昔々、あるところに……
いえ、ちょっと昔、迷いの竹林でのことです。
雪がかすかに降る中、竹をかき分けて竹林を進む青年がおりました。
目的は、乾いた竹を取るためです。冬場の種火として、竹は大変効率がいいのです。
竹林は妖怪も住むので大変危険な場所ですが、青年は構わず道を進みます。
なぜなら彼は、心身ともにたくましく、筋肉が隆々しており、普段から落ち着いていて冷静沈着、地域の空手部のエースとして活躍していて、少し不器用ですが真面目のわりには人当たりは良く、更にはインスタのフォロワー数は十万人を越えているのです。
なので妖精はもちろん、青年は半端な妖怪の一匹くらいなら退治できると自負しておりました。
ちなみに、青年はプロテインも常用しています。死角はありません。
「うーん、いまいちだ」
季節は冬、天気は雪。
竹はだいたいが湿っており、いい具合のものがありません。
どうやら竹林の奥深く、雪が届かない竹が生い茂っている場所までいかなければ、乾いた竹は得られないようです。
青年は竹をかき分けて、一歩一歩力強い足取りで竹林の奥深くへと歩いていきました。
ある程度進むと、なんとも具合の良い竹が群生している場所を見つけました。
長い竹が傘のかわりになっており、短めの竹は雪の影響を受けていません。
青年は喜々として鋸(のこ)を取り出しました。
これは先代から受け継がれた伝統的な 木引き鋸で、先祖が深夜の通販番組で二本まとめて買った伝統的なものです。二本まとめてだと消費税がサービスになりましたがとても伝統的です。その内一本どこかへなくしてしまったのですがやっぱり伝統的です。
何本か具合の良い竹を刈っていると、青年はふと、何かの音に気づきました。
かさり、かさり。
それは足音でした。
何者かが自分に近付いてきています。
青年は冷や汗を垂らしました。
竹を狩るために持っていた鋸を握り直し、反対の手で長めの竹を持ちます。
心もとないですが、無いよりはマシです。
かさり、かさり。
足音はなおも近付いてきます。
青年は意を決して振り返りました。
「……」
そして息を呑みました。
青年に近付いてきたのは、長い髪の美しい少女だったのです。
目はくりんと大きく、鼻筋が通っていてなにより髪が美しい。
その美しさに一度は圧倒されましたが、すぐにはっと気を持ちます。
少女の頭には獣の耳があったのです。
妖怪だ。その事に気づき、彼は心のなかで舌打ちをしました。
狐か猫か、狼か。判断は出来ません。
前者はまだしも、狼だとしたらいくらプロテインを飲んでいる青年でもきっと敵いません。
青年は出て来る汗を拭わずに覚悟を決めて、妖怪に言葉を投げました。
「よ、妖怪だな!」
「えっはいそうです」
返事は姿形に似合う、非常に澄んだ真っ直ぐな声でした。
ですが、油断は出来ません。
相手は妖怪なのです。
その時、その妖怪の少女のお腹がぐうと鳴りました。
少女はお腹を抑え、次第に頬を紅潮させていきます。
「腹が空いているのか」
「あ、はい。お腹空いてます」
最悪だ。
青年は目の前が真っ暗になりました。
空腹時の妖獣の恐ろしさを知っているからです。
今にでも襲い掛かってくる恐怖に怯えながら、頭を回転させます。
「あの……」
少女が近付いてきました。
このままでは食われる、なんでもいいから誤魔化さなくては。
青年はなんとか口を開きます。
「お、俺は獣を飼っている!」
「え? はい」
青年は怯えている事を隠すように大声で続けます。
「こ、ここで俺を食うのは、賢くない。もし、もしも、俺を逃してくれたのなら、獣の肉を持ってくることを約束しよう!」
「えっと」
「ど、どうだ!」
「どうだと言われても……えーと、美味しいものをくれるの?」
「ああ、持ってくる」
「うーん、じゃあお願いします」
青年は竹の入ったカゴを掴み、走ってその場から去りました。
背中を見せるとやられると思っているので、何度も振り返り少女を確認します。
