スキマに導かれて招かれたのは鉄の箱の中。ビロードのような手触りの長椅子と、硝子窓の向こうで流れ去って行く田園の風景。金属質の律動に合わせて、ボックス席の窓が僅かに揺れている。
「おぉー」
天子が興味深そうに、見慣れぬ材質の椅子を手の平でさすった。
「おぉー」
早速窓を開けて、電車の外に身を乗り出した。
真冬の風を身体で感じ、楽しそうに悲鳴を上げてすぐに窓を閉じる。
「おぉー!」
ボックス席から廊下に出て、光沢のある床の上で大きな足音を立てて車両の中を走り回る。
「おおー!!」
「止めなさい」
「あだっ!」
空間に開かれたスキマから、紫の手が飛び出してきて、天子の額を指で弾いた。
走ったまま手痛い一撃を受けてのけぞった天子は、床の上でうずくまり赤らんだ額を手で押さえる。
中々本気のデコピンを与えた紫が、ボックス席の入り口にもたれ掛かって、冷たい視線で天子を睨みつけた。
「迷惑でしょうに」
「他にお客もいないじゃない」
「床が痛みます」
「あぁ、それもそっか」
納得した天子を見て、紫はボックス席に引っ込むと、電車の進行方向に背中を向けて窓際の椅子に座った。
天子も席に戻ってくると、紫の正面に座る。
今日はどんな旅になるだろう、天子はそうワクワクしながら、紫が窓の外に顔を向けている、その妖美な姿を眺めた。
夢を運ぶ銀河鉄道
列車に乗るという初めての体験に、私の胸は弾みっぱなしだ。
見慣れない金属でできた手すりを指先でなぞると、ひんやりして気持ちよかった。
「これ、外の世界なのね」
「たまには外もいいものだわ」
紫が向かいから、水のように穏やかな声を返してくれた。
車輪が立てる音を足から感じながら、窓際に座った私は頬杖を立てて外の風景を覗き込む。
遠い向こうに雪をかぶった畑と山が背景として置かれていて、間近を何本もの電柱が現れては消えていく。
車両の中は時折点滅する電灯のお陰で明るいけど、電車の外で灯りになるものは三日月と星の朧気な光だけで、もしこの暗闇に人が、あるいは人ならざるものがいたとしても見えはしないだろう。
息が煙る冬の寒い日、刃のような三日月が輝く長い夜に、珍しく冬眠から起き出していた紫から前触れ無くお誘いを受けた。
顔を合わせるのは一週間ぶりくらい。地上でしんしんと降る雪をかぶりながら要石に座り、身を突き刺すような厳しい冬の自然を感じていると、唐突に現れた。
いつものあいつは胡散臭く、臭いのない煙のような態度なのに、今日は嬉しそうな笑い方で「出かけましょうか」なんて言ってきて。
何を考えているのか、よくわからないやつだ。けどまあそれもいい。
「外、誰も居ないわね」
「誰も知らない田舎ですから」
「……ひょっとして、ここって幻想郷と似たような場所なの?」
「少し違うけど、似てはいます」
乗っている列車も不思議だ、廊下に顔を出して周りを見てみるけど他に乗客は見当たらない。普通の列車じゃないんだろう。
何にせよ私には初めての体験だ、暖房が入っているらしくてさほど寒くないのがありがたい。
座り心地はよくないけれど、何もしないままこうやって過ぎ去っていく風景を眺めるのは新鮮だった。
少しずつ山が遠のいていって、また新しい山が見えてくる。こんなにも早く移動したことはないから、まるで時間が早送りされてるみたいだなと思った。
しばし目を伏せて身を任せる、電車という結界の中で、満ち溢れているものを受け止める。
等間隔で鳴り響く音も、心を開いてみれば心地良い。
車体の振動が足の裏に伝わってくる。機械の脈動は大地のそれには届かないけれど、思いの外、力強いんだと驚いた。
「お客様、切符を拝見」
