甘く、少したるい液体が舌の上を転がった。厚手の陶器と冷えた皮膚の間で、そろりと熱が柔和した。
◆
年の瀬、地底にも雪が降った。
降雪の予報は、気象読みの上手い妖怪によれば、旧都の端から地底の入り口まで。地上からの湿った寒風が縦穴でさらに冷やされて、地底の天蓋近くに雪雲をつくるのだという。旧都の目抜き通りで、紙切れをばらまきながら喧伝していた。
予報通りになった。
昨夜、私の住むあばら屋を揺らしたあの風が、雲を運んできたのだろう。起床して布団から這いだしたとたん、身震いをした。外へでてみればすべてが白に染まっていた。地底の端まで、一面の雪。無論、私の橋も雪に覆われていることだろう。見回りにいかなければならない。
積雪を見たのは久しぶりだった。以前見たのは、確か一昨年の今頃か。千年守られた地上と地下の不可侵条約が帳消しになって、すでに二年がたっていた。地霊殿の不手際、巫女と魔法遣いの訪問、山の神の顕現。物好きな土蜘蛛が我先に外へと足をのばし、多くの妖怪がそれに続いた。逆もまたしかり、妖怪と人間の訪問者が増え、渡るものの途絶えた橋に、渡るものが現れた。来訪と外出の足音が、橋桁に軽く響いた。
鬼火の冷光を反射して、青い陰を地面に落とす雪の絨毯。欄干と、橋桁と上面に敷かれていた。風はなかったらしい。降り積もる雪はしんしんと落ちるばかりで、横面まで雪に包まれてはいなかった。
白いため息をついて、私は雪かきの道具をとりに、物置に引き返した。
「せいがでるね。パルスィ」
橋を傷つけないよう、浅い雪に慎重にシャベルを突き立てていたところで、声をかけられた。ここ二年で、よく聞くようになった声だ。
「勇儀さん」
振り返ると、鬼の首領がそこにいた。星熊勇儀。地底開通以来、よく橋を通るようになった。橋を渡る姿はいつも赤ら顔で、素面の所を見たことがない。なんでもわざわざ人里まで梯子飲みに行っているのだとか。
いつも履き物は高下駄で、彼女が橋を訪れるときは音ですぐわかるが、来訪の音は今日の雪に埋もれたらしい。彼女はすぐ後ろにまできていた。
「今日も外で飲むんですか」
「ん? いやあ、そうじゃないんだ。用事はここにある」
ここ。普段着の半袖一枚の勇儀が指さしたのは、絶賛雪かき中の私の橋だった。いつの間にか、彼女は私のものよりも一回りも大きいシャベルを手に携えている。旧都を振り返って、
「旧都の方はそれなりに降ってね。木造の家屋がつぶれるといけないから、雪かきを手伝ってるんだよ」
私があばら屋の雪下ろしをすませる間に、旧都全域の雪かきをすませてきたのか。半分酔った状態で。だとしたら恐ろしい膂力だ。
「せっかく端っこまできたし、お姫さんも困ってたら手伝おうと思ってさ」
「そんな、悪いわ」
「いいからいいから」
私はこっちからやるねと、上機嫌の勇儀は縦穴側に向かった。着くが早いか、シャベルを雪に突き立て始めている。
馬鹿力だから、強く入れすぎて橋を壊しはしないかと心配したが、さすがというか、手慣れていた。一連の作業を見物してから、私は安心して自分の足下に向き合った。
雪をめくって、てこで押し上げ、川に捨てた。雪が流れに解かされて、白はすぐに色を無くした。粒子を鋤く音と、重い水音が、何度も繰り返された。時には会話も。
今年ももう終わりだね。反物屋の主人が足を滑らせていた。
地霊殿では暖房をあげて雪を溶かすんだとか。火の鳥がいるところは便利ね。
欄干から雪を落としきるころにはずいぶん遅くなった。
「ありがとう、これだけやれば十分よ」
「そうかい? もっと豪快にできればよかったんだけどね」
「橋を壊したら元も子もないでしょ」
「それはそうだけど」
勇儀がショベルを肩に、ほうと天蓋を見上げた。鬼火の光は夜に向けて冷ややかさを増していた。白い息が吹き下ろす風にかき消えて、雪が舞い上がった。外套の隙間から入り込んで、熱をめくった。
上気した息に熱がこもる。火照る熱気と、皮膚一枚を挟んだ外気の冷温の差に、思わず手を擦りあわせた。酔いも少し醒めたのか、勇儀も肩をさすっている。
思えば彼女は半袖一枚だ。朝から運動していれば、汗も冷える。酒が入っていたならなおさら。出ずっぱりで動ける体力は妬ましいけれど、その労に報えるようなお礼はしたい。
「勇儀さん、ココア飲みませんか?」
「ここあ?」
初めて耳にする飲み物の名に、勇儀は惚けたようにを口を開いた。口に合わせて、息が白く染まった。
◆
橋の横に、橋守の詰め所がある。かつての地獄が運営されていた頃は、複数人が橋守をしていたらしく、その待機所として運用されていたようだ。今は私が、寒さしのぎの休憩所として時折利用していた。
