※この作品は、東方憑依華を元に二次創作した作品になります。
憑依華新出のネタについては簡単な説明を入れていますが、逆に言えばガッツリネタバレなので、憑依華未プレイの方は是非とも先に原作をプレイしてみて下さい。ホント衝撃的な内容で面白いので。
プレイ済みの紳士、あるいは未プレイでも吶喊しようとする勇気ある読者は、お楽しみいただければ幸いです。
幻想郷の深い山々の中でも、特に険しい山岳地帯。
修行を好む仙人たちでも滅多に立ち入れない奥深くの山道に、ひっそりと佇む影があった。
眩い金色の長髪に、真っ白な細い身体をだぶついた道士服で隠している。浮かんだ笑みは胡散臭く、息遣いはどこか儚げで、美しい女の姿。
八雲紫。スキマ妖怪と呼ばれ、妖怪の賢者の一人である。普段は中々幻想郷に姿を見せない彼女であったが、何故か単身この山奥にまで出てきていた。
吹き荒れる冷たい風に髪を揺らされながら、山の横合いに空いた穴蔵の前に立ち、暗がりを覗き込んでいる。
穴はそれほど深くない、入り口から奥まで見渡せるが不審なものは見当たらない。
それでも紫は、何か視えているかのように穴に向けて言葉を投げかけた。
「ようやく見つけたわ。こんなところに隠れていたのね」
そう言って紫が手を差し込もうとしたが、指先から強い抵抗を感じ弾かれるように引き戻した。
煙が立つ指先を反対の手で押さえ、瞳に妖しい輝きを帯びさせて改めて穴を視る。境界が敷かれているのだ。横穴の内側から外を拒絶し、奥にいるものを隠している。
ため息を付いてもう一度語りかけた。
「怯える必要はないわ、私が元の居場所に戻してあげる。さあ、帰りましょう」
紫がしばらく様子を見ていると、穴の結界が解け、それまで隠されていたものの姿が現れた。
それは金髪の女だった。真っ白で細い体を穴の奥で縮こませて膝を抱えていて、薄く開かれた瞳は泥のように沈んでいる。
彼女もまた八雲紫、だが夢の八雲紫であった。
「現の私……」
「えぇ、夢の私」
疫病神と貧乏神の姉妹が引き起こした完全憑依異変の副作用、完全憑依を行うことで夢の世界に存在する抑圧された人格が、現実に現れる事態に陥っていた。
すでに事態は異変を引き起こした本人たちの手により収束しつつあるが、まだ最後に一人だけ残った夢の人格がいた。
その最後の夢を捕まえるため、紫が自らここにやってきたのだ。
夢の人格は抑圧された感情を受け持つため、大抵のものは好き勝手に振る舞って暴れたりしていたが、この夢の紫は様子が違うようだ。
現の紫を前にしても、なんの抵抗を見せることもなく気怠げに膝を抱えたまま、眠そうな眼で見上げている。
「よく、ここがわかったわね」
「私自身だもの、隠れてることはわかっていたわ。とは言え、実際に見つけるのには苦労してしまったけど。お陰でやりたかったこともできなくなってしまった」
「……あぁ、なるほどそのようね」
「それではあなたを夢の世界に送還するわ、それとも抵抗するかしら?」
「まさか……」
そう言って夢の紫は膝の上に頭を俯かせた。
「現実なんて怖いだけ、生きるなんて苦しいだけ。こんな世界に出てきたくなかった、ずっとずっと、夢の中で眠っていたい……」
「そう言うと思ったわ、私らしい臆病さね」
夢の人格が告白するのはその者の本音であるはずだが、暗い文言を聞いたところで現の紫は少したりとも動揺を見せなかった。
自分がどれほど臆病な妖怪かなどと、今更見せつけられなくとも十分にわかっている。
「夢の空間に繋げるわ、気を楽にして」
現の紫は夢の紫に近付くと、その小さな肩に手を置いて、自らの境界操作能力で現実と夢との境界を捻じ曲げ始めた。
夢の紫の背後で空間に亀裂が入り、少しずつ欠けていく空間の穴の向こう側に、夢の世界が顔を見せた。
「――あぁ、でも彼奴の夢に私が直接手を下せなかったのは残念ね」
夢の紫が唐突に零した言葉に、現の紫が眉をひそめた。
「……もうお眠りなさい、夢を見すぎよ」
「えぇ……ねぇ、現の八雲紫」
広がる空間の穴が、ここにいるべきではないものを捉えて吸い込もうとする直前、もう一度夢の紫は顔を上げて言葉を残した。
「目を逸らさないようにね――」
それを最後に、夢の紫は空間の穴に背中から吸い込まれていった。
役目を終え、割れた空間が修復されるのを確認して、現の紫は外に出ると、山の空気を吸って空を睨んだ。
「……比那名居天子。お前の何が私を駆り立てるの」
呟きに答える者は誰もいなかった。
◇ ◆ ◇
完全憑依異変が完全に解決されてから数日立った輝針城。
逆さでそびえ立つこの城に、すっかり居候になった天人の姿があった。
「うーん、美味しいー!! 外界の食べ物はなんでも美味しいわね、里で買ってきた魚を焼いて塩を掛けるだけでこんなに美味しいなんて」
宴会に使えそうな大きな畳部屋。
そこでお膳の上に並べられた料理を前にして、比那名居天子は緩んだ頬を押さえながら舌鼓を打っている。
「天子って本当食べるの好きだよね。よく自分でおかず持ってきてくれるのは感謝してるよ」
そう言ったのは、この城の主である針妙丸。彼女はお椀の蓋をかぶったまま、彼女のためにお盆に用意されたご飯を食べている。
自分の縮尺に合わせた小さな箸を持ち、これまたミニサイズの食器の上に並べられた料理を頬張っている。
普通サイズの人間と比べれば少ないが、針妙丸の大きさから考えれば、どうしてそんなにお腹の中に入るのか理解できない量を平然と飲み込んでいた。
「あはははは、私は天人よ。このくらい安いもんよ」
「はいはい、天人すごーい」
針妙丸も少しずつ天子との付き合い方がわかってきたようで、自慢する彼女に適当な合いの手を入れるだけにして後はスルーする。
鼻を伸ばす天子は、焼き魚の身を綺麗にほぐして箸で摘み上げると、手に持ったお茶碗に入れられた白米の上に乗せ、丸ごと口にかきこんだ。
「んー、ちょっとお行儀悪いけど、銀シャリと一緒に食べるのも美味し~」
「そうやって喜んで食べてるのは良いんだけど……」
そう言って針妙丸は、身を守るかのようにかぶっていたお椀の蓋を少し下げると、天子の隣にいる人物に視線をやった。
「あぁ、ふかふかの白米、あったかい魚……なんて贅沢……」
「あんまりウチの城に貧乏神を連れてこられるのはねー……」
天子の隣で幸せそうにご飯を食べているのは、ボロボロの服に借用書を貼り付けた貧乏神の依神紫苑だった。猫背で背中を丸めながら、一口一口を噛み締めている。
その様子は食事を楽しむと言うよりも、あったかいご飯が食べられるという事実そのものの幸福を味わっているようだ。
紫苑は嫌そうな顔をする針妙丸も気にしていないようだが、彼女の代わりに天子が言い返した。
「良いじゃないちょっとくらい、針妙丸じゃ私のご飯の用意もできないでしょ。あんたの分も用意してくれてるんだから文句言わないでよ」
「そりゃそうなんだけどね。それで私が不幸になったりするのは困るし」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。今は天子に取り付いた状態でお邪魔してるから、今は私が不幸にするのは天子だけよ」
「それ、天子が大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるでしょ、私なんだから」
少し前にあった完全憑依異変において、黒幕である紫苑とその妹の女苑は、博麗の巫女とスキマ妖怪に打倒され、異変収束のために夢の人格の回収を命じられた。
その最後の最後に、紫苑達は夢の天子と戦い、それがきっかけで紫苑は天子に興味を持つようになったのだ。
天子は天人として周囲を見下しているが、実際にその才気と天運は本物で、貧乏神である紫苑が普通に取り付いている程度では、運にほとんど変わりがない。
そのためか天子も貧乏神の紫苑に対して遠ざけるような真似をせず、紫苑がそばにいることを許していた。
むしろご飯の用意をさせたり、積極的に利用してるくらいだ。
「ご飯の用意とかしてくれるのはありがたいけど、そっちはこき使われてていいの?」
「元々苦労ばっかりだったしねー。ご飯作るだけで一緒に食べて良いんだから、別にいいわよ。神社で出されるご飯より豪華だし」
「まあ、私も一時期お世話になったけど、あの神社じゃねえ……」
「この私に従うんだから、それに見合った報酬を与えるのは当然よ」
貧乏神である紫苑は引受先がないため、今は博麗神社に身を寄せている。
近々神社を出ていくことになるだろうが、その時にはうちに転がり込んできやしないだろうなと、今から針妙丸は頭が痛かった。
「この城、召使いがいないのが不便だと思ってたのよ。お風呂とか自分で沸かさないといけないし。広すぎてあんまり掃除も行き届いてないし、ぱーっと二十人くらい雇っちゃったら?」
「そんなお金ないよ。天子が連れてきたら? 神社を建て直すだかした時に、天女にやらせてたって聞いたよ」
「あー、今はちょっとねー」
「追放中だし無理か」
天子は宴会用の丹を食べ散らかしたとかで、天界から一時追放処分となっているのだ。
本人は理不尽だと憤っているが、それで状況がどうこうなるわけでもなく、針妙丸と天子が完全憑依異変で組むようになってからずっと、天子は輝針城に寝泊まりしている。
針妙丸は正式に許可したわけではないのだが、天子の羽振りがいいので針妙丸にも多少なりとも恩恵があるため、なし崩し的に共同生活が続いていた。
「天女かぁ、貧乏神だからって鬱陶しがられるのはあんまり好きじゃないのよね。でも楽になるならいいかなー」
「私も歓迎ね。天子に言われたとおり、あんまり掃除できてないし」
「掃除なんてこの天人にやらせればいいですわ。それにしても、天界を追放だなんて、馬鹿なことしたねぇ」
「馬鹿なのは他の天人共……えっ?」
自然な調子で会話に混ざっていた第三者に気付き、お箸を咥えた天子が目を丸くする。
彼女が振り向くと、自分と紫苑との間に、空間の亀裂から上半身を出した八雲紫の姿があって、思わず箸を取りこぼしそうになった。
「うわあ!? 何であんたがここにいんのよ!?」
「あら、私がどこにいようと驚くことじゃないでしょう?」
「驚くわ!」
「私の城が不法侵入者だらけになってる……」
針妙丸が遠い目をする前で、紫はスキマの中からするりと這い出てきて、畳の上に降り立った。
いきなりの闖入者に天子は箸を置いて警戒しており、紫苑などは巻き込まれないようにお膳ごと離れて食事を続けていた。
「いきなりなんなのよ、とっとと帰りなさいよあんた」
「そうは行きません、私は沙汰を言い渡しに来たのですから」
「さたぁ?」
訝しげな顔をする天子の前で、紫は手に閉じた扇子を持つと、その先端を天子に向けて突き付けて神妙に口上を述べた。
「比那名居天子、夢の人格とは言え天界は愚か、幻想郷まで滅ぼそうとしたあなたの行動を、看過するわけには行きません。早急にその存在の是非を判断しなければなりません」
芯のある声が広い部屋に木霊する。
完全憑依異変の最後に現れた夢の比那名居天子は、天界を滅ぼし、地上を滅ぼし、すべてを自分の理想通りに作り直そうとしていたのだ。
幸いにも疫病神貧乏神姉妹によって未然に防がれたが、場合によっては幻想郷も未曾有の大被害を被っていた可能性がある。
「そこで! 比那名居天子には、四日間の奉仕活動をしてもらいます」
「はあー?」
声高々と処遇を言い渡した紫だが、肝心の天子は相手を馬鹿にするような呆れた顔を返した。
誰がどう見ても相手を苛立たせるための声と表情だが、紫はこの程度のことは予測の範疇だというように、話の続きを口にした。
「あなたがこの幻想郷に馴染めるかどうか、その四日を持って判断します」
「知らないわよそんなの、なんで私がそんな泥臭いことしなきゃなんないのよ。あんたの言うことなんて聞く義理ないわ」
紫の話を無視して、天子は箸を手に取ってしまった。
知らん顔して食事に戻ろうとする天子を前にして、紫は意味深に薄目で天子を見つめると、再び口を開いた。
「ほう……ところで、口の端にあんこが付いてますよ」
紫が自分の顔に指を立てて指摘通り、天子の口周りにはわずかだがあんこがくっついていた。
どうやらおやつの時のものが付きっぱなしだったらしく、天子も少し恥ずかしげにしながら、紫から教えられた辺りを指で拭った。
「んっ、失礼したわ」
「お饅頭かしら、美味しかった?」
「えぇ、台所に置いてあったから私が美味しく食べてやったわ!」
「えっ、なにそれ私知らないよ?」
初耳の情報に、事態を見守っていた針妙丸が疑問を口にする。
無駄に胸を張る天子を前にして、紫はさも愉快げに口端を釣り上げた。
「へぇ、そう美味しかったの、私が丹念込めて呪いを掛けたお饅頭」
「ははっ……呪い?」
笑みを浮かべていた天子の表情が固まる。
紫は言うが早いか、扇子をしまって、唇の前で右手で二本指を立てた印を組んだ。
「こういうことよ――」
そして紫が聞き取れない声量でボソリと呟いた直後、天子の腹部から『ぎゅるうううううううう』という、思わず耳を覆いたくなるような不吉な音が流れ、彼女を青い顔にさせた。
「ひゅぅうっ!?」
「あぁ!? 天子が高貴な身分にあるまじき表情に!」
「あ、あの顔は! ギリギリ行けると思った白カビの生えた餅を女苑に食べさせた時とそっくりだわ! もぐもぐ!」
「つくづく大変なのね貧乏神って!」
外野が沸き立つ前で、天子は呪いにより痛みだしたお腹を抑え、畳の上に突っ伏してしまっていた。
痛みもすごい、やばい。だが問題は下腹部あたりに渦巻くとてつもない不快感だ。
呪われたまんじゅうを取り込んだ天子の肉体が、それを排除ししようと天子本人の意志とは無関係に、強硬手段を取ろうとしている。
ちょっとでも気を抜いたが最後、天人どころか少女として致命的な汚点を作ることになってしまうだろう。
苦痛に苛まれながら天子は自らの甘さを呪った。地上の妖怪とは言え、ここまで卑劣な手段で来るとは――!
「まさか置いてるだけで本当に食べるとはね。落ちてるもの食べちゃダメだって親御さんに教わらなかったの?」
「うぐぅっ! 親は関係なひゅうううううううううう!!!」
言い返そうとした天子であったが、紫が印を組んだまま更に二、三言呟くと、追加で奔流が襲ってきて、言葉は悲鳴に変わる。
今まさに、天子の腸内ではPhantasmクラスのスペルカードが荒れ狂っていて、行き場のない力の出口を求めていた。
「ぐぅぅぅぅ……こ、この程度ぉ……! 天人は退かないもん、媚びないもん、反省しないもんんんんんんんんん!!!」
「腹痛感度千倍ですわ」
「ぴゃあああああああああああああ!!!」
――かくして、少女のプライドがズタズタに引き裂かれる前に、涙を眼に浮かべた天子が紫からの処分を受け入れることで、この場は終幕となった。
苦痛から開放されたものの、未だに腹部に疼きが残る天子は、お腹を押さえたまま悔しそうな顔で畳の上に倒れている。
「くっ、ぬぉぉぉぉぉ……こんな安っぽい策略にぃい……」
「それでは明日、朝の四時には迎えに上がるわ。寝坊したら容赦しないから」
それだけ言い残し、紫は早々にスキマから空間を渡り姿を消す。
恐ろしき大妖怪が去り、なんとか立ち上がった天子は、食事に戻っていた針妙丸を睨みつけた。
「し、針妙丸! あんたも助けなさいよ! 明日一緒にさあ!」
「私、背ぇちっさいから、奉仕活動とかしてもあんまり役に立たないし」
「都合のいいときだけ体格差持ち出すなぁー! し、紫苑は……」
「感度千倍の辺りで逃げ出したよ。紫苑のぶんのお皿も天子が洗ってよね」
「あの薄情神ぃー!!!」
こうして、比那名居天子は一方的に奉仕活動を約束させられたのであった。
「この私に無償のボランティアとか、何考えてるのよあのババアー!!!」
◇ ◆ ◇
「……それで、なんで連れてこられたのが竹林なのよ」
翌日、時間通りに早起きした天子が、紫のスキマで強制転移されて連れてこられたのは、迷いの竹林だった。
竹やぶが鬱蒼と生い茂り、まだ暗い空を覆う下で、天子から少し離れて位置取った紫がいる。
「今日はここで奉仕活動しもらふわあああ~……ねむっ……だる……」
「私よりあんたの方が眠そうじゃないのよ」
昨日、あれだけ偉そうに言っておきながら眠い目を擦る紫を見て、天子が苛立たしそうに歯ぎしりする。
「っていうか待ちなさいよ、まさかあんたまで付いてくるつもり!?」
「言ったでしょう、この四日の行動を見てあなたの是非を決めると。最適な審判はもっとも身近でこそ判断できる」
「本音は?」
「高貴な高貴な天人様が、地上で泥まみれになる姿なんて特等席で見ないと損じゃない」
「よーし、そこに直れ。今度こそその首刎ね飛ばしてやるわ」
睨み合う両者のそばで、口喧嘩の様子を見て溜息を付く人影があった。
「おぉーい、喧嘩するなって、たけのこ掘りになんないだろ。紫も、喧嘩ふっかけてばっかりいるなよ。お前そういうやつだっけ?」
呆れながら喧嘩を止めに入ったのは、この竹林の周囲で生活している藤原妹紅だ。
奉仕活動をするとなれば、当然ながら仕事を提供してくれる人が必要になってくる。
今回は紫から話を持ちかけて、この妹紅に仕事を用意してもらったのだ。
妹紅から苦言を呈され、紫は不服そうに眉をひそめながらも引き下がった。
「……失礼しましたわ。頼んだのはこちらの方ですのに」
「まあ私としてもタダで手伝ってもらえるんだから、そう文句を言う気はないけどな」
胡散臭い妖怪筆頭の紫からの依頼ということで、妹紅も渋る気持ちはあったのだが、仕事自体も半ば趣味というか、例え無駄骨に終わっても気にならない程度のものなので、厄介者が持ってくる依頼がどんなものなのか興味本位で引き受けたのだ。
だがやってきた天子を見て、失敗したかなーと内心辟易していた。
「ふん、任せなさい。そこのババアのことはムカつくけど、やると言った以上は完璧なたけのこ掘りを見せてあげるわ!」
「子供は元気がいいなぁ」
「誰が子供よ!」
ちょっと子供扱いしただけですぐに激高する。
天人だが中身は赤子みたいなやつだと紫から聞いていたが、妹紅の想像以上だった。
「そこまで言うってことは、たけのこ掘りしたことはあるのか?」
「ないわ!」
「……なあ、この娘、バカなのか大物なのかどっちだ」
「前者に決まってますよ」
辛辣な言葉を吐く紫に、妹紅はどう対応すべきか「うむむ」と悩んでいたが、とりあえずやることやってしまおうと、そばに置いていた道具を天子の前に差し出した。
用意されていたのは鍬と、背中に背負える籠。天子は物珍しそうに見つめている。けっこう好奇心は強いらしい。
「あー、それじゃあまず簡単にレクチャーするぞ。まずたけのこを見つける。美味しいのは先っちょがちょっとだけ地面の上に出てきたやつだ。見てすぐわかるようなのは大体育ちすぎてて不味いから、目を凝らしてもっと小さいのを探せ」
「ふむふむ」
妹紅は手頃なたけのこを見つけると、実際に掘って見せた。
「見つけたら掘る。たけのこを傷つけないようにまず横の土を掘って、根っこから掘り返す。実際にやってみるとけっこう大きくて大変だけど、天人様ならこのくらいの力仕事は簡単だろ? 慌てないでやればいい」
「よっし、わかったわ任せなさい!」
妹紅は心配していたが、天子は一応やる気があるらしく、意気揚々と籠を背負った。
鍬を天に構えて張り切る天子の後ろで、紫が開いた扇子で口元を隠しながら密かに笑い声を零している。
「ふふふ……慣れない作業に、泥まみれになって醜態を晒すといいわ」
「ほい、紫、お前の分の鍬と籠な。それともお前なら籠はいらないかな」
妹紅から差し出された道具一式に、紫は笑みを沈めて首をひねった。
「……私?」
「いやお前だよ。是非がどうとか知らないけど、そばにいるっていうのに茶々だけ入れられても邪魔だよ。暇なことしてるくらいなら手伝ってくれ、じゃなきゃどっか行ってくれ」
紫がしばし悩んだ後、そこには渡された道具を装備した妖怪の賢者の姿があった。
竹林の下で、むしろやる気満々で鍬を握りしめる紫を見て、妹紅は気に取られた様子だ。
「……やるんだ。籠まで背負って」
「やるからには形から入るタイプなのよ」
「いやそういうことじゃなくて。お前出不精でよくわからなかったけど、そういうキャラだったんだな」
妹紅としては、てっきり適当に煙に巻いて立ち去られると思っていたが、ノリが良い紫を前にして若干困惑していた。
「あはははっ、虫けらの賢者にお似合いの衣装ね!」
「言っておくけどあなたも同じ格好だからね」
「格式高い人間が持てば、どんな装備でも光り輝くようなオーラを纏うものよ。見なさいよ、この格の高い緋色に輝くクワを」
「緋想の剣で気質をエンチャントしてるだけでしょうが成り上がりが」
「なんでも良いけど丁寧に扱えよー。壊したら弁償だからな」
それからしばらくのあいだ、三人はバラバラになって動き、たけのこ掘りに精を出した。
一時間ほど経過し、休憩がてらにそれぞれの収穫を確認するために、自分たちが掘ったたけのこを持ち寄った。
「とりあえずこれだけ集まりましたよ」
そう言って紫は満杯になった籠をドサリと地面におろした。
紫の成果に、妹紅は感心した声を上げながら、籠の中のたけのこを一つ手に取ってみた。
「流石っていうか、ホイホイ掘るなぁ。私よりも上手いし丁寧だ」
紫が収穫したものはどれも状態がいい。どれも食べるに丁度いい育ち具合だし、掘り出す時に傷がつかないように気をつけられている。隣に置かれた妹紅の籠よりも量も多い。
妹紅も長く竹林で過ごしているだけあって、中々の数を掘り出していたが、紫のほうが質も量も一枚上手だ。
妖怪の賢者がたけのこ掘りに慣れているとも思えないから、単純に紫の洞察力と器用さがずば抜けているんだろう。
妹紅としては悔しくはあったが、それ以上に紫の腕前に感服するばかりだった。
「それに比べて……」
更にその隣に並べられた天子の籠を見て、妹紅は苦い表情を浮かべた。
天子の籠は量だけ見れば山盛りだ、妹紅はおろか紫の収穫より多い。
だが数だけだ、最初に妹紅が言ったことを忘れ、育ちすぎ大きいだけで美味しくないたたけのこが多いし、丁度いいサイズのものも鍬でえぐってしまっていて傷がついてしまっている。
天子本人は、量だけ比べて自信満々に胸を張っているが、褒められたものではなかった。
「ふふーん、どうよ」
「多いんだけどこれはなぁ……」
試しに妹紅が一つ手に取って検分しようとすると、特に状態が悪いものを選んでしまい、半分以上えぐれたたけのこの下半分が引力に負けて折れて、ボロリと落下した。
渋い顔で妹紅はたけのこを籠に戻すと、紫に振り向いた。
「なあ、お前さんから何か言ってやらないのか。紫が連れてきたんだろ」
「……私から彼女に言うべきことなどなにもありませんわ」
しかし紫は妙に頑なな態度を取るだけだった。
妹紅は頭をかきながらどうするべきか迷ったあと、あまり慣れてないがしょうがないと結論づけて天子に向き直った。
「なあ天子。別に競争するのはいい、でももうちょっと丁寧にやらないか? これじゃ全部台無しだよ」
苦言を呈すなり、不機嫌な空気を醸し出した天子に、妹紅は怯まず、一つ一つ言葉を選ぶ。
「何よ、あんたも私を認めないの」
「認めないっていうか、これだとたけのこが可哀想だ」
わずかに、天子の瞳が揺れたのに、眺めていた紫は気付いた。
「たけのこだって命だ。まあ、私も喧嘩でしょっちゅう竹やぶ焼いてるから偉そうなこと言えないんだけどな、勝ちたいとか、そういう欲で生き物に乱暴するっていうのは間違ってると思う。食べるなら、そのために大切に命を刈り取るべきで、感情で傷つけちゃダメだろ。それは可哀想だろ」
妹紅は、いっつも喧嘩で竹を燃やしまくってる自分がこんなことを言ってるなんて、あの憎き月の姫に見られたら笑われるなと考えながら、それでも他に言う人がいないのだからと言葉を紡ぐ。
果たして上手く説得できてるか不安だったが、天子は話を聞くに連れ段々と眉をひん曲げ始めた。
目を合わせたままの天子のその変化が、何を意味するかはわからないが、妹紅は続けて語りかけた。
「失敗したとか、どうしても抑えられないぐらい強い感情があったなら、しょうがないで片付けるしかないけど。できるなら、丁寧にやろう。じゃないと、命を摘み取った意味がなくなる」
「……そんなこと、言われなくてもわかってるわよっ」
休憩の後、妹紅が二つ目の籠を用意して、再びたけのこ掘りに戻ったが、天子の動きは先程とは打って変わっていた。
あまり動作は早くはない、しかし一つ一つが丁寧で、慣れないなりにたけのこを傷つけまいとする努力が垣間見れた。
時折、その様子を確認した妹紅は、さっきの自分の言葉がそれなりに届いたんだと安心し、同じく天子の様子を気にしている紫に話しかけた。
「なんだ、大変そうなやつだと思ったけど、言えば分かる娘じゃないか。なあ?」
しかし紫は言葉を返さず、天子の背中を見つめている。
「どうした? 黙りこくって」
「……いや、何でもないわ。手間がかからないならよかった」
そう言って紫も作業に戻る。
真正面から一度言えば、それだけで天子はわかった。
さっきまでより微妙に緩慢な動作から、自分が認められなかったことへの不満が見えるが、それでも妹紅の言ったことを理解して聞き入れている。
つまりは言えばわかるようなことを、彼女は今まで、誰からも語られることがなかったということだ。
「よし、これだけ集まれば十分だな、というか取りすぎたくらいだ」
しばらくして、三人はもう一度籠を持ち寄った。
成果は上々、妹紅は満足げに頷いている。紫の成果は言うまでもないし、天子も途中からは丁寧な収穫を心がけてくれたおかげで、量は少ないが品質は問題ない。
「くぅっ、一番少ない……」
「わざわざ比べないと気がすまないところが、教養のなさが現れてるわね」
「なんですってー?」
「どうどう、何で天子相手だとすぐ挑発するんだ」
たけのこ掘りはそれで終了し、三人は二つずつ籠を背負って妹紅の家にまで運んだ。
一人で住むに精一杯の簡素な家だが、台所は揃っている。
家の裏手には川が流れていて、ここで汚れたものを洗うこともできた。
「此処から先は下ごしらえだ。苦くなる前にアクを抜いて売れるようにするけど……やっぱ採れたてがあるんだから食べないとな」
今日収穫したたけのこは、非常に安い値段で人里に卸す話になっていた。
そのためにも早めに湯がいて、美味しさが長時間保つようにエグみを取らないといけない。
だがやはり食べ物は何でも採れたてが美味しいものだ。妹紅はついでにこのたけのこで、ちょっと遅い朝食を取るつもりだった。
「……何かやれることある?」
「おっ、掘った時もそうだけど結構やる気あるなぁ」
「やるって言った以上はね。それに地上のやつらがどんなことして汗を流してるのかちょっと気になるし」
「んじゃ頼もうかな。こっち来てくれ、まずはたけのこを川で洗って泥を落とすぞ」
「では水洗いしたたけのこは、私が調理しましょう、台所は使って構いませんね? 新しい籠を用意したので、ここに入れていって下さい。家の中からスキマで取って、順次茹でていきます」
気が付いたら、紫は道士服の上から割烹着を付けて、一番先に下ごしらえの準備に入っていた。
「おぉ、意外と何でもできるなあんた。やり方はわかる? わかるな? んじゃ任せるよ。あるものは自由に使ってくれ」
「ついでにご飯も炊いておきますよ」
「いいねえ、よろしく頼む」
紫のことをすっかり信用した妹紅は安心して仕事を任せたが、天子はそのことに不満そうだ。
「なんでもできるからって良い気にならないでよね」
「あら僻みかしら? 何でも持ってる天人様が卑しいことね」
「どうどう」
二人が睨み合う一幕もあったが、こちらの作業もまた滞りなく進んだ。
小一時間もしたころには、里に出荷するぶんはアク抜きを終え、三人の前でホカホカのご飯と採れたてのたけのこを利用した味噌汁、そして新鮮な素材でしか味わえないたけのこのお刺身が並んでいた。
「うんまぁーい!」
まっさきにご飯に飛びついたのはやはり天子だった。
慣れない作業の連続に疲れて来ていたようだったが、ご飯となるや元気万点の笑顔で、新鮮なたけのこ料理に舌鼓を打っている。
普段の態度に問題がある天子だが、食事を楽しむその姿は愛らしくて、向かいに座った妹紅も釣られて笑い、いつもよりご飯が美味しく感じられた。
そして、天子の斜向いに座っていた紫も、この天子を見てはいつものような稚気を起こせず、つい微笑を零した。
「ふふ」
紫に他意はなかったが、天子は笑われたとでも思ったのか、我に返って目を丸くすると、頬を紅潮させてそっぽを向いた。
「ま、まあまあね! 悪くはないわ」
「そうか、もっと食えもっと食え。美味しそうに食べるやつは好きだ」
「しょうがないわね、そんなに言うなら食べてあげようじゃない」
「作ったのはこの私だということをお忘れなく」
「死ね」
「殺すわよ」
「お前ら飯くらい静かに食え、追い出すぞ」
多少恥ずかしくはあったが食欲は抑えきれないようで、ちょっと妹紅が乗せてやるとまた美味しそうに食べ始めた。
「なあ天子、今食べてるたけのこは、お前が最初に傷つけたたけのこだ。売れないしそのまま捨てるには勿体無いから使って貰った」
「うん? そうなの?」
天子は手に持った味噌汁を見つめ、その上に浮かんだたけのこを箸で突いた。
今まで、天子は食に困ったことなど無い。常人ならざる天運を持った彼女は、そういった苦労とは無縁だ。
自分が手に泥をつけて汚して、頑張って採ったものを食べているんだと知って、今までにない気持ちを覚えていた。
「そっか……そうなんだ……」
嬉しいとも違う、いうなれば生きている実感。
空っぽだった器に中身を入れられたような感覚が、天子の胸を満たしていた。
その満足感からくる微笑みは、とても柔らかく、純粋だった。
それを紫が見つめている。
紫からすれば憎らしい相手であるが、愛らしい少女の姿には親愛にも似た、しかし複雑な感情が湧き上がるのが感じられた。
紫はしばし、自身の記憶に思いを馳せた――
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数日前、ある昼下がりのことだ。紫は親友が住まう白玉楼へと足を運びに行った。
庭の空間に開いたスキマから身を乗り込ませると、幽々子と妖夢は縁側でお茶をすすっていつも通りのんびりしていた。
来客に気付いた幽々子は、嬉しそうな表情を浮かべてくれた。
「こんにちは幽々子、時間よろしいかしら?」
「あらいらっしゃい紫、いいのよいつだって。妖夢、彼女の分のお茶の用意お願い」
「はいかしこまりました。紫様少々お待ちください」
妖夢が空になっていた急須を下げ、台所へ去っていくのを見送って、紫は幽々子の隣に腰を下ろした。
この突然来訪してきた自分に、幽々子はふわりと笑うと、こちらを見向きもしないまま、穏やかな口調で尋ねた。
「それで……悩み事の相談かしら?」
「えぇ……ふふ、幽々子には敵わないわね」
このスキマ妖怪がアポもなしに白玉楼へ来るのは珍しいことではないが、今日の紫が何かを抱えてきていることを、幽々子は敏感に察していた。
紫のほうも、言葉とは裏腹に気付いてくれることを確信していたようで、嫌な顔一つせず頷く。
短い会話でお互いのことを確認し終えると、奥から妖夢がお盆の上に急須と紫の分の湯呑みを乗せて縁側に戻ってきた。
お盆を置き急須に手を掛けようとした妖夢に、幽々子がさっと言葉を挟んだ。
「妖夢、悪いんだけれどこれからお使いに行ってきてもらえるかしら? 人里の銘菓が食べたいの」
「お菓子ですか? ……はい、わかりました」
妖夢は妖夢で、きっとお二人は聞かれたくない話をするんだろうということを何となく察したし、自分が帰る頃には紫様はいなくて、買ってきたお菓子は自分と幽々子様とで食べるんだろうなとわかっていた。
二振りの刀を身に着けた妖夢がゆっくりとした足取りで門を出ていくのを見送ってから、妖夢の代わりに幽々子が紫のお茶を注ぎ淹れた。
「さて、今日の親友はどんなお悩みをお持ちなのかしら」
「悩み、と言ってもそれほど大きなものでもないわ。ただ気にかかるというか、自分でも意外だと感じているだけ」
紫は自らの悩み事を家族である藍と橙に打ち明けることはあまりしない。
紫の内側では常に不安が渦巻いている。ふとしたことで自分の平穏が崩れてしまわないかと常に怯えており、自分を慕ってくれている家族に悩みを零せば、失望されてしまわないかと怖いからだ。
無論、頭では藍と橙がそんなに狭量ではないとわかっているし、彼女たちを信じられない弱い自分を情けないと思っている。しかしそれでも不安は拭えず、紫が唯一安心して悩み事を相談できる相手が西行寺幽々子だった。
紫は湯呑みを手に取り、お茶の苦味で体の奥を温める。
熱い息を吐き、湯呑みから漂う湯気が悩ましげに揺れるのを眺めてから、ようやく本題を話し始めた。
「完全憑依異変で夢の人格が幻想郷に現れたことは知っているかしら?」
「えぇ、一通りは」
「私は事態の収束には、黒幕であった疫病神と貧乏神の姉妹を利用した。そこまでは良いんだけれど、私としたことが何を考えていたのか、比那名居天子の夢の人格を回収するに辺り、自分自身で動こうとしてしまった」
「へえ」
紫は完全憑依異変に関わった者をリストアップし、それぞれの夢の人格が現実に現れていないかチェックしており、夢の天子が天界に侵攻しようとしていたのも知っていた。
後日、紫が夢の天子について報告を受けた時は初めて知った素振りをしたが、本当は自分の手で止めようと考えていたのだ。
そのため、依神姉妹には他の夢を捕まえたところで、これで最後だと伝えていただが、夢の華扇が天界に夢の人格が残っていることを教えたのが誤算だった。
もっと早くに動ければよかったのだが、河童と面霊気が完全憑依体験で商売をしてしまっていたため、その客の夢人格が現れていないかのチェックに徹夜だったし、最優先事項である自分自身の夢の人格を探すのにも時間がかかってしまった。
おかげで獲物を取られてしまった。それは残念ではあるが、重要なのはそこではない。
「……正直、必要もないのにそんなことをしたがった自分自身に驚いているわ。いつも臆病で、任せられる限り他に任せている私が」
「たしかに珍しいわね」
紫が自ら動くことは少ない。常に影に隠れて行動し、幻想郷の維持に動く必要があっても、極力他の誰かを利用するし、紫がどうしても事態解決に動く時は、すべての駒が揃った最後の最後だけだ。
それは単に、紫自身が臆病な妖怪だからだ。負けるのが怖い、弱点を暴かれるのが怖い、スキマ妖怪という朧気な存在の本質を捉えられるのが怖い。
だから完全憑依異変においても、異変の黒幕を打倒する算段が付くまで情報収集に努め、積極的に動かなかった。
しかし何故か、夢の天子は自分で倒そうとした。これは矛盾している。
「今思えば、天子が起こした異変の時からおかしかった気がする。落成式を潰すなんて、わざわざ私でなくても良い。別の誰かをけしかけてやって、彼奴の企みを暴いてもらえばよかった。それなのに私は自分で動いてしまった」
「別に構わないんじゃないの?」
「その通り、でも私らしくない。この論理的でない行動の理由を探らなければ、安眠できないわ」
紫は、自分でも天子のことになると感情的になる自分がわからないでいた。
元から天人のことは気に食わなかったが、だからと言って天子に対する苛立ちは性質が違い抑えられない。
自分の行動を予測できないというのは、紫のように慎重な性格の者にとってはある種恐怖だ。
「ちなみに、その夢の天子はどういうことをしてたの? 夢の人格は抑圧された部分だから、跳ねっ返りが多いって聞いてたけど」
「……天界も世界も何もかも滅ぼして、一から作り直そうとしてた」
「あ、あらまあ……」
さすがの幽々子も唖然としているようだ。当然だろう、紫も初めあの夢の天子を見つけた時は頭を抱えたものだ。
だが同時に、そこまで爆発的な衝動を見せた夢の天子が、どうしてそんな暴挙に出ようとしてのか気になる。
「そっか、紫は、天子を気にかける自分が気になるのか」
そして幽々子は期待通り、そんな紫を冷静に分析してくれた。
彼女の言うとおりだ、だがあまりに図星過ぎて紫は少し情けなさそうに肩を落として、湯呑みのお茶を口に含んだ。
ほどよい苦味と香りで気を落ち着ける。
「……まあ、そんなところね。あれを気にかけるなんて事自体が癪だけど」
「ふふ、嫌よ嫌よも好きのうちって言うわよ」
「はあ?」
だがこれにはどうしても気に食わなかったのか、反抗的な態度を取ってしまった。
珍しく心情を露わにする紫を見て、幽々子は楽しげに笑っているが、紫としてはたまったものではない。
音を立てて湯呑みをお盆に置き、恨めしそうに親友を睨め上げた。
「ちょっと冗談は止めてよ幽々子」
「あら怒らせちゃった? ごめんなさいね。でも好きなのも嫌いなのも、関心を持っているのはどっちも同じっていうのはわかるでしょ?」
「それは……まあそうだけど……」
紫にとって、天子の他の天人は嫌いだが無関心だ。幻想郷の邪魔にならなければどうでもいいし、仮に邪魔になったら巫女なりなんなりに対処させる。
天子だけが唯一例外なのだ。出会っただけで、声を荒げてしまう相手など彼女だけだ。
複雑な心境の紫に、幽々子は静かに湯呑みを置くと、穏やかな笑みの奥に真摯さを湛えて向き直った。
「紫、あなたに興味を惹かれるものができたというのは、素晴らしいことよ。それのためになら、臆病な気持ちさえ跳ね返して進めるというなら、それはきっと良いこと」
幽々子が手をかざす。温かい亡霊の指先が紫の額に触れ、迷いを拭い去る。
そして紫の手に、自らの手を重ね、親友に勇気を分け与えようとした。
「追ってみて、触れてみて、天子の気持ちと自分の気持ちを調べ上げればいい。好奇心の赴くままに……それはあなたがずっと我慢してきたことなのだから」
幽々子は紫のことをよく知っている。紫が自分の臆病さ故に、そしてあまりにも優しく隣人を愛するが故に、自分の気持ちを押し殺して歩いてきたことを知っている。
だからここにきて、紫の心を揺り動かす存在が現れたことは、幽々子にとってもとても嬉しいことなのだった。
紫がその恩恵をこぼさず掴み取って、より明るい未来へと迎えるよう、精一杯の祈りを込めた。
「その内に秘めた感情が何であれ、駆けた先には必ず光があると、私は祝福するわ」
「……ありがとう幽々子。頑張ってみるわね」
そして迷ってばかりいた妖怪は、とうとう自分の本質へ向かう決意をしたのだった。
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紫はたけのこ料理を楽しむ天子を眺めながら、思考を整える。
比那名居天子、彼女の行動は紫の内面以上に矛盾している。
天界を滅ぼしたいと願うほどそこに住まう者を嫌っているのに、何故天子自身は天人を気取って地上の存在を見下すのか。
自分を高貴な存在と謳いながら、何故嫌われ者の貧乏神を拒まないのか。
それだけ他人と壁を作っていながら、何故他人の気質を武器として使うことを選んだのか。
実に煩雑でわからないことだらけだ、だが紫にとってそれを解き明かすことが、引いては天子に振り回される自分を知ることに通じる。
食事を楽しむ天子は、憂いなき純粋な少女の姿そのものだ。
その内側に蠢く、世界を滅ぼしたいとまで思う抑圧の正体は何なのだろうか。
紫が天子のことを見つめていることに、妹紅もやがて気が付き、それとなく問いかけてきた。
「紫もよくわからんやつだと思ってたけど、今日はけっこう顔に出すじゃないか。いつもそうなら良いのにな。天子がいるからか?」
「さあ、何故でしょうね」
そして紫にとっても一番不思議なのが、天子といるとらしくもなく感情的になることだ。
お陰で天子とは喧嘩腰になってばかりだし、今のところ悪いようにしか作用していないが、新鮮な感覚で、正直何処か楽しんでる自分もいる。
今はいつになく無謀な自分に浸っていたいという気分だった。
「いやー、仕事が終わった後のご飯は美味しいわー。帰ったら針妙丸に自慢してやろっと」
「何言ってるんだ? まだ仕事は始まったばかりだぞ」
「えっ?」
「飯が終わったら、人里にたけのこを売りに行く。その後はここに戻って竹細工の道具作りだ。たけのこ掘りより大変だぞ、日が暮れるまで家に缶詰だ。美味しいもん食べて、今のうちに元気つけておけよ」
「な、何よそれー!?」
「ぷふっ」
「あっ、こら笑うな妖怪! あんたもやるんだからね!」
口では不満を唱える天子だったが、実際に仕事をやらせてみれば終始集中して黙々と作業を続けた。
しかし、なんだかんだ最後まで付き合った紫が、天子の倍の作業をこなしてみせたのには、また突っかかって妹紅が止めに入ることとなったが。
初めて働いたにして妹紅が感心するくらいに務めを果たして、輝針城に帰っていった。
◇ ◆ ◇
「天子、大丈夫? 疲れてない」
「へーきへーき、このぐらいなんともないわ。と言っても慣れない作業だったからちょっと疲れたけどね」
「人里でお弁当買って来といたよ。これ食べて元気つけなよ」
「おー、ありがと助かるわ」
輝針城に戻った天子は、針妙丸から貰ったお弁当を開けて食べ始めた。
特上カルビ弁当。最初は分厚いお肉に目を輝かせていた天子だったが、口にするにつれ、しぼんだ風船のように段々と笑顔が消えていった。
冷えていても美味しいよう工夫されているのだが、朝に加えて昼飯も美味しい手作り料理を食べたためか、どうしても冷たさが味気なく感じる。
それもこれも、引きこもりのくせに無駄に美味しい料理を作りやがるあの妖怪が悪い。天子だけでなく、妹紅までおかわり三杯頼んでしまうような、絶品料理を紫に食べさせられたのだ。
落差でひもじく感じてしまう天子の脳内で、嫌らしく笑うあの妖怪のイメージ映像が流れた。
「美味しいっちゃ美味しいけど、あったかいの食べたーい……紫苑はー?」
「ぶー、せっかく買ってきてあげたのに。昨日から来てないよ」
「うぅん、じゃあお風呂とかは……」
「流石に私のサイズじゃ、おっきなお風呂を沸かすのはねぇ」
「締まらないけどこのまま寝るかぁ」
天人の天子は垢も出ないし汗もかかないが、それでもお風呂に入ってさっぱりしたいのが心情だった。
しかしやり方もよく知らない、今度暇な時に紫苑から教えてもらおうと考えながら箸を進めた。
「明日もやるんでしょ? 何時から?」
「明日は八時だって。人里らしいから、向こうでご飯とお風呂済ませてくるわ」
「りょーかい、頑張ってね」
「まあ、やると言った以上最後までやるわよ」
天子のプライドは人一倍強い、ムカつく相手とは言え約束を反故にする気はサラサラない。
針妙丸もそんな天子の性格がなんとなくわかってきていたから、素直に応援することにした。
「どうだった、働いてみて? たけのこ掘りと竹細工だよね」
「後半は慣れない作業ばっかりだったから疲れたけど、ああいう地道なのが合う人ならそう悪くないんじゃないかしら。」
「へえー、けっこうへこたれると思ったけど、案外タフね」
「あの程度、天界で頑張った修行よりかは随分楽よ」
「……修行、したことあるの? 本当に?」
「してるわよ、あんた私を何だと思ってるのよ」
天子は一度お弁当と箸を置くと、緋想の剣の柄を取り出しそこに気質を集中させた。
萃められた気質が集束し織り重ねられ、緋色の輝きを誇る刀身を作り上げ、緋想の剣の名にふさわしい威光を針妙丸に示した。
「いい? この緋想の剣だって天人なら誰でも扱えるわけじゃないのよ! 厳しい修行を積んだ私だからこそ、手足のように気質を操作することが出来るのよ!」
「へぇー、そうなんだ、ふぅーん」
「あんた信じてないでしょー!?」
適当に流す針妙丸に天子が声を張り上げる。
大きな城に二人だけ、そう書くと寂しそうであるがそんなことは決してなく、城の大きさに負けないくらい騒がしく夜は更けていった。
◇ ◆ ◇
奉仕活動二日目。
天子の姿は、昨晩言った通り人里にあった。
「なんで私が失せ物探しなんてやらなきゃならないのよー!!」
失せ物リストが書かれた紙束を片手に、天子が往来で叫ぶ。
道を行く村人たちは天子を不審な目で眺めるものの、幻想郷においてはこの程度の変人は大したものでなく、すぐに興味を失って通り過ぎて行く。
憤る天子の話し相手になってやれるのは、小さく開いたスキマから天子の動向を監視している紫だけだった。
「他にもっとこういうの得意なのいるはずでしょ。っていうかあんたがやりなさいよ! スキマからあちこち覗いてるって噂聞いてるわよ!」
「あんまり妖怪の賢者が人里に干渉するのは良くないの。それにあなたの試験だと言ったでしょう、チャンスを与えられてるだけ感謝なさい」
「こんのババア……えーと次のは、爺ちゃんの入れ歯……何で入れ歯を外に落とすのよ!?」
「あぁ、それ出先でお餅食べた時に、入れ歯に詰まって外してそのまま忘れたやつだわ」
「知ってんのかい!」
一見すると、何もない空間に話しかける天子は完全に危ない人だが、そのことについて考えられるほど心の余裕が無いらしい。
今日は人里の守護者という人物から渡された、この失せ物リストの品物を探すのが奉仕内容だった。
非常に量が多く、全部見つけなくていいと言われているが、裏を返せば時間いっぱいまで働かないといけないということでもある。
すでに時刻は昼前、紫としてはいつ天子が音を上げるか楽しみだったが、意外にも真剣に仕事を続けている。
目星をつけた場所で、ひたすら落とし物はないか人に尋ね、万が一拾われずに落ちたままじゃないか道端に注意を払いながら、あちらこちらへ歩き回っている。
「不満を言いながらも、手を抜いてる様子はない。案外、根は真面目なのかしらね」
自宅で寝転んで煎餅をかじりながらスキマを覗く紫であったが、天子の後方に、彼女を追う人影があることに気がついた。
「――天人」
「言われなくてもわかってる、後ろでしょ。この陰気、間違えるはずないわ」
リストと睨めっこする振りをしながら、天子も背後の気配を探った。
紫は別のスキマを繋ぎ、天子を追っている人影の様子を詳しく確認する。
裸足でふよふよ浮き、特徴的な借用書だらけの服と濃い青色の髪を見て、誰だかすぐにわかった。
「天子、頑張ってるみたいね……でも大変そう、やっぱり私がいたら良くないのかしら。それに正直面倒くさいって思うしー……どうしようかなー」
うだつが上がらないことを呟きながら、心配そうに天子の様子を伺っているのは、貧乏神の紫苑だった。
一昨日は逃げ出した彼女だが、一応は天子の身を案じているらしい。
紫苑が曲がり角から覗き込んでいる先で、天子が路地に身を飛び込ませた。
見失ってはいけないと、紫苑が慌てて後を追い、路地を覗いてみると、待ち構えていた天子が至近距離から大声を上げた。
「わっ!」
「ひゃあ!」
驚いた紫苑が反射的に踵を返して逃げようとするが、その襟元を天子が後ろから鷲掴みして、不運な貧乏神を捕らえる。
観念した紫苑は、仕方なく振り向いて怪訝な表情をする天子と顔を合わせた。
「紫苑、あんたこんなところで隠れて何やってるのよ」
「あー、それはその何ていうか」
ため息を付いた天子は、紫苑の襟を引っ張ると、そばに開いていた空間のスキマを睨みつけた。
「休憩するわ、文句は言わせないから」
「ご自由にどうぞ。ただしサボりすぎるのは許さないわ」
「ぐえっ、天子首締まってるから止めてーっ」
お昼には少し早いが、そのぶん店も空いていて却っていい頃合いだろう。
紫苑を引き連れ、天子は適当な食事処に腰を落ち着けることにした。
机を挟んで紫苑を座らせると、とりあえず一番豪華そうなメニューを二つ注文して、料理ができあがるまでのあいだ紫苑と話すことにする。
「それで、こっそり私の後をつけてどうしたのよ」
「うん……あの妖怪にどんなことをさせられてるのか、心配になって見に来たんだけどね」
「心配? 私が?」
紫苑の魂胆を疑うような目で見ていた天子だったが、その言葉を聞いて目を丸くさせた。
紫苑は机の上に人差し指を這わせて、しどろもどろにしながら話を続ける。
「だけど、この前はつい逃げちゃったから、天子も怒ってるんじゃないかと思って。貧乏神が傍に居たって良いことないしー。紫が無理矢理言うこと聞かせてきたのだって私のせいかもしれないから。だから遠目で様子だけ見て帰ろうかと」
人付き合いに慣れていない貧乏神なりに、天子のことを気遣おうとしていたらしい。あまり上手くはやれなかったが、その気持ちに嘘はない。
それを聞いた天子はどう思ったのか、机から身を乗り出して怯えがちな紫苑の肩に、勢い良く手を置いた。
「いたっ」
「そんなこと、気にしなくたっていいのよ! 私を誰だと思ってるの、天人の比那名居天子。貧乏神の一人や二人取り憑かれたところでどうってことないわ!」
自分の性質に戸惑う紫苑への、天子の不器用な優しさが、痛いほど伝わる。
紫苑が頑張って天子と目を合わせると、その目には深い輝きが溢れていた。生き生きとしていて、強い力を感じる。見るものに力を与えてくれるような、美しい輝きだった。
お世辞にも人間ができてるとは思えない天子が垣間見せた、極光のような輝きに、紫苑は一時見惚れ、自分が何故天子に付いてこようとしたのか少しわかった気がした。
「大体、紫苑は悪くないわよ。悪いのはあの腐れババアよ」
「……ふふ、正直天子の自業自得な気もするけどねー」
「なんですってー?」
「聞こえてるわよ天人」
「聞かせてやってるのよ妖怪」
しっかり見張っていた紫が、どこぞから刺々しい声を出すが、天子は何食わぬ顔で言い返す。
決して折れない天子を眺めて、紫苑も珍しく明るい表情を浮かべた。
「天子はいま何してるの?」
「失せ物探しよ、こんなに頼まれちゃって。ちょうどいいわ、紫苑も手伝ってよ」
「うーん、正直面倒くさいけど、ご飯奢ってもらっちゃったしね。ちょっとだけなら」
「よし決まり、使い倒してやるから光栄に思いなさい」
「私を使い倒したって不運になるだけだってばー」
「でもその前に……」
天子は机の横に身体を傾け、足元を覗き込んだ。
見えたのは自分が履いたブーツと、人里だと言うのに裸足のままの紫苑の生足。
「紫苑! あんた靴くらい履きなさいよ、みっともない!」
「えー、でも浮いてるから大丈夫よ。お金ないし」
「衣食足りて礼節を知る。靴も履けないようなみすぼらしい生活してるから性格まで暗いのよ、そんなのじゃ余計に運が逃げるだけだわ。靴程度、私が買ってあげるわよ。ご飯食べたらまず靴屋よ靴!」
「うーん、窮屈そうだけど、買ってもらえるなら貰っちゃおうかな」
笑い合う二人は、運ばれてきた料理に手を付け、食事でお腹を満たしながら談笑していた。
それをスキマ越しに眺めていた紫は、自宅の居間に座って、式神の藍に用意してもらったうどんをすすりながら、眉をひそめて唸り声を上げた。
「……むう」
「紫様、あまり食事中に覗き見は止めていただきたいんですが……というかどうかしましたか、嫌そうな顔して」
「ピーマン食べちゃった猫みたいな顔してますよー?」
同じ机で食べていた藍と橙は、妙な表情を浮かべる主に疑問を口にした。
「いえ、なんでも……というかそんな顔してた?」
「はい」
「めっちゃくちゃ気に入らなそうな顔してました」
「昔、その気はないのに橙を怖がらせてしまって、自己嫌悪したあとみたいな顔だったな」
「あー、確かに! あの時そっくり!」
家族の言葉に、むしろ紫のほうが面食らうこととなった。
別に厄介者と嫌われ者が仲良くしたところで、紫にとって害はないはずだ。騒ぎを起こされれば事だが、その様子もない以上気にすることもない。
どうして面白くないと感じるのか――まさか嫉妬――
「いやいやいや、ないないないないない」
「はい?」
「紫様って時々変なことで悩みますよね」
「何言ってるの橙、私は悩んでなんかいないわ。そうよ間違いなくね」
妄想を振り払うべく、紫は一心不乱に麺をすすった。
お昼ごはんのあと、天子は紫苑を靴屋に連れていき、適当な靴を見繕った。
外来人の職人が開いたという靴屋は、幻想郷では珍しい種類の靴が並べられていた。その分どれも高価であったが、天子はポンとお金を出した。
買ったのは赤色のスニーカー。紫苑は最初、暗い色の靴を買おうとしていたのだが、天子が「こっちのが絶対いい!」と勧めた物だ。
ついでに白い靴下も一緒に購入し、それらを身に着けた紫苑は、慣れない履物にしきりに足を気にしていたが、脱ぎたいとは言わずに天子の後について地面を歩くようになった。
そして二人は一緒に失せ物探しの続きを始めた。
失せ物と言っても大抵はすでにだれかに拾われているので、聞き込み調査が主だ。
やろうと思えばお行儀よくもできる天子が色んな人に拾ったものはないか訪ねて回り、手持ち無沙汰な紫苑が、まだ拾われてないままだったりしないか周囲を調べる。
天子のほうが大変だが、紫苑は紫苑で頑張ってくれていて、子供が失くした鞠が屋根の上に引っかかっているのを発見したりしてくれた。
いくつか失せ物を見つけてから、一旦二人は品物を元の持ち主に返して回った。
「はい、お爺ちゃん入れ歯」
「ほぇ~、ありがとうねぇ~お嬢ちゃん~」
天子は手に持った包みを開き、中の物を見せてから、腰が曲がったヨボヨボのお爺ちゃんに入れ歯を渡した。
杖を突いてまともにお辞儀もできない彼に変わって、娘である小太りのおばさんが、改めて天子に頭を下げた。
「ありがとうございます。まさか天人様に助けていただけるなんて」
「……今日のは特別よ。それより、このお爺ちゃんもうボケボケなんだから、できるだけ家族が気をつけなさいよね。失くしたらまずお店に尋ねること。入れ歯を失くすタイミングなんて限られてるんだから、ちょっと考えればわかるわ」
「えぇ、それはもう。今後は気をつけます」
「大変だけど、親孝行は良いことよ。天界に行く徳を積むと思って頑張りなさい」
「ご忠言、痛み入ります」
しきりにおばさんが頭を下げる前で、紫苑が天子の耳に口を寄せた。
「天子、いつも偉そうだけど、今日はあんまりそうしないね」
「私だって相手くらい選ぶわよ。第一、向こうが最初から十分立場の違いを理解してるんだから、何も言うことないわ」
謙虚なのだか傲慢なのだかわからない言葉を返して、天子は次の仕事に向かおうとしたが、その手をお爺ちゃんの細腕がガチリと掴んだ。
「待ちんしゃい、良い子にはご褒美あげんとねぇ~」
「ちょっとお父さん! 失礼ですよ!」
「これ、あげるぅ」
おばさんが慌てるのを無視して、お爺ちゃんは懐から紙に包まれた何かを天子の手に押し付けた。
天子は少し驚きながらも、与えられたものを受け取る。
