TIME
桜の花びらはすっかり散ってしまった。
幻想郷は新緑の色に包まれており時折雨が降る日が増え、やがてやって来る梅雨の季節を何となく感じさせていた。
マヨヒガの縁側。
月が空の中心で燦々と輝く下で八雲紫は静かに腰を下ろしている。
その目は月でも、月明かりに照らし出された幻想郷の山々でも、かすかに遠く見える人里の数件の漏れる明かりでも写してはいない。
「紫様」
声をかけられて後ろへ振り返ると八雲藍がいつの間にか畏まっていた。
「まだお休みになられないので?」
「ええ。まだ眠たくないのよ」
「何かお酒でも持ってきて参りましょうか」
「いいの。気にしないで。先に寝て頂戴」
そう言うと視線をまた前へ戻す。
しばらく藍は主の背中をじっと見つめていたが、やがて意を決したようにまた声をかける。
「しかし、このところ紫様はあまりお休みになられておりません。藍は心配です。横になるだけでも体には良いですので、どうかお休みくださいませ」
そして深々と頭を下げた。
式が主に口を出したのだ。
いつもならこの後、良くても小言を、悪くて折檻を受けるだろう。
だが、紫は何も言うことなく背中を見せたままゆっくりと立ち上がった。
「わかったわ。寝間へ行きましょう」
体を反転させて藍の横を通り過ぎていく。
藍は体を硬くさせて紫からのお叱りを待っていたがついに届くことはない。
そればかりか、
「藍? 貴女も寝間に来て頂戴。添い寝を頼むわ」
「わ、私がですか? いえ、しかし」
「寝ることを勧めたのだから、それくらいのことはしてよ。お願い、独りじゃあ眠れない」
顔を上げた先には主の弱々しそうな微笑が浮かんでいた。
まるで年頃の人間の少女のような。
「わかりました」
これ以上主に口を出すのは野暮と思ったのか、藍は静かに立ち上がると主の後ろに従った。
紫の寝床。
そこへ紫と藍の二人が布団に入り横になる。
「おやすみなさい」
そう言うと紫は目を閉じて、何事も言わなくなる。
横顔を見つめながら藍は主の変貌ぶりに思いを巡らした。
主が主らしくなくなったのだ。
こうして紫の寝室に入ることすら滅多に許されたものではなく、そればかりか同じ寝床に入るなんて。先ほど「お願い」などと式に懇願するような言葉など今まででは考えられない。
そして先ほどの弱々しい微笑。
まるで人間のようだ。
藍は静かに目を閉じると口を開いた。
「紫様。私は何があっても紫様の式です。いつまでもお側にいますから」
「ありがとう」
紫もまた静かに返事をすると、そのまま二人の間に会話がなくなった。
※
八雲紫は長い間、神隠しの妖怪として強い力を持ち、この幻想郷を作り出し妖怪たちを束ねてきた。
月へ攻め入ったこともある。
外の世界と隔離しながらも座敷童子を外の世界へ送り込み収入を得ようとするなど、この妖怪たちの楽園の管理者として君臨してきた。
八雲紫がかつて人間、マエリベリー・ハーンであったことを思い出したのは桜が咲き始めた先月のことである。
それは博麗神社の巫女、霊夢との何気ない会話であった。
紫は自身がメリーという人間であったことを忘れていたのと同時に、大切な彼女のことも忘れていた。
覚えているのはかつて自身が人間であったことのみ。
自分が誰でどういう人間か、どうして自分が妖怪になったのか。
そして忘れようとも忘れられない、しかし名前も声も朧気で大切なはずの存在も思い出すことが出来なかった。
このことは夢にも出て紫を悩ませることでもあった。
桜が舞う博麗神社でうたた寝をした後、霊夢に起こされた時に何気なく話したときだ。
「ふーん、紫にも意外と感傷的なところがあるのね――でも、そんな紫のこと、私は好きかもね」
にっこりと笑う霊夢の顔に、彼女が――宇佐見蓮子の笑顔が重なった。
大妖怪として時に人間を喰らい、人間たちに恐れられてきた紫に、人間からの好意の言葉などつい聞いたことはない。
初めて聞く人間からの好意の言葉が紫に大切な存在を思い出させたのだ。
自分がメリーで居たとき、彼女はいつも好意の気持ちでもって言葉をかけてくれていたはずなのに。
ずっと忘れたくなかった蓮子を長い間忘れてしまった自分が情けなくて。
人間で居られなくなった自分が恥ずかしくて。
紫はその場で霊夢にしがみついて胸元で泣いた。
驚きながらも霊夢は優しく紫の髪を撫でてくれた。
だが、蓮子の名前と顔と、その声を思い出した紫だったが肝心な所は長い年月の時間によって邪魔されていた。
蓮子と過ごした日々のこと。
蓮子と別れた時のこと。
何故、自分は妖怪になったのか。
何故、人間で居られなくなったのか。
今、蓮子はどうしているのか。
それらは一切分からなかった。
その日から紫の様子が一変した。
優しくなったというのは紫のことを快く思っていない者たちの陰口であろう。
多くの者たちは紫を大妖怪らしくない、弱々しくなったと思っている。
式を叱責することがなくなった。そればかりか今まで厳しくしてきた反動とばかり、まるで他人行儀にさえ思えるほど丁寧な言葉遣いで接してくる。藍が驚きのあまり「これが本当に大妖怪として幻想郷に君臨してきた主なのだろうか。何かまた異変をたくまれておいでなのではないか」と疑った程である。
だが紫が企てをしているわけではないことを知るようになる。
妖怪たちの行動に介入することが消極的になった。藍が怪しい予兆を報告しても「そう。騒ぎになるまで静かにしておきましょう」と返事をするばかり。騒ぎになる頃には紫の出番はなく、霊夢たちによって鎮められた。
あれだけ嫌っていた閻魔様の説教にも嫌な顔を一つもせず、静かに耳を傾ける姿に「紫。貴女は少し疲れ過ぎている。体を休め養生することは人間でも妖怪でも変わりなく大事なことなのです。それでは」と映姫が不気味に思ってそそくさと退散するほどだ。
一方で幻想郷の結界が緩んでいる箇所に気がつくと「私が行きます」と申し出る藍を制して自身自ら修復に向かうのであった。
そんな紫を鴉天狗が「大妖怪・八雲紫氏。ついに弱体化か!?」と見出しを書いた記事を妖怪たちにばらまいた。依然、覇気のない紫を挑発し発憤させようとしたのだ。藍はこの記事に激怒したが、紫はやはり優しく制して相手にしなかった。
紫は一日のほとんどをぼんやりとしていた。
マヨヒガの縁側でも、白玉楼で幽々子とお茶を飲んでいる時も、博麗神社で過ごしていても。
紫の頭の中には蓮子のことでいっぱいだった。
その姿はまるで弱々しい人間のよう。
紫が優しくなったと嫌みを含んで影口を叩いていた者たちも、やがて口をつぐんで紫の変貌ぶりにあれやこれやと推測するようになった。
気がつけば幻想郷で妖怪たちによる異変や騒ぎがなくなっていた。
※
「魔理沙-。敷物が足りないわよ。早く持ってきて頂戴」
「おいおい。まだ足りないのかよ。これは結構な大かがりな宴会になりそうだな」
「咲夜。食べ物は準備できそう?」
「ええ。完璧ですわ。昨日から紅魔館総動員で準備しましたから、心配はないわ霊夢」
「さすがね。あとは萃香がお酒を調達出来たら宴会が出来そうね」
まだ日暮れにもなっていない博麗神社の境内。
霊夢たちが今夜開く宴会の準備に追われているのを紫は傍で静かに見守っていた。
宴会は陽が暮れてから行われるのだが霊夢が「始まる前に神社に来て頂戴」と昨晩紫を訪れてそう言ったので、早くに来たのだが霊夢たちは準備に熱中しているのだから紫は手持ちぶさたになっていた。
堪えきれず「私も何か手伝いましょうか」と言い出しても霊夢に「いいからそこでゆっくりしてなさい」と入れてもらえない。仕方なくまた傍らでぼんやりとする。そんな紫の様子に驚く者はいなかった。すっかり慣れてしまったのだろうか。
「宴会ね」
また頭の中で蓮子の笑顔が浮かぶ。
彼女とこうして食事をしたことがあったのだろうか。あったと思うのだがやはり記憶がまだ思い出せない。
「よっと。あぁ、疲れたわ」
ふと霊夢の声がして現実に引き戻されると霊夢が紫の横で背伸びをしている。
二人は肩を並べて境内を見つめていた。
魔理沙が咲夜が運んできた料理をつまみ食いをして、咲夜にナイフを向けられている。それを妖夢と鈴仙が宥めようと割って入る。
