昨日は友人のことを思い出していた。
昔の話だ。ある時期から、阿求はよく小説を書くようになった。はじめは推理小説を書いていたけれども、その様式を特別に好んでいたというわけではなかったらしい。その時々の興味に合わせて、彼女はあらゆる物語を試した。そして、それらすべての最初の読者は私だった。知人の中では一番本を読んでいそうだから、という理由で頼まれたのだが、そもそも阿求にまともな知人なんてほとんどいない気がするので、それは何の口実にもなっていなかった。
新たに物語を書き上げるたびに、彼女はきまって「どうだった?」と私に尋ねた。
つねに彼女の声色に迷いは無かった。とはいえ、過剰な自信があるようでもなかった。それは自然だった。彼女と執筆とは蝶番の関係にあった。
反対に、私はそのたびに不安になった。というのも、私はあらゆる意味において何でも読めてしまうからだ。それは無責任な一読者としては理想的な性質だったけれども、彼女に対する時にはきわめて不便に感じられた。
だが、幸いなことに彼女は実際に器用だったので、私が加えなければならない指摘はごくわずかで済んだ。それで少なくとも互いが満足するものにはなった。だから、私は自分の行った具体的な仕事をほとんど覚えていない。
代わりに、行わなかった仕事のことは忘れられずにいた。私は彼女の語彙の特殊性を敢えて指摘しなかった。たとえば彼女は「昨日のことのように」という言葉を決して私たちと同じようには用いなかった。もちろん、彼女はそれをよく模倣しているつもりだったし、実際成功していたのだろうが、私はその忠実さにある種の偏執を感じてしまった。だが、私にはそれがいとおしかった。阿求も他者に執着しうるのだろうか、と思った。
彼女は小説を書くことで、つまり、他者の記憶を模倣することで、彼らとの距離を測っていた。ちょうど、二つの視界を総合して遠近感を得るのと同じように。そしてそれは、私の判読についても言えることだった。
それから、私は彼女や文章との距離を測りつづけた。やがて、もう少し踏み込んでもよいと思えるようになった。
「もしかしたら、こことここは入れ替えた方が良いかも」
私は原稿の二箇所を鉛筆で囲った。彼女の原稿には、少なくとも話の筋としては厳密な意味での矛盾は見られなかった。そもそも、ある種の矛盾が無矛盾に存在しうるというのが今回の彼女の世界観なのだが、それを端的に象徴するのが指摘した箇所だった。
「こっちの順番の方が退屈しないと思うんだけど、どう?」
「ありがと。それで読み直してみる。ちょっと時間を置いてからにしたいけど」
彼女はいったん原稿を鞄に収めて、代わりに小さな箱を取り出した。
「なにそれ」
「だから時間を置くのよ」
彼女が箱を差し出す。中には煙草が入っていた。
「ねえ、ここ貸本屋」
「火気と妖気の何が違うの」
「違うけど、それを言われると困る」
結局、私たちはそこではじめて煙草を吸った。火を貰い、彼女の挙措を模倣する。彼女の指先や唇は初めてのはずの煙草に妙に馴染んで見えて、私はひそかにそれを羨んだ。私のそれはどうにもぎこちなくて、予想通り失敗して咳き込んでしまったけれども、思ったよりはきつくない。
これはあらゆる類の経験に言えることだが、多くの人が通る階段に劇的なものなどほとんど無い。いかに急峻に見えようとも、いざその前に辿り着く頃には私たちの背丈は不思議とそれを追い越している。あるいはそれはただの錯視だったのかもしれない。私たちはつねに時間の遠近法を忘れてしまうようにできていた。少なくとも、傍らの彼女を除いてはそうだ。
「まあ、でも、あまり好きじゃないかも」
「過剰に好むものでもないからね」
私たちの感想は一致していたが、それでも経験を惜しむようにして出来る限り長い時間を掛けてそれを吸った。阿求が持ってきた箱にはまだ十分な量が残っていたけれども、わざわざ二本目に火をつける動機はもはや無かった。
「どこで買ったの? これ」
「誰も売ってはくれないわ。特に私には」
じゃあどうやって、と尋ねる前に、彼女は答えた。
「自分で巻いてみたのよ。意外と大変だったからもうやらないけど」
私は驚いた。二本目の動機ができた。今度は自分で火をつけてみた。
「ただ吸うより巻く方が面白そう。私も誘ってくれれば良かったのに」
「指とか汚れるし、良くない」
「いつも通り綺麗に見えるけど」
「気を遣っているからね。ばれたら止められるだろうし」
「不良だねえ」
「あんたに言われたくない」
軽い気持ちで茶化そうとしてみたが、彼女はすぐに反駁した。あまりに正論だったので言い返すこともできない。
「……まあ、私のは不良というより反抗期よ」と彼女は言った。
「上手くいかないあれね」
「上手くいかなくていいの。通過したということが大事で……」
そのようにして、私たちは通過した。
思えば私の初めての多くは、彼女によって、あるいは彼女と共に経験されてきた。