「ごめんなさい、父はちょっと嬉しいことがあるとすぐにお菓子を上げる人で……気に入らなかったら、他の人に譲ってくれても結構ですので」
「……まあいいわ、貰ってあげる」
天子は包みを握りしめると、少し屈んで腰が曲がったお爺ちゃんと目線を合わせた。
「長生きしなさいよお爺ちゃん。あなたは天界に行けるかもだけど、あそこ暇なところだから。できるだけ温かい家にいなさい」
「心配してくるんかぃ? ありがとうねぇ~、も一つおまけに……」
「お父さん、もう良いでしょ!」
結局、二つ目のお菓子を受け取り、天子と紫苑はその場を後にした。
天子は片方のお菓子を紫苑に渡し、歩きながら自分の包みを開いてみると、中には色とりどりの金平糖が詰まっていた。
「うわあ、色んな色があって綺麗。これ食べれるの!?」
「金平糖って言うけど、天子は知らないの?」
「天界にはこんな綺麗なお菓子ないもん」
紫苑も自分のお菓子を見てみると、出てきた小魚と目が合った。
「……私のは煮干しだわ」
「嫌いなの煮干し? 私は悪くないと思うけど」
「そりゃあ甘いほうが良いわー」
「しょうがないわね、半分こしましょ。はいこれ」
紫苑は天子から金平糖を分けてもらい、口の中で転がすと、煮干しは包みを閉じてポケットに突っ込んだ。
天子も金平糖を一摘み口にして、舌の上に甘いものが広がっていくのを味わいながら、赤い金平糖をもう一つ摘んで、自分のスカートに付けてあった七色の飾りに並べてみせた。
「へっへー、お揃いよ!」
「綺麗よねー、天子のその飾り。それって虹?」
「いや、極光、オーロラよ。まあ実際には虹色の極光なんてないけどね。でもあったらきっと綺麗でしょ?」
「うん、見てみたいわ」
天子は二つ目の金平糖を口に放り込むと、包みを閉じてポケットの中に大切にしまいこんだ。
失せ物リストの紙を取り出し、仕事の続きに取り掛かろうとする。
「さぁーて、次のは……」
「はい、ここでステップ、アンドターン! そしてフィーバー! 軽やかに、戸惑うことなく緩急をつけるのがコツです」
「ありがとうございます、衣玖先生! 細かく教えてもらって」
「構いませんよ、やる気があるのは良いことです。あとでまた教室でお会いしましょう」
「はい! それじゃあまた」
「……うん?」
なんか聞き覚えがある声がして思わず立ち止まった。
勢い良く振り返ってみると、そこには里の女性と手を振って別れる、美しい緋色の羽衣をまとった妖怪の姿があった。
「――あんた衣玖じゃないの!?」
「おや、総領娘様じゃありませんか。珍しいですね、こんなところで」
道端でポーズまで決めて踊りを教えていたのは、かつて天子が起こした異変で知り合った竜宮の使いの永江衣玖であった。
驚く天子の隣で紫苑が困惑した表情をしているのを察し、衣玖はまず彼女へと自己紹介を済ます。
「そちらの方は初めまして、私は竜宮の使いの永江衣玖と申します。お見知りおきを」
「はあ、初めまして。貧乏神の依神紫苑よ」
「おっと、貧乏神ですか。すみませんが少し離れて良いですか?」
「別に気にする必要はないわ。今は天子に取り付いてる状態だから、不運になるのは天子だけ」
「なら安心ですね、失礼しました」
嫌われ者の紫苑にとっては、この程度の嫌がられ方は気にならない。むしろ貧乏神への対応では丁寧な部類だ。
紫苑はいい人そうだなと安心し、とりあえず警戒はしないことにした。
「総領娘って天子のことでいいのよね。この妖怪、天子と知り合いなの?」
「まあ、そこそこ」
「私と総領娘様の関係は『総領娘様の父親の勤め先と同じ会社の別部署でお茶汲みしてる近所のお姉さん』くらいの立ち位置です」
「なんというか、絶妙に微妙にニアミスな関係ねー」
近いんだか遠いんだかわからない関係だが、とりあえずそれなりに見知った関係だというのはわかった。
自己紹介も済み、改めて天子が問いただした。
「あなた、こんなところで何やってるのよ」
「実は人里でダンス教室の講師役のバイトをしてまして、これから仕事です」
「ダンス教室って……まあ、あなたなら適任か。随分地上に溶け込んでるわね」
「天界もそれほど住み心地がいい場所ではありませんからね。最近は萃香さんも来ませんし、本格的に地上に居を構えようかと。総領娘様も講師役にどうです? 推薦しますよ」
「結構よ、あくせく働くのは性に合わないわ。それに私ほど高貴な天人が踊りを見せたら、格の違いに他の踊り子も膝を突いてしまうじゃないの」
天子は相変わらずの物言いだが、それより紫苑は普段聞かない天界の話が気になった。
「そんなに天界ってよくないの?」
「気候は穏やかなのですがね、娯楽がほとんどないので暇なのと……いかんせん住んでる人たちが排他的で、地上のことを見下してますから。私としては正直、息が詰まりますね」
「何だかたまに聞く話と真逆ねー」
天界の話など長く生きても噂を少し聞く程度だったが、紫苑が聞いた分には住んでる人たちはみな満ち足りた心を持ち、理想郷のような場所だと思っていた。
だが天子は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、天人なんてそんなもんよ」
「そういう天子だって、いつも自分が天人だからって周りのこと見下してるじゃない」
おかしな天子に紫苑は呆れていると、衣玖が急に神妙な顔つきになり、天子に近寄った。
「それと総領娘様、お耳を拝借します」
「ん?」
衣玖が手で口元を隠して小声で話しかけてくるのに、天子は素直に耳を貸した。
「私と同じ竜宮の使いが、天界に攻め入ろうとした総領娘様を見たと言っています。口止めしたので漏れないとは思いますが、本当ですか?」
それを伝え、衣玖は顔を離す。
話を聞いた天子は、顔から気持ちを沈めて無表情になったが、衣玖に向き直ると目を尖らせた。
「ええそうよ、私は天界を滅ぼして、ついでに世界も全部ぶち壊して、何もかも理想の世界に作り直そうとした」
「それは夢の天子の話でしょ」
「夢?」
「関係ないわ、私は私。私がそう願っていたからそう行動したに過ぎない」
話の内容を察した紫苑が眉を曇らせてフォローしようとするも、天子は一切の言い訳をしようとしなかった。
すべてを背負い込んで、己の過去に対峙する。
「私は、私の行動を否定したりしない。すべてがこれ是、天道よ」
眼光を強める天子を前にして、衣玖はしばし言葉を失った。
強い、あまりに強い少女だ。すべてを滅ぼしたいという願いを持つこと自体が、すでに痛々しいことであるのに、何故止まらないのか。
それだけの行動を選ぶに足る辛い想いをしてきたのであろうし、その願いを自覚しただけでも自らの愚かさに苦しんだかもしれない。いっそ泣けば楽でだろうに、天子はそれをしない、いやできないのが衣玖には不憫だった。
だがこれ以上は踏み込めない。そうしたら最後、爆発的な力で猛進する天子にこちらが逆に砕かれてしまうだろう。
此処から先、往けばあるのは死合だ、衣玖にはそれを受け止めるほどの力も覚悟も動機もない。臆し、身を引いた。
「あまり、羽目を外しすぎませんように。総領様も悲しみますよ」
「はん、あんなやつ私がどうなろうが知ったこっちゃないわよ。あんたこそ、人のこと言う前に、自分の持ち物盗られないように気をつけなさいよ。肝心なとこで抜けてるんだから」
「日頃から気をつけてますよ、結婚相手は自分で見つけたいからですね」
「巧言令色鮮し仁、悪い男に引っかからないようすることね」
「肝に銘じておきますとも」
愛想がいい男にろくなのがいないという言葉を貰い、衣玖は丁重に頭を下げた。
一部の天女では、羽衣をわざと盗ませて結婚する羽衣婚活など流行っているが、衣玖はこれに乗るつもりはない。
だいたいそんな風に相手を選んだって、ろくでもない相手しかいないではないか。衣玖としては優しさを持ち、情熱的な相手が理想だ。
結婚したいなら正面から堂々と、手ずから奪うくらいの意気込みを見せて欲しいものだ。
「して、総領娘様はどうしてこんなところに」
「地上の賢者気取りが泣きついてきてね、仕方なくあいつのために動いてやってるのよ」
「誰が泣きついたよ」
「うひゃ!?」
都合のいいことを吹聴しようとした傍から、紫がスキマから歩き出てきて、天子の耳を引っ張り上げた。
「いだだだだだ!!」
「おや、視線を感じましたがあなたでしたか。お久しぶりです、総領娘様がお世話になっているようで」
「えぇ、お世話しっぱなしで辟易してるくらいですわ。できればあなたにも手伝ってほしいものだけど」
「ははは、ご冗談を。総領娘様の子守とか面倒すぎてやってられません」
「ちょっと! それってどう意味イタイ! いい加減離しなさいよ!!」
「わー、天子の耳って柔らかいのね。私もやってみていい?」
「えぇどうぞ、お構いなく」
「構うわー!」
雑談もそこそこに、衣玖はこの後もバイトがあるということで、足早に去っていった。
旧交を温めるのが終わったところで、紫が腰に手を当てて天子を見下ろした。
「あんまりダベってばかりいないで働きなさい」
「わかってるわよ! 癪だけどやるって言った以上はやるわ」
「よろしい」
「ムカつく」
「あっそ。それとリストは三つ飛ばしなさい、じゃあね」
釘を差した紫も、とっととスキマに引っ込んでしまった。
赤くなった耳を押さえた天子は、リストを取り出して内容を確認する。
「あの妖怪、逐一確認してるのねー」
「まったく、暇なことだわ。他にやること無いのかしら」
「それで、次は何を探せばいいの?」
「今見るわよ、えーと……」
天子はリストを指でなぞり、紫に言われた通り三つ飛ばして、四つ目の失せ物を読み上げた。
「子猫探してます、依頼人は源五郎……」
紫が押し付けてきた依頼の内容に、天子と紫苑は顔を見合わせた。
まず天子たちは、依頼人に詳しい話を聞くことにした。
リストに載っていた住所を目指して道を歩く、そろそろ日が傾いてきていて、伸びた影を薄っすらとしたオレンジ色が縁取っている。
辿り着いた家では、源五郎を名乗る少年が玄関から現れて天子たちに説明した。
「あなたが依頼人の源五郎ね」
「うん……ミカを探してほしいんだ」
少年はおどおどした様子で、天子の前に立っている。
歳は十を越した程度だろうか。住んでる家はあまり大きくないが小さくもなく、まあ平均的な生活をしている子供のようだ。
だが身だしなみは悪い。服はよれよれで、目やにが付いたままだし、髪もボサボサ。毎日お風呂に入っていないのか、少し臭った。
源五郎は天子の足元に顔を向けて、忙しなく視線を動かしながら説明を始めた。
「み、ミカはね、ずっと前から飼ってるんだ。ボクにすごく懐いてたんだけど、三日前に出ていったっきり帰ってこなくて。だから心配になって……」
「どんな猫なの? 毛の柄とか、わかりやすい目印とかある?」
天子の後ろから紫苑が家の奥を覗き見た。天子も釣られて、源五郎の話を聞きつつチラリと様子をうかがう。
玄関からしてどうも片付いていないようで、むっとした重い空気が伝わってくる。
「灰色で、ちょっと地味な感じ。でも赤い首輪がついてて、鈴もついてるよ! ボクが頑張って、首輪に刀で名前を彫ったんだ。あんまり上手くやれなかったけど、見ればわかると思う」
「あなたから見てどんな性格だった?」
「大人しくて、いつもはあんまり外に出ないんだ。でもボクが落ち込んでると、そばにきて舐めてくれたりして、優しいやつなんだ」
源五郎は天子を前にして怯えが見える。天子は実際、自分で言うだけの才気を持っていて、まとった空気は常人のそれとは格が違う。その格差に戸惑っているだけなのだろうか。
彼は小さな手を握りしめると、勇気を出して天子に面向かって言った。
「お、お願いします天人様! ミカのこと助けて下さい!」
心からの懇願を、天子は眉を下げて聞いていた。
ペットの心配をして震える源五郎のため、その頭を撫で付けた。
「わかったから、安心して待ってなさい」
子供を元気づける天子の背中を、紫苑はじっと眺めていた。
「それでどうやって探す? また人に聞くの?」
天子は源五郎に別れを告げ、適当に里の中を練り歩き始めた。
その後を紫苑たどたどしい歩き方で追いながら尋ねてくる。
「いや、猫のことは猫に聞くのが一番だわ」
「猫に? どうやって」
「簡単よ、さっきの煮干し貸して、使うわ」
天子は紫苑から包みを渡して貰うと、中から煮干しを取り出して他はポケットにしまい、周囲を見渡した。
やがて家屋の隙間に黒猫が寝転んでいるのを見つけ、路地の入り口でしゃがみこんで煮干しを猫に見せた。
「チッチッチ、ほ~らこっちに来て。話を聞かせてほしいの」
興味を示した黒猫が首を上げ、煮干しと天子の目を注視した後、起き上がって天子の足元に駆け寄ってきた。
煮干しに食いつき、よく噛んで飲み込むと、天子の膝に手を置いてにゃあと鳴いた。
「おー、よしよし、良い子ねあんた」
天子は黒猫を前足の根本から担ぎ上げ、胸に抱きしめて毛を撫でた。
黒猫は満足そうに首をすり寄せ、新愛をこめて天子の頬を舌で舐める。
あっという間に猫の信頼を勝ち取った天子を見て、紫苑は驚いた声を上げた。
「へぇー、すごいのね、すぐ仲良くなって」
「そりゃあ私は天人ですから。動物と心を交わすくらいわけないわ。心が貧相な人間だの妖怪だのよりか、よっぽど物分りが良いのよ」
天子はくすぐったそうにしながらも、乱暴な扱いはしなかった。
黒猫を持ち上げて顔を合わせ問いかけた。
「ミカっていう飼い猫を探してるの、灰色で鈴をつけたの。三日くらい帰ってないそうなんだけど、あなたは何か知らない?」
「ニャァ~オ」
黒猫は一際大きな鳴き声を上げると、するりと天子の手から抜け出て、通りに身を躍らせた。
「なんて言ってるの?」
「ついてこいってさ。行きましょ!」
走る黒猫を追って、天子と紫苑は人里を駆けた。
一度大通りに出た後、また小さな道に入り、細かな路地を曲がりに曲がって、奥へ進んでいく。
暗い道を行き辿り着いたのは建物で囲まれながら、わずかに日の差す小さな広場だった。
そこは猫の楽園とでも言うような場所だった。建物の段差の上には何匹もの野良猫が佇み、来訪者を眺めている。
広場には色んな猫がたむろしていて、思い思いの場所でのんびりしたり、じゃれ合ったりしていた。
ここまで連れてきた黒猫は、最後に「にゃあ」と鳴くと天子の足元を通り抜けて何処かへ行ってしまった。
残された天子と紫苑が広場を見渡すと、その一番奥で他の猫に囲まれて寝転がった灰色の猫が見えた。
「あそこね。紫苑、怯えさせないよう気を付けて、彼らは敏感だから」
「う、うん」
ズンズン進む天子に、紫苑はゆっくりとついていく。
突然現れた二人に、広場の猫、特に奥で休んでる灰色の猫の周囲は警戒しているようだったが、天子が片手を上げて「落ち着いて、喧嘩しに来たんじゃないわ」とだけ言うとそれだけで静まり返った。
感心する紫苑の前で、天子が灰色の猫の近くでしゃがみこんだ。
猫はぐったりとした様子で寝ている。そばには餌がいくつか転がっているが、他の猫が持ってきてくれたもののようだ。
鈴の付いた首輪をしていて、よく見ると首輪には荒い筆跡でミカと刻まれていた。間違いなく依頼にあった猫だろう。
「少し弱ってる。餌は食べてるみたいだけど……」
天子がミカの頭を撫でると、ミカは閉じていた目を開けて、力無く「みゃぁ」と鳴いた。
傷つけないよう気をつけながら、天子はミカの身体をさすって調べた。
「……誰かに殴られたみたいね。弱ってるのはそのせいだわ」
「えっ!?」
天子はポケットをあさると、奥から漆喰塗りの印籠を取り出した。
蓋を開けて、中から小さな粒を一つ摘み取り、ミカの口元に寄せた。
「天界特製の丹よ、少し苦いけど、これを飲めばすぐ元気になるわ」
ミカは言われたとおりに丹を口に含んでくれた。苦味に少し顔をしかめたが、頑張って飲み込み大きく息を吐く。
数分ほど天子がミカの背を撫で続けていると、丹の効果が如実に現れ、ミカはしっかりと目を開くと顔を上げて、天子に顔を向けて大きく「みゃぁ~お」と鳴いた。
今のがありがとうの意味だと、様子を見ていた紫苑にもなんとなく伝わった。
「何があったの? よかったら話を聞かせて」
天子の問にミカは答え、しばらくみゃあおみゃあおと鳴き続けた。
見守っている紫苑には会話の内容はさっぱりわからなかったが、やがて話も済んだようでミカは鳴くのを止めた。
「源五郎が心配してる。あなたはどうする?」
ミカは天子の手に頭を擦り付け、彼女の膝の上に乗っかった。
天子は丁寧な所作でミカを胸に抱え、源五郎の家へと戻った。
「見つけてきたわよ」
ずっと玄関の前で待っていた源五郎だったが、天子の胸に抱えられたミカを見て、顔いっぱいに喜びを浮かばせた。
天子がミカを手で持って差し出すと、源五郎は慌てて受け取って自分の胸で抱きしめた。
「あ……ありがとうございます、天人様!」
しきりに頭を下げる源五郎に、天子はさっきの印籠を取り出して源五郎の手に握らせた。
「それとこれを、中には薬が詰まってる。時間を空けて一日二回、朝と夜にでもその子に噛まず飲ませなさい。人間にも効くから、あなたも一日一粒は飲んだ方がいい」
「は、はい! ありがとうございます!」
後ろから見ていた紫苑は思ったより早く終わったなぁとのんびり考えていたが、天子は依頼を完遂してもその場から動こうとしない。
源五郎がミカに頬を舐められてくすぐったそうにしている前で、硬そうな顔をして口を開いた。
「ミカには殴られた痕があった。苦しそうに倒れてたわ、覚えがあるでしょ」
天子に問いただされ、源五郎の表情からあっという間に明るさが抜け落ちる。
暗い顔色になる少年に、天子は続けざまに畳み掛けた。
「面倒を見きれないならいっそ家から逃したほうがいい。いや、そうしなさい。この幻想郷には隙間が多いから、その子一人でも生きられるところはいくらでもある」
「い……いやだ! ミカはずっと一緒なんだよ!」
「ちょ、ちょっと天子。そこまで言うことないんじゃ」
紫苑が困惑しながら、頑なな天子を止めようとしたところで、ガラリと音を立てて家の扉が開いた。
三人の前に現れたのは、痩せ気味の女。ギラリとした目に青白く細長い顔から、むせこむような重い空気が滲み出ている。
折れ目の付いた服を着ていて、荒れた肌からは疲れが見て取れた。
女の登場に、源五郎は怯えて肩を竦ませて振り向いた。歳幼い少年を、女は真っ先に睨みつけ唾を散らして怒鳴りつける
「源五郎! あんたいつまで外いてんの、さっさと入りなさいみっともない!」
「ご、ごめんなさいお母ちゃん」
この女性が源五郎の母親らしかったが、二人の会話はとてもではないが温かなものではなかった。
貧乏神の紫苑から見ても、この女は不運に塗れてる。単純に運が悪いのではない、女自身の振る舞いが不運を呼び寄せているのだ。
天子は眉を吊り上げ、源五郎を押しのけると母親の前に歩み出た。
玄関の敷居を挟んで、自分より背の高い女を睨み上げる。
「あんたが、ミカを殴ったのね。男と上手く行かないからって腹いせに」
「はあ? 何よあんた、人の家のことに口出すんじゃないよ!」
母親が睨み返してくるが、天子は揺るがない。
話がうまく飲み込めない紫苑が、天子の背中から伝わる圧に押されつつも疑問を口にした。
「ど、どういうこと天子?」
「こいつはね、男に見切りつけられて出て行かれたのよ、情けないことに浮気までされてね」
「何だい、いきなり現れて人のことをペチャクチャと!?」
母親はいきり立って天子の襟首を掴んで、首を締め上げた。
天子は苦しい顔ひとつしないままだったが、そばで見ていた源五郎はミカを抱いたまま慌てて止めに入った。
「や、止めてよお母ちゃん、この人はミカを助けてくれて……」
「うるさい! お前は黙ってな!」
母親はあろうことか息子に対して手を上げ、拳を振り上げて源五郎の頬を殴り飛ばした。
源五郎は衝撃で玄関の柱に背中を打ち付け、印籠を取りこぼす。
胸に抱かれたままのミカが、源五郎に変わって「シャー!」と鳴き声を上げて威嚇した。
家庭内の悪意を見せつけられた天子は、軽蔑を込めてより眼光を強めた。
「ハッ、くだらない女。子は夫婦のかすがい、それなのにその子をないがしろにするようじゃ、夫との縁も切れて当然だわ」
「ああん?」
「その醜さ、裏切った男だけが悪いんじゃない、そうやって不満があるたび当たり散らせば、周りの人間はうんざりするに決まってる。他所の女に寝取られたのは、あんたの自業自得よ!」
「なんですってこのガキァ!」
啖呵を切る天子に対し、あっという間に怒りを抑えきれなくなった母親が拳を振り上げた。
「ウチのもんをどうしようが人の勝手でしょうがあ!!」
怒鳴り声を張り上げ、母親はお構いなしに天子の顔面を真正面から殴りつけた。
だが天子は一切たじろがない。強固な天人の肉体をそこらの一般人が傷つけられるはずもなく、鼻を折ることすらかなわず、母親のほうが拳を痛め苦痛で顔を歪めた。
天子は母親の手を弾くと、逆に襟首を締め上げ、体格差のある母親の身体を持ち上げた。
母親が苦しそうな声を漏らすのを無視し、そのまま家の中に押し入って奥の壁に母親の身体を押し付けた。
「天子!」
「て、天人様待って!」
異常なまでに母親へ敵意を見せる天子を、紫苑と源五郎が引き剥がそうとするが、小さな身体は巨岩のように重くびくともしない。
「天子、源五郎君とは今日会ったばっかりじゃない。そこまですること……」
「私は仮にも天人よ、見捨てていられるか!」
天子は怒鳴り返し、締め上げた女を睨み付けたまま。
母親が目の前の少女が只者ではないことをようやく悟り、恐怖を感じ始める前で、天子は憤怒を漲らせて重い声を上げる。
「自分の所有物なら何をしてもいいと言ったわね」
「が……な、なにを……」
この家を中心にして、不穏な緋色の霧が立ち籠み始める。
足元から熱い激情を伝えてくる霧は天子の元へ萃まって行き、天子が空いた手で緋想の剣を掲げると不吉なまでに緋く、強く輝く刀身が家の中を照りつけた。
「ならここは、この幻想郷は、この比那名居天子の支配する大地よ! その上で暮らすあんたをどうしようかなんて、この私の自由というわけだ!」
「ひ……い……い……イヤァァァァ!!!」
すさまじいまでの天子の怒気に、母親が命の危険を感じ取って金切り声を上げた。
いきなりの暴挙に源五郎は為す術なく、紫苑も判断が遅れ静止が間に合わないまま、怒りに輝く緋想の剣が振り下ろそうとされ、
「そこまで、お止しなさい」
音もなく背後に立っていた紫が、天子の腕を掴んだ。
強く握られた腕から痛みを感じながら、天子は振り向いて殺気立った視線を浴びせかけた。
「八雲紫……!」
「力づくで従わせて、それでどうなるの。この家の支配者が、そこの親からあなたに移るだけ」
剣は依然として輝いている。天子の怒気は静まらない。
冷静に語りかけてくる紫に、天子は母親を締め上げたまま食って掛かる。
「なら私が、この家をより良くしてみせる!」
「無理よ。いかな名君とて、力に頼って支配するとどうなるか、あなたも知ってるでしょう。そんなやり方では、その子に恨まれるだけよ」
天子は眉を曲げ、辛そうな顔をして源五郎を流し見た。
緋色に照らされる顔は、母親と同じ恐怖に塗られており、この剣が振り下ろされた後に一番傷つくのが誰なのかを物語ってくる。
紫の言う通り、天子は過去の歴史を勉強し、力による支配のあとに生まれるのは、深い恨みつらみだということを学んでいたはずだった。
「自分の無力をわかりなさい。傷つけるやり方しかできないのでは、誰も幸福になど出来はしないわ」
天子は悔しさを噛み締め、己のうちから湧き上がってくる怒りと義に心がのたうち回った。
苦し紛れに出てきた言葉は、この場でもっとも無力な者へだった。
「あなたはそれで良いのミカ! 傷つけられてでも、源五郎のそばにいるというの!?」
源五郎に抱かれていたミカは、芯のある声でにゃあんと一鳴きし、天子を諌めた。
天子はいよいよ諦め、肩の力を抜いて緋想の剣の気質を解除した。周囲から緋い霧が薄れていくのを見て、紫も掴んでいた手を離して一歩下がる。
家の中に平穏が戻り、開放された母親が壁を背にへたり込み、疼く首を手で守りながら、荒い息で涎を零した。
天子は緋想の剣をしまうと、帽子のツバを下に引き目元を隠した。
「……源五郎、あなたは親の愛に恵まれていない。けれどその猫は確かにあんたを愛している、その優しさに学びなさい。そうすればあなたは強くなれる。誰にも負けないくらいに」
今の自分に出来る、精一杯の反抗を終え、天子は怯える母親に背を向け家から出ていこうとした。
彼女とすれ違う間際、紫が口を開く。
「今日の奉仕活動は終わり、好きになさい」
「……ふん!」
何もかも気にくわなそうに鼻を鳴らす天子に、呆然と事態を見守るしかなかった紫苑が手を伸ばそうとした。
「て、天子!」
「ついてこないで! ……一人にして」
だがその手も言葉で跳ね除け、天子は独りで家を出て、何処かへ去っていった。
天子の背中に溜息を吐いた紫は、源五郎へ顔を向ける。
「怯えさせてごめんなさい、彼女に代わって謝るわ」
「あ……あの……あなたは……」
源五郎はあまりのことにまともに喋れず、ただ震える手でミカを抱えて、自分の心臓の高鳴りを聞いていた。
困惑する彼に紫はその頭にそっと手を乗せて撫でた。
「私のことは秘密、ただのお婆ちゃんよ」
「おばあ……? でも全然……あっ、もしかしてあなたも天人様なんですか……?」
「ふふ、だったら楽で良かったかもね」
微笑を零した紫は、源五郎を優しく見つめた。
しかしそれだけだ、これ以上の干渉は危うい。すぐに源五郎から離れ、残っていた紫苑に目を向けた。
「もう行きましょう、私たちにできることはないわ」
「うん……ごめんね源五郎。天子のこと許してあげて」
紫が歩いて玄関から出ていく後ろから、紫苑が地面から浮かび上がって付いていく。母親は、息子と二人きりになってからもしばらく怯えて、壁際で縮こまっていた。
外はすっかり日が暮れて、人里の往来を夕日が彩っている。
何故か紫に連れられて歩くことになった紫苑は、源五郎の家を気にしながら隣に話しかけた。
「……あの家、どうなるのかしら」
「ミカだけではあの母親の悪意を抑えきれない、そう遠くない内に子にも虐待が始まるでしょうね」
辛い内容だが妥当だろう。あれで母親が変わるとは思えない、いやむしろ悪化する可能性が高いかもしれない。
あの母親は、しばらくは天子を恐怖して自分を抑えているかもしれないが、いずれ恐怖を忘れてまた手を上げることだろう。その時には、母親の悪意はもっと強くなっているはずだ。
得てして、子供の側は親の暴力を「自分が間違っているからいけない」などと自己洗脳により正当化することで逃避するが、源五郎の場合はミカの存在が楔となって、そうなることはないだろう。
自分を慰めてくれるペットの愛情が、彼を正気に繋ぎ止めている。
「紫、あなたは何もしないの?」
「幻想郷の賢者が、いちいち何でもない家庭の事情に干渉することはできないわ」
紫のような大物が、表立って人里に干渉すれば、幻想郷のパワーバランスにまで影響する。
今はどの勢力も水面下で人里の利権を争っている最中だ、これが好きに手を出していいとなれば、幻想郷の平穏は大きく乱れるだろう。
紫苑にも紫の理屈はわかったが、それでもままならなさに苦汁を舐めた表情をしていた。
紫は無表情で述べた。
「この先の運命を選択するものがあるとすれば、あの子供自身の意志よ」
「……なら何かが変わるはず、あの子は天子の心に触れたから」
その言葉を聞き、紫が道の途中で足を止めて振り返る。
少し後ろで停止した紫苑が、宙に浮いたまま胸に手を当て、顔を俯かせている。
「あの天人がどうしたというの?」
紫の質問に、紫苑が熱い声で語り始める。
「夢の天子は言ってたわ。世界を壊して、悲しむ事のない心を創り、貧する事のない社会を作るって」
「……初耳ね」
紫としても驚きの情報だった。思わず髪をかき上げ、下から見せた耳で聞こえた情報を反芻する。
紫苑が妹とともに夢の天子を倒したのは知っていたが、その詳細までは知らなかった。
まさかあの天人が、そんな理想を語ろうとは。
「全ての殻を剥がした先にある、夢の人格がそう言ったことは、天子の心を表してると思う。私は、彼女が本質的に優しい人間だって信じるわ。その優しさにあの子が少しでも触れられたなら、間違いなく生きる力になる」
顔を上げた紫苑の眼には光が宿っている。強い、強い光が。
それは紫が霊夢とともに彼女を打ち倒したときにはなかったもの、その光を与えたのは誰か、考えずともわかる。
才能を持った人間という者は、ただあるだけで周りに影響を与えるものだ。
それが貧乏神にすら活力を与え、彼女の内面を少しずつ変化させている。
「紫、あなたも天子の力を信じてたから、あの家に引き合わせたんじゃないの」
紫苑は確信を伝えると、上空へ飛び立って、夕焼け空を博麗神社に向かって飛んで行った。
消えていく貧乏神を眺めてから、紫は西の空に顔を向けて黄昏の地平線を見つめる。
「悲しむ者も、貧する者もいない世界、か……」
そんな言葉を天子が言えるとは、紫は予想もしていなかったはずなのに、何故かすんなりと納得できていた。
義を重んじる気持ちがあり、根本が優しいからこそ、天子は理不尽に対しああまで本気で怒ることができたのだ。
この台詞は無垢な子供が語るような純粋で、だが決して叶わない空想だ。
例えこの幻想郷ですら叶わない儚い夢。
「遠い遠い、理想郷ね……」
地平線の赤色に瞳が震える。
夕日に照らされてそう唱える紫の表情は、切なさと慈愛とが混ざりあい、愁いの色が浮かんでいた。
◇ ◆ ◇
「――ふざけるな! 私はもうこりごりだ!」
薄暗い部屋の隅に立って私の前で、床から起き上がったお母様が怒鳴り声を上げた。
大きく腕を振り回し、血走った目で辺りを忙しなく睨み付けていて、そばに立ったお父様が負けじと声を張り上げる。
「落ち着くんだ! お前とて比那名居家の一人だ、私が交渉すれば死後も天界に居座ることもできる、だから安心して」
「そんなの嫌に決まってるでしょう! あなたはこの天界を見てどうも思わないの!?」
お母様が両腕を広げ、このあまりに綺麗過ぎる天界を示す。
「誰も彼も地上のことを見下して、自分たちの醜さに気付こうともしない! 安穏と生きることに固執して、そのためだったらいくらだって邪魔なものを押し付ける!」
その言葉は、私が天に上がったときからずっと感じていたもので、私は胸の上で両手を握りしめた。
「こんな場所、もう嫌だ! 天人なんてみんな間違ってる! 私は死んで自由になってやる!」
「落ち着け!」
錯乱するお母様は、お父様がいかに止めようと口を閉じなかった。
他にも人手があれば押さえ込めたかもしれないけど、気違いのようになった身内を見せることを恥だと感じた父が、天女たちも部屋から追い払っていたせいで、一人で苦労することになっている。
「転生した先が、お前らが虫けらと言って見下すモノ以下だろうが構うもんか! ここで高貴な天人たちに囲まれて、魂まで腐っていくよりずっとマシよ!」
『おや、またあなたの悪夢ですか。夢から地上に出て暴れたと言うのに、その程度ではやはり足りませんか』
唐突に誰かの声が響いた気がした。
誰だっけこの声。この時はこんな言葉は聞かなかったような……この時? 何を考えているんだろう私は。
不思議に思う私を、すぐにお母様の金切り声が引き戻す。
「こんな場所、さっさと壊れてしまえばいいのよ! 私はこんな場所に来なきゃよかった!!」
『私ではあなたの抑圧を解消することはできませんが、せめてこの悪夢は処理しておきましょう。次、眠る時は夢を見ませんからご安心を』
「地上の人たちのことを虫けら呼ばわりして、くだらないのはあんたたちだ! あなたも、他の天人の味方をするっていうんなら、誰も彼も死んでしまえ!!!」
部屋の窓の外に大きな手が見えた気がした。
妙な圧迫感がある。まるで世界のすべてを掌に包み込まれたような
お母様の声が遠くなり、私の体が暗闇に投げ出される。
『あなたに槐安がありますように――』
――それを最後に、私の意識は目覚めた。
――――――――
――――
――
「――ハァ! ハァ……ハァ……」
輝針城の貸し与えられた部屋で、天子は布団から起き上がって荒い息を付いた。
見開かれた眼からは眼球がせり出し、焦点の合わない瞳孔から、薄暗闇の光景が天子の脳に染み入ってくる。
やがて落ち着いてきた天子は、夢の内容を思い出して、布団の上においた手を強く握りしめた。
もう一眠りし、夜が明けてから、天子は部屋を出て針妙丸とともに朝食を採った。
昨日の内に買ってきておいたパンを腹に詰め込んでいる天子に、針妙丸が心配そうな顔をする。
「天子、どうしたの。昨日帰ってからずっと黙りこくってて。何かあったの?」
「別に、なんでもないわ」
天子の様子は明らかに変だ。何かあったのだろうが、それを伝えてくれないことが針妙丸にはもどかしい。
「なんでもないって、どう見たって嘘じゃない。悩んでることあるんだったら言ってくれてもいいでしょ」
「どうせ言ったって誰にもわからないわよ!」
激しい拒絶を受けた針妙丸は、一瞬悲しそうな表情を浮かべ、すぐに眉を吊り上げて怒り出してしまった。
「何さその言い方! もう天子なんて知らない!」
「あっ……」
針妙丸はお椀の中に収まると、宙に浮いて廊下へ出て、襖をピシャリと閉めてしまった。
残された天子は俯き、自らの膝を手で締め上げながら、眉間を歪めた。
「……私は、全部間違ってる…………」
◇ ◆ ◇
今日で奉仕活動は三日目。例によって内容は伝えられていないが、天子は輝針城から出てすぐ地上に降りた場所で約束の時間を待っていた。
やがて天子の前で空間に線がはしり、そこから開かれたスキマから、紫が傘を差して歩き出てきた。
「随分と酷い顔ね。ちゃんと夜は眠れたの?」
顔を見るなり呆れた声を出す紫に、天子はキツい視線を向けたまま言葉を返す。
「うるさい、さっさと始めなさいよ」
「付いてきなさい」
そう言うと、紫は普通に地上を歩き始めた。
てっきり飛んで行くかスキマで移動させられるかと考えていた天子は、訝しげに見つめながら後を追う。
紫は急ぐことなく足を進めていき、さっさと仕事をこなしたい天子が焦れったくなって問いかけた。
「いつまで歩くのよ。わざわざ足を使ってノロノロと、飛べばいいじゃない」
「…………」
紫は立ち止まると振り向き、傘の下から横顔を覗かせると遠くを指差した。
「山、見えるかしら」
指の先を見ると確かに山がある。だがそれがなんだというのか、天子は意味を解せず首を傾げる。
「あれは妖怪の山と言ってね、天狗を中心に独特のコミュニティが形成されていて、安定していたぶん硬直化していたわ。でも最近は守矢神社というのができて、人里の人間も出入りするようになり始めた」
「それが何よ」
「何事も移り変わる、よほど超越した何かでない限り……いえ、完全の存在とて内面は変わっていく。諸行無常、それが自然なこと。私はそれができる場所を目指した」
紫は指差していた手を下ろすと、天子に振り向き柔らかな表情を浮かべた。
できるだけ、優しい表情を。
「今日のあなたの奉仕活動は、私の話に付き合うことよ。老人だって、たまには話を聞いてくれる人がいないと寂しいもの」
「……気を使ったつもり?」
考えもしなかった内容に、天子はつい威圧的な声を上げてしまった。
だがこの程度はいつものこと、紫は一笑にふすと調子を合わせて返した。
「好きに受け取ればいいわ、へそ曲がり」
「ふん、地上の泥臭い虫けらが」
予想通り傲慢な物言いを受け止め、再び紫が歩きだす。
その背中からボソリと、小さな呟きが投げかけられた。
「……ありがとう」
紫は内心驚いたが、気持ちを隠してゆっくりと背後に首を振り向かせる。
彼方を見つめ、顔を反らす天子の覇気のない顔を見てから、進行方向へ向き直った。
「……どういたしまして」
紫は絶えず足を進めていたが、特に目的地があるわけではない。まあ散歩のようなものだ。
その斜め後ろから、天子が付かず離れずの距離を保って付いてきている。
紫は歩きながら、時折自分のことを語り聞かせた。
「私は、ずっと昔は色んな人間に敵視されて、逃げ惑いながら生きていたわ。みんな身勝手で無鉄砲で、その中には天人もいた」
紫の歴史は苦労の歴史だ。この幻想郷に辿り着くまで、多くの苦難に遭って生きてきた。
彼女は強大の力を持った妖怪だが、それでも全能などでは決してない。むしろ下手に強大であるため多くの災難を引き寄せる宿命にあり、自分の存在を捕まえられないよう、常に闇に紛れて過ごしていた。
今の紫の慎重な性格も、その時の影響が強い。
「よく生きられたもんね。あんたみたいなのが天界から狙われたら、ひとたまりもないと思うけど」
「えぇ、苦労したわ。必死に逃げ隠れて、泥水を啜って這いずり回って、なんとか生き延びた。運が良かったわ」
何かまかり間違っていたら、もう生きていなかっただろうなと紫は思う。
九死に一生を得る経験をいくつも超え、奇跡的な確率の下で生き残った。
「そうやって逃げながら一人で過ごす夜は寂しくてね。冷えた身体を温めてくれる誰かが欲しいと星に願って、また逃げ続けた」
広がる青空に、記憶の中の月を浮かべる。
泥に塗れ、ボロボロの衣をまとい、ひっそりと闇夜に隠れながら夜空を眺めたものだ。
丸い月が心を狂わせ、妖怪の本能が叫ぼうとするのを抑えながら、傷だらけの体を月光で癒やした。
だがそれだけで紫の人生は終わらなかった。
紫は苦しみながらもゆっくりと歩みを続け、時に傷の痛さに足を止めることがあっても、何度でも歩いて少しずつ人生を積み上げた。
「長い時間をかけて、私にできた友人はほんの一握り。だけどその一握りの友人が、私を支え助けてくれた。私が今生きていられるのは彼女たちのお陰。みんなとても大切な縁で、私はこれを大事にしたい」
「……だからこそのユカリか」
何気なくこぼされた天子の言葉が、ずぐりと紫の胸に食い込んだ。見極められた真実が、紫の心臓を捉え、本質に牙を立てる。
紫は臆病な心が逃げ出したくなるのを、苦しそうな顔で鎮め、凍りつく胸を押さえた。
天子の言う通り、紫は握ってくれた誰かの手を離したくがないために、人の縁にちなんで自分の名前を『紫』としたのだ。
だが、こうやって自分の性質の一つ一つを解き明かされるたび、自分の存在は闇から引きずり出され、敗北に繋がる。
それこそが紫がずっと忌避してきたことだ。だからこそ紫は常に誰と対峙しても胡散臭く煙に巻く態度を取り、自らの性質をひた隠しにしてきた。
それがここにきてこんなハイリスクな行動を取ろうとは、何をやっているんだろうなと紫は自分で疑問に思う。
けれど、天子に自分の核心を知ってもらうことは、恐怖の奥底に、不思議な安心感すら覚えていた。
「……私は安心して生きるため、数少ない友達を守るため、そしていつか私と仲良くなってくれる誰かの助けになればいいと願って、この幻想郷を創ったの。いずれ消える定めにある幻想たちが、肩を並べて生きられる理想郷を目指した」
「肩を並べてね。そのしわ寄せが人間なわけだ」
敵意を含めた言葉の棘が紫の耳に突き刺さる。
紫が振り向けば、昨日のように殺気立った天子の視線が浴びせられていた。
「違うとは言わせないわよ妖怪。あんたたちは自分が生き延びるために、人里に人間を押し込めて飼い殺してるんだ。理想郷などとは程遠いわ」
天子はきっと昨日の一件を思い返し憤ってるのだろう。
しかし天子の感情は的はずれだ。どんな社会とてあの程度の歪はある。むしろ外界と比べれば、幻想郷はまだマシだ。
それでも紫は、反論することはなかった。
「否定はしない、私は弱く、何もかも上手くはいかない」
天子の言葉に、紫は何一つ言い返せない。
もう少し、紫に智慧と力があれば、あの家庭も不幸にはならなかったかもしれない。
そのことに、紫は本気で悔しく思っている。
このような何度も何度も無力さを痛感し、その度に枕を濡らしてきた。
「昔からそうだった、肝心なところで親友を助けられなかったこともある。この手からはこぼれ落ちたものだらけ、私は無力な臆病者よ」
紫は自らの手の平を見下ろし、過去の日々でなくした多くを思い返す。
縁に恵まれてからも諦めの連続だった。新しく何かを得る余裕などほとんどなく、ただ繋ぎ止めるだけで精一杯だった。
哀愁を帯びた紫の瞳を眺め、天子は頭を振った。
なんとなく、目の前の妖怪がそんな顔をするのが嫌で、挑発するような物言いが口をついた。
「……馬鹿らしい、そんな弱気だから、幻想郷の規範はゆるゆるで隙間風だらけなのね」
「水清ければ魚棲まず、忘れられた者を温めるにはそのくらいがちょうどいいわ」
「その続きは人至って賢ければ友なし。あんた自身も愚かなら友達が多かったでしょうね」
「ふふ、正解ね。お陰で仲良くしてくれる人が少なくて寂しいばかりだったわ」
しれっと自分の立ち位置を賢者に置く紫に、天子は自分でさせてて気に入らなそうに顔をしかめた。
「でも幸い、大切な友達と家族ができたから、私はそれで良いのよ」
そこからしばらく歩き、倒れた大木を見つけた二人は、その上に座って昼食を取ることにした。
天子の左隣に座った紫が、スキマから二人分の弁当箱を取り出した。
「私の式神が用意してくれたお弁当よ、あなたの分もあるわ」
紫が二段重ねのお弁当の蓋を開けると、中はふりかけの掛かったご飯と、卵焼きに唐揚げ、きんぴらごぼうと普通の内容だった。
それを差し出された天子だったが、紫から物を受け取るというのは、食べ物をもらえて嬉しいような、悔しいような、微妙な心境にさせた。しかし一昨日はご飯を作ってもらって今更だったので、大人しく手に取ることにした。
「いただきます」
「いただきます」
二人はそれぞれ膝の上にお弁当を並べ手を合わせた。
天子は試しに唐揚げを箸で摘み上げ、口に入れてみたが、一口食べただけでその美味しさに目を見開いた。
冷めきっているというのにお肉は柔らかく、それでいてカリカリとした衣が食感を楽しませてくれる。料理人が一手間も二手間もかけて、美味しいものを食べて欲しいという気持ちが伝わってきた。
お弁当は冷たいのに、この前食べたカルビ弁当と違っていた。
店で売られていたお弁当は全体を喜ばすためのものだ。
だがこれは紫と、紫と過ごす誰かが笑って食事を楽しめるようにと、個に対して向けられた愛情が詰まっている。
お弁当一つでもここまで想いを表せるものなのかと、天子は衝撃を受け、それを受け取れる紫に嫉妬すら覚えた。
「美味しいでしょう? これを作った藍は私の自慢の家族よ。不出来な私を慕ってくれて、いつも助けてくれる」
「……まあまあね」
「そう、口にあったようで何よりだわ」
意固地な天子は、満足げな紫をイジワルだなと思いながらも箸は止めなかった。
紫も卵焼きを口に含み、しっかり咀嚼し飲み込んでから言葉を紡ぐ。
「私は後悔したことの方が多いけど、その中で自分が積み上げてきたものに誇りを持っている」
きっとそれは本物だろうと、天子も思わざるを得なかった。
こんなに美味しく、想いのこもったお弁当を受け取れるやつが、間違った道を歩んできたはずがない。
「この幻想郷を、それなりにいい場所だと思っているのよ? あなたの目にはどう映るかしら」
紫が持つ者の余裕と愛情を湛えた眼で見つめてくるのを、天子は眼が合いながら何も言い返せず、自分のお弁当に視線を落として黙々と食べた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
美味しい食事はあっという間に終わった。
ご飯粒一つ残さず空になったお弁当箱をスキマに片付けながら、紫はふと、今ならいつもと違う会話を天子とできるような気がした。
そこで前から気になっていたことを天子に尋ねた。
「……ねえ、あなたはどうして、緋想の剣を愛用の武器に選んだのかしら」
「どういう意味よ」
「あの剣のことは私も知ってるわ、強力だけどまどろっこしくて、わざわざ選ぶ必要はない。記憶が確かなら、元々使う天人も少なかったはずよ」
緋想の剣の真髄は、相手の気質を見極める能力にある。それによって相手の弱点を突ける特性は強力だが、それに必要なプロセスは気質を見極める能力を最大限に発揮しなければならず、非常に複雑だ。
確かな慧眼を持ち、少ない情報からでも相手の性質を見抜ける者だけが緋想の剣を扱えるのだ。それは智を深め、気質を扱うに足る修行を経た天人にしか成し得ない。
「私の元来の能力は知ってるでしょ、大地を扱う比那名居家の力と天候をも左右できる緋想の剣、そして私の才気を合わせれば無敵だと思っただけよ」
「本当にそう? そんな傲慢な考えなら、もっと他に強い武器を手に取ると思うのだけど」
緋想の剣を完璧に操れると言うだけで天子は驚異的ではあるのが、地上を見下し武を誇るのなら、天界ならもっと戦闘に特化した宝具が他にあったはずだ。
緋想の剣は副次機能が多いが、だからこそ無駄が多く扱いづらい。それだけでは緋想の剣を武器にする理由としては弱い気がする。
「あなたは時折、地上で通りがかった人間や妖怪の気質を空に移して見せてたらしいわね。思うんだけど、あなたのそれって気質を介して他人に触れようとしてるんじゃないかしら」
「何言ってるのよあんた」
気がついたら、紫は段々と口が勝手に動き出し、語気を強め早口で喋るようになっていた。
天子が痛くない腹を探られて嫌そうな顔をしているのに、頭が熱気に当てられたようで正常な判断ができず、口が滑り続け熱弁を振るう。
紫は高鳴る胸を押さえて、紅潮した顔を振り向かせて必死な眼で天子を見つめた。
「あなたは人を探ろうとしてるんじゃない? 気質を見極めることで、より深くその人の性質を理解できるよう手を伸ばして、相手の心に近づこうとしてるのかもっ」
「いきなりヘンなことを」
「だからっ、あなたは緋想の剣を使って、本当に通じ合える誰かと繋がろうとしてるんじゃないかって思うんだけど!」
「うるっさいわね! なんであんたにそんなことあれこれ言われなくちゃいけないのよ!」
天子に怒鳴り返されて、ようやく紫は我に返った。
自分の意見を取り合ってもらえなかったことに、自分でも驚くくらいショックを受け、恥ずかしさに髪を指に巻き付けながら顔を反らした。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「え、いや……ちょっと、止めてよそんな反応……」
天子は天子で、妙な反応を見せる紫に困惑して、頬杖を突いて顔を背ける。
紫は何を馬鹿なことを言ってるんだろうと、恥じ入るばかりだった。こんなに熱くなって本人に語り聞かせて、まったく自分の行動が理解不能だ。
これじゃあ、相手の心に近付きたがってるのは天子なんだか自分なんだかわからないではないか。
その隣で、天子がチラリと視線を動かし紫の顔色をうかがう。羞恥に頬を赤らめ、落ち着きなく髪をいじりながら憂いた瞳を伏せる姿は、まるでか弱い少女のようでドキリとした。
「まあ……その……そういうのはあるかもね」
恐る恐る天子が口を開く。
まともな返答を貰い、紫は驚いて指を止め、固唾を飲み込むと天子をそっと横目で眺めた。
「人の気質を観るのは、何気なくやってたけど、考えてみたら、まあ、寂しかったからっていうのもあるかも」
「そ、そう……」
そこまで言って、天子は紫から顔が見えないようにそっぽを向いてしまったが、耳が赤くなっているのが丸見えだった。
恥ずかしながらも、自らの気持ちの一部を吐露してくれた天子に、紫は嬉しさを感じながらも、高鳴る鼓動のせいで落ち着かずまた指先で髪をいじり始めた。
しばらく二人で何も言わずじっと座っていて、頬の赤みが落ち着いてきた辺りでようやく紫が指を止めた。
「……もう行きましょうか」
「う、うん、ここからどうするの?」
「そうね……どこか行きたいところはある?」
「やりたいこと言っても良い?」
「話ながらできるなら」
天子は空を仰ぎ見ながら口にした。
「じゃあ釣りがしたい」
二人は霧の湖にやってきた。
天子は要石に腰を下ろし、紫に用意してもらった釣り竿に針がついてるのを確認する。
「餌は……」
「これでいい」
そう言うと天子は餌も付けないまま釣り針を湖に投げ入れてしまった。
水面に広がる波紋を眺めて待ち始めた天子の隣に、紫がスキマの上で湖に頭を向けて寝転んだ。
「太公望気取り?」
「そんなとこよ」
益体もないが、話をしながら心を落ち着けるには良いだろう。
しかし紫はここからどんな話をしようか、少し頭を悩ませた。
「……ねえ、よければあなたの話を聞かせて欲しいわ」
「私の?」
「えぇ」
「……つまんないわよ、私の話なんて」
「別にいいわ、どんなものでもね」
どんな話でも受け止めるつもりでいる紫に、天子は迷って水の上に視線を這わせた。
やがて決意して、ポツリポツリと話し始める。
「小さい頃、比那名居家だからってだけで天界に上がった。けど幼い私じゃ馴染めなくって、色々頑張ったわ」
「……やっぱり、そうなのね」
そうでなければ、天人と言えどここまで強くはなれないだろう。
自由自在に要石と気質を操れる技量は、一朝一夕で身に付くものではない。
「勉強もした、修行もした、でも不良天人のそしりは免れなかったな」
「天界なんてそんなところよ、ドロドロでグチャグチャ」
「詳しいわね。まあそんなだから、ずっと馴染めないままだった」
天子はまた少し黙った。
「……私のお母様も最期までそうだった」
気になる言葉に、湖を見ていた紫の眼が天子へ向く。
話している天子自身も緊張したのか、釣り竿の乱れが糸に伝わり水面で波紋となる。
「……お母様は、天界の生活に馴染めなくてずっと前に死んじゃった。天人たちに呪い節吐きながら先に逝ったわ。天界に残ることもなく、さっさと次の生に向かった」
今でも目に浮かぶ母の死に様は、とても辛い光景だ。
父は天界で上手くやってるが、母は天子と似て不器用だった。最期まで天人を否定しながら亡くなった。
だが話を聞いていた紫は苛立たしそうな顔をして、寝転がった体を起き上がらせてスキマを尻に敷いた。
「……気に食わない母親ね。みっともない死に方」
「……なんですってあんた!?」
紫の刺々しい言葉を受け、天子は途端に怒りを漲らせた。
釣り竿を放り出し、要石から降りると紫の胸ぐらに掴みかかって、至近距離から紫を睨み付ける。
「もっぺん言ってみなさいよ!!」
「気に食わないわ。その母親はね、愛すべき娘のことをほったらかしにして、自分だけ逃げ出して楽になったのよ」
だが紫から向けられた同情の眼差しに、天子は怒りを封じ込められそうになる。
紫の言うことは、天子自身も感じていたことだった。あの日、部屋の隅に立っていた天子のことを、死に際に毒を吐く母親は見向きもしなかった。
あの時の自分は、もどかしい心で服を握りしめ、どうして自分を置いていくんだと心の中で泣いていた。
「おか、お母様は、優しい人だった!」
「優しければ、正しいことを出来るわけではない。あなたの母親は選択を誤った」
「そんなことない!!」
「なら、なんであなたはそんなにも辛そうなの」
紫の寂しそうな眼が、沈んだ声色が、あの日の天子に語りかけてくる。
泣きたい彼女にかけられる情けが、天子から怒りを奪い、胸の奥に秘めていた悲しさを引き出させる。
「私が母の立場なら、あなたを寂しくなんかさせなかったのに」
「馬鹿なことを……言うな……」
本気で唱える紫に、天子はそれ以上何も言えなかった。
真剣に哀れむ紫の眼を見ていられなくなって顔を反らし、胸ぐらを掴んだ手は震えて力が抜けていく。
顔を歪めて苦しむ天子に対し、紫が出しぬけに言った。
「……竿、引いてるわ」
「……えっ?」
呆気にとられて天子が地面に投げ出された釣り竿と湖を見ると、確かに釣り糸が動いていた。
紫の胸元から手を離し、竿を取って糸を手繰り寄せると、それなりに大きな魚が針の先に喰らいついていた。
糸に吊り下げられピチピチと跳ねる魚を、天子は呆れた表情で見つめている。
「なにこいつ、餌もないのにバカなやつ」
「あなたに食べてほしかったんじゃないかしら」
「はあ?」
天子は胡散臭そうに魚と紫とを見比べた。
楽観視しすぎで能天気だと思う。そんなことをされるほど、自分が高尚とも思えない。
「何よそれ、火に飛び込む兎かっての」
「食べなさい、食べて元気をもらうのよ。そうやって助けてもらいながら、命は生きている」
「天人なんだから、ちょっと食べないくらいじゃ死なないけどね、断食の修行もやったし」
「生きて今日を全うするためには、肉だけでなく心も必要よ。恵みに感謝し、受け入れることで、心は豊かになり明日を信じられる」
「…………」
天子はしばらく黙り込んでいたが、紫の提案を受け入れることにした。
二人で焚き火を挟んで要石とスキマに座り、串に刺した魚を炙る。内蔵を取り除いたりするのは紫がやった。
香ばしい匂いをだす焦げ目が付くと、紫は串を手に取り、焼き魚の上からパラパラと塩を振りまいた。
「はい、どうぞ」
「……ありがと……いただきます」
一応例を言って天子が受け取る。
天子はホカホカの煙を出す魚の、もう動かない白い目と見つめ合った後、魚のお腹から食いついた。
小さな口で何度も身を齧り、ハフハフとしきりに息をついて熱さを逃しながら、恵みを噛み締めた。
「どう?」
「美味しいわよ。自分から食べてくださいって言うだけのことはあるわね」
「そう、良かったわね」
丸かじりでは骨まで口の中に入ってしまったが、天子は気にせずバリバリと噛み砕いて飲み込んでいく。昼食の後だがいい食べっぷりだ。
微笑む紫の前で魚のお腹側を食べ尽くした天子は、半分になった魚を紫に差し出した。
「ごちそうさま。残り、あんたが食べなさい」
「へっ? どうして」
「この幻想郷は、あんたが作った場所よ。ならこの魚はあんたが育てたも同然、食べる権利がある」
天子の意図はどういったものであったのだろうか。楽しみを共有したかったのか、貸しを作りたくなかったのか、それとも感謝か。
いずれにせよ、紫は魚の刺さった串を受け取った。その瞬間、天子の指と少し触れたが、温かかった。
「それじゃあ、いただきます」
紫は魚の身が崩れないように気をつけて、尻尾の側から噛み付いた。
千切れた尾を指で摘んで、焚き火の中に捨てると、髪が付かないようにかき上げながらもう一つ口食べる。
「……ねえ、これって間接キスじゃないのかしら」
「ぶっ!?」
紫が何気なく呟いた言葉に、驚いた天子は、焚き火が揺らめくくらい大きく吹き出した。
「き、キモイこと言うなー! そんなこと言うなら返しなさい!!」
「イーヤーよー。せっかく貰ったものなんだからしっかり味わうわ」
