確信していた。しかしそれでなお、次の言葉は予想外だった。

『……昨日借りた本を時間になるまで読もうと思ったら、これが案外面白くて……気づいたらその、時間が』
『……酌量の余地なしね。怒る気もなくなっちゃったけど』
 
 阿求らしくない間抜けな理由だった。それこそ私の中のムカムカが、全部別の何かに変質しちゃうくらいの。
 
『でもそれなら!どうしてそれを言いに鈴奈庵までこないのよ!』
 
 手をついて身を乗り出して、威嚇するみたいに尋ねる。たとえそんな間抜けな理由でも、謝りにさえ来てくれれば許したと思う。もともと約束を破ったほうではなく、謝りに来なかった方が私としては問題だったから。しかし答えはまたしても予想外だった。
 
『えーその、私もね?さすがにこれは怒らせちゃっただろうって、謝るために鈴奈庵の前まで来たのよ』
『……』
『ホントよホント。でも』
『でも?』
『小鈴が怒ってるかもと思うと、中に入るのがなんだか怖くて……』
『はぁ?』
 
 思わず出た感嘆符。この言葉を聞いた時、私は自分の中のムカムカが何に変わったのかを理解した。これは、阿求への、友達への失望だ。
 私の知る阿求という人間はそもそも約束を簡単に破るような奴ではないし、こんな叱られた後の子供みたいな理由で右往左往するような奴でもない。
 私の中の稗田阿求が、音を立てて崩れ去る。知的で、大人で、たまに説教臭い稗田阿求はもういないのだ。

 どうして私があんなにムカムカしていたか、この時理解した。約束を破る阿求なんて想像できなかったから、ましてこんな子供じみた理由で「ごめんなさい」の一言も言えない阿求なんて、それこそ夢にも思わなかった。ある意味で、強く信じていたんだ。だから、裏切られてムカムカしていた。
 でも今は、ムカムカの炎は暗い色になって、もっとお腹の深いところで静かに燃えていた。
 
『なにそれ、今度こそ怒る気もなくなったわ』
 
 自分でも驚くくらい、つまらなそうな声が出たと思う。読み飽きた本たちに向けるよりも、もっとひどいやつ。
 
『もういい、私帰るから』
 
 興味をなくしたみたいに静かに立って、スタスタと部屋を出ていく。
  
『あ、ちょっと!待って、待ってってば!ごめん、私が悪かった――』
『知らない!』
 
 すると阿求が謝りながら追いかけてきたから、走って屋敷を飛び出した。
 ごめんなさいの雨粒が、何故だかトゲみたいに心臓に突き刺さる。
 謝れと言ったのは私のほうなのに、何故だか阿求の情けない謝罪の声を聴くたび、どんどん嫌いになってしまうような気がした。
 
 
 
 と、ここまでが喧嘩の経緯である。私にはこれが「喧嘩するほど仲がいい」で済むようなことには思えなかった。
 謝りにこれなかった理由を聞いて、思ったことは「許せない」でも「ふざけるな」でもなく「もうどうでもいいや」であった。私はあの瞬間、何かを諦めて、拒絶したのだ。あそこでもっと食ってかかっていたなら、少しは物語の中の喧嘩に近づけたのだろうか。

 不思議なもので、一晩寝て起きると、私の胸は後悔で満ちていた。もっといい言葉があったんじゃないか。それこそこんなことにならずに、もう一度同じ約束をして、今度こそそれを叶える未来だってあったんじゃないか。
 そんなことばかりが行き場なく頭を回る。阿求のいろんな顔が出てきて、締め付けられるみたいな痛みが走る。

「あー!もうなんなの!阿求の馬鹿!」
 
 鈴奈庵開店直後の朝。私の胸中とは対照的にすっきりとした店内。私の叫びはむなしく響いた。
 いつもはお客がいない時は本を読んで暇をつぶしているけど、そんな気分にはとてもなれない。
 なんというか、頭の中が定まらない。自分が今、何を思っているのかよくわからない。なんでこんなに落ち着かないのかわからない。
 
「はぁ、今日はダメね。臨時休業ってことにしよ」
 
 一応両親に任された店番であるが、両方とも今日は出かけている。バレたらきっと怒られるけど、要はバレなきゃいいのだ。
 そうと決まれば早速臨時休業の札を入り口に下げなくては。そして両親が帰ってくる時間を見計らって取り外して、あたかも通常通り営業していたかのように装うのだ。
 
「まさか入った瞬間に休業宣言されるとはね」
「ぎゃー!嘘です嘘!ちゃんと――あ、馬鹿」
 
 反射的に声のしたほうを確認すると、休業の原因がそこにいた。
 
「開口一番に罵倒されるの、私としては初めてよ。おはよう、小鈴」
「……おはよう」
 
 声が尻すぼみになる。だってそうだ。こんなの困るに決まっている。
 朝からずっと昨日のことを考えていたとは言え、実際会ってどうするかなんてちっとも頭になかった。
 背筋を緊張が駆け抜けて、泥棒でも出たみたいに警戒心がむき出しになる。
 こいつは何故ここに来たのだろう。
 これから私は何を言われるのだろう。
 
「わたし、まだ怒ってるからね」
 
 緊張から逃れるための武器として、出てきたのはそんな言葉。言いたいのはそんなことじゃなくて、むしろ逆の事のはずなのにうまく言葉にならない。喉の真ん中で止まってしまう。
 
「あー、そう。でも今日は本も借りにきたの。臨時休業はいいけど、滑り込みセーフでしょう?」
 
 困ったようにこめかみに人差し指を当てながらそう答える阿求。でも声はちっとも困った風じゃなく、いつもの調子。私の怒ってる宣言は、どうやら軽く流されてしまったらしい。
 そのことに対して私は怒るべきなのかもしれないけど、心のどこかで安心している自分がいた。そして同時に、そのことを認められない自分もいた。
 宙ぶらりんの思いでむむむと唸っていると、どうやら本を選び終えたらしい阿求が会計を要求してきた。
 いつもは大量に借りていくんだけど、この時借りたのはたった3冊。違和感を覚えつつも応対する。
 料金ぴったりのお金を受け取って、いつもより不愛想に本を渡す。

