舌を絡めるキスをしていると、全身の粘度が上がってゆく。紫の唇は柔らかくて、少し湿っている。誰でもそうなのだろうか。誰の唇でも、こんな風に優しく濡れているのだろうか。
紫と一緒にいる時は、いつもそんな風になる。私の身体に触れもせず、言葉もない。なのに、意識してしまって、気付けば唇を交わしている。紫がきっと、そんな風にしているのだ。私に違和感も抱かせず、物事をそんな風に引っ張ってしまう力を持っている。それで、私は困っている。
唇を重ねていると、そんなつもりもないのに、私は紫に身体を寄せてしまっている。それ以上のことをされたいつもりなんてない。私はただ、身体をくっつけあっていたいだけ。冷静になって考えれば、誘っているように思われても仕方ない。だから、そんなつもりはない。そんなつもりはないのに、身体の方で、そうは言っていない。それは紫にも分かるだろう。
苛立たしいことは、紫の方でもそれ以上のことはしないのだ。やがて唇を重ねているのにも疲れてしまって、力の抜けた身体を紫に預けても、紫は黙って肩や背中、頭を撫でているだけだ。紫の方では、そんなつもりはない、なんて言えないはず。紫は大人なんだから。そうするつもりならば、そうする。するつもりがないのなら、唇を重ねたりなんて、しないはず。最初がどちらからなのか、私は忘れてしまった。
紫はどういうつもりなのだろう。体重を預ける私の、背を撫でる手つきは優しくて、私を嫌な気持ちにさせない。この優しさの裏で、何を考えて、そうしているのだろう。
紫は、私のことが好きなのだろうか。普通に考えれば、好きでもないのに平然とキスをしていられるはずもない。けれど、相手は妖怪だから、普通の考え方では計れない。
しないままでいてみようかと思う。でも、紫といて、したくならないことが想像できない。部屋に二人でいて、適当な雑談をして、無言になると、不穏なムードが私達の間に覆い被さってくる。強制するものは何もないのに、していないのが違和感になって、身体を寄せ合っていることが当たり前のように思えてくる。隣に座って……肩を寄せて、紫を見上げる……動作の間には何拍も挟むけれど、そうしなくてはいられない。
仮に、もしも、紫がしたくなくて、私が勝手に盛り上がっているのだとしたら。……考えてみたら、痛々しくて、居たたまれなくなって、それだけでどうにかなってしまいそうだ。そのことを考え始めると、頭の中はいっぱいになってしまう。掃除をしていても、ご飯を作っていても、魔理沙と話していても、紫とキスのことばっかりだ。でも、顔に出たり、動作や会話に影響が出たりはしない。魔理沙は全く気付いていないようだし、私はそういうことと日常の動作は、全く別に分けておけるのだ。
だけど、だからと言って、それが幸福なことでもない気がした。魔理沙に話したい、と思うこともあったけど、気恥ずかしくて、そんなことは口にもできなかった。違和感があって、私が変だったら、魔理沙の方から気にかけてくれて、自然に口に出来ていたかもしれない。
それはともかくとして、私は紫の考えを知るため、行動に出ることにした。私は手紙を書くことにした。藍に聞いてみようと思ったのだ。「たまには遊びに来なさい 霊夢」とだけ書いた簡単な手紙を書いてから、紫を呼びつけた。
「紫ー」
紫の名前を呼んだだけで、紫はすぐに現れる。それこそ、呼びつけるような挙動、前触れのようなものを感じたら、それだけで察知しているのではないかと思うほどの素早さでやってくる。きっと、紫は何もかも監視して管理しているから、そういうことができるのだと思う。紫は万能だ。
「何かしら」
「これ。藍に渡して」
私が手紙を書いていたのも、それが藍宛てであることも、紫には言わなくても分かっているような気がする。私の考えすぎかもしれないから、とりあえず要件は言っておく。そうでなくとも、無言でいたら間が持たない。
「藍に? 珍しいのね」
「そう? たまにはね。あいつ、あんまり顔を出さないし」
「そうね。そうかもしれない。じゃあ、渡しておきましょう」
考えてみれば馬鹿な話だ。紫が目の前にいるのだから、直接聞けばいいのだけど、私は迂遠なことをしている。聞けばいいのだから、聞いたらいい。手紙を書いた理由もなくなってしまうけれど……。