少女は首をかしげ、腕を組んでいるようでした。
「おにぎり、食べたかったなあ。でも美味しいもの貰えるからいっか」
その声は必死で走る青年には聞こえませんでした。
少女の狙いは、青年の肉ではなくて青年の懐に忍ばせていたおにぎりだったのですが、青年はそれに気付くこと無く、里まで逃げ帰っていったのです。
翌日、少女は里の近くの竹林の入り口まで散歩に向かいました。
さくじつの事もありますが、散歩は日課ですのでいつも通りに鼻歌を歌いながら歩きます。
少女は青年が約束を守るとは思ってはおりませんでした。
青年が言ったのは、きっと妖怪の自分から逃げる口実なのだろうと思っておりました。
「それでも万が一ってこともあるからね。じゅるる」
少女はよだれをたらし、少しだけ期待しながら歩みを進めます。
すると、意外や意外。
竹林の入り口近くに青年が立っていたのです。
「あれ、いる」
「昨日見逃してもらった礼だ」
青年は少女に包みを渡しました。
包の中身はとても豪勢なものでした。
鶏肉に小麦粉を付けて揚げ、砂糖醤油酒のタレを絡めた特製唐揚げ(かいわれ大根と大根おろし添え)と
牛肉に薄いパン粉を付けて軽く揚げた後、わさび醤油とポン酢で頂く牛カツです。
流石にインスタのフォロワー数が十万人を越えているだけあって、青年はおしゃれで美味しい料理が作れるのです。
「美味しそう!」
「俺を食べなくて良かっただろう」
「元々食べる気なんて無かったわ。いただきます」
「どういうことだ?」
「貴方が持っていたおにぎりが食べたかったの。もぐもぐ」
「……」
「美味しいわーこの唐揚げ美味しいわー」
「お、俺の早とちりだったのか」
「私、人間と話をするのも初めてなのよ。出会ってまず食べようなんて思うわけないじゃない。
でも、本当に来てくれるとは思わなかったわ」
少女の言うとおり、青年のこの行動は普通では考えられません。
というのも、妖怪は里の中に居る人間には手を出せないですから、約束を反故にしても、少女は怒るに怒れないのです。
それでも再度青年が少女の前に現れたのは、約束を破ってこれ以降竹林に入ったら後がないこと、青年が義理堅い性格だということなど、いくつかありましたが、一番の理由は少女の美しさにまた触れたいと思ったからです。
「ごちそうさまー美味しかったわー」
「……」
「じゃあばいばい。ありがとね」
「待て」
「え、お金ならないわよ」
「金なんていらない……その」
「なあに?」
首をかしげて耳をぴこぴこ動かす少女の姿は非常に愛らしく、青年は目を奪われました。
彼は先述した通り優秀でしたが、童貞 (女性と肉体関係をもったことの無い男性を言い表す言葉) だったので、その姿は刺激が強すぎます。
少しだけ前かがみになりながら言葉を振り絞りました。
「な、名前を……その、教えてくれないか」
険しい表情で、なんとか言い切りました。
「私? 私は影狼っていうの。狼女よ」
「……いい名前だ」
「ありがとう。気に入ってるの。お母さんが付けてくれたから」
そういって笑う少女の姿を見て、青年は心臓が暴れまわるのを自覚し、そして確信しました。
「それじゃあ今度こそばいばい」
「影狼」
「はい、なあに?」
「……」
「どうしたの? お腹痛いの?」
「また、その、俺と」
「うん?」
「じ、 実は 今料理の練習をしていてな、その、あれだ。料理屋を目指していて、妖怪にでも美味いと言ってもらえる料理を作ろうと思っている」
「へえ。立派なのね」
「だからしばらく、味見係になってくれないか?」
「へ?」
「金は要らない。料理が美味いかまずいか、それだけ教えてほしいんだ」
「……」
「やってくれるか……?」
「……そんなの、良いに決まってるじゃない! やるやる!」
そう言って満面の笑みを作る影狼。
そのよだれまみれでべとべとの顔でさえも、やはり青年は「美しい」と思ってしまうのでした。
それから二人は、たびたび竹林で会うことになりました。