古ぼけた男の声を聞いて、驚いて顔を上げた。
気が付けばボックス席の出入口に恰幅のいい男が、手に金属質なよくわからない道具を持って、ピシッとした紺色の服と帽子を身に着けて立っていた。
ここの管理者かなにかなんだろうか、鼻の下から伸びたヒゲと深くかぶった帽子が影を作り、彼の表情が読み取れない。
男の言っている意味がわからず、紫に説明を求める視線を投げた。
「ポケットをご覧なさい」
短く促され、言われた通りに手で探ってみた。
硬い感触のこれは緋想の剣の柄。上質な革を使った小銭入れ。カサカサしてるのはおやつに食べたまんじゅうの包み紙。
その奥に覚えのない、固くて薄い何かを見つけて、取り出してみると現れたのは淡い臙脂色の紙切れ。
黙ったまま待っている男を前に少し困惑しながらも、恐る恐るその紙切れを差し出すと、男は持っていた道具で紙を挟み込むと、一部を切り取った。
私の行動はそれで正解だったらしく、紫も同じように紙を渡して切り取ってもらっていた。
「良い旅を」
用が済んだのか、男はしわがれた声でそれだけ言うと廊下を歩いて別の車両へ去っていった。
ぶっきらぼうで、だけど優しい言葉だ。
「今のは?」
「境界を越えたという証明です」
紫が欠けた紙切れを翻した途端、文字が浮かび上がった。淡い臙脂色に染まった『きっぷ』には、『幻想郷』の3文字とそこから伸びる矢印。それから矢印の先には8を横倒しにしたようなおかしな記号があった。
自分の手元を見てみると、私の切符にも同じものが書かれていた。
「どこまでも望むところまで」
言いのける紫に、私は自然と口の端がつり上がった。
まだ夜は始まったばかり。似たような風景が入れ替わり続けるのを飽きもせず眺めながら、行きたい場所を唱えた
「北極に行ってみたい。沈まない太陽と本物の極光が見たいわ」
「霧の都へ。うす暗い夜に、あなたと灯りに歩いてみたい」
紫の案も素敵だった。
想像してみる。石造りの街、夜明け前の静かな闇を練り歩いて、石畳に靴音を響かせてリズムを取り、振り回した手で風を切る。
霧をかき混ぜながら進む私を、後ろから紫が呆れながら着いてきてくれるのだ。
きっとそれは良いものだ。想像して息を吐くと、受け取った窓ガラスが白めいた。
「海の底が良い、面白い魚が一杯だって聞いたわ」
「あら良いわね。未だ手付かずの世界、純粋な風景を見て回るのはきっと穏やかな気持ちになれる。それにあなたも、あの苦労人の気持ちがちょっとはわかるでしょう」
「一言うるさい」
憎まれ口を叩かれた。この列車が立てる騒音のように、定期的に私たちは言葉の小競り合いをしている。
だから飽きない、何もかも。どこへ行こうと楽しいだろう。
紫はどう感じているんだろうか。探ってみようとするけれど、あいつは窓から星空に目を向けていた。
◇ ◆ ◇
今日、人が死んだ。
と言っても知り合いではない。向こうは裕福な家の出ではあったが、なんでもない幻想郷の一住人に過ぎない。
ただ私が一方的に知っているだけ。
彼女は中々のやんちゃ娘だった、幼い頃はよく向かいの商店の倅を泣かせていて、歳を取って大人しくなっても根っこの部分では変わりなかった。
大人になり、望まない婚約をさせられそうになったとき、迷わず父親に殴り飛ばしてそのまま意中の人と駆け落ちしたほどだ。
そんな人だから厄介事を呼び寄せて大変そうな人生だったけど、生き甲斐はあったんだろうと思う。
活発でよく里の近くまで出て散歩している人間だったが、老いてからは足を弱くして、家の近所を歩き回る程度だった。
だが死に際に、息子たちが作った車椅子に乗って、里の外まで連れて行ってもらっていた。
