霧の湖。その名の通り昼間には霧が立ち、神秘的だがどうじに霧の向こうから何が現れるかわからず、里の人間からは恐れられている場所だ。
しかし今日は運が良いことに日が高いころなのに霧は薄く、近くに立つ紅い館が対岸からでもよく見える。
そんな明るくも湿った空気の中で、透き通った朗らかな声が空気を揺らした。
「はい、私の勝ち。残念だったわね妖精さん」
湖のほとりに立った声の主が、差した日傘をクルクルと回した。上空から力無く落ちてきた氷の欠片が、傘に弾かれ散っていく。
彼女の名前は八雲紫、識者のあいだでは名の知れた大妖怪だ。
最近、日課になった散歩の途中だった彼女の前で、この辺りでよく遊んでいる妖精のチルノがもんどり打って倒れた。
「うぎゃあー! あとちょっとだったのにー!」
「ふふ、惜しかったわね」
紫が余裕そうに、チルノへ微笑みかける。
チルノは自分が出した冷気の残骸に振られながら悔しそうに腕を振り回した。
見境ないこの妖精は、湖の周りを歩いていた紫に勝負を挑み、そしてやはり敗北したのだ。
チルノの方はいつものことだが、紫を知る者は彼女が勝負を受けた事実を驚く者が多いだろう。
少し前の紫なら戦いを申し込まれたところで、必要なとき以外ははぐらかして逃げただろうに。
二人の勝負に決着が付いたと見るや、近くの木に隠れていた大妖精が顔を出した。
虫のような羽をパタパタさせて、地面の上で倒れてもがくチルノに駆け寄る。
「チルノちゃん大丈夫? 怪我ない?」
「このくらいへっちゃらだい。最強の私を倒すなんて……お姉さんやるね!」
「あなたにそう言ってもらえるなら光栄だわ」
大妖精に支えられるチルノへ、紫がそっと手を差し出した。
絹のような繊細な手を、ぷにぷにした子供の手が取り、紫はチルノの小さな体を引き起こした。
傍から見ていた大妖精は、優しい人だなと思った。
戦いの後もそうだが、勝負の最中もチルノに合わせて手加減していたようだし、だからといって見下しているわけではなく、あくまで対等に勝負を楽しんでいた。
嫌味がなく、肩の力を抜いていて自然体で、こんな妖怪もいるんだなあと、大妖精は内心驚く気持ちだった。
「よーし、もう一回!」
「ちょっとチルノちゃん、もう止めなよ」
「ふふ、良いのよ別に、それくらい……いや、ごめんなさいね」
再戦を望むチルノにも紫は嫌な顔をしなかったが、眉をピクリとさせると二人から視線を外し空を仰ぎ見た。
「上客が来てしまったわ」
不思議に思った妖精たちが釣られて空を見てみると、青空にあった染みのようなものが広がるのが見えた。
いや染みではない、よく見てみればそれは岩石で、刻一刻と近付いてくる。
あれは落ちて来てるんだ。正体に気が付いた時には岩石は地上のすぐ近くにまで接近してきており、「あっ」と声を出す暇もなく、三人の近くの地面に激突した。
爆発でも起こったような音とともに土砂が巻き上げられ、岩石を中心として放射状に降り注いだ。
土砂を前に慌てて逃げ出そうとする妖精たちの前に、紫が持っていた日傘を差して、妖精たちが土まみれになるのを防ぐ。
その代わり、紫は顔のあたりを空いた腕で防ぐだけで、綺麗な金髪が土埃だらけになった。
「アッハハハハー! 私に内緒でなに面白そうなことやってるのよ紫!」
土煙に紛れて、落下してきた岩石の上に乗った何者かが声を上げる。
妖精たちが呆気に取られていると、前口上を聞く間もなく紫が傘をスキマにしまって走り出した。
「私の目が黒いうちは、こっそり楽しませたりなんかさせな――へっ?」
煙の中から現れた岩に立つ少女が、突っ込んでくる紫を見て目を点にする。
走る紫はそのままその少女――比那名居天子に目掛けて飛び上がった。
「髪が汚れたわアホ娘がー!」
「あぎゃあー!?」
そして見事なドロップキックが天子に顔面に炸裂した。
乗っていた要石から蹴り落とされた天子に、すぐさま紫が接近し、手足を絡ませ関節技を決める。
俗に言うコブラツイストだ。
「あなたは! 迷惑だからその無駄にカッコつけたダイナミック登場シーン止めなさいって言ってるでしょーが!」
「いだ! いだだだだだ! 紫、タンマタンマ!! 痛いって! 良いじゃないの、せっかく出てくるんならインパクトないと!」
「黙りなさいこの構ってちゃんが! そんなに目立ちたきゃ裸で盆踊りでもしてなさい!」
「それじゃただの変態グギャーッ!」
くんずほぐれつ言い争う妖怪と天人に、妖精たちは置いて行かれてぽかんと口を開いている。
とりあえず、この二人の仲がいいというのはなんとなくわかった。
本気で怒っていないのに、こうやって思いっきり怒鳴り合えるのがその証拠だ。
「ぐっ……緋想の剣!」
関節を決められっぱなしだった天子が、自由な手で愛用の武器の柄を掴むと、気質の刃を作り出した。刀身を地面に突き立てて、地中で気質を爆発させた。
刺激を受けた地面が尖状に隆起する。音を立てて荒れ狂う足場に紫も身体をぐらつかせてしまい、天子はその隙を見て拘束から脱出する。
桃の付いた帽子を押さえて紫から距離を取ると気を取り直し、右手に持った剣をゆっくり頭上に構えた。
「くうっ! 出鼻をくじかれたけど、私らが揃ったならやることは一つよ」
「また相変わらずバカの一つ覚えに」
「莫迦でけっこう!」
掲げられた緋想の剣が陽射しを浴び、何千年も地中で育った宝石のように緋く煌めき、揺らめく刀身は誇るように勢いを強める。
剣から感じられる力を確認した天子は、両手で剣を持ち直し、紫へと剣先を突きつけた。
「遊びましょうよ紫!」
「大ちゃん、なんか始まっちゃったぞ」
「とりあえず見てからにしよっか」