私がこれまで、紫に直接聞かなかった理由は、聞いてもその答えを信じられないからだ。だから、あえて、聞いてみることにした。
「ねえ紫、私のことは好き?」
「好きよ。もちろん」
だからこいつは信用できない。私は不機嫌になった。同時に、不機嫌を悟られたくなく思った。沈黙があり、それに耐えられなくなると、「座りなさいよ」と私は言う。それで、私は紫に寄りかかる。
藍は紫と違ってきちんとしているから、いつの何時に行く、という返事を寄越してきた。ついでだからご飯を作ってあげる、と、紫を通じて加えて伝えると、そのようにする、と返してきた。
藍が来るような時間を見越して、ご飯を作ることにした。手の込んだものはしない。うどんを茹で、おあげを切っている頃に、藍が訪れる気配がした。うどんを持って行くと、藍は居間に座っていた。
「こんにちは。すまないな、勝手に入らせてもらったよ。声をかけたが返事がなかったのでね」
藍はそんな風に詫びたが、その程度の不作法には慣れている。「いいのよ」と答えながら、うどんをちゃぶ台の上に置く。一つを藍の方へ、一つを私の方に。
「これは」
藍は湯気の立つきつねうどんを見て、話す間も惜しいと言わんばかりに箸を取った。
「人間は好きじゃないが、こうしたものを作れることは有用だ」
藍にならって、箸を手に取る。しばらく、うどんをすする音だけが響いた。藍はだしの一滴も残さず平らげた。
「それで」と、藍は言った。「私を呼び出した用は何かな。何か、私に頼みたいようなことでもできたのか」
「どうして何かあると思うの」
「友誼を深めたいと思って、私を呼んだの?それなら、それでもいいけど」
私は外に視線を向けた。そのままにしておけば、いくらでも時間は過ぎていくだろう。藍を呼び出した機会がただ失われていく。藍に色々と聞きたいのだけど、自然に聞き出すようなテクニックを持ち合わせてはいない。そういうのは、魔理沙の方が上手かもしれないから、教わっておけばよかった。
考え出すと、自分が嫌になる。紫が私のことを好きなはずがないのだ。藍に聞いても、紫様が霊夢のことを? 好きなはずがないだろう。可愛がっているとか、気紛れに楽しんでいるなら分かるが、本気で連れ添っているつもりなんてあるはずがない。そんな風に言うに決まっているのだ。私は本気で、ここにいる藍に、紫は私のことが好きか、なんて聞くために呼び出したのか。
紫のキスのことを考える。紫の心地の良い、吸い込まれるような、それなしではいられないキスのことを考える。嘘なのだろうか。嘘のことに、私だけ舞い上がって、こうして確かめて自分だけのものにしようと、藍まで呼び出して――
時間が流れた。藍は勝手にお茶をすすっている。
「藍は、キスをしたこと、ある」
藍は少しまぶたを持ち上げ、霊夢を見た。すぐに、視線を手元へ戻す。
「あるさ」
「違うわ。本当のキスよ。本当に相手を好きになって、一生そうしていていもいいっていうような、そういう……」
「さてな。どうだったかな」
「ないはずよ。あったら、覚えているはずだわ」
「本当のことでも、終わってしまったら終わりなんだ。そうしたら、忘れるほかない」
「そんなの、本当じゃない」
「妖怪には本当の愛なんてないんだ。本当の愛は、生きて死ぬ人間だけのものだよ。だから、紫様にもきっとそういうものはないだろうね」
「嘘だわ」
藍は湯飲みを置き、スカートを払って立ち上がった。
「私にだって本当の紫様のことは知らない。……けれど、諦めなさい、霊夢。どうしようもないことだから。うどん、ありがとう。御馳走様」
藍はそのまま立ち去った。私は同じ姿勢のまま、外を見ていた。やがて、何時間経った後か、紫の身体が、ふわりと私に覆い被さった。
無視していたかった。本当のものでないキスなんて。だけど、身体はそうはいかなかった。勝手に振り向いて、紫を見ていた。そうしたら、もう決まったことのように、身体は勝手に動く。
うすうす察しているのだけど、魔理沙は私のことが好きらしい。だから、魔理沙に聞くわけにはいかない。
「今日は静かだな」
そう? 私は答える。モノローグを作っているところなのだから、少し静かにしてほしい。
魔理沙に聞いたところで、キスをした経験はたぶんないだろう。私達はまだ若い。本当の愛を欲しがるどころか、その真贋さえ見分ける目も持たないのだ。たぶん……。