 そのまま店を去っていく阿求の背中に、とても何かを言いたくなったけれど、その言葉が何なのか、私にはわからなかった。
 結局そのあと、一度接客してしまったせいか仕事のスイッチが入って、きっちりと閉店時間までまじめに営業することになってしまった。
 時間がたつにつれて、朝の阿求とのやり取りでかんじたもどかしさがどんどん薄くなっていって、閉店時間となった今はなんであんなにもやもやしていたのか思い出せなくなっていた。

「こんばんは、今日借りた本を返しにきたんだけど」

 思い出せなくなっていたのに。

「今日のあんたは何かとぎりぎりに来るね」
「本当はもっと早く返しに来るつもりだったけど、案外時間がかかってね」

 さすがに今日二度目とあっては、情けない声を上げたりはしなかった。
 でも、穏やかになりかけていた私の胸中が波立つには十分で。
 また朝に感じたあの感情がこみ上げる。怒っているのか、悔しいのか、嬉しいのか。自分でもちっともわからない。

 というか、阿求は一体どういうつもりなのか。確かに私と同じかそれ以上に読書家の阿求なら、今日借りた本三冊なんてすぐに読み終えるだろう。
 しかしだからと言ってすぐに返しに来る必要はない。普通喧嘩をした後というのは、相手の顔を見づらくなるものではないのか。
 それとも、もしかして喧嘩しているなんて思っているのは私だけなのだろうか。向こうはすでに昨日のことを心のどこかで清算していて、私だけがこの妙な気まずさに取り残されているのだろうか。
 それは、なんだかとても嫌だと思った。定まらない思いの中で、それだけは確かに。

「……別にこんなぎりぎりに来なくたって、明日でいいじゃない」
「仕方ないでしょう。私こんな性格だから、きっと今しか勇気が出ないと思って」
「はぁ?勇気?いったい何の話よ」
「それじゃ、私帰るから、バイバイ小鈴」
「ちょっと!待ちなさいって!」

 背を向けてそそくさと帰る阿求を、さすがに商品を持ったまま追いかけるわけにも行かず、態度に大きな違和感を覚えたまま、閉店の看板を下げて私は店内へ戻った。
 
「ぐぅ~もうっ!なんなのあいつ!こっちの気も知らないで!何が勇気よ、謝りにもこれなかったヘタレの癖に!」

 店番用の机をバンと両手でたたき、思いのたけを叫ぶ。
 さすがにさっきの阿求の態度には違和感を覚えるが、それより怒りが勝った。
 やっぱり阿求の中では、昨日のことなんてなかったことになっているんじゃないだろうか。
 さきと朝の何食わぬ態度にそう思わずにはいられない。先ほどまでようやく雲が晴れようとしていた私の心に、怒りの万雷が轟いた。
 約束を破った方が忘れて、破られた方が引きづっているなんて、どう考えても普通逆だろう。
 悪いのは阿求のはずなのに、どうして私がこんな思いをしなければいけないのか。
 バンバンバン、と三度机をたたき、多少の冷静さを取り戻す。そして返却された本をチェックして元の場所に戻すという本日最後の仕事に取り掛かる。
 
「……あれ、なにこれ」

 しかし本をチェックしている最中、不意に私の手は止まった。返却された本のうちの一冊に、見慣れない花柄の封筒が挟まっていたからである。
 間違いなく、貸す前までこんなものはなかった。阿求ほど物覚えがいいわけじゃないけど、今朝のことだ。記憶違いはあり得ない。
 これは一体、なんだろう。
 恐る恐る手に取ってみてひっくり返してみると、『本居小鈴へ』という達筆な文字が書かれていた。
 それをみて確信する。私はこの字を知っている。幻想郷縁起の印刷の時に見たことがある。
 間違いなく阿求の字だった。
 喉が固く閉ざされて、両手が一瞬だけ金縛りにあったみたいになる。でもすぐに好奇心が競り勝った。魅入られたみたいに封筒を開けて、中の便箋を取り出す。
 
『小鈴へ
  あえて冒頭のあいさつや、季節の話と言ったまだるっこしいことは省かせていただきます。
  変にかしこまってもきっと逆効果だしね。さて、私がこのように手紙を出した理由は、他でも
 ありません。昨日の約束を守れなかったことを謝りたかったからです。
  本当は朝、口でごめんなさいと言うつもりだったのだけれど、いざ鈴奈庵に入ると、言葉が
 出てきませんでした。まあ、小鈴のいきなりの休業宣言に思わず突っかかっていたら機会を
 失ったということもあるけど。そのせいでいつの間にか本を借りに来たことになっていました。
  それに、小鈴の態度を見ていると簡単には許してくれそうになかったので、こうして
 手紙を書くことにしました。
 まず初めに、昨日はごめんなさい。この際だから書きますが、実は謝りに来なかった理由は
 もう一つあります。
  「いい加減な小鈴のことだし大して気にしていないだろう」と高をくくっていたからです。
  あなたがあんなに血相変えて飛んでくるなんて、全く持って予想外でした。
  悪いことをしてしまったと思いますが、それでも私から言えるのはごめんなさいだけです。
  どうか朝みたいな不機嫌丸出しの顔をやめてくれるくらいには、許してくれると嬉しいです。
                                       稗田阿求』

