幻想郷には、二つの山があります。
一方の山は背が高く鬱蒼としていて、木や岩の陰などにたくさんの妖怪が住み着いていました。
そのため幻想郷の人達は、その山を妖怪の山と呼びました。
もう一方の山は人間が多く住む里に程近い場所にあり、妖怪の山よりもずっとずっと背が低く、山と言うよりは小高い丘といった感じでした。
その山に呼び名はありませんでしたが、山のてっぺんに博麗神社という神社があったので、みんな神社の山とか、霊夢ん所というように自由に呼んでいました。
今言った霊夢というのは、その神社にずっと一人で住んでいた巫女の名前です。
霊夢は幻想郷中で知らない人は居ない程の有名人で、神社にはいつも霊夢を慕う人たちが訪れていました。
そんな人気者の霊夢でしたが、霊夢自身はというと、訪れた人達には決まって冷たく当たり、何を話しかけても返事もろくにしませんでした。
いつ誰が訪れても霊夢はずっとそんな調子だったので、訪れる人達はその事をあまり気にせず、神社で好き勝手に騒いでは盛り上がって楽しんでいました。
今日もどうやら、まだ日が薄っすらとしか昇っていない様な早い時間から、誰かが霊夢の元へとやってきたようです。
「霊夢さん、新聞です」
朝もやで湿った羽を重くなびかせて、眠っている子供に話しかけるようにそっと霊夢に声をかけたのは、妖怪の山に住む天狗でした。
天狗は大事そうに抱えていた新聞を、霊夢の元へ静かに置きました。新聞は刷りたての様で、ほんのりとした温もりが紙にまだ残っていました。
「いつもは契約して頂いてない方にはお配りしていないのですが、今日は霊夢さんの事を沢山書いた新聞になったので、特別です」
笑みを含んだ顔でそれだけ言い残すと、天狗はそそくさと音も立てずに飛び去りました。
昇った太陽が朝もやを晴らし、目を覚ました小鳥達があちこちでさえずり始める時間になっても、霊夢がその新聞を開く事はありませんでした。
それからしばらくして、里の家々から昇る朝げの煙が見えなくなって久しい頃、また霊夢の元へ誰かがやってきました。
「やあ霊夢、挨拶ついでに飲みに来ちゃったよー」
お酒の臭いを撒き散らしながら千鳥足で霊夢の元へとやってきたのは、大きな二つの角を持つ小さな鬼でした。
鬼は霊夢の正面にどかりと座り込むと、立派なさかずきにお酒を酌んで、それを霊夢に差し出しました。
「まあ朝っぱらから酒なんてと思うかもしれないけどさ、今日ぐらいは一杯だけでも付き合ってくれるんじゃないかと思ってねえ」
意気揚々と手を伸ばし陽気に話しかける鬼でしたが、霊夢がそのさかずきを受け取ることはありませんでした。
しばらく静寂が続いた後、鬼は行き場をなくしたそのさかずきを引っ込めて、手の中で揺れる酒の輝きをしばらく見つめました。
そして鬼はニカッと笑ってから、その酒を一口で飲み干しました。
その後鬼は一人でお酒を煽りながら楽しそうに色んな話をべらべらと喋りました。
散々喋ってから、鬼はまた来るよと満足そうに言って、その場を後にしました。
霊夢は鬼の姿が見えなくなるまで、黙ってその背中を見送りました。
それからまたしばらく、昼下がりに吹く穏やかな風に乗って、また霊夢を尋ねる人がやってきました。
「よお霊夢、遊びに来てやったぜ」
年季の入った空を飛ぶほうきに跨ってやって来たのは、黒っぽい服装に大きなとんがり帽子をかぶった、人間の魔法使いでした。
「ま、遊びに来たって言うのは嘘で、頼まれてた物を届けに来ただけなんだけどな」
魔法使いは短くそう言うと、ほうきにくくり付けられていた包みを霊夢の傍らに置きます。
「じゃ、私はすぐに行くぜ。のんびりしたい所だけど中々忙しくてな」
魔法使いは踵を返して霊夢から離れると、再びほうきに跨がりその体を宙に浮かせます。しかし魔法使いは少し何かを考える様な素振りを見せて、すぐにその場に降りました。そして霊夢の元へと再び駆け寄り、先程置いた包みを解き始めます。
「一つだけもらってくぜ!」
包みの中には袋に入った米や、甘い香りのするお菓子等が沢山入っていて、魔法使いはその内から大きな饅頭を一つ抜き取り、即座にそれを咥えました。
じゃあなとくぐもった声をかけながら、魔法使いは逃げる様にその場を後にしました。
霊夢はそれに怒る事も無く、黙ってそれを見送りました。