いつもの幻想郷の光景であった。
「体の具合はどうなの? 調子は戻ったかしら紫?」
「・・・・・・ええ。少しはまぁ元気かしら」
「まぁ、ねぇ」
視線を交わさないまま霊夢と紫が言葉を交える。
紫は静かに微笑んでみせたが、霊夢は真顔のまま。
「霊夢」
「ん?」
「あのときのこと。誰にも話していないわよね?」
「あのとき? ああ。誰にも話していないから心配することはないわよ。安心しなさい」
「そう。ありがとう」
霊夢の胸元で静かに泣いて、泣いて、泣き止んだ後。
紫はこのことを誰にも言わないでほしいと霊夢に口止めをしたのだった。
かつて自分が人間であったこと。
大切な彼女のことを。
思い出し、泣いたことを。
「妖怪が人間の胸元で泣いたなんて、あんたにしたら沽券に関わることだからね。黙っているわよ」
「沽券だなんて・・・・・・そんなことじゃないわ」
小さく返した紫の言葉に霊夢が「あん?」と紫に顔を向ける。
紫は横顔を見せたまま、また小さく呟いた。
「妖怪が、ね」
しばらく横顔を見つめていた霊夢だったが、視線を境内に戻すと「何よ。はっきりしなさい」と焦れったそうに言葉を投げつける。
「ふふ。いいえ。何でもないわ。それより今日の宴会はいつもより大かがりね。楽しみだわ」
「・・・・・・本当につかみ所のない奴ね」
天気は快晴。
月を覆う雲は一つもない。
陽が暮れて博麗神社での大宴会が始まった。
吸血鬼たち。幽々子たち。竹林に住む月人たち。山の巫女。天狗たち。人里の寺子屋の先生や貸本屋の娘、稗田家の当主。さらには地底の妖怪たちまで。
博麗神社は多くの人妖でごった返していた。
輝夜たちが月の珍しい道具を披露し多くの興味を誘っている。
アリスの人形劇が妖精たちを引きつける。
天子が紫苑と共に宴会場を回り、参加者のそれぞれが持参した料理を一緒に食べて回る。紫の前を通り過ぎてもちらりと見ただけで何も言わなかった。
やがて酒に酔った萃香が魔理沙相手に弾幕勝負を挑んで、宴会場の空に光り輝く弾幕が飛び交うと宴会は大いに盛り上がった。
紫はその様子を眺めながら静かに酒を飲んでいた。
誰と言葉を交わすことなく。
ただ一人で思いに耽っている。
弾幕を見ては「蓮子とこのような景色を見たことがあるかしら」、酒を飲んでは「一緒にお酒を飲んだことがあるだろうか」。
もう頭の中では一緒に何を食べ、何処へ行き、どんな言葉を交わしたかわからない彼女のことばかりだ。
心の奥で一つの欲求が湧き上がって来るのをずっと感じていた。
しかし、それは叶わない。
叶うはずもない。
叶ってはいけないことだ。
強い酒に酔ったようにぐわりぐわりと多くの思考で頭の中が回っていく。
傍らで「紫様? 紫様!?」と藍が大声で呼びかけているのにも気がつかないほどに。
「あぁ! 本っ当にもう! 焦れったいわね!」
紫の耳に大声が聞こえた。
霊夢の声だ。
はっとして顔を上げた時、もうすでに目の前に霊夢の大きな顔が近づいてきていた。
「ずーっと一人で辛気くさそうにして! 盛り下がるじゃない! 言いたいことがあるならはっきりしなさいよ!」
明らかに怒気を含んだ霊夢の声。
だけどその霊夢の顔は今にも泣きそうで。
言葉の怒気と両目が潤んでいるのが合わない様子に紫は目を丸くした。
「言いたいこと?」
「あんた! 蓮子とやらに会いたいのでしょう! 会いに行きたいのでしょう! 何をぼんやりとしているのよ!」
その言葉に心に何か突き刺さったようだ。
膨れあがった欲求がこぼれてくる。
いけない。
慌てて蓋をしようとももう遅い。
隙間からどんどんとこぼれてくる。
「会いたい。でも会えない。今更会ってどうするのか――ですか」
そう言いながら静かに近づいてくるのは古明地さとり。
第三の目を紫に向けながら霊夢の後ろで立ち止まった。
ふと見ると宴会の騒ぎはぱたりと止み、集まった妖怪たちは皆紫を見つめていた。
魔理沙と萃香も弾幕勝負を止めて地面に着地していた。
「・・・・・・さとり、私の心を読んだのね。それを皆に言ってしまったの?」
「いえ。貴女が元々人間であったこと。蓮子という大切な存在を忘れてしまっていたこと。そのことはここにいる皆が知っていますよ」
さとりの言葉に紫を目を丸くした。
辺りを見渡すと皆ばつが悪そうな顔をしていたり、ニヤニヤと笑う者すらいた。
紫の過去に驚く者などいなかった。
「霊夢、貴女話したの?」
「うるさい! いつまでもあんたらしくないから! 私だってどうしていいかわからなかったのよ!」
言い切ると霊夢は紫の胸元に飛び込んで来る。
両腕を紫の首に巻き付けて肩を震わせている。
泣いているのだ。
驚きながらも紫は、やがて霊夢の髪を撫でてあげた。
「まるでこの前とは逆ね」
「・・・・・・るさい!」
「どうして会いに行かないんだ? 今更どうこうってのは、言い訳じゃないのか?」
今度は魔理沙が紫に近寄って言葉をかける。
もう心の中の膨れあがった思いはすっかり流れてしまっている。
紫は一つ息を吐いた。
「一つは、怖いからよ。人間でない私を見て、蓮子に嫌われることが。蓮子と別れた時のことを知るのが怖いのよ」
「うん」
「そして・・・・・・私は妖怪になった。八雲紫としてこの幻想郷を作り上げた。妖怪たちの楽園を。もし、だけど。私がいなくなったら・・・・・・貴女たちが、どうなるのかと思うと」
小さく消え入りそうな声で静かに呟く紫の顔は、もう妖怪のものではなかった。
弱々しくまだ大人に成りきれていない少女の顔であった。
そこに大妖怪の面影はとうに消えてしまっていた。
「あっははは! 珍しいものが見れたな」
大きな声で魔理沙が高笑いをする。
つられて周囲の妖怪たちもやれやれと苦笑いを始めた。
「あの紫が私たちのことを気遣うなんてな。背中が痒いぜ。お前の私たちへの気遣いなんて考えてもいなかったくらいだぜ。だからそんな無駄なものは無用だ。さぁ、紫。お前はどうしたい? 会うのは怖いか? このまま私たちと一緒に居るか? まぁ、この宴会もお前を元気づけるのとお前にこれからも幻想郷に居てほしいから開いたものなんだが」
魔理沙の言葉に紫は目を丸くして、胸元の霊夢を見つめた。
頭のてっぺんしか見えない霊夢は震えながら「バカ魔理沙」と呟いた。
「八雲紫。貴女は少し自分勝手過ぎる。他人を気遣う気持ちは尊いものですが、その一方で同じくらい蓮子という少女のことをおろそかにしている。彼女が貴女に会いたがっているとは考えないのですか?」
映姫が真っ直ぐな目で紫を見つめた。
「奇跡は行動を起こしてからこそ起こりえるものです、紫さん。いえ、メリーさん」
早苗がにっこりと笑ってみせた。
「幻想郷は全てを受け入れると言いながら、貴女が受け入れるのを怖がってどうするのよ」
天子が不満げに鼻を鳴らしながら呆れたように言う。
「この一瞬に過去が適うことはないわ。過去は過去のまま。でも過去からこれからを決めることは出来るわよ」
輝夜が月を眺めながら微笑む。
「運命は良い方へ回り出しているわ。ふふ、私が言うのだから間違いはないわ。あぁ、月がこんなにも綺麗」
レミリアがクスクスと笑った。
「ふふ。私が一番の親友だと思っていたのに残念だわぁ。紫。お友達は、大事にね」
幽々子が扇子で口元を隠しながら優しく声をかける。
「紫様・・・・・・幻想郷のことは私にお任せを。紫様にお褒めいただけるように尽力いたします」
傍らで控えていた藍が頭を下げる。
皆が紫を見つめていた。
やがて紫の両目から涙が溢れてきた。
――あぁ。だから怖かったのよ。対立し、時には互いに利用し合い、しかし協力もすることもあって。今はこうして私の背中を押そうとしている。皆を失うかもしれないというはっきりとしない不安があった。もうここに戻れないような気持ち。それは何故だがわからない。でも。
「私は・・・・・・私は蓮子に会いたい」
少女のような顔を涙でくしゃくしゃに歪ませて、それでもはっきりと力強く言い切った。
「よし。じゃあ行ってこい。あ、お土産は美味しいお酒で」
魔理沙の言葉に妖怪たちが笑った。
紫も涙をこぼしながら笑うとゆっくりと霊夢を引きはがす。