 行線すらないまっさらな紙に綺麗に書かれたその手紙は、魔法みたいに私の世界を塗り替えた。
 読み終わった後瞬きを何度もした。案外時間がかかったという阿求のセリフを思いだす。
 もしかして、時間がかかったとはこの手紙のことなんだろうか。
 とても不思議な気分だった。もしもこれが口から出た言葉であったなら、「いい加減な小鈴のことだし大して気にしていないだろう」の部分なんか、どうしたってムッっとする。けれどこの手紙はそんなことなくて、夕日みたいな優しさで、私の中に染み渡った。

 ああ、そうだ。私はただ阿求と仲直りがしたくて、どこかに許す理由を探していただけだったんだ。
 だからこそ、なかったことにされたんじゃないかって思って、あんなに嫌な気持ちになった。
 謝ってくれないことにムカついて、自分だけ気にしてる感じになるのが悔しくて、でも会いに来てくれたことは嬉しくて。
 秋の空模様みたいに複雑だった思いも、目的がわかってしまえば単純で。
 それに気づかせてくれたこの手紙を、私は自分の部屋の枕の隣にしまうのだった。
 
 

 鈴奈庵は貸本屋と銘打ってはいるが、実際には本を貸すだけでなく、販売や買取、印刷なども行っている。
 本の種類自体も、古いものから新しいものまで大体。そして外来本と呼ばれる外の世界から流れてきた本も扱っている。
 その中で最も人気が高いのが外来本で、物珍しさから買う人や単純に面白いから買う人など、様々な層に需要がある。
 そんな鈴奈庵だが、実はもう一つ、知る人ぞ知る商品がある。それが妖魔本だ。

 妖魔本とは名前の通り、妖怪が書いた本のことだ。言語も妖怪独自の物が使われていて、まともに読むことができない。
 先ほど商品とは言ったが、お客から見える所には置いていないし、そもそも存在を知っているのは今のところ両親と阿求だけだ。
 何故そんなものがあるのかと言うと、私の趣味だからだ。この幻想郷で、私以上の妖魔本コレクターはいないと密かに自負しているくらいには情熱的な趣味。たとえ内容が一切合切理解できなかろうと、そこには私の知らない世界が広がっている。
 私が決して踏み入れられない非日常の断片を、妖魔本は見せてくれるのだ。
 そう、たと読めなくても、だったんだけど。
 
「『地に足がついている時とそうでない時で、剣の扱い方は180度変わる。』」

 どうやら天狗が書いた剣術指南書の様だ。当然天狗の言葉で書かれていて、私たち人間には読めるはずもない。
 ないはずなのだが、何回見てもそう書いてあるように見える。

「落ち着け、こんな夢ならなんども見たじゃない。きっとまた舞い上がったところで目が覚めるってオチよ」

 阿求から手紙をもらった次の日、開店前の鈴奈庵で趣味の妖魔本を眺めようとしたところ、今まで意味が分からなかったそれが読める様になっていたことに気が付いた。
 あまりの衝撃に、思わず一回閉じて、もう一回開き直した。そして最初に飛び込んできたのが先の一文である。
 慌てることなかれ、まずは確認をするべきだ。そっと自分の右頬を掴み、思いっきりつねる。痛い。鈴奈庵の外に出て、顔を出したばかりの朝日を見据える。眩しい。ひんやりとした朝の井戸水を、思いっきり顔にかけてみた。冷たい。予想以上に冷たくて思わず飛びのいた。
 ここまでやれば夢か幻覚の類なら覚めるだろう。私は鈴奈庵に戻り、先ほどの本をもう一度開いた。

「おおぉ……おおおお!!やった!読める!なんでかわかんないけど、やっぱり私って特別だったり!?」

 思わず本を広げて舞い上がる。夢にまで見た非日常が、自分の目の前に広がっている。左胸が熱くなって、頭の中が一気にうるさくなる。
 冷静さなんて吹き飛んで、意味もなくそわそわじたばたして、じっとしていられなかったから、外にでてテンション高く駆けまわった。
 いつもの景色が、なんだか眩しく見える。見慣れた建物といつもの朝日が、非日常の色をしていた。ああ、今日はなんて素敵な日なんだろう。もしかして、阿求がくれた手紙のおかげなのだろうか。とても関係あるようには見えないけど、だとしたら素敵だ。

 今にもスキップしちゃいそうな気分で開店準備を始める。本当は店番なんてほっぽり出して妖魔本を読みに行きたいけれど、そんなことしたらお母さんあたりにどやされる。そう思っても好奇心は止まらず、お客の応対をしている間以外はほとんど読書に励んでしまっていた。
 たまに何の本か聞いてくる人もいたけど、私物なので非売品ですと答えてごまかす。さすがに一般客に妖魔本の存在を知られるのはまずい。鈴奈庵は妖怪とつながっているなんて噂でも立ったなら、経営破綻まで秒読みだ。
 そうとわかっていてなお、ページをめくる手は止まらない。こういうところが悪い癖なのだと自覚はしている。しているだけで治す気はないけど。
 一冊読み終えてふと目線を上げれば、すでに日が高くなっているのが見える。昼時の店内は閑散としていて、しかしてその明るさのせいで静けさを感じない。本を読むのに適した場所とは、程よく暗く、程よく冷たく、そして静かな場所だ。前2つをこの場所は満たしていない。

「つまり、今から私はお昼休憩をとるふりをして部屋にこもって本を読むのが最善……!」

 我ながら完璧な結論である。そうと決まれば善は急げ、お母さんにお昼休憩をとると嘘を付き、店番を変わってもらわなくては。
 唯一の問題はお昼休憩を読書に使うのでお昼ごはんがなくなることだが、たかが一食くらいで今の私を止められるはずもない。
 ところが行動に移そうとした直前、鈴奈庵ののれんをくぐる小さな人影をみた。
 その人物は暖簾をくぐり、私と5歩分の距離を開けて止まった。