物見の態勢に入った妖精たちが、野の上に膝を抱えて座り込む。
ギャラリーに見守られながら、紫は汚れた髪の毛をかきあげると、運動エネルギーと摩擦の境界として摩擦係数を弄り、髪から砂を払い落とした。
「なんだ、簡単に取れるんじゃないのよ」
「うるさい、一瞬でも汚れたことは確かよ」
手元にスキマを開き、再度日傘を手に取った。
「まあ仕方ないわね。出逢えば死合うしかないというのは、私も同意」
閉じた傘を引きずり出した紫は、先端を天高くに向けて柄本のボタンを押し込んだ。
音を立てて広げられた傘が、薄紅色の幕で高い陽射しを遮り、影を作る。
暗くなった顔をわずかに上げて口を開いた。
「――だから、藍」
「はい、紫様。ご随意に」
同時に、それまでまったく気配を見せなかった九尾が、いつのまにか妖精たちの背後にいて、童のまん丸目玉を手で塞いだ。
「わっなにすんの!?」
「え、えっ!?」
「そのままよ藍。見れば、毒になる」
慌てた妖精たちが抵抗し、手の甲を爪で引っ掻いたりしたが、藍には大して効いていないようで目隠しを続ける。
童が見ぬ間に、紫は上げた顔から天子を見下しながら、細長い指先で頬をついとなぞる。
その妖美な仕草に、何か危機感を感じて天子が眉を締める。
「さあて、性懲りもなく私に立ち向かおうとする邪魔なニンゲンは――壊しちゃおうか」
途端に、それまでの温厚さは消え去り、紫の眼が獰猛な蛇の如く見開かれ、押さえ込んでいた獣性が発現した。
悪意を孕んで妖気が周囲を満たす。昏く肥大化するプレッシャーの中心で、不気味な眼光が忌諱するほど淫靡に煌めく。
放出された陰の気により気温まで低下する。紫が鋭く剥かれた歯の隙間から息を吐き出せば、白く煙って首筋に漂った。
単純な殺意とは一線を画する狂気。自由と尊厳を蹂躙し、踏みにじろうとする悪意の発露。大妖怪が垣間見せる悪性に天子は総毛立っていた。
さあどうだ、恐ろしいか。
ならば逃げろ、逃げてしまえ。闇夜に踏み込んだ凡庸な人間はみな、妖怪と出会った途端、その恐ろしさに身を竦ませ逃げ出す。
間抜けな声を上げ、情けなく逃げ出してみせろ。さあ、さあ――さあ!
期待する紫が眼をギラつかせる先で、天子は邪気に当てられ身を震わせている。
恐ろしい、それは恐ろしいとも。どんな剣を持とうとも関係ない、本能に根ざした暗闇への恐怖をこの妖怪は引きずり出してくる。
天子はひとしきり震え、冷えた肝を感じて――ニヤリと口端を吊り上げた。
「――――フフ」
声を出したのは紫の方だった。対する天子は応えるように、すり足で一歩距離を縮める。
あくまで天子は戦う気だ、紫では止められない……否、誰にもだ。
紫は釣られて笑い、悪意を滲ませたまま身体を沈ませ、そして駆け出した。同時に、天子もまた嬉々として駆ける。
持っていた日傘が閉じられ、妖力によりコーティングすると、槍のように先端を天子に向けて構えた。
両者は速度を落とさないまま急激に距離を詰め、衝突する直前に、挨拶代わりとばかりに手に持った得物を全力で打ち付けた。
剣と傘が真正面から激突する。
速度と膂力が相乗された凄まじいパワーの激突に、岩塊がぶつかりあったかのような重低音が広がり、風圧が周囲の草木を大きく揺らした。
普段からは考えられないほど前のめりな紫が睨みつけるものの、天子は一歩も引かずに剣を左手に持ち替えると、剣先を巧みに滑らせ紫の傘の先端を頭上に弾いた。
「そこお!」
間髪入れず、右の拳が紫に向かって振り抜かれる。天人の全力の殴打は、空気の壁を割って音速で差し迫る。
紫は近付いてくる拳をスローモーションのように眺めながら、歯を見せて笑い、躊躇なく自らの額を拳に叩きつけた。
再度起こった激突はまたもや重低音。岩のような肉体を持つ天子もこれには拳を痛めて、顔をしかめながら後ずさり。紫もまた、獰猛な笑みの下に苦痛を見せながら後ろへ跳んだ。
「うっわすごお!?」
いつのまにか目隠しが外されていたチルノが、守りを考えない攻撃の連打に感激して声を上げた。その隣では大妖精が、口元を隠しながらも勝負に見入っている。
ギャラリーが席を立って歓声を上げているのにも気づかず、熱中する二人は地面を踏み込んでまた構える。
紫は額から流れてきた血を舌で舐め取り、愉しそうな声を張り上げた。
「それで終わりかしら天子!?」
「ハッ! まさか! こっからその首切り飛ばしてやるわ、覚悟しなさい紫!」
「吠えたわね人の子が!」
挨拶も済み、対戦する二人は空中に飛び上がり、今度は弾幕による射撃戦に洒落込んだ。
手練手管を凝らし、様々な弾幕で翻弄する紫へと、天子が要石と気質を主体とした波状攻撃を織りなす。
華麗に宙を舞う二人は、相手の弾幕をかわして位置を入れ替えながらより高みへと登っていく。
かすった弾幕で服がボロボロになろうと気にも留めず、紫は精神を戦いの中に集中させた。
――耳を澄ます、風を切る音を感じる。入り乱れる弾幕が旋律を強め、大気が破裂する音が木霊する。
息を吸う、冷たい空気が身体を駆け巡るのを感じる。鼻腔に入ってきた土の匂いが、舌にまで伝わる。
かすった弾幕が肌を焦らす。とびっきりの一撃が骨を揺らして、飽きない痛みを脳が喰らう。
目を凝らす、風景は消え、弾幕と、対戦相手だけが映る。
感じる、感じる――感じる。
戦いの全てを、自分のすべてを、敵のすべてを。
眼球に蓄積される残像が飽和して、脳のメモリーをまたたくまに埋め尽くす。
時間が急激に加速していき、頭が真っ白になる。
そしてその先で思考が消える、五感が無になり身体だけが理性を脱ぎ捨てて無意識に動く。