「おじゃまします」
「狭いけどゆっくりして」
四畳半すらない掘っ建て小屋に、灯油ストーブと、オイルランプ。
軋んだボタンを何度か押し込めば、火花が何度か散った後に、発火とともに青い炎が宿った。勇儀がバケツで救った新雪を、やかんに入れてストーブの上に置いた。
二人で万年床に腰掛けた。ストーブの透明な赤い光が、冷えた肌にじんわりと響く。
「そういえば今日は誰も通らなかったね」
「こんな雪の日じゃ、みんな自分のことで忙しいんじゃない」
雪かき中、新雪に足跡を残したのは私たちだけだった。だからこそ、わざわざ手伝いにきてくれた彼女を酔狂だと思う。
「そりゃあ、いつも酔ってるし」
「一度でいいから素面で会いに来てくれませんか」
「ふむ、どっちでも変わらないと思うけどね」
そんなことはない。少なくとも私は。
やかんが息を吹き始めた。気が付けば、部屋の湿度が上がっていた。不揃いのマグカップを二つと地霊殿で譲ってもらった瓶入りの粉を戸棚から出した。
匙で一杯、二杯。砂糖はたくさん。粉を混ぜながら、湯気を噴いて暴れるやかんから、慎重にお湯をそそぎ入れた。カカオの香りが立ち上る。
とってまで熱いカップを、勇儀に差し出す。彼女はおっかなびっくりで、それを手に取った。
座って、一口。甘さと熱さが、体を温める。
私に習って、隣の鬼がココアをすすった。見上げた表情は渋かった。どちらかと言えば辛党の彼女だ。カカオと砂糖の鈍重な甘さは、気にくわないだろう。
だけど、それでいい。酒精や酔い、喧嘩に体を任せなくても、体を温められる方法を知ってほしかった。
無理して飲まなくてもいいわよと揶揄えば、せっかくパルスィが作ってくれたのだしと、彼女は再びマグカップを呷った。
「すこし、甘すぎるね」
「次はお酒抜いてから、きてくださいね」
カップ越しに覗くのは、苦笑い。
素面で飲むココアは、きっと程良く甘い。
◆
年の瀬、地底にも雪が降った。
降雪の予報は、気象読みの上手い妖怪によれば、旧都の端から地底の入り口まで。地上からの湿った寒風が縦穴でさらに冷やされて、地底の天蓋近くに雪雲をつくるのだという。旧都の目抜き通りで、紙切れをばらまきながら喧伝していた。
予報通りになった。
昨夜、私の住むあばら屋を揺らしたあの風が、雲を運んできたのだろう。起床して布団から這いだしたとたん、身震いをした。外へでてみればすべてが白に染まっていた。地底の端まで、一面の雪。無論、私の橋も雪に覆われていることだろう。見回りにいかなければならない。
積雪を見たのは久しぶりだった。以前見たのは、確か一昨年の今頃か。千年守られた地上と地下の不可侵条約が帳消しになって、すでに二年がたっていた。地霊殿の不手際、巫女と魔法遣いの訪問、山の神の顕現。物好きな土蜘蛛が我先に外へと足をのばし、多くの妖怪がそれに続いた。逆もまたしかり、妖怪と人間の訪問者が増え、渡るものの途絶えた橋に、渡るものが現れた。来訪と外出の足音が、橋桁に軽く響いた。
鬼火の冷光を反射して、青い陰を地面に落とす雪の絨毯。欄干と、橋桁と上面に敷かれていた。風はなかったらしい。降り積もる雪はしんしんと落ちるばかりで、横面まで雪に包まれてはいなかった。
白いため息をついて、私は雪かきの道具をとりに、物置に引き返した。
「せいがでるね。パルスィ」
橋を傷つけないよう、浅い雪に慎重にシャベルを突き立てていたところで、声をかけられた。ここ二年で、よく聞くようになった声だ。
「勇儀さん」
振り返ると、鬼の首領がそこにいた。星熊勇儀。地底開通以来、よく橋を通るようになった。橋を渡る姿はいつも赤ら顔で、素面の所を見たことがない。なんでもわざわざ人里まで梯子飲みに行っているのだとか。
いつも履き物は高下駄で、彼女が橋を訪れるときは音ですぐわかるが、来訪の音は今日の雪に埋もれたらしい。彼女はすぐ後ろにまできていた。
「今日も外で飲むんですか」
「ん? いやあ、そうじゃないんだ。用事はここにある」
ここ。普段着の半袖一枚の勇儀が指さしたのは、絶賛雪かき中の私の橋だった。いつの間にか、彼女は私のものよりも一回りも大きいシャベルを手に携えている。旧都を振り返って、
「旧都の方はそれなりに降ってね。木造の家屋がつぶれるといけないから、雪かきを手伝ってるんだよ」
私があばら屋の雪下ろしをすませる間に、旧都全域の雪かきをすませてきたのか。半分酔った状態で。だとしたら恐ろしい膂力だ。
「せっかく端っこまできたし、お姫さんも困ってたら手伝おうと思ってさ」