彼女は幸福に死ねた部類だと思う。事実、死に顔は安らかであったし、周囲の人間は悲しみながらも、大往生だったと喜んでいた。
私も、私の愛する幻想郷の一部が、そうやって満足に役目を終えられたことを喜ばしく思う。
だけど切ない気持ちになったのも、また確かだった。
こっそり葬式に紛れ込んで棺に花を入れて、終着駅に辿り着いた彼女が浮かべていた、皺くちゃの笑顔を見て思った。
彼女は望む場所まで辿り着けた、私はどうだろうか。
窓の外には無限の世界が広がっている。煌めく星に照らされて、一秒ごとに変化する大地に、果てしなく広がる遠い遠い星の海。
私はどこまで行けるだろうか。
実は昔、宇宙を旅してみたいと思っていたことがある。星と星を巡り、未知の世界を探すのだ。
輪に連なった星々を、順番に辿っていければ素敵だと思う。
月に戦争を仕掛けたのはそれがきっかけだったりする、まずは手初めてに月を征服してしまおうとした。
だが結果は惨敗。私は現実を思い示され、限界を知り、地上で生きることを選んだ。
とは言え、今の生き方にもそれはそれで誇りを持ってる。それまでの挫折があったから幻想郷を創れたし、多くのものを守れたし、天子とも知り合えた。
この先の旅路はどうなるだろうか。
多分、限界は私が決めるんだろう。だからこそ、その終わりは近い。
「普通の町で、あなたと共に生きてみたい」
弱音だこれは、叶わない願いを諦めてしまおうという、儚い少女の甘い願い。
私は弱い。さっきの切符に書かれた無限の字に、近い将来を透かして見てしまうほどに。
温かい息が冷たい窓に消えて行く、ほんの少し悔しくて、せめて瞳に星を集めた。
「世界の果て、面白いものを全部抱えて、そこで集めたものを見返したい」
かつて見た夢に重なる言葉を聞いて、閉じかけていた眼が大きく眼を開く。曇った瞳が光に照らされ、揺れるのを感じた。
誇大妄想を言いのける彼女に顔を向けると、天子はそこで希望に笑っていた
見つめ合った瞳に、星より強い輝きを無数に折り重ねて映し出している
自分の胸元くらいの大きさの少女に、自分の小ささを感じさせられ、思わず抵抗してしまう。
「無謀ねそれは」
「無謀じゃないわ、紫となら」
そう言って天子は、ポケットから切符を取り出して、無限の字を私に示して見せた。
そんなものはただの冗談なのに、それを本気にしてしまうなんてどうかしてる。
無限に彩られる緋色の瞳を見つめている、列車が廻る車輪を止めて、レールとのあいだに甲高い音を奏でた。
停止する車体に天子が僅かにつんのめり、二人して窓の外を見るとそこには、誰も知らないような小さな駅が佇んでいた。
駅員もいない寂れた無人駅。虫がたかるくすんだ電灯が、休んでいきなよと手招きしている。
「どうするかしら、降りる?」
「そうね……じゃあコインで決めない?」
「えぇ、いいわよ」
私は賭けの道具をスキマから取り出した。古い時代の、今は誰も使ってない銅貨。
昔はピカピカに光っていたけど、もう随分と汚れてしまったコインを手渡すと、天子は座席から立ち上がって丸めた親指の上に載せた。
「私が表であんたが裏」
「わかったわ」
天子が指を弾く、運命を託された銅貨が宙で回転するのがはゆっくりと眼に映った、表に描かれた古代の王様がハッキリ見えた。
澄んだ音を立てて飛び上がったコインは、天井近くの荷物置きをかすめて軌道が変わり、天子は慌てながら手の甲に捕まえる。
少し緊張する。天子が押さえた手を離すと、下の銅貨には実り豊かな作物が描かれていた。