加速した時間は一点に収束して停止し光が消える。
心は闇の中、誰かが戦っているのを遠くで感じてる。
私はただ暗闇にいて、目の前の亜空に立った彼女が、手を伸ばしてきた。
――――さあ、楽しみましょう
「えぇ、もちろんよ――」
覚悟が決まる。視界が開ける、世界が拓ける。
瞳に映るのは緋の世界、そこに紫色を混ぜ合わせてやる。彼女のすべてに、私のすべてが混ざり合う。
負けたくないという意地がある、けどそれだけじゃない。勝ちたいという欲がある、けどそれだけじゃない。
すべてを飲み込む根源的な欲求が、そばで私の肩を叩いてくれた。友も敵も、人生の何もかもがここにある。
なるほど、これなら寂しくない。
喜怒哀楽愛憎すべてをひっくるめて、私達は光のように駆けた。
◇ ◆ ◇
「私はね、天子に勝ちたかったのよ」
ある日、家で過ごしていた紫は、脈絡なくそう呟いた。同じ部屋にいるのは話に聞き入っている橙と、正座した藍が積まれた洗濯物を畳んでいた。
その不可思議な内容に橙は首を傾げる。紫様と天子が戦うのはいつものことだが、勝つのは決まって紫様の方なのに。
「えっ、でも紫様、いつも勝ってるじゃないですか」
「もちろん、勝負としてはね」
「どういうことですか?」
「ふふ、橙が妖怪として立派になったらきっとわかるわ」
自分から話し出しておいて、紫は答えをはぐらかして橙の頭を撫でた。
しかし橙は撫でられることよりも話の内容が気になって、紫の手から抜け出すと、話の間も手を動かしていた藍へと近付いた。
「えー、気になりますよ。藍様はわかります?」
「あぁ、そうだな……」
家事を一時中断した藍は、橙の質問には直接答えず、姿勢を正すと紫へと向き直った。
「紫様のお気持ちはわかりますとも。しかし共感はできません、あのおぞましさを楽しめるほど達観できておりません」
「あらもったいない……でも良かったわ、それなら藍に横取りされる心配はないわね」
少し突き放した家族の発言にも、紫は仕方がないとわかっていて無理に考えを説いたりはしなかった。
むしろコアな趣味を披露して優越感に浸るマニアのように、喜びを隠しきれず舌で唇の端を舐める。
「ご安心を、達観できたとしても紫様ほど悪趣味ではありませんので」
「酷いわ藍ったら、ゲテモノもいいものよ」
紫へのあてつけとばかりに、藍の毒舌が浴びせられた。
しかしかく言う紫はなんともないようでコロコロ笑っている。
「それで、結局どういうことですか?」
「私の口から言うのはちょっとな、橙が大人になればわかるさ」
「あっ! 大人になればってことは、もしかして床勝負とかそういう意味ですか!?」
大人な雰囲気を期待して目を輝かせて尋ねてくた橙、紫と藍は絶句した。
紫は耳をピコピコしている橙から目を離し、青い顔をしている藍に矛先を向けた。
「藍、あんたちょっとどういう教育してるのよ」
「ちがっ……橙、どこで覚えてきたんだそんなこと!?」
◇ ◆ ◇
「ぬっがぁー!! 負けたー! 悔しいーっ!!!」
敗北した天子が、草むらの上に背中から倒れ込むと、青空に両腕を向けて思いっきり振り回した。
妖精とそっくりな悔しがり方をする天人を見て、紫は軽く吹き出すと、傘を閉じて本気で悔しがる天子の隣に座り込んだ。
楽しい戦いだった、こうやって本気で心を高ぶらせられる相手は久しぶりだ。
それがこれから先、何度も味わえるとはなんて贅沢だろうか。
「残念、私に勝つのは千年早いわ」
「ふんだ、明日には逆転してやるわよ」
「生き急ぐわね」
「それくらいが性に合ってるのよ」
紫は、楽しみはゆっくりと味わうのが長く生きるコツよ、と言いかけて止めた。
そんなまだるっこしいことをしなくとも、天子なら問題ないだろう。
「よーし、いっくぞー! 大ちゃんくらえー!!」
「わわわ、ちょっとチルノちゃん手加減してよー!」
湖の上では、二人の戦いに感化された妖精たちが弾幕ごっこに興じている。
藍は「紫様の邪魔をして恨まれたくないのでこれで」と言って御暇した。紫もあれだけのために呼び出したのは悪い気がしたが、天子と全力でぶつかれたのだから後悔はしてない。
満足げな紫の隣で、天子が寝転んだまま顔だけ起き上がらせて、妖精たちのじゃれ合いを目で追っていた。楽しそうな悲鳴あげながら、大して効果的でもない弾幕をばらまいている。
勝ち負けに執着せず、ただ遊びを楽しむ姿は天子にとってある種の理想なんだろうと、紫は知っている。
紫とてあの姿に羨望を覚えたことはあるのだ。あれらは心を持つ命にとって、最後に目指す到達点と言って良いと思う。
「妖精はいつも気楽でいいわねぇ。自由に楽しんでてさ」
「あら、あなたがそれを言うの?」
だがぽつりと零された言葉に、紫が噛み付いた。
天子が隣を見上げてくるのに、紫は抱えた膝に頬をうずめて安らかな表情を浮かべると、流し目で問い掛けるような視線を投げかけた。
「私には、妖精よりも天子のほうが楽しんでるように見えるわよ」
違う? 紫がそう言外に尋ねると、天子は不意を突かれたみたいにぽかんとした後、すぐに勝ち気な表情で起き上がった。
「……へへっ、当然」
その明るい顔に、紫は満足して再び上空の弾幕を眺めた。
――天子は自分を真の強者だと思っている。
流石にその誇大妄想を自ら口にしたわけじゃないけれど、眼が、呼吸が、一挙一動が、光り輝く極光の剣が、その確信を物語ってくる。
私はこれと似た人間を知っている。傲慢な意志を胸にかざし、暗闇に踏み入る愚かな偉人たちにそっくりだ。
その愚かさこそが、不可能を可能とし、暗闇を照らし出して、そこに住まう我々を駆逐せしめたのだから。