予想通り霊夢の顔も、紫以上に涙でぐちゃぐちゃだった。涙やらよだれが紫の服についているが紫は気にも留めない。
「霊夢」
「あによ」
「私の留守。頼んだわ」
「そんなことわかってるわよ! とっとと行きなさいよ、バカバカバカ!」
両手で必死に両目を擦る霊夢を見て、紫はそっと顔を近づけたと思うと霊夢の額に口づけをしてあげた。
「霊夢。今までありがとう」
そう言って立ち上がる。
霊夢は返事をしない。
「藍。藍もありがとう。後は任せたわ。霊夢をよろしく」
「紫様・・・・・・私は紫様の式で幸せです。これからも、私は貴女の式であります」
藍もまた目を潤ませて紫を見つめていた。
紫は頷くと大きくスキマを開けた。
時空の境界を越えて、この向こうに蓮子はいる。
共に何を過ごしてきたか、今はどうしているのか分からないまま。
でも大切な彼女が待っている。
「私の子孫と言われてもいまいちピンとこないんだけど、会えたらよろしく伝えてちょうだい」
ふと声をかけられて紫は視線を向ける。
そうだった。この子がいながらどうして蓮子のことを思い出せなかったのだろう。
人間が妖怪になるとき。妖怪は強い力を得るが、自分がどうして過ごしてきたかその過去を一切忘れ、大切な存在も自分の名前すらも忘れる。その理の強さを思わずにはいわれない。
紫に声をかけた宇佐見菫子はにっこりと笑って見せた。
「私も待っててあげるからさ」
「・・・・・・それはどうも」
ぺこりと頭を下げてからゆっくりと紫はスキマへと入っていく。
その様子を妖怪たちが見守っていた。
「紫!」
スキマへ完全に姿を埋める前に背中から声が飛んでくる。
霊夢が立っていた。
ひどい泣き顔だが、それでも必死に笑顔を作ると、力一杯に叫んだ。
「行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
紫の姿はスキマの中へと消えた。
※
たった一言が、思い出させてくれた。
彼女を。
大切な彼女を。
彼女の笑顔を。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
蓮子。
スキマの中。
紫は必死に飛んでいく。
時空を超えて。
過去を超えて。
紫は飛び越えていく。
紫の髪は飛ぶにつれて短くなっていく。
着ていた道士服は紫色の洋服へと変わっていた。
人間だった頃の姿へと戻っていく。
スキマの向こうに光が見えた。
※
「・・・・・・ここは?」
紫が舞い降りた場所。
幻想郷とは違い人が騒々しく蠢く夜の町。
多くの人間たちが闊歩し、車が行列を作ってノロノロと動き、高架の上で渋滞する車をよそ目に電車が走り去っていく。
突然現れた少女に周りの人間たちが驚き、まじまじと見つめ、中には言い示したかのように一斉にポケットからスマホを取り出す人間もいた。
周囲の騒ぎや自分が写真を撮られていることに構わず、紫は頭をフル回転させた。
外界へと降りたった。
蓮子がいる世界に。
――思い出せ。この澱んだ空気。蓮子と一緒にいたこの世界のことを。思い出せ、思い出せ。
「京都。ここは京都だわ」
外界に降り立ち、世界に触れることで紫の頭にゆっくりと、そして確実に記憶が掘り起こされる。
――メリー。ごめんごめん。待たせちゃったね。
また一つ、蓮子の声が蘇る。
確かにここで蓮子と共に過ごしたのだ。
やがて彼女の顔が浮かんできた。待ち合わせに遅れてバツが悪そうな彼女の顔が。
懐かしさと愛おしさに涙がまた溢れそうになるが、紫はぐっと堪えた。
泣いている場合じゃない。私はここで蓮子と待ち合わせをした。一緒にどこへ行こうとしたか・・・・・・まだ思い出せない。蓮子はどこからやって来たか。
はっと思い出す。
その時には紫は夜の町を走り出していた。
角を曲がって。
車に轢かれそうになるのを構わず道を横断して。
坂を上って、息も絶え絶えに。
紫は必死に走った。
たどり着いたのは一件のマンション。
蓮子の部屋だ。
足を動かすのを止めずにマンションへそのままの勢いで入っていくと、階段を駆け上がっていく。
蓮子と一緒に過ごした部屋だ。蓮子と一緒に食事をした部屋だ。共に同じ布団で寝た部屋だ。
二階、三階と上がっていき、やがてその部屋の前へたどり着いた。
ドアノブにしがみつこうとする。
だが紫の手がドアノブに触れることはなかった。
そこに「宇佐見」という表札はなくて、見慣れない苗字が掲げられていた。
「・・・・・・いない?」
紫の片腕がだらんと垂れ下がる。
しばらく放心していた。
が、両手で頬を二、三回叩いて気合いを入れ直す。
――考えろ。考えろ。思い出せ。蓮子はどこに行った。思い出すんだ、皆に背中を押してもらったのに・・・・・・皆?
ふっと思考が止まった。
「皆? 皆・・・・・・皆って誰だっけ?」
そう口にした時。
頭の中に記憶が洪水のように流れてきた。
蓮子との会話。
共に出かけた各地のこと。
共に横になった眠らない夜のこと。
彼女と最後に過ごした日のこと。
そして。
蓮子との別れのこと。
その記憶は紫の頭を占めて、過去を押しつぶす。
「そうだ。そうだった」
ゆっくりとマンションを出る。
ふらふらと歩き出すと紫は京都の町を大きく横切った。
そしてたどり着いた一つの建物。
紫が見上げる。
蓮子が息を引き取ったであろう病院は、今も白く大きな存在を示して夜の中に建っていた。
※
「ごめんね。何も用意が出来なくて」
「・・・・・・あ、いえ。こちらこそ急に押しかけてきてすみませんでした」
翌日の朝。
差し出されたお茶を前にして紫は頭を深々と下げた。
人間だった頃の口調が今ひとつ戻ってこない。変に畏まって不審に思われないだろうか、そればかりが気がかりであった。
自分がすでに人間ではない、境界を操る妖怪であることは分かっていた。そのことを隠しつつ紫は妖怪になってからの自分のことを思い出そうとしてみた。
しかし、何も覚えていない。
妖怪となった自分が何処で、誰と、何をしたかがはっきりと分からない。
思い出そうとしても思い出せない。
確か、大切なはずだった人たちがいたのだけど。
その一人は狐のようで。
一人は桜舞う木の下で佇んでいるようで。
一人は笑い、泣き、そして抱きしめ合ったような気がするのだけど。
紫の記憶にはっきりとした輪郭も声も、名前すら思い出すことは出来なかった。
それは遠い遠い過去に消え去りそうだった。
「メリーちゃんが来てくれて、きっとあの子も喜んでいるわ」
その声に紫の意識は現実に戻されて目の前の女性と向き合う。
彼女は蓮子の母親であった。
翌日、スキマを開けて東京にある彼女の実家へと飛んだ紫は宇佐見家の門を大きく叩いた。
出てきた蓮子の母親が目を丸くしたのは言うまでもない。
かつて訪れたことのある宇佐見家の居間に通された紫は懐かしさを覚えながら蓮子の母親と向き合っていた。
彼女は寂しげに笑うと席を立って仏壇の前へと移動する。
過去を思い出そうするのを止めて紫は仏壇の遺影に視線を送った。
(メリーちゃん、だって。どうしてかしら。私がマエリベリー・ハーンであることに自信がないわ。それはここにいつも傍にいてくれた貴女がいないからかしら)
紫の顔に寂しげな笑みが浮かんだ。
遺影の中。
そこに宇佐見蓮子は満面の笑顔を浮かべて、動かないでいた。
宇佐見蓮子が亡くなったのは一年前のことである。
大学を出てからも蓮子は紫と共に各地を旅行して回った。
蓮子は大学を出てからも「部活動」と称して二人きりの旅行を楽しんでいた。紫もまた同じ気持ちだった。
毎日のようにお互いの部屋に泊まった。二人の時間は密接に、そして濃密なものだった。
しかし、三年前。
蓮子が病気を患った。
それでも蓮子は楽観視していたし、紫もまた蓮子の明るい言葉に気にも留めなかった。
それが悪かった。
蓮子が倒れた。
病院に搬送されたときには蓮子はここ数年に新たに見つかった難病の一つに侵されていること。
もはや一日病室で治療を受けないと命の危険に関わるほどであること。
蓮子の世界は狭い病室に限られて、二人で過ごした日々がもう過ごせなくなったこと。
そのことを聞かされた紫の頭は真っ白であった。
紫は空いている時間を見つけては蓮子に会いにいった。