世界が示した結果に、後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。
「裏ね、それじゃあ」
「それじゃあ、次に向かいましょう」
天子が当然のように椅子に深く腰を下ろした。
音が立ってわずかな埃が宙を漂い、電灯に照らされて輝いている。自然とこれで終わりだと思っていたのに、天子の行動を見て呆気にとられてしまった。
ぼんやりする私に、天子は窓に頬杖をついて見上げてきて、ニンマリと底意地の悪い笑顔を浮かべた。
「今日の旅はまだまだ続くわ、今夜は寝かせないわよ」
「……ああもう、あなたは本当に自分勝手ね」
これが私を信じているのか、それともわがままを通したいだけか。どっちかわからないから好きに受け取っておくことにした。
仕方ないなと私も腰を下ろす。観念して天子に付き合うと決めてみると、自分の顔に安らかな笑いが浮かぶのがわかった
私は弱い、やりたいことは大きいのに、できないことのほうが多すぎる。だけど天子の前でなら、限界なんてない気がしてくる。
無限の闇夜を二人で往く、恐れを忘れ夢を語った。
「月の海。厄介者など叩き伏せて、二人で釣りでもしてみたい」
「誰も知らないここじゃないどこか、地図を作りながら歩きたい」
「落書きばかり書きそうね」
「なに、正してくれるやつがいるから」
空想はやがて夢想に達し、窓の向こうに世界を映す。
見渡す限りの熱い砂漠、朝焼けに萌える山、獣と虫が合唱する森深く。何もない田舎の闇に、極彩色に彩られた世界が見えてくる。
どれもこれも輝かしくて、しかもそれは手を伸ばせば届くほど近くにあるんだと感じられた。
「終点に着いたら、次はどこへ?」
「歩く。またどこかで駅を見つけて列車に乗るわ」
それは素敵だ、終わりなんてどこにもなくて、どこまででも行けるだろう
「港を探すのも良いかもね、船に乗って海を超えましょう」
「おっ、いいわねその案採用。嵐を超え、海賊どもを打ち倒しながら進みましょうよ」
そして地上の全てを回ったなら、今度は銀河に続く鉄道を探したい。
きっと世界の何処かにあるだろう。それに乗って昔の夢を叶えてみせよう。
それで宇宙の端にまで付いたなら、果てまで超えて行こうじゃないか。
列車は月を追って西へ進む。そういえば今日は冬至だったなと思い出した。
今日の夜は、少しばかり長くなるようだ。
世界はどこまでも広く、私達を満たす。
それが尽きたならその先へ、無限が祝福してくれていた。
「おぉー」
天子が興味深そうに、見慣れぬ材質の椅子を手の平でさすった。
「おぉー」
早速窓を開けて、電車の外に身を乗り出した。
真冬の風を身体で感じ、楽しそうに悲鳴を上げてすぐに窓を閉じる。
「おぉー!」
ボックス席から廊下に出て、光沢のある床の上で大きな足音を立てて車両の中を走り回る。
「おおー!!」
「止めなさい」
「あだっ!」
空間に開かれたスキマから、紫の手が飛び出してきて、天子の額を指で弾いた。
走ったまま手痛い一撃を受けてのけぞった天子は、床の上でうずくまり赤らんだ額を手で押さえる。
中々本気のデコピンを与えた紫が、ボックス席の入り口にもたれ掛かって、冷たい視線で天子を睨みつけた。
「迷惑でしょうに」
「他にお客もいないじゃない」
「床が痛みます」
「あぁ、それもそっか」
納得した天子を見て、紫はボックス席に引っ込むと、電車の進行方向に背中を向けて窓際の椅子に座った。
天子も席に戻ってくると、紫の正面に座る。
今日はどんな旅になるだろう、天子はそうワクワクしながら、紫が窓の外に顔を向けている、その妖美な姿を眺めた。
夢を運ぶ銀河鉄道