名目は「料理の練習のため」「竹を狩るため」など色々ありましたが青年はただただ、影狼と話をしたい。影狼と触れ合いたい。それだけでした。
「これも美味しいわー」
「そうか、良かった」
「これなら立派な料理屋さんが開けるわね」
彼は料理屋を開く気などまったくありませんでしたが、影狼と話を合わせるために必死になって料理を作りました。
「あっちの方にいい竹があるわよ」
「そうか、助かる」
「取り過ぎちゃだめよ? 私も使うんだから」
彼の家には使い切れない乾いた竹が大量にありましたが、それもでまた竹を狩りに行くのです。もちろん、影狼と会うために。
「ごめんなさい。明日はダメなの」
「そ、そうか。何か用事でも?」
「今夜は満月じゃない。明日は毛づくろいをするの。私、毛が生えた姿を見られるのが嫌いだから。あ、これ内緒の話よ」
影狼と会う度に、青年の心は躍りました。
自分しか知らない影狼の話を知ると、青年の心はときめきました。
青年は、確実に、着実に影狼を好いていきました。
気付くと雪も溶け、まだまだ寒い気候は近づきますが、季節は春を迎えようとしています。
なおも二人は竹林で料理会や竹取物語を続けています。
自然と、込み入った話をする機会も多くなってきました。
「美味しいわー」
「そうか、良かった」
「ねえねえおにぎりは持ってないの。このお肉にはごはんが一番よきっと」
「ああ、俺の昼飯だが分けてやる」
「あらいいの?」
「構わない」
「ありがと」
影狼は遠慮なくおにぎりをもりもり食べながら、くすくすと笑い始めました。
何事かと思いましたが、一通り食べ終わると青年を顔を見てもう一度くすっと笑いました。
「そういえば貴方、初めて出会った時もおにぎり持ってたわね」
青年は影狼が自分との出会いを覚えていることを喜びました。
影狼はくすくす笑いながら続けます。
「あの時の貴方ったら、ものすごく怯えていたわね」
「……まあな」
「面白かったわー どちらかと言うと、私より貴方のほうが強そうなのに」
「……腹が空いている妖怪が近くにいたら、怖いもんだ」
「そう? 貴方みたいな強そうな人でも」
「……ああ、そうだ」
表情を曇らせる青年に影狼は尋ねました。
「何かあったの?」
「大した話じゃない。俺の親父は妖怪に食われて死んだんだ」
「え……」
「俺と同じように里の外に出てな。だからあの時は、少し怖かったんだ」
「え、え、そうなの? あの、私ったら」
「気にしないでくれ。里の外での出来事は、どうしたって事故だ。仕方がないことだ」
「……」
「それに、その妖怪への恨みがあったからこそ俺は鍛えたんだ。復讐の気持ちもあったかもしれないが、鍛えることで自信になったし、それを忘れるきっかけになった。だから気にするな」
「……ごめんなさい」
影狼は耳を垂れて、青年に謝りました。
青年は焦ります。
影狼にそんな顔をさせるために話をしたわけではありません。
「き、気にするな。影狼が謝る必要はないだろう」
「でも……」
「そ、そんなことより酒は飲まないのか?」
「お酒?」
「ああ、酒だ。狼女でも酒は飲むのか?」
「飲むわよ。お酒好き」
「そうか、じゃあ今度はつまみでも作ってくる」
「わあ、楽しみ!」
影狼はぴょんぴょんと跳ねながら体全体を使って喜びました。
青年は幸せそうにそれを見つめます。
すると、影狼は急に「あ!」と声を揚げました。
耳がぴこーんと立って、大変かわいらしいです。
「どうした?」
「じゃあ今度家にくる?」
「……な?!」
「せっかくおつまみを作ってくれるんだったらお家で飲みましょうよ。天狗の人から貰ったお酒があるの」
影狼を元気づける為に取り繕った言葉ですが、なんとも喜ばしい展開になりました。
尤も、彼は童貞 (女性と肉体関係をもったことの無い憐れな男性を言い表す言葉) だったので動転してしまいましたが。
「い、家か、その、そうか」
「やっぱり妖怪の家なんていやかしら……」
「そんなことはない! ぜひ、邪魔させてもらう」