それにしても、私はきっと、紫なんて放り捨てて、魔理沙と一緒にいるべきなのかもしれない。人間は人間と。同じ時間を過ごしていける存在と過ごすべきだ。今、魔理沙に紫とのことを知られてしまうと、魔理沙はどこかへ言ってしまう気がする。
「何か悩みごとでもあるのか」
「魔理沙は案外、勘が鋭いのね」
「からかうなよ。私に分かるなら、言い当ててる。言えよ。何、隠しているんだ」
頬杖をついたまま、視線を横へ逃がした。「いいけどさ」と魔理沙は切り捨てる。そういう、放っておいてくれるところは魔理沙のいいところだ。
黙っていることを、私は悪いと思った。魔理沙は良いやつなのだ。考え事してるらしい私を放っておいて、自分はふんふん鼻歌なんて奏でて、機嫌が悪い風も見せない。魔理沙はいいやつだ、魔理沙を好きになってもいいかもしれない、と思った。だけど、そんな風に考えていること自体、本当に好きでもない証拠だ。何しろ、今この瞬間も、紫が来るのを待ち望んでる。
「何か、甘いものが食べたいな。……和菓子より洋菓子がいい」
「ないわよ。洋菓子なんて」
「甘いものならあるんじゃないか」
魔理沙は勝手に立ち上がって、台所に消えていく。はあ、と私は溜息をついた。
紫が私のことを察してくれるように、魔理沙にも私のことを察してほしい……と、思えば、あまりに勝手なことだし、普段紫が察しすぎることを気持ち悪く思っているのに、より勝手なことだ。私は結局、甘えている。
夕下がりにも、いつものように紫と繋がっていた。舌が動くのに疲れると、紫の身体に身を預けている。いつものように、それだけでいい。
背中がすう、と撫でられる。すう、と背中から首の方へと上がってきて、繰り返し。身体の上で繰り返すだけで、それ以上進むことはない。
「ねえ、霊夢。どこか行きたいところはない?」
スカートを柔らかく広げた紫が囁くように言う。砂浜に立ち上るピンク色の靄みたいで、幻みたいに現実感がない。
「どこかって、どこへ」
「ここじゃないところ。どこか、旅行に行きたいと思うことはないの」
「どこにも行きたくない。ここでいい」
「何かしたいことはない? 温泉に行きたいとか、おいしいものが食べたいとか」
「どうして? ……何もいらないわ」
困った子ね、という風に、紫は私の髪に触れた。紫はどうしてそうなのだろう。紫はただ。キスしていてくれるだけでいい。本当は、それだけじゃ足りないけど、そんなことは言えない……。
「霊夢。それなら、私はどうしたらいいかしら。私、あなたにもっと、何かをさせてあげたいの。ね。私が欲しいなら、そうしてあげる。ね、霊夢。言って。あなたのしたいこと、あなたのほしいもの……」
「何もいらないわ」
「困ったわね」
紫は優しく笑っている。紫がくれるものなら、なんでも喜べそうな気がするのに、何かをしてほしいとか、どこかへ行きたいとは思わない。
「霊夢は欲がないのね」
紫は分かってくれていない、と思う。私から言い出せることではないのだから、そこを汲んでくれればいいのに。
それとも、紫に求めるにはお門違いのことを求めているのかな。紫の手が、私の首元から服を割って、ゆっくりと奥へと入り込んできてくれれば、私はそれだけでよくなると思うのに……。
紫は分かってくれないのだ。紫は何でも分かるのに、それだけは分からないのだ。キスだけじゃ足りないって、言えないことも、分かってくれなくちゃ困るのに……。
紫のことだからわざとやってんのかもしれない。そう考えると、少し気が晴れた。
かと言って、気が晴れても、それで満足出来るわけじゃない。
日光のうららかな午後だ。魔理沙は庭先、私はちゃぶ台に肘をついていた。魔理沙は黙ったままで、足を放り出して揺らしている。
私の不満足がうつったのか、魔理沙も機嫌が良くなさそうだった。魔理沙にしては珍しいことだ。不満があっても、それを露わにするような魔理沙じゃない。
魔理沙には、私が黙っていても、意地になって喋るようなところがある。それがうるさくって鬱陶しくなることもままあるのだけど、静かにしていればそれはそれで、気にかかる。私が冷たいと自分でも思うのは、気が乗らないなら家でいればいいのに、と思ってしまうことだ。魔理沙が黙っていても、私にできることは何もない。