列車に乗るという初めての体験に、私の胸は弾みっぱなしだ。
見慣れない金属でできた手すりを指先でなぞると、ひんやりして気持ちよかった。
「これ、外の世界なのね」
「たまには外もいいものだわ」
紫が向かいから、水のように穏やかな声を返してくれた。
車輪が立てる音を足から感じながら、窓際に座った私は頬杖を立てて外の風景を覗き込む。
遠い向こうに雪をかぶった畑と山が背景として置かれていて、間近を何本もの電柱が現れては消えていく。
車両の中は時折点滅する電灯のお陰で明るいけど、電車の外で灯りになるものは三日月と星の朧気な光だけで、もしこの暗闇に人が、あるいは人ならざるものがいたとしても見えはしないだろう。
息が煙る冬の寒い日、刃のような三日月が輝く長い夜に、珍しく冬眠から起き出していた紫から前触れ無くお誘いを受けた。
顔を合わせるのは一週間ぶりくらい。地上でしんしんと降る雪をかぶりながら要石に座り、身を突き刺すような厳しい冬の自然を感じていると、唐突に現れた。
いつものあいつは胡散臭く、臭いのない煙のような態度なのに、今日は嬉しそうな笑い方で「出かけましょうか」なんて言ってきて。
何を考えているのか、よくわからないやつだ。けどまあそれもいい。
「外、誰も居ないわね」
「誰も知らない田舎ですから」
「……ひょっとして、ここって幻想郷と似たような場所なの?」
「少し違うけど、似てはいます」
乗っている列車も不思議だ、廊下に顔を出して周りを見てみるけど他に乗客は見当たらない。普通の列車じゃないんだろう。
何にせよ私には初めての体験だ、暖房が入っているらしくてさほど寒くないのがありがたい。
座り心地はよくないけれど、何もしないままこうやって過ぎ去っていく風景を眺めるのは新鮮だった。
少しずつ山が遠のいていって、また新しい山が見えてくる。こんなにも早く移動したことはないから、まるで時間が早送りされてるみたいだなと思った。
しばし目を伏せて身を任せる、電車という結界の中で、満ち溢れているものを受け止める。
等間隔で鳴り響く音も、心を開いてみれば心地良い。
車体の振動が足の裏に伝わってくる。機械の脈動は大地のそれには届かないけれど、思いの外、力強いんだと驚いた。
「お客様、切符を拝見」
古ぼけた男の声を聞いて、驚いて顔を上げた。
気が付けばボックス席の出入口に恰幅のいい男が、手に金属質なよくわからない道具を持って、ピシッとした紺色の服と帽子を身に着けて立っていた。
ここの管理者かなにかなんだろうか、鼻の下から伸びたヒゲと深くかぶった帽子が影を作り、彼の表情が読み取れない。
男の言っている意味がわからず、紫に説明を求める視線を投げた。
「ポケットをご覧なさい」
短く促され、言われた通りに手で探ってみた。
硬い感触のこれは緋想の剣の柄。上質な革を使った小銭入れ。カサカサしてるのはおやつに食べたまんじゅうの包み紙。
その奥に覚えのない、固くて薄い何かを見つけて、取り出してみると現れたのは淡い臙脂色の紙切れ。
黙ったまま待っている男を前に少し困惑しながらも、恐る恐るその紙切れを差し出すと、男は持っていた道具で紙を挟み込むと、一部を切り取った。
私の行動はそれで正解だったらしく、紫も同じように紙を渡して切り取ってもらっていた。
「良い旅を」
用が済んだのか、男はしわがれた声でそれだけ言うと廊下を歩いて別の車両へ去っていった。
ぶっきらぼうで、だけど優しい言葉だ。
「今のは?」
「境界を越えたという証明です」
紫が欠けた紙切れを翻した途端、文字が浮かび上がった。淡い臙脂色に染まった『きっぷ』には、『幻想郷』の3文字とそこから伸びる矢印。それから矢印の先には8を横倒しにしたようなおかしな記号があった。