それからまた時間が過ぎ、高くあったはずの太陽が妖怪の山の裾に隠れ始め、青かった空が橙色に染まり始めた頃に、またも誰かが霊夢を尋ねて来ました。
「こんにちは、霊夢さん」
沢山の食材が入った買い物袋を提げ、ふわふわと浮く白い幽霊と共に霊夢を尋ねたのは、冥界の屋敷に仕える半人半霊でした。
「幽々子様がどうしてもと言うので、買い物ついでですが手紙を届けに来ました」
そう言って半人半霊は、透き通るような淡い色彩の紙に、達筆な字で宛名が書かれた一封の手紙を、霊夢の傍へ置きました。
「ちゃんと読んであげて下さいね。そして気が向いたら是非白玉楼にいらして下さい。幽々子様、久しぶりに霊夢さんに会いたいと言って寂しがってましたから。あ、でも来られる時はちゃんと事前に連絡してくださいね。沢山のご馳走でおもてなししたいですし、何より突然だと準備をする私が大変な目に遭いますから」
てへっと舌を出しながらそう言って、半人半霊はその場を後にしました。
霊夢はその背中を黙って見送ります。そしてやはり、霊夢が置かれたその手紙を開く事はありませんでした。
やがて完全に日が沈み、空も地上も真っ暗になりました。
そんな時間になれば流石に霊夢を尋ねる人の数はめっきり減るはずなのですが、この日は霊夢を尋ねて来る人の姿が後をたちませんでした。その数は減るどころか、昼間よりもうんと増えました。
妖精や妖怪、吸血鬼に魔女。里や山から、竹林や地底から、冥界や天界から。
幻想郷に住むありとあらゆる人達が、次々と霊夢の元を訪れました。
そうしている内に、偶然はち合わせた何人かがその場で話に花を咲かせるようになり、次第にその数は増え、それぞれが持ち込んでいた食べ物やお酒が手から手と行き交う様になりました。そしてしまいには騒霊が音楽を奏でたり、山彦や夜雀が歌を歌い始めてしまったからもう大変です。
神社の山は一つの巨大な宴会場と化し、そこら中から騒がしい声が上がり始め、その騒がしい声は幻想郷の西の端にまで届きました。
そしてその声につられて、今度は里の方からもどんちゃん騒ぎをする賑やかな声が上がり始めます。
山も里も、空も大地も、幻想郷そのものが、霊夢を囲んで大はしゃぎです。
肝心の霊夢自身はやはりその事に対して無関心な様子でしたが、そんな事はお構いなしに、幻想郷中から上がる賑やかな声は夜遅くまで聞こえ続けました。
日付が変わって、それからかなりの時間が経った頃。
それまで聞こえていた騒がしい声は次第に小さくなり、霊夢の周りに居た人達の姿も無くなって、最後には何も聞こえなくなりました。
空虚の静寂に満たされた神社の山には、沢山の人達が置いていった、沢山の贈り物に囲まれた霊夢の姿がぽつんと残るばかりでした。
「やれやれ、やっと静かになったね」
空に浮かぶ星の瞬く音が聞こえてきそうな静寂を破って、ひどくしゃがれた年季の入った声が、神社の入り口の方から聞こえました。
「久しぶりだね霊夢。あんまり奴らが遅くまで騒ぐもんだから、ちょいと遅刻してしまったよ。もうこの体じゃ、酒が入ってハイになったあいつらに振り回されるのはしんどくてね」
そう言いながら霊夢の元へゆっくりと歩いて来たのは、まるで星のない夜そのものを纏ったかの様な、真っ黒な服に身を包んだ腰の曲がった一人の老婆でした。
老婆は霊夢の目の前まで近づくと、周りに積まれた贈り物の山をぐるりと眺めました。
「まったく、いつまで経っても人気者だね、お前さんは」
老婆は嬉しそうな顔をしながら言ったかと思うと、そのままその場にしゃがみ込み、次に服のポケットから一本の線香を取り出しました。そして不思議な力で線香の先に手を触れないまま火を着けてみせると、それを霊夢の目の前に置いて手を合わせました。
「もう何回目かね、博麗の巫女が居なくなった日を。お前さんの命日をこうやって迎えるのは」
老婆は少し寂しそうな声で、続けて話しかけます。
「随分と時間が過ぎたが、お前さんが自分の跡取りは置かないだなんて言って周りを困らせたのが、今でも昨日の事の様に思い出されるよ。自分が死んだって幻想郷も周りの奴らも何も変わったりはしない、新しい巫女なんて必要ない。だなんて、あの時はなんて薄情な奴なんだと思って、年甲斐もなく怒鳴ってしまったっけね」