ベッドの上でも彼女は明るく、元気な姿をみせていた。
しかし日に日に少しずつ痩せていく彼女は、紫の前では無理に明るく振る舞っていたことは紫にもわかっていた。
助けたい。でもどうすることも出来なくて、彼女は蓮子がいる病院の近くに引っ越すことを決めた。少しでも蓮子の傍にいられるように。
同時に徐々に自分が自分でいられる自信がなくなっていることに気がついていた。
ふとすると世界から消えてしまうのではないかという恐怖。
その恐怖を打ち消すように紫は蓮子の存在を求めたのだ。
だが、一年前のあの日。
病室に訪れた紫に蓮子は自分の余命がもはや長くないことを伝えたのだ。
紫は怒りと悲しみと焦りから蓮子に怒鳴って、彼女の胸元で泣いたのだ。
蓮子は言った。
「でもね。そんなメリーのこと、私は好きだよ」
それが蓮子の最期の言葉だったことを紫は今でははっきりと思い出せる。
ゆっくりと後ろへと倒れていく蓮子。
自分が取り乱して大声を上げ続けたこと。
そこからの記憶は、朧気ではっきりと思い出すことが出来ない。
「あのときメリーちゃん、どこにいたの?」
蓮子の母親に声をかけられて、紫は彼女の背中に視線を向けた。
わずかばかりだが怒りの色が見えていた。
「蓮子が死んだ時。メリーちゃんがお見舞いに来ていたことを知ったわ。でも私が蓮子の元に着いたとき、メリーちゃんいなかったじゃない。看護師さんも、先生も急にメリーちゃんがいなくなったことに驚いていたわ・・・・・・私、何度もメリーちゃんの携帯に電話をしたわ。でも繋がらなくて。今までメリーちゃん、どこにいたの?」
その言葉に紫はただ黙って「すみませんでした」というより他にない。
蓮子の最期のあと。
何の記憶も残っていない自分に言い訳など出来るわけがなかった。
紫はただ深く頭を下げるしかなかった。
「よしなさい・・・・・・せっかく蓮子に会いに来てくれたのに。失礼じゃないか」
しゃがれた声が聞こえて紫が顔を上げると、居間の入り口に腰がひどく曲がった老婆が杖をつきながらじっと紫を見つめていた。
紫は目を丸くする。
髪は真っ白に伸び、皺がたるんだ老婆は紫と視線が合うと笑ってみせた。
見覚えのないはずであった。会ったはずのない人であった。
この老婆の名前すら知らない。
しかし一目でどこかで会ったはずだという思いが強く、ただ紫も老婆を見つめ返すばかりだ。
ゆっくりと紫と向き合う位置へ歩き出すと、老婆は蓮子の母親に言いつけた。
「すまないが、このお嬢ちゃんと二人きりにしてくれないか?」
「え? お祖母様?」
「頼む。この老いぼれの言うことを聞いてくれないか?」
「・・・・・・はぁ」
蓮子の母親は怪訝そうな顔をして老婆と紫を見比べて、やがて頭を下げて部屋をあとにした。
居間には紫と老婆の二人きり。
「・・・・・・ずいぶんと待ったものだ。先にわしが死んでしまうかと思ったぞ」
沈黙を破るように老婆は言い出した。ほっほっほっと高々と笑う老婆に紫が食いつく。
「わ、私のことを知っているのですか? 貴女とはどこでお会いしましたか?」
「まて。おぬしが知りたいのはわしのことではなく、蓮子のことだろう?」
老婆の言葉に紫は口をつぐむ。
確かに、蓮子に会いたい。とにかく会いたいのだという紫の気持ちに応えるように、老婆は話を遮った。
「まだそのようだとやっぱりまだ蓮子に会っていないようだな」
「蓮子に会えるのですか!? どこで会えるのですか!?」
老婆の言葉に紫は身を乗り出して蓮子のことを聞き出そうとする。その姿に老婆は満足げに頷いた。
「蓮子に会うとなると・・・・・・あぁ。もはやそなたにどうなっても後悔はなさそうだ。よい、教えよう。東京まで来て貰ってすまないが、ここに蓮子はおらぬ。本人の強い生前の意志でな。蓮子は京都の――ここにいる。今すぐ会いにいってくれ。やれやれ何十年も待ったかいがあったわい」
満足そうに頷く老婆に、紫は深々と頭を下げるとスキマを開いて飛び降りていく。
スキマに消えていった紫に老婆はやはり満足そうに頷いた。
「よい友達を持ったな蓮子」
遺影の蓮子の顔はやはり満面な笑顔を浮かべて動かない。
「失礼します。メリーちゃん、お祖母様。お菓子でも摘まみながら・・・・・・あれ? メリーちゃんは?」
居間へと入ってきた蓮子の母親に老婆は一つ高笑いをした。
「メリーちゃんなら蓮子に会いにいったよ。本当に、蓮子はよい友達を得たものよ」
そうして笑いながら和菓子へと手を伸ばす。
菫子がメリーの正体が大妖怪であることを他人に口にすることは生涯なかった。
※
「・・・・・・お久しぶり」
京都の町を見下ろす丘の上で。
他に人影はない。
紫は一つの墓石を前に呟いた。
墓石には「宇佐見家之墓」と書かれていた。
その脇には石碑が置かれ「宇佐見蓮子ここに眠る」と刻まれている。
少し風が吹いたようだ。
紫の髪が風に揺れる。
蓮子は育ての親元から遠く離れたこの京都の地に骨を埋めるよう、生前家族たちに漏らしていたようだ。
――それを私と暮らした京都の地で骨を埋めたかったと考えるのは調子に乗ったものかしら。
紫は一人思った。
「・・・・・・蓮子」
ぽつりと蓮子の墓石に話しかける。
しかし次の言葉が見つからない。
何を話したいいのか。
話したいことが多いようで、でも曖昧で思いつかない。
焦れったい気持ちを抱えながらも、それでも紫はじっと蓮子の墓を見つめていた。
ぐるりぐるりと頭の中が回る。
やがて紫は小さく呟く。
「蓮子。私、妖怪になっちゃった。こんな私のことをどう思うかしら?」
膝を曲げて、蓮子の墓に寄り添うようにして言葉を続ける。
「こんな私のことを嫌いになったかしら? ずっと待たせてしまって、ごめんなさい」
紫の目が涙で潤んできた。
「――嫌いなわけないじゃない」
その言葉に紫は跳ね起きると、声をかけた彼女に向き合った。
そこには。
蓮子がいた。
大好きな笑顔を浮かべて。
その姿を認めて。
紫の両目から涙がこぼれていく。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
ごめんなさい。
ずっと忘れていてごめんなさい。
「蓮子!」
「メリー!」
目の前の蓮子は大きな声で笑って手を振る。
紫は涙をこぼしながら、次の蓮子の言葉を待った。
もうずっと離れない。
もう忘れたりしないから。
これからはずっと。
ずっと。
蓮子の傍にいるから。
「メリー! おかえりなさい!」
その蓮子の言葉に両目から大量の涙がこぼれてしまう。
紫は、人間に戻ろうとしていた。
そして。
紫の足下から体が崩れていく。さらさらと粉が風に吹かれるように、紫の両足から体の崩壊が始まった。
人間が人間でいることに絶え切れなくなると妖怪になる。
妖怪が妖怪でいることに絶え切れなくなったら。
それが何を意味するかを紫はわかっていた。そしてそれを受け止めようと決心していたのだ。
崩壊を始める自分の体に構わず、紫はじっと蓮子を見つめていた。
蓮子は紫の手を取ると涙で潤ませた目でじっと見つめる。
間近に蓮子がいる。
大好きだった。
大好きな蓮子が。
蓮子の手に自分の手を絡ませる。
そして両目から大粒の涙をこぼしながら、足から下腹部へ、さらに胸より上へとどんどん崩れていく体で、それでも笑顔を浮かべて大きな声で叫んだ。
「ただいま! 蓮子!」
叫び終えたとき。
蓮子の体は透けていき、やがて景色と同化し消えていった。
またメリーも笑顔を浮かべたまま体が粉となって宙へと消えた。
蓮子が亡くなってちょうど一年。
マエリベリー・ハーンは誰にも知られないまま、その生涯に幕を閉じたのだった。
風が少し吹いた。
京都の町を見下ろす丘にある墓地に人影はいない。
ただ蓮子の墓にメリーが供えた紫色の花が静かに揺れた。
※
博麗神社には人気がなかった。
酒の空き瓶が転がり、食べ尽くされた容器があちらこちらに散らばっている。
境内に敷かれた多くの敷物が風に吹き飛ばされようとしている。
まるで人気のない神社へ陽が顔を出そうとしていた。
「紫。今までありがとう」
誰も居なくなった神社の境内で。
霊夢は赤くなった目で呟いた。
幻想郷に。
朝が降りてくる。