あのとき阿求から貰った余りの箱を私は眺めていた。捨てるのも気が咎めるので取っておいたのだけれど、そうした執着は今となってはむしろ湿っぽいだけに思えた。それは彼女についての不確かな記憶をわずかに延命させる役にしか立たない。彼女を正確に辿りたいならば、文章を読む以外に術は無いというのに。
私は一連の思考から逃れようと、ついに箱に手を伸ばした。しけていないだろうか、と煙草を観察する。そこではじめて、巻き紙が彼女の原稿の切れ端だったということに気が付いた。他の誰にも分からないだろうが、私には判読できた。
私は燐寸を擦った。煙草を咥えて注意深く火をつける。予想通りひどい味だったが、わずかに懐かしくもあった。私はまだちゃんと覚えていた。ゆっくりと煙を吸い、吐き出した。私はそこに彼女の痕跡を見つけた。彼女のためらった言語のすべてが煙の中に浮かんでいた。
今では、私にも彼女の言語がよく理解できた。反抗期。たとえば彼女にとっては、同じ予期に反するにしても、三十を超えて永らえることと、二十で果てることは決定的に異なっていたのだ。運命に対する最も強い抵抗は後者だった。だが、それはあくまでも想像するに留めておかなければならない。誰も自分に自由意志があるということを証明できない。行動することだけが可能である。そういうことだ。
気付けば、煙草がやけに馴染んで感じられた。煙が目にしみることは無かったし、それは肺をたやすく満たした。だが、それだけだった。喫煙という行為自体はもう単なる慰みになりつつあった。煙草よりも指先の方が随分と硬くなっていた。
私は火を消した。これ以上吸う気は起きなかった。
私は彼女との日々をもう昨日のことのように忘れてしまった。彼女に貸した本の冊数も、題名も、交わした会話や諧謔も、あるいは彼女が教えてくれた数々の知識も、もはやすべては等しく煙の一糸にすぎなかった。
私は息を大きく吸って布団に潜り込んだ。あとは眠るだけだ。そうして私はまた夢を見て、日記を書きつづけていく。それ以外に、あなたの記憶に近づく術を知らないから。
昔の話だ。ある時期から、阿求はよく小説を書くようになった。はじめは推理小説を書いていたけれども、その様式を特別に好んでいたというわけではなかったらしい。その時々の興味に合わせて、彼女はあらゆる物語を試した。そして、それらすべての最初の読者は私だった。知人の中では一番本を読んでいそうだから、という理由で頼まれたのだが、そもそも阿求にまともな知人なんてほとんどいない気がするので、それは何の口実にもなっていなかった。
新たに物語を書き上げるたびに、彼女はきまって「どうだった?」と私に尋ねた。
つねに彼女の声色に迷いは無かった。とはいえ、過剰な自信があるようでもなかった。それは自然だった。彼女と執筆とは蝶番の関係にあった。
反対に、私はそのたびに不安になった。というのも、私はあらゆる意味において何でも読めてしまうからだ。それは無責任な一読者としては理想的な性質だったけれども、彼女に対する時にはきわめて不便に感じられた。
だが、幸いなことに彼女は実際に器用だったので、私が加えなければならない指摘はごくわずかで済んだ。それで少なくとも互いが満足するものにはなった。だから、私は自分の行った具体的な仕事をほとんど覚えていない。
代わりに、行わなかった仕事のことは忘れられずにいた。私は彼女の語彙の特殊性を敢えて指摘しなかった。たとえば彼女は「昨日のことのように」という言葉を決して私たちと同じようには用いなかった。もちろん、彼女はそれをよく模倣しているつもりだったし、実際成功していたのだろうが、私はその忠実さにある種の偏執を感じてしまった。だが、私にはそれがいとおしかった。阿求も他者に執着しうるのだろうか、と思った。
彼女は小説を書くことで、つまり、他者の記憶を模倣することで、彼らとの距離を測っていた。ちょうど、二つの視界を総合して遠近感を得るのと同じように。そしてそれは、私の判読についても言えることだった。
それから、私は彼女や文章との距離を測りつづけた。やがて、もう少し踏み込んでもよいと思えるようになった。
「もしかしたら、こことここは入れ替えた方が良いかも」
私は原稿の二箇所を鉛筆で囲った。彼女の原稿には、少なくとも話の筋としては厳密な意味での矛盾は見られなかった。そもそも、ある種の矛盾が無矛盾に存在しうるというのが今回の彼女の世界観なのだが、それを端的に象徴するのが指摘した箇所だった。
「こっちの順番の方が退屈しないと思うんだけど、どう?」
「ありがと。それで読み直してみる。ちょっと時間を置いてからにしたいけど」
彼女はいったん原稿を鞄に収めて、代わりに小さな箱を取り出した。
「なにそれ」
「だから時間を置くのよ」
彼女が箱を差し出す。中には煙草が入っていた。
「ねえ、ここ貸本屋」
「火気と妖気の何が違うの」
「違うけど、それを言われると困る」