そこまで言うと、老婆はふーっとため息をついて、悲しむ様な笑っている様な複雑な表情を浮かべながら空を見上げます。
「でも、本当にその通りだったよ。奴らはお前さんが居なくなってからも、変わらずお前さんを尋ねて楽しそうにしてる。気休めなんかじゃなくて、本当に楽しんでるんだ。悔しかったね。薄情に聞こえたあの時の台詞は、周りを心から愛していなきゃ言えない言葉で、周りに心から愛されていなければ実現できない事だったんだからね。私はその時それに気付けなかった、悔しいよ。そしてお前さんが言った通り、この幻想郷自身も変わらなかった。お前さんが、いや博麗の巫女が居なくなっても、幻想郷のバランスは崩れる事無く保たれたままだ。今でも尚、お前さんを中心に幻想郷が廻ってる証拠だね」
老婆は表情を今度は安堵したようにして、また溜め息をつきました。
「あ! やっぱりここだったか」
背後から突然聞こえて来たその声に驚いて、老婆は声がした方へと視線を移します。
視線の先には、昼間にもここを訪れていた黒っぽい服装にとんがり帽子をかぶった人間の魔法使いが、ほうきを片手に立っていました。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「それはこっちの台詞だぜ。里で騒いでから帰ってみたらベッドがもぬけの殻になってたもんだから、急いで探しに来たんだよ」
「心配症だね、まだボケて深夜徘徊する程年老いたつもりは無いよ」
「空を飛ぶ力ももう無いくせによく言うぜ」
「それはあんたにそのほうきを譲ってやったからだよ」
「はいはい、ではそのほうきに乗って大人しく帰りましょうね、魔理沙ばあちゃん」
「全く、相変わらず生意気な孫だね。私があんた位の頃はもっと素直で、おしとやかで可憐に女性らしく振る舞ったもんだよ」
魔法使いははいはいと適当に返事をしながらほうきにまたがって、自分のすぐ後ろのほうきの柄を叩いて老婆を催促します。
老婆はぶつぶつと文句を言いながらもそれに従って、魔法使いのすぐ後ろに腰を落ち着けました。
「そういえば、あんたに昼間お願いしといたお供えの包みね、他のお供えに比べて妙に荒らされていた様だったんだけど、何か心当たりは無いかい?」
「…………知らないぜ」
「次の異変解決のお駄賃は減額だね」
「食べてないって!」
「おかしいね、私は荒されたとは言ったが、食べられただなんて言ってないんだけど」
「あ……」
「さて、早い所帰ろうかね。あんまり騒ぐと霊夢のばあさんが甦って怒鳴って来そうだよ」
したり顔をする老婆を乗せ、魔法使いは力無くうなだれながらゆっくりとほうきを宙に浮かせました。
飛び去る二人の背中を色を変え始めた空の明かりが照らし始め、先ほどまで二人の居た神社の敷地では、沢山のお供えに囲まれた一つのお墓が、二人の姿をずっと見届ける様にして、ただ静かに佇んでいました。
> 「全く、相変わらず生意気な孫だね。私があんた位の頃はもっと素直で、おしとやかで可憐に女性らしく振る舞ったもんだよ」
魔理沙はしれっとこういうこと言いそう。
そのお陰か、前半部分の積み重ねが後半の展開を大いに盛り上げ、実にお見事な構成になっていると感じました
あと魔理沙と孫の何気ない会話から
時が過ぎて世代が変わっても、幻想郷は相変わらずであることが読み取れて
大変に良かったです!
素晴らしい愛されいむ作品で御座いました!
そんな人生を送りたいですね。
良いお話でした。
序盤のミスリードもよかった
霊夢の死後という点も個人的に大好きです。
心憂さが無いようで在るような、不思議です
霊夢の後代がいなくても、残された者達(妖怪含)が霊夢の代わりになっている、というのは奇妙だけどとても素敵
愛の感じられる離別ものとして、とても綺麗にまとまっていました。途中で「あ……」ってなっても飽きさせずに読み進めさせられる描写の丁寧さに感服です。
霊夢は死んでもなお皆の心を支え続けているのだと思えて不思議に温かい気持ちになりました
これはこれで完成されていると思いますが個人的な好みを申し上げるとすれば、各個人が訪れるシーンに「笑い」を取り入れて欲しかったとも思います。
将来どうなっているか、というのを創作するのは創作の楽しみの一つだと思いますが、個人的には魔理沙が本当に人間のおばあちゃんになているのか気になるところですね。