桜の花びらはすっかり散ってしまった。
幻想郷は新緑の色に包まれており時折雨が降る日が増え、やがてやって来る梅雨の季節を何となく感じさせていた。
マヨヒガの縁側。
月が空の中心で燦々と輝く下で八雲紫は静かに腰を下ろしている。
その目は月でも、月明かりに照らし出された幻想郷の山々でも、かすかに遠く見える人里の数件の漏れる明かりでも写してはいない。
「紫様」
声をかけられて後ろへ振り返ると八雲藍がいつの間にか畏まっていた。
「まだお休みになられないので?」
「ええ。まだ眠たくないのよ」
「何かお酒でも持ってきて参りましょうか」
「いいの。気にしないで。先に寝て頂戴」
そう言うと視線をまた前へ戻す。
しばらく藍は主の背中をじっと見つめていたが、やがて意を決したようにまた声をかける。
「しかし、このところ紫様はあまりお休みになられておりません。藍は心配です。横になるだけでも体には良いですので、どうかお休みくださいませ」
そして深々と頭を下げた。
式が主に口を出したのだ。
いつもならこの後、良くても小言を、悪くて折檻を受けるだろう。
だが、紫は何も言うことなく背中を見せたままゆっくりと立ち上がった。
「わかったわ。寝間へ行きましょう」
体を反転させて藍の横を通り過ぎていく。
藍は体を硬くさせて紫からのお叱りを待っていたがついに届くことはない。
そればかりか、
「藍? 貴女も寝間に来て頂戴。添い寝を頼むわ」
「わ、私がですか? いえ、しかし」
「寝ることを勧めたのだから、それくらいのことはしてよ。お願い、独りじゃあ眠れない」
顔を上げた先には主の弱々しそうな微笑が浮かんでいた。
まるで年頃の人間の少女のような。
「わかりました」
これ以上主に口を出すのは野暮と思ったのか、藍は静かに立ち上がると主の後ろに従った。
紫の寝床。
そこへ紫と藍の二人が布団に入り横になる。
「おやすみなさい」
そう言うと紫は目を閉じて、何事も言わなくなる。
横顔を見つめながら藍は主の変貌ぶりに思いを巡らした。
主が主らしくなくなったのだ。
こうして紫の寝室に入ることすら滅多に許されたものではなく、そればかりか同じ寝床に入るなんて。先ほど「お願い」などと式に懇願するような言葉など今まででは考えられない。
そして先ほどの弱々しい微笑。
まるで人間のようだ。
藍は静かに目を閉じると口を開いた。
「紫様。私は何があっても紫様の式です。いつまでもお側にいますから」
「ありがとう」
紫もまた静かに返事をすると、そのまま二人の間に会話がなくなった。
※
八雲紫は長い間、神隠しの妖怪として強い力を持ち、この幻想郷を作り出し妖怪たちを束ねてきた。
月へ攻め入ったこともある。
外の世界と隔離しながらも座敷童子を外の世界へ送り込み収入を得ようとするなど、この妖怪たちの楽園の管理者として君臨してきた。
八雲紫がかつて人間、マエリベリー・ハーンであったことを思い出したのは桜が咲き始めた先月のことである。
それは博麗神社の巫女、霊夢との何気ない会話であった。
紫は自身がメリーという人間であったことを忘れていたのと同時に、大切な彼女のことも忘れていた。
覚えているのはかつて自身が人間であったことのみ。
自分が誰でどういう人間か、どうして自分が妖怪になったのか。
そして忘れようとも忘れられない、しかし名前も声も朧気で大切なはずの存在も思い出すことが出来なかった。
このことは夢にも出て紫を悩ませることでもあった。
桜が舞う博麗神社でうたた寝をした後、霊夢に起こされた時に何気なく話したときだ。
「ふーん、紫にも意外と感傷的なところがあるのね――でも、そんな紫のこと、私は好きかもね」
にっこりと笑う霊夢の顔に、彼女が――宇佐見蓮子の笑顔が重なった。
大妖怪として時に人間を喰らい、人間たちに恐れられてきた紫に、人間からの好意の言葉などつい聞いたことはない。
初めて聞く人間からの好意の言葉が紫に大切な存在を思い出させたのだ。
自分がメリーで居たとき、彼女はいつも好意の気持ちでもって言葉をかけてくれていたはずなのに。
ずっと忘れたくなかった蓮子を長い間忘れてしまった自分が情けなくて。
人間で居られなくなった自分が恥ずかしくて。
紫はその場で霊夢にしがみついて胸元で泣いた。
驚きながらも霊夢は優しく紫の髪を撫でてくれた。
だが、蓮子の名前と顔と、その声を思い出した紫だったが肝心な所は長い年月の時間によって邪魔されていた。
蓮子と過ごした日々のこと。
蓮子と別れた時のこと。
何故、自分は妖怪になったのか。
何故、人間で居られなくなったのか。
今、蓮子はどうしているのか。
それらは一切分からなかった。
その日から紫の様子が一変した。
優しくなったというのは紫のことを快く思っていない者たちの陰口であろう。
多くの者たちは紫を大妖怪らしくない、弱々しくなったと思っている。
式を叱責することがなくなった。そればかりか今まで厳しくしてきた反動とばかり、まるで他人行儀にさえ思えるほど丁寧な言葉遣いで接してくる。藍が驚きのあまり「これが本当に大妖怪として幻想郷に君臨してきた主なのだろうか。何かまた異変をたくまれておいでなのではないか」と疑った程である。
だが紫が企てをしているわけではないことを知るようになる。
妖怪たちの行動に介入することが消極的になった。藍が怪しい予兆を報告しても「そう。騒ぎになるまで静かにしておきましょう」と返事をするばかり。騒ぎになる頃には紫の出番はなく、霊夢たちによって鎮められた。
あれだけ嫌っていた閻魔様の説教にも嫌な顔を一つもせず、静かに耳を傾ける姿に「紫。貴女は少し疲れ過ぎている。体を休め養生することは人間でも妖怪でも変わりなく大事なことなのです。それでは」と映姫が不気味に思ってそそくさと退散するほどだ。
一方で幻想郷の結界が緩んでいる箇所に気がつくと「私が行きます」と申し出る藍を制して自身自ら修復に向かうのであった。
そんな紫を鴉天狗が「大妖怪・八雲紫氏。ついに弱体化か!?」と見出しを書いた記事を妖怪たちにばらまいた。依然、覇気のない紫を挑発し発憤させようとしたのだ。藍はこの記事に激怒したが、紫はやはり優しく制して相手にしなかった。
紫は一日のほとんどをぼんやりとしていた。
マヨヒガの縁側でも、白玉楼で幽々子とお茶を飲んでいる時も、博麗神社で過ごしていても。
紫の頭の中には蓮子のことでいっぱいだった。
その姿はまるで弱々しい人間のよう。
紫が優しくなったと嫌みを含んで影口を叩いていた者たちも、やがて口をつぐんで紫の変貌ぶりにあれやこれやと推測するようになった。
気がつけば幻想郷で妖怪たちによる異変や騒ぎがなくなっていた。
※
「魔理沙-。敷物が足りないわよ。早く持ってきて頂戴」
「おいおい。まだ足りないのかよ。これは結構な大かがりな宴会になりそうだな」
「咲夜。食べ物は準備できそう?」
「ええ。完璧ですわ。昨日から紅魔館総動員で準備しましたから、心配はないわ霊夢」
「さすがね。あとは萃香がお酒を調達出来たら宴会が出来そうね」
まだ日暮れにもなっていない博麗神社の境内。
霊夢たちが今夜開く宴会の準備に追われているのを紫は傍で静かに見守っていた。
宴会は陽が暮れてから行われるのだが霊夢が「始まる前に神社に来て頂戴」と昨晩紫を訪れてそう言ったので、早くに来たのだが霊夢たちは準備に熱中しているのだから紫は手持ちぶさたになっていた。
堪えきれず「私も何か手伝いましょうか」と言い出しても霊夢に「いいからそこでゆっくりしてなさい」と入れてもらえない。仕方なくまた傍らでぼんやりとする。そんな紫の様子に驚く者はいなかった。すっかり慣れてしまったのだろうか。
「宴会ね」
また頭の中で蓮子の笑顔が浮かぶ。
彼女とこうして食事をしたことがあったのだろうか。あったと思うのだがやはり記憶がまだ思い出せない。
「よっと。あぁ、疲れたわ」
ふと霊夢の声がして現実に引き戻されると霊夢が紫の横で背伸びをしている。
二人は肩を並べて境内を見つめていた。
魔理沙が咲夜が運んできた料理をつまみ食いをして、咲夜にナイフを向けられている。それを妖夢と鈴仙が宥めようと割って入る。