結局、私たちはそこではじめて煙草を吸った。火を貰い、彼女の挙措を模倣する。彼女の指先や唇は初めてのはずの煙草に妙に馴染んで見えて、私はひそかにそれを羨んだ。私のそれはどうにもぎこちなくて、予想通り失敗して咳き込んでしまったけれども、思ったよりはきつくない。
これはあらゆる類の経験に言えることだが、多くの人が通る階段に劇的なものなどほとんど無い。いかに急峻に見えようとも、いざその前に辿り着く頃には私たちの背丈は不思議とそれを追い越している。あるいはそれはただの錯視だったのかもしれない。私たちはつねに時間の遠近法を忘れてしまうようにできていた。少なくとも、傍らの彼女を除いてはそうだ。
「まあ、でも、あまり好きじゃないかも」
「過剰に好むものでもないからね」
私たちの感想は一致していたが、それでも経験を惜しむようにして出来る限り長い時間を掛けてそれを吸った。阿求が持ってきた箱にはまだ十分な量が残っていたけれども、わざわざ二本目に火をつける動機はもはや無かった。
「どこで買ったの? これ」
「誰も売ってはくれないわ。特に私には」
じゃあどうやって、と尋ねる前に、彼女は答えた。
「自分で巻いてみたのよ。意外と大変だったからもうやらないけど」
私は驚いた。二本目の動機ができた。今度は自分で火をつけてみた。
「ただ吸うより巻く方が面白そう。私も誘ってくれれば良かったのに」
「指とか汚れるし、良くない」
「いつも通り綺麗に見えるけど」
「気を遣っているからね。ばれたら止められるだろうし」
「不良だねえ」
「あんたに言われたくない」
軽い気持ちで茶化そうとしてみたが、彼女はすぐに反駁した。あまりに正論だったので言い返すこともできない。
「……まあ、私のは不良というより反抗期よ」と彼女は言った。
「上手くいかないあれね」
「上手くいかなくていいの。通過したということが大事で……」
そのようにして、私たちは通過した。
思えば私の初めての多くは、彼女によって、あるいは彼女と共に経験されてきた。
あのとき阿求から貰った余りの箱を私は眺めていた。捨てるのも気が咎めるので取っておいたのだけれど、そうした執着は今となってはむしろ湿っぽいだけに思えた。それは彼女についての不確かな記憶をわずかに延命させる役にしか立たない。彼女を正確に辿りたいならば、文章を読む以外に術は無いというのに。
私は一連の思考から逃れようと、ついに箱に手を伸ばした。しけていないだろうか、と煙草を観察する。そこではじめて、巻き紙が彼女の原稿の切れ端だったということに気が付いた。他の誰にも分からないだろうが、私には判読できた。
私は燐寸を擦った。煙草を咥えて注意深く火をつける。予想通りひどい味だったが、わずかに懐かしくもあった。私はまだちゃんと覚えていた。ゆっくりと煙を吸い、吐き出した。私はそこに彼女の痕跡を見つけた。彼女のためらった言語のすべてが煙の中に浮かんでいた。
今では、私にも彼女の言語がよく理解できた。反抗期。たとえば彼女にとっては、同じ予期に反するにしても、三十を超えて永らえることと、二十で果てることは決定的に異なっていたのだ。運命に対する最も強い抵抗は後者だった。だが、それはあくまでも想像するに留めておかなければならない。誰も自分に自由意志があるということを証明できない。行動することだけが可能である。そういうことだ。
気付けば、煙草がやけに馴染んで感じられた。煙が目にしみることは無かったし、それは肺をたやすく満たした。だが、それだけだった。喫煙という行為自体はもう単なる慰みになりつつあった。煙草よりも指先の方が随分と硬くなっていた。
私は火を消した。これ以上吸う気は起きなかった。
私は彼女との日々をもう昨日のことのように忘れてしまった。彼女に貸した本の冊数も、題名も、交わした会話や諧謔も、あるいは彼女が教えてくれた数々の知識も、もはやすべては等しく煙の一糸にすぎなかった。
私は息を大きく吸って布団に潜り込んだ。あとは眠るだけだ。そうして私はまた夢を見て、日記を書きつづけていく。それ以外に、あなたの記憶に近づく術を知らないから。
短い作品なのに、他では味わい難いほろ苦さがあります。タバコは吸ったことありませんが。
>>『彼女のためらった言語のすべてが煙の中に浮かんでいた。』
この一文がたまらなく好きです。
シチュエーションや言葉選びに、深く共鳴を覚えました。
この一文、狂おしいほど好き。時間という概念と忘却の結びつきが異なる二人の価値観はどれほど離れていたのか。
うまく言えませんがとにかく格好いい作品でした。こういう話を書きたいのですが、なかなか真似できそうにはないですね
紫煙をくゆらす姿が目に浮かぶような繊細な描写に打たれました
じんわりと昔を思い出す小鈴が切なくて良かったです
←阿求の使う意味って何ですか?
無学ですみません。
『私は彼女との日々をもう昨日のことのように忘れてしまった』
この二文だけでもお腹いっぱいです。ありがとうございました。