とうとうこの日がやってきた。
年が明けて早一ヶ月。それに十四日を足した今日のこの日は、私がかねてから待ち焦がれていた日、バレンタインデーだ。
目の前には、たった今包装し終えたチョコレートが一箱。窓から射す朝日に照らされ輝いている。
手に持つとひどく重たく感じるのは、徹夜から来る疲労の所為か、それとも……
渦巻く思考と共にチョコレートをバケットに押し込むと、それを手に玄関を飛び出した。
通い慣れた道のり。目的地までは時間にしてほんの十五分。
今日は一分の様にも、一時間の様にも感じられた。
いつしかほうき越しの視界に神社が映り、いつもの縁側で、いつもの様にお茶をすすっているあいつを見付けた途端、私の心は喜びにも怖れにも似た感情によって踊り狂う。
はやる気持ちを抑え一度大きな深呼吸をして、私は高度を下げて境内へと降り立った。
「あ、魔理沙」
「おお。おはような、霊夢」
「ええ、おはよう」
「…………」
「…………」
「何で黙ってんだ?」「黙っちゃってどうしたの?」
「別に……」「何でも……」
「…………」
「…………」
鼻を突く違和感。交わらない視線。
音にならない言葉が空に消える。
頭が真っ白だ。
「ぇあ、ぃや、ちょっと昨日徹夜したもんで、頭が回らなくてな」
「そ、そうだったの。またどうせ研究とか何とかいって、夢中になってたんでしょ」
「ん、まあそんな所、だな」
上辺だけの会話。からがら出た言葉は、下手な紙飛行機の様な軌道で、私達の間を頼りなく行き来する。
「こっち、座んなさいよ。お茶でも飲めばちょっとは目が覚めるでしょ」
硬い笑みを浮かべながら、霊夢は空の急須にポットからお湯を入れ、あまり時間を空けずに湯呑みへと注いだ。
もうもうと上がる湯気。飲み口が少しだけ欠けた湯呑み。
いつだったか、私が手を滑らせて付けた傷。霊夢が決まって用意する、私専用の湯呑みだ。
「い、いつまで突っ立ってんのよ」
上ずった霊夢の声に急かされて、私はおずおずと縁側に近づく。高鳴る鼓動が聞こえてしまいそうで、霊夢と少し距離を開け座った。
チョコは、霊夢とは反対側に隠す様に置いた。
ここまではなんとか計画通り。あとは自然な会話をしながらいい感じのムードを作り、そして霊夢にこのチョコを……
「このお茶ね、いつものよりいい葉が手に入ったから煎れてみたんだけど、どうかしら」
「ん? ああ、中々美味いな」
「飲む前から味わかるの?」
「…………」
「あんた、本当に大丈夫?」
大丈夫なもんか。
これからチョコレートを渡そうかという所へ来て、お茶の事なんか悠長に考える余裕なんて無い。
しかし、こんな調子では長引くとムードもクソも無くなりそうだ。
もじもじしててもしょうが無い。こうなりゃ当たって砕けろ、当たって砕けろだ。
「……なあ!」
「な、何よ?」
「その……霊夢に、渡したいもんがある」
私は霊夢の返事も待たずバケットからチョコが入った箱を取り出して、それを霊夢に向かって突きつけた。
「魔理沙、これって」
「いいから」
強引に押し付けると、霊夢はぎこちない手つきで箱を受け取った。
霊夢の表情は、怪訝に曇っていた。
「…………」
「…………」
「開けなきゃ、だめ?」
「霊夢次第だ」
霊夢は箱に向いていた視線を一瞬外してこちらを睨んだ。
一瞬間をおいて、霊夢が包みをゆっくりと解き始める。
包みが擦れるガサガサという音が、私の心をくすぐりざわつかせる。
中からは厚い紙でできた箱。フタに手をかけて、また霊夢の動きが止まる。
その時点で、私の胸の高鳴りは頂点に達した。
勢いを付けて霊夢がフタを開ける。中には箱いっぱいのひとつの大きなチョコレート。
霊夢の目は大きく見開き、その身体をぶるりと震わせた。
そして次の瞬間だった。
霊夢は悲鳴じみた声を上げ、狂った様な勢いで立ち上がったかと思うと、手にしていたそれを正面に向かって思いっきり投げ飛ばした。
それを合図に、霊夢は屋内、私は縁側の下に身体を素早く滑り込ませる。
宙を舞うチョコが、爆発した。