「味わうなバ、ゲッホゴッホ!」
天子は要石から降りて焚き火から回り込むと、顔を真赤にして紫から魚を取り上げようとした。
しかし途中で喉の奥に痛みを感じ、大きく咳き込み手を止める。
「あら、あなたもしかして骨が喉に刺さった?」
「そ、そんなことなゲホ」
「取ってあげるわ、口あーんしなさい」
「やーめーろーゴホッ、ゴホッ!」
妙に頬をニヤつかせて世話を焼いてくる紫に、天子は嫌がって抵抗したが、結局紫の手で魚の骨は取り除かれた。と言ってもスキマ越しに指だけ口の中に入れたので苦しかったりはしなかった。
焼き魚を平らげて手を合わせる紫に、天子は恨めしげな目をしていた。
「さっきから何なのよあんたは、妙にあれこれしてきて」
「ふふ、あなたも生意気なりに頑張っているのがわかってきたもの」
このところの天子の行動と、今しがた聞いた話も合わせて、紫は内心では天子のことを悪く思わなくなってきた。いや、はっきり言えば好きになってきていたのだろう。
「桃李言わざれども下自ら蹊を成す、あなたの周りにも少しずつ慕ってくれる人が増えてきている。自分の魅力を……」
魅力や徳のある者は自然と人を集めるという故事だ。紫はこの言葉を使い天子を元気づけようとしたが、天子が顔を歪め、辛そうな目で見つめてくるのに口を閉ざした。
瞳から感じるのは強い拒絶。敵意こそないが、深く暗い失望と絶望を秘めた眼をして、天子はあらぬ方を向いた。
「私に、そんな励ましはいらない」
「……難儀な娘ね。褒めたら苦しむなんて」
「別に苦しんでなんかいない!」
紫はどうしたらいいかわからなくなる。
天子は一体、何をどう感じているというのだろうか。
紫には理解できず、そしてそれがとても悲しいと感じる。
天子が何に苦しんでいるのか理解ってあげたい、癒やしてあげたい、紫はそう感じ始めているのに、優しくすればするほど天子は遠ざかろうとする。
複雑怪奇な心に、挫けそうな思いだった。
「どうして……あなたはそう自分を傷つけるの」
思えば天子はずっとそうだ。初めて起こした異変でも自分自身を悪役として振る舞い、わざと打ち倒されるシナリオを書いた。
きっと昨日の源五郎の一件でも、自分自身を責めたことだろう。
比那名居天子は自分を傷つけることしか知らない少女なのだと、紫にはようやくわかった。周りに強く当たってばかりいるのは、自分に優しく出来ないからだ。
だからこそ、紫は座っていたスキマを要石のそばに滑らせた。
天子に近寄った紫は、苦悩を抱えた小さな身体を抱きとめようと腕を伸ばそうとする。
「そんなことしなくたって、あなたは……」
「やめて! 気持ち悪い!! 私のこと気に入らないんでしょう!? ほっといてよ!」
だが天子は紫の手を払って要石から飛び降り、距離を取ると睨み付けてきたが、紫もそれで諦めなかった。
自分もスキマから降りて地に立つと、天子に歩み寄って手を伸ばす。
何度も手を弾かれ、その度に差し出し直した。
「だから止めてって!」
「止めないわ……!」
「賢者を気取ってるくせに、そんな意地になるんじゃないわよ!!」
「意地になってるのはあなたもでしょう!?」
声を荒げ切迫した様子で近付いてくる紫に、天子はとうとう背を向けて逃げ出そうとした。
その背後に紫はスキマを繋げて飛び出すと、後ろから天子の脇の下に手を差し込み、お腹の上でがっしりと組んで捕まえた。
紫の腕の中に抱き締められた天子は、乱暴に腕を振り回して抱擁を解こうとする。
「この、離せえー!!」
「離さない!」
暴れた拍子に紫は後ろに倒れ尻餅をついたが、意地でも天子を抱き締めたままだ。
振りかぶられた天子の頭が、紫の顎に打ち付けられる。だが紫は境界操作まで使ってダメージを防ぎ、決して腕を解かなかった。
「なんで私なんかにそんな優しくするのよ!」
「なんかじゃない! あなたにはそれだけの価値がある!」
「嘘つけ!!」
「嘘じゃない!!」
疲れた天子が、力を抜きぐったりと紫の胸に身を預けた。
「……地上の妖怪のくせに、なんであんたはこんなに優しいのよ…………」
弱い声に、紫は愁眉を浮かべより強く抱き、天子の身体が紫にぎゅっと押し付けられた。
お互いに密着し、その時に天子は、だぶついた道士服の下にある紫の身体が、見た目よりずっと細いことを知った。
こんな状況なのに、紫の身体は思わず折れてしまわないか心配になるほど儚くて、その身体でどうしてそれほど強く他人を想えるのかと不思議に感じた。
酷い思いを繰り返し、傷ついてばかりいた妖怪なのに、天にいた自分よりずっとずっと優しい。
それが何よりも悔しくて、惨めで、天子は苦しい顔をして空を見上げた。
「私が幻想郷に来たから、それだけであんたは優しくするの……?」
「違うわ。私は、あなたを、天子を……!」
「なら……私の好きなところを言える?」
力無い天子に、紫は咄嗟に言い返せなかった。
紫には、自分でもどうしてここまで天子にこだわるのかわからない。彼女の何に惹かれてるのかわからない。
そんな身では、天子の問いに答えることができなかった。
これでは優しくしたところで天子は変わらないだろう、きっとこれからも自分を傷つける。
「ほら、見なさいよ、どうせ私なんて……」
「それでも、それでも」
落ちてきた雫が、天子の帽子のツバを叩いた。
動かない天子の頭上から、鼻をすする音が聞こえてくる。
「……せめて、今だけは、傷付かないでいて欲しい……」
何も変わらないとわかっていながら、紫は熱い涙を流して、じっと抱き締め続けた。
ただただ優しくありたかった。それ以外に、出来ることが思い浮かばなかったから、せめて目一杯の優しさを集め、天子に伝えたかった。
こんなものはただのエゴに過ぎない、身勝手な優しさを振りかざすしかない自分を、紫は悔しく思う。
「その優しさ自体が、私を傷付けるんだ」
「……ごめんなさい」
「……あんたは、みんなが思うより莫迦ね……」
「えぇ、自分でも、驚いてる」
泣きながら抱き締める紫は、かつて独りで泣いた夜を思い出し、天子が泣いてくれないのを、悔しいと思った。
もう抵抗しなくなった天子は、紫に身を任せながら恨みがましく呟く。
「お前なんて……エゴにまみれたお前なんて、大嫌いだ妖怪……」
「……私も、身勝手なお前のことが大嫌いだよ天人」
二人はグチャグチャの心のまま、長い間ずっとそうしていた。
何も言わず抱き合い、相手の身体の小ささと、細さと、温かさを感じる。
天子は時折紫が鼻をすする音を聞きながら、空を見上げて、自分がどれほど小さな存在なのかを実感していた。
日が暮れて、夕日に飛び立つ鴉が目立つようになった頃、ようやく紫は力を弱め、天子を抱擁から開放した。
「今日はもう終わり、私のわがままに付き合わせて悪かったわ。帰ってゆっくり休んで頂戴」
立ち上がると赤い目元を拭って涙のあとを消そうとする紫を見て、天子も立ち上がり低い声を出した。
「……明日は?」
「朝六時、輝針城前で」
「……じゃあ」
口数も少なめに、天子は空に浮かび上がり輝針城へと戻っていった。
紫がその姿が見えなくなるまで眺め、自分も疲れたし家に帰ろうと思い立った時、何処からか声が響いてきた。
「やあ、また面倒なことやってんね、紫」
驚いた紫が頬を赤らめて振り向くと、そこは霧のようなものが渦巻いて形をなしていくところだった。
萃まった霧の中心から現れたのは、大きな二本の角を頭に備えた、見た目だけは小さい鬼の姿。
「す、萃香!? どうしてあなたが!」
「おいおい、神出鬼没なのはお前だって同じだろ。私がどこへいたって良いじゃんか」
紫の友人でもある萃香は地面に降り立つと、紫が普段言いそうなことを言ってやってケラケラと笑う。
そして持っていた瓢箪から酒を飲もうとしたところで、角を握られ引っ張られ、感情的に睨み付けてくる紫と目が合った。
「ど、こ、か、ら、見てたのあなたは!」
「お、おぉう、怖いなぁ。お前からそんなに怒られるの初めてだよ。どこからって言えば、まぁ釣りしてた辺りから」
「い、イヤァー!!」
威圧的だった紫は、今度は打って変わって悲鳴を上げ、頭を抱えながらうずくまってしまった。
流石に焦った萃香が「あぁ~……」と迷いながら声をかけようとしたところで、ぐりんと紫の顔が上を向き、吊り上げた目の端に涙を浮かべながら萃香を見つめてきた。
「違うのよ、これはああいうアレじゃなくて。あくまで彼女が暴れたら面倒だからという、賢者の役割に則った行為でやましい気持ちは何もないのよ本当に」
「お前こういうのは驚くくらい嘘つくの下手なんだなぁ」
「聞いてるの萃香!?」
「はいはい、そうしといてあげるよ。ったく嘘つきめ」
あからさまに気持ちを隠そうとする紫に、萃香は気に入らなそうな顔をしたが話を合わせてあげていた。
妖怪の賢者としての威厳を一応取り繕った紫は、立ち上がって咳払いをして調子を戻そうとした。
「まったく、覗き見なんて趣味が悪い」
「お前が言うなお前が。天子のことは気になってたからね、見つけりゃ追いかけもするさ」
「よくあんな傲慢な天人のことを気に入ったものね。あなたの好みとは間逆な気がするけど」
「お前が言うなって何回言わせる気だよ」
呆れ果てた萃香は顔を引きつらせながらも、自分から見た天子評を答えた。
「まあなぁ、あいつは結構嘘つきだ。そりゃ私は鬼だからそういうやつは基本好かないけどね。血を吐きながら嘘をつくやつは、どうにも嫌いになれないさ」
「…………血を吐きながら、ね。言い得て妙だわ」
「そこんとこ、お前と似てるよ紫」
萃香がそう言ってやると、紫は丸くした目をしきりに瞬かせた。
「私が彼女と? 冗談言わないでちょうだい、気分が悪いわ」
「へっへっへ、本当にそうかね。お前の場合、泣きながら嘘つくタイプに思うぞ」
「信用ないなんて悲しいわ」
「自業自得だろ。嘘つきまくってて何言ってんのさ。それよかお前さん、明日も天子とデートかい」
「デぇ……っ!違います、監視に過ぎませんわ」
「ククク、そうかい。まあ頑張って仲良くなりなよ、さっきのお前立派だったさ」
「立派だなんて、私は私のしたいようにしただけよ」
「なら余計立派さ、正直者が一番強いからね。お前だって誰とでも仲良くなれるさ」
萃香は言うだけ言うと、浮かび上がって自らの存在を霧散させ始めた。
「萃香」
「なんだい?」
「……ありがとう、元気付けてくれて」
「へへっ、私もお前には世話になってるから良いってことよ。ほんじゃまたね、次会ったら天子とどこまで仲良くなったか話しておくれよ」
「えぇ、また」
萃香は歯を見せて快活に笑うと、霧となってもう暗くなった空に消えていった。
彼女も、紫にとっては掛け替えのない友人だ。自分と天子の関係を見てもらえたのは、却ってよかったかもしれない。
嘘を吐いてばかりの自分と仲良くしてくれることに感謝しながら、明日もまた頑張ろうと勇気を貰えた気分だった。
◇ ◆ ◇
日が沈んできた、空には星明かりがポツポツと現れて、少しずつ肌寒くなってくる。
人里は比較的明かりが多い場所だが、それでも商店がある大きな通り以外は薄暗闇が覆っている。
薄い服を着た紫苑は腕をさすりながらも、辺りを見渡しながら当てもなく歩いていた。
「寒いわぁ、天子から貰ったお金で上着でも買えばよかったかしら……」
ポケットの財布には、天子がくれたお金が入っている。というのも今日の晩御飯を作る約束をしたからその材料費なのだが、かなりの金額をもらったので服の一着くらいなら買ってもまだ余裕があった。
しかし、こんな遅くまでなるとは思わっていなかった。紫苑が買い物もせずにこんな時間まで人里に残っている理由は、源五郎を探すためだ。
今日の朝早く、紫と合流する前の天子が紫苑の前に現れて、今晩の夕食を任せたいというのと、源五郎の様子を見てきてくれと頼まれたのだ。
天子も他人の家庭を引っ掻き回したことについて、かなり責任を感じているようであったし、紫苑も了承して源五郎の家に行ったのだがあいにく不在、まだ怯えていた母親に「出てけー!」とキーキー喚かれただけで行き先もわからない。
仕方なく自分の足で探して、頑張って人に尋ねたりしてみたのだが、この時間になっても手がかり一つ見つかっていない。
「全然見つからないわー。いい加減疲れてきたし、もう一回家に尋ねてみていなかったら私も帰ろうか……って、いやいや、帰ってなかったらそれこそ大変じゃない。そんなの天子に伝えたら探しに行くって言い出すに決まってるわ……あら、そしたら一度帰って、天子と一緒に探したほうが良いのかしら?」
「――あれ、姉さんこんなとこで何してるの!?」
ポツポツ独り言を呟いていると、後ろから聞き親しんだ声が聞こえてきて紫苑は振り返った。
闇夜の向こうにうっすらと見える、身の丈に合わないブランド品に身を包んだ姿は、紫苑の妹である疫病神の依神女苑だった。
彼女は完全憑依異変以降、しばらくは命蓮寺で暮らしたのだが、修行が嫌になって逃げ出して、今は人里で適当な金持ちを狙って金を巻き上げながら生活している。もっとも、命蓮寺での修行の効果もあり、少しは心を入れ替えて悪行は程々に留めているが。
「女苑! 久しぶりね、元気だった」
「久しぶりって言っても数日くらいでしょ、まあ上手くやってるわ。姉さんこそ……って、うわ靴履いてる!? 前から嫌がってたのに」
女苑が驚きながら近付いてきたが、彼女の傍らには小さな人影があった。
最初は薄暗闇ではっきりと姿が見えなかったが、近くの家から漏れた明かりがその人影に差し、胸に灰色の猫を抱いた少年の姿を照らし出した。
「って、源五郎君!? どうして女苑と」
「この子姉さんの知り合いなの? 本当? こんな時間になっても寒そうな路地裏にいてさ、危ないから連れてたんだけど、家がどこかも教えてくれないのよね。もしかして姉さん知ってたりする?」
疫病神の運んできたまさかの幸運に、紫苑はすぐさま源五郎に駆け寄った。
相変わらず胸にミカを抱いているが、源五郎は顔色が悪く微妙に身体が震えている。ちゃんとご飯は食べていたんだろうか。
子供の扱いなどしたことない紫苑だったが、流石にこれを見てそのままという訳にはいかず、緊張で声を裏返しながらも話しかけてみた。
「げ、源五郎君、大丈夫? 天子も心配してたよ、今日はどうしてたの?」
「……家にいたくないからずっと外にいてた。ミカと一緒にいて、ずっと考えてた」
「にゃおおん」
源五郎の胸からミカが鳴き声を上げる。
もしかして、一日中源五郎と一緒にいたのだろうか。だとしたら随分と飼い主思いの猫だ。
「寒くなるわ、女苑の言う通りもう帰ったほうが良い。家で寝ないと体を壊すわ」
「そうそう、そんで元気になって富んだ大人に成長してね。じゃないと私が食いっぱぐれるし」
「……うん」
源五郎は短く頷くと、紫苑を仰ぎ見た。
「ねえ、天人様と知り合いなんですよね」
「うん、これからも会う約束をしてる」
「ボクずっと考えてました。考えて、考えて……それで、ミカだけでも傷つけたくないって思ったんです。だから、天人様には心配しないでって伝えてください」
「……うん、わかったわ。でも無理しちゃダメよ」
紫苑はどうにも源五郎が心に詰め込みすぎてるように感じ、思い悩む彼に不安を抱いた。
なんとなく自分も彼を助けられたらと思い、自分の財布を取り出すと、そこから何枚か額が小さめお札を抜き出して源五郎に渡した。
「これあげる。天子のお金だけど彼女なら自由に使わせると思うから。あぶく銭はあんまり良くないけど、美味しいもの食べないと元気でないわ」
「うわ、姉さん何それ! どうしてそんなにお金持ってるの!?」
驚く女苑を無視して、紫苑はお札を折りたたんで源五郎の手に握らせた。
「……ありがとうございます。食べるもの買ってから家に帰ります、後は一人で大丈夫です」
「うん、でももう暗いし、女苑が一緒にいてあげてくれない?」
「えー、私が? うーん、でも姉さんのお金とかなんか心配だしなー。しょうがない、乗りかかった船だし、今日くらいは面倒見てあげるわ」
「奪っちゃダメよ」
「流石に子供から奪わないわよ、私だって少しは変わったんだから」
胸を張る女苑だったが、紫苑に顔を近づけると、源五郎に聞こえないよう耳打ちした。
「でも姉さん大丈夫なの? あんなにお金あげて」
「天子からいっぱい貰ってるから、今日は余裕あるの」
「うわー、リッチねあの天人。でも気を付けてよね、姉さん抜けてるし」
女苑は源五郎の背中を軽く叩くと、彼の目を見ながら道の先を指差した。
「それじゃ源五郎君だっけ、食べに行きましょ。猫が一緒なら買い食いできる店がいいわね、良いとこ知ってるから連れてってあげるわ」
「ありがとうございます。えっと……」
「女苑よ、依神女苑。そこにいる姉さんの妹の」
そうして源五郎は、女苑とともに明かりが強い方へ歩いていった。
手を降って見送った紫苑は、改めて天子に言われた用事をこなそうと別の道へ向き直った。
「さて、私も何か買って帰ろうかな。天子の分も用意しとかないと……」
確かこの先に、遅くまで売ってくれている弁当屋があったはずだ。もう天子が先に帰っているかもしれない、帰ってから作ったのでは遅くなるし、そこで晩御飯を調達してしまおうと考えていた。
しかし紫苑は気付いていない。さっき源五郎に渡したのは、持っていたお金のほぼ全額で、残っているのがわずかばかりの小銭しかないことを。お金をいっぱい貰ったから、金額別に分けておこうと考えていたのに実行するのだけ忘れておきながら、お札を全部渡していたことを。
大きなお札が数枚は残っていると楽観的に考えている紫苑は、何も知らないまま源五郎たちとは別方向へ歩いていった。
◇ ◆ ◇
「今日はごめんなさいね、いきなり仕事を押し付けて」
天子との一件のあと、紫は念入りに涙の跡を洗ってから家に帰った。
家では先に帰っていた藍が、すでに夕食の準備をしてくれていて、今はもう二人で夕食を食べた後だ。
空のお皿が並んだ机の向こうで、藍は涼やかな声を返した。
「いえ、構いませんよ。仕事と言っても奉仕活動なんて内容もヌルいですし」
藍は新愛をこめて笑いかけてくる。彼女には今日、ある仕事を任せていた。
それは元々は天子がこなす予定だった奉仕活動だ。しかし紫のきまぐれで天子を連れ回すことにしたため、藍に代わりを務めてもらったのだ。
急な仕事の後だと言うのに、藍は文句の一つも言わず家事までこなしてくれている。
「紫様が持ってくる仕事は必要なことか、逆にどうでもいいことかばっかりでしたからね。必要ではないけど大切なことの手伝いをできるのは、けっこう嬉しいです」
「……ありがとうね、本当に。藍には助けられてばかりだわ。朝も忙しいのに、お弁当まで用意してもらって」
「それより朝に弱い紫様が、特別重要な用事でもないのに毎日起きてることのほうが驚異的ですよ」
まあ確かにと、紫はつい喉を鳴らして笑ってしまった。
朝の時間帯など、本来ならグースカ寝ているのが紫の常だ。それなのに、個人のために必死になって起き出すなど、初めてのことだった。
「私こそ紫様に助けられましたから。彷徨う私に生きる意味を与えてくれた。そんなあなたを助けられるなら、この程度の苦労、買って出ますよ」
そう言って藍は手に持った湯呑みに口をつけて大きく傾けた。
冷めてきていたお茶が喉を通り、空になった湯呑みを机に置くと、紫が急須を持って微笑みかけた。
「おかわり、いる?」
「はい、お願いします」
頑張ってくれた部下に、これくらいの労いは当然だろう。
紫は長い袖が邪魔にならないようまくり、お茶を注ぎながら話しかけた。
「今日は橙は?」
「マヨヒガですよ、産気づいてる猫がいるんです。多分、今日の夜に生まれると思いますので、明日には帰ってくるんじゃないでしょうか」
橙は自由な黒猫だ。よく家に帰ってこなくて、それが少し寂しいが彼女が元気にやれるならそれが一番だろう。
湯気が立つお茶でいっぱいになった湯呑みを見ながら、今度は藍の方から問いかけた。
「例の天人と二人きりで上手くいきましたか?」
「それは……まあまあね」
「心配ですねー。紫様って誤魔化すのは得意ですけど人付き合いメチャクチャ苦手ですし、友達もあんまりいないし」
「そ、そこまで言う?」
楽しく談笑していた紫から笑みが崩れる。
「橙と仲良くなるのに数年がかりだったのを思い出してくださいよ。普通に話せばいいのに、緊張して変に威圧的に出て怖がらせて、いつも自己嫌悪で頭抱えてたの、私は忘れませんよ」
「うっ……」
サラリと追撃をかけられ、紫は罰が悪そうな顔をして机に頬杖を突く。
藍が橙を家に連れてきて彼女を家族として迎えてから、紫と橙が打ち解けるまでかなり時間がかかったのは確かだった。
「……まあ、ほんのすこーし、不器用なのは認めるわ。でも比那名居天子よりかはマシよ」
「紫様よりコミュ障とか、生存が怪しいレベルな気がするんですけど……」
「だからそこまで言う?」
眉をひそめる紫だったが、一度姿勢を正して気持ちを入れ替えると、さきほどまでのことを思い出して言葉を零した。
「今日は、彼女に優しくしてみたけど、多分変わらないでしょうね」
比那名居天子は自らを満たす何かを求めている。恐らくは彼女が異変を起こす、そのずっと前から。
生きる世界のすべてを打ち崩し、そこに理想郷を打ち立てたいと思うほどの業を抱えながら、たった独りで異変を起こし、地上に降りてきた。
それは彼女の強さだが、同時に欠点でもある。このままでは背負いすぎた業に天子が潰れかねないが、今の紫にはどうにも出来ない。
きっと天子には何もかも足りないのだ、優しさ以外に、もっと多くのものが必要だ。
すべてが揃った時に、ようやく天子は何かを見つけることが出来るのではないかと、紫は考えている。
「一つ気になるのですが、紫様はその天子をどうしたいんですか?」
「…………どうなのかしらね」
天子から問われた『どこが好きなのか』という質問にも通じるが、未だ紫は明確な答えを持てていない。
「最初は、彼奴のことになると感情的になる自分が新鮮で、自分自身を探るために近付いた。でも彼女を見ている内に、それだけで良いのかって思い始めている」
狂おしいほど真っ直ぐで、痛々しいほど歪んでいて。他人の家庭に土足で踏み込んで怒りを燃やすほど無鉄砲で、だけど優しい人だと信じられている天子。
紫は、ただあの少女の傷を癒せればそれで満足なのかと自問し、首を振った。
多分違う、天子が優しくされるだけでは足らないように、紫も優しくしてあげるだけでは足らない。
自分が何を求めているのか、それを知るためにもっと理解が必要だ。
「今は、もっと彼女のことを知りたい、かも……なんてね」
遠い目をして語る紫は、けれど瞳にキラキラと美しい輝きを浮かべていた。
それを見て、藍は思わず吹き出して、甘さに砂を吐く気分だった。
「甘っ、恋する女の子みたいなこと言いますね」
「こっ……そんな、あんなのどうでもいいに決まってるでしょう!!」
「十秒前の言葉思い返して下さい、思いっきり矛盾してますよ」
言われてみればなんて恥ずかしい台詞だと、紫は顔を真赤にして机を叩き、藍から呆れた目で見られてしまった。
藍はうろたえる主を見て、なるほどこれは新鮮だと思いながら、注いでもらったお茶を口元に近付けた。
「知りたいなら、それでいいんじゃないですか。応援しますよ」
「……ありがとう」
「いえ。そろそろ片付けてきます。お風呂の準備はできてるので先に入ってて下さい」
藍はお茶を一気に飲み干すと、お盆の上に食器をまとめて居間から出ていき、一人になった紫は、お風呂に入る前にスキマを開いて輝針城の様子を覗いてみた。
先に帰っていた天子が、遅くなった紫苑にプリプリと怒っているのが見えた。
紫苑は妙に落ち込んでおり、それとなく察した紫は、いくつか食材をまとめて手提げ袋に詰め、紫苑の背後に置いてやった。
謝っている紫苑だったが、天子に言われて後ろに振り向くと、食材の詰まった袋を見つけ、困惑した表情でいる。
驚いているようだが、この後は天子と一緒に夕食作りに励むだろう。
しかし針妙丸の姿がないのが気にかかる、昨日の天子は荒れていたし喧嘩でもしたのかもしれない。
天子の様子は、いつも通りに見えた。
少しは元気になってくれたかと、紫はホッとする。
「……今日はよく寝れると良いわね」
今日の朝、天子は酷い顔だった、怖い夢でも見たのかもしれない。
せめて今日くらいはいい夢を見られるよう、紫は微笑みに慈愛を込め、祈った。
◇ ◆ ◇
――穏やかな世界。
伸びた道の両脇には綺麗な花々が咲いていて、芳しい香りと天然のベッドがそこにある。
頭上にある空はどこまでも広く、無限に続いていて、その下にいる私達を祝福するように抱き締めている。
私はそれらに目もくれずに走り続けた。
進む先は坂道になっている。絶えず力を込める脚に心臓が爆発しそうなくらいに唸りを上げ、身体を内側から締め上げた。
跳ね上がり、破裂しそうな胸に力を込めて頑張って走る。
『今日のは悪夢ではありませんね。これは……』
駆け巡る血潮が火の付いたガソリンみたいに沸き立ってる。
煮られた油に飛び込んだように身体中が熱い。苦しい。辛い。でも止まれない、止まらない。
止まるもんか。
『あなたの願いの一端ですか、しかしなんとまあ酷い夢』
内側から押し出された血で、肌がどんどんヒビ割れていく。
全身から吹き出た血が、地面に落ちていくのがわかる。
私は大地を汚し、呪いをばら撒きながら走っている。
『マゾヒストならまだマシです、とんでもない自傷癖を抱え込んでますね。赤子みたいな純粋さを持ちながら、ここまで歪めるとは驚異的です』
舌がガラスみたいに砕け、口から零れ落ちた。
構わない、どうせ怒りしか口にできないならこんなものいらない。
『私には何も出来ませんが。せめて純粋なあなたが願いに辿り着き、あなたが――されることを祈りますよ』
眼球に火がつく。緋色の炎が視界に揺らぎ、空も大地も緋く染まっていく。
咲いていた綺麗な花が塗りつぶされる、どうせ最初から私にはないのと同じだから変わりない。
気にするな、走れ。止まるな。進め。
走る、走る、走る。
苦しみを引き連れて、私は走り続ける。
休みたくなんかない、そんなことしてる暇があったら一歩でも先へ進みたい。
きっとこの道を超えた向こうに、私を――――
揺らめく世界の向こう側。丘の上に育った大樹の影で、誰かが佇んでいるのが、燃え盛る炎の向こうに見えた。
声を上げようとしたけど出てこない。緋い世界を私は力の限り走る。踏みしめる足が悲鳴を上げてるけど聞いてなんかやらない。
あそこだ、あそこだ。あそこに往けばきっと、きっと!
誰かがこっちを向いて、妖しい唇を開いた。
――――壊れちゃいなよ。
槍のような血流が脳を貫いていく。思考がキラキラと光を散らして砕けていく。
指先から土くれのように崩れていく身体から、沸騰した血を吹き出させて、それでも走り続ける。
真っ白になる頭の中で、辛うじて感じられたのが、歓喜。
砕けた顔にどんな想いを表したのかわからないまま、待ち望んだ剣を振り抜いた。
◇ ◆ ◇
奉仕活動四日目、最終日。
今日は二日目と同じく人里での活動だった。
天子は輝針城前で紫と合流し、人里の入り口まで飛んできていた。
「それで、今日の仕事は?」
「清掃よ、また日が暮れるまでやってもらうわ。まずは……」
紫が人里に入る門をくぐろうとした時、背後から物音がして二人が振り向いた。
近くにあった森の茂みから覗いてきたのは、見覚えのある灰色の猫。
草むらをかき分けて出てきた灰色の猫は、脇腹の毛を赤黒く染め苦しい息を吐いた。
「ミカ!?」
「にゃぁ……お」
血で汚れたミカの姿に、天子は悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが、か細い鳴き声から伝わってきたものに目の色を変えた。
天子はポケットの一番奥に手を突っ込んで、奥から仙桃を取り出すと、見向きもしないで紫へ放り投げる、自身はミカのそばを通り過ぎて森へ駆け出した。
「紫! これ食べさせといて、頼んだ!」
桃を受け取った紫の前で、ミカは震える膝を折って草の上に倒れる。
紫は静かにミカに近寄ると、手に持った桃を皮ごと齧り、その破片を口から取り出すとミカの口に押し付けた。
「お食べなさい、彼女の慈悲よ」
息も絶え絶えなミカは、力を振り絞って桃を口に含んだ。
そのあいだにも、ミカの毛には赤い色が少しずつ広がっていく。
傷は深い、天界の仙桃は肉体を強靭にする効果があるがとっくに手遅れだ。それでも痛みを無くす効果くらいはあるだろう。
桃を飲み込んだミカは、大きく息をつくと閉じかけた瞳で紫を見上げた。
「よく頑張ったわね。あなたは立派だわ」
紫はそう言うと、ミカの頭を優しく撫でた。
ミカは気持ちよさそうに目を細めて、小さな声で鳴こうとしたが、うまく声が出ずヒューと風が鳴る音だけが届く。
「安心しなさい、天子が走って行く。あんなにも強い彼女なら、源五郎にも力を与えてくれるって、あなたもそう思うでしょう?」
紫の言葉に、ミカはわずかに首をうなずかせると、瞳を閉じて体の力を抜いた。
紫は触れた手の平から、命の灯火が消えていくのを感じている。
「お疲れさまミカ、おやすみなさい」
天子は走った。森を駆け抜け、一心不乱に前へ進む。
ミカが言っていた、源五郎が危ないと。彼はこの先にいるのだ。
行く手を塞ぐ枝葉を肩でへし折り、大木の根を超えたところで、遠くに人影を見つけたところで悲鳴が届いてきた。
「う、うわああああ!!!」
聞き覚えのある声、源五郎だ。まさに今、彼の身に危険が迫っている。
天子は更に加速して木々の間を抜けると、緋想の剣を取り出して気質を集中させた。
涙を流しながら逃げている源五郎の元へ飛び込むと、三匹の犬の妖獣が源五郎を取り囲み彼を襲おうとしているところだった。
緋想の剣がいっそう輝き、剣の煌めきが閃光のように走ると、源五郎に飛びつこうとしていた妖獣の一匹を、鼻先から股ぐらまで真っ二つに切り裂いた。
「て、天人様!?」
「お前たち! この子に手を出そうというのなら容赦はしない!」
泥だらけの源五郎は尻餅をつくと、涙と鼻水でビチャビチャになった顔を拭かないまま、現れた天子を見上げている。
残っていた二匹の妖獣が、突然の乱入者を前にして足を止めて威嚇するよう唸り声を上げた。
天子は緋想の剣を前へ突き付け、凛とした声を響かせた。
「死にたいやつだけ前へ出ろ! 一切の迷いなく斬る!」
天子から溢れる強者のオーラが、大した知能も理性も持たない妖獣を圧倒した。
叩きつけられる圧力から戦力差を感じ取った妖獣たちは、仲間の亡骸に見向きもせず、踵を返して森の奥へと去っていった。
危機が去ってもなお、源五郎は腰が抜けて地面にへたり込んだままだ。そんな彼に、天子は緋想の剣をしまって厳しい顔で睨み付けると、右手を振り上げた。
「ひぃっ! ごめんなさい!」
「…………!!」
だが天子は、震える右手を何事もなく下ろした。ここで感情から源五郎をぶったのでは、二日前と何も変わらない。
激情を押さえ、冷静であるように努めた。
「源五郎、あんたこんなところで、何を……」
「ぼ、ボク、やっぱりミカに傷ついてほしくないって思ったんだ……だから、山奥に猫達が住んでるマヨヒガって村があるって聞いて……妖怪が少なそうな朝の内に、ミカを届けてそこの仲間に入れてもらおうと思って……」
「それで……か……」
その気持は立派だが、子供が外に出て危険を冒そうなど叱られてしかるべき行為だった。
しかし天子にはそれを叱ることはできなかった。彼を駆り立てたのは、他でもない天子自身なのだから。
自分が人の家庭に踏み入って、無茶苦茶にしなければ、源五郎も無謀な真似はしなかっただろうに。
苦悩する天子の前で、源五郎は涙を止めると、地面の上で正座して前のめりになって声を上げた。
「て、天人様、ミカを知りませんか!? ボクより先に逃げていったみたいなんですが!」
「ミカは……」
返答に迷っていると、天子が来た道を辿って紫が歩いてくるのが見えた。
獣道を超えて少しずつ近付いてくる彼女の胸元には、血に染まったミカが抱きかかえられている。
そのことに気づいた源五郎が、呆然とした声を上げた。
「えっ……ミカは……?」
「亡くなったわ」
紫が簡潔に、事実を伝える。
源五郎が目を瞬いて立ち上がると、紫は彼の前に跪いて抱えていたミカを見せた。
「血のついてる部分には触らないほうが良い。よくないものが感染るわ」
「み……か……」
源五郎は声を震わせながら、恐る恐る眠っているようなミカの頭を撫でた。
息絶えたばかりのミカはまだ温かさを残していたが、その身体からは命の脈動が伝わってこず、本当にミカが死んだのだということが否応なく理解ってしまった。
自分の判断でミカを死なせてしまったと知った源五郎は、表情を氷漬けにしたまま目の端から大粒の涙を流し始め、やがて耐えきれなくなって顔を歪め、大きな泣き声を森のなかに響かせた。
「う……うぅ…………うぁあああああああああああああああああ!!!」
天子は歯を噛み締め、爪が食い込んで血が出るほど強く手を握りしめた。
けれど辛いからと言って逃げ出す訳にはいかない。源五郎をそそのかしたのが自分なら、なおさらやらないといけないことがある。
天子は源五郎の肩を軽く叩いた。
「……お墓を作ってあげましょう。どこがいい?」
「……うぐっ……ひっぐ……ま、マヨヒガぁ……! ミカ、ひっぐ……寂しくないように……!」
「そうか……うん、そうね……」
家の傍では、あの母親が良からぬ気を起こすかもしれない。誰も手出ししない場所で、ゆっくりと眠らせるのもいいだろう。
マヨヒガへは紫が案内してくれた。スキマで直接飛ぶことも出来たが、あえて源五郎に自分の足で歩かせた。それが少しでも償いになると信じた。
紫は源五郎の世話を天子に任せ、自分はずっとミカの亡骸を抱えていた。
泣き続ける源五郎を連れ、一行は一時間ほど歩き続け、猫達が集まっているマヨヒガに辿り着いた。
昨日からマヨヒガに寝泊まりしていた橙が、廃屋から顔を出し、珍しい来訪者に気がついた。
「あれ? 紫様じゃないですか! どーしたんですかー?」
嬉しそうに駆け寄ってきた橙だったが、抱えられた血まみれの猫を見ると驚いて声を潜めた。
「紫様、その子……」
「この子供の飼い猫よ。ここに埋葬してあげたい、いいかしら?」
「……わかりました。こっちにみんなのお墓があります」
天子に支えられた源五郎はすでに泣き止んでいたが、その顔は依然として悲しさに塗りたくられたままだった。
橙はマヨヒガの奥にある、猫達の墓地に案内してくれた。
どのお墓も、盛り上がった土の上に、木の棒を挿しただけの簡素な作りだが、ここなら寂しくはなさそうだ。
「この墓地の端っこに埋めてあげて下さい。紫様、すみませんが昨日生まれた赤ちゃんを診ていたいんで失礼します」
「えぇ、ありがとうね。こっちのことは気にしないで」
足早に去っていった橙を見送り、ミカの墓づくりが始められた。
真っ先に源五郎が素手で穴を掘ろうとしたが、それを制止して紫が園芸用のスコップを取り出して彼に渡した。
「これを使いなさい、あなたの手が傷つくのを、ミカは望んでないわ」
「……はい」
源五郎はスコップを受け取ると、黙りこくったまま穴を掘り始めた。
紫はミカを地面の上に降ろすと亡骸が汚れないよう白い布で包んでやり、さらに二つのスコップを取り出して片方を天子へ渡す。
「はい、あなたのよ」
「……あんたもやっぱり手伝う気なんだ」
天子は、ミカの血で汚れた紫の胸元を見つめながら言った。
「ミカも幻想郷の住人に変わりはないわ」
「……本当に、優しいやつ」
死者の前だ、天子もそれ以上の憎まれ口は謹んだ。
曇り始めた空の下で、黙って土を掘る。三人でやればそう時間はかからなかった。
深めに掘られた穴を覗いて、源五郎は心配そうな声を出して天子に振り返った。
「こんなに深くて、ミカは苦しくない? 大丈夫?」
「大丈夫よ、浅いと野犬に掘り起こされることもある。ここならその心配もいらないかもしれないけど、念を入れるに越したことはないわ」
「ミカはちゃんと天国に行ける? 地獄に落ちちゃったりしない?」
天子は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑みを浮かべて源五郎の頭を撫でた。
「ミカは立派だった、必ず天界へ行けるわ」
「本当?」
「うん、私が保証する」
天子が苦く笑いながら明るい言葉を並べる様子を、紫は少し離れて見ていた。
空には暗雲が立ち込めてきた、空気が重く、雨が降る前の臭いが漂ってきている。
「……早めに終わらせましょう。天気が崩れてきたわ」
「うん。源五郎、ミカを」
源五郎は白い布で包まれたミカをそっと持ち上げ、深い穴の奥へ恐る恐る安置した。
穴の中に独りで入れられたミカを見て、源五郎はまた泣きそうな顔をしながらも、グッとこらえて顔を上げた。
三人はミカの上から土をかけ、勇者の亡骸を丁重に埋葬した。
ミカを埋めた場所に土で固めた山を作ると、紫が墓標となる木と彫刻刀を用意してくれた。
源五郎にミカの名を刻ませ、墓の上に挿す。
「できた……」
源五郎は呆然と唱え、墓を見下ろす。その声には達成感というよりも、後悔したような声色だった。
先にあった多くの墓の端に建てられ、大勢のうちの一匹に混ざったミカのお墓。
源五郎はそれを眺め、本当にミカが自分の手の届かないところに行ってしまったんだと理解して、我慢していた涙を再び流し始めた。
「う……うぅ……」
立ったままクシャクシャに顔を歪め、静かにすすり泣く。こんなことをしていちゃミカが心配してしまうと言うのに、我慢しきれない。
「ひっく! ……ボク、もうミカに傷ついてほしくないって思ったんだ……ひっく、なのにボクは……ボクのせいで……」
次々と零れ落ちる後悔の念。自分が無謀なことをしなければ、最悪の事態にはならなかったろうに。
涙を止められない源五郎に、突然後ろから天子が抱きついた。
「ひっぐ……天人様……?」
「……悪いのは全部私。私が、あんたたちを追い詰めたから……」
天子は力に頼った過去の自分を思う。この子供の母親を怯えさせ、源五郎に無理なことをさせてしまった。
自分がもっと、賢かったなら、自分がもっと優しい立派な天人であれたなら、何かが違っていたかもしれないのに。
「ごめんね……ごめんね……私が馬鹿だから……私がろくでなしだから……」
段々と天子の声が震えていく、紫が何も言わず見守っている前で、天上に生きた少女は俯かせた顔を歪ませていき、一滴の熱い雫が源五郎の額に零れ落ちた。
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい…………!!」
紫が何を言っても泣かなかった天子が、ぎゅっと締め付けた瞼の端から、次々と涙をこぼし始めた。
ボタボタと雨のように、大粒の涙が源五郎を打つ。そこから伝わるあまりの熱さに、源五郎は呆気にとられた様子で泣くのを止めていた。
ちょっと前に、初めて合った仲なのに、この人は本気で悲しんで、本気で憤って、本気で自分のことを想っていてくれていると、幼い少年にもわかった。
なんとなく、ミカが傷ついても自分のもとに帰ってきてくれたのは、これと同じものを伝えようとしてくれてたからな気がする。
天子は不器用で、あまりの想いの強さに自分でもコントロールできていなくて、だけどその芯はとても優しくて、源五郎の胸の奥を熱い力を流し込んでくれている。
「ミカ…………」
源五郎は眼を閉じ、天子がすすり泣く声を聞きながら今は亡き家族を思い浮かべた。
今までありがとうとミカに想う。ずっとそばにいてくれてありがとう、元気づけてくれてありがとう、この人に巡り合わせてくれてありがとう。
大変だけど、この天人様は一番大切なことを自分に教えてくれたから、もう大丈夫。
自分の代わりに泣いてくれた、この素晴らしい天人様から伝わってくる熱い気持ち。
きっとこれが生きるってことなんだね。と、源五郎が心に残ったミカの残影に話しかけると、幻想のミカはにゃあんと満足そうに鳴いて闇の中へ消えていった。
昼近くになり、ようやく落ち着いた天子は、源五郎と紫とともに人里の前まで歩いて戻ってきた。
里に入る門の前で、源五郎が天子たちに向いて深く頭を下げる。
「ありがとうございます、天人様。僕達のために泣いてくれて」
「いいのよ……私は結局、何にもできなかった」
「そんなことないです」
悔しがる天子に、源五郎は顔を上げてキッパリと言いのけた。
その眼には強い輝きが宿っていて、一昨日にオドオドした様子で天子たちと会った少年とは同じに思えないほど、芯の通った活力があった。
「ボク、生きてみます。大変だけど、ちゃんと生きれる道を探してみます」
「……頑張りなさい。本当に困った時は、少しだけなら助けてあげるから」
「はい、ありがとうございます」
門を潜り、源五郎は里の中へ戻っていった。
天子は紫はそれを見送ってからも、じっとその場に佇んでいる。
やがて空を覆う厚い雲から、ザアザアと重たい雨が降り始めた。
降り始めだと言うのに雨粒は大きいが、この分だと更に強くなるだろう。
雨に濡れ、紫の胸元の血が滲んで、けれども落ちてはくれなかった。
「あなたももう輝針城に帰りなさい。今日の奉仕活動はなしでいいわ」
紫は雨に濡れながら空を仰ぐ。
結局、今日も藍に頼っていた。今頃せっせと清掃活動に励んでくれていることだろう。
「いや、まだあそこには戻らない」
だが天子はそう言って踵を返すと、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩き出し、紫の隣を通り過ぎた。
「何をする気?」
「ミカはきっと天国に行けるけど、天界は成仏してやってくる魂の量を制限してる。このままだと判決を受けた後、何ヶ月も冥界に放置される」
その件は紫も知っている、表向き天界は飽和状態だからという話だ、そしてその裏側も知っている。
天人たちは、ただ自分たちが窮屈な暮らしをしたくないという、ただそれだけの理由で天界を占領し、成仏を禁じている。
雨に打たれ、長い髪の先から雫を垂らしながら、天子は硬い背に重いものを背負い込み、小さな身体に力を込めている。
「ミカが死んだのは私のせいだ、私はミカの魂がほんの少しでも安心して次の人生に向かえるよう、助ける義務がある」
天子は顔を振り向かせると、熱い緋色の瞳に刃のような光を灯して紫に示した。
「私は、天界に戻る」
◇ ◆ ◇
天子が天界に足を踏み入れるのは久しぶりだ。夢の天子は天界で暴れようとしていたが、現の天子にその記憶はないし、完全憑依異変より以前に天界を追放されてからずっと来ていなかった。
天界は空の上にあるが、正確に言うと現世とは次元が違う異界の一つだ。常に穏やかな気候で、雨に悩まされることなど無い。
地上で雨に濡れていた天子だったが、晴れやかな天界にまで来て身体を手で払い、頭を振り回すと、それだけで全身の雨水が零れ落ちた。
天人の身体はこの程度の水は簡単に弾くし、来ている服も縫い目がまったくない特殊な物だから水も染み込まないのだ。
水を払い落とし、汚れ一つ無い姿になった天子は一歩踏み出し。
「はい、そこで踊りの締めに大フィーバァァアアアアア!!!」
やたらと電撃を放出して、ピシャアンと雷鳴を響かせる妖怪魚と目が合った。
「ごきげんようです総領娘様、水も滴るいい女でしたね」
人差し指を宇宙に掲げた決めポーズのまま、先に天界に来ていた衣玖が天子に話しかけてきた。
天子は苛立ちを抑えきれず、厳しい視線を叩きつける。
「……あんた地上に住むんじゃなかったっけ?」
「まだ住居も決まってませんし、大雨だったので天界へ避難を。総領娘様こそ追放処分だったのでは?」
「あんなの宴会の間だけ。本当ならもっと早く戻っても良かったのよ」
あくまで天子の追放処分は宴会の邪魔をしたからだ。数日くらい大人しくしておけと地上に放り出されたのを、これ幸いとばかりに地上で好き勝手やっていた。
棘のある雰囲気の天子に、衣玖は姿勢を正して向き直った。
「随分と抱え込んだ眼をしていますね。また騒ぎを起こすおつもりで?」
「邪魔をする気?」
「まさか、私にそんな力はございませんよ」
今の天子は抜き身の剣そのものだ、ここで彼女を否定しようものなら死闘しかない。
衣玖は天子が進もうとする道から退くと、しげしげと頭を下げ敬意を払った。
「お気をつけて、幸運を」
「…………」
天子は無言で衣玖の前を通り過ぎた。こうやって、誰かのそばを通り越していくのは何度目だろうかと考えながら。
少女が去り、顔を上げた衣玖は、妙な空気が流れてくる方向を向いて口を開いた。
「見ておられるのですか、地上の賢者」
声に応え、衣玖が見つめる空間に亀裂が入る。
開いた暗闇のスキマから、隠れていた紫が現れた。
地上でずぶ濡れになった彼女だが、さっき天子と会っていたときとは服の装飾が微妙に違う。
髪を乾かし、服を着替えてきて、初めて天子と会った時の道士服に袖を通していた。
「案外勘がいいのですね」
「いえ、勘は鈍いですよ、少しばかり空気が読めるだけです。あなたは随分と総領娘様のことを気にしてくれているようですね」
「あなたこそ、彼女の異変では振り回されたはずなのに好意的だわ」
衣玖の言葉に明確な答えは返されず、紫は逆に衣玖の態度を指摘する。
「彼女はとにかく人の目を惹きつけますから」
「……そのことに、彼女自身が気付ければね」
「そうですね、気付かないというより、認めたがっていない気がしますが」
「どうしたら、彼女は足を止めるのでしょうね」
「どうでしょうね、少なくとも私には難しい……というよりも力不足と申しましょうか」
紫の嘆きに無力な言葉を返した衣玖は、ゆらゆらと浮かび上がって軽く会釈した。
「私は天界の端っこで大人しくしておきます。ご武運を祈っていますよ紫さん」
美しい羽衣が遠のいて行くのを見て、残された紫は再びスキマに身を潜ませた。
あるべき空間とは位相が違う次元、光なき暗闇だけの観測できない世界。独りぼっちの黒。
そこにあるのは傷つけられないことへの安心と寂寥。
冷たい世界で紫は眼を開き、天子を見守った。
天界は相変わらずの穏やかさだった。
手入れもしてないのに、季節が違う色とりどりの花々が年中咲き続け、たわわな果実を実らせる桃の木が恵みを与える。広々とした間隔を保ち、土地を贅沢に使って作られた屋敷の数々。
豊かさを見せつけられながら自宅に戻った天子を、天女が見つけると、大慌てで比那名居家の総領へ娘の帰宅が伝えられた。
不機嫌な天子が天女も寄せ付けず、客間で椅子に座って待っていると、父が現れて不良娘の帰還を諸手を挙げて歓迎した。
「おぉ、帰ったか天子! いつまで立っても姿を見せないから心配したぞ。泥臭い地上にいて大変だったろう、今、湯を沸かさせてるところだ、身体を清めてくると良い」
「不要ですお父様。それよりやることがある」
「なんだ?」
喜びながら向かいの席に着く父に対し、天子は言わなければならないことを打ち明けた。
「天界は変わるべきです。地上は悲しみに溢れています、勇敢な魂が安らげるよう、成仏できる魂の数を増やすべきです。自分たちが豊かに過ごしたいから、来ても良い魂を制限するなんて間違ってる」
「あぁ……お前は、何という……」
父は失望したように片手で顔を覆い、天井を仰いだ。
そんな話しはずっと前に妻から聞き飽きた。無駄なことを言い出す娘に、父は呆れながら言葉を返す。
「別に良いではないか、すでに捨てた地上の民がどうなろうと、我らはここで豊かに暮らしていけるのだ」
「それでは……それでは義はどこにある!!!」
いきり立った天子が、椅子を押し退けて立ち上がり父親に詰め寄る。
「天界が豊かなのは地上に一切目を向けていないからだ! 自分たち以外のことはどうでもいいから、天界で安穏としてれば満足していられる! 地上を見下して馬鹿にして、一番醜いのはお前たちだ!!」
唾を散らしまくしたてる娘に、父は同情する眼を向けていた。
「宴会の邪魔をすれば追放するくせに、私が地上で異変を起こして迷惑を掛けた時、あんたたちがしたのは面倒そうな顔して私に皮肉を言うだけだった!! 理不尽極まりない、どうしてそこまで無関心になれる!?」
「それが天界の気質だ、ここがそういう場所な以上、それに倣うしか無いだろう」
娘の言うことに対し、この父なりに耳を傾けていた。
天子の言う通り、天界は自分たちだけが安穏と暮らせればそれで良いと考えている。それに義などないことはわかるが、それを言われても父にはどうしようもなかった。
天子は、自身こそが天人たらんとして、勉学も修行も頑張っていた。だが父は娘を無視して、他の天人に取り入ろうと必死になった。
媚びた笑いを浮かべ、他の天人とともに地上を見下している内に、周りの天界の気質に染まってしまった。
「母に似たが、彼女より勇敢だな天子。他の天人に調子を合わせられれば楽だったろうに、不良天人と呼ばれなじられようと苦しい道を選ぶか」
「それが私の天道です」
「強いな。だが愚かな父には、お前に付いていくことはできんよ……」
父はそんな天界に溶けこんで数百年暮らしてきたのだ、今更他の生活は考えられぬし、彼が言っても耳を貸すものは居るまい。
天子は強い、ともすれば父ですら羨望を覚えてしまうほどの意志を湛えている。
まさに王者の気質、時代と場所が合致すれば名を残せただろうが、彼女にはその意志と関係なく、幼き頃から天人の地位が与えられてしまっていた。
せめて彼女が不自由しないように便宜を図ってきて、緋想の剣も事後承諾で正式に天子へ進呈されたことにしたが、そんなものでは娘を無視して生まれた溝を埋めるには足りなかったようだ。
天子は自分を認めてくれない父へ、眉間を歪めながら背を向けた。
「どこへ行く?」
「名居様に、そして他の偉ぶった天人たちに直訴します。この腐った世界のために、地上の勇者が報われないのは間違ってる」
「もう遅いよ、数百年ほど遅い。覆水盆に返らずだ、かつては天界もお前のような勇に溢れた者が創ったのだろうが、長い時間とともに低きに流れた。お前がどんなに正しき旗を打ち立てようと、腐ったこの天界では倒れるのみだ」
天界はもう腐り落ちた。万の言葉を並べても足りない、大きく天界の平和が崩れるような痛みがなければ目を覚ませないだろう。
あるいは何かが違えばと、父としても思わざるをえない。堕落した今を振り返りこんなはずじゃなかったという気持ちもある。
天界に馴染めず我を貫く天子に、父は羨望と憐憫を思いながら呟いた。
「お前は才気がありすぎた……せめてあと二十年、いやさ十年早く生まれて、不出来な私から仕事を継いでいれば、天人になってすぐに認められ、天界を導けただろうに。私は残念でならん」
「下らない、私はその時に生まれ、この時にこうなった。もしかしたらなんて無い」
「……待て天子」
家を出ていこうとする天子を父は引き止める。ここで天子が家を出ると、娘との縁が切れてしまうような予感がした。
決別の時は近い、天子はもうすぐこの天界に帰ってこなくなるかもしれないと感じた。
そう思うと寂しくて、言えなかった言葉を伝えられた。
「その内、お前の話を聞かせてくれよ」
「……あんただって、言うのが遅いのよ何もかも」
母が亡くなって天子が寂しかった頃、腐った天界の中では自分が強くなるしかなくて、修行する以外に自分を保つ術がなかった。
その時に、今の言葉を言ってくれたなら、ここまで苦しまなかったのに。
呟きだけを残し天子は家を出て、その足で他の天人の元へと出向いた。
「お願いします、成仏制限の緩和を。地上で苦みながらも善行をなした者たちが、何処にも往けず、順番が来るまで彷徨うしか無いのは間違ってます。彼らが休めるよう、天界に受け入れるべきです」
「別にいいではないか。ずっと天界はそうであったのだ、これまで何事もなかったのだから、これからも問題あるまい」
かつて地震を鎮めた天人がいた。彼は天災というものが突然起こるということを忘れてしまっていた。
「それは私達が他に目を向けていないからです。地上では、今日にだって死んでいく者がいる。その周りの人は家族や友が死んで悲しみながらも、きっと極楽で報われると信じているのです。その人の願いを、私達が踏みにじっているのですよ」
「それがどうした、我らは天人だぞ。なぜ地上の虫けらのために窮屈な思いをせねばならぬ」
かつて戦争で苦しんだ民のために、自らの足で人を助けて回った天人がいた。彼の記憶からは、苦しむ人々の記憶は薄れていた。
「みんな――みんな間違ってます! どうして天界が生まれたんですか? みんなで智慧と技を持ち寄って、誰かを助けるためじゃなかったんですか!? 悦に浸るためだけの歌に踊り、そんなのを毎日楽しんで、生きてる意味が何もないじゃないですか!! 思い出してください、自分が人間だった頃を、自分が苦しいからこそ、隣の人を助けたいと想ったんじゃないんですか!!?」
「なんの成果も上げてない成り上がりが何を言うかあ!!! 我らはみな厳しい修行を積み、研鑽の果てにこの天に至ったのだ。運だけで天に上がってきた不良天人ごときが、生意気な口を利くでないわ!!!」
自分が弱い人間だったことを認められず、地上のことなど思い出したくない天人が、天子の頬を殴り飛ばした。
豪拳を受けた天子は床に倒れ、這いつくばりながら必死に頭を下げて懇願した。
「お願いします。ほんの少し、自分たちの迷惑にならない範囲で良いんです。義を見てせざるは勇なきなりと言ってくれた人もいるではありませんか。どうか天界を開放して下さい、勇敢な魂にお慈悲を……」
「はん、孔子などという若造の言葉など説くでないわ!」
「か、彼より長く生きているというのなら、なおさら天人の義を示して下さい!」
「くどい! お前のような和を乱す輩は、この天界から出て行け!!!」
傲慢な天人が大木のような脚で、天子の身体を蹴り飛ばした。
ぐったりした彼女を、命令を受けた天女達が抱え、遠くまで運んでいく。
天子は天界の端に捨てられて、硬い天界の地にうつ伏せで横たわった。
修行した天子であっても、あの豪拳は中々に痛かった。
だが数百数千の怠惰を経て、目を曇らせてもなお衰えないような力を持った人が、その目を地上に向けられない事実が何よりも辛い。
同時に、どれほど訴えても聞き入れられない自分の無力が、彼女の手足から立ち上がる力を奪っていた。
そして影が差した。
「疲れているわね」
いつのまにか八雲紫がそばに立って、天子のことを見下ろしていた。
天子の手がピクリと動く。顔がわずかに上を向き、帽子の下からギラついた眼を覗かせる。
紫は膝を突き手を差し伸ばしたが、天子はこれを無視して、フラフラの身体で一人立ち上がった。
天人たちが住む豪邸の方へ、天子がまた向き直るのを見て、紫が声を掛けた。