私も良くなかったかもしれない。近頃は紫のことばかりだ。魔理沙のことを気にかけるよりも、紫がいつ来るのかの方が気にかかってしまう。魔理沙と過ごしている時間も、無為に感じている。日は傾いていって、私は魔理沙を眺めている。
魔理沙が酒瓶を引っ張り出したので、私は起き上がって、コップを持ってきた。そういうところではだいたいどういうつもりか分かるのだ。私がコップを用意すると、魔理沙もちゃぶ台の方へ寄ってきた。酒瓶を持ち上げると魔理沙がコップを持ち、瓶を傾けると魔理沙は受ける。まあ、そういうことだった。
魔理沙は何か言いたいことがあるみたいだった。酒の勢いを借りようとしたに違いない。話が来るのを待っていたけれど、魔理沙は大したことは喋らなかった。
魔理沙とお酒を飲んでいるのを、紫は見ていたらしかった。紫もお酒を持って現れたのだ。夜遅く、魔理沙が帰ってからのことだ。ろうそく代もばかにならないし、夜には来るなと言っているのに、お構いなしだ。
紫は優しく笑っている。酔っても顔は白いままで、表情にも変化はない。本当に酔っているのか、底なしの升みたいに流れていっているだけなのか、判別がつかない。底を見ようと思ってお酒に付き合っているうち、私の方がべろべろに酔ってしまっている。
目を伏せて、唇に当てたコップから、ゆっくりと透明な液体が紫の口の中へ引き込まれていく。それを見ているだけで、紫には私の心が伝わっているみたいだった。いつの間にか、紫は私のすぐそばにいた。
何が違っていたのか、私を抱きかかえて、上から覆い被さって降りてくるような紫のキスは、普段とは全く違った感触だった。
紫の口の中はたっぷりと湿っていて、唾液のぬめりに満ちている。好きでなければ、気持ち悪く感じても仕方ないような感触なのに、どうしようもなく重ねていたくなる。奥まで、もっと奥まで、と紫の舌が、私の中へ侵入してくることを望んでいる。望めば、私自身気付いていなかった積極性で、舌を紫の中へ伸ばして、絡めている。こんなに淫蕩なこと……と、自分で考えるほどに、余計舌はぐちゃぐちゃに絡まって、わけがわからなくなる。それで、疲れてしまうほどにキスをしてしまうのだ。いつも吐息が荒くなるほど疲れ切ってから、ようやく唇を離すのだ。
二度目に紫と唇を重ねた時、私はもうどこかおかしかった。息の荒いのが収まらなくて、腰が吊り上がるように動くものだから、紫に押しつけているような形になって、紫に見られていると思うと、恥ずかしくて、舌と唇の動きが敏感に分かった。
紫の手が、腰に触れたのが分かった。お尻の上あたりに当てられた手の平の感触、指先が触れる感じに。私は思わず声を詰まらせて、紫の口の中に吐息を漏らした。
腰のあたりから、頭へ何かが突き上げてくるみたいで、私はほんの少しだけ気死をした。紫から唇を離していて、紫に身体を預けていた。
唇が半開きだった。紫が、私の方をじっと見ていて、私はとても恥ずかしいことをした気持ちになり、俯いて顔を隠した。身体も、唇も、紫を求めていて仕方なかったけど、とてもじゃないけどもう続けられなかった。続けてしまうと、何か、取り返しのつかないことになるような気がしたのだ。
紫が帰るまで、どうしていたのか覚えていない。そのあとすぐ、私はコップを持ってお酒を身体の中にいっぱい入れたからだ。
紫に身体を持ち上げられたことだけ、ぼんやりと覚えている。だらしなく力の抜けた私の身体が、敷き布団の上に転がされて……紫に手を伸ばしたかったけど、腕にも力が入らなかったのだ。力なく四肢を放り出したままの私の身体へ、紫が掛け布団をかけた。いつ眠ったのかも分からなかったけど、気付いたら紫はいなかった。
一晩が経って、頭痛と戦っているうち、すっかり火の点いたみたいだった私の身体は、ようやく収まりを見せたのだった。
奇妙なことに、魔理沙はますます怒っていた。どういうわけかは分からないけど……。二日酔いの日、横になってばかりで、魔理沙とろくに話さなかったせいかもしれない。
魔理沙の本心は、分かっていると言えば分かっている。だけど、当の魔理沙が何も言おうとしないのだ。ただ神社へ来て、黙って怒っている。私がどう言うべきなのかも分からない……けれど、黙って怒らせているよりも、口に出して怒らせてあげるのも、優しさかもしれないと思った。