自分を勝者だと思い込む天子の身勝手さに、私は嫌悪した。憎くて憎くて仕方なかった。
だから出会ってすぐに叩きのめした。その後も彼女が挑むたびに全力で打ちのめして、徹底的に敗北を叩き込んだ。
あらゆる攻撃をことごとく避けてみせた。荒れ狂う大地の上を軽やかに滑ってみせた。彼女が頼る剣の輝きを、真っ向から飲み込んでみせた。
けれど、結局のところ無駄だった。
彼女の前に敵はいない。
森羅万象のあらゆる苦痛苦難でさえ、自らに新たな境地を授けてくれる愛しき友でしかなかったのだから。
すべての敵と仲良くなれるなら、それこそ無敵だ。それこそ本当の強者と呼ぶにふさわしいと私は思う。
私は天子に勝てなかった。
妖怪はいつも損な役回りばっかり。
「私、あなたのこと大嫌いなのよ」
「へえ? ほーう……」
妖精たちのはしゃぐ声に掻き消されるかもと思ったが、私が本心を零したのを天子はしっかりキャッチした。嫌いと言われても特にショックも受けず、むしろ興味深げに頷いている。
顎を押さえて何か考え込んだ後、結論を出すと私に人差し指を突きつけてきた。
「つまり嫉妬ね!」
「違うわバカ」
吠える天子の額へ、お返しとばかりに扇子で突っついた。
侮蔑を込めて睨みつけてやると、案の定天子はケラケラと笑って前に向き直る。
生意気な彼女に、私としたことが舌打ちを鳴らして視線を戻した。
「でもそうかも」
ポロッと本音が溢れたのは、まあ仕方ないだろう。
隣から聞こえてきた息遣いが止まり、間近に視線を感じるけど見てはやらない。
嫌いで、疎ましくて、妬ましくて、羨ましくて、憎くて、愛おしい。
天子の隣りにいると、何もかもがある。
ここは、この場所は。
私が一番、世界のすべてを感じられる場所だった。
「終わったわね」
目の前で大妖精と呼ばれている方が撃ち落とされ、湖に落ちる寸前でチルノが友達を受け止めた。
さっきまで響いてた掛け声が静まり、途端に静寂が周囲に満ちる。
「そっか、それじゃ今度は私達の番ね」
天子が隣でそう言うと、草むらから立ち上がってお尻の砂を叩いた。
性懲りもなく始めようとする天子を、呆れた目で見つめる。
「あなたまたやる気?」
「ふーん、紫ったら私に負けるの怖いんだ」
「バカおっしゃい」
勝ててなくとも負けているとは認めない。
彼女が私に勝とうというのなら、私は常にその一歩先を行き見下してやる。
挑発に乗ってやる気が出てきた私に、天子が手を差し伸べた。
柔らかく小さな手。だけどとても熱くて、手の平にはたくさんのものが乗っているように思う。
私はその上から叩くように手を重ね、音を響かせながら手を取った。
「あなたに勝ちは譲らせない」
「上等よ、真正面から打ち克ってやるわ」
今日も私は天子と踊る。私と彼女が創り出した力が入り混じり、心地よい旋律を奏でる。
かろやかにステップを踏み、肺を満たす空気の鋭さを味わいながら、色彩が目まぐるしく変貌する世界を駆け抜ける。
彼女と同じく、何もかもを楽しみながら生きるために。
◇ ◆ ◇
私は孤独だった。
私みたいな在り方は特殊だ。普段仲良くしてくれるやつだって、私の本質を感じれば眉をひそめて距離を取る。
ようはやんちゃすぎるんだ、みんな私には付いてこれない。
誰にも本質を理解されなかった、真の意味での友はいなかった。
けど、今は違う。
私を受け入れて、そばに立ってくれるやつがいる。
思いっきり楽しんできた私だったけど、ここに来て、最後のピースが満たされた。
だから私は荒い息で大地に倒れ、敗北の倦怠感に包まれながら、満足げなあいつの顔を見上げて呟くのだ。
「あー、楽しい」
しかし今日は運が良いことに日が高いころなのに霧は薄く、近くに立つ紅い館が対岸からでもよく見える。
そんな明るくも湿った空気の中で、透き通った朗らかな声が空気を揺らした。
「はい、私の勝ち。残念だったわね妖精さん」
湖のほとりに立った声の主が、差した日傘をクルクルと回した。上空から力無く落ちてきた氷の欠片が、傘に弾かれ散っていく。
彼女の名前は八雲紫、識者のあいだでは名の知れた大妖怪だ。
最近、日課になった散歩の途中だった彼女の前で、この辺りでよく遊んでいる妖精のチルノがもんどり打って倒れた。
「うぎゃあー! あとちょっとだったのにー!」
「ふふ、惜しかったわね」
紫が余裕そうに、チルノへ微笑みかける。
チルノは自分が出した冷気の残骸に振られながら悔しそうに腕を振り回した。
見境ないこの妖精は、湖の周りを歩いていた紫に勝負を挑み、そしてやはり敗北したのだ。
チルノの方はいつものことだが、紫を知る者は彼女が勝負を受けた事実を驚く者が多いだろう。
少し前の紫なら戦いを申し込まれたところで、必要なとき以外ははぐらかして逃げただろうに。
二人の勝負に決着が付いたと見るや、近くの木に隠れていた大妖精が顔を出した。
虫のような羽をパタパタさせて、地面の上で倒れてもがくチルノに駆け寄る。
「チルノちゃん大丈夫? 怪我ない?」
「このくらいへっちゃらだい。最強の私を倒すなんて……お姉さんやるね!」
「あなたにそう言ってもらえるなら光栄だわ」
大妖精に支えられるチルノへ、紫がそっと手を差し出した。
絹のような繊細な手を、ぷにぷにした子供の手が取り、紫はチルノの小さな体を引き起こした。
傍から見ていた大妖精は、優しい人だなと思った。
戦いの後もそうだが、勝負の最中もチルノに合わせて手加減していたようだし、だからといって見下しているわけではなく、あくまで対等に勝負を楽しんでいた。
嫌味がなく、肩の力を抜いていて自然体で、こんな妖怪もいるんだなあと、大妖精は内心驚く気持ちだった。