「まだやる気?」
「当たり前でしょうが。止まれるか、止まってたまるか」
返答は予想通りのものだった。
そして自責と失望の果て、辿り着いた結論は最悪のもの。
「こうなったら……私が天界を創り直す」
抑圧された夢の人格と、同じ答えに辿り着くのは当然の帰結だった。
行く先は狂気、自他共に傷付ける修羅の道。すでにそれを夢見ていたからには、元からそこに進む素質があったのだ。
「天界は要石を天の大地として出来た世界だ。手始めに今の天界を打ち砕き、何もなくなった世界に再び要石を作り新しい天界にしてやる」
「その要石をどうやって作ったか知っていて? 地上に挿し込まれていた巨大な要石を、大地から抜くことで今の天界が出来上がった。その時には大地震が起こり地上の生き物は一掃されたわ。その傲慢な悲劇を繰り返す気?」
しかし紫から聞かされた過去の出来事に、天子は飛び出さんばかりに眼を丸くした。
長い空色の髪を激しく広げながら振り向き、震える声で疑問を口にするのが精一杯だった。
「なに……それ……」
「あなた本当に知らなかったの? 可哀想な子。あなたは天界の意義について説いたけど、その成り立ちからして地上の民を見捨てた傲慢な願いで出来ている」
ずっとずっと昔のことだ。紫はその光景を目撃している。
轟音で鳴く大地、崩れる山々、どんな大木も残さずなぎ倒され、あらゆる生命が飲み込まれた地獄の様相。
果たして、その地獄を作るに至った経緯が義と勇だったのか、あるいは傲慢により肥大化した自意識だったのかまでは紫も知らないが、どんな決意であれ多くの命を奪ってもいい理由にはならないだろう。
もしもまた天界を作り上げるなら、もう一度その悲劇を起こさなければならない。紫は幻想郷を愛するものとして、そんなことはさせられない。
「むかつく……間違ってる全部が……」
紫の前で、世の理不尽に堪え切れなくなった天子が、拳を震わせた。
「何もかも間違ってる……傲慢で地上を見下す天界も、悲しみ貧する者で溢れる地上も……」
「そうしてまた走るのね、いい加減……」
今の天子は見るからに危険だ、止めようとする紫が手を伸ばしたがまたもや打ち払われた。
「触るなァ!!!」
天子の絶叫が、空虚な世界に木霊する。
自らの自我を抑えきれなくなった天子が、なりふり構わぬ危うい眼光を煌めかせる。
「前からむかついてたのよ。私が何かしようって度にあんたは現れて、私のやろうとしてることを台無しにして」
「だとしたらどうなんだい……また暴れるというの?」
感情を発露させる天子に、紫も段々と自分を抑えきれなくなってきた。
神社の落成式を台無しにしてやった時と同じ感覚だ、棘のある挑発が口をつく。
よせばいいのに、駆け出そうとする心を止められない。
「ああそうだ、私はあんたの言う通り、傷付けることしか出来ないんだ。だったらやることは一つ……」
天子は帽子を深くかぶり直しながら、愛用の緋想の剣を取り出した。
瞬時に萃められた緋色の気質が集束し、あまりの強さに中心部が白く見えるくらいに輝いて高鳴りを上げる。
想いの枷を取り払い、全力で走る天子が手にした極光を振りかぶった。
「ぶっ壊れろぉお!!!」
大上段で振り下ろされた緋想の剣を、紫が身を引いて避ける。
足場に叩きつけられた気質は、天界の大地を内側から割くようにして爆発的に広がり、周囲一帯が破壊され轟音と共に崩れ落ちた。天界の大地が要石でよかった、砕けた石は力を失い、現世への境界を超える前に消滅するだろう。
浮かび上がる紫の下で、天子が土煙をまといながら睨み上げた。
天子は本気で何もかもぶち壊しにする気だ、暴走するまま世界のすべてに剣を突き立てようとしている。
「天道是か非か! 世界が間違っていて、理不尽に苦しむ者がいるというのなら、私自身の手で悲しむ事のない心を創り、貧する事のない社会を作り、この世界全てを創り直してやろう!!!」
夢の天子の再現だ。しかし現と夢の意思と願いが合致したとなれば、発揮される力は夢の出来事の比ではない。
止めなければならないが、紫自身は身を引くべきだと考える。
この天子は紫とて油断できる相手ではない。全人類から無尽蔵に気質を吸い上げて戦う天子は、パワーだけなら紫を圧倒しており、下手をすればこちらが食い殺される。
いつもの紫ならば最初から相手にせず、別の誰かが彼女を処理するよう誘導するところだ。
だが不思議なことに、紫はその考えを否定した。
不安と怯えが敷いた、自らにとっての禁忌の境界を超え、天子が居る側へと踏み込む。
「そんなに憎しみをばら撒くというのなら、お前は私の手で下してやるよ、天人!!」
こいつは自分が打ち倒したいと、そんな想いに突き動かされた。
「私の夢を理解できない下賤な妖怪が! 死に腐れぇ!!!」
戦いが始まり、先に仕掛けたのは紫の方からだった。
スキマから特製の傘を取り出す。妖力でコーティングされ、薄っすらと紫色の力場を形成した傘を思いっきり振りかぶり、天子の頭上から鉄槌のごとく打ち下ろした。
天子は足元に要石を作り出し、上に立って体勢を整えると、剣を横に構えて紫の攻撃を受け止める。
集中した緋い気質と紫の妖力が拮抗し、重低音とも高音とも取れるような不気味な音を奏でた。
「うおぉぉおおりゃあ!!!」
天子は凄まじい膂力で傘を弾き返すと、要石を蹴って紫の斜め後方に跳び上がった。
紫が振り向いて目で追った時には、新しい要石を足場にまた跳びはねていた。空中でありながら足場を用意することで、瞬発力を上げている。
紫の死角に回り込んだ天子は、更に要石を蹴って加速しながら紫へと襲いかかり、胴から真っ二つにしようと剣を横に振り抜いた。
しかし紫は背中越しに構えた傘により、見もしないまま緋想の剣を受け止めた。
「ちぃ!」
「ムダムダ、丸見えよぉ!!」
天子が攻め直そうと剣を引いた瞬間、紫はスキマに身を飛び込ませ天子の背後に瞬間移動し、殺気を感じた天子が振り向く前に、渾身の力で傘を真横に振り抜いた。
天子はやろうとしたことがそっくりそのまま返された。大妖怪の腕力を持って与えられた衝撃は、千の大木を圧し折るが如き威力。天子はあえなくすっ飛び、一瞬で肺の空気をすべて絞り出されて声すら出せなくなった。
酸欠状態のまま天子は視界を動かす。いつのまにか天地が逆しまになっていたことに気付き、修正しながら剣を構えたが紫の姿はすでに消えている。
また奇襲を仕掛けるつもりだ、ならば眼に頼っても無駄だと考え、剣から感じる気質だけに意識を集中し、感じ取った紫の気質に合わせ、頭上に要石を作り出した。
刹那のズレもなく、上から襲い掛かってきた傘の殴打を、要石が砕けながらも受け止めた。
「なに!」
「二度も通じると思うなぁ!!」
天子は自身の頭部に気質をまとわせると、要石の破片を押し退けて飛び上がり、紫の鳩尾に頭突きをかました。
ダボついた道士服の下には結界が用意されていたが、石頭は容易にそれを貫いてきて、紫は苦しい顔で涎を吐き散らす。
更に天子は追撃を仕掛けるべく、紫と高度を合わせるよう浮かび上がると、緋想の剣を手の前に浮かばせながら回転させ、剣に萃めた全気質を放出した。
「全人類の緋想天!!!」
天子の最強最大のカードが襲いかからんとした時、すでに紫はその攻撃が来ることを計算していた。
緋色の光に照らされる紫のそばに、スキマが開いて左手が飲み込まれる。消えた手は、次の瞬間には閉じた扇子を持った状態で現れ、天子の手元を突き飛ばした。
回転する緋想の剣の照準があらぬ方へと向き、暴発した気質は紫のわずかに横へ放出された。
膨大な気質が太陽のごとく輝きながら、何もない空へと散っていく。
天子は攻撃が失敗したと見るや、取りこぼした緋想の剣を掴まずに、握り込んだ拳で紫の腹部を殴り抜いた。紫はくの字に折れ曲がり吹っ飛ばされる。
誰の眼に見ても完璧に芯を捕らえた打撃だったが、天子の手に伝わってきたのは紙ペラを打つような妙な感触。間違いなく防がれた、単純な物理攻撃は通らないようだ。
「ならカナメファンネル!!!」
紫が体勢を立て直すのは不味い、合間なく攻撃を仕掛けるため無数の要石を生成して紫へと撃ち飛ばした。
創り出された数はおよそ三十、だがこれではまだ足りない。
「まだまだぁ!!!」
天子は雄叫びを上げ、更に要石を生成し続ける。
その量はスペルカードルールで使用したものとは桁が違っていた。
空の一画を覆い尽くすほど大量の要石が次々に創り出されては撃ち出される。それらは天上に石の華が咲くかの如く広がり、あらゆる角度から紫を狙った。
本来は要石から気質のレーザーを発射する技だが、緋想の剣が手元にないため気質が込められず、単純なミサイル代わりに過ぎない。それでも霊力を込めた要石なら、当たれば効果はあるはずだ。
更に天子は手を振るうと、落ちていくはずだった緋想の剣が神通力を受け浮かび上がり、刃を作ったまま高速回転して紫へめがけて飛びかかった。気質の暴発で輝きは薄くなっているが、紫を切り裂くには十分である。
紫は殴られた衝撃をあえて殺しきらず、吹っ飛び続けるまま回避行動を取ろうと、まずは情報を集めた。
自身の顔にある両の眼をバラバラに動かすのに加え、戦地から少し離れた場所に事前に開いていたスキマから、覗き見れる光景を読み取った。
まず空中で身を跳ねさせ、最初に飛び込んできた要石を躱すと、次の要石は蹴り飛ばして軌道を変えて凌ぐ。
ある要石は局所的に結界を展開して防ぎ、ある要石は傘で叩き飛ばし、他の要石にぶつけて同時に潰してやった。
要石の猛攻はおよそ一分近く続けられたが、紫はその全てをしのぎ切る。強い霊力を込められた要石の破片はすぐには消えず、宙を漂い、紫の周囲を埋め尽くした。
最後の要石を、紫が手の平に作った結界の圧力で粉砕した直後、緋想の剣がブーメランのように飛びかかってきて、傘でもって打ち上げることで防ぐ。
その直上にて、回り込んでいた天子が弾かれた緋想の剣を掴み取り、極光の飾りがついたスカートをはためかせながら、輝く愛剣を振り下ろした。
「獲ったァ!!」
最初に死角からの攻撃を防がれた時から、紫は自らの眼以外に情報を得る手段を持っていると天子にはわかっていた。
だからこそ要石による飽和攻撃。大量の破片が天子の姿を隠し、この場所まで導いてくれた。
紫にはこれを避けようとする素振りがない。勝利を確信した天子だったが、剣が天敵を切り裂こうとする直前、紫の姿が前ぶりもなく雲散霧消した。
「消えた!?」
「遊びは終わりよ」
声が聞こえたが、どこから響いてきたのかまったくわからない。見渡そうにも自分の要石が邪魔だ。
次の瞬間には天子の横にスキマが開き、中から飛び出してきた標識が天子の身体を打ち抜いた。衝撃が脇腹から貫通してきて、天子は痛みを堪えながら標識を殴り、へし折る、
「こんの……!」
「あの程度の奇襲、見抜けないと思った? お生憎様、あなたの攻撃なんて私には無いも同じ」
標識がスキマに引っ込み消え去る。創り出した要石の破片も消えていくが、周囲の何処にも紫の姿はない。
つまりは、紫はスキマの中に空間に入り込み、そこから一方的に攻撃を仕掛けてきたのだ。
これが紫の必勝法だった、天子と攻撃を打ち合うのは刺激的だったが、最終的にはやはりこれが紫の戦い方にふさわしい。
身を潜めながら、一方的に観測し、一方的に攻撃を仕掛ける。相手が空間に秀でた術者なら追跡の可能性もあるが、次々に潜む位相を変えれば振り切れる。
かつてあった幾度となき戦いを経て研鑽されたこの戦法は、例え相手が月人であろうと破られない自信があった。
「お前と私は同じ盤上の勝負ですら無い。自分の無力さを思い知りながら死に絶えろ。ふふ、ふふふふふふふ」
天の上にて不気味な笑い声が天子を取り囲む。きっと空間を隔てた向こうからは見下した眼で睨み付けていることだろう。
だが天子は怯えることなく、開いた手で紫の嘲笑を振り払った。
「またそうやって隠れるのね臆病者! 私のことが羨ましくてしょうがないから、そんな風に影からこそこそと見つめてくるんだ!!」
「羨ましい……ですって?」
癇に障った紫が気に入らなそうな声を出す。
天子は亜空間にいる紫に対し、一歩も引かずに口を開く。
「そうよ! あんたは私が羨ましいのよ! 生まれたときから家族がいる私が! 天運に恵まれ、追われることなく安穏と生きられた私が!! だからあんたは、私のことになるとすぐに怒り出す! 嫉妬を叩きつけたくて仕方なくなる!! 博麗神社を手に入れようとした私を叩きのめした時も、幻想郷を守るためなんかじゃない。私の存在が気に入らなかったからだ!!」
「……っ、世迷言を」
紫はそう言いながら、疼く胸を掻きむしった。
天子の一言一言が心臓に突き刺さり、気持ち悪さに吐き気がする。
「隠れると言うならそれもいいわ。私には関係ない、いくら闇に紛れようと、私の極光はそれを暴く!」
天子は要石を作ってその上に立つと、両手を振るって正眼に構える。再び気質を萃めた緋想の剣が輝き、集束した気質が擦れあって甲高く鳴り響いた。
緋色の輝きが監視用のスキマの眼に突き刺さるようで、紫は思わず呻いた。
「私の想い、彼奴に届かせろ! 緋想の剣!!!」
天子が何もない空間を剣で突く。
空振るはずの剣先は、しかして空間の境界を突き破り、紫が存在する位相へ到達して心臓へと差し迫った。
紫は驚きながらも冷静に対処した。右手に持った傘で剣を反らしながら身をかがめ、胸を貫かれるはずのダメージを鎖骨が裂かれただけにとどめる。
左肩から血を噴出させながら、紫はギリリと歯を食いしばった。
「こいつ……私の本質に手を伸ばすか……!」
緋想の剣は、本質を見抜き、それを突く剣だ。その能力は、位相をずらした紫の存在までも暴き出した。
境界を介し世界の裏側へ逃げ込もうと、刃は正確に紫の心に反応し、闇に隠れる彼女の心臓を射ぬかんとしてくる。
むしろ眼から入る曖昧な情報に頼らぬ分だけ、面と向かって戦うよりも鋭く紫に届いてきた。
このまま隠れて戦い続けるのは駄目だ、恐ろしい話だが表に出て戦わなければならない。
だが一瞬、紫の脳裏に歓喜の悲鳴が響いた。頭を振り、妄想を払うと開いたスキマから密かに表へ出る。
現れたのは再び天子の背後。その背中を貫いてやろうと傘を突くが、すでに眼ではなく気質を頼りにしていた天子はこれを察知し、振り向きながら避けると、左脇で傘を挟み込んだ。
敵を捕らえ、天子が右手に持った緋想の剣で袈裟懸けに斬ろうとするのを、紫は天子の右手を掴み取ることで防いだ。しかし剣を受けた左肩の傷が痛む、あまり長くは保たないだろう。
両手がふさがった両者は、同時に詰め寄って互いの額を打ち付け、押し付け合いながら至近距離から睨み合った。
「癪に障る小娘ね。恵まれてるくせに、何も持たない輩が、この私にしがみついてきて!!」
「はあ!?」
「だってそうでしょう! お前は恵まれていながら、大切なものは何一つ持っていない! 真の愛情を知らないから、他人の優しさを受け取ることすら出来ない! 私は今まで何度も手から取りこぼしてきたけど、お前はその手を開いてすらいない莫迦な子供だ! 拳を振りかぶることしかできない愚か者め!!!」
「見下すなぁ!! 努力しただけ報われたやつが!!!」
天子が靴底で紫の腹を蹴り飛ばす、今度は霊力を込めた攻撃だ。多少は効果があったらしく、紫は顔をしかめて引き下がる。
押さえてきていた手が離れ、天子はすぐに緋想の剣を振るが、紫も傘を引き抜いて剣と打ち合った。
得物を打ち付け合いながら、天子があらん限りの声で叫ぶ。
「私だって頑張ったのよ! みんなに受け入れてほしかったのよ!! だから勉強だって修行だってなんだってした!」
悲痛な叫びが響き渡る。天子は駄々をこねるように、何度も何度も剣を振り下ろしたが、紫の傘に防がれるばかり。
血の涙を流しているような恩讐込め、天子は無我夢中で溜め込んでいたものを吐露する。
「だけど天界のやつらみたいにはなれなかった。あいつらみたいに、本心から地上を見下せれば楽だったのに、それすらできなかった!」
本当は、父みたいに生きられれば良いのにと思ったことが何度もある。自堕落な日々を甘受すれば他の天人達の輪に入れて、寂しくなかったかもしれないのに。
だが天子には、父のように他の天人と肩を並べて生きることも、母のように見切りをつけて死ぬことも出来ず。
「できあがったのは心にもない言葉ばかり並べるだけの、ろくでなしの畜生よ!! 誰にも認められないなんて当たり前、私は何もかも間違ってる!!!」
「ハハハッ!! それでか、それでか比那名居!」
「あぁ!?」
煮え立った激情を叫ぶ天子に、紫は愉快そうな笑い声を上げて傘を打ち返した。
緋想の剣から伝わってくる衝撃に、天子は一瞬怯んでしまい、その隙を見て紫が距離を取る。
戦いの中でありながら、紫はようやく天子の矛盾を見極められたことで、嬉しさに一杯だ。
脳の髄に酒を流し込まれたかのような法悦に心すら忘れそうになり、情動のまま叫び散らす。
「お前が地上を見下すのは、そんな天人達が間違ってるというのを自分自身で証明するためか、くだらない!!!」
天界を嫌い、天人を軽蔑し、それなのに地上の存在を虫けらと読んで見下す理由がこれだ。
天子にとって、自分が嫌われることこそが目的だったのだ。自身を人柱にして、天界の異常性を認めさせようとしていた。
莫迦だ、本当に莫迦な少女だ。
「大した自己犠牲の精神だこと! あぁ、お前の言う通り、お前は間違ってるわ比那名居天子! そんなことで、誰も幸せにできるものか。哀れなことこの上ないわ!」
紫は否定する、天子のこれまでの愚行を。安易に他人の怒りを利用しようとする冷血さを。
楽しくありたいとうそぶきながら、自分を傷つける矛盾を。
そのすべてが救われないと断言する紫に対し、天子は剣先を下ろしながらも、肩を震わせて一層怒りを漲らせた。
「うるさい……むかつくのよあんたは、お前も、お前が創った幻想郷とかいうチンケな鳥籠も、全部私がぶち壊してやる」
「ほう、言ったわね天人」
紫は暗い表情の下から天子を睨めると、持っていた傘をスキマの奥へと戻し、横に開いたスキマの上に立つ。
手に扇子を持って口元で開くと、表情を隠しながら続けた。
「ならば私も妖怪の賢者として、幻想郷を創った一人として。彼の地を愛するものとして、あなたを罰せねばならない」
紫の右隣に大きなスキマが開く。奥から顔を覗かせたのは無人の廃線車両。
だがその更に右隣にスキマがもう一つ、反対側の左隣にも二つのスキマが開き、計四つのスキマから四台の車両が、前方のライトを光らせて威圧的な照明を浴びせかけた。
圧倒的暴力で捩じ伏せようとする紫は、目元まで扇子で覆うと無慈悲な号令をかけた。
「眠りなさい、比那名居天子」
同時に四台の車両がスキマから飛び出て空中を駆ける。
中には前もって紫の妖力がしこたま込められている、目標と命中するまでは止まらず、ぶつかったが最後、術式が起動して大爆発を引き起こす。これなら緋想の剣のパワーにも打ち勝てる。
迫るくる暴威に対し、天子は肩を震わせたまま。
「私は……私だって……」
廃線車両に込められたのは、圧倒的な否定の意。
それに何を思ったか、緋想の剣から気質の刃を解いた天子は、叫び声とともに足元の要石を蹴り、紫へ向かって空を走った。
「私だって、あんたみたいに立派なオトナになりたかったのに――!!!」
大爆発が引き起こる。空間を揺るがすほどの爆風が大気を響かせ、紅蓮の炎が巻き起こり、爆煙が周囲へ広がった。
煙で視界が塞がるが、監視用のスキマからは、天子が車両と衝突する瞬間が確かに見えていた。
例え強靭な天人の肉体とて耐えきれるものではない。これで終わり――
「――いえ、まだ終わりじゃない」
比那名居天子は、何もかも間違ったまま此処まで来た。
だが彼女は愛してくれる者も、認めてくれる者も一切居ないまま、たった独りで異変を起こし、心から血を流しながらここまで走ってきた人だ。
紫ならきっと、同じ立場に立たされたらそんな気力は出なかっただろう。それを成した彼女の裡に秘めた力は凄まじいものだ。
例え歩む道を違えていようが、そんな力を持った天子が、こんな簡単に止まるはずがない――
「八雲紫ぃぃぃぃいいいいい!!!!!!」
煙の中から、ボロボロの天子が緋色の霧をまとって現れた。
その手には緋想の剣の他に、天界の仙桃が握られている。仙桃を食べることによる一時的な肉体強化の上に、気質をまとって鎧とすることで今の攻撃をすべて受け切ったのだ。
恐るべき猛進。しかし流石にダメージを無効化できたわけでなく、天子の身体の内側からは肉と骨がバラバラに引き裂かれるような激痛が走っていた。
構うか、走れ。
走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ!!!!!!
「うわああああああああああああああああ!!!」
悲惨な咆哮が、わずかに紫の意思を怯ませた。
天子は仙桃を捨て去ると、握りしめた左の拳で紫の顔を殴り飛ばす。
気質をまとった拳は、紫の肉体に激しいダメージを与え、彼女をスキマの上から突き落とした。
だが天子もダメージでこれ以上飛んでいられなくなった。紫の胸ぐらを掴むと、二人一緒になって、厚い雲の上に落ちて行く。
雨雲でほとんど何も見えない中、天子は右手に持った緋想の剣に刃を創り出し、突き刺そうとしたところで、抵抗した紫が剣を持った手を弾いた。
がむしゃらな戦いは天界を抜けて地上へ出て、雨粒と並んで二人の体が落ちていく。雲を抜けた時には天子の手から剣が手放されており、素手で紫と取っ組み合った。
頭部を気質付きで殴られた紫は、脳までダメージが響いていて思考が安定しない。斬られた左肩の傷もあるし、さっき剣を弾いたので精一杯だ。意地だけ張った天子が落ちながらの争いを征して、地上に落下する瞬間、胸ぐらを掴んだままだった紫を下敷きにした。
落下した衝撃でぬかるんだ地面がクレーター状にえぐれ、泥水が辺り一帯に撒き散らされる。
遅れてやってきた緋想の剣が近くの地面に刺さった。いつのまにか天子の帽子も外れていて、偶然にも剣の柄に引っかかる。
それらを取りに行く暇もなく、泥だらけになった天子は紫の身体に馬乗りになると、思いっきり拳を振り上げた。
「わああああああああ!!!」
顔面に振り下ろされる拳を、紫はハッキリと見ていた。
二撃目の拳には気質はおろか、単純な霊力すら篭っていなかった。だというのに、紫はこれを防がず受ける。
美貌が歪み、殴られた頬が真っ赤になるのを見ながら、天子はまた拳を振り上げる。
「私は! 優しくすることなんてわからなくて!! 傷つけることしかできなくて!! それでも諦めたくないから走り続けて!!!」
雨に打たれながら、天子が一言ごとに紫の顔を打ち据える。紫は抵抗することなく、天子の拳を受け続けた。
拳がねじ込まれるたびに、紫の手足まで衝撃が伝わって小さく跳ね上がり、瞬く間に顔が腫れ上がっていく。
「それでできたのは、結局憤りを呪いにしてばら撒くことだけ……!」
しかし優位に立てたと言うのに、段々と天子の拳から力が抜け始める。
語気も弱まり、見る見るうちに天子から覇気が消えていく。
「無駄に生きて、醜態を晒して……」
形だけ握られた拳が、こつんと紫の額に当てられたのを最後に手が止まった。
胸ぐらを掴んでいた手も離すと、天子は背中を伸ばして紫を見下ろす。
自分に優しくしてくれた紫が、泥まみれで顔中を腫らした酷い姿でいるのを見て、細い声を必死に絞り出した。
「私なんて……とっとと死ねばよかったんだ……」
あんなに優しいやつなのに、尊敬だってできるくらいすごいやつなのに。
そんな紫に、こんなことしか出来ない自分なんて生きる意味も価値もないと、天子は顔を手で覆い、俯かせた。
顔中が腫れ上がった紫が、閉じそうな瞼の隙間から、滲んだ視界で見上げた。
雨空の下、憎らしいあいつは、押さえた顔を俯かせたまま苦々しく唇を噛み締め、血を流していた。
だというのに、雨で濡れた彼女は未だ泣いていないように見えた。
代わりに垂れた赤い雫が、紫の胸に落ちてきて服を静かに染める。天子の苦しみが染み入るのをぼんやりと感じながら、天子の言っていたことを思い出した。
悲しむ事のない心を、貧する事のない社会を。
――嗚呼、そういえば、自分も昔、似たようなことを考えていた気がする。
だから、理想郷を目指して、ここまで歩いてきたんだ。
疲れた。体が重たくて、眠りたいと言ってくる。
でも、言わなくちゃ。かつて抱いた願いのために、泣くことすらできない彼女のために。この縁を辿って、もう一歩進まなくちゃ。
臆病な心が、そうしたいと言っている。
言葉を探す、この走り続けた少女の助けになる言葉は何か――いや違う、助けたいんじゃないんだ。
そんな想いは見せかけだけのまやかしだ、もっと深くの、本当の意思を探せ。
ただ思いのまま、天子と過ごしたこの四日で、ずっと探してきた自分の気持ちを汲み取って――
紫は泥だらけの手を持ち上げ、俯いた少女の頭に汚れた指を這わせた。
「私は、あなたに会えてよかったわ」
驚くくらい声はしっかり出た。
天子は雨で冷える身体に突然熱が伝わってきたことに、怯えて身体を震わせる。
痛々しい傷だらけの身体をいたわるよう、紫は想いを込めて呼び掛けた。
「私は、いつもみんなが怖くて、顔も中々出せなかったのに。あなたのことになると、驚くくらい自由に動けた」
驚きの連続だった、自分でもどこまで行けるのだろうとワクワクした。
競いながらやるたけのこ掘りは楽しかった。天子が源五郎の母親に暴力を振るおうとするのを止めた時、人里の住人に声を掛けれたのは実はちょっと嬉しかった。
嫌がる天子を抱きしめた時、ああまで優しくあろうとした自分は初めてだった。
ミカの死は悲しかった、でも一緒にいたお陰でお墓を掘るのを手伝えて、それは良かった。
天子といると、何でも出来るような気がした。
不安を忘れ、やりたいと思ったことをやれた。
「あなたは大切なモノは何も持っていないのに、悲しいことしか知らないのに、それでも走り続けられるあなたの姿に焦がれたから、私も駆け出せた」
言葉を紡ぎながら、紫の胸の内でカチリとピースがはまる。
あぁ、そうか。だから自分は天子のことになると、すぐ感情的に――いや、自由になれたんだ。
「…………私は、そんな素敵な力を持っているあなたが好きなの」
紫がようやく見つけた答えに、天子が眉をひん曲げて顔を上げた。
見開いた緋色の瞳を揺らめかせ、嗚咽を漏らしながら口を開く。視線を下げ、紫が優しげに見つめてくるのと眼を合わせると、伝わってきた気持ちに、我慢しきれず大声を張り上げた。
雨音が慟哭を掻き消す。天子は背中を丸め、紫の胸元にしがみついた。数百年の堰がとけ、溜まり続けた澱みが吐き出されていく。
紫は苦しくても跳ね除けることを一切せず、ただ小さな体に手を乗せて、初めて自分のために泣けた彼女を、ぎゅっと抱き締めていた。
◇ ◆ ◇
大雨が止んだあと、随分と夜が更けてきた頃になってもまだ天子は輝針城に戻ってこず、喧嘩をしていた針妙丸もそわそわと心配に浮足立っていた。
どうしたんだろうか、異変の時は何も考えずに通じ合えた彼女に隠し事をされたのが無性に悔しくて、つい意地の悪い態度を取ってしまったが、そんなに嫌なことがあったんだろうか。
今日で奉仕活動が終わりのはずだが、とうとう妖怪の賢者に危険分子の判を押されて粛清されてしまったのか。つい天子なら大丈夫だろうと根拠のない信用を押し付けたが、自分も付いていくべきだったかもしれない。
天子がどこにいるのかまったく知らないが、それでも探しに行こうかと考えていると、出入口の扉が開く音が届いてきた。
「針妙丸、戻ったわ!」
まるで心配無用だと不安を吹き飛ばすような快活な声に、針妙丸も思わず顔を明るくした。
ホッとする一方、喧嘩してからまだ仲直りもできていないので、どんな態度でいるべきか迷ってしまう。
結局素直になれず、ドタバタと足を立てる天子が部屋に入ってきても、そっぽを向いたまま棘のある声色で「おかえり」と言ってしまった。
しかし天子からの反応がない。針妙丸は気になってチラリと様子を伺うと、驚いてお椀から飛び上がった。
あの天子が、畳に額をこすりつけ土下座していた。
「ど、どうしたの天子!?」
「この前のことを謝りたいのと、改めて輝針城に住まわせて欲しいの。お願い、許して受け入れて」
今まで傲慢な態度ばかり取っていた天子だったが、頭を下げた今の彼女からは真に迫る必死さがあった。
そして同時に、声はなんとなくだが透き通っていて芯がある、信じようと思える声だ。
「もちろん良いよ、っていうかこのあいだのは私も悪いし! それより天子大丈夫なの? また変なもの食べてない?」
「大丈夫、むしろスッキリしてる」
針妙丸から許してもらい、天子は顔を上げて立ち上がった。
その表情は晴れ晴れとしていて、朝に顔を合わせた時とはまるで別人のようにすら感じる。
「ねえ、針妙丸。あんたと一緒に戦った完全憑依異変。あの時は久々に小難しいことを考えず、目の前のことに熱中できた」
天子は、針妙丸との戦いの日々を思い返す。
思考を停止し、頭を空っぽにして針妙丸と繋がった完全憑依は、今にして思えば傲慢でしかあれない自分自身への、憤りというノイズを止めたい逃避だったのだろう。
そんな自分と一緒にいてくれた針妙丸に感謝を感じる。
「楽しかったわ、遅くなったけどありがとう」
「……うん、私も楽しかったよ」
天子の安らかな顔を見て、針妙丸はにっこりと笑顔を浮かべた。
きっと天子の心を動かすような何かがあっただろう。
針妙丸は少し気になったが、今度は聞かなかった、いずれ時が来れば天子の方から教えてくれるだろうと思ったのだ。
何も考える必要はない、元々そうやって天子と通じ合ったのだ。針妙丸は、自分が彼女を心配する必要はないと気付いた。
今はただ一皮むけた友人を祝福し、頭を空っぽにして笑い合うだけだった。
「さあて、お風呂入ろうかな! 沸かし方、昨日紫苑に教えてもらったから準備してくるわ。針妙丸、あんたも一緒に入りましょ!」
「わかった、お願いねー!」
天子は今までになく明るい笑みを残し、またドタバタと軽快に足音を立てて部屋から出ていった。
それを見た針妙丸も、これから先、この輝針城は前より楽しくなりそうだと思い期待を胸にする。
「やれやれ、天子様もまだまだ甘い。家に住まわせてもらうとなれば、頭を下げる前に土産の一つでも用意するべきでしょうに」
「いやー、まぁ居候なのは今更だし……ってあんただれえ!?」
横を見てみれば、やたらぱっつんぱっつんな服を着た妖怪がいつのまにかいて、羽衣を揺らしながら正座していた。
針妙丸が不審者に警戒して針の剣を抜こうとしていると、羽衣の妖怪はキリリと表情を正し、針妙丸へ頭を下げた。
「初めまして、私は竜宮の使いの永江衣玖と申します。こちらは今日からお世話になる家主へのお土産です。中身は鬼に勧めてもらった地底のお酒セットですよ、好きにお飲み下さい」
「あっ、これはどうもご丁寧に……って家主!? まさかあんたもウチに住む気!?」
「それでは私も天子様を手伝ってきますかね。針妙丸さんはゆっくりとおくつろぎ下さい、はいお茶どうぞ」
「おっ、どもども。あなた中々気が利くねぇ……じゃなくて! えっ、どういうこと!? 説明していってよぉー!!!」
「ごめんくださーい、貧乏神でーす。天人様の運をおすそ分けしてもらいに来ましたー」
「あんたら帰れー!!!」
針妙丸が話を聞いてもらえない自分の物理的小ささに悔しんだりしつつも、輝針城の夜は一気に騒がしくなる。
この城にいる限り、当分の間は退屈しないだろう。
天子の笑顔から感じた予感の通り、楽しい毎日が続くことになるのであった。
◇ ◆ ◇
突然の大雨に多くの住人が悩んだ幻想郷であったが、翌日にはカラッとした太陽が雲一つない青空に輝いていた。
天子は釣り道具を持って湖まで来ていた。要石に腰を下ろすと、例のごとく餌も付けずに釣り針だけ投げ込む。
しばらくそうしていて、昨日のことを考えていた。当分は天界に戻れないなとか、お父様が心配してるかもだから衣玖に様子を見てもらおうかとか。
そして、あいつは今頃どうしてるかなと考えてると、隣で布がこすれる音がした。
「また釣りかしら」
気がついたら、また突然現れた紫が、スキマに座って並んでいた。
昨日、死闘を繰り広げた相手が、傷一つ無い顔をして微笑んできている。
天子は、いやおかしいだろ、昨日あんだけボコボコにしたのに、と思い、とりあえずほっぺたを突っついた。
「えいやっ」
「うきゃあ!?」
痛そうな悲鳴を上げた紫は、即座に鬼の形相となって天子の頭を掴みあげた。
万力のように頭を締め付けてきて、恐ろしいことに天人の頑強な身体がミシミシと嫌な音を立て始めた。
「何するのよ小娘が!!」
「いだだだだだ! あれだけボコったのに変に綺麗だなって思っでだだだだだ!!」
「ガワだけ整えてるのよ! その程度察しなさい、っていうかわかっててやったんでしょ!?」
「そりゃモチロいだーい!! 悪かったわよ、ごめんって!!」
謝り倒してなんとか開放してもらい、天子は痛むこめかみを押さえながら水面を眺めた。
紫は溜め息をついて間を開けてから、もう一度口を開く。
「源五郎ね、彼、出家したわ」
「……はい!?」
驚いた天子が声を上げて振り向いた、竿まで動揺を表して水面が波打つ。
呆気にとられた天子の顔を見て、紫は喉を震わせ愉しげに笑った。
「クク、その気になって頭も丸刈りよ、見に行ってあげたら喜ぶわ」
「え、なんで? っていうか早くない? 昨日の今日よ? あいつ思ったより根性あるわね」
「自分はどこでも生きていけると、そのことに気付いたんでしょう。あの家から離れるためだけど、ミカの死を供養するためというのもあるわ」
天子の気持ちは、ちゃんと伝わっていたのだ。
彼のために泣いた天子の涙は、源五郎にミカの愛を本当の意味で気付かせた。
他人の気持ちの奥底に触れ、その温かさを受け取ることが出来た少年は、きっともう大丈夫。
「もう心配はいらないでしょう。彼はまだ幼いけど、自分の意志で決断し生きていける人間になれたわ」
「そっか……良かったわ」
何にせよ天子にとっても嬉しいことだった。肩の荷が下りた思いだ。
ちょくちょく様子を見に行って、ミカが天界にやってきたなら源五郎のことを話してやろうと考えた。
安心した天子を見て、紫も安堵しつつ、少し不安げに手の平をこすり合わせた。
ここからが、紫にとって本題だった。
「昨日はごめんなさい、あなたには酷いことを言ったわ」
わずかに瞳を伏せ、紫がゆっくりと話し出す。
天子が横目でチラリと様子を見ると、紫は水面を眺めたまま揃えた膝の上に手を乗せ、肩を狭くしながら緊張気味に話していた。
「いや、昨日だけでないわ、初めて会ったときから、私は強く当たりすぎてた。走り続けられるあなたなら、どれだけ強く打ちのめそうと必ず立ち上がってくるだなんて、勝手な期待と怒りを押し付けてた。あなただって、どれだけ怒っても足りないくらい苦しんでたと言うのに」
いかに天子の自業自得であろうと、彼女を傷つけたのは間違いない事実である。ならばこれは贖罪しなければならないと紫は感じていた。
天子が自分を傷つけることしか出来ないように、自分もまた怒りという感情でしかそれを止められなかった。紫がもう少し賢ければ、穏便なやり方があったかもしれないのに。
懺悔する紫が、恐る恐る天子に顔を向ける。
「えいやぁっ」
天子は再び紫の頬に指を突き立てた。
伝わってくる痛みに、紫は顔をしかめて天子を睨み付ける。
「……だから痛いんだけど」
「当たり前よ、私だってあの時メチャクチャ痛かったんだから」
天子は睨み返してやると指を離し、そっぽを向いて口をすぼめた。
「痛いのがわかったら、もう怒るのは止めてよね」
「……悪いけど、それは約束できないわ」
天子からの願いを紫は退ける。
むっとした表情で見つめてくる天子に恐れることなく、あくまで紫は自分の気持ちを伝えた。
「もしあなたがまた間違いを起こしたなら、私はきっとまた物凄く怒る。だから無理な約束はできないわ」
「えいやぁっ、ついでにほらさっ」
「だから痛いのよ、二回も突っつくな」
紫が突き付けられた指を払いのけると、天子は飄々とした顔で恨めしい視線をかわした。
「まあ、許してあげるわ。悪いのは私も同じだし」
「散々痛いとこ弄ってきといて」
「あんただってイジワルじゃないの」
「むう……」
正直そこを突かれるのが一番痛い、紫は言い返せずに押し黙るしかなかった。
渋い顔をする紫に対し、天子も思いのままに言葉を返す。
「その代わり、怒るってんなら本気でぶつかってきてよね。ソッチのほうが絶対おもしろいわ!」
そう言って、天子は快活な笑顔を浮かべ、恨みも不安も、すべての無念を吹き飛ばす声を上げた。
それはとてもキラキラと輝いていて、見ていた紫は思わず見惚れてしまい、胸のときめきを感じた。
「……なんだか、あなたの笑顔を初めてみた気がする」
「そう?」
「その笑顔が、きっとあなたなのね」
無駄な飾りがない、怒りと悲しみに汚れてもない、天衣無縫なこの笑顔を、紫はずっと見たかったのかもしれない。
もう天子は、地上を見下すことはしない。この地に住まう人や妖怪と肩を並べ、共に笑いあって過ごしていく。
新しい幻想郷の住人へ、紫は鮮やかに笑いかけ、賢者として、そして八雲紫として語りかける。
「この幻想郷はあなたを歓迎しましょう、だけど一つだけ、あなたはあなたらしく生きなさい」
もう自分を傷つけることはないのだと、紫は天子の心に想いの熱を伝える。
これからの天子は、ただひたすら自分が幸せになるために、その素敵な力を存分に使って走ってくれていいのだ。
「それが、八雲紫から比那名居天子へのお願いよ」
紫は身体を近付けさせると、天子の顔に手を伸ばし、柔らかい頬を細い指でそっと撫でる。
「あなたは間違っていても進み続けられる人。例え闇夜が続いても、その先に必ず夜明けが待っているはずだと、私はあなたの道を祝福するわ」
与えられた信頼に、天子は思わず体の芯を震わす。
これからは何をしても良いんだと、すべてが許された気分だ。不安に思うことはない、これからの自分が抱いた願いはきっと人を傷つけない良いものであるだろうし、例え間違っていたとしても賢いこいつが諌めてくれる。
道が拓かれるのを肌に感じる、天道はとうの昔に潰えていたけど、地上に伸びたこの道は綺麗なものがいっぱいだ。それを楽しみながら進んでいきたい。
未来への展望に嬉しさがこみ上げてくる。
そして何よりも、この優しさを受け取れる今の自分が、とても喜ばしかった。
「なんて、ほとんど受け売りだけどね」
「……いや、きっとそれは、あんたが積み重ねたものが、返ってきた言葉なのよ」
そして天子は、歩み積み重ねてきた素晴らしい妖怪が、自分に笑いかけてくれることを感謝した。
添えられた細い指に自分の手を重ね、伝わってくる優しさに、眼を閉じて感じ入る。
「まったく、私みたいなのが好き勝手に生きたってろくでもないって自分でも思うけど。それが好きだって言ってくれるやつがいるなら、それでいいか」
天子は自分がまとってきた殻の全てを否定され、打ち砕かれた。だがその下に残ったものを拾い上げて、それを素敵だと言ってもらえた。
だから天子は、この先も自分を信じて生きていけるだろう。
「……ありがとう、馬鹿な私に、大切な物をたくさん与えてくれて」
「気にしないで。私が、好きだからやっただけのこと」
「ごめんね、あんたには八つ当たりばっかりで」
「まったくだわ、じっくり償ってもらわないと」
「はは、ちゃっかりしてやがるわね」
もう誰も傷付ける必要はない、誰も呪う必要はない。疲れたなら走るのを止めて、ゆっくり休めばいいのだ。
自分に優しくできるようになったのだから、誰にだって優しく出来るはずだ。
わずかに頬を赤らめた紫が、嬉しさに微笑みながら手を戻した。
離れていく熱に、天子は少し惜しむ気持ちでいることに気が付くと、よしと呟いて釣り糸を回収し、竿に巻きつけ、要石から立ち上がった。
「ねえ、この後、みんなと一緒に遊びに行く予定なの。あんたもどう?」
「あまりそういうのは……いえ」
あまり妖怪の賢者が表に出るべきじゃないと考え、すぐに思い直した。
天子が手を差し出してくれている、ならどこまでだって行けるだろう。
紫は迷いを振り払い、天子の手を取ると、彼女もまた道が拓けるのを感じながら立ち上がった。
「なら、楽しませてもらおうかしら、天子」
「よろしくね、紫」
走り続ける天子に手を引かれ、紫も不安を捨て駆け出した。
自分の気持ちに気付けた二人は、どこまでも楽しいことを追いかけられるようになった。
不器用な二人は、いつかは相手の気持の大きさも知り、握った手をより固く結ばせるようになるだろう。
彼女たちが往く道は祝福に満ち溢れていて、どこまでも幸せに、幸せに、力いっぱい進み続けられた。
憑依華新出のネタについては簡単な説明を入れていますが、逆に言えばガッツリネタバレなので、憑依華未プレイの方は是非とも先に原作をプレイしてみて下さい。ホント衝撃的な内容で面白いので。
プレイ済みの紳士、あるいは未プレイでも吶喊しようとする勇気ある読者は、お楽しみいただければ幸いです。
幻想郷の深い山々の中でも、特に険しい山岳地帯。
修行を好む仙人たちでも滅多に立ち入れない奥深くの山道に、ひっそりと佇む影があった。
眩い金色の長髪に、真っ白な細い身体をだぶついた道士服で隠している。浮かんだ笑みは胡散臭く、息遣いはどこか儚げで、美しい女の姿。
八雲紫。スキマ妖怪と呼ばれ、妖怪の賢者の一人である。普段は中々幻想郷に姿を見せない彼女であったが、何故か単身この山奥にまで出てきていた。
吹き荒れる冷たい風に髪を揺らされながら、山の横合いに空いた穴蔵の前に立ち、暗がりを覗き込んでいる。
穴はそれほど深くない、入り口から奥まで見渡せるが不審なものは見当たらない。
それでも紫は、何か視えているかのように穴に向けて言葉を投げかけた。
「ようやく見つけたわ。こんなところに隠れていたのね」
そう言って紫が手を差し込もうとしたが、指先から強い抵抗を感じ弾かれるように引き戻した。
煙が立つ指先を反対の手で押さえ、瞳に妖しい輝きを帯びさせて改めて穴を視る。境界が敷かれているのだ。横穴の内側から外を拒絶し、奥にいるものを隠している。
ため息を付いてもう一度語りかけた。
「怯える必要はないわ、私が元の居場所に戻してあげる。さあ、帰りましょう」
紫がしばらく様子を見ていると、穴の結界が解け、それまで隠されていたものの姿が現れた。
それは金髪の女だった。真っ白で細い体を穴の奥で縮こませて膝を抱えていて、薄く開かれた瞳は泥のように沈んでいる。
彼女もまた八雲紫、だが夢の八雲紫であった。
「現の私……」
「えぇ、夢の私」
疫病神と貧乏神の姉妹が引き起こした完全憑依異変の副作用、完全憑依を行うことで夢の世界に存在する抑圧された人格が、現実に現れる事態に陥っていた。
すでに事態は異変を引き起こした本人たちの手により収束しつつあるが、まだ最後に一人だけ残った夢の人格がいた。
その最後の夢を捕まえるため、紫が自らここにやってきたのだ。
夢の人格は抑圧された感情を受け持つため、大抵のものは好き勝手に振る舞って暴れたりしていたが、この夢の紫は様子が違うようだ。
現の紫を前にしても、なんの抵抗を見せることもなく気怠げに膝を抱えたまま、眠そうな眼で見上げている。
「よく、ここがわかったわね」
「私自身だもの、隠れてることはわかっていたわ。とは言え、実際に見つけるのには苦労してしまったけど。お陰でやりたかったこともできなくなってしまった」
「……あぁ、なるほどそのようね」
「それではあなたを夢の世界に送還するわ、それとも抵抗するかしら?」
「まさか……」
そう言って夢の紫は膝の上に頭を俯かせた。
「現実なんて怖いだけ、生きるなんて苦しいだけ。こんな世界に出てきたくなかった、ずっとずっと、夢の中で眠っていたい……」
「そう言うと思ったわ、私らしい臆病さね」
夢の人格が告白するのはその者の本音であるはずだが、暗い文言を聞いたところで現の紫は少したりとも動揺を見せなかった。
自分がどれほど臆病な妖怪かなどと、今更見せつけられなくとも十分にわかっている。
「夢の空間に繋げるわ、気を楽にして」
現の紫は夢の紫に近付くと、その小さな肩に手を置いて、自らの境界操作能力で現実と夢との境界を捻じ曲げ始めた。
夢の紫の背後で空間に亀裂が入り、少しずつ欠けていく空間の穴の向こう側に、夢の世界が顔を見せた。
「――あぁ、でも彼奴の夢に私が直接手を下せなかったのは残念ね」
夢の紫が唐突に零した言葉に、現の紫が眉をひそめた。
「……もうお眠りなさい、夢を見すぎよ」
「えぇ……ねぇ、現の八雲紫」
広がる空間の穴が、ここにいるべきではないものを捉えて吸い込もうとする直前、もう一度夢の紫は顔を上げて言葉を残した。
「目を逸らさないようにね――」
それを最後に、夢の紫は空間の穴に背中から吸い込まれていった。
役目を終え、割れた空間が修復されるのを確認して、現の紫は外に出ると、山の空気を吸って空を睨んだ。
「……比那名居天子。お前の何が私を駆り立てるの」
呟きに答える者は誰もいなかった。
◇ ◆ ◇
完全憑依異変が完全に解決されてから数日立った輝針城。
逆さでそびえ立つこの城に、すっかり居候になった天人の姿があった。
「うーん、美味しいー!! 外界の食べ物はなんでも美味しいわね、里で買ってきた魚を焼いて塩を掛けるだけでこんなに美味しいなんて」
宴会に使えそうな大きな畳部屋。
そこでお膳の上に並べられた料理を前にして、比那名居天子は緩んだ頬を押さえながら舌鼓を打っている。
「天子って本当食べるの好きだよね。よく自分でおかず持ってきてくれるのは感謝してるよ」
そう言ったのは、この城の主である針妙丸。彼女はお椀の蓋をかぶったまま、彼女のためにお盆に用意されたご飯を食べている。
自分の縮尺に合わせた小さな箸を持ち、これまたミニサイズの食器の上に並べられた料理を頬張っている。
普通サイズの人間と比べれば少ないが、針妙丸の大きさから考えれば、どうしてそんなにお腹の中に入るのか理解できない量を平然と飲み込んでいた。
「あはははは、私は天人よ。このくらい安いもんよ」
「はいはい、天人すごーい」
針妙丸も少しずつ天子との付き合い方がわかってきたようで、自慢する彼女に適当な合いの手を入れるだけにして後はスルーする。
鼻を伸ばす天子は、焼き魚の身を綺麗にほぐして箸で摘み上げると、手に持ったお茶碗に入れられた白米の上に乗せ、丸ごと口にかきこんだ。
「んー、ちょっとお行儀悪いけど、銀シャリと一緒に食べるのも美味し~」
「そうやって喜んで食べてるのは良いんだけど……」
そう言って針妙丸は、身を守るかのようにかぶっていたお椀の蓋を少し下げると、天子の隣にいる人物に視線をやった。
「あぁ、ふかふかの白米、あったかい魚……なんて贅沢……」
「あんまりウチの城に貧乏神を連れてこられるのはねー……」
天子の隣で幸せそうにご飯を食べているのは、ボロボロの服に借用書を貼り付けた貧乏神の依神紫苑だった。猫背で背中を丸めながら、一口一口を噛み締めている。
その様子は食事を楽しむと言うよりも、あったかいご飯が食べられるという事実そのものの幸福を味わっているようだ。
紫苑は嫌そうな顔をする針妙丸も気にしていないようだが、彼女の代わりに天子が言い返した。
「良いじゃないちょっとくらい、針妙丸じゃ私のご飯の用意もできないでしょ。あんたの分も用意してくれてるんだから文句言わないでよ」
「そりゃそうなんだけどね。それで私が不幸になったりするのは困るし」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。今は天子に取り付いた状態でお邪魔してるから、今は私が不幸にするのは天子だけよ」
「それ、天子が大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるでしょ、私なんだから」
少し前にあった完全憑依異変において、黒幕である紫苑とその妹の女苑は、博麗の巫女とスキマ妖怪に打倒され、異変収束のために夢の人格の回収を命じられた。
その最後の最後に、紫苑達は夢の天子と戦い、それがきっかけで紫苑は天子に興味を持つようになったのだ。
天子は天人として周囲を見下しているが、実際にその才気と天運は本物で、貧乏神である紫苑が普通に取り付いている程度では、運にほとんど変わりがない。
そのためか天子も貧乏神の紫苑に対して遠ざけるような真似をせず、紫苑がそばにいることを許していた。
むしろご飯の用意をさせたり、積極的に利用してるくらいだ。
「ご飯の用意とかしてくれるのはありがたいけど、そっちはこき使われてていいの?」
「元々苦労ばっかりだったしねー。ご飯作るだけで一緒に食べて良いんだから、別にいいわよ。神社で出されるご飯より豪華だし」
「まあ、私も一時期お世話になったけど、あの神社じゃねえ……」
「この私に従うんだから、それに見合った報酬を与えるのは当然よ」
貧乏神である紫苑は引受先がないため、今は博麗神社に身を寄せている。
近々神社を出ていくことになるだろうが、その時にはうちに転がり込んできやしないだろうなと、今から針妙丸は頭が痛かった。
「この城、召使いがいないのが不便だと思ってたのよ。お風呂とか自分で沸かさないといけないし。広すぎてあんまり掃除も行き届いてないし、ぱーっと二十人くらい雇っちゃったら?」
「そんなお金ないよ。天子が連れてきたら? 神社を建て直すだかした時に、天女にやらせてたって聞いたよ」
「あー、今はちょっとねー」
「追放中だし無理か」
天子は宴会用の丹を食べ散らかしたとかで、天界から一時追放処分となっているのだ。
本人は理不尽だと憤っているが、それで状況がどうこうなるわけでもなく、針妙丸と天子が完全憑依異変で組むようになってからずっと、天子は輝針城に寝泊まりしている。
針妙丸は正式に許可したわけではないのだが、天子の羽振りがいいので針妙丸にも多少なりとも恩恵があるため、なし崩し的に共同生活が続いていた。
「天女かぁ、貧乏神だからって鬱陶しがられるのはあんまり好きじゃないのよね。でも楽になるならいいかなー」
「私も歓迎ね。天子に言われたとおり、あんまり掃除できてないし」
「掃除なんてこの天人にやらせればいいですわ。それにしても、天界を追放だなんて、馬鹿なことしたねぇ」
「馬鹿なのは他の天人共……えっ?」
自然な調子で会話に混ざっていた第三者に気付き、お箸を咥えた天子が目を丸くする。
彼女が振り向くと、自分と紫苑との間に、空間の亀裂から上半身を出した八雲紫の姿があって、思わず箸を取りこぼしそうになった。
「うわあ!? 何であんたがここにいんのよ!?」
「あら、私がどこにいようと驚くことじゃないでしょう?」
「驚くわ!」
「私の城が不法侵入者だらけになってる……」
針妙丸が遠い目をする前で、紫はスキマの中からするりと這い出てきて、畳の上に降り立った。
いきなりの闖入者に天子は箸を置いて警戒しており、紫苑などは巻き込まれないようにお膳ごと離れて食事を続けていた。
「いきなりなんなのよ、とっとと帰りなさいよあんた」
「そうは行きません、私は沙汰を言い渡しに来たのですから」
「さたぁ?」
訝しげな顔をする天子の前で、紫は手に閉じた扇子を持つと、その先端を天子に向けて突き付けて神妙に口上を述べた。
「比那名居天子、夢の人格とは言え天界は愚か、幻想郷まで滅ぼそうとしたあなたの行動を、看過するわけには行きません。早急にその存在の是非を判断しなければなりません」
芯のある声が広い部屋に木霊する。
完全憑依異変の最後に現れた夢の比那名居天子は、天界を滅ぼし、地上を滅ぼし、すべてを自分の理想通りに作り直そうとしていたのだ。
幸いにも疫病神貧乏神姉妹によって未然に防がれたが、場合によっては幻想郷も未曾有の大被害を被っていた可能性がある。
「そこで! 比那名居天子には、四日間の奉仕活動をしてもらいます」
「はあー?」
声高々と処遇を言い渡した紫だが、肝心の天子は相手を馬鹿にするような呆れた顔を返した。
誰がどう見ても相手を苛立たせるための声と表情だが、紫はこの程度のことは予測の範疇だというように、話の続きを口にした。
「あなたがこの幻想郷に馴染めるかどうか、その四日を持って判断します」
「知らないわよそんなの、なんで私がそんな泥臭いことしなきゃなんないのよ。あんたの言うことなんて聞く義理ないわ」
紫の話を無視して、天子は箸を手に取ってしまった。
知らん顔して食事に戻ろうとする天子を前にして、紫は意味深に薄目で天子を見つめると、再び口を開いた。
「ほう……ところで、口の端にあんこが付いてますよ」
紫が自分の顔に指を立てて指摘通り、天子の口周りにはわずかだがあんこがくっついていた。
どうやらおやつの時のものが付きっぱなしだったらしく、天子も少し恥ずかしげにしながら、紫から教えられた辺りを指で拭った。
「んっ、失礼したわ」
「お饅頭かしら、美味しかった?」
「えぇ、台所に置いてあったから私が美味しく食べてやったわ!」
「えっ、なにそれ私知らないよ?」
初耳の情報に、事態を見守っていた針妙丸が疑問を口にする。
無駄に胸を張る天子を前にして、紫はさも愉快げに口端を釣り上げた。
「へぇ、そう美味しかったの、私が丹念込めて呪いを掛けたお饅頭」
「ははっ……呪い?」
笑みを浮かべていた天子の表情が固まる。
紫は言うが早いか、扇子をしまって、唇の前で右手で二本指を立てた印を組んだ。
「こういうことよ――」
そして紫が聞き取れない声量でボソリと呟いた直後、天子の腹部から『ぎゅるうううううううう』という、思わず耳を覆いたくなるような不吉な音が流れ、彼女を青い顔にさせた。
「ひゅぅうっ!?」
「あぁ!? 天子が高貴な身分にあるまじき表情に!」
「あ、あの顔は! ギリギリ行けると思った白カビの生えた餅を女苑に食べさせた時とそっくりだわ! もぐもぐ!」
「つくづく大変なのね貧乏神って!」
外野が沸き立つ前で、天子は呪いにより痛みだしたお腹を抑え、畳の上に突っ伏してしまっていた。
痛みもすごい、やばい。だが問題は下腹部あたりに渦巻くとてつもない不快感だ。
呪われたまんじゅうを取り込んだ天子の肉体が、それを排除ししようと天子本人の意志とは無関係に、強硬手段を取ろうとしている。
ちょっとでも気を抜いたが最後、天人どころか少女として致命的な汚点を作ることになってしまうだろう。
苦痛に苛まれながら天子は自らの甘さを呪った。地上の妖怪とは言え、ここまで卑劣な手段で来るとは――!