「相変わらず、この時間の鈴奈庵は静かね」
「みんな知識よりも食に貪欲になる時間だからね、おかげで私も休憩できるし」
「……手紙、読んでくれた、いえ、読んでしまったみたいね」
「阿求にも照れ屋な一面があったのね」
 
 私がそういうと、阿求はため息一つ、諦めたみたいに歩き出して、私たちの距離をカウンター席一つ分にまで縮めた。

「他の人に見せたらひっぱたくからね」
「見せない見せない。あれは私だけの宝物にするから!」
 
 なんとも微妙な顔をされた。どうやら阿求的には、あの手紙は相当羞恥心をあおるものらしい。素敵だと思うけどな、私は。

「……まあ、機嫌直してくれたなら、約束の続きをしない?ちょうどあんたも今からお昼なんでしょ」
「うん」

 意識より先に返事が出た。喧嘩している時は、もう一回約束をやり直せればなんて現実逃避していたけど、まさか本当にそうなるなんて。
 一瞬遅れて、妖魔本のことを思い出す。でも今はいいだろう。妖魔本はいつでも読めるけど、こっちはきっと、今しかできないことだから。
 
 約束の甘味処はなかなかの盛況で、普段の鈴奈庵と比べると少し悲しくなる。
 これだけたくさんのお客を捌き切らなければならない店側も大変だななんて考えるのは職業病だろうか。
 まあそんなことを思ったのも店に入った直後の話。注文を考えている頃にはもうそんな思考はどこかに行ってしまった。
 実は私はあまりこういうところに来たことがなかった。基本的に本ばかり読んでいるし、そもそもこういう店が営業している時間は鈴奈庵の店番をしなくてはいけない。

 というかそもそもメニュー名を見ただけでは何が出てくるかわからないという有様。
 阿求を頼ろうとしたけど、メニューが書いてある木札を見てむむむと唸っているあたり、どうやら私と大差はないらしい。
 二人でメニューを見ながら、あれがいいこれがいいと言いあう。この時点で、私のお腹は楽しさでいっぱいであった。
 
 そうして時は風のように過ぎてゆき、そろそろ本当に満腹になろうという所。

「そういえばあんた、私が来た時何を読んでいたの?ずいぶん熱心だったみたいだけど」

 先に食べ終えていた阿求が、ふとそんなことをいってきた。

「ああ、あれは――
「ストップ、食べながら話さない。飲み込んでから話しなさい」

 そういえばと思い出して、嬉々として答えようとしたところに阿求が手のひらを見せて制止のポーズをとる。
 仕方なく私は最後の一口をゴクンと飲み込む。

「お母さんみたい」
「小鈴の素行が悪いと、一緒にいる私の評判まで悪くなるでしょう」
「はいはい」
「で、何を読んでたのよ」
「ふっふっふ~、気になる?」

 その質問に待ってましたともったいぶる私を、阿求は訝しむような眼で見つめてきた。

「また”例の本〟でも見つけてきたわけ?読めもしないのによくもまあ」
「それがね!なんと今朝起きたら読める様になってたのよ!すごいでしょう!?」
「……はぁ?」

 まさにハトが豆鉄砲を食らったような顔。にプラスして「こいつとうとう頭がおかしくなったか」とでも言いたげな呆れオーラ。
 
「嘘じゃないから!疑うなら鈴奈庵まで来てよ、音読してあげるから!」
 
 阿求の右手を掴んで必死の抗議。この剣幕に押されたのか、「それじゃあ見せてもらいましょうか」と席を立って会計の用意をする阿求。
 こうして二人で店を出て鈴奈庵へ向かう。
 この時私はただ、阿求に自慢がしたいだけだった。自分は特別な人間だったんだって。今までずっと妖魔本を集めてきた甲斐があったって。
 だからこそ阿求が少し鋭い顔をしているのに気づかなかったし、自分の思いの奥底にあるものにもまた気づけなかった。

 そんなこんなで鈴奈庵に帰って店番を再開。そして阿求に先ほどまで読んでいた本を音読して聞かせる。
 何語で書かれているかもわからない文字をスラスラ読み上げていくと、今度こそ阿求の顔が驚愕に染まった。

「……ほんとに読めるんだ」
「どうどう⁉すごいでしょう?」
 
 やっと信じてくれたと言葉を弾ませた私とは対照的に、阿求は眉間に右側の眉毛を寄せて難しそうな顔を作った。
 その顔が予想外で、思わず一瞬怯む。とっさに出てきたのは、嫉妬されているんじゃないかということ。
 阿求も本好きだし、何よりこの人里においては妖怪の専門家だ。その阿求ですら読めなかった妖魔本を、私が読んでいる。それも、ある日突然。
 嬉しくなって失念していたけれど、もしも私が阿求なら、心乱さずにはいられないだろう。
 
「水を差すようで悪いんだけど、その能力は封印しておくべきよ」

 なんて私の考えは、その言葉に切り裂かれて消えた。

「妖魔本をただ集めるだけじゃ、特に危険もないと思ったから今まで何も言ってこなかったけどね、あんたのその力、とても危険よ。あんたみたいな一般人が持つには特にね」
 
 店内に誰もいないことを確認しつつ、阿求は平坦に告げる。
 言葉が出なかった。なんでこんなことを言われるのかわからなかったし、なんで阿求がこんなに真剣なのかもわからなかったから。

「妖魔本にはどんな本が多いか知ってる?」
「それは……妖怪のことが書いてある本でしょう?」
「そう、正確には『妖怪そのものの存在を記録した本』、その性質や成り立ち、風貌や性格、色々ね、本人が書いた場合もあるし、そうじゃない場合もある」
「……読んじゃだめってのは?」
「『妖魔本を読む』という行為が、そのまま『中にいる妖怪を復活させる』事に繋がる可能性があるからよ」
 