吹き飛んだチョコの破片があちこちに突き刺さり、地面をえぐる。舞い上がった土煙が視界を悪くした。
私は即座に縁側の下から飛び出し境内へ走る。
距離が十分開いた所で振り返り、ポケットに忍ばせていたひとつかみのアポロチョコを投げた。
アポロチョコにかけていた魔法が空中で弾け、霊夢が逃げた方向へ弾丸の如く一直線に飛んでいく。
だが手応えは無し。
間髪入れず、煙の向こうから飛んできたのは三枚の板チョコ。
鋭い軌道でこちらへめがけてくるそれを、私は寸前の所でかわす。
切り裂かれた数本の髪が頬に張り付き、やがて落ちた。
晴れた煙の先には縁側の上で数枚の板チョコを両手に持ち身構える霊夢の姿。
私達はそのまま動かず対峙した。
"バレンタインデー"
それは、上下社会に潜む様々なしがらみによって、節分に豆をまく事ができない山の連中が知恵を絞り、外の世界の風習にこじつける等して編み出した、チョコをただひたすら相手に投げ付けまくるというエキサイティングな行事。奇祭。
私と霊夢が、正月やクリスマスよりも楽しみにしている、年に一度のデスゲームだ。
「どうだ? 私が丹精込めて作ったチョコレート爆弾の威力は」
「どうもこうも、何一人先走っちゃってんのよ。開始の鐘はまだ鳴ってないわよ」
「知ってるよ。だからちょっと準備運動をと思ってな」
「何が準備運動よ。来た瞬間から興奮しすぎて会話もおぼつかなかったくせに」
「霊夢こそ、力みすぎて声が時々裏返ってたぜ?」
「うるさいわね。去年同様、こてんぱんにのしてあんたの穴という穴にチョコをぎちぎちに詰め込んでやるんだから」
「思い出させるな! まあいい、今年はその雪辱を果たして同じ目に遭わせてやるぜ!」
見計らった様に響く命蓮寺の鐘。
熱い戦いの。バレンタインデーの火蓋が、今切って落とされた。
最初に動いたのは霊夢。先ほどと同じように板チョコを一直線に放つ。
だが一度見切った攻撃をおいそれと食らう訳もなく、私は余裕でそれをかわす。
しかし霊夢がそんな甘い攻撃をしてくるだろうか?
答えはノーだ。
私は正面に居る霊夢を注視しつつ、全方向に神経を尖らせる。
すぐに背後に鋭い気配を感じ、反射的に横へと回避する。
元の位置を見やれば、そこには背後の方角から地面に突き刺さった、先ほど避けたはずの板チョコ。やはりホーミングだったか。
「っ!」
一瞬目を離したすきに、目の前には霊夢の放った追加攻撃。
しかも今度の攻撃はポッキーの雨。微塵のブレもなく飛ぶポッキーは先ほどの板チョコとは比べ物にならないスピードで飛翔し、私はそれを避けるだけで精一杯だ。
「ほらほら、早く反撃しないとその内ポッキーがあんたの体に穴を開けちゃうわよ?」
そんな悪役みたいなセリフを吐く主人公がどこにいるんだ。と突っ込んでやりたい所だが、悔しいかなそんな余裕は今は無い。既に自慢のとんがり帽子は穴だらけで台無しだ。
だが、この現状を打開する策は幸いにも持ち合わせがある。
私は再びポケットに手を突っ込み、一本の小さな筒を取り出す。
転げ回る様に攻撃を避けながら筒のフタを開け、一瞬のすきを突いて中身全てを宙にぶちまける。
飛び出したのは色とりどりのマーブルチョコ。
それらは少しの距離を飛んだあと小さく爆発し、赤や青、黄色といったカラフルな煙幕を展開させた。
煙幕はこちらの姿を隠し、目標を見失った霊夢の攻撃は明後日の方角へと逸れ始める。
ここで生きるのが最初に仕掛けた準備運動だ。
普通ならばこのまま煙に紛れ、安全を確保しながら長距離攻撃を仕掛ける所だろう。だが、相手がこちらの攻撃場所を狙って反撃してくる事と、ホーミング能力のある攻撃をしてくる事は既に割れている。長距離攻撃は不利なのだ。
となれば、次に取るべき行動は自ずと見えてくる。
私は煙幕の中を走り、取り出した50円チョコを明後日の方角へと投げた。
50円チョコは高速回転しながらキューっというけたたましい音をたてて飛ぶ。
音を頼りに狙いをつけている霊夢の攻撃は思惑通りそちらへと集中する。
今だ!