「まさか置いてるだけで本当に食べるとはね。落ちてるもの食べちゃダメだって親御さんに教わらなかったの?」
「うぐぅっ! 親は関係なひゅうううううううううう!!!」
言い返そうとした天子であったが、紫が印を組んだまま更に二、三言呟くと、追加で奔流が襲ってきて、言葉は悲鳴に変わる。
今まさに、天子の腸内ではPhantasmクラスのスペルカードが荒れ狂っていて、行き場のない力の出口を求めていた。
「ぐぅぅぅぅ……こ、この程度ぉ……! 天人は退かないもん、媚びないもん、反省しないもんんんんんんんんん!!!」
「腹痛感度千倍ですわ」
「ぴゃあああああああああああああ!!!」
――かくして、少女のプライドがズタズタに引き裂かれる前に、涙を眼に浮かべた天子が紫からの処分を受け入れることで、この場は終幕となった。
苦痛から開放されたものの、未だに腹部に疼きが残る天子は、お腹を押さえたまま悔しそうな顔で畳の上に倒れている。
「くっ、ぬぉぉぉぉぉ……こんな安っぽい策略にぃい……」
「それでは明日、朝の四時には迎えに上がるわ。寝坊したら容赦しないから」
それだけ言い残し、紫は早々にスキマから空間を渡り姿を消す。
恐ろしき大妖怪が去り、なんとか立ち上がった天子は、食事に戻っていた針妙丸を睨みつけた。
「し、針妙丸! あんたも助けなさいよ! 明日一緒にさあ!」
「私、背ぇちっさいから、奉仕活動とかしてもあんまり役に立たないし」
「都合のいいときだけ体格差持ち出すなぁー! し、紫苑は……」
「感度千倍の辺りで逃げ出したよ。紫苑のぶんのお皿も天子が洗ってよね」
「あの薄情神ぃー!!!」
こうして、比那名居天子は一方的に奉仕活動を約束させられたのであった。
「この私に無償のボランティアとか、何考えてるのよあのババアー!!!」
◇ ◆ ◇
「……それで、なんで連れてこられたのが竹林なのよ」
翌日、時間通りに早起きした天子が、紫のスキマで強制転移されて連れてこられたのは、迷いの竹林だった。
竹やぶが鬱蒼と生い茂り、まだ暗い空を覆う下で、天子から少し離れて位置取った紫がいる。
「今日はここで奉仕活動しもらふわあああ~……ねむっ……だる……」
「私よりあんたの方が眠そうじゃないのよ」
昨日、あれだけ偉そうに言っておきながら眠い目を擦る紫を見て、天子が苛立たしそうに歯ぎしりする。
「っていうか待ちなさいよ、まさかあんたまで付いてくるつもり!?」
「言ったでしょう、この四日の行動を見てあなたの是非を決めると。最適な審判はもっとも身近でこそ判断できる」
「本音は?」
「高貴な高貴な天人様が、地上で泥まみれになる姿なんて特等席で見ないと損じゃない」
「よーし、そこに直れ。今度こそその首刎ね飛ばしてやるわ」
睨み合う両者のそばで、口喧嘩の様子を見て溜息を付く人影があった。
「おぉーい、喧嘩するなって、たけのこ掘りになんないだろ。紫も、喧嘩ふっかけてばっかりいるなよ。お前そういうやつだっけ?」
呆れながら喧嘩を止めに入ったのは、この竹林の周囲で生活している藤原妹紅だ。
奉仕活動をするとなれば、当然ながら仕事を提供してくれる人が必要になってくる。
今回は紫から話を持ちかけて、この妹紅に仕事を用意してもらったのだ。
妹紅から苦言を呈され、紫は不服そうに眉をひそめながらも引き下がった。
「……失礼しましたわ。頼んだのはこちらの方ですのに」
「まあ私としてもタダで手伝ってもらえるんだから、そう文句を言う気はないけどな」
胡散臭い妖怪筆頭の紫からの依頼ということで、妹紅も渋る気持ちはあったのだが、仕事自体も半ば趣味というか、例え無駄骨に終わっても気にならない程度のものなので、厄介者が持ってくる依頼がどんなものなのか興味本位で引き受けたのだ。
だがやってきた天子を見て、失敗したかなーと内心辟易していた。
「ふん、任せなさい。そこのババアのことはムカつくけど、やると言った以上は完璧なたけのこ掘りを見せてあげるわ!」
「子供は元気がいいなぁ」
「誰が子供よ!」
ちょっと子供扱いしただけですぐに激高する。
天人だが中身は赤子みたいなやつだと紫から聞いていたが、妹紅の想像以上だった。
「そこまで言うってことは、たけのこ掘りしたことはあるのか?」
「ないわ!」
「……なあ、この娘、バカなのか大物なのかどっちだ」
「前者に決まってますよ」
辛辣な言葉を吐く紫に、妹紅はどう対応すべきか「うむむ」と悩んでいたが、とりあえずやることやってしまおうと、そばに置いていた道具を天子の前に差し出した。
用意されていたのは鍬と、背中に背負える籠。天子は物珍しそうに見つめている。けっこう好奇心は強いらしい。
「あー、それじゃあまず簡単にレクチャーするぞ。まずたけのこを見つける。美味しいのは先っちょがちょっとだけ地面の上に出てきたやつだ。見てすぐわかるようなのは大体育ちすぎてて不味いから、目を凝らしてもっと小さいのを探せ」
「ふむふむ」
妹紅は手頃なたけのこを見つけると、実際に掘って見せた。
「見つけたら掘る。たけのこを傷つけないようにまず横の土を掘って、根っこから掘り返す。実際にやってみるとけっこう大きくて大変だけど、天人様ならこのくらいの力仕事は簡単だろ? 慌てないでやればいい」
「よっし、わかったわ任せなさい!」
妹紅は心配していたが、天子は一応やる気があるらしく、意気揚々と籠を背負った。
鍬を天に構えて張り切る天子の後ろで、紫が開いた扇子で口元を隠しながら密かに笑い声を零している。
「ふふふ……慣れない作業に、泥まみれになって醜態を晒すといいわ」
「ほい、紫、お前の分の鍬と籠な。それともお前なら籠はいらないかな」
妹紅から差し出された道具一式に、紫は笑みを沈めて首をひねった。
「……私?」
「いやお前だよ。是非がどうとか知らないけど、そばにいるっていうのに茶々だけ入れられても邪魔だよ。暇なことしてるくらいなら手伝ってくれ、じゃなきゃどっか行ってくれ」
紫がしばし悩んだ後、そこには渡された道具を装備した妖怪の賢者の姿があった。
竹林の下で、むしろやる気満々で鍬を握りしめる紫を見て、妹紅は気に取られた様子だ。
「……やるんだ。籠まで背負って」
「やるからには形から入るタイプなのよ」
「いやそういうことじゃなくて。お前出不精でよくわからなかったけど、そういうキャラだったんだな」
妹紅としては、てっきり適当に煙に巻いて立ち去られると思っていたが、ノリが良い紫を前にして若干困惑していた。
「あはははっ、虫けらの賢者にお似合いの衣装ね!」
「言っておくけどあなたも同じ格好だからね」
「格式高い人間が持てば、どんな装備でも光り輝くようなオーラを纏うものよ。見なさいよ、この格の高い緋色に輝くクワを」
「緋想の剣で気質をエンチャントしてるだけでしょうが成り上がりが」
「なんでも良いけど丁寧に扱えよー。壊したら弁償だからな」
それからしばらくのあいだ、三人はバラバラになって動き、たけのこ掘りに精を出した。
一時間ほど経過し、休憩がてらにそれぞれの収穫を確認するために、自分たちが掘ったたけのこを持ち寄った。
「とりあえずこれだけ集まりましたよ」
そう言って紫は満杯になった籠をドサリと地面におろした。
紫の成果に、妹紅は感心した声を上げながら、籠の中のたけのこを一つ手に取ってみた。
「流石っていうか、ホイホイ掘るなぁ。私よりも上手いし丁寧だ」
紫が収穫したものはどれも状態がいい。どれも食べるに丁度いい育ち具合だし、掘り出す時に傷がつかないように気をつけられている。隣に置かれた妹紅の籠よりも量も多い。
妹紅も長く竹林で過ごしているだけあって、中々の数を掘り出していたが、紫のほうが質も量も一枚上手だ。
妖怪の賢者がたけのこ掘りに慣れているとも思えないから、単純に紫の洞察力と器用さがずば抜けているんだろう。
妹紅としては悔しくはあったが、それ以上に紫の腕前に感服するばかりだった。
「それに比べて……」
更にその隣に並べられた天子の籠を見て、妹紅は苦い表情を浮かべた。
天子の籠は量だけ見れば山盛りだ、妹紅はおろか紫の収穫より多い。
だが数だけだ、最初に妹紅が言ったことを忘れ、育ちすぎ大きいだけで美味しくないたたけのこが多いし、丁度いいサイズのものも鍬でえぐってしまっていて傷がついてしまっている。
天子本人は、量だけ比べて自信満々に胸を張っているが、褒められたものではなかった。
「ふふーん、どうよ」
「多いんだけどこれはなぁ……」
試しに妹紅が一つ手に取って検分しようとすると、特に状態が悪いものを選んでしまい、半分以上えぐれたたけのこの下半分が引力に負けて折れて、ボロリと落下した。
渋い顔で妹紅はたけのこを籠に戻すと、紫に振り向いた。
「なあ、お前さんから何か言ってやらないのか。紫が連れてきたんだろ」
「……私から彼女に言うべきことなどなにもありませんわ」
しかし紫は妙に頑なな態度を取るだけだった。
妹紅は頭をかきながらどうするべきか迷ったあと、あまり慣れてないがしょうがないと結論づけて天子に向き直った。
「なあ天子。別に競争するのはいい、でももうちょっと丁寧にやらないか? これじゃ全部台無しだよ」
苦言を呈すなり、不機嫌な空気を醸し出した天子に、妹紅は怯まず、一つ一つ言葉を選ぶ。
「何よ、あんたも私を認めないの」
「認めないっていうか、これだとたけのこが可哀想だ」
わずかに、天子の瞳が揺れたのに、眺めていた紫は気付いた。
「たけのこだって命だ。まあ、私も喧嘩でしょっちゅう竹やぶ焼いてるから偉そうなこと言えないんだけどな、勝ちたいとか、そういう欲で生き物に乱暴するっていうのは間違ってると思う。食べるなら、そのために大切に命を刈り取るべきで、感情で傷つけちゃダメだろ。それは可哀想だろ」
妹紅は、いっつも喧嘩で竹を燃やしまくってる自分がこんなことを言ってるなんて、あの憎き月の姫に見られたら笑われるなと考えながら、それでも他に言う人がいないのだからと言葉を紡ぐ。
果たして上手く説得できてるか不安だったが、天子は話を聞くに連れ段々と眉をひん曲げ始めた。
目を合わせたままの天子のその変化が、何を意味するかはわからないが、妹紅は続けて語りかけた。
「失敗したとか、どうしても抑えられないぐらい強い感情があったなら、しょうがないで片付けるしかないけど。できるなら、丁寧にやろう。じゃないと、命を摘み取った意味がなくなる」
「……そんなこと、言われなくてもわかってるわよっ」
休憩の後、妹紅が二つ目の籠を用意して、再びたけのこ掘りに戻ったが、天子の動きは先程とは打って変わっていた。
あまり動作は早くはない、しかし一つ一つが丁寧で、慣れないなりにたけのこを傷つけまいとする努力が垣間見れた。
時折、その様子を確認した妹紅は、さっきの自分の言葉がそれなりに届いたんだと安心し、同じく天子の様子を気にしている紫に話しかけた。
「なんだ、大変そうなやつだと思ったけど、言えば分かる娘じゃないか。なあ?」
しかし紫は言葉を返さず、天子の背中を見つめている。
「どうした? 黙りこくって」
「……いや、何でもないわ。手間がかからないならよかった」
そう言って紫も作業に戻る。
真正面から一度言えば、それだけで天子はわかった。
さっきまでより微妙に緩慢な動作から、自分が認められなかったことへの不満が見えるが、それでも妹紅の言ったことを理解して聞き入れている。
つまりは言えばわかるようなことを、彼女は今まで、誰からも語られることがなかったということだ。
「よし、これだけ集まれば十分だな、というか取りすぎたくらいだ」
しばらくして、三人はもう一度籠を持ち寄った。
成果は上々、妹紅は満足げに頷いている。紫の成果は言うまでもないし、天子も途中からは丁寧な収穫を心がけてくれたおかげで、量は少ないが品質は問題ない。
「くぅっ、一番少ない……」
「わざわざ比べないと気がすまないところが、教養のなさが現れてるわね」
「なんですってー?」
「どうどう、何で天子相手だとすぐ挑発するんだ」
たけのこ掘りはそれで終了し、三人は二つずつ籠を背負って妹紅の家にまで運んだ。
一人で住むに精一杯の簡素な家だが、台所は揃っている。
家の裏手には川が流れていて、ここで汚れたものを洗うこともできた。
「此処から先は下ごしらえだ。苦くなる前にアクを抜いて売れるようにするけど……やっぱ採れたてがあるんだから食べないとな」
今日収穫したたけのこは、非常に安い値段で人里に卸す話になっていた。
そのためにも早めに湯がいて、美味しさが長時間保つようにエグみを取らないといけない。
だがやはり食べ物は何でも採れたてが美味しいものだ。妹紅はついでにこのたけのこで、ちょっと遅い朝食を取るつもりだった。
「……何かやれることある?」
「おっ、掘った時もそうだけど結構やる気あるなぁ」
「やるって言った以上はね。それに地上のやつらがどんなことして汗を流してるのかちょっと気になるし」
「んじゃ頼もうかな。こっち来てくれ、まずはたけのこを川で洗って泥を落とすぞ」
「では水洗いしたたけのこは、私が調理しましょう、台所は使って構いませんね? 新しい籠を用意したので、ここに入れていって下さい。家の中からスキマで取って、順次茹でていきます」
気が付いたら、紫は道士服の上から割烹着を付けて、一番先に下ごしらえの準備に入っていた。
「おぉ、意外と何でもできるなあんた。やり方はわかる? わかるな? んじゃ任せるよ。あるものは自由に使ってくれ」
「ついでにご飯も炊いておきますよ」
「いいねえ、よろしく頼む」
紫のことをすっかり信用した妹紅は安心して仕事を任せたが、天子はそのことに不満そうだ。
「なんでもできるからって良い気にならないでよね」
「あら僻みかしら? 何でも持ってる天人様が卑しいことね」
「どうどう」
二人が睨み合う一幕もあったが、こちらの作業もまた滞りなく進んだ。
小一時間もしたころには、里に出荷するぶんはアク抜きを終え、三人の前でホカホカのご飯と採れたてのたけのこを利用した味噌汁、そして新鮮な素材でしか味わえないたけのこのお刺身が並んでいた。
「うんまぁーい!」
まっさきにご飯に飛びついたのはやはり天子だった。
慣れない作業の連続に疲れて来ていたようだったが、ご飯となるや元気万点の笑顔で、新鮮なたけのこ料理に舌鼓を打っている。
普段の態度に問題がある天子だが、食事を楽しむその姿は愛らしくて、向かいに座った妹紅も釣られて笑い、いつもよりご飯が美味しく感じられた。
そして、天子の斜向いに座っていた紫も、この天子を見てはいつものような稚気を起こせず、つい微笑を零した。
「ふふ」
紫に他意はなかったが、天子は笑われたとでも思ったのか、我に返って目を丸くすると、頬を紅潮させてそっぽを向いた。
「ま、まあまあね! 悪くはないわ」
「そうか、もっと食えもっと食え。美味しそうに食べるやつは好きだ」
「しょうがないわね、そんなに言うなら食べてあげようじゃない」
「作ったのはこの私だということをお忘れなく」
「死ね」
「殺すわよ」
「お前ら飯くらい静かに食え、追い出すぞ」
多少恥ずかしくはあったが食欲は抑えきれないようで、ちょっと妹紅が乗せてやるとまた美味しそうに食べ始めた。
「なあ天子、今食べてるたけのこは、お前が最初に傷つけたたけのこだ。売れないしそのまま捨てるには勿体無いから使って貰った」
「うん? そうなの?」
天子は手に持った味噌汁を見つめ、その上に浮かんだたけのこを箸で突いた。
今まで、天子は食に困ったことなど無い。常人ならざる天運を持った彼女は、そういった苦労とは無縁だ。
自分が手に泥をつけて汚して、頑張って採ったものを食べているんだと知って、今までにない気持ちを覚えていた。
「そっか……そうなんだ……」
嬉しいとも違う、いうなれば生きている実感。
空っぽだった器に中身を入れられたような感覚が、天子の胸を満たしていた。
その満足感からくる微笑みは、とても柔らかく、純粋だった。
それを紫が見つめている。
紫からすれば憎らしい相手であるが、愛らしい少女の姿には親愛にも似た、しかし複雑な感情が湧き上がるのが感じられた。
紫はしばし、自身の記憶に思いを馳せた――
――
――――
――――――――
数日前、ある昼下がりのことだ。紫は親友が住まう白玉楼へと足を運びに行った。
庭の空間に開いたスキマから身を乗り込ませると、幽々子と妖夢は縁側でお茶をすすっていつも通りのんびりしていた。
来客に気付いた幽々子は、嬉しそうな表情を浮かべてくれた。
「こんにちは幽々子、時間よろしいかしら?」
「あらいらっしゃい紫、いいのよいつだって。妖夢、彼女の分のお茶の用意お願い」
「はいかしこまりました。紫様少々お待ちください」
妖夢が空になっていた急須を下げ、台所へ去っていくのを見送って、紫は幽々子の隣に腰を下ろした。
この突然来訪してきた自分に、幽々子はふわりと笑うと、こちらを見向きもしないまま、穏やかな口調で尋ねた。
「それで……悩み事の相談かしら?」
「えぇ……ふふ、幽々子には敵わないわね」
このスキマ妖怪がアポもなしに白玉楼へ来るのは珍しいことではないが、今日の紫が何かを抱えてきていることを、幽々子は敏感に察していた。
紫のほうも、言葉とは裏腹に気付いてくれることを確信していたようで、嫌な顔一つせず頷く。
短い会話でお互いのことを確認し終えると、奥から妖夢がお盆の上に急須と紫の分の湯呑みを乗せて縁側に戻ってきた。
お盆を置き急須に手を掛けようとした妖夢に、幽々子がさっと言葉を挟んだ。
「妖夢、悪いんだけれどこれからお使いに行ってきてもらえるかしら? 人里の銘菓が食べたいの」
「お菓子ですか? ……はい、わかりました」
妖夢は妖夢で、きっとお二人は聞かれたくない話をするんだろうということを何となく察したし、自分が帰る頃には紫様はいなくて、買ってきたお菓子は自分と幽々子様とで食べるんだろうなとわかっていた。
二振りの刀を身に着けた妖夢がゆっくりとした足取りで門を出ていくのを見送ってから、妖夢の代わりに幽々子が紫のお茶を注ぎ淹れた。
「さて、今日の親友はどんなお悩みをお持ちなのかしら」
「悩み、と言ってもそれほど大きなものでもないわ。ただ気にかかるというか、自分でも意外だと感じているだけ」
紫は自らの悩み事を家族である藍と橙に打ち明けることはあまりしない。
紫の内側では常に不安が渦巻いている。ふとしたことで自分の平穏が崩れてしまわないかと常に怯えており、自分を慕ってくれている家族に悩みを零せば、失望されてしまわないかと怖いからだ。
無論、頭では藍と橙がそんなに狭量ではないとわかっているし、彼女たちを信じられない弱い自分を情けないと思っている。しかしそれでも不安は拭えず、紫が唯一安心して悩み事を相談できる相手が西行寺幽々子だった。
紫は湯呑みを手に取り、お茶の苦味で体の奥を温める。
熱い息を吐き、湯呑みから漂う湯気が悩ましげに揺れるのを眺めてから、ようやく本題を話し始めた。
「完全憑依異変で夢の人格が幻想郷に現れたことは知っているかしら?」
「えぇ、一通りは」
「私は事態の収束には、黒幕であった疫病神と貧乏神の姉妹を利用した。そこまでは良いんだけれど、私としたことが何を考えていたのか、比那名居天子の夢の人格を回収するに辺り、自分自身で動こうとしてしまった」
「へえ」
紫は完全憑依異変に関わった者をリストアップし、それぞれの夢の人格が現実に現れていないかチェックしており、夢の天子が天界に侵攻しようとしていたのも知っていた。
後日、紫が夢の天子について報告を受けた時は初めて知った素振りをしたが、本当は自分の手で止めようと考えていたのだ。
そのため、依神姉妹には他の夢を捕まえたところで、これで最後だと伝えていただが、夢の華扇が天界に夢の人格が残っていることを教えたのが誤算だった。
もっと早くに動ければよかったのだが、河童と面霊気が完全憑依体験で商売をしてしまっていたため、その客の夢人格が現れていないかのチェックに徹夜だったし、最優先事項である自分自身の夢の人格を探すのにも時間がかかってしまった。
おかげで獲物を取られてしまった。それは残念ではあるが、重要なのはそこではない。
「……正直、必要もないのにそんなことをしたがった自分自身に驚いているわ。いつも臆病で、任せられる限り他に任せている私が」
「たしかに珍しいわね」
紫が自ら動くことは少ない。常に影に隠れて行動し、幻想郷の維持に動く必要があっても、極力他の誰かを利用するし、紫がどうしても事態解決に動く時は、すべての駒が揃った最後の最後だけだ。
それは単に、紫自身が臆病な妖怪だからだ。負けるのが怖い、弱点を暴かれるのが怖い、スキマ妖怪という朧気な存在の本質を捉えられるのが怖い。
だから完全憑依異変においても、異変の黒幕を打倒する算段が付くまで情報収集に努め、積極的に動かなかった。
しかし何故か、夢の天子は自分で倒そうとした。これは矛盾している。
「今思えば、天子が起こした異変の時からおかしかった気がする。落成式を潰すなんて、わざわざ私でなくても良い。別の誰かをけしかけてやって、彼奴の企みを暴いてもらえばよかった。それなのに私は自分で動いてしまった」
「別に構わないんじゃないの?」
「その通り、でも私らしくない。この論理的でない行動の理由を探らなければ、安眠できないわ」
紫は、自分でも天子のことになると感情的になる自分がわからないでいた。
元から天人のことは気に食わなかったが、だからと言って天子に対する苛立ちは性質が違い抑えられない。
自分の行動を予測できないというのは、紫のように慎重な性格の者にとってはある種恐怖だ。
「ちなみに、その夢の天子はどういうことをしてたの? 夢の人格は抑圧された部分だから、跳ねっ返りが多いって聞いてたけど」
「……天界も世界も何もかも滅ぼして、一から作り直そうとしてた」
「あ、あらまあ……」
さすがの幽々子も唖然としているようだ。当然だろう、紫も初めあの夢の天子を見つけた時は頭を抱えたものだ。
だが同時に、そこまで爆発的な衝動を見せた夢の天子が、どうしてそんな暴挙に出ようとしてのか気になる。
「そっか、紫は、天子を気にかける自分が気になるのか」
そして幽々子は期待通り、そんな紫を冷静に分析してくれた。
彼女の言うとおりだ、だがあまりに図星過ぎて紫は少し情けなさそうに肩を落として、湯呑みのお茶を口に含んだ。
ほどよい苦味と香りで気を落ち着ける。
「……まあ、そんなところね。あれを気にかけるなんて事自体が癪だけど」
「ふふ、嫌よ嫌よも好きのうちって言うわよ」
「はあ?」
だがこれにはどうしても気に食わなかったのか、反抗的な態度を取ってしまった。
珍しく心情を露わにする紫を見て、幽々子は楽しげに笑っているが、紫としてはたまったものではない。
音を立てて湯呑みをお盆に置き、恨めしそうに親友を睨め上げた。
「ちょっと冗談は止めてよ幽々子」
「あら怒らせちゃった? ごめんなさいね。でも好きなのも嫌いなのも、関心を持っているのはどっちも同じっていうのはわかるでしょ?」
「それは……まあそうだけど……」
紫にとって、天子の他の天人は嫌いだが無関心だ。幻想郷の邪魔にならなければどうでもいいし、仮に邪魔になったら巫女なりなんなりに対処させる。
天子だけが唯一例外なのだ。出会っただけで、声を荒げてしまう相手など彼女だけだ。
複雑な心境の紫に、幽々子は静かに湯呑みを置くと、穏やかな笑みの奥に真摯さを湛えて向き直った。
「紫、あなたに興味を惹かれるものができたというのは、素晴らしいことよ。それのためになら、臆病な気持ちさえ跳ね返して進めるというなら、それはきっと良いこと」
幽々子が手をかざす。温かい亡霊の指先が紫の額に触れ、迷いを拭い去る。
そして紫の手に、自らの手を重ね、親友に勇気を分け与えようとした。
「追ってみて、触れてみて、天子の気持ちと自分の気持ちを調べ上げればいい。好奇心の赴くままに……それはあなたがずっと我慢してきたことなのだから」
幽々子は紫のことをよく知っている。紫が自分の臆病さ故に、そしてあまりにも優しく隣人を愛するが故に、自分の気持ちを押し殺して歩いてきたことを知っている。
だからここにきて、紫の心を揺り動かす存在が現れたことは、幽々子にとってもとても嬉しいことなのだった。
紫がその恩恵をこぼさず掴み取って、より明るい未来へと迎えるよう、精一杯の祈りを込めた。
「その内に秘めた感情が何であれ、駆けた先には必ず光があると、私は祝福するわ」
「……ありがとう幽々子。頑張ってみるわね」
そして迷ってばかりいた妖怪は、とうとう自分の本質へ向かう決意をしたのだった。
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――――――――
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紫はたけのこ料理を楽しむ天子を眺めながら、思考を整える。
比那名居天子、彼女の行動は紫の内面以上に矛盾している。
天界を滅ぼしたいと願うほどそこに住まう者を嫌っているのに、何故天子自身は天人を気取って地上の存在を見下すのか。
自分を高貴な存在と謳いながら、何故嫌われ者の貧乏神を拒まないのか。
それだけ他人と壁を作っていながら、何故他人の気質を武器として使うことを選んだのか。
実に煩雑でわからないことだらけだ、だが紫にとってそれを解き明かすことが、引いては天子に振り回される自分を知ることに通じる。
食事を楽しむ天子は、憂いなき純粋な少女の姿そのものだ。
その内側に蠢く、世界を滅ぼしたいとまで思う抑圧の正体は何なのだろうか。
紫が天子のことを見つめていることに、妹紅もやがて気が付き、それとなく問いかけてきた。
「紫もよくわからんやつだと思ってたけど、今日はけっこう顔に出すじゃないか。いつもそうなら良いのにな。天子がいるからか?」
「さあ、何故でしょうね」
そして紫にとっても一番不思議なのが、天子といるとらしくもなく感情的になることだ。
お陰で天子とは喧嘩腰になってばかりだし、今のところ悪いようにしか作用していないが、新鮮な感覚で、正直何処か楽しんでる自分もいる。
今はいつになく無謀な自分に浸っていたいという気分だった。
「いやー、仕事が終わった後のご飯は美味しいわー。帰ったら針妙丸に自慢してやろっと」
「何言ってるんだ? まだ仕事は始まったばかりだぞ」
「えっ?」
「飯が終わったら、人里にたけのこを売りに行く。その後はここに戻って竹細工の道具作りだ。たけのこ掘りより大変だぞ、日が暮れるまで家に缶詰だ。美味しいもん食べて、今のうちに元気つけておけよ」
「な、何よそれー!?」
「ぷふっ」
「あっ、こら笑うな妖怪! あんたもやるんだからね!」
口では不満を唱える天子だったが、実際に仕事をやらせてみれば終始集中して黙々と作業を続けた。
しかし、なんだかんだ最後まで付き合った紫が、天子の倍の作業をこなしてみせたのには、また突っかかって妹紅が止めに入ることとなったが。
初めて働いたにして妹紅が感心するくらいに務めを果たして、輝針城に帰っていった。
◇ ◆ ◇
「天子、大丈夫? 疲れてない」
「へーきへーき、このぐらいなんともないわ。と言っても慣れない作業だったからちょっと疲れたけどね」
「人里でお弁当買って来といたよ。これ食べて元気つけなよ」
「おー、ありがと助かるわ」
輝針城に戻った天子は、針妙丸から貰ったお弁当を開けて食べ始めた。
特上カルビ弁当。最初は分厚いお肉に目を輝かせていた天子だったが、口にするにつれ、しぼんだ風船のように段々と笑顔が消えていった。
冷えていても美味しいよう工夫されているのだが、朝に加えて昼飯も美味しい手作り料理を食べたためか、どうしても冷たさが味気なく感じる。
それもこれも、引きこもりのくせに無駄に美味しい料理を作りやがるあの妖怪が悪い。天子だけでなく、妹紅までおかわり三杯頼んでしまうような、絶品料理を紫に食べさせられたのだ。
落差でひもじく感じてしまう天子の脳内で、嫌らしく笑うあの妖怪のイメージ映像が流れた。
「美味しいっちゃ美味しいけど、あったかいの食べたーい……紫苑はー?」
「ぶー、せっかく買ってきてあげたのに。昨日から来てないよ」
「うぅん、じゃあお風呂とかは……」
「流石に私のサイズじゃ、おっきなお風呂を沸かすのはねぇ」
「締まらないけどこのまま寝るかぁ」
天人の天子は垢も出ないし汗もかかないが、それでもお風呂に入ってさっぱりしたいのが心情だった。
しかしやり方もよく知らない、今度暇な時に紫苑から教えてもらおうと考えながら箸を進めた。
「明日もやるんでしょ? 何時から?」
「明日は八時だって。人里らしいから、向こうでご飯とお風呂済ませてくるわ」
「りょーかい、頑張ってね」
「まあ、やると言った以上最後までやるわよ」
天子のプライドは人一倍強い、ムカつく相手とは言え約束を反故にする気はサラサラない。
針妙丸もそんな天子の性格がなんとなくわかってきていたから、素直に応援することにした。
「どうだった、働いてみて? たけのこ掘りと竹細工だよね」
「後半は慣れない作業ばっかりだったから疲れたけど、ああいう地道なのが合う人ならそう悪くないんじゃないかしら。」
「へえー、けっこうへこたれると思ったけど、案外タフね」
「あの程度、天界で頑張った修行よりかは随分楽よ」
「……修行、したことあるの? 本当に?」
「してるわよ、あんた私を何だと思ってるのよ」
天子は一度お弁当と箸を置くと、緋想の剣の柄を取り出しそこに気質を集中させた。
萃められた気質が集束し織り重ねられ、緋色の輝きを誇る刀身を作り上げ、緋想の剣の名にふさわしい威光を針妙丸に示した。
「いい? この緋想の剣だって天人なら誰でも扱えるわけじゃないのよ! 厳しい修行を積んだ私だからこそ、手足のように気質を操作することが出来るのよ!」
「へぇー、そうなんだ、ふぅーん」
「あんた信じてないでしょー!?」
適当に流す針妙丸に天子が声を張り上げる。
大きな城に二人だけ、そう書くと寂しそうであるがそんなことは決してなく、城の大きさに負けないくらい騒がしく夜は更けていった。
◇ ◆ ◇
奉仕活動二日目。
天子の姿は、昨晩言った通り人里にあった。
「なんで私が失せ物探しなんてやらなきゃならないのよー!!」
失せ物リストが書かれた紙束を片手に、天子が往来で叫ぶ。
道を行く村人たちは天子を不審な目で眺めるものの、幻想郷においてはこの程度の変人は大したものでなく、すぐに興味を失って通り過ぎて行く。
憤る天子の話し相手になってやれるのは、小さく開いたスキマから天子の動向を監視している紫だけだった。
「他にもっとこういうの得意なのいるはずでしょ。っていうかあんたがやりなさいよ! スキマからあちこち覗いてるって噂聞いてるわよ!」
「あんまり妖怪の賢者が人里に干渉するのは良くないの。それにあなたの試験だと言ったでしょう、チャンスを与えられてるだけ感謝なさい」
「こんのババア……えーと次のは、爺ちゃんの入れ歯……何で入れ歯を外に落とすのよ!?」
「あぁ、それ出先でお餅食べた時に、入れ歯に詰まって外してそのまま忘れたやつだわ」
「知ってんのかい!」
一見すると、何もない空間に話しかける天子は完全に危ない人だが、そのことについて考えられるほど心の余裕が無いらしい。
今日は人里の守護者という人物から渡された、この失せ物リストの品物を探すのが奉仕内容だった。
非常に量が多く、全部見つけなくていいと言われているが、裏を返せば時間いっぱいまで働かないといけないということでもある。
すでに時刻は昼前、紫としてはいつ天子が音を上げるか楽しみだったが、意外にも真剣に仕事を続けている。
目星をつけた場所で、ひたすら落とし物はないか人に尋ね、万が一拾われずに落ちたままじゃないか道端に注意を払いながら、あちらこちらへ歩き回っている。
「不満を言いながらも、手を抜いてる様子はない。案外、根は真面目なのかしらね」
自宅で寝転んで煎餅をかじりながらスキマを覗く紫であったが、天子の後方に、彼女を追う人影があることに気がついた。
「――天人」
「言われなくてもわかってる、後ろでしょ。この陰気、間違えるはずないわ」
リストと睨めっこする振りをしながら、天子も背後の気配を探った。
紫は別のスキマを繋ぎ、天子を追っている人影の様子を詳しく確認する。
裸足でふよふよ浮き、特徴的な借用書だらけの服と濃い青色の髪を見て、誰だかすぐにわかった。
「天子、頑張ってるみたいね……でも大変そう、やっぱり私がいたら良くないのかしら。それに正直面倒くさいって思うしー……どうしようかなー」
うだつが上がらないことを呟きながら、心配そうに天子の様子を伺っているのは、貧乏神の紫苑だった。
一昨日は逃げ出した彼女だが、一応は天子の身を案じているらしい。
紫苑が曲がり角から覗き込んでいる先で、天子が路地に身を飛び込ませた。
見失ってはいけないと、紫苑が慌てて後を追い、路地を覗いてみると、待ち構えていた天子が至近距離から大声を上げた。
「わっ!」
「ひゃあ!」
驚いた紫苑が反射的に踵を返して逃げようとするが、その襟元を天子が後ろから鷲掴みして、不運な貧乏神を捕らえる。
観念した紫苑は、仕方なく振り向いて怪訝な表情をする天子と顔を合わせた。
「紫苑、あんたこんなところで隠れて何やってるのよ」
「あー、それはその何ていうか」
ため息を付いた天子は、紫苑の襟を引っ張ると、そばに開いていた空間のスキマを睨みつけた。
「休憩するわ、文句は言わせないから」
「ご自由にどうぞ。ただしサボりすぎるのは許さないわ」
「ぐえっ、天子首締まってるから止めてーっ」
お昼には少し早いが、そのぶん店も空いていて却っていい頃合いだろう。
紫苑を引き連れ、天子は適当な食事処に腰を落ち着けることにした。
机を挟んで紫苑を座らせると、とりあえず一番豪華そうなメニューを二つ注文して、料理ができあがるまでのあいだ紫苑と話すことにする。
「それで、こっそり私の後をつけてどうしたのよ」
「うん……あの妖怪にどんなことをさせられてるのか、心配になって見に来たんだけどね」
「心配? 私が?」
紫苑の魂胆を疑うような目で見ていた天子だったが、その言葉を聞いて目を丸くさせた。
紫苑は机の上に人差し指を這わせて、しどろもどろにしながら話を続ける。
「だけど、この前はつい逃げちゃったから、天子も怒ってるんじゃないかと思って。貧乏神が傍に居たって良いことないしー。紫が無理矢理言うこと聞かせてきたのだって私のせいかもしれないから。だから遠目で様子だけ見て帰ろうかと」
人付き合いに慣れていない貧乏神なりに、天子のことを気遣おうとしていたらしい。あまり上手くはやれなかったが、その気持ちに嘘はない。
それを聞いた天子はどう思ったのか、机から身を乗り出して怯えがちな紫苑の肩に、勢い良く手を置いた。
「いたっ」
「そんなこと、気にしなくたっていいのよ! 私を誰だと思ってるの、天人の比那名居天子。貧乏神の一人や二人取り憑かれたところでどうってことないわ!」
自分の性質に戸惑う紫苑への、天子の不器用な優しさが、痛いほど伝わる。
紫苑が頑張って天子と目を合わせると、その目には深い輝きが溢れていた。生き生きとしていて、強い力を感じる。見るものに力を与えてくれるような、美しい輝きだった。
お世辞にも人間ができてるとは思えない天子が垣間見せた、極光のような輝きに、紫苑は一時見惚れ、自分が何故天子に付いてこようとしたのか少しわかった気がした。
「大体、紫苑は悪くないわよ。悪いのはあの腐れババアよ」
「……ふふ、正直天子の自業自得な気もするけどねー」
「なんですってー?」
「聞こえてるわよ天人」
「聞かせてやってるのよ妖怪」
しっかり見張っていた紫が、どこぞから刺々しい声を出すが、天子は何食わぬ顔で言い返す。
決して折れない天子を眺めて、紫苑も珍しく明るい表情を浮かべた。
「天子はいま何してるの?」
「失せ物探しよ、こんなに頼まれちゃって。ちょうどいいわ、紫苑も手伝ってよ」
「うーん、正直面倒くさいけど、ご飯奢ってもらっちゃったしね。ちょっとだけなら」
「よし決まり、使い倒してやるから光栄に思いなさい」
「私を使い倒したって不運になるだけだってばー」
「でもその前に……」
天子は机の横に身体を傾け、足元を覗き込んだ。
見えたのは自分が履いたブーツと、人里だと言うのに裸足のままの紫苑の生足。
「紫苑! あんた靴くらい履きなさいよ、みっともない!」
「えー、でも浮いてるから大丈夫よ。お金ないし」
「衣食足りて礼節を知る。靴も履けないようなみすぼらしい生活してるから性格まで暗いのよ、そんなのじゃ余計に運が逃げるだけだわ。靴程度、私が買ってあげるわよ。ご飯食べたらまず靴屋よ靴!」
「うーん、窮屈そうだけど、買ってもらえるなら貰っちゃおうかな」
笑い合う二人は、運ばれてきた料理に手を付け、食事でお腹を満たしながら談笑していた。
それをスキマ越しに眺めていた紫は、自宅の居間に座って、式神の藍に用意してもらったうどんをすすりながら、眉をひそめて唸り声を上げた。
「……むう」
「紫様、あまり食事中に覗き見は止めていただきたいんですが……というかどうかしましたか、嫌そうな顔して」
「ピーマン食べちゃった猫みたいな顔してますよー?」
同じ机で食べていた藍と橙は、妙な表情を浮かべる主に疑問を口にした。
「いえ、なんでも……というかそんな顔してた?」
「はい」
「めっちゃくちゃ気に入らなそうな顔してました」
「昔、その気はないのに橙を怖がらせてしまって、自己嫌悪したあとみたいな顔だったな」
「あー、確かに! あの時そっくり!」
家族の言葉に、むしろ紫のほうが面食らうこととなった。
別に厄介者と嫌われ者が仲良くしたところで、紫にとって害はないはずだ。騒ぎを起こされれば事だが、その様子もない以上気にすることもない。
どうして面白くないと感じるのか――まさか嫉妬――
「いやいやいや、ないないないないない」
「はい?」
「紫様って時々変なことで悩みますよね」
「何言ってるの橙、私は悩んでなんかいないわ。そうよ間違いなくね」
妄想を振り払うべく、紫は一心不乱に麺をすすった。
お昼ごはんのあと、天子は紫苑を靴屋に連れていき、適当な靴を見繕った。
外来人の職人が開いたという靴屋は、幻想郷では珍しい種類の靴が並べられていた。その分どれも高価であったが、天子はポンとお金を出した。
買ったのは赤色のスニーカー。紫苑は最初、暗い色の靴を買おうとしていたのだが、天子が「こっちのが絶対いい!」と勧めた物だ。
ついでに白い靴下も一緒に購入し、それらを身に着けた紫苑は、慣れない履物にしきりに足を気にしていたが、脱ぎたいとは言わずに天子の後について地面を歩くようになった。
そして二人は一緒に失せ物探しの続きを始めた。
失せ物と言っても大抵はすでにだれかに拾われているので、聞き込み調査が主だ。
やろうと思えばお行儀よくもできる天子が色んな人に拾ったものはないか訪ねて回り、手持ち無沙汰な紫苑が、まだ拾われてないままだったりしないか周囲を調べる。
天子のほうが大変だが、紫苑は紫苑で頑張ってくれていて、子供が失くした鞠が屋根の上に引っかかっているのを発見したりしてくれた。
いくつか失せ物を見つけてから、一旦二人は品物を元の持ち主に返して回った。
「はい、お爺ちゃん入れ歯」
「ほぇ~、ありがとうねぇ~お嬢ちゃん~」
天子は手に持った包みを開き、中の物を見せてから、腰が曲がったヨボヨボのお爺ちゃんに入れ歯を渡した。
杖を突いてまともにお辞儀もできない彼に変わって、娘である小太りのおばさんが、改めて天子に頭を下げた。
「ありがとうございます。まさか天人様に助けていただけるなんて」
「……今日のは特別よ。それより、このお爺ちゃんもうボケボケなんだから、できるだけ家族が気をつけなさいよね。失くしたらまずお店に尋ねること。入れ歯を失くすタイミングなんて限られてるんだから、ちょっと考えればわかるわ」
「えぇ、それはもう。今後は気をつけます」
「大変だけど、親孝行は良いことよ。天界に行く徳を積むと思って頑張りなさい」
「ご忠言、痛み入ります」
しきりにおばさんが頭を下げる前で、紫苑が天子の耳に口を寄せた。
「天子、いつも偉そうだけど、今日はあんまりそうしないね」
「私だって相手くらい選ぶわよ。第一、向こうが最初から十分立場の違いを理解してるんだから、何も言うことないわ」
謙虚なのだか傲慢なのだかわからない言葉を返して、天子は次の仕事に向かおうとしたが、その手をお爺ちゃんの細腕がガチリと掴んだ。
「待ちんしゃい、良い子にはご褒美あげんとねぇ~」
「ちょっとお父さん! 失礼ですよ!」
「これ、あげるぅ」
おばさんが慌てるのを無視して、お爺ちゃんは懐から紙に包まれた何かを天子の手に押し付けた。
天子は少し驚きながらも、与えられたものを受け取る。
「ごめんなさい、父はちょっと嬉しいことがあるとすぐにお菓子を上げる人で……気に入らなかったら、他の人に譲ってくれても結構ですので」
「……まあいいわ、貰ってあげる」
天子は包みを握りしめると、少し屈んで腰が曲がったお爺ちゃんと目線を合わせた。
「長生きしなさいよお爺ちゃん。あなたは天界に行けるかもだけど、あそこ暇なところだから。できるだけ温かい家にいなさい」
「心配してくるんかぃ? ありがとうねぇ~、も一つおまけに……」
「お父さん、もう良いでしょ!」
結局、二つ目のお菓子を受け取り、天子と紫苑はその場を後にした。
天子は片方のお菓子を紫苑に渡し、歩きながら自分の包みを開いてみると、中には色とりどりの金平糖が詰まっていた。
「うわあ、色んな色があって綺麗。これ食べれるの!?」
「金平糖って言うけど、天子は知らないの?」
「天界にはこんな綺麗なお菓子ないもん」
紫苑も自分のお菓子を見てみると、出てきた小魚と目が合った。
「……私のは煮干しだわ」
「嫌いなの煮干し? 私は悪くないと思うけど」
「そりゃあ甘いほうが良いわー」
「しょうがないわね、半分こしましょ。はいこれ」
紫苑は天子から金平糖を分けてもらい、口の中で転がすと、煮干しは包みを閉じてポケットに突っ込んだ。
天子も金平糖を一摘み口にして、舌の上に甘いものが広がっていくのを味わいながら、赤い金平糖をもう一つ摘んで、自分のスカートに付けてあった七色の飾りに並べてみせた。
「へっへー、お揃いよ!」
「綺麗よねー、天子のその飾り。それって虹?」
「いや、極光、オーロラよ。まあ実際には虹色の極光なんてないけどね。でもあったらきっと綺麗でしょ?」
「うん、見てみたいわ」
天子は二つ目の金平糖を口に放り込むと、包みを閉じてポケットの中に大切にしまいこんだ。
失せ物リストの紙を取り出し、仕事の続きに取り掛かろうとする。
「さぁーて、次のは……」
「はい、ここでステップ、アンドターン! そしてフィーバー! 軽やかに、戸惑うことなく緩急をつけるのがコツです」
「ありがとうございます、衣玖先生! 細かく教えてもらって」
「構いませんよ、やる気があるのは良いことです。あとでまた教室でお会いしましょう」
「はい! それじゃあまた」
「……うん?」
なんか聞き覚えがある声がして思わず立ち止まった。
勢い良く振り返ってみると、そこには里の女性と手を振って別れる、美しい緋色の羽衣をまとった妖怪の姿があった。
「――あんた衣玖じゃないの!?」
「おや、総領娘様じゃありませんか。珍しいですね、こんなところで」
道端でポーズまで決めて踊りを教えていたのは、かつて天子が起こした異変で知り合った竜宮の使いの永江衣玖であった。
驚く天子の隣で紫苑が困惑した表情をしているのを察し、衣玖はまず彼女へと自己紹介を済ます。
「そちらの方は初めまして、私は竜宮の使いの永江衣玖と申します。お見知りおきを」
「はあ、初めまして。貧乏神の依神紫苑よ」
「おっと、貧乏神ですか。すみませんが少し離れて良いですか?」
「別に気にする必要はないわ。今は天子に取り付いてる状態だから、不運になるのは天子だけ」
「なら安心ですね、失礼しました」
嫌われ者の紫苑にとっては、この程度の嫌がられ方は気にならない。むしろ貧乏神への対応では丁寧な部類だ。
紫苑はいい人そうだなと安心し、とりあえず警戒はしないことにした。
「総領娘って天子のことでいいのよね。この妖怪、天子と知り合いなの?」
「まあ、そこそこ」
「私と総領娘様の関係は『総領娘様の父親の勤め先と同じ会社の別部署でお茶汲みしてる近所のお姉さん』くらいの立ち位置です」
「なんというか、絶妙に微妙にニアミスな関係ねー」
近いんだか遠いんだかわからない関係だが、とりあえずそれなりに見知った関係だというのはわかった。
自己紹介も済み、改めて天子が問いただした。
「あなた、こんなところで何やってるのよ」
「実は人里でダンス教室の講師役のバイトをしてまして、これから仕事です」
「ダンス教室って……まあ、あなたなら適任か。随分地上に溶け込んでるわね」
「天界もそれほど住み心地がいい場所ではありませんからね。最近は萃香さんも来ませんし、本格的に地上に居を構えようかと。総領娘様も講師役にどうです? 推薦しますよ」
「結構よ、あくせく働くのは性に合わないわ。それに私ほど高貴な天人が踊りを見せたら、格の違いに他の踊り子も膝を突いてしまうじゃないの」
天子は相変わらずの物言いだが、それより紫苑は普段聞かない天界の話が気になった。
「そんなに天界ってよくないの?」
「気候は穏やかなのですがね、娯楽がほとんどないので暇なのと……いかんせん住んでる人たちが排他的で、地上のことを見下してますから。私としては正直、息が詰まりますね」
「何だかたまに聞く話と真逆ねー」
天界の話など長く生きても噂を少し聞く程度だったが、紫苑が聞いた分には住んでる人たちはみな満ち足りた心を持ち、理想郷のような場所だと思っていた。
だが天子は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、天人なんてそんなもんよ」
「そういう天子だって、いつも自分が天人だからって周りのこと見下してるじゃない」
おかしな天子に紫苑は呆れていると、衣玖が急に神妙な顔つきになり、天子に近寄った。
「それと総領娘様、お耳を拝借します」
「ん?」
衣玖が手で口元を隠して小声で話しかけてくるのに、天子は素直に耳を貸した。
「私と同じ竜宮の使いが、天界に攻め入ろうとした総領娘様を見たと言っています。口止めしたので漏れないとは思いますが、本当ですか?」
それを伝え、衣玖は顔を離す。
話を聞いた天子は、顔から気持ちを沈めて無表情になったが、衣玖に向き直ると目を尖らせた。
「ええそうよ、私は天界を滅ぼして、ついでに世界も全部ぶち壊して、何もかも理想の世界に作り直そうとした」
「それは夢の天子の話でしょ」
「夢?」
「関係ないわ、私は私。私がそう願っていたからそう行動したに過ぎない」
話の内容を察した紫苑が眉を曇らせてフォローしようとするも、天子は一切の言い訳をしようとしなかった。
すべてを背負い込んで、己の過去に対峙する。
「私は、私の行動を否定したりしない。すべてがこれ是、天道よ」
眼光を強める天子を前にして、衣玖はしばし言葉を失った。
強い、あまりに強い少女だ。すべてを滅ぼしたいという願いを持つこと自体が、すでに痛々しいことであるのに、何故止まらないのか。
それだけの行動を選ぶに足る辛い想いをしてきたのであろうし、その願いを自覚しただけでも自らの愚かさに苦しんだかもしれない。いっそ泣けば楽でだろうに、天子はそれをしない、いやできないのが衣玖には不憫だった。
だがこれ以上は踏み込めない。そうしたら最後、爆発的な力で猛進する天子にこちらが逆に砕かれてしまうだろう。
此処から先、往けばあるのは死合だ、衣玖にはそれを受け止めるほどの力も覚悟も動機もない。臆し、身を引いた。
「あまり、羽目を外しすぎませんように。総領様も悲しみますよ」
「はん、あんなやつ私がどうなろうが知ったこっちゃないわよ。あんたこそ、人のこと言う前に、自分の持ち物盗られないように気をつけなさいよ。肝心なとこで抜けてるんだから」
「日頃から気をつけてますよ、結婚相手は自分で見つけたいからですね」
「巧言令色鮮し仁、悪い男に引っかからないようすることね」
「肝に銘じておきますとも」
愛想がいい男にろくなのがいないという言葉を貰い、衣玖は丁重に頭を下げた。
一部の天女では、羽衣をわざと盗ませて結婚する羽衣婚活など流行っているが、衣玖はこれに乗るつもりはない。
だいたいそんな風に相手を選んだって、ろくでもない相手しかいないではないか。衣玖としては優しさを持ち、情熱的な相手が理想だ。
結婚したいなら正面から堂々と、手ずから奪うくらいの意気込みを見せて欲しいものだ。
「して、総領娘様はどうしてこんなところに」
「地上の賢者気取りが泣きついてきてね、仕方なくあいつのために動いてやってるのよ」
「誰が泣きついたよ」
「うひゃ!?」
都合のいいことを吹聴しようとした傍から、紫がスキマから歩き出てきて、天子の耳を引っ張り上げた。
「いだだだだだ!!」
「おや、視線を感じましたがあなたでしたか。お久しぶりです、総領娘様がお世話になっているようで」
「えぇ、お世話しっぱなしで辟易してるくらいですわ。できればあなたにも手伝ってほしいものだけど」
「ははは、ご冗談を。総領娘様の子守とか面倒すぎてやってられません」
「ちょっと! それってどう意味イタイ! いい加減離しなさいよ!!」
「わー、天子の耳って柔らかいのね。私もやってみていい?」
「えぇどうぞ、お構いなく」
「構うわー!」
雑談もそこそこに、衣玖はこの後もバイトがあるということで、足早に去っていった。
旧交を温めるのが終わったところで、紫が腰に手を当てて天子を見下ろした。
「あんまりダベってばかりいないで働きなさい」
「わかってるわよ! 癪だけどやるって言った以上はやるわ」
「よろしい」
「ムカつく」
「あっそ。それとリストは三つ飛ばしなさい、じゃあね」
釘を差した紫も、とっととスキマに引っ込んでしまった。
赤くなった耳を押さえた天子は、リストを取り出して内容を確認する。
「あの妖怪、逐一確認してるのねー」