自分の手元を見てみると、私の切符にも同じものが書かれていた。
「どこまでも望むところまで」
言いのける紫に、私は自然と口の端がつり上がった。
まだ夜は始まったばかり。似たような風景が入れ替わり続けるのを飽きもせず眺めながら、行きたい場所を唱えた
「北極に行ってみたい。沈まない太陽と本物の極光が見たいわ」
「霧の都へ。うす暗い夜に、あなたと灯りに歩いてみたい」
紫の案も素敵だった。
想像してみる。石造りの街、夜明け前の静かな闇を練り歩いて、石畳に靴音を響かせてリズムを取り、振り回した手で風を切る。
霧をかき混ぜながら進む私を、後ろから紫が呆れながら着いてきてくれるのだ。
きっとそれは良いものだ。想像して息を吐くと、受け取った窓ガラスが白めいた。
「海の底が良い、面白い魚が一杯だって聞いたわ」
「あら良いわね。未だ手付かずの世界、純粋な風景を見て回るのはきっと穏やかな気持ちになれる。それにあなたも、あの苦労人の気持ちがちょっとはわかるでしょう」
「一言うるさい」
憎まれ口を叩かれた。この列車が立てる騒音のように、定期的に私たちは言葉の小競り合いをしている。
だから飽きない、何もかも。どこへ行こうと楽しいだろう。
紫はどう感じているんだろうか。探ってみようとするけれど、あいつは窓から星空に目を向けていた。
◇ ◆ ◇
今日、人が死んだ。
と言っても知り合いではない。向こうは裕福な家の出ではあったが、なんでもない幻想郷の一住人に過ぎない。
ただ私が一方的に知っているだけ。
彼女は中々のやんちゃ娘だった、幼い頃はよく向かいの商店の倅を泣かせていて、歳を取って大人しくなっても根っこの部分では変わりなかった。
大人になり、望まない婚約をさせられそうになったとき、迷わず父親に殴り飛ばしてそのまま意中の人と駆け落ちしたほどだ。
そんな人だから厄介事を呼び寄せて大変そうな人生だったけど、生き甲斐はあったんだろうと思う。
活発でよく里の近くまで出て散歩している人間だったが、老いてからは足を弱くして、家の近所を歩き回る程度だった。
だが死に際に、息子たちが作った車椅子に乗って、里の外まで連れて行ってもらっていた。
彼女は幸福に死ねた部類だと思う。事実、死に顔は安らかであったし、周囲の人間は悲しみながらも、大往生だったと喜んでいた。
私も、私の愛する幻想郷の一部が、そうやって満足に役目を終えられたことを喜ばしく思う。
だけど切ない気持ちになったのも、また確かだった。
こっそり葬式に紛れ込んで棺に花を入れて、終着駅に辿り着いた彼女が浮かべていた、皺くちゃの笑顔を見て思った。
彼女は望む場所まで辿り着けた、私はどうだろうか。
窓の外には無限の世界が広がっている。煌めく星に照らされて、一秒ごとに変化する大地に、果てしなく広がる遠い遠い星の海。
私はどこまで行けるだろうか。
実は昔、宇宙を旅してみたいと思っていたことがある。星と星を巡り、未知の世界を探すのだ。
輪に連なった星々を、順番に辿っていければ素敵だと思う。
月に戦争を仕掛けたのはそれがきっかけだったりする、まずは手初めてに月を征服してしまおうとした。
だが結果は惨敗。私は現実を思い示され、限界を知り、地上で生きることを選んだ。
とは言え、今の生き方にもそれはそれで誇りを持ってる。それまでの挫折があったから幻想郷を創れたし、多くのものを守れたし、天子とも知り合えた。
この先の旅路はどうなるだろうか。
多分、限界は私が決めるんだろう。だからこそ、その終わりは近い。