「よーし、もう一回!」
「ちょっとチルノちゃん、もう止めなよ」
「ふふ、良いのよ別に、それくらい……いや、ごめんなさいね」
再戦を望むチルノにも紫は嫌な顔をしなかったが、眉をピクリとさせると二人から視線を外し空を仰ぎ見た。
「上客が来てしまったわ」
不思議に思った妖精たちが釣られて空を見てみると、青空にあった染みのようなものが広がるのが見えた。
いや染みではない、よく見てみればそれは岩石で、刻一刻と近付いてくる。
あれは落ちて来てるんだ。正体に気が付いた時には岩石は地上のすぐ近くにまで接近してきており、「あっ」と声を出す暇もなく、三人の近くの地面に激突した。
爆発でも起こったような音とともに土砂が巻き上げられ、岩石を中心として放射状に降り注いだ。
土砂を前に慌てて逃げ出そうとする妖精たちの前に、紫が持っていた日傘を差して、妖精たちが土まみれになるのを防ぐ。
その代わり、紫は顔のあたりを空いた腕で防ぐだけで、綺麗な金髪が土埃だらけになった。
「アッハハハハー! 私に内緒でなに面白そうなことやってるのよ紫!」
土煙に紛れて、落下してきた岩石の上に乗った何者かが声を上げる。
妖精たちが呆気に取られていると、前口上を聞く間もなく紫が傘をスキマにしまって走り出した。
「私の目が黒いうちは、こっそり楽しませたりなんかさせな――へっ?」
煙の中から現れた岩に立つ少女が、突っ込んでくる紫を見て目を点にする。
走る紫はそのままその少女――比那名居天子に目掛けて飛び上がった。
「髪が汚れたわアホ娘がー!」
「あぎゃあー!?」
そして見事なドロップキックが天子に顔面に炸裂した。
乗っていた要石から蹴り落とされた天子に、すぐさま紫が接近し、手足を絡ませ関節技を決める。
俗に言うコブラツイストだ。
「あなたは! 迷惑だからその無駄にカッコつけたダイナミック登場シーン止めなさいって言ってるでしょーが!」
「いだ! いだだだだだ! 紫、タンマタンマ!! 痛いって! 良いじゃないの、せっかく出てくるんならインパクトないと!」
「黙りなさいこの構ってちゃんが! そんなに目立ちたきゃ裸で盆踊りでもしてなさい!」
「それじゃただの変態グギャーッ!」
くんずほぐれつ言い争う妖怪と天人に、妖精たちは置いて行かれてぽかんと口を開いている。
とりあえず、この二人の仲がいいというのはなんとなくわかった。
本気で怒っていないのに、こうやって思いっきり怒鳴り合えるのがその証拠だ。
「ぐっ……緋想の剣!」
関節を決められっぱなしだった天子が、自由な手で愛用の武器の柄を掴むと、気質の刃を作り出した。刀身を地面に突き立てて、地中で気質を爆発させた。
刺激を受けた地面が尖状に隆起する。音を立てて荒れ狂う足場に紫も身体をぐらつかせてしまい、天子はその隙を見て拘束から脱出する。
桃の付いた帽子を押さえて紫から距離を取ると気を取り直し、右手に持った剣をゆっくり頭上に構えた。
「くうっ! 出鼻をくじかれたけど、私らが揃ったならやることは一つよ」
「また相変わらずバカの一つ覚えに」
「莫迦でけっこう!」
掲げられた緋想の剣が陽射しを浴び、何千年も地中で育った宝石のように緋く煌めき、揺らめく刀身は誇るように勢いを強める。
剣から感じられる力を確認した天子は、両手で剣を持ち直し、紫へと剣先を突きつけた。
「遊びましょうよ紫!」
「大ちゃん、なんか始まっちゃったぞ」
「とりあえず見てからにしよっか」
物見の態勢に入った妖精たちが、野の上に膝を抱えて座り込む。
ギャラリーに見守られながら、紫は汚れた髪の毛をかきあげると、運動エネルギーと摩擦の境界として摩擦係数を弄り、髪から砂を払い落とした。
「なんだ、簡単に取れるんじゃないのよ」
「うるさい、一瞬でも汚れたことは確かよ」
手元にスキマを開き、再度日傘を手に取った。
「まあ仕方ないわね。出逢えば死合うしかないというのは、私も同意」
閉じた傘を引きずり出した紫は、先端を天高くに向けて柄本のボタンを押し込んだ。
音を立てて広げられた傘が、薄紅色の幕で高い陽射しを遮り、影を作る。
暗くなった顔をわずかに上げて口を開いた。
「――だから、藍」
「はい、紫様。ご随意に」
同時に、それまでまったく気配を見せなかった九尾が、いつのまにか妖精たちの背後にいて、童のまん丸目玉を手で塞いだ。
「わっなにすんの!?」
「え、えっ!?」
「そのままよ藍。見れば、毒になる」
慌てた妖精たちが抵抗し、手の甲を爪で引っ掻いたりしたが、藍には大して効いていないようで目隠しを続ける。
童が見ぬ間に、紫は上げた顔から天子を見下しながら、細長い指先で頬をついとなぞる。
その妖美な仕草に、何か危機感を感じて天子が眉を締める。
「さあて、性懲りもなく私に立ち向かおうとする邪魔なニンゲンは――壊しちゃおうか」
途端に、それまでの温厚さは消え去り、紫の眼が獰猛な蛇の如く見開かれ、押さえ込んでいた獣性が発現した。
悪意を孕んで妖気が周囲を満たす。昏く肥大化するプレッシャーの中心で、不気味な眼光が忌諱するほど淫靡に煌めく。
放出された陰の気により気温まで低下する。紫が鋭く剥かれた歯の隙間から息を吐き出せば、白く煙って首筋に漂った。
単純な殺意とは一線を画する狂気。自由と尊厳を蹂躙し、踏みにじろうとする悪意の発露。大妖怪が垣間見せる悪性に天子は総毛立っていた。
さあどうだ、恐ろしいか。
ならば逃げろ、逃げてしまえ。闇夜に踏み込んだ凡庸な人間はみな、妖怪と出会った途端、その恐ろしさに身を竦ませ逃げ出す。
間抜けな声を上げ、情けなく逃げ出してみせろ。さあ、さあ――さあ!