「まったく、暇なことだわ。他にやること無いのかしら」
「それで、次は何を探せばいいの?」
「今見るわよ、えーと……」
天子はリストを指でなぞり、紫に言われた通り三つ飛ばして、四つ目の失せ物を読み上げた。
「子猫探してます、依頼人は源五郎……」
紫が押し付けてきた依頼の内容に、天子と紫苑は顔を見合わせた。
まず天子たちは、依頼人に詳しい話を聞くことにした。
リストに載っていた住所を目指して道を歩く、そろそろ日が傾いてきていて、伸びた影を薄っすらとしたオレンジ色が縁取っている。
辿り着いた家では、源五郎を名乗る少年が玄関から現れて天子たちに説明した。
「あなたが依頼人の源五郎ね」
「うん……ミカを探してほしいんだ」
少年はおどおどした様子で、天子の前に立っている。
歳は十を越した程度だろうか。住んでる家はあまり大きくないが小さくもなく、まあ平均的な生活をしている子供のようだ。
だが身だしなみは悪い。服はよれよれで、目やにが付いたままだし、髪もボサボサ。毎日お風呂に入っていないのか、少し臭った。
源五郎は天子の足元に顔を向けて、忙しなく視線を動かしながら説明を始めた。
「み、ミカはね、ずっと前から飼ってるんだ。ボクにすごく懐いてたんだけど、三日前に出ていったっきり帰ってこなくて。だから心配になって……」
「どんな猫なの? 毛の柄とか、わかりやすい目印とかある?」
天子の後ろから紫苑が家の奥を覗き見た。天子も釣られて、源五郎の話を聞きつつチラリと様子をうかがう。
玄関からしてどうも片付いていないようで、むっとした重い空気が伝わってくる。
「灰色で、ちょっと地味な感じ。でも赤い首輪がついてて、鈴もついてるよ! ボクが頑張って、首輪に刀で名前を彫ったんだ。あんまり上手くやれなかったけど、見ればわかると思う」
「あなたから見てどんな性格だった?」
「大人しくて、いつもはあんまり外に出ないんだ。でもボクが落ち込んでると、そばにきて舐めてくれたりして、優しいやつなんだ」
源五郎は天子を前にして怯えが見える。天子は実際、自分で言うだけの才気を持っていて、まとった空気は常人のそれとは格が違う。その格差に戸惑っているだけなのだろうか。
彼は小さな手を握りしめると、勇気を出して天子に面向かって言った。
「お、お願いします天人様! ミカのこと助けて下さい!」
心からの懇願を、天子は眉を下げて聞いていた。
ペットの心配をして震える源五郎のため、その頭を撫で付けた。
「わかったから、安心して待ってなさい」
子供を元気づける天子の背中を、紫苑はじっと眺めていた。
「それでどうやって探す? また人に聞くの?」
天子は源五郎に別れを告げ、適当に里の中を練り歩き始めた。
その後を紫苑たどたどしい歩き方で追いながら尋ねてくる。
「いや、猫のことは猫に聞くのが一番だわ」
「猫に? どうやって」
「簡単よ、さっきの煮干し貸して、使うわ」
天子は紫苑から包みを渡して貰うと、中から煮干しを取り出して他はポケットにしまい、周囲を見渡した。
やがて家屋の隙間に黒猫が寝転んでいるのを見つけ、路地の入り口でしゃがみこんで煮干しを猫に見せた。
「チッチッチ、ほ~らこっちに来て。話を聞かせてほしいの」
興味を示した黒猫が首を上げ、煮干しと天子の目を注視した後、起き上がって天子の足元に駆け寄ってきた。
煮干しに食いつき、よく噛んで飲み込むと、天子の膝に手を置いてにゃあと鳴いた。
「おー、よしよし、良い子ねあんた」
天子は黒猫を前足の根本から担ぎ上げ、胸に抱きしめて毛を撫でた。
黒猫は満足そうに首をすり寄せ、新愛をこめて天子の頬を舌で舐める。
あっという間に猫の信頼を勝ち取った天子を見て、紫苑は驚いた声を上げた。
「へぇー、すごいのね、すぐ仲良くなって」
「そりゃあ私は天人ですから。動物と心を交わすくらいわけないわ。心が貧相な人間だの妖怪だのよりか、よっぽど物分りが良いのよ」
天子はくすぐったそうにしながらも、乱暴な扱いはしなかった。
黒猫を持ち上げて顔を合わせ問いかけた。
「ミカっていう飼い猫を探してるの、灰色で鈴をつけたの。三日くらい帰ってないそうなんだけど、あなたは何か知らない?」
「ニャァ~オ」
黒猫は一際大きな鳴き声を上げると、するりと天子の手から抜け出て、通りに身を躍らせた。
「なんて言ってるの?」
「ついてこいってさ。行きましょ!」
走る黒猫を追って、天子と紫苑は人里を駆けた。
一度大通りに出た後、また小さな道に入り、細かな路地を曲がりに曲がって、奥へ進んでいく。
暗い道を行き辿り着いたのは建物で囲まれながら、わずかに日の差す小さな広場だった。
そこは猫の楽園とでも言うような場所だった。建物の段差の上には何匹もの野良猫が佇み、来訪者を眺めている。
広場には色んな猫がたむろしていて、思い思いの場所でのんびりしたり、じゃれ合ったりしていた。
ここまで連れてきた黒猫は、最後に「にゃあ」と鳴くと天子の足元を通り抜けて何処かへ行ってしまった。
残された天子と紫苑が広場を見渡すと、その一番奥で他の猫に囲まれて寝転がった灰色の猫が見えた。
「あそこね。紫苑、怯えさせないよう気を付けて、彼らは敏感だから」
「う、うん」
ズンズン進む天子に、紫苑はゆっくりとついていく。
突然現れた二人に、広場の猫、特に奥で休んでる灰色の猫の周囲は警戒しているようだったが、天子が片手を上げて「落ち着いて、喧嘩しに来たんじゃないわ」とだけ言うとそれだけで静まり返った。
感心する紫苑の前で、天子が灰色の猫の近くでしゃがみこんだ。
猫はぐったりとした様子で寝ている。そばには餌がいくつか転がっているが、他の猫が持ってきてくれたもののようだ。
鈴の付いた首輪をしていて、よく見ると首輪には荒い筆跡でミカと刻まれていた。間違いなく依頼にあった猫だろう。
「少し弱ってる。餌は食べてるみたいだけど……」
天子がミカの頭を撫でると、ミカは閉じていた目を開けて、力無く「みゃぁ」と鳴いた。
傷つけないよう気をつけながら、天子はミカの身体をさすって調べた。
「……誰かに殴られたみたいね。弱ってるのはそのせいだわ」
「えっ!?」
天子はポケットをあさると、奥から漆喰塗りの印籠を取り出した。
蓋を開けて、中から小さな粒を一つ摘み取り、ミカの口元に寄せた。
「天界特製の丹よ、少し苦いけど、これを飲めばすぐ元気になるわ」
ミカは言われたとおりに丹を口に含んでくれた。苦味に少し顔をしかめたが、頑張って飲み込み大きく息を吐く。
数分ほど天子がミカの背を撫で続けていると、丹の効果が如実に現れ、ミカはしっかりと目を開くと顔を上げて、天子に顔を向けて大きく「みゃぁ~お」と鳴いた。
今のがありがとうの意味だと、様子を見ていた紫苑にもなんとなく伝わった。
「何があったの? よかったら話を聞かせて」
天子の問にミカは答え、しばらくみゃあおみゃあおと鳴き続けた。
見守っている紫苑には会話の内容はさっぱりわからなかったが、やがて話も済んだようでミカは鳴くのを止めた。
「源五郎が心配してる。あなたはどうする?」
ミカは天子の手に頭を擦り付け、彼女の膝の上に乗っかった。
天子は丁寧な所作でミカを胸に抱え、源五郎の家へと戻った。
「見つけてきたわよ」
ずっと玄関の前で待っていた源五郎だったが、天子の胸に抱えられたミカを見て、顔いっぱいに喜びを浮かばせた。
天子がミカを手で持って差し出すと、源五郎は慌てて受け取って自分の胸で抱きしめた。
「あ……ありがとうございます、天人様!」
しきりに頭を下げる源五郎に、天子はさっきの印籠を取り出して源五郎の手に握らせた。
「それとこれを、中には薬が詰まってる。時間を空けて一日二回、朝と夜にでもその子に噛まず飲ませなさい。人間にも効くから、あなたも一日一粒は飲んだ方がいい」
「は、はい! ありがとうございます!」
後ろから見ていた紫苑は思ったより早く終わったなぁとのんびり考えていたが、天子は依頼を完遂してもその場から動こうとしない。
源五郎がミカに頬を舐められてくすぐったそうにしている前で、硬そうな顔をして口を開いた。
「ミカには殴られた痕があった。苦しそうに倒れてたわ、覚えがあるでしょ」
天子に問いただされ、源五郎の表情からあっという間に明るさが抜け落ちる。
暗い顔色になる少年に、天子は続けざまに畳み掛けた。
「面倒を見きれないならいっそ家から逃したほうがいい。いや、そうしなさい。この幻想郷には隙間が多いから、その子一人でも生きられるところはいくらでもある」
「い……いやだ! ミカはずっと一緒なんだよ!」
「ちょ、ちょっと天子。そこまで言うことないんじゃ」
紫苑が困惑しながら、頑なな天子を止めようとしたところで、ガラリと音を立てて家の扉が開いた。
三人の前に現れたのは、痩せ気味の女。ギラリとした目に青白く細長い顔から、むせこむような重い空気が滲み出ている。
折れ目の付いた服を着ていて、荒れた肌からは疲れが見て取れた。
女の登場に、源五郎は怯えて肩を竦ませて振り向いた。歳幼い少年を、女は真っ先に睨みつけ唾を散らして怒鳴りつける
「源五郎! あんたいつまで外いてんの、さっさと入りなさいみっともない!」
「ご、ごめんなさいお母ちゃん」
この女性が源五郎の母親らしかったが、二人の会話はとてもではないが温かなものではなかった。
貧乏神の紫苑から見ても、この女は不運に塗れてる。単純に運が悪いのではない、女自身の振る舞いが不運を呼び寄せているのだ。
天子は眉を吊り上げ、源五郎を押しのけると母親の前に歩み出た。
玄関の敷居を挟んで、自分より背の高い女を睨み上げる。
「あんたが、ミカを殴ったのね。男と上手く行かないからって腹いせに」
「はあ? 何よあんた、人の家のことに口出すんじゃないよ!」
母親が睨み返してくるが、天子は揺るがない。
話がうまく飲み込めない紫苑が、天子の背中から伝わる圧に押されつつも疑問を口にした。
「ど、どういうこと天子?」
「こいつはね、男に見切りつけられて出て行かれたのよ、情けないことに浮気までされてね」
「何だい、いきなり現れて人のことをペチャクチャと!?」
母親はいきり立って天子の襟首を掴んで、首を締め上げた。
天子は苦しい顔ひとつしないままだったが、そばで見ていた源五郎はミカを抱いたまま慌てて止めに入った。
「や、止めてよお母ちゃん、この人はミカを助けてくれて……」
「うるさい! お前は黙ってな!」
母親はあろうことか息子に対して手を上げ、拳を振り上げて源五郎の頬を殴り飛ばした。
源五郎は衝撃で玄関の柱に背中を打ち付け、印籠を取りこぼす。
胸に抱かれたままのミカが、源五郎に変わって「シャー!」と鳴き声を上げて威嚇した。
家庭内の悪意を見せつけられた天子は、軽蔑を込めてより眼光を強めた。
「ハッ、くだらない女。子は夫婦のかすがい、それなのにその子をないがしろにするようじゃ、夫との縁も切れて当然だわ」
「ああん?」
「その醜さ、裏切った男だけが悪いんじゃない、そうやって不満があるたび当たり散らせば、周りの人間はうんざりするに決まってる。他所の女に寝取られたのは、あんたの自業自得よ!」
「なんですってこのガキァ!」
啖呵を切る天子に対し、あっという間に怒りを抑えきれなくなった母親が拳を振り上げた。
「ウチのもんをどうしようが人の勝手でしょうがあ!!」
怒鳴り声を張り上げ、母親はお構いなしに天子の顔面を真正面から殴りつけた。
だが天子は一切たじろがない。強固な天人の肉体をそこらの一般人が傷つけられるはずもなく、鼻を折ることすらかなわず、母親のほうが拳を痛め苦痛で顔を歪めた。
天子は母親の手を弾くと、逆に襟首を締め上げ、体格差のある母親の身体を持ち上げた。
母親が苦しそうな声を漏らすのを無視し、そのまま家の中に押し入って奥の壁に母親の身体を押し付けた。
「天子!」
「て、天人様待って!」
異常なまでに母親へ敵意を見せる天子を、紫苑と源五郎が引き剥がそうとするが、小さな身体は巨岩のように重くびくともしない。
「天子、源五郎君とは今日会ったばっかりじゃない。そこまですること……」
「私は仮にも天人よ、見捨てていられるか!」
天子は怒鳴り返し、締め上げた女を睨み付けたまま。
母親が目の前の少女が只者ではないことをようやく悟り、恐怖を感じ始める前で、天子は憤怒を漲らせて重い声を上げる。
「自分の所有物なら何をしてもいいと言ったわね」
「が……な、なにを……」
この家を中心にして、不穏な緋色の霧が立ち籠み始める。
足元から熱い激情を伝えてくる霧は天子の元へ萃まって行き、天子が空いた手で緋想の剣を掲げると不吉なまでに緋く、強く輝く刀身が家の中を照りつけた。
「ならここは、この幻想郷は、この比那名居天子の支配する大地よ! その上で暮らすあんたをどうしようかなんて、この私の自由というわけだ!」
「ひ……い……い……イヤァァァァ!!!」
すさまじいまでの天子の怒気に、母親が命の危険を感じ取って金切り声を上げた。
いきなりの暴挙に源五郎は為す術なく、紫苑も判断が遅れ静止が間に合わないまま、怒りに輝く緋想の剣が振り下ろそうとされ、
「そこまで、お止しなさい」
音もなく背後に立っていた紫が、天子の腕を掴んだ。
強く握られた腕から痛みを感じながら、天子は振り向いて殺気立った視線を浴びせかけた。
「八雲紫……!」
「力づくで従わせて、それでどうなるの。この家の支配者が、そこの親からあなたに移るだけ」
剣は依然として輝いている。天子の怒気は静まらない。
冷静に語りかけてくる紫に、天子は母親を締め上げたまま食って掛かる。
「なら私が、この家をより良くしてみせる!」
「無理よ。いかな名君とて、力に頼って支配するとどうなるか、あなたも知ってるでしょう。そんなやり方では、その子に恨まれるだけよ」
天子は眉を曲げ、辛そうな顔をして源五郎を流し見た。
緋色に照らされる顔は、母親と同じ恐怖に塗られており、この剣が振り下ろされた後に一番傷つくのが誰なのかを物語ってくる。
紫の言う通り、天子は過去の歴史を勉強し、力による支配のあとに生まれるのは、深い恨みつらみだということを学んでいたはずだった。
「自分の無力をわかりなさい。傷つけるやり方しかできないのでは、誰も幸福になど出来はしないわ」
天子は悔しさを噛み締め、己のうちから湧き上がってくる怒りと義に心がのたうち回った。
苦し紛れに出てきた言葉は、この場でもっとも無力な者へだった。
「あなたはそれで良いのミカ! 傷つけられてでも、源五郎のそばにいるというの!?」
源五郎に抱かれていたミカは、芯のある声でにゃあんと一鳴きし、天子を諌めた。
天子はいよいよ諦め、肩の力を抜いて緋想の剣の気質を解除した。周囲から緋い霧が薄れていくのを見て、紫も掴んでいた手を離して一歩下がる。
家の中に平穏が戻り、開放された母親が壁を背にへたり込み、疼く首を手で守りながら、荒い息で涎を零した。
天子は緋想の剣をしまうと、帽子のツバを下に引き目元を隠した。
「……源五郎、あなたは親の愛に恵まれていない。けれどその猫は確かにあんたを愛している、その優しさに学びなさい。そうすればあなたは強くなれる。誰にも負けないくらいに」
今の自分に出来る、精一杯の反抗を終え、天子は怯える母親に背を向け家から出ていこうとした。
彼女とすれ違う間際、紫が口を開く。
「今日の奉仕活動は終わり、好きになさい」
「……ふん!」
何もかも気にくわなそうに鼻を鳴らす天子に、呆然と事態を見守るしかなかった紫苑が手を伸ばそうとした。
「て、天子!」
「ついてこないで! ……一人にして」
だがその手も言葉で跳ね除け、天子は独りで家を出て、何処かへ去っていった。
天子の背中に溜息を吐いた紫は、源五郎へ顔を向ける。
「怯えさせてごめんなさい、彼女に代わって謝るわ」
「あ……あの……あなたは……」
源五郎はあまりのことにまともに喋れず、ただ震える手でミカを抱えて、自分の心臓の高鳴りを聞いていた。
困惑する彼に紫はその頭にそっと手を乗せて撫でた。
「私のことは秘密、ただのお婆ちゃんよ」
「おばあ……? でも全然……あっ、もしかしてあなたも天人様なんですか……?」
「ふふ、だったら楽で良かったかもね」
微笑を零した紫は、源五郎を優しく見つめた。
しかしそれだけだ、これ以上の干渉は危うい。すぐに源五郎から離れ、残っていた紫苑に目を向けた。
「もう行きましょう、私たちにできることはないわ」
「うん……ごめんね源五郎。天子のこと許してあげて」
紫が歩いて玄関から出ていく後ろから、紫苑が地面から浮かび上がって付いていく。母親は、息子と二人きりになってからもしばらく怯えて、壁際で縮こまっていた。
外はすっかり日が暮れて、人里の往来を夕日が彩っている。
何故か紫に連れられて歩くことになった紫苑は、源五郎の家を気にしながら隣に話しかけた。
「……あの家、どうなるのかしら」
「ミカだけではあの母親の悪意を抑えきれない、そう遠くない内に子にも虐待が始まるでしょうね」
辛い内容だが妥当だろう。あれで母親が変わるとは思えない、いやむしろ悪化する可能性が高いかもしれない。
あの母親は、しばらくは天子を恐怖して自分を抑えているかもしれないが、いずれ恐怖を忘れてまた手を上げることだろう。その時には、母親の悪意はもっと強くなっているはずだ。
得てして、子供の側は親の暴力を「自分が間違っているからいけない」などと自己洗脳により正当化することで逃避するが、源五郎の場合はミカの存在が楔となって、そうなることはないだろう。
自分を慰めてくれるペットの愛情が、彼を正気に繋ぎ止めている。
「紫、あなたは何もしないの?」
「幻想郷の賢者が、いちいち何でもない家庭の事情に干渉することはできないわ」
紫のような大物が、表立って人里に干渉すれば、幻想郷のパワーバランスにまで影響する。
今はどの勢力も水面下で人里の利権を争っている最中だ、これが好きに手を出していいとなれば、幻想郷の平穏は大きく乱れるだろう。
紫苑にも紫の理屈はわかったが、それでもままならなさに苦汁を舐めた表情をしていた。
紫は無表情で述べた。
「この先の運命を選択するものがあるとすれば、あの子供自身の意志よ」
「……なら何かが変わるはず、あの子は天子の心に触れたから」
その言葉を聞き、紫が道の途中で足を止めて振り返る。
少し後ろで停止した紫苑が、宙に浮いたまま胸に手を当て、顔を俯かせている。
「あの天人がどうしたというの?」
紫の質問に、紫苑が熱い声で語り始める。
「夢の天子は言ってたわ。世界を壊して、悲しむ事のない心を創り、貧する事のない社会を作るって」
「……初耳ね」
紫としても驚きの情報だった。思わず髪をかき上げ、下から見せた耳で聞こえた情報を反芻する。
紫苑が妹とともに夢の天子を倒したのは知っていたが、その詳細までは知らなかった。
まさかあの天人が、そんな理想を語ろうとは。
「全ての殻を剥がした先にある、夢の人格がそう言ったことは、天子の心を表してると思う。私は、彼女が本質的に優しい人間だって信じるわ。その優しさにあの子が少しでも触れられたなら、間違いなく生きる力になる」
顔を上げた紫苑の眼には光が宿っている。強い、強い光が。
それは紫が霊夢とともに彼女を打ち倒したときにはなかったもの、その光を与えたのは誰か、考えずともわかる。
才能を持った人間という者は、ただあるだけで周りに影響を与えるものだ。
それが貧乏神にすら活力を与え、彼女の内面を少しずつ変化させている。
「紫、あなたも天子の力を信じてたから、あの家に引き合わせたんじゃないの」
紫苑は確信を伝えると、上空へ飛び立って、夕焼け空を博麗神社に向かって飛んで行った。
消えていく貧乏神を眺めてから、紫は西の空に顔を向けて黄昏の地平線を見つめる。
「悲しむ者も、貧する者もいない世界、か……」
そんな言葉を天子が言えるとは、紫は予想もしていなかったはずなのに、何故かすんなりと納得できていた。
義を重んじる気持ちがあり、根本が優しいからこそ、天子は理不尽に対しああまで本気で怒ることができたのだ。
この台詞は無垢な子供が語るような純粋で、だが決して叶わない空想だ。
例えこの幻想郷ですら叶わない儚い夢。
「遠い遠い、理想郷ね……」
地平線の赤色に瞳が震える。
夕日に照らされてそう唱える紫の表情は、切なさと慈愛とが混ざりあい、愁いの色が浮かんでいた。
◇ ◆ ◇
「――ふざけるな! 私はもうこりごりだ!」
薄暗い部屋の隅に立って私の前で、床から起き上がったお母様が怒鳴り声を上げた。
大きく腕を振り回し、血走った目で辺りを忙しなく睨み付けていて、そばに立ったお父様が負けじと声を張り上げる。
「落ち着くんだ! お前とて比那名居家の一人だ、私が交渉すれば死後も天界に居座ることもできる、だから安心して」
「そんなの嫌に決まってるでしょう! あなたはこの天界を見てどうも思わないの!?」
お母様が両腕を広げ、このあまりに綺麗過ぎる天界を示す。
「誰も彼も地上のことを見下して、自分たちの醜さに気付こうともしない! 安穏と生きることに固執して、そのためだったらいくらだって邪魔なものを押し付ける!」
その言葉は、私が天に上がったときからずっと感じていたもので、私は胸の上で両手を握りしめた。
「こんな場所、もう嫌だ! 天人なんてみんな間違ってる! 私は死んで自由になってやる!」
「落ち着け!」
錯乱するお母様は、お父様がいかに止めようと口を閉じなかった。
他にも人手があれば押さえ込めたかもしれないけど、気違いのようになった身内を見せることを恥だと感じた父が、天女たちも部屋から追い払っていたせいで、一人で苦労することになっている。
「転生した先が、お前らが虫けらと言って見下すモノ以下だろうが構うもんか! ここで高貴な天人たちに囲まれて、魂まで腐っていくよりずっとマシよ!」
『おや、またあなたの悪夢ですか。夢から地上に出て暴れたと言うのに、その程度ではやはり足りませんか』
唐突に誰かの声が響いた気がした。
誰だっけこの声。この時はこんな言葉は聞かなかったような……この時? 何を考えているんだろう私は。
不思議に思う私を、すぐにお母様の金切り声が引き戻す。
「こんな場所、さっさと壊れてしまえばいいのよ! 私はこんな場所に来なきゃよかった!!」
『私ではあなたの抑圧を解消することはできませんが、せめてこの悪夢は処理しておきましょう。次、眠る時は夢を見ませんからご安心を』
「地上の人たちのことを虫けら呼ばわりして、くだらないのはあんたたちだ! あなたも、他の天人の味方をするっていうんなら、誰も彼も死んでしまえ!!!」
部屋の窓の外に大きな手が見えた気がした。
妙な圧迫感がある。まるで世界のすべてを掌に包み込まれたような
お母様の声が遠くなり、私の体が暗闇に投げ出される。
『あなたに槐安がありますように――』
――それを最後に、私の意識は目覚めた。
――――――――
――――
――
「――ハァ! ハァ……ハァ……」
輝針城の貸し与えられた部屋で、天子は布団から起き上がって荒い息を付いた。
見開かれた眼からは眼球がせり出し、焦点の合わない瞳孔から、薄暗闇の光景が天子の脳に染み入ってくる。
やがて落ち着いてきた天子は、夢の内容を思い出して、布団の上においた手を強く握りしめた。
もう一眠りし、夜が明けてから、天子は部屋を出て針妙丸とともに朝食を採った。
昨日の内に買ってきておいたパンを腹に詰め込んでいる天子に、針妙丸が心配そうな顔をする。
「天子、どうしたの。昨日帰ってからずっと黙りこくってて。何かあったの?」
「別に、なんでもないわ」
天子の様子は明らかに変だ。何かあったのだろうが、それを伝えてくれないことが針妙丸にはもどかしい。
「なんでもないって、どう見たって嘘じゃない。悩んでることあるんだったら言ってくれてもいいでしょ」
「どうせ言ったって誰にもわからないわよ!」
激しい拒絶を受けた針妙丸は、一瞬悲しそうな表情を浮かべ、すぐに眉を吊り上げて怒り出してしまった。
「何さその言い方! もう天子なんて知らない!」
「あっ……」
針妙丸はお椀の中に収まると、宙に浮いて廊下へ出て、襖をピシャリと閉めてしまった。
残された天子は俯き、自らの膝を手で締め上げながら、眉間を歪めた。
「……私は、全部間違ってる…………」
◇ ◆ ◇
今日で奉仕活動は三日目。例によって内容は伝えられていないが、天子は輝針城から出てすぐ地上に降りた場所で約束の時間を待っていた。
やがて天子の前で空間に線がはしり、そこから開かれたスキマから、紫が傘を差して歩き出てきた。
「随分と酷い顔ね。ちゃんと夜は眠れたの?」
顔を見るなり呆れた声を出す紫に、天子はキツい視線を向けたまま言葉を返す。
「うるさい、さっさと始めなさいよ」
「付いてきなさい」
そう言うと、紫は普通に地上を歩き始めた。
てっきり飛んで行くかスキマで移動させられるかと考えていた天子は、訝しげに見つめながら後を追う。
紫は急ぐことなく足を進めていき、さっさと仕事をこなしたい天子が焦れったくなって問いかけた。
「いつまで歩くのよ。わざわざ足を使ってノロノロと、飛べばいいじゃない」
「…………」
紫は立ち止まると振り向き、傘の下から横顔を覗かせると遠くを指差した。
「山、見えるかしら」
指の先を見ると確かに山がある。だがそれがなんだというのか、天子は意味を解せず首を傾げる。
「あれは妖怪の山と言ってね、天狗を中心に独特のコミュニティが形成されていて、安定していたぶん硬直化していたわ。でも最近は守矢神社というのができて、人里の人間も出入りするようになり始めた」
「それが何よ」
「何事も移り変わる、よほど超越した何かでない限り……いえ、完全の存在とて内面は変わっていく。諸行無常、それが自然なこと。私はそれができる場所を目指した」
紫は指差していた手を下ろすと、天子に振り向き柔らかな表情を浮かべた。
できるだけ、優しい表情を。
「今日のあなたの奉仕活動は、私の話に付き合うことよ。老人だって、たまには話を聞いてくれる人がいないと寂しいもの」
「……気を使ったつもり?」
考えもしなかった内容に、天子はつい威圧的な声を上げてしまった。
だがこの程度はいつものこと、紫は一笑にふすと調子を合わせて返した。
「好きに受け取ればいいわ、へそ曲がり」
「ふん、地上の泥臭い虫けらが」
予想通り傲慢な物言いを受け止め、再び紫が歩きだす。
その背中からボソリと、小さな呟きが投げかけられた。
「……ありがとう」
紫は内心驚いたが、気持ちを隠してゆっくりと背後に首を振り向かせる。
彼方を見つめ、顔を反らす天子の覇気のない顔を見てから、進行方向へ向き直った。
「……どういたしまして」
紫は絶えず足を進めていたが、特に目的地があるわけではない。まあ散歩のようなものだ。
その斜め後ろから、天子が付かず離れずの距離を保って付いてきている。
紫は歩きながら、時折自分のことを語り聞かせた。
「私は、ずっと昔は色んな人間に敵視されて、逃げ惑いながら生きていたわ。みんな身勝手で無鉄砲で、その中には天人もいた」
紫の歴史は苦労の歴史だ。この幻想郷に辿り着くまで、多くの苦難に遭って生きてきた。
彼女は強大の力を持った妖怪だが、それでも全能などでは決してない。むしろ下手に強大であるため多くの災難を引き寄せる宿命にあり、自分の存在を捕まえられないよう、常に闇に紛れて過ごしていた。
今の紫の慎重な性格も、その時の影響が強い。
「よく生きられたもんね。あんたみたいなのが天界から狙われたら、ひとたまりもないと思うけど」
「えぇ、苦労したわ。必死に逃げ隠れて、泥水を啜って這いずり回って、なんとか生き延びた。運が良かったわ」
何かまかり間違っていたら、もう生きていなかっただろうなと紫は思う。
九死に一生を得る経験をいくつも超え、奇跡的な確率の下で生き残った。
「そうやって逃げながら一人で過ごす夜は寂しくてね。冷えた身体を温めてくれる誰かが欲しいと星に願って、また逃げ続けた」
広がる青空に、記憶の中の月を浮かべる。
泥に塗れ、ボロボロの衣をまとい、ひっそりと闇夜に隠れながら夜空を眺めたものだ。
丸い月が心を狂わせ、妖怪の本能が叫ぼうとするのを抑えながら、傷だらけの体を月光で癒やした。
だがそれだけで紫の人生は終わらなかった。
紫は苦しみながらもゆっくりと歩みを続け、時に傷の痛さに足を止めることがあっても、何度でも歩いて少しずつ人生を積み上げた。
「長い時間をかけて、私にできた友人はほんの一握り。だけどその一握りの友人が、私を支え助けてくれた。私が今生きていられるのは彼女たちのお陰。みんなとても大切な縁で、私はこれを大事にしたい」
「……だからこそのユカリか」
何気なくこぼされた天子の言葉が、ずぐりと紫の胸に食い込んだ。見極められた真実が、紫の心臓を捉え、本質に牙を立てる。
紫は臆病な心が逃げ出したくなるのを、苦しそうな顔で鎮め、凍りつく胸を押さえた。
天子の言う通り、紫は握ってくれた誰かの手を離したくがないために、人の縁にちなんで自分の名前を『紫』としたのだ。
だが、こうやって自分の性質の一つ一つを解き明かされるたび、自分の存在は闇から引きずり出され、敗北に繋がる。
それこそが紫がずっと忌避してきたことだ。だからこそ紫は常に誰と対峙しても胡散臭く煙に巻く態度を取り、自らの性質をひた隠しにしてきた。
それがここにきてこんなハイリスクな行動を取ろうとは、何をやっているんだろうなと紫は自分で疑問に思う。
けれど、天子に自分の核心を知ってもらうことは、恐怖の奥底に、不思議な安心感すら覚えていた。
「……私は安心して生きるため、数少ない友達を守るため、そしていつか私と仲良くなってくれる誰かの助けになればいいと願って、この幻想郷を創ったの。いずれ消える定めにある幻想たちが、肩を並べて生きられる理想郷を目指した」
「肩を並べてね。そのしわ寄せが人間なわけだ」
敵意を含めた言葉の棘が紫の耳に突き刺さる。
紫が振り向けば、昨日のように殺気立った天子の視線が浴びせられていた。
「違うとは言わせないわよ妖怪。あんたたちは自分が生き延びるために、人里に人間を押し込めて飼い殺してるんだ。理想郷などとは程遠いわ」
天子はきっと昨日の一件を思い返し憤ってるのだろう。
しかし天子の感情は的はずれだ。どんな社会とてあの程度の歪はある。むしろ外界と比べれば、幻想郷はまだマシだ。
それでも紫は、反論することはなかった。
「否定はしない、私は弱く、何もかも上手くはいかない」
天子の言葉に、紫は何一つ言い返せない。
もう少し、紫に智慧と力があれば、あの家庭も不幸にはならなかったかもしれない。
そのことに、紫は本気で悔しく思っている。
このような何度も何度も無力さを痛感し、その度に枕を濡らしてきた。
「昔からそうだった、肝心なところで親友を助けられなかったこともある。この手からはこぼれ落ちたものだらけ、私は無力な臆病者よ」
紫は自らの手の平を見下ろし、過去の日々でなくした多くを思い返す。
縁に恵まれてからも諦めの連続だった。新しく何かを得る余裕などほとんどなく、ただ繋ぎ止めるだけで精一杯だった。
哀愁を帯びた紫の瞳を眺め、天子は頭を振った。
なんとなく、目の前の妖怪がそんな顔をするのが嫌で、挑発するような物言いが口をついた。
「……馬鹿らしい、そんな弱気だから、幻想郷の規範はゆるゆるで隙間風だらけなのね」
「水清ければ魚棲まず、忘れられた者を温めるにはそのくらいがちょうどいいわ」
「その続きは人至って賢ければ友なし。あんた自身も愚かなら友達が多かったでしょうね」
「ふふ、正解ね。お陰で仲良くしてくれる人が少なくて寂しいばかりだったわ」
しれっと自分の立ち位置を賢者に置く紫に、天子は自分でさせてて気に入らなそうに顔をしかめた。
「でも幸い、大切な友達と家族ができたから、私はそれで良いのよ」
そこからしばらく歩き、倒れた大木を見つけた二人は、その上に座って昼食を取ることにした。
天子の左隣に座った紫が、スキマから二人分の弁当箱を取り出した。
「私の式神が用意してくれたお弁当よ、あなたの分もあるわ」
紫が二段重ねのお弁当の蓋を開けると、中はふりかけの掛かったご飯と、卵焼きに唐揚げ、きんぴらごぼうと普通の内容だった。
それを差し出された天子だったが、紫から物を受け取るというのは、食べ物をもらえて嬉しいような、悔しいような、微妙な心境にさせた。しかし一昨日はご飯を作ってもらって今更だったので、大人しく手に取ることにした。
「いただきます」
「いただきます」
二人はそれぞれ膝の上にお弁当を並べ手を合わせた。
天子は試しに唐揚げを箸で摘み上げ、口に入れてみたが、一口食べただけでその美味しさに目を見開いた。
冷めきっているというのにお肉は柔らかく、それでいてカリカリとした衣が食感を楽しませてくれる。料理人が一手間も二手間もかけて、美味しいものを食べて欲しいという気持ちが伝わってきた。
お弁当は冷たいのに、この前食べたカルビ弁当と違っていた。
店で売られていたお弁当は全体を喜ばすためのものだ。
だがこれは紫と、紫と過ごす誰かが笑って食事を楽しめるようにと、個に対して向けられた愛情が詰まっている。
お弁当一つでもここまで想いを表せるものなのかと、天子は衝撃を受け、それを受け取れる紫に嫉妬すら覚えた。
「美味しいでしょう? これを作った藍は私の自慢の家族よ。不出来な私を慕ってくれて、いつも助けてくれる」
「……まあまあね」
「そう、口にあったようで何よりだわ」
意固地な天子は、満足げな紫をイジワルだなと思いながらも箸は止めなかった。
紫も卵焼きを口に含み、しっかり咀嚼し飲み込んでから言葉を紡ぐ。
「私は後悔したことの方が多いけど、その中で自分が積み上げてきたものに誇りを持っている」
きっとそれは本物だろうと、天子も思わざるを得なかった。
こんなに美味しく、想いのこもったお弁当を受け取れるやつが、間違った道を歩んできたはずがない。
「この幻想郷を、それなりにいい場所だと思っているのよ? あなたの目にはどう映るかしら」
紫が持つ者の余裕と愛情を湛えた眼で見つめてくるのを、天子は眼が合いながら何も言い返せず、自分のお弁当に視線を落として黙々と食べた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
美味しい食事はあっという間に終わった。
ご飯粒一つ残さず空になったお弁当箱をスキマに片付けながら、紫はふと、今ならいつもと違う会話を天子とできるような気がした。
そこで前から気になっていたことを天子に尋ねた。
「……ねえ、あなたはどうして、緋想の剣を愛用の武器に選んだのかしら」
「どういう意味よ」
「あの剣のことは私も知ってるわ、強力だけどまどろっこしくて、わざわざ選ぶ必要はない。記憶が確かなら、元々使う天人も少なかったはずよ」
緋想の剣の真髄は、相手の気質を見極める能力にある。それによって相手の弱点を突ける特性は強力だが、それに必要なプロセスは気質を見極める能力を最大限に発揮しなければならず、非常に複雑だ。
確かな慧眼を持ち、少ない情報からでも相手の性質を見抜ける者だけが緋想の剣を扱えるのだ。それは智を深め、気質を扱うに足る修行を経た天人にしか成し得ない。
「私の元来の能力は知ってるでしょ、大地を扱う比那名居家の力と天候をも左右できる緋想の剣、そして私の才気を合わせれば無敵だと思っただけよ」
「本当にそう? そんな傲慢な考えなら、もっと他に強い武器を手に取ると思うのだけど」
緋想の剣を完璧に操れると言うだけで天子は驚異的ではあるのが、地上を見下し武を誇るのなら、天界ならもっと戦闘に特化した宝具が他にあったはずだ。
緋想の剣は副次機能が多いが、だからこそ無駄が多く扱いづらい。それだけでは緋想の剣を武器にする理由としては弱い気がする。
「あなたは時折、地上で通りがかった人間や妖怪の気質を空に移して見せてたらしいわね。思うんだけど、あなたのそれって気質を介して他人に触れようとしてるんじゃないかしら」
「何言ってるのよあんた」
気がついたら、紫は段々と口が勝手に動き出し、語気を強め早口で喋るようになっていた。
天子が痛くない腹を探られて嫌そうな顔をしているのに、頭が熱気に当てられたようで正常な判断ができず、口が滑り続け熱弁を振るう。
紫は高鳴る胸を押さえて、紅潮した顔を振り向かせて必死な眼で天子を見つめた。
「あなたは人を探ろうとしてるんじゃない? 気質を見極めることで、より深くその人の性質を理解できるよう手を伸ばして、相手の心に近づこうとしてるのかもっ」
「いきなりヘンなことを」
「だからっ、あなたは緋想の剣を使って、本当に通じ合える誰かと繋がろうとしてるんじゃないかって思うんだけど!」
「うるっさいわね! なんであんたにそんなことあれこれ言われなくちゃいけないのよ!」
天子に怒鳴り返されて、ようやく紫は我に返った。
自分の意見を取り合ってもらえなかったことに、自分でも驚くくらいショックを受け、恥ずかしさに髪を指に巻き付けながら顔を反らした。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「え、いや……ちょっと、止めてよそんな反応……」
天子は天子で、妙な反応を見せる紫に困惑して、頬杖を突いて顔を背ける。
紫は何を馬鹿なことを言ってるんだろうと、恥じ入るばかりだった。こんなに熱くなって本人に語り聞かせて、まったく自分の行動が理解不能だ。
これじゃあ、相手の心に近付きたがってるのは天子なんだか自分なんだかわからないではないか。
その隣で、天子がチラリと視線を動かし紫の顔色をうかがう。羞恥に頬を赤らめ、落ち着きなく髪をいじりながら憂いた瞳を伏せる姿は、まるでか弱い少女のようでドキリとした。
「まあ……その……そういうのはあるかもね」
恐る恐る天子が口を開く。
まともな返答を貰い、紫は驚いて指を止め、固唾を飲み込むと天子をそっと横目で眺めた。
「人の気質を観るのは、何気なくやってたけど、考えてみたら、まあ、寂しかったからっていうのもあるかも」
「そ、そう……」
そこまで言って、天子は紫から顔が見えないようにそっぽを向いてしまったが、耳が赤くなっているのが丸見えだった。
恥ずかしながらも、自らの気持ちの一部を吐露してくれた天子に、紫は嬉しさを感じながらも、高鳴る鼓動のせいで落ち着かずまた指先で髪をいじり始めた。
しばらく二人で何も言わずじっと座っていて、頬の赤みが落ち着いてきた辺りでようやく紫が指を止めた。
「……もう行きましょうか」
「う、うん、ここからどうするの?」
「そうね……どこか行きたいところはある?」
「やりたいこと言っても良い?」
「話ながらできるなら」
天子は空を仰ぎ見ながら口にした。
「じゃあ釣りがしたい」
二人は霧の湖にやってきた。
天子は要石に腰を下ろし、紫に用意してもらった釣り竿に針がついてるのを確認する。
「餌は……」
「これでいい」
そう言うと天子は餌も付けないまま釣り針を湖に投げ入れてしまった。
水面に広がる波紋を眺めて待ち始めた天子の隣に、紫がスキマの上で湖に頭を向けて寝転んだ。
「太公望気取り?」
「そんなとこよ」
益体もないが、話をしながら心を落ち着けるには良いだろう。
しかし紫はここからどんな話をしようか、少し頭を悩ませた。
「……ねえ、よければあなたの話を聞かせて欲しいわ」
「私の?」
「えぇ」
「……つまんないわよ、私の話なんて」
「別にいいわ、どんなものでもね」
どんな話でも受け止めるつもりでいる紫に、天子は迷って水の上に視線を這わせた。
やがて決意して、ポツリポツリと話し始める。
「小さい頃、比那名居家だからってだけで天界に上がった。けど幼い私じゃ馴染めなくって、色々頑張ったわ」
「……やっぱり、そうなのね」
そうでなければ、天人と言えどここまで強くはなれないだろう。
自由自在に要石と気質を操れる技量は、一朝一夕で身に付くものではない。
「勉強もした、修行もした、でも不良天人のそしりは免れなかったな」
「天界なんてそんなところよ、ドロドロでグチャグチャ」
「詳しいわね。まあそんなだから、ずっと馴染めないままだった」
天子はまた少し黙った。
「……私のお母様も最期までそうだった」
気になる言葉に、湖を見ていた紫の眼が天子へ向く。
話している天子自身も緊張したのか、釣り竿の乱れが糸に伝わり水面で波紋となる。
「……お母様は、天界の生活に馴染めなくてずっと前に死んじゃった。天人たちに呪い節吐きながら先に逝ったわ。天界に残ることもなく、さっさと次の生に向かった」
今でも目に浮かぶ母の死に様は、とても辛い光景だ。
父は天界で上手くやってるが、母は天子と似て不器用だった。最期まで天人を否定しながら亡くなった。
だが話を聞いていた紫は苛立たしそうな顔をして、寝転がった体を起き上がらせてスキマを尻に敷いた。
「……気に食わない母親ね。みっともない死に方」
「……なんですってあんた!?」
紫の刺々しい言葉を受け、天子は途端に怒りを漲らせた。
釣り竿を放り出し、要石から降りると紫の胸ぐらに掴みかかって、至近距離から紫を睨み付ける。
「もっぺん言ってみなさいよ!!」
「気に食わないわ。その母親はね、愛すべき娘のことをほったらかしにして、自分だけ逃げ出して楽になったのよ」
だが紫から向けられた同情の眼差しに、天子は怒りを封じ込められそうになる。
紫の言うことは、天子自身も感じていたことだった。あの日、部屋の隅に立っていた天子のことを、死に際に毒を吐く母親は見向きもしなかった。
あの時の自分は、もどかしい心で服を握りしめ、どうして自分を置いていくんだと心の中で泣いていた。
「おか、お母様は、優しい人だった!」
「優しければ、正しいことを出来るわけではない。あなたの母親は選択を誤った」
「そんなことない!!」
「なら、なんであなたはそんなにも辛そうなの」
紫の寂しそうな眼が、沈んだ声色が、あの日の天子に語りかけてくる。
泣きたい彼女にかけられる情けが、天子から怒りを奪い、胸の奥に秘めていた悲しさを引き出させる。
「私が母の立場なら、あなたを寂しくなんかさせなかったのに」
「馬鹿なことを……言うな……」
本気で唱える紫に、天子はそれ以上何も言えなかった。
真剣に哀れむ紫の眼を見ていられなくなって顔を反らし、胸ぐらを掴んだ手は震えて力が抜けていく。
顔を歪めて苦しむ天子に対し、紫が出しぬけに言った。
「……竿、引いてるわ」
「……えっ?」
呆気にとられて天子が地面に投げ出された釣り竿と湖を見ると、確かに釣り糸が動いていた。
紫の胸元から手を離し、竿を取って糸を手繰り寄せると、それなりに大きな魚が針の先に喰らいついていた。
糸に吊り下げられピチピチと跳ねる魚を、天子は呆れた表情で見つめている。
「なにこいつ、餌もないのにバカなやつ」
「あなたに食べてほしかったんじゃないかしら」
「はあ?」
天子は胡散臭そうに魚と紫とを見比べた。
楽観視しすぎで能天気だと思う。そんなことをされるほど、自分が高尚とも思えない。
「何よそれ、火に飛び込む兎かっての」
「食べなさい、食べて元気をもらうのよ。そうやって助けてもらいながら、命は生きている」
「天人なんだから、ちょっと食べないくらいじゃ死なないけどね、断食の修行もやったし」
「生きて今日を全うするためには、肉だけでなく心も必要よ。恵みに感謝し、受け入れることで、心は豊かになり明日を信じられる」
「…………」
天子はしばらく黙り込んでいたが、紫の提案を受け入れることにした。
二人で焚き火を挟んで要石とスキマに座り、串に刺した魚を炙る。内蔵を取り除いたりするのは紫がやった。
香ばしい匂いをだす焦げ目が付くと、紫は串を手に取り、焼き魚の上からパラパラと塩を振りまいた。
「はい、どうぞ」
「……ありがと……いただきます」
一応例を言って天子が受け取る。
天子はホカホカの煙を出す魚の、もう動かない白い目と見つめ合った後、魚のお腹から食いついた。
小さな口で何度も身を齧り、ハフハフとしきりに息をついて熱さを逃しながら、恵みを噛み締めた。
「どう?」
「美味しいわよ。自分から食べてくださいって言うだけのことはあるわね」
「そう、良かったわね」
丸かじりでは骨まで口の中に入ってしまったが、天子は気にせずバリバリと噛み砕いて飲み込んでいく。昼食の後だがいい食べっぷりだ。
微笑む紫の前で魚のお腹側を食べ尽くした天子は、半分になった魚を紫に差し出した。
「ごちそうさま。残り、あんたが食べなさい」
「へっ? どうして」
「この幻想郷は、あんたが作った場所よ。ならこの魚はあんたが育てたも同然、食べる権利がある」
天子の意図はどういったものであったのだろうか。楽しみを共有したかったのか、貸しを作りたくなかったのか、それとも感謝か。
いずれにせよ、紫は魚の刺さった串を受け取った。その瞬間、天子の指と少し触れたが、温かかった。
「それじゃあ、いただきます」
紫は魚の身が崩れないように気をつけて、尻尾の側から噛み付いた。
千切れた尾を指で摘んで、焚き火の中に捨てると、髪が付かないようにかき上げながらもう一つ口食べる。
「……ねえ、これって間接キスじゃないのかしら」
「ぶっ!?」
紫が何気なく呟いた言葉に、驚いた天子は、焚き火が揺らめくくらい大きく吹き出した。
「き、キモイこと言うなー! そんなこと言うなら返しなさい!!」
「イーヤーよー。せっかく貰ったものなんだからしっかり味わうわ」
「味わうなバ、ゲッホゴッホ!」
天子は要石から降りて焚き火から回り込むと、顔を真赤にして紫から魚を取り上げようとした。
しかし途中で喉の奥に痛みを感じ、大きく咳き込み手を止める。
「あら、あなたもしかして骨が喉に刺さった?」
「そ、そんなことなゲホ」
「取ってあげるわ、口あーんしなさい」
「やーめーろーゴホッ、ゴホッ!」
妙に頬をニヤつかせて世話を焼いてくる紫に、天子は嫌がって抵抗したが、結局紫の手で魚の骨は取り除かれた。と言ってもスキマ越しに指だけ口の中に入れたので苦しかったりはしなかった。
焼き魚を平らげて手を合わせる紫に、天子は恨めしげな目をしていた。
「さっきから何なのよあんたは、妙にあれこれしてきて」
「ふふ、あなたも生意気なりに頑張っているのがわかってきたもの」
このところの天子の行動と、今しがた聞いた話も合わせて、紫は内心では天子のことを悪く思わなくなってきた。いや、はっきり言えば好きになってきていたのだろう。
「桃李言わざれども下自ら蹊を成す、あなたの周りにも少しずつ慕ってくれる人が増えてきている。自分の魅力を……」
魅力や徳のある者は自然と人を集めるという故事だ。紫はこの言葉を使い天子を元気づけようとしたが、天子が顔を歪め、辛そうな目で見つめてくるのに口を閉ざした。
瞳から感じるのは強い拒絶。敵意こそないが、深く暗い失望と絶望を秘めた眼をして、天子はあらぬ方を向いた。
「私に、そんな励ましはいらない」
「……難儀な娘ね。褒めたら苦しむなんて」
「別に苦しんでなんかいない!」
紫はどうしたらいいかわからなくなる。
天子は一体、何をどう感じているというのだろうか。
紫には理解できず、そしてそれがとても悲しいと感じる。
天子が何に苦しんでいるのか理解ってあげたい、癒やしてあげたい、紫はそう感じ始めているのに、優しくすればするほど天子は遠ざかろうとする。
複雑怪奇な心に、挫けそうな思いだった。
「どうして……あなたはそう自分を傷つけるの」
思えば天子はずっとそうだ。初めて起こした異変でも自分自身を悪役として振る舞い、わざと打ち倒されるシナリオを書いた。
きっと昨日の源五郎の一件でも、自分自身を責めたことだろう。
比那名居天子は自分を傷つけることしか知らない少女なのだと、紫にはようやくわかった。周りに強く当たってばかりいるのは、自分に優しく出来ないからだ。
だからこそ、紫は座っていたスキマを要石のそばに滑らせた。
天子に近寄った紫は、苦悩を抱えた小さな身体を抱きとめようと腕を伸ばそうとする。
「そんなことしなくたって、あなたは……」
「やめて! 気持ち悪い!! 私のこと気に入らないんでしょう!? ほっといてよ!」
だが天子は紫の手を払って要石から飛び降り、距離を取ると睨み付けてきたが、紫もそれで諦めなかった。
自分もスキマから降りて地に立つと、天子に歩み寄って手を伸ばす。
何度も手を弾かれ、その度に差し出し直した。
「だから止めてって!」
「止めないわ……!」
「賢者を気取ってるくせに、そんな意地になるんじゃないわよ!!」
「意地になってるのはあなたもでしょう!?」
声を荒げ切迫した様子で近付いてくる紫に、天子はとうとう背を向けて逃げ出そうとした。
その背後に紫はスキマを繋げて飛び出すと、後ろから天子の脇の下に手を差し込み、お腹の上でがっしりと組んで捕まえた。
紫の腕の中に抱き締められた天子は、乱暴に腕を振り回して抱擁を解こうとする。
「この、離せえー!!」
「離さない!」
暴れた拍子に紫は後ろに倒れ尻餅をついたが、意地でも天子を抱き締めたままだ。
振りかぶられた天子の頭が、紫の顎に打ち付けられる。だが紫は境界操作まで使ってダメージを防ぎ、決して腕を解かなかった。
「なんで私なんかにそんな優しくするのよ!」
「なんかじゃない! あなたにはそれだけの価値がある!」
「嘘つけ!!」
「嘘じゃない!!」
疲れた天子が、力を抜きぐったりと紫の胸に身を預けた。
「……地上の妖怪のくせに、なんであんたはこんなに優しいのよ…………」
弱い声に、紫は愁眉を浮かべより強く抱き、天子の身体が紫にぎゅっと押し付けられた。
お互いに密着し、その時に天子は、だぶついた道士服の下にある紫の身体が、見た目よりずっと細いことを知った。
こんな状況なのに、紫の身体は思わず折れてしまわないか心配になるほど儚くて、その身体でどうしてそれほど強く他人を想えるのかと不思議に感じた。
酷い思いを繰り返し、傷ついてばかりいた妖怪なのに、天にいた自分よりずっとずっと優しい。
それが何よりも悔しくて、惨めで、天子は苦しい顔をして空を見上げた。
「私が幻想郷に来たから、それだけであんたは優しくするの……?」
「違うわ。私は、あなたを、天子を……!」
「なら……私の好きなところを言える?」
力無い天子に、紫は咄嗟に言い返せなかった。