こうして彼は妖怪とはいえ、初めて女性の家に行く約束を取り付けたのです。
偶然とは言え、これも彼の実力です。
何とは言いませんが、彼が卒業する日も近いかもしれません。
運命の日、彼は三段の重箱を持ち約束の場所へと三時間前から立っていました。
童貞 (女性と肉体関係をもったことの無いみじめな男性を言い表す言葉) 特有の心配性を発動したのです。
心臓を鳴らしながら直立不動で待っていると、後ろから声をかけられました。
いつもなら聞こえるはずの足音も、青年自身の心臓の音で聞こえなかったので妙な声を出しながら振り向きました。
「か、影狼?!」
「もう来たの?」
「いや、その、時間があったから散歩でもしながら待とうかと思ってな」
「その割には直立不動だったけど……」
「か、影狼こそ、なんでこんなに早く」
「……えっと、笑わない?」
「ん? ああ」
「実はね。男の人をお家に招待するなんて初めてで。緊張して眠れなかったの。だから早めに来ちゃった。えへへ」
「そ、そうか。はは」(結婚しよ)
青年は今にも吹き出そうな鼻血を抑えながらごまかすように笑います。
あたりは竹に積もった雪が溶け、日光に反射して竹林の中はキラキラと輝いています。
その中で笑う、美しい狼の耳を持った影狼がやけに眩しく見えました。
まるでソーシャルゲームのウルトラレアくらいに光っている彼女の姿を見て、青年はひどくいじらしいと思ったのです。
(やっぱり、俺は影狼が好きなんだ)
青年はそんな事を自覚して、決戦場(影狼の家)へと向かったのでした。
「かんぱーい」
「乾杯」
「わあ、すごいわねえ」
重箱の一段目はシーザーサラダと枝豆、卵焼き、冷奴。
二段目には影狼が好きな特製唐揚げをぎっしりつめて
三段目にはレバニラ炒めにマカロニグラタン、春巻きにフライドポテト、〆の小さなおにぎりまでついています。
「すごいわー二段目が特にすごいわー」
「なによりだ」
影狼は青年が見ているだけで満足しそうな速度で食べ物をおさめていきました。
それに伴いお酒を飲むスピードも上がっていきます。
青年もそれに合わせて飲んでいきますが、酔いは空回りしていきます。
なぜなら、ここは初めて入る女性の部屋。
部屋に入った時に感じましたが、まずは匂いが非常に女の子。
更には家具も 女の子でそこらに落ちている小物も 女の子です。
青年は緊張と興奮のあまり飲み込む酒で酔っ払うことが出来ませんでした。
「ちょっとーあんまりお部屋の中見ないでよ。一応私も女の子なんだから見られたくないものもあるのよー」
「す、すまん」
「それはともかく飲んでるー?」
影狼は既にべろんに酔っていましたので(べろんべろんではないですがそこそこ酔っている表現)青年の盃に遠慮なくお酒を追加します。
「美味しいでしょこのお酒」
「ああ、美味い」
「良かったわー。天狗の方からもらったのよ」
流石は妖怪といったところでしょうか。
天狗からの貢物の酒なんて、きっとこういう機会が無ければ味わえないでしょう。
「影狼は、いつから幻想郷に居るんだ?」
「わりと最近よ。もぐもぐ」
「そうか、一人でここに住むのは怖くないのか」
「うん。それに昔はお母さんが居たから。ぐびぐび」
普段なら気を遣ってそれ以上の事は聞かなかったでしょう。
ただ、もう二人が部屋で飲み始めて程よい時間が過ぎました。
影狼はすっかりべろんですし、青年もそろそろ緊張がほぐれ酒を飲む速度も早くなり、口の滑りも良くなっていたので、それ以上の事を聞いていました。
「その、母方は」
「ちょっと前に亡くなっちゃったわ」
「そうか……すまん」
「いいの。お母さんは色々なものを私に残してくれたから全然寂しくないの。火の起こし方だって、天狗さんとの関わりだって、狩りの仕方だって」
そう言って、遠くを見つめる影狼の横顔は、とてももの悲しく見えました。
言葉ではそう言っても、やはり寂しさは持っているのでしょう。