「ね、魔理沙。言いたいことがあるなら、言ってみなさいよ」
魔理沙は口をつぐんだまま、私をじっと見た。そういう風に言うことも、無神経に見えてしまっているのかも。でもまあ、なるようになれと思って、私は黙って反応を待った。
「霊夢、お前、紫のことが好きなのか」
「どうしてそう思うのよ」
「だって……霊夢、紫と距離が近いじゃないか。まるで、恋人どうしみたいだ」
「そう思う?」
答えながら、私は嬉しくなった。恋人どうしに見えたことが嬉しかったのだ。けれど、すぐに落ち込んだ。私が勝手に好きでいても、紫の方では全然かもしれないのだ。勝手に喜んだって、虚しいだけ。私は、気持ちが変にむかむかしてきた。
紫が私のことを好きでないのなら、キスをしたことや、あのお酒を飲んだ夜、気持ちが変になってしまったことなどが、情けなく思えてきたのだ。しかも、あの夜のことを考えると、妙なことを考えてしまって、魔理沙の問いかけどころではなくなってきてしまう。いたたまれなく、自分が情けなく、しかもむかむかしていて、何も言えなくなった。
「なあ、霊夢。霊夢の気持ちが知りたいんだよ。……いけない? 何か、言ってくれよ」
「自分でも分からないわよ」
「そうなのか」
私は少し泣きそうになっていた。投げやりな言葉でも、魔理沙は満足したのかどうか。黙って、よそを見て、何か考えているみたいだった。
「な、紫とどこまでしたんだ」
「どこまでって何よ」
「ち、ちゅーはしたのかよ」
「子供みたいな言い方」
「なんだよ。そうじゃないだろ。き、キスはしたのかって聞いてるんだよ」
キスのことなんて、考えたくもなかった。考えるくらいなら、今すぐに紫の唇が欲しかった。
「……どうでもいいでしょ」
「良くないよ。霊夢ばっかり……ずるいじゃないか」
「してほしかったら、紫に頼めばいいでしょ」
「どうしてそうなるんだよ。紫にしてもらったって、仕方ないだろ。私はさ……」
「したいならすれば」
私は放り出すように言った。言ってから、まるで魔理沙で妥協しているみたいだ、そう思われたらどうしよう、と思った。でもまさか魔理沙も、私がそんなこと考えてるだなんて思うまい。実際、魔理沙は哀れなほど慌てていた。私は魔理沙に顔を向けて、目をつぶって見せた。
「したいって。霊夢、お前。したくないわけじゃないけどさ」
「したくないならいい」
「わ、分かった。すればいいんだろ」
その言いぐさに腹が立った。したいなら、早くすればいい。私と魔理沙の間には、紫との間みたいなムードは全然なかった。何しろ、手の一つも握ろうとしないのだ。唇だけが接触を許されているみたいに、指一本、布が重なり合うのも避けようとしているみたいだった。
魔理沙はぜんぜんキスを始める気配はなかった。させてあげれば満足するだろうと、私は大人しく目をつぶったまま待った。魔理沙はどんな顔で、何を考えているのだろう。ええい、もう、めんどくさいな。私の方から顔を近づけてやろうか。ちらりと細目を開けて様子をうかがうと、魔理沙も目をぎっちり閉じていた。それじゃ全く近付かないし、唇も触れ合わないわけだ。私は魔理沙の手を取って、私自身の頬へと導いた。それでやっと、魔理沙は距離が分かったみたいだった。
いよいよ引き下がれない感じになって、ようよう、魔理沙の唇が私の唇に到達した。唇を押し付け合いもしなければ、舌が触れる感じもなかった。まるで嫌々触れたみたいに、少しくっついて、そしてすぐ離れた。
魔理沙は顔を真っ赤にして、向こうを向いていた。無性に唇が変で仕方ないらしい。唇を拭こうとしては、その動きを止めて、手を所在なげに膝の上へ置いたりしていた。私は、やっぱり物足りなさを感じている。誰もが紫みたいにキスが上手なわけじゃないのだ。そう考えると、紫のキスが上達した理由を知りたくなった。誰とこんな風にしてああいう上手さをものにしたのだ。私はすっかり、魔理沙とのキスのことより、紫のことを考えてしまう。魔理沙が帽子を目深に被って、逃げ出すように出て行ってしまってから、悪いことをしたな、と思った。
私は野道を歩いていた。牛乳が、急に飲みたくなって、牛を飼っている里の外れまで
出かけたのだ。瓶を抱きかかえたまま木漏れ日の中を歩いた。