いつもの幻想郷の光景であった。
「体の具合はどうなの? 調子は戻ったかしら紫?」
「・・・・・・ええ。少しはまぁ元気かしら」
「まぁ、ねぇ」
視線を交わさないまま霊夢と紫が言葉を交える。
紫は静かに微笑んでみせたが、霊夢は真顔のまま。
「霊夢」
「ん?」
「あのときのこと。誰にも話していないわよね?」
「あのとき? ああ。誰にも話していないから心配することはないわよ。安心しなさい」
「そう。ありがとう」
霊夢の胸元で静かに泣いて、泣いて、泣き止んだ後。
紫はこのことを誰にも言わないでほしいと霊夢に口止めをしたのだった。
かつて自分が人間であったこと。
大切な彼女のことを。
思い出し、泣いたことを。
「妖怪が人間の胸元で泣いたなんて、あんたにしたら沽券に関わることだからね。黙っているわよ」
「沽券だなんて・・・・・・そんなことじゃないわ」
小さく返した紫の言葉に霊夢が「あん?」と紫に顔を向ける。
紫は横顔を見せたまま、また小さく呟いた。
「妖怪が、ね」
しばらく横顔を見つめていた霊夢だったが、視線を境内に戻すと「何よ。はっきりしなさい」と焦れったそうに言葉を投げつける。
「ふふ。いいえ。何でもないわ。それより今日の宴会はいつもより大かがりね。楽しみだわ」
「・・・・・・本当につかみ所のない奴ね」
天気は快晴。
月を覆う雲は一つもない。
陽が暮れて博麗神社での大宴会が始まった。
吸血鬼たち。幽々子たち。竹林に住む月人たち。山の巫女。天狗たち。人里の寺子屋の先生や貸本屋の娘、稗田家の当主。さらには地底の妖怪たちまで。
博麗神社は多くの人妖でごった返していた。
輝夜たちが月の珍しい道具を披露し多くの興味を誘っている。
アリスの人形劇が妖精たちを引きつける。
天子が紫苑と共に宴会場を回り、参加者のそれぞれが持参した料理を一緒に食べて回る。紫の前を通り過ぎてもちらりと見ただけで何も言わなかった。
やがて酒に酔った萃香が魔理沙相手に弾幕勝負を挑んで、宴会場の空に光り輝く弾幕が飛び交うと宴会は大いに盛り上がった。
紫はその様子を眺めながら静かに酒を飲んでいた。
誰と言葉を交わすことなく。
ただ一人で思いに耽っている。
弾幕を見ては「蓮子とこのような景色を見たことがあるかしら」、酒を飲んでは「一緒にお酒を飲んだことがあるだろうか」。
もう頭の中では一緒に何を食べ、何処へ行き、どんな言葉を交わしたかわからない彼女のことばかりだ。
心の奥で一つの欲求が湧き上がって来るのをずっと感じていた。
しかし、それは叶わない。
叶うはずもない。
叶ってはいけないことだ。
強い酒に酔ったようにぐわりぐわりと多くの思考で頭の中が回っていく。
傍らで「紫様? 紫様!?」と藍が大声で呼びかけているのにも気がつかないほどに。
「あぁ! 本っ当にもう! 焦れったいわね!」
紫の耳に大声が聞こえた。
霊夢の声だ。
はっとして顔を上げた時、もうすでに目の前に霊夢の大きな顔が近づいてきていた。
「ずーっと一人で辛気くさそうにして! 盛り下がるじゃない! 言いたいことがあるならはっきりしなさいよ!」
明らかに怒気を含んだ霊夢の声。
だけどその霊夢の顔は今にも泣きそうで。
言葉の怒気と両目が潤んでいるのが合わない様子に紫は目を丸くした。
「言いたいこと?」
「あんた! 蓮子とやらに会いたいのでしょう! 会いに行きたいのでしょう! 何をぼんやりとしているのよ!」
その言葉に心に何か突き刺さったようだ。
膨れあがった欲求がこぼれてくる。
いけない。
慌てて蓋をしようとももう遅い。
隙間からどんどんとこぼれてくる。
「会いたい。でも会えない。今更会ってどうするのか――ですか」
そう言いながら静かに近づいてくるのは古明地さとり。
第三の目を紫に向けながら霊夢の後ろで立ち止まった。
ふと見ると宴会の騒ぎはぱたりと止み、集まった妖怪たちは皆紫を見つめていた。
魔理沙と萃香も弾幕勝負を止めて地面に着地していた。
「・・・・・・さとり、私の心を読んだのね。それを皆に言ってしまったの?」
「いえ。貴女が元々人間であったこと。蓮子という大切な存在を忘れてしまっていたこと。そのことはここにいる皆が知っていますよ」
さとりの言葉に紫を目を丸くした。
辺りを見渡すと皆ばつが悪そうな顔をしていたり、ニヤニヤと笑う者すらいた。
紫の過去に驚く者などいなかった。
「霊夢、貴女話したの?」
「うるさい! いつまでもあんたらしくないから! 私だってどうしていいかわからなかったのよ!」
言い切ると霊夢は紫の胸元に飛び込んで来る。
両腕を紫の首に巻き付けて肩を震わせている。
泣いているのだ。
驚きながらも紫は、やがて霊夢の髪を撫でてあげた。
「まるでこの前とは逆ね」
「・・・・・・るさい!」
「どうして会いに行かないんだ? 今更どうこうってのは、言い訳じゃないのか?」
今度は魔理沙が紫に近寄って言葉をかける。
もう心の中の膨れあがった思いはすっかり流れてしまっている。
紫は一つ息を吐いた。
「一つは、怖いからよ。人間でない私を見て、蓮子に嫌われることが。蓮子と別れた時のことを知るのが怖いのよ」
「うん」
「そして・・・・・・私は妖怪になった。八雲紫としてこの幻想郷を作り上げた。妖怪たちの楽園を。もし、だけど。私がいなくなったら・・・・・・貴女たちが、どうなるのかと思うと」
小さく消え入りそうな声で静かに呟く紫の顔は、もう妖怪のものではなかった。
弱々しくまだ大人に成りきれていない少女の顔であった。
そこに大妖怪の面影はとうに消えてしまっていた。
「あっははは! 珍しいものが見れたな」
大きな声で魔理沙が高笑いをする。
つられて周囲の妖怪たちもやれやれと苦笑いを始めた。
「あの紫が私たちのことを気遣うなんてな。背中が痒いぜ。お前の私たちへの気遣いなんて考えてもいなかったくらいだぜ。だからそんな無駄なものは無用だ。さぁ、紫。お前はどうしたい? 会うのは怖いか? このまま私たちと一緒に居るか? まぁ、この宴会もお前を元気づけるのとお前にこれからも幻想郷に居てほしいから開いたものなんだが」
魔理沙の言葉に紫は目を丸くして、胸元の霊夢を見つめた。
頭のてっぺんしか見えない霊夢は震えながら「バカ魔理沙」と呟いた。
「八雲紫。貴女は少し自分勝手過ぎる。他人を気遣う気持ちは尊いものですが、その一方で同じくらい蓮子という少女のことをおろそかにしている。彼女が貴女に会いたがっているとは考えないのですか?」
映姫が真っ直ぐな目で紫を見つめた。
「奇跡は行動を起こしてからこそ起こりえるものです、紫さん。いえ、メリーさん」
早苗がにっこりと笑ってみせた。
「幻想郷は全てを受け入れると言いながら、貴女が受け入れるのを怖がってどうするのよ」
天子が不満げに鼻を鳴らしながら呆れたように言う。
「この一瞬に過去が適うことはないわ。過去は過去のまま。でも過去からこれからを決めることは出来るわよ」
輝夜が月を眺めながら微笑む。
「運命は良い方へ回り出しているわ。ふふ、私が言うのだから間違いはないわ。あぁ、月がこんなにも綺麗」
レミリアがクスクスと笑った。
「ふふ。私が一番の親友だと思っていたのに残念だわぁ。紫。お友達は、大事にね」
幽々子が扇子で口元を隠しながら優しく声をかける。
「紫様・・・・・・幻想郷のことは私にお任せを。紫様にお褒めいただけるように尽力いたします」
傍らで控えていた藍が頭を下げる。
皆が紫を見つめていた。
やがて紫の両目から涙が溢れてきた。
――あぁ。だから怖かったのよ。対立し、時には互いに利用し合い、しかし協力もすることもあって。今はこうして私の背中を押そうとしている。皆を失うかもしれないというはっきりとしない不安があった。もうここに戻れないような気持ち。それは何故だがわからない。でも。
「私は・・・・・・私は蓮子に会いたい」
少女のような顔を涙でくしゃくしゃに歪ませて、それでもはっきりと力強く言い切った。
「よし。じゃあ行ってこい。あ、お土産は美味しいお酒で」
魔理沙の言葉に妖怪たちが笑った。
紫も涙をこぼしながら笑うとゆっくりと霊夢を引きはがす。