期待する紫が眼をギラつかせる先で、天子は邪気に当てられ身を震わせている。
恐ろしい、それは恐ろしいとも。どんな剣を持とうとも関係ない、本能に根ざした暗闇への恐怖をこの妖怪は引きずり出してくる。
天子はひとしきり震え、冷えた肝を感じて――ニヤリと口端を吊り上げた。
「――――フフ」
声を出したのは紫の方だった。対する天子は応えるように、すり足で一歩距離を縮める。
あくまで天子は戦う気だ、紫では止められない……否、誰にもだ。
紫は釣られて笑い、悪意を滲ませたまま身体を沈ませ、そして駆け出した。同時に、天子もまた嬉々として駆ける。
持っていた日傘が閉じられ、妖力によりコーティングすると、槍のように先端を天子に向けて構えた。
両者は速度を落とさないまま急激に距離を詰め、衝突する直前に、挨拶代わりとばかりに手に持った得物を全力で打ち付けた。
剣と傘が真正面から激突する。
速度と膂力が相乗された凄まじいパワーの激突に、岩塊がぶつかりあったかのような重低音が広がり、風圧が周囲の草木を大きく揺らした。
普段からは考えられないほど前のめりな紫が睨みつけるものの、天子は一歩も引かずに剣を左手に持ち替えると、剣先を巧みに滑らせ紫の傘の先端を頭上に弾いた。
「そこお!」
間髪入れず、右の拳が紫に向かって振り抜かれる。天人の全力の殴打は、空気の壁を割って音速で差し迫る。
紫は近付いてくる拳をスローモーションのように眺めながら、歯を見せて笑い、躊躇なく自らの額を拳に叩きつけた。
再度起こった激突はまたもや重低音。岩のような肉体を持つ天子もこれには拳を痛めて、顔をしかめながら後ずさり。紫もまた、獰猛な笑みの下に苦痛を見せながら後ろへ跳んだ。
「うっわすごお!?」
いつのまにか目隠しが外されていたチルノが、守りを考えない攻撃の連打に感激して声を上げた。その隣では大妖精が、口元を隠しながらも勝負に見入っている。
ギャラリーが席を立って歓声を上げているのにも気づかず、熱中する二人は地面を踏み込んでまた構える。
紫は額から流れてきた血を舌で舐め取り、愉しそうな声を張り上げた。
「それで終わりかしら天子!?」
「ハッ! まさか! こっからその首切り飛ばしてやるわ、覚悟しなさい紫!」
「吠えたわね人の子が!」
挨拶も済み、対戦する二人は空中に飛び上がり、今度は弾幕による射撃戦に洒落込んだ。
手練手管を凝らし、様々な弾幕で翻弄する紫へと、天子が要石と気質を主体とした波状攻撃を織りなす。
華麗に宙を舞う二人は、相手の弾幕をかわして位置を入れ替えながらより高みへと登っていく。
かすった弾幕で服がボロボロになろうと気にも留めず、紫は精神を戦いの中に集中させた。
――耳を澄ます、風を切る音を感じる。入り乱れる弾幕が旋律を強め、大気が破裂する音が木霊する。
息を吸う、冷たい空気が身体を駆け巡るのを感じる。鼻腔に入ってきた土の匂いが、舌にまで伝わる。
かすった弾幕が肌を焦らす。とびっきりの一撃が骨を揺らして、飽きない痛みを脳が喰らう。
目を凝らす、風景は消え、弾幕と、対戦相手だけが映る。
感じる、感じる――感じる。
戦いの全てを、自分のすべてを、敵のすべてを。
眼球に蓄積される残像が飽和して、脳のメモリーをまたたくまに埋め尽くす。
時間が急激に加速していき、頭が真っ白になる。
そしてその先で思考が消える、五感が無になり身体だけが理性を脱ぎ捨てて無意識に動く。
加速した時間は一点に収束して停止し光が消える。
心は闇の中、誰かが戦っているのを遠くで感じてる。
私はただ暗闇にいて、目の前の亜空に立った彼女が、手を伸ばしてきた。
――――さあ、楽しみましょう
「えぇ、もちろんよ――」
覚悟が決まる。視界が開ける、世界が拓ける。
瞳に映るのは緋の世界、そこに紫色を混ぜ合わせてやる。彼女のすべてに、私のすべてが混ざり合う。
負けたくないという意地がある、けどそれだけじゃない。勝ちたいという欲がある、けどそれだけじゃない。
すべてを飲み込む根源的な欲求が、そばで私の肩を叩いてくれた。友も敵も、人生の何もかもがここにある。
なるほど、これなら寂しくない。
喜怒哀楽愛憎すべてをひっくるめて、私達は光のように駆けた。
◇ ◆ ◇
「私はね、天子に勝ちたかったのよ」
ある日、家で過ごしていた紫は、脈絡なくそう呟いた。同じ部屋にいるのは話に聞き入っている橙と、正座した藍が積まれた洗濯物を畳んでいた。
その不可思議な内容に橙は首を傾げる。紫様と天子が戦うのはいつものことだが、勝つのは決まって紫様の方なのに。
「えっ、でも紫様、いつも勝ってるじゃないですか」
「もちろん、勝負としてはね」
「どういうことですか?」
「ふふ、橙が妖怪として立派になったらきっとわかるわ」
自分から話し出しておいて、紫は答えをはぐらかして橙の頭を撫でた。
しかし橙は撫でられることよりも話の内容が気になって、紫の手から抜け出すと、話の間も手を動かしていた藍へと近付いた。