「普通の町で、あなたと共に生きてみたい」
弱音だこれは、叶わない願いを諦めてしまおうという、儚い少女の甘い願い。
私は弱い。さっきの切符に書かれた無限の字に、近い将来を透かして見てしまうほどに。
温かい息が冷たい窓に消えて行く、ほんの少し悔しくて、せめて瞳に星を集めた。
「世界の果て、面白いものを全部抱えて、そこで集めたものを見返したい」
かつて見た夢に重なる言葉を聞いて、閉じかけていた眼が大きく眼を開く。曇った瞳が光に照らされ、揺れるのを感じた。
誇大妄想を言いのける彼女に顔を向けると、天子はそこで希望に笑っていた
見つめ合った瞳に、星より強い輝きを無数に折り重ねて映し出している
自分の胸元くらいの大きさの少女に、自分の小ささを感じさせられ、思わず抵抗してしまう。
「無謀ねそれは」
「無謀じゃないわ、紫となら」
そう言って天子は、ポケットから切符を取り出して、無限の字を私に示して見せた。
そんなものはただの冗談なのに、それを本気にしてしまうなんてどうかしてる。
無限に彩られる緋色の瞳を見つめている、列車が廻る車輪を止めて、レールとのあいだに甲高い音を奏でた。
停止する車体に天子が僅かにつんのめり、二人して窓の外を見るとそこには、誰も知らないような小さな駅が佇んでいた。
駅員もいない寂れた無人駅。虫がたかるくすんだ電灯が、休んでいきなよと手招きしている。
「どうするかしら、降りる?」
「そうね……じゃあコインで決めない?」
「えぇ、いいわよ」
私は賭けの道具をスキマから取り出した。古い時代の、今は誰も使ってない銅貨。
昔はピカピカに光っていたけど、もう随分と汚れてしまったコインを手渡すと、天子は座席から立ち上がって丸めた親指の上に載せた。
「私が表であんたが裏」
「わかったわ」
天子が指を弾く、運命を託された銅貨が宙で回転するのがはゆっくりと眼に映った、表に描かれた古代の王様がハッキリ見えた。
澄んだ音を立てて飛び上がったコインは、天井近くの荷物置きをかすめて軌道が変わり、天子は慌てながら手の甲に捕まえる。
少し緊張する。天子が押さえた手を離すと、下の銅貨には実り豊かな作物が描かれていた。
世界が示した結果に、後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。
「裏ね、それじゃあ」
「それじゃあ、次に向かいましょう」
天子が当然のように椅子に深く腰を下ろした。
音が立ってわずかな埃が宙を漂い、電灯に照らされて輝いている。自然とこれで終わりだと思っていたのに、天子の行動を見て呆気にとられてしまった。
ぼんやりする私に、天子は窓に頬杖をついて見上げてきて、ニンマリと底意地の悪い笑顔を浮かべた。
「今日の旅はまだまだ続くわ、今夜は寝かせないわよ」
「……ああもう、あなたは本当に自分勝手ね」
これが私を信じているのか、それともわがままを通したいだけか。どっちかわからないから好きに受け取っておくことにした。
仕方ないなと私も腰を下ろす。観念して天子に付き合うと決めてみると、自分の顔に安らかな笑いが浮かぶのがわかった
私は弱い、やりたいことは大きいのに、できないことのほうが多すぎる。だけど天子の前でなら、限界なんてない気がしてくる。
無限の闇夜を二人で往く、恐れを忘れ夢を語った。
「月の海。厄介者など叩き伏せて、二人で釣りでもしてみたい」
「誰も知らないここじゃないどこか、地図を作りながら歩きたい」
「落書きばかり書きそうね」
「なに、正してくれるやつがいるから」
空想はやがて夢想に達し、窓の向こうに世界を映す。