「そんな、悪いわ」
「いいからいいから」
私はこっちからやるねと、上機嫌の勇儀は縦穴側に向かった。着くが早いか、シャベルを雪に突き立て始めている。
馬鹿力だから、強く入れすぎて橋を壊しはしないかと心配したが、さすがというか、手慣れていた。一連の作業を見物してから、私は安心して自分の足下に向き合った。
雪をめくって、てこで押し上げ、川に捨てた。雪が流れに解かされて、白はすぐに色を無くした。粒子を鋤く音と、重い水音が、何度も繰り返された。時には会話も。
今年ももう終わりだね。反物屋の主人が足を滑らせていた。
地霊殿では暖房をあげて雪を溶かすんだとか。火の鳥がいるところは便利ね。
欄干から雪を落としきるころにはずいぶん遅くなった。
「ありがとう、これだけやれば十分よ」
「そうかい? もっと豪快にできればよかったんだけどね」
「橋を壊したら元も子もないでしょ」
「それはそうだけど」
勇儀がショベルを肩に、ほうと天蓋を見上げた。鬼火の光は夜に向けて冷ややかさを増していた。白い息が吹き下ろす風にかき消えて、雪が舞い上がった。外套の隙間から入り込んで、熱をめくった。
上気した息に熱がこもる。火照る熱気と、皮膚一枚を挟んだ外気の冷温の差に、思わず手を擦りあわせた。酔いも少し醒めたのか、勇儀も肩をさすっている。
思えば彼女は半袖一枚だ。朝から運動していれば、汗も冷える。酒が入っていたならなおさら。出ずっぱりで動ける体力は妬ましいけれど、その労に報えるようなお礼はしたい。
「勇儀さん、ココア飲みませんか?」
「ここあ?」
初めて耳にする飲み物の名に、勇儀は惚けたようにを口を開いた。口に合わせて、息が白く染まった。
◆
橋の横に、橋守の詰め所がある。かつての地獄が運営されていた頃は、複数人が橋守をしていたらしく、その待機所として運用されていたようだ。今は私が、寒さしのぎの休憩所として時折利用していた。
「おじゃまします」
「狭いけどゆっくりして」
四畳半すらない掘っ建て小屋に、灯油ストーブと、オイルランプ。
軋んだボタンを何度か押し込めば、火花が何度か散った後に、発火とともに青い炎が宿った。勇儀がバケツで救った新雪を、やかんに入れてストーブの上に置いた。
二人で万年床に腰掛けた。ストーブの透明な赤い光が、冷えた肌にじんわりと響く。
「そういえば今日は誰も通らなかったね」
「こんな雪の日じゃ、みんな自分のことで忙しいんじゃない」
雪かき中、新雪に足跡を残したのは私たちだけだった。だからこそ、わざわざ手伝いにきてくれた彼女を酔狂だと思う。
「そりゃあ、いつも酔ってるし」
「一度でいいから素面で会いに来てくれませんか」
「ふむ、どっちでも変わらないと思うけどね」
そんなことはない。少なくとも私は。
やかんが息を吹き始めた。気が付けば、部屋の湿度が上がっていた。不揃いのマグカップを二つと地霊殿で譲ってもらった瓶入りの粉を戸棚から出した。
匙で一杯、二杯。砂糖はたくさん。粉を混ぜながら、湯気を噴いて暴れるやかんから、慎重にお湯をそそぎ入れた。カカオの香りが立ち上る。
とってまで熱いカップを、勇儀に差し出す。彼女はおっかなびっくりで、それを手に取った。
座って、一口。甘さと熱さが、体を温める。
私に習って、隣の鬼がココアをすすった。見上げた表情は渋かった。どちらかと言えば辛党の彼女だ。カカオと砂糖の鈍重な甘さは、気にくわないだろう。
だけど、それでいい。酒精や酔い、喧嘩に体を任せなくても、体を温められる方法を知ってほしかった。
無理して飲まなくてもいいわよと揶揄えば、せっかくパルスィが作ってくれたのだしと、彼女は再びマグカップを呷った。
「すこし、甘すぎるね」
「次はお酒抜いてから、きてくださいね」
カップ越しに覗くのは、苦笑い。
素面で飲むココアは、きっと程良く甘い。
砂糖なんかいらねえくらいの甘さでほっこりしました。
怠惰氏の作品は全てが儚く美しい
見習いたいです
しおらしく奥ゆかしいパルスィという、勇パルではあまり他に類を見ないタイプですね。短いながらも、作者さんの柔らかいタッチで描き出される二人のやり取りが、温かくて心に沁みます。
二人で同じ作業に没頭する時間は良いものですよね。
甘くて暖かくて、ほんのり優しい気持ちになれる、そんなお話でした
というか、このふたり
これもう完全に夫婦ですよね
>欄干から雪を落としきるころにはずいぶん遅くなった。
パルスィと話しながらの雪掻きが愉しくて、ついついゆっくりになったのに違いありません。勇儀のデレッ振りが良く分かります。