 意味が一瞬では理解できなかった。バラバラになった音が頭の中で繋がって、「そんなバカな」という思いが電流みたいに走った。
 妖魔本の中には妖怪を封じているものもあることは知っていた。最近手に入れた『私家版百鬼夜行絵巻』なんてその最たる例だろう。
 だけど、その危険性については一度も考えたことがなかった。阿求の言葉に、自分は間抜けだって言われた気がした。

「ちょっと待ってよ!私はずっとここで本を読んでたけど、妖怪が復活なんてしていないじゃない!」
「別にすべてがそうだってわけじゃない。と言うより私が言いたいのは『読むな』じゃなくて『関わるな』ってこと。いい?妖怪は人間の敵なの。妖魔本を読むってことは妖怪の世界に触れるってこと。それはとても危険な事よ」
 
 必死に否定しようとするけれど、私が阿求に言葉の言い合いで勝ったことなんて今まで一度もない。
 もし危なくなっても霊夢さんが何とかしてくれるとか、あんたの幻想郷縁起だって妖怪について書かれた本じゃないかとか、色々屁理屈をこねたけれど。

「一般人のあんたが踏み入るべき領域じゃないのよ」

 その言葉でもって、すべては両断された。
 私と阿求の間を、空間ごと切り裂くみたいなその言葉に、言い知れぬ悔しさを感じた。
 凄く、おへその当たりがビリビリする。

「……まあ、一冊たりとも読むなっていうのは言い過ぎたかもしれないけど――
「阿求のせいだもん」
「は?」
「阿求がいなければ、私が妖怪の世界に興味を持つことなんてなかったのに!妖魔本を集めることもなかったのに!私、阿求の見てる世界が知りたかっただけなのに!私がこうなったの、全部あんたのせいなんだからね!」

 何かを言い返したかった。そう思って出てきたのは、私自身も予想外な言葉。
 わたし、何言ってるんだろう。
 頭の片隅にそんな疑問が浮き出てきたのは、言葉を全部言い切った後だった。
 全部吐き出してふと我に返ると、阿求が呆然とした瞳でこちらを見ていた。
 私も自分の言葉が上手く呑み込めず、互いに閉口してしまう。
 
「そう、だったのね、それは、知らなかった」
「あ、いや、さっきのは、違うというか」
「さっきのやっぱり訂正。読んじゃだめよ。一冊もね」
「はあ⁉なによいきなり」
「小鈴、あんたは間抜けで浅慮で危機感ってやつがまるでないんだから、妖魔本なんかに手を出しちゃダメ」
「な……な……‼」
「でも、私のせいであんたが妖怪の世界に夢を見ているっていうなら……」
 
 阿求が言葉を終える前に、わかってしまった。
 直前で罵倒されたことに対するムカつきなんて消えていた。
 ただその先を、言わせるわけにはいかなくて。

「私はもう、ここには来ないから。だからあんたも、私や妖怪の事なんて忘れなさいな」

 でもどうしても、それを止めるための言葉が思いつかなかった。
 阿求はこちらに背を向けて、暖簾に向かって歩き出す。
 止めなきゃいけないのに、影縫いにでもあったみたいに動けなかった。
 止めて、何を言えばいいのだろう。何を言えば、阿求は戻ってきてくれるんだろう。

「どうせ”私〟も後10年くらいの命だもの。先に死ぬことが確定している奴の事なんか、忘れて生きなさい。その方が幸せよ、お互いにね」
 
 首だけ振り返ってそういう阿求の顔は不思議ととてもきれいに見えて、動けなかった。
 後に残ったのは、私は何を言ってしまったんだという戸惑いと後悔だけだった。
 
 


 私が初めて妖怪という存在に触れたのは、幻想郷縁起を見た時だった。と言っても阿求が書いた奴じゃなくて、その先代が書いたものなんだけど。
 両親は恐れる対象として教えてくれたけど、思えばこの時から、私は妖怪の世界、と言うよりも特別な者たちだけが生きられる非日常的なものに興味があった、と思う。
 何年も前の話だから、あいまいだけど。
 そして同時に阿求のことも両親から聞いた。

 百数十年ごとに、今までの前世の記憶を持って転生する存在。一度見たことは決して忘れず、そのかわり寿命が短くて、その年は30を数えることはないのだと。
 その話を聞いて、とても羨ましいと思ったのを覚えている。
 人とは違う特別な存在。顔も知らないうちから、阿求は私のあこがれだった。

 それから少しして、今代の幻想郷縁起の印刷のために阿求が鈴奈庵を訪ねてきた。これが、私たちの初対面になる。
 互いに本好きということもあり、打ち解けるのに長い時間はかからなかった。
 阿求と言葉を交わす度に思う。あちら側の世界はどうなっているのだろうかと。私はそこに行けるのだろうかと。

 何分身近な存在だったから、その距離感がわからずにいた。手を伸ばせば届く気でいた。
 私が妖魔本を集める様になった原因がこれだけとは言わないけど、少なくとも妖怪に対して興味を持ったのは阿求と言う存在が大きい。
 そのことを、今まで自覚することはなかった。でも、無意識のうちに出た言葉に、そうだと教えられた。
 面白い本を見つけた時、あいつにも見せてやろうと思うようになったのはいつからだったっけ。
 少し意地の悪いことを思いついた時、頭のなかのあいつに叱られるようになったのはいつからだったっけ。

『私はもう、ここには来ないから。だからあんたも、私や妖怪の事なんて忘れなさいな』

 阿求との今までの思い出の中心で、その言葉がぐるぐる回っていた。
 嫌われたわけじゃないのはわかる。むしろ私のことを気遣ってくれたんだと思うけれど、それはほかのどんな言葉よりも強烈だった。
 どこだかもわからない体の奥が、重くて痛い。