紫には、自分でもどうしてここまで天子にこだわるのかわからない。彼女の何に惹かれてるのかわからない。
そんな身では、天子の問いに答えることができなかった。
これでは優しくしたところで天子は変わらないだろう、きっとこれからも自分を傷つける。
「ほら、見なさいよ、どうせ私なんて……」
「それでも、それでも」
落ちてきた雫が、天子の帽子のツバを叩いた。
動かない天子の頭上から、鼻をすする音が聞こえてくる。
「……せめて、今だけは、傷付かないでいて欲しい……」
何も変わらないとわかっていながら、紫は熱い涙を流して、じっと抱き締め続けた。
ただただ優しくありたかった。それ以外に、出来ることが思い浮かばなかったから、せめて目一杯の優しさを集め、天子に伝えたかった。
こんなものはただのエゴに過ぎない、身勝手な優しさを振りかざすしかない自分を、紫は悔しく思う。
「その優しさ自体が、私を傷付けるんだ」
「……ごめんなさい」
「……あんたは、みんなが思うより莫迦ね……」
「えぇ、自分でも、驚いてる」
泣きながら抱き締める紫は、かつて独りで泣いた夜を思い出し、天子が泣いてくれないのを、悔しいと思った。
もう抵抗しなくなった天子は、紫に身を任せながら恨みがましく呟く。
「お前なんて……エゴにまみれたお前なんて、大嫌いだ妖怪……」
「……私も、身勝手なお前のことが大嫌いだよ天人」
二人はグチャグチャの心のまま、長い間ずっとそうしていた。
何も言わず抱き合い、相手の身体の小ささと、細さと、温かさを感じる。
天子は時折紫が鼻をすする音を聞きながら、空を見上げて、自分がどれほど小さな存在なのかを実感していた。
日が暮れて、夕日に飛び立つ鴉が目立つようになった頃、ようやく紫は力を弱め、天子を抱擁から開放した。
「今日はもう終わり、私のわがままに付き合わせて悪かったわ。帰ってゆっくり休んで頂戴」
立ち上がると赤い目元を拭って涙のあとを消そうとする紫を見て、天子も立ち上がり低い声を出した。
「……明日は?」
「朝六時、輝針城前で」
「……じゃあ」
口数も少なめに、天子は空に浮かび上がり輝針城へと戻っていった。
紫がその姿が見えなくなるまで眺め、自分も疲れたし家に帰ろうと思い立った時、何処からか声が響いてきた。
「やあ、また面倒なことやってんね、紫」
驚いた紫が頬を赤らめて振り向くと、そこは霧のようなものが渦巻いて形をなしていくところだった。
萃まった霧の中心から現れたのは、大きな二本の角を頭に備えた、見た目だけは小さい鬼の姿。
「す、萃香!? どうしてあなたが!」
「おいおい、神出鬼没なのはお前だって同じだろ。私がどこへいたって良いじゃんか」
紫の友人でもある萃香は地面に降り立つと、紫が普段言いそうなことを言ってやってケラケラと笑う。
そして持っていた瓢箪から酒を飲もうとしたところで、角を握られ引っ張られ、感情的に睨み付けてくる紫と目が合った。
「ど、こ、か、ら、見てたのあなたは!」
「お、おぉう、怖いなぁ。お前からそんなに怒られるの初めてだよ。どこからって言えば、まぁ釣りしてた辺りから」
「い、イヤァー!!」
威圧的だった紫は、今度は打って変わって悲鳴を上げ、頭を抱えながらうずくまってしまった。
流石に焦った萃香が「あぁ~……」と迷いながら声をかけようとしたところで、ぐりんと紫の顔が上を向き、吊り上げた目の端に涙を浮かべながら萃香を見つめてきた。
「違うのよ、これはああいうアレじゃなくて。あくまで彼女が暴れたら面倒だからという、賢者の役割に則った行為でやましい気持ちは何もないのよ本当に」
「お前こういうのは驚くくらい嘘つくの下手なんだなぁ」
「聞いてるの萃香!?」
「はいはい、そうしといてあげるよ。ったく嘘つきめ」
あからさまに気持ちを隠そうとする紫に、萃香は気に入らなそうな顔をしたが話を合わせてあげていた。
妖怪の賢者としての威厳を一応取り繕った紫は、立ち上がって咳払いをして調子を戻そうとした。
「まったく、覗き見なんて趣味が悪い」
「お前が言うなお前が。天子のことは気になってたからね、見つけりゃ追いかけもするさ」
「よくあんな傲慢な天人のことを気に入ったものね。あなたの好みとは間逆な気がするけど」
「お前が言うなって何回言わせる気だよ」
呆れ果てた萃香は顔を引きつらせながらも、自分から見た天子評を答えた。
「まあなぁ、あいつは結構嘘つきだ。そりゃ私は鬼だからそういうやつは基本好かないけどね。血を吐きながら嘘をつくやつは、どうにも嫌いになれないさ」
「…………血を吐きながら、ね。言い得て妙だわ」
「そこんとこ、お前と似てるよ紫」
萃香がそう言ってやると、紫は丸くした目をしきりに瞬かせた。
「私が彼女と? 冗談言わないでちょうだい、気分が悪いわ」
「へっへっへ、本当にそうかね。お前の場合、泣きながら嘘つくタイプに思うぞ」
「信用ないなんて悲しいわ」
「自業自得だろ。嘘つきまくってて何言ってんのさ。それよかお前さん、明日も天子とデートかい」
「デぇ……っ!違います、監視に過ぎませんわ」
「ククク、そうかい。まあ頑張って仲良くなりなよ、さっきのお前立派だったさ」
「立派だなんて、私は私のしたいようにしただけよ」
「なら余計立派さ、正直者が一番強いからね。お前だって誰とでも仲良くなれるさ」
萃香は言うだけ言うと、浮かび上がって自らの存在を霧散させ始めた。
「萃香」
「なんだい?」
「……ありがとう、元気付けてくれて」
「へへっ、私もお前には世話になってるから良いってことよ。ほんじゃまたね、次会ったら天子とどこまで仲良くなったか話しておくれよ」
「えぇ、また」
萃香は歯を見せて快活に笑うと、霧となってもう暗くなった空に消えていった。
彼女も、紫にとっては掛け替えのない友人だ。自分と天子の関係を見てもらえたのは、却ってよかったかもしれない。
嘘を吐いてばかりの自分と仲良くしてくれることに感謝しながら、明日もまた頑張ろうと勇気を貰えた気分だった。
◇ ◆ ◇
日が沈んできた、空には星明かりがポツポツと現れて、少しずつ肌寒くなってくる。
人里は比較的明かりが多い場所だが、それでも商店がある大きな通り以外は薄暗闇が覆っている。
薄い服を着た紫苑は腕をさすりながらも、辺りを見渡しながら当てもなく歩いていた。
「寒いわぁ、天子から貰ったお金で上着でも買えばよかったかしら……」
ポケットの財布には、天子がくれたお金が入っている。というのも今日の晩御飯を作る約束をしたからその材料費なのだが、かなりの金額をもらったので服の一着くらいなら買ってもまだ余裕があった。
しかし、こんな遅くまでなるとは思わっていなかった。紫苑が買い物もせずにこんな時間まで人里に残っている理由は、源五郎を探すためだ。
今日の朝早く、紫と合流する前の天子が紫苑の前に現れて、今晩の夕食を任せたいというのと、源五郎の様子を見てきてくれと頼まれたのだ。
天子も他人の家庭を引っ掻き回したことについて、かなり責任を感じているようであったし、紫苑も了承して源五郎の家に行ったのだがあいにく不在、まだ怯えていた母親に「出てけー!」とキーキー喚かれただけで行き先もわからない。
仕方なく自分の足で探して、頑張って人に尋ねたりしてみたのだが、この時間になっても手がかり一つ見つかっていない。
「全然見つからないわー。いい加減疲れてきたし、もう一回家に尋ねてみていなかったら私も帰ろうか……って、いやいや、帰ってなかったらそれこそ大変じゃない。そんなの天子に伝えたら探しに行くって言い出すに決まってるわ……あら、そしたら一度帰って、天子と一緒に探したほうが良いのかしら?」
「――あれ、姉さんこんなとこで何してるの!?」
ポツポツ独り言を呟いていると、後ろから聞き親しんだ声が聞こえてきて紫苑は振り返った。
闇夜の向こうにうっすらと見える、身の丈に合わないブランド品に身を包んだ姿は、紫苑の妹である疫病神の依神女苑だった。
彼女は完全憑依異変以降、しばらくは命蓮寺で暮らしたのだが、修行が嫌になって逃げ出して、今は人里で適当な金持ちを狙って金を巻き上げながら生活している。もっとも、命蓮寺での修行の効果もあり、少しは心を入れ替えて悪行は程々に留めているが。
「女苑! 久しぶりね、元気だった」
「久しぶりって言っても数日くらいでしょ、まあ上手くやってるわ。姉さんこそ……って、うわ靴履いてる!? 前から嫌がってたのに」
女苑が驚きながら近付いてきたが、彼女の傍らには小さな人影があった。
最初は薄暗闇ではっきりと姿が見えなかったが、近くの家から漏れた明かりがその人影に差し、胸に灰色の猫を抱いた少年の姿を照らし出した。
「って、源五郎君!? どうして女苑と」
「この子姉さんの知り合いなの? 本当? こんな時間になっても寒そうな路地裏にいてさ、危ないから連れてたんだけど、家がどこかも教えてくれないのよね。もしかして姉さん知ってたりする?」
疫病神の運んできたまさかの幸運に、紫苑はすぐさま源五郎に駆け寄った。
相変わらず胸にミカを抱いているが、源五郎は顔色が悪く微妙に身体が震えている。ちゃんとご飯は食べていたんだろうか。
子供の扱いなどしたことない紫苑だったが、流石にこれを見てそのままという訳にはいかず、緊張で声を裏返しながらも話しかけてみた。
「げ、源五郎君、大丈夫? 天子も心配してたよ、今日はどうしてたの?」
「……家にいたくないからずっと外にいてた。ミカと一緒にいて、ずっと考えてた」
「にゃおおん」
源五郎の胸からミカが鳴き声を上げる。
もしかして、一日中源五郎と一緒にいたのだろうか。だとしたら随分と飼い主思いの猫だ。
「寒くなるわ、女苑の言う通りもう帰ったほうが良い。家で寝ないと体を壊すわ」
「そうそう、そんで元気になって富んだ大人に成長してね。じゃないと私が食いっぱぐれるし」
「……うん」
源五郎は短く頷くと、紫苑を仰ぎ見た。
「ねえ、天人様と知り合いなんですよね」
「うん、これからも会う約束をしてる」
「ボクずっと考えてました。考えて、考えて……それで、ミカだけでも傷つけたくないって思ったんです。だから、天人様には心配しないでって伝えてください」
「……うん、わかったわ。でも無理しちゃダメよ」
紫苑はどうにも源五郎が心に詰め込みすぎてるように感じ、思い悩む彼に不安を抱いた。
なんとなく自分も彼を助けられたらと思い、自分の財布を取り出すと、そこから何枚か額が小さめお札を抜き出して源五郎に渡した。
「これあげる。天子のお金だけど彼女なら自由に使わせると思うから。あぶく銭はあんまり良くないけど、美味しいもの食べないと元気でないわ」
「うわ、姉さん何それ! どうしてそんなにお金持ってるの!?」
驚く女苑を無視して、紫苑はお札を折りたたんで源五郎の手に握らせた。
「……ありがとうございます。食べるもの買ってから家に帰ります、後は一人で大丈夫です」
「うん、でももう暗いし、女苑が一緒にいてあげてくれない?」
「えー、私が? うーん、でも姉さんのお金とかなんか心配だしなー。しょうがない、乗りかかった船だし、今日くらいは面倒見てあげるわ」
「奪っちゃダメよ」
「流石に子供から奪わないわよ、私だって少しは変わったんだから」
胸を張る女苑だったが、紫苑に顔を近づけると、源五郎に聞こえないよう耳打ちした。
「でも姉さん大丈夫なの? あんなにお金あげて」
「天子からいっぱい貰ってるから、今日は余裕あるの」
「うわー、リッチねあの天人。でも気を付けてよね、姉さん抜けてるし」
女苑は源五郎の背中を軽く叩くと、彼の目を見ながら道の先を指差した。
「それじゃ源五郎君だっけ、食べに行きましょ。猫が一緒なら買い食いできる店がいいわね、良いとこ知ってるから連れてってあげるわ」
「ありがとうございます。えっと……」
「女苑よ、依神女苑。そこにいる姉さんの妹の」
そうして源五郎は、女苑とともに明かりが強い方へ歩いていった。
手を降って見送った紫苑は、改めて天子に言われた用事をこなそうと別の道へ向き直った。
「さて、私も何か買って帰ろうかな。天子の分も用意しとかないと……」
確かこの先に、遅くまで売ってくれている弁当屋があったはずだ。もう天子が先に帰っているかもしれない、帰ってから作ったのでは遅くなるし、そこで晩御飯を調達してしまおうと考えていた。
しかし紫苑は気付いていない。さっき源五郎に渡したのは、持っていたお金のほぼ全額で、残っているのがわずかばかりの小銭しかないことを。お金をいっぱい貰ったから、金額別に分けておこうと考えていたのに実行するのだけ忘れておきながら、お札を全部渡していたことを。
大きなお札が数枚は残っていると楽観的に考えている紫苑は、何も知らないまま源五郎たちとは別方向へ歩いていった。
◇ ◆ ◇
「今日はごめんなさいね、いきなり仕事を押し付けて」
天子との一件のあと、紫は念入りに涙の跡を洗ってから家に帰った。
家では先に帰っていた藍が、すでに夕食の準備をしてくれていて、今はもう二人で夕食を食べた後だ。
空のお皿が並んだ机の向こうで、藍は涼やかな声を返した。
「いえ、構いませんよ。仕事と言っても奉仕活動なんて内容もヌルいですし」
藍は新愛をこめて笑いかけてくる。彼女には今日、ある仕事を任せていた。
それは元々は天子がこなす予定だった奉仕活動だ。しかし紫のきまぐれで天子を連れ回すことにしたため、藍に代わりを務めてもらったのだ。
急な仕事の後だと言うのに、藍は文句の一つも言わず家事までこなしてくれている。
「紫様が持ってくる仕事は必要なことか、逆にどうでもいいことかばっかりでしたからね。必要ではないけど大切なことの手伝いをできるのは、けっこう嬉しいです」
「……ありがとうね、本当に。藍には助けられてばかりだわ。朝も忙しいのに、お弁当まで用意してもらって」
「それより朝に弱い紫様が、特別重要な用事でもないのに毎日起きてることのほうが驚異的ですよ」
まあ確かにと、紫はつい喉を鳴らして笑ってしまった。
朝の時間帯など、本来ならグースカ寝ているのが紫の常だ。それなのに、個人のために必死になって起き出すなど、初めてのことだった。
「私こそ紫様に助けられましたから。彷徨う私に生きる意味を与えてくれた。そんなあなたを助けられるなら、この程度の苦労、買って出ますよ」
そう言って藍は手に持った湯呑みに口をつけて大きく傾けた。
冷めてきていたお茶が喉を通り、空になった湯呑みを机に置くと、紫が急須を持って微笑みかけた。
「おかわり、いる?」
「はい、お願いします」
頑張ってくれた部下に、これくらいの労いは当然だろう。
紫は長い袖が邪魔にならないようまくり、お茶を注ぎながら話しかけた。
「今日は橙は?」
「マヨヒガですよ、産気づいてる猫がいるんです。多分、今日の夜に生まれると思いますので、明日には帰ってくるんじゃないでしょうか」
橙は自由な黒猫だ。よく家に帰ってこなくて、それが少し寂しいが彼女が元気にやれるならそれが一番だろう。
湯気が立つお茶でいっぱいになった湯呑みを見ながら、今度は藍の方から問いかけた。
「例の天人と二人きりで上手くいきましたか?」
「それは……まあまあね」
「心配ですねー。紫様って誤魔化すのは得意ですけど人付き合いメチャクチャ苦手ですし、友達もあんまりいないし」
「そ、そこまで言う?」
楽しく談笑していた紫から笑みが崩れる。
「橙と仲良くなるのに数年がかりだったのを思い出してくださいよ。普通に話せばいいのに、緊張して変に威圧的に出て怖がらせて、いつも自己嫌悪で頭抱えてたの、私は忘れませんよ」
「うっ……」
サラリと追撃をかけられ、紫は罰が悪そうな顔をして机に頬杖を突く。
藍が橙を家に連れてきて彼女を家族として迎えてから、紫と橙が打ち解けるまでかなり時間がかかったのは確かだった。
「……まあ、ほんのすこーし、不器用なのは認めるわ。でも比那名居天子よりかはマシよ」
「紫様よりコミュ障とか、生存が怪しいレベルな気がするんですけど……」
「だからそこまで言う?」
眉をひそめる紫だったが、一度姿勢を正して気持ちを入れ替えると、さきほどまでのことを思い出して言葉を零した。
「今日は、彼女に優しくしてみたけど、多分変わらないでしょうね」
比那名居天子は自らを満たす何かを求めている。恐らくは彼女が異変を起こす、そのずっと前から。
生きる世界のすべてを打ち崩し、そこに理想郷を打ち立てたいと思うほどの業を抱えながら、たった独りで異変を起こし、地上に降りてきた。
それは彼女の強さだが、同時に欠点でもある。このままでは背負いすぎた業に天子が潰れかねないが、今の紫にはどうにも出来ない。
きっと天子には何もかも足りないのだ、優しさ以外に、もっと多くのものが必要だ。
すべてが揃った時に、ようやく天子は何かを見つけることが出来るのではないかと、紫は考えている。
「一つ気になるのですが、紫様はその天子をどうしたいんですか?」
「…………どうなのかしらね」
天子から問われた『どこが好きなのか』という質問にも通じるが、未だ紫は明確な答えを持てていない。
「最初は、彼奴のことになると感情的になる自分が新鮮で、自分自身を探るために近付いた。でも彼女を見ている内に、それだけで良いのかって思い始めている」
狂おしいほど真っ直ぐで、痛々しいほど歪んでいて。他人の家庭に土足で踏み込んで怒りを燃やすほど無鉄砲で、だけど優しい人だと信じられている天子。
紫は、ただあの少女の傷を癒せればそれで満足なのかと自問し、首を振った。
多分違う、天子が優しくされるだけでは足らないように、紫も優しくしてあげるだけでは足らない。
自分が何を求めているのか、それを知るためにもっと理解が必要だ。
「今は、もっと彼女のことを知りたい、かも……なんてね」
遠い目をして語る紫は、けれど瞳にキラキラと美しい輝きを浮かべていた。
それを見て、藍は思わず吹き出して、甘さに砂を吐く気分だった。
「甘っ、恋する女の子みたいなこと言いますね」
「こっ……そんな、あんなのどうでもいいに決まってるでしょう!!」
「十秒前の言葉思い返して下さい、思いっきり矛盾してますよ」
言われてみればなんて恥ずかしい台詞だと、紫は顔を真赤にして机を叩き、藍から呆れた目で見られてしまった。
藍はうろたえる主を見て、なるほどこれは新鮮だと思いながら、注いでもらったお茶を口元に近付けた。
「知りたいなら、それでいいんじゃないですか。応援しますよ」
「……ありがとう」
「いえ。そろそろ片付けてきます。お風呂の準備はできてるので先に入ってて下さい」
藍はお茶を一気に飲み干すと、お盆の上に食器をまとめて居間から出ていき、一人になった紫は、お風呂に入る前にスキマを開いて輝針城の様子を覗いてみた。
先に帰っていた天子が、遅くなった紫苑にプリプリと怒っているのが見えた。
紫苑は妙に落ち込んでおり、それとなく察した紫は、いくつか食材をまとめて手提げ袋に詰め、紫苑の背後に置いてやった。
謝っている紫苑だったが、天子に言われて後ろに振り向くと、食材の詰まった袋を見つけ、困惑した表情でいる。
驚いているようだが、この後は天子と一緒に夕食作りに励むだろう。
しかし針妙丸の姿がないのが気にかかる、昨日の天子は荒れていたし喧嘩でもしたのかもしれない。
天子の様子は、いつも通りに見えた。
少しは元気になってくれたかと、紫はホッとする。
「……今日はよく寝れると良いわね」
今日の朝、天子は酷い顔だった、怖い夢でも見たのかもしれない。
せめて今日くらいはいい夢を見られるよう、紫は微笑みに慈愛を込め、祈った。
◇ ◆ ◇
――穏やかな世界。
伸びた道の両脇には綺麗な花々が咲いていて、芳しい香りと天然のベッドがそこにある。
頭上にある空はどこまでも広く、無限に続いていて、その下にいる私達を祝福するように抱き締めている。
私はそれらに目もくれずに走り続けた。
進む先は坂道になっている。絶えず力を込める脚に心臓が爆発しそうなくらいに唸りを上げ、身体を内側から締め上げた。
跳ね上がり、破裂しそうな胸に力を込めて頑張って走る。
『今日のは悪夢ではありませんね。これは……』
駆け巡る血潮が火の付いたガソリンみたいに沸き立ってる。
煮られた油に飛び込んだように身体中が熱い。苦しい。辛い。でも止まれない、止まらない。
止まるもんか。
『あなたの願いの一端ですか、しかしなんとまあ酷い夢』
内側から押し出された血で、肌がどんどんヒビ割れていく。
全身から吹き出た血が、地面に落ちていくのがわかる。
私は大地を汚し、呪いをばら撒きながら走っている。
『マゾヒストならまだマシです、とんでもない自傷癖を抱え込んでますね。赤子みたいな純粋さを持ちながら、ここまで歪めるとは驚異的です』
舌がガラスみたいに砕け、口から零れ落ちた。
構わない、どうせ怒りしか口にできないならこんなものいらない。
『私には何も出来ませんが。せめて純粋なあなたが願いに辿り着き、あなたが――されることを祈りますよ』
眼球に火がつく。緋色の炎が視界に揺らぎ、空も大地も緋く染まっていく。
咲いていた綺麗な花が塗りつぶされる、どうせ最初から私にはないのと同じだから変わりない。
気にするな、走れ。止まるな。進め。
走る、走る、走る。
苦しみを引き連れて、私は走り続ける。
休みたくなんかない、そんなことしてる暇があったら一歩でも先へ進みたい。
きっとこの道を超えた向こうに、私を――――
揺らめく世界の向こう側。丘の上に育った大樹の影で、誰かが佇んでいるのが、燃え盛る炎の向こうに見えた。
声を上げようとしたけど出てこない。緋い世界を私は力の限り走る。踏みしめる足が悲鳴を上げてるけど聞いてなんかやらない。
あそこだ、あそこだ。あそこに往けばきっと、きっと!
誰かがこっちを向いて、妖しい唇を開いた。
――――壊れちゃいなよ。
槍のような血流が脳を貫いていく。思考がキラキラと光を散らして砕けていく。
指先から土くれのように崩れていく身体から、沸騰した血を吹き出させて、それでも走り続ける。
真っ白になる頭の中で、辛うじて感じられたのが、歓喜。
砕けた顔にどんな想いを表したのかわからないまま、待ち望んだ剣を振り抜いた。
◇ ◆ ◇
奉仕活動四日目、最終日。
今日は二日目と同じく人里での活動だった。
天子は輝針城前で紫と合流し、人里の入り口まで飛んできていた。
「それで、今日の仕事は?」
「清掃よ、また日が暮れるまでやってもらうわ。まずは……」
紫が人里に入る門をくぐろうとした時、背後から物音がして二人が振り向いた。
近くにあった森の茂みから覗いてきたのは、見覚えのある灰色の猫。
草むらをかき分けて出てきた灰色の猫は、脇腹の毛を赤黒く染め苦しい息を吐いた。
「ミカ!?」
「にゃぁ……お」
血で汚れたミカの姿に、天子は悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが、か細い鳴き声から伝わってきたものに目の色を変えた。
天子はポケットの一番奥に手を突っ込んで、奥から仙桃を取り出すと、見向きもしないで紫へ放り投げる、自身はミカのそばを通り過ぎて森へ駆け出した。
「紫! これ食べさせといて、頼んだ!」
桃を受け取った紫の前で、ミカは震える膝を折って草の上に倒れる。
紫は静かにミカに近寄ると、手に持った桃を皮ごと齧り、その破片を口から取り出すとミカの口に押し付けた。
「お食べなさい、彼女の慈悲よ」
息も絶え絶えなミカは、力を振り絞って桃を口に含んだ。
そのあいだにも、ミカの毛には赤い色が少しずつ広がっていく。
傷は深い、天界の仙桃は肉体を強靭にする効果があるがとっくに手遅れだ。それでも痛みを無くす効果くらいはあるだろう。
桃を飲み込んだミカは、大きく息をつくと閉じかけた瞳で紫を見上げた。
「よく頑張ったわね。あなたは立派だわ」
紫はそう言うと、ミカの頭を優しく撫でた。
ミカは気持ちよさそうに目を細めて、小さな声で鳴こうとしたが、うまく声が出ずヒューと風が鳴る音だけが届く。
「安心しなさい、天子が走って行く。あんなにも強い彼女なら、源五郎にも力を与えてくれるって、あなたもそう思うでしょう?」
紫の言葉に、ミカはわずかに首をうなずかせると、瞳を閉じて体の力を抜いた。
紫は触れた手の平から、命の灯火が消えていくのを感じている。
「お疲れさまミカ、おやすみなさい」
天子は走った。森を駆け抜け、一心不乱に前へ進む。
ミカが言っていた、源五郎が危ないと。彼はこの先にいるのだ。
行く手を塞ぐ枝葉を肩でへし折り、大木の根を超えたところで、遠くに人影を見つけたところで悲鳴が届いてきた。
「う、うわああああ!!!」
聞き覚えのある声、源五郎だ。まさに今、彼の身に危険が迫っている。
天子は更に加速して木々の間を抜けると、緋想の剣を取り出して気質を集中させた。
涙を流しながら逃げている源五郎の元へ飛び込むと、三匹の犬の妖獣が源五郎を取り囲み彼を襲おうとしているところだった。
緋想の剣がいっそう輝き、剣の煌めきが閃光のように走ると、源五郎に飛びつこうとしていた妖獣の一匹を、鼻先から股ぐらまで真っ二つに切り裂いた。
「て、天人様!?」
「お前たち! この子に手を出そうというのなら容赦はしない!」
泥だらけの源五郎は尻餅をつくと、涙と鼻水でビチャビチャになった顔を拭かないまま、現れた天子を見上げている。
残っていた二匹の妖獣が、突然の乱入者を前にして足を止めて威嚇するよう唸り声を上げた。
天子は緋想の剣を前へ突き付け、凛とした声を響かせた。
「死にたいやつだけ前へ出ろ! 一切の迷いなく斬る!」
天子から溢れる強者のオーラが、大した知能も理性も持たない妖獣を圧倒した。
叩きつけられる圧力から戦力差を感じ取った妖獣たちは、仲間の亡骸に見向きもせず、踵を返して森の奥へと去っていった。
危機が去ってもなお、源五郎は腰が抜けて地面にへたり込んだままだ。そんな彼に、天子は緋想の剣をしまって厳しい顔で睨み付けると、右手を振り上げた。
「ひぃっ! ごめんなさい!」
「…………!!」
だが天子は、震える右手を何事もなく下ろした。ここで感情から源五郎をぶったのでは、二日前と何も変わらない。
激情を押さえ、冷静であるように努めた。
「源五郎、あんたこんなところで、何を……」
「ぼ、ボク、やっぱりミカに傷ついてほしくないって思ったんだ……だから、山奥に猫達が住んでるマヨヒガって村があるって聞いて……妖怪が少なそうな朝の内に、ミカを届けてそこの仲間に入れてもらおうと思って……」
「それで……か……」
その気持は立派だが、子供が外に出て危険を冒そうなど叱られてしかるべき行為だった。
しかし天子にはそれを叱ることはできなかった。彼を駆り立てたのは、他でもない天子自身なのだから。
自分が人の家庭に踏み入って、無茶苦茶にしなければ、源五郎も無謀な真似はしなかっただろうに。
苦悩する天子の前で、源五郎は涙を止めると、地面の上で正座して前のめりになって声を上げた。
「て、天人様、ミカを知りませんか!? ボクより先に逃げていったみたいなんですが!」
「ミカは……」
返答に迷っていると、天子が来た道を辿って紫が歩いてくるのが見えた。
獣道を超えて少しずつ近付いてくる彼女の胸元には、血に染まったミカが抱きかかえられている。
そのことに気づいた源五郎が、呆然とした声を上げた。
「えっ……ミカは……?」
「亡くなったわ」
紫が簡潔に、事実を伝える。
源五郎が目を瞬いて立ち上がると、紫は彼の前に跪いて抱えていたミカを見せた。
「血のついてる部分には触らないほうが良い。よくないものが感染るわ」
「み……か……」
源五郎は声を震わせながら、恐る恐る眠っているようなミカの頭を撫でた。
息絶えたばかりのミカはまだ温かさを残していたが、その身体からは命の脈動が伝わってこず、本当にミカが死んだのだということが否応なく理解ってしまった。
自分の判断でミカを死なせてしまったと知った源五郎は、表情を氷漬けにしたまま目の端から大粒の涙を流し始め、やがて耐えきれなくなって顔を歪め、大きな泣き声を森のなかに響かせた。
「う……うぅ…………うぁあああああああああああああああああ!!!」
天子は歯を噛み締め、爪が食い込んで血が出るほど強く手を握りしめた。
けれど辛いからと言って逃げ出す訳にはいかない。源五郎をそそのかしたのが自分なら、なおさらやらないといけないことがある。
天子は源五郎の肩を軽く叩いた。
「……お墓を作ってあげましょう。どこがいい?」
「……うぐっ……ひっぐ……ま、マヨヒガぁ……! ミカ、ひっぐ……寂しくないように……!」
「そうか……うん、そうね……」
家の傍では、あの母親が良からぬ気を起こすかもしれない。誰も手出ししない場所で、ゆっくりと眠らせるのもいいだろう。
マヨヒガへは紫が案内してくれた。スキマで直接飛ぶことも出来たが、あえて源五郎に自分の足で歩かせた。それが少しでも償いになると信じた。
紫は源五郎の世話を天子に任せ、自分はずっとミカの亡骸を抱えていた。
泣き続ける源五郎を連れ、一行は一時間ほど歩き続け、猫達が集まっているマヨヒガに辿り着いた。
昨日からマヨヒガに寝泊まりしていた橙が、廃屋から顔を出し、珍しい来訪者に気がついた。
「あれ? 紫様じゃないですか! どーしたんですかー?」
嬉しそうに駆け寄ってきた橙だったが、抱えられた血まみれの猫を見ると驚いて声を潜めた。
「紫様、その子……」
「この子供の飼い猫よ。ここに埋葬してあげたい、いいかしら?」
「……わかりました。こっちにみんなのお墓があります」
天子に支えられた源五郎はすでに泣き止んでいたが、その顔は依然として悲しさに塗りたくられたままだった。
橙はマヨヒガの奥にある、猫達の墓地に案内してくれた。
どのお墓も、盛り上がった土の上に、木の棒を挿しただけの簡素な作りだが、ここなら寂しくはなさそうだ。
「この墓地の端っこに埋めてあげて下さい。紫様、すみませんが昨日生まれた赤ちゃんを診ていたいんで失礼します」
「えぇ、ありがとうね。こっちのことは気にしないで」
足早に去っていった橙を見送り、ミカの墓づくりが始められた。
真っ先に源五郎が素手で穴を掘ろうとしたが、それを制止して紫が園芸用のスコップを取り出して彼に渡した。
「これを使いなさい、あなたの手が傷つくのを、ミカは望んでないわ」
「……はい」
源五郎はスコップを受け取ると、黙りこくったまま穴を掘り始めた。
紫はミカを地面の上に降ろすと亡骸が汚れないよう白い布で包んでやり、さらに二つのスコップを取り出して片方を天子へ渡す。
「はい、あなたのよ」
「……あんたもやっぱり手伝う気なんだ」
天子は、ミカの血で汚れた紫の胸元を見つめながら言った。
「ミカも幻想郷の住人に変わりはないわ」
「……本当に、優しいやつ」
死者の前だ、天子もそれ以上の憎まれ口は謹んだ。
曇り始めた空の下で、黙って土を掘る。三人でやればそう時間はかからなかった。
深めに掘られた穴を覗いて、源五郎は心配そうな声を出して天子に振り返った。
「こんなに深くて、ミカは苦しくない? 大丈夫?」
「大丈夫よ、浅いと野犬に掘り起こされることもある。ここならその心配もいらないかもしれないけど、念を入れるに越したことはないわ」
「ミカはちゃんと天国に行ける? 地獄に落ちちゃったりしない?」
天子は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑みを浮かべて源五郎の頭を撫でた。
「ミカは立派だった、必ず天界へ行けるわ」
「本当?」
「うん、私が保証する」
天子が苦く笑いながら明るい言葉を並べる様子を、紫は少し離れて見ていた。
空には暗雲が立ち込めてきた、空気が重く、雨が降る前の臭いが漂ってきている。
「……早めに終わらせましょう。天気が崩れてきたわ」
「うん。源五郎、ミカを」
源五郎は白い布で包まれたミカをそっと持ち上げ、深い穴の奥へ恐る恐る安置した。
穴の中に独りで入れられたミカを見て、源五郎はまた泣きそうな顔をしながらも、グッとこらえて顔を上げた。
三人はミカの上から土をかけ、勇者の亡骸を丁重に埋葬した。
ミカを埋めた場所に土で固めた山を作ると、紫が墓標となる木と彫刻刀を用意してくれた。
源五郎にミカの名を刻ませ、墓の上に挿す。
「できた……」
源五郎は呆然と唱え、墓を見下ろす。その声には達成感というよりも、後悔したような声色だった。
先にあった多くの墓の端に建てられ、大勢のうちの一匹に混ざったミカのお墓。
源五郎はそれを眺め、本当にミカが自分の手の届かないところに行ってしまったんだと理解して、我慢していた涙を再び流し始めた。
「う……うぅ……」
立ったままクシャクシャに顔を歪め、静かにすすり泣く。こんなことをしていちゃミカが心配してしまうと言うのに、我慢しきれない。
「ひっく! ……ボク、もうミカに傷ついてほしくないって思ったんだ……ひっく、なのにボクは……ボクのせいで……」
次々と零れ落ちる後悔の念。自分が無謀なことをしなければ、最悪の事態にはならなかったろうに。
涙を止められない源五郎に、突然後ろから天子が抱きついた。
「ひっぐ……天人様……?」
「……悪いのは全部私。私が、あんたたちを追い詰めたから……」
天子は力に頼った過去の自分を思う。この子供の母親を怯えさせ、源五郎に無理なことをさせてしまった。
自分がもっと、賢かったなら、自分がもっと優しい立派な天人であれたなら、何かが違っていたかもしれないのに。
「ごめんね……ごめんね……私が馬鹿だから……私がろくでなしだから……」
段々と天子の声が震えていく、紫が何も言わず見守っている前で、天上に生きた少女は俯かせた顔を歪ませていき、一滴の熱い雫が源五郎の額に零れ落ちた。
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい…………!!」
紫が何を言っても泣かなかった天子が、ぎゅっと締め付けた瞼の端から、次々と涙をこぼし始めた。
ボタボタと雨のように、大粒の涙が源五郎を打つ。そこから伝わるあまりの熱さに、源五郎は呆気にとられた様子で泣くのを止めていた。
ちょっと前に、初めて合った仲なのに、この人は本気で悲しんで、本気で憤って、本気で自分のことを想っていてくれていると、幼い少年にもわかった。
なんとなく、ミカが傷ついても自分のもとに帰ってきてくれたのは、これと同じものを伝えようとしてくれてたからな気がする。
天子は不器用で、あまりの想いの強さに自分でもコントロールできていなくて、だけどその芯はとても優しくて、源五郎の胸の奥を熱い力を流し込んでくれている。
「ミカ…………」
源五郎は眼を閉じ、天子がすすり泣く声を聞きながら今は亡き家族を思い浮かべた。
今までありがとうとミカに想う。ずっとそばにいてくれてありがとう、元気づけてくれてありがとう、この人に巡り合わせてくれてありがとう。
大変だけど、この天人様は一番大切なことを自分に教えてくれたから、もう大丈夫。
自分の代わりに泣いてくれた、この素晴らしい天人様から伝わってくる熱い気持ち。
きっとこれが生きるってことなんだね。と、源五郎が心に残ったミカの残影に話しかけると、幻想のミカはにゃあんと満足そうに鳴いて闇の中へ消えていった。
昼近くになり、ようやく落ち着いた天子は、源五郎と紫とともに人里の前まで歩いて戻ってきた。
里に入る門の前で、源五郎が天子たちに向いて深く頭を下げる。
「ありがとうございます、天人様。僕達のために泣いてくれて」
「いいのよ……私は結局、何にもできなかった」
「そんなことないです」
悔しがる天子に、源五郎は顔を上げてキッパリと言いのけた。
その眼には強い輝きが宿っていて、一昨日にオドオドした様子で天子たちと会った少年とは同じに思えないほど、芯の通った活力があった。
「ボク、生きてみます。大変だけど、ちゃんと生きれる道を探してみます」
「……頑張りなさい。本当に困った時は、少しだけなら助けてあげるから」
「はい、ありがとうございます」
門を潜り、源五郎は里の中へ戻っていった。
天子は紫はそれを見送ってからも、じっとその場に佇んでいる。
やがて空を覆う厚い雲から、ザアザアと重たい雨が降り始めた。
降り始めだと言うのに雨粒は大きいが、この分だと更に強くなるだろう。
雨に濡れ、紫の胸元の血が滲んで、けれども落ちてはくれなかった。
「あなたももう輝針城に帰りなさい。今日の奉仕活動はなしでいいわ」
紫は雨に濡れながら空を仰ぐ。
結局、今日も藍に頼っていた。今頃せっせと清掃活動に励んでくれていることだろう。
「いや、まだあそこには戻らない」
だが天子はそう言って踵を返すと、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩き出し、紫の隣を通り過ぎた。
「何をする気?」
「ミカはきっと天国に行けるけど、天界は成仏してやってくる魂の量を制限してる。このままだと判決を受けた後、何ヶ月も冥界に放置される」
その件は紫も知っている、表向き天界は飽和状態だからという話だ、そしてその裏側も知っている。
天人たちは、ただ自分たちが窮屈な暮らしをしたくないという、ただそれだけの理由で天界を占領し、成仏を禁じている。
雨に打たれ、長い髪の先から雫を垂らしながら、天子は硬い背に重いものを背負い込み、小さな身体に力を込めている。
「ミカが死んだのは私のせいだ、私はミカの魂がほんの少しでも安心して次の人生に向かえるよう、助ける義務がある」
天子は顔を振り向かせると、熱い緋色の瞳に刃のような光を灯して紫に示した。
「私は、天界に戻る」
◇ ◆ ◇
天子が天界に足を踏み入れるのは久しぶりだ。夢の天子は天界で暴れようとしていたが、現の天子にその記憶はないし、完全憑依異変より以前に天界を追放されてからずっと来ていなかった。
天界は空の上にあるが、正確に言うと現世とは次元が違う異界の一つだ。常に穏やかな気候で、雨に悩まされることなど無い。
地上で雨に濡れていた天子だったが、晴れやかな天界にまで来て身体を手で払い、頭を振り回すと、それだけで全身の雨水が零れ落ちた。
天人の身体はこの程度の水は簡単に弾くし、来ている服も縫い目がまったくない特殊な物だから水も染み込まないのだ。
水を払い落とし、汚れ一つ無い姿になった天子は一歩踏み出し。
「はい、そこで踊りの締めに大フィーバァァアアアアア!!!」
やたらと電撃を放出して、ピシャアンと雷鳴を響かせる妖怪魚と目が合った。
「ごきげんようです総領娘様、水も滴るいい女でしたね」
人差し指を宇宙に掲げた決めポーズのまま、先に天界に来ていた衣玖が天子に話しかけてきた。
天子は苛立ちを抑えきれず、厳しい視線を叩きつける。
「……あんた地上に住むんじゃなかったっけ?」
「まだ住居も決まってませんし、大雨だったので天界へ避難を。総領娘様こそ追放処分だったのでは?」
「あんなの宴会の間だけ。本当ならもっと早く戻っても良かったのよ」
あくまで天子の追放処分は宴会の邪魔をしたからだ。数日くらい大人しくしておけと地上に放り出されたのを、これ幸いとばかりに地上で好き勝手やっていた。
棘のある雰囲気の天子に、衣玖は姿勢を正して向き直った。
「随分と抱え込んだ眼をしていますね。また騒ぎを起こすおつもりで?」
「邪魔をする気?」
「まさか、私にそんな力はございませんよ」
今の天子は抜き身の剣そのものだ、ここで彼女を否定しようものなら死闘しかない。
衣玖は天子が進もうとする道から退くと、しげしげと頭を下げ敬意を払った。
「お気をつけて、幸運を」
「…………」
天子は無言で衣玖の前を通り過ぎた。こうやって、誰かのそばを通り越していくのは何度目だろうかと考えながら。
少女が去り、顔を上げた衣玖は、妙な空気が流れてくる方向を向いて口を開いた。
「見ておられるのですか、地上の賢者」
声に応え、衣玖が見つめる空間に亀裂が入る。
開いた暗闇のスキマから、隠れていた紫が現れた。
地上でずぶ濡れになった彼女だが、さっき天子と会っていたときとは服の装飾が微妙に違う。
髪を乾かし、服を着替えてきて、初めて天子と会った時の道士服に袖を通していた。
「案外勘がいいのですね」
「いえ、勘は鈍いですよ、少しばかり空気が読めるだけです。あなたは随分と総領娘様のことを気にしてくれているようですね」
「あなたこそ、彼女の異変では振り回されたはずなのに好意的だわ」
衣玖の言葉に明確な答えは返されず、紫は逆に衣玖の態度を指摘する。
「彼女はとにかく人の目を惹きつけますから」
「……そのことに、彼女自身が気付ければね」
「そうですね、気付かないというより、認めたがっていない気がしますが」
「どうしたら、彼女は足を止めるのでしょうね」
「どうでしょうね、少なくとも私には難しい……というよりも力不足と申しましょうか」
紫の嘆きに無力な言葉を返した衣玖は、ゆらゆらと浮かび上がって軽く会釈した。
「私は天界の端っこで大人しくしておきます。ご武運を祈っていますよ紫さん」
美しい羽衣が遠のいて行くのを見て、残された紫は再びスキマに身を潜ませた。
あるべき空間とは位相が違う次元、光なき暗闇だけの観測できない世界。独りぼっちの黒。
そこにあるのは傷つけられないことへの安心と寂寥。
冷たい世界で紫は眼を開き、天子を見守った。
天界は相変わらずの穏やかさだった。
手入れもしてないのに、季節が違う色とりどりの花々が年中咲き続け、たわわな果実を実らせる桃の木が恵みを与える。広々とした間隔を保ち、土地を贅沢に使って作られた屋敷の数々。
豊かさを見せつけられながら自宅に戻った天子を、天女が見つけると、大慌てで比那名居家の総領へ娘の帰宅が伝えられた。
不機嫌な天子が天女も寄せ付けず、客間で椅子に座って待っていると、父が現れて不良娘の帰還を諸手を挙げて歓迎した。
「おぉ、帰ったか天子! いつまで立っても姿を見せないから心配したぞ。泥臭い地上にいて大変だったろう、今、湯を沸かさせてるところだ、身体を清めてくると良い」
「不要ですお父様。それよりやることがある」
「なんだ?」
喜びながら向かいの席に着く父に対し、天子は言わなければならないことを打ち明けた。
「天界は変わるべきです。地上は悲しみに溢れています、勇敢な魂が安らげるよう、成仏できる魂の数を増やすべきです。自分たちが豊かに過ごしたいから、来ても良い魂を制限するなんて間違ってる」
「あぁ……お前は、何という……」
父は失望したように片手で顔を覆い、天井を仰いだ。
そんな話しはずっと前に妻から聞き飽きた。無駄なことを言い出す娘に、父は呆れながら言葉を返す。
「別に良いではないか、すでに捨てた地上の民がどうなろうと、我らはここで豊かに暮らしていけるのだ」
「それでは……それでは義はどこにある!!!」
いきり立った天子が、椅子を押し退けて立ち上がり父親に詰め寄る。
「天界が豊かなのは地上に一切目を向けていないからだ! 自分たち以外のことはどうでもいいから、天界で安穏としてれば満足していられる! 地上を見下して馬鹿にして、一番醜いのはお前たちだ!!」
唾を散らしまくしたてる娘に、父は同情する眼を向けていた。
「宴会の邪魔をすれば追放するくせに、私が地上で異変を起こして迷惑を掛けた時、あんたたちがしたのは面倒そうな顔して私に皮肉を言うだけだった!! 理不尽極まりない、どうしてそこまで無関心になれる!?」
「それが天界の気質だ、ここがそういう場所な以上、それに倣うしか無いだろう」
娘の言うことに対し、この父なりに耳を傾けていた。
天子の言う通り、天界は自分たちだけが安穏と暮らせればそれで良いと考えている。それに義などないことはわかるが、それを言われても父にはどうしようもなかった。
天子は、自身こそが天人たらんとして、勉学も修行も頑張っていた。だが父は娘を無視して、他の天人に取り入ろうと必死になった。
媚びた笑いを浮かべ、他の天人とともに地上を見下している内に、周りの天界の気質に染まってしまった。
「母に似たが、彼女より勇敢だな天子。他の天人に調子を合わせられれば楽だったろうに、不良天人と呼ばれなじられようと苦しい道を選ぶか」
「それが私の天道です」
「強いな。だが愚かな父には、お前に付いていくことはできんよ……」
父はそんな天界に溶けこんで数百年暮らしてきたのだ、今更他の生活は考えられぬし、彼が言っても耳を貸すものは居るまい。
天子は強い、ともすれば父ですら羨望を覚えてしまうほどの意志を湛えている。
まさに王者の気質、時代と場所が合致すれば名を残せただろうが、彼女にはその意志と関係なく、幼き頃から天人の地位が与えられてしまっていた。
せめて彼女が不自由しないように便宜を図ってきて、緋想の剣も事後承諾で正式に天子へ進呈されたことにしたが、そんなものでは娘を無視して生まれた溝を埋めるには足りなかったようだ。
天子は自分を認めてくれない父へ、眉間を歪めながら背を向けた。
「どこへ行く?」
「名居様に、そして他の偉ぶった天人たちに直訴します。この腐った世界のために、地上の勇者が報われないのは間違ってる」
「もう遅いよ、数百年ほど遅い。覆水盆に返らずだ、かつては天界もお前のような勇に溢れた者が創ったのだろうが、長い時間とともに低きに流れた。お前がどんなに正しき旗を打ち立てようと、腐ったこの天界では倒れるのみだ」
天界はもう腐り落ちた。万の言葉を並べても足りない、大きく天界の平和が崩れるような痛みがなければ目を覚ませないだろう。
あるいは何かが違えばと、父としても思わざるをえない。堕落した今を振り返りこんなはずじゃなかったという気持ちもある。
天界に馴染めず我を貫く天子に、父は羨望と憐憫を思いながら呟いた。
「お前は才気がありすぎた……せめてあと二十年、いやさ十年早く生まれて、不出来な私から仕事を継いでいれば、天人になってすぐに認められ、天界を導けただろうに。私は残念でならん」
「下らない、私はその時に生まれ、この時にこうなった。もしかしたらなんて無い」
「……待て天子」
家を出ていこうとする天子を父は引き止める。ここで天子が家を出ると、娘との縁が切れてしまうような予感がした。
決別の時は近い、天子はもうすぐこの天界に帰ってこなくなるかもしれないと感じた。
そう思うと寂しくて、言えなかった言葉を伝えられた。
「その内、お前の話を聞かせてくれよ」
「……あんただって、言うのが遅いのよ何もかも」
母が亡くなって天子が寂しかった頃、腐った天界の中では自分が強くなるしかなくて、修行する以外に自分を保つ術がなかった。
その時に、今の言葉を言ってくれたなら、ここまで苦しまなかったのに。
呟きだけを残し天子は家を出て、その足で他の天人の元へと出向いた。
「お願いします、成仏制限の緩和を。地上で苦みながらも善行をなした者たちが、何処にも往けず、順番が来るまで彷徨うしか無いのは間違ってます。彼らが休めるよう、天界に受け入れるべきです」
「別にいいではないか。ずっと天界はそうであったのだ、これまで何事もなかったのだから、これからも問題あるまい」
かつて地震を鎮めた天人がいた。彼は天災というものが突然起こるということを忘れてしまっていた。
「それは私達が他に目を向けていないからです。地上では、今日にだって死んでいく者がいる。その周りの人は家族や友が死んで悲しみながらも、きっと極楽で報われると信じているのです。その人の願いを、私達が踏みにじっているのですよ」
「それがどうした、我らは天人だぞ。なぜ地上の虫けらのために窮屈な思いをせねばならぬ」
かつて戦争で苦しんだ民のために、自らの足で人を助けて回った天人がいた。彼の記憶からは、苦しむ人々の記憶は薄れていた。
「みんな――みんな間違ってます! どうして天界が生まれたんですか? みんなで智慧と技を持ち寄って、誰かを助けるためじゃなかったんですか!? 悦に浸るためだけの歌に踊り、そんなのを毎日楽しんで、生きてる意味が何もないじゃないですか!! 思い出してください、自分が人間だった頃を、自分が苦しいからこそ、隣の人を助けたいと想ったんじゃないんですか!!?」
「なんの成果も上げてない成り上がりが何を言うかあ!!! 我らはみな厳しい修行を積み、研鑽の果てにこの天に至ったのだ。運だけで天に上がってきた不良天人ごときが、生意気な口を利くでないわ!!!」
自分が弱い人間だったことを認められず、地上のことなど思い出したくない天人が、天子の頬を殴り飛ばした。
豪拳を受けた天子は床に倒れ、這いつくばりながら必死に頭を下げて懇願した。
「お願いします。ほんの少し、自分たちの迷惑にならない範囲で良いんです。義を見てせざるは勇なきなりと言ってくれた人もいるではありませんか。どうか天界を開放して下さい、勇敢な魂にお慈悲を……」
「はん、孔子などという若造の言葉など説くでないわ!」
「か、彼より長く生きているというのなら、なおさら天人の義を示して下さい!」
「くどい! お前のような和を乱す輩は、この天界から出て行け!!!」
傲慢な天人が大木のような脚で、天子の身体を蹴り飛ばした。
ぐったりした彼女を、命令を受けた天女達が抱え、遠くまで運んでいく。
天子は天界の端に捨てられて、硬い天界の地にうつ伏せで横たわった。
修行した天子であっても、あの豪拳は中々に痛かった。
だが数百数千の怠惰を経て、目を曇らせてもなお衰えないような力を持った人が、その目を地上に向けられない事実が何よりも辛い。
同時に、どれほど訴えても聞き入れられない自分の無力が、彼女の手足から立ち上がる力を奪っていた。
そして影が差した。
「疲れているわね」
いつのまにか八雲紫がそばに立って、天子のことを見下ろしていた。
天子の手がピクリと動く。顔がわずかに上を向き、帽子の下からギラついた眼を覗かせる。
紫は膝を突き手を差し伸ばしたが、天子はこれを無視して、フラフラの身体で一人立ち上がった。
天人たちが住む豪邸の方へ、天子がまた向き直るのを見て、紫が声を掛けた。
「まだやる気?」
「当たり前でしょうが。止まれるか、止まってたまるか」
返答は予想通りのものだった。
そして自責と失望の果て、辿り着いた結論は最悪のもの。
「こうなったら……私が天界を創り直す」
抑圧された夢の人格と、同じ答えに辿り着くのは当然の帰結だった。