「えー、気になりますよ。藍様はわかります?」
「あぁ、そうだな……」
家事を一時中断した藍は、橙の質問には直接答えず、姿勢を正すと紫へと向き直った。
「紫様のお気持ちはわかりますとも。しかし共感はできません、あのおぞましさを楽しめるほど達観できておりません」
「あらもったいない……でも良かったわ、それなら藍に横取りされる心配はないわね」
少し突き放した家族の発言にも、紫は仕方がないとわかっていて無理に考えを説いたりはしなかった。
むしろコアな趣味を披露して優越感に浸るマニアのように、喜びを隠しきれず舌で唇の端を舐める。
「ご安心を、達観できたとしても紫様ほど悪趣味ではありませんので」
「酷いわ藍ったら、ゲテモノもいいものよ」
紫へのあてつけとばかりに、藍の毒舌が浴びせられた。
しかしかく言う紫はなんともないようでコロコロ笑っている。
「それで、結局どういうことですか?」
「私の口から言うのはちょっとな、橙が大人になればわかるさ」
「あっ! 大人になればってことは、もしかして床勝負とかそういう意味ですか!?」
大人な雰囲気を期待して目を輝かせて尋ねてくた橙、紫と藍は絶句した。
紫は耳をピコピコしている橙から目を離し、青い顔をしている藍に矛先を向けた。
「藍、あんたちょっとどういう教育してるのよ」
「ちがっ……橙、どこで覚えてきたんだそんなこと!?」
◇ ◆ ◇
「ぬっがぁー!! 負けたー! 悔しいーっ!!!」
敗北した天子が、草むらの上に背中から倒れ込むと、青空に両腕を向けて思いっきり振り回した。
妖精とそっくりな悔しがり方をする天人を見て、紫は軽く吹き出すと、傘を閉じて本気で悔しがる天子の隣に座り込んだ。
楽しい戦いだった、こうやって本気で心を高ぶらせられる相手は久しぶりだ。
それがこれから先、何度も味わえるとはなんて贅沢だろうか。
「残念、私に勝つのは千年早いわ」
「ふんだ、明日には逆転してやるわよ」
「生き急ぐわね」
「それくらいが性に合ってるのよ」
紫は、楽しみはゆっくりと味わうのが長く生きるコツよ、と言いかけて止めた。
そんなまだるっこしいことをしなくとも、天子なら問題ないだろう。
「よーし、いっくぞー! 大ちゃんくらえー!!」
「わわわ、ちょっとチルノちゃん手加減してよー!」
湖の上では、二人の戦いに感化された妖精たちが弾幕ごっこに興じている。
藍は「紫様の邪魔をして恨まれたくないのでこれで」と言って御暇した。紫もあれだけのために呼び出したのは悪い気がしたが、天子と全力でぶつかれたのだから後悔はしてない。
満足げな紫の隣で、天子が寝転んだまま顔だけ起き上がらせて、妖精たちのじゃれ合いを目で追っていた。楽しそうな悲鳴あげながら、大して効果的でもない弾幕をばらまいている。
勝ち負けに執着せず、ただ遊びを楽しむ姿は天子にとってある種の理想なんだろうと、紫は知っている。
紫とてあの姿に羨望を覚えたことはあるのだ。あれらは心を持つ命にとって、最後に目指す到達点と言って良いと思う。
「妖精はいつも気楽でいいわねぇ。自由に楽しんでてさ」
「あら、あなたがそれを言うの?」
だがぽつりと零された言葉に、紫が噛み付いた。
天子が隣を見上げてくるのに、紫は抱えた膝に頬をうずめて安らかな表情を浮かべると、流し目で問い掛けるような視線を投げかけた。
「私には、妖精よりも天子のほうが楽しんでるように見えるわよ」
違う? 紫がそう言外に尋ねると、天子は不意を突かれたみたいにぽかんとした後、すぐに勝ち気な表情で起き上がった。
「……へへっ、当然」
その明るい顔に、紫は満足して再び上空の弾幕を眺めた。
――天子は自分を真の強者だと思っている。
流石にその誇大妄想を自ら口にしたわけじゃないけれど、眼が、呼吸が、一挙一動が、光り輝く極光の剣が、その確信を物語ってくる。
私はこれと似た人間を知っている。傲慢な意志を胸にかざし、暗闇に踏み入る愚かな偉人たちにそっくりだ。
その愚かさこそが、不可能を可能とし、暗闇を照らし出して、そこに住まう我々を駆逐せしめたのだから。
自分を勝者だと思い込む天子の身勝手さに、私は嫌悪した。憎くて憎くて仕方なかった。
だから出会ってすぐに叩きのめした。その後も彼女が挑むたびに全力で打ちのめして、徹底的に敗北を叩き込んだ。
あらゆる攻撃をことごとく避けてみせた。荒れ狂う大地の上を軽やかに滑ってみせた。彼女が頼る剣の輝きを、真っ向から飲み込んでみせた。
けれど、結局のところ無駄だった。
彼女の前に敵はいない。
森羅万象のあらゆる苦痛苦難でさえ、自らに新たな境地を授けてくれる愛しき友でしかなかったのだから。
すべての敵と仲良くなれるなら、それこそ無敵だ。それこそ本当の強者と呼ぶにふさわしいと私は思う。
私は天子に勝てなかった。
妖怪はいつも損な役回りばっかり。
「私、あなたのこと大嫌いなのよ」
「へえ? ほーう……」