 嫌だと言い返せばよかっただろうか。
 忘れられるもんかと泣きつけばよかっただろうか。
 そのどっちを想像しても、阿求の別れ際のあの綺麗な顔が終着点だった。

「はぁ~、なんでこんな力に目覚めちゃったんだろうなぁ~」

 すでに暖簾を下ろし終えた鈴奈庵のカウンター席に突っ伏して、暗くなりつつある外を見る。
 それ以上のことをするやる気は、全部阿求と一緒に出ていってしまったみたいで。
 いつもなら勇み足で駆けつけるお母さんの「ごはんできたよ~」の声も、私を動かす原動力にはならなかった。




「小鈴、あんたやけに静かだけど、なんかあったの?」

 二回目のご飯できたよコールで、さすがにまずいと体を起こし、二階の居間でお母さんとご飯を食べていると、ふとそう聞かれた。
 どう答えるか少し迷う。話したところで解決することではないし、かといって嘘をつく必要があるわけでもない。
 さすがに妖魔本が読める様になりましたなんて言うのは色々不味い気がするけど。
 
「んー、なんでもない、そういう日もあるの」
「ふーん、ならいいんだけど」

 少しごまかしてみると、あっさり引き下がられた。まああんまり心配されるよりは気が楽だけど、もうちょっと食ってかかられると思ったから拍子抜けだ。
 間違いなく落ち込んでますと顔と態度に出てると思ったけど、そうでもないのだろうか。
 
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。食器持ってってね」
「はーい」

 夕飯を食べ終え、食器を台所に持って行ったその足で自分の部屋に帰ろうとした。
 でも食器を持って行ったところで、ふと気が変わった。
 お腹がいっぱいになってほっとしたからだろうか。
 それとも、お母さんのそっけない態度に「あんたの悩みなんて大したことじゃない」と言われた気がしたからだろうか。
 きっと、両方だと思う。私の悩みくらいじゃちっとも揺れない日常がそこにあったからこそ、少しだけ口が軽くなった。

「ねえ」
「なあに?」
「もしも友達がさ、自分のために絶交しようって言ってきたら、どうすればいいのかな」
「はぁ?なにそれ?」

 私の漏らすような問いかけに、お母さんは口を大きく開けて意味が分かりませんのポーズを取った。
 妖魔本のあたりをぼかそうとしたせいで、少し説明が抽象的過ぎたかもしれない。
 
「阿求の奴がさ、そんなに妖魔本ばっかり集めてると、いつか妖怪になっちゃうぞって言うの。でも、妖怪の世界に興味を持ったのは阿求のせいだーって私が言ったら、じゃあもう鈴奈庵には来ないから、私のことも妖怪ことも忘れなさいって」

 よく考えてみればほとんどぼかす必要はない。阿求のことも、私が妖魔本を集めていることもお母さんは知っているんだから。

「ふーん、あんた阿求ちゃんと喧嘩したんだ」

 瞬き三回分ほど時間をおいて、かえって来たのはそんな返答。
 私も説明がざっくり過ぎたかもしれないけど、今までのことを喧嘩の一言でまとめられるのはなんだか納得いかなかった。
 と言うよりも、これは果たして喧嘩と呼ぶべきものなんだろうか。
 
「……これって喧嘩なのかな」
「小鈴はどうしたいの?」

 口をついた疑問は、どうやらお母さんには聞こえなかったらしい。問いに問いを被せられてすこし虚を突かれたけれど、その答えはすぐに出てきた。

「このままじゃ嫌だから悩んでるんだよ、でも阿求は私のためを思って言ってくれてるんだし、そもそもまた会って何を言えばいいのかわからないし……」
 
 口にしてみると、お腹いっぱいで少し晴れやかになった気持ちが沈んでいく。
 こうなりたいという理想はある。それは、阿求と元通りの関係になること。
 でも考えれば考えるほど難しくなっていって、理想が遠ざかる気がして怖い。
 こんなことになるのなら、妖魔本なんか読めなくてもよかったのに。

「小鈴、あんたはたまに難しく考えすぎるときがあるね。普段は考えなしの癖に」
「お母さんまで言うの⁉私だってちゃんといつも考えてるよ!」
「本当ぉ?あんたあぶなっかしいからね、阿求ちゃんがいないと私も心配だよ」
「むぐぐ……‼」
 
 私のどこがそんなに考えなしだというのか。阿求もお母さんも目が節穴なんじゃないだろうか。
 現に私はこんなに考えてこんなに悩んでいるというのに。

「別に仲が悪くなったわけじゃないんでしょ?言いたいことがあるなら言えばいいじゃん、さっきもいったけど、阿求ちゃんがいないとあんた何するかわかんないからね、早く仲直りするんだよ」
「もういい!お母さんに聞いた私が馬鹿だった!」

 怒りと少しのもどかしさから、自然と足音が強くなる。
 アドバイスの一つくらいはもらえるかもしれないと思ったけど、もらえたのは考えなしのレッテルと無責任な早く仲直りするんだよという言葉だけ。
 事情を多少ぼかしたとはいえ、悩んでる相手にこれはないんじゃないだろうか。
 相談する相手を間違えた。阿求とも親しい霊夢さんあたりなら、もっと真剣に聞いてくれたに違いない。

 もういい、今日は早めに寝てしまおう。今日はとにかくいろんなことが起きすぎた。
 朝起きたら妖魔本が読めるようになっていて、昼にそれが原因で阿求と絶交することになって、夜はこれだ。さすがに疲れた。
 ドタドタと自室に向かい、布団と枕を敷いて横になる。
 そしていざ寝ようとした時、見覚えのある便箋が目に入った。
 昨日阿求からもらった手紙だ。ほとんど無意識に手を伸ばして、月明かりを頼りに読み始める。
 思い返せばその手紙にも、私のことをいい加減だなんだと書いてある一文があった。