家につくと、紫が座っていた。崩した足が僅かにスカートからのぞいている。私は自然なことに思えた……外から見ると、影の中にいる紫の姿は、やたらに暗く見えた。私は座敷に昇って、紫の側へ進んだ。瓶をちゃぶ台に置くと、そのまま紫の脇に立った。
紫は私を見上げていた。腰をかがめるのもそこそこに、私は紫に唇を当てた。紫は、当然のことのようにそれを受けた。自然なことに思えた。それが、魔理沙のキスと何か関係があるのか、分からなかった。
私は、急いでいたから、そんな風な仕草をしてしまったのかもしれない。紫と唇を交わしている頃、魔理沙が庭先へ降りたって来るのに、私は気付きもしなかった。繋がっている私と紫を、魔理沙に見られてしまった。私は行為の最中にそれに気付いた。
魔理沙が私を見ている。私の瞳の動きは、魔理沙に見えたかどうか。影の中で暗いから、分からないかもしれない。
もうどうなってもいいや、と思った。紫はきっと気付いている。気付いていないはずがない。なのに、唇を離しもしなかった。求められるがまま、唇を重ねていた。私は、瞳を閉じた。
ようよう唇を離して、目を開く頃には、魔理沙はいなくなっていた。
アリスが私の家にやってきた。だいたい、目的が分かるような気がした。
アリスが魔理沙のことを好きなのは、なんとなく分かる。好きなのかな、と思う程度だけど、なんとなく勘は当たっている気がしている。魔理沙はそれを気付いているのかいないのか。魔理沙は誰とでも親しく付き合い、友達も多いけど、アリスは反対に、仲良く遊ぶのは魔理沙くらいしかいない。
アリスがやってきた時、アリスが怒ってきたらどうしよう、と密かに怯えた。そんなことはなく、アリスは落ち着いていた。コーヒーの粉を持ってきていて、私に断って台所に入ると、コーヒーを作って持ってきた。湯飲みを抱えているよりも、カップを傾けている方がアリスには似合っている。
アリスの用事はだいたい分かっているような気がするのだけど、アリスの方から口を開こうとはしない。まつ毛を伏せて、黙ってコーヒーを飲んでいる。
肌の色が違うからかもしれないけど、アリスは可愛らしい。本当の年齢はいくつなのだろうと思うけど、外側の見た目で、案外歳というのは決まってくるのかもしれない。若々しい見た目をしていれば、私たちのように歳を取ってゆくこともなく、いつまでも若々しくいられるのかも。
私は、こんなに可愛らしいアリスに好かれていて、どうして私とキスをしたがるのだろうと魔理沙のことを不思議に思ったけど、案外そのあたりに理由はあるのかもしれなかった。人間が妖怪と付き合うべきでない、と言うのなら、アリスと魔理沙が繋がるのにも違和感がある。魔理沙はそれを感じているのかもしれなかった。
そして、アリスが魔理沙を好きであることは、私にとっては好ましかった。妖怪もまた、人間を好きになるかもしれないサンプルの一つだからだ。紫が私を好きでいても、変ではないかも知れない。
「アリス、あんた、魔理沙が好きなの」
「魔理沙。可哀相に、ショックを受けてたわ」
「……泣いてた?」
「泣くこともできないみたいだった。霊夢ってば、悪いひとね」
アリスの目は……楽しんでいるみたいな、意地悪をしているような……私は悪いことをしたなと思った。ここにはいない魔理沙に、責め立てられてるみたいだ。
魔理沙は私を責めることなどできないだろう。それもアリスは分かっていて、それで来たのだ。アリスが来た目的は分かっているつもりだったけど、素直に怒られるより、よほど辛く思った。
アリスは言葉を続けなかった。私はいたたまれなかった。謝りに行った方がいいだろうと思った。気まずいけど……
私が子供だと思う部分は、魔理沙にだってデリカシーはなかった、と思う部分だ。愚痴を言えば、いつだって玄関から入ってこずに勝手に庭先から来るし……とか言いたくもなるけど、そういうことじゃない。とりあえず謝りに行こう。
「教えてくれてありがとう、アリス」
「いいのよ」
アリスが帰ったら、すぐ行こう。だけど、アリスはまだ話したいことがあるみたいだった。腰を上げようとしなかったからだ。
「魔理沙に会いに行くの?」
「うん。そうするわ。謝らなくちゃ」
ふう、と息を吐いて、アリスはカップを机に戻した。
「魔理沙とキスをしたの」
「……? うん、したわよ」
「ううん、違うの。私が魔理沙としたのよ。魔理沙、霊夢とキスした時、上手にできなかったって言ってたから」