妖精たちのはしゃぐ声に掻き消されるかもと思ったが、私が本心を零したのを天子はしっかりキャッチした。嫌いと言われても特にショックも受けず、むしろ興味深げに頷いている。
顎を押さえて何か考え込んだ後、結論を出すと私に人差し指を突きつけてきた。
「つまり嫉妬ね!」
「違うわバカ」
吠える天子の額へ、お返しとばかりに扇子で突っついた。
侮蔑を込めて睨みつけてやると、案の定天子はケラケラと笑って前に向き直る。
生意気な彼女に、私としたことが舌打ちを鳴らして視線を戻した。
「でもそうかも」
ポロッと本音が溢れたのは、まあ仕方ないだろう。
隣から聞こえてきた息遣いが止まり、間近に視線を感じるけど見てはやらない。
嫌いで、疎ましくて、妬ましくて、羨ましくて、憎くて、愛おしい。
天子の隣りにいると、何もかもがある。
ここは、この場所は。
私が一番、世界のすべてを感じられる場所だった。
「終わったわね」
目の前で大妖精と呼ばれている方が撃ち落とされ、湖に落ちる寸前でチルノが友達を受け止めた。
さっきまで響いてた掛け声が静まり、途端に静寂が周囲に満ちる。
「そっか、それじゃ今度は私達の番ね」
天子が隣でそう言うと、草むらから立ち上がってお尻の砂を叩いた。
性懲りもなく始めようとする天子を、呆れた目で見つめる。
「あなたまたやる気?」
「ふーん、紫ったら私に負けるの怖いんだ」
「バカおっしゃい」
勝ててなくとも負けているとは認めない。
彼女が私に勝とうというのなら、私は常にその一歩先を行き見下してやる。
挑発に乗ってやる気が出てきた私に、天子が手を差し伸べた。
柔らかく小さな手。だけどとても熱くて、手の平にはたくさんのものが乗っているように思う。
私はその上から叩くように手を重ね、音を響かせながら手を取った。
「あなたに勝ちは譲らせない」
「上等よ、真正面から打ち克ってやるわ」
今日も私は天子と踊る。私と彼女が創り出した力が入り混じり、心地よい旋律を奏でる。
かろやかにステップを踏み、肺を満たす空気の鋭さを味わいながら、色彩が目まぐるしく変貌する世界を駆け抜ける。
彼女と同じく、何もかもを楽しみながら生きるために。
◇ ◆ ◇
私は孤独だった。
私みたいな在り方は特殊だ。普段仲良くしてくれるやつだって、私の本質を感じれば眉をひそめて距離を取る。
ようはやんちゃすぎるんだ、みんな私には付いてこれない。
誰にも本質を理解されなかった、真の意味での友はいなかった。
けど、今は違う。
私を受け入れて、そばに立ってくれるやつがいる。
思いっきり楽しんできた私だったけど、ここに来て、最後のピースが満たされた。
だから私は荒い息で大地に倒れ、敗北の倦怠感に包まれながら、満足げなあいつの顔を見上げて呟くのだ。
「あー、楽しい」
あとがきのインパクトが強すぎて本文が吹っ飛んでしまい二回読むことになってしまいました
ーー壊しちゃおうか
緋想天における「こんな神社壊れちゃいなよ」に似てて、中性口調?になるのは紫が本気になるゆかてんだけだからなんかいいなーって思います
あとがきに微塵も自重が見られないのも、投稿間隔がおかしいのも全ては憑依華が悪い……?
ゆかてん、いいコンビだなあとしみじみ。
チルノを相手してあげてるなんてゆかりん優しい、きっと天子に影響されたんだなと思ってたらいきなりのガチバトル!相変わらずのテンポの良さから風がやむような静けさで引き込んでくる描写はさすがでした。挟まれるギャグの親和性も素敵
幻想郷を愛している紫だけど妖怪の在り方はやはり変わらなくて、相互依存は絶対だとしても、折れない天子は天敵だけど妖怪の矜持が屈伏させたがってしょうがない。恐怖や強大さは人間にとって、越えるべき壁でしかないのだと悟っているからこそ、紫は本能的な忌避があっても惹かれてしまうのだと思いました
全力で立ち向かえる相互依存の価値をわかっているからこそ手を差しだし、叩いてみせるふたりの精神的な距離はこれからもつかず離れずのまま続いていくのでしょうね
まるで月と地球ですね、ジャイアントインパクトですね、隕石が高速で落ちてくるさまってまるで天子ですね、大気ができて生命が生まれるってまるで幻想郷ですね、紫は幻想郷の母ですからね、これもう地球誕生はゆかてん説ですよねええぇぇぇ!?ゆかてん結婚しろッッッッ!!!
今回もとても楽しませていただきました、ありがとうございます
誤字脱字報告かもしれません↓
青空のあった染みのようなものが広がるのが見えた→青空にあった?
「行き急ぐわね」→生き急ぐ
楽しそうな悲鳴あげながら、→悲鳴をあげながら
以上です、違ったらごめんなさい汗
ひとつひとつの描写が丁寧な言葉選びで綴られている為か、情景がするりと頭の中に浮かび、ふたりの戦闘に多大なる疾走感や躍動感を覚えました
いや、本当にこれ凄いです
あと前作に続いて今回も後書きのインパクトが強烈でした笑
今回も盛大に笑わせて頂きましたよ!