 今日は本当に、他人から馬鹿にされる日だ。
 お母さんに考えなしと言われてカチンときた。
 阿求に同じようなことを昼言われたときも少しムッとなった。
 なのに、この手紙の中の悪口だけはとても優しい。
 それはきっと、阿求が手間をかけて書いてきてくれたからだ。

 他ならない私のために、手間をかけて選んでくれた言葉だから、悔しさよりも嬉しさが勝ってしまう。
 時間と手間の乗っかった言葉は、どんな言葉でも優しくなるのだと、この手紙は教えてくれた。
 気づけばムカッとした感情はどこかへ行ってしまった。
 代わりにお母さんの難しく考えすぎだという言葉が、広がる波紋みたいに染みわたる。
 ああ、きっとそうなんだ。昼間の言葉もこの手紙と同じ、私のために選んでくれた言葉で、なら、私が返すべきなのは。
 手紙をゆっくりと元の位置に戻して、私は一階への階段を駆け下りた。

 外に出てみると、すでに日は落ちきっていて、代わりに中途半端な三日月が浮かんでいた。
 頼りない月明かりの下に吹くそよ風は、涼しさよりも恐怖を感じさせる。
 阿求の家のほうに一歩踏み出すのに、ほんの少し時間がかかった。
 この時間の人里は、頼りになる明かりがお店の提灯くらいしかなくて、人通りも極端に少ない。まるで違う世界に来ちゃったみたいだと、いつも思う。

 提灯の明かりを一つ通り過ぎるたび、安心感みたいなものを一滴ずつこぼしてしまうような感覚がある。いつもなら、この感覚はスリルがあって結構好きなんだけど、今日だけは少し、寂しさが勝った。
 最後の明かりを通り過ぎて、あいつの屋敷にたどり着いた。
 「稗田」と書かれているはずの表札は、暗くてよく見えなかった。
 その門をくぐろうとするけど、上手く足が動かない。
 足を踏み出そうとすると、昼間の阿求の言葉に止められてしまう。

 ちゃんと話を聞いてくれるだろうか。
 聞いてくれたとして、正しく伝わるだろうか。
 もしかして嫌われたりしないだろうか。
 そんな不安が、その幻聴と一緒に顔を出す。
 もしかして、約束を破ったときの阿求も、似たような気持だったのかな。
 そう思うと、少しだけ足が軽くなった。

 そうして踏み入った屋敷は人里よりもずっと静かだった。
 道中では聞こえていた喧騒とか物音とか、そういうものが何も聞こえない。
 もしかして、阿求はすでに寝てしまっているんじゃないだろうか。少し早い時間だが、あり得ない話ではないだろう。
 私だって今日は疲れたから早く寝ようなんて、直前までは考えていたんだし。
 もしそうだとするなら起こすのも悪い。でも、だからと言って引き返す気はなかった。

 いつもの順路をたどり、阿求の部屋の前までたどり着く。見慣れたはずの道のりに不安を感じたのはこれで二度目だ。
 襖の取っ手に手をかけると、心臓が跳ね上がる。頭が勝手に引き返す理由を全力で探し始める。
 門前で感じた不安よりもはるかに大きなそれに押しつぶされそうになるけれど、こういうとき、どうすればいいか私は知っている。
 不安になるくらいなら、襖を開けた先の事なんか、何も考えなければいいのだ。きっと何とかなるってだけ、思っていればいい。

 そうして勢いよく開け放った襖の向こうに、こちらを振り向く阿求の姿が見えた。
 頼りない月明かりに照らされて、とても驚いた表情をしていたのがなんとなく分かった。

「どうしたのよ、こんな時間に。って、あんたまさか読んだんじゃないでしょうね?」

 第一声は、想像したどの不安とも異なるものだった。
 まあ確かにこんな時間に来るんだから、何か事件があったと思うのが普通かもしれない。

「読んでまーせーん!私、どっかの誰かさんと違って約束は守るから!」
「しっ、夜に大声を出さない。使用人たちが別室で寝てるから、起こしちゃダメ」
「なにそれ、ずいぶん早いのね」
「朝も早いからね」
「ふぅん」
「それで、約束を守るあんたが、どうしてここにいるのよ。私のことは忘れなさいって言ったでしょう」
「あれは約束じゃなくて忠告だから、破ったうちには入らないのよ」
「屁理屈を」

 どうやら緊急事態ではないと私の態度から察したらしい阿求。
 もっとぎこちなくなるかなと思ったけど、実際に話してみると意外と口が回る。
 やっぱり世の中、何も考えずに突っ込んだって大抵のことはうまくいくようにできているのだ。
 
「はぁ、私としては、かなり本気で言ったつもりだったんだけどねぇ」

 少し、気が抜けるような声。表情はよく見えなかったけど、たぶん、怒らせたわけでも呆れられたわけでもないと思う。

「ほんとに?ほんとにあんなこと本気で言ったの?」

 阿求のそばまで詰め寄る。ここまで来れば、少し困った顔をしているのがよく見えた。

「そもそも私のせいだって言ったのあんたでしょう?」
「うぐっ!それはその、単に口が滑ったというか……ごめん」
「謝られてもねぇ……」

 少し気まずい沈黙。何かを言おうとして、喉の手前でせき止められる。
 「あ」とか「う」とかの言葉になりきれなかった音達が、ぽつぽつと口から洩れるだけ。
 言いたいことはあるはずなのに、どう言えばいいのかわからない。
 どう言えば伝わるのかわからない。

「……そうね、本気だったよ。昼間も、そして今もね」

 私が大急ぎで頭を回している真ん中を、その言葉は風みたいに飛んで行った。
 瞬間、暗闇の中で確かに目が合った。

「小鈴が私のせいで不幸になるところなんて見たくないもの」

 そして、まるで絵本の中みたいなセリフを言い放つ。
 月明かりに薄青く照らされたその顔は、昼間の別れ際と同じものに見えた。
 でも、そうじゃない。私はそんな言葉を聞くために、ここに来たんじゃない。
 たった今、ようやくわかった。どう言えばいいのか。どう言えば伝わるのか。その答えが。