アリスに喋っていたのか。私は顔がかっと熱くなった。
「だから、上手になりたいなら練習台にして、って言って。少しは慣れたみたい」
そう、と私は答えた。アリスが何を言いたいのか、分からなかった。
「ね、霊夢。魔理沙、今うちに泊まり込んでいるのよ。霊夢に謝りたいって言ってたわ。だから、もう少し落ち着いてから会いに来てあげて。また、連絡するわ」
アリスは笑っていた。微笑みよりももっと微かな笑みだった。「それでいい?」とアリスは言った。
「いいわ」と、私は答えた。アリスはぱっと立ち上がり、それでカップを洗いに台所へ去っていった。
魔理沙がまたやってくるようになった。アリスは連絡をするなんて言っておいて、魔理沙が来る方が先だった。約束を守らなかったわけじゃないかもしれない。アリスが私のところへ伝えるより先に、魔理沙が勝手に私のところへ来ただけかも。魔理沙にはそういうところがある。互いに謝り合ったあとで、「キスをしよう」と、魔理沙は言った。
「何、何よ」
「だから、キスをしようって言ってるんだ。私……ほら、勉強してさ。一人でだぜ。やり方を覚えて、少しはうまくなったんだ。だから、試させてくれよ」
なんてことを言うものだから、私は狼狽してしまった。正直に言ってめんどくさい。こないだのことは悪いと思っているけれど、それはそれとしてめんどくさかった。なんとかごまかしてやめさせたけど、それから二人きりになると、時たまキスをねだってきた。勉強はそれからも続けているみたいだった。
そして、魔理沙と一緒にアリスもついてくることが増えた。更に、何の因果関係があるのか分からないが、紫も来ることが増えたのだ。私は全体的に面倒に思い、何が起きているのか分からなかった。魔理沙も分かっていないみたいだった。アリスと紫は分かっているのかいないのか、曖昧な笑みを浮かべていた。私と魔理沙は二人、蚊帳の外に置かれてるみたいだった。
魔理沙とのことはこれでおしまい。
そういうことがあったけども、紫との間は曖昧なままで、紫は何も言ってくれなければ、手を出しても来なかった。まるで誰かに決められているみたいに、キスばっかりしていた。
紫はどういうつもりなのだろう。幻想郷の維持のみが目的で私に関わるのならば、それだけでいいのに……話したり、親しくしたり、身体を触れ合わせたりなど、しなくて良いのに。
紫は中途半端なのだ、何もかも。幽々子は紫の旧友だと言うけれど、紫は幽々子のことを気にかけている。幽々子は気ままに同じ布団で寝たりするようなやつだから、幽々子と親しいことが気にくわないこともあった。
紫は優しいのかもしれないけれど……甘いのだ。突き放す冷たさを持っていないように、私には思える。幽々子の死のことも、人間と妖怪の間のことも、摂理なのだ。それでも、願ったり、恋しく思ったりせずにはいられない。紫も人の姿をしている。人の姿をしていれば、人の摂理に引っ張られずにいられないのか。
紫も肉を持ち、感情に引っ張られる生き物なのに……。そう考えていると、隣に紫が座っていても、何もしたくない気持ちになる。
しかし、それでも、結局唇を重ねてしまう。隣に紫がいるという事実がそうさせて、私を紫へ引き寄せていく。感情や気持ち以前の、本能のような、赤ん坊が唇でそのものを知ろうとするようなものなのかも。私は会話や理解によってよりも、触覚で紫を知ろうとしている。
日暮れが近付いている。巨大な生物がじりじりと迫ってくるように、夕闇が私の部屋を浸食している。
紫は珍しくうたた寝をしていた。口元がわずかに緩んでいる姿は、幼子のようで愛おしい。紫を後ろから抱きかかえたまま私は、身動きが取れなくなっていた。
唐突なのだけど、紫が眠っている間、紫のことを考えていた。肉体を触れ合わせている時は考えられないことだ。
紫は幻想郷を支配しているのではないかもしれない。と、思った。幻想郷が従で、紫が主だと思っていたけど、そうではないのかも。確かに、人間は弱く、妖怪は強いけれど、紫の足元にも及ばない。
しかし、幻想郷は古いもので、歴史や時間というものが溜まって蓄積されている。紫よりも古いかどうかは分からないけれど……積み重なってゆけば、やがては重く権威をまとう。紫はあくまで一つの存在であって、英雄というのがいかに偉大でも、歴史の上では流されて消えてしまう。