予想通り霊夢の顔も、紫以上に涙でぐちゃぐちゃだった。涙やらよだれが紫の服についているが紫は気にも留めない。
「霊夢」
「あによ」
「私の留守。頼んだわ」
「そんなことわかってるわよ! とっとと行きなさいよ、バカバカバカ!」
両手で必死に両目を擦る霊夢を見て、紫はそっと顔を近づけたと思うと霊夢の額に口づけをしてあげた。
「霊夢。今までありがとう」
そう言って立ち上がる。
霊夢は返事をしない。
「藍。藍もありがとう。後は任せたわ。霊夢をよろしく」
「紫様・・・・・・私は紫様の式で幸せです。これからも、私は貴女の式であります」
藍もまた目を潤ませて紫を見つめていた。
紫は頷くと大きくスキマを開けた。
時空の境界を越えて、この向こうに蓮子はいる。
共に何を過ごしてきたか、今はどうしているのか分からないまま。
でも大切な彼女が待っている。
「私の子孫と言われてもいまいちピンとこないんだけど、会えたらよろしく伝えてちょうだい」
ふと声をかけられて紫は視線を向ける。
そうだった。この子がいながらどうして蓮子のことを思い出せなかったのだろう。
人間が妖怪になるとき。妖怪は強い力を得るが、自分がどうして過ごしてきたかその過去を一切忘れ、大切な存在も自分の名前すらも忘れる。その理の強さを思わずにはいわれない。
紫に声をかけた宇佐見菫子はにっこりと笑って見せた。
「私も待っててあげるからさ」
「・・・・・・それはどうも」
ぺこりと頭を下げてからゆっくりと紫はスキマへと入っていく。
その様子を妖怪たちが見守っていた。
「紫!」
スキマへ完全に姿を埋める前に背中から声が飛んでくる。
霊夢が立っていた。
ひどい泣き顔だが、それでも必死に笑顔を作ると、力一杯に叫んだ。
「行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
紫の姿はスキマの中へと消えた。
※
たった一言が、思い出させてくれた。
彼女を。
大切な彼女を。
彼女の笑顔を。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
蓮子。
スキマの中。
紫は必死に飛んでいく。
時空を超えて。
過去を超えて。
紫は飛び越えていく。
紫の髪は飛ぶにつれて短くなっていく。
着ていた道士服は紫色の洋服へと変わっていた。
人間だった頃の姿へと戻っていく。
スキマの向こうに光が見えた。
※
「・・・・・・ここは?」
紫が舞い降りた場所。
幻想郷とは違い人が騒々しく蠢く夜の町。
多くの人間たちが闊歩し、車が行列を作ってノロノロと動き、高架の上で渋滞する車をよそ目に電車が走り去っていく。
突然現れた少女に周りの人間たちが驚き、まじまじと見つめ、中には言い示したかのように一斉にポケットからスマホを取り出す人間もいた。
周囲の騒ぎや自分が写真を撮られていることに構わず、紫は頭をフル回転させた。
外界へと降りたった。
蓮子がいる世界に。
――思い出せ。この澱んだ空気。蓮子と一緒にいたこの世界のことを。思い出せ、思い出せ。
「京都。ここは京都だわ」
外界に降り立ち、世界に触れることで紫の頭にゆっくりと、そして確実に記憶が掘り起こされる。
――メリー。ごめんごめん。待たせちゃったね。
また一つ、蓮子の声が蘇る。
確かにここで蓮子と共に過ごしたのだ。
やがて彼女の顔が浮かんできた。待ち合わせに遅れてバツが悪そうな彼女の顔が。
懐かしさと愛おしさに涙がまた溢れそうになるが、紫はぐっと堪えた。
泣いている場合じゃない。私はここで蓮子と待ち合わせをした。一緒にどこへ行こうとしたか・・・・・・まだ思い出せない。蓮子はどこからやって来たか。
はっと思い出す。
その時には紫は夜の町を走り出していた。
角を曲がって。
車に轢かれそうになるのを構わず道を横断して。
坂を上って、息も絶え絶えに。
紫は必死に走った。
たどり着いたのは一件のマンション。
蓮子の部屋だ。
足を動かすのを止めずにマンションへそのままの勢いで入っていくと、階段を駆け上がっていく。
蓮子と一緒に過ごした部屋だ。蓮子と一緒に食事をした部屋だ。共に同じ布団で寝た部屋だ。
二階、三階と上がっていき、やがてその部屋の前へたどり着いた。
ドアノブにしがみつこうとする。
だが紫の手がドアノブに触れることはなかった。
そこに「宇佐見」という表札はなくて、見慣れない苗字が掲げられていた。
「・・・・・・いない?」
紫の片腕がだらんと垂れ下がる。
しばらく放心していた。
が、両手で頬を二、三回叩いて気合いを入れ直す。
――考えろ。考えろ。思い出せ。蓮子はどこに行った。思い出すんだ、皆に背中を押してもらったのに・・・・・・皆?
ふっと思考が止まった。
「皆? 皆・・・・・・皆って誰だっけ?」
そう口にした時。
頭の中に記憶が洪水のように流れてきた。
蓮子との会話。
共に出かけた各地のこと。
共に横になった眠らない夜のこと。
彼女と最後に過ごした日のこと。
そして。
蓮子との別れのこと。
その記憶は紫の頭を占めて、過去を押しつぶす。
「そうだ。そうだった」
ゆっくりとマンションを出る。
ふらふらと歩き出すと紫は京都の町を大きく横切った。
そしてたどり着いた一つの建物。
紫が見上げる。
蓮子が息を引き取ったであろう病院は、今も白く大きな存在を示して夜の中に建っていた。
※
「ごめんね。何も用意が出来なくて」
「・・・・・・あ、いえ。こちらこそ急に押しかけてきてすみませんでした」
翌日の朝。
差し出されたお茶を前にして紫は頭を深々と下げた。
人間だった頃の口調が今ひとつ戻ってこない。変に畏まって不審に思われないだろうか、そればかりが気がかりであった。
自分がすでに人間ではない、境界を操る妖怪であることは分かっていた。そのことを隠しつつ紫は妖怪になってからの自分のことを思い出そうとしてみた。
しかし、何も覚えていない。
妖怪となった自分が何処で、誰と、何をしたかがはっきりと分からない。
思い出そうとしても思い出せない。
確か、大切なはずだった人たちがいたのだけど。
その一人は狐のようで。
一人は桜舞う木の下で佇んでいるようで。
一人は笑い、泣き、そして抱きしめ合ったような気がするのだけど。
紫の記憶にはっきりとした輪郭も声も、名前すら思い出すことは出来なかった。
それは遠い遠い過去に消え去りそうだった。
「メリーちゃんが来てくれて、きっとあの子も喜んでいるわ」
その声に紫の意識は現実に戻されて目の前の女性と向き合う。
彼女は蓮子の母親であった。
翌日、スキマを開けて東京にある彼女の実家へと飛んだ紫は宇佐見家の門を大きく叩いた。
出てきた蓮子の母親が目を丸くしたのは言うまでもない。
かつて訪れたことのある宇佐見家の居間に通された紫は懐かしさを覚えながら蓮子の母親と向き合っていた。
彼女は寂しげに笑うと席を立って仏壇の前へと移動する。
過去を思い出そうするのを止めて紫は仏壇の遺影に視線を送った。
(メリーちゃん、だって。どうしてかしら。私がマエリベリー・ハーンであることに自信がないわ。それはここにいつも傍にいてくれた貴女がいないからかしら)
紫の顔に寂しげな笑みが浮かんだ。
遺影の中。
そこに宇佐見蓮子は満面の笑顔を浮かべて、動かないでいた。
宇佐見蓮子が亡くなったのは一年前のことである。
大学を出てからも蓮子は紫と共に各地を旅行して回った。
蓮子は大学を出てからも「部活動」と称して二人きりの旅行を楽しんでいた。紫もまた同じ気持ちだった。
毎日のようにお互いの部屋に泊まった。二人の時間は密接に、そして濃密なものだった。
しかし、三年前。
蓮子が病気を患った。
それでも蓮子は楽観視していたし、紫もまた蓮子の明るい言葉に気にも留めなかった。
それが悪かった。
蓮子が倒れた。
病院に搬送されたときには蓮子はここ数年に新たに見つかった難病の一つに侵されていること。
もはや一日病室で治療を受けないと命の危険に関わるほどであること。
蓮子の世界は狭い病室に限られて、二人で過ごした日々がもう過ごせなくなったこと。
そのことを聞かされた紫の頭は真っ白であった。
紫は空いている時間を見つけては蓮子に会いにいった。