「阿求が、私のことを心配してくれてるっていうのはよくわかった。でも私だって、言いたいことがあってここに来たのよ」

 帰ってきたのは、沈黙。それはきっと、私の言葉を待つためのもの。
 さっきのそれとは違う類の緊張感を踏み越えて、少し、息を吸う。

「……まずは、ごめんなさい。阿求のせいだなんて言って。むしろ阿求のおかげで妖怪の世界を知れて、楽しかったのにね」
「楽しまれても困るんだけどねぇ……」
「昼間のこと、わたしなりに考えてみたんだ。忘れなさいなんて言われて、嫌だって思ったけど、あれも私を心配してくれたからなんだ思うと、なんかすごく難しい話に思えてさ。でも単純な話だったんだよ」
「ふぅん?」
「阿求は私のために忘れなさいなんて言ってくれたの、少し複雑だけど、嬉しい、と思う。でも‼それは余計なお世話!大きなお世話!あんたのそんな気遣いなんて、私いらない‼」
 
 これが、私の言いたかったこと。今まで少し、難しく考えすぎていた。阿求が私のために選んでくれた言葉だから、なまじ余計なお世話だなんて言いにくかったんだ。
 でも、そんな風に考えちゃうのがよくなかった。阿求の手紙をみて、どんな言葉も、時間を掛ければ優しくなるのだと教えられた。私のこの言葉がそうなっているかはわからない。
 だけど私だって一生懸命悩んだんだ。だから、あの手紙と同じように、優しく届いてくれないかな。

「私が心配だっていうなら、もう来ないなんて言わないでちゃんと見ててよ!」
 
 声が広い部屋に反響して、再び沈黙。阿求は目を見開いていたけど、少しして思い出したみたいに私の口元に手をかざしてきた。

「……静かに。みんな寝てるって言ったでしょう?」
「あ……ごめん、つい」
 
 そう言えばそうだった。結構大きな声を出しちゃったから、もしかして起こしてしまっただろうか。
 そう思うとばつが悪い。張りつめていた気分が萎れてきて、少し冷静になる。
 ちゃんと、言いたいことは伝わっただろうか。今思い返せば、もしかして私はさんざん阿求のことを馬鹿にしただけじゃないのか。
 気遣いを踏みにじっただけじゃないのか。
 
「余計なお世話、ね。あんたもなかなか言うようになったじゃない」
「いや、それはそういう意味じゃなくて、何と言いますかその」
「小鈴が妖魔本を読めるようになった時、いい機会だなって思ったのよ」
「へ?」
「私、たぶんあんたより先に行っちゃうから、葬式の時にあんたが悲しんだりしないようにね、いつか離れなきゃなって、だから遅かれ早かれ似たようなこと言うつもりだったの」
 
 自分の表情は見えないけど、私は今、目を丸くしているだろう。
 阿求にそんな考えがあったことなんか、ちっとも気づかなかった。
 少し動揺したけど、すぐに冷静になれた。
 だって、それは。

「そういうのも、あんたは全部、余計なお世話だっていうのね?」
「……うん、そう、余計な余計なお世話よ」
「私が死んだとき、大泣きしたって知らないからね」
 
 私の気持ちが全部届いたっていうことは、たぶんない。手紙と違って、言葉は一瞬で消えちゃうから、なおさら。
 もしかしたら、阿求みたいに手紙を用意した方が、ちゃんと伝わったかもしれない。
 でも、そんな後悔は、たった今消えた。だって、阿求のこの言葉に、今しかないものを乗せて答えられるんだから。

「知らなくっていい。それも、余計なお世話よ」
「そっか」
「うん」

 不意にお母さんが言った喧嘩という言葉を思い出す。今思えば、これは喧嘩と呼べるものだったと思う。
 でも、少し不思議な喧嘩だった。
 「喧嘩するほど仲がいい」っていうのは、こういうことを言うのだろうか。
 たぶん、違うと思う。すれ違って、伝えたい言葉があって、今のままじゃ嫌だから、喧嘩になるんだ。
 仲がいいからじゃなくて、仲良くなりたいと思ったから。これはきっと、そういう喧嘩なんだ。

 きっとこれからも、喧嘩することがあると思う。
 でもそのたび、あの手紙が阿求の優しさを思い出させてくれるんだ。
 それはとても、素敵なことだと思った。
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コメント



0.190簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
転生者としての冷めた忠告と、有り触れた立場からの特別な思いと、形は違えど組み合わさって少女二人の友情を成す、良い話だと思うました。
3.100名前が無い程度の能力削除
二人の距離感がもどかしくも愛しく感じられました。
4.100奇声を発する程度の能力削除
良い雰囲気で良かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
めっちゃ良かったです。久々にぐいぐい読んでしまいました。
6.100n9削除
めっちゃ面白かったです
7.100仲村アペンド削除
大変面白かったです。とても地に足のついた文章で、小鈴の心情がとても良く伝わってきました。
8.100南条削除
非常におもしろかったです
小鈴と阿求のやり取りがとても良かったです
9.100ふつん削除
とても良かったです。
互いを想い気づかい合う心が二人の絆の表れのように感じられました。
すいすい読める文章やすごく伝わってくる心情描写も良かったです。
11.100とらねこ削除
友達を悲しませたくない阿求と、その思いを受け止めて大事にした上で本当の望みを言えた小鈴。冒頭に言っていた憧れの関係になれたと思います。
13.100名前が無い程度の能力削除
とても好きです
14.80山茶花削除
良いあきゅすずでした!
情景が瞳に焼き付いてくるような、読みやすい文章でした