見渡す限りの熱い砂漠、朝焼けに萌える山、獣と虫が合唱する森深く。何もない田舎の闇に、極彩色に彩られた世界が見えてくる。
どれもこれも輝かしくて、しかもそれは手を伸ばせば届くほど近くにあるんだと感じられた。
「終点に着いたら、次はどこへ?」
「歩く。またどこかで駅を見つけて列車に乗るわ」
それは素敵だ、終わりなんてどこにもなくて、どこまででも行けるだろう
「港を探すのも良いかもね、船に乗って海を超えましょう」
「おっ、いいわねその案採用。嵐を超え、海賊どもを打ち倒しながら進みましょうよ」
そして地上の全てを回ったなら、今度は銀河に続く鉄道を探したい。
きっと世界の何処かにあるだろう。それに乗って昔の夢を叶えてみせよう。
それで宇宙の端にまで付いたなら、果てまで超えて行こうじゃないか。
列車は月を追って西へ進む。そういえば今日は冬至だったなと思い出した。
今日の夜は、少しばかり長くなるようだ。
世界はどこまでも広く、私達を満たす。
それが尽きたならその先へ、無限が祝福してくれていた。
完成した作品も良かったです
自身の限界を感じるどこか寂しげなゆかりんと、二人なら限界などないと言い切るいつもの天子の対比が良かったです。
東方憑依華でのタッグが楽しみ.
この急転直下ぶりはもう笑うしかない。
紫様の側に天子ちゃんがいる限り
ふたりの間に限界などはありません!
憑依華が出た後にどんなゆかてんが待っているのか、まさに可能性は無限のこの時期だからこそのSSですね
ちょっと弱気な紫が天子の存在に励まされるのいいですね。
大変幻想的で、綺麗な情景がありありと浮かびました。
内心弱気なゆかりんが、知り合いを失ってしかし前向きな天子に元気を貰う……という構図がグッときました
憑依華楽しみですねえ。
取り分け、『古ぼけた男の声』から始まる車掌のくだりが好きでした。
また、御作を拝見したのは初めてだったのですが、幻想郷の創造と天子との出逢いを同列に語る紫に思わずにやにやしてしまいました。
∞と書いて『どこまでも望むところまで』とするセンスが素晴らしかったです
それに対して自由な発想で答える天子もよかったです
とても趣のある作品でした。
地子から天子になり、知り得る世界が幻想郷とその空だった彼女にとっては、外の世界はどこまでも続く未来なのでしょいね。でも紫にとっては己の限界を叩きつけられた箱庭でしかなくて、望む夜空のようにただ眺めるばかりの世界で……
弱さをさらけ出してしまった紫からすれば彼女は眩しくて、でも、だからこそ天子を誘ったのだと感じました。紫の心は終点に向かっていても、天子はいつも未来を見つめながら力強く歩き続けていて、そんな彼女と一緒ならという無意識の予感があったんじゃないか、と
なにが言いたいのかというと、ゆかてん結婚しろってことですよヒャッハァアアアアア!
いつもは天子が構ってちゃんなのにこの夜ばかりはゆかりんが構ってちゃんになってるよんもう!疲れて眠くなった天子ちゃんが紫の隣に「そっちいっていい?」って座ってふたりして毛布とかも肩からかけて、肩に頭預けながら「お母さん思い出しちゃう」とこぼして寝入っちゃう天子ちゃんの頭を撫でちゃうゆかりん幻視しちゃうくらい素敵な旅路でした!いや幻視じゃなくてこれはもう絶対してるね!史実だね!
ゆかてんゆかてんゆかてんゆかてんゆかてんゆかてぇぇぇぇん!!!
はぁ…はぁ…こ、今回もとても楽しめました。今年も氏のゆかてんを楽しみにしております、ありがとうございました
それにしてもあとがきの酷さのあとにマイルドな酷さが待ち構えているとは思わなんだ…(ゆかてん万歳)