ベッドの上でも彼女は明るく、元気な姿をみせていた。
しかし日に日に少しずつ痩せていく彼女は、紫の前では無理に明るく振る舞っていたことは紫にもわかっていた。
助けたい。でもどうすることも出来なくて、彼女は蓮子がいる病院の近くに引っ越すことを決めた。少しでも蓮子の傍にいられるように。
同時に徐々に自分が自分でいられる自信がなくなっていることに気がついていた。
ふとすると世界から消えてしまうのではないかという恐怖。
その恐怖を打ち消すように紫は蓮子の存在を求めたのだ。
だが、一年前のあの日。
病室に訪れた紫に蓮子は自分の余命がもはや長くないことを伝えたのだ。
紫は怒りと悲しみと焦りから蓮子に怒鳴って、彼女の胸元で泣いたのだ。
蓮子は言った。
「でもね。そんなメリーのこと、私は好きだよ」
それが蓮子の最期の言葉だったことを紫は今でははっきりと思い出せる。
ゆっくりと後ろへと倒れていく蓮子。
自分が取り乱して大声を上げ続けたこと。
そこからの記憶は、朧気ではっきりと思い出すことが出来ない。
「あのときメリーちゃん、どこにいたの?」
蓮子の母親に声をかけられて、紫は彼女の背中に視線を向けた。
わずかばかりだが怒りの色が見えていた。
「蓮子が死んだ時。メリーちゃんがお見舞いに来ていたことを知ったわ。でも私が蓮子の元に着いたとき、メリーちゃんいなかったじゃない。看護師さんも、先生も急にメリーちゃんがいなくなったことに驚いていたわ・・・・・・私、何度もメリーちゃんの携帯に電話をしたわ。でも繋がらなくて。今までメリーちゃん、どこにいたの?」
その言葉に紫はただ黙って「すみませんでした」というより他にない。
蓮子の最期のあと。
何の記憶も残っていない自分に言い訳など出来るわけがなかった。
紫はただ深く頭を下げるしかなかった。
「よしなさい・・・・・・せっかく蓮子に会いに来てくれたのに。失礼じゃないか」
しゃがれた声が聞こえて紫が顔を上げると、居間の入り口に腰がひどく曲がった老婆が杖をつきながらじっと紫を見つめていた。
紫は目を丸くする。
髪は真っ白に伸び、皺がたるんだ老婆は紫と視線が合うと笑ってみせた。
見覚えのないはずであった。会ったはずのない人であった。
この老婆の名前すら知らない。
しかし一目でどこかで会ったはずだという思いが強く、ただ紫も老婆を見つめ返すばかりだ。
ゆっくりと紫と向き合う位置へ歩き出すと、老婆は蓮子の母親に言いつけた。
「すまないが、このお嬢ちゃんと二人きりにしてくれないか?」
「え? お祖母様?」
「頼む。この老いぼれの言うことを聞いてくれないか?」
「・・・・・・はぁ」
蓮子の母親は怪訝そうな顔をして老婆と紫を見比べて、やがて頭を下げて部屋をあとにした。
居間には紫と老婆の二人きり。
「・・・・・・ずいぶんと待ったものだ。先にわしが死んでしまうかと思ったぞ」
沈黙を破るように老婆は言い出した。ほっほっほっと高々と笑う老婆に紫が食いつく。
「わ、私のことを知っているのですか? 貴女とはどこでお会いしましたか?」
「まて。おぬしが知りたいのはわしのことではなく、蓮子のことだろう?」
老婆の言葉に紫は口をつぐむ。
確かに、蓮子に会いたい。とにかく会いたいのだという紫の気持ちに応えるように、老婆は話を遮った。
「まだそのようだとやっぱりまだ蓮子に会っていないようだな」
「蓮子に会えるのですか!? どこで会えるのですか!?」
老婆の言葉に紫は身を乗り出して蓮子のことを聞き出そうとする。その姿に老婆は満足げに頷いた。
「蓮子に会うとなると・・・・・・あぁ。もはやそなたにどうなっても後悔はなさそうだ。よい、教えよう。東京まで来て貰ってすまないが、ここに蓮子はおらぬ。本人の強い生前の意志でな。蓮子は京都の――ここにいる。今すぐ会いにいってくれ。やれやれ何十年も待ったかいがあったわい」
満足そうに頷く老婆に、紫は深々と頭を下げるとスキマを開いて飛び降りていく。
スキマに消えていった紫に老婆はやはり満足そうに頷いた。
「よい友達を持ったな蓮子」
遺影の蓮子の顔はやはり満面な笑顔を浮かべて動かない。
「失礼します。メリーちゃん、お祖母様。お菓子でも摘まみながら・・・・・・あれ? メリーちゃんは?」
居間へと入ってきた蓮子の母親に老婆は一つ高笑いをした。
「メリーちゃんなら蓮子に会いにいったよ。本当に、蓮子はよい友達を得たものよ」
そうして笑いながら和菓子へと手を伸ばす。
菫子がメリーの正体が大妖怪であることを他人に口にすることは生涯なかった。
※
「・・・・・・お久しぶり」
京都の町を見下ろす丘の上で。
他に人影はない。
紫は一つの墓石を前に呟いた。
墓石には「宇佐見家之墓」と書かれていた。
その脇には石碑が置かれ「宇佐見蓮子ここに眠る」と刻まれている。
少し風が吹いたようだ。
紫の髪が風に揺れる。
蓮子は育ての親元から遠く離れたこの京都の地に骨を埋めるよう、生前家族たちに漏らしていたようだ。
――それを私と暮らした京都の地で骨を埋めたかったと考えるのは調子に乗ったものかしら。
紫は一人思った。
「・・・・・・蓮子」
ぽつりと蓮子の墓石に話しかける。
しかし次の言葉が見つからない。
何を話したいいのか。
話したいことが多いようで、でも曖昧で思いつかない。
焦れったい気持ちを抱えながらも、それでも紫はじっと蓮子の墓を見つめていた。
ぐるりぐるりと頭の中が回る。
やがて紫は小さく呟く。
「蓮子。私、妖怪になっちゃった。こんな私のことをどう思うかしら?」
膝を曲げて、蓮子の墓に寄り添うようにして言葉を続ける。
「こんな私のことを嫌いになったかしら? ずっと待たせてしまって、ごめんなさい」
紫の目が涙で潤んできた。
「――嫌いなわけないじゃない」
その言葉に紫は跳ね起きると、声をかけた彼女に向き合った。
そこには。
蓮子がいた。
大好きな笑顔を浮かべて。
その姿を認めて。
紫の両目から涙がこぼれていく。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
ごめんなさい。
ずっと忘れていてごめんなさい。
「蓮子!」
「メリー!」
目の前の蓮子は大きな声で笑って手を振る。
紫は涙をこぼしながら、次の蓮子の言葉を待った。
もうずっと離れない。
もう忘れたりしないから。
これからはずっと。
ずっと。
蓮子の傍にいるから。
「メリー! おかえりなさい!」
その蓮子の言葉に両目から大量の涙がこぼれてしまう。
紫は、人間に戻ろうとしていた。
そして。
紫の足下から体が崩れていく。さらさらと粉が風に吹かれるように、紫の両足から体の崩壊が始まった。
人間が人間でいることに絶え切れなくなると妖怪になる。
妖怪が妖怪でいることに絶え切れなくなったら。
それが何を意味するかを紫はわかっていた。そしてそれを受け止めようと決心していたのだ。
崩壊を始める自分の体に構わず、紫はじっと蓮子を見つめていた。
蓮子は紫の手を取ると涙で潤ませた目でじっと見つめる。
間近に蓮子がいる。
大好きだった。
大好きな蓮子が。
蓮子の手に自分の手を絡ませる。
そして両目から大粒の涙をこぼしながら、足から下腹部へ、さらに胸より上へとどんどん崩れていく体で、それでも笑顔を浮かべて大きな声で叫んだ。
「ただいま! 蓮子!」
叫び終えたとき。
蓮子の体は透けていき、やがて景色と同化し消えていった。
またメリーも笑顔を浮かべたまま体が粉となって宙へと消えた。
蓮子が亡くなってちょうど一年。
マエリベリー・ハーンは誰にも知られないまま、その生涯に幕を閉じたのだった。
風が少し吹いた。
京都の町を見下ろす丘にある墓地に人影はいない。
ただ蓮子の墓にメリーが供えた紫色の花が静かに揺れた。
※
博麗神社には人気がなかった。
酒の空き瓶が転がり、食べ尽くされた容器があちらこちらに散らばっている。
境内に敷かれた多くの敷物が風に吹き飛ばされようとしている。
まるで人気のない神社へ陽が顔を出そうとしていた。
「紫。今までありがとう」
誰も居なくなった神社の境内で。
霊夢は赤くなった目で呟いた。
幻想郷に。
朝が降りてくる。