行く先は狂気、自他共に傷付ける修羅の道。すでにそれを夢見ていたからには、元からそこに進む素質があったのだ。
「天界は要石を天の大地として出来た世界だ。手始めに今の天界を打ち砕き、何もなくなった世界に再び要石を作り新しい天界にしてやる」
「その要石をどうやって作ったか知っていて? 地上に挿し込まれていた巨大な要石を、大地から抜くことで今の天界が出来上がった。その時には大地震が起こり地上の生き物は一掃されたわ。その傲慢な悲劇を繰り返す気?」
しかし紫から聞かされた過去の出来事に、天子は飛び出さんばかりに眼を丸くした。
長い空色の髪を激しく広げながら振り向き、震える声で疑問を口にするのが精一杯だった。
「なに……それ……」
「あなた本当に知らなかったの? 可哀想な子。あなたは天界の意義について説いたけど、その成り立ちからして地上の民を見捨てた傲慢な願いで出来ている」
ずっとずっと昔のことだ。紫はその光景を目撃している。
轟音で鳴く大地、崩れる山々、どんな大木も残さずなぎ倒され、あらゆる生命が飲み込まれた地獄の様相。
果たして、その地獄を作るに至った経緯が義と勇だったのか、あるいは傲慢により肥大化した自意識だったのかまでは紫も知らないが、どんな決意であれ多くの命を奪ってもいい理由にはならないだろう。
もしもまた天界を作り上げるなら、もう一度その悲劇を起こさなければならない。紫は幻想郷を愛するものとして、そんなことはさせられない。
「むかつく……間違ってる全部が……」
紫の前で、世の理不尽に堪え切れなくなった天子が、拳を震わせた。
「何もかも間違ってる……傲慢で地上を見下す天界も、悲しみ貧する者で溢れる地上も……」
「そうしてまた走るのね、いい加減……」
今の天子は見るからに危険だ、止めようとする紫が手を伸ばしたがまたもや打ち払われた。
「触るなァ!!!」
天子の絶叫が、空虚な世界に木霊する。
自らの自我を抑えきれなくなった天子が、なりふり構わぬ危うい眼光を煌めかせる。
「前からむかついてたのよ。私が何かしようって度にあんたは現れて、私のやろうとしてることを台無しにして」
「だとしたらどうなんだい……また暴れるというの?」
感情を発露させる天子に、紫も段々と自分を抑えきれなくなってきた。
神社の落成式を台無しにしてやった時と同じ感覚だ、棘のある挑発が口をつく。
よせばいいのに、駆け出そうとする心を止められない。
「ああそうだ、私はあんたの言う通り、傷付けることしか出来ないんだ。だったらやることは一つ……」
天子は帽子を深くかぶり直しながら、愛用の緋想の剣を取り出した。
瞬時に萃められた緋色の気質が集束し、あまりの強さに中心部が白く見えるくらいに輝いて高鳴りを上げる。
想いの枷を取り払い、全力で走る天子が手にした極光を振りかぶった。
「ぶっ壊れろぉお!!!」
大上段で振り下ろされた緋想の剣を、紫が身を引いて避ける。
足場に叩きつけられた気質は、天界の大地を内側から割くようにして爆発的に広がり、周囲一帯が破壊され轟音と共に崩れ落ちた。天界の大地が要石でよかった、砕けた石は力を失い、現世への境界を超える前に消滅するだろう。
浮かび上がる紫の下で、天子が土煙をまといながら睨み上げた。
天子は本気で何もかもぶち壊しにする気だ、暴走するまま世界のすべてに剣を突き立てようとしている。
「天道是か非か! 世界が間違っていて、理不尽に苦しむ者がいるというのなら、私自身の手で悲しむ事のない心を創り、貧する事のない社会を作り、この世界全てを創り直してやろう!!!」
夢の天子の再現だ。しかし現と夢の意思と願いが合致したとなれば、発揮される力は夢の出来事の比ではない。
止めなければならないが、紫自身は身を引くべきだと考える。
この天子は紫とて油断できる相手ではない。全人類から無尽蔵に気質を吸い上げて戦う天子は、パワーだけなら紫を圧倒しており、下手をすればこちらが食い殺される。
いつもの紫ならば最初から相手にせず、別の誰かが彼女を処理するよう誘導するところだ。
だが不思議なことに、紫はその考えを否定した。
不安と怯えが敷いた、自らにとっての禁忌の境界を超え、天子が居る側へと踏み込む。
「そんなに憎しみをばら撒くというのなら、お前は私の手で下してやるよ、天人!!」
こいつは自分が打ち倒したいと、そんな想いに突き動かされた。
「私の夢を理解できない下賤な妖怪が! 死に腐れぇ!!!」
戦いが始まり、先に仕掛けたのは紫の方からだった。
スキマから特製の傘を取り出す。妖力でコーティングされ、薄っすらと紫色の力場を形成した傘を思いっきり振りかぶり、天子の頭上から鉄槌のごとく打ち下ろした。
天子は足元に要石を作り出し、上に立って体勢を整えると、剣を横に構えて紫の攻撃を受け止める。
集中した緋い気質と紫の妖力が拮抗し、重低音とも高音とも取れるような不気味な音を奏でた。
「うおぉぉおおりゃあ!!!」
天子は凄まじい膂力で傘を弾き返すと、要石を蹴って紫の斜め後方に跳び上がった。
紫が振り向いて目で追った時には、新しい要石を足場にまた跳びはねていた。空中でありながら足場を用意することで、瞬発力を上げている。
紫の死角に回り込んだ天子は、更に要石を蹴って加速しながら紫へと襲いかかり、胴から真っ二つにしようと剣を横に振り抜いた。
しかし紫は背中越しに構えた傘により、見もしないまま緋想の剣を受け止めた。
「ちぃ!」
「ムダムダ、丸見えよぉ!!」
天子が攻め直そうと剣を引いた瞬間、紫はスキマに身を飛び込ませ天子の背後に瞬間移動し、殺気を感じた天子が振り向く前に、渾身の力で傘を真横に振り抜いた。
天子はやろうとしたことがそっくりそのまま返された。大妖怪の腕力を持って与えられた衝撃は、千の大木を圧し折るが如き威力。天子はあえなくすっ飛び、一瞬で肺の空気をすべて絞り出されて声すら出せなくなった。
酸欠状態のまま天子は視界を動かす。いつのまにか天地が逆しまになっていたことに気付き、修正しながら剣を構えたが紫の姿はすでに消えている。
また奇襲を仕掛けるつもりだ、ならば眼に頼っても無駄だと考え、剣から感じる気質だけに意識を集中し、感じ取った紫の気質に合わせ、頭上に要石を作り出した。
刹那のズレもなく、上から襲い掛かってきた傘の殴打を、要石が砕けながらも受け止めた。
「なに!」
「二度も通じると思うなぁ!!」
天子は自身の頭部に気質をまとわせると、要石の破片を押し退けて飛び上がり、紫の鳩尾に頭突きをかました。
ダボついた道士服の下には結界が用意されていたが、石頭は容易にそれを貫いてきて、紫は苦しい顔で涎を吐き散らす。
更に天子は追撃を仕掛けるべく、紫と高度を合わせるよう浮かび上がると、緋想の剣を手の前に浮かばせながら回転させ、剣に萃めた全気質を放出した。
「全人類の緋想天!!!」
天子の最強最大のカードが襲いかからんとした時、すでに紫はその攻撃が来ることを計算していた。
緋色の光に照らされる紫のそばに、スキマが開いて左手が飲み込まれる。消えた手は、次の瞬間には閉じた扇子を持った状態で現れ、天子の手元を突き飛ばした。
回転する緋想の剣の照準があらぬ方へと向き、暴発した気質は紫のわずかに横へ放出された。
膨大な気質が太陽のごとく輝きながら、何もない空へと散っていく。
天子は攻撃が失敗したと見るや、取りこぼした緋想の剣を掴まずに、握り込んだ拳で紫の腹部を殴り抜いた。紫はくの字に折れ曲がり吹っ飛ばされる。
誰の眼に見ても完璧に芯を捕らえた打撃だったが、天子の手に伝わってきたのは紙ペラを打つような妙な感触。間違いなく防がれた、単純な物理攻撃は通らないようだ。
「ならカナメファンネル!!!」
紫が体勢を立て直すのは不味い、合間なく攻撃を仕掛けるため無数の要石を生成して紫へと撃ち飛ばした。
創り出された数はおよそ三十、だがこれではまだ足りない。
「まだまだぁ!!!」
天子は雄叫びを上げ、更に要石を生成し続ける。
その量はスペルカードルールで使用したものとは桁が違っていた。
空の一画を覆い尽くすほど大量の要石が次々に創り出されては撃ち出される。それらは天上に石の華が咲くかの如く広がり、あらゆる角度から紫を狙った。
本来は要石から気質のレーザーを発射する技だが、緋想の剣が手元にないため気質が込められず、単純なミサイル代わりに過ぎない。それでも霊力を込めた要石なら、当たれば効果はあるはずだ。
更に天子は手を振るうと、落ちていくはずだった緋想の剣が神通力を受け浮かび上がり、刃を作ったまま高速回転して紫へめがけて飛びかかった。気質の暴発で輝きは薄くなっているが、紫を切り裂くには十分である。
紫は殴られた衝撃をあえて殺しきらず、吹っ飛び続けるまま回避行動を取ろうと、まずは情報を集めた。
自身の顔にある両の眼をバラバラに動かすのに加え、戦地から少し離れた場所に事前に開いていたスキマから、覗き見れる光景を読み取った。
まず空中で身を跳ねさせ、最初に飛び込んできた要石を躱すと、次の要石は蹴り飛ばして軌道を変えて凌ぐ。
ある要石は局所的に結界を展開して防ぎ、ある要石は傘で叩き飛ばし、他の要石にぶつけて同時に潰してやった。
要石の猛攻はおよそ一分近く続けられたが、紫はその全てをしのぎ切る。強い霊力を込められた要石の破片はすぐには消えず、宙を漂い、紫の周囲を埋め尽くした。
最後の要石を、紫が手の平に作った結界の圧力で粉砕した直後、緋想の剣がブーメランのように飛びかかってきて、傘でもって打ち上げることで防ぐ。
その直上にて、回り込んでいた天子が弾かれた緋想の剣を掴み取り、極光の飾りがついたスカートをはためかせながら、輝く愛剣を振り下ろした。
「獲ったァ!!」
最初に死角からの攻撃を防がれた時から、紫は自らの眼以外に情報を得る手段を持っていると天子にはわかっていた。
だからこそ要石による飽和攻撃。大量の破片が天子の姿を隠し、この場所まで導いてくれた。
紫にはこれを避けようとする素振りがない。勝利を確信した天子だったが、剣が天敵を切り裂こうとする直前、紫の姿が前ぶりもなく雲散霧消した。
「消えた!?」
「遊びは終わりよ」
声が聞こえたが、どこから響いてきたのかまったくわからない。見渡そうにも自分の要石が邪魔だ。
次の瞬間には天子の横にスキマが開き、中から飛び出してきた標識が天子の身体を打ち抜いた。衝撃が脇腹から貫通してきて、天子は痛みを堪えながら標識を殴り、へし折る、
「こんの……!」
「あの程度の奇襲、見抜けないと思った? お生憎様、あなたの攻撃なんて私には無いも同じ」
標識がスキマに引っ込み消え去る。創り出した要石の破片も消えていくが、周囲の何処にも紫の姿はない。
つまりは、紫はスキマの中に空間に入り込み、そこから一方的に攻撃を仕掛けてきたのだ。
これが紫の必勝法だった、天子と攻撃を打ち合うのは刺激的だったが、最終的にはやはりこれが紫の戦い方にふさわしい。
身を潜めながら、一方的に観測し、一方的に攻撃を仕掛ける。相手が空間に秀でた術者なら追跡の可能性もあるが、次々に潜む位相を変えれば振り切れる。
かつてあった幾度となき戦いを経て研鑽されたこの戦法は、例え相手が月人であろうと破られない自信があった。
「お前と私は同じ盤上の勝負ですら無い。自分の無力さを思い知りながら死に絶えろ。ふふ、ふふふふふふふ」
天の上にて不気味な笑い声が天子を取り囲む。きっと空間を隔てた向こうからは見下した眼で睨み付けていることだろう。
だが天子は怯えることなく、開いた手で紫の嘲笑を振り払った。
「またそうやって隠れるのね臆病者! 私のことが羨ましくてしょうがないから、そんな風に影からこそこそと見つめてくるんだ!!」
「羨ましい……ですって?」
癇に障った紫が気に入らなそうな声を出す。
天子は亜空間にいる紫に対し、一歩も引かずに口を開く。
「そうよ! あんたは私が羨ましいのよ! 生まれたときから家族がいる私が! 天運に恵まれ、追われることなく安穏と生きられた私が!! だからあんたは、私のことになるとすぐに怒り出す! 嫉妬を叩きつけたくて仕方なくなる!! 博麗神社を手に入れようとした私を叩きのめした時も、幻想郷を守るためなんかじゃない。私の存在が気に入らなかったからだ!!」
「……っ、世迷言を」
紫はそう言いながら、疼く胸を掻きむしった。
天子の一言一言が心臓に突き刺さり、気持ち悪さに吐き気がする。
「隠れると言うならそれもいいわ。私には関係ない、いくら闇に紛れようと、私の極光はそれを暴く!」
天子は要石を作ってその上に立つと、両手を振るって正眼に構える。再び気質を萃めた緋想の剣が輝き、集束した気質が擦れあって甲高く鳴り響いた。
緋色の輝きが監視用のスキマの眼に突き刺さるようで、紫は思わず呻いた。
「私の想い、彼奴に届かせろ! 緋想の剣!!!」
天子が何もない空間を剣で突く。
空振るはずの剣先は、しかして空間の境界を突き破り、紫が存在する位相へ到達して心臓へと差し迫った。
紫は驚きながらも冷静に対処した。右手に持った傘で剣を反らしながら身をかがめ、胸を貫かれるはずのダメージを鎖骨が裂かれただけにとどめる。
左肩から血を噴出させながら、紫はギリリと歯を食いしばった。
「こいつ……私の本質に手を伸ばすか……!」
緋想の剣は、本質を見抜き、それを突く剣だ。その能力は、位相をずらした紫の存在までも暴き出した。
境界を介し世界の裏側へ逃げ込もうと、刃は正確に紫の心に反応し、闇に隠れる彼女の心臓を射ぬかんとしてくる。
むしろ眼から入る曖昧な情報に頼らぬ分だけ、面と向かって戦うよりも鋭く紫に届いてきた。
このまま隠れて戦い続けるのは駄目だ、恐ろしい話だが表に出て戦わなければならない。
だが一瞬、紫の脳裏に歓喜の悲鳴が響いた。頭を振り、妄想を払うと開いたスキマから密かに表へ出る。
現れたのは再び天子の背後。その背中を貫いてやろうと傘を突くが、すでに眼ではなく気質を頼りにしていた天子はこれを察知し、振り向きながら避けると、左脇で傘を挟み込んだ。
敵を捕らえ、天子が右手に持った緋想の剣で袈裟懸けに斬ろうとするのを、紫は天子の右手を掴み取ることで防いだ。しかし剣を受けた左肩の傷が痛む、あまり長くは保たないだろう。
両手がふさがった両者は、同時に詰め寄って互いの額を打ち付け、押し付け合いながら至近距離から睨み合った。
「癪に障る小娘ね。恵まれてるくせに、何も持たない輩が、この私にしがみついてきて!!」
「はあ!?」
「だってそうでしょう! お前は恵まれていながら、大切なものは何一つ持っていない! 真の愛情を知らないから、他人の優しさを受け取ることすら出来ない! 私は今まで何度も手から取りこぼしてきたけど、お前はその手を開いてすらいない莫迦な子供だ! 拳を振りかぶることしかできない愚か者め!!!」
「見下すなぁ!! 努力しただけ報われたやつが!!!」
天子が靴底で紫の腹を蹴り飛ばす、今度は霊力を込めた攻撃だ。多少は効果があったらしく、紫は顔をしかめて引き下がる。
押さえてきていた手が離れ、天子はすぐに緋想の剣を振るが、紫も傘を引き抜いて剣と打ち合った。
得物を打ち付け合いながら、天子があらん限りの声で叫ぶ。
「私だって頑張ったのよ! みんなに受け入れてほしかったのよ!! だから勉強だって修行だってなんだってした!」
悲痛な叫びが響き渡る。天子は駄々をこねるように、何度も何度も剣を振り下ろしたが、紫の傘に防がれるばかり。
血の涙を流しているような恩讐込め、天子は無我夢中で溜め込んでいたものを吐露する。
「だけど天界のやつらみたいにはなれなかった。あいつらみたいに、本心から地上を見下せれば楽だったのに、それすらできなかった!」
本当は、父みたいに生きられれば良いのにと思ったことが何度もある。自堕落な日々を甘受すれば他の天人達の輪に入れて、寂しくなかったかもしれないのに。
だが天子には、父のように他の天人と肩を並べて生きることも、母のように見切りをつけて死ぬことも出来ず。
「できあがったのは心にもない言葉ばかり並べるだけの、ろくでなしの畜生よ!! 誰にも認められないなんて当たり前、私は何もかも間違ってる!!!」
「ハハハッ!! それでか、それでか比那名居!」
「あぁ!?」
煮え立った激情を叫ぶ天子に、紫は愉快そうな笑い声を上げて傘を打ち返した。
緋想の剣から伝わってくる衝撃に、天子は一瞬怯んでしまい、その隙を見て紫が距離を取る。
戦いの中でありながら、紫はようやく天子の矛盾を見極められたことで、嬉しさに一杯だ。
脳の髄に酒を流し込まれたかのような法悦に心すら忘れそうになり、情動のまま叫び散らす。
「お前が地上を見下すのは、そんな天人達が間違ってるというのを自分自身で証明するためか、くだらない!!!」
天界を嫌い、天人を軽蔑し、それなのに地上の存在を虫けらと読んで見下す理由がこれだ。
天子にとって、自分が嫌われることこそが目的だったのだ。自身を人柱にして、天界の異常性を認めさせようとしていた。
莫迦だ、本当に莫迦な少女だ。
「大した自己犠牲の精神だこと! あぁ、お前の言う通り、お前は間違ってるわ比那名居天子! そんなことで、誰も幸せにできるものか。哀れなことこの上ないわ!」
紫は否定する、天子のこれまでの愚行を。安易に他人の怒りを利用しようとする冷血さを。
楽しくありたいとうそぶきながら、自分を傷つける矛盾を。
そのすべてが救われないと断言する紫に対し、天子は剣先を下ろしながらも、肩を震わせて一層怒りを漲らせた。
「うるさい……むかつくのよあんたは、お前も、お前が創った幻想郷とかいうチンケな鳥籠も、全部私がぶち壊してやる」
「ほう、言ったわね天人」
紫は暗い表情の下から天子を睨めると、持っていた傘をスキマの奥へと戻し、横に開いたスキマの上に立つ。
手に扇子を持って口元で開くと、表情を隠しながら続けた。
「ならば私も妖怪の賢者として、幻想郷を創った一人として。彼の地を愛するものとして、あなたを罰せねばならない」
紫の右隣に大きなスキマが開く。奥から顔を覗かせたのは無人の廃線車両。
だがその更に右隣にスキマがもう一つ、反対側の左隣にも二つのスキマが開き、計四つのスキマから四台の車両が、前方のライトを光らせて威圧的な照明を浴びせかけた。
圧倒的暴力で捩じ伏せようとする紫は、目元まで扇子で覆うと無慈悲な号令をかけた。
「眠りなさい、比那名居天子」
同時に四台の車両がスキマから飛び出て空中を駆ける。
中には前もって紫の妖力がしこたま込められている、目標と命中するまでは止まらず、ぶつかったが最後、術式が起動して大爆発を引き起こす。これなら緋想の剣のパワーにも打ち勝てる。
迫るくる暴威に対し、天子は肩を震わせたまま。
「私は……私だって……」
廃線車両に込められたのは、圧倒的な否定の意。
それに何を思ったか、緋想の剣から気質の刃を解いた天子は、叫び声とともに足元の要石を蹴り、紫へ向かって空を走った。
「私だって、あんたみたいに立派なオトナになりたかったのに――!!!」
大爆発が引き起こる。空間を揺るがすほどの爆風が大気を響かせ、紅蓮の炎が巻き起こり、爆煙が周囲へ広がった。
煙で視界が塞がるが、監視用のスキマからは、天子が車両と衝突する瞬間が確かに見えていた。
例え強靭な天人の肉体とて耐えきれるものではない。これで終わり――
「――いえ、まだ終わりじゃない」
比那名居天子は、何もかも間違ったまま此処まで来た。
だが彼女は愛してくれる者も、認めてくれる者も一切居ないまま、たった独りで異変を起こし、心から血を流しながらここまで走ってきた人だ。
紫ならきっと、同じ立場に立たされたらそんな気力は出なかっただろう。それを成した彼女の裡に秘めた力は凄まじいものだ。
例え歩む道を違えていようが、そんな力を持った天子が、こんな簡単に止まるはずがない――
「八雲紫ぃぃぃぃいいいいい!!!!!!」
煙の中から、ボロボロの天子が緋色の霧をまとって現れた。
その手には緋想の剣の他に、天界の仙桃が握られている。仙桃を食べることによる一時的な肉体強化の上に、気質をまとって鎧とすることで今の攻撃をすべて受け切ったのだ。
恐るべき猛進。しかし流石にダメージを無効化できたわけでなく、天子の身体の内側からは肉と骨がバラバラに引き裂かれるような激痛が走っていた。
構うか、走れ。
走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ、走れ!!!!!!
「うわああああああああああああああああ!!!」
悲惨な咆哮が、わずかに紫の意思を怯ませた。
天子は仙桃を捨て去ると、握りしめた左の拳で紫の顔を殴り飛ばす。
気質をまとった拳は、紫の肉体に激しいダメージを与え、彼女をスキマの上から突き落とした。
だが天子もダメージでこれ以上飛んでいられなくなった。紫の胸ぐらを掴むと、二人一緒になって、厚い雲の上に落ちて行く。
雨雲でほとんど何も見えない中、天子は右手に持った緋想の剣に刃を創り出し、突き刺そうとしたところで、抵抗した紫が剣を持った手を弾いた。
がむしゃらな戦いは天界を抜けて地上へ出て、雨粒と並んで二人の体が落ちていく。雲を抜けた時には天子の手から剣が手放されており、素手で紫と取っ組み合った。
頭部を気質付きで殴られた紫は、脳までダメージが響いていて思考が安定しない。斬られた左肩の傷もあるし、さっき剣を弾いたので精一杯だ。意地だけ張った天子が落ちながらの争いを征して、地上に落下する瞬間、胸ぐらを掴んだままだった紫を下敷きにした。
落下した衝撃でぬかるんだ地面がクレーター状にえぐれ、泥水が辺り一帯に撒き散らされる。
遅れてやってきた緋想の剣が近くの地面に刺さった。いつのまにか天子の帽子も外れていて、偶然にも剣の柄に引っかかる。
それらを取りに行く暇もなく、泥だらけになった天子は紫の身体に馬乗りになると、思いっきり拳を振り上げた。
「わああああああああ!!!」
顔面に振り下ろされる拳を、紫はハッキリと見ていた。
二撃目の拳には気質はおろか、単純な霊力すら篭っていなかった。だというのに、紫はこれを防がず受ける。
美貌が歪み、殴られた頬が真っ赤になるのを見ながら、天子はまた拳を振り上げる。
「私は! 優しくすることなんてわからなくて!! 傷つけることしかできなくて!! それでも諦めたくないから走り続けて!!!」
雨に打たれながら、天子が一言ごとに紫の顔を打ち据える。紫は抵抗することなく、天子の拳を受け続けた。
拳がねじ込まれるたびに、紫の手足まで衝撃が伝わって小さく跳ね上がり、瞬く間に顔が腫れ上がっていく。
「それでできたのは、結局憤りを呪いにしてばら撒くことだけ……!」
しかし優位に立てたと言うのに、段々と天子の拳から力が抜け始める。
語気も弱まり、見る見るうちに天子から覇気が消えていく。
「無駄に生きて、醜態を晒して……」
形だけ握られた拳が、こつんと紫の額に当てられたのを最後に手が止まった。
胸ぐらを掴んでいた手も離すと、天子は背中を伸ばして紫を見下ろす。
自分に優しくしてくれた紫が、泥まみれで顔中を腫らした酷い姿でいるのを見て、細い声を必死に絞り出した。
「私なんて……とっとと死ねばよかったんだ……」
あんなに優しいやつなのに、尊敬だってできるくらいすごいやつなのに。
そんな紫に、こんなことしか出来ない自分なんて生きる意味も価値もないと、天子は顔を手で覆い、俯かせた。
顔中が腫れ上がった紫が、閉じそうな瞼の隙間から、滲んだ視界で見上げた。
雨空の下、憎らしいあいつは、押さえた顔を俯かせたまま苦々しく唇を噛み締め、血を流していた。
だというのに、雨で濡れた彼女は未だ泣いていないように見えた。
代わりに垂れた赤い雫が、紫の胸に落ちてきて服を静かに染める。天子の苦しみが染み入るのをぼんやりと感じながら、天子の言っていたことを思い出した。
悲しむ事のない心を、貧する事のない社会を。
――嗚呼、そういえば、自分も昔、似たようなことを考えていた気がする。
だから、理想郷を目指して、ここまで歩いてきたんだ。
疲れた。体が重たくて、眠りたいと言ってくる。
でも、言わなくちゃ。かつて抱いた願いのために、泣くことすらできない彼女のために。この縁を辿って、もう一歩進まなくちゃ。
臆病な心が、そうしたいと言っている。
言葉を探す、この走り続けた少女の助けになる言葉は何か――いや違う、助けたいんじゃないんだ。
そんな想いは見せかけだけのまやかしだ、もっと深くの、本当の意思を探せ。
ただ思いのまま、天子と過ごしたこの四日で、ずっと探してきた自分の気持ちを汲み取って――
紫は泥だらけの手を持ち上げ、俯いた少女の頭に汚れた指を這わせた。
「私は、あなたに会えてよかったわ」
驚くくらい声はしっかり出た。
天子は雨で冷える身体に突然熱が伝わってきたことに、怯えて身体を震わせる。
痛々しい傷だらけの身体をいたわるよう、紫は想いを込めて呼び掛けた。
「私は、いつもみんなが怖くて、顔も中々出せなかったのに。あなたのことになると、驚くくらい自由に動けた」
驚きの連続だった、自分でもどこまで行けるのだろうとワクワクした。
競いながらやるたけのこ掘りは楽しかった。天子が源五郎の母親に暴力を振るおうとするのを止めた時、人里の住人に声を掛けれたのは実はちょっと嬉しかった。
嫌がる天子を抱きしめた時、ああまで優しくあろうとした自分は初めてだった。
ミカの死は悲しかった、でも一緒にいたお陰でお墓を掘るのを手伝えて、それは良かった。
天子といると、何でも出来るような気がした。
不安を忘れ、やりたいと思ったことをやれた。
「あなたは大切なモノは何も持っていないのに、悲しいことしか知らないのに、それでも走り続けられるあなたの姿に焦がれたから、私も駆け出せた」
言葉を紡ぎながら、紫の胸の内でカチリとピースがはまる。
あぁ、そうか。だから自分は天子のことになると、すぐ感情的に――いや、自由になれたんだ。
「…………私は、そんな素敵な力を持っているあなたが好きなの」
紫がようやく見つけた答えに、天子が眉をひん曲げて顔を上げた。
見開いた緋色の瞳を揺らめかせ、嗚咽を漏らしながら口を開く。視線を下げ、紫が優しげに見つめてくるのと眼を合わせると、伝わってきた気持ちに、我慢しきれず大声を張り上げた。
雨音が慟哭を掻き消す。天子は背中を丸め、紫の胸元にしがみついた。数百年の堰がとけ、溜まり続けた澱みが吐き出されていく。
紫は苦しくても跳ね除けることを一切せず、ただ小さな体に手を乗せて、初めて自分のために泣けた彼女を、ぎゅっと抱き締めていた。
◇ ◆ ◇
大雨が止んだあと、随分と夜が更けてきた頃になってもまだ天子は輝針城に戻ってこず、喧嘩をしていた針妙丸もそわそわと心配に浮足立っていた。
どうしたんだろうか、異変の時は何も考えずに通じ合えた彼女に隠し事をされたのが無性に悔しくて、つい意地の悪い態度を取ってしまったが、そんなに嫌なことがあったんだろうか。
今日で奉仕活動が終わりのはずだが、とうとう妖怪の賢者に危険分子の判を押されて粛清されてしまったのか。つい天子なら大丈夫だろうと根拠のない信用を押し付けたが、自分も付いていくべきだったかもしれない。
天子がどこにいるのかまったく知らないが、それでも探しに行こうかと考えていると、出入口の扉が開く音が届いてきた。
「針妙丸、戻ったわ!」
まるで心配無用だと不安を吹き飛ばすような快活な声に、針妙丸も思わず顔を明るくした。
ホッとする一方、喧嘩してからまだ仲直りもできていないので、どんな態度でいるべきか迷ってしまう。
結局素直になれず、ドタバタと足を立てる天子が部屋に入ってきても、そっぽを向いたまま棘のある声色で「おかえり」と言ってしまった。
しかし天子からの反応がない。針妙丸は気になってチラリと様子を伺うと、驚いてお椀から飛び上がった。
あの天子が、畳に額をこすりつけ土下座していた。
「ど、どうしたの天子!?」
「この前のことを謝りたいのと、改めて輝針城に住まわせて欲しいの。お願い、許して受け入れて」
今まで傲慢な態度ばかり取っていた天子だったが、頭を下げた今の彼女からは真に迫る必死さがあった。
そして同時に、声はなんとなくだが透き通っていて芯がある、信じようと思える声だ。
「もちろん良いよ、っていうかこのあいだのは私も悪いし! それより天子大丈夫なの? また変なもの食べてない?」
「大丈夫、むしろスッキリしてる」
針妙丸から許してもらい、天子は顔を上げて立ち上がった。
その表情は晴れ晴れとしていて、朝に顔を合わせた時とはまるで別人のようにすら感じる。
「ねえ、針妙丸。あんたと一緒に戦った完全憑依異変。あの時は久々に小難しいことを考えず、目の前のことに熱中できた」
天子は、針妙丸との戦いの日々を思い返す。
思考を停止し、頭を空っぽにして針妙丸と繋がった完全憑依は、今にして思えば傲慢でしかあれない自分自身への、憤りというノイズを止めたい逃避だったのだろう。
そんな自分と一緒にいてくれた針妙丸に感謝を感じる。
「楽しかったわ、遅くなったけどありがとう」
「……うん、私も楽しかったよ」
天子の安らかな顔を見て、針妙丸はにっこりと笑顔を浮かべた。
きっと天子の心を動かすような何かがあっただろう。
針妙丸は少し気になったが、今度は聞かなかった、いずれ時が来れば天子の方から教えてくれるだろうと思ったのだ。
何も考える必要はない、元々そうやって天子と通じ合ったのだ。針妙丸は、自分が彼女を心配する必要はないと気付いた。
今はただ一皮むけた友人を祝福し、頭を空っぽにして笑い合うだけだった。
「さあて、お風呂入ろうかな! 沸かし方、昨日紫苑に教えてもらったから準備してくるわ。針妙丸、あんたも一緒に入りましょ!」
「わかった、お願いねー!」
天子は今までになく明るい笑みを残し、またドタバタと軽快に足音を立てて部屋から出ていった。
それを見た針妙丸も、これから先、この輝針城は前より楽しくなりそうだと思い期待を胸にする。
「やれやれ、天子様もまだまだ甘い。家に住まわせてもらうとなれば、頭を下げる前に土産の一つでも用意するべきでしょうに」
「いやー、まぁ居候なのは今更だし……ってあんただれえ!?」
横を見てみれば、やたらぱっつんぱっつんな服を着た妖怪がいつのまにかいて、羽衣を揺らしながら正座していた。
針妙丸が不審者に警戒して針の剣を抜こうとしていると、羽衣の妖怪はキリリと表情を正し、針妙丸へ頭を下げた。
「初めまして、私は竜宮の使いの永江衣玖と申します。こちらは今日からお世話になる家主へのお土産です。中身は鬼に勧めてもらった地底のお酒セットですよ、好きにお飲み下さい」
「あっ、これはどうもご丁寧に……って家主!? まさかあんたもウチに住む気!?」
「それでは私も天子様を手伝ってきますかね。針妙丸さんはゆっくりとおくつろぎ下さい、はいお茶どうぞ」
「おっ、どもども。あなた中々気が利くねぇ……じゃなくて! えっ、どういうこと!? 説明していってよぉー!!!」
「ごめんくださーい、貧乏神でーす。天人様の運をおすそ分けしてもらいに来ましたー」
「あんたら帰れー!!!」
針妙丸が話を聞いてもらえない自分の物理的小ささに悔しんだりしつつも、輝針城の夜は一気に騒がしくなる。
この城にいる限り、当分の間は退屈しないだろう。
天子の笑顔から感じた予感の通り、楽しい毎日が続くことになるのであった。
◇ ◆ ◇
突然の大雨に多くの住人が悩んだ幻想郷であったが、翌日にはカラッとした太陽が雲一つない青空に輝いていた。
天子は釣り道具を持って湖まで来ていた。要石に腰を下ろすと、例のごとく餌も付けずに釣り針だけ投げ込む。
しばらくそうしていて、昨日のことを考えていた。当分は天界に戻れないなとか、お父様が心配してるかもだから衣玖に様子を見てもらおうかとか。
そして、あいつは今頃どうしてるかなと考えてると、隣で布がこすれる音がした。
「また釣りかしら」
気がついたら、また突然現れた紫が、スキマに座って並んでいた。
昨日、死闘を繰り広げた相手が、傷一つ無い顔をして微笑んできている。
天子は、いやおかしいだろ、昨日あんだけボコボコにしたのに、と思い、とりあえずほっぺたを突っついた。
「えいやっ」
「うきゃあ!?」
痛そうな悲鳴を上げた紫は、即座に鬼の形相となって天子の頭を掴みあげた。
万力のように頭を締め付けてきて、恐ろしいことに天人の頑強な身体がミシミシと嫌な音を立て始めた。
「何するのよ小娘が!!」
「いだだだだだ! あれだけボコったのに変に綺麗だなって思っでだだだだだ!!」
「ガワだけ整えてるのよ! その程度察しなさい、っていうかわかっててやったんでしょ!?」
「そりゃモチロいだーい!! 悪かったわよ、ごめんって!!」
謝り倒してなんとか開放してもらい、天子は痛むこめかみを押さえながら水面を眺めた。
紫は溜め息をついて間を開けてから、もう一度口を開く。
「源五郎ね、彼、出家したわ」
「……はい!?」
驚いた天子が声を上げて振り向いた、竿まで動揺を表して水面が波打つ。
呆気にとられた天子の顔を見て、紫は喉を震わせ愉しげに笑った。
「クク、その気になって頭も丸刈りよ、見に行ってあげたら喜ぶわ」
「え、なんで? っていうか早くない? 昨日の今日よ? あいつ思ったより根性あるわね」
「自分はどこでも生きていけると、そのことに気付いたんでしょう。あの家から離れるためだけど、ミカの死を供養するためというのもあるわ」
天子の気持ちは、ちゃんと伝わっていたのだ。
彼のために泣いた天子の涙は、源五郎にミカの愛を本当の意味で気付かせた。
他人の気持ちの奥底に触れ、その温かさを受け取ることが出来た少年は、きっともう大丈夫。
「もう心配はいらないでしょう。彼はまだ幼いけど、自分の意志で決断し生きていける人間になれたわ」
「そっか……良かったわ」
何にせよ天子にとっても嬉しいことだった。肩の荷が下りた思いだ。
ちょくちょく様子を見に行って、ミカが天界にやってきたなら源五郎のことを話してやろうと考えた。
安心した天子を見て、紫も安堵しつつ、少し不安げに手の平をこすり合わせた。
ここからが、紫にとって本題だった。
「昨日はごめんなさい、あなたには酷いことを言ったわ」
わずかに瞳を伏せ、紫がゆっくりと話し出す。
天子が横目でチラリと様子を見ると、紫は水面を眺めたまま揃えた膝の上に手を乗せ、肩を狭くしながら緊張気味に話していた。
「いや、昨日だけでないわ、初めて会ったときから、私は強く当たりすぎてた。走り続けられるあなたなら、どれだけ強く打ちのめそうと必ず立ち上がってくるだなんて、勝手な期待と怒りを押し付けてた。あなただって、どれだけ怒っても足りないくらい苦しんでたと言うのに」
いかに天子の自業自得であろうと、彼女を傷つけたのは間違いない事実である。ならばこれは贖罪しなければならないと紫は感じていた。
天子が自分を傷つけることしか出来ないように、自分もまた怒りという感情でしかそれを止められなかった。紫がもう少し賢ければ、穏便なやり方があったかもしれないのに。
懺悔する紫が、恐る恐る天子に顔を向ける。
「えいやぁっ」
天子は再び紫の頬に指を突き立てた。
伝わってくる痛みに、紫は顔をしかめて天子を睨み付ける。
「……だから痛いんだけど」
「当たり前よ、私だってあの時メチャクチャ痛かったんだから」
天子は睨み返してやると指を離し、そっぽを向いて口をすぼめた。
「痛いのがわかったら、もう怒るのは止めてよね」
「……悪いけど、それは約束できないわ」
天子からの願いを紫は退ける。
むっとした表情で見つめてくる天子に恐れることなく、あくまで紫は自分の気持ちを伝えた。
「もしあなたがまた間違いを起こしたなら、私はきっとまた物凄く怒る。だから無理な約束はできないわ」
「えいやぁっ、ついでにほらさっ」
「だから痛いのよ、二回も突っつくな」
紫が突き付けられた指を払いのけると、天子は飄々とした顔で恨めしい視線をかわした。
「まあ、許してあげるわ。悪いのは私も同じだし」
「散々痛いとこ弄ってきといて」
「あんただってイジワルじゃないの」
「むう……」
正直そこを突かれるのが一番痛い、紫は言い返せずに押し黙るしかなかった。
渋い顔をする紫に対し、天子も思いのままに言葉を返す。
「その代わり、怒るってんなら本気でぶつかってきてよね。ソッチのほうが絶対おもしろいわ!」
そう言って、天子は快活な笑顔を浮かべ、恨みも不安も、すべての無念を吹き飛ばす声を上げた。
それはとてもキラキラと輝いていて、見ていた紫は思わず見惚れてしまい、胸のときめきを感じた。
「……なんだか、あなたの笑顔を初めてみた気がする」
「そう?」
「その笑顔が、きっとあなたなのね」
無駄な飾りがない、怒りと悲しみに汚れてもない、天衣無縫なこの笑顔を、紫はずっと見たかったのかもしれない。
もう天子は、地上を見下すことはしない。この地に住まう人や妖怪と肩を並べ、共に笑いあって過ごしていく。
新しい幻想郷の住人へ、紫は鮮やかに笑いかけ、賢者として、そして八雲紫として語りかける。
「この幻想郷はあなたを歓迎しましょう、だけど一つだけ、あなたはあなたらしく生きなさい」
もう自分を傷つけることはないのだと、紫は天子の心に想いの熱を伝える。
これからの天子は、ただひたすら自分が幸せになるために、その素敵な力を存分に使って走ってくれていいのだ。
「それが、八雲紫から比那名居天子へのお願いよ」
紫は身体を近付けさせると、天子の顔に手を伸ばし、柔らかい頬を細い指でそっと撫でる。
「あなたは間違っていても進み続けられる人。例え闇夜が続いても、その先に必ず夜明けが待っているはずだと、私はあなたの道を祝福するわ」
与えられた信頼に、天子は思わず体の芯を震わす。
これからは何をしても良いんだと、すべてが許された気分だ。不安に思うことはない、これからの自分が抱いた願いはきっと人を傷つけない良いものであるだろうし、例え間違っていたとしても賢いこいつが諌めてくれる。
道が拓かれるのを肌に感じる、天道はとうの昔に潰えていたけど、地上に伸びたこの道は綺麗なものがいっぱいだ。それを楽しみながら進んでいきたい。
未来への展望に嬉しさがこみ上げてくる。
そして何よりも、この優しさを受け取れる今の自分が、とても喜ばしかった。
「なんて、ほとんど受け売りだけどね」
「……いや、きっとそれは、あんたが積み重ねたものが、返ってきた言葉なのよ」
そして天子は、歩み積み重ねてきた素晴らしい妖怪が、自分に笑いかけてくれることを感謝した。
添えられた細い指に自分の手を重ね、伝わってくる優しさに、眼を閉じて感じ入る。
「まったく、私みたいなのが好き勝手に生きたってろくでもないって自分でも思うけど。それが好きだって言ってくれるやつがいるなら、それでいいか」
天子は自分がまとってきた殻の全てを否定され、打ち砕かれた。だがその下に残ったものを拾い上げて、それを素敵だと言ってもらえた。
だから天子は、この先も自分を信じて生きていけるだろう。
「……ありがとう、馬鹿な私に、大切な物をたくさん与えてくれて」
「気にしないで。私が、好きだからやっただけのこと」
「ごめんね、あんたには八つ当たりばっかりで」
「まったくだわ、じっくり償ってもらわないと」
「はは、ちゃっかりしてやがるわね」
もう誰も傷付ける必要はない、誰も呪う必要はない。疲れたなら走るのを止めて、ゆっくり休めばいいのだ。
自分に優しくできるようになったのだから、誰にだって優しく出来るはずだ。
わずかに頬を赤らめた紫が、嬉しさに微笑みながら手を戻した。
離れていく熱に、天子は少し惜しむ気持ちでいることに気が付くと、よしと呟いて釣り糸を回収し、竿に巻きつけ、要石から立ち上がった。
「ねえ、この後、みんなと一緒に遊びに行く予定なの。あんたもどう?」
「あまりそういうのは……いえ」
あまり妖怪の賢者が表に出るべきじゃないと考え、すぐに思い直した。
天子が手を差し出してくれている、ならどこまでだって行けるだろう。
紫は迷いを振り払い、天子の手を取ると、彼女もまた道が拓けるのを感じながら立ち上がった。
「なら、楽しませてもらおうかしら、天子」
「よろしくね、紫」
走り続ける天子に手を引かれ、紫も不安を捨て駆け出した。
自分の気持ちに気付けた二人は、どこまでも楽しいことを追いかけられるようになった。
不器用な二人は、いつかは相手の気持の大きさも知り、握った手をより固く結ばせるようになるだろう。
彼女たちが往く道は祝福に満ち溢れていて、どこまでも幸せに、幸せに、力いっぱい進み続けられた。
そしてあとがきのはっちゃけ様ったらもう
ゆかてん愛が全力で描かれた良い作品でした!
今回はいわばツンデレがいきすぎて自分にすら優しくできない天子とコミュ障を拗らせすぎたゆかりんですか。たっぷりと楽しませていただきました。
過去作においては天子がゆかりんをなんとかする話が大半なように思われますが、今作は珍しくゆかりんが天子を何とかする話でしたね。互いが互いを救い得る、やはりゆかてんは真理なのでは……?
ふたりとも幸せになって……。
誤字脱字が気になったので報告しておきます。間違ってたらすみません
見渡される→見渡せる 苛まされ→苛まれ
突きの姫→月の姫 怖いからだ→怖いからだ。
だが紫それを→だが紫がそれを するに釣れ→するにつれ
剣の何→剣の名に 上がらないを→上がらないことを
さっちの煮干し→さっきの煮干し 商店ある→商店のある
押し出され血→押し出された血 はずダメージ→はずのダメージ
面向かって→面と向かって
ゆかてんの無限の広がりに期待がかかる
>「私の元来の能力は知ってるでしょ、大地を扱う比那名居家の力と天候をも左右できる緋想の剣、そして私の才気を合わせれば無敵だと思っただよ無敵だと思っただけよ」
>ちょっと前に、初めて合った仲なのに、
大げさかもしれませんが感動しました。よいゆかてんでした。
今回の作品も大変楽しませていただきました!
不器用な二人が交流を通じて、互いに影響し合い、少しずつ良い方向へ変わっていく様がさり気なく、極自然な描写で書かれていて良かったです。特に臆病者だった紫の変化が著しくて、藍の前でうっかり恋する女の子的な発言をする所など本当に微笑ましい。なんだこのゆかりん可愛いぞ!
それに天子と紫を取り巻く、脇を固める登場人物達も思いやりと理解に溢れていて良いですね。あとやはり、源五郎少年と飼い猫のミカが素晴らしい。天子と紫、源五郎とミカ、それぞれの関係性が類似していて、物語の中でリフレインするように響く構成がとても良かったです
最後まで読んで良かったと思える良作であり、こういう風な二人だからこそ惹かれあったのだと思える、とても良いゆかてん作品でありました!
描写がわかりやすくて細かいところまで丁寧だけど、スピード感があって映画みたいに映像が浮かびました。
天子強いですね!
憑依華で確立した人類全員から気質を吸い上げられる設定のおかげか、天子の強さが今までよりだいぶブーストされてて素で紫と渡り合う姿が見れるようになって嬉しいです。
それにしても天子はゆかりちゃんのこと遠慮なく殴りすぎ、乙女の柔肌に傷を付けて、これは責任を取らなきゃいけないと思います
面白かったです。
「緋想の剣で気質をエンチャトしてるだけでしょうが成り上がりが」
エンチャト→エンチャント
まったく自分の行動が理解不要だ。
理解不要→理解不能
神出鬼没なのはお前だった同じだろ。
お前だった→お前だって
天子は無言で行くの前を通り過ぎた。
行く→衣玖
夢天子、いい子ですよねえ…。
真っ直ぐな心故に心を血まみれにして突っ走る天子ちゃんが、紫さんとの戦闘で思い切り苦悩をぶちまけるシーンにグッときました。
なんだかんだ似た者同士の二人、互いの痛いところぶち抜き合ってぶつかり合ってボロボロになって苦しみ抜いて繋がるゆかてんマジちゅっちゅ
紫の弱さと強さ、幻想郷への想いにもグッとしました。
これが読みたかったんだよと声を大にして言いたい。
互いが無意識に抱いていた「恵まれやがって!」感からのむき出しになるのろけ愛!(殴り合い)これをゆかてんと言わずしてなんと呼ぶ!(A:ゆかてん)
どこまでも天人でありたかった子供心に賢者としてではなく妖怪の性を剥き出しにしてぶつかり合った紫だけれど、終わってみればなんてことのないいつもどおりの彼女がいて、持てる力のすべてを感情に乗せた子供の駄々を受け止めるゆかてんの黄金比(?)だった……
会話をはじめ情景が浮かびやすいバトル描写とテンポのよさに引っ張られるままするすると読み進められて、話の核となるふたりはもちろん取り巻くキャラたちが活き活きと描かれていて楽しい
母親の死を引きずっていた天子ちゃんだけどその志しは王道で、間違った道に進みかけたら全力で正してくれるパートナー(←※)を見つけた彼女なら、いつかは天界を変えて、本当の理想郷を作れるかもしれませんね
今回も素晴らしいゆかてんで楽しめました、ありがとうございました
誤字脱字報告かもしれません↓
普段の態度に問題がある天子だが、食事を楽しむその姿は愛らしくで、→愛らしく?
それによって相手の弱点を突ける特製は強力だが、→特性
こんなものはただえのエゴに過ぎない、→ただのエゴ
萃香は言うだけ言うと、浮かべ上がって自らの存在を霧散させ始めた。→浮かび上がって?
次々と零れ落ちつ後悔の念。→零れ落ちる?
美しい羽衣が遠のいて行くのを見て、残された紫は再びスキマに見を潜ませた。→身を潜ませた
「天界は要石を天の大地として出来た世界だ。手始めの今の天界を打ち砕き、何もなくなった世界に再び要石を作り新しい天界にしてやる」→手始めに?
「だけど天界のやつらみたいにいはなれなかった。あいつらみたいに、本心から地上を見下せれば楽だったのに、それすらできなかった!」→やつらみたいには
本当は、父みたいに生きられれば良いのにと思ったが何度もある。→思ったことが?
言葉を探す、この走り続けて少女の助けになる言葉は何か――いや違う、助けたいんじゃないんだ。→走り続けた?
以上です
(※)の部分はテストに出ます
あんたみたいに立派なオトナになりたかった
このひと言が心に刺さりました
憑依華における天子の心情、天界と地上への感情、そして紫との関係性をここまで作品で表現できるとは……。
悩んでぶつかった天子が、最後には紫とも幻想郷とも和解して、一緒に歩いて行けるようになったのは胸が暖かくなりました。
きっと原作の世界においても、時間がかかったり、相手が紫ではないかもしれないけど、いつか幻想郷で心から楽しく生きていけるようになるよね、と思わせられました。
……それはそれとしてゆかてんは最高ですね。最後のあたり、ずっとニヤニヤしながら読んでました。ゆかてん、ゆかてん。
ゆかてんも良かったけど天子と紫苑がいい感じの友達がとても良かったです。
疾走感のあるタイトルに相応しい、最後までノンストップのエネルギーに満ち溢れた素晴らしい作品でした。
是が非でも、天子を、紫を描き切ってやる! という半ば信念じみたものをひしひしと感じて、圧倒されまくりでした。
ドレミーさんをして「こんな純粋な精神は赤子レベル」と言わしめた天子の、どこまでも純粋でまっすぐな強さと危うさを魅力的なストーリーでもってして描かれていて、天子像がまた深まった気がします。そしてその反面、紫に関しては、私にとっての紫像が「超然としてて胡散臭い」というものだったこともあり、「臆病」と言われるのはピンと来てませんでしたが、紫のスキマ妖怪としての本質や原作でも垣間見せる、大妖怪のくせに人間性を捨てきれてないっぽい言動をうまく解釈してちゃんと1キャラとして魅力的に描き出されていて、ああこういうのもありなのか、とちょっと感動しました。
また、バトルシーンも凄かったです。
今までSSにおけるバトル描写ってあまり好きではなかったんですが、この天子と紫は、意志と意志のぶつかり合いが先にあって、それが極まった先にバトルが置かれていて、言わばバトルが言葉ではどうしようもなくなった激情の発露という形で描かれていて、「そうだよ、こういうバトルが読みたかったんだよ!」と勝手に胸を熱くしてました。スキマに隠れた紫の本質をついて緋想の剣で切り裂くシーンはすごい好き。あと、感情を吐露しながら切り掛る天子とか。
すごい作品を読ませてもらって、ありがとうございました。
■せっかくだから誤字っぽいところ
煮るなり焼くなり。
もし意図がある表現ならば無視してください。
「なんでもないできるからって良い気にならないでよね」
⇒ なんでもできるからって
ハフハフとしきりに息をついて熱さ逃しながら、恵みを噛み締めた。
⇒ 熱さを逃がしながら
周りに強くあたってばかりいるのは、自分に優しく出来ないからだ
⇒ 出来ないからだ。
しかし、こんな遅くまでなるとは思わっていなかった。
⇒ 思っていなかった。
湯気を立つお茶でいっぱいになっら湯呑みを見ながら、
⇒ 湯気が立つ? 湯気の立つ? もしくは、湯気を立てる?
⇒ いっぱいになった
振り始めだと言うのに雨粒は大きいが、
⇒ 降り始め
現の天子にその記憶はないし、完全憑依異変より以前に天界を追放してからずっと来ていなかった。
⇒ 追放されてから、でしょうか。天子目線だし
誰かの通り越していくのは何度目だろうかと考えながら。
⇒ 誰かを通り越して、あるいは誰かの前を通り越して?
父は羨望と憐憫を思い思いながら呟いた。
⇒ 羨望と憐憫を思いながら
せめてあと二十年、いやさ十年早く生まれて、
⇒ いや十年、かな?
地上では、今日にだって死んでいく者が入る。
⇒ 死んでいく者がいる、もしくは居る?
読んでいて紫と天子の似た者同士らしさというか、二人とも人が救われる世界を望みながら、自分の救いを投げ捨てている感じに気づけました。読んで良かった、ありがとうございます。
それぞれ人柄の良い天子の関係者達が物語に華を添える度に、様々な形で揺らめく命の灯火が天子の瞳に刻まれる度に、この歪みきったオーパーツに噛み合い互いを鎮められるのは一人だけだと確信するラストが一層輝いてくるのを感じました。バトルシーンの描写がとにかく丁寧かつ迫力があったのも印象的です。
このような作品を送り出してくれて本当にありがとうございます。