私は煙幕の中を霊夢の居る方向へと電光石火の如く走った。
煙の晴れた先には、突然見当違いな方角から現れた私に面食らう、すきだらけの霊夢の姿。
私の手には自分の背丈程もある特製の巨大パラソルチョコレート。
この日の為に、難易度の高い出現魔法までもを習得していたのだ。
「もらった!」
大きく振りかざしたそれは、見事霊夢の脳天にクリーンヒットした。
「ぐえっ」
その場に崩れ落ちる霊夢。パラソルチョコレートを片手にそれを見下ろす私。吹き抜けたのは不気味な沈黙。
どちらが勝者で、どちらが敗者か、誰の目にも一目瞭然。
私は霊夢に勝利した。
「うおー! やった! 勝った! 今年は霊夢に完全勝利だぜ!」
ああ、喜びが抑えられない。
甘い。甘いぞ。勝利の味は、どんなチョコレートよりも甘く濃厚だ。たまらない!
「……ぃ…………の………」
うずくまり苦しむ霊夢が私の足元でか細い声をあげる。しかし今はその姿でさえ私には喜びを覚える対象にしか映らない。
のはずなんだが、ちょっと流石にやりすぎたか。うめき続ける霊夢の姿に不安を覚える。
「だ、大丈夫か? 霊夢。れい――」「痛いじゃないの!」
突然発せられた声と共に、霊夢の手から飛翔体が繰り出される。
とっさの事に、私はパラソルチョコレートを盾にそれを受ける。
突然立ち込めるチョコレートの甘ったるい香り。
霊夢の手には空になった湯呑みがあった。
「許さない! 許さないんだから!」
地の底から聞こえてきそうな声をあげ、こちらを向いた霊夢の顔は鬼の形相。
熱湯の入ったポットを一瞬で持ち上げ、そのフタを開けた。
「ま、待て霊夢。それは流石に!」
「うるさい!」
無情にも宙を勢い良く泳ぎ始める熱湯。逃げる余裕は無く、私はまたもパラソルチョコレートでそれを受け止める。
「あっち!」
直撃は免れたが、自慢のパラソルチョコレートはあっという間に全てドロドロに溶かされ、飛び散った熱い飛沫が私の肌や服を汚した。
私達の足元は言わずもがな、大惨事だ。
「まだよ、まだ勝負は終わってない!」
突然茶色一色に染まる視界。直前に見えたのはドロ沼の様に広がるチョコレートをすくい上げる霊夢の姿。
気が付けば体中が甘い香りに支配されていた。
ちくしょう、許さねえ……!
「なんだこのやろう!」
お返しに、霊夢にもチョコレートをぶっかけてやる。
「何すんのよ!」
「ただのお返しだぜ!」
「いらないわよ!」
「受け取れよ!」
「馬鹿魔理沙!」
「あほ霊夢!」
「絶対負けない!」
「こっちのセリフだ!」
罵声と、怒号と、チョコレートが飛び交う、目に余る様なドロ沼戦。もといチョコ沼戦。
先ほどまでの戦略的な攻防戦とは打って変わって、原始的で醜い闘いが延々と続いた。
この時、自分たちに起こり始めた異変にどちらかが気づいていれさえすれば、後に起こる悲劇は免れられていたかもしれないのに……
「ねえちょっと、これどうすんのよ」
「どうにもなんねーよ」
「私達、ずっとこのままなの……」
「少なくとも誰かが助けに来るまではな」
「嫌よ、こんなチョコレートまみれで、銅像みたいに固まって動けなくなってる所なんて、誰にも見られたくない」
「じゃあこのまま飢え死んで、本物の銅像として永久に幻想郷を見守っていくしかないな」
「絶対にいや!!」
クソをする犬の様なポーズでわめく霊夢。ハニワの様なポーズで全てを諦め無表情の私。
もしも。もしもこの状況から無事生還できたならば。来年はもっと平和的な方法。例えば手作りのチョコを交換して、どちらのチョコが綺麗で美味いかを競う。みたいなやり方で勝負をしよう。
子供のようにわんわん泣く霊夢の声を聞きながら、私は遠い空をただ見つめ続けた。
序盤の甘いレイマリ展開かかと思わせといてからの
まさかの展開さすがの一言
これぞ幻想郷流のバレンタイン
ちなみに私はたけのこの里派……
よろしい、ならば戦争だ
イベントを大いに満喫する少女たちにほっこりしました
やはりきのこ派はいい話を書きますね
オチも秀逸でした
きのこ派が描いたとは思えないぐらい面白かったです