古く、朽ちて消えてゆくものたちが、幻想郷という形を取って、紫という存在を見出したのだとすれば、紫は幻想郷に縛られていることになる。紫は自由意志で幻想郷の保護を思いついたのかも知れない。それを続けているうちに、紫の勝手で壊したり、捨てたりできなくなった。幻想郷のため、自らを律している……というより、幻想郷に律されている。
紫には自由はないのかもしれない。例えば、誰かを好きになったりだとかいう自由さえも。紫にはそもそも、そういう感情さえ、実感として存在しないか、限りなく薄くなっているのかもしれない。そうだとすれば、紫は子供のようなものかもしれなかった。
私の想像にすぎないけれど……もしも、紫がそうなのなら、紫はずっと子供に思えた。私は紫を抱く力を、少し強くした。
すっかり夜の闇は神社ごと、私達を覆っていた。紫は起きる気配がなかった。
紫がいなくなるということを、考えたことはなかった。紫は代替わりというのをするのだろうか。妖怪だから寿命で死ぬことはないだろう。殺されることはあるのかもしれない。紫には生と死の境界を乗り越えてまた現れるようなところがあるから、殺されるのも想像しにくい。
紫の存在理由は、この幻想郷を管理し続けることで終わるのか、それとも誰かに権利を手渡すか、飽きて遠ざかっていくかして、その存在理由が変わることはあるのだろうか。このあたり、普通の人間と違って、向かってゆく未来の姿は想像しにくい。
やっぱり思うのは、求めているのは私ばかりで、紫は私を求めてはいないということだ。紫にキスをするのはいい。だけど、求めてもらえたならば、もっといいだろうなということだ。
どうしたら、紫は私を振り向いてくれるだろう。いっそ、幻想郷をぶっ壊したりすれば、紫は私を見てくれるだろうか。怒るだろう。怒らせたくはないけれど、なくなってしまったならば、紫も仕方ないから私への感情を持ってくれたりするだろうか。それとも、妖怪の存在が薄くなって、紫もそのまま消えてしまったりするだろうか。
紫は眠っている。私は紫を起こさないよう、こっそりと指先を宙へと伸ばした。紫ほどうまくはできないけど、近くなら空間に裂け目を作ったりはできる。寝床にしている隣の部屋へ手を伸ばし、布団を掴んだ。そのまま引っ張って私の側へ持ってきて、紫ごと、私の身体へかけた。起こさないよう、紫ごとゆっくり横になった。
紫と一緒に寝るのは珍しいことだ。夜が遅くなったら、魔理沙なんかは気軽に泊まっていったりするけど、紫は平気で帰っていく。むしろ妖怪だから夜こそ自分のテリトリーなのだろうし。ともあれ、私は嬰児のように眠りこける紫を抱えたまま、眠りについた。胸元に顔全体を寄せる紫を、私は可愛らしいと思った。
その次に、紫がやってきた時、私はムードに逆らって動いた。いつもならなんとなく距離を近づけるタイミングを計ったりする。が、その日は、唐突に歩み寄って、唐突に紫を膝の上へ転がし、唐突に撫でてみたりした。紫は焦らない。うっすら笑みを浮かべていた。
「どういうことかしら」
と、紫が言うので「黙ってなさい」と一喝した。紫はされるがままになった。
私が可愛がってやればいいのだ、と初めて気付いたような心地をしている。紫は大人っぽいけど、案外可愛らしいのだ。私が可愛がるようにして、私なしではいられないよう籠絡してやれば、紫は私の側を離れていかないに違いないし、私の家へ住ませたりもできるに違いない。そのためには、もう少し大人にならないといけないが、紫と違って成長するのはすぐだ。紫が油断している間に、なんとか奇襲してやることができるだろう。
私は、私を見上げている紫の唇へ、自らの唇を下ろしていった。唇が重なる時、紫は瞳を閉じた。いつもと逆だ。いつも、私が先に目を閉じる。紫にしてみれば、そういう、ちょっとした立場逆転の楽しみのつもりかもしれないが。
今はこの程度が限界だけど、大人になったら楽しみにしていなさい、と思った。紫の方から私のところへ寄ってきて、キスをせがむような、そういう教育をしてやるから。
地味に魔理沙が前向きで良かったです
紫が本当はどう思っているのか、絶妙にわからないのが良いですね。
けだるい、退廃的な百合ちゅっちゅでした。ごちそうさまです。