盃を握る手に力が入ります。
青年は、童貞 (略)ながらに気付いてしまいました。
思いを告げるのはここしかないと。
一人が寂しいのであれば、自分と共に今後の人生を歩んでいくのはどうだろうと影狼に伝えたい。
頭の中で何度もそれを繰り返しました。
「おつまみ無くなっちゃった。私、食べすぎたかしら」
「……」
「どうしたの?」
「……無くなったら、また俺が作ってやる」
「ほんと? いつもありがとうね。貴方の作るものは全部美味しいから、きっと人気の料理屋さんが開けるはずよ」
「……そうだな」
青年は盃に入っているお酒を一気にあおりました。
「わお。良い飲みっぷり。おつまみは無くなっちゃったけどお酒は一杯あるわ。飲んで飲んで」
「ああ、もっとくれ」
「良いわねーよく飲む人は好きよ」
青年はその一言で覚悟を決めました。
「お、俺も……好きだ」
「やっぱり? お酒は良いものだからね。嫌なことも忘れちゃうし、疲れも吹っ飛んじゃう」
「違う、そういう意味じゃない……」
「どういう意味?」
「お、俺は、その、お前が、影狼が」
その先の言葉は出てきませんでした。
なぜなら、彼が告白しようとしたその瞬間に、影狼が口を塞いだのです。
最初は何が起きているのがわかりませんでした。
「駄目よ」
「……」
「駄目なの」
何を言っているかはわかりません。
ただ、青年の口を塞いでいる影狼の長い爪の生えた手からは、まさしく人外の力を感じました。
青年はそれを振りほどけずにいます。
改めて影狼が妖怪で有ることを思い知らされたのです。
「最後のつもりだったの」
「……」
「ごめんなさい。本当は早く言うべきだったのに。仲良くなるべきじゃなかったのに」
影狼はそっと彼を制していた手を解きました。
「後ろの棚の引き出しを見て」
「か、影狼」
「見て」
初めて見る影狼の真剣な眼差しに、青年は従うしかありませんでした。
「なんだ……これ」
「遺品よ」
「……」
「今まで襲った人間の、ね」
刺繍の入った巾着袋、香辛料の入った瓶、貴重な石の首飾り、中には貴金属も含まれておりました。
「これは……」
その中に、見覚えのあるものが有りました。
青年が使っている鋸と同じ、受け継がれていた木引き鋸です。
「やっぱり、お父様の物もあったのね。……無くても、結果は変わらないと思うけど」
「……どういう意味だ?」
「貴方のお父様を襲ったのは私の母よ」
「……な」
「ごめんね」
青年は、影狼の方へ顔を受けました。
先程まで全てが魅力的に見えていたその姿も、今は感じません。
哀しみ、絶望、怒り、恨み、恐怖。様々な感情が彼を支配し、彼は正常ではいられませんでした。
「今まで言えなくて、本当にごめんなさい」
「に、人間と話すのは初めてだと……言っていたじゃないか!」
「初めてよ。今までは全部お母さんが仕留めてくれてたもの。死人とは話せないじゃない」
「……そんな」
「私にとって、人間ってそういうものなの。貴方が作ってくれた料理と一緒よ。貴方が獣を思う気持ちと一緒」
「お、俺は……それでも……」
「貴方のお父様は、私とお母さんで美味しく頂きました」
「……な」
「そんな私でも好きでいられる? 無理よね」
「……」
「私は貴方の事好きよ。でもね、やっぱりそれはいけないことだと思う。そんな過去があったなら。私が妖怪で、貴方が人間なら」
影狼は鋸を持つ青年の前まで歩いて行き、背を向けて座りました。
「もし、私が憎ければその鋸で私の頭を叩き割って下さい。私は美味しいものもいっぱい食べたし、美味しいお酒も飲んだ。……貴方に殺されるなら本望です」
青年は、目の前に座る人食い妖怪を改めて見やりました。
本当はもっと混乱してもおかしくないはずです。
自身が初めて恋をして、心を揺さぶられた女性が、自分の父親を襲い殺した張本人だったのです。
そして、その人食い妖怪が身体を自分に差し出しているのです。
ですが、彼は動きませんでした。何もする気はありませんでした。
様々なことが明らかになって何がなんだかわからない、というのも正直なところでした。
ですが、彼は気付いてしまったのです。
覚悟を決めた影狼の背中が、耳が、小さく震えていた事を。
「お前が、お前の母が、俺の親父を殺したと知って、俺は頭がおかしくなりそうなくらい、憎いと感じている」
「……そうだと思うわ」
「だけど、俺は影狼が好きだ。この気持ちは変わらない」
彼は、父の鋸を持って影狼の横を通り過ぎました。
「もう竹林には入らない」
「……私に、何もしないの?」
「俺が鍛えたのは好きな女を傷つけるためじゃない」
そう言って、青年は駆け出しました。
走る背中に「待って」という言葉を受けた気もします。
ですが、このまま走らないと気持ちが揺らいでしまう。これで良い。このまま走ることで、全てが無かったことになる。
彼の初めての恋は叶わなかった、竹林を散策していたら偶然父親の形見を見つけた。
それだけです。それが、彼の下した決断だったのです。
息を切らして、竹林の入り口までやってきました。
青年は、影狼に初めて料理を食べさせたことを思い出します。
無垢な笑顔で口いっぱいに料理を頬張っていた影狼。
自分の話で笑ってくれる影狼。
耳をいっぱいに動かして昔話をしてくれる影狼。
全てを愛おしく感じていました。
ですが。
「じゃあな」
青年は影狼のために、そして自分の為にそう口に出しました。
その言葉は、きっと彼女には聞こえていないはずです。
ですが、竹林を去ろうとした彼の背中には、彼女の悲しそうな遠吠えが、あおうん、あおうん、と何度も何度も投げかけられていました。
◇◆◇◆
ぱちぱちと炭の音が弾ける音だけが響いています。
話を聞き終えたルーミアは、声を振り絞り、全ての文字に濁点をつけながら「ちょっとトイレ行ってくる」と言ってどこかに走っていってしまいました。
ミスティアはウナギを焼きながら上を向いています。
手元を見ていないのでウナギは既に焦げてしまっていますが、こうでもしないと涙が流れてしまうからです。
遠くから聞こえるルーミアが泣き叫ぶ声を無視して、影狼は焦ったように口を開きました。
「ご、ごめんね。なんか暗い雰囲気にしちゃって」
何回か鼻をすすり、ミスティアは頬をぱちんと叩いてから影狼に目を向けました。その目は真っ赤でした。
「い、いや、私達が初めに『初恋の話をしよう』とか言ったのが悪いんだって」
今日は草の根ネットワークの飲み会、通称『くさのみ』の日です。
いつものようにミスティアの屋台で飲み始め、メンバーが揃うまでの肴に、と影狼に話を振ったらこんなことになってしまったのです。
しばらくすると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のルーミアが帰ってきました。
「いやーお酒飲むと近くてかなわないね」
「……ルーミア、おかわりいる?」
「ちょうだい。飲まないとやってられない。この切なさが私の胸を締め付けてくる。辛さを酒で誤魔化す」
「影狼も?」
「ちょうだい」
ルーミアは一気に酒をあおり、酒臭い息を吐いて心を落ち着けます。
「はー」
息を吐き、ウナギをもにゃもにゃしながらしばらく考えた後、「でもさ」と影狼に投げかけます。
「影狼、そんな終わり方で良かったの」
「良かったの。彼がそうしたから、そうなったの」
「ふーん。悲しくなかったの」
「悲しかったわよ。悲しかったに決まってるじゃない。私、ずーっと泣いてたんだから。あまりに泣きすぎて、その時の巫女が『うるさい』って言って退治しに来たんだから」
「うはーきついね。あ、もしかしてその後? 私達と会ったのって」
「そうよそうよ。その時の巫女も今の巫女と一緒で、退治が終わったら関わった妖怪を宴会に誘ってやるっていう意味わかんない風潮があったじゃない。その時よ、ルーミアとかせっちゃんに出会ったの」
「なるほどねー」
「今思えばそれがあってよかったわ。宴会で友だちもできたし。その友だちも頭悪いのばっかりだったから、無茶苦茶に遊んだり無茶苦茶にお酒飲んだりで、気持ちを誤魔化すのにちょうどよかった」
「言ってくれるね。あれ、そういえばその頭悪い友だち代表の赤蛮奇、遅いね」
「里からだとやっぱり時間かかるんじゃない? それに差し入れ買ってくるって言ってたし」
「わーやったぜー ミスティア、おかわり」
「はいはい、ペース早いわね」
「ミスティア私もー」
影狼もルーミアに負けじと酒を飲み込みます。
久しぶりに昔の話をして、妙にすっきりしました。
こういう日は後の事を考えずに飲むに限ります。
「ねえルーミア、今度わかさぎ姫にも聞いてみましょうよ」
「初恋のはなし?」
「ええ、人魚なんてそういう悲劇をやるのにはもってこいじゃない」
「……う、うん。たくましくなったね」
自身の話を踏み台に、わかさぎ姫の話を聞き出そうとする影狼にルーミアは若干引いたものの、少し安心もしました。
目の前の影狼は、過去の哀しみに暮れるわけでもなく、ただ人の恋話に貪欲になってる意地汚い人食い妖怪だったからです。
「はー昔は可愛かったのにねえ」
「過去の恋のことなんて引きずってたってしゃあないわ。そんなの酒の肴にすりゃあいいのよ」
「聞いたミスティア? 影狼が頭が悪そうなこと言ってるよ」
「私は過去のこと覚えられないからなんとも言えない」
「うーんみんなバカだ」
「お前が言うな!」
このまま弾幕ごっこに発展しそうでしたが、良いタイミングで赤蛮奇がやってきました。
何やら既に出来上がっている会場に若干引きつつも、合わせるために駆けつけ三十杯。
あっという間に酔っ払いました。
「ところでなんでそんなに盛り上がってたの?」
酒臭い息と共に投げかけたその一言で、場に緊張が走ります。
ルーミアとミスティアは影狼に目配せをします。
「ちょっと長くなるけどいい?」
「あ、うん」
「じゃあ話すわね。これは昔々……いえ、ちょっと昔、迷いの竹林であったことなんだけど」
影狼の初恋話、第二弾が始まりました。
二回目なのに、途中でルーミアがトイレに三回行き、ミスティアが上を向き五枚ウナギを焦がしたりすることもありましたが、影狼は無事話し終えました。
「ふうん、そんなことが。知らなかった」
冷静そうに酒を飲む赤蛮奇ですが、既に顔を十二回変えています。
彼女は里に住む妖怪ゆえ、そういうのに弱いのです。
「ふはあ、話し疲れたわ」
「おつかれ。まったく、今日の主人公は影狼だね」
ルーミアが影狼のおちょこに酒をついでやります。
影狼はぐびぐびと喉を鳴らして飲み、満足そうに息を吐き出しました。
「なーんかみんなに話してすっきりしたかも。というかルーミアとかせっちゃんのそういうのも聞かせてよ。ミスティアだって話していいのよ」
「流石にそれ以上の話は出てこないかなー ねえ赤蛮奇?」
「うん、流石に無いね」
「私も無い無い」
「ふーん……じゃあわかさぎ姫に期待しましょ」
今日参加できなかったわかさぎ姫にプレッシャーがかかります。
今度はハンカチを用意しよう、と皆が酔っ払った頭の中に叩き込みました。
一息ついたので、ルーミアはウナギの刺さっていた竹串を舐めながらお椀をちんちん鳴らしだします。
「おかみさん、何か食べ物ないの。空になっちゃったよ」
「おかみさん言うな。今肉じゃが出すわよ」
「いえーい」
「あと赤蛮奇が里で買ってきたお惣菜も」
「やったー」
盛り上がっている二人をよそに赤蛮奇と影狼はしっとりとお酒を味わっていました。
「影狼、寂しくなったら私に言うんだよ」
「何言ってんのせっちゃん。もう過去の男のことよ」
「……言ってみたいなその台詞」
影狼は罪作りな女なので仕方がありません。
冷めたウナギをつつきながら続けます。
「まあ正直、あの時の事は悲しかったし、今も大切な思い出であることは確かよ。でも狼女と人間が恋なんて、今考えるとちょっとおかしいわ」
「そういうものかな」
「種族も寿命も生活も違う。無理無理、若気の至りよ」
「そっか」
「でもね」
「うん?」
少し間を置き、影狼は口を開きます。
「あの後、彼が幸せに生きていけたか、ってのは気になるわ。彼は良い人だったし。私のせいで引きずってなきゃいいんただけど」
「幸せ、ねえ」
「ちゃーんと人間のお嫁さんもらって、子どもを作って、元気にね。お料理屋さんもちゃんと開けたのかしら? ほら、私って美人だから次に好きになった人が比較されてかわいそうじゃない?」
「……」
「じょ、冗談だからそんな顔しないでぇ……」
「わかってるよ」
「まあ、もうしばらく前の事だからわかりようがないし、わからないことをぐちぐち言ってても仕方がないわ」
「……そう」
「はいこの話終わり。懐かしい話が出来て楽しかったわ。お酒の場ならではね!」
「……わからないけど」
「うん?」
「きっと、幸せだったと思うよ。そいつ」
「……うふふ。ありがと! せっちゃんは優しいわね」
影狼は冷めきったウナギを飲み込み、ルーミアと一緒にお椀を鳴らし始めました。
その姿を見て、赤蛮奇はほっとしました。
食べ物に浮かれるその姿に後悔なんてものは全く感じられなかったのです。
「はい肉じゃが。お惣菜も」
「いただきます」
「ルーミア、ちゃんと分けるのよ。ちゃんとよ。均等に」
「私が買ってきたんだから少しでも残しておいてよ」
女四人寄ると姦しい。
いつもは静かな竹林に灯る、その光。
今宵も種類の違う妖怪が騒いでいる、夜雀の屋台。
酔っ払った妖怪四人の『くさのみ』はこうして過ぎていくのでした。
『初恋のはなしをします』
終わり
「ほいひい。ミスティア、おいしいよ」
「肉じゃが、ほくほくで美味しいね。味もちょうどいいしお酒に合う」
「ありがとねー赤蛮奇。ルーミアも影狼も食べても『おいしい』しか言わないから」
「言わないよりいいでしょー。影狼、私達バカにされてるぞ」
「……」
「影狼?」
「え、ああ、そうね。美味しいわ」
「どしたの?」
「……なんでもないわ」
「あっそう? あ、この赤蛮奇が買ってきたやつも美味しいー 良いなあ私も里に住もうかな」
「人気の店だから結構並んだよ。というかルーミアは里に住んじゃ駄目でしょ。なりふりかまわず人間食べちゃいそう」
「巫女に怒られるからそんなことしない! もぐもぐ」
「ねえ、せっちゃん」
「うん?」
「さっきの話だけど、彼は幸せになってくれたんだわ。良かった」
「どういうこと?」
「……んーん。何でもない」
「そう? あ、早く食べないとルーミアに食べられちゃうよ」
「もちろん! 美味しいわーこの唐揚げ美味しいわー」
あと影狼は俺のウチ来る?
婿さんも紹介しちゃうよ
紹介する人と婿さんが同一人物かもしれんが
ギャグ調なのに泣かせてくるのは卑怯です。好きです。
影狼が素敵な女性で良かったです
まさか木引き鋸が伏線だったとは思いませんでした
良かった
結ばれこそしなかったもののお互い幸せになれたようで何よりです。
お耳ぴこぴこよだれじゅるりいっぱいもぐもぐで
影狼ちゃんがストレートに可愛くて良いですね。
やっぱり影狼ちゃんは罪なオンナ。
それぞれの涙を我慢する所作もとてもいじらしくて凄く愛らしいです好き。
かわいくコミカルな冒頭から人間と妖怪の棲む世界の違いを見せつける哀しい展開に涙
そんなことも思い出話になってしまった今思いがけず食べた彼の料理はきっとあの頃と変わらない味だったのでしょう。彼が何を思って料理屋をやっているのかを考えると本当に趣のあるお話です
オリキャラ目線で進行してた前半が、急に影狼が語っている体になってしまったのがちょっと引っかかりました。
でも、そんなことどうでもいいくらいきゅんとしましたし、切なくなりました。
オリキャラ主人公と東方キャラの恋愛系は苦手気味なのですが、ここまで丁寧に描写されると何も言えん。結ばれてほしかったけど、仕方ないかあ。
文句の付けようがない素晴らしい作品でした